伝統板・第二

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祝福(Congratulations)③ - 伝統

2018/08/25 (Sat) 04:33:05

    *伝統板・第二「祝福(Congratulations)②」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6950978


「天地の万物を祝福する祈り」

        *聖経『真理の吟唱』(P216~219)より

神は常に働きたまう。
神の働きは常に調和した働きとなって顕われてくるのである。

なぜなら、神は一切のものの根元であり給い、一切のものは、
神の一つの智慧によって統一せらてているから
相剋摩擦ということはないからである。

神の働きは常に一切のものが調和した働きとなってあらわれてくるのである。

もし不調和なことがあらわれてくるならば、それは、自分の〝我(が)の心〟が、
〝神の心〟に一致しないところがあるために、
神そのままの調和した智慧があらわれて来ないからである。


われは今、一切、心を虚しくして〝我(が)の心〟を去ったのである。
それゆえに必ず〝神の智慧〟があらわれるのである。

今まで〝我(が)の心〟が〝神の智慧〟の流入する
導管の栓をしていたのであるけれども、その〝我(が)の心〟が去るとともに
滔々として〝神の智慧〟は流れ入ってくるのである。


われは今、神の御前(みまえ)に坐して、わが心を空しくして神に向かう。
それゆえに、〝神の叡智”われに流れ入りて、人に応じ、場所に応じ、事に応じて、
すべてを生かす働きがおのずからできてくるのである。

われは今、神の御前に坐して、わが心を空しくして神に向かう。
それゆえに〝神の愛〟われに流れ入りて、一切万物を祝福したまうのである。
神は我れを通して一切万物を祝福したまうがゆえに、
我れはまた一切万物を祝福するのである。

一切万物を我れは祝福するがゆえに、一切万物は我れを祝福し、
一切万物と我れとは完全に調和しているのである。

万物は我れの味方であり、我れは万物の味方であり、互いに制し合うことなく、
互いに生かし合いばかりになるのである。


ああ、互いに生かし合いの世界の清く美しく楽しきかな。
今ここに、地上に天国は建設せられたのである。

ここがこのまま天国の実現であり、完全にすべての人は自由であり、
すべての出来事は処を得、時にふさわしく、あるべき処に、あるべきものが実現して、
まことに調和したすがたであるのである。


今、ここに我が家に天国が実現しているのである。

されば、すべての家族ことごとく健康に、愉しく、不平をいうもの一人もなく、
その計画するところの事は必ず成就し、欲する事物はことごとく集まり来り、
欲せざる事物はことごとく消滅するのである。

まことにも我が家は、神に祝福去れた天国の家である。

我れ神に感謝し奉る。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「祝福 (9383)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1786 

(2)伝統板・第二「祝福(Congratulations)①」
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456467

           <感謝合掌 平成30年8月25日 頓首再拝>

自分に損をかけた人を、心の中で祝福する - 伝統

2018/09/07 (Fri) 05:07:49


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月7日)より

他(ひと)の借金を支払ってやるくらいでないと
本当に無限の富の源泉を捉えることはできぬのである。

といってそれは紙幣や小切手で支払ってやることではない。

貧しき者を心の中で祝福してやり、

「なんじは神の子であって神の無限供給によりいっさいの負債(おいめ)は支払われ、
今、なんじはすでに無限の供給を受けているのである」

という意味のことを思念してやることである。

特に自分に損をかけた人に対しては、なおいっそうこの思念を恵み与えてやることが、
かえって彼を富まして、その損失を償(つぐな)うだけの力を養ってやることになる
のである。

ところがたいていの人は自分に損をかけた人を祝福するどころか、
憎んで「不幸になれ」と念ずるから結果は反対となり損失は償われないことになる。

             <感謝合掌 平成30年9月7日 頓首再拝>

神を正しく理解して祝福しましょう - 伝統

2018/09/26 (Wed) 04:43:30


          *『白鳩』(昭和39年7月号)より


『祝福する者が祝福せられる』 のです。

あなたは 『あの人は嫌いだ』 と思ったことはありませんか?  

『あります』 と仰言るのですか。 
『あの人は嫌いだ』 と思ったとき、あなたは、あの人を呪ったのです。 
祝福の反対をしたのです。 

あの人が、あなたにとって、
不愉快に感じられるように現われて来るのは当然のことなのです。 

其の人を祝福しなさい。

『あの人は神の子で、善い人だ。 善くない人だと思ったのは私の心の間違いだった』 
と深く心の中で懺悔してお詫びして御覧なさい。 

今まであんなに不快な事をしていた彼が、
あなたにとって快いことをしてくれる人に変ります。

嘘ではありません。 
必ず、そうなります。 

暫く忍耐づよく、神想観中に、心の中で今まで間違った思いを懺悔し、
相手を “神の子” として祝福することを続けて御覧なさい。 
あなたの周囲が祝福に満たされた天国のように現われてまいります。


あなたは神を正しく理解しなければなりません。 
神は雲の上にいて、吾々を罰しようと思って
、吾々を監視しておるような人物ではないのであります。 

神は宇宙到る処に、普遍的な愛として智慧として生命として存在ましましのであり、
同時に吾々の中(うち)に生命として智慧として愛として宿っていられるのであります。 

そして神の意志は必ず善であり幸福でありますから、
自分自身の 『誤れる想念』 によって、そのおのずからなる顕現を妨げない限りは、
必ず善と幸福とがあらわれて来るのであります。 

あなたは今その 『誤れる想念』 を悉く棄てて心を神の完全さの方向に振り向けます。 
そして神の祝福を今満喫するのであります。


あなたは感度の鋭い霊的ラジオセットにならなければなりません。 
人から挨拶されても面倒くさそうに返事をする人は感度の鈍い安物のラジオセットであります。 

すべてあなたの周囲にあらわれて来る人々は、
神様の摂理で何らかの祝福か教訓かを与えるためにあらわれて来る人々でありますから、
感謝と悦びの態度及び表情で受け取らねばなりません。

『神に口なし、人をして言わしむ』 でありますから、
人の言う言葉のうちに真理があり、 『導き』 があり、自分の心の鏡があり、
反省の資料がありますから、聴くのに耳がいたい事があっても感謝して受取るとき、
すべての言葉があなたの魂を生長さす栄養となるのであります。

