伝統板・第二

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利他③ - 伝統

2018/09/05 (Wed) 14:13:25

      *伝統板・第二「利他②」からの継続です。
       (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7186768


《毎日必ず何かを貢献する》

      *『生活の智慧365章』
         (第3部繁栄の泉)第7篇(P188) より

あなたが生きていると云うことは、神がそして此の世界が、
そして人類が、あなたの貢献を何事か希望している証拠である。

随(したが)ってあなたの方から言えば、あなたが生きている限りは、
神に対して、そして此の世界に対して、人類に対して
何かを貢献しなければならないのである。

 
あなたが何事かをするとき、この仕事は神のため、世界のため、人類のため、
と思って、「この仕事をさせて頂きます事を感謝致します」と念じてすれば
疲れることも少なく、生き甲斐が感じられ、精神も身体(からだ)も
一層すこやかになるのである。

実際、人間は実相に於ては、神と一体であり、全人類と一体であり、
その実相から無限の力が流れ入って来るのであるけれども、力が不足するのは、
その一体なる実相を自覚せず、自分だけで事を運ぼうとするからである。


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド

  ①「深切を与えよ」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1189

  ②「無財の七施」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=110


(2)「光明掲示板第二」内スレッド

  ①「利他 (10598)」。
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2033

  ②光明掲示板・第二「親切・情け (458)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=158


(3)光明掲示板・第三「利他 (109)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=50

(4)光明掲示板・伝統・第一「利他 (48)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=30

(5)伝統板・第二「利他①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456462


           <感謝合掌 平成30年9月5日 頓首再拝>

あらゆる方面に神の愛を与えるのだ - 伝統

2018/09/14 (Fri) 04:21:00


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月14日)より

人の物を値切るようなケチな心を起こしてはならない。
値切る心は値切られるのである。

あなたの得た物(または人)の値打ちだけを
十分与えるように心懸けなければならない。

値打ちだけを買い取り、値打ちだけを支払い、
しかも自分もできるだけ力を尽くして奉仕するのだ。

ただ金だけ出して与えたつもりになっていて
怠惰や放漫になってはならないのである。

与えたけれどもそれが浪費になったという場合は、
自分が知恵を出さず、愛を出さず、生命力を注がないからである。

ともかく、与えることをできるだけあらゆる方面に試みてみよ。
「返って来る」というような予想なしに神の愛を与えるのだ。

             <感謝合掌 平成30年9月14日 頓首再拝>

「与える」気持ちを持つと自然とうまくいくようにできています。 - 伝統

2018/10/01 (Mon) 04:34:44


       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P14~17)より抜粋

人間は、自分自身の「毒」で苦しんでしまうことがあります。
他人の責任ではなく、自分を苦しめている犯人は自分自身なのです。

また、自分にとって良いもの・欲しいものだけを引き寄せたいという欲は、
同時に悪いものも引き寄せてしまいます。

この世では「与える」気持ちを心がけるだけで、運勢は好転し始めます。
同じように「与える存在」が寄ってくるからです。


経営者は、儲けたいと願っている間は儲からないのです。
儲けたいという欲は、仕事内容や社員の待遇にも反映します。
その欲の匂いをお客様は無意識に感じ取り、
魅力を感じずに避けてしまうのです。

ビジネスマンも同じです。
数字を上げたい、出世をしたいと、自分の利益だけを求めていては、
出世も収入も思うようにならないでしょう。


心の持ち方もこれと同じです。
神様に助けを求めるのではなく、逆に「神様を喜ばせたい」
「神様を助けたい」という心を持てば、自然と自分が喜ばされ、
助けられることになります。

           <感謝合掌 平成30年10月1日 頓首再拝>

《天の倉に善行を預貯金せよ》 - 伝統

2018/10/18 (Thu) 03:37:49


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P192~193) より

祈りがきかれないのは、
天の倉に自分の善行が預貯金されていないためであることがある。

この世界には「与えよ、さらば与えられん」の法則が
厳然として存在するのであるから、みずから善行を与えないでいて、
他(ひと)から善行を期待するのは間違いだといわなければならないのである。

大地に種を蒔く(種を与える)ことをしないでいて、
「今年は豊作です」と祈っても、念じても、
雑草は豊作になるかも知れないけれども、
自分に必要な良き穀物を穫り入れることはできないのである。

つねに陰徳を積み、人に善きものを与えることをして置くならば、
宇宙は神の生命(せいめい)で普遍的につながっているのであるから、
右に与えておいた陰徳が、必要に応じて左から返って来て、
常に貧しきことを知らないことになるのである。

常に誰かに深切を与えること、勇気づけの言葉を与えること、
そして何よりも“人間・神の子”の真理を与えることが大切である。

           <感謝合掌 平成30年10月18日 頓首再拝>

【とにかく「与える」ことが大事】 - 伝統

2018/10/27 (Sat) 03:18:06


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年10月20日)より

   (内藤誼人氏の心に響く言葉より…)

   アドラーによると、人に好かれる人には、共通してみられる特徴がある。

   それは、相手から何かを「とろう」とするのではなく、
   むしろ自分から相手に何かを「与えよう」とするのである。


   知り合いの誕生日には贈り物をし、お中元、お歳暮も欠かさない人がいるとしよう。

   旅行に出かければ、必ず、お土産を忘れない人がいるとしよう。

   自分がアイスを食べたくなったときには、
   ついでに他の人のぶんまで買ってきてくれるような人がいるとしよう。

   そういう人が、周囲の人たちに嫌われるということは、あまり想像できない。

   なぜなら、彼は「与える」人だからだ。

   私たちは「与えてくれる人」が大好きなのであって、
   そういう人とつきあいたいと思うものなのである。


   ケチな人は、人とうまく交わることができない。
   ケチな人は、自分から何かを与えようとはしない。

   そんなことをすると、自分がソンをしてしまうことになり、
   ソンをすることは彼にとっては許せないことだからである。


   オランダにあるユトレヒト大学のアーク・コンターは、
   相手に贈り物をする行為は、相手との感情的な結びつきを強める、と述べている。

   コンターによると、特に「見返りのない贈物」が重要であって、
   そういう贈物をする人は、だれにでも好かれるらしい。


   世界でナンバーワンの営業成績を出すような、
   伝説的な人たちの本を読むと、とても興味深い。

   彼らは、他の営業マンに比べて、
   話術が巧みであるとか、説明上手であるとか、そういうことはない。

   彼らは、ただ、他の人がやらないようなこと、
   たとえば、お客さまの誕生日に、必ずバースデーカードを出す、
   といった「与える」行為をしているのである。

   たったハガキ一枚で、差をつけているだけなのだ。


   田中角栄さんといえば、「人たらし」で有名であったが、
   特に難しいことをしたわけではない。

   角栄さんは、結婚する人がいると聞けば、だれよりも早くご祝儀を出すとか、
   家族に亡くなった人がいると聞けば、律儀に花輪を出す、
   ということをしていただけである。


   「私は、お金持ちではないので、そんなに贈物ができません」
   という人もいるだろうが、それは言い訳にすぎない。

   別に高価なモノを贈りなさい、などといっているのではない。

   ハガキでも手紙でもいい。

   とにかく「与える」ことが重要なのであって、その金額は関係がないのだ。

         <『アドラー心理学あなたが愛される5つの理由』ぱる出版>

                 ・・・

「与える人」の反対は、「奪う人」。

奪う人は、ちょうだい、ちょうだいと何でも欲しがる人であり、
人から、物だけでなく、時間や、情報や、エネルギーを奪う。

そして、もらってばかりいて、与えることをしない。

人にストレスを与え、不平不満を口にし、相手の気持ちを冷やし、がっかりさせる人。


与えるとは、物やお金だけでなく、
「ほめること」「喜ばすこと」「元気」「夢」「癒(いや)し」
「愛のある優しい言葉」「笑顔」等々。

人を喜ばせ、幸せにする人だ。

だから、まわりにどんどん人が集まる。


しかし、奪う人からは、仲間は逃げていく。

一緒にいても何のメリットもないからだ。


ケチくさいことをせず、惜しみなく「与える人」でありたい。

           <感謝合掌 平成30年10月27日 頓首再拝>

《人に施すときの心懸け》 - 伝統

2018/11/14 (Wed) 03:43:29


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P193) より

人は善きものを与え、深切を与え、愛を与えるしても、
その善きもの、深切なもの、愛に関するものを与えても、
それが物質的なものである限りに於いて、
その与える好き効果は乏しいということになるのである。

何故なら“物質”は有限であり、物質はそれを与えられた人の感覚や、
“貪欲の心”を悦ばすかも知れないけれども、
必ずしも魂の悦びとならないことがあるのである。

人に金銭で補助を与えた場合、尚一層その人の依頼心を増長せしめて
却って精神的に堕落させることもあるし、

或る場合には、あまりその人が受けた恩義を“借金”的に考えて、
与えた人に対して一生頭があがらないように束縛してしまうことも
ありがちである。

だから人に“与える”には、相手に依頼心を起させないようにする必要があるし、
また恩義で相手を縛ってしまって、彼が自己解放を遂げ得ないようなことの
ないように充分の考慮をもって“与える”ことが必要である。

それだからやっぱり真理を相手に与えることが最大最良の善である。

           <感謝合掌 平成30年11月14日 頓首再拝>

《蓋のひらかない香水瓶》 - 伝統

2018/12/03 (Mon) 03:45:57


      *『人生の秘訣365章』第8篇(P193) より

自己の内にある力を発揮しないで、外なる援助に頼ろうとする者は、
蓋の栓が錆びついて中にある芳香をどうしても外に顕すことのできない
香水瓶のようなものである。

そのような人に外から香水を注いでやることは無駄のことであるのである。

その蓋の栓を抜いて、中にある芳香を発揮できるように工夫してやることが
本当に大切な布施であり、供養であり、扶助であり協力である。

           <感謝合掌 平成30年12月3日 頓首再拝>

《人の神性の“栓”を抜くこと》 - 伝統

2018/12/16 (Sun) 04:19:34


          *『人生の秘訣365章』第8篇(P194) より

内部にある“無限の芳香”の如き貴き“神性”を開発してあげることが、
最も価値多き布施であるのである。

それには「人間、神の子」の真理をその人に与えること、
これが内部にある神性を外にあらわすための“栓”を抜くことになるのである。

ひとたび、その人の神性の“栓”が抜かれるならば、
栓を抜いたビールのようにその人の神性は沸騰して涌上り、
その人は「完全なる自由」を得るのである。

イエスは

「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」

と訓(おし)えているのである。

           <感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>

【人に喜ばれることをしてみましょう】 - 伝統

2018/12/30 (Sun) 04:38:10


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年12月16日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   《まわりに喜ばれる喜びは、自分が喜ぶのとは比べられない大きさです》

   人は、人の間に生きていることから「人間」と言います。
   人間として生きるということは、自分のためではなく、
   他に存在するもののために生きるということです。

   体の中に目を向けてみても、肺や心臓、肝臓、腸など
   自分のために存在する臓器は何ひとつありません。

   みな、体内の他の臓器や細胞を生かすために働いているのです。

   ひとつの宇宙が人間の体にまとまっている、ともいえるかもしれません。

   ですから、人は、この世に生れたからには自分がいかに目標に向かって
   歩み、達成するかということではなく、いかにまわりに喜ばれる存在になるか、
   ということに尽きます。

   たとえば頼まれごとをやってあげて、
   相手がにっこり笑って「ありがとう」と言ってくれたとき、
   本当の「存在の喜び」が湧いてきます。

   喜ばれることが、人間の最も根源的な幸せなのです。


   人に喜ばれることをしてみましょう。

   いちばん楽しくて、幸せなのは実は私なのではないか、と思えるに違いありません。

         <『感謝ではじまる幸せの習慣』宝島社>

              ・・・

小林正観さんは、「たのまれごと」について本書の中でこう書いている。

『自分にできないことは頼まれません。
頼みやすい人は喜ばれる存在です。

頼まれごとは、自分が汗をかいてその人の要望に応えることを言います。
頼まれたらどんどん引き受けていきましょう。

なぜなら、私たちが生まれてきた目的は
「いかに喜ばれる存在になるか」ということだからです。

それはつまり、「いかに頼まれやすい人になるか」ということです』


頼まれやすい人は、頼まれやすい顔をしている。

いつも笑顔で機嫌よく、愛のある言葉を言い、相手をほめ、ほっこりさせる。

反対に頼まれにくい人は、いつも不機嫌で、不平不満をいい、
色々なことのあらさがしばかりしている。


頼まれごとを気持ちよく引き受け…

いつも、人に喜ばれることをする人でありたい。

           <感謝合掌 平成30年12月30日 頓首再拝>

【人に喜ばれることが人生のすべて】 - 伝統

2019/01/21 (Mon) 04:38:43


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年12月31日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「喜ばれること」=「人生のすべて」です。

