伝統板・第二

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尊師の言葉(インターネット道場篇) - 伝統

2018/08/08 (Wed) 20:48:19

このスレッドでは、このスレッドでは、大熊良樹先生による
「インターネット道場365日」~「今日の言葉」の中から、
谷口雅春先生の言葉を紹介してまいります。



平成30年6月17日の言葉 より

「迷い」

      *「生命の實相」第35巻下化衆生篇(P70)より

楽しく生きるのが神の道である。

自分も生かし他(た)も生かす楽しき心が神心(かみこころ)である。

人は神の子であるから、楽しいのが本来である。
楽しくないのは「迷い」である。
その「迷い」から色々な不幸が生まれてくるのである。

「迷い」を覚まさせよ。



<関連Web>

(1)伝統板・第二「『インターネット道場日々の言葉』のご紹介」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7759861

   『インターネット道場日々の言葉』
    (https://internetdojo.wordpress.com/

(2)光明掲示板・伝統・第一「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉 (100)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=59 


(3)光明掲示板・伝統・第一「伝道体験講話~大熊良樹講師 (420)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=105


(4)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」②
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458658


(5)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」③
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6582228


(6)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」④
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6691070


(7)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑤
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6819394


(8)伝統板・第二「谷口雅春先生とその高弟の先生方の言葉」⑥
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7167361

          <感謝合掌 平成30年8月8日 頓首再拝> 

あなたは人間として生まれたことを喜ばねばならぬ - 伝統

2018/08/09 (Thu) 18:36:39

平成30年6月23日の言葉 より 

「あなたは人間として生まれたことを喜ばねばならぬ」(谷口雅春先生)

谷口雅春先生が 昭和49年1月号の「白鳩」誌にて(23日の箴言)
こう書かれてある。


 最近の唯物論的教育を受けたところの若い人のうちには、
 「頼みもしないのに、親が自分を産みやがったので、責任は親にある」
 などと此の世に生まれたことを感謝し得ない子供が随分あるらしいが、

 人間の“いのち”は“神のいのち”の自己顕現であるから、
 そして“神”は創造者であり表現者であり “何らかの生物”となっ
 て自己表現せずにはいられないのであるから、

 もし「人間」という“親”を媒介として、
 あなたに宿っている“神のいのち”が自己表現する機会に
 めぐまれなかったならば、あるいは、もっと下等な生物の親を媒介として
 “あなたのいのち” は自己表現して、豚や、犬や、鼠などに
 生まれていたかも知れないのである。

 その事を考えて見るならば、神が、あなたに宿る“神のいのち”
 (それがあなたの生命だ)を人間であるあなたの両親を通して、
 「人間の形」で此の世に出現せしめられたことが、
 こんなに有りがたいことかがわかる筈なのである。

 両親に感謝せよ。 両親に感謝せよ。 

          <感謝合掌 平成30年8月9日 頓首再拝> 

祖先に感謝すること - 伝統

2018/08/10 (Fri) 04:27:39

平成30年6月24日の言葉 より 

「人生の秘訣365章」第4篇(P102~103)谷口雅春先生


希望実現の第八の法則は、神に感謝すると共に祖先に感謝することである。
あなたという「生命体」の存在は。第一原因を神より発し、
祖先の生命(せいめい)及び霊魂を通して、爰に(ここに)
「あなた」という独自の「個性ある人間」として顕現して来たのである。

神が無ければ「あなた」は無いし、
祖先がなければ「あなた」は存在しないのである。

「恩を知る」ということは、「恩」という字が、
「原因」の“因”という字と“心”との合字であることによって
象徴されているように、

あなたの生命(せいめい)が何処より来ったかの原因を知り、
今日(こんにち)、「自分」が存在するのは。神を因として先祖を第二原因とし、
父母(ふぼ)を縁として因縁相合して自分が今此処に存在するのだ
ということを知り、その“原因”と“縁”とに対して感謝することである。

祖先に感謝するとき、祖先の霊波とのつながりが出来、
祖先の霊の護りが増加し、あなたの希望が成就し易くなるのである。

          <感謝合掌 平成30年8月10日 頓首再拝> 

正しくても暗い人は善人ではない - 伝統

2018/08/11 (Sat) 04:32:44

平成30年6月25日の言葉 より 

正しくても暗い人は善人ではない~「生命の實相」幸福篇 谷口雅春先生

 「われわれを生かすのは明るい思想である。 
  さし昇る朝日の如くさわやかな精神こそ日本精神である。」

 「善人ということは 正しいことばかりが善人ではない。 
 善悪の標準は 生長の家の出現によって 変化したのである。 

 正しくても暗い人は善人ではない、
 その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。 

 正しくとも 捉われる人は 善人ではない。 
 その人は 自分を窮屈にし、他と争い、自分を殺し、他を 殺すからである。

 正しくとも 力の弱い人は 善人ではない。 
 彼は自分を殺し、他を助けることができず、

 同時に 他を 見殺しにせねばならぬからである。」

 「明るさはあらゆるものに喜ばれる。 

 招かれないでも 明るい人は、光線のようにどこへ行ってもそこで喜ばれる。

 招かれても 暗い人は、どこへ行っても‘やがて’は嫌われる。

明るい人には常に幸福がつき纏い、暗い人には常に不幸がつきまとう。」

          <感謝合掌 平成30年8月11日 頓首再拝> 

小我と大我と一致せしめて行動せよ - 伝統

2018/08/13 (Mon) 04:53:37


平成30年6月26日の言葉 より 

「生長の家」昭和41年12月号(17日の法語)  谷 口 雅 春 先生


自己に宿る“Iam”〈小我(しょうが)〉と、
普遍の“Iam”〈宇宙の大我(たいが)〉との一致融合したとき、
如何なる悪も不幸もあらわれて来ないのである。

すべての悪と不幸とは、小我と大我と融合一致して行動することなく、
幹を離れた小枝のように、宇宙普遍のIam〈大我〉と離れてしまって、
大我の大智慧の導きから訣別してしまっているからなのである。

その象徴的神話が創世記第二章にあるアダムとイヴとが、
神の命令をきかずして“善悪を知る樹の果”を食べた ―― 

即ち大我の大智慧の導きに従わずして、小我が肉体的本能の欲望にまどわされて
勝手に善悪を定めて行動したことによって、 アダムとイヴとはエデンの楽園から
追放され、苦しみながら人生を生きなければならなくなったという物語なのである。

             ・・・

「使命を生きる祈り」

住吉大神(すみよしのおおかみ)宇宙を浄め給う
宇宙浄めの天の使いとして生まれしが、
○○○○(氏名)なり。
神は○○○○に使命を授け給う 
今日何を為すべきか教え給う 
この神より教えられし使命を実践することが、
○○○○の生き甲斐であります。

          <感謝合掌 平成30年8月13日 頓首再拝> 

天照大御神を喚招(かんしょう)し奉る行事 - 伝統

2018/08/14 (Tue) 04:50:05

平成30年6月27日の言葉 より 

「古事記と現代の預言」(第11章)谷口雅春先生

 天照大御神が天之岩屋戸(あまのいわやど)にお隠れになったために
世界が暗黒化してしまったのを、再びこの世に天照大御神を喚招(かんしょう)
し奉って、この世を光明化するための行事を行なったのでありますが、
その行事をわかりやすくするために要約しますと、大体次のようになります。

一、常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)を啼かす。

(常住不変の實相世界の真理を宣布する)

二、鏡を作りて中枝(なかつえ)に繋(か)ける。

(現象的あらわれを心の鏡として、自己反省して心を改める)

三、弥栄(やさか)の眞輝珠(まがたま)を作りて、それを上枝(ほつえ)に繋ける。

(實相世界はすべての魂が真に輝いていて美しく、各々の魂は孤立分離していないで、
一つの玉の緒によって統一された大調和の世界であることを観ずる)

四、實相世界の眞栄木(まさかき)を根こじにこじて現象界に移植する。

(現象が如何に暗黒に見えていても其の暗黒を見ないで、
實相の根元世界の光明遍照の有様をジッと観ずる)

五、白和幣(しろにぎて)、青和幣(あおにぎて)を作って下枝(しずえ)につける。

(人に接するに、必ず和顔愛語の布をもって柔らかく包んで接する)

六、太御幣(ふとみてぐら)を奉祀して祝詞をあげる。

(〝大生命〟及び祖先の生命をお祀りして聖経又は祝福の祭文を読誦する)

七、天手力男神(あめのたぢらおのかみ)をして待ちもうけさせる。

(機会をはずさず断行の決意をする)

八、天之日影(あめのひかげ)を手次(たすき)にかけ、
天之眞拆(あめのまさき)を鬘(かずら)として……云々。

(心を空しく、雑念妄想を無くして、心が裸になって、神のお導きを待つ)

九、踏みとどろかし、神懸(かんがか)りする。

(いよいよ、神霊来臨したまい、何を為すべきかを指示し給う。
その指示のまにまに、自然に行動する)

十、八百萬(やおよろず)の神共に咲(わら)いき。

(暗い表情を棄てて、既にあたかも光明が輝き出たのを悦ぶ如く、
明るい笑顔をもって行動する)


 以上、十箇条が、人生の暗黒を去り、光明を再び呼び迎えるために
必要な事項であると『古事記』は示しているのであります。

そうするといよいよ天照大御神が天之岩屋戸からお出(で)ましになりまして
この世が明るくなるのであります。
この事を『古事記』は次の如く書いております。

是(ここ)に天照大御神怪(あや)しと以為(おも)おして、
天石屋戸(あまのいわやど)を細(ほそ)めに開きて、
内より告(の)りたまえるは、吾が隠(こも)り坐(ま)すに因(よ)りて、
天原(あまのはら)自(おのず)から闇(くら)く、
葦原中国(あしはらのなかつくに)も皆闇(くら)けむと以為(おも)うを、
何由(など)て天宇受賣(あめのうずめ)は樂(あそ)びし、
亦八百萬神(やおよろずのかみ)諸々(もろもろ)咲(わら)うぞ、
とのりたまいき。

爾(すなわ)ち天宇受賣、汝(な)が命(ながみこと)に益(まさ)りて
貴(とうと)き神坐(い)ますが故に歓喜咲(えらぎ)楽(あそ)ぶ、
と白言(もう)しき。

如此(かく)言(もう)す間に、天児屋命(あめのこやねのみこと)
布刀玉命(ふとたまのみこと)、其の鏡を指し出でて、天照大御神に
示(み)せ奉る時に、天照大御神、逾(いよいよ)奇(あや)しと思おして、
稍(やや)戸(と)より出でて、臨(のぞ)み坐(ま)す時に、
其の隠り立てる天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、
其の御手を取りて引き出(いだ)しまつりき。

即ち布刀玉命(ふとたまのみこと)、尻久米繩(しりくめなわ)を
其の御後方(みしりえ)に控(ひ)き度(わた)して、
此(ここ)より内(うち)にな還(かえ)り入りましそと白言(もう)しき。

故(かれ)天照大御神出(い)で坐(ま)せる時に、
高天原(たかあまはら)も葦原中国(あしはらのなかつくに)も、
自(おのず)から照り明(あか)りき。(天石屋戸の段)

 このように、まだ光が現象界にあらわれていなくとも、
「既に光がある。立派なものがある。嬉しい、楽しい」と悦んで、
神々及び祖先を祀って、明るい気持でいると、

本当の光(天照大御神)が実相世界の扉をひらいて現象化してあらわれて
来られるという原理が爰(ここ)に説かれているのであります。

これが光明思想の実践であります。

 日本民族は本来、光明思想をもっていたので、
どんな暗黒に面しても、その奥にある光明を見つめて、
大祓祝詞(おおはらいのりと)などの言葉によって、

「暗黒の無」を宣言し、言葉によって罪穢(けが)れを消除して、
光明世界を築いて行ったのであります。そ

して、岩戸の扉がひらいて、ほんの一寸(ちょっと)、
光が射して来たならば、その機会を看過(みのが)さずに、
断行の勇気を鼓して、実相界の光(天照大御神)を現象界にまで引き出し、
決して退却しないぞという決意をして、

後方に尻久米繩(しりくめなわ<〆繩、しめなわ>)をひいて、
後方の退路を断ち切り、ただ前進あるのみの積極精神を発揮したものであります。

          <感謝合掌 平成30年8月14日 頓首再拝> 

勉強を遊戯化せしめよ - 伝統

2018/08/15 (Wed) 04:55:52

平成30年6月28日の言葉 より 

「 勉強を遊戯化せしめよ」 谷口雅春先生

仕事の遊戯化(ゆうぎか)という言葉がありますが、
勉強も遊戯化しなければなりません。

仕事を遊戯化してやれば能率も上がり、心も楽しく健康にもいいのでありますが、
勉強も遊戯化してやれば能率も上がり、心も楽しく健康に好(よ)いのであります。

 吾々はこれは仕事、これは勉強、これは遊びと区別したがりますが、
これが児童を勉強嫌いに導く第一歩であります。
勉強は遊びである。仕事は遊びである。
-こう心の中で確立してしまえば遊戯化する必要もないのであります。

 遊びそのものが勉強なのです。仕事そのものが遊びなのです。
ここに凡ての勉強と仕事とはみな楽しいものになってしまうのです。
凡(すべ)ての勉強と仕事とが遊びになってしまったら、
この世界は天国になってしまいます。

 この世界が不幸であり、苦痛であるのは
仕事に対する嫌悪感が人類の心の中を占めているからです。

これは幼児の時に教え込まれる観念に左右されるのです。
人類の世界を天国にするのは仕事に対する嫌悪感をとってしまえば何でもないのです。

 ところが仕事を強制するから人間は人間は自由を縛られた
と思って不幸になり反発するのです。

ところが子供は何でも仕事をしたいのです。
子供には仕事は本来楽しいのです。

(谷口雅春先生著「優良児を作る」)

          <感謝合掌 平成30年8月15日 頓首再拝> 

人間(ひと)は神の子である。 - 伝統

2018/08/16 (Thu) 04:06:59

平成30年6月29日の言葉 より 

人間(ひと)は神の子である。

     (「生命の實相」頭注版第5巻23p谷口雅春先生)

人間(ひと)は神の子である。
これが「生長の家」の主張する根本自覚で、
この自覚を「中心自覚」と申すのであります。

なぜこの自覚を「中心自覚」と申しますかといいますと、
この根本自覚は円の中心のようなものであって、
この中心から外的な一切の善きものが流れ出でるからであります。

この根本自覚が完全であればあるほど、この根本自覚が強烈であればあるほど、
われわれに発現する知恵はいっそう明らかとなり、愛はますます深くなり、
生きる力はいよいよ豊富となり、万事における能力は層一層旺(さかん)
となるのであります。