  (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24574620.html

             <感謝合掌 平成30年9月26日 頓首再拝>

谷口恵美子先生の「誕生日」をお祝い申し上げます - 伝統

2018/10/10 (Wed) 04:23:55


        *「光明法語(10月10日 恵美子の誕生日)」より

今日は自分の娘恵美子の誕生日である。

彼女は関東大震災に震災直後の無一物の吾々の家庭に生まれたたが
一度も生活に不自由した事がない。

震災で吾々が避難する時にも、彼女のお産に要する一切の用品、
及び生まれてから着る為の一襲(ひとかさね)の縮緬(ちりめん)の布団、着物
《こどてら》などは、私が担いで出たので彼女ののみは何の不自由もなかったのである。

それから後にも彼女は一度も不自由をした事がなかった。
何でも欲するものは与えられ、「お菓子来い」と空中に向かって叫べばお菓子が出た。


・・・

谷口恵美子先生は、大正12年10月10日に富山県高岡市で御誕生されました。
大正12年は、9月1日に関東大震災のあった年です。

谷口恵美子先生のますますのご健勝を心よりお祈りいたします。


最近の状況については~「田舎もんのブログ」(2018/9/6)より
「高知にて、元気です」
→ https://blogs.yahoo.co.jp/tachiyan50/34462382.html

            <感謝合掌 平成30年10月10日 頓首再拝>

神の祝福は万人平等 - 伝統

2018/10/25 (Thu) 02:44:13


          *「光明法語(10月25日)」より

神の祝福の流れに乗ると云うことは、
神は或る人を祝福し、或る人を祝福しないと云うことではない。
神は善人にも悪人にも太陽が照らすが如く、祝福の波を放送してい給うのである。

祝福の流れに乗らないとは、神の祝福の波長を感受するような
「神と同波長の心の波」を起さないと云うことである。
だから祝福の波があってもそれを感ずることが出来ないのである。

それは又たとえば、太陽はすべての人を照らしているが、目を瞑っている人には見えぬ、
これを祝福の流れにのらぬと云うことである。

            <感謝合掌 平成30年10月25日 頓首再拝>

神の祝福の波長に、合わぬ心 - 伝統

2018/10/26 (Fri) 04:11:55


          *「光明法語(10月26日)」より

神の祝福の波長に、合わぬ心と云うのは、怒る心、憎む心、怨む心、悲しむ心、羨む心、
嫉妬する心、猜疑する心、悪を予想する心、取越苦労する心、持越苦労する心、
口惜しい残念な心、陰気な心、沈む心、審判(さば)く心、争う心、斬り合う心、
焦(いら)立つ心、不平の心、あせる心、ケチな心

など大同小異の種々の色合(いろあい)をもった心である。

之等(これら)の心は神の祝福の波長とは調子が合わない。
神の祝福の流れに乗って何事も都合よく行こうと思うものは
是らの心を去らねばならぬ。

            <感謝合掌 平成30年10月26日 頓首再拝>

《人を祝福する者は祝福される》 - 伝統

2018/11/11 (Sun) 02:47:41


           *『女性の幸福365章』(P112)より抜粋

人々を祝福する者は神によって祝福される。
人々を憎み呪う者は、神の波長に合わないから、神の祝福の波から外れる。

神は罰を当て給わないが、憎む者、呪う者には、
それに類する者が集って来てみずからを傷つけることになるのである。
類は類を招ぶのである。

            <感謝合掌 平成30年11月11日 頓首再拝>

<万物に神の祝福の声を聴け> - 伝統

2018/11/20 (Tue) 04:04:06

       *「幸福を招く365章」(P60)より

何時(いつ)、如何なる場合、何が自分を呼び掛けて来ても、
電話が呼び掛けて来ても、訪問者が現れてきても、

それに対談する場合には、

「神はこの電話(又は人名)を通して私を祝福し給うのである。
そして神の愛吾れに流れ入って私を通して此の人を祝福し給うのである」

と念じつつ対話するが好い。

見るもの、聞くもの、それが花であろうとも、音楽であろうとも、

「神はこの花を通して(又は音楽を通して)私を祝福し給うのである。
有難うございます」

と念じつつ、その花を見、音楽を聴くがよいのである。

そして

「神の愛吾れを通してこの花を、この音楽を祝福し給う」

と更に念ずるのである。

 (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=70 より転写)


            <感謝合掌 平成30年11月20日 頓首再拝>

祝福を蒔いて歩く - 伝統

2018/12/13 (Thu) 04:27:47


         *「希望を叶える365章」(P306~307)より

「智慧の言葉」に

「道を歩いている時にも、ここに神の子が歩いていると思え」

と云う聖句がある。

何処に行くときにも、神が自分に宿っていて、行く道を照らしつつあるのだ
と黙念せよ。これは大いなる祈りである。

更に、その「自分に宿る神」が自分の安全のために自分の行く道を
照らしつつあるのみならず、その「自分に宿る神」の光が自分の向かいつつ
ある方向のすべての人々に「祝福の霊波」を投げ、「愛念」を投げ、
すべての人々を幸福にしつつあると思え。

これはなお一層大いなる祈りである。


更に自分が通行した後(あと)には、
「自分に宿る神」の「祝福の霊波」が雰囲気となって残って、
其処にいるすべての人々を必ず幸福にせずはおかないのだと念ぜよ。

これ更に大いなる祈りである。

かかる祈りをなす人の前後左右には必ず「祝福の霊波」が漂うのである。
(『生命の實相』頭注版二十二巻「聖語篇」参照)

            <感謝合掌 平成30年12月13日 頓首再拝>

あなたは常に神から祝福されています - 伝統

2019/01/22 (Tue) 04:38:56

          *「 栄える生活365章 」(P126~127)より

あなたは “ 神の子 ” として常に 神の智慧(ちえ)をもって考え、
神の愛をもって愛し、神の生命(せいめい)をもって生きるのである。

だから あなたは 決して 「 悪しき事が来るかも知れない 」 というような
愚(おろ)かな心配の念に捉(とら)えられるということはないのである。

あなたは今後、無駄な悲観や憂鬱(ゆううつ)や暗い想念感情を吹きとばして、
神の智慧をもって考え、神の感情をもって感じ、神のごとく、すべての人に、
物に、事に対して 深切なる愛を実践し、神らしい清く健全なる生活を必ず送るのである。


どんな問題が起って来ても、明るい落ち著(つ)いた 何ものをも恐れない
神の子としての精神を あなたは常に持続(じぞく)することができるのである。

そのようにあなたが信ずるならば 必ずそのようになるのである。

神の最高の自己実現であるあなたが恐れる事など
決して起って来る筈(はず)がないのである。

神の愛が 常にあなたを取り巻(ま)いて護(まも)っていて下さるのである。
あなたは常に神から導かれ、善き叡智(えいち)を授(さず)けられ、
常に祝福されているのである。