   ですから、達成目標や努力目標は必要ありません。

   みんなからの「頼まれごと」をしていればいい。

   そして、たくさんの人にこき使われながら、疲れ果てて死んでいく。

   ただ、それだけです。


   私たちが生きる目的は「人に喜ばれること」ですから、
   「自分に頼んできた人」は、感謝の対象になるでしょう。

   しかも、目の前にいる友人が「何かを頼んできた」としたら、
   自分から「喜ばれること」を探しにいかなくてもいい。

   そう考えると、「頼んでくれる人」はとてもありがたい存在です。


   「頼む側」からすれば、「その人に任せたい」と思って頼んでいるのであって、
   それは「感謝」を与えていることであり、喜ばれることなのです。

   そして、「頼まれごとをしてあげれば相手も喜ぶ」という、
   お互いに「喜ばれる存在」になれるのです。


   モーツァルトの曲が残っている。
   ショパンの曲が残っている。
   ベートーベンやリスト、シューベルトの曲が残っている。

   この人たちの曲はほとんど「宮廷音楽」です。

   王国貴族からの「頼まれごと」で、作曲した曲が今も残っています。

   ヴァン・ダイク、ルーベンス、ミケランジェロの絵画が残っている。

   これらの絵画もみな「頼まれごと」で描かれたものでした。
   
   そして、ルノワールも。

   後世に残るような仕事は、「頼まれごと」ばかり。

   自分の意思で「何かを成し遂げよう」とした作品(自分の思いが強い作品)の中で、
   歴史的に意味のあるポジションを占めている作品はありません。


   2007年に「人間国宝」に認定された陶芸家の中島宏さんは、
   作陶の最中、たびたび「バッハ」を聴いているそうです。

   「バッハ」がつくった音楽は宗教音楽であり、
   したがって作曲家の個性が表に出ていません。


   中島さんは、「個性を没して、個性を超えたときに作品が完成する」
   「自然に近いものをつくる」との考えを持つ陶芸家です。

   それゆえ「自我」が抑えられたバッハを好んでいるのです。

          <『もうひとつの幸せ論』ダイヤモンド社>

              ・・・

「人に喜ばれることが人生のすべて」だと考えたとき、
自分の立てた目標や夢がそれに適(かな)っているかどうかを検証する必要がある。

はたして、その目標や夢を達成したとき、人が喜んでくれるのか、と。

多くの場合、目標や夢は、自分の欲望や願望を満たすための自己満足であることが多い。

いわく、「年収〇〇円達成」「いい車を手に入れる」
「豪華な邸宅」「売上げ〇〇億円!」等々。


そして、「人に喜ばれないこと」ばかりする人は、
この世に生まれてきた意味がないことになる。

「人を傷つけるようなことをいう人」「自分勝手な人」
「人の邪魔ばかりする人」「不機嫌をまきちらす人」…。


たとえ、面倒なことを頼まれたとしても、それが法律や社会規範に反しなければ、
人に喜ばれることを、自分のできる精一杯の力を使い、淡々と引き受けていく。

それは、何も大きなことばかりではない。

ほんの小さな頼まれごとも同じ。

だからこそ、渡辺和子氏のいう、その「小さなことに大きな愛をこめる」必要がある。


また、「人に喜ばれる(人助け)」ために必要な大切な条件がある。

それを斎藤一人さんはこう語る。『カンタン成功法則』より


「人助け」をする人には、3つの条件があるのです。

この条件がクリアできていないと、人を助けることはできません。

ひとつめ。「自分を大切にする人」。
自分のことを愛して、自分を大切にしている人。
体にいいものを食べたり、適度な運動をしたりして、
自分の心と体を大切にしている人です。


ふたつめ。「自分の家を、安心して空けられる人」
(もしくは「自分の会社を安心して空けられる人」)。
家に病人がいる人は、まずその病人を助けなくてはなりません。
それから、会社を経営している人は、スタッフが、
「まかせておいてください!〇〇さんがいなくても、
僕たちがしっかり留守を守りますから!」と言ってくれるような
信頼関係を作っておくことが大切です。


みっつめ。「安心して食べていけるお金があること」。
自分がいま、経済的に困っているのなら、まずは「自分助け」をしなくてはなりません。
自分が稼げるようなしくみを、しっかり作るのです。
自分が食べていけないのに、他の人のことで大部分の時間を使うのは、
神さまの「まだ早いですよ」というメッセージです。

この3つが、神があなたに望む条件です。


人に喜ばれることが人生のすべて、という言葉を深くかみしめたい。

           <感謝合掌 平成31年1月21日 頓首再拝>

深切には、心を添えよ! - 伝統

2019/02/09 (Sat) 04:04:03


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月9日)」より抜粋

人間の深切にも物施と法施とがある。

物を与えることも時には必要であるが、
あまり物のみを与えすぎるとかえって依頼心を起こさせ、
貰うことが権利のような感恩のない状態にまで相手の心を荒(すさ)ませることがある。

物を与えるならば、《心もち》を添えて贈らなければならぬ。
紙に包み、水引を掛けるのは心持を添える方法の一つである。
人間は心もちによって生かされているのである。

機械的な「与え」の前には感恩の心は起こるものではない。

与える側からいうならば、物を贈るのに相手に感恩の心をを起こさせようと
思ってするのは不純ではあるが、相手の心を依頼心に満ちたり、
忘恩的な荒んだ心にまでならせないためには機械的な与え方をしてはならない。

勤務時間以上に働きをサービスする社員に、上役が感謝して夜食をおごったりしてくれる場合には、
いかにも上役の好意が身に沁(し)みて感謝されるが、規則によって夜勤手当というものを
定(さだ)めて、一定時間の夜勤をするする者には一定の夜勤料を支払うことに機械的に定(き)
めてしまうならば、もう誰も夜勤料をありがたく思わなくなるものである。

それどころか、時には夜勤料が少ないといって零(こぼ)すようにさえなりがちである。
与える悦びがなくなって、奪い足りないという不平に代わるのである。

生活に困っている失業者に仕事を紹介してやったら、
その当座は生命(いのち)を救(たす)けてもらったように感謝するが、
毎月月給を貰うということが機械的に度重なってくるならば、
もうぼつぼつ月給の不足を零しがちである。

感恩の心は機械的になるとしだいに薄れてくるのである。

            <感謝合掌 平成31年2月9日 頓首再拝>

報いを求めることなしに奉仕せよ - 伝統

2019/03/01 (Fri) 04:34:49


      *「光明法語」(3月1日 今、目前の仕事にサービスせよ)より

若し諸君に職業が見つからぬならば、金を得る仕事だけを職業だと思うな。
諸君の前に偶然あるところの何の仕事にでも(便所掃除でも、カド掃きでも、
障子硝子拭きでも)報いを求めることなしに奉仕せよ。

これが無条件に与えると云うことである。
やがて其処から諸君に最も必要にして適切なる仕事を得る
緒(いとぐち)が得られるであろう。

神は決してケチではないのである。
人間が与えることにケチなのである。

そして入り口をひらかないものだから神の恵みが流入しないのである。

            <感謝合掌 平成31年3月1日 頓首再拝>

他を喜ばす心がけ - 伝統

2019/03/17 (Sun) 04:43:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月17日)」より

皆さまにお気に召すようにお化粧してまいりましょう。

この心がけに家庭平和の秘訣もあれば、商売繁盛の秘訣もある。

皆様を喜ばす心がけが中心となる。技巧に走れば虚飾になる。

            <感謝合掌 平成31年3月17日 頓首再拝>

人生に与えられた贈り物、与えていく贈り物 - 伝統

2019/03/26 (Tue) 02:05:02


          *Web:今日も良いことがあるように(2019/03/09)より

『人生を変えた贈り物』という本のはじめに感動的な話がでてきます。

要約してご紹介します。

   アメリカ、ある年の感謝祭の日、その貧しい家庭には
   食卓を飾るごちそうが何もありませんでした。

   夫婦は互いに怒りに満ちたトゲトゲしい言葉を投げつけ合い、
   暗く沈んでしました。

   まだ少年だった長男は、そんな両親を見ながら
   無力感に打ちひしがれていました。

   そこへ、運命のノック。

   少年がドアを開けると、よれよれの服を着た見知らぬ男が
   両手いっぱいにお祝いのごちそうの入ったバスケットを抱えて
   立っていました。

   「あなた方がお困りだと聞いたある方からの贈り物です。
   あなた方を愛し、気にかけている者がいるのを知ってほしいのだそうです」

   男はそう言いましたが、一家の主は受け取ろうとしません。

   「わたしはお届けするように言われただけなのです」

   男はそう言うと、笑顔でバスケットを少年に渡し言いました。

   「感謝祭、おめでとう」

   その瞬間から、少年の人生は変わりました。

   このときの感謝の気持ちが、少年の心を深く動かし決意させたのです。

   「いつか自分もこんな贈り物ができるようになろう」と。



   18歳になったとき、少年はその誓いを初めて実行しました。

   自分で稼いだなけなしのお金で、食料品を買い、
   わざと古ぼけた服を着て、その日の食べ物にも困っている、
   ある家族のもとへ届けました。

   この家の子どもは6人。父親は数日前に家族を捨てて出て行き、
   家にはまったく食べ物がありませんでした。

   「お届け物です」

   子どもたちは、少年が家に運ぶる数々の食料を見て歓喜しました。
   ラテン系の母親は、少年を抱きしめ、片言の英語で言いました。

   「あなた、贈り物、神様から。あなた、贈り物、神様から」

   「違うんです。ぼくはただの配達係です」

   そして少年は、これは友人からだと言って、
   メッセージを手渡しました。

   感謝祭を楽しんでください。

   あなたたちはそれにふさわしい人です

   自分たちが愛されていることを知ってください。

   そしていつか、もし機会があれば、
   同じように誰かに贈り物をしてください。

   その家族が興奮と歓喜にあふれ笑顔となる様子を間近に見て、
   少年は涙があふれでてきました。

   そして、気づきました。

   子どもの頃のあの「悲惨な日々」は神様の贈り物だったのだと。

   あの日からずっと、人に尽くすことで
   満足を得る人生へと自分は導かれてきたのだと。



   少年は、その日から今日まで、大きな目的をもった旅を続けています。

   その目的とは、自分と家族に届けられた贈り物を別の誰かに届けること。

   そして、思い出してもらうこと。

   辛い状況を変える道は必ずある。

   あなたたちは愛されているのだと・・・。

   この少年は、アンソニー・ロビンズという人です。

   彼は大人になり、事業を成功させました。

   そして、いま世界的な講演者、カウンセラー、トレーナーとなっています。

   クリントン前大統領、故レーガン元大統領、故ダイアナ妃、
   テニスプレーヤのアガシ、俳優のシュワツネッガー州知事など、
   彼の教えを受けた世界的リーダーは多数いるそうです。

(以上が、要約の紹介でした)


さて・・・

わたしたちのことを考えてみましょう。
わたしたちにもあるのではないでしょうか。

自分に贈られた物が・・・、
ごちそうでなくても、目に見えるものだけでも、

いくつも、いくつも・・・・。

ですからわたしたちも、きっとできると思います。
自分に届けられた贈り物を別の誰かに届けること。

豊かな心で誰かを思うこと。

贈り物は、ごちそうでなくてもいいのです。

お金のかからないものでもいいのです。

一つの言葉でも、

一本のメールでも、

一枚の葉書きでも、

あなたが心を添えて届けることで、
誰かを幸せな気持ちにすることはできるのです。


    自分に贈られた物を他の人にも分け与えよう。


その贈り物があなたとその人の人生を変えていきます。(^.^)

出典:アンソニー・ロビンズ著『人生を変えた贈り物』

( https://lucky.t-nakai.work/2019/03/09/story-37/ )

            <感謝合掌 平成31年3月26日 頓首再拝>

喜んで献ぐる - 伝統

2019/04/06 (Sat) 02:06:14


           *「光明道中記」(4月6日 喜んで献ぐる日)より

【全体と個との融合を実際の生命の体験として掴むことが宗教である。
                     (『生命の實相』第十三巻)】

本当の太陽は、昼に非ず、夜に非ず、昼夜を超えて照々として輝く。
それは決して火の玉にあらずして宇宙に満つ。

樹木の中にも太陽あり、吾々の体中にも太陽のエネルギーあって輝く。
太陽を一個の盆大(ぼんだい)の火の玉と見るは、
吾々の五官を通して見たる一面識なり、相対観なり。

