伝統板・第二

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正食 ② - 伝統

2018/08/17 (Fri) 04:31:01


      *伝統板・第二「正食」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7078491


宇宙の根本設計としての陰陽調和

      *「心と食物と人相と」第1部
          <健康と食物と心の関係>(P27~28)より

万物はすべて陽と陰との調和を得た場合によって成り立っているのであります。

陽と陰との調和がやぶれると、そこに破壊が起こるのであります。

原子という小さな物質も、まんなかに陽電気をもったエネルギーの中心体
(すなわち原子核)があり、その周囲に陰電気をもった電子があります。

その中心体になっている原子核が破壊されて、陽と陰とのバランスが破れると
原子の崩壊が起こって、その原資はこわれてしまうのであります。

家庭でも男性(陽)が家長であって、中心座にいまして、家長が死にますと
一家離散することになるのであります。

太陽系統でも陽が中心座にいまして、陰が、太陽の周囲をめぐるのであります。
もし太陽が崩壊してしまえば、地球その他遊星には生物は存在し得なくなる
のであります。

食物にも陽と陰との調和が必要であります。

          <感謝合掌 平成30年8月17日 頓首再拝>

砂糖を過食することをやめましょう - 伝統

2018/09/14 (Fri) 04:23:07


      *「心と食物と人相と」第1部
          <健康と食物と心の関係>(P31~33)より要約抜粋

(1)砂糖は血液を酸性にします。
   血液は一定のアルカリ度を保っているのが正常なのであります。

(2)血液の酸度がたかまってきますと、人体は自衛のために、
   自分の歯や骨の成分中のカルシウムをとかして
   血液のアルカリ度を保とうとするのであります。

   そのために、歯が脆くなり、むし歯にかかりやすくなり、
   骨は粗くなり、結核菌に対する抵抗力が乏しくなります。

(3)副食物の調理には、決して精製糖を使ってはなりません。
   やむを得ず使う場合は、ほんの少量を使うのがよいのであります。

(4)感情がイライアラしている人間に対してはその「甘さ」の感じそのものが、
   ある麻酔的なハタラキを与えるので、イライラが緩和されてくるのです。

   精神的葛藤が、調和して精神的のカラサがなくなってくると、
   むやみに「甘さ」をほしがらなくなってくるのです。

          <感謝合掌 平成30年9月14日 頓首再拝>

妻の手料理が本当の幸福 - 伝統

2018/09/28 (Fri) 03:17:19


      *「心と食物と人相と」第1部
          <健康と食物と心の関係>(P34~35)より抜粋

人間の最大の幸福は妻の手料理が食べられることであります。
その料理には愛がこもっております。

食物の成分は、ただ化学的成分の問題ではないのであって、
「愛」がそれにこもっていなければならないのです。

スター・デーリーは刑務所の食事は「栄養学的に満点の成分をもっているけれども、
それは機械的に義務的につくられた食物であって”愛”の成分がかけているから。
それを食する囚人は多く胃腸障害を起こす」(『愛は刑より強し』)と
いっていますが、

女中さんのつくる食物も、それと同じく義務として仕事として機械的に調理される
のであって、”愛”の成分が欠けていることが多いのです。

          <感謝合掌 平成30年9月28日 頓首再拝>

『彼が食するところの姿』  - 伝統

2018/10/14 (Sun) 04:44:30


          *『理想世界』(昭和45年7月号)より

肉体は “ひと” の “霊” がそこに止まって表現を完うするための、
中核的道具ではあるけれども、それだけが “ひと” ではないのである。 

衣服や住居やその他いろいろの表現道具を交えたその 「間」 から発生する 
“霊的雰囲気” ぜんたいが人間なのである。

「人間」 はドテラを着たときにはドテラを着た心持になり、
紋付羽織を着たときには紋付羽織の心持になり、
背広を着たときには背広の心持になるのである。 

わざとセーターや上衣の袖に手を通さないで羽織ってシャレタつもりでいる者は、
その “姿の通りの脱線した人間” であり、ワイシャツの襟のボタンを外したままで
キチンとした服装をしない彼は、彼がそんな服装をしているのではなく、
彼がその 「服装そのままの外れた人間」 なのである。 

彼の “人格” がその服装に表現されているのである。

人間は 「服装そのままの彼」 であるということをいったが、
また、人間は 「食物そのままの彼」 であるということができるのである。 

彼が牛肉や豚肉を美味しそうに貪って食うとき、
彼は 「肉食獣そのものの彼」 になっているのである。

私は私の孫がどこかで会合するとき、たとえば友達に誘われて牛肉の料理などを
食しているならば、彼はライオンか虎の孫であって、私の 『人間の孫』 である
と見ないのである。 

これは 「たとえば」 の話であって、私の孫がそんなことをしているとは思わない
のであるが、もし “私の孫” がどこかでスポーツの試合をするために出発をするとき、
試合に勝つためのスタミナをつけるために、その母親が私に内証で牛肉の料理を
たべさせているとしたならば、私はその母親を 『ひと』 であるとはみとめないのである。 

彼女は 「ライオンの母」 であり、 「虎の母」 であるとみとめる。 
これは 『もし』 であって、私の孫がそうであるというのではない。

私は人間が獣の屍体を美味しそうに食べているのを想像するだけで、
身ぶるいをするような嫌悪を催すのである。 

人間は 『彼が食するところの姿』 そのものであるのである。

     (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24706625.html

          <感謝合掌 平成30年10月14日 頓首再拝>

甘味をたべる場合の注意 - 伝統

2018/10/27 (Sat) 03:32:59


      *「心と食物と人相と」第1部
          <健康と食物と心の関係>(P36~37)より要約抜粋

(1)純粋の砂糖は、砂糖黍に含まれている全体の成分が調和して
   保たれていないで、一方に偏しているために害が多いのであります。

(2)砂糖は陰性の食物であります。

(3)純粋の砂糖を多く食べると、人体の骨でも筋肉でも。粗いものになって、
   充実した堅実な組織にならないのです。

   堅実でない肉体組織の人は病気に犯されやすいのです。

(4)黒砂糖は、砂糖黍をしぼった汁に石灰を大量に投じて
   そのアク気を中和しながら煮つめて造るのでありますから、
   陰性の砂糖の成分が陽性の石灰(カルシューム)で中和され、

   「分散する力」と「引きしめる力」とがバランスを得ていますから、
   健康食だということができます。

(5)黒砂糖には甘蔗(砂糖黍)の成分から繊維素をのぞいたすべての成分に
   カルシュームが入っているのですから栄養が平均しています。

   黒砂糖には、糖蜜が分離されていませんから、
   このい成分が老衰を防ぎ頭髪を長く保つに役立ちます。

          <感謝合掌 平成30年10月27日 頓首再拝>

《鶏卵礼讃を止める日》 - 伝統

2018/11/17 (Sat) 03:51:24


          *「光明道中記」(11月17日)より

【汝等何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ。(『生命の實相』第一巻)】

鶏の飼料の値段が昂騰しているのに鶏卵は
生産過剰で価格が低落して副業農家は赤字で悩んでいるとの事である。

幼少期には鶏卵は発育促進にバランスを得た栄養成分をもつのであるから
大いに食べて農家の経済を補ってあげるがよい。

何しろ1個の卵殻の中にある成分だけで、
雛鳥の骨格も筋肉も内臓も脳髄も生成するだけの成分が
揃っているのだからである。

併し病人や老人にとっては、あまり推奨し得る食物ではない。
それはその成分にコレステロールが含まれているからである。

コレステロールは老人に於ては血管壁に沈着して血管の硬化し、
高血圧や、脳出血の原因になる。
病人にとっては消化不良では醗酵性下痢を起すことがある。

鶏卵は柔らかいから病人の食用として消化が好いなどと思っていると
全然その反対である。

人間は「何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ」が生長の家の主張である。

鶏卵食を摂(と)らなければ、また何々食を摂らなければ
病人や虚弱者に栄養が摂れないなどと思うなというのである。

鶏卵以外の普通の食物にもっと栄養の多いものがザラにあり、外見は硬くとも、
硬い食物繊維が胃腸を刺激して消化液の分泌を促進する。

鶏卵を食するなら硬く茹でた方が生卵よりもよく消化する。
鳩や鶏は消化を促進する刺激剤として瓦礫や貝殻を食したりする。

          <感謝合掌 平成30年11月17日 頓首再拝>

《日本的食物に目覚める日》 - 伝統

2018/11/18 (Sun) 03:50:13


          *「光明道中記」(11月18日)より

【自然は生命の源泉である。(『百事如意』)】

日本人の体位低下は、西洋人の健康増進法を直輸入したところに原因していることを
気付かぬ人が多いのは残念である。
同じ人間のようでも西洋人の健康食物と日本人の健康食物とは異なるのである。

生物の食物は、其処に生まれた周囲に生じている食物を食べるのが適食である。
同じ芋虫だと言って大根に出来た芋虫は大根の葉を食って最も生長する。
蚕は桑の葉に生じた芋虫であるから大根を食わせたら死んでしまうであろう。

西洋人と日本人との相異は、その出生せる場所が異なるから、
桑に出来た芋虫と、大根に出来た芋虫との食物の相異のように、
人間の食物も相異しなければならぬ。

日本人に西洋的食餌を押付けるのは、蚕に大根葉を食わせるのと同じである。
体位が低下し虚弱になるは、そのまま素直(与えられた場所のもの)を失って、
何を食い何を飲まんと思い煩(わずら)ったからである。