            <感謝合掌 平成31年1月22日 頓首再拝>

《 神の祝福を受ける心境こそ必要である 》 - 伝統

2019/02/11 (Mon) 04:43:20


       *『人生の秘訣365章』第1篇(P41~42) より

常に間断なく、機会ある毎に、
どんな短い仕事の間隙(かんげき)の時間でも利用して、

「自分は神の子である。
神から無限の智慧と愛と力とそれを実現するための資料とを興えられているのである」

と念ずるがよい。

念ずる力によって神からそれらが興えられるのではなく、
實相世界に於いて既に興えられているそれらの諸徳と資料とを受信し
受像し得る「實相同調」の精神波動を起すことになるのである。

すべてのものは既に興えられているのである。
それを受け得る心境を呼び出す事だけが最も必要なのである。

            <感謝合掌 平成31年2月11日 頓首再拝>

《神の祝福は又別の処から入(い)り来(きた)る 》 - 伝統

2019/02/23 (Sat) 04:48:10


           *「光明法語」(2月23日)より

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。

恩を受けねばならぬような人は、
福田がまだ乏しいから人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、
入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

            <感謝合掌 平成31年2月23日 頓首再拝>

《 あなたは神から祝福されたる者である 》 - 伝統

2019/03/12 (Tue) 02:40:27


       *『人生の秘訣365章』第1篇(P42~43) より

「汝の實相の燈火(ともしび)を手に把(と)りて起(た)ちあがれ。
汝の脚を實相の足基(そくき)の上に確乎として立てるがよい。

實相のみが実在であり、實相のみが金剛不壊であり、
その上に立つ者のみが堅固不抜であり、
實相の燈火(ともしび)のみが人生の行路を照らすのである。

毎朝の生活の出発の時“神の子”なる汝の實相を念じて、
その實相の足基の上に立ち、實相の燈火(ともしび)に照らされて歩むがよい。

神の智慧は汝を導き、神の愛は汝を護る。
神の愛は如何なる敵意よりも強く、
神の智慧は如何なる悪しき奸計(はかりごと)よりも慧いのである。

實相の燈火を掲げて進むとき、如何なる敵意も消え去り、
奸計は打ち摧(くだ)かれて汝の歩む道は平けく安らかになるのである。

悪意ある棘(いばら)は汝の歩む道に栄えることはできず、
神の愛は美しき華となって毛氈(もうせん)のように行く道に敷くのである。

汝は神の子、神から祝福されたるものである」


この言葉を繰返し繰返し朗読して、言葉の力で
あなたの“神の子”たる自覚を深化強化せられるがよい。

            <感謝合掌 平成31年3月12日 頓首再拝>

《天地一切のものを祝福せよ》 - 伝統

2019/03/28 (Thu) 04:21:35


         *『幸福を招く365章』第3項(P59) より

朝めざめたならば、神想観を行い、
「神の生命われに流れ入りて、わが生命を健かならしめ給う」と念じつつ呼吸を整え、
更に「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、
われを通して天地一切のものを祝福したまう」と云う思念を繰返すことは、
天地一切のものと和解することを如実に実践する上にきわめて善き方法である。

一切の不幸と病いは、自己が天地一切のものと和解していないで、
或る程度又は或る意味に於て敵対状態にあるから生ずるのである。

然るに上記のような思念を行うときには心の中に、
こちらから積極的に天地一切のものと和解する以上に、
天地一切のものを祝福することになるのである。

            <感謝合掌 平成31年3月28日 頓首再拝>

一切のものを祝福することは貴方を幸福に導きます。 - 伝統

2019/04/17 (Wed) 04:01:34


      *『幸福を招く365章』第7項(P138~139) より

《天地一切のものを祝福せよ》

肉体が眠っているうちにも、神は吾々の内部に活動したまうて
わが体内にては生理作用を完全に営ませ下さっているのであります。

しかし神は吾々の体内に、吾々の知らぬうちに
生理作用を営んでいられる如く、吾々の外界に於ても摂理と云う形で、
外界の事件を適当に処置していられるのでありまして、
吾々の眠っている間にも事件は自然に進行しつつあるのであります。

事件は事件が解決したときに、急に解決したのではなく、
眼に見えぬ世界で徐々に進行しつつあったのが、
或る時期が来るとハッキリと形にあらわれて解決するのであります。

あなたの心のうちに天地一切のものを祝福しなさい。
「天地一切のものよ、お前たちを私は祝福する。
お前たちが幸福であることを祈る」と
心のうちで暇があれば唱えなさい。

あなたが眠りしなに斯のように一切のものを祝福することは
貴方を幸福に導きます。

           <感謝合掌 平成31年4月17日 頓首再拝>

すべてのものを祝福する - 伝統

2019/06/03 (Mon) 03:45:37


           *『 生長の家 』(昭和25年4月10日の法語)より
              ~《感謝と祝福の日》

   吾は今日 感謝を以て この日を始めるのである。
   この日は 神に祝福されたる日である。

   よきことの外(ほか)は決して自分にはやって来ないのである。
   悪(あ)しきことは存在しないのである。

   神は吾を祝福し給うのである。
   その如(ごと)く吾も亦(また)すべての人を祝福するのである。

   わが住む世界を祝福し 人類を祝福し、国家を祝福し、社会を祝福し、
   両親を祝福し、夫又は妻を祝福し、子供を祝福し、
   部下を祝福し、召使を祝福し、凡(あら)ゆるものを祝福するのである。

   吾すべてのものを祝福するが故(ゆえ)に
   神の吾に対する祝福は実現するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13793097.html

           <感謝合掌 令和元年6月3日 頓首再拝>

祝福せよ! - 伝統

2019/06/21 (Fri) 04:17:56


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月21日)より

他(た)を呪うかわりに祝福せよ。
祝福とは福(さいわい)を祈ることである。

すべての人間を祝福したとき、すべての人間から拝まれる者となるであろう。

「もし我れ仏とならんに、
国中のすべての天、人、安楽世界に生ぜずんば正覚をとらじ」

こう願った法蔵菩薩は
すべて人間天人の福(さいわい)を祝(いの)る者であったのである。

だから今はすべての人間から阿弥陀仏として尊崇せられるのである。

みんな自分が周囲へ与えたものだけを刈り取るのである。

           <感謝合掌 令和元年6月21日 頓首再拝>

汝を呪う者を祝福せよ - 伝統

2019/07/05 (Fri) 04:46:08


          *「光明法語」(7月5日)より

「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎めと言いし教えを汝ら聞きしことあらん。
されど吾れ汝等に告ぐ、汝の敵を愛せよ。汝を呪う者を祝福せよ。
併(しか)して汝をなやめ苦しむる者のために祈れ」。

