伝統板・第二

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入龍宮不可思議境 - 夕刻版

2018/09/28 (Fri) 19:36:46

このスレッドでは、入竜宮不可思議録、入龍宮不可思議境界に関する
情報を集めてまいります。


        *「美しき日本の再建」(P145~147)
         入竜宮不可思議録 ―― 『古事記』を通して実相を観る

実相””竜宮界”に入る言葉


正坐、合掌、瞑目して、善と美と調和と裕かさの実相世界を心に観ぜよ。

今此処が実相世界であり、一切の悪と醜と混乱と無秩序と欠乏の世界は、
あなたの心の中から消え去ったのである。

そこには唯完全のみが充ち満ちているのである。

実相世界の素晴らしい世界を『真理の吟唱』の中に示された言葉によって
次に再現することにする。 ―― 



ああ美しきかな、この朝よ。
もろもろの花は地にあらわれ、もろもろの鳥のさえずる時すでに至れり。
わが愛する者どもは目覚(めざ)めて、神の御前に集まりて、神を讃美す。

よろこびは悦びを呼び、愛は愛を呼ぶ。
わが愛する者に幸いは集まり来たり。
すこやかに子供は伸びて、楽しさにさんざめく。


ああ幸いなるかなこの朝よ。
家族たちの悦びの声は宇宙にこだまする音楽の如く、
その声の底には極楽(ごくらく)の響(ひび)きを湛(たた)うる泉あり。

その泉より噴(わ)き出(い)ずる悦びの声は、
竜宮の輝きを帯(お)び、神の光に照されて、五彩七彩の虹を放つ。


今、われら家族、極楽の園に遊び、竜宮海に入る。
もろもろの宝は我らの掌(たなぞこ)に満てり。
黄玉(おうぎょく)、紅玉(こうぎょく)、青玉(せいぎょく)等その数を知らず。

わが子供たちは、黄玉を連(つら)ねて頸輪(くびわ)となし、
紅玉を結びて腕輪となし、青玉を点綴(てんてつ)して髪飾りとなす。
衣装(いしょう)には虹(にじ)のごとき輝きあり、日光を受くるに従いて、
その色を変化して美しきこと限りなし。

ああわれらここ実相竜宮海の美しさをはじめて知る。


ああ祝福されたるこの朝よ。
われら言葉の力にて現世(このよ)に竜宮城の
美しさ、麗(うるわ)しさ、ゆたかさを引出し来れり。

見よ愛する者ここにあり、見よ彼らはわが肩に攀(よ)じ、膝(ひざ)に来り、
わが前に立ち、後(うしろ)に倚(よ)る。その語る声は美しくして極楽鳥のごとし。

後ろにある我が愛する者よ、汝の顔を見せよ。
なんじの声を聴(き)かせよ。
なんじの声は竪琴(たてごと)の奏(かな)でらるる如く、
七弦琴(しちげんきん)の奏楽(そうがく)の如し。

語るに随(したが)って、美しきもろもろの花咲き出(い)でてその周囲を飾る。
幸福なること限りなし。


ああ悦びに満たされたるこの朝よ、
わが愛する者は、すべて悦びに満たされ、神を讃(たた)う。
神は讃うべきかな。

われらの悦びの源(みなもと)、われらの幸いの泉、神の恵(めぐ)みきたるとき、
一切の争いは止み、すべての戦いは停止し、いにし時の敵と味方とは、
手を挙(あ)げて平和を喚(よ)び交(かわ)し、兄弟(はらから)の如く睦(むつ)び合い、
愛情の祝盃(しゅくはい)を交して、神の平和を称め讃う。

将兵たちみな剣(つるぎ)を収(おさ)め、銃(じゅう)を棄(す)てて、
愛をもて娘たちが織りし美しき衣(ころも)をまとう。

すべての人々の頭(こうべ)に“平和の冠(かんむり)”あり、
黄金の七つの星をもてその冠を飾り、荘厳なること限りなし。


ああこの朝、平和なるかな。
山々に平和の雲(くも)漂(ただよ)い、朝日の昇(のぼ)るにしたがいて
五彩にその色を変じ、われらの祝福の宴(うたげ)に霞(かすみ)の
幔幕(まんまく)をもて飾る。

もろもろの花咲き出(い)で、もろもろの鳥謳(うた)う。
その声、神を讃え、われらを祝う。

まことに実相浄土(じっそうじょうど)の厳浄(ごんじょう)を地上に実現したる朝かな。

神に感謝し奉る。     ( 『真理の吟唱』「入竜宮不可思議境涯の祈り」より)

          <感謝合掌 平成30年9月28日 頓首再拝>

われ竜宮海に住む - 伝統

2018/09/29 (Sat) 21:01:09

        *「美しき日本の再建」(P147)

”竜宮海”とは”ウミの底”であるのである。

それは”実相本源の世界”であり、一切のものを《ウミ》出す根底の世界であるから、
海の底にあると想像せられる”竜宮海”という語をもって象徴的に表現せられて
いるのである。


それはコトバの力が《秘め》られている世界である。
コトバを”音”をもって象徴し、”音”の力が秘められている世界であるから、
竜宮海は、多くの”乙姫”に侍(かしず)かれている世界であると
象徴されているのである。

そこでは万物はすべて、物質的機械で創造せられるのではなくして
コトバの力によって創造せられるのである。

弘法大師の語を借りて言えば”声字(しょうじ)即実相”の世界である。

「創世記」第一章にある「神、”光あれ”と言い給いければ光ありき」の
世界である。


吾々は竜宮海に生まれ、今も尚、竜宮海に わが”生命の実相”そのものは
其処にいるのでありながら現象世界にうまれずして生まれているのである。

それは”不生の生”であるから、不滅なのである。

          <感謝合掌 平成30年9月29日 頓首再拝>

善き”言葉の力”によって地上に天国を建設せよ~その1 - 伝統

2018/09/30 (Sun) 18:38:16


        *「美しき日本の再建」(P148)

神はコトバによって実相界の一切のものを創造せられたのである。
神の最高の自己実現として生まれたる人間はまた
コトバの力によって万物を現象界に創造するのである。

神は実相界の万物を創造し給い 人間は現象界の万物を創造する。
実相界と、現象界と、その分担は異なっているけれども
”コトバの力”によって万物が創造せられることに相異はないのである。

それゆえに私あたちは、善き”コトバの力”を駆使して、「真理」の言葉を唱え、
”善き世界”を顕現するように努力しなければならないのである。

そのために毎日『真理の吟唱』にある実相完全の世界を表現したコトバを
読誦し”コトバの力”によって、”実相世界”の完全の相(すがた)を、
現象界に実現するよう努めなければならないのである。

かくして地上に天国が建設せられ、竜宮城が実現するのである。

          <感謝合掌 平成30年9月30日 頓首再拝>

善き”言葉の力”によって地上に天国を建設せよ~その2 - 伝統

2018/10/01 (Mon) 19:56:51


        *「美しき日本の再建」(P148~149)

実相世界の素晴らしい天国的状態は、テレビの放送局からの放送の如く、
常に吾々に放送されているのである。

しかしその天国的状態を地上(現象界)に受像し実現し得る人と、
実現し得ない人があるのである。

(1)テレビセットを持っていない人は実現し得ない。

(2)テレビセットを持っていてもアンテナの方向が
   放送局に向いていなければ受像できない。

(3)テレビセットはあり、アンテナも放送局へ向いていても、
   スイッチを入れなければ受像できない。

(4)スイッチを入れても波長を精密に同調させなければ、
   せっかく受像した画像が流れたり壊(くだ)けたりするのである。

私たちが、実相世界の天国状態を、地上に受像し実現するために、

(1)テレビセットをもつということは、神想観のやり方を知り、
   いつでも神想観を実修し得る状態に自分の能力を
   準備しておくことである。

(2)アンテナの方向を放送局に向けておくということは、
   心を幸福の本源者にまします”神”の方へ
   振り向けておくということである。

(3)スイッチを入れるということは陰陽を結び合わすということであって、
   夫婦陽陰の心の結ばれが円滑にいっていて、
   火花を散らしたり、ショートしないようにしておくことである。

(4)いよいよ神想観を実修して、余念なく雑念の混信なく、
   自分の心を充分、微調整して、”神の心”にピッタリ”自分の心”が
   同調するように精神を一目標(神との一体)に集中することである。