太陽は何故かくの如く万物のうちに満つるか。
それは太陽は万物に光を与え生命を与えるからである。

吾等もまず自分が本当に全世界的に伸びようと思うならば、
みずから進んで全世界に自身を与えなければならない。
与えるものだけが、その相手を自分のものとするのである。

伸びようと思う者よ。伸びるためには今迄他から自分へ奪いとることによって
自己が拡大すると思っていたのである。
然(しか)るに今では他に与えることが自己を拡大することであると判ったのである。

一個の何の功労もない女性が、一家の主人公に身を献(ささ)ぐれば、彼女は一家の
主婦としてその一家を自由に処理し、又は管理するところの権力を得る。
身を献げたる女性は男性に縛られたように見えるが、
実は、男性を自由自在に支配する力を得る。

伸びるとは与えることである。

            <感謝合掌 平成31年4月6日 頓首再拝>

「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」 - 伝統

2019/04/09 (Tue) 04:27:58


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月9日)」より

なんだか利用されているような気がするときに、
腹立つ人と、つまらなく感ずる人と、喜べる人とがある。

イエスは「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」と言った。
彼は利用されることを喜びに感ずる人であったのである。

利用されること多きものほど尊ばれる。
利用する道のなくなったものを廃物という。

            <感謝合掌 平成31年4月9日 頓首再拝>

自利利他の善行を積む日 - 伝統

2019/04/23 (Tue) 03:49:45


           *「光明道中記」(4月23日)より

【すべて形に執われて来るとき生命を生かす事が出来ないのであります。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

来る人は一人で来ないで是非知人を伴って来て戴きたい。
自分だけ善い話を聞いて救われたいと云う利己主義と云う程でもないが、
独善であり、消極的であり、羅漢の程度の境地である。

自利利他の功徳を計ることになって菩薩の境地に入る。
「利他」にして初めて潜在意識の世界に善行の種を蒔いたことになる。
心の世界に蒔いた種は決して滅びるものではない。

子孫に美田を遺してもその美田は滅びるであろう。
併し心の世界に蒔いた善行(たね)は滅びはしない。

私の叔父さんに福松と言って畸人(きじん)があった。
神道の神主で少講義かなんかの低い役目をしていたが、施しが好きであって
何時(いつ)も貧乏で見窄(みすぼ)らしい服装(なり)をして歩いていた。

人が気の毒に思って紋付の羽織などを着せてやるとその翌日には
もうその紋付の羽織を着ていなかった。

「どうしたのか?」と訊くと
「憐れな人があったから与えた」と答えるのが常であった。

この叔父さんには自分自身を良くすることなど考えて見たこともなく、
ただ隣人を愛していたのであった。

            <感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>

【知らない誰かへの贈り物のように情報発信をする】 - 伝統

2019/05/12 (Sun) 04:06:43


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年02月27日)より

   (堀正岳氏の心に響く言葉より…)

   最初のひらめきは、どんな情報がバズるのか、
   あらかじめ知ることは困難だという点です。

   あらかじめわかっているならば誰もがそれについて発信するわけですから、
   書き手はその記事に人気が出るかどうかの確信もないまま、
   先に情報をウェブ上に置くことが必要なのです。

   また、ウェブにおけるコンテンツの多くは無料で、
   読者を得る機会という意味では公平性があります。

   だからこそギブ&テイクを考えすぎて出し惜しみしをしていては、
   他の出し惜しみをしない人に機会を奪われてしまいます。

   情報発信は誰に求められずともギブからか始めることだということが
   理解できたわけです。


   もう一つのひらめきは、
   情報は誰かに発見されることによって価値が生まれるという点でした。

   サーバー上に寂しく存在するデータのままではそれは存在しないも同然で、
   誰かがそれを発見し、他の誰かにシェアすることによって
   情報の価値は後付けで決まってゆくという力学が、実感として感じられたのです。

   たった一つの記事から世界が変わった事例も、数多く存在するわけです。


   これらのひらめきをまとめると

   「知らない誰かへの贈り物のように情報発信をすること」

   という指針がみえてきます。

   そのへんに転がっているありきたりなものを贈られても、
   それを押し付けられた側は気まずい雰囲気になるだけです。

   むしろ、あなたの個人的な「知的な積み上げ」が生み出した新しい情報を、
   あなただけに見えている世界を、親しい人への手紙がそうであるように、
   求められる前に先に発信することによって情報発信は贈り物になります。


   これは実際的な利点のある戦略でもあります。

   ジャーナリストのクレイ・シャーキーは
   『みんな集まれ!ネットワークが世界を動かす』のなかで、
   従来の「作家」や「ジャーナリスト」といった肩書きが、
   出版できる人や取材対象へのアクセスが許された人々が少数である
   という前提の上に成り立っているかりそめのものであることを指摘しています。

   出版の仕組みがブログやソーシャルメディアといった形で普遍化し、
   取材方法が多様化すれば、誰にでも作家やジャーナリスト的な役割を
   演ずることが可能になり、その情報の価値は内容によって評価される
   ことになるわけです。

   このように情報の発信に対する参入障壁が下がっている状態を、
   情報や出版の「民主化」などと言ったりします。

   自分の発見や考えを発信することを通して、
   たった一人の知的生活の成果を世に問うことが可能になっているのです。


   しかしまずは、贈り物のように、
   見返りを期待することなくギブするところから始めなければいけません。

   それが運良く誰かのもとに新たな刺激として伝わるなら、
   知的な積み上げは、贈り物のような発信を通して
   一つの閉じた円環のようになり、どこかの誰かの、
   次の積み上げに役だっていきます。

   また、その発信に対する応答が結果的に想像もしなかった場所から帰ってきて
   あなたを驚かせることもあるでしょう。

   これほど痛快なことも、なかなかないと思いませんか。

         <『知的生活の設計』KADOKAWA>

             ・・・

堀氏は、「知的生活」には記録すること自体が価値になるという。

知的な積み上げだ。

つまり、本だったら月に何冊読んだか、それを記録しSNSでアウトプットする。

音楽だったら、映画だったら、とそれらの情報を積み上げていく。

数字と量を意識することで、5年、10年たって、長い目でみて、
自分がどれだけ成長したかを知るということ。


現代は、あらゆるものが「ライフログ」という、
生活をデジタルデータとして記録することが盛んだ。

体重や歩数の記録、映像の記録など、
最近では、ブログや家計簿アプリなどもライフログと呼ばれる。

つまり、日々の行動記録(履歴)のことだ。

生活や生き方を数字として「見える化」することは、
自分を客観的に知るための大事なツールだ。


「知らない誰かへの贈り物のように情報発信をする」

情報発信は、「キュレーション」という集めた情報をつなぎ合わせて、
別の新しい価値をもたらせて共有することでもある。

ケチケチせずに、自分の知り得た情報を発信し続けたい。

           <感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>

「地獄と極楽、見学ツアー」で幸せについて学ぶ - 伝統

2019/06/11 (Tue) 03:01:30


      *Web:今日も良いことがあるように(/2019/03/26)より

誰かかから聞いて不思議と心に残った話があります。

私も、少し脚色して講演で話すことがあります。

こんな話です。


   ★地獄と極楽、見学ツアー

   Aさんが「地獄と極楽ってどういうふうに違うんだろう」と考えていました。

   すると、お釈迦さまが、
   「では、地獄と極楽の見学ツアーに連れて行ってあげよう」
   と言い連れて行ってくれました。


   まず、地獄です。

   地獄には、丸いテーブルの上にたくさんのご馳走が並んでいました。
   Aさんが思わず喉をごくりと鳴らしてしまうほど、おいしそうです。

   しかし、ご馳走を取り囲む地獄の人たちは、すごく不機嫌そうです。
 
   どうしてだろう、とAさんは不思議に思いましたが、
   いよいよ食事の時間になると、その訳がわかりました。

   地獄の人たちは目の前のご馳走を、
   2メートルくらいの長―い箸を使って食べなくてはなりませんでした。
 
   その箸を使って、食べ物をつまむのは容易ではありません。

   なんとかつまめても、自分の口に運ぶのはさらに難しい。

   せっかくつまんだご馳走を、途中で落としてしまうことがほとんどです。

   しかも、隣の人の肩にひじが当たったり、
   隣の人の腕が自分の体にふれたりすることも多いのです。

   そうなれば、隣同士で
   「お前のせいで、落としたじゃないか」
   「いや、お前が悪い」
   と言い合いになり、
   果ては叩きあい殴り合いのケンカになります。
   そうこうしているうちに、食事の時間は終わります。

   地獄の人びとは、ほとんど何も食べることができず、
   欲求不満のまま。顔も体もあざだらけで、
   まだケンカをしている人があちらこちらにいます。

   お釈迦さまが言うには、
   地獄の人びとはそんなことを毎日繰り返しているのだそうです。



   次にAさんは極楽に案内されました。

   Aさんは極楽を見て、おやっと思いました。

   というのは、極楽もさっきの地獄同様に、
   丸いテーブルの上にたくさんのご馳走が並んでいて、
   その脇に2メートルくらいの長―い箸が置いてあったからです。

   しかし、違っていたのは、テーブルを取り囲む極楽の人びとの表情です。

   皆、にこにこして、実に幸せそうでした。

   どうしてだろう、とAさんは不思議に思いましたが、
   食事の時間になると、その訳がわかりました。

   極楽の人たちはご馳走をつまむために、
   やはり長―い箸を使わなくてはなりませんでした。

   しかし、つまんだ食べ物を自分の口ではなく、
   テーブルをはさんだ前の人の口に運んであげていたのです。

   すると、その人は「ありがとう」と感謝し、
   そのお礼に自分の箸で食べ物をつまみ、
   相手の人に食べてもらっていました。

   そういうことを誰もが互いにやっていたのです。

   極楽では、まず人のことを思いやっているようでした。

   仮に、箸を使っているときに隣の体がふれあうことがあっても、
   「あっ、ごめんなさい」と互いに謝り不愉快なことにはなりません。

   そうして食事の時間が終わるころには、極楽の人びとは、
   ご馳走を存分に食べて満足し、食事を通して互いに仲良くなります。

   だから、いつも幸せそうな顔をしていたのです。



地獄の人は、自分だけのことを考え、奪おうとする人びとです。
その結果、幸せにはなれません。

極楽の人は、人のことも考えて、まず与えようとする人びとです。
その結果、幸せになれます。

一つの法則があります。

「与えると、与えたものにふさわしいものが返ってくる」

という法則です。

たとえば、「おはよう」とあいさつをすると、
ふつうは、「おはよう」と返ってきます。

笑顔であいさつすると、
相手からも笑顔が返ってくることが多いものです。


聖書にこんな言葉があり、幸福の黄金律と言われています。

   「だから、人にしてもらいたいと思うことはなんでも、
   あなたがたも人にしなさい。」(マタイによる福音書7-12)


自分が人にこうしてもらいたいなと思うことをしてあげると
きっとその人は喜んでくれるでしょう。

そして、その人はお返しにあなたにも何かしてあげたいと思うでしょう。

でも、その人自身がお返しできるとは限りません。

長い時間をはさんで、別の形で返ってくるかもしれません。

私は必ず何らかの形で返ってくると信じています。

ただ、人に見返りを期待して与えると、
すぐに見返りがなれば、むなしくなることがあるでしょう。

ですから、最初から見返りを期待しない方がいいのです。

世の中の親の多くは、少しも見返りを期待せずに、
子どもに自分のもっているものを与えます。

相手の幸福を望む気持ちがあれば、
与えること自体が、与える人に喜びをもたらすものです。

与えるといっても、何を?