或る日私が聖書を読んでいる時に此の語から霊感を得た。

その頃私は私を裏切って私の為に出世してい乍(なが)ら、
私の悪口を言い廻っている或る人に不快な気持をもっていた。
併しこのキリストの聖句を読んだとき胸がスーッとしたのである。

私は彼を愛しようと決心した。
彼が吾が前にそのような姿をあらわすのは自分の心を鍛えて下さる神の愛である。

           <感謝合掌 令和元年7月5日 頓首再拝>

《我は一切を祝福して奉仕する》 - 伝統

2019/07/24 (Wed) 04:04:26


        *『 生長の家 』(昭和25年4月24日の法語)より

   吾(われ)は 今 自分の人生を祝福するのである。
   吾を生み給いし父母を祝福するのである。
   わが住む境遇を祝福 し、わが住む国を祝福するのである。

   何故(なぜ)なら 吾は一人でなく、
   凡ゆるものの恩恵によって
   今日ここに存在するのであるからである。

   吾が目の前に環境、吾が前に堆(うずたか)くつもっている仕事、
   それは吾を苦しめるために存在するのではなく、
   吾の内にひそむ所の大いなる力を発揮せしめんがために存在するのである。

   吾は仕事を祝福 し環境を祝福 し、仕事に感謝し、環境に感謝して、
   よろこんで奉仕するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843077.html

           <感謝合掌 令和元年7月24日 頓首再拝>

《感謝と愛念をすべてに送れ》 - 伝統

2019/08/14 (Wed) 04:54:24


        *『 生長の家 』(昭和25年5月9日の法語)より

   自分の目の前にあるすべての事物に感謝と愛念を送ることは、
   そのすべての事物を完全ならしむる所の
   もっともよき方法である。

   自分の目の前にあるすべての人々に
   感謝と愛念を以(もっ)て祝福することは
   自分自身が祝福されることになるのである。

   自分の与えたものがすべて自分にかえって来るのであって、
   人を害して自分が利益を得ようと思っても、
   それは無駄にすぎないのである。

   自分は今日から凡(あら)ゆる事物に
   感謝と愛念を送り、
   さらにすべての人々に感謝と祝福の念を送るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>

《祝福は祝福をよぶ》 - 伝統

2019/08/27 (Tue) 03:39:10


        *『 生長の家 』(昭和25年5月25日の法語)より

   腹が立つのは自分が悪いとわからずに
   人が自分に害を与えたと思うからである。

   「 親和 」 の原理によって
   自分と親和力のないものは
   一つとして自分に近づいて来る事はできない。

   されば他を呪(のろ)う前に
   自分自身を省みることが必要である。

   自分が人を呪うならば
   「 類を以(もっ)て集まる 」 親和の原則によって、
   自分を呪い害するもののみが
   尚(なお)一層多く集まって来る。

   腹が立つ時程
   人を呪ってはならない。

   敵を見るな。
   見ゆるもののために
   祝福をなげかけよ。

   祝福は祝福をよび、
   よきもののみが あなたの周囲にあつまって来る。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和元年8月27日 頓首再拝>

自分に損をかけた人を、心の中で祝福する - 伝統

2019/09/07 (Sat) 04:59:00


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月7日)より

他(ひと)の借金を支払ってやるくらいでないと
本当に無限の富の源泉を捉えることはできぬのである。

といってそれは紙幣や小切手で支払ってやることではない。

貧しき者を心の中で祝福してやり、

「なんじは神の子であって神の無限供給によりいっさいの負債(おいめ)は支払われ、
今、なんじはすでに無限の供給を受けているのである」

という意味のことを思念してやることである。

特に自分に損をかけた人に対しては、なおいっそうこの思念を恵み与えてやることが、
かえって彼を富まして、その損失を償(つぐな)うだけの力を養ってやることになる
のである。

ところがたいていの人は自分に損をかけた人を祝福するどころか、
憎んで「不幸になれ」と念ずるから結果は反対となり損失は償われないことになる。

             <感謝合掌 令和元年9月7日 頓首再拝>

すべてのものを祝福せよ - 伝統

2019/09/21 (Sat) 04:14:15


       *『 生長の家 』(昭和25年5月27日の法語)より
         ~《彼らをあるが儘(まま)ならしめよ》

   この世界は神が支配しているのである。
   神のみが支配者である。

   神がすべての人に自由を与えたのであって、
   我意のままに周囲の人を支配する様には
   造られていないのである。

   腹が立つのは己が思う様に人をしたいからである。

   他の人をして他の人自身たらしめ、
   彼をして彼自身たらしめ、

   自分の考えを以て他を強制しようという考えを
   捨てた時に始めてこの世の中は、
   神が定めた通りに万物が自然に調和して行われるのである。

   なるがままにすべてのものを祝福せよ。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

             <感謝合掌 令和元年9月21日 頓首再拝>

あなたの肉体を祝福なさいませ - 伝統

2019/10/06 (Sun) 04:40:00


        *「真理」第二巻基礎篇(P8)より

毎日、あなたの肉体を祝福なさいませ。

「汝は神の身体(からだ)である。汝は常に健康である。
汝は完全に汝の機能を果たすのである。吾れ汝にに感謝す」

と念ずるのです。

合掌して神想観又は祈りの形式でこう肉体を祝福するのも宜しいが、
体を乾布摩擦又は冷水摩擦するならば、その際こう祝福の言葉を念じながら摩擦すると、
言葉の力、思念の力であなたの肉体はより一層完全に、より一層健康になり、
老衰を防ぐことができるのです。

入浴の際、石鹸を掌につけて全身を掌でなめらかに摩擦しながら

「汝は神の身体である。物質はない、霊である。霊であるから病まず老いず
永遠に健康に汝の機能を果たすのである。有りがとう、有りがとう」

と祝福の言葉を念ずることも肉体を常に若く健康にする道であります。

             <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>

あなたの家族を祝福なさい - 伝統

2019/10/20 (Sun) 02:23:54


        *「真理」第二巻基礎篇(P8~9)より

毎日、祈りのうちに次の言葉を称えてあなたの家族を祝福なさい。

「私の父は神の子でよい父である。私の母は神の子でよい母である。
私の良人は神の子でよい良人である。私の妻は神の子でよい妻である。
私の息子は神の子でよい息子である。私の娘は神の子でよい娘である。
皆さん有り難うございます・・・・・』

