伝統板・第二

382695
「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/22 (Sat) 07:23:22




 3カ月余りお休みを頂き失礼を致しました<m(__)m>。

漸く、大聖師の謹写が再び出来ることとなりました。

 伝統様、管理人様、皆様、ありがとうございます。

これより、またよろしくお願いいたします、頑張ります、
本流大発展の為に(^_-)-☆。

 伝統様、青年法語「前進への生活の知恵」ご転載有難うございます、今日より続きを謹写させて頂きます。









   輪読のための青年法語

 前進への生活の知恵(理想世界誌9/1号より)



    二十五日のことば  ♡  “自分”というものを“包む”こと


 私が青年時代に人格の角が取れずに孤独であった頃に、

有名な石竜子という人相観に人相を占ってもらったことがある。

石竜子は私の顔をつくづく見て「君の人相は清相という人

相であって、余りに純粋であるから人から容れられな

い。“水清ければ魚住まず”という諺もある。

君はもっと包容力を大きくしなければならない。“自分”と言うものを出来るだけ出さないようにするがよい。

”自己主張”をすることを出来るだけ止めて人を容れるようにつとめなさい」と教えてもらった。

それを一つの座右の銘として私は生活するよう努めて来たものである。

私が今あるのは、その百分の一ぐらいの理由は此の座右の命を実行するようにつとめたからだとも言える。

諸君の参考になれば幸いである。

                    (つづく)
 

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/23 (Sun) 07:29:15



  <掲示版の枠にちじこまらずに、思い切って他サイト

へ、持論を堂々と発信しよう!!!!!>

私の理想です!(^^)!。


夕べの(殆ど)満月は明るかった(^^♪。






 雅春先生の二十六日目です。



 二十六日のことば  ♡ どうしても欠点を指摘しなればならぬ場合


 自分自身が頭がよくて、他の人の欠点がよく見えるから

とて、その欠点を露骨に指摘して、相手の反感を買う様なことをしてはならない。

しかし欠点をそのまま放置したら仕事の成績にも影響して

来るので、是正するよう本人に欠点を指摘する必要のあることもある。

欠点を本人に指摘する場合には「愛情」を伴わなければならない。

冷酷な感じをむき出しに相手の欠点を指摘するならば、相

手の人は、味方であっても、その後、敵に回って復讐を企てることもあり得るのである。

私は部下の失踪を激しく叱責した時は、それは愛情で叱責

したのであって、憎しみでしたのでない証拠に、その半期

の昇給を一般よりもその人に対して多くしたこともある。

                                               (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/24 (Mon) 07:33:26




    <ですから、病気になっても医者にかかれない人がかなりの数います。
ところが、アメリカではキリスト教会の有志が集まって、

いわゆる「互助会」に近い形で任意の保険制度を作っているところがあります。・・・>

 そうなんですか・・・!(^^)!。

また、<谷口雅春先生がお説きくださいました「前祝いの法則」を共に実践してまいりましょう。>・・・、

志恩様のお言葉のようです!(^^)!。










 雅春先生の二十七日目です。


  二十七日のことば  ♡  生食の必要について


 諸君が折角この世に生まれて頭角を現すことが出来ず

に、いつも運命の下積みにせられていることがいやである

ならば、肉体が健康で、元気はつらつとして、頭脳明晰

に、能率高く仕事をやってのけなければならないのである。

諸君は、半分生きていて、半分眠っていて、どうにか机に

もたれて与えられた仕事をボツボツ面倒くさそうにやっている事務員のようであってはならないのである。

そんな半覚半醒の人間にならないためには、正しき食物、

正しい想念(明るい人生観を含む)、正しい生活習慣を務めて持続するようにしなければならないのである。

あまりに“生食”に窮屈に引っ掛かるときは社会的生活に不

調和を来たすことがあるけれども、現代の食品製造者は、

自然の食物に無暗に着色したり、漂白剤を使ったり、腐敗

を防ぐために防腐剤を用いたり、それらの校庭が食物の新

成分を破壊し、中には醗酵物質と言われている占領までも

遣われているのであるから、成るべく諸君はそのような加

工の少ない食品を選んで自然食をとるようにするがよい。


                    (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/25 (Tue) 07:18:14




  源流様、引き続き転載ありがとうございます<m(__)m>。

 内田康夫の浅見シリーズ、未完成の「孤道」の結末を

道産子(私じゃないですよ(^_-))が締めることになったそうです(^^♪。


 トランプさんも大変な大統領ですね(^_-)。








 雅春先生の二十八日目です。



  二十八日のことば   ♡  正しい想念の力を認識せよ


 正しい想念がその人の健康増進にも運命の好転にも必要

なことは、既に私たちは繰返し説いて来たところである。

「人は自己を××と思うと、その通りのところのものになる」のである。

自分を病人と思うと、病人になる。自分を天才と思うと天才になる。

創世記第二章には「アダムが生き物に名付けたる所は皆その名となりぬ」と録されているのである。

アダムとは人類の祖先であり、一般人間の代表として書かれている。

「生き物」の中には「人間」も含まれているのである。

あなたは、自分を名付けるに「天才」と名付けるか、「低

能児」と名付けるか、「勇敢なる英雄」と名付けるか、「日本国再建のための志士」と名付けるか。

心の世界に於いてあなたが自分自身に名付けた通りのもの

に成るような自然にあなた自身が動き出すようになるのである。

                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/26 (Wed) 07:40:27


 いざよう月明りも、とても美しいものでした(^^♪。

 活躍のコスモス様にエール(^^♪、写真は網走湖畔のコスモス畑(1.5ヘクタール)です。










 雅春先生の二十九日目です。


 二十九日のことば   ♡  正しい生活習慣をつけること


 正しい生活習慣が必要なのは、人間の行動は過去にし続

けて来たことを繰返すような習慣性を持っているからである。

習慣のことを日本の語では“シキタリ”というのであるが、

それは過去からずっと“なし来りたる”繰返しと云うことを表現する語である。

仏教ではこれを業というのである。それは物理学上の惰力とか惰性とかいうものに似ている。

一ぺんし続けて来と通りに繰り返そうという内部的惰力が

人間の生命の中にはあるのであるから、悪い行為は「一ぺ

ん位」と思ってしているうちに習慣となって抜き難く改め難いものになって来るのである。

印度で赤ん坊の時に狼にさらわれて、幼児から狼を保護者

として育てられた子供が、多か美青生活習慣を身につけて

から、人間に発見せられ、人間の中で育てるようにしたけ

れども、四つん這いの習慣も改まらないし、食物を口を直

接皿につけて犬のように食して、手でもって箸やフォーク

で食べる習慣を与えようとしても、どうしても改まらなかったと云うことである。

一般の人間が狼のように食せず、四つん這いで歩かないの

は、人間の父母を持ち、周囲の人間社会のマナーを幼い時からし続けて来た習慣の結果だと云うことである。

こんな事を考えて見ると親はどんなにその子に人間らしい

マナーを身につけるために苦心して来られたものかと思い、その苦労に感謝せずにはいられないのである。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/27 (Thu) 07:49:43



