伝統板・第二

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光を灯す③ - 伝統

2018/08/01 (Wed) 04:26:21

眼をひらいて真相を見よ。そこに光り輝く世界を見出すであろう

         *「光明法語」(8月1日 健康と祥福とは万人具有)より

誰でも皆、最善の健康と最善の祥福とを楽しむことが出来るのである。
何故なら人間は皆神の子であるからである。

それが出来ないのは、神の子たる実相を自覚しないか、
神の子たる生活を生活しないからである。

健康と祥福とは、特別に或る人にのみ与えられたる恩恵ではない。
眼をひらいて天地の真相を見よ。
そこに光り輝く光明の世界を見出すであろう。

眼を開いて自己生命の実相が「神の子・円満完全」であることを見よ。
病いや不幸に心の眼を振り向けても光は見えない。

・・・


<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「”ひかり”のみ (5394)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1024 

(2)伝統板・第二「光を灯す」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6649683

(3)伝統板・第二「光を灯す②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7166594

            <感謝合掌 平成30年8月1日 頓首再拝>

心の窓をひらいておれば、必ず光は訪れる - 伝統

2018/08/14 (Tue) 04:42:11


       *『女性の幸福365章』(P5)より抜粋

窓を開いていないと光は入ることはできない。

窓を開いていても夜間であれば光は入らないこともある。

しかし、常に窓を開いておれば、やがて朝の光、昼の光は訪れるのである。

常に心の窓をひらいて必ず光(幸福)が来ると信じておれば、
必ず光は訪れるのである。

心の明るい者の処へ幸福は訪れる。

            <感謝合掌 平成30年8月14日 頓首再拝>

心の窓をひらいて光を入れましょう - 伝統

2018/09/10 (Mon) 04:43:57


         *『真理』第3巻初学篇(P61~62)より抜粋

「我(われ)戸の外にありて叩く、若し戸を開くものあれば我直ちに入らん」
と聖書に書いてあるのであります。

「我(われ)」とは神のことであり、神は全ての源でありますから、
神が戸の中(なか)に入(い)ると云うのは
一切のものの無限供給が流れ入ることであります。

ただ我々自身が心の扉を閉じて(即ちラジオで謂えば波長を合わさないで)
それを入らしめないだけのことであります。

シェークスピアは「若し吾らの心が用意されているならば、
すべてのことは既に用意されている」と書いてありますが、
全くその通りなのであります。

あなたの心だに、完全にそれが用意されたら
貴方が決して得られないものはなく、
為さんとして為し得ないものはないのです。

            <感謝合掌 平成30年9月10日 頓首再拝>

《神は 光である》 - 伝統

2018/09/27 (Thu) 04:55:58


       *『 生長の家 』(昭和25年3月16日の法語)より

   神は光である。
   どこにも暗(やみ)はないのである。

   困難な問題に直面した時には、常に

   「 神は光である。あなたの光をもって吾を導き給え 」
   と念ずるようにすることは
   自分の内に宿っている神の智慧を目覚めしめるに
   非常に効果ある方法である。

   もしあなたが神の智慧の方へ振り向くならば 一瞬の中(うち)に、
   神から射(さ)してくる光は 事件の全体を照して、
   直ちに その事件を光明化してしまうことができる。

   恐怖は暗黒である。
   恐怖心をすてなければ 本当に光をみることはできない。
   恐怖心がおこるのは まだ本当に神を信じないからである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成30年9月27日 頓首再拝>

自己に光を点(とも)すには - 伝統

2018/10/13 (Sat) 03:42:18

       *『 生長の家 』(昭和25年3月17日の法語)より

キリストは 「 吾は 世の光 として 来れり 」 といっていられるのである。

自己の中にキリストを見出(みいだ)す時、

そこには何らの悲しみの影も 憂鬱(ゆううつ)の影も あり得ないのである。


神の光を受けるには、 「 与えるものは 与えらる 」 の法則に従って、

自分自らが 他の人に光明を与えるものとならなければならないのである。


まず 喜びの微笑(ほほえみ)を与えよ。

人に慰めを与えよ。

人々に希望を与えよ。

深切を与えよ。

そこからあなたの魂の明るさが生まれて来るのである。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成30年10月13日 頓首再拝>

心を明るく持てよ - 伝統

2018/10/25 (Thu) 02:52:38

心を明るく持てよ

『生長の家』昭和26年5月17日の法語より

心の明るさと云うことが第一に必要である。

神に祈って効果がない場合、概(おおむ)ねその人に心の明るさが欠乏している場合が
多いのである。

神は光であるから、神の波長に合うためには先(ま)ず明るい心が必要である。

すべての恐怖や心配や取越苦労などを“かなぐり”捨てて、
神に全的にまか切ることが必要である。

「 私は朗らかである。私は神の子であるから、親様なる神が 私のすべての事を
見戍(みまも)り給うから、私は神にすべてをまかせて、心平和である。
すべての事は必ずよく成就するのである。」と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、

心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。


https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/19/%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%90%E6%97%A5%E6%9C%88%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4/

            <感謝合掌 平成30年10月25日 頓首再拝>

常に心を光明で照り輝かす - 伝統

2018/10/27 (Sat) 03:31:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月27日>(P108)より

神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

光が点ぜられたならば、その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、
われらの心に光が点ぜられたら、われらが神の世継としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。

           <感謝合掌 平成30年10月27日 頓首再拝>

光を反射する心 - 伝統

2018/11/15 (Thu) 03:09:58

         *『美しき生活』(P127~128)より

光を反射する心 ―― これほど大切な心はありません。
光を反射する心というのは『有難い』と感ずる心なのであります。

吾々が若し凡ゆる恩恵を反射する心の眼を開いて、
すべてのものを見ることが出来たならば、空気を吸うのも有難い、
何故有難いかと云うと空気があるので吾々は生きていられる。

又お父さんがいらっしゃるのも有難い、お母さんがいらっしゃるのも有難い、
お母さんがいらっしゃるのも有難い。父母在(ましま)すので
吾々は地上生活をして霊魂の向上する機会が恵まれたのであります。

子供がいてくれるのも有難い。
子供がいてくれればこそ吾々は親としての慈愛を味い
孤独でない生活が出来るのであります。

万物の実相を見れば、凡てのもの皆有難いのです。
實相を観るとは、其の物に宿る誠を見、恩恵を見ることです。

           <感謝合掌 平成30年11月15日 頓首再拝>

本質は光り輝いている - 伝統

2018/12/02 (Sun) 04:10:33


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より

ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、それはそのまま貴いのである。

ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。

が、それをある人に示したとき、

甲は、「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」と言った。

乙は、「わたしがつけていたら、
    どうせあれは贋(まが)い物だろうと人が言うでしょう」と言った。

丙は、「わたしがそれをつけていたら、
    どこかできっと盗んで来たんだろうと人が言うでしょう」と言った。

甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。

かくして無上の価値を持った宝石も、
心なき人の手に触れるとき、それはすでに宝石でなく、
「贅沢」となり、「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。

しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然としてそれ自身の光輝をもって輝いているのである。

            <感謝合掌 平成30年12月2日 頓首再拝>

【自ら光を発する人】 - 伝統

2018/12/16 (Sun) 03:37:21


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年10月29日)より抜粋

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「私は、以前は『努力』してきた人間だったのですが、
   正観さんのお話を聞いて、がんばらない、緩んだ系統の人間になってきました。
   こういうタイプの人間が大勢を占めるようになったら、
   どんな社会になると思いますか」

   と言われたことがあります。

   私の答えは、そのように社会全体を評価、評論する癖をやめること。


   面白いことに、人に対して「変われ、変われ」と言う人ほど、
   笑わない、暗い人が多いように思えます。

   この質問をなさった方は、コンサルティングをしており、
   たくさんの企業とかかわるという立場からの質問ということでした。

   「世の中のここが悪いじゃないかここが暗いじゃないか、
   ここが理不尽じゃないか」と、言っている人ほど、
   暗くなってきて、笑わない。

   「暗い社会じゃないか」と問題点を指摘している人ほど、
   暗くなっているように私には見えるのです。


   …世の中を暗い暗いと嘆くより、自ら光ってその闇照らせ。…

   というのが私自身に言い聞かせている言葉。

   その人が光だったら、その人の周りには闇はないでしょう。

   評論する暇があったら、自分が光になること。

   自分がどう光るかを考えるといい。

   世の中の暗さを指摘して、糾弾している人ほど、
   笑顔がなく、暗さを投げかけているのかもしれません。

   早くそれに気づくこと。


   「闇」と「光」は、多くの人は50対50の力関係だと
   思っているかもしれませんが、実はそうではなくて、0対100です。

   「光」が「闇」の中に入っていったら、常に「光」です。

   逆に、「光」が撤退したとき、初めて「闇」の世界になります。

   50対50の力ではなくて、
   「光」のほうが常に100の力を持っているのです。


   ですから、「暗い、暗い」と言っている暇があったら、
   自分自身が光を放ってその闇の中に入っていけばよい。

   光が入っていった闇は、どんな闇でも、光るしかありません。


   肯定的な言葉をいつも発している人のそばにいると、いつも温かくなる、
   ということが体験的にわかっています。

   「オーラ」という言い方をしてもいいのですが、
   明るい方向性を持っている人は、物理的にも光っているということです。

   「光」という文字は、「人」の頭の上から5方向に光線が発している
   という様子がもとになっている象形文字です。

   「光」の文字のもとになっているものが「人」というのはすごいことです。

   そして、光を発している人のことを、「明るい」と呼んだ。


   古代の人は、光を発している人と、光を吸収する暗い人とを、
   見分けることができたらしい。

   「陰気な」という表現があるのにわざわざ「あの人は暗い」
   という表現があるのは、実際にその人が「光」を発していなかった
   ということでしょう。


   「うれしい、楽しい、幸せ、大好き、ありがとう、愛してる、ツイてる」
   という肯定的な言葉を口にしている人は、その人がそこにいるだけで光を発する。

   そしてその光は、暗い人を照らす。

   「私の人生はつらくて、悲しくて、嫌いなことばかりで…」
   ということばかり言っている人は、「暗い」。

   この人は、周りの光をどんどん吸着してしまい、
    はたから見ていると黒いもやの塊が来たように見えるのです。

   これが、人間が「光」という文字の語源となったいきさつです。


   「光」とは、「人」が光ることによって周りの人を照らし、
   歩いている道を明るく照らしてあげること。

   光を発していない人の周りには暗い人が集まり、闇に包まれる。

   光を発している人の周りには明るい人が集まり、
   明るさを宇宙に投げかけるのです。

      <『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?』イースト・プレス>

・・・

*後半の部分について、ご関心のある方は、次のWebにて確認できます。
 https://ameblo.jp/hiroo117/entry-12414999262.html

            <感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>

《万物の奥に光を見よ》 - 伝統

2018/12/30 (Sun) 04:47:22


        *「光明法語」(12月30日)より 

光は天地間に充ち満ちておれども、其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。
多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。

心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。

空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。

水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。

食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。

            <感謝合掌 平成30年12月30日 頓首再拝>

論争は不要、光を輝かせば暗(やみ)は消える - 伝統

2019/01/09 (Wed) 04:31:59


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月9日)より

他(ひと)から悪く言われても論争はしないがよい。
理窟はどうにでもつけられる。
理論の上では、盗人(ぬすびと)にも三分(さんぶ)の理がある。

それぞれにはまた別の立場があるからである。
相手の悪を認めて悪に対して論争するのは相手をいっそう興奮せしむるだけである。
相手を興奮せしむれば、いかに善なる論旨も相手の心に入(い)るものではない。

相手の悪をわれわれの心の中で認めないことにし、われわれはただ正しい真理を説き、
所信を実行すればよい。ただ真理に従順にして、然(しか)り然り、否々(いないな)でよい。
光を輝かせば暗(やみ)は消える。これは永遠に渝(かわ)ることなき真理である。

暗(やみ)を実在するかのごとく思って、暗(やみ)と戦うから、
硝煙(しょうえん)濛々(もうもう)として天日(てんじつ)をくらますようになるのである。

         <感謝合掌 平成31年1月9日 頓首再拝>

光を見出す - 伝統

2019/01/16 (Wed) 04:31:26


         *「光明道中記」(1月16日 本当の幸福を把(つか)む日)より

【ただよえる雲の彼方にまんまるに澄み切る月ごわが姿なる。(『生命の實相』第十一巻)】

雲を幾ら積んでも光は出て来るものではない。

肉体の快楽、五官の楽しみ、富の集積 ―― それらは多くなればなるほど人生に光が出て
来るように思って夫(それ)を積んで見る人は沢山あるが、
いずれも幸福を見出してはいないのである。

幸福は先ず光を見出すことにある。
自分が光であると云うことを先ず知ることである。
光がなければ雲は重なれば重なるほど黯澹(あんたん)として淋しくなるばかりである。

智慧のない、愛のない、我利我利亡者が金を蓄めているほど黯澹たるものはない。
光がさし昇れば雲の”ある”無しは問題にはならぬ。

人間の「光」は自分が照らす愛であり智慧であることを知るべしである。
自分が「愛」でなければ積み重なっているすべての持物は、
光のない荒涼な暴風(あらし)の日の雲のようなものに過ぎない。