神われに在(い)まし、われ神の内にあるがゆえに、
すべてのこと、あらゆること、われに不可能なるものはない。

これが「中心自覚」でありまして「不可能という言葉を取り去れ」
これが生長の家の生きかたの最初の第一であります。

          <感謝合掌 平成30年8月16日 頓首再拝> 

『宗教体験の記録は科学である』 - 伝統

2018/08/17 (Fri) 04:33:37

平成30年6月30日の言葉 より 

「体験談は科学である。体験記録の集積は科学である。
人生という実験室で、人間というものに「生命の實相の真理」
を加えたらどうなるかということの立証である。」
谷口雅春先生「生命の實相」(頭注版36巻8p)

『宗教体験の記録は科学である』
 
― 福岡教育会館に於ける
講習生の体験録に題す ―

   谷口 雅春 先生        

 人々の体験する宗教的奇蹟を観て、科学的見地から見て、
そんな筈はない、そこに何か虚偽か詐術があるんだろうと批判を下すのは、
それは科学的態度ではないのであります。

本当の科学的態度は、自分の実験上の体験では
そう云うような奇蹟があらわれなかったが、
あの人がそう云う奇蹟を生じたのは何か在来知られていないところの原因が
あるのだろうと、謙虚な気持になって、その在来しられていないところの原因
を探求するようにすべきなのであります。

 若し科学者自身が体験しないところの宗教的体験をば
全て詐術であるとか申すことになりましたら、
聖書に書いてあるキリストの奇蹟は悉く欺瞞と認めなければならなくなります。

 併しなおキリストの奇蹟の如きは現代でも体験し得る人が沢山ありますが、
仏典にある十方の諸佛の存在の如きは全然感覚では体験し得ざることであり、

更に『南無阿弥陀仏と称えたら極楽浄土へ往生出来る』と云う教理の如きは、
極楽浄土へ往生した本人が決して現世へ戻って来て体験録を発表し得ない
のでありますから、斯くの如き実証なきことをアルかの如く唱えて、
善男善女にお賽銭を献ぜしめている宗教教団が白昼公然と公認されている
と云うのは抑々如何なるたねでありましょうか。

 凡そ体験と云うものは感覚に触れる事実のほかに、感情的体験もあれば、
意識的体験もあります。宗教のことは人間の情意を大いに振盪するもので
あって、情意の激しい振盪の結果、そうでなかったら到底あり得ないような
不思議な奇蹟的結果を来すこともあるのであります。

 奇蹟的結果と云えば概ねそれは感覚的に感じられる
外形の変化となって現れたのであり、これを現世利益だと云って
排斥する人もありますが、現世利益を排斥する人が毎日御飯を食べているのを
私は不思議に思うのであります。

御飯を食べて健康を維持し、働く力を持続しているのは現世利益に
ほかならないのであります。

 現世利益をお米や野菜にもとめるのは差支えないが、
『神』にそれを求めてはならないと思うのは矛盾であります。
お米や野菜の生れ出でる力―その力は『神』を措いて他のものにはないのです。

 吾々はお米や野菜を食べている限りは、『神』に現世利益を求めているのであり、
結局宗教に現世利益を求めていることになるのであります。

 しかし宗教的体験と云うのは必ずしも感覚に触れる体験だけではありません。
感覚で其処にものがあると感ずるのは吾々の精神波動でありますが、
更に之を生理的に云えば大脳表皮細胞の振動であります。

それと同じく宗教的法悦と云われる一種の感情の興奮も、
其処に斯くの如き吾々の精神波動が存在し、更に、生理的に云えば
大脳表皮細胞の振動であることは感覚的体験と同じき事実であります。

 そうすると宗教的法悦の体験記録も、それは感覚に触れて記録する
物理学の実験記録と同じく事実の記録であって、迷信の記録ではありません。

 斯う信じた時斯う云う精神的法悦をおぼえた、
斯う感じた時斯う云う宗教的歓喜を感じた、
『生命の實相』を読んだ時斯う云う悟りの悦びを得た

―斯くの如き各人が感情の上に体験した事実を記録することは、
物理学者や、化学者が実験室で放射能や分子の崩壊の実験を記録することと
同様に科学的なことであるのであります。

          <感謝合掌 平成30年8月17日 頓首再拝> 

人間は等しく神の子であり、神の最高の自己実現である - 伝統

2018/08/18 (Sat) 03:34:53

平成30年7月1日の言葉 より 

生長の家の全貌  
 昭和30年 立教25年の言葉 
    谷口雅春先生

生長の家の主張するところは「人間神の子」の真理により、
吾々日本民族がすべて「神の生命」を自己の内に宿す以上、
天皇も亦、「神」の生命をやどすのであり、

だから天皇も亦「神」にましますことは当然であり、
吾々日本国民は、瓊々杵尊が高天原より天降られて地上に日本国を建設されたときに、
瓊々杵尊と同時に天降って来皇族又は五伴緒命(いつとものをのみこと)の子孫として
互に血縁関係と云うような密接紐帯によって結ばれていると主張するのであります。


こう云う主張をするときには、
「だから生長の家は迷信だと言うんだよ。人間が天から降って来るものか」と。 


私は答える ―― 私は人間を「肉体」として話しているのはない。
人間を「霊」として話しているのである。だから私は、この論文の最初の項に
現代の日本には、如何に多くの「人体」ばかりが横行していて「人間」がいない
ことであるか ―― と言って揶揄したのであります。

「人体」が「人間」として生きて動き出すためには
神の「霊」が天降らなければならないのであります。

霊なき「人体」は「人間」ではなく、
それは人間の「無き殻」〈なきがら〉に過ぎなのであります。

人間が、人間であるためには、「なきがら」に「霊」が天降らなければらない。
かくてのみ霊なき「なきがら」が人間となり、
ただの「人体」が生きた「人間となり得るのであります。

これを「天孫降臨」即ち「神の眞子」の天降りと言うのであます。


古代日本人の自覚は日本民族全体を「天孫」即ち「神の眞子」の降臨だと観じたのでり、
それを天孫降臨の神話として表現したのであります。こ
れは決して単なる迷信でもければ、ただの作り物語でもない。

実に日本民族が、人間の本性を「久遠の神」の表現直観し得たところのものの表現であり、
それは仏典に於いて、例えば、釈迦が、その「(たましい)」を兜卒天界より
地上の摩耶夫人に降して右脇に孕んだと大無量壽経に書かているのと同様であり、

キリスト教聖書に於いては、イエスの霊が天の使いにたづさえて
処女マリアに懐妊したと云うのと同巧異曲で、
まことに雄大な人間尊厳の自覚でありして、

これをただ科学的に人間の肉体の発生を物質的精子、卵子の結合と観ずる如き、
貴なる理想なく、雄渾なる夢なきただの唯物論者の見地から迷信だと
断定して抹殺し去うとする如き葉は、みづから人間存在の基底を侮辱するものであって、
まことに気の毒自己劣等感と言わなければならないのであります。

真の民主主義なるものは、「神霊降下」の人間の高貴の根本自覚から
出発しなければらぬのでありまして、
人間が瓦礫と等しく、ただの物質的分子の集合体であるならば、
人間に基本人権と云うような高貴なものの存在の余地がないのであります。

斯くの如く説ことによって、生長の家は、日本の神話的歴史を否定することなく、
しかもそれを民主義に根拠を与えながら、
人間尊厳の自覚に貢献しつつあるのであります。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/01/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-7/

          <感謝合掌 平成30年8月18日 頓首再拝> 

日本建国の理想の復活 - 伝統

2018/08/19 (Sun) 04:51:22

平成30年7月2日の言葉 より 

谷口雅春先生は「国のいのち」「ひとのいのち」についてかくの述べられている。

・・・・・・・・・・・・・・・・

〈昭和30年〉

立教25年「日本建国の理想の復活」

      谷口 雅春先生

 
神武天皇、即位建都の大詔には次の如く書かれているのであります。

「・・・・夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。
苟民(おほみたから)に利有らば、何ぞ聖の造(わざ)に妨(たが)はむ。
且当(またまさ)に山を披(ひら)き払ひ、宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、
恭(つつし)みて宝位に臨み以て元元(おほみたから)を鎮むべし。
上(かみ)は則(すなは)ち乾霊(あまつかみ)の國をけたまひし徳(うつくしび)に答へ、
下は則ち皇孫正(すめみまただしき)を養ひたまふ心弘めん。
然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、
八紘(あめのした)を掩ひ宇(いへ)を為(せ)むこと、亦可からずや。
夫(か)の畝傍山の東南(たつみのすみ)、橿原地(ところ)を観れば、
蓋し國の墺區(もなか)か、治(みやこつく)るべし。」 

これを略解して見ますと、
  
「思うに大人(ひじり)が制度を立てるにあたっては、
必ずその時勢に順応した良い度を立てなければならぬ。

苟も人民の利益になる事であったならば、たとい聖人の制定たものであっても、
その制度を変更するに何の妨げがあろうや。

 〈註:ここに日本天皇の民主主義的性格があらわれているのであります。〉  

朕は、いま山林をひらき伐採て宮殿を築造経営し、恭しい心持で天皇の位に即き、
人民の安寧と幸福とをはかれであう。

そして上は、神が國を授けたもうた其の御神徳に答え奉り、
下は皇孫以下が正しいを養成するよすがとし、
そして天下を治める為の都をひらき、その徳をひろめて、

世界八方の荒れたる隅々までも一つの家庭として人類は皆兄弟として
互に手をつなぐべき目を実現するために、畝傍山の東南、橿原の地に都をつくるであろう。」


この詔勅には何処にも侵略的な精神は見られないのであります。
世界を一家族として人類を兄弟とする其の中心地として
畝傍山の東南の橿原の地に都をつくろうと仰せられのでありまして、

まだ此の詔には「大和國(やまとのくに)」と云う国号はあらわれておませんが、
此の橿原の地を中心に「大和國」と称せられることになったのでありまして、
「和(やまと)」の国号そのものにも全世界の人類が一つの家族として和合する
と云う建国理想があらわれるのであります。 

〈私の記憶によりますと、文書として日本の国号ヤマトと称せられている
最初は日本書紀の神功皇后の條であります。〉

 
日本建国の理想の復活

兎も角、斯くして、日本の歴史は形の世界に神武天皇があろうがなかろうが、
日本民の魂の歴史に於いては、その建国の精神の擬人化として
神武天皇がましますのであります

神武天皇と大和(だいわ)の理想は日本民族の魂の中に厳然として
存在するところの理念ありまして、形の世界はその理念の具象化として、
徐々に展開して行くものでありまして途中に色々の消長や停頓がありましても、

この「神武」の理念と「大和(だいわ)」の理とを骨子として、
それに具体的歴史が肉付けられて行くのでありますから、
神武建国の実は歴史註中の歴史なる一大因縁の「因」をなすものとして、
日本の歴史より決して抹殺去るべきものではないのであります。

 
生長の家は斯う云う説き方によって、日本の國體を護持し、
日本国民の自尊心を護持し現代の日本が「大和(だいわ)」の理念の展開として
国際的に世界各国と手をつないで行精神的基礎を与えるのに努力しているのでありまして、

そのことは、戦後私が書いた『生の書』及び『限りなく日本を愛す』の本を読んで
頂ければ詳しくわかるのであり、こにはその一端を書いたに過ぎないのであります。

これらの事は、すべて理念の世界は現象世界に先立つのであり、
現象世界は理念の世を模倣して展開すると云う、根本教義から来ているのであって、
取って附けたように、国精神に迎合したものではないところに注目せられたいのであります。

 
     新しき教育法の創始

理念の世界は現象世界に先行すると云う根本原理から、
生長の家は新しい教育方法を始したのであります。

在来の教育方法は、道徳的方面では、形の方から、善の型をこしらえて、
このように間は生活しなければならないと云うように指導するのでありますが、
生長の家では人間「神の子」であり、その『實相』は必ず、善良であり、
どんな不良と見える子供〈青年も含む〉でも、それは周囲の人々の心の投影によって、
そのように見えるのであるから周囲の人々が、

その子供を「不良」と観る心を捨てて、「實相の完全さ」を観じて、賞るようにすれば、
必ず善良なる人間になると主張するのでありまして、

単にそれが学説して主張されるだけではなく、実際に不良児童と称せられていた
少年又は青年を優良児変貌せしめつつあり、医術では完全治癒が不可能である
とみとめられていたヒロポン中患者さえも完全治癒に導いて、
善良なる青年として更生せしめた実例も多いのであります。 

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/04/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-8/

          <感謝合掌 平成30年8月19日 頓首再拝> 

堕胎は殺人 - 伝統

2018/08/20 (Mon) 04:13:29

平成30年7月4日の言葉 より 

『白鳩』誌 46年11月号より

「胎児を殺してはならない。堕胎するということは殺人である。」

   谷口雅春先生

あなたは何を今思っているのか 今日、唯今、この瞬間、この分秒、
何を自分が心に思っているかということが大切なのである。
過去に何があったかなどということを振返ってくよくよすることはない。

あなたが、今、思っていることが、次の時間、次の日、次の月、次の年、
いつの日にか、その思いのパターン〈型〉が具体化したものが、
あなたの境遇、運命、生活状態等々……として具体化するのである。

 
常に明るい、幸福なことを心に思うということは、
あなたの次の運命を幸福になしつつあるのである。
心に思うことが業(ごう)をつくるのである。

この世界は、唯心所現 ―― 即ち“心の現すところの世界”であるからである。

過って蟻を踏み殺しても、それは殺生の業(ごう)をつくったことにはならない。

それは山の落石が襲って来て、それが当って人間が死んだと同じであって、
その落石には、人間を殺すという意志はない。
それゆえに、その落石には殺生の業(ごう)をつくったということはないのである。

蟻を知らずに踏み殺しても殺生ではない。

しかし、胎児を殺して堕胎するということは、
明らかに“殺す”という意志がはたらいているのである。
それは殺生の業(ごう)をつくる。

それは循環する。
与えたものが与え返されるのが業(ごう)の循環の法則である。

私たちに最も必要なのは“愛”の業(ごう)を積むことである。
そして感謝の業(ごう)を積むことである。

常に、時々(じじ)、刻々、念々、
「私は神を愛する。私はすべての人間を愛する」と念ずるがよい。

あなたの“心の世界”にこうして“愛”の想念を積み重ねて行くことにするならば、
憎しみや、嫉妬や、呪いや、怒りの感情想念はあなたの“心の世界”に住むことが
できなくなる。

そしてあなたの“心の世界”に愛が充満するようになったとき、
あなたの現実の世界も愛に充たされたものとなるのである。
愛に充たされた世界は天国である。
かくして、あなたの現実世界が天国となるのである。

『白鳩』誌 46年11月号

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          <感謝合掌 平成30年8月20日 頓首再拝> 

『自他一体』を行ずる - 伝統

2018/08/21 (Tue) 04:29:09


平成30年7月5日の言葉 より 

『自他一体』 

一番近いところから愛する

  谷口 雅春先生

吾々の本当の相(すがた)は自他一体でございます。
吾々はみんな兄弟であり、全体に繋がっているのでございます。

併しその繋がっているままでは実生活に都合が悪いから
縦横厚みの枠に嵌めて覗いて見ると、個人個人が分かれたように見え、
無限のものが有限に見えるから本当ではない、

本当でないから「迷いより生ず」と云うのですが、
その個々別々の五官に見える相(すがた)に囚へられて
本物の自他一体のすがたを見ないで、
自分だけの為を計って行動するのが利己主義でございます。