 雅春先生の三十日目です。



   三十日のことば   ♡  生涯に一度の大機会をつかむために


 怠らず全力を尽くしている者には常に機会があるのであ

るが、人々はその人の全生涯を根本的に一変してしまう様な大機会が一生のうちに一度や二度は来るものである。

その機会の波に乗る者は恰もジェット機の出航に間に合っ

た旅客のように速やかに大きく進歩することが出来るので

あるが、その大機会を踏み外してしまう時にはコツコツ歩

いて坂道を登りながら労苦して山頂に登らなければならないような生涯を送ることになるのである。

ジェット機に乗るような大機会を真正面から捕えるためには不断に準備をしておくことが必要なのである。

普段、つまらない事にエネルギーを消耗している者は、い

ざというときに、その機会をしっかりと把んでいることが出来ないで振り落とされる危険があるのである。

それには体力と智力とが準備されていなければならない。それには不断の勉強と自己訓練とが必要である。


                    (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/28 (Fri) 07:20:24



 「谷口雅春先生を学ぶ会」創立16周年、誠におめでとうございます。


 益々のご発展を心よりお祈りいたします。






 さて、今朝からは輝子先生の御話を謹写させて頂きます。



  若い星たちの乱舞       谷口輝子先生


「ヨーロッパに『床屋集団』と言うのが出来たんですって」

「それ何のことですか」
と家人に問い返された。誰でも新しい言葉は、聞いただけでは意味が判らない。

私は今朝の新聞記事の話を伝えたところ、皆はワッと言って面白がっていた。
 
 それは「アドリア海に面するユーゴ国の第一御観光地ド

ブロブニクの町は、この夏欧州から押し寄せたヒッピー族やビート族に”占領”されて大弱り。

たまりかねて地元の青年達は、ついにヒッピー族に“宣戦布告”した。

武器はハサミ。ドブロブニクの旧市にはいり込んでくる

ヒッピーたちを捕えては、ヒッピーの“象徴”である長髪をバッサリ、という戦法である。
 
 地元青年を“床屋集団“に駆り立てたのも、ヒッピーたち

の目に余る非行、オランダ、イギリス、スウェーデンな

ど、各地から身なりも汚れ、腹を空かせてやって来ては、

旧市の教会や城の前にゴロゴロし、すっ裸で噴水で体を洗

う女性もいるし、人気のない場所とみれば愛の営みも、といった無軌道振り。

地元警察は一応“床屋軍”の戦いを抑える方に回っている

が、この行動に力を得て、警察にしてもヒッピー退治に乗

り出すことを考えているという記事だった。ヒッピー族のことを、日本ではフーテン族と言っている。

私も時たま街に出ると見かける事がある。


                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/29 (Sat) 07:46:49




 いろいろ、掲示板見てますが、いろいろ大変です('◇')ゞ。






 輝子先生の御話続きです。


 男性の長髪なるものは、昔から、日本にも、欧米にも、

支那にもその他の国にもあったが、それらは、他国人から

見たら奇異に感じられたかも知れないが、ヨーロッパで

は、肩のあたりの黄金色の波を打たせていたし、支那など

では、三つ組みに編んで、背中に長く下げていたし、日本

ではかたまで垂らしたり、キリリと束ねて結んでいたこともあった。

しかしそれらは、普通の社会人であったから、毛髪も清潔にし、服装も行儀よく整っていた。

各国々は、その時代時代によって風俗習慣が移り変わって

来たのであるが、そのさまざまな髪型や服装は、それぞれ

に美しいものとされ、礼儀に適い、他人に迷惑を及ぼすようなものではなかった。

 ところが、ヒッピー族やフーテン族などは、神も汚れ衣

服も汚れたに不快な感じを与えるし、小遣いが欲しくなる

と、主人の留守の家庭に押しかけて行って、お金や食べ物

をねだったり、道行く人にたかって金品を要求したりするし、性道徳も乱れてしまっていると云うことである。

彼らフーテン族は、彼らの行動に何かと理屈をつけて、自

らの存在に価値づけしようとしているが、正しい仕事もし

ないで、他に物乞いをすることは乞食であって恥かしい行為である。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/09/30 (Sun) 07:47:36



  <2618年守り抜いた国体を、・・・>

 神々の友達。様が仰っていられますが、2678年ではないのでしょうか?