人は自分のもっていないものを与えることできません。

自分のもっているものです。

与えるものは、誰でももっています。

《あなたの中にある素晴らしい能力、優しい心・・・。》

それらを眠らせておくのは、もったいないのです。


与えることは、誰でもできます。

《言葉を通して、笑顔を通して、行ないを通して・・・。》

きっと何かができるのです。

与えて喜んでもらうことを考えよう。

与えると与えられます。 (^.^)

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/03/26/story-42/ )

           <感謝合掌 令和元年6月11日 頓首再拝>

よき「行為(おこない)」の種を蒔け - 伝統

2019/06/17 (Mon) 04:17:08


         *「光明法語」(6月17日)より

   「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、
   一つの「行為」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。
   それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。

   また「思い」の方ではそんなに深切な気持ちが起こっていないにしても、
   そこに思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、
   不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。

   そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、
   常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。

   又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。
   感謝は感謝の共鳴を喚(よ)び起こすのである。

           <感謝合掌 令和元年6月17日 頓首再拝>

【何かを与えられるような人】 - 伝統

2019/07/09 (Tue) 04:29:02

   
        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年05月18日)より

   (樺旦純氏の心に響く言葉より…)

   「毎日、残業して働いているのに、会社は自分を評価してくれない」
   「夫は私を理解してくれない」
   「妻は身勝手なことばかり言う」

   そう不満をこぼす人は少なくない。

   人は生きている限り、集団生活を強いられる。

   その中でうまくやっていくには、適応性だけでなく、
   相手の要求が何であるか、読み取れる能力が必要だ。

   大きな不満が生ずる原因は、相手の要求を正しく察知できないことにある。


   たとえば、あなたがヘッドハンティングをする仕事についたとして、
   どんな人間を引き抜こうと思うだろうか。

   才能、成績、職務態度、学歴、年齢…これらのうち、
   もっとも重視するのは、やはり実績だろう。

   年齢や経験よりも、その人が現在の会社にどれだけ還元しているか…
   すなわち社内価値をみるはずだ。

   そして、それが他の会社でも十分に通用できるものかどうかを検討する。


   その人の能力に対して、相手がどれだけ報酬を払うかということを市場価値というが、
   通用するのであれば、その人の市場価値は高いと判断できる。

   ただし、報酬と能力が比例するとは限らない。

   優れた能力をもっていても、
   会社に還元しなければ、それに見合った評価しか得られないだろう。


   「こんな会社に入るべきじゃなかった」「運が悪かった」と嘆いている人は、
   会社が求めているのは、与えられた仕事を真面目にこなしている人間ではなく、
   与えられたら、それを10の利益にして返してくれる人間である。

   人々が期待する以上のことをやってみせる行動力のある人は、
   集団の中でもイニシアティブを持ち、周囲に進歩をもたらす。

   状況を自ら切り開いていける人、人々にも何かを与えられるような人に、
   より大きな幸運が訪れるのだ。

          <『運のいい人の習慣』KKロングセラーズ>

           ・・・

不満が多い人は、「何かを与えてもらう」のに慣れてしまっている人だ。

自ら与えることをしないで、与えてもらってばかりいるとそれが当たり前になる。

その当たり前が少しでも損なわれると、不満になる。


「魅(み)は与によって生じ、求(ぐ)によって滅(めっ)す」

という無能唱元師の言葉がある。

人の魅力は、与えることによって発生し、
人から取ろうとするとそれは即座に消えてしまう。


魅力ある人は、惜しみなく与えている。

みんなの役に立ちそうな話、面白い話、儲かりそうな情報、等々をタダで教える。

多くの人に、何かを与えられるような人でありたい。

           <感謝合掌 令和元年7月9日 頓首再拝>

『長者の法則』 - 伝統

2019/07/26 (Fri) 04:19:33


       *Web:とみ太郎(山富浩司)ブログ(2015年8月4日)より

「長者の法則」によると
長者(お金持ち)は、そうではなかった不遇な時から
「先に与える」ことを意識されていた方がほとんどだそうです。


「お金持ちになったら募金する」という方はお金持ちになれないそうです。
そうでない時から募金を続けることが、お金持ちになる近道だそうです。

私の尊敬する「師」はみな愛の人であり、「与える人」です。

『長者の法則』とは「先に与える」ことです。

「え~、そんなの100万回聞いたよ~」

そんなお声が551人から聞こえてきました(笑)


でも「知っている」のと「している」のは違うんです。
かつての私は「知っていても」していませんでした(汗

最初は抵抗もあったのですが、「先に与える」ことを恐る恐る始めてみました。
驚くことに、その後は「引き寄せ」が起こるようになってきたんです!


「与える」ものはお金である必要はありません。
心のこもった言葉、優しい気持ちでもかまいません。

目の前にいる人、まだ見ぬ人に「先に与える」ことが、
幸せを引き寄せる近道なようです。

お金をもらっている仕事でも、そうでない場面でも、
究極は「今この瞬間」「今目の前にいる人」に
全力で心を込めて対応できるかが鍵です。

まさに「和の心」なんですね。

仕事を「お金を得るため」にしている方は、
10年経っても「お金を得るため」に「しんどいなぁ~」と思いながら
仕事をしていることでしょう。

以前の私はそうでした(笑)

その時は『引き寄せ』はまったく起こりませんでした。


ある時から「お金を得るため」から
「目の前の人に喜んでもらう」ことに考え方、行動を変えました。

期せずして『引き寄せ』が起こるようになってきました。

仕事を「目の前の人に喜んでもらう」ためにしている人は、
10年経つと大幅な昇格と昇給もしくは会社を興していることでしょう。

毎日が幸せに包まれていることでしょう。

「先に与える」人は、1カ月、1年と経つうちに大きく結果が違ってきます。

夢を引き寄せる近道『長者の法則』を実践していきたいですね。

今日もたくさんの幸せの種が降り注ぎますように。

あなたは、もっと幸せになっていいんです!

    (http://tomitarou.com/my-calendar/?p=450 )

           <感謝合掌 令和元年7月26日 頓首再拝>

「ほほえみ」が人を幸せにする - 伝統

2019/08/11 (Sun) 04:35:12

        *Web:今日も良いことがあるように(2019/05/16)より
             ~「ほほえみ」という詩(ロバート・バー)

古いファイルにふと、
ロバート・バーという作家の「ほほえみ」という詩を見つけました。

誰かの本に紹介されていたのを20年くらい前に、
「これ、いいなあ」と思って、記録しておいたものです。

何度読んでも、いい詩です。

ゆったりと、味わっていただければ幸いです。

きっと心が温かくなってきますよ。



   《ほほえみ》

   ほほえみ
   それは一文も元手はかからない
   しかし おどろくべきものを人に与える


   ほほえみ
   それは人に与えても一向に減りはしない
   しかし もらった人を限りなく豊かにする


   ほほえみ
   それは人生のあらゆる問題に対して神の与え給うた妙薬である
   しかし このほほえみは、金で買うことも、人から借りることも、
   盗みとることも出来ない


   ほほえみ
   それを生み出すのに時間は少しもかからない
   しかし それを受けた人の記億の中には永遠に残ることさえある


   ほほえみ
   これがなくても生きてゆけるほど強い人は、この世にいない
   これがなくてもいいほど豊かな人もいない

   
   ほほえみ
   それは家庭の中に幸福を作り出し
   職場に善意をつちかい友情をやしなう


   ほほえみ
   それは 疲れ切った魂に安息を与え、悲しい心に光をもたらす

   それはあなたの心の奥底から湧き出して
   惜しげもなく与えられた時だけ値打ちが出てくるものである


   ある人々は
   あなたに ほほえみを与えることができないほど 疲れている

   だから
   その人に ほほえみを あげることの出来るのは あなたです



やはりいい詩です。

   【あなたのほほえみが、人を幸せにします。 (^.^)】

    ( https://lucky.t-nakai.work/2019/05/16/word-59/ )


           <感謝合掌 令和元年8月11日 頓首再拝>

“与える”と“受ける”との相補的調和 - 伝統

2019/08/24 (Sat) 04:51:44


        *『人生の秘訣365章』第2篇(P64~65) より

“与える”と“受ける”とは
一つの善行又は愛行の両極であると謂えるのである。

受けてくれる者がなければ
“与える”悦びを味わうこともできないのである。

だから“与えた者”は“受けた人”を軽蔑してはならないし、
優越感を味わってもならないのである。

“与える”といっても、みんな神から預らして頂いている物を
相手に回しただけであるから、与えることが出来たとき、
神に感謝をし、又“受けた人”に感謝するがよい。

相手を劣等視したり、軽蔑したり、自分が優越感を味ったりしたら、
その善行及び愛行の価値は消えてしまい、
福田として残るものは何もなくなるのである。

与えることができたことを神に感謝し、
また受けてくれた人に感謝したとき、
はじめてその“与えた行為”が円相となるのである。

           <感謝合掌 令和元年8月24日 頓首再拝>

善意を人に与えた時のみ幸福になり得る - 伝統

2019/09/05 (Thu) 04:08:54


      *「青年の書」(P48) より

吾々はただ善意を自分自身に持っているだけでは幸福ではないのである。
その善意を人に与えた時のみ幸福になり得(う)るのである。

吾々は喜びを自分自身の中に持っているだけでは幸福になれないのである。
その喜びを人に頒(わか)ち、人に与え、人に語る時のみ、
本当の喜びが感じられるのである。

吾々は富を金庫の中につめこんでおくだけでは富の幸福を味合えないのである。
それを出して人を喜ばせた時のみ、富の幸福が味わえるのである。

善き心情を与えた時、善き心情が我がものとなる。

しかし善き心情も自分が持っているだけでは
決して自分を幸福にすることも他(ひと)を幸福にすることも
できないのである。

吾々は善き心情をあたえなければならない。
善き心情を与えた時のみ、善き心情がわがものとなるのである。


 (https://blogs.yahoo.co.jp/ienobu283/13157603.html より転写)

           <感謝合掌 令和元年9月5日 頓首再拝>

あらゆる方面に神の愛を与えるのだ - 伝統

2019/09/14 (Sat) 05:00:49


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月14日)より

人の物を値切るようなケチな心を起こしてはならない。
値切る心は値切られるのである。

あなたの得た物(または人)の値打ちだけを
十分与えるように心懸けなければならない。

値打ちだけを買い取り、値打ちだけを支払い、
しかも自分もできるだけ力を尽くして奉仕するのだ。

ただ金だけ出して与えたつもりになっていて
怠惰や放漫になってはならないのである。

与えたけれどもそれが浪費になったという場合は、
自分が知恵を出さず、愛を出さず、生命力を注がないからである。

ともかく、与えることをできるだけあらゆる方面に試みてみよ。
「返って来る」というような予想なしに神の愛を与えるのだ。

          <感謝合掌 令和元年9月14日 頓首再拝>

小さな仕事を任されたとき - 伝統

2019/09/29 (Sun) 04:47:01


        *Web:今日も良いことがあるように(2019/07/09)より抜粋

   神様が私に望んでいらっしゃる仕事からは逃げない。

   そしてどんな小さな仕事でも、
   心と力と意の三つを全部使ってベストを尽くす。

   そして、周りの方たちを自分のように大切にする。

   そういうシンプルな生き方を貫いてきました。

               辰巳芳子(料理研究家)


月刊誌『致知』の
辰巳芳子さんと(料理研究家)と中谷健太郎さん(亀の井別荘相談役)の
対談からの言葉です。

辰巳芳子さんは、1924年生まれで、当時90歳。

いまなお現役を貫く料理研究家の第一人者です。

辰巳さんは、常に順風満帆な人生を歩んでこられたわけでなく、
結核を患って、25歳の時から15年ほど療養生活を送っていらっしゃいました。

その時の辛い話は、対談の中には出てこなかったのですが、少しは想像できます。

当時、結核は「死病」と言われていました。

いつ治るのかは定かではなく明日、生きていられるかも、わからず、
不安と焦燥の辛い日々を来る日も、来る日も送ってこられたことでしょう。

それを15年間。

幸い、40歳の時に病気が快復しました。

以後、料理研究家であったお母さんの料理教室を手伝うようになり、
その道をひたすら邁進されました。

人の生きる力を支える食への提言もされるようになり、
その1つ「大豆100粒運動を支える会」は全国の小学校に広がっています。

冒頭で紹介した言葉に続けて、辰巳さんはこう言われます。



   「私はこれからも神様のお望みを果たすこと、それだけを思って、
    その時、その瞬間に与えられた役割を精いっぱい果たしていきたい
    と思います。」



さて、私たちにも神樣が望まれていることがあるはずです。必ずや。

辰巳さんの場合、これまで人から頼まれた仕事だけをやってきたとのこと。

きっと私たちの場合も、
神様のお望みは、人からの頼み事、お願い事としてやってきます。

つまり、人助けです。

困っている人を助けることは、きっと神樣のお望みなのです。

小さなことでいいのです。一人のためでいいのです。

身近なことで、私たちにもできることがきっとあるはずです。

【出典】月刊誌『致知』2016年5月号
「一道を歩み続ける我が人生の心得」辰巳芳子著
『食に生きて:私が大切に思うこと』

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/07/09/word-76/  )