(この言葉の中で、家族中にいない者を省き、足らぬ者を加えて下さい)

こう称(とな)えながら、
家族全体に感謝の念を起こすようにつとめるのであります。

家庭のうち誰かが、「手におえない」場合にはそれは自分が
その人に対して感謝の念が足りない場合が多いのであります。

そんな場合、特にその人の名を称(とな)え、その姿を目に浮かべて、
右の如く念じ、感謝の念を徹底させるように致しますと、

必ずその人は、あなたに対して優しい深切な人となります。

             <感謝合掌 令和元年10月20日 頓首再拝>

神の祝福は万人平等 - 伝統

2019/10/25 (Fri) 02:26:39


          *「光明法語(10月25日)」より

神の祝福の流れに乗ると云うことは、
神は或る人を祝福し、或る人を祝福しないと云うことではない。

神は善人にも悪人にも太陽が照らすが如く、
祝福の波を放送してい給うのである。

祝福の流れに乗らないとは、神の祝福の波長を感受するような
「神と同波長の心の波」を起さないと云うことである。
だから祝福の波があってもそれを感ずることが出来ないのである。

それは又たとえば、太陽はすべての人を照らしているが、
目を瞑っている人には見えぬ、
これを祝福の流れにのらぬと云うことである。

             <感謝合掌 令和元年10月25日 頓首再拝>

神の祝福の流れに乗るには - 伝統

2019/10/26 (Sat) 04:33:22


          *「光明法語(10月26日)」より

神の祝福の波長に、合わぬ心と云うのは、

怒る心、憎む心、怨む心、悲しむ心、羨む心、
嫉妬する心、猜疑する心、悪を予想する心、取越苦労する心、持越苦労する心、
口惜しい残念な心、陰気な心、沈む心、審判(さば)く心、争う心、斬り合う心、
焦(いら)立つ心、不平の心、あせる心、ケチな心

など大同小異の種々の色合(いろあい)をもった心である。

之等(これら)の心は神の祝福の波長とは調子が合わない。
神の祝福の流れに乗って何事も都合よく行こうと思うものは
是らの心を去らねばならぬ。

            <感謝合掌 令和元年10月26日 頓首再拝>

《人を祝福する者は祝福される》 - 伝統

2019/11/12 (Tue) 04:45:51


       *『女性の幸福365章』より

人々を祝福する者は神によって祝福される。
人々を憎み呪う者は、神の波長に合わないから、神の祝福の波から外れる。

神は罰を当て給わないが、憎む者、呪う者には、
それに類する者が集って来てみずからを傷つけることになるのである。
類は類を招ぶのである。

   伝統板・第二「ひかりの一日一言②《8日》」(2015/05/08 )
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6479787

            <感謝合掌 令和元年11月12日 頓首再拝>

人に祝福を与えるの幸福 - 伝統

2019/11/29 (Fri) 04:42:17


       *「真理」第2巻基礎編(P183)より

蒔いた種が刈り入れられるのであるから、
他(た)を祝福したならば、自分がまた祝福せられることになるのである。

しかし自分自身が祝福せられん事を欲して人を祝福するならば
それらは既に、報いを求めて与えるのであるから、
幾分商売主義に堕することになるのである。

そのような報いを求めることなしに
ただ相手の幸福のために祈るべきである。
これが本当の祝福を与える事になるのである。

本当は人を祝福した《あと》で来る報いよりも、
祝福を与えつつあるその事自身が幸福感そのものであって、
与える者は「受くる者」よりも一層幸福なのである。

祝福は本来、魂(たましい)的なものであるから、
物を与えるよりも価値は高いのである。

            <感謝合掌 令和元年11月28日 頓首再拝>

最高の与え方は祝福して与えることである - 伝統

2019/12/14 (Sat) 04:37:02


       *「真理」第2巻基礎編(P189)より

神の祝福を受けるには、まず自分が他を祝福しなければならぬ。
類は類を呼ぶからである。

人を憎むものはみずからも憎まれ、人を審くものはみずからも審かれ、
人を悪しざまに罵る者はみずからも亦悪しざまに罵られるのである。


その代りに人を祝福する者は、他からも祝福せられるのである。
愛は交流し、祝福は交流する。

祝福と云うのは、単なる「与える」以上のものである。
それは祈りを伴う与え方である。

物を与えるにも軽蔑して「投げつけるように与える」のもあれば、
「憐れんで与える」のもあり、「強制されて与える」のもあれば
「報いを求めて与える」のもある。

併し「祝福して与える」のは、
相手を尊敬して「神の子」たる実相の顕現するように祈って
与えることである。

            <感謝合掌 令和元年12月14日 頓首再拝>

神を正しく理解して祝福しましょう - 伝統

2019/12/30 (Mon) 04:24:33


          *「白鳩」(昭和39年7月号)より

『祝福する者が祝福せられる』 のです。

あなたは 『あの人は嫌いだ』 と思ったことはありませんか?  

『あります』 と仰言るのですか。 
『あの人は嫌いだ』 と思ったとき、あなたは、あの人を呪ったのです。 
祝福の反対をしたのです。 

あの人が、あなたにとって、
不愉快に感じられるように現われて来るのは当然のことなのです。 

其の人を祝福しなさい。

『あの人は神の子で、善い人だ。 善くない人だと思ったのは私の心の間違いだった』 
と深く心の中で懺悔してお詫びして御覧なさい。 

今まであんなに不快な事をしていた彼が、
あなたにとって快いことをしてくれる人に変ります。

嘘ではありません。 必ず、そうなります。 
暫く忍耐づよく、神想観中に、心の中で今まで間違った思いを懺悔し、
相手を “神の子” として祝福することを続けて御覧なさい。 

あなたの周囲が祝福に満たされた天国のように現われてまいります。


あなたは神を正しく理解しなければなりません。 
神は雲の上にいて、吾々を罰しようと思って、
吾々を監視しておるような人物ではないのであります。 

神は宇宙到る処に、普遍的な愛として智慧として生命として存在ましますのであり、
同時に吾々の中(うち)に生命として智慧として愛として宿っていられるのであります。 

そして神の意志は必ず善であり幸福でありますから、
自分自身の 『誤れる想念』 によって、
そのおのずからなる顕現を妨げない限りは、
必ず善と幸福とがあらわれて来るのであります。 