以上の通りが実際に実行されて、はじめて実相世界の天国状態を
地上に実現するよう、各人の自然の行為が微妙に動き出すのである。

          <感謝合掌 平成30年10月1日 頓首再拝>

天国と竜宮との意味について~その1 - 伝統

2018/10/02 (Tue) 19:14:06


        *「美しき日本の再建」(P150)

私は”天国”といったり、”竜宮”といったりしたが、名称は異なるけれども、
同一の超次元的世界である。

地上世界(現象世界)を遥かに超越した世界が天国であり竜宮海である。

この”超越”という意味を、地上よりも《遥かに高く》超越しているという
意味で名称すけるとすると”天国”という名称になるのである。

その”超越”という意味を、存在の奥の奥の《奥》底の根底世界で、
創造(生み)の根元世界であるという意味で名称づけると、
”竜宮”ということになるのである。

名称にこだわることなく、現象世界を超越せる本源世界で、
一切の善きものが原型(理念)として《既にある》世界だと理解すべきである。

すべての善きものはこの竜宮世界にあり、天国にあるのである。
竜宮海又は竜宮城には七宝充満せり とはこの事をいうのである。

          <感謝合掌 平成30年10月2日 頓首再拝>

天国と竜宮との意味について~その2 - 伝統

2018/10/04 (Thu) 17:25:43


        *「美しき日本の再建」(P150~151)

竜宮海に到るには如何にすべきであろうか。

この事は、『古事記』に示されてあるのである。

日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は、その兄君火照命(ほてりのみこと)より
鉤(つりばり)を借りて、”海の幸(さち)”を採り給うべく(今では”魚釣り”という)
海に出ましたが、都(すべ)て一尾の魚さえも得られなかっただけでなく、
その鉤さえも魚にとられてしまったのである。

さてその鉤を兄君にお返し申すべき時になって、「魚に鉤をとられてお返ししようにも
今ここにもございませんから、自分の剣(つるぎ)を鍛(う)ち変えて五百本の鉤を
つくって、それを弁償に差し出します」と仰せられたが、

「弁償は要らぬ、元の鉤を返せ」と仰せられたので、止むなく、更に五百本の鉤を
つくって合計千本の鉤を持参してお詫びしたけれども、
「代用品では我慢できぬ。元の鉤を返せ」と兄君は仰せられるのである。

そこで日子穂穂手見命は浜辺に立って思案に暮れて泣いておられたのである。

この神話には深い意味が蔵(かく)されているのである。

日子穂穂手見命はやがて天皇の御位(みくらい)をつぎ給う皇太子であらせられる。

日本天皇は単に陸地を治(しろしめ)し給うだけが天職ではなく、
海をも治(しろしめ)し給うべき天職をもち給うのであるから、海を知る修行が
必要なのである。

それで前には山幸彦(やまさちびこ)として山の幸を治(しろしめ)したが、
このたびは海幸彦(うみさちびこ)として海を治(しろしめ)す修行が必要だった
のである。

それで兄君火照命(ほてりのみこと)から鉤を借りて漁においでになったのである。

”つりばり”は”巧智(こうち)”の象徴である。
それはそのまま素直の”朴(ぼく)”の智恵ではないのである。
それは曲がっているのである。

これは「知識の樹の果」を食してエデンの楽園から追放された
アダムの神話と好一対をなすのである。

相手をだまして釣りあげるのである。

ここに「釣る者は、釣られ」「奪うものは奪われる」の法則が働き、
鉤は奪われ、そこに楽園から追放され、嘆きの谷への墜落がはじまるのである。

          <感謝合掌 平成30年10月4日 頓首再拝>

何事にも心を引っかからせてはならぬ - 伝統

2018/10/07 (Sun) 19:37:19

        *「美しき日本の再建」(P151~153)より

更に、この鉤の神話には別の深い意味を蔵するのである。
鉤は”引っかけて釣る”器具である。

それは失敗するのであるが、事物は、それに”引っかかる”ことによって
人間は自由を失い、嘆きの谷に堕(お)ちるのである。


ある人は自分の鼻が自分の眼に見え、それに《心が引っかかって》、
それを気にしたために神経衰弱になったということである。

作家の倉田百三氏は、目を閉じても自分の瞼(まぶた)の内側が見えるというので、
それに《引っかかって》眠れないで神経衰弱になったということである。

ある人は自分の心臓の鼓動に心が《引っかかって》
神経性心悸亢進症になったということである。


大抵、慢性病というのは、最初何らかの原因で急性症にかかったが、
その症状に心が《引っかかって》、その症状を心から放すことができないために、
いつまでも同じ症状をもち越しているのである。

心からその症状を放してしまいさえすれば、慢性病は消えてしまうのである。


ある婦人は朝起きて、鏡の前に立って自分の顔を映してみたときに、
自分の鼻が一分(ぶ)ばかり右に曲がっている事を発見した。
その時、彼女は非常にショックを受けたのであった。

右を下にして眠ると、鼻というものは、いくらか重量をもつものであり、
柔軟なものであるから、下にしている右の方にその目方によって曲がるのである。

横向きに眠った人が起床直後、鏡に向かうと、それを発見することがあるが、
身体が起きて姿勢が縦になると、間もなく正常に復するのであって
問題はないのであるが、

その婦人は一度見た鏡の中の右に少々曲がった自分の”鼻の形”に自分の心が
引っかかったのであった。
その曲がった鼻の形が深く潜在意識に暗示的に印象せられた。

そして催眠術にかかった人が、術者からローソクを指して”バナナだ”と暗示
されると、ローソクでもバナナに見え、それを口に入れるよ美味に感ずるのと
同じ原理で、一度「自分の鼻が曲がっている」と深く自己暗示された彼女は、
正常の形にかえっている鼻でも、鏡にうつして見る毎に、
曲がっている鼻と見えるのであった。


およそ慢性病が持続している原理は、既に正常に復している鼻でも、自分の心が
引っかかっているために、いつまでも曲がっていると見えるのと同じように、
既に健康に復している自分の身体であるのに、病気が続いているように感じ、
そのために、その慢性症状が消えないのである。

だから、その症状から脱却する道は、症状をつかんでいる心の引っかかりを
放つことなのである。

それを放たしめる”一喝”が「人間・神の子・病気なし」の
「生命の実相」哲学なのである。

          <感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝>

塩椎大神の御出顕 - 伝統

2018/10/08 (Mon) 18:03:07


        *「美しき日本の再建」(P153~155)より

さて、日子穂穂出見命が海辺で立って嘆いておられると、
塩椎神があらわれて、その嘆きの理由をおききになるのです。

日子穂穂出見命がその経過をお話しになると、塩椎神は

「私はよき方法を知っております。”目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)”
というものをしつらえますから、それに乗って竜宮へお出でなさいませ。
そこは実相世界でございますから、何一つ失われたものはございません」

と申し上げて、”目無堅間の小船”にのせて竜宮に命(みこと)を
御案内申し上げるのである。

この塩椎神こそは生長の家の大神であらせられ、竜宮の本尊であらせられ、
その世界は実相世界であり、極楽浄土であり、住み吉(よ)き世界であるから
住吉大神(すみよしのおおかみ)とも名づけられるのである。


では、”目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)”というのは何であろうか。

それは仏教的表現をもってすれば、彼岸に人の霊を渡すための
「如来の願船」であるのである。

この現象界は実相世界に対して”此方(こちら)の岸”であるから「此岸」と称し、
実相世界は、現象世界から観れば彼方の岸であるから「彼岸」と称するのである。

実相世界は、現象世界を観るための肉眼を以っては観ることができないのは、
”時間・空間”以前の世界であるからである。

実相世界を観るには、無時間、無空間の ―― 時間いまだあらわれす、
空間いまだあらわれざる”無”字の一点を通過して、”真空”を超えて、
”妙有”の世界に達しなければならないのである。

”目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)”とは、時間の目盛りなき、
即ち”無時間”の堅く空間が緊(しま)って空間なき、即ち”無空間”の
極微の一点(小船)に乗ることを要するのである。

それが即ち「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る」と唱えて、
五官の感覚にて感じられる時間の流れ、空間の広がりを蕩尽(とうじん)し去って
実相世界に超入するための行事である神想観をすることであるのである。


仏教にては、彼岸に達するために”如来の願船”に乗るといい、
神典『古事記』にては”目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)”に乗るといい、
「旧約聖書」にては”ノアの方舟(はこぶね)”に乗るというのである。