 輝子先生の御話です。


 私の若い頃は、都会にも田舎にも乞食がいて、家々の台

所へ来て食べ物を乞うたり、街頭に坐って道行く人に憐みを乞うたりしていた。

それ等の乞食は、病弱や低能で、人並みの働けないものば

かりであったが、フーテン族は、病身や不具ではなく、ピチピチした青年男女ばかりである。

近年乞食は何処に居るのか一向に私の眼に触れなくなった

が、何年も前に女中がお腹が空いてるから何か食べものを

くれと言ってますが、どう致しましょうと聞きに来たので、私は台所へ行って乞食を見た。

それはよく肥えた二十五、六歳の男であった。

「若い元気な男が、仕事もしないで、人様に物乞いに歩く

ものではありません。何でも自分の出来る仕事をしなさいね」

「なかなか仕事が見つからないのです。」

「日雇いでも何でも、本気で働こうと思ったらあります

よ。人間は、どんな小さい仕事でもして、社会のために役に立とうとしなければ、生きている甲斐はありません。

私は今は、今日一日だけの食べものを上げますから、早速

仕事を見つけなさい。脚からは人様におねだりするのではありませんよ」

 このような問答をして、私は戸棚から有り合わせの食べものを出して乞食青年を帰らせたことがあった。

又、秋の祭りの頃ともなると、毎年のように、獅子舞だと

称して、特殊の服装をした若者が玄関へ訪れて、お祝儀頂戴というのであった。

私は初めはこの若者は、神社のお祭りの為に獅子舞を奉納

しているのかと考えて、百円札一枚を渡したところ、翌年

の祭りの頃になると、この若者は二、三人の仲間とともに現われた。

みると、手に手に五百円札の束を握っていて、御近所は皆

五百円出してくれるのが相場ですよと云わんばかりであった。

押しの強さに反発を感じた私は、お断りしますと言った。

若者たちは、むっとした顔をして、戸をしめもしないで出て行った。

                                              (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/01 (Mon) 07:30:48




  <不思議にも、台風が接近する中、講演会開催中は少しも雨が降りませんでした…。>


鹿児島大講演会、ご盛況おめでとうございます!(^^)!。


 こちらも、24号上陸も、と言われていましたが、今、薄日さえ射してまいりました(^_-)。









 輝子先生の御話です。


 その後の新聞を見ると、都内の各家庭で、神社と何の関

係もないのに、祭りの頃になると家庭を訪れて、強引に祝

儀を要求する獅子舞姿をした男たちがいて、主婦たちが脅かされているので、警察が動き出したと書いてあった。

その年以来ここ数年、秋祭りの頃になっても、獅子舞と称する男たちは現れなくなった。

何の仕事もしないで、舞の一手も見せないで、御祝儀をくれと言うのは乞食であった。

私達は乞食を認めてはならないし、働かないで、人の同情

にすがって生活するような青年を助けてはならないと思う。

 四、五日前にテレビを見ていたら、街頭で道行く人男女

に呼びかけて「近頃の青年の長髪をあなたはどう思うか」ときいていた。

待ち行く青年たちは「自分はあんな紙にしたくない」と言

う人が多かったが、ある中年婦人は「あんな髪も好いと思います」と答えたが

「あなたの息子さんが長髪にしたらよいか」と問うと、答えをためらっていた。

 フーテン族が家庭に食べものをねだりに行くと、それを

甘やかして与える主婦たち、また道でたかられると、心弱

くも金を与える人達、それらの人達が、フーテン族を育てているようなものである。

 フーテン族の中には、正しい方向に向かわしたら、前途有為な青年もいるのではなかろうか。

今の社会に対して、何か欲求不満を持っているらしい彼ら

が、無軌道な生活の中に自由を得ているようであるが、彼らの魂は決して本当の幸福を感じていないと思う。

彼等も「神の子」なのだから、「神の子」らしい生き方に

到らないうちは、心の底から満足を感じないだろうし、本当の安らぎはないであろう。

私はフーテン族で男女が犬のようにたわむれている姿を思うと、可哀想でならない。

理想に生きる青年達は、彼等フーテン族にも呼び掛けて、

彼らを「神の子」の本然の姿に引き戻して上げて欲しいと思う。
それは彼等フーテン族の真の幸せであると同時に、日本国を清めることにもなるからである。

自分の正しいと信ずることを相手に行うのは真の愛だからである。

                    (つづく)



Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/02 (Tue) 07:15:49




  社会事業団の真相は? デマが飛んでるみたいですね(^_-)。









 輝子先生の御話です。


 石坂洋次郎氏が、最近の文芸春秋に「釈迦暴父説」について書いて居られるそうである。

慈父でなくて亡父と言われる訳は、釈迦の一子ラゴラは十

歳の時に、父の釈迦に遺産相続をさせてくれと頼むと、釈

迦は十歳のラゴラを伴って山中に入りラゴラの頭をまるめてしまったからであった。

頭をまるめるということは、髪をそって坊主頭にする事で

あるから、釈迦は十歳くらいの、まだ判断力のないラゴラ

の意志を無視して、一方的に父親の意志を押しつけたという意味で、社かを暴父と言ったようである。

 近代の若い人たちに言わせると、まだ判断力も思想も定

まっていない子供に対して、その運命の方向付けを、父親の独断で行ったならば、若者たちは憤慨するであろう。

 しかし釈迦は、現世に於ける最高の位置に生まれ、あら

ゆるこの世俗的な快楽を、思いのままに得られる王宮の生

活をしながら、その生活によっては魂の喜びは得られな

かったし、永遠の安らぎも得られなかったので、ついに王

宮を去り、妻子を捨てて、出家した人であったから、今わ

が子が十歳にして、この世における財産を相続したいと申

出たのに対して、現世における物質的財産は、人間に最高

の幸せを与えるものではなく、仏弟子となって、五官の喜

びや執着から解脱することこそ、最高の幸せだと信じてい

たので、最愛の一子ラゴラの頭を丸めてしまったのであった。

ラゴラは頭を丸められた時には、何が何だかわからなかっ

たであろうが、年を重ねて、次第に仏法を解するようにな

り、父の釈迦に師として深く帰依するようになったし、捨

てられて一時は夫を恨みに思った釈迦の妻であり、ラゴラの母であるヤショダラ姫も、仏弟子となったであった。

これは遠い二千年の昔の印度のことであり、諸説さまざま

で、真偽のほどは私は知らないが、深い仏法を説き、解脱
の境涯にあった釈迦としたら、うなずけることだと思う。

 愛するということは、ただ甘やかす事ばかりのものでは

なく、時には氷の如く冷たく、剣のごとく鋭いことがある。

 ヒッピー族やフーテン族を、ただ甘やかして、彼らの乱

行をつのらせて置くことは真の愛ではなく、彼らの髪を切

り、女性化している男性フーテンから、赤い服をはぎ、長

いネックレスをはずさせたり、男性化している女性フーテンを女性らしくあらしめるのが愛なのである。

 人間は誰でも自由を欲するし、又自由であらしめたいと

思うが、自由と放縦とを取り違えて行いを乱し、他に迷惑をかけてはならない。

自分の幸福を得んとして、他人を不愉快にしたり恐怖させてはならない。

顧て、自他ともに潔くありたいものである。

                     (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/03 (Wed) 08:14:43



  10月の仙厓和尚の書が秀逸(^^♪。

 釋迦ハ佛人、仲尼(孔子)ハ仁人、利休ハ茶ノ天下人ダロウ。





 今朝よりは、ちょっと目に留まった、

良本峯夫さんの青年会会長時代のご文章から。




   一青年の歩んだ道    良本峯夫 

      (理想世界誌昭和43年10/1号)