          <感謝合掌 令和元年9月29日 頓首再拝>

【他人の自己重要感を満たすこと】 - 伝統

2019/10/14 (Mon) 03:56:25


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.10.07)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   楽しくて、楽しくて、しょうがないというストーリーは、
   まず他人の自己重要感を高めることから始まります。

   この世で人間が一番求めているもの、それが自己重要感です。

   だから、普通の娘さんたちはお嬢様になりたがるし、いい車に乗りたがる。


   でも、人というものは、どうしてだかは知らないけれど、
   他人の欠点ばかりに目がいってしまう。

   他人の自己重要感を満たそうとはしない。

   奪うことばかりを考えるのです。


   でも、そんなことにエネルギーを使うのは無駄です。

   他人の自己重要感を奪って、
   自分の自己重要感が満たされることはありません。

   そんなことはやめたほうがいい。

   人の欠点を百個見つけたところで、あなたの生活は一向によくなりません。

   そんなエネルギーがあるのなら、
   もっとほかの使い道を見つけたほうがあなたのためになります。

   自分のためになるし、世間も喜びます。
   あなたを賞賛します。

   他人に自己重要感を与えることができないのは、
   自分が完璧な人間だという自信がないから。


   相手が持っている「良いもの」を見つけて
   褒めるということです。

   たとえば、相手の髪の毛を見て、それが綺麗だったら、
   相手に言うのです。

   「あなたの髪の毛は綺麗ですね」

   そう言われると、相手は喜びます。


   ですから、私は、うちの会社の人間たちに、

   「人を褒めなさい。いいところを見つけなさい」

   と言うのです。

   ところが、人のいいところを見つけることは、
   簡単そうで、とても大変なことです。

   1日に5人しか褒められないかもしれないし、
   1週間にたった1人かもしれない。

   でも、神様は、そのことをやり続けているあなたのことを見ています。


   私はここ数年、実業家部門では納税額が日本一です。

   すると、一緒の席でご飯を食べただけでも、みんなが喜んでくれる。

   褒めやすくなったのです。

   人に重要感を与えやすくなったのです。


   ということは、神様は、私に、

   「もっと働け、もっと、もっと、働いて、人に自己重要感を与えなさい」

   と言っていることになるのです。


   偉くなる、それは自分の自己重要感を満たすことではありません。

   人に重要感を与えるために、
   今までの何倍も何倍も働けということなのです。


   人は、自己重要感に浸れるとき、幸せを感じます。

   社長から、部長から、課長から、

   「君が頑張ってくれるから本当に助かるよ」

   と声をかけられれば、

   「自分は重要な人間なんだ。
   私が頑張ったから会社の業績が伸びたんだ」

   と考えるでしょう。

   そう考えると、嬉しいでしょう。

   それが大切なことなんです。


   そんなことをしながら、一つ、また一つと階段を上る。

   一人でも多く、もっと多くの人に自己重要感を与えるのです。


   私もそうやって、今のように
   人に対して重要感を与えることができるようになりました。

   昔、私は褒めるところは自分で見つけなくてはいけませんでした。

   それが今では、どこに行っても、皆が喜んでくれるのです。

   段々、人を褒めやすくなったのです。

   やりやすくなったということは、「もっとやれ」ということです。


   うちの会社の社員は、私に会いたがります。

   私と一緒にいたがります。

   それは、私は社員の自己重要感を傷つけようとはしないから。

   そして、私といると、自己重要感が上がるからです。


   どんなに偉い人であっても、
   人の自己重要感を傷つけるようなことをしていたら、

   「もう一度、顔を見たい」

   とは思いません。

   顔を見るたびに、いつも社員を怒鳴り散らしているより、
   いつも人の自己重要感を満たしてあげていたほうがいいのです。

   いつも怒られてばかりでは、「この人のために何かしよう」
   という気持ちになるはずがありません。

          <『変な人の書いた成功法則』総合法令>

          ・・・

人は、誰もが自分の自己重要感を満たしたいと思っている。

それは自分の心の奥底にある、

「自分は人より優れたものを持っている」、
「自分は価値ある存在である」、
「人から尊敬してもらいたい」

という思いがあるからだ。


相手の自己重要感を高めてくれる人は、

「口をはさまず、最後までしっかりと聞いてくれる」、
「ニコニコしながら、まるごと肯定してくれ、認めてくれる」、
「心の底から褒めてくれる」、
「驚いたり、感動したりしてくれる」

ような人だ。

だからこそ、自己重要感をみたしてくれる人には、限りない魅力がある。


魅力は「与える人」にしか生じない。

人の話を聞くという「傾聴」も、あたたかな「笑顔」や、
優しい愛ある言葉「愛語」も、すべて人に与える行為。

つまり、「与えること」が相手の自己重要感を高めることになる。


そしてそれを、年齢や経験を重ねた人がやると効果は非常に高い。

なぜなら、年齢や地位が上がると、
多くの人は「偉そう」になってしまうから。

いくつになっても、人に惜しみなく与えることができる人は、謙虚な人。


「幸せになりたいなら、まず周りの人たちを幸せにすることを考えましょう。
人間は、誰かを幸せにすることによってしか、幸せになれないからです」
(マザー・テレサ)

他人の自己重要感を満たすことができる人でありたい。

          <感謝合掌 令和元年10月14日 頓首再拝>

善意を人に与えた時のみ幸福になり得る - 伝統

2019/10/25 (Fri) 02:37:34


       *「青年の書」(P48)より

吾々はただ善意を自分自身に持っているだけでは幸福ではないのである。
その善意を人に与えた時のみ幸福になり得(う)るのである。

吾々は喜びを自分自身の中に持っているだけでは幸福になれないのである。
その喜びを人に頒(わか)ち、人に与え、人に語る時のみ、
本当の喜びが感じられるのである。

吾々は富を金庫の中につめこんでおくだけでは富の幸福を味合えないのである。
それを出して人を喜ばせた時のみ、富の幸福が味わえるのである。

善き心情を与えた時、善き心情が我がものとなる。
しかし善き心情も自分が持っているだけでは
決して自分を幸福にすることも他(ひと)を幸福にすることもできないのである。

吾々は善き心情をあたえなければならない。
善き心情を与えた時のみ、善き心情がわがものとなるのである。

          <感謝合掌 令和元年10月25日 頓首再拝>

《与えよ、さらば与えられん》 - 伝統

2019/11/09 (Sat) 05:00:58


       *『人生の秘訣365章』第3篇(P82) より

何事でも、それを完全に成就しようと思うならば、
先ず与えなければならないのである。

それに時間をかけ、エネルギーを注ぎ、興味と熱情とをもち、
それを成就するに必要な資材となり得る自己の持てる凡ゆるものを
それに集中しなければならない。

そして、それは必ず成就すると信じなければならないのである。

信念なきもの、それに全生命を注ぐほどの興味も熱意もなく、
ただ金儲けの手段とする仕事に、時間をかけ、
エネルギーをかけることをするようなことでは、
本当に偉大なる仕事を成就することはできないのである。

人は自己がそれに智慧と愛と生命とを注いだだけのものを
穫(か)り取るのである。

          <感謝合掌 令和元年11月9日 頓首再拝>

《愛を与えれば魂の底から悦びが湧いてくる》 - 伝統

2019/11/23 (Sat) 04:58:53


         *「真理」第9巻生活篇(P371~372)より 

若し、私たちの生活に何か不満足や不平の感じが起こるならば、
それは「愛」が欠乏しているからです。

「愛」を受けることが欠乏しているばかりでなく、
「愛」を与える事が欠乏しているのです。

このような状態を改善するには、先ず誰かに自分自身の「愛」を
「深切」を与えることを実践することです。

其処から不思議な喜びが魂の底から湧き上がってくるのです。

「愛」を与えられないのは、こちらが「愛」を与えないからです。
しかし自分が「愛」を与えているのに、その人は私に「愛」を
与えてくれないと嘆く人もあるでしょう。

それは愛を与えているのではなく、其の人に執着しているのです。
執着は「愛」ではなく、「ねばり附き」ですから、
相手に窮屈な感じを与え、相手は自分から離れ去ろうとするものなのです。

愛するとは其の人の幸福のために 何も求めないで 自分を放ち去ることです。

          <感謝合掌 令和元年11月23日 頓首再拝> 

「公(おおやけ)」なものに奉仕する - 伝統

2019/12/10 (Tue) 04:43:10


     *「光明道中記」(12月10日《自然に栄える日》)より

【神が商売をするので自分は神様の番頭だと思いて経営すれば繁昌する。
                    (『生命の實相』第九巻)】

家族の幸福を希(ねが)い、子孫のために或る程度の蓄財を為すことは、
ともに自然の人間の衝動であって、何ら咎(とが)めるべきではないのである。

生長の家は出家道ではない、家を生長せしむる道である。
家の繁栄を願うことは当然なことなのである。

併し、それは正しき道を通じて願われねばならないのである。
正しき道とは「公(おおやけ)」なものに奉仕する道を通してである。

人間の弱点として、最初は「公」に奉ずる為に始めた仕事が、
その仕事の「公」なる本質上、自然に栄えるようになったとき、
その栄えを自分の《もの》に帰そうとする衝動が起り勝である。

そして《自分の》成功のために何時の間にか「公」を無視して、
その成功の為に拍車を掛けはじめる。これは甚(はなは)だ危険なことである。
それは公道を走っていた馬が急に私道を走り出し、
自動車道を走っていた自動車が人道を走り出したと同じである。

馬なら手綱(たづな)をしっかり引(ひき)しめなければならないし、
自動車ならば、気を附けてハンドルを向け換えなければならない。

自己拡大だけの欲望に自分の仕事が向かないように、
吾々は常に自分の心意の方向を調節しなければならないのである。

          <感謝合掌 令和元年12月10日 頓首再拝> 

「与える人」が成果を得る - 伝統

2019/12/28 (Sat) 04:36:46


         *「「与える人」が成果を得る」辻秀一・著
          ~メルマガ「人の心に灯をともす」(2017-12-05)より抜粋

心理学者のチクセントミハイは、
時間を忘れて何かに集中している状態を「フロー」と呼んでいます。

フローの状態になると、少ないエネルギーで高いパフォーマンスを生み出せます。

フローが最高潮に達した状態は「ゾーン」や「ピークエクスペリエンス」と表現され、
いわゆる無我の境地のことです。

アスリートが驚異的な記録を出したり、奇跡的なプレイをしたりするときは、
ゾーンの状態で無理なくハイパフォーマンスを実現しているのです。


チクセントミハイのフローの定義を私はもっと単純に、
「機嫌がいい心の状態」をフロー、
「機嫌が悪い心の状態」をノンフローと呼称しています。


集中、リラックス、ワクワクは少しずつニュアンスが異なるとしても、
すべて「機嫌がいい」状態としてくくることができます。

揺らがず・とらわれずの心の状態です。


もう一方のノンフローも同じことです。

落ち込んでいるのもノンフローですが、ムカついているのもノンフローです。

「落ち込んでいる」と「ムカついている」は厳密には異なる状態ですが、
日本語ではどちらも「不機嫌」と表現できます。

揺らいで・とらわれている心の状態です。



フローにもノンフローにもいろいろな感じがあって、程度の差もあります。
けれど、少なくともフローなほうにいけば、
何をやっても機能は上がって行動の質は良くなるし、
ノンフローなほうへいけば全体の質は落ちます。


たとえば、見返りなどなくても、自分が何かを与えて
相手が喜んでくれるという事実だけでフローになれる。

具体的に何かを与えなくても、
何かを与えようと考えているだけでフローになれる。

日本人にはもともと、物に頼らなくても
心の平和や幸せを自分の中につくり出していく心の働きが備わっているのです。


   「応援思考」

   「感謝思考」

   「思いやり思考」

これが、私の考える「与える3原則」です。


与える思考の王道が「応援」です。

ほとんどの人は、応援は相手のためにするものだと思い込んでいます。
しかし、本来の応援とは、人を応援することで
自分自身の心にエネルギーを生み出すこと。

つまり、機嫌良く生きるための人間の叡智なのです。


感謝思考と思いやり思考も同じです。
「ありがとう」を形にしたり「ありがとう」の気持ちを
言葉にしたりするのではなく、「ただありがたいな」と考える。

思いやりをモノやお金で表すのではなく、
「ただ思いやりを持とう」「ただリスペクトしよう」と
考えているだけで気分が良くなってきます。


神社へお参りしたとき、願い事をするのではなく、
日々の暮らしの無事に感謝して手を合わせると、とても心が落ち着いてきます。

お墓参りや仏壇に手を合わせるときも、特別な理由はなくても
「ご先祖様ありがとうございます」という気持ちを念じていると、
清々(すがすが)しい気持ちになるのではないかと思います。