”No(無)A(有)の方舟”というのは、無相実相微妙(みみょう)の法門である。
現象を”無”と否定して唯神実相のみを”実在”であると説く、
玄々微妙の哲学である。

この方舟に乗ることによってのみ、世界壊滅の劫末(こうまつ)の悲惨時が来るとも
「我がこの土は安穏にして天人常に充満せり(法華経・自我偈)」の世界に住むことが
できるのである。

          <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

何物も失われたる物なき実相世界 - 伝統

2018/10/09 (Tue) 19:56:18


        *「美しき日本の再建」(P155)より

日子穂穂出見命は竜宮海にお出で遊ばして竜宮の姫君である豊玉姫と御結婚になる
のであるが、これは、現象界にお生まれ遊ばした人間であるけれども、
本来は竜宮(実相世界)の”神の子”であるということの再認識であり、
”神の子”の自覚の奪還を意味するのである。


そして竜宮は実相世界であるから”失われた物”は何一つない世界であるという
事実を象徴した神話が、「若し此の鉤と取れる魚ありや、と問いたまいき・・・
是(ここ)に鯛(たい)の喉を探りしかば鉤ありき」という物語になっているのである。

          <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

綿津見大神と塩椎大神と住吉大神 - 伝統

2018/10/13 (Sat) 18:22:48


        *「美しき日本の再建」(P155~156)より

塩椎神は水火津霊神(しほつちのかみ)であり、陰(みず)と陽(火)を
連結(津、つなぐ、つづける等)して、一切を生み出し給う実相・龍宮海の
創造神にましまし、”産(う)み)”の本源神であるから、
”海の神”をもって表現し、綿津見大神とも申し上げるのである。

ワダとは海原のことであり、”津”は接続しであり、”見”は”身”の
発音類似の”アテ字”であって、”本体”ということを意味する。

それゆえにワダツミノ大神とは、「産み(創造)の《御本体》の大神」を
意味するのである。

水火津霊大神と申し上げるときは、その陰陽和合して一切を産み給う
《御はたらき》の方に重点を措(お)いた表現であり、

住吉大神と申し上げる場合は、その創造の御はたらきを汚れなき状態に
あらしめて住み吉き世界を実現するための創造の御はたらきを《浄化》し給う
御使命を表現した御神名であり、

綿津見大神、塩椎大神、住吉大神は三神にして同時に一神にてましますのである。

          <感謝合掌 平成30年10月13日 頓首再拝>

人生の困難を象徴する火照命~その1 - 伝統

2018/10/14 (Sun) 19:50:09


        *「美しき日本の再建」(P156)より

『古事記』によれば、この時、日子穂穂出見命に対し、
綿津見大神が塩盈珠と塩乾珠とを授けていられるのである。

これは「元の鉤を返却せよ」と無理難題をふきかけて日子穂穂出見命を困らせた
意地悪の兄君である火照命を懲(こ)らしめるための神秘の呪宝として授けられた
という物語になっているけれども、神様の世界には、そんな”懲らしめ”や
復讐の呪いの珠はないのである。

「意地悪の兄君」によって象徴されているものは、
「人生に於いて遭遇する困難」のことである。

吾々が人生の行路に於いて色々の困難に遭遇した場合、
この塩盈珠と塩乾珠とを交互に用いればどんな困難をも克服し得る
ということを教える神話がこの物語なのである。

前者は善を肯定する肯定の言霊(ことだま)であり、
後者は悪を否定する否定の言霊である。

          <感謝合掌 平成30年10月14日 頓首再拝>

人生の困難を象徴する火照命~その2 - 伝統

2018/10/17 (Wed) 20:21:47


        *「美しき日本の再建」(P156~157)より

火照命の意地悪があったればこそ、日子穂穂出見命は、それを解決するために、
ついに竜宮に達する智慧を授かり、そこに無限供給の世界を見出されたのである。

「艱難、汝を珠(たま)とす」という古諺(こげん)があるのはそれである。

”困難が無い”状態、無風状態がよいのではないのである。

困難が人を傷つけのは困難そのものが悪いのではなく、
困難の受け止め方に、智慧が働かなかった自分の方が悪いのである。


伊藤一刀斎のところへ剣道を習うために小野次郎右衛門が門弟として入ったが、
一刀斎は少しも剣法の指南をしてくれないで、次郎右衛門に飯炊きなかりさせて
置いて、薪(まき)を燃やしている彼のうしろに来ては木刀で打って、
「まだ隙があるぞ」というばかりであった。

ところが、ついに一刀斎が彼を打とうとすると、
スラリと次郎右衛門は身をかわした。

もう隙が全然無かった ―― こうして次郎右衛門は小野派一刀流の開祖に
なったのだと聞いたことがある。

この、うしろから叩いてくれる一刀斎はまことに意地悪のようだけれども、
彼の魂を磨いてくれる砥石(といし)だったのである。

もに次郎右衛門が師匠の意地悪さを恨みに思ってそこを去って行ったならば、
彼は小野派一刀流の開祖になれなかったと思われる。

          <感謝合掌 平成30年10月17日 頓首再拝>

肉体も環境も自分の心の影 - 伝統

2018/10/18 (Thu) 18:25:00


        *「美しき日本の再建」(P157~158)より

家庭の不和について時々相談を受ける中に、姑と嫁との不調和の話がある。
そして「姑が意地悪で悪いのだ」と嫁が相手を責める気持ちでいる間は、
姑の意地悪は治らないのである。

立ち向かう人の姿は自分の心の影であると気がついて、

「姑さんは、私の魂を導いて下さるために
観世音菩薩が三十三身に変じて救って下さるのだ」

と気がついて、姑さんがどんな意地悪に見えることをしても恨む心を棄て
観世音菩薩である姑を拝む気持ちになったとき、

本当に姑が観音さまのように優しい慈悲深い姿に一変してしまったというような
体験談がしばしばあるのである。


自分の心がまさ解けないで、鍛造したてのままに、黒い表情をもった日本刀である間は、
一ぺんに滑らかな仕上げ砥石で研磨してもらうわけには行かないのである。

爐で焼いたままの鉄の黒い表情が早く剥げて、それだけ早く日本刀が輝き出すのである。

刀の表情が段々なめらかになるに従って段々キメの細かい滑らかな砥石にかけられ、
最後に、完全にスベスベとした仕上げ砥石にかけられて、”焼き刃の匂い”とでも
いうような神妙な輝きをその日本刀は帯びて来るのである。

人間も自分の心が錬(ね)れて滑らかになり、荒々しさがなくなり、
柔らかい感触の自分の心になったとき、その環境も荒々しさがなくなり、
柔らかくなり、静かになり、まことに住みよい世界になって来るのである。

まことに「肉体も環境も自分の心の影」であるわけである。

          <感謝合掌 平成30年10月18日 頓首再拝>

日本的結婚の意義 - 伝統

2018/10/19 (Fri) 18:47:58


        *「美しき日本の再建」(P158~159)より

竜宮に於いては一夫一妻の結婚である。

邇邇藝能命が天降り給いて笠沙御前(かささのみさき)まで来られたときに、
木花之佐久夜姫にお逢いになって求婚せられた。

その時木花之佐久夜姫は「自分の一存では御返事申上げ兼ねまする。
わが父、大山津見神に申し込んで父の意見をお聞き下さい」と答えている。

日本的結婚は、占領憲法のように「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し」ではなく、
歴代の祖先から父母を通じて連綿と一貫した「生命の流れ」(これを”家”という。
建物のことではない)と「生命の流れ」との結ばれる荘厳な儀式だったのである。

それであってこそ結婚に重大な尊厳と威儀とがあり、
結婚後の生活に重大な価値を見出すことができるのである。

単に両性の楽しみ《だけ》に基づいて結ばれた結婚では尊厳さも威儀もないから、
また快楽目的で他の異性に心を振り向け、平気で離婚するなどということが
生ずるのである。


大山津見神は邇邇藝能命から娘の木花之佐久夜姫を妃(きさき)にもらいたいと
申し込まれたとき、「まことに有がたい事でございます。何でしたら、その姉に
岩長姫(いわながひめ)というのがございますが、それも一緒にお貰い下さいませ」
と回答したところ、