自分に智慧がなければ、持てるすべての物は
氷山と衝突して難破する船のようなものである。

神は愛である、我は愛である。
神は智慧である、我は智慧である。

            <感謝合掌 平成31年1月16日 頓首再拝>

光への道 - 伝統

2019/01/17 (Thu) 04:31:59


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月17日)より

世俗のことに心を捉われず、
世俗のことにそのまま熱心になれるのが悟りである。

外部的な成功に心を捉えられず、
今ある与えられたる仕事を心を磨く糧として実行するのである。

光への道は最も手近の道である。
光への道は最もやさしき道である。

虚名はわれわれの魂をくらまし、虚利はわれわれの魂を空虚にする。

            <感謝合掌 平成31年1月17日 頓首再拝>

《自己の内に實相の光を点ぜよ》 - 伝統

2019/02/05 (Tue) 04:31:44


        *『人生の秘訣365章』第10篇(P254) より

現象界のヤリトリにくたびれたならば、
現象界から心を転じて、神想観によって、“實相の世界”に超入せよ。

其処に超入することによって私たちは、神に接触し、無限の善に接触し、
一切の不安恐怖がなくなるのである。

現象界は叢雲(むらくも)を通して見る月のように、
完全円満な相(すがた)を見ることはできないのである。

現象界は心の迷いを通して見る世界であるから、
それは實在する本当の《すがた》ではなく、
言わば、一種の夢幻(ゆめまぼろし)のようなものである。

併し、それを単に夢幻(ゆめまぼろし)であるとして逃げ出したからとて、
更に夢幻(ゆめまぼろし)が追いかけて来て、終止するところがないであろう。

それは光をともさずして闇を消そうとするのと同じことだからである。
闇を消すためには「光」を点じなければならない。
即ち、自己の内に實在の「光」を見出さなければならない。

實在の光が輝き出せば、非實在の闇は消えてしまうのである。
實在の光を見出す方法が神想観である。

            <感謝合掌 平成31年2月5日 頓首再拝>

小さな火を灯せ - 伝統

2019/02/07 (Thu) 04:32:20

先日、映画【メリー・ポピンズ リターンズ】を観てきました。

<参考:映画『メリー・ポピンズ リターンズ』予告編
    → https://www.youtube.com/watch?v=OSf1aAkiPQ4 >

その中の、ハッピーな楽曲の数々の中で、
印象に残ったミュージカル曲の紹介です。


小さな火を灯せ【メリー・ポピンズ リターンズ】日本語版
  → https://www.youtube.com/watch?v=HTmGVUgg7vw


歌詞



君はいつも選べる 

暗闇(くらやみ)に負けるか

それとも小さな火を灯(とも)すか

俺と




ひとりきり部屋で

涙に暮れるか

それとも小さな火を灯すか

俺と




心(こころ)暗闇(くらやみ)なら

明日(あす)は見えない

でも胸に

火花(ひばな)があるなら道はつきない




夜(よる)が深いなら

君も点灯夫(てんとうふ)になれ

さあ 小さな火を灯せ

俺と




点灯夫(てんとうふ)って?

俺みたいに街灯(がいとう)をつける仕事をしているヤツさ

さあ みんなを呼び出すぞ

点灯夫(てんとうふ)! 火を灯して道案内をしろ




霧の中 暴れて

力 尽きるより

さあ 小さな火を灯せ

俺と




雨雲(あまぐも)に飲まれて

わめき叫ぶより

さあ 小さな火を灯せ

俺と




霧に包まれても

歩み止めるな

打ちのめされた時でも

望み捨てるな




世界が闇でも

君が輝けば

照らせるかも

どこまでも

そうさ 小さな火を灯せ

俺と





真夜中の境界線

点灯夫の最前線

その熱視線(ねつしせん)光(ひか)らせ
 (さあ 小さな火を灯せ)

月の真似事でも
 (夜の道しるべを)

消えない火を

ずっとこの灯(あか)りを

さあ もやし続けろ




朝が来ない夜(よる)は

絶対にないから

暗闇(くらやみ)に

目を凝(こ)らして

見つけろ 光 を





そうさ

小さな火を灯せ

もっと

小さな火を灯せ

さあ

小さな火を灯せ

俺と






来いよ!

みんなで一緒にやろうぜタンス

え? タンスす?

わかんないか?


タンスってのはダンスって意味さ

そう響きが似ている別の言葉を言って遊ぶんだ


まあいい 見せてやろう アンガス

聞かせろよ カラシを

つまり昨日(きのう)のハナシを



位置についた

それで道に出た

池の水を見た

酒 飲みすぎちゃった

また恥をかいて

ハシゴを持って

楽しく

仕事!




なっ 簡単だろう

メリー・ポピンズもこういうのできる?


私にできるかですって?

そりゃできるさ メリー・ポピンズなんだ!

一緒にやっていい?

お願い!

そうね いいでしょう



君のことを聞かせてくれ

何でも聞かせてくれ



大事な器(うつわ)をね

ウツボをね

壊しちゃって

食べちゃって

修理屋さんで


シュートを決めて

うわ ひっくりカメ

それ びっくりよね


行ったよ 銀行

そりゃ結構

霧で迷子

ゆで卵


それで今 ここ

そう 水の底

みんなに会って

南に行って

今 小さな火を灯せ

どんな闇でも吹っ飛ばせ



今 小さな

そう 小さな

さあ 小さな火を灯せ




入(はい)れよ メリー・ポピンズ





よーし いいぞ!

みんなを家に送っていこう!



霧が立ち込めても

扉(とびら)閉(と)ざすな

どこへでも どこまでも

行けることを忘れるな



苦しい時こそ

君が輝こう

その炎(ほのお)尽きないから

そうさ

小さな火を灯せ

もっと

小さな火を灯せ

さあ

小さな火を灯せ

みんな

銀行でギザギザで

会ったよボス あるならナス

霧の中 バナナかな

小さな火を灯せ

・・・

メリー・ポピンズ 1964

Spoon Full of sugar - Mary poppins
https://www.youtube.com/watch?v=HrnoR9cBP3o

Mary Poppins Chalk Drawing Scene
https://www.youtube.com/watch?v=zy7XEMeBROQ


            <感謝合掌 平成31年2月7日 頓首再拝>

「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。 - 伝統

2019/02/26 (Tue) 04:19:37


           *「光明道中記」(2月26日 常に微笑する日)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、

「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは「われ往きて汝等に来るなり」(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。
吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。

            <感謝合掌 平成31年2月26日 頓首再拝>

常に光を見よ。 - 伝統

2019/02/28 (Thu) 04:34:55


           *「光明道中記」(2月28日 金剛不壊の日)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。
                                (『向上読本』)】

倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。

不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とはその魂の深さに於て、
その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

             <感謝合掌 平成31年2月28日 頓首再拝>

眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統

2019/03/09 (Sat) 04:25:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

            <感謝合掌 平成31年3月9日 頓首再拝>

【あなたはいま何をしていますか】 - 伝統

2019/03/22 (Fri) 01:42:33


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年02月26日)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   《あなたはいま何をしていますか》(森信三)