三韓征伐時代の日本人は西洋人の食物を全然食しないで
純粋の日本食で玄米を食していたから、
その体躯はいまよりもズッと骨太であった。

当時の軍刀などはあまりに長身で
現在の日本人はそれを引き抜くことすら困難である。
また重量も非常に重く到底現在の日本人には自由に振舞わしかねるものである。

          <感謝合掌 平成30年11月18日 頓首再拝>

《身土不二の真理を悟る》 - 伝統

2018/11/19 (Mon) 03:20:56


          *「光明道中記」(11月19日)より

【消化吸収とは食べた物を「人間自身」に変化してしまうことである。
                    (『生命の實相』第六巻))】

台湾の水牛は台湾産の稲藁(いねわら)を食うが、
日本産の稲藁を与えても食わないと云うことを
台湾から来た人に聴いたことがある。

人間から見れば産地が異なっても同じ稲藁に見えるけれども、
動物は本能が発達しているから、
産地の相異による自分の食物としての適不適を知っているのである。

尤(もっと)も熱帯産米は幾分パサパサしていて日本人の嗜好に適しない。
何故パサパサするかと言うと、脂肪分が少いからである。

熱帯地に住む人間には身体を熱せしうむる脂肪分が不必要であるから、
自然は熱帯地米の脂肪分を減じているのである。

茲(ここ)にも大自然が観られる。
大自然の心は熱帯地に住む人には熱帯の産物を食せよ、
寒帯の人間には寒帯の食物を食せよと云うことである。

北海道その他、寒冷の地域に行くと
脂肪の多い鮭や鱒が河川を盛り上るように上って来る。
寒地の人間の食物としてあれほど身体を温める食物は他に多くないのである。

鮭や鱒は温帯の大多数の日本人には食用に供することは遠慮し、
緯度から言えば北海道と同じ又はその以北にあたる
ヨーロッパ方面に住む民族に輸出すべしである。

国際収支の上からも健康上からもこの方がよいのである。

魚も、果物も、成るべく自分の住む土地の附近に出来たものを食べるべし。
エネルギー危機の時代に輸送力の節約にもなる。

          <感謝合掌 平成30年11月19日 頓首再拝>

《正食に帰る日》 - 伝統

2018/11/20 (Tue) 04:20:57


          *「光明道中記」(11月20日)より

【生長の家は病気を治すところではなく、病気を放すところである。
                      (『生命の實相』第十四巻)】

国民体位低下の原因に数えられるものに砂糖の過食がある。

砂糖の過食は、人間が味覚と云う五官的快楽に諛(こ)びるための
「何を食い何を飲まんと思う」心の状態の反影としての不自然食である。

その不自然的害悪を成るべく避けるためには2つの方法がある。

成るべく自分の生活地の緯度の近いところで産した砂糖を食用にすることである。
東北地方や北海道の人なら北海道附近で採れる甜菜糖を食することである。
本州の人なら成るべく本州に近いところの沖縄方面で採れる砂糖を食すべきである。

同一の形に見える砂糖でも霊妙な感覚で感ずるならば、
産地によって悉くその成分が異なるのである。

日本の精糖源は台湾、東南アジア、南米と段々日本を遠ざかって行くが、
日本の需要は出来るだけ、北は北海道の砂糖、南は沖縄産の砂糖を以てする方が、
日本人の健康食に敵(かな)う。

沖縄糖の中には精製工程が不完全で手工業的製産で
黒砂糖などを作っているとこともあるらしく、
それらは一層完全食として体位向上に適するものである。

菓子も「黒羊羹」のように黒砂糖のものの方が飽きが来ないのは、
成分が自然をそのままで平均しているからである。
自然が尊い。

          <感謝合掌 平成30年11月20日 頓首再拝>

穀物や果実を食べる場合には - 伝統

2018/12/12 (Wed) 04:43:04


      *「心と食物と人相と」第1部
          <健康と食物と心の関係>(P37~38)より

陽は「引きしめる力」、陰は「分散させる力」でありますから、
穀類(米、麦、豆類等)及び果実は外皮に陽成分が多いのであります。

皮は外から引きしめて一定の形を保たしめているのであります。
だから果実は蜜柑でも林檎でも外皮にビタミンやカルシウムも多いので、
皮ごとたべるのがよいのであります。

従来は歯の弱い人にはそれができませんでしたが、
現今ではミキサーが考案されて、大抵の果実なら、
これにいれてスイッチを入れれば、果実の全成分を液体として
食用とすることができます。

米麦でも、内部はほとんどでんぷんばかりであるのに、
その外皮にはいろいろな貴重なビタミンやミネラルが含まれているのです。

玄米を搗(つ)かずに、米粒全体を食用すればよいわけですが、
玄米の食用に慣れない人の胃腸では玄米の銀皮は消化しえないで、
歯でかみくだかれないで胃腸に入った米粒の中味へは消化液が浸透しないために、
全体の養分の吸収率を害しますから、半搗米、または胚芽米にして
食用する方がよいのであります。


ハウザー式健康若返り食は、小麦胚芽と糖蜜と、牛乳に乳酸菌を培養した
ヨーグルトをすすめておりますが、これは普通不足している食成分を
補うのによいのです。

半搗米、黒砂糖、よく漬かって乳酸菌で酸味を帯びた「大根の漬物」を
たべていると、小麦胚芽、糖蜜、ヨーグルトをたべないでも、日本的食物で、
これらと同じ成分をたべることができるのであります。

          <感謝合掌 平成30年12月12日 頓首再拝>

蕎麦が縁起物になった理由 - 伝統

2018/12/29 (Sat) 04:06:48


        *メルマガ「魔女の家庭医学」(2018/12/18)より

最近では、麺類は蕎麦屋うどんではなく、
パスタやラーメンという人が多くなりました。

カタカナ料理がダメというわけでなく、
蕎麦を食べないのは、もったいないと思うのです。


麺類だけで陰陽でみると、麺類は陽性です。

蕎麦の色が黒い事を見ても陽性ですが、
まだ実の状態を見ても、そばの実は固く小さいのが特徴です。

形も三角形で角があります。
尖っているというのも、陽性の性質です。

秋に採れるというのも、陽性ですね。


蕎麦の収穫時期は、夏と秋にあるようですが、
秋にとれた蕎麦を新そばといって、
生そばのパッケージにシールが貼られて入荷されます。

12月にもなれば、新そばが当たり前になりますが、
やはり、蕎麦が美味しいのはこの時期です。


ここからは想像ですが、

日本にはうどんの文化もあったのに、『年越しそば』となったのは、
江戸の文化が強かったというだけでなく、
浄化という意味があったのではないかと思うのです。

蕎麦には、血液をキレイにする働きがあります。

また、血管を柔軟にして、丈夫にする働きもあるのです。


昔は暖房もさほどなく、室内と室外では気温の差も激しかったでしょう。

そのような環境で、寒い地方ほど蕎麦が食べられ、
縁起物として年越しの大切な時に食べるものとして選ばれたのも
分かるような気がします。

          <感謝合掌 平成30年12月29日 頓首再拝>

ゴマ塩の効果 - 伝統

2019/01/16 (Wed) 04:18:05


      *「心と食物と人相と」第1部
          <健康と食物と心の関係>(P40~41)より要約抜粋

毎食、半搗米の飯一膳に、ゴマ塩半グラム位ずつかけてたべれば
非常に健康となります。

ゴマは、あらゆる食品のうちで、第一級にカルシウムと油とを含んでいるのです。
まるでカルシウムと油の塊みたいなものです。

その油の消化吸収をよくするための塩が、ゴマ塩には適当に混和されている
のですから、こんな便利な食品はありません。

かつて石塚左玄氏などは、玄米食にゴマ塩と味噌汁と沢庵だけあれば、
人間の健康に不足はないといった位です。

(以下略~ゴマ塩のつくり方
      その中での注意事項として、精製塩以外は焼き塩を推奨。
      理由は、マグネシウムの含有量を抑えるため。
      マグネシウムの含有量が多いと健康によくない。)

          <感謝合掌 平成31年1月16日 頓首再拝>

固い食物ほどよく消化する - 伝統

2019/02/21 (Thu) 04:44:26


      *「心と食物と人相と」第1部
          <健康と食物と心の関係>(P42~43)より

唾液の中には血管を若返らせるパロチンというホルモンが含まれているのです。

従って、よく噛むということは
血管を若返らせて老衰を防ぐということにもなるのです。

(中略)

固い食物をおそれるのは愚かなことです。

小豆なども コシあん にして固いところを全然なくしてたべますと、
胃の弱い人なら胃にもたれて、酸っぱいゲップでも出るようになるのです。

ところが《ゆであずき》そのままに、適当に塩と黒砂糖で味をつけて食べると、
なんともいえない天然の風味で、かえって消化がよいのです。

小豆の皮には造血に必要な多量のミネラルが含まれておりますから、
特に成長期の児童のオヤツにはよいものであります。

それなのに、皮をのぞいて コシあん にして、白砂糖をそえてたべたりすると、
食物の成分のバランスがこわされていますから、毎日このようなオヤツを
児童に与えていますと、体質が悪くなることはたしかだといってもよいくらいです。

          <感謝合掌 平成31年2月21日 頓首再拝>

生き物を殺して食するのは残酷か - 伝統

2019/03/12 (Tue) 02:35:48


         *『心と食物と人相と』(P46)より

殺生とか慈悲とか残酷とかいう問題を考える場合には、
真剣でなければならないのである。

ただ問題を提起して相手を試みてやろうと思うのでは、
正しい答えは得られないのである。

生命を殺すことは、生命をもつ者の共通の悲しみであり、
どうすれば殺さないで生きられるかを真剣に考えることは、
坐禅の際に与えられる公案の解釈よりも、
もっともっと重大な人生道場での公案であり、

「先生、お米をたべることも、殺生ではありませんか」
と揶揄するような気持でたずねて、先生からその解釈を教えられて、
「それでわかった」というような安っぽい問題ではないのである。

坐禅の公案は自分で解決しなければならないし、
そこに魂の進歩があると同じように、

人生道場での公案も自分で悩み自分で考え、
自分で解決するところに魂の進歩があるのである。

          <感謝合掌 平成31年3月12日 頓首再拝>

「人はその食物に似る」 - 伝統

2019/03/16 (Sat) 03:51:05


         *「光明道中記」(3月16日 「寂(さ)び」を知る日)より

【教育とは本人の内に宿る天分を引き出すことである。(『生命の實相』第七巻)】

日本人は鯛を目出たいと言うが、西洋人は鯛を不潔な魚であり
掃除夫(スカベンジャー)だと言って食べない。

鯛は死骸でも腐肉でも何でも海中の不浄物を食して、
海中を掃除する役目をすると信じられているからである。

西洋人は日本人が生臭いとして上品な食物でないとしている鰊(にしん)、鰯(いわし)、
鮭などのようなものを賞美する。類は類を招き合う、
西洋人は一言にして言えば生臭い人種である。
第一体臭が非常に強い。