        ―――先祖のこと―――
  

 江戸時代も末期に近い頃、今の兵庫県尼崎市に実直で腕のいい峯吉という下駄の職人が住んでいました。

峯吉はまだ独身でありましたので、よい嫁を世話しよう

と、町の年寄りたちは寄るとさわると峯吉の嫁探しの話をして居りました。

 或る日のこと、参勤交代で江戸からの帰り途に飫肥藩

(おびはん=今の宮崎県日南市)の殿様伊藤公が尼崎に泊りました。

お付きの家老が町を歩いておりますと、一軒の下駄店が目に留まりました。

というのは飫肥藩には下駄の職人の優秀な人がいないの

で、どこからか下駄の職人を探して城下に住まわせたいとかねがね思っていたからでした。

 殿様は尼崎の町の顔役を呼び、峯吉の素性を調べた結

果、峯吉の腕と人格を見込んで、とうとう峯吉を飫肥に連れて帰りました。

峯吉は義兄弟に別れを告げて只一人飫肥の城下町に住まうことになったのであります。

峯吉は殿様のお世話で気立ての良いお嫁さんをもらって、幸せな毎日を過ごすことになりました。

この峯吉という人が、私の五代前の先祖であります。

この話は私の父がいつも私に話してくれる話です。

その後明治の新しい御代になって、私の先祖は姓を良本と名乗るようになったのであります。

私の先祖の墓はもう苔むしていますが、草深い田舎の山にあります。

私は何よりもこの先祖の墓にお参りして先祖に語りかけ、昔を偲ぶことが大好きです。

墓にお参りしますと、先祖たちが語りかけて来るような気がするのです。

 私の祖父は私が小学校四年生の時八十歳で亡くなりまし

たが、生前は、下駄店と豆腐店と田舎相撲の行司をして居りました。

わたしはよく祖父に連れられて相撲を見に行ったのを覚えています。

祖父はよい取り組みになるといつも「いい相撲だ、いい相撲だ」と言っていました。

私はいい相撲とは二人の力士が全力を出し切って正々堂々

と戦うのを、いい相撲だと言うんだなあと子供心に思ったものでした。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/04 (Thu) 07:18:51

 源流様、輝子先生の御話のご転載有難うございます。


   良本先生の御話続きです。


      ―――父の教訓と母の愛―――


 私の父は今は七十六歳になりますが、昔の師範学校を出て、長い間小学校の先生をしていました。

私父は厳格な人で、行儀作法がやかましく、或る時、子供

の私が座敷の上においてあった新聞紙をまたいで歩きまし

たら、「学校で勉強を習っている者が、文字が書いてある

ものをまたぐとは何事だ」と言ってひどく叱られたのを覚えております。

また学校へ出かける前に、弁当のおかずのことで何か私が

不平を言いましたところ「日本男児が食べものの事で不平

を言うとは何というざまだ」と言って、いやというほど横面を張られたこともありました。

私は父に天皇さまを尊敬することを魂の底にひびくように教えられました。

毎朝、東京に向かって最敬礼をしました。

夜、寝床に入ってからのおとぎ話には必ず天皇さまの話を父はしてくれました。

その父の教育のお陰で、私は戦后の学生時代、左翼思想が

はびこっても、只の一度も日本の国体の尊厳さを疑ったこ

ともなく、左翼思想に影響されたこともありませんでした。

これは全く幼時の父の教えのたまものと思っています。

 私の母は、父と反対にとてもやさしい人で、私が父に叱
られたりすると、いつも後でなぐさめてくれました。

子供の頃の私にとっては、父は恐ろしい人であり、母はやさしい人でした。

この父の峻厳なる大愛と、母の慈愛とによって私は、自分で言うのも変ですが、すくすくと育って行きました。


                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/05 (Fri) 07:15:33

  龍宮住吉本宮が創建されて、この11月で40年と云うことです。


谷口先生の思いが少しでも前進いたしますように。
御代が代わる時でもあります。







 良本先生の続きです。


     ―――特攻隊・武人の心―――


 私が中学二年生のとき、大東亜戦争が始まりました。

学校へ行ってみたら掲示板に新聞が張り出されて、日本海軍航空隊の戦果が堂々と発表されていました。

私は胸躍らせて、自分も航空隊に入って、大東亜民族の

ために、日本国家護持の為に戦わねばならないと強く思いました。

 戦争は初めのうちは、日本軍の勝利勝利で進んで行きま

したが、後、次第に日本軍は押し返されて来るようになりました。

このままでは日本は危ないということが言われるようになりました。

昭和十八年十月中学四年のとき私は決心して予科練を受けることにしました。

家に帰ってそのことを両親に話しますと、父は言下に「行

け」と言いました。母は心配そうな顔をして黙っていました。

鹿児島の予科練を卒業して、私は愈々飛行練習生として、

宮崎県の富高海軍航空隊で毎日毎日飛行機に乗っておりました。

その頃、日曜日の外出の時には、時々母が御馳走をこしらえて航空隊に面会に来てくれました。

朝から夕方までの短い時間を母と私は行きつけの民家で過ごしました。

その頃は日本の都会は米軍の飛行機がやって来て盛んに爆撃をしていました。

楽しい一日も夕暮れてやがて帰隊の時間が迫ると母はいつも「そわそわ」して目にいっぱい涙をためていました。

民家の玄関先から隊まで一本道でした。私は母に「さよなら」と言って別れます。

母は黙って見送ります。

何百メーターもの一本道を私は一度も後ろを振り向かず、真直ぐ歩いて隊門に入りました。

母は私の姿が豆粒ほどに小さく見えなくなるまで見送っていたことでしょう。

私はその母の視線を背中に受けながら、自分自身に言い聞かせるのでした。

後ろを振り向くな、死地におもむく日本軍人が、死に臨んで、後ろを振り向いてはならない。

真直ぐ前を向いて進め、女々しさを残してはならないのだ。

然し私は母のやさしい心を思いやりました。

戦争は次第に日本軍に不利となり、やがて特攻隊が編成されました。

私は進んで特攻隊に志願しました。

或る朝、飛行訓練をするために待機している時、同僚の乗る飛行機が爆音を立てて飛立って行きました。

朝日に映えて何とも言えない勇壮そのものの姿です。

その時、私の身体が思わずぶるぶるっとふるえ出しました。何だろうと自分自身を振り返ってみました。

これが武者振いだということでした。

昔の武士が愈々出陣するとき、武者振いをしたと云うこと

を小説で読んだことがあるが、ははあ、これが武者ぶるいというものかと、私は思わず微笑しました。

そしたらぴたっと身体のふるえが止まっているのを感じました。

 私は航空隊にいる間中、不思議に死に対する恐怖というものを一度も抱いたことはありませんでした。

然し、死はやすし、如何に死すかが難しい、といつも思っていました。

できるだけ立派に死にたいと念願していました。

                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/06 (Sat) 07:24:08



  本流の掲示板のアクセス、結構多いんですね(^^♪。
 
どんどん伸びて欲しいですね。








 良本先生の御話です。


         ―――終戦・復員―――


 ああ昭和二十年八月十五日、私が霞ケ浦の航空隊にいる時、天皇陛下は終戦の大詔を下されました。

戦いは終わりました。

私の部隊は一度北海道へ渡り、そして九月二十日私は父にもらった日本刀を一振り下げて家郷へ帰りました。

古里の町は見渡す限り焼野カ原になっていましたが、不思議にも私の父母の家だけは、ぽつんと立っていました。

夕方でした。太陽は西の山の端に沈みかけていました。

家を焼かれた人たちが、焼け跡の中でご飯を炊いているの
が、白い煙が方々に上がっているのが見えました。

通い慣れた小学校の校舎は見るかげもありませんでした。

私は、我が家の玄関の前に立ちました。

砲弾や銃弾をくらったらしく家の方々が壊れているのが目につきました。

広い家にはガラスも障子もなく、玄関の外から、一ぺんに部屋の中の方まで見通されました。

私はその時、奥の部屋に見覚えのある瀬戸物の大きな火鉢

があって、その火鉢が銃弾で割れたのを白い紙で張り合わ

せてあって、その火鉢を、私の父と母が二人きりで抱え込

むようにして、だまって沈んだ顔で坐っているのを、この目で見ました。

私は「ただ今」と大きく声を掛けました。父と母がはっと顔を上げました。

そして飛び上がって玄関に飛んで来ました。


そして「よう帰って来たなあ」と一こと言いました。

「私は生きて父母のもとに帰って来たのだ」とその時思いました。

                    (つづく)



Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/07 (Sun) 07:46:24



 過渡期様の仰ること、なにか理解できます('◇')ゞ。

トキ様とは違いますよね(^-^;。







 良本先生の御話です。


      ―――信仰生活に入る―――


 その後十九歳の多感な私は父母の心も知らず、家にじっとしていることは出来ませんでした。

昭和二十一年六月、私は父母の許可を得て北海道の牧場へ行き、見習牧夫の生活を始めました。

牧場はのどかでした。そこで私は戦争の為に長い間忘れていたロマンチックな青春を取り戻しました。

美しい女性を愛したのもその頃でした。

しかし世の中が次第に落ち着き始めた頃、私は終戦によっ

て忘れかけていた祖国への愛情を再び感ずるようになりました。

これから先きの日本は一体どうなるのだろうか、と思う様になりました。

 しかし私は、「三千年にわたってつちかって来た日本の

国体が、僅か一度の敗戦ぐらいによって根本から覆るよう

なことがあるものか、必ず日本は立直るときが来るのだ」と思いました。

その頃でした。私が生長の家の教えにふれたのは。

私が生長の家の教えにふれたのは、私は牧夫の生活の余暇

にむさぼるようにして『生命の實相』を読み始めました。

今まで父の書斎にあった宗教の本や人生問題に関する本を

何冊か読んだことがあって、「信仰」とは何かということ

を大体はわかっていたつもりでしたが、『生命の實相』を

読みすすむにつれて、信仰というものが決して観念だけの

ものではなく、それは実生活に生きる道であり、釈尊も

キリストも人間の生きる道を具体的に示されたのであり、

釈尊やキリストが教えられたその道をそのまま自分自身の

生活に生かすことが出来るということを知って、私は驚喜しました。

信仰とはそんなものであるかと私は目を見張りました。
そして私は次第に心に決めるようになりました。

よし、自分は一生この道を行じて行く。これ以外に自分の生きる道はないと思う様になりました。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/08 (Mon) 07:23:36



  <「憲法改正」反対の、左〝とうしゅ(党首・投手)〟が

〝ないかく(内閣・内角)〟攻めをしてくるのですから、右

バッターを揃えるのはセオリーの一つではありませんか。>・・・。


 破邪顕正様はウイットがお上手です(^^♪。







 良本先生の締めです。


          ―――愛国者への道―――


 更に谷口先生の説かれる「日本の道」を知るに及んで

は、この道は日本再建の道であり、私の父祖が譲り受けて

来た尊い日本の国を、子孫の私がまた尊び続けて行くに

は、この教えによる以外に道なしと、私は決意してこの教えに飛び込みました。  

 それ以来約二十年、日本の国状が異常なまでに混沌とし

ている今日この頃、私はこの国のありさまを自分自身のこ

とと感じ、自分自身の魂を浄めつつ、この国の国民として

の正しい道を勇気をもって突き進んでいきたいと思っています。

                    (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/09 (Tue) 07:09:43



 源流様、良本先生のご文章の転載有難うございます<m(__)m>。

本当に感動モノのご文章でした。









 さて、今朝よりは、今話題の西郷どんの物語です。

これも、なかなかの感動物語です。




  維新の青年像(八)  西郷と月照をめぐる人々


     (理想世界誌 10/1号)   皇學館大学教授 文・荒川久寿男 絵・渡辺鳩太郎


            一


 安政五年十一月、満月の薩摩の海を、一葉の船が日向の国へと帆を上げて行った。

霜付きの月光はふりそそぎ、舟の上の鶴のごとき僧と巨眼の人と、さらにいくつかの人影を照らし出した。

中に若者ひとり、笛をとってかなでれば、悲傷のしらべは

月の面をかすめ、波もこれに和するばかりであった。人影

あい交わって盃をあげ、やがて酔いふした後は、月愈々天心に高く、水をうつ櫓のほかは天地に音も絶えた。

 やがて暁の残月はみた。鶴のごとき僧のかげ、船縁に立

ち、海水に手を清め、西山に傾く月を拝むよとみるまに、

つと立った巨眼の人と相抱き、たちまちにして水音立つや、二人のかげは海中に没し去った。

 船頭は声を上げて舟中の人々を呼び起こした。

ときにあかつきの風吹いて舟の走ること矢の如く、飛び起

きた急ぎ刀を振るって帆綱を切り、影二人海中に没した辺りに漕ぎ戻し、百方手を尽すが手応えもない。

夜明けの風啾々、他の一人は声を放って泣く。舟をめぐら

すこと数回、たちまち海中に音あり、相抱いた二人が潮に

揺られて浮上したから、人々は急いで救い上げ、舟を浜辺に漕ぎよせて介抱のかぎりをつくした。

さいわい巨眼の人はまだ肌も温かく、奇跡的に息を吹き返

したが清秀の僧は既に冷え切ってこの世の人ではない。夜明けの渚に人々は天を仰いで号泣した。

いうまでもなくこれは西郷と月照のことである。しからば

西郷と月照は、何ゆえにとおく月明かりの南海に身を投じたのであろうか。


                                              (つづく)



  

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/10 (Wed) 07:16:17



 荒川先生の続きです。



            二


 それよりおよそ半年まえのことであった。

京の御所には愁いの雪しげく、天皇はおんみずから七日七

夜、清涼殿の東のお庭におり立ち、伊勢の内宮、外宮また賢所に必死の祈りをこめられた。

それはアメリカとの条約が日本を傷つけることをひた憂

え、身にかえても日本国を守ろうと、三千万の国民に代って神明に祈りをささげられたものであった。

清涼殿に夜はたけて、みあかしも幽かに、神人交会のひとときであった。

同じ頃勅使は伊勢神宮の大前にひれ伏して勅願の祈りをこ

らし、又別の勅使は石清水、賀茂の諸社にぬかずいていた。

それは六月十七日から二十四日の事であった。

まさにこのとき、西の京における天皇必死のおん祈りを、東の江戸の大老井伊は真っ向みじんにうち砕いていた。

六月十九日、かれは勅許もなしにアメリカとの屈辱的条約に独断調印した。

日本の汚辱を祝うかの如く、アメリカ軍艦ポーハタン号はいんいんたる砲声を江戸湾にとどろかせた。

アメリカに屈伏した井伊は、朝廷に対しては宿次奉書という、文書による事後報告を届けただけであった。

しかもかれは九条関白に、京都弾圧の断固たる決意を示す書をおくった。

大獄の血風はこれよりはじまろうとする。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/11 (Thu) 07:28:00