利己主義が却って自分を苦しめることになるのは
個々別々が人間の本当の相(すがた)でないからであります。

 
形で見れば分かれているように見えましても、
‘いのち’で見れば本当は繋がっていると云う事に目覚めて、
自他一体の行にあらわして実践すると云うところに、
吾々は幸福感即ち自己拡大の感じを得るのでございます。

今まで自分と云うものは五尺の長さ十数貫の小さいもののように
感じられて居ったけれども、それが本当は、大いなるものである
と云うことが分かるのは、神想観の坐禅的修行でも体得し得ますけれども、
一方に自他一体の行を実践しなければ本当に分らないのでございます。

自他一体の行と云えば難しいようでありますが、
簡単に云えば人に深切にせよと云うことであります。

キリストに言わせれば、「汝の如く汝の隣を愛せよ」と云うことでございます。
『汝の如く』であります。他の人を助けてやると云うような
恩に着せがましい心で愛するのではございません。

自分自身を愛するのに、誰もそれを恩に着せて愛するものではないでしょう。
自分自身と一つのものとして兄弟を愛せよ、隣人を愛せよです。

『隣人を愛せよ』と云う意味が今迄誤り考えられていたようでございます。
『隣人を愛せよ』とは自分の家人を棄てて置いて隣の人だけを愛せよ、
と云うのではないのでした。

先ず自分の家(うち)を愛さなければならないのです。
隣人と云うと英訳の聖書には≪neighbour≫ と云う字が使ってありますが、
是は隣の人ではなく「近くの人」と云う意味でございます。
近くの人と云うのは、自分の家(うち)の人が一番近くの人なのでございます。

それから次第に及んで隣家の人、同じ村の人、町の人、同県の人と云う風になりますが、
先ず一番間近に居る家人と調和ちなければ、工場で働いても故障や怪我をし易いですから
生産能力拡充の道にも副わず国家を愛することにもならないのでございます。 

キリストは『汝の隣を愛すると云うことが出来ないようなことで、
眼に見えない神をどうして愛することが出来るか』と言って居られますが、

私に云わせれば『自分が本当に深切に愛しなければならない家族と不仲でいる
ようなことで、もっと大きな国家を本当に愛し得ようか』 
と云いたいところでございます。

家治って国栄えるのでございます。

 
すべてのものは自他一体でございますが、
先ず一番因縁の深いところから愛して行かなければならないのでございます。

トルストイなどは「汝の隣を愛せよ」と云うのを解して
自分の家(うち)の人を愛したら利己主義であると思って、
離れたところにいる『人類』と云うものを空想の上で愛して、
現実には夫婦喧嘩ばかりして居たそうであります。

そして細君を軽蔑して、細君の悪口ばかりを日記に書いていました。
こんなのを非現実的空想的人類愛と云うのでございます。

あなたが本当に幸福におなりに成りたいのでしたら、
このような空想的人類愛を捨てて、まず近くから現実的に愛して行かねばなりません。


生長の家は一番近いところから愛するのでございます。
一番因縁の深いところから愛するのでございます。

家族としては自分の家族、民族としては日本民族、国家としては日本国家、
一番近いところから愛して行くのです。 

それは決して利己主義ではないのであって、
それが本当の一切を愛するところの自然の道なのでございます。

これが惟神なる道であり、自然法爾の道であります。
其の侭そこに与えられたものに御心を通じて行く生活でございます。

先ず皇恩に感謝しなさい。
父母に感謝しなさい。
良人又は妻に感謝しなさい。
子に感謝しなさい。
召使に感謝しなさい。

斯くの如くして手に触れるもの、心に触れるもの一番近いところから
感謝を捧げ、愛を捧げるようにして下さい。
そこからこそ本当の幸福が生れて来るのでございます。

 「行」 昭和14年10月号
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          <感謝合掌 平成30年8月21日 頓首再拝> 

宇宙力と一体なり - 伝統

2018/08/22 (Wed) 04:11:20

平成30年7月6日の言葉 より 

宇宙力と一体なり

「生命の實相」第37巻 谷口雅春先生 (6月17日のことば)

宇宙全体は一つの生命(せいめい)で生かされている。
宇宙全体が生き物なのである。
その生命(せいめい)流れ入って「吾」となっているのである。

宇宙全体が、「吾」の内に流れ込んでいるということもできる。
そして自分の受け持っている環境では各自が船長であり、舵手(だしゅ)である。

各自が舵をとった方向に宇宙の生命力全体が動き出すのである。
そしてその舵(かじ)は次の「言葉の力」である。――

「自分は宇宙力全体にバックされている。自分は宇宙力全体と一つである」

常にこのことを「言葉の力」にて心に描け。

これが常住の神想観である。

そう念ずるとき、そこに仏が現前しているのである。

自分はすでに成仏しているのである。

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          <感謝合掌 平成30年8月22日 頓首再拝> 

世界平和を祈ると共に300万の胎児を見殺しにできない - 伝統

2018/08/23 (Thu) 04:11:09

平成30年7月7日の言葉 より 

「世界平和を祈ると共に300万の胎児を見殺しにできない 」

 生長の家創始者 谷口雅春先生

吾々が政治運動に踏み切ったのは、中央にただ一つの中心があり、
その中心は神意を受けたる神聖中心であり、すべての民族、国家、国民、
悉くその神聖中心に帰命し奉りて調和して繁栄せる

萬徳円満の理想世界の招来を希望して、その実現を心に描いて神想観し、
祈りつづけて来た結果、その実現の行動化の過程として内から“催し”て来た
ところの自然的運動にほかならないのである。

宗教家が山に籠って坐禅瞑想のみに終始し、或は教会で祈っているだけで、
何の行動をも起さなかったならば、毎年300万人前後の胎児が母胎の中で
惨殺されて引きずり出され、コマ切り肉のようにして棄て去られている
悲惨な出来事を停止させることもできないのである。

われわれが祈っておれば「誰かが行動を起してくれるであろう」などと、
責任を他に転嫁して自分は何も行動を起さないのは卑怯なのである。
吾々は卑怯であったり、偽善であったりしてはならないのである。

人類救済に誰かが行動を起す必要があるならば、先ず自身が行動を起すべきである。
地上天国実現に、誰かが行動を起さなければならないならば、
先ず自身が行動を起すべきである。

  「生長の家」 昭和43年5月号 10p~11p



谷口雅春先生の奥様である谷口輝子先生の御文章です。
宇治の祭祀と「中絶」について書かれていますので、ご覧下さい。

「いのちを拝む 」

 生長の家白鳩会 初代総裁
   谷 口  輝 子 先生

私の許へいろいろな質問の手紙が来るが、時々本末転倒したことを言って来る人がある。

“生長の家では宇治で、堕胎した子供を祀って下さると聞いたが、
私も近日中におろそうと考えているから、祀って頂く手続きを教えて下さい”
というのである。

祀ってさえ貰えば何人でも堕すつもりで居られるらしい。

生長の家では、“祀って上げるから心配しないで堕しなさい”と勧めているのではない。
鬼のような親に殺されて、それを恨み悲しんでいる赤ん坊たちが可哀想なので、
その霊魂を慰め祀って上げ、霊界で幸せに暮らすように祈って上げるのである。

教えにふれた親たちは、たとい胎内にいる小さい子供でも、
一個の人命をもつものであるから、殺人の大罪を犯したことだと教えられ、
再び同じ罪を犯さなくなるのが当然である。

実家の親が勧めたからとか、夫が堕せと命令したからだとか言って、
責任を他になすり附ける母親があるが、

母親さえしっかりした信仰をもっていたならば、
悪に抗して、神より与えられた幼い命を護って行けるのである。

誰の責任でもない。
胎内に子をもつ母親が、子を殺す意志が無かったなら、
誰も堕したりは出来ないのである。

“親がすすめたからだ、夫がすすめたからだ”などと言ってはならない。
自分が為したのであるから。

子供を堕しては祀って貰い、また堕しては祀って貰いしていて、
それでよいと考えて、くり返しくり返し罪を犯しているのである。
そこには神の子の救いは永遠にない。  

「白鳩」誌昭和40年7月号39~40P

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          <感謝合掌 平成30年8月23日 頓首再拝> 

『生命の實相』を読む - 伝統

2018/08/24 (Fri) 04:50:56

平成30年7月8日の言葉 より 

「生命の實相」第35巻下化衆生篇(P71)

  谷口雅春先生

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば
必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。

その光は太陽の光よりもなお明るい光である。

自分の身体(からだ)が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。

その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている
生き通しの生命こそわが生命であることが悟られる。

これこそ自分の本当の生命であったのだ
 ―― 今生きつつある地上の生命の小さきことよ。

それはただ自分の本当の生命の輝きが、迷いの雲間を洩れて、
地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。

迷いの雲間は裂ける。

本当の自分は輝き出でる。

地上の晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

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          <感謝合掌 平成30年8月24日 頓首再拝> 

大日本神国観 - 伝統

2018/08/25 (Sat) 04:35:53

平成30年7月9日の言葉 より 

大日本神国観

 
正坐、瞑目、合掌して、招神歌四首を唱え、次の如く念ずる 。

 吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入 ( 居 )( い ) る。

と念じて、“ ここが実相の世界、神の世界、神霊(しんれい)満ちみつる世界である ” と
観ずるのである。次に・・

 遥々( はるばる ) と目路 ( めじ ) の限り眺むるに
 十方世界 悉 ( ことごと ) く 神なり。
 吾れ 十方世界を礼拝す。

と念じ、十方世界の一切のものが 悉(ことごと)く
神霊(しんれい)の示現(じげん)であると観じ、

 天よ、ありがとう。地よ、ありがとう。空気よ、有難う。
 火よ、水よ、温(あたたか)みよ、冷たさよ、天地一切のもの
 神の顕(あらわ)れであります。ありがとうございます。


と念じつつ、神の恵みの満ちたりて、光り輝く実相の世界を静かに観じて、
その円満完全光明遍照の大宇宙が、十六花弁の金色(こんじき)の蓮華の花の姿にて、
その中央座( ちゅうおうざ )に スメラミコト の玉座( ぎょくざ )ありと観じ、
    ( 眼の内に描 いて、それを諦視する )

 中央に すめらみことの 御座(ぎょざ)あり、
 すめらみこと 高御座(たかみくら)に坐し給う。
 皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)の御神霊(ごしんれい)ともなり。

と念じ、玉座の背後 ( はいご ) 上方 ( じょうほう ) に、
天主( てんしゅ )・天之御中主大神( あめのみなかぬしのかみ ) ・・・・・・  
天祖( てんそ )・天照大御神( あまてらす おおみかみ ) ・・・・・・
天孫( てんそん )・邇々芸命( ににぎのみこと ) ・・・・・・ を始め
神武天皇より百二十四代の聖天子を中心とし、皇祖皇宗の御神霊が、秩序整然 、
威儀 ( いぎ ) 端然 ( たんぜん ) と( 千光仏の如く ) 大光明を放ちて 顕現し給う
荘厳 ( そうごん ) 無比 ( むひ ) の光景を観ずる。次いで

 これをめぐりて百官もろもろの司(つかさ)あり。
 すめらみこと に向いて礼拝し奉行(ぶぎょう)し奉(たてまつ)る。

と念じ、その有様を観じ、眼の裡(うち)に百官綺羅星(ひゃっかんきらぼし)の如く、
玉座を中心に至誠をもって職域に奉行しつつある実情実相を心に描いて観ずる。次に

 十方に八百万 ( やおよろず ) の神々あり、護国の英霊あり、
 十方 ( じっぽう ) の諸仏 ( しょぶつ ) あり、諸天 ( しょてん ) あり、
 すめらみこと に向いて礼拝し守護し奉る。 

と念じ、大宇宙の地平線の彼方(かなた)稍々(やや)やや高きところに、
光明燦然と輝く星の如き神々と十方諸仏、諸天、恭(うやうや)しく 
すめらみこと に礼拝 し守護 し給える荘厳なるありさまを心に描きて、次いで

 すめらみこと の御座 ( ぎょざ ) より御光 ( みひかり ) さし出(い)でて
 洽(あまね)く六合(りくごう)に照り徹(とお)らせり。

と念じて、天皇(すめらみこと)の御座より、金色(こんじき)の光まばゆきばかり
さし出(い)でて、光華明彩(ひかりうるわしく)、六合に照徹せる相(すがた)を観じ、

 六合照徹(りくごうしょうてつ)光明遍照(こうみょうへんじょう)、

 六合照徹光明遍照 ―――― 

と幾回も繰返し念じつつ、すめらみこと の御光が恰(あたか)も、太陽の光が全宇宙に
光被(こうひ)するが如 ( ごと ) く照り徹り、一切に いのちをふり濺(そそ)ぎ、
之(これ)を生かし之を愛護し給う光明遍照なる実相の世界を心をもって諦視する。

而(しか)して、すめらみこと の大御生命(おおみいのち)に生かされたる
 一切の生物に心を転じて、

 すべての生きとし生けるもの、すべての青人草(あおひとぐさ)、
 すめらみこと を仰ぎ見て 礼拝し讃嘆し感謝し奉る。

と、地上にみちみちているすべての人々が、天皇の御徳(おんとく)を讃嘆し
感謝し奉る有様(ありさま)を心に見つめつつ、自己もそのうちの一人として
感謝の念を深く起して、次の如く念ずる。

 天皇陛下 ありがとうございます。ありがとうございます。
 皇祖皇宗の御神霊 ありがとうございます、ありがとうございます。
 百官もろもろの司 ( つかさ ) 様 ありがとうございます。
 十方 八百万(やおよろず)の神々様、護国の英霊様 ありがとうございます、
 ありがとうございます。十方の諸仏・諸天様 ありがとうございます。

かく念じつつ、光明遍照の調和せる荘厳なる実相世界を心に描きつつ、

 既に大宇宙の救済は成就せり。金波羅華(こんぱらげ)実相の完全円満の相(すがた)、
 地上に隈(くま)なく反映し実現して中心帰一、万物調和の永久平和の世界 今 現ず。

 一切の生物ところを得て争う者なく、相(あい)食(は)むものなく、病むものなく、
 苦しむものなく、乏しきものなし。

 実相・現象渾然(こんぜん)一体、実相・現象渾然一体 ・・・・・・ ( 繰返す )

 みこころの天に成る世界、既に地に成就せり。

 ありがとうございます。ありがとうございます。

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          <感謝合掌 平成30年8月25日 頓首再拝> 

「法悦」とは何か - 伝統

2018/08/26 (Sun) 04:51:16

平成30年7月11日の言葉 より 

「法悦」とは何か

   谷口雅春先生

『生命の實相』(頭注版)の第35巻102頁にですね、
その7行目に、こう書いてあります。

「生長の家ではまず内在せる神というものを
『われわれの内に宿っているところの無限の善さ』と定義いたします。

無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさ―そんな尊いものが、
われわれ人間の中には宿っているのであります。