あなたは今その 『誤れる想念』 を悉く棄てて心を神の完全さの方向に振り向けます。 
そして神の祝福を今満喫するのであります。

あなたは感度の鋭い霊的ラジオセットにならなければなりません。 
人から挨拶されても面倒くさそうに返事をする人は感度の鈍い
安物のラジオセットであります。 

すべてあなたの周囲にあらわれて来る人々は、
神様の摂理で何らかの祝福か教訓かを与えるためにあらわれて来る人々でありますから、
感謝と悦びの態度及び表情で受け取らねばなりません。

『神に口なし、人をして言わしむ』 でありますから、
人の言う言葉のうちに真理があり、 『導き』 があり、
自分の心の鏡があり、反省の資料がありますから、
聴くのに耳がいたい事があっても感謝して受取るとき、
すべての言葉があなたの魂を生長さす栄養となるのであります。


http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p1.html
07/01/13--16:29:

            <感謝合掌 令和元年12月30日 頓首再拝>

自分に損害を与えた相手を祝福しなさい - 伝統

2020/01/20 (Mon) 03:56:09


常に穏やかな心で、穏やかな言葉で

       *『白鳩』(昭和39年7月号)より

周囲のちよいとした刺戟に対して直ぐに腹を立てたり、
鋭い激しい言葉で応答するのは、その人の魂が練れていない証拠である。


私たちは毎日の神想観中に、自分が “神の子” たるにふさわしく、
如何なる時にも 心の平和を失わないで、最も適当な処置を、
その時、その場、その人に対して行い得るように、

神想観中に、明確な智慧と、温かい愛情とを神から授けられるように祈り、
そのような智慧と愛とに既に満たされている自己を心に描いて
瞑想するようにしなければならない。

そのような瞑想を私たちが毎日つづけるとき、
私たちは常に穏やかな心で、穏やかな言葉で、
どんな環境にも対処することができるようになり、
自己の周囲に天国浄土が実現するのである。


誰かがあなたに損害を与えたとき、またあなたの権利を侵害したとき、
またあなたに属するものを奪ったとかいう場合に、
あなたは昂奮したり、腹を立てたり、相手を呪ったりしてはならないのです。

自分の感情が顛倒していたら、その時行う行為は、
‘してはならない’顛倒〈さかさま〉の事を行うことになり、
結果は益々悪くなるばかりなのです。

自分に損害を与えた相手を祝福しなさい。 

その人がやはり “神の子” であって “悪い人” でない事を念じなさい。 
その人と “心の世界” に於いて既に調和している事を念じなさい。 

あなたが “心の世界” に於いて完全に一切の人と調和するとき、
あなたに損害を与える人は自然に消えてしまうのであります。

  (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24659755.html  消滅)

            <感謝合掌 令和2年1月20日 頓首再拝>

実相の完全さを礼拝して呼び出すのが祝福である - 伝統

2020/02/07 (Fri) 04:03:52


       *「真理」第2巻基礎編(P190)より

祝福の根元となる真理は、「汝は神の子であると云うことである。」
「既に神の子として、すべての善きものを汝は与えられている」
―この実相を礼拝して、
相手からその実相の善さを呼び出すことである。


―― この実相を礼拝して、相手からその実相の善さを呼び出すことである。

「お前は是々のものが足らぬから与えよう」と云う与え方は、
「憐んだり、軽蔑したり」して与えるのであるから、
祝福して与えると云う部類には入らないのである。

人間は「神に於て、すべてのものは根本から与えられている」のである。
しかしそれは実相に於て斯くの如く与えられているのであって、
それを現象化する際に於ては人間がその「現象化の法則」を
如何に使用するかの自由はまかされており、
祝福は実相に於て潜在する「善さ」を呼び出す最高の方法である。

            <感謝合掌 令和2年2月7日 頓首再拝>

すべての祝福は、天の倉に貯えられたる善行から始まる - 伝統

2020/02/22 (Sat) 04:55:50


        *「光明道中記」(2月22日《天の倉に貯える日》)より   

【有(も)たざる者は尚奪われ、有てる者は尚与えらる。(「生命の實相」第十三巻)】

福田とは天の畑に蒔かれたる種子(たね)であり、天の倉に貯えられたる善行である。
すべての祝福は斯くの如き種子、斯くの如き貯えを先ず天の倉に有つことから
始まるのである。

譬えをもって言えば、若し貧しき人が商売をして成功しようと思うならば、
商売をするための資本を少しでも先ず貯えることが必要である。

それと同じく「己(おの)が運命の貧しさを嘆け」と言われるほどの
不幸不運な人ならば、その人は天の倉に貯えられたる自分の資本(福田)が
少しもないことを現しているのであるから、

その人が自己の運命を改善しようと思うならば、
先ずどんな手段を尽してでも恰も貧しき人が
資本を積むが如く、福田を積むようにしなければならぬ。

貧しき人が資本を貯えるのにどうするか。
彼は自分の食を節し、衣を節し、少しでもそれを資本の形で貯蔵しようとする。

それと同じく「運命の貧しき人」も、その貧しき運命の中にいて、
善念を貯え、愛念を蓄え、善行を積み、愛行を積むようにしなければならぬ。

貧しき農夫が明日の事を思い煩(わずら)っている時、
その最後の食事を鵞鳥に恵んでやった時、
明日の朝からその鵞鳥(がちょう)が黄金の卵を生むようになったと、
西洋の寓話は語るのである。

            <感謝合掌 令和2年2月22日 頓首再拝>

《神の祝福は又別の処から入(い)り来(きた)る 》 - 伝統

2020/02/23 (Sun) 02:14:28


           *「光明法語」(2月23日)より

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。

恩を受けねばならぬような人は、
福田がまだ乏しいから人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、
入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