ただ無心に敬い、ただ無心に感謝する。

こうやって人は、自分の心にエネルギーをつくり出し、自分の糧にしているのです。

          <感謝合掌 令和元年12月28日 頓首再拝> 

《先ず自(みず)から与えよ》 - 伝統

2020/01/13 (Mon) 04:49:52


         *「光明法語」(1月13日)より

与えれば与えられるのが心の法則である。
それは原因結果の法則である。

朝の神想観に、自分は神の輝く光の流入口であり、その流入した光をもって
自分は出来るだけ多勢の人を照らすのだと念ぜよ。

人に対して先ず輝く微笑(ほほえみ)を与えよ。
光り輝く挨拶を行え。
「おめでとうございます」と言え。

先ず主人からでも好(よ)い、「お早うございます」と言え。
家族全部を祝福する言葉を語れ。

路傍一輪の野の花を手折(たお)って主人のテーブルを飾れ。
清楚と平和と調和と祝福の気をもって自分の家庭を飾るのだ。

そこから幸福が流入して来るだろう。

          <感謝合掌 令和2年1月13日 頓首再拝> 

福分け・・・あげる人生 - 伝統

2020/01/14 (Tue) 04:00:42


      *メルマガ「大和し」(2020.01.12)より

新年には初詣をされる方も多いと思います。
京都の恵比寿神社では「十日えびす」で多くの参拝客が福笹を授与されました。

笹に多くの縁起物をつければ、千客万来と商売繁盛のご利益があります。
一番人気は「蔵」です。

福を集めたら、蔵に入れなければ、集めた福が外に出てしまうからです。
「蔵」があると、もしもの時に蔵から出すことができます。
また、いざ勝負!という時にも蔵の中の福が役に立ちます。

ところで、蔵の中に集めた「福」とはどのようなものでしょうか?

大和の国の数は十(とお)しかありません。
ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と
です。子どもの頃、お風呂の中で数えた十(とお)です。

手の指は、両手で十指です。
では、十一をどのように数えるかといえば、
「十(とう)あまり一(ひ)」となります。
つまり、十までの数しかないので、あとは余りになるのです。

人間は、両手で持てるものしか手にすることはできません。
片手で何かをつかんでいれば、もう片手でもう一つ掴むことができます。
しかし、さらにもう一つ掴もうとすれば、掴むことができません。

片方で掴んでいる物を、捨てなければ新しいものをつかむことができません。
捨てるというよりは、誰かに「あげる」とした方が良さそうです。

大切な人に、自分の持っているものを「あげる」ことで
新しいものを掴むことができます。
このように考えてみます。

「ひ」から「と」まで数を重ね、さらに次の「ひ」を掴むには、
重ねてきたものを「あげ」なければ、次の「ひ」が始まりません。
つまり、未来の「ひ」を掴むには、過去の十(とう)から
手を離さなければならないということです。

ところで、両手いっぱいに掴んでいるものの中から、
何を「あげる」べきでしょうか。

自分がいらなくなったものでしょうか、
古くて使えないものでしょうか、
価値の低いものでしょうか・・・

「あげる」相手が大切な人であれば、その人にとっても、
自分にとっても大切な物をあげなければなりません。

これを「福分け」と言います。

福が集まってきたら、大切な人に、福を分けてあげます。

すると、その福は、さらに大きくなって自分のところに帰ってきます。
そして、福を分けることによって、いいご縁ができます。
人と人の結びは、福を分けることによって「和」ができます。

蔵には、この「和」を入れていきたいものです。

たくさんの「和」はさらに大きな和、
大和(やまと)になって、この国を作っていきます。

蔵には、お金や物を入れるのではなく「人の和」を入れるようにしよう。

両手一杯に掴んだ「福」は、周りに分けてあげよう。
いいことは、独り占めにしないのが大和のしきたりです。

きっと、「もらう人生」より「あげる人生」の方が幸せになると思います。

          <感謝合掌 令和2年1月14日 頓首再拝> 

【忘己利他という教え】 - 伝統

2020/01/28 (Tue) 04:44:01


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.12.11)より

   (天台宗大阿闍梨、酒井雄哉師の心に響く言葉より…)

   ぼくがいる比叡山の教えに「忘己利他(もうこりた)」という教えがある。

   「己を捨てて他を利すればいい。そうすれば皆が幸せになる」と説いているんだ。

   自分が何ができるかどうかはあまり関係ない。

   何かを達成できてもできなくても、
   自分を捨てて他を利するということを心がけた生き方をしていればいい、というの。


   成功したからといって、得たものを自分だけの懐へ入れてしまうのはよくない。

   得たものを人に分けてあげなければいけない。


   何をするにしても、自分がたった一人でできた、なんていうことはないものな。

   ここまで生きてこられたのはたくさんの人に支えてもらってきたからだし、
   いま生きている間にも、大勢の人に助けられているんだよ。

   だから、自分は自分、人は人だなんていう考えはよくないよね。


   たとえば、ぼくの行も、実際に山を歩いたり行をするのは確かに自分だ。

   でも、細かい雑務なんかを知ると、とてもじゃないけど簡単にはできない。

   回峰行が始まる。

   そうすると、「ああ、このごろこんな行をやっているんですね。
   じゃあ、ちょっと応援しましょうか」とお手伝いしてくれる人が
   ポツン、ポツンと出て来る。

   それがだんだん一人増え、二人増えと、
   なかには、金銭的なものを応援してくれる人まで現れる。


   どんどん行を重ねていくと、回峰行のなかでも荒行の「お堂入り」ができるようになる。

   その積み上げてきた5年間にはやっぱりみなさんの助けを受けて、
   御堂入りをしている間にもお供えものなどをしていただく。

   そうしてさらに行を積み重ねて、7年間にわたる千日回峰行を満行できるわけだ。

   回峰行も大勢の人に支えられてこそできるんですよ。

   だから、自分は千日の行をしてえらいんだなんてふんぞりかえっちゃいけないし、
   みなさんに支えられてきた御恩に感謝の気持ちを忘れちゃいけないってことなんだ。

   だから、こうしてお話ししているんだよ。


   よく、みんなも言うでしょう、「ご回向(えこう)」とか「回向してもらう」って。

   坊さんが頼まれて先祖を拝んであげるようなときに言うけれど、
   本来は、「よい行いを他に巡らす」という意味が含まれるしな。

   お寺の人でなくても、自分のできる範囲でかまわないから、
   人のためになることをするのがいいわけ。

   暮らしのなかで、何かお手伝いをしてあげるとか、
   何か福祉に寄付をするというのでもいい。

   自分の徳というものを、少し分けてあげてみるのもいいよね。

   人は恵み恵まれ、徳を積んでいくことになるからね。

            <『続・一日一生』朝日新書>

              ・・・

「己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」《最澄・山家学生式(さんげがくしょうしき)》


慈悲とは、ほんとうの優しさや、思いやり、いつくしみ、のことを言うが、
仏教では苦しみを取り除き、楽しみを与えるという意味だ。

伝教大師最澄は、慈悲の最上のあり方を、「忘己利他」と言った。

自分を忘れて、他者のために尽くすことこそが、慈悲の究極の姿であると。


舩井幸雄氏は、「人間性を高める」には、
「与え好きの人間にする」のがもっとも効果的だという。(法則・サンマーク出版)より

『「いまだけ」「自分だけ」という狭い我欲から離れること。

そして、他人の利益や幸福も視野に入れた、
もらうよりも与えることに喜びを感じる「利他的な考え」をもたせるのです。

あるいは、物事を根源からマクロにつかみ、ミクロに対処するように仕向ければ、
その人はもらい好きから脱皮して、「与え好きの人間」へと成長していき、
おのずとその人間性を高めていくでしょう。』


人間性を高めるには、「与えること」。

自分から与えることはひとつもしないで、
情報でも、モノでも、善意の気持ちも、
「欲しい欲しい」、「ちょうだいちょうだい」という人には、感謝がない。

何かをもらった後に、「ありがとう」というお礼や、「感謝」の言葉(メール)もないからだ。

それは、自分が与える側(主催者側)になったときによくわかる。


「忘己利他」という教えの実践を重ねたい。

          <感謝合掌 令和2年1月28日 頓首再拝> 

《与えることによってのみ受けられる》 - 伝統

2020/02/02 (Sun) 03:59:24


           *「光明法語」(2月2日)より

太陽の温かさを受けようと思えば先ず一歩日向(ひなた)に向って「歩み出し」を
与えることが必要である。日向にむかって「歩み出し」を与えないでいて
太陽の温かさをうけることは出来ない。

写真を写すには先ずカメラに代金を払わなければならぬ。
マメラを借りて来ても好(よ)いが、やはり吾らは、
焦点距離を合わしてスイッチを捻る動作を与えなければならないのである。

音楽をきこうと思えば音楽会に金を払うか、レコードに金を払うか、
蓄音機を廻すかラジオの波長を合わすか、
いずれにせよ金又は「動作」を与えなければならぬ。

          <感謝合掌 令和2年2月2日 頓首再拝> 

深切を与える日 - 伝統

2020/02/07 (Fri) 03:58:43


           *「光明道中記」(2月7日)より

【常に他に与えたいと思っている者は他から愛され、常に他から与えられたいと
 思っているものは他から嫌われる。 (『生命の實相』第十一巻)】

「あの人から深切して欲しい」と思う心は兎(と)もすれば其の人を躓かせる。
深切が欲しければ自分が先ず深切を自分の生活から造り出すことである。

深切を他から求めるような人は屹度深切に飢えている人である。
深切に飢えている人は、自分自身が深切を身辺に造り出していない証拠である。

他が深切にしてくれないと思う人は、
自分が他に深切をしているかどうかを省みるが好い。

蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、
「深切」の少きを嘆いてはならない。

「深切」を沢山欲しい人は、
自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。

こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。
こちらが渋面(じゅうめん)すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。


 吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。
 人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。

 自分だけの幸福を護り育てていたい者には、
 その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。

          <感謝合掌 令和2年2月7日 頓首再拝> 

《繁栄の根源は人類に幸福を与えるにある》 - 伝統

2020/02/19 (Wed) 04:55:46

           *「光明法語」(2月18日)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。


しかしロック〇ェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

  *〇:フ

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。

          <感謝合掌 令和2年2月19日 頓首再拝> 

今、目前の仕事にサービスせよ - 伝統

2020/03/01 (Sun) 04:44:10


           *「光明法語」(3月1日)より

若し諸君に職業が見つからぬならば、金を得る仕事だけを職業だと思うな。
諸君の前に偶然あるところの何の仕事にでも(便所掃除でも、カド掃きでも、
障子硝子拭きでも)報いを求めることなしに奉仕せよ。

これが無条件に与えると云うことである。
やがて其処から諸君に最も必要にして適切なる仕事を得る
緒(いとぐち)が得られるであろう。

神は決してケチではないのである。
人間が与えることにケチなのである。

そして入り口をひらかないものだから神の恵みが流入しないのである。

          <感謝合掌 令和2年3月1日 頓首再拝> 

与える人ほど、“大きな” “多くの” 成果をつかんでいるのは事実 - 伝統

2020/03/13 (Fri) 04:14:55


         *「「与える人」が成果を得る」辻秀一・著 より

ビジネスの世界でも、「与える」は大事なキーワードになってきました。

大きな成功を収めている企業を見ると、
その根底にはやはりライフスキル的な「与える」発想がある
のではないかと思います。

私が尊敬している企業家のみなさんが成功しているのも、
「与える」ビジネスを徹底的に追求された結果だろうと思います。

会社のあり方、ご本人のあり方を拝見していると、
常にライフスキル的な「与える」発想でやってこられたことがうかがえます。


そのひとりは通販大手のジャパネットたかたの創業者、高田明さんだと思います。

地方の小さなカメラ販売店から始まったサクセスストーリーは、
あらためてお話するまでもありません。

ジャパネットたかたがここまで成功したのは、
「与える」発想そのもののビジネスモデルだからだと私は感じています。

クーラーをどう売るか、テレビをどう売るかではなく、
物の向こうにある豊かな生活をどう感じてもらえるかだけを真剣に考えてきたことが、
実はフォワードの法則による「与えるビジネス」になっていたのではないかと思うのです。