その文化も生まであって、悪どくて、「寂び」の味いがない。
「寂び」の味わいを知る者は日本民族のみである。
吾々は世界一の執着なき国民である。

味いも淡々たる物が好まれるがために、鯛の如き濃厚ならざる食物が賞美せられる。
日本人を侵略民族のように思うのは日本人を知らざる者である。

類は類を招(よ)び「人はその食物に似る」
執濃(しつこ)い食物を好む民族のみが執着強く、欲深き者である。

日本人にして牛肉を多食し、魚族でも油濃きもの
 ―― 鯖(さば)、鰯(いわし)、鯵(あじ)の如き背の青き魚、
鮪(まぐろ)、鮭(さけ)、鱒(ます)の如き赤身の魚を多食する時は、
それが日本人の淡々たる性格に適せざるが故に、

その成分の一部が巧みに体外に排泄せらざる時には、
皮膚に雀斑(そばかす)、頬焼けなどとなってあらわれる。

生れつき雀斑多き者は概ねその父母が此種の食物の愛好者である。

          <感謝合掌 平成31年3月16日 頓首再拝>

吾々は形が善き性質を表現する食物を食べるべきである - 伝統

2019/03/17 (Sun) 04:48:49


           *「光明道中記」(3月17日)より
             ~人(ひと)相応(そうおう)を知る日

【教育とは引き出すこと。(『生命の實相』第七巻)】


「人はその食に似る」と言えば如何にも唯物論的に考えられる。
人間が食べるところの「物」に似ると云うのであれば「物」が主となり、
人間が従になって了う。

併し更に深く考えて見ると、
「物」は本来自性(じしょう)なく、「物、物に非ず」である。

それが或る一定の形状、色彩、性質を有すると云うことは、
それはその「物」の内部に、その形状、色彩、性質に対応するところの
心の波が存在していることを現わしているのである。

例えば吾々が顔を赧(あか)くするならば、
顔は物質であって、自性なく、自分の力で赧(あか)くはならない、
何か赧(あか)くなるところの心の波が内部に起るときに顔が赧(あか)くなるのである。

それと同じく或る植物が或る一定の形状をしていると云うことは、
その植物の内部に動いている心の波が、
そう云う形をもって象徴(しるし)となし得るような相(すがた)で
波打っているのである。

草花の美しさは十七八歳の少女の羞じらう感じを与える
 ―― そしてその草花は生殖のために蝶(ちょう)を招んでいるではないか。
やっぱり、形は心の影だ。

そうすれば吾々は形が善き性質を表現する食物を食べるべきである。

人間自身に内在する諸種の潜在的性質のうちから、
その食物に内在する心の波が「共鳴」の原理によって、
その同種のものだけを表面に引出すからである。

          <感謝合掌 平成31年3月17日 頓首再拝>

その食物の結果、人間の形態が、肉食的攻撃形態に移った - 伝統

2019/03/19 (Tue) 04:48:27


           *「光明道中記」(3月19日 人格完成の日)より

【教育の目的は完全なる人格の養成にある。(『生命の實相』第十三巻)】

実際、肉食を多くする人間は、それが数代に亙(わた)って続くときは
人間の骨格、歯の形状さえも肉食獣に似て来るのは事実である。

近頃の若い人たちは外側の門歯4本が犬歯のように尖っている人が可成り多い。
下顎が発達して横に広がり、下顎の蝶番(ちょうつがい)の支点から力点までの
距離が短く、
強靭なる肉を前歯で噛むのに力の節約が出来る設計になる。

その結果、平安朝や元禄時代の面長の瓜実顔(うりざねがお)の
上品にも優美な顔は少なくなって顎が横広がりである円顔が多くなる。

所謂近代的美人が円顔であるのは、人間の形態が、その食物の結果、
羊や馬のような草食的従順形態から、ライオンや虎や猫のような
肉食的攻撃形態に移ったことを示している。

その肉食動物は表面媚び優しく装(よそお)いて、
(猫やライオンや虎などの外装の毛皮の如何に優美なるかを見よ)
油断を見て跳(と)びかかって相手の死命を制するのである。

正々堂々と働かずに、猫撫で声の如き外交をもって
人の膝に登りつき他の寵(ちょう)を得る。

牛馬の如き草食的従順形態は、外面を飾らず、猫撫で声も出さず、
その装いも美しく飾らず、
ただ営々と努力を持って世のために自己を献(ささ)げて働くのである。

          <感謝合掌 平成31年3月19日 頓首再拝>

家庭にも食物にも調和が必要である - 伝統

2019/03/20 (Wed) 03:21:05


           *「光明道中記」(3月20日 根気の良くなる日)より

【陰陽結ばれた所に生かす力が湧いて来る。(『生命の實相』第六巻)】

植物食の中でも色々の食物がある。
その食物の中に内在する「心的存在(こころのなみ)」は
その植物の性質(こころ)だけの
相異である。

速やかに成長して速やかに腐敗し枯死するような植物には、その通りの心がある。
そいう「心」を含んでいる食物を食すれば、吾々の神の子としての自覚が
積極的に相手を支配しない限り、自分が受動的である限り、
速やかに伸びて持続性のない性質が引き出される。

(悟って超越すれば別である)

類似のものが類似のものを引き出すのである。

昆布、大根、蒟蒻(こんにゃく)、蓮根(れんこん)などの「コン」の名の附く食物は
「根気」をよくし、持続性を強める。
これは言葉の類似による「類は類を呼ぶ」心の法則の応用である。

牛蒡(ごぼう)などは一以て貫く精神のあらわれとして、
食すれば終始一貫持続性を強める。

伸びるばかりで自分ひとりで立つことの出来ない瓜類、蔓藷(つるいも)類などは
引締る力のないものとして、引締る力のある塩気を強く鹹(しおから)くして
食すべきである。

塩気は物を引締るから肉類などを鹹(しおから)くすると硬くなりすぎる。
万物は陰陽で保つ。求心力と遠心力である。

塩気は求心力、霊の力であり、
水気は遠心力 ―― ぶよぶよと膨れて外にひろがる力である。
家庭にも食物にも調和が必要である。
(以上、石塚食養法の理論)

          <感謝合掌 平成31年3月20日 頓首再拝>

食べ物の、陰と陽との調和 - 伝統

2019/03/21 (Thu) 01:54:46


     *「光明道中記」(3月21日 実相展(ひら)いて現象整う日)より

【心が交わらないなら、肉体が交じり合って何の夫婦のまじわりでありましょうぞ。
                        (『生命の實相』第二十巻)】

肉は焼けば縮まる、求心性の強いものであるからである。
餅は焼けば膨れる、遠心性のあるものだからである。

更に砂糖の乾餅(かきもち)は焼けば随分と大きく伸びる。
遠心性のものに遠心性のものを重複追加したからである。

肉は塩漬けにして焼けば益々縮まって硬く不味(まず)くなる。
求心性のものに求心性のものを重複追加したからである。

肉は淡(うす)く塩気を与え、砂糖を加えて甘味多くして食すれば美味である。
求心性のものと遠心性のものと陰と陽との調和である。

太陽は光を放ち、地球は光を吸収する。
遠心性と求心性との調和である。
其の調和の中から万物が生まれるのである。

肉食を主にしている西洋人が砂糖を多食するのは余りに害はない。
それは求心性の肉と遠心性の砂糖が調和するからである。

焼けばふくれる遠心性を其の内部力として包蔵する米を常食としながら、
徒(いたずら)に西洋の食習慣を輸入して、同じく遠心性の砂糖を過食する
ところに弊害があるのである。

遠心性を其の内部力として包蔵する食物を偏して食せば、
遠心性を中に空(うつ)ろにするが故に、内部が空ろになる筈である――

それは大阪医大の片瀬淡教授が実験せる砂糖過食の酸性血液症が
骨の成分が溶解して骨が軽石状になった実験に相照応する。

          <感謝合掌 平成31年3月21日 頓首再拝>

信仰深化による嗜好の変化、菜食への移行が自然に起こる原理 - 伝統

2019/04/12 (Fri) 02:31:33


       *「生命の實相」第8巻観行篇(P60~62)より

ふつうわれわれの肉体は「物質」であると言いますが、物質と言いますと、
われわれの五官に触れる程度の一種粗雑な振動数の限界のエネルギーの振動を言う
のでありますが、五官に触れない種類のエーテル波動が無数にあることは
最新物理学の立証せるところでありますから、

われわれの五官に触れない程度の精妙な振動数の体をも
われわれは持ちえないとは言われないのであります。

実際、近代心霊科学者の研究せるところによりますと、
われわれは肉体のほかに、エーテル体とか、幽体とか、霊体とか
いろいろ精妙な体を備えているのでありますが、

肉体そのものの振動数も、粗雑な不純な事物をなるべく思わないようにし、
静かな平和な善き思念ばかりをなるべく思うようにしていますと、
 
肉体は「念が形にあらわれた体」でありまずから、その念の浄化とともに
しだいに精妙化されて来まして、五官をとおして外界の事物を知る以外にも、
もっと精妙な波動 ―― 霊からの啓示はもちろん、神からの啓示の波動と
いうような精妙な波動をも感受することができるようになるのであります。
  

肉体が、常に浄らかな念によって浄化されて来ますと、念波の浄化作用により、
肉体組織が重濁粗雑な組織からしだいに精妙清澄な組織にまで
進化して来ますから、それに伴って、それを養うに必要な食物の性質も、
しだいに濃厚な肉食から軽い菜食に変化してくるのであります。