    <天皇陛下が靖国神社にご親拝されなくなったのは昭和五十一年(1976年)からです。  

 A級戦犯が靖国神社に合祀されたのは昭和五十三年(1978年)です。

参拝されなくなったのが五十一年(1976年)、

合祀されたのが五十三年(1978年)です。・・・>。


 志恩様が、種明かしをされてます!(^^)!。








 西郷どんの続きです。


 六月二十七日、幕府の宿次奉書を受けた公卿たちは、驚愕と混乱とにつつまれた。

天皇は激怒の余り、御譲位の意をもらされた。

「実に悲痛など申し居り候位の事にて無(これ)✓之(な

く)言語に尽くしがたき次第・・・・・天神地祇、皇祖に

対し奉り申訳なく・・・・・英明の人に帝位を譲りたく候」

とはそのお言葉であった。

またこのころの御製に


  しげり合ひたる萩すすき
 
   あるにかひなき武蔵野の原


とは征夷の名にそむいた幕府のふがいなさと無道に対するかぎりなき御いきどおりをこめられたものであった。

 このおんなげきを拝し、秋草を刈り払って武蔵野に道を

ひらこうと、水戸斉昭、尾張慶勝、一橋慶喜、松平慶永た

ちは一せいに江戸城につめかけ、きびしく井伊を追及して大老職から追放しようとした。

また都には皇国の一大事と、近衛左府、三条前内府ら正義

の公卿は奮起し梅田雲浜、梁川星巌、頼三樹三郎たち志士の往復は織るがごとくであった。

 しかるに赤鬼とあだ名された井伊は、断固として弾圧の鉄槌を下した。

彼は一橋、水戸、尾張、越前など正義の大名を押し込め、

さらに都の公卿や志士を取り押さえるため、あらたに所司

代酒井忠義を京に送り、さらに腹心の老中間部詮勝をも都に上らせようとした。

すでに意位のふところ刀たる陰険邪智の長野主膳は、都の

中に出没して、スパイ情報を刻々井伊にもたらしつつあっ

た。京洛の風雲は急に、白刃はまさにひらめこうとした。

                                              (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/12 (Fri) 07:30:23


  荒川先生の物語続きです。


           三


 このときひとびとは足を爪立てて、とおく南国薩摩の大名、島津斉彬をのぞみ見た。

斉彬は当時、国の運命をひらく三つの鍵を、堀仲左衛門を通して鹿児島から橋本景岳につたえたという。

それは(一) 次の将軍が紀州慶福ときまっても、なおのこ

る活路は唯一つ、天皇の勅によって一橋を将軍に立てるこ

と、

(二)それもできなければ一橋を将軍の後見職、越前の

慶永を将軍補佐につけて大老井伊をしりぞけること、

(三)さらに第三策こそ秘中の秘、手紙には書けぬから堀と面談

のことというのであったが、この秘中の秘策とは、おそら

く斉彬自ら精兵を率いて上京し、勅命を奉じて江戸に下り、幕府を粛正する含みではなかったろうか。

それかあらぬか、斉彬は七月初め、鹿児島に兵力を集め、しきりにそれを訓練しつつあった。

 風雲を払って清涼の気を呼ぶ雷電は、いまや西南の一角からひらめかんとす。

斉彬の懐刀西郷吉衛は先発して京と江戸の間を往復し、

島津と深い関係の近衛家には清水の僧月照が出入して西郷と連絡しつつ時を待った。

人々は斉彬が正義の剣を帯びて勇姿を現す日を待ちわび

た。しかるにやんぬるかな、安政五年七月十日、斉彬はに

わかに病み、病むこと僅か七日、同十六日に四十九歳を以て秋風の中に消えようとは、日本の望みはここに崩れた。

西方の巨星空しく地におつ。人々は今や、絶え絶えの望みの糸を東の水戸にかけた。

薩摩士日下部伊三次はまえに水戸に仕えた因縁もあり、こ

れより先、前の内大臣三条実万を通して、水戸に密勅を下し、井伊を退けて幕府を改造することを進言した。

おりから七月二十四日、はからずも斉彬薨ずとの悲運に接

し、天を仰いで悲泣やまなかった西郷たちも、このうえは

もはや水戸への密勅降下のほか、時勢を開く道はないと一決した。
こうして人々は近衛家や三条家を通して朝廷を動かすにつ

とめ、また水戸藩の京都留守居役、鵜飼吉左衛門ともひそかに連絡を取りつつ、懸命にその実現をはかった。

(つづく)


                     

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/13 (Sat) 07:23:40




    <千葉教区・茨城教区 共催の講習会の受講者は5,807名でした!>


 まだ迷える子羊たちがいっぱいいるのですね(^-^;。







 荒川先生の物語です。


 この間、西郷は近衛家の密命を受け、八月初め東海道を江戸へ急行した。

目的は幕府と身との事情をさぐるためであった。

彼は当時としては最大急行の四日半で東海道を走り抜け

た。江戸に着くや、幕吏の眼をかすめ、危険を冒して、小石川の水戸藩邸に家老安島帯刀と密議を交わした。

しかるに安島は、密勅をまさに下ろうとすることを聞いて

驚き、残念ながら今の水戸藩にはとうてい勅命を実行する力がないと嘆いた。

それは当時の水戸藩が井伊に圧迫され、包囲され、孤立分断せしめられていたからであった。

これを知った西郷は方針をかえ、水戸への勅書降下はか

えって朝廷のために危険であると判断し、その中止をはかるべく、急ぎ京都にひきかえした。

しかるに時遅く、矢は既に弦を放たれ、密勅を奉じた水戸

藩士鵜飼幸吉は、西郷と入替えに東海道を江戸へ向けて疾駆しつつあった。

それはいかなるいきさつによるものであったろうか。


                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/14 (Sun) 07:36:35

  


  トランプ劇場、ちょっとのぞき見させて頂きました(^-^;。勉強になります。







 荒川先生の物語です。


            四


 これより先、井伊は日米条約に引き続いてイギリス、ロ

シアとも勅許なしに条約を交わし、これまた事後報告の形で朝廷に届けた。

また三家と大老のいずれか上京せよとの天皇の御意もにべもなく拒否し去った。

されば幕府へのほとばしる御怒りをおさえて


 清(すま)しえぬ水にわが身はしずむとも

    にごしはせじなよろず国民(くにたみ)