会社そのものの存在意義として、ただ物を売るのではなく、
物の向こうにある快適さを与えることに夢中になっている
ビジネスモデルなのだと感じています。

また、高田さんが経営で重視していたのは、社員を大切にすることだったのだそうです。

働く社員が満足度を得ていなければ、顧客満足度は高まらないと考えていたのです。

だからこそ、3億円だった売上が、25年間で1500億円以上になったのです。

これまでのビッグカンパニーになったのは、
与えるビジネスが経営の基本にあったからだと私は考えます。

          <感謝合掌 令和2年3月13日 頓首再拝> 

他を喜ばす心がけ - 伝統

2020/03/17 (Tue) 04:45:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月17日)」より

皆さまにお気に召すようにお化粧してまいりましょう。

この心がけに家庭平和の秘訣もあれば、商売繁盛の秘訣もある。

皆様を喜ばす心がけが中心となる。技巧に走れば虚飾になる。

            <感謝合掌 令和2年3月17日 頓首再拝>

「ありがとう」と言われることの実践 - 伝統

2020/03/28 (Sat) 04:08:56


      *メルマガ「成功への道しるべ」(2020年3月26日)より
   
◆雑誌「致知」の4月号に下記のような話が紹介されています。

松野三枝子さんは53歳の時、ステージ5の胃ガンと宣告されます。
その時は手術で、取り除くことができ奇跡的に助かります。

ところが5年後再発、全身に転移していて余命はないと云われます。
60kgあった体重も25kgにまでなり、今度ばかりはダメだろうと、
ご本人も家族も覚悟していました。

南三陸町の病院に入院中でしたが、そこへ東日本大震災の津波が押し
寄せたのです。院内の多くの人が一瞬にして水の中に消えていきました。

松野さんも、そうなりかけた時に、たまたま上にいた人に
手を引っ張ってもらうことで間一髪のところで助かったのです。

そして高台にある自宅に何とかたどり着くことができました。

松野さん一家は農家でお米は豊富にあり、
イベント用に使う食材も大型冷蔵庫に沢山保管されていました。

ライフラインはすべて停止していましたが、水は井戸で確保でき、
電気はソラーパネルの配線を変えることで大型のガス釜が使えたのです。

松野さんは「とにかく皆を食べさせなければ」と我を忘れて
毎日5升釜3つで、ご飯を炊いて周囲の人達に配ることを始められたのです。

余命は無いと言われていましたが、とにかく無我夢中になって
食べるものがなく困っている人に配り続けられたのです。

6月に精密検査を受けたら全身に広がっていたガン細胞が
すべて消えていました。

医師もビックリです。何故そんなことが起こるのでしょう。

震災から9年経ちます。
多くの協力者があらわれ、今は「農漁家レストラン松野や」という看板を掲げ、
郷土料理を提供する人気のレストランとテレビや雑誌にも紹介されるお店と
なっています。


この事例を奇跡と感嘆するだけでなく、
何かを学び、私達も何か身近なことから実践するきっかけとして
考えたいと思うのです。


◆20世紀初頭ジョン・ロックフェラーは世界一の大金持ちになりますが、
50歳半ばの時廃人同然となり、余命1年と宣告されます。

それからの後半生は180度生き方を変え慈善事業に専念します。

その結果心身共に健康を取り戻し97歳まで元気に活躍します。


◆「パッチ・アダムズ」は実話に基づく映画です。

パッチ・アダムズはウツ病で入院しますが、相部屋となった患者は
彼以上に重症で暴れたり異常な行動をとるのです。
彼は仕方なく、その都度世話をします。

何回かやっているうちに、
自分のウツ病がすっかり治っていることに気付たいたのです。

彼は退院後、そんな作業も取り入れた治療をする病院をつくるという内容です。


◆心理学者のアドラーはもともと医師で、医学的見地からこの事に触れています。

私達はいつも自分のことばかり考えているものです。
そうすると頭脳が疲労困憊し、精神的な病や肉体的な病の要因に
なっているというのです。

誰かを喜ばそうとしている時は、自分のことは考えていません。
著書に次のようなことを書いています。

「私の指示通り実践すればウツ病は2週間で治ります。
どうすれば他人を喜ばすことが出来るかを考え、それを毎日実践すること」です。

頭脳が疲労困憊している状態から解放されるからでしょう。

◆「潜在意識」は「良いこと、悪いこと」「肯定形、否定形」
「私のこと、他人のこと」そういった判断をすることなく、
とにかく、私が今思っていることを実現しようと働くのです。

他人を喜ばそうと懸命になること「潜在意識」は同時に私を
喜ばそうと懸命に働いてくれるのです。
その理解があると実践したくなります。

            <感謝合掌 令和2年3月28日 頓首再拝>

喜んで献ぐる日 - 伝統

2020/04/06 (Mon) 02:05:46


           *「光明道中記」(4月6日)より

【全体と個との融合を実際の生命の体験として掴むことが宗教である。
                        (『生命の實相』第十三巻)】

本当の太陽は、昼に非ず、夜に非ず、昼夜を超えて照々として輝く。
それは決して火の玉にあらずして宇宙に満つ。

樹木の中にも太陽あり、吾々の体中にも太陽のエネルギーあって輝く。
太陽を一個の盆大(ぼんだい)の火の玉と見るは、
吾々の五官を通して見たる一面識なり、相対観なり。

太陽は何故かくの如く万物のうちに満つるか。
それは太陽は万物に光を与え生命を与えるからである。

吾等もまず自分が本当に全世界的に伸びようと思うならば、
みずから進んで全世界に自身を与えなければならない。
与えるものだけが、その相手を自分のものとするのである。

伸びようと思う者よ。伸びるためには今迄他から自分へ奪いとることによって
自己が拡大すると思っていたのである。
然(しか)るに今では他に与えることが自己を拡大することであると判ったのである。

一個の何の功労もない女性が、一家の主人公に身を献(ささ)ぐれば、彼女は一家の
主婦としてその一家を自由に処理し、又は管理するところの権力を得る。
身を献げたる女性は男性に縛られたように見えるが、
実は、男性を自由自在に支配する力を得る。

伸びるとは与えることである。

            <感謝合掌 令和2年4月6日 頓首再拝>

「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」 - 伝統

2020/04/09 (Thu) 02:05:31


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月9日)」より

なんだか利用されているような気がするときに、
腹立つ人と、つまらなく感ずる人と、喜べる人とがある。

イエスは「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」と言った。
彼は利用されることを喜びに感ずる人であったのである。

利用されること多きものほど尊ばれる。
利用する道のなくなったものを廃物という。

            <感謝合掌 令和2年4月8日 頓首再拝>

「経済とは得させっこ」 - 伝統

2020/04/17 (Fri) 04:33:55


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.04.10)より
         【すべてのものが経済で成り立っている】

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   すべてのものが経済で成り立っているんです。
   そのくらい、経済って大事なものなんです。

   常に豊かな人ってのはいるんです。
   全員が苦しいわけじゃない。

   だから、バブルのときだって苦しんでいた人はいる。

   それを左右するのは、戦国時代は強ければよかった。

   だけど今は経済を勉強しなさいって神が言っているんです。

   20世紀までは戦争の時代。

   戦争の時代は戦争を学ぶ。

   それで人の命のたいせつさを学ぶ。

   21世紀は戦争はなくなった。
   人の命はたいせつで、もう殺しちゃいけないってことがわかってきた。


   21世紀は経済の時代なんです。
   だから経済的なことがどんどん出てくる。

   で、誰も逃げられない。


   日本という国も国家として経済的戦いがある。

   会社もある。

   わかるかい?

   世界じゅうが経済で戦うんです。
   経済の戦争が始まるんです。

   個人もそれは避けられない。


   神は経済を学べって言ってるんです。
   大学で教えているような経済学じゃないんです。

   会社に行ったらどこのパートよりも返事がいいとか、
   このパートを雇って得したとか、使いやすい人間になる。

   要は得させるんだよ。
   得をさせっこなの。


   戦争の時代は殺しっこなの。

   経済とは得させっこなの。
   日本の製品を買って得させればいい。

   それができなかったら、韓国の製品へ行っちゃうんです。


   人間も同じです。

   サラリーマンの人は、30万もらっているひとなら、50万稼げばいいんです。

   おいといて得な人をやめさせる会社はない。

   よく「私たちは使い捨てにされた」っていうけど、怒っちゃダメですよ。
   使えないから捨てられたんですよ。


   100万稼ぐ人を30万で使ってやめさせる社長はいません。

   だから、50万の価値のある人間、60万の価値のある人間になる。

   価値があるっていうと特殊な能力がないといけないって思うんだけど、
   使いやすいことなんです。

   使いやすくて能力があることなんです。

   で、使いやすくて、こういう本を読んで勉強をしたり、
   経済のことを知ってたらもっといい。

   「あいつだけは残したい、あいつだけは」って
   言われるような人間にならないといけないよ。

        <『仕事はおもしろい 斎藤一人』マキノ出版>

            ・・・

今、世界中に感染が拡大しているコロナウィルス。

このコロナ危機は、実は経済の危機でもある。

世界中が鎖国戦略をとり、いままでおし進めてきた
グローバル経済、世界は一つという戦略がことごとく否定されることとなった。


病気も、疫病も、震災も、結局は経済が絡(から)んでいる。

国の経済に余裕がなければ、今回のような爆発的な蔓延を防ぐことはできない。

同時に、それによって疲弊した会社を立て直すこともできない。


経済は、自分だけが得しようとすると、必ずどこかで滞(とどこお)る。

それを、京セラ創業者の稲盛和夫氏は、経営には「利他の心」が必要だと言った。


それは、「経済」の元々の意味とも共通している。

「経済」という言葉は「経世済民(けいせいさいみん)」が語源だ。

これは、世をおさめ、民を救う、という意味。

つまり、そこには「利他の心」が必要だということ。


斎藤一人さんは、「経済とは得させっこ」だという。

今こそ、人を、まわりを、得させることを考えるとき。


まさに、利他の心でこの国難を乗り越えたい。

            <感謝合掌 令和2年4月17日 頓首再拝>

自利利他の善行を積む日 - 伝統

2020/04/23 (Thu) 04:51:08


           *「光明道中記」(4月23日)より

【すべて形に執われて来るとき生命を生かす事が出来ないのであります。
                     (『生命の實相』第十七巻)】

来る人は一人で来ないで是非知人を伴って来て戴きたい。
自分だけ善い話を聞いて救われたいと云う利己主義と云う程でもないが、
独善であり、消極的であり、羅漢の程度の境地である。

自利利他の功徳を計ることになって菩薩の境地に入る。
「利他」にして初めて潜在意識の世界に善行の種を蒔いたことになる。
心の世界に蒔いた種は決して滅びるものではない。

子孫に美田を遺してもその美田は滅びるであろう。
併し心の世界に蒔いた善行(たね)は滅びはしない。

私の叔父さんに福松と言って畸人(きじん)があった。
神道の神主で少講義かなんかの低い役目をしていたが、施しが好きであって
何時(いつ)も貧乏で見窄(みすぼ)らしい服装(なり)をして歩いていた。

人が気の毒に思って紋付の羽織などを着せてやるとその翌日には
もうその紋付の羽織を着ていなかった。

「どうしたのか?」と訊くと
「憐れな人があったから与えた」と答えるのが常であった。

この叔父さんには自分自身を良くすることなど考えて見たこともなく、
ただ隣人を愛していたのであった。

            <感謝合掌 令和2年4月23日 頓首再拝>

《与えよ、さらば与えられん》 - 伝統

2020/05/05 (Tue) 04:48:48


          *「真理」第9巻生活篇第2章(43~44)より

各人の運命は各人の蒔いた「想念」の結果であり、
それは無意識にしろ、有意識にしろ、自分自身が選んで
想念した結果があらわれるのです。

キリストは山上の垂訓の中で、
「人を裁くことなかれ、汝らも裁きたる自己の尺度もて裁かれん」
と言っているのであります。

これが茄子を蒔けば茄子を収穫し、瓜を蒔けば瓜を収穫する心の法則であります。

寛大なる心をもてば、他(ひと)から寛大に報いられ、
峻厳な心をもてば、他(ひと)から峻厳に扱われるのであります。

他(ひと)の悪口(わるくち)を言えば、
また他(ひと)から悪口(わるくち)を言われます。

与えれば与えられ、奪えば奪われます。

「与えよ、さらば与えられん。人は量(はかり)をよくし、
押し入れ、揺り入れ、溢(あふ)るるばかりに与えられん」

とルカ伝には教えられているのであります。

みずから選んだものが、自分のものとなるのであります。

            <感謝合掌 令和2年5月5日 頓首再拝>

【人の幸せを祈ると、仏頂面が消える】 - 伝統

2020/05/15 (Fri) 03:46:53


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.03.26)より

   (渡辺和子氏の心に響く言葉より…)