その無限の善さが少しでも余計出ればわれわれは歓びを感ずる。
喜ばすにはおれない。
そしてさらにその善さを一層余計にあらわしたい、
そして遂に無限にまで到達したく希うところの、無限に対する要求というものが、
わがうちに宿っているのであります」

と書いてありまして、その次の頁の3行目の所には、

「無限を発揮するまでは、それを憧れ求めずにはおられない。それはなぜであるか?
それは『無限なるもの』が自分のうちにすでに宿っているからです。
そして、その無限なるもの―無限の善さ、無限の美しさが、
われわれの念のレンズをとおして、意識なり、観念を指導すべく、
ある標準を示した場合、これを理想といいます」

という様なことが書いてあります。

この“法悦”というものは何処から起って来るかといいますと、
法悦の法というのは、あの「妙法蓮華経」の法と同じでありまして
宇宙の実相であります。

実相の中から出て来るところの喜びが、これが“法悦”という意味であります。

それで、その実相の中の無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさとか、
色々数え切れない無数の徳がわれわれの内部に在る。

それが、少しでも前より余計に発揮された時に、
そこに法悦 ― 実相から湧き出て来る喜び ― というものを感ずるんだ
ということになるのであります。

私がいつも申上げるように、人間には五つの根本的願いがあるのであります。 
それは

(1)認められたい
(2)愛されたい
(3)褒められたい
(4)人のお役に立ちたい
(5)自由になりたい 

この五つの願いであります。

この五つの願いが満足された時、人間は本当に生き甲斐を感ずるのであります。
この五つの願いが閉塞されて了ったら人間は生き甲斐が感じられないでスランプに陥る。
信仰も衰退して行くことになる訳です。

そこで折角誌友にしたり、聖使命会員になった人を組織に入れたらですね、
これを認めてあげるということをやらなくちゃいかんのです。

その人達を認めてあげ、褒めてあげ、愛してあげる。
又色々の相談にものってあげる。

そして、その人が生長の家に入って誌友になったら、
本当に世のため人のためお役に立っているんだという喜びを
自覚させるように導いてゆかなければ、折角誌友になったけれども、
なっていることが何の役に立つのかというのでは、
これは継続していかんということになるんです。

大は日本国家のためになり、或は優生保護法改正の運動に参加して、
毎年300万人も殺されている胎児が救われることになるんだ
というような偉大な運動に自分は参加しているのだという、
そういう喜びを感ぜしめることが必要であると思うんです。 

   (昭和43年7月28日 生長の家本部大道場に於ける御指導)  

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          <感謝合掌 平成30年8月26日 頓首再拝> 

人間の地上降誕の意義について - 伝統

2018/08/27 (Mon) 03:48:14

平成30年7月12日の言葉 より 

人間の地上降誕の意義について

谷口雅春先生『白鳩』誌 昭和48年9月号31―32P

 
人間は、神の生命が天降って来て、そして神の生命の個性的顕現として、
その人で無ければ出来ない特殊な個性を与えられ、
使命を授かって地上に顕現しているのである。 

この事実の内にこそ人間生命の尊重の根拠があるのである。 
唯物論的人間観ではその根拠が失われしまう。

指紋の同じ人間が一人も居ない、それと同じ様に、
全ての人間は、神から与えられた使命が異なるのである。 

だからその人間が出現して来つつあるのを途中で殺す、言い換えると堕胎する
 ――― 人工妊娠中絶するということは、せっかく神が個性を与えて
特殊なる使命を与えられて神の生命が自己実現して来ようとしているのを
中断してしまうことになる。 

それは取返しのできない過ちをしたことになるのである。

その人間の魂は、別の人間を以ては代用することの出来ない、
全然違う個性と使命を持って生まれて来るのであるから、
彼は絶対価値の生命である。 

かけ換えのない、代用品の無い貴い生命であるのを殺して仕舞うというのは、
神の計画に対する非常なる反逆であるということになるのであります。 

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          <感謝合掌 平成30年8月27日 頓首再拝> 

心を開いて、神を招き入れる - 伝統

2018/08/28 (Tue) 04:05:41

平成30年7月13日の言葉 より 

心を開いて、神を招き入れる

『生命の實相』第37巻幸福篇上(6月28日)谷口雅春先生

神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。

心を開いて待つことが神を招く方法である。

明るい心、歓喜の心、愛の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。

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          <感謝合掌 平成30年8月28日 頓首再拝> 

人間の地上降誕の意義 - 伝統

2018/08/29 (Wed) 04:18:54


平成30年7月14日の言葉 より 

 『白鳩』誌 昭和48年9月号 31~32P

   谷口雅春先生 

「唯物論的人間観では生命の尊重は成立たない 」

人間の生命は、どうして尊重しなければならないか、
その根本はどこにあるかという問題を考えて見たいのであります。

単に、女性の卵子と男性の精子とが結合した、その結果、
化学的に物質的成分が結合してそれが積み重なって人間の形になった。
それだけの肉の塊が人間である ――― としたならば、
それを尊重するという根拠は無いということになるのである。 

物質と物質とが化合して、アミノ酸みたいなものが出来て、
そのアミノ酸が複雑に結合して細胞が出来て、その細胞が色々に組み合わされて
脳髄みたいなものが出来て、人間が色々苦しんだり悩んだりしなければならない
というのなら、人類から悲しみや苦しみや悩みを取り去ってやる為に
脳髄細胞が働かないようにして殺して人間細胞の結合を分解させてやればよい
ということになるのである。

しかしながらそれでは、道徳というものも成り立たないし、
人間の生命尊重ということも成り立たない。

平和平和、戦争反対、平和運動と称するけれども、
単に物質が固まって脳髄みたいなものが出来たから苦しまねばならない
というのだったら、そういう肉体の機構を破壊することこそ、
人間の苦しみ悩みをなくしてしまうことになるということになる。

人間が単なる物質分子の結合なら、平和運動とか反戦運動とかいうもの
は却って人類の苦しみを引き伸ばしているということになるのであって、
原子爆弾、水素爆弾が世界を覆って全人類が死滅してしまった方が、
もうどこにも悲しみも無いということになって、
却って平和を地上にもたらすところの救の手段となるのである。

こう考えて行けば唯物論的人間観では、生命の尊重ということは無いのであります。
唯物論を唱えている共産主義的な人々が、平和運動、戦争反対などと言っているのは、
之は頭が悪いためにその矛盾に気がつかないのである。

もし本当に生命を尊重するのだったら、この唯物論的人間観を捨てて
人間の生命を尊重しなければならない。

まことに人間は、神の生命が地上に顕現して或る使命を果すべく
地上に出現してきたのだということを先ず承認しなければ、
生命の尊重という道徳の根拠が失われてしまうのである。


 「人間の地上降誕の意義について」

人間は、神の生命が天降って来て、そして神の生命の個性的顕現として、
その人で無ければ出来ない特殊な個性を与えられ、
使命を授かって地上に顕現しているのである。

この事実の内にこそ人間生命の尊重の根拠があるのである。
唯物論的人間観ではその根拠が失われしまう。

指紋の同じ人間が一人も居ない、それと同じ様に、
全ての人間は、神から与えられた使命が異なるのである。

だからその人間が出現して来つつあるのを途中で殺す、言い換えると堕胎する
 ――― 人工妊娠中絶するということは、せっかく神が個性を与えて
特殊なる使命を与えられて神の生命が自己実現して来ようとしているのを
中断してしまうことになる。 

それは取返しのできない過ちをしたことになるのである。

その人間の魂は、別の人間を以ては代用することの出来ない、
全然違う個性と使命を持って生まれて来るのであるから、
彼は絶対価値の生命である。かけ換えのない、
代用品の無い貴い生命であるのを殺して仕舞うというのは、
神の計画に対する非常なる反逆であるということになるのであります。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/14/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-20/

          <感謝合掌 平成30年8月29日 頓首再拝> 

人を祈るということは - 伝統

2018/08/30 (Thu) 03:15:52


平成30年7月15日の言葉 より 

谷口雅春先生は、人を祈ることについてこう書かれてある。

『白鳩』誌 昭和38年11月号より

 谷口雅春先生

祈って欲しくない人や、神を信じないで、
こちらの善意の祈りさえも拒絶するような人が苦しんでいるとき、
その苦しみをとってあげるために祈ってあげることは、
相手の自由意志を束縛し侵害することになるのであろうか。

決して、そうではないのである。

吾々が祈るのは、祈りを拒絶している「迷いの心」を相手にして
祈りを強制するのではないのである。

常に「神」であり、今もなお「神」であり、永遠に「神」であるところの
相手の「神性」に呼びかけ、それを観じ念じて、それを呼び出し顕わすのであるから、
決して相手の自由を束縛することにはならないのである。

吾々は何事をなすにも恐れてはならないのである。
若し恐怖心が起って来たならば、神が常に、吾々の親様として護っておられ、
導いておられる事を思い起すがよいのである。 

「衆生ほとけを憶念すれば、佛、衆生を憶念し給う」ということが仏典にあるが、
吾々が「親様である神」を憶い出し念ずるとき、「親様である神」の常住の護りの
波長に自分の波長が合うことになり、その護りを現実化することができる、
恐るべき何事も悉く撃退してしまうことができるのである。

吾々は頼まれた時は無論のこと、頼まれないでも、
人の不幸や苦難や病気を見れば、その苦痛や不幸を除ってあげ、
楽と幸福とを与えてあげるように祈ってあげなければならない。

それが本当の慈悲というものである。

不幸や苦痛や病気は本来存在しないのであり、
それは唯、光がとぼっていないために生じた闇のようなものであるから、
実相の完全さを念じてあげれば消えてしまうのである。 

こうして、人々の実相の完全さを念じてあげる人の数が益々多くなるに従って、
世界の争いは消え、病気は消え、永久平和の常楽の世界が現実界にも
実現することになるのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/15/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-21/

          <感謝合掌 平成30年8月30日 頓首再拝> 

一番近いところから愛する - 伝統

2018/08/31 (Fri) 03:34:20

平成30年7月16日の言葉 より 

自他一体「一番近いところから愛する」

  谷口雅春先生

吾々の本当の相(すがた)は自他一体でございます。
吾々はみんな兄弟であり、全体に繋がっているのでございます。 

併しその繋がっているままでは実生活に都合が悪いから
縦横厚みの枠に嵌めて覗いて見ると、個人個人が分かれたように見え、
無限のものが有限に見えるから本当ではない、

本当でないから『迷いより生ず』と云うのですが、
その個々別々の五官に見える相(すがた)に囚へられて
本物の自他一体のすがたを見ないで、
自分だけの為を計って行動するのが利己主義でございます。 

利己主義が却って自分を苦しめることになるのは
個々別々が人間の本当の相(すがた)でないからであります。

形で見れば分かれているように見えましても、
‘いのち’で見れば本当は繋がっていると云う事に目覚めて、
自他一体の行にあらわして実践すると云うところに、
吾々は幸福感即ち自己拡大の感じを得るのでございます。

今まで自分と云うものは五尺の長さ十数貫の小さいもののように
感じられて居ったけれども、それが本当は、大いなるものである
と云うことが分かるのは、神想観の坐禅的修行でも体得し得ますけれども、
一方に自他一体の行を実践しなければ本当に分らないのでございます。

 
自他一体の行と云えば難しいようでありますが、
簡単に云えば人に深切にせよと云うことであります。

キリストに言わせれば、『汝の如く汝の隣を愛せよ』と云うことでございます。
『汝の如く』であります。
他の人を助けてやると云うような恩に着せがましい心で愛するのではございません。

自分自身を愛するのに、誰もそれを恩に着せて愛するものではないでしょう。
自分自身と一つのものとして兄弟を愛せよ、隣人を愛せよです。

『隣人を愛せよ』と云う意味が今迄誤り考えられていたようでございます。
『隣人を愛せよ』とは自分の家人を棄てて置いて隣の人だけを愛せよ、
と云うのではないのでした。

先ず自分の家(うち)を愛さなければならないのです。
隣人と云うと英訳の聖書には《neighbour》と云う字が使ってありますが、
是は隣の人ではなく『近くの人』と云う意味でございます。

近くの人と云うのは、自分の家(うち)の人が一番近くの人なのでございます。

それから次第に及んで隣家の人、同じ村の人、町の人、同県の人と云う風に
なりますが、先ず一番間近に居る家人と調和しなければ、
工場で働いても故障や怪我をし易いですから生産能力拡充の道にも副わず
国家を愛することにもならないのでございます。  

キリストは『汝の隣を愛すると云うことが出来ないようなことで、
眼に見えない神をどうして愛することが出来るか』と言って居られますが、
私に云わせれば、

『自分が本当に深切に愛しなければならない家族と不仲でいるようなことで、
もっと大きな国家を本当に愛し得ようか』と云いたいところでございます。
家治って国栄えるのでございます。

すべてのものは自他一体でございますが、先ず一番因縁の深いところから
愛して行かなければならないのでございます。

トルストイなどは『汝の隣を愛せよ』と云うのを解して
自分の家(うち)の人を愛したら利己主義であると思って、
離れたところにいる『人類』と云うものを空想の上で愛して、
現実には夫婦喧嘩ばかりして居たそうであります。

そして細君を軽蔑して、細君の悪口ばかりを日記に書いていました。
こんなのを非現実的空想的人類愛と云うのでございます。

あなたが本当に幸福におなりに成りたいのでしたら、
このような空想的人類愛を捨てて、
まず近くから現実的に愛して行かねばなりません。

生長の家は一番近いところから愛するのでございます。
一番因縁の深いところから愛するのでございます。

家族としては自分の家族、民族としては日本民族、国家としては日本国家、
一番近いところから愛して行くのです。 

それは決して利己主義ではないのであって、
それが本当の一切を愛するところの自然の道なのでございます。
これが惟神なる道であり、自然法爾の道であります。

其の侭そこに与えられたものに御心を通じて行く生活でございます。

 
先ず皇恩に感謝しなさい。
父母に感謝しなさい。
良人又は妻に感謝しなさい。

子に感謝しなさい。
召使に感謝しなさい。

斯くの如くして手に触れるもの、心に触れるもの一番近いところから
感謝を捧げ、愛を捧げるようにして下さい。

そこからこそ本当の幸福が生れて来るのでございます。

  『行』  昭和14年10月号より

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/16/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-22/

          <感謝合掌 平成30年8月31日 頓首再拝> 

人間(ひと)は神の子である。 - 伝統

2018/09/01 (Sat) 03:50:01

平成30年7月17日の言葉 より 


「人間(ひと)は神の子である。」  谷口 雅春 先生

人間(ひと)は神の子である。
これが「生長の家」の主張する根本自覚で、
この自覚を「中心自覚」と申すのであります。

なぜこの自覚を「中心自覚」と申しますかといいますと、
この根本自覚は円の中心のようなものであって、
この中心から外的な一切の善きものが流れ出でるからであります。

この根本自覚が完全であればあるほど、
この根本自覚が強烈であればあるほど、
われわれに発現する知恵はいっそう明らかとなり、
愛はますます深くなり、生きる力はいよいよ豊富となり、
万事における能力は層一層旺(さかん)となるのであります。