   生前マスコミに一切姿を見せず、在野(ざいや)の哲人として
   国民教育に心血を注いだ森信三先生。

   全国三千人といわれる門弟の一人、「実践人の家」元理事長・田中繁男氏が
   読書会に出席するたびに森信三先生から問いかけられた言葉です。


   ある読書会で、校内暴力が絶えないことを嘆く教師に対し、
   森先生はこう尋ねました。

   「それで、あなたは何をしましたか」

   その人が黙り込むと、普段は柔和な森先生が
   凄まじい気魄(きはく)でこう言ったそうです。


   「現在の学校が困難な状況にあることは、私も知っています。
   だから、その中でいまあなたが何をしているか、それを知りたいのです。

   例えば、満員の講堂が停電になったとします。

   しかし、五燭(ごしょく)の電灯一つ、あるいはロウソク一本があれば、
   大きな騒ぎにもならず、無事退場できるのです。

   あなたには、その一本のロウソクになろうとする気持ちがないのですか」


   目の前の現実に不平不満を言ったり、批判をするのではなく、
   その中でいま何をしているかを自らに問いかけよ…。

   九十七年の生涯を「実践」に捧げた森先生の魂のメッセージです。

   心したい言葉です。

            <『人生心得帳』致知出版社>

              ・・・

   安岡正篤師はこう語っている。

   『《一燈照隅(いっとうしょうぐう) 》

   賢は賢なりに、愚は愚なりに
   一つのことを何十年と継続していけば必ずものになるものだ。

   別に偉い人になる必要はないではないか。

   社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる。
   その仕事を通じて世のため人のために貢献する。

   そういう生きかたを考えなければならない』


   また、幕末の儒学者佐藤一斎は「言志四録」の中でこう書いている。

   『《一燈(いっとう)を提(さ)げて暗夜(あんや)を行く。
   暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ、只(ただ)一燈を頼め》


   一つの灯(あか)りを提げて暗い夜道を行くとき、
   その暗い夜道を憂えても仕方がない。

   我々ができることは、今、手にしているそのたった一つの灯りを信じて、
   ただひたすら前に進むしかない』


   自分の不遇を嘆き、まわりに対し
   不平不満を言っているだけでは、物事は一つも変わらない。

   どんなに小さなことであろうと、
   改革のための行動を起こさなければ変革など起ころうはずがない。

   まず、自分のロウソクに灯りをともすこと。

   そして、それを何十年と続けていけば、
   初めは自分のまわりを照らす灯りだったのが、
   やがていつかは世の中を照らす大きな灯りとなる。

   「あなたはいま何をしていますか」という言葉を胸に刻みたい。

            <感謝合掌 平成31年3月22日 頓首再拝>

「光の自分」を生きる - 伝統

2019/04/11 (Thu) 04:31:33

         *谷口雅春著「新版 幸福生活論」より
 
此の世の中に悪しきもの、暗きもの、病い、不幸、災禍等があると思うな。
かくの如き暗き観念をあなたの心の中より一掃せよ。

ただ、明るきもの、健康、幸福、祝福のみがあると信ぜよ。
そして常に心の中に「神は光にして少しの暗き所なし」と念ぜよ。
この言葉を心の中に繰り返せよ。

やがてあなたの周囲に光の世界が、
神の国の肖像なる世界が現実世界にあらわれて来るでありましょう。

天地晦冥の世界に必要なのは「闇」ではないのです。
天地をゆすぶり撼かす明るき笑い、明るき心なのであります。
「光の自分」を生きることによって、あなたの周囲に光の世界があらわれて来るのであります。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6711243
 2016/01/31 より抜粋)

            <感謝合掌 平成31年4月11日 頓首再拝>

自分自身が光である - 伝統

2019/05/02 (Thu) 04:19:35


           *『生活の智慧365章』(P136~137)より
            ~機嫌の善さは万人を明るくする

「愛はよく耐え忍ぶ」と云うことは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、
その影響がどんなに多くの人々に破壊的結果をもたらすかを知っているからである。

御機嫌がよいと云うことはその人の心が明るいことであり、
心が明るい時には、その人のもって生まれた智能がいつもよりよく働くから、
よき考えが浮かび、よき仕事ができるということになるのである。

心明るき時には、不幸や災難の波長を受信することはないのである。

心明るき時には肩が凝らない。
筋肉が無理な緊張をしない。
人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。

常に平和で、何事も善意に受けることができるのである。
新しき智慧が湧き出で、新しき勇気を生じ、どんな逆境をも好転させる不
思議なるインスピレーションを受けることができる。

次の如く念ぜよ。

 「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。
 それゆえ私は常に心が明るくて、何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。
 自分自身が光であるから暗(やみ)闇が近づいてもそれを光に変えてしまうことが
 できるのである。」

           <感謝合掌 令和元年5月2日 頓首再拝>

《「暗黒」を光明化しましょう》 - 伝統

2019/05/23 (Thu) 03:15:03


      *「真理」第9巻生活篇(P107~108)より

どんなに暗黒な、面白からぬ出来事が起って来ましても、
その暗黒さに心をくさらせてしまっては解決の道はつかぬのであります。

泣いても、わめいても、腹立てても、神に泣きついても、
そんな事で問題は解決する筈はないのであります。

何故なら、泣きわめいても、腹立ちも、泣きつきも、懇請も、
いずれも同じ暗黒の範疇に属するものであるからです。

「暗黒」を解決するには「光明」をもってこなければなりません。

「暗黒」によって「暗黒」を解決しようと思うならば結局、
其処に衝突か墜落か不測の災難があるのみであります。

暗黒があなたの周囲にわだかまっている時に、更にあなたの
「暗黒な想念」で暗黒を追加して見たとて一体どうなるでしょうか。

だからそんな時には

「神の智慧の光われに流れ入りたまいて われを導きたまう。
われは常に暗(くら)みことあらず」

と念ずるように致しましょう。

           <感謝合掌 令和元年5月23日 頓首再拝>

《暗黒(やみ)は決して存在しない》 - 伝統

2019/06/15 (Sat) 04:49:08


        *「眞理」第9巻生活篇第13章(P366) より

暗黒(やみ)は存在するように見えても、
そんなものは存在しないのです。
其処には光の欠乏があるばかりです。

暗黒(やみ)を消すには一層巨大な暗黒(やみ)を持って来て
覆ても消えるものではありません。

”光の欠乏”でしかない暗黒(やみ)は、
光をつぎ込んだら消えるのです。

あなた病気がそんな形をしているにせよ、
それはあなたの潜在意識の中になる攻撃精神や、憎しみや、怒りや、
嫉妬などと云う愛の欠乏から起っているのですから、

憎みや嫉妬や憤(いきどお)りを捨てて、赦しと愛とをあなたの心に
注ぎ込むようにすれば、その病気は消えてしまうのです。

どうしても赦し得ない心も『生命の實相』を読んで「敵本来なし」の
真理を知れば赦し得るようになるのです。

若し、あなたの潜在意識の中に自己処罰の念があるために、
病気を起しているのでしたら、『生命の實相』を読んで
「人間本来神の子であり、本来罪なし」と云う真理を知れば
自ずから自己処罰の念が去って病気が消えてしまうのです。