   一人前の修道女になるためには、数年の準備期間があり、
   30歳近くで入会した私は、その後5年近くをアメリカで過ごしました。

   当時は、修道女を志す人も今と違って多く、20代の若いアメリカ人百数十名と、
   ボストン郊外の広大な修道院で修行していた1年間の、ある日のことでした。

   修練という言葉が示すように、朝5時の起床から夜9時の就寝まで、
   厳格な規律のもとに祈り、黙想、食事が行われ、その他の時間は
   主として草取り、洗濯、食事の下ごしらえなどの単純な作業に当てられます。


   その日は夏の暑い午後でした。

   私は、割り当てられていた配膳の仕事を食堂で果たしていました。

   百数十の皿、コップなどを長机の上、パイプ椅子の前に
   一つひとつならべてゆく仕事を、沈黙のうちに手早く行っていた時です。


   突然、「あなたは、何を考えながら仕事をしているのですか」と問いかけられ、
   振り向くと、そこには厳しい顔をした修練長の姿がありました。

   「別に何も」と答えた私は、「あなたは時間を無駄にしている」と叱責され、
   一瞬、戸惑いを隠せませんでした。

   命ぜられたことを、命ぜられたようにしていたからです。


   修練長は、そんな私に今度は優しく諭すのでした。

   「時間の使い方は、そのままいのちの使い方なのですよ。
    同じ仕事をするなら、やがて夕食の席につく一人ひとりの
    シスターのために、祈りながら並べてゆきなさい」


   何も考えないで皿を並べるなら、ロボットの仕事と同じです。

   「つまらない」と考えて過ごす時間は、つまらない人生しか残してゆきません。

   同じ時間を費やすなら、一つひとつの皿を並べる時に、
   「お幸せに」と、私にしかこめられない愛と祈りをこめて並べて、
   初めて私は、愛と祈りの人生を送れるのだということを、
   その日、その時、教えられたのでした。


   30歳まで、英語を使うやりがいのある仕事に就き、修士号も取得していた私は、
   当初こそ、「これが修道生活というものだ」と納得して、
   単純労働にもいそしんでいたのに、時が経つにつれ、知的な刺激の少ない生活に対して
   「つまらない」と考える不遜(ふそん)な人間になっていました。

   時間の使い方は、いのちの使い方。

   この世に“雑用”という用はない。

   用を雑にした時に、雑用が生まれるのだということを、
   心に叩き込まれた修練院での一コマでした。


   果たして、私が「お幸せに」と祈りながら皿並べをしたから、
   夕食で座ったシスターが幸せになったかどうかは、わかりません。

   わからなくていいのです。

   これは私の時間の使い方、私の人生の問題だからです。

   しかしながら一つ、たしかに変わったことがありました。

   それは、私から仏頂面(ぶっちょうづら)が消えたことです。


   生きていく上では、嫌なこと、したくないこと、欲しくないもの、
   気に入らない相手など、数々の自分にとって“ありがたくない”物事に
   向き合わないといけないことがあります。

   つまらない仕事を、つまらなくない仕事に変える術(すべ)を、
   若くして修練院で教えてもらったことを私は、感謝しています。

   「幸せは、いつも自分の心が決める」のであり、
   私たちは、環境の奴隷でなく、環境の主人となり得る人
   間の尊厳を忘れてはいけないのです。


   マザー・テレサは、炊き出しをするシスターたちに
   必ず3つのことを実行するように諭しておられました。

   パンとスープボウルを渡す時には、相手の目を見て、ほほえむこと。

   手に触れて、ぬくもりを伝えること。

   そして短い言葉がけをするという3つです。

   それはロボットにはできない、人間の、他の人間に対する愛と祈りの表現です。


   仕事を“する”doingも大切ですが、
   どういう思いで仕事をしているかというbeingを忘れてはいけないのだ
   と肝に銘じています。


   《この世に“雑用”という名の用はない。用を雑にした時に生まれる。
   <「つまらない」と思いながら生きる時間は、つまらない人生になってゆく。>》


          <『面倒だから、しよう』幻冬舎>

               ・・・

筑波大学名誉教授の村上和雄氏のこんな話がある。

『アメリカの病院の実験で、「他人に祈られた患者」はそうでない患者に比べて、
 人工呼吸器、抗生物質、透析の使用率があきらかに少ないことが分かったという。

 これは驚いたことに、この病院から遠くはなれたところからの祈りでも効果は同じだった。

 そして、なにより驚くことは、患者は祈られていることを全く知らなかったことだ。

 また、人のために祈ると、実は、祈った本人まで健康になるという』


反対に、人を罵倒したり、怒鳴ったり、悪口を言ったりすると、
一番聞いているのは自分だ、と言われる。

なぜなら、自分の「口」に一番近いのは自分の「耳」だからだ。

すると、自分を罵倒し、怒鳴り、悪口を言っているのと同じ状態になるからだ。


斎藤一人さんは、

「人の幸せを願うようになると、心が豊かになるんです。
 心が豊かになると、人相も変わってくるんです」(愛のセラピー)より

という。


人の幸せを祈ると、仏頂面が消える。

そして、それはつまらない仕事を、つまらなくない仕事に変える術でもある。


心の中で…

コンビニのレジで、「あなたに幸せが訪れますように」

朝会社で仕事の仲間に、「会社のみんなにもっと幸せが訪れますように」

渋滞の列で車を快く入れてくれた人に、「あなたに幸せが雪崩のごとく訪れますように」


人の幸せを祈ることができる人でありたい。

            <感謝合掌 令和2年5月15日 頓首再拝>

【「与える人」こそ成功する時代】 - 伝統

2020/05/26 (Tue) 04:34:47


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.01.30)より

   (アダム・グラント氏の心に響く言葉より…)

   「テイカー」は常に、与えるより多くを受けとろうとする。

   ギブ・アンド・テイクの関係を自分の有利になるようにもっていき、
   相手の必要性よりも自分の利益を優先する。

   テイカーにとって、
   世の中は食うか食われるかの熾烈(しれつ)な競争社会だ。

   だから成功するには、人より上にいかなければならないと思っている。

   能力を証明するために自分を売り込み、
   また、費やした努力は必ずきちんと認められるようにする。

   たいてのテイカーは冷酷でもなければ非情でもない。

   ただ用心深く、自己防衛的なだけである。
   自分の身は自分で守らなければならないと考えているからだ。


   テイカーとは正反対を「ギバー」という。

   職場にギバーはめったにいない。

   ギバーはギブ・アンド・テイクの関係を
   相手の利益になるようにもっていき、受けとる以上に与えようとする。

   ギバーかテイカーかは金銭的なことでは測れない。

   仕事に関しては、慈善事業にいくら寄付しているかや、
   いくら給料をもらっているかで、
   ギバーとテイカーを区別することはできない。

   それより、ギバーとテイカーは他人に対する態度と行動が違っているのだ。


   テイカーが自分を中心に考えるのに対し、
   ギバーは他人を中心に考え、相手が何を求めているかに注意を払う。

   テイカーなら、得られる利益が損失を上回る場合にかぎり、
   相手の有利になるように協力する。


   一方ギバーなら、いつ何時も、損失より
   「相手」の利益のほうが上回るように手を差し伸べるのだ。

   いいかえれば、自分が払う犠牲はあまり気にせず、
   見返りをいっさい期待することなく相手を助けるということである。

   仕事においてギバーである人は、自分の時間、エネルギー、知識、
   スキル、アイデア、有益な人脈を惜しみなく分かち合おうとするだろう。


   そういうと、まるでギバーが
   マザー・テレサやマハトマ・ガンジーに匹敵する人物のように
   聞こえるかもしれないが、
   ギバーになるのに何も並はずれた犠牲は必要ない。

   ただ他人の利益のために行動することを心がけ、助けたり、
   助言したり、手柄を分かち合ったり、わたりをつけてやったりするだけだ。

   職場以外では、このタイプの行動をする人はざらにいる。

   イェール大学の心理学者、マーガレット・クラークが行った調査によれば、
   親密な人間関係ではたいての人がギバーとして振る舞うという。

   家族や友人に対しては、いつでも打算なしで相手の役に立とうとする。


   しかしいざ職場となると、
   ギブ・アンド・テイクはもっと複雑なものになる。

   仕事においては、ギバーかテイカーかにはっきりと
   分かれることはほとんどなく、たいていの人が第三のタイプになる。

   それが、与えることと受けとることのバランスをとろうとする「マッチャー」だ。

   マッチャーは常に“公平”という観点にもとづいて行動する。

   だから人を助けるときは、見返りを求めることで自己防衛する。

   マッチャーは相手の出方に合わせて、助けたりしっぺ返しをしたりしながら、
   ギブとテイクを五分五分に保つのである。


   実際、三タイプのどれであるかによって、
   成功の可能性ははっきりと違ってくる。

   では、もっとも成功できそうにないのは誰だと思うだろうか。

   調査によれば、成功からほど遠い位置にいるのは、ほとんどがギバーだ。

   どの重要な職業を例にとっても、ギバーはいつも割を食っている。
   それは、自分の成功を犠牲にして、相手の利益を優先しているからなのだ。


   どの職種をとっても、ギバーはとても思いやりがあり、
   人を疑わず、相手の利益のためなら
   自分の利益を犠牲にすることもいとわないようだ。

   どうやら成功からもっとも遠いのはギバーのようだが、
   では、成功を収めるのはテイカーだろうか。
   それともマッチャーだろうか。

   実は、そのどちらでもない。

   データをもう一度見て、私は驚くべきことを発見した。

   何と、それもギバーだったのだ。


   一番生産性の低いエンジニアはほとんどがギバーである。

   ところがもっとも生産性の高いエンジニアも、やはりギバーだったのだ。

   業績の質・量ともに最高点を獲得したのは、
   受けとるより多くを同僚に与える人びとなのである。

   このパターンはどの分野でも変わらない。

   もっとも成績の低いベルギーの医学生は、
   ギバーであることを示す得点が非常に高いが、
   「もっとも成績のよい」学生もやはりそうだった。

   医学部全体では、ギバーは成績が11%も高い。


   ギバーは「お人好しで、他人にいいように使われる人」と思われがちだが、
   実は意外にも成功者が多い。

   こうしたギバーたちは、「成功するのが先で、与えるのはそのあと」
   という一般的なやり方の逆を行き、

   「先に与える人」こそが、
   あとでもっとも成功するのだと教えてくれる。


   もちろん、ギバーもテイカーも、マッチャーも成功することは可能だし、
   現に成功してもいる。

   しかしギバーが成功するときには、ギバー特有の現象が起こるのだ
   …その成功がまわりの人びとに波及していくのである。


   テイカーが勝つ場合には、たいていほかの誰かが負ける。

   調査によれば、成功したテイカーは妬(ねた)まれやすく、
   何とかしてその鼻をへし折ってやろうと周囲から思われるという。

   それとは対照的に、ギバーが勝つと、
   みんなやんやと声援を送り、非難することなどない。

   その成功が、周囲の人びとの成功を増幅させるからだ。

       <『GIVE&TAKE「与える人」こそ成功する時代』三笠書房>

             ・・・

ギバーには2種類いるという。

「自己犠牲型」と「他者志向型」だ。

成功するギバーは「他者志向型」の人。


「自己犠牲型」は、楽しいと思ってやるのではなく、
義務感を感じて、自分を犠牲にしてまでギブする。

頼まれたら断れなかったり、
自分の貴重な時間やエネルギーを無理やり割いて、
人の役に立とうとする。

だから、テイカーに利用されやすい。

そして、我慢して人に譲ることや、自己犠牲が美徳だと思っている。


「他者志向型」は、自分が「楽しいから」、「おもしろいから」、
「気持ちいいから」、無理せず、自然に、人にギブする。

意義のあることをしていると感じているから、長く続く。

そして、「人を喜ばせること」「周りの人の利益になること」を常に考え、行動する。

それを長年やっていくと、必然的に感謝され、多くの人との関係ができ、
そのネットワークが自然とできる。


ネットワークが広がれば、最初は自分の利益がなかったとしても、
まわりの一人一人の利益が増えることにより、まわりまわって
自分に利益がもたらされることになる。

これが、「情けは人のためならず」ということ。

また、大事なことは、だれかれ構わずギブするわけではない。

悪意あるテイカーにだまされるような、
ただの「お人よし」ではないということ。


他者志向型のギバーを目指したい。

            <感謝合掌 令和2年5月26日 頓首再拝>

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