肉食が悪いとか好いとか言って菜食に転ずるのでは、まだ不自然でありますが、
肉体そのものの組織が精妙清澄なものに変わって来て、それにつれてしだいに
淡白な食物を要求するに至るのですから、最も自然なのであります。

念が浄まってきまして肉体の組織が浄化してきますと、
食物に対する嗜好が蛋白になってくると同時に、

肉体の感覚を不自然に薬品によって興奮せしめたり、麻酔せしめたりする
ことによって、魂の不安な寂寥を慰める必要がなくなりますから、
アルコール飲料やタバコに対する嗜好が自然にその人の日常から剥落するか、
最も適当な分量に自然の嗜好が調整されてくるのであります。

          <感謝合掌 平成31年4月12日 頓首再拝>

平和論と殺生食について~その1 - 伝統

2019/06/23 (Sun) 03:53:34


         *『心と食物と人相と』(P47~48)より

《一切衆生ことごとく仏性あり》

牛を屠殺場に曳いて行くときには、なんとなくそれを感じて
牛も涙をこぼすということを私は聞いたことがあります。


私は『生命の實相』の中で
アメリカの屠牛場の悲惨な光景を書き、トルスト イの菜食論を紹介した。

これを読む人がひとりでも多く、肉食の残虐行為から
遠離(おんり)せられんことを希望したからであります。
 

仏教は因果を説き、殺生を十不善の第一戒においているのであります。
そして、原因あれば結果は循環してくることを説くのが仏教であります。


殺す者は殺されるのであります。

人類が動物食を続行し、殺生という悪徳の上に人類だけが繁栄しようと思って、
いくら平和論を説いても、それは自己の殺生欲をくらます
ごまかしに過ぎないのであります。

平和論をなすもの、本当に平和を欲するならば、
肉食という殺生欲をやめる事から始めなければならないのであります。

           <感謝合掌 令和元年6月23日 頓首再拝>

何を食べるかで、その人の人相や運命までも変わる! - 伝統

2019/07/11 (Thu) 04:27:44


        *Web:コラム☆感謝の杜(かんしゃのもり)(2014-05-22)より

水野南北は人間の相や運命の中心に「食」があると言います。

「運命と言う字は命を運ぶと書く。食は命を養う根本、命は食に従う。
人間生涯の吉凶ことごとく食より起こる。
人間には天から与えられた天禄(食)に限りがある。

身の程を超えた美食や暴飲暴食をする者は、例え良い相に恵まれていても、
ついには天禄を食いつぶして災厄に見舞われる。
食の多少を聞き、その上で生涯の吉凶を判じるようになって以来、
万に一つの観あやまり無し!

美味を多く食い、あるいは大食する者は皆、濁肉となって生涯出世発達無し。
それ、大食をなし満腹の後は身重くなり自ら眠気さす。
覚めて身だるく面重くなる。

分限より大食をなす物、皆、濁肉となり生涯事をなさず、大いに凶である。
分限より粗食する者は例え貧弱の相であっても福寿を司る。
が、粗食とは言え大食で定まりの無い者は大凶である。

酒肉を多く摂る者は皮膚も肉も締まらず、血は濁り、骨は脆(もろ)くなり、
心気ゆるみ、意識おのずから増長し、ついには悪心を生じるものである。

大食で食の定まらね者は慎まねば生涯身上おさまり悪く、
また一時は治まっても末長くは治まりがたい。
ついには病を生じ家を損じる。

食不同で定まりの無い者は、相学上の顔良くても凶である。
全てが不安定で食を慎まねば生涯安堵を得がたい。・・・
しかれば、食は命を養う根源、恐るべきは食なり。
慎むべきは食なり。ああ、食たり。」


南北相法の素晴らしさは適中(あて)る「運命論」相法を超え、
「慎食」によってその人相、運命を変えうる物とした
「適中を誇るべきではなく、人間を救う」という所にあったのでした。

   (https://blog.goo.ne.jp/hitsuku/e/78aad77680b81de5ccc131d3e9a89f36

           <感謝合掌 令和元年7月11日 頓首再拝>

肉食に蝕まれつつある日本人 - 伝統

2019/08/02 (Fri) 04:36:26


         *『心と食物と人相と』(P48~49)より

近頃、日本人の気性が戦闘的になりつつあることは否定できません。
れは学生騒動を見ても、賃上げ闘争にしても、
自分の利益のため、または主張を通すためには、
周囲の人々や、国民全体にどんな迷惑をかけてもかまわない、
自分の利益を達成し、主張を通しさえすればそれでよいのだという、

その戦闘的行為とその内面的精神とは、日本人の食生活が変わり、
肉食度が増加した 結果、動物食には、動物が殺される時の恐怖や
怨恨や憤怒の感情が動物の腺組織を刺激して発生した毒性のホルモンが、
動物の死骸の中に含まれているので、その屍肉を食する人間には、
殺害されつつある動物のの、殺害者に対する闘争の感情を掻き立てている
毒素が、食肉者に経口的に移入せられるのです。

これらの毒素は肝臓(胆<きも>)によって処理して無毒化されるしくみに
なっているのだけれど、あまりにもその毒素の量が多くなると、
肝臓はその処理にくたびれて、処理不能となり、その結果その人間は、
肉食動物のごとく短気になり、少しの事でも興奮して、
相手を殺傷しても平気であるような気質が養成せられるのであります。

(中略~その事例)

”栄養、栄養”と肉食を奨励する政治や、マスコミ記事や、
パン食の学校給食が氾濫しているが、

豊葦原の瑞穂国に生まれた人間は、
もっと本来の食事 ――  米食に還るべきであります。

           <感謝合掌 令和元年8月2日 頓首再拝>

“平和運動”と称して闘う人 - 伝統

2019/08/22 (Thu) 04:28:13


         *『心と食物と人相と』(P49~50)より

「平和」「平和」と、平和を愛する標語をプラカードに掲げながら、
その標語とはうらはらに闘争的にならざるにはおられない“気質の荒れ”は、
日本人が肉食に変化して来て、ホルモンの成分に異常を来たしつつある結果だ
というほかはないのであります。
 
性欲の異常な興奮も、肉食から来るのである。

性遂行の倒錯化が到るところに起こって、有夫(ゆうふ)の婦人の姦通は勿論、
今の憲法では許されているし、妻子ある男だと知りながら平気で、
その男と遂情(すいじょう)するのを不道徳だと思わないような世相は
肉食の増加からもくるのであります。

なぜなら、肉食のなかにはコレステリンが多量に含まれていて、
性欲を興奮せしめる性ホルモンはコレステリンを材料として
体内で生産せられるからであります。

           <感謝合掌 令和元年8月22日 頓首再拝>

なぜ僧院の修行者は植物食なのか - 伝統

2019/09/03 (Tue) 04:45:13


         *『心と食物と人相と』(P50~51)より

古来、修行中の僧侶は性生活を清浄にし、
煩悩にわずらわされないように菜食と穀食とを主としており
肉食をして山門に入らないようにしたのも、

肉食は殺生であるからとの理由もあるが、自然の体験から、
罪を犯すごとき結果を招きやすい性欲の興奮を避けるための
自然の知恵でもあったのであります。
 
肉食に含まれている脂肪成分は、血管壁面にコレステロールの沈着を
きたし、血管の硬化をきたし、人間の老衰を早めるのであります。
それゆえに、中老以上の年齢の人々は
なるべく食さない方がよいのであります。

しかも肉類は酸性食品であるから血液酸性症(アチドーチス)を
起こして、細胞を弱体化するのであります。

さらにコレステロールを原料として、性ホルモンは合成せられる
のであるから、肉食過多び陥ればそれだけ性欲が昂進しやすく、
性犯罪を犯しやすくなるのであります。

それゆえに、性的に修行僧が堕落しないために、
仏教では肉食及びニラ、ニンニク等のごとき、
性腺を刺激する野菜をも禁じたのであります。


堂々としてよく働き、困難を耐え忍ぶ性格は
植物食によって得られるのであります。

(中略)

僧院の修道者が肉食を排して清浄なる植物食をとることにしているのは、
植物性食物は血液を清浄にし、心に平和と静謐(せいひつ)とを与え、
戦闘の心を鎮め、真理を悟得するために適当な心的状態を与えるからで
あります。

           <感謝合掌 令和元年9月3日 頓首再拝>

想念の浄化によって生活を浄化せよ - 伝統

2019/09/18 (Wed) 04:15:57


         *『心と食物と人相と』(P51~52)より

心に描くことが形にあらわれる。

動物を殺して、その肉を食いながら、
心に”平和”を描くことができるでしょうか。

もしできるならばそれは”道徳的反省”の欠如した
精神薄弱者であるのであります。

世界じゅうの多くの人がこのような精神薄弱者になっているから。
”平和””平和”と叫びながらいあtるところに闘争が開始され、
また継続されているのであります。


若い人たちよ、その若い清浄な、まだ汚れていない精神の上を、
”死”の影や、”殺し”の影や、”病気”の影や、
”不潔の想念”の影を印しないようにせよ。

高く清く高邁にして純粋なる想念を維持するようにつとめよう。
高く清く高邁にして純粋なる想念は、清浄なる空気、
清浄新鮮なる食物と同じく、血液を清らかしめ、

それが反転して、精神を清らかしめ、清らかなる生活を好むに
いたらしめるのであります。

           <感謝合掌 令和元年9月18日 頓首再拝>

肉食生活を続ける限り世界に平和は来たらず - 伝統

2019/09/26 (Thu) 03:59:44


         *『心と食物と人相と』(P52~53)より

私はアメリカへ行っとき、立派な宗教家で尊敬に値する地位にある
米人と会食をした際に、その米人が、鶏肉を串に刺したように、
大腿部の肉から突き出ている骨を指先で握りながら、
その肉 を貪り食っている姿を見た時に、