とうたわれた天皇の御こころは、またしても砂をあびせられ、土足にかけられた感があった。

天皇は猛然と怒られ、八月五日ふたたび御譲位を仰せだされた。

条約調印は「届棄同様・・・・・厳重に申せば違勅」であ

り、これでは「神官已下に対し奉り、如何可(これ)✓有

(ある)✓之哉(べきや)」、もはや上位のほかなしとさ

れたことは、そのおんいきどおりのほどをよく示したものであったろう。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/15 (Mon) 07:28:52



 中島省治先生、が、「天皇陛下御即位三十年奉祝委員会」

の「代表委員」に選出なされた事、誠におめでとうございます。うれしいことです。









 西郷どんの続きです。


公卿たちは御譲位の取りやめを必死に願い、せめて幕府の

反省と改造を促すために水戸に勅書を下されたいと申し出た。

遂に天皇もその議を採用された。とくに佐幕派の九条関白

を抑えて熱心にこれを主張したのは左大臣近衛忠煕、前の内大臣三条実万であった。

 密勅ついに水戸に下る。

八月八日、青蓮院宮よりこれをうかがった志士梅田雲浜は

こおどりして同志に伝え、在京の志士皆剣を撫して起ち上がった。

 この日、在京の水戸藩士鵜飼吉左衛門は伝奉万里小路正房邸において、つつしんで勅書を受けた。

しかし何分かれは老人であったゆえ、勅書伝達の重大任務はその子幸吉に托された。

幸吉ときに三十三歳、勇躍して難におもむいた。すなわち

かれはその夜七時頃、うやうやしく勅書を奉持し、変装して一散に東海道を東に走った。

同時に日下部伊三次はその写しを身につけ、東山道をひた走りに江戸へ走った。

しかしこれは真に決死行であった。

長野主膳はまさにこの日、江戸の宇津木六之丞に当てて、

梁川星巖宅における水戸人を交えての志士の密会を報じ、

「彦根の内間(スパイのこと)より証拠も取り有之」と書いた。

恐るべき井伊のスパイ政策である。

しかしこの長野にして八月八日、水戸に密約降下とはゆめ知らず、マンマと裏をかかれた形であった。

それにしても幸吉が道中の便宜を頼むはずであった水戸の

御用だし、京都高倉通御池下ルの大黒屋という飛脚屋が、

実はこれ井伊のスパイであったとは、おそるべし幕府の魔手! 

されば彼が急ぐあまり、大黒屋に頼る間もなく水戸役人小

瀬なにがしに変装して都を発たざるを得なかったのは、むしろ天祐というべきであった。

そうでなければ彼は、勅書もろとも、京を出る前に井伊の投網にかかっていたであろう。

危うかりし鵜飼幸吉!
                                              (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/16 (Tue) 07:32:37




<「ありがとう」

  管制官への感謝の言葉が最後となりました。4人が再び基地に戻ることはなかった。

 建村一等陸佐は、かつて、部下の隊員たちに、こう語っ

ていたそうであります。 「自分たちがやらなければ、誰がやる。」・・・>・・・。
 

 安倍首相の自衛隊に於ける訓示の中から。





 西郷どんの続きです。


 虎口を脱した幸吉は東海道をひた走った。

しかるに日乃万峠にさしかかるや、深編笠の怪しい僧が彼を呼び止めた。

敵か、非ず、阿野中将公誠が、三条実万の密命を受け、勅

書の口達にもれたところをつたえるためにかれを待ちうけていたのであった。

 こうして水戸藩士鵜飼幸吉は、日本の運命をかけた重大

なる勅書を奉じて、月かげくらき峠路を越え、婆栗の眼をかすめつつ、東海道を夜重ね日を重ねて走る。

目指すは江戸へ! 小石川の水戸藩邸へ!

おりしも時は仲秋の名月に近く、月は夜ごとに輝きをま

す。が、はたして幸吉お膳とは、満月の光満ちたるものであったろうか。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/17 (Wed) 08:23:53




 粛々と感動物語を続けます。



            五


 鵜飼幸吉は走った。秘勅を抱いて江戸へ走った。

おりから八月も十六夜の月明かりに、江戸は小石川の春日

町、旅人宿長右衛門方についたかれは、ただちに小石川の水戸邸の門をたたいた。

おどろいた藩主慶篤は身を清めてうやうやしく勅書をおうけした。

そのうけ書をたずさえて東海道を西へ、いそぎ京へのぼった。

 水戸藩はいろめきたった。

駒込の屋敷におしこめられた老公斉昭にも勅書は伝えられ高橋多一郎は水戸に急行して国もとの意見をたたいた。

有志はみな勅書を仰いで感激し、幕府改造、日本の進路打開の時こそ来たれとふるい立った。

若い藩主慶篤もこのいきおいに乗った。

 この時大老井伊は猛然と水戸弾圧を開始した。

井伊の命を受けた老中間部らは慶篤をたずね、あまり反抗

すると幽閉され、水戸は高松の松平家に取られますぞと耳打ちしておどした。おどろいた慶篤は急に軟化した。

さらに井伊は水戸の内政に干渉し、武田耕雲斎、安島帯刀ら正義派を退け、幕府にこびる一派を用いさせた。

そのうえ井伊と親戚の高松藩などに厳しく監督させた。

しかも幽閉中の老公斉昭の監督もいよいよきびしくなり、

あわや危険が降りかかろうとする有様であったから、水戸の有志が血を呼ぼうとしたのも無理はない。

                                              (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/18 (Thu) 07:22:21



 粛々と物語を続けます(^_-)、北の国に、峠に雪の季節がやってまいりました。





 そのころ西の京都では、うかつにも密勅降下にきずかな

かった長野主膳は、八月十八日いそぎ井伊に報告して、こ

れは水戸と朝廷の大陰謀であり、九条関白の副署のない密勅は法的に実行の義務はないとちえをつけた。

さらにかれは東の水戸弾圧と平行して、西の正義派を一掃しなければならぬ。

先ずその巨頭たる梁川星巌、梅田雲浜をとらえよ、間部老中は早く上京して朝廷を威圧せよと繰返し催促した。

かくて老中間部は九月三日、江戸を出て京に向い、この日

又新任の所司代酒井は入京、京洛にこれより血風は吹き荒れる。

 この危機一髪の九月二日、勤王の老詩人梁川星巌は病厚

く、志士たちの看取る中に七十にしてこの世を去った。

死するやこの熱血の老詩人は、男児は女の手に護られて死

すべきではないと、愛妻の紅蘭女史を別室に去らせ、従容として瞑目した。

紅蘭女史も勤王の賢夫人、書類を火に投じ、幕吏が調べても何の証拠も残さなかった。

くやしがった長野は奉行は何故女史を叩いて泥を吐かせぬ

か、「さてさて手弱くいふ甲斐なきこと」となげいたが、まさに血に飢えた狼、牙を鳴らす白鬼の姿であった。

                    (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/19 (Fri) 07:23:59



  荒川先生の物語です。


 星巖は死んだが、雲浜は九月七日夜、大勢の捕手に取り巻かれて獄に投ぜられた。

このうえは鵜飼父子以下の志士を捕えよ、さらに天皇の信

任厚い青蓮院宮をも処分して、朝廷に目の覚めるような一

撃を加えよと、長野はいきまき、所司代らにネジをまいた。

その共謀、真におそるべし!