神われに在(い)まし、われ神の内にあるがゆえに、
すべてのこと、あらゆること、われに不可能なるものはない。

これが「中心自覚」でありまして「不可能という言葉を取り去れ」
これが生長の家の生きかたの最初の第一であります。

(「生命の實相」頭注版第5巻23p谷口雅春先生)

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/17/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-23/

          <感謝合掌 平成30年9月1日 頓首再拝> 

物、物にあらず。《物のいのちに感謝する。 - 伝統

2018/09/02 (Sun) 03:01:32

平成30年7月18日の言葉 より 

谷口輝子先生の御文章を紹介する。

「物、物にあらず。《物のいのちに感謝する。》」

          谷 口  輝 子 先 生 


昔は、御飯粒一つこぼしても「お百姓の一年間の苦労を無駄にして」
と叱られたものだった、と誰かが話していたが、
親たちが子供をそう言ってたしなめた時代は、ゴミの山だのヘドロなどで、
人々が迷惑するようなことはなかったし、海も清く河も美しく、
魚たちも生々として沢山泳いでいた。

「江戸時代、三井家と肩を並べた泉州和田の飯野弥三郎の先祖は、
元旦に雪隠〈便所〉の踏み板に落ちていた飯三粒を拾って食べてから
富貴を得たということであるが、定めし雪隠を清浄にしていたのであろう」

と大安寺貫主の河野清晃師は書いていられたが、

御飯粒を拾って食べ得るというほど雪隠を綺麗に掃除して居られたのであろうけれども、
それより肝心なことは、わずか三粒の御飯でも、物のいのちを大切にし、
百姓の苦労に感謝したら、捨てることが出来なくて食べたという精神が、
愛が、感謝が、飯野弥三郎の家運を繁栄へと導いたのだと思う。

拝む心、感謝の心は、運命を明るい方向におのずから進めてくれるのだと信じられる。

誰もみな、各自の心のままに運命を作ってゆくのである。

   谷口輝子先生 『理想世界』昭和47年1月号

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/18/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-24/

          <感謝合掌 平成30年9月2日 頓首再拝> 

全ての人間を”神の子″として拝むこと - 伝統

2018/09/03 (Mon) 04:55:32

平成30年7月19日の言葉 より 

「全ての人間を”神の子″として拝むこと」

  「如意自在の生活365章」(P193)

    谷口雅春先生

あなたが”神の子″であるだけではなく、
すべての人間が”神の子″であり、わたしたちと兄弟姉妹であるのであるから、
わたしたちはいかなる人間をも”神の子″として礼拝し、
全ての人間を祝福してあげなければならないのである。

人を軽蔑してはならない。

どんな不完全な状態がその人に現在顧われておろうとも、
その顕われだけを見て、その人間を根本的に蔑視するようなことが
あってはならないのである。

顕われのみを見ず、実相の完全さを見つめ、観じ、祝福することを継続するならば、
実相の完全さが、必ずやがて顕われて来るに相違ないのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/20/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-25/

          <感謝合掌 平成30年9月3日 頓首再拝> 

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである - 伝統

2018/09/04 (Tue) 04:23:13



平成30年7月20日の言葉 より 

「光明法語」(5月5日)谷口雅春先生

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。

神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には
一段一段と階段を昇って行くが如きものがあるのである。

最初の頃は階段は低くして、到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/20/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-26/

          <感謝合掌 平成30年9月4日 頓首再拝>

実相と、霊智心以下の「心」の重複体 - 伝統

2018/09/05 (Wed) 14:10:59


平成30年7月21日の言葉 より 

  『生長の家』(昭和25年7月号 10~11頁) より

 昭和25年3月12日(日曜日)
   東京青年会幹部の谷口雅春先生を囲む会にて

 谷口雅春先生いわく

「心」と云うものを一つだと考えるのと、
「心」を「自分の本体」だと考えるところに、そう云う間違いを生ずるのです。

「心」と云うものは大体、吾々の「道具」である。
吾々は「肉体」と云う道具を使う。 
併し肉体は人間ではない。 

それと同じように吾々は「心」と云う道具を使う。
所謂普通に云う「心」は吾々の道具であって人間の本体ではないのである。

吾々の持っている「心」は一つではなく、幾階段もの心を持っている。 

例えば、吾々の細胞には「細胞意識」と云う心があって、
どれが自分自身の栄養になるかを選り分けて吸収する力をもっている。 

そして黴菌とか何か外敵があらわれて来ると、それを認めて、捕えて殺す
  ― こう云う相手を選択する心はたしかに心である。 

人体の細胞の一部は全体から切り離して人工培養益の中で培養すると、
心臓の細胞とか腎臓の細胞とか云う特殊の働きをしている細胞が、
その特殊を失って類形的な、全体が同じように働きかける。 

細胞単位としての「心」はあるが、
心臓単位、腎臓単位と云うような特殊的使命の働きは失われる。

即ち人間の肉体が全体として有機的な働きをし
各内蔵が各々異る内蔵として活動している肉体全体を統率する「心」の働きである。 

この「心」を「本能の心」と云っても好い。
「細胞の心」の上に「本能の心」があるのである。
高級の心は下級の心を支配するのであって、下級の心ほど自由が少ないのである。
しかしこの「本能の心」はまだ吾々の「意識的心」とは異る。

吾々は意識しないでも心臓は1分間に72回鼓動する。 
意識しないでも胃腸の働きは「本能の心」によって行われている。
「本能の心」の上級に「意識の心」がある。 

「意識の心」が恥かしがったり恐怖すると、
「本能の心」がその支配を受けて心臓の鼓動や、胃腸の消化状態が異って来る。

「意識の心」は心臓も腎臓をも含めて全体の肉体を移動させるが、
「本能の心」はそれに反抗することは出来ない。
本能の心はその段階での或る自由を持っているに過ぎない。 

しかしこの「意識の心」も「人間の本体」ではない。

これは人間の「道具」であって、
自分の声をラジオ・セットでとか蓄音機とかで聞くようなものである。

そして発声器から再現された心の振動で人に意志を通じたりするための
「道具」が「意識の心」である。

「意識の心」の奥に「潜在意識」と呼ぶものがある。
それは意識の心が起した想念感情の「貯蔵庫」みたいなものであり、
それは一面数的に貯蔵されているけれども、蓄電器のようにある力をもって
過去の想念感情を流し出す力をもっている。 

それが現在意識を左右する力をもっている。 

この点で現在意識の自由というものは限られたものであって、
現在意識が「幸福を得たい」と思っても、その一段上の段階の潜在意識が
「苦痛にやって汝の過去の業を浄めよ」と云って引ずって行くと、
その人の人生に苦痛が現れて来るのである。 

その潜在意識も尚、人間の最高の心ではない。 

その奥に 『霊智心』 とでも云うべき心がある。 

潜在意識は過去の「業」の貯水池として、水力発電のダムのように、
過去の惰力で盲目的な力で押し流して来る。 

ところが此の 『霊智心』 は「潜在意識」のように盲目的ではない。
叡智を備えていて潜在意識の流動をその正しい方向に修正しようとしてくれる。

特に潜在意識が一向専心 『霊智心』 に対して呼びかけて
自己の我見を捨ててその教えに従がおうとする時には、
その叡智は現在意識にあらわれて来る。 

現在意識そのものは直接潜在意識を支配することは出来ない 『霊智心』 を
現在意識に呼び出してくることによって、潜在意識を支配することが出来るのである。

 
私の 『叡智の断片』 と云う本や 『智慧の言葉』 などは、
『霊智心』 を現在意識に感受してそれに導かれて来たものである。 

あの本にはあまり病気治しのことが書かれていないが、
知性ある人にはよく理解し共鳴されるように書かれているのは、
『叡智の心』 が出ているからである。

この 『霊智心』 即ち 『叡智の心』 のその奥に
「本当の自分」 即ち 「実相の心」 がある。 

それは物質ではないと云う意味に於いて「心(しん)」的なものであるから
「心(こころ)」と云っても好いが、「心(こころ)」 と云う場合には、
今まで述べたような各種の「心(こころ)」と混同される惧れがあるから、
『霊』 と云った方が好いかも知れない。

『霊』 が本体であって、
それが、霊智心、潜在意識、現在意識、本能の心、細胞の心などの
「道具」を使って表現活動をしているのであって、

『実相の心』は自由自在無礙でありつつ、
その一面的表現には色々の表現が自己限定によって成されつつあり、
「人格」とか「個性」とか云うものはこれらの心の綜合的波動の雰囲気
と云うもので成立っている。

その奥にある実相は「一つの生命」であり、神一元である。
万人共通の生命であり、実相に於いてみんな一体でありながら、
霊智心以下の「心」の重複体によって、
その「場」に於いて別々の個性としてあらわれているのである。

  https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/21/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-27/

          <感謝合掌 平成30年9月5日 頓首再拝> 

『生命の實相』を拝読すれば”光”が射してくる - 伝統

2018/09/06 (Thu) 23:51:24


平成30年7月22日の言葉 より 

『生命の實相』を拝読すれば”光”が射してくる
 『生命の實相』第35巻下化衆生篇(P71)

  谷口雅春先生

『生命の實相』を読んでいてある瞬間に達すれば
必ず真理の光がたましいの中へ射し込んでくるのである。

その光は太陽の光よりも明るい光である。
自分の身体が透明になったような感じがする。
自己の生命が無限生命の光線の中につつまれる。

その無限の光線の中に溶け込みつつ燦然として輝いている生き通しの生命こそが
わが生命であることが悟られる。
これこそ自分の本当の生命であったのだ。

今生きつつある地上の生命の小さいことよ。
それはただ自分の《本当の生命》の輝きが、迷いの雲間に洩れて、
地上に記(しる)した小さな光の点々にすぎなかったのだ。

迷いの雲間は裂ける。
本当の自分は輝き出でる。

地上に晴天の日の太陽が照らすごとく、
本当の自分は無限の輝きを放って地上の生活を照らすのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/25/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-28/

          <感謝合掌 平成30年9月6日 頓首再拝> 

『生命の實相』は繰返し読む事が大事 - 伝統

2018/09/07 (Fri) 11:23:03

平成30年7月23日の言葉 より 

『生命の實相』は繰返し読む事が大事

『生命の實相』第4巻生命篇下(P101)

    谷口雅春先生

聖典を読むということは、
覚えてしまったらもう読まなくてもよいというふうなものではないのです。

これは仏教のお経でも、神道の祝詞でも、キリスト教の賛美歌でも、
この『生命の實相』でも同じことです。

お経でも、賛美歌でも、言葉で出して唱えるところに、
そこに言葉の力で、自分の心のなかと、この大宇宙のなかに
善き精神的リズムを生み出す ―― それが肝心なのであります。

『言葉』に出すと申しましても、必ずしも「音読」しなければならぬ
というわけではなく、黙読もまた言葉です。

ともかく、読んでいるその時に起こる心のリズム「精神波動」が大切でありまして、
真理を読めば真理の精神リズムが発生し、
それにしたがって迷える霊魂に悟りを開かせ、
神および高き霊魂を招き寄せ、病的念霊を退散せしめて、
病気が治ることになるのであります。

だから、もう原理を知ったなら、記憶したなら、
読まなくともよいというわけのものではありません。


https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/25/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-29/

          <感謝合掌 平成30年9月7日 頓首再拝> 

生命の実相の悟りとは、第一創造の世界へ跳入すること - 伝統

2018/09/08 (Sat) 03:25:27

平成30年7月24日の言葉 より 


『生命の實相』幸福篇上(第37巻)P131

   谷口雅春先生

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象世界に与えられないのは
「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものから
マイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それにひっかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。
ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/25/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-30/

          <感謝合掌 平成30年9月8日 頓首再拝> 

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である - 伝統

2018/09/09 (Sun) 04:02:54

平成30年7月25日の言葉 より 

『生命の實相』は、芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教である

  『生命の實相』幸福篇上(第37巻)P143

    谷口雅春先生

人を真に動かすものは「感情の力」である。

人を癒やす力も「感情の力」にあるのである。

世に迷信視されている「お婆さん」や行者の小宗教で病気が治る事実が続々あり、
それに理論が透らないという理由で、また、たまたま感情興奮を伴わない
知的な人に試みて治病成績が挙がらなかったという理由で、
それらの治病宗教を詐欺視するがごときは、
治病の力が宗教的感情興奮にあるのであることを洞察しないものである。


『生命の實相』が、それを読むことによって病気が治るのは、
文章力による宗教感情を興奮せしめる力が強いのである。

この点において『生命の實相』は文章芸術である。

理論だけ簡単に透(とお)ろうと思って、
手紙で簡単な返事さえ貰えばよいと思っている人は、
この点をみのがしているのである。

もっとも現代の知識人は「お婆さんの宗教信者」と違って
理論が透らないものは頭から排撃してしまって、
いくら名文でも宗教興奮を惹起しうるものではない。

だから『生命の實相』は理論においても古今独歩、
古来一切の宗教的理論の中枢を包容しつつ、
近代の精神科学から新興物理学理論までも一貫せる
一大生命学の理論体系をなしているのである。

この点において『生命の實相』は一大哲学とも言えるのである。

芸術であり、哲学であり、しかしてその及ぼす治病の体験数は
医者が一つの事実を肯定するに用いるモルモットの実験頭数よりも多く、
数千の実験礼状となって顕われているので、
実験の蒐集であるから科学であるとも言いうるのである。

しかしてその読書による感情興奮の種類は、
個人と天地の大生命との調和的融合感を興奮せしめるのであるから、
宗教であるとも言いうるのである。

芸術であり、哲学であり、科学であり、宗教であるのが『生命の實相』である。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/25/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-31/

          <感謝合掌 平成30年9月9日 頓首再拝> 

堕胎は戦争の原因となる - 伝統

2018/09/10 (Mon) 04:50:59

平成30年7月26日の言葉 より 

谷口雅春先生は「中絶」と「戦争」についてこう語られている。

  「 堕胎は戦争の原因となる 」

     谷口 雅春 先生   
            
ギリシャの古代哲学の時代から現代に至るまで、
その哲学の流れは唯心論・唯物論の二つの流れがズッと続いていて、
或る時代には唯心論が旺(さか)んであり、或る時代には唯物論が盛んであり、
それを交互に繰返して来たのでありますが、
現代の日本では唯物論が旺盛になっているのであります。

そのために、民主主義と言って人間の基本的人権を尊重する主義で
なければならないという時代であるのに、
今ほど人間の生命の尊重せられない時代はないのであります。

れは何故かというと、人間の生命を尊重すると言いましても、
その根本になるところの「人間」そのものの捉え方が、唯物観でありますから、
「人間」とは「物質の塊」であり、不幸にして物質が偶々複雑精緻に結合して、
脳髄というような塊が出来上がったものだから、
苦しいとか、痛いとか、辛いとか、悲しいとかいうことを感じて悩まなければならない。