平和を唱えながら日本に原爆を落とし、
ベトナムで多くの血を流していた米人の性格の生ずる
根因を見たような気がしたのであります。

「これでは世界に平和が来るのは未(いま)だし」という
感を深くしたわけであります。


日本人の食生活がだんだんアメリカ化して肉食偏重に傾きつつあるとき、
「ヤンキー・ゴー・ホーム」などといって外部の米国人を追い払うことが
できても、

内臓の中まで侵入して来て、血液を、そして精神をも、肉食獣化しつ来つつ
ある外来毒素を一体どうするつもりでしょうか。

「ヤンキー・ゴー・ホーム」は、その米国的食生活を追放(ゴーホーム)
させなければ、精神までも「大和(だいわ)」から「好戦的」に
変えてしまいつつあるのであります。

外部へ向かって国際的に戦争するかわりに、毎日毎日、賃上げ闘争、
順法闘争、学生闘争、何々闘争・・・で明け暮れしている現状の根本的原因の
一つは、その門歯が肉食化しつつある原因と同じものであるのであります。 

           <感謝合掌 令和元年9月26日 頓首再拝>

肉食の功罪について - 伝統

2019/10/10 (Thu) 04:24:31


         *『心と食物と人相と』(P53~54)より

ミヨシ油脂の三木春逸社長が、海外旅行をおえて帰朝しての感想が、
かつて日本経済新聞に出ていましたが、それには

「生活の洋風化とかいって最近は”肉食人間”がふえているようだが、
これは考えものだ。

海外旅行してみて、日本のよさがつくづくわかった。
これは食べ物からきていると思う。

西洋は””悪魔の国”、東洋は”仏の国”、日本は”神の國」だ。

”肉食人間”の国は行動も文化も粗野で荒々しい。
もちろん体格だけはりっぱになるが、頭はカラッポだ。

最近、殺伐な事件が多いのは日本人が肉食人間になってきたからではないか。
それは肉食の鷹と草食の小鳥と比較すればわかる」

という一節がありました。


地上の人類全部が肉食をやめるようになれば
世界に目ぼしい戦争はほとんどなくなるであろうと思います。

しかし残念なことには日本の政府は肉食推奨論者であって、
国費をつかって海外から牛肉などまで輸入していて、
そして「平和」を叫ぶのだから、平和の叫びが空回りしてしまうのであります。

動物を殺しまたは殺させて食べることと、
平和を悦ぶ心とは黒白相容れない種類のものであるのであります。

アメリカ人がもし肉食をしていなかったら、
日本にトルーマンは原爆を落とさなかったであろうし、
ヴェトナムのあのような戦争は起さなかったのではないでしょうか。

           <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>

心で是認した業は一層ハッキリ循環する - 伝統

2019/10/26 (Sat) 04:38:29

2018/07/29 (Sun) 04:26:56 からの続き
因果の法則は撥無(=排斥)できない
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7078491

心で是認した業は一層ハッキリ循環する

         *『心と食物と人相と』(P69~70)より

もっとも、この心の法則というものは、知らずして殺人したとか、
過って人を殺したというような、心において殺人を意図しない場合には、
あまり「報復」というものがめぐってこないのである。
 
なぜなら、この世界の原因結果の法則を動かしているものは心の力だからである。
心そのものが殺人を意識して、それを肯定して意識的にその殺生を是認している場合は、
その業の循環がいっそうハッキリ現れてくる。

それは心によってそのアクション(行為)が支えられ、循環させられるからである。
 
(中略)

動物を食物として食べる場合にも、
「殺すのは当たり前だ」というような是認的な意見をもって食べないで、
「ああすまない」と懺悔しながら食べるときには、
業の循環の程度がそれだけ少なくなるということが、
心の法則の上からいうことができるのである。

(以下略)

           <感謝合掌 令和元年10月26日 頓首再拝>

懺悔はなぜ必要か - 伝統

2019/11/11 (Mon) 04:56:16


         *『心と食物と人相と』(P70~72)より

懺悔の心を起こして、
「自分は殺したくないのだけれども、やむを得ない。ああ、すまない」と思って食べる。

その殺生によって支えられている生命であるから、
何とか他のためになるように生かさねば、という心を起こすのが懺悔である。
 
自分一人で生活しているのであったら、
自分だけは動物を殺さないでも生きられるけれども、
家庭生活をしていると、自分だけが植物食ばかりを食べようと思っても、
親や家族から「そんなことしたら身体が衰弱する」とか、
「痩せて病気になる」と言われたりする。

(中略)
 
そうすると、これは周囲の人の愛念を生かさなければならないし、
特別に自分のために料理の苦労をかけるのも申しわけがないということで、
肉食することを心のうちで懺悔し、あやまりつつ、料理をしてくださった食物を
感謝して食べるということは許されてもよいのである。
 
このような懺悔しつつ食べるという行き方は、
「殺す」ということを是認する心で食べるのではないのであって、
やむを得ずあやまりながら食べるのであるから、
肉食を否定しつつ食べるのであるから、
業(ごう)が形に現れることを否定することになるのであります。
 
自分のやっていることを罪悪と思わないで、
それを肯定しつつ食べるという場合には、
その業が「肯定する心」に支えられて強力に形に現れてくるということは、
病気が起こったり治ったりする実例によってよくわかるのであります。

           <感謝合掌 令和元年11月11日 頓首再拝>

鶏卵礼讃を止める - 伝統

2019/11/17 (Sun) 04:52:45

          *「光明道中記」(11月17日《鶏卵礼讃を止める日》)より

【汝等何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ。(『生命の實相』第一巻)】

鶏の飼料の値段が昂騰しているのに鶏卵は
生産過剰で価格が低落して副業農家は赤字で悩んでいるとの事である。

幼少期には鶏卵は発育促進にバランスを得た栄養成分をもつのであるから
大いに食べて農家の経済を補ってあげるがよい。何しろ1個の卵殻の中にある成分だけで、
雛鳥の骨格も筋肉も内臓も脳髄も生成するだけの成分が揃っているのだからである。

併し病人や老人にとっては、あまり推奨し得る食物ではない。
それはその成分にコレステロールが含まれているからである。

コレステロールは老人に於ては血管壁に沈着して
血管の硬化し、高血圧や、脳出血の原因になる。
病人にとっては消化不良では醗酵性下痢を起すことがある。
鶏卵は柔らかいから病人の食用として消化が好いなどと思っていると全然その反対である。

人間は「何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ」が生長の家の主張である。

鶏卵食を摂(と)らなければ、また何々食を摂らなければ
病人や虚弱者に栄養が摂れないなどと思うなというのである。

鶏卵以外の普通の食物にもっと栄養の多いものがザラにあり、外見は硬くとも、
硬い食物繊維が胃腸を刺激して消化液の分泌を促進する。

鶏卵を食するなら硬く茹でた方が生卵よりもよく消化する。
鳩や鶏は消化を促進する刺激剤として瓦礫や貝殻を食したりする。

           <感謝合掌 令和元年11月17日 頓首再拝>

日本的食物に目覚める - 伝統

2019/11/18 (Mon) 04:04:40


   *「光明道中記」(11月18日《日本的食物に目覚める日》)より

【自然は生命の源泉である。(『百事如意』)】

日本人の体位低下は、
西洋人の健康増進法を直輸入したところに原因していることを
気付かぬ人が多いのは残念である。

同じ人間のようでも西洋人の健康食物と日本人の健康食物とは異なるのである。

生物の食物は、其処に生まれた周囲に生じている食物を食べるのが適食である。
同じ芋虫だと言って大根に出来た芋虫は大根の葉を食って最も生長する。
蚕は桑の葉に生じた芋虫であるから大根を食わせたら死んでしまうであろう。

西洋人と日本人との相異は、その出生せる場所が異なるから、
桑に出来た芋虫と、大根に出来た芋虫との食物の相異のように、
人間の食物も相異しなければならぬ。

日本人に西洋的食餌を押付けるのは、蚕に大根葉を食わせるのと同じである。
体位が低下し虚弱になるは、そのまま素直(与えられた場所のもの)を失って、
何を食い何を飲まんと思い煩(わずら)ったからである。

三韓征伐時代の日本人は
西洋人の食物を全然食しないで純粋の日本食で玄米を食していたから、
その体躯はいまよりもズッと骨太であった。

当時の軍刀などはあまりに長身で現在の日本人はそれを引き抜くことすら困難である。
また重量も非常に重く到底現在の日本人には自由に振舞わしかねるものである。

           <感謝合掌 令和元年11月18日 頓首再拝>

身土不二の真理を悟る - 伝統

2019/11/19 (Tue) 04:29:00


          *「光明道中記」(11月19日)より

【消化吸収とは食べた物を「人間自身」に変化してしまうことである。
                    (『生命の實相』第六巻))】

台湾の水牛は台湾産の稲藁(いねわら)を食うが、
日本産の稲藁を与えても食わないと云うことを
台湾から来た人に聴いたことがある。

人間から見れば産地が異なっても同じ稲藁に見えるけれども、
動物は本能が発達しているから、
産地の相異による自分の食物としての適不適を知っているのである。

尤(もっと)も熱帯産米は幾分パサパサしていて日本人の嗜好に適しない。
何故パサパサするかと言うと、脂肪分が少いからである。

熱帯地に住む人間には身体を熱せしうむる脂肪分が不必要であるから、
自然は熱帯地米の脂肪分を減じているのである。

茲(ここ)にも大自然が観られる。
大自然の心は熱帯地に住む人には熱帯の産物を食せよ、
寒帯の人間には寒帯の食物を食せよと云うことである。

北海道その他、寒冷の地域に行くと
脂肪の多い鮭や鱒が河川を盛り上るように上って来る。
寒地の人間の食物としてあれほど身体を温める食物は他に多くないのである。

鮭や鱒は温帯の大多数の日本人には食用に供することは遠慮し、
緯度から言えば北海道と同じ又はその以北にあたる
ヨーロッパ方面に住む民族に輸出すべしである。

国際収支の上からも健康上からもこの方がよいのである。
魚も、果物も、成るべく自分の住む土地の附近に出来たものを食べるべし。
エネルギー危機の時代に輸送力の節約にもなる。