邇邇藝能命は「木花之佐久夜姫ひとりでよろしい」と仰せられたと『古事記』は
書いているのである。

これが日本的結婚の本来のすがたである。

          <感謝合掌 平成30年10月19日 頓首再拝>

天照大御神の永遠のいのちが歴代天皇の連綿たる連続にて表現される~その1 - 伝統

2018/10/23 (Tue) 20:17:22


        *「美しき日本の再建」(P159~160)より

すると大山津見神は

「わが娘ふたり並べて奉る由(ゆえ)は、石長姫を使わしては、
天津神の御子の命は、雪降り風吹くとも、とこしえに石(いわ)の如く、
常(ときわ)に堅(かきわ)に動きなく坐(ま)しませ。

木花之佐久夜姫を使わしては木(こ)の花の栄ゆるが如く栄えませと
誓(うけ)ひて奉りましたのに、

石長姫をお返し遊ばしたために、天皇の現象界の御いのちは
木(こ)の花の如く必ず凋落(ちょうらく)して死に給うことになります」

といったと『古事記』は語るのである。

ここに天皇の御いのちは、天照大御神の御いのちだから、その実相は永遠に
不滅であるけれども、現象としては有限の寿命をもってあらわれる所以が
示されている。

そして”永遠のいのち”が”有限のいのち”をもってその永遠さをあらわすためには、
歴代の天皇の連綿たる連続ということがなければならない という哲理が、
この神話の中に含意されているのである。

          <感謝合掌 平成30年10月23日 頓首再拝>

天照大御神の永遠のいのちが歴代天皇の連綿たる連続にて表現される~その2 - 伝統

2018/10/26 (Fri) 18:28:12


        *「美しき日本の再建」(P160)より

さて木花之佐久夜姫はただ一夜の契りによって妊娠したまうたのである。
邇邇藝能命は、いと不思議に思召されて「私と結婚するまでにほかの
国津神と枕を交わしたことはないか」と仰せられたら、

姫は

「私は決してそんな淫(みだ)らがましい女ではございません。
もし私がそんな汚れた女でしたら、このお胎(なか)の子供は無事に産れる
ことはきますまい。

しかし貴神(あなた)さまの本当の子供をおなかに宿しているのでしたら、
あなたさまの御いのちは久遠不滅の天照大御神の御いのちでございますから、
焔(ほのお)の中にあっても焼けないで安産いたしましょう」

と答えて、戸無き八尋殿(やひろどの)をつくり、その隙間に粘土を塗って、
どこからも逃げる道のない産屋(うぶや)をお作りになり、火をつけて
焔の燃えさかる中でお産をせられた。

そしてお生まれになった子供が、火照命(ほてりのみこと)、
火須勢理命(ほすせりのみこと)及び火遠理命(ほおりのみこと)の三神で
あってこの火遠理命(ほおりのみこと)が日子穂穂手見命であるのである。

この物語は天皇の皇位は火中にあっても焼けずという実相を表現しているのである。

          <感謝合掌 平成30年10月26日 頓首再拝>

天照大御神の永遠のいのちが歴代天皇の連綿たる連続にて表現される~その3 - 伝統

2018/10/28 (Sun) 17:49:06


        *「美しき日本の再建」(P160~161)より

日子穂穂出見命が竜宮にお出でになって竜宮の姫である豊玉姫と結婚されて、
天皇の御いのちが本来、竜宮(実相世界)の不滅のいのちであることを
再認識されたのだということは既に述べたが、

その豊玉姫が懐妊あそばされて、いよいよお産の日が近づいて来たとき、
海辺に鵜の羽根をもって葺(ふ)いた産屋(うぶや)をお建てになって、
そこでお産をせられた。

それは全く無痛分娩であったのであって、アッという間にお生まれになって
産屋の屋根に鵜の羽を葺き終えるヒマもなかったので、そのお生みになった皇子を
鵜草葺葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と御命名になったと
『古事記』は録しているのである。

竜宮世界即ち実相世界のお産はすべて無痛分娩である。

その実相の無痛分娩を地上に実演せしめ得たのが生長の家の説く実相哲学なのである。

この鵜草葺葺不合命が竜宮の玉依姫命とご結婚になってお産み遊ばされたのが
神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと)であらせられ、
後に神武天皇にお成り遊ばされるお方である。

(以上で、「入竜宮不可思議録 ―― 『古事記』を通して実相を観る」は完了です)

          <感謝合掌 平成30年10月28日 頓首再拝>

「入龍宮不可思議境界」 - 伝統

2018/11/22 (Thu) 19:11:34


           *『白鳩』(昭和21年7月号) より

諸君よ、あなたの心の波が「聖の世界」の波長に合うためには他の幸福のために祈れ、
「最大多数を幸福にするためには、神よ何をなすべきかを教え給え」と祈れ、
微塵も我を用うること勿れ。

その時、諸君のうちにある「真理の霊」が目覚めてくるのであります。 
そして、宇宙に満つる真理の霊と波長が合います。 

そして諸君のフト思うことが真理となり、
それを実行することによって幸福の世界が実現するのであります。


それは波長の原理の喩えをもって説明したのですが、
実際は‘すべてのもの’が貴方のうちにあるのですよ。 

貴方が真理を理会し得るのは、真理と等しきもの、
否真理よりも偉大なるものがあなたのうちにあるのです。 

それが今迄顕れなかったのは、ただ潜んでいたからです。 
心の塵埃(ごもく)に覆われていたからです。 

心の塵埃を清掃すれば露堂々と、真理の示唆が、あなたの心の耳にきこえるのです。 
「聖の世界」は‘あなたの内’にあったのです。 
これこそが 「入龍宮不可思議境界」 と云うものです。

汝の心の内なる「真理の霊」の囁きに耳を澄ませよ。 
心の埃を去れ。 
素直にそのまま、真理の啓示に従うべし。

「殺す勿れ」 「盗むなかれ」 「姦淫する勿れ」 ・・・ 
などは真理の霊の啓示であります。 

あなたが真理の導きを受けて幸福になろうと思ったならば、
自分の都合のよいように、真理の霊の囁きを曲げてはならないと云うことです。

戦争中だから殺しても好い、戦争中だから盗んでも好い、戦争中だから姦淫しても好い
 ― などと、真理の示唆を自分の都合のよいように曲解したために、
多くの犠牲者を生じ、国をも滅ぼす結果となったのです。

真に道徳的な人、真に科学的な人は、真理の全体を愛するのであって、
真理と見ゆるもののうち、自分の都合のよい部分のみを受入れて、
他を捨てようなどはしない筈です。 

ですから、真理は常に、その全貌を示して其の人を導いてくれるのです。

 
善き考えが浮んだならば、それを蔵(しま)って置くだけでは、
やがて次なる善き考えが出なくなります。 

善き考えを与えられたら、それを次に伝えることが、
次なる善き考えを引き出すための最善の方法となるのです。 
「与えよ、さらば与えられん」は如何なる場合にも永遠に真理であります。

小説家がよき考えを与えられたならば、それを小説に表現し、
それを社会に発表すれば、尚一層よき小説の構想があとからあとから
其の小説家の心の中に浮んで来るでありましょう。 

併し、こんな珍しい考えは発表するのは惜しいと思って、
それを小説に実現せずに空しく心のうちにたくわえて置くならば、
その人の小説の創作力は鈍って来、善き構想は浮ばなくなり、
結局その人は小説家としての能力を失ってしまうことになるでしょう。

 
あなたが若し発明家でありますならば、心の中(うち)に与えられた考案を
必ず「実現」にまで与え尽せ。 
それが金が儲かるとか儲からぬとかで躊躇してはならないのです。 

与えられた考案や発明的考えは、それを世の中に発表して、
世の中に与え尽したとき、次なる一層立派な考案や発明があなたの心の中に
与えられることになるのです。

 
それは作曲家であるにせよ、宗教家であるにせよ、詩人にせよ、歌人にせよ、
よき考えは発表し、実現し、人に与えることによってのみ、
次なる一層よき構想が、作曲が、脚色が、詩藻が、情操が湧き出てくるのです。

幸福は自己に与えられた善き考えを形に実現して次に伝えること、
それによってのみ善因循環して善果となって永遠に幸福の尽くることが
なくなるのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/cf81ac86dfd3f5c6d288263187e1623d )

          <感謝合掌 平成30年11月22日 頓首再拝>

入竜宮不可思議の境涯 - 伝統

2018/11/24 (Sat) 19:02:38


        *『如意自在の生活365章』(P29)より

あなたは”神の子”で、その実相は霊的実在であるがゆえに、
いまだかつて何人(なんぴと)もあなたの実相を見たことはないのである。

またわたしの実相も神の子であり、霊であるから誰人(たれぴと)も
わたしの実相を見たことはないんである。

”神の子”ということは神の延長であり、
神の具体的顕現であるということである。

神はいまがかつて生まれたこともなく死することもない生死を超越せる
霊体であるから、その延長であり、具体化であるところの人間の本質実相もまた、
いまだかつて「生まれず、死ぜざる」不生不滅の、消滅せざるところの
”本来生”の存在なのである。