 
「心」というものは脳髄という物質の化学作用の一種だと考えるのが
唯物論でありますから、その「心」が出なくなるように人間を手術すれば、
人間は苦しまなくともよくなるとも考えられる訳で、

その人間の手術とは、人体を破壊してしまえば、
もうその人が苦しむことも、悲しむことも、悩むこともなくなる
という訳であります。

それほどハッキリと、「人を殺せば人間を苦痛から解除してやることができる」
とは考えないにせよ、その人が、人間を単なる「物質的塊」に過ぎない
と考えている限りに於いては、人間を尊重する気持ちが起らない。

まかりまちがえば、最後の手段として人体を破壊してしまえば
万事OKだというような考えが漠然として、殆ど全部の人間の人生観の背後にある。

だから多くの人間は行き詰ったら他の人を殺すことによって、
自分が逃れようとするか、自分が自殺するか、
大人が生活上不便になったら、胎児でも何でも小さい者、
弱い者は殺してしまえということになる。

実際そうなっているのであって、これでは世界に戦争や闘争の絶えることはない
ということになるのであります。

だから世界に平和と幸福とを持ち来すためには、
人間自身の人生観・人間観・世界観を根本的に変革しなければならぬのであります。
つまりその人の把持する哲学が変らなければならないのであります。

殺した者が殺されるという原因結果の法則〃動・反動の法則〃は結局、
循り環って戦争となり、多くの人が殺されることになるのであります。

何故「殺したものが殺される」という因果の法則が、
戦争の形をとって来るかと言いますと、そのような胎児虐殺の行為を
敢えてする人の人生観の奥にあるのは、

「この世界はどうせ弱肉強食の世界であって、相手を殺さねば自分が殺される」
という哲学又は世界観があるからであります。

世界の軍備拡大競争も、この弱肉強食の世界観・人生観が背後にあって
それを動かしているのであります。

「或る個人又は団体が栄えるためには、誰かが犠牲にならなければならない」
 ―― このような世界観・人生観をもっている限り、
自国の繁栄を画策するためには他国を侵略することを辞せない
ということになるのであります。

世界に平和を持ち来たそうと思ったならば、
このような弱肉強食の人生観、誰かの繁栄のためには
犠牲必要とする如き人生観を排除して、

調和のある人生観 ―― この世界は神がつくった世界であるから、
完全に調和していて、犠牲などを決して必要としない
共存共栄の状態が実相である ―― という生長の家式の人生観・世界観を
全世界に弘め、胎児暗殺の如き「殺害の業」を重ねる行為は即時停止する
ようにしなければならないのであります。

( 谷口雅春先生 「理想世界」昭和35年7月号 )

(次に続く)

          <感謝合掌 平成30年9月10日 頓首再拝> 

谷口雅春先生の最終講話「殺す勿れ」 - 伝統

2018/09/11 (Tue) 04:59:39

最後に谷口雅春先生の最終講話を。ご紹介したい。

御遺言の全文「殺す勿れ」 昭和60年5月26日

  谷口雅春先生の最終講話(総本山顕斎殿にて)

私がお話し申したいようなことは、みんな僕の著書に書いてあるのであります。
ですからそれを読んでいただければ、僕の口から聞かないでも
それで済むわけなんであります。

しかしながらこうして皆さんにお目にかかることができること、
そのことが有難いのであります。(拍手)

「袖振り合うも他生の縁」という諺がございます。
他生とは、多い少ないという字じゃないので、
たとえば「他人」の他、「生」は生まれる。

今ここ日本の各所で生まれた人が集まっておられるが、
吾々はある時にはギリシャの王子として生まれたり、
あるいはお姫様として生まれます。

そしてそこで互いに会いおうて、そして恋愛をして、
その王子になり王子の奥さんになったような方々も
ここにいらっしゃるわけなんであります。

それがいわゆる、「袖振り合うも他生の縁」、
他生、他の世界で生まれるという字ですね、他生。

他の世界で生まれた時のそのご縁の続きで、そして今日本の国に生まれて、
そして北海道のような北の遠いところやら、あるいは台湾のような南の方の端の
ところで生れた人も中にはありますけれども、

それは他生の縁、他の、何回も生れ変っている他の国で、他の民族で
生れ変っている時からすでに互いに知り合いであった。

その時にすでにある人同士は恋愛をして結婚をしとった人も、
ここにこう集まってきている。

そういう人はお互いに他方をちらりと目を合わすとですね、
なんとなしにずいぶん昔から知り合いの人である、
という感じがわかってきて、そして親しくなりたい、
という思いがわいてくるのであります。

それが「袖振り合うも他生の縁」というわけでありますし、
先ほどの「多い少ない」という字じゃない、
他の生まれる世界においてあった縁がですね、

縁あったところに繰り返して、そいで生まれてきておって、
ちらりっと相手の顔を見て、前からずっと知り合いであった、
昔から恋人であったというようなね、感じがすぐに起こってくる。

それが袖振り合うも他生の縁というわけでありますが、
そうして、吾々はこうして一堂に会していると、
それも決していま今生、いままで、これが今生のこの世界において、
そして日本国に生まれているので偶然に集まってきているんだと思うと、
そうじゃないのであって、

そりゃみんなね、他生の縁、他の民族としてあるいは他の国民として、
生まれた時から互いに知り合って恋人であったり、あるいは兄弟であったり
夫婦であったりしたような人はね、こうして集まってきて、
だからみんなね、これは懐かしいわけでありますが、

こうしてみんなはね、みな互いに吾々は親類縁者同士、
中にはこうして集まっている、そういう集まる深い因縁、
袖合うどころじゃない、

袖振り合うも他生の縁というのは振り合う、袖を振り合うだけじゃなく、
こうして先生の講演を一緒に聞いて、そしてお互いに真理を一層深く知りあう
というような因縁になって生まれてきている方々が
こうして出て来ておられるんですねえ。

だからね、ま、この他生の縁、多い少ないの多少じゃないんです。
他の生涯に生まれとった、その時からの縁で深い深い因縁によって
こうして集まってこられて。

例えば私が釈迦無尼如来として生まれて、インドで講演しておった時に、
その時に、皆さんもその釈迦無尼如来の説法を聞いて、
そして悟りを開いて菩薩となったような、そういう人も
こうたくさん集ってきておられる。

これが他生の縁である。

袖振り合うだけじゃない、同じ真理の話を聴いて尚一層悟りを深める、こ
ういうね、有難い因縁を一緒にこう持つということは、
これは滅多に得られないところの深い深い因縁であるわけでありますね。(拍手)

だからね、みなさんねえ、せっかくここに集まってこられたんだから、
みんなと仲良く、といっても一人が全部と仲良く友達になるわけには
いかんけれども、その近くに座っておられる人、互いに仲良く話しあって、
そしてこれから後も親しい親類同様の、深い仲間にありながら、
ならしていただくとまことにありがたいことであると思うのであります。(拍手)

私ももう九十歳を超えて九十二三歳に。九十の歳と書いて卒寿と読むんですね。
だから九十とは卒業の卆じゃ。人間わずか五十年と言うた時代があったですね。
そして七十歳は古来稀なりといって、古希の祝いをした。

ところが私はいま九十二歳か三歳になる。
まあ十分であります。まことにありがたいことである。
みなさんもね、長生きしていただいて、そして今この話を聞いて、
聞いたことを思いだし、そいでまあ一緒に隣り合って座り合っているような人と、
深い因縁があって、袖振り合うも他生の縁である。

袖振り合うだけじゃない、こうして真理の話を一緒に座って、
その因縁というものは非常に深い因縁であると、わたしは思うんです(拍手)

すべてがだから皆さんは自分一人がここに集まった人の親友に
全部一人でなるってわけにはいかんけれども、
たまたま隣に腰かけて座っておられるような人はねえ、
これを機会に深い因縁ある親類以上の因縁がある懐かしい人なんだと
自覚をして、仲良くしてこれからも交際していただきたいと存じます
、と思うのであります。ねえ。(拍手)

「鶴は千年 亀は万年」と言いました。人間は万年どころじゃない。
無量寿如来である。(拍手)

正信偈という仏教のお経には、帰命無量寿如来など難しいという書き出しで
始まっておりますね。

帰命無量寿如来。
妙は命と言う。
命のもとへ帰って考えてみるのが帰妙であります。

そしたら皆さんはみんな無量寿如来の命をいただいて、
でここに生まれ変わって来ておられるのである。

皆さんはここへ生まれてから、真宗の信者になったとか
阿弥陀さんの信者になったとかいうのは、そんな浅い因縁ではない、
命のもとへ帰っていくから無量寿如来、言い換えると阿弥陀如来であります。

阿弥陀如来の命が、皆さんに宿ってそしてここにこうして真理の話を
いっしょに聞かせていただくというような、深い深い因縁で結ばれて
ここに集まっておられるのであります。

その深い因縁を思い出すとき、皆さんは一人や、
この全部の人と仲良しになって交際するということも難しいけれども、
そんなんでなくておそばに座っておられる、

そういう数人の方くらいなら、いつでも手をつないで、仲良くして、
そしてあなたの命も無量寿如来の命が宿っている、
私の命も無量寿如来の命が宿っている。

互いに兄弟である。ということを自覚して、
そして仲良く交際していくようにしていただきたいと、私は思うのであります。(拍手)

帰命無量寿如来、など不可思議というのはね、正信偈の始めのところで‥。

僕は神戸で生まれて大阪で育って、僕の養父は広島の人で、
広島は安芸の国で、安芸門徒と言って、
非常にその本徒、本徒と言うと真宗の信者ですね。

安芸門徒と言うて、東の門徒はなかなか固い信仰を持っておったんです。
まあその安芸広島の士族の生まれで、そしてこの世に出てからもよくお寺へも、
真宗のお寺へお詣りもしておった。

私は少年時代に、その時分は私は大阪におりました。
大阪の天満の辺におりまして。

まだ少年の時代、お寺の名前は忘れたけれど毎朝そのお寺へ行って、
裃を着ましてね、子供のくせにね。

そして正信偈の帰命‥ちゅうて、大珠如来と言って母親と一緒に、
そのお経を読んでおったことを覚えているのであります。

ある意味わからずに読んでおったけれども、
しかし潜在意識は無量寿如来ということは、どういうことであるかということは、
それは幼い時でも潜在意識は知っているんです。

そして深い深い無量寿如来に対する、
無量寿如来については無限の命の如来、阿弥陀さまのことです。

阿弥陀さんの信仰に少年の時から深く阿弥陀さんに結ばれて、
つながれてそして育ってきた。

それでこうして宗教家として人を浄化する、
そういう仕事を自然にするようになったわけなんであります。(拍手)

幼い時のもんが、修行もなんにも役に立たんように思うか知らんけど、
そうじゃないんです。

潜在意識は幼い子供も老人の人間の潜在意識も、
みんなその奥には仏陀が、阿弥陀如来が在しますんだ。

それを思い出してその命はどこから出てきたか、寿命無量寿如来。
自分の命が無量寿如来すなわち阿弥陀さんの命から生まれてきた命である。
それを思い出して、そして阿弥陀さんの命に帰る、帰命。

命はいのち。皆さんもそれを思い出して、阿弥陀さんの命に帰る。
人間は唯の動物ではないのである。動物のね、雄と雌とが結婚して、そ
して子供が生まれたような、そんな弱い劣る存在ではない。

無量寿如来のその命から生まれてきた、そのもとの命は無量寿如来である。

この体は五尺なん寸。小さい体であるけれども、命は無量寿如来。
皆さんは無量寿如来でありますよ。(拍手)

それがほんとにわかったら病気なんてすることない。
無限の命の如来さまだ。それは病気をしたり、いろいろ過ちを犯したり、
罪を犯したりするようなそんなことはないことです。

そんなことが起こるのは自分の命がどこから生まれてきたかということをね、
思い出さんからじゃ。

皆さんはそれを思い出して、そして自分の命は阿弥陀如来の命が
ここに宿っているのである、ということをね、思い出すんです。(拍手)

一切衆生ことごとく仏性あり、という仏教の言葉があるですね。
一切衆生、衆生とは多くの生きているもの。
一切の多くの生きているものあり。
一切衆生、仏性あり。

仏性は仏。意味はブツで、性は本性。
人間の命の仏性は、仏の命が宿っているのであるということを、
皆さんは毎日思い出すがいい、ウン、ウン。

決して人間は子宮から生まれたのではないのである。
これは生命の實相の本の中に、僕が書いておいた言葉である。
人間はいまだかつて女の子宮から生まれたんじゃないのである。
そういうように見えとるだけである。

人間は無量寿如来の命の別れだ。
ここに宿って、そして谷口雅春無量寿如来となり、
谷口輝子無量寿如来となり、皆さんもみんなおなじ。(拍手)

今無量寿如来の命が宿っている。如来さまですよ、
人間は。自覚した程度にその人の生活が高まっていく、
浄まっていくものであります。

人間は無量寿如来の命がここに宿って生かされているので、(拍手)

これがわかることが、これがすべて道徳の根本である。

女の子宮から生まれて、性欲の塊が、なんて考えたら値打ちはない。
だから生命の實相の本の中には、
人間はいまだかつて女の子宮から生まれたことはないのであると書いてある。

僕が書いたんだけど、ハハ。(笑)

けれどもね、それは実際そうなんです。
女の子宮から生まれたんじゃない、ウン。
‥無用。

天界に在しましたところの天然の命が天下ってきて、
麻耶夫人の右の脇腹に妊娠して生まれたのが、
これが釈迦牟尼如来であるという伝説になっているが、
釈迦牟尼如来だけじゃない。

みんな天界に在しますところの、無量寿如来の命の別れが天下ってきて、
そしてお母さんのお腹に宿って、そこから生まれてきたんだ。

その命の本物が、本元が無量寿如来、すなわち阿弥陀如来ですが、
これが如来の命がいまここにきているんだー、ということを、
まいにち朝くり返す。

神想観をして思い出す。
また、寝しなにも神想観をして(節をつけた招神歌)、
というこの招神歌をみなさんも毎朝唱えておられていると思います。

そして無量寿如来の命がここに在しますということが分かったら、
自分のここにあるだけじゃなくて、すべての人間の命の中に
無量寿如来が在わします。

みんなが無量寿如来。如来と如来の拝み合いの世界がこの世界だと。
これを悟らしていただく。

そしたら今のような、ああ学校にも暴力沙汰があったり、
いたるところに暴力沙汰があったりするような、
そんな暴れまわる世界ではなく、みんな拝み合う世界が開けてくる。(拍手)

だから皆さん自覚して、みんな無量寿如来の命の兄弟だ。
そしたらばもう、暴力事件なんてものは起こりようがないのであります。

教育が悪いというのは、教育と言うのは外から教える、と。
押し込むことじゃないのである。
教育はエデュケーション、エデュケートと言うたら、引き出すということである。

みんなに無量寿如来の命が宿っているものを、
それを引き出すのは、これが教育である。(拍手)