           <感謝合掌 令和元年11月19日 頓首再拝>

正食に帰る日 - 伝統

2019/11/20 (Wed) 04:36:46


          *「光明道中記」(11月20日)より

【生長の家は病気を治すところではなく、病気を放すところである。
                       (『生命の實相』第十四巻)】

国民体位低下の原因に数えられるものに砂糖の過食がある。
砂糖の過食は、人間が味覚と云う五官的快楽に諛(こ)びるための
「何を食い何を飲まんと思う」心の状態の反影としての不自然食である。

その不自然的害悪を成るべく避けるためには2つの方法がある。

成るべく自分の生活地の緯度の近いところで産した砂糖を食用にすることである。
東北地方や北海道の人なら北海道附近で採れる甜菜糖を食することである。
本州の人なら成るべく本州に近いところの沖縄方面で採れる砂糖を食すべきである。

同一の形に見える砂糖でも霊妙な感覚で感ずるならば、
産地によって悉くその成分が異なるのである。

日本の精糖源は台湾、東南アジア、南米と段々日本を遠ざかって行くが、
日本の需要は出来るだけ、北は北海道の砂糖、南は沖縄産の砂糖を以てする方が、
日本人の健康食に敵(かな)う。

沖縄糖の中には精製工程が不完全で
手工業的製産で黒砂糖などを作っているとこともあるらしく、
それらは一層完全食として体位向上に適するものである。

菓子も「黒羊羹」のように黒砂糖のものの方が飽きが来ないのは、
成分が自然をそのままで平均しているからである。
自然が尊い。

          <感謝合掌 令和元年11月20日 頓首再拝>

口先だけでの懺悔では効果はない - 伝統

2019/12/07 (Sat) 04:09:59


         *『心と食物と人相と』(P73~74)より

もっとも、懺悔すれば業が消えるからというので、
口先だけで「すまなかった」と言えば、どれだけ肉食しても殺生してもよいと、
肉食や殺生を肯定する心になってしまっては、

「すまない」というのはただの「呪文」であって、
実際は心の中で肉食を肯定しているのだから、
やはり殺生の業は循環することになるのである。
 

さらに必要なのは、あまやると同時に、まあ魚でも牛でも、
とにかく我々の食物となるために犠牲になって下さったことに対する
感謝の念(こころ)をともなって食することが大切である。

これはその牛や魚の霊魂が冥福を得るということになる。

さらに、その犠牲を通して生かされている自分の生命であるから、
人類のために必ず貢献しましょうと、その貢献に我々がいそしむようになると、
その人が牛や魚を食べたことが、かえって他の人に食べさせるよりも
その人が食べて、

間接にその牛、または魚の霊魂が善業をつんでいることになり、
さらにその霊魂たちの冥福に寄与することになるのであります。

結局、その牛とか魚とかが誰かに食われる運命であるならば、
そういう人に食われて、人類のためになり、感謝の善念を送られて、
魂の供養を受けるということになるならば、その方がかえって
牛や魚の霊魂も救われるということにもなるわけであります。

          <感謝合掌 令和元年12月7日 頓首再拝>

釈尊が許された場合の肉食 - 伝統

2019/12/31 (Tue) 02:27:19


         *『心と食物と人相と』(P74~75)より

そういうわけで、釈尊も、本来、僧たる者は動物を食しないのだけれども、
供養された食物である場合には、それを殺生とみないで、
そこに「供養の愛念」をみて、仏の慈悲というものが食物として
そこに姿を現しているものだとして、拝んでいただくということを許されたのである
と思う。

生長の家もそういう立場から、父母や、家族や、布教に行った相手先から
献(ささ)げられた食物の場合には、たといそれが肉食であっても、
懺悔の心を起こし、その犠牲に対して、

「すみません。この供養の食(じき)を受ける限りは、この身を無駄に費やす
ことなく、供養の恩に報いるために人類の幸福のために尽くさせていただきます。
ありがとうございます」と、

あやまり、あやまり感謝して食べるというのならば、殺生の業(ごう)の
循環が少なくなって、肉食もまだ許されるというように説かれているので
あります。


次に、人間が動物職を食べなかったら栄養不良になるという問題が起るので
あるが、実際は、必ずしもそうではないということが実証されているので
あります。

肉食はただ人類の習慣であるに過ぎない。
そしてあまり良い習慣ではないのであります。

          <感謝合掌 令和元年12月31日 頓首再拝>

肉食は人類の悪習慣であって、栄養の問題ではない - 伝統

2020/01/18 (Sat) 04:46:55


         *『心と食物と人相と』(P75~79)より抜粋

(1)菜食ばかりで生活している禅宗の坊さんや、
   絶対菜食者の小牧久時博士の例により、
   動物を食べなかったら生活が維持できないというようなもの
   ではないということがわかります。

(2)健康は食物よりも心の持ち方だという気がするのであります。

(3)人間のように肉体の腕で生きるよりも、持続的に或る仕事を
   続けていく生活をするためには、穀食動物や肉食動物のように
   植物食を主として生活する方が適当していると言えるのであります。

          <感謝合掌 令和2年1月18日 頓首再拝>

やむを得ず肉食をしなければならない場合は - 伝統

2020/02/06 (Thu) 04:24:44


         *『心と食物と人相と』(P82)より抜粋

現在の社会的事情はいろいろ複雑であり、社会的環境や家庭の状態も
いろいろあるでしょうから、肉食はなるべくやめた方がいいけれども、
やむを得ず肉食をしなければならない場合は、

その殺生の業の循環をできるだけ少なくするために、
「殺生するのは当たり前だ」という心を捨てるように心がけ、

「ああ、すまない」という懺悔の心と、
「犠牲になって下さってありがたい」という感謝の心を起こして、
その生物の魂の冥福を祈ってやると同時に、

その犠牲を
「犬死におわらせないように、人類の幸福のために尽くされて頂きます」
という心を起こすことにすれば、業の循環も少なくなり、さらにまた
感謝することになれば、感謝の念そのままが平和への原動力となる
のであるから、

これは肉食の業と反対の業をつくって、肉食の業を
相殺するということになるのであります。

          <感謝合掌 令和2年2月6日 頓首再拝>

植物も生きているから、殺して食べるのは残酷だとの説に対して - 伝統

2020/02/23 (Sun) 02:21:56


         *『心と食物と人相と』(P83~87)より抜粋

ところで、こうして植物食のみを勧めると、
米だって生きているではないか、
野菜だって生きているではないかとの反駁もあれば、
その反対に、植物が人間の苦しむように切 られて痛いと感じ、
殺されるとことを悩むと考えるのは、人間が勝手に自分の感情を
植物に移入して想像するにすぎないという駁論もある。
 
(中略)

我々は動物が苦しんでいるのを見るのと同じようには、
植物が切られているのを考えることはできないのであります。

植物も生きているから植物を殺して食べるのもやっぱり 殺生ではないか
と考える人があるけれども、植物というものには個々別々に霊魂が無いのであります。

植物には「種族の魂」というものがあるけれども、
一個一個の 米粒なる「米粒一個」に魂があるかというと、そうではない。

米種族には「米種族」の魂というのがあって、全体が繁栄すればよいのであって、
一個一個に魂 (個別的魂)というものはないのであります。
 
それで、植物は自分の種族を維持するために、
その中の一部分が犠牲(というと変だが)になるように、
最初からその生命が計画している。

米は、穫れたもの全 部が自然に落ちて発芽したら密生しすぎて、
肥料分や日光の奪い合いをして、どの稲の株も実らなくなる。

そこでその稲は自分の種子を適当な間隔をおいて蒔か なければならないが、
植物というものは自分で自分の種子を適当な間隔に蒔くことはできないものだから、
それを動物なり人間なりに頼まなければならない。
 
稲に限らず、すべての植物は自分で自分の生えている位置を適当に移動することはできない。
しかし適当に移動しない限りは、彼らは自己の種族を繁殖させることはできません。

そこで彼らは動物なり人間なりの餌になるものや鑑賞し得るものを提供して、
「種族を繁殖し保持するために果実の一部分、または種子の一部分を
運搬費にあげるから持って行って食べてくれ、その代わりに必ずその一部分は蒔いてくれ」
と頼んでいるのであります。
 
それはその種族の魂が頼んでいるのであって、
一個一個の果物や穀粒が言っているののじゃないのでありますい。

果物や穀粒の一個一個は殺されても、その植物の種族が繁殖すれば、
別に殺されたのじゃないということになっているのであります。
 
例えば、蜜柑なら蜜柑が、まだ未熟であって採取して蒔いてもダメな時は、
食べてはいかんと、その果実をわざと緑の葉と同じような色にさせており、
もし過っ てちぎって食べても酸っぱかったり、不味かったりして、
とても食べられないようにしてあって、
未熟のうちには二度と食べまいと決心するように工夫しています。
 
ところが、いよいよ適当な時がきて、果実を食べてもらって、
種子をどこかへ蒔いてもらいたいという時期がくると、
その「種子蒔き賃」に美味しいものをやるからと、果実の中に美味しい味わいを貯え、
「ここに、こんなご馳走がありますよ」と言わんばかりに目立つような美しい色彩をつけて、
動物なり人間なりを誘 うようになっているのであります。

この事実を見ても、植物の果実や種子としての穀物は
食べてもらうということが彼ら自身の意志であります。

(中略)

だから、それは「殺す」のではないということになるのであります。

(以下、略)

          <感謝合掌 令和2年2月23日 頓首再拝>

人間はその食するところの食物に似る - 伝統

2020/03/15 (Sun) 03:32:55


           *「光明道中記」(3月15日《待人来る日》)より

【類は類を招(よ)ぶ。類でないものは反発する。此(この)法則で運命が形成される。
                           (『生命の實相』第一巻)】

ドイツの諺には「人間はその食するところの食物に似る」と云うのがある。
日本でも石塚食養法の石塚左玄氏は此の説をとなえて、
その食養法もそれによって指定せられていたのである。

ドイツでは生人参(なまにんじん)を食べると美しい歯と顔色になり、
蔓条(すじ)を追うて薯(いも)を作って行く馬鈴薯は推理力を、
その蔓(つる)の曲線美が芸術的である蔓豆は芸術的能力を発達させると言っている。