 鵜飼父子危うし。ことに直接密勅を水戸藩に伝えた幸吉

はもっともにらまれ、長野は「この人物さへ手に入れ候はば」と虎視眈々、機会を狙った。

たまたま九月十五日、父吉左衛門が江戸の同志日下部伊三

次にあてた密書が、大津で云い方におさえられ、しかもそ

れには赤鬼(井伊のこと)へ斬り込むものがあれば、すぐに

も綸旨(りんじ=天皇の御命令)を出せるとあったからたまらない。

捕手は十八日、鵜飼父子を襲って京都六角の牢に投じ、やがて江戸に護送した。

続いて志士は続々逮捕された。

この中へ老中間部は十七日着京、朝廷に入京のあいさつも

せず、宿所妙満寺にこもっては天を睨んで刀を磨く自画像を描いて人に示し、無言の威圧を朝廷に加えた。

この間、剱光うずまいて大獄の血痕は日々京洛をいろどってゆく!

                                              (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/20 (Sat) 07:44:10




  <心臓弁膜症で仆(たお)れて、あんなに体が弱かっ

た妻だからもう子供は生まれないであろうと思っていたの

が妊娠したのだから一入(ひとしお)嬉しかったのだった。・・・>

 旧浅草区小島町にある谷口雅春先生ゆかりの観音像をお詣りするようです。

 信天翁様のご案内より!(^^)!。






 西郷どん、続きです。


            六


 井伊はなぜこのように恐怖政治を強行したのか。

あるいはいう、かれは世界の動きを予見して条約を結んだ開国の恩人だと。

またいう、かれも長野も国学をおさめ、尊皇心はあった。ただ無謀過激のものをあおさえたにすぎないと。

はたしてそうか。

 一体徳川幕府とは、慶長五年の関ヶ原以来、家康が天下を制圧してできたものであった。

それは一個の徳川家が日本を私有独占する政治の仕組みに

過ぎずそのため幕府は皇室を押し込め外様大名を敵とみ、

国民を絶えず監視し、日本全体を徳川軍事政権の厳しい統制のもとに凍結した。

天下太平のときはそれでも通った。

だが幕末以来、欧米の風圧の前に日本の運命が問われ出した時、もはやそれでは通用しなくなって来た。

それでも徳川幕府が存続したいのならば、それは徳川氏の

私的な独裁政権でなく、天皇の信任を得、国民の支持を得る日本の公的な政府として脱皮しなければならなかった。

ペリー来航の時老中阿部正弘がいそいで天下の世論を聞

き、朝廷にも大事を奏上したのは、全くそのような脱皮へ

の苦心を示したものに他ならない。さすが阿部は賢宰相であった。

しかし幕府にはたしてそれができたか?

                                              (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/21 (Sun) 07:55:29



 沢田研二氏のドタキャン、そんな裏があったのですね(^-^;。


 源流様が、3年前必死に謹写したやまと新聞の箴言を紹介して頂いております事に感謝いたします。

有難うございます<m(__)m>。







 物語続きです。


 不幸にして徳川幕府は、かように国民をリードする高貴な国家理想の持ち合わせはなかった。

せいぜいそれは家康の理想にかえるだけで、しかも家康の理想とは徳川の永久政権化の夢以外の何ものでもない。

したがって徳川幕府が真に日本国の政府に昇格するために

は家康をこえて遥かなる日本歴史の伝統にかえり、日本国の基本原理である尊皇にその基調を置かねばならぬ。

このゆえに水戸は尊皇をもって徳川幕府存立の根本とした

し、また越前藩の英才橋本景岳が、将軍に賢明な人をた

て、徳川氏が日本を独占する体制を打破し、譜代外様をと

わず、ひろく国家的見地からいっさいの英材を結集すべし

ととなえたのも、つまりは幕府の日本私有の組織を組み替

え、幕府を天皇のもとにおける日本国の政府に鋳なおそうとしたものにほかならぬ。

したがって景岳の活動は徳川幕府の前進にプラスでこそあ

れ、決してマイナスにならぬのに、その景岳を井伊が殺し

たのは、全く幕府の自殺的行為だといわれてもやむをえない。

かように水戸の人々や景岳が、時勢の進展を見通し、皇室

や国民と対立する幕府ではもはや存続できなくなったこ

と、その限界に来たことを見極め、これを一転して天皇の

臣下として、の征夷大将軍たることを目覚めさせ、幕府を

天皇の政府として前進させようと苦心したのに、これにた

いし一方では時の流れを悟らず、いぜん家康以来の誌友独

裁の体制を固守し、皇軍を抑え国民を強圧して幕府の維持をはかろうとする人々が幕府内にあった。

いわば景岳たちの歴史の動きを予見し、新しい革袋に新し

い酒を盛ろうとした進歩派だったのに比べ、これは何と保守反動派であったろう。

そして最大の代表者こそ、譜代大名の旗頭、彦根三十六万石の大名井伊直弼!

                     (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます。22 - 道産子

2018/10/22 (Mon) 07:16:51



 冷えはともかく、穏やかな日が続いています(^^♪。





 物語は続きます。


 このゆえに井伊の開国は先見の明ある開国ではなく、欧米に屈従の開国であった。

高き理想をかがけての開国ではなく、苦し紛れの場当たりの開国であった。

したがってナショナリズムの旗手たちが、むしろ幕府打倒をさけんだのも当然であったろう。


 またこのゆえに井伊の尊皇は、徳川の私的専制を認めたうえでの尊皇であった。

彼は何よりも徳川第一主義であった。

これにふれるや彼は赤鬼となって朝廷を圧迫した。彼に
とって忠義とは徳川のお家大事の忠義であった。

したがって、彼の尊皇と、水戸の人々や景岳、松陰その他の志士の尊皇とは、全く違った世界のものであったのだ。


                                              (つづく)

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