この”本来生”の存在の実相の中に、《自分の心》が潜入し、没入し、
超入することを”入竜宮!すなわち「竜宮界に入る」と称するのである。

          <感謝合掌 平成30年11月24日 頓首再拝>

今・ここ・自己に内在する竜宮を観よ - 伝統

2018/11/26 (Mon) 18:57:27


        *『如意自在の生活365章』(P29~30)より

「われ今、住吉大神(水火土の大神)に導かれて竜宮海に入る」と念ずるとき、
単に“表面の心”でただ「念ずるのだ」と思ってはならない。

真実今ここが“竜宮海”であるとの真実感をもって
「自分の実相」の中に潜(くぐ)り入り、没し去り、
現象の紛争も喧噪も超えて入らなければならないのである。


キリストは「神の国は汝の内にあり」と教えられた。
それと同じく「竜宮海は“汝の内”にある」のである。
竜宮海は別異のところに非ず、自己の内に、自己が“神の子”である本質の ―― 
“本来生”の“存在の実相”の中に、竜宮海があるのである。

それを見る“道具”が、“アンテナ”が、“潜望鏡”が、自分の心なのである。
自己の“本来生”の実相そのものが竜宮海なのである。

          <感謝合掌 平成30年11月26日 頓首再拝>

あなたの世界はあなたの存在の実相の展開である - 伝統

2018/11/27 (Tue) 18:59:58


        *『如意自在の生活365章』(P30)より

すべては、この不生不滅の”本来生”のいまだ生まれたることもなく、
死することもない実相の大海原から生まれるのである。

世界は、宇宙は、あなたの”自分”の存在の実相から《生まれた》のである。

あなたの”実相”が竜宮であるのである。

竜宮は「ここに見よ」「彼方(かなた)を探せ」というようには
存在するのではなく、自分の『生命の本質』の中に、
自分の「生命の実相」の中にあるのである。

そこは一切のものが「産み出される本源の世界」であるから、
それを比喩的に、「竜宮《海》」というのである。

          <感謝合掌 平成30年11月27日 頓首再拝>

竜宮海とはウミの底、「創造の根底」にある世界 - 伝統

2018/12/17 (Mon) 19:44:15


        *『生命の實相』第37巻「幸福篇上」二月十一日より

塩土老翁(しおつつのおじ)は『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)とて目無堅間
(めなしかつま)の小船(おぶね)を作り彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)を乗せ
まつって金銀(こがねしろがね)饒(さわ)なる竜宮海に導き奉ったと出ている。

竜宮海とはウミの底である、「創造の根底」にある世界とは現象の
よってもってあらわれる根元の世界である。

換言すれば実相の浄土である。
目無堅間の小船とは、時間の目盛無く空間無く堅くつまりたる小なる一点である。
換言すれば、無時間・無空間の世界、時空を超越し、
そこより時空生まるる一点(久遠の今此処)に乗るとき
衆宝あまねく充つる竜宮海に入ることができるのである。

「無字透関」である。
「無」を超えてさらに実相地に透関するときそこに竜宮海すなわち、
無限供給の極楽浄土を実現することができるのである。

この無限供給の極楽世界に入る方法を教えたまう神が塩槌神である。
そして竜宮海は極楽にして住み吉きがゆえに住吉世界ともいい、
住吉世界の本尊を住吉大神と申し上げるのである。

竜宮海は時間空間を超えた世界であるから、
浦島太郎はそこにあるとき永遠(えいえん)に年(とし)老いず、
このことを仏教では無量寿世界に入るとき無量寿仏と同じ悟りに入ると
言うのである。

老病死の三奸(かん)を征伐せられてから住吉大神は茅渟(ちぬ)の海に面して
長湾(ちょうわん)をなせる山峡(やまかい)に鎮め祀られたのである。

今は神戸市東灘区住吉に本住吉神社があり、
神功皇后を主神とし、脇神(わきだち)として
筒男(つつのお)の三神をお祭りしてある。

後に泉州堺に御遷座申し上げたるにより、ここを本住吉神社というと承っている。

三韓征伐とは、老病死の三奸(かん)の克服の象徴物語である。
住吉大神(すみよしのおおかみ)が竜宮の大神であり、無量寿仏のあらわれである以上、
老病死の三奸(かん)を克服せられたことは当然のことでなければならない。

          <感謝合掌 平成30年12月17日 頓首再拝>    

ただ、ひたすら竜宮の荘厳を見よ - 伝統

2018/12/18 (Tue) 17:31:27


        *『如意自在の生活365章』(P31)より

神想観を実修して、あなたが

「われ今、住吉大神に導かれて竜宮海に入る」

と念じて、”心”が一回転して、現象界を去り、実相の世界にのみ
心が集中するとき、もうそこが本当に竜宮海であるのである。

その竜宮海に入る船が神想観なのである。

”心”をあと戻りさせて現象界のいろいろの出来事を考えてはならない。
それでは竜宮海に航(こう)しつつある船が後戻りすることになってしまう。


ただ、ひたすら竜宮海の荘厳を観よ。
竜宮海の荘厳を、光の海として見よ。

そこは智慧の光の海であり、愛の光の海であり、
無限供給の光を湛(たた)える海であり、
歓喜の光を湛(たた)える海であり、大調和の光充ち満つる海なのである。


ただひたすら光の海の荘厳を見よ。

振り返って現象界の出来事を思い出してはならない。
現象の世界を去って竜宮海にすでに航し来たったのだ。

「病気を治してもらいたい」などとケチな思いを起こすな。
既に《病気のない世界》にいるのだ。

そこは既に住吉大神の無量寿の生命満つる世界なのである。
それが實相の世界である。
いまここが竜宮世界である。
七宝充満せる世界である。

欲するもの、好ましきものおのずから集まり来たり、
欲せざるもの、好ましからざるもの、
おのずから去りゆきて姿を消す世界なのである。

          <感謝合掌 平成30年12月18日 頓首再拝>  

日子穂々手見命と目無堅間の船 - 伝統

2018/12/19 (Wed) 19:58:22


        *「生命の實相」第39巻仏教篇(P145)より
         第5章『華厳経』序講~大乗経典とは

それでこの大乗経典は誰がどこで説かれたかといいますと、
生長の家から観ますとこれは『古事記』の講義のところで申したことがありますが、
日子穂々手見命(ひこほほでみのみこと)が竜宮へやって行かれまして、

竜宮において豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)と御結婚せられ、
そうしてそこに御滞在せられるうちに豊玉毘売命が妊娠せられて、
そうして地上へ出て来てうがや葺不合命(ふきあえずのみこと)を
お生みになったということがあります。

あそこの、日子穂々手見命が竜宮海へ行くのに目無堅間(めなしかつま)の船に
お乗りになったということが、日子穂々手見命が竜宮海において
『華厳経』をお説きになったことになるのであります。

目無堅間の船とは水も漏らさぬ金剛不壊の船で、大乗実相の真理であります。
こうして、大乗仏教は竜宮の大神、住吉大神の護持せられたものであって、
日本において久遠から成就しているのであります。

その住吉大神が現代にあらわれての人類光明化運動が生長の家であります。

          <感謝合掌 平成30年12月19日 頓首再拝> 

奪う者は奪われるの真理 - 伝統

2018/12/20 (Thu) 17:36:59


        *『如意自在の生活365章』(P32~34)より

日子穂々手見命が火照命より鉤(つりばり)を借りて海幸彦となり給い、
海の幸を得んとして釣りにお出で遊ばされたとき、その鉤(つりばり)を
魚にとられて、一尾(いちび)も魚を得(う)ることなくお帰りになった
神話が『古事記』に掲載されているのである。

なぜ、一尾も獲(と)れないで逆に鉤(つりばり)を盗られてしまったのであろうか。
それは日本の道に反するからである。

聖歌「古事記讃歌」には次のように歌われている。 ―― 


(三)古事記讃歌

   天津彦    火遠理の命
   現象の    わなにかかりて
   海幸を    我の力にて
   釣りたまう  されどつりばり
   失いて    まがれる鉤(はり)に
   まようとき  しおづちの神
   あらわれて  めなしかつまの
   み船にて   竜宮城に導きぬ
   竜宮城はいま此処ぞ
   竜宮城はいま此処ぞ