宿っているけれども引き出さずに暴れん坊だ、
お前の命はろくでもない暴れん坊だ、乱暴な暴れん坊だと
先生が生徒をバカにして、そして「教えてやるぞ」と。

教えるとは押し込むことだくらいに思っている。
教育しているなら学校の暴力沙汰もそれも終わらないということになる。

すべての人間が、いま如来の命が宿っているというその實相を拝ましていただく、
それを引き出すのがこれが教育です。

エデュケート、エデュケーションというのは教育ですね。
教育とは引き出すことなんだ、

みんな無量寿如来の、如来さまの命が宿っているから、拝まずにはおれない。
みんな拝まれる。そういう資格のある、実際至上仏性、仏性、仏の本性が
みんなに宿っている。それをね、自覚させるのがこれがほんとの教育だ。(拍手)

そのほんとの教育のやり方を教えているのが生長の家(拍手)。

学校の教師でもそういう引き出す教育、仏性を引き出す、如来を引き出す、
そういう教育を知らないで、

ただ彼ら生徒は恐れるものであるから、
いいことを教えて押し込んでやるのが教える教育だ。
なんで考えてね、生徒を軽蔑して、上から圧迫している。
押し込むのが教育だくらいに思っているから、圧迫されたら反発している。
そして暴れん坊の少年や青年が生まれてくるということになるのであります。(拍手)

どうぞみなさん、この教育の現状をとらえて、みなさん知らせてあげて、
そして陰では生長の家の機関雑誌を見本にして、そして差し上げて、
そして読んでいただくというようになさいましたら、

きっと日本中だけじゃない、世界中の人間がみんな無量寿如来の命が宿っている、
如来さまであるんだあ。
自覚するようになるから、拝み拝まれる世界がここに現れてきて、
もう戦争も何もない、争いもない、乱暴沙汰なんてものもない。

ほんとうにね、合掌にね、拝み合いの生活ができてくるのであります。(拍手)

私は大阪から、和歌の浦の方へ行く急行電車に乗ろうと思って、
あれは何もない駅でしたかね、電車に乗った。そしたら多くの信者が
見送りに来ておりました。

そいで私は急行電車の窓から、体を半身を乗り出して、そして合掌して拝んでおった。

そしたら一人の男がすたすたっと僕の前に集まってきて、
それで僕を拝んで、拝んでいる僕の合掌の手をパッと握った。

「先生、私は今日は刑務所から来たもんでございます。
そしてこの娑婆へ出て来て、これからどうして生活したらいいかと
思って戸惑うておりましたが、先生のその合掌している姿を拝した時に、
ああこれから私はこうして生きたらいいのであると、わからしていただきました。」
(拍手)

「先生、ありがとうございます。」と言ってね(拍手続いている)、
そして僕の合掌の手をこう握って、そして互いに拝み拝まれ、
きっとそれはねその日刑務所から出てきた人も、
オトマシイ(群馬の方言で勿体ない)の世界で生まれ変わって、
今では模範的な善人になって、この世の中のために尽くしていると
私は信じているのであります。(拍手)

拝む世界に悪は出てこない。
「合掌すれば天国へは現る。父を拝まん、母を拝まん、と言う僕の歌があります。
合掌すれば天国ここに現れる。父を拝まん、母を拝まん。父と母だけじゃない。
すべての人間は無量寿如来のおんなじ命の兄弟であるから、父を拝まん、母を拝まん。

それだけじゃないすべての衆生、すべての人類を拝ましていただきます。
そういう心になったらその心が以心伝心、相手に伝わって、
それが世界中に広がるようになれば、戦争はなくなる。

全ての戦争みたいなものは何のために起こるのであるか。そ
れは利益とか権益とか、ともかく自分の利益か、権益とかいうものを
得るためには相手を殺さなければいかんと言うようなことになる。

そいで日本にも過ちを犯したことがある。真珠湾に突撃を加えてみたり、
そんなことするのがある。

これらがすべての善のもとは何かと言うと「不殺生」。
不は争い。不殺生、殺生をしないということのね、すべての道徳の根本にあるんだ。

殺して、誰かを殺さなければ何かの利益が、あるいは権益が得られないというのは、
それはもう戦争の発端。戦争して相手を殺さないで、というような得になる、
得るようなことはありえないことである。

戦争は人を殺し、すべての十全、あらゆる善のその一番最初の項目は何かと言うと
不殺生、殺生せずということがすべての道義、道徳の根本である。

不殺生、すべての人間は、根は如来の命が宿っている、
その人間を殺して自分が権益を奪う、利益を奪う、そんなことがねえ、
いいことか悪いことか。
もう考えてみないでもすぐ答えは出てくる。

だから殺す勿れ。
モーゼの十戒も、あるいは仏教の十全の徳も、
みんな最初の項目は殺す勿れである。

殺すのはいかん、というのは人間の命は如来の命である。

如来を殺して、大変な仏罰があたる。そいで戦争をして、そいで得になったか。
日本人でも真珠湾を爆撃してる。
そいで一時、敵の軍艦をみんな全滅させたなんて考えておったけれども、
しまいには最後の神様からの回答が天下ってきた。

そして原子爆弾が日本の長崎に、あるいは広島に落とされるというようなことが
起こってきたんです。

これは自分の心の中に、自分が得になるとふんだら相手を殺してもいい
というような、そんなずるい考えをもっているからそういうような目に合うんです。
殺される目に合う。

世界平和の根本的真理は「殺す勿れ」。
一人も殺さないで戦争するわけにいかんでしょう。
そしたら、殺す勿れという十全の徳の第一か条をほんとうに実行したら、戦争はない。

そのくらいのことは誰でも知っていることなんだが、
それが政治という厄介なものをつかんでいる。

政治家も目の前が分からないで、それで国家の権益であるとか、
日本の国の権利の拡張であるとかなんとか考えて、
それで殺すことが日本の権益を守ることであるなんていうような
迷いに陥ることによって戦争が始まる。

みなさん、生長の家は『殺す勿れ』だから戦争はない。
すべての人間を生長の家に導いて「殺す勿れ」の最高道徳を政治家に
実践させるように導くように、みなさんどうぞ皆さんの息子を、娘を、兄弟を
導いてあげていただきたいのであります。

これを皆さんにお願いして、今日の私のお話を終ることに致します。

有難うございます。静聴を感謝致します。(拍手)



昭和60年(最終講話の翌月)6月17日。谷口雅春師は 神界へ 帰幽されました。
6月13日(朝)3時30分 谷口雅春師 最後の聖句

『病なし! 迷いなし! 罪なし!これが生長の家の根本真理であります。
それでは、神様ただ今より眠らせていただきます』その後、眠りに入り、
6月17日、眠ったまま帰幽されました。
捧げて捧げて、捧げつくされた 偉大な 御生涯でした。

平成の時代に、後に続く者たちを見て、谷口雅春先生は、何と思われているでしょうか。 

「殺すなかれ」 谷口雅春師
https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/26/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-32/

          <感謝合掌 平成30年9月11日 頓首再拝> 

「神命の書」 - 伝統

2018/09/12 (Wed) 03:23:27

平成30年7月27日の言葉 より 

皆さんは「神命の書」をご存じですか?

「往きて年間300萬人の胎兒を救うべきぞ!」
     谷口雅春先生 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「神命の書」 
  
 住吉之大神宣り給ふ
 汝はわが愛する御子
 われ汝に使命を授く

 往きて年間三百萬人
 の胎児を救ふべきぞ

 かくて日本人の業 浄まらん
 然るとき 天之岩戸開かれ

 天照大御神の神靈
 出御せられて日本國
 の實相あらわれん

  神命の書 受託者 雅春

   『生長の家』誌昭和46年6月號より  

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/27/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-33/

          <感謝合掌 平成30年9月12日 頓首再拝> 

いのちを拝むという意味 - 伝統

2018/09/14 (Fri) 04:25:42

平成30年7月28日の言葉 より 


いのちを拝むという意味

「美しき日本の再建」(P12~13)

   谷口雅春先生

”物体ない”という気持ちで一切のものに接する事が
”生命(いのち)を拝む”という事なのであります。

すべてのものがただの物質だったら、いのちを拝むということはないわけです。
”物質じゃない。物体(もったい)ないんだ”と、「これは物質じゃない、
物体じゃない、神様の生命(いのち)が、そこに現れているのである」と
いうのが、古(いにしえ)から伝承して来た日本人の思想である。

そして一切のものをことごとく神の生命、如来の生命の現れであるとして
拝むところの崇高にして謙譲な精神をもって生きて来たのです。

そこへ仏教が入って来て、釈迦牟尼世尊の悟りの言葉が伝えられ、
”山川草木国土悉皆成仏”という思想が入って来た。
山も川も草も木も国土も、悉皆、ことごとくみな成れる仏(すなわち仏のいのちの
現成(げんじょう)であるという釈尊の悟りであります。

天地一切のものは、すべて是れ仏の生命の現成である。

肉眼で見れば物質と見えているもの、鉱物と見えているもの、山も、川も、
国土も、植物と見えている草も木も、ことごとくこれ如来の生命の現れなのだ
という悟りが仏教として入って来たのですが、

この考え方は、日本人がずっと『古事記』が編纂される時代、否、それよりも
古く神話の時代から伝承されておった日本的思惟(しい)であります。

それが仏教が入って来てなお一層それがはっきりと、
説明されるというようになって来たわけなんであります。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/28/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-34/

          <感謝合掌 平成30年9月14日 頓首再拝> 

愛は享(う)けるだけでは可(い)かぬ - 伝統

2018/09/16 (Sun) 02:46:56

平成30年7月29日の言葉 より 


「愛は享(う)けるだけでは可(い)かぬ」

「生長の家」昭和25年2月27日の法語

谷口雅春先生

神は 吾々(われわれ)に
生命を 与え給(たま)うた。
智慧(ちえ)を 与え給うた。
愛を 与え給うた。

与えられたものは、ただ受けるだけでは いけないのである。
必ず 与え返さなければならない。

与え返した時 それが多くの実を結んで 更に返って来るのである。

与えるということは 「 表現する 」 ということである。

与えられた生命を 表現すれば
「 働き 」 となるのである。

与えられた智慧を 表現すれば、
人のためになる善き考えとなるのである。

与えられた愛を 表現すれば、
愛行となるのである。

愛行を実践する時、多くの実を結ぶのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/29/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-35/

          <感謝合掌 平成30年9月16日 頓首再拝> 

神はすべてのすべて - 伝統

2018/09/17 (Mon) 03:52:47

平成30年7月30日の言葉 より 

『生命の實相 幸福篇下 第38巻』7月22日 26p

    谷口雅春先生

「神はすべてのすべて」

眼を瞑ってかく念ぜよ。

繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。

ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。

神はすべてであり、いっさいであるからである。

ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/30/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-36/

          <感謝合掌 平成30年9月17日 頓首再拝> 

正しくても暗い人は善人ではない、 - 伝統

2018/09/18 (Tue) 04:29:01


平成30年7月31月日の言葉 より 

谷口雅春先生は「明るさ」の大切さについてこう書かれている。

  『生命の實相』第37巻幸福篇上2月24日64p

谷口雅春先生

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、
自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。
三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/07/31/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-37/

          <感謝合掌 平成30年9月18日 頓首再拝> 

8月1日の宣言 - 伝統

2018/09/19 (Wed) 04:26:29

平成30年8月1日の言葉 より 

今日は、86年前に谷口雅春先生が
≪「生長の家」の人類光明化運動に私は全生命をささげることになった日≫
と書かれた、記念すべき日である。

8月1日の宣言

昭和完成〈7つ〉の年8月1日即ち彌(いよいよ)の月の一(はじめ)の日、
「生長の家」の人類光明化運動に私は全生命をささげることになったのである。

これは神界から定められていた因縁の日にあって、
何人も変えることは出来なかったのである。

約半年前、既に2月9日の神示〈本誌第三輯四号〉にも、

『実生活をあまり忙しがるな。皆の者が「道」をきき病を癒して貰いとうても
遠慮して頼みに来にくい。そのうちに救われる機縁を失うて取り返しが
つかぬようにする人もあるのが可愛そうだ。

・・・わが第一の神殿は皆の誠によって形の世界へ顕われたから
第二の神殿に取り掛かって貰わねばならぬ。

第一の神殿は聖典「生命の實相」であって智慧の神殿である。
第二の神殿は愛の神殿であって、神が愛であり、
愛は癒す力であることを知らす「見真道場」〈いのちのゆには〉である・・・・』 
(※註:上求菩提下化衆生の神示)

という顕示〈おしめし〉があって、私が今迄会社生活の片手間にも
分相応に隣人を救い得るものである、

人間は生活を縛られても人を救う余裕はある ―― 生命は縛られていてさえも自由自在だ、
この真理の実証生活に、近き将来に一転機が来る事が知らされていたのである。

併し私は会社生活をやめなかった。
ただ居を従来の二倍以上の広い家に移し、約20畳敷ける二階を、
修行者に開放して神示に副はんがために仮見真道場の宣伝機関としたのであった。

そのために家賃はじめ色々の経費は倍加した。
私が依然として会社生活を持続することにしたのは、
修行者に経費を負担させる事を私自身が喜ばないためであった。

ところが6月中ごろになって突然私のつとめていた神戸の外人会社が
横浜の某外人会社に併合される事に定まり、私の勤めている会社は
大整理を行って百人程の社員中20数人だけが残されて
横浜の合併会社へ吸収されることになったのである。

私は其の残される社員として7月初旬横浜へ行くよう幹部から非公式に通知を受けていた。
この事はその時今井楳軒翁にだけ話した。

ところが6月19日の本部誌友会席上で
「仮道場開場記念に次の月には講演会を開く事にしましょう」と畑中氏が提案せられた。

7月初旬には会社の都合で横浜へ転任するはずの此の私が住吉で講演会を開く事に
同意したのも自分ながら妙な感じがした。

私は横浜へ行くべきか、自ら進んで会社を退いて「生長の家」の仕事にのみ
専らわが生命を注ぐべきかに思いとどまっていた。

それは私が会社を退けば色々の経費を自分だけで負担するようにし、
修行者に出来るだけ負担をかけないようにしていた財源がないようになると
一方には見えたのであった。

ところが仮道場を開いて以来、会社を続けている事には時間的無理が出来かけていた、
と言うのは会社生活に殆ど十時間を奪われ、会社から帰って来ると、
修行者が既に待っていられるので、殆ど夕飯をたべる暇もなく、
それらの人々に面接し、話がのびて11時頃になることも度々あった。

多くの誌友から悩みの訴えの手紙が来、遠隔治療の希望が来ていても
その返事をかいている暇がなかったり、遠隔治療をしてあげる暇がなかったりする。

10人の遠隔治療をするにも1人宛30分を費やすとすれば五時間を要する。
この時間は会社生活に十時間を奪われている私にはないのである。

従って1人宛ての遠隔治療に費やされる時間は段々短くなって来るし、
時には一定の時間を定めて置いてひと纏めに名前を呼び上げて
祈願してあげるより仕方のない時もあったり、是非返事を書かねばならぬ手紙も
そのままになったりした。