そこで人参を多く食するロシア農民は歯が非常に美しく顔色が人参色をしている。
馬鈴薯を小麦の代りに食べているドイツ人は世界一の哲学者科学者などを輩出している。

石塚氏は目の形が食物の形に似る事を事実を以て指摘した。
麦を常食とする人の目は麦粒の形をしており、米を常食とする人の目は米粒の形に
切れていると言って、その典型的な写真をその著書に掲げた事がある。

藷(いも)類を多食すると、手足が大きく伸びるのは藷そのものが
手足を伸ばして伸びて行くものだからだろうか。

藷は横にのびるものであるから、それを多食する者は正坐が下手であって
ごろごろと転がるものが好きである。

米を常食とする者は一株の苗から無数の株が増殖するように殖えるのである。

日本の国民は米に似てその発達増殖限りなしである。

「実るほど頭のさがる稲穂かな」。

          <感謝合掌 令和2年3月15日 頓首再拝>

食の結果が、体臭や皮膚に表れることがある - 伝統

2020/03/16 (Mon) 02:28:34


      *「光明道中記」(3月16日《「寂(さ)び」を知る日》)より

【教育とは本人の内に宿る天分を引き出すことである。(『生命の實相』第七巻)】

日本人は鯛を目出たいと言うが、西洋人は鯛を不潔な魚であり
掃除夫(スカベンジャー)だと言って食べない。

鯛は死骸でも腐肉でも何でも海中の不浄物を食して、
海中を掃除する役目をすると信じられているからである。

西洋人は日本人が生臭いとして上品な食物でないとしている
鰊(にしん)、鰯(いわし)、鮭などのようなものを賞美する。

類は類を招き合う、
西洋人は一言にして言えば生臭い人種である。
第一体臭が非常に強い。

その文化も生まであって、悪どくて、「寂び」の味いがない。
「寂び」の味わいを知る者は日本民族のみである。
吾々は世界一の執着なき国民である。

味いも淡々たる物が好まれるがために、鯛の如き濃厚ならざる食物が賞美せられる。
日本人を侵略民族のように思うのは日本人を知らざる者である。

類は類を招(よ)び「人はその食物に似る」
執濃(しつこ)い食物を好む民族のみが執着強く、欲深き者である。

日本人にして牛肉を多食し、魚族でも油濃きもの
 ―― 鯖(さば)、鰯(いわし)、鯵(あじ)の如き背の青き魚、
鮪(まぐろ)、鮭(さけ)、鱒(ます)の如き赤身の魚を多食する時は、
それが日本人の淡々たる性格に適せざるが故に、

その成分の一部が巧みに体外に排泄せらざる時には、
皮膚に雀斑(そばかす)、頬焼けなどとなってあらわれる。

生れつき雀斑多き者は概ねその父母が此種の食物の愛好者である。

          <感謝合掌 令和2年3月16日 頓首再拝>

食の結果が、人間に与える原理 - 伝統

2020/03/17 (Tue) 04:47:59


         *「光明道中記」
          (3月17日《人(ひと)相応(そうおう)を知る日》)より

【教育とは引き出すこと。(『生命の實相』第七巻)】


「人はその食に似る」と言えば如何にも唯物論的に考えられる。
人間が食べるところの「物」に似ると云うのであれば「物」が主となり、
人間が従になって了う。

併し更に深く考えて見ると、
「物」は本来自性(じしょう)なく、「物、物に非ず」である。

それが或る一定の形状、色彩、性質を有すると云うことは、
それはその「物」の内部に、その形状、色彩、性質に対応するところの
心の波が存在していることを現わしているのである。

例えば吾々が顔を赧(あか)くするならば、
顔は物質であって、自性なく、自分の力で赧(あか)くはならない、
何か赧(あか)くなるところの心の波が内部に起るときに顔が赧(あか)くなるのである。

それと同じく或る植物が或る一定の形状をしていると云うことは、
その植物の内部に動いている心の波が、
そう云う形をもって象徴(しるし)となし得るような相(すがた)で
波打っているのである。

草花の美しさは十七八歳の少女の羞じらう感じを与える
 ―― そしてその草花は生殖のために蝶(ちょう)を招んでいるではないか。
やっぱり、形は心の影だ。

そうすれば吾々は形が善き性質を表現する食物を食べるべきである。

人間自身に内在する諸種の潜在的性質のうちから、
その食物に内在する心の波が「共鳴」の原理によって、
その同種のものだけを表面に引出すからである。

          <感謝合掌 令和2年3月17日 頓首再拝>

肉食的攻撃形態と草食的従順形態 - 伝統

2020/03/19 (Thu) 05:01:23


        *「光明道中記」(3月19日《人格完成の日》)より

【教育の目的は完全なる人格の養成にある。(『生命の實相』第十三巻)】

実際、肉食を多くする人間は、それが数代に亙(わた)って続くときは
人間の骨格、歯の形状さえも肉食獣に似て来るのは事実である。

近頃の若い人たちは外側の門歯4本が犬歯のように尖っている人が可成り多い。
下顎が発達して横に広がり、下顎の蝶番(ちょうつがい)の支点から力点までの
距離が短く、強靭なる肉を前歯で噛むのに力の節約が出来る設計になる。

その結果、平安朝や元禄時代の面長の瓜実顔(うりざねがお)の上品にも優美な顔は
少なくなって顎が横広がりである円顔が多くなる。

所謂近代的美人が円顔であるのは、人間の形態が、その食物の結果、
羊や馬のような草食的従順形態から、ライオンや虎や猫のような
肉食的攻撃形態に移ったことを示している。

その肉食動物は表面媚び優しく装(よそお)いて、
(猫やライオンや虎などの外装の毛皮の如何に優美なるかを見よ)
油断を見て跳(と)びかかって相手の死命を制するのである。

正々堂々と働かずに、猫撫で声の如き外交をもって
人の膝に登りつき他の寵(ちょう)を得る。

牛馬の如き草食的従順形態は、外面を飾らず、猫撫で声も出さず、
その装いも美しく飾らず、
ただ営々と努力を持って世のために自己を献(ささ)げて働くのである。

          <感謝合掌 令和2年3月19日 頓首再拝>

人は、食する食べ物から、心に類似するものを引き出す - 伝統

2020/03/20 (Fri) 02:48:41


      *「光明道中記」(3月20日《根気の良くなる日》)より

【陰陽結ばれた所に生かす力が湧いて来る。(『生命の實相』第六巻)】

植物食の中でも色々の食物がある。
その食物の中に内在する「心的存在(こころのなみ)」は
その植物の性質(こころ)だけの相異である。

速やかに成長して速やかに腐敗し枯死するような植物には、その通りの心がある。
そいう「心」を含んでいる食物を食すれば、吾々の神の子としての自覚が
積極的に相手を支配しない限り、自分が受動的である限り、
速やかに伸びて持続性のない性質が引き出される。

(悟って超越すれば別である)

類似のものが類似のものを引き出すのである。

昆布、大根、蒟蒻(こんにゃく)、蓮根(れんこん)などの「コン」の名の附く食物は
「根気」をよくし、持続性を強める。
これは言葉の類似による「類は類を呼ぶ」心の法則の応用である。

牛蒡(ごぼう)などは一以て貫く精神のあらわれとして、
食すれば終始一貫持続性を強める。

伸びるばかりで自分ひとりで立つことの出来ない瓜類、蔓藷(つるいも)類などは
引締る力のないものとして、引締る力のある塩気を強く鹹(しおから)くして
食すべきである。

塩気は物を引締るから肉類などを鹹(しおから)くすると硬くなりすぎる。
万物は陰陽で保つ。求心力と遠心力である。

塩気は求心力、霊の力であり、
水気は遠心力 ―― ぶよぶよと膨れて外にひろがる力である。
家庭にも食物にも調和が必要である。
(以上、石塚食養法の理論)

          <感謝合掌 令和2年3月20日 頓首再拝>

食における陰と陽との調和 - 伝統

2020/03/21 (Sat) 06:49:49


           *「光明道中記」(3月21日)より
            ~実相展(ひら)いて現象整う日
          

【心が交わらないなら、肉体が交じり合って何の夫婦のまじわりでありましょうぞ。
                        (『生命の實相』第二十巻)】

肉は焼けば縮まる、求心性の強いものであるからである。
餅は焼けば膨れる、遠心性のあるものだからである。

更に砂糖の乾餅(かきもち)は焼けば随分と大きく伸びる。
遠心性のものに遠心性のものを重複追加したからである。

肉は塩漬けにして焼けば益々縮まって硬く不味(まず)くなる。
求心性のものに求心性のものを重複追加したからである。

肉は淡(うす)く塩気を与え、砂糖を加えて甘味多くして食すれば美味である。
求心性のものと遠心性のものと陰と陽との調和である。

太陽は光を放ち、地球は光を吸収する。
遠心性と求心性との調和である。
其の調和の中から万物が生まれるのである。

肉食を主にしている西洋人が砂糖を多食するのは余りに害はない。
それは求心性の肉と遠心性の砂糖が調和するからである。

焼けばふくれる遠心性を其の内部力として包蔵する米を常食としながら、
徒(いたずら)に西洋の食習慣を輸入して、同じく遠心性の砂糖を過食する
ところに弊害があるのである。

遠心性を其の内部力として包蔵する食物を偏して食せば、
遠心性を中に空(うつ)ろにするが故に、内部が空ろになる筈である――

それは大阪医大の片瀬淡教授が実験せる砂糖過食の酸性血液症が
骨の成分が溶解して骨が軽石状になった実験に相照応する。

          <感謝合掌 令和2年3月21日 頓首再拝>

食事に関すること - 伝統

2020/04/05 (Sun) 04:33:25


       *『不滅の意識』~ラマナ・マハルシとの会話(P24~26)より抜粋
       (記録者はポール・ブラントンとムナガラ・ヴェンカタラミア)