火遠理命とは日子穂々出見命の別名であります。

「現象のわなにかゝりて」というところに注意していただきたい。
現象界の事物はすべて五官の眼で見ると物質でできているように見えるのである。

その物質世界を、それは”心の映像”の世界であることを忘れて
確乎たる堅固不滅せかいのように思わしめられる。
これが「現象のわなにかかりて」である。

そして、その現象という映像の世界のものを得ようと思えば、
その映像を映し出ている“心の世界”においてまずそれを得なければならないのに
“心の世界”を貧しいままにしておいて、現象の富や幸福を得ようとする。

これは正しい道ではない。
いわば「曲がれる鉤(はり)」である。
また“曲がれる鉤”とは「引っかけて盗る」ところの象(かたち)である。

われわれはものを得ようと思い、また幸福を得ようと思うならば
「人を引っかけて奪う心」など起こしてはならないのである。
そういう心を起こすのは日本の道ではない。

しかし、そういう心を起こすならば、「奪うものは奪われる」という
“心の法則”によって、かえって人から奪われることになるのである。

この真理を「曲がれる鉤(はり)にて釣(つ)った時、
逆に鉤(つりばり)を魚に奪われた」
という神話によって示されているのである。

          <感謝合掌 平成30年12月20日 頓首再拝> 

無題 - 伝統

2019/01/07 (Mon) 19:34:20

        *『如意自在の生活365章』(P34~35)より

竜宮海に入るみ舟を”無目堅間の小船”と称するのである。

”無目(めなし)”とは”時間の目盛り”がないことである。
すなわち「無時間」の象徴である。

”堅間(かつま)”とはギッシリ堅く詰まって空間がない ――
すなわち「無空間」の象徴である。

すべての「引っかかり」も、「曲がり」も、「喪失」も、時間・空間の
”持続”と”ひろがり”の世界において起こることであって、

”時間”いまだ発せず、”空間”いまだ展開せざる”無時・無空”の極微の一点
 ―― 極微すらも未だあらわれざる一点においては、一切の「引っかかり」も、
「曲がり」も、「喪失」もない ―― この一点を「無字の一点」というのである。

「無の門関」といってもよい。


意識が現象の世界を脱してこの一点に乗ることを「無目堅間の小船」に乗る
というのである。すなわちわたしたちが神想観を修して、「吾れ今五官の世界を
去って実相の世界に入る」と念ずるときの、その「五官の世界を去る」状態が、
「無字に一点」に坐することである。

この「無地の一点」単なる有無相対の「無い」というような浅い意味では
ないのである。それは「相対無」ではなく、「絶対無」である。

「無の門関」に停(とど)まってはならないのである。

「無」とか「空(くう)」とかをつかんではならないのである。

「五官の世界を去った」だけで、そこに停まってならないのである。

その「無目堅間の小船」は出航して竜宮海に入り”彼岸”すなわち竜宮城
すなわち実相世界に到達しなければならないのである。

          <感謝合掌 平成31年1月7日 頓首再拝> 

「無目堅間(めなしかつま)の小船」に乗りて竜宮海に渡る - 伝統

2019/03/31 (Sun) 19:27:01


        *『如意自在の生活365章』(P34~35)より

「実相とは空(くう)なり、空とは実体がなく、変化無常の義なり」
などと、ある仏教学者は説くのであるけれども、

それは「無の門関」に佇立(ちょりつ)していて一歩も竜宮海に航せず、
竜宮城に入った霊的体験をもたない人の寝言(ねごと)である。

「無の門関」につないである「無目堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)」
の纜(ともづな)を解いて、竜宮海を航し、竜宮城に入るとき、
そこに無限次元の無限荘厳の世界があらわれ、無限の乙姫(おとひめ)
きたりて、われに仕えるということになるのである。

そのとき、『法華経』の”如来寿量品”の自我偈にある如く、
わたしたちは現象的な生老病死の世界を超え、貧富の世界を超え、
憂怖もろもろの苦悩充満せりと見える世界を超え、

天人常に充満し、宝樹華果多くして衆生遊楽の世界を”実相覚”にて
観ることができるのである。

そこは無常常楽の世界であって”天人五衰の世界”を超える。

          <感謝合掌 平成31年3月31日 頓首再拝> 

常楽そのものが、"人間"である - 伝統

2019/04/06 (Sat) 18:52:18


        *『如意自在の生活365章』(P35~36)より

竜宮海を渡り、彼岸に到達し、竜宮城に坐すとき、
わたしたちは本来「楽そのもの」の「常住の我(われ)」を見出すのである。

そのときの境涯を「無病常楽の神示」には、次のごとく書かれている ―― 


  ・・・任運無作、法爾自然、水の流るるが如く、
  すべてが惟神(かんながら)の法樂である。

  斯くの如く悟るとき苦しみを自慢にする心も苦しみを厭ふ心も
  おのづから消え去つてしまひ、苦もなく、艱難もなく、
  苦樂を超越した本當の樂想を生じ、吾れが一變し、天地が一變し、
  人生はただ歡びの讃歌に滿たされるのである。

  實相は苦樂を超越する法樂であって、
  實相をもつて苦もなく樂もないと云ふのは謬見である。


  ・・・實相はかくの如き假相の苦樂を超越すれども、眞相の『樂』そのものである。
  法悦そのものであり《法樂》そのものである。

  その『樂そのもの』が『常住の我』であつて、これが『神の子』である。
  『神の子』が『人間そのもの』であつて、その外に『人間』はない。

  人間とは常樂を言ひ、無病を言ひ、不苦を言ひ、不惱を言ひ、不懷を言ふ。

  ・・・   昭和七年十一月十日神示)


この神秘的自己が竜宮城に坐して自覚されたる「本当の自分」の姿なのである。

わたしたちは、もっと神示を繰り返し読んでその真意を未読すべきである。

          <感謝合掌 平成31年4月6日 頓首再拝> 

《“竜宮”の象徴的意義について》 - 伝統

2019/04/07 (Sun) 19:32:49


      *『生長の家』(昭和52年8月27日)より

   “竜宮”というのは、住吉大神の本地のまします実相世界のことを
   象徴的神話の形で表現された語であるわけです。

   という理由は、“竜宮”というのは、“海の底”―― 
   一切の物を産゜み゜出゜す゜根゜底゜の゜世゜界゜
   すなわち言いかえると実相世界です。

   実相世界へ宇宙の中心座に毘盧遮那如来が在すという真理を
   極秘に宝蔵せしめることになったわけです。
   これを称して「華厳経は久しく竜宮海に秘められておった」というのであります。

   では、その竜宮海に秘められていた『華厳経』というお経は、
   どのくらいの語数が書かれている大部のお経であるかというと、
   『聖光録』の283頁に次の如く書かれてあります。

   「華厳経の言葉の数は、華厳蔵世界海の言葉の数に等し、無限数なり」
   と、これは上本、中本、下本と分冊されていまして、下本は略本であります。

   竜宮に秘沈されている真理を略さずに一番詳しく書いたのが華厳経の上本で、
   いくらか圧縮してあるが、半ば詳しく書いてあるのが中本であります。

   下本とか、略本とかいうのが、簡略本ですが、
   これらの華厳経は創造(うみ)の根底世界なる竜宮に、
   ある時代まで秘められておったのであります。


   http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/755


          <感謝合掌 平成31年4月7日 頓首再拝> 

入龍宮不可思議境界録~目覚めて見れば実相の極楽は既にある - 伝統

2019/04/08 (Mon) 20:57:20

        *「叡智の断片」(P172~174)より

或る日の夕方、私は大阪駅の改札口に行列をしながら立っていたのである。

東京の自宅へ帰るために、急行券と乗車券とを改札係りに手渡した。
ところがどう云うものか『急行券はもらはぬ』とその改札係は云うのである。

私は、『現に君に其の急行券を、乗車券と一緒に、渡したではないか』と主張する。
しかし、『貰わぬから現にない。急行券がなければ乗車させるわけにはいかぬ』
と改札係は主張する。