           <感謝合掌 令和元年6月15日 頓首再拝>

《心に光を射しこませましょう》 - 伝統

2019/07/09 (Tue) 04:46:54


         *「真理」第9巻生活篇第6章(P149~150)より

あなたの生活に光を射し込ますことにいたしましょう。
今まであまりあなたの心が暗(くら)すぎたのではありませんか。

もっともっと光を射し込ませましょう。

歎くことをやめましょう。
呟くことをやめましょう。

そして朗らかに、愉快に、何が来ても、
”必ずこれは一層よくなる前提だ”と信じて、
心に光をもつことに致しましょう。

光はただそれを射し込ますだけでも、
あなたの生活の隅々まで明るくなり、影が消えるのです。

明るくなれば、次に何をなすべきかハッキリ分かるのです。

絶望と狼狽の中で、何が一体出来ましょう。

心に光を射し込ますには、まず現在 与えられている状態で
感謝すべきものを発見して感謝することです。
空気に水に、大地に、家に、寝床に・・・感謝することです。

そして神の護りを再認識して
「神は私を救わずに置かない」と確信するのです。

           <感謝合掌 令和元年7月9日 頓首再拝>

神は光である、光はわたしの内にある - 伝統

2019/07/26 (Fri) 04:36:55


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月26日)より抜粋

神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。


わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。

―― 光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。

           <感謝合掌 令和元年7月26日 頓首再拝>

光り輝く光明の世界を見出す - 伝統

2019/08/01 (Thu) 04:27:28


       *「光明法語」(8月1日 健康と祥福とは万人具有)より

誰でも皆、最善の健康と最善の祥福とを楽しむことが出来るのである。
何故なら人間は皆神の子であるからである。

それが出来ないのは、神の子たる実相を自覚しないか、
神の子たる生活を生活しないからである。

健康と祥福とは、特別に或る人にのみ与えられたる恩恵ではない。
眼をひらいて天地の真相を見よ。
そこに光り輝く光明の世界を見出すであろう。

眼を開いて自己生命の実相が「神の子・円満完全」であることを見よ。
病いや不幸に心の眼を振り向けても光は見えない。

           <感謝合掌 令和元年8月1日 頓首再拝>

神の光明が遍満していることを観じる - 伝統

2019/08/18 (Sun) 04:45:00


          *「真理」第9巻生活篇第6章(P157~158)より
           ~《あなたの悲しみを神の前に》

光の中に「闇」をもって行けば、「闇」は必ず消えるのです。

どんな「闇」でも消すことができる
大いなる光が宇宙には充ち満ちでいるのです。

それは物質の光ではありません。
神の愛の光です。
神の智慧の光です。

目をつぶって眼の裏に神の愛の光と智慧とが
満ちていることを心に描きましょう。

悲しめる人々よ、そのあなたの悲しみを其の愛の光の中に投げ出して、
その悲しみが神の愛の光の前に消えてしまう有様を心に描きなさい。

そこから悲しみの消える道が見出されます。

それには法然上人の臨終のときに称えられた
「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨て」の言葉をとなえて
神の光明が遍満していることを観じ、

既にその遍照せる光明の中に摂取されて一切の悲しみは
既に消えていることを心に念ずるが宜しい。

           <感謝合掌 令和元年8月18日 頓首再拝>

《暗の中にも光を見る者は幸いなるかな》 - 伝統

2019/08/30 (Fri) 04:08:56


         *『 生長の家 』(昭和25年4月21日の法語)より

   吾は今日より殊更(ことさら)に明るき精神も以て
   生活せんことを期するのである。

   明るさは明るさをよぶのである。
   神は光であるから明るき精神をもっている者のみに波長が合うのである。

   吾はどんな失敗にも失望しないのである。
   凡ゆる失敗とみえる時に成功がみえるのである。

   キリストの最後の最も大なる失敗は
   「 十字架にかかる 」 と云うことであったのである。

   然(しか)し彼は十字架にかかることによってのみ
   人類を救済することができたのであり、
   復活して永遠の生命を得ることができるのであり、
   不幸の中に不幸のみをみるのは信仰なき者のことである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13836857.html

           <感謝合掌 令和元年8月30日 頓首再拝>

心を明るくし、闇を光に変えよ - 伝統

2019/09/13 (Fri) 04:10:02


           *『生活の智慧365章』(P136~137)より
            ~機嫌の善さは万人を明るくする
             
「愛はよく耐え忍ぶ」と云うことは、愛深き人は、怒りや不機嫌を爆発さすとき、
その影響がどんなに多くの人々に破壊的結果をもたらすかを知っているからである。

御機嫌がよいと云うことはその人の心が明るいことであり、
心が明るい時には、その人のもって生まれた智能がいつもよりよく働くから、
よき考えが浮かび、よき仕事ができるということになるのである。

心明るき時には、不幸や災難の波長を受信することはないのである。

心明るき時には肩が凝らない。
筋肉が無理な緊張をしない。
人が自分を侮辱して来ても腹が立たない。

常に平和で、何事も善意に受けることができるのである。
新しき智慧が湧き出で、新しき勇気を生じ、どんな逆境をも好転させる
不思議なるインスピレーションを受けることができる。

次の如く念ぜよ。

 「私は神の子である。神は光である。私は光の子である。
 それゆえ私は常に心が明るくて、
 何事も光明面を見て暗黒を見ないのである。

 自分自身が光であるから暗(やみ)闇が近づいても
 それを光に変えてしまうことができるのである。」

           <感謝合掌 令和元年9月13日 頓首再拝>

「光」はただ進めばよい - 伝統

2019/09/26 (Thu) 04:02:12


        *「生命の實相」第7巻生活扁(P184~185)より

諸君よ、神は光源であって、われらはすべて「光」である。
そして積極的に存在を主張しうる力は「光」にのみあるのである。
「光」はただ進めばよいのである。

茫漠(ぼうばく)と広がる暗黒を前にして恐れて立ちすくんでいる限り、
いかなる「光」も暗を征服する力はないのである。
 
諸君は暗を広く深しと言う。
しかし暗は広く深いのではない。
それはただ光がまだ進んでいないことを意味するにすぎないのだ。

諸君よ、ただ進め、勇気を鼓して起ち上がれ、恐れずに突き進め、
恐れずに自己の生きる力を肯定せよ。

そこにこそ、暗は消え、活路はひらけ、死は破れ、
光明輝く自由自在な生命こそわがものであることが体得できるのである。

           <感謝合掌 令和元年9月26日 頓首再拝>

明るさの善徳 - 伝統

2019/09/27 (Fri) 03:53:24


        *「光明法語」(9月27日)より

あらゆる善徳を備えていると見える善人でも、
心に明るさを失っている者は真の善人ではない。

あらゆる悪徳の中で「暗い」と云う事は
すべての善を悉く覆して反対効果に変じてしまう程の
力をもっているものなのである。


心に明るさを持つと云う事は、大生命の貫流するパイプを掃除するにも似ている。
心が暗いと云う事は、大生命の貫流するパイプをつまらせて置く様なものである。

大生命を自分の内に流れ易くならしめるのが明るさの徳である。

何事にも執(とら)われない自由自在な実相そのままの明るさにならねばならぬ。

           <感謝合掌 令和元年9月27日 頓首再拝>

光明輝く方面をのみ見る - 伝統

2019/10/11 (Fri) 04:54:24


        *『生命の實相』第7巻生活篇(P184より)

  わが向かう先は常に明るし、
  たとい周囲のものすべて暗くともわれは常に光明を見る。
  われ自身光明にして暗黒のうちにも光明を放てばなり。(「智慧の言葉」)


すべてのものには光明輝く方面がある。
暗い方面は決して見ないで光明輝く方面をのみ見るのが
「生長の家」の生き方であるのである。

世界の事物は万事万物、観ようによっては明るく喜ばしくも見え、
また観ようによっては暗く悲しくも見えるであろう。
なぜなら、人生は光明が暗黒の中を勇ましく進軍して行く行程であるからである。

その道程には光と暗(やみ)がまじる。
照らす側は明るくまだ照らさない側は暗いのである。
だが暗は決して光を征服するために積極的に進軍しては来ないのである。

光の進んで行くところ必ず暗は消滅する。
勝利は必ず光にあるのに、暗がはかなくひろがっているのを見て
後退(しりご)みする光があるか!