質問者  身体は真我にとって何か価値をもっていますか。

マハルシ はい、真我が実現されるのは、身体の助けを通じてです。



質問者  食事制限についてはどうですか。

マハルシ 食物は心に影響を与えます。
     正しい食物は心をサトヴィック(サットヴァの性質をもつ)にします。
     何らかのヨーガの実習には菜食が絶対に必要です。


質問者  菜食に馴れていない人々についてはどうですか。

マハルシ 習慣は環境への抵抗にすぎません。
     問題なのは心です。
     心が、ある食物が美味しいと思うように訓練されてきたというのが事実です。

     肉よりも野菜から栄養が取れるかもしれません。

     しかし、真我を実現した人の心は、食べた物に影響を受けることはありません。
     ですが、徐々に菜食に馴れるようにしなさい。


質問者  人は肉を食べている間にも、
     霊的なイルミネーション(啓示)を受けることができますか。

マハルシ できます。
     しかし徐々にその習慣を捨て、サトヴィックな食物に馴れるようにしなさい。
     一旦あなたがイルミネーションを達成したら、
     食べるものの影響はより少なくなるでしょう。
     ちょうと大きな火にとって、どんな燃料が加えられるかは重要な意味を持たないように。


質問者  あなたは肉やアルコールをやめることを勧められるのですか。

マハルシ そうです。そうすることが最初は有用な助けになるのです。
     それらのものを止めることが難しいのは、本当に必要であるからではなく、
     それらのものを摂ることが習慣になっているからです。

     心が真我の実現の内に堅固なものになるまでは、
     心にとどめるべき映像や観念をもたねばなりません。

     さもないと、瞑想は急速に眠りと(さまよえる)想念に道を譲ってしまうでしょう。

     すべての食物には微細なエキスがあります。
     心に影響を与えるのはこれです。

     そこで真我を見出そうとして瞑想を実習している人にとっては、
     それに従うことが望ましい食事規則が作られています。

     サトヴィックな食物は瞑想を助長しますが、
     肉のようなラジャシックな食物やタマシックな食物はそれを妨げます。

          <感謝合掌 令和2年4月4日 頓首再拝>

魚を食用にする場合には - 伝統

2020/04/20 (Mon) 04:56:36


         *『心と食物と人相と』(P87~89)より

けれども、魚になると事情が大分ちがう。
魚を捕るという場合に、魚はきっと逃げる。
彼らが「どうぞ食べてくれ」と言って口に入ってくるなら
それは平気で食 べても彼ら自身の自由意志を満足させるのだから罪悪ではない。

けれども、魚は殺されることを嫌って逃げる。
そういう逃げるものを追って、つかまえ、殺して
食べるということは、愛にそむくことである。

だから、愛深き人は魚をすらことさらに食すべきではないと考えられるのである。
 

しかし、ここに自然の調節の問題がある。
魚などは一尾が何十万という産卵をする。

なぜそんなに多く産卵をするかというと、
その大部分は稚魚の間に同類相食んで大量に殺されるのが
勘定に入っているからであります。
 
したがって、稚魚の間には痛覚神経が発達していない。
痛覚のないものは、それを殺して食べても残忍でないという理論も成り立つ。
それは、我々の髪の毛や爪の場合でも判ります。
 
魚なら魚の種族を繁殖させてやりながら、種族の意志を尊重し、
何十万も孵化する稚魚が、ある大きさ(あまり痛覚神経の発達しない限度の)
に達した時にそれを捕獲して食べることにして、その魚が、非常に大きく成長して、
死をおそれ、痛みを強く感じる時代に捕獲してたべる事は、
なづべく差し控えるがよいのであります。

そういうわけで『生命の實相』には「やむを得ず魚を食べなければ栄養が足らぬ
というような場合には、痛覚の発達せねなるべく小さいザコのようなものを
食べるのなら残忍性が少ないし、栄養の上からいってもそういう小魚は
骨ごと食べるから内臓の成分も骨成分もあって、あらゆる栄養分が平均して
いるから好い」という意味が書かれているのであります。

しかし、これは「殺してもよい」という意味ではなく、比較的に残忍性が乏しいから、
やむを得ず、そういう魚肉を食べなければ栄養にならぬというような信念しかない人は、
次善のはからいとして、そういうものを食べるほうが増しであるというに過ぎません。


これに反して、植物の方は、痛覚神経が無い上に、食べてもらいたくなったら、
発見されるために、わざと色を変えてそして動物なり人間なりを招いているので
あるから、それを食べるということは決して残忍ではないのであります。

植物や低級動物には個別的霊魂はなく、種族としての生命のみがあって、
その「種族生命」が一群の個生命をその類の生物として発生させているので
あるから、その種族の生命を一層生かすようにするならば、

植物が植物の種族的生命が生かされるために若干の種子を犠牲にしても
苦痛を感じないと同じように、大脳の発達していない個性的霊魂のない
低級の生物は、種族の生命を保持するために若干の個別的生命を人間に
献げても差し支えないとも言い得るのであります。

ただ人間側において、この犠牲に対して、それをできるだけ生かすように、
感謝と懺悔の心を必要とすることは言うまでもないのであります。

          <感謝合掌 令和2年4月20日 頓首再拝>

鶏卵は、病人や老人にとっては、あまり推奨し得る食物ではない - 伝統

2020/11/17 (Tue) 04:56:18


     *「光明道中記」(11月17日《鶏卵礼讃を止める日》)より

【汝等何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ。(『生命の實相』第一巻)】

鶏の飼料の値段が昂騰しているのに鶏卵は
生産過剰で価格が低落して副業農家は赤字で悩んでいるとの事である。

幼少期には鶏卵は発育促進にバランスを得た栄養成分をもつのであるから
大いに食べて農家の経済を補ってあげるがよい。

何しろ1個の卵殻の中にある成分だけで、
雛鳥の骨格も筋肉も内臓も脳髄も生成するだけの
成分が揃っているのだからである。

併し病人や老人にとっては、あまり推奨し得る食物ではない。
それはその成分にコレステロールが含まれているからである。

コレステロールは老人に於ては血管壁に沈着して血管の硬化し、
高血圧や、脳出血の原因になる。

病人にとっては消化不良では醗酵性下痢を起すことがある。
鶏卵は柔らかいから病人の食用として消化が好いなどと思っていると
全然その反対である。

人間は「何を食い何を飲まんと思い煩う勿れ」が生長の家の主張である。

鶏卵食を摂(と)らなければ、また何々食を摂らなければ
病人や虚弱者に栄養が摂れないなどと思うなというのである。

鶏卵以外の普通の食物にもっと栄養の多いものがザラにあり、外見は硬くとも、
硬い食物繊維が胃腸を刺激して消化液の分泌を促進する。

鶏卵を食するなら硬く茹でた方が生卵よりもよく消化する。
鳩や鶏は消化を促進する刺激剤として瓦礫や貝殻を食したりする。

          <感謝合掌 令和2年11月17日 頓首再拝>

日本的食物に目覚める日 - 伝統

2020/11/18 (Wed) 04:53:56


          *「光明道中記」(11月18日)より

【自然は生命の源泉である。(『百事如意』)】

日本人の体位低下は、
西洋人の健康増進法を直輸入したところに原因していることを
気付かぬ人が多いのは残念である。

同じ人間のようでも
西洋人の健康食物と日本人の健康食物とは異なるのである。

生物の食物は、
其処に生まれた周囲に生じている食物を食べるのが適食である。

同じ芋虫だと言って大根に出来た芋虫は大根の葉を食って最も生長する。
蚕は桑の葉に生じた芋虫であるから大根を食わせたら死んでしまうであろう。

西洋人と日本人との相異は、その出生せる場所が異なるから、
桑に出来た芋虫と、大根に出来た芋虫との食物の相異のように、
人間の食物も相異しなければならぬ。

日本人に西洋的食餌を押付けるのは、
蚕に大根葉を食わせるのと同じである。

体位が低下し虚弱になるは、
そのまま素直(与えられた場所のもの)を失って、
何を食い何を飲まんと思い煩(わずら)ったからである。

三韓征伐時代の日本人は西洋人の食物を全然食しないで
純粋の日本食で玄米を食していたから、
その体躯はいまよりもズッと骨太であった。

当時の軍刀などはあまりに長身で
現在の日本人はそれを引き抜くことすら困難である。
また重量も非常に重く到底現在の日本人には自由に振舞わしかねるものである。

          <感謝合掌 令和2年11月18日 頓首再拝>

身土不二の真理を悟る - 伝統

2020/11/19 (Thu) 04:55:36


          *「光明道中記」(11月19日)より

【消化吸収とは食べた物を「人間自身」に変化してしまうことである。
                     (『生命の實相』第六巻))】

台湾の水牛は台湾産の稲藁(いねわら)を食うが、
日本産の稲藁を与えても食わないと云うことを
台湾から来た人に聴いたことがある。

人間から見れば産地が異なっても同じ稲藁に見えるけれども、
動物は本能が発達しているから、
産地の相異による自分の食物としての適不適を知っているのである。

尤(もっと)も熱帯産米は幾分パサパサしていて日本人の嗜好に適しない。
何故パサパサするかと言うと、脂肪分が少いからである。

熱帯地に住む人間には身体を熱せしうむる脂肪分が不必要であるから、
自然は熱帯地米の脂肪分を減じているのである。

茲(ここ)にも大自然が観られる。
大自然の心は熱帯地に住む人には熱帯の産物を食せよ、
寒帯の人間には寒帯の食物を食せよと云うことである。

北海道その他、寒冷の地域に行くと
脂肪の多い鮭や鱒が河川を盛り上るように上って来る。
寒地の人間の食物としてあれほど身体を温める食物は他に多くないのである。

鮭や鱒は温帯の大多数の日本人には食用に供することは遠慮し、
緯度から言えば北海道と同じ又はその以北にあたるヨーロッパ方面に住む民族に
輸出すべしである。

国際収支の上からも健康上からもこの方がよいのである。
魚も、果物も、成るべく自分の住む土地の附近に出来たものを食べるべし。
エネルギー危機の時代に輸送力の節約にもなる。

          <感謝合掌 令和2年11月19日 頓首再拝>

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