成る程、たしかに私は乗車券を添えて急行券を改札係に渡したのだが、
彼の手にそれが無いのも事実である。

暫く押し問答したが、どうする訳にもいかぬ。
私はとうとう予定の急行列車に乗ることが出来ず、
従って東京の自宅へ帰ることが出来なくなってしまった。

あまりと云えば駅員の無責任と横暴とが口惜(くや)しかった。
私は『アッ口惜しい!』と強く思った。
その途端(とたん)に私は目が覚(さ)めたのである。

大阪駅もなければ、改札口もない。

意地悪の駅員もない。

乗車券も急行券も要らないで私は既に自分の家の一室に
蒲団(ふとん)の上に楽々と寝ているのだった。

私はアハハ-------と笑い出した。


隣の部屋から、家内の
『何がそんなに可笑しくて笑っていらっしゃるのですか』と言う声がする。

私は夢の話をした。
そして『人生は全く夢だねぇ。目覚めて見れば既に此処に斯うして
東京の自宅にいるのに、これから是非とも汽車に乗っ
て東京に行かねばならないとヤキモキしているのだからねぇ。

目覚めて見れば実相の極楽は既にあるのに、
色々の苦しみ悩み欠乏ありと見ているのが現実だからねぇ』と云った。


すると家内は『私も夢を見ていました』と云う。

家内の見た夢と云うのは、夜中泥棒が忍び込んで
整理箪笥(せいりだんす)の中のものを盗んだが
見つけてそれを捕らえたと云うのである。

捕らえたけれどもそれを警察へ突き出そうか、
出すまいかでとつおいつ考えている。

警察へ出さなければ泥棒を届け出ないと云うことは国家の法律に反するし、
国家の法律に反することをするのは国民としては善ではない。

併し、泥棒を捕らえてそれを縛(しば)らせると云うことは、
宗教家として愛の道に反する。善の道を選ぶべきか、愛の道を選ぶべきか、
どうしようかと夫婦で相談しているのである。

また一旦届け出て前科者にしてしまったら、
今後の彼の運命を阻(はば)むことにもなるから、
彼も恨(うら)んでいつ叉復讐(ふくしゅう)に来るかも知れない。

併し、自分が宗教家だからと云うので、罪人を赦(ゆる)したら、
宗教家を甘く見て、どうせ届け出もどうもしないから彼処へ泥棒に行け
と云うことになって彼の悪を増長させると云うことになる。

宗教家の半面は辛(から)いところもなければならぬ――
こんな恐ろしく難しい論理的反省の夢を見て、さてどうしょう
と決しかねている時に、午前五時の目覚まし時計が鳴ったのだ
と家内は云うのである。


『アハハ-------、目が覚めたら泥棒も無ければ、盗まれたものもない。
泥棒を警察へつき出すべきか、突出すべからざるか、

善の生活を選ぶべきか、悪の生活をえらぶべきかの反省もない。
現象の善悪ともになく、実相の善があるばかりなのだ。

夢も中々善いことを教えてくれるね』と私は朗らかに云った。

          <感謝合掌 平成31年4月8日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~金剛不壊の堅固法身 - 伝統

2019/04/09 (Tue) 20:27:29



        *「叡智の断片」(P175)より

宋末五代の禅僧、玄沙(げんさ)の岑(しん)禅師について
大慧(たいえ)が書いている

『玄沙、過って薬を服するに因って<彳扁>身(へんしん)
紅(あか)く爛(ただ)れた。

僧あり問う、如何なるか是れ堅固法身(けんごほっしん)。
玄沙答えて云く膿滴々地(のうてきてきぢ)。』


まことに面白いではないか。
人間本来仏身にして金剛不壊の堅固身だと云うのが、宗教の悟りである。

その悟りを開いた筈の玄沙和尚、過って薬を服して、
<彳扁>身(からだぢゅう)が紅く爛れたのだから変なものである。

そこで僧侶が「如何なるか是れ堅固法身」
―― 金剛不壊の堅固法身って何処にあるのだ。
どれが一体堅固の法身なのかと問うのだ。

「此の身このまま膿が滴々としたたっている此の身体」(膿滴々地)が
堅固法身だと云うのである。
変な話だが宗教の悟りとはこんなものである。

          <感謝合掌 平成31年4月9日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~脚下そのまま是れ大和国 - 伝統

2019/04/28 (Sun) 20:50:02


        *「叡智の断片」(P175~176)より

堅固法身が膿滴々地の、今此処にあるのである。
膿滴々地でも、このまま金剛不壊堅固法身である。

改札口で東京行きの列車に乗りたいと地団駄(じだんだ)踏んでいる
自分が、既に此のまま東京にいるのである。


某僧あり、問うて云はく、
『大和国(だいわこく)過って戦争を始め、敗戦して
大小都市悉(ことごと)く廃墟と化す。如何なるか是れ大和国』と。

或る人答えて曰く、『脚下そのまま是れ大和国』と。

わかったような、解からぬような。

          <感謝合掌 平成31年4月28日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~『物あれば、執して自由を失う』 - 伝統

2019/05/02 (Thu) 21:09:37


        *「叡智の断片」(P176~177)より抜粋

物を持ち過ぎている人は「空間」を少なく有っているし、
「物」を少なく持っている人は「空間」を広く有っている。

「空間」も一つの価値、「物」も一つの価値。

         〇

甲僧問うて曰く、『「空間」と「物」と、汝の幸福のためにいづれを選ぶか。』

乙僧答えて曰く、『空間』と。

『汝何故に空間を選ぶ』

『物あれば、執して自由を失う』

いずれか是なる、いずれか非なる。明々白裡、一句を道取し来たれ。

           <感謝合掌 令和元年5月2日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~「今即久遠、無一物中無尽蔵」 - 伝統

2019/05/03 (Fri) 21:38:43


        *「叡智の断片」(P178~179)より

曰く、無一物中無尽蔵。
曰く、永遠の今、天壌無窮。

久遠は 《時の流れ》の中にあらず。
久遠は即今にあり。
『今』久遠を把握せざるべからず。

『今』天壌無窮を把握せざるべからず。

滅即ち不滅なり。
前後際断なり。

不連続の連続なり。
矛盾の自己同一に非ず。

         〇

いたずらに下語することなかれ。
天地無聲の聲。これ神勅なり。神韻なり。
耳あって聴く者は聴くべし。素直に聴従すべし。

         〇

『今』を把握せざる者、天壌無窮を永久に知ることなし。
『今』を把握せざる者、『不死の生命』を永久に知ることなし。

         〇

現象刻々流転。されど流転せざるものあり。『今・即久遠』なり。
『今』を把握すれば人の病癒え、国の病癒ゆ。

           〇

『今』の中に取越苦労も、持越苦労もなし。
『今』をもって天国浄土となす。
『今』を失えば五鳳龍宮城に舞うも天国浄土瞬時にして消滅せん。

           〇

入龍宮不可思議境界とは『今』の中に突入するなり。
如何にして突入するや。
前後際断、今即久遠、無一物中無尽蔵。

           〇

われ『今』無一物なり。而して『今』無尽蔵なり。
無一物から起ち上がるに非ず。
無一物そのままに無尽蔵なるなり。
此の真理を知る者のみ不倒翁たるの資格あり。

           <感謝合掌 令和元年5月3日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~「『真の自己』を観ぜずんば龍宮海に入る能はず」 - 伝統

2019/05/06 (Mon) 19:29:36


        *「叡智の断片」(P180)より

自己今敗戦なり。
敗戦即ち『真の自己』なり。
明々白裡に『真の自己』を見よ。

しかして敗戦の真底に動く不勝不敗の自己を観ぜずんば龍宮海に入る能はず。


           <感謝合掌 令和元年5月6日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~真の日本を知らざる者は日本人に非ず - 伝統

2019/05/07 (Tue) 21:55:58


        *「叡智の断片」(P180)より

「敗戦前、真の日本なし。敗戦後、真の日本なし。現象裡、真の日本なし。」

前後際断の『今即久遠』にのみ真の日本あり。

真の日本を知らざる者は日本人に非ず。

           <感謝合掌 令和元年5月7日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~真の自己を把握すること是れ入龍宮不可思議境界なり - 伝統