           <感謝合掌 令和元年10月11日 頓首再拝>

われらはすべて「光」である - 伝統

2019/10/24 (Thu) 04:47:01


        *『生命の實相』第7巻生活篇(P184~185より)

諸君よ、神は光源であって、われらはすべて「光」である。
そして積極的に存在を主張しうる力は「光」にのみあるのである。

「光」はただ進めばよいのである。

茫漠(ぼうばく)と広がる暗黒を前にして恐れて立ちすくんでいる限り、
いかなる「光」も暗を征服する力はないのである。
 
諸君は暗を広く深しと言う。
しかし暗は広く深いのではない。
それはただ光がまだ進んでいないことを意味するにすぎないのだ。

諸君よ、ただ進め、勇気を鼓して起ち上がれ、恐れずに突き進め、
恐れずに自己の生きる力を肯定せよ。

そこにこそ、暗は消え、活路はひらけ、死は破れ、
光明輝く自由自在な生命こそわがものであることが体得できるのである。

 
そうだ、神は生命の源であってわれらは皆、生命なのだ、
生命の本来の面目は自由自在なところにある。
しかし自由が自由とわかるのは、自由がただ障害を破ったときにおいてのみである。

剣の名手は、敵者(あいて)があらわれてはじめて自分の自由を現実にすることができるのだ。
水は平地にたたえられている時は、まだその自由は潜んでいるにすぎないのである。
それが逆境の上に置かれるとき何物をも押し流す自由を得るのだ。

           <感謝合掌 令和元年10月24日 頓首再拝>

常に心を光明で照り輝かす - 伝統

2019/10/27 (Sun) 04:40:40


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月27日)より

神は光である。
われらが神を心に念じ、わが内に神を感ずるとき
われらの心のうちに光明が点ぜられるのである。

光が点ぜられたならば、
その室(へや)の中にあるいっさいのものがハッキリ見えるように、

われらの心に光が点ぜられたら、
われらが神の世継としてすでに与えられているすべての
善き物を、眼の前にハッキリ見出すことができるのである。

具体的に「あれ」「これ」と求むるよりも、
常に心を光明で照り輝かすことの方が必要である。

           <感謝合掌 令和元年10月27日 頓首再拝>

魂の扉をひらいて暗黒の中にも必ず在る光を見つけよう - 伝統

2019/11/09 (Sat) 05:03:42

        *『生命の實相』第7巻生活篇(P185~187より)

「光」であり「生命」であるわれわれ人間にとっては
本当の暗黒もなく、本当の障害というものもないのである。

暗黒は光が進んで行くとき、
その光の眩(まぶ)しさを引き立たすために役立つにすぎないのである。

障害は潜(かく)れている生命の自由さを引き立たす役でしかない。
電流の通路に抵抗があるので電流は光となり熱となるのである。

抵抗のない電流と、落差のない水とは、
それが逆境におかれていないためにかえって本当に自由ではないのである。

おお、逆境こそはわれらの生命にいっそうの自由を与えるものではないか。
空気の抵抗があるので飛行機は空を飛ぶことができるのではないか。
タイヤに摩擦があるので自動車は地を走ることができるのではないか。

どこにも障害のない世界、抵抗のない世界、摩擦のない世界は、
本当は自由のようでも、その自由は永遠に発揮されないで
「可能」の形の世界ではないか。

だから、障害こそはわれらの生命に光明を放たしむる要素なのだ。
抵抗こそはわれらの生命を飛躍せしめて、
いと高き世界へと高揚さすための要素なのだ。
艱難こそはわれらの生命の自由さを現実にする要素なのだ。

されば、どんな艱難に面しても、
われらはその暗い側を見ることは要らないのである。

いかなる艱難(なやみ)も、
われらの生命のどの部分かを引き立たすために存在するのである。

艱難(なやみ)の来るたびごとに初めてわれらの生命は潜んでいた力を実現し、
潜んでいた自由を形にかえることができるのである。

天国は、ここに見よ、かしこに見よというがごとく、
われらの外に来るのではなかったのである。

われらが艱難の意義を知り、苦しみの功徳を知り、この世界の何物も、
自分の生命の自由さを実現する資料とならないものはないということを知るとき、
そこにこのままに、天国が地上に実現するのである。

不幸さえも本当は幸福の源である。
この世界の幸福に眼を閉じるな。
天国はすでにこの世に来ているのである。

キリストはすでに再臨してい給うのである。
弥勒菩薩はすでに下生してい給うのである。

これを見ないものはただ魂の扉を閉じたもののみである。
魂の扉を閉じて天国を見まいとするものに天国が見えなくとも、
それは決して天国の罪ではないのである。

彼らは、「迷い」で心の扉をし、わざと魂に光明のはいらないようにして、
その心の部屋の中で、恐怖や、取り越し苦労や、嫉妬や、憎みや、
復讐のバイ菌を?醸(うんじよう)させているのである。

こうしておいてこの世界が光明のない世界だ、生活に喜びのない世界だ、
生命に自由のない世界だと呟(つぶや)くのは、呟く方がまちがっているのである。

生活の喜びと人生の光明と、生命の自由とは、人生の難難を刻々征服する
われらの生命の戦いの一歩一歩のうちにこそ実現するのである。

では、われらは魂の扉をひらいて暗黒の中にも必ず在る光を見つけよう。
どこにでも光を見ないでやまないのが「生長の家」の生き方である。

この生き方にもまして、
われらを人生の戦いに力づけ励ましてくれるものはないのである。
この生き方こそ悩める者にとっての最も不思議な魔術的医者である。

それは斃(たお)れんとする病者を蘇生(よみがえ)らし、すべての病を癒し、
悲しみの心の傷に新しい肉を盛ってくれ、
人生の敗残者を勝利者に変えてくれるのである。

(後略)

           <感謝合掌 令和元年11月9日 頓首再拝>

人間は内からの魂の光で養われる - 伝統

2019/11/24 (Sun) 05:01:29


        *『生命の實相』第7巻生活篇(P187~188より)

さらば諸君よ、どこにでもわれらは光明を見ようではないか。
 
心に光明さえあれば、物質は貧しくとも、
その人は人生を幸福にするすべてのものをもっているのである。

(中略)
  
光明は自身の心の中から湧き出して来る幸福の泉のようなもので、
外から与えられようと思って他にこれを求めても得られはしないのである。

(中略)
  