多くの誌友にこれは済まないと思う。これではならない。
自分は会社を止めて「生長の家」ひとすじに自分の生命を捧げねばならないと切に思う。
切に思いつつ尚躊躇する、それは修行や施療に費用を誌友にかけないで
自分ひとりで負って行きたいためであった。

かくして私は神に祈る ―― みこころの如くならしめ給へと。

ところがみこころが動いた。7月22日私のつとめている会社の幹部から
前の非公式の横浜転任の通知を取り消して7月31日をもって解職する
との辞令を受けたのであった。

顧みれば、あるべきものが表われ、来るべきものが来たのであった。
私はみこころに従ってひたすらに生きて行こう。
私は今ほどすがしがしい気持ちを知らぬ。

私の全生活は誌友全部に捧げられたものとなったのである。

私は諸君のものである。 昭和7年8月1日 谷口 雅春

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          <感謝合掌 平成30年9月19日 頓首再拝> 

実相円満完全を成就するには行動が必要だ - 伝統

2018/09/20 (Thu) 03:06:18

平成30年8月2日の言葉 より 

実相円満完全を成就するには行動が必要だ

  谷口雅春先生

「実相」は完全円満であり、既に“成就せる世界”であるから、
それは唯、観ればよいのであって、何も方便を弄する必要はないのである。

じっと端坐して実相完全の相(すがた)を見ておれば、
それがそのまま現実化して来るのだから、
生長の家政治連合などつくる必要はないのである。


―― これは、私が、あまりにも多くの胎児が人工中絶せられている悲惨さを
何とか救いたい、それを救うためには妊婦をたずね、戸外訪問して、
中絶の不徳と弊害を説いて廻っても中々能率があがらないが、

堕胎防止の法律が制定されれば、
それだけで年間二百万人の胎児の生命を救うことができると考え、
“生長の家政治連合”(生政連)を組織することにしたのだったが、

その際、もっとも熱心な、もっとも古い誌友から私に送られた
深切な注告であったのである。

この人は「実相は既に完全の世界である」ことを知っていられるだけで、
実相が現実化して現象界にあらわれて来るには、何らかの行動が
その現実化の過程として動き出さねばならぬ
 ―― その “動き出し” の一つが生政連の組織であることに
気がついていられないのである。  

『白鳩』誌 昭和47年4月号 10日箴言

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          <感謝合掌 平成30年9月20日 頓首再拝> 

『百万人の児童を救う運動を起せ』 - 伝統

2018/09/21 (Fri) 02:52:50


平成30年8月3日の言葉 より 

わたしには 谷口雅春先生の 声が 聞こえる。

「神意に叶う生き方」こそ「神の子」の生き方である。

  『百万人の児童を救う運動を起せ』
       谷口雅春先生

世界に一つしかない法律が出来たのである。それが日本に出来たのである。
人工流産の枠が外されて、一さい優生保護法指定医(開業3年後の産婦人科医)の
自由裁量に任せられる法律である。

産婦人科医に殺人の自由がゆるされた法律である。
医学評論家の石垣純二氏は「こんな法律は世界中に一つもない。
文明国にもないし、後進国にもない」と云っている。

「人工流産は年々ふえる一方で、昭和25年は49万件であったが、
26年は62万件以上とうなぎ昇りだ。しかも、これは氷山の一角にすぎない。
全医師の一割にもならない指定医が届け出た数字がこれで、
このかげにどれほどのヤミ流産がかくれていることか。

K市の保健所の調査では合法1につきヤミ3だったという。
これを全国に当てはめてはえらいことだけれど、
まあ表面に出た六十万件のかげに、その2倍ぐらいのヤミ流産がある
と推定される具体的証拠がある。」と。

これによると1年間に200万人の胎児の殺人が日本で公然又は黙認して行われている
と云うことである。こうして殺人の上に築かれたる生き残っている人だけで
平和がいつまでも平和でつづき得るかは疑問である。

石垣氏は更に日本全国に1200百万人の適齢母性があるのに
指定医は全国で7000人足らずしかもそれが都会に偏在していることと、
この法律の堕胎公許によって堕胎を罪悪視する心がなくなることとによって
素人による手軽な堕胎が到る処に行われる危険をのべ、
更に(指定医だってピンからキリまである。指定医が手術したって、
本質的には危険な手術に変わりがないのだ。

指定医の手術でも4、500人に1人は死んでいるし、
死なないまでも大出血や子宮穿孔などの障害のあった例は、その十倍もある。
古屋公衆衛生院長が300人ほどの指定医をしらべた報告では、
10人につき1人づつ殺している指定医が四人もあったという

・・・・それに流産にくる女性の2割が
妊娠3ヶ月以内を過ぎてしまっていることも問題だ。
9ヶ月の人工流産さえ聞く。9ヶ月なら生きて産まれるはず。

そこで頭に穴をあけて引き出すのだ。完全に殺人だ。)

まことに石垣氏の云うとおりである。
最近私は龍野の婦人誌友で、骨盤の奥行が狭いから人工流産をさせるか、
帝王切開分娩をしなければならぬと専門医から云われたものが
生長の家の教えに触れて3度のシキリ毎に「あゝ好い気持・・・・」と
快感を表現しながら無痛分娩した挙句、

その婦人は股関節の先天的脱臼で右足が短くて跛を引いていたのが
復旧して跛行せずに歩行出来るようになった実例をきいたのである。

これなども医師にまかせておけば、殺人される筈の子供であったのが、
宗教に触れたために救われた一例である。

政治に宗教が入らなければ本当に正しい政治など行えるのではない。 

『白鳩』誌 昭和27年7月号 巻頭言

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          <感謝合掌 平成30年9月21日 頓首再拝> 

『真理の吟唱』はしがき - 伝統

2018/09/23 (Sun) 04:58:26

平成30年8月4日の言葉 より 

『真理の吟唱』はしがき
     谷口 雅春 先生

「真理の吟唱」は私が毎月『光の泉』誌に「日々読誦毎月真理経」と題して
連載したところの霊感によって書かれたる〝真理を唱える文章〟である。

それは特に朗々と吟唱するためにふさわしいリズムをもった文体をもって
書かれているので、日々それを朗々と読誦せられることによって、
人生を天国とし、楽園とし、天国の無限の祝福を地上にもち来たす媒介となるものである。 

 
「真理は汝を自由ならしめん」とキリストはいったが、
真理があなたの潜在意識の底にまで徹して、あなたの生命のリズムとなるとき、
あなたは完全に自由を得、あなたに潜在する無限力が充分に開顕し、
自己の欲するごとく希望を成就し、目的を達成し、単に自利のためのみならず、
利他に貢献し、人類に平和をもたらし、地上に天国を建設する聖使命を果すべく
色々の奇蹟をも実現し得ることも可能となるのである。

 
仏教の経典は深い真理を蔵し、昔はその意味を知って読誦されたが故に、
宗祖となられた高僧たちは色々の奇蹟的功徳を実現されたけれども、
現代人にはあのような経文の漢文の棒読みでは真理を深く理解することができないので、
住持、経を読めども功徳あらわれず、寺門はさびれるばかりである。

経文の貴さはその語句に内蔵されたる真理の深さによるのである。
しかし真理を深いと思うばかりで真に理解されなければ役に立たない。

現代に訳された仏教経典もあるけれども文字に執して直訳されているので
複雑難解であって、読んで解釈するのに時間と労力とを要し、
却ってそれに内在する真理をわがものとすることが出来ないで、
哲学者的研究となるばかりで、奇蹟的功徳を体験する人が少ないのである。

 
しかし本書に収録されたる〝日々読誦〟を目的としたる〝真理経〟は、
古人の著作になる経典ではなく、直接、霊感によって著者が受けたる真理の啓示を、
〝言葉の力〟を自由自在に駆使して読者の潜在意識に深く印象するように
工夫されているので、

繰返し読めば読むほど、真理の潜在意識への印象は深くなり、
自信は深まり、心は明るくなり、生活に悦びが湧き出て来て、
希望に向って勇敢に努力する力がたぎり立って来るのである。

実際心が何らかの理由で暗くなったような時、
試みに本書の数章を朗々と吟唱又は朗読せられるならば心の憂鬱はふっんでしまい、
心に光明が照り輝いて来て、捲土重来の明るい希望と勇気とが涌き出て来ることを
体験せられるであろう。

真理は、単に現世の人間にのみ役立つのではなく物故せる諸霊に対しても、
その悟りを深め、霊界における解脱を一層ふかめるものであるから、
あなたが、先祖の仏前又は霊前で、お経をお読みになる際、

その聖経の前又は後に、毎日本書の一章ずつを順次、朗々と
声をあげて読誦せられるならば、単に霊界の祖先霊に功徳をもたらすのみならず
読誦する人自身が真理の光に照らされて、必ず生活万般に神の智慧を実現し得て、
行くところ可ならざるなき能力を発揮し得ることになると信ずる。

読誦に際してはその文章をハッキリと思い浮べて、
説かれている真理を完全にわがものとせられることが必要である。


特に、何らかの問題に面せられたり、ある希望を実現しようと欲せられる場合には、
目次を索引として自己に適する題目を選んで、その祈りの言葉を朗誦せられ、
更に神想観を実修してその祈りを繰返し瞑目中に念想せられて、
その文意の語る真理を潜在意識に滲透(しんとう)せられるがよいのである。

真理が心の深層に深く印象せられる程度に従って、
あなたの実相の無礙自在性が発揮されるのである。

著者は本書の説く真理を読者と共に日々読誦して、
全人類が皆ともに人間本来の円相を実現せられんことを願わずにはいられない。                        合 掌

      昭和45年1月25日
        著者(谷口雅春)識す

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/06/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-40/

          <感謝合掌 平成30年9月23日 頓首再拝> 

谷口雅春先生の叫びである - 伝統

2018/09/24 (Mon) 03:48:10

平成30年8月5日の言葉 より 

   谷口雅春先生の叫びである。

 
「悲しみに目を泣きつぶし」あまりに悲しいことが続くので、私の魂は泣き続けた。
見たくない日本の現状なのである。

「悲しみに目を泣きつぶし」という浄瑠璃のセリフがあるが、
私の魂の悲しみや、私の見たくない心が、私の家内の肉体に影を投じて、
急に家内の視力が衰えて来たのであった。

<44年前:昭和49年10月号「理想世界」谷口雅春先生>


「この頃は悲しい事ばかり、憂うべき事ばかり、日本国内にも、国際的にも
いろいろと起こって来るのである。もうこんな世界に生きていたくないと
思う事すら時にある。」

<(47年前:昭和46年12月号「生長の家」明窓浄机)谷口雅春先生>

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/06/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-41/

          <感謝合掌 平成30年9月24日 頓首再拝> 

人間の生命そのものが神の最高の自己顕現である - 伝統

2018/10/04 (Thu) 04:37:22


平成30年8月6日の言葉 より 

『白鳩』昭和49年1月20日の箴言

     谷口雅春先生

ではその「自分の実相」とは何であるかというと、
人間の生命そのものが〃全宇宙に充満するところの大生命〃
そのものの延長であり、単に延長であるばかりでなく、
最高の自己顕現であるということなのである。

その事を本当に自覚できるならば ―― 私は皆さんが
この新年を契機として、そのことを真に完全に自覚して頂きたいのであるが
―― その自覚が出来て、

それを感謝の念をもって受取ることができるならば

「全ての男も女も、あらゆる家庭も、ことごとく
全く新しき存在へと変貌してしまい、以前とはすっかり異なる
新しき男、新しき女、新しき家庭が再創造せられることになるのである」

この事を『黙示録』には『われ一切(すべて)のものを新たならしめたり』
また『前の天と地とは過ぎ去り』という風に表現しているのである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/06/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-42/

          <感謝合掌 平成30年10月4日 頓首再拝> 

愛は最も強力なる力である - 伝統

2018/10/05 (Fri) 04:56:19


平成30年8月7日の言葉 より 

「光明法語」1月30日の言葉より

谷口雅春先生

愛は最も強力なる力である。

如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは 出来ないが、
愛のみ 相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば 又自分も害される。
議論すれば 議論でやりかえされる。

けれども 愛すれば必ず相手に愛されるのである。

愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて 一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは 一人もないのである。

敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する 道である。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/07/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-43/

          <感謝合掌 平成30年10月5日 頓首再拝>

いのちの歓喜 - 伝統

2018/10/12 (Fri) 03:54:47


平成30年8月8日の言葉 より 

谷口雅春先生はいのちの歓喜を、こう説かれている。

「光明法語」4月3日の言葉より

    谷口雅春先生

われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。

神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。

われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。

生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/08/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-44/

          <感謝合掌 平成30年10月12日 頓首再拝> 

「師恩」 - 伝統

2018/10/18 (Thu) 03:44:49


平成30年8月9日の言葉 より 


『理想世界』誌昭和45年12月15日の法語

   谷口雅春先生   

 ”…先日も東京の地方講師や伝道員ばかりの実相研鑽会で、地方講師の一人が
〝七つの燈台の点燈者の神示〟に「皇恩に感謝せよ、汝の父母に感謝せよ」とある
その次に「師恩に感謝せよ」を是非入れて貰いたいという要求が出されたのであるが、

私は「師恩」を書くことを忘れたのではなかったのである。
それは、私自身が「師」という立場に立っているから、
「師恩に感謝せよ」とあったら、「私に感謝せよ」といっていることになるので、
特にそれを消してしまってあったのである。

愛を施す者は、人から感謝されたいと思ってはならないが、
施されて何らかの益を受けつつある者は、
「施される権利が自分にはあるんだ」などと高い姿勢をとることなしに、
感謝の念を起こすようにすることによって、周囲との調和が得られ、
自分自身も幸福感を享受することができるのである。”

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/09/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-45/

          <感謝合掌 平成30年10月18日 頓首再拝> 

「無限の生長と前進」 - 伝統

2018/10/20 (Sat) 04:40:54


平成30年8月10日の言葉 より 


「光明法語」9月10日の言葉

谷口雅春先生

かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、その表現されるものは
常に一層大きく、一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。

それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。

大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/10/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89-46/

          <感謝合掌 平成30年10月20日 頓首再拝> 

「實相訓」 - 伝統

2018/10/30 (Tue) 03:22:04


平成30年8月11日の言葉 より 


「實相訓」
  谷口雅春先生

『 生命の實相と申候事は、
 此世界が此儘神の国であり、
 人間は其儘神の子なりと申事に候。

 観ずれば それが 現るゝものに候。
 観ぜざれば 現れる事なく、
 さればこそ 心を静めて 實相を見よと申すに御座候。

 現象に 如何なる悪 現れ申候とも、
 いづれも 神の作り給へる實在には無之候間、

 気にかけずに 唯實相円満なる相のみを観ずれば、
 結局は 円満なる實相 現るゝものに有之候 』

 (昭和22年正月 愛媛県新居浜市 秋月照子様へ)

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/11/8%E6%9C%8811%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4/

          <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝> 

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