2019/05/08 (Wed) 21:28:50


        *「叡智の断片」(P180)より

キリスト曰く『我が国は此の世の国に非ず』と。前後際断。

           〇

久遠即今の真理を知らざる者は、滅びずと雖も亡者なり。

           〇

勝戦時、真の自分を知らず、敗戦時、真の自分を知らず、
勝敗を超えて、真の自己を把握すること是れ入龍宮不可思議境界なり。

           <感謝合掌 令和元年5月8日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~即今の姿 - 伝統

2019/05/14 (Tue) 20:46:57


        *「叡智の断片」(P181)より

『夢幻、真に非ず、壽夭保ちがたし。呼吸の間、即是来生』
と親鸞聖人の『教行信證』にあり。

呼吸の間とは『今』の端的なり。

           〇

『生にして不生なり鏡裡の形、滅にして不滅なり水中の月』(大慧『普説』巻下)

『われ涅槃を説くと雖も、これ真の滅に非ず、
諸法はもとより以来(このかた)寂静なり』(法華経))

即今の姿について是等の言葉しきりに浮かぶ。

           <感謝合掌 令和元年5月14日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~心の自由自在 - 伝統

2019/05/20 (Mon) 21:14:31


        *「叡智の断片」(P181)より

敗戦が心にくっついて離れざるゆえ、敗戦病となるなり。
境に捕らえらるる者は皆病ひ也、皆《なき》ままの境なり。
皆《なき》ままの現象と知れば心が境に捕らえられることなく自由自在となるなり。

境にとらえられて心の自由を失ったもの、止み也、病み也、闇也。

           <感謝合掌 令和元年5月20日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~生命無礙 - 伝統

2019/05/22 (Wed) 18:35:18


        *「叡智の断片」(P182)より

『一切ありとあらゆることを、仏でも、衆生でも、皆なき儘の一切諸法、
なき儘の仏、なき儘の衆生と知れば、自ら我も無の我なり。人も無の人なり。
これを佛眼と云う也』(盤珪和尚・心経鈔)


皆なきまま諸法(諸現象)と知れば捕らえられることなく、
執することなく自由自在になるなり。
 
病気のものも、『病気なきままに』病気を顕しているのである。
『なきままの病気』と知れば心に引掛ることもない。

心に引掛ることもなければ無礙なり。
心無礙なれば生命無礙なり。
生命無礙なれば病気も消ゆるなり。

           <感謝合掌 令和元年5月22日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~大廈高楼そのままに無物也 - 伝統

2019/05/24 (Fri) 18:49:52


        *「叡智の断片」(P182~183)より

大廈高楼そのままに無物也。幻術師の現じたる幻化なり。羨むこと勿れ。

           〇

萬人具足す、大廈高楼。わが教えは貧窮礼賛の教えに非ず。

           〇

叩けば大廈高楼の扉開き、
求むれば龍宮城脚跟下(あしもと)に在り、
無一物中無尽蔵也。

願望を諱(い)むにあらず、欲の心を憐む也

           <感謝合掌 令和元年5月24日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~無意識の世界に深く没する - 伝統

2019/05/26 (Sun) 19:26:14


        *「叡智の断片」(P183)より

意識的世界に高く向上するためには、無意識の世界に深く没することが必要である。
大寂の世界から浮かび上がってきた生命のみが常に清新である。
 
           〇

睡眠も亦人間が無意識の世界に還元する一つの道である。
人間は無意識から生まれたから無意識になりたいのである。

           <感謝合掌 令和元年5月26日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~現象界は、光と影とのが交錯し変遷の世界 - 伝統

2019/05/27 (Mon) 18:14:21



        *「叡智の断片」(P183)より

現象の世界は、うつりかわる世界、変遷の世界である。

映画のように、光と影との交錯せる世界である。 


           <感謝合掌 令和元年5月27日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~達人は実相を観、実相を語る - 伝統

2019/05/29 (Wed) 21:16:10


        *「叡智の断片」(P183~184)より

光は實相である。

達人は實相のみを見る。

迷い人は闇を見て実在として思い惑う。 

           〇

達人、光を説けば、
迷い人、闇を見て彼はウソを説くと罵る。


           <感謝合掌 令和元年5月29日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~説法に二種類あり - 伝統

2019/05/30 (Thu) 18:39:50


        *「叡智の断片」(P184)より


説法に二種類あり。

現象世界に処すべき方法を説くことあり、

實相そのままを説くことあり、

混同すべからず。

           <感謝合掌 令和元年5月30日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~説法その2 - 伝統

2019/05/31 (Fri) 19:55:39

        *「叡智の断片」(P184)より

『争いなし』と説くことは實相を説くなり。
苟(いやしく)も争いなき世界に勝敗あることなし。

『かくすれば勝つ』と説くことは現象界に処する方法を説くことなり。

その教えに従いて勝つものあり、お蔭を得たりと喜ぶ。
教えの心境になれずして敗るる者あり。
お蔭を得ずと云いて恨むものあり。


お蔭は現象なり。
現象界は因果相応の世界、敗くるも勝つも恨むべからず。
今にして『恨む心』を起こす如き心境、それがお蔭を得ざりし原因なり。

           <感謝合掌 令和元年5月31日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~説法その3 - 伝統

2019/06/01 (Sat) 19:10:57


        *「叡智の断片」(P184~185)より

『病なし』と説くことはこれ實相を説くことなり。

病なきが故に病の治ると云う事もなきなり。

實相は本来治っている也。

           〇

『かくすれば病い治る』と説くことは現象界に処する方法を説くことなり。
その教えに従って病の治る者あり。これをお蔭を得たりと云う。

その教えに従わず、叉その教えを誤り解して、癒えざるものあり。
而してお蔭なしと云う。

しかして『治っている』とはウソなり、瞞(だま)されたりと云う。

これ實相と現象とを、混同せる迷妄の言に過ぎず。

           <感謝合掌 令和元年6月1日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~説法その4 - 伝統

2019/06/04 (Tue) 18:46:07


        *「叡智の断片」(P185~186)より

人間不滅と説く。

而してわが肉体死なば、谷口は死にたり、
人間不滅と彼が説きたるはウソなり、だまされたりと人は云うならん。

かくの如き人に「人間不滅」を説くも、
如何にしてか、實相の不滅を知らしめ得ん。

           〇

天の国の不滅もまた斯くの如きのみ。

われ肉眼にて見えざるものを説くに、
肉眼にて視るものをもって反駁する人あり。

「天の国は此処に見よ。彼処に見よと云うに非ず、汝の《内にあり》」と云う、
イエスの言葉、よくよく味わうべし。

「《内にあり》」と云えば、腹を割いて腹《わた》を見て、
どこにも神の国はないと云う人あり。

ああ愈々あわれなるかな。

           <感謝合掌 令和元年6月4日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~実相と現象 - 伝統

2019/06/05 (Wed) 18:02:56


        *「叡智の断片」(P186)より

現象は心に従って変化し、
変化の因つもりて更にそが因となりて変化を生ずる。

実相は不変であるが
現象界にそれが投影することは人々の心のはたらきによりて健康を生ずる。

或いは一時反対の事があらわれることもある。

実相顕現途上に浮かぶ迷妄の雲のみ。
雲を見て実相無しと云うもの、実相あらわれずと云う者共にあやまれり。

実相照々乎として、明るきこと蒼空の如けれども、
五官これを見る能わず。

           <感謝合掌 令和元年6月5日 頓首再拝>

入龍宮不可思議境界録~私は、聖者たらんと修行しつつあるもの - 伝統

2019/06/10 (Mon) 20:04:28


        *「叡智の断片」(P186~187)より

私を哲学者だと思っている人があるが、私は哲学者ではない。
私は神の啓示を、取ついだものである。

そして神の啓示にしたがって生きんことを希ひ、また努力しつつある者である。

私は聖者ではなく、聖者たらんと修行しつつあるものである。

これは『生命の實相』地の巻に、『生長の家と私』と云う項で書いた通りである。
今もその通りで私も時には躓くし、間違うこともある。

好い体験ばかり発表したら信用を博すること位いは、
よくよく私も知っているけれども、正直に失敗のことも発表するのは、
私自身の失敗を隠して神に祭り上げられたくないからである。

           〇

失敗と見えることが、実は尚一層良いものが出て来る前提であることがある。

           〇

哲学的の思索は間違うことがある。
唯物論の次には唯心論が現れる。

思索と云うものはより多く頭脳的なものであり、論理的なものである。
それだけ人間には合理的に見えるけれども、
哲学と云うものは、時代を超えることが出来ない。

合理は時代に即して合理だと思われるのである。
時代に即しない合理は人から不合理だと思はれる。

或る時代に合理的だと思はれたものは、次の時代には不合理だと思はれる。
人間の作った合理などは決して当にならないものである。

           <感謝合掌 令和元年6月10日 頓首再拝>

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