植物が外からの太陽の光を待ち望んでいるように、
人間は内から射して来る魂の光線を待ち望んでいるのである。
 
植物が外からの太陽の光で養われるように
人間は内からの魂の光で養われるのである。


           <感謝合掌 令和元年11月24日 頓首再拝>

本質は光り輝いている - 伝統

2019/12/02 (Mon) 04:45:25


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より

ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、それはそのまま貴いのである。

ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。

が、それをある人に示したとき、

甲は、「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」と言った。

乙は、「わたしがつけていたら、どうせあれは贋(まが)い物だろうと
    人が言うでしょう」と言った。

丙は、「わたしがそれをつけていたら、
    どこかできっと盗んで来たんだろうと人が言うでしょう」と言った。

甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。

かくして無上の価値を持った宝石も、
心なき人の手に触れるとき、それはすでに宝石でなく、
「贅沢」となり、「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。

しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然としてそれ自身の光輝をもって輝いているのである。

            <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>

明るさを習慣とする - 伝統

2019/12/15 (Sun) 04:46:02


        *『生命の實相』第7巻生活篇(P190~191より)

明るさに輝きながら笑いかける瞳、
健康と勇気とを送り出すような生々した言葉で話しながら時々出る哄笑、
接する人々に希望と光明とを与えず におかないような笑顔、
それは人類のもつ至宝であるのだ。

そういう人々は周囲の人たちを太陽のように明るくする。
 
もし諸君にそういう習慣がないならば機械的にでも、
今後なるべく愉快な、幸福な、楽観的な、明るい表情をする
ことにせられるがよいのである。
 
やがて諸君にそういう心の習慣が自身の天性であったことを
自覚せられる時が来るに相違ないのである。
 
それを不自然だと思うな。

この世の中のあらゆる美しさは、自然のままにほっておいたら
なんの美も実現しない材料を、心の力で支配し統制すること
によって得られたものである。

            <感謝合掌 令和元年12月15日 頓首再拝>

光満つる世界 - 伝統

2019/12/28 (Sat) 04:54:02


         *『静思集』(P71~72)より

不幸が実在するとお考えになるのが、いけないのでございます。
    
不幸は決して神の創造ではございません。
不幸と見ゆるものは
私達を苦しめるために神の御手により創造されたるものではございません。
それは神から離れた窒息の感じでございます。

我々は空気によって生きているが如く、
否それよりも一層多く、神によって生きているのでございます。

空気によって生きている我々が空気と全く離れたり、
空気が希薄となったら苦しくなってまいりますように、

神によって生かされている吾々が、神から遠ざかったり、
神から全く離れてしまったら苦しくなるのは、
人間の本性から来るのでございまして、神罰から来るのではございません。

それを不幸や病気や災難と申すのでございます。

                      
  『ただひかり光の中に我澄めりすべてみひかり我もみひかり』


神想観中にこの歌を念じて精神統一にお入りになって御覧なさい。
    
そして光満つる世界を心に描いてそれを見詰める気持ちになるのです。

その時、貴方は 光のみである世界 を体験なさいましょう と思います。

            <感謝合掌 令和元年12月28日 頓首再拝>

《心で光を見る》 - 伝統

2019/12/29 (Sun) 04:04:55


           *「光明法語」(12月29日)より

福山市三吉町の木工業横山勇君はこんな体験談を語った。

「私の妻は一方の眼の瞳に星がかかって、
その星がしだいに大きくなり失明した状態になっていた。

6月に尾道市に生長の家の講習会が開かれたとき聴講に来た。
第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して二日目の講習会には出席出来なかった」。

これは迷いの自壊作用である。

「第三日には痛みが和(やわら)らぎ出席したが、
何かの拍子に手が眼の繃帯に触れて繃帯の位置がズレると、
星に瞳孔が閉ざされて見えなくなっていた眼が見え出した」。

心が一変して光を見る心になったからである。

            <感謝合掌 令和元年12月29日 頓首再拝>

《万物の奥に光を見よ》 - 伝統

2019/12/30 (Mon) 04:07:52


           *「光明法語」(12月30日)より

光は天地間に充ち満ちておれども、
其の光を百パーセント完全に見る者は聖者である。

多くの人たちはその光を一部しか見ていないのである。

心の眼を開いて見よ。
到る処に光は充満している。

空気には神の生命がかがやいているのである。
空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。

水には神の愛が輝いているのである。
水を飲むことは神の愛を飲むことである。

食には神の恵みが輝いている。
これを食することは、神の恵みを食することである。

            <感謝合掌 令和元年12月30日 頓首再拝>

御題詠進「光」(昭和三十五年) - 伝統

2020/01/18 (Sat) 04:49:28


        *「生長の家五十年史」(P70~90)より
          ~御題詠進(雅春先生、輝子先生、清超先生、恵美子先生) ~

【 昭和三十五年  光  谷口雅春 先生 】

 へりくだり 塵に擬したる わが國の 光ふたたび 輝きそめぬ

 雲の上ゆ 光さし初(そ)め おほいなる 光輪となり 燃ゆるが如し

 

【 昭和三十五年  光  谷口輝子 先生 】

 新月は あれどをぐらき 有磯海(ありそみ)に 光うごけり いかつりの舟

 沖遠く さまよふ夜の 舟人の 光となりて 生きなん我は ―― 富山県雨晴海岸にて



【 昭和三十五年  光  谷口清超 先生 】


 雨はやみ 風もをさまりて 夕陽いづ 光の中に いざ發ち行かん

 ながながの 旅路の果ての 君が庭の 光の中に 子等のたはむる



【 昭和三十五年  光  谷口恵美子 先生 】

 かぎりなき 光のうちを 歩めよと 父をしへたまふ 子らにもつたへん

   (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7776787

            <感謝合掌 令和2年1月18日 頓首再拝>

満たされた人の生き方~自ら光を発する人 - 伝統

2020/01/31 (Fri) 04:31:28


*「すごい無意識(フォレスト出版)」梯谷幸司・著より

『日経新聞が出しているマーケティング専門誌による2015年のアンケートがあります。

そのアンケートは次のようなシンプルなものでした。

低所得者、中所得者、高所得者それぞれに
「今、何に興味関心がありますか?」と聞いたのです。

低所得者に関心があることは、消費税問題と年金問題。
身近なお金のことに関心がありました。


中所得者になると、消費税問題、年金問題に加えて、
安保法案や大企業の不祥事、政府の問題が上位3位を占めました。


面白かったのが高所得者の回答結果です。

政治や大企業の不祥事に興味のある人は3%くらいしかいませんでした。

彼らの興味関心があったのが、

「1位 健康づくり」「2位 旅行」「3位 孫と遊ぶこと」

というきわめて個人的なことでした。


時代の常識とは、圧倒的多数の人たちの意見です。

中所得者層は圧倒的に多数派です。

つまり常識というのは中所得者層が使う考え方であって、
そこに留まり続けることは中所得者どまりなのだということ。

圧倒的多数の層は自分の正しさを証明するために、誰かを悪者にしたがります。

まだまだ世の中には「こうあるべき」で動いている人が少なくありません。

テレビも週刊誌も、叩いてもつぶれない材料を引っ張りだして叩きまくる。
そのほうが視聴率が取れて雑誌も売れるからなのでしょう。
世間とマスコミが一緒になって煽(あお)っています。』