            <感謝合掌 令和2年2月23日 頓首再拝>

与えられているものに感謝し祝福する - 伝統

2020/03/30 (Mon) 04:55:34


     *『女性の幸福365章』(P67《幸福への招待》)より

生活が豊かになり 幸福になる最も捷径(ちかみち)は
今自分の身辺に与えられているものに感謝し祝福することである。

心の眼をひらいて見れば既に豊かに
神徳のうちに生かされていることを知るのである。

物事が順調に行かないのは中心を忘れているからである。

すべてのうちで最も大切なる中心は
「自分は、神の子である」という自覚である。

その中心の自覚から、自分を尊敬し、自分を大事にする心が生れ
同時に他(た)の人も”神の子”であると尊敬する心が生れ
他の人をも大切にする心が生れる。

民主主義とはこうして自分を大切にし
またすべての人を尊重する精神である。

            <感謝合掌 令和2年3月30日 頓首再拝>

《感謝と祝福の日》 - 伝統

2020/04/10 (Fri) 02:45:35


        *『 生長の家 』(昭和25年4月10日の法語)より

   吾は今日 感謝を以て この日を始めるのである。
   この日は 神に祝福されたる日である。

   よきことの外(ほか)は決して自分にはやって来ないのである。
   悪(あ)しきことは存在しないのである。

   神は吾を祝福し給うのである。
   その如(ごと)く吾も亦(また)すべての人を祝福するのである。

   わが住む世界を祝福し 人類を祝福し、国家を祝福し、社会を祝福し、
   両親を祝福し、夫又は妻を祝福し、子供を祝福し、
   部下を祝福し、召使を祝福し、凡(あら)ゆるものを祝福するのである。

   吾すべてのものを祝福するが故(ゆえ)に
   神の吾に対する祝福は実現するのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13793097.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月10日 頓首再拝>

《我は一切を祝福して奉仕する》 - 伝統

2020/04/24 (Fri) 02:51:34


         *『 生長の家 』(昭和25年4月24日の法語)より

   吾(われ)は 今 自分の人生を祝福するのである。
   吾を生み給いし父母を祝福するのである。
   わが住む境遇を祝福 し、わが住む国を祝福するのである。

   何故(なぜ)なら 吾は一人でなく、
   凡ゆるものの恩恵によって
   今日ここに存在するのであるからである。

   吾が目の前に環境、吾が前に堆(うずたか)くつもっている仕事、
   それは吾を苦しめるために存在するのではなく、
   吾の内にひそむ所の大いなる力を発揮せしめんがために存在するのである。

   吾は仕事を祝福し、環境を祝福し、仕事に感謝し、環境に感謝して、
   よろこんで奉仕するのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843077.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月24日 頓首再拝>

祝福するとは、讃美し感謝し、相手の幸福を祈ること - 伝統

2020/05/08 (Fri) 04:48:30


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P140~141)より
            ~《治病霊力の根源》

他人を祝福しましょう、あなたは他より祝福されます。

私達は時々他の人が自分に冷淡であったり、利己主義であったり、
過ちを起こしたりするのを見て、腹が立ったり、嫌気がさしたりして
祝福することを忘れがちです。

そのために私達は神から放送される祝福の霊を受けえない心の波長になるのです。

神は我が家の「戸の外に立ちて」祝福の扉を叩き給えども、
自分自体がその絶縁体で扉を閉ざしてしまうのです。

祝福するとは、讃美し感謝し、相手の幸福を祈ることです。

キリストの治病伝道の歴史を見ますと、
彼は先ず神を讃美し、つぎに感謝しそしてその人の幸福を祈っているのです。
この3つを忘れてはなりません。

「自分の霊力で病気を治す」などと考えてはなりません。

イエスの驚くべき治病力は
「われ自らにては為し得ず、天の父われに在して御業をなさしめ給う。」と
神を讃美している処に根源があるのです。

            <感謝合掌 令和2年5月8日 頓首再拝>

すべての人々に感謝と祝福の念を送る - 伝統

2020/06/06 (Sat) 04:49:10


      *『 生長の家 』(昭和25年5月9日の法語)より
        ~感謝と愛念をすべてに送れ

自分の目の前にあるすべての事物に感謝と愛念を送ることは、
そのすべての事物を完全ならしむる所のもっともよき方法である。

自分の目の前にあるすべての人々に
感謝と愛念を以(もっ)て祝福することは
自分自身が祝福されることになるのである。

自分の与えたものがすべて自分にかえって来るのであって、
人を害して自分が利益を得ようと思っても、
それは無駄にすぎないのである。

自分は今日から凡(あら)ゆる事物に感謝と愛念を送り、
さらにすべての人々に感謝と祝福の念を送るのである。

            <感謝合掌 令和2年6月6日 頓首再拝>

《全てを祝福するための祈り》 - 伝統

2020/06/08 (Mon) 04:15:49


        *『 生長の家 』(昭和29年5月10日の法語)より

   「神のみが実在であって、今、われを祝福したまう」

   事務所で仕事をしている時にも、ご飯を食べている時にも、
   店でお客と応対している時にも、この言葉を心のうちに唱えて、

   この「仕事」が神であって今私を祝福してい給うのである。
   このご飯が神であって、今、私を祝福し養い給うのである。
   このお客が神であって今私を祝福しに来ていられるのである。

   こういう気持ちにあることが、あなたを繁盛させ成功させ
   幸福にならしめる心的原因になるのである。

   もし、気に喰わぬ人が来た場合にはやはり
   「神のみが実在であって、今、この人を通して
   私を祝福するために来たり給うたのである」

   と繰り返し念ずるならば、敵と見える人も味方と変じ、
   自分の不快感情も腹立ちの感情も
   自然暖かい感情に変化してしまうのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2265

            <感謝合掌 令和2年6月8日 頓首再拝>

祝福せよ! - 伝統

2020/06/21 (Sun) 04:32:51


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月21日)より

他(た)を呪うかわりに祝福せよ。
祝福とは福(さいわい)を祈ることである。

すべての人間を祝福したとき、すべての人間から拝まれる者となるであろう。

「もし我れ仏とならんに、
国中のすべての天、人、安楽世界に生ぜずんば正覚をとらじ」

こう願った法蔵菩薩は
すべて人間天人の福(さいわい)を祝(いの)る者であったのである。

だから今はすべての人間から阿弥陀仏として尊崇せられるのである。

みんな自分が周囲へ与えたものだけを刈り取るのである。

           <感謝合掌 令和2年6月21日 頓首再拝>

《祝福をいかに受けるか》 - 伝統

2020/06/29 (Mon) 04:51:52


       *『 生長の家 』(昭和29年5月22日の法語)より

   神は貴方を祝福したもうている。

   それは本当だ。

   しかし、それは空気が既に無限に与えられいるのと同じことなのである。

   人類にとってはその無限の「祝福」であるところの空気を
   吾々が無限に受け取る事が出来るためには、
   先ず吾々は息を吐き出す事が必要であるのである。

   吸い込む事や、貰うことばかり心掛けていて
   出すことや与える事を忘れている者は、無限の空気を吸おうと思って、
   一度も息を吐き出さずに吸ってばかりいる人と同じである。