低所得者や中所得者は、社会や政府への不満や批判、論評ばかりをしている。

そこには、根深い「嫉妬心」がある。


しかし、高所得者は、自分の楽しみや好きなことに関心があり、
結果として周りに楽しさや明るさを投げかけている。

これは高所得者だけでなく、精神的に豊かで、満たされている人も同じ。

本質的な人生の生き方として大事なことは、正しいか正しくないかではなく、
「楽しいか楽しくないか」、「面白いか面白くないか」。


自ら光を発する人でありたい。

            <感謝合掌 令和2年1月31日 頓首再拝>

生命(せいめい)の光耀(こうよう)のなかに「新たなる自分」を発見する - 伝統

2020/02/20 (Thu) 04:31:12


     *「真理」第9巻生活篇第1章(P3~4《「新たなる自分」の発見》)より

誰でも「生」の或る輝く瞬間が来ます。
自分の内に光が燃えるような感じなのです。

その光は天から閃(ひらめ)くように自分の内に入って来て、
自分全体の存在を輝き出し、今、自分が生きている有限のこの肉体生命以上に ――
無限におおいなる生命(せいめい)が自分の内に生きていることを感得する一瞬が
来るのです。

この感じをそのまま見過ごしてしまう人もありますが、
此の生命(せいめい)の光耀(こうよう)のなかに「新たなる自分」を発見して
「第二の自分」を ―― 否(いな)これこそが最も「本源的なる久遠の自分」を ――
発見して、人間が変わると云う人もあるのです。

それが、多くの預言者であり、宗教の開祖であり、
大発明家であり、神の命を受けた大政治家であり、
釈尊であり、イエスであり、ワシントンであったのです。

この大自覚を獲得した時、あなたは今まで自分がどんなに弱小であり、
どんなに本物でなかったかがわかるのです。

まことにイエスが自己を「神の子」と宣言し、
釈尊が「天上天下唯我独尊」と自覚した境地が
自分自身にもひらけて来るのです。

            <感謝合掌 令和2年2月20日 頓首再拝>

吾々の内部には「光」が宿っている - 伝統

2020/02/26 (Wed) 06:45:30


        *「光明道中記」(2月26日《常に微笑する日》)より   

【光の行くところ暗はない。私の行くところに穢れはない。
 私が周囲の穢れで汚れるようなような者だとは思って貰いたくない。
                    (『生命の實相』第十六巻)】

これは同じ本にある「耶蘇伝」の一節である。
此の言葉はキリストの言葉として茲(こ)に言われているけれども、
「光の行くところ暗はない」と云うことは、
吾々自身に就いても亦言わるべきことなのである。

キリストは彼の時代に「光」の代表者として出現した。
しかし、その「光」は吾々自身の内にも宿っているのである。

このことをキリストは「われ往きて汝等に来るなり」
(「ヨハネ伝」十四章)と言ったし、
釈迦は「一切衆生仏性あり」(「涅槃経」)と言ったのである。

吾々の内部には「光」が宿っている。

吾々はその「光」を枡の下に置くから可(い)けないのである。
吾々の周囲が暗いのは自分自身のうちに「光」が宿っていないからではなく、
その「光」を高く掲げることを忘れたからである。

われみずからを「光」であると観ぜよ。
「われ明るし」と自分自身の心に告げよ。
そこから明るい世界が開けて来るであろう。

常に微笑せよ、少なくとも今日一日常に微笑せよ。

            <感謝合掌 令和2年2月26日 頓首再拝>

倒れた其の瞬間に光を見よ - 伝統

2020/02/28 (Fri) 02:44:17


           *「光明道中記」(2月28日《金剛不壊の日》)より 

【常に光を見よ。暗を見ること勿れ。
 常に昇り行く姿を想像し、墜落する姿を想像するな。(『向上読本』)】

倒れた其の瞬間に光を見よ。

どんな人でも一度や二度は躓かない者は稀である。
併し躓いたとき、倒れ切ってしまう者と、倒れ切らない者とがある。
此の区別が人間の幸不幸を左右するのである。


不倒翁(ふとうおう)とは倒れない人のことではなく、倒れても起き上がる人のことである。
形は倒れても、倒れた前と、一度倒れてまた起き上った人とは
その魂の深さに於て、その体験の深さに於いて、相違するものである。

人は倒れることが目的ではないが、
倒れてすらも人生は常に獲得(ゲイン)のほかはないのである。

倒れてすらも吾々は其処に唯「獲得」のみを見出すのである。
斯う云う人はどんな激しい運命もその人を挫折さすことは出来ない。
こんな人を金剛身と言い不壊身と言うのである。

風邪を引くたびに身体が弱くなると思う人もある。
光明思想は風邪を引くたびに身体が強くなると思うのである。

熱が出るのは全身の細胞分子の振動数の増加であるから新陳代謝の向上である、
と思うのが光明思想である。

            <感謝合掌 令和2年2月28日 頓首再拝>

眼をひらけば、神の光が輝いている - 伝統

2020/03/09 (Mon) 04:50:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月9日)」より

これほど神の光が輝いているのに不幸というものがどこにあるか。

ただなんじの心が鎖(とざ)しているからにすぎない。

眼をひらけば、そこはすでに天国である。

            <感謝合掌 令和2年3月9日 頓首再拝>

クヨクヨ思い煩うなかれ、未来の光明を持て - 伝統

2020/03/29 (Sun) 04:19:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月29日)」より抜粋

損失は本来ないこと、損失のごとく顕われて見えるものも、
必ず本当は収穫への道行きであることを知ることは智慧である。

過去の傷害についてクヨクヨ思い煩う者は生命を摩り減らす。
クヨクヨ思い煩う暇があるならば、未来の光明について希望と空想をもつべきである。

希望は実現の母。
心に描いて待つものは必ず成就する。

            <感謝合掌 令和2年3月29日 頓首再拝>

光は光を呼び、暗(やみ)は暗をよぶ - 伝統

2020/04/20 (Mon) 05:00:46


      *『 生長の家 』(昭和15年4月20日の法語)より 

   《軽蔑(けいべつ)する心だけが軽蔑さるべきである》

   他(ひと)を軽蔑してはならないと同時に、
   自分自身を軽蔑してはならないのである。

   「 自己劣等観 」 が 凡ゆる罪悪の根源なのである。

   多くの罪人は 自分は まとものことでは生活できない
   という劣等観があるが故に罪を犯かしているのである。

   吾々はたとい失敗するとも、方向がまちがっていたと思えば
   直ちに光の方へすすめば好(よ)いのである。

   光は光を呼び、暗(やみ)は暗をよぶのである。
   過去に暗を歩いたことを悔(く)い悲しんで 暗の方ばかりを向いて
   ぐじぐじ呟(つぶや)いていても暗は消えないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13834059.html (消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月20日 頓首再拝>

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