   結局、その人は少しも吸う事ができないで窒息してしまうほかないのである。

   吾々が既に与えられている神の祝福を現実に受けるためには、
   先ず自らが他を祝福し、他を利する奉仕精神を起こし、
   奉仕を実践しなければならぬ。

   それを実践したとき、他からの祝福が入ってくるのである。

   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2320

           <感謝合掌 令和2年6月29日 頓首再拝>

汝を呪う者を祝福せよ - 伝統

2020/07/05 (Sun) 04:28:17


       *「光明法語」(7月5日)より

「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎めと言いし教えを汝ら聞きしことあらん。
 されど吾れ汝等に告ぐ、汝の敵を愛せよ。汝を呪う者を祝福せよ。
 併(しか)して汝をなやめ苦しむる者のために祈れ」。

或る日私が聖書を読んでいる時に此の語から霊感を得た。

その頃私は私を裏切って私の為に出世してい乍(なが)ら、
私の悪口を言い廻っている或る人に不快な気持をもっていた。

併しこのキリストの聖句を読んだとき胸がスーッとしたのである。

私は彼を愛しようと決心した。

彼が吾が前にそのような姿をあらわすのは
自分の心を鍛えて下さる神の愛である。

           <感謝合掌 令和2年7月5日 頓首再拝>

祝福は祝福をよぶ - 伝統

2020/07/20 (Mon) 03:48:39


      *『 生長の家 』(昭和25年5月25日の法語)より

腹が立つのは自分が悪いとわからずに、
人が自分に害を与えたと思うからである。

「 親和 」 の原理によって。
自分と親和力のないものは、
一つとして自分に近づいて来る事はできない。

されば他を呪(のろ)う前に、自分自身を省みることが必要である。

自分が人を呪うならば

「 類を以(もっ)て集まる 」 親和の原則によって、

自分を呪い害するもののみが、尚(なお)一層多く集まって来る。

腹が立つ時程、人を呪ってはならない。

敵を見るな。

見ゆるもののために、祝福をなげかけよ。

祝福は祝福をよび、
よきもののみが あなたの周囲にあつまって来る。

    (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132 )

           <感謝合掌 令和2年7月20日 頓首再拝>

なるがままにすべてのものを祝福せよ - 伝統

2020/08/06 (Thu) 04:55:20


          *『 生長の家 』(昭和25年5月27日の法語)より
           ~ 彼らをあるが儘(まま)ならしめよ

この世界は神が支配しているのである。神のみが支配者である。

神がすべての人に自由を与えたのであって、
我意のままに周囲の人を支配する様には造られていないのである。

腹が立つのは己が思う様に人をしたいからである。

他の人をして他の人自身たらしめ、彼をして彼自身たらしめ、
自分の考えを以て他を強制しようという考えを捨てた時に始めて
この世の中は、神が定めた通りに万物が自然に調和して行われるのである。

なるがままにすべてのものを祝福せよ。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和2年8月6日 頓首再拝>

どの日も神に祝福されている - 伝統

2020/08/24 (Mon) 04:03:45


         *『生長の家』(昭和25年6月21日の法語)より

神はすべての時間を、自己顕現の形式として祝福し給うのである。

どの時間もどの日取りも、悪いものは一つもないのである。
だから 年まわりや日取りに、ひっかかってはならないのである。

神は 決して何人(なんびと)をも
呪い給うことなく
罰し給うことなく、
常に吾らを愛し 祝福し給うているのである。

神の愛と祝福とは 永遠であって、どの日にも変わるということはない。

吾は神の祝福の大海原の中に生き、呼吸し、動き、生活しているのである。

時々肉眼で見てそれを忘れるな。

そこで目をとじ神想観して
神の愛に包まれている実相を観ぜよ。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 令和2年8月24日 頓首再拝>

自分に損をかけた人を、心の中で祝福する - 伝統

2020/09/07 (Mon) 03:18:17


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P75<9月7日>)より

他(ひと)の借金を支払ってやるくらいでないと
本当に無限の富の源泉を捉えることはできぬのである。

といってそれは紙幣や小切手で支払ってやることではない。

貧しき者を心の中で祝福してやり、

「なんじは神の子であって神の無限供給によりいっさいの負債(おいめ)は支払われ、
今、なんじはすでに無限の供給を受けているのである」

という意味のことを思念してやることである。

特に自分に損をかけた人に対しては、なおいっそうこの思念を恵み与えてやることが、
かえって彼を富まして、その損失を償(つぐな)うだけの力を養ってやることになる
のである。

ところがたいていの人は自分に損をかけた人を祝福するどころか、
憎んで「不幸になれ」と念ずるから結果は反対となり損失は償われないことになる。

           <感謝合掌 令和2年9月7日 頓首再拝>

すべてを祝福することが、自己を富ます道 - 伝統

2020/09/08 (Tue) 03:33:05


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P76<9月8日>)より

神はいっさいの本源であり、いたるところに充ち満ちてい給い、
われわれに無限に健康なる生命(せいめい)と、
豊かなる供給を与えていられるのである。

しかし、それはラジオの波のように肉眼には見えないのであって、
ただわれわれがそれに対して適当な条件を与えることによって
可視的(めにみえる)世界にあらわれて来るのである。

富める者に嫉妬し、それを搾取であると呪うことは、
「富」そのものを呪い、「富をもつこと」そのことを排斥することになるから、
その人は大いに富むことはできないのである。

貧しき者、損をかけた者を、
「無限供給」の思念によって祝福してあげるとともに、
富める者にも祝福を与えることがかえって自己を富ます道である。

           <感謝合掌 令和2年9月8日 頓首再拝>

神の祝福は万人平等 - 伝統

2020/10/25 (Sun) 04:45:46


          *「光明法語(10月25日)」より

神の祝福の流れに乗ると云うことは、
神は或る人を祝福し、或る人を祝福しないと云うことではない。
神は善人にも悪人にも太陽が照らすが如く、祝福の波を放送してい給うのである。

祝福の流れに乗らないとは、神の祝福の波長を感受するような
「神と同波長の心の波」を起さないと云うことである。
だから祝福の波があってもそれを感ずることが出来ないのである。

それは又たとえば、太陽はすべての人を照らしているが、目を瞑っている人には見えぬ、
これを祝福の流れにのらぬと云うことである。

           <感謝合掌 令和2年10月25日 頓首再拝>

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