伝統板・第二

2536581
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

心の鏡 ② - 伝統

2018/07/31 (Tue) 04:43:54


       *伝統板・第二「心の鏡」からの継続です
          → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6914324


「自分が変れば、世界が変わる」

生長の家ではよく聞く、語られる言葉です。

そうしてすぐに思い出すのが、谷口雅春先生がよく紹介されていた歌です。
それは黒住宗忠翁のものです。


以下は、黒住教のHPから引用です。

「立ち向こう人の心は鏡なり己が姿を移してやみん」

黒住教HPの解説文

  《出会う人の心を鏡として自分自身を常に反省することの大切さとともに、
   相手の人の側に立つ、思い遣る、おもんぱかる心を大切にしたいものです。》

     (http://kurozumikyo.com/dogma


立ち向かう、つまり相対する人の心が鏡だとすると、
その鏡には「私」が、そのまま映っていることになります。


さらに、詳しい資料としては、

黒住教の御訓戒七か条の第三条の
「一、己(おの)が慢心にて人を見下す事」について、
黒住宗忠公は以下のように説かれています。

  《慢心を去れば、だれの言葉を聞いても大道を悟る事ができる
   何ほどの悪人にても、そのよき所は、必ず一つ二つあるものなり
   立ち向かう人の心は鏡なり おのが姿を移してやみん

   皆人の悪しきは己が姿なり よくかえりみよ清き心を
   皆人に誠なきぞと思いしに おのが誠の薄き故から》

     (http://m.webry.info/at/97331420/200703/article_3.htm?i=&p=&c=m&guid=on

となっております。


たち向かう人の心は鏡なり 天照大御神の生命ここにあって生きるなり

                     黒住教祖

・・・

立ち対(むか)う人の心、立ち対(むか)う環境は 鏡 なり

       *「光明法語」(6月16日 よき「思い」を種蒔くこと)より

神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。

蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。

自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。

まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。

立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。

        <感謝合掌 平成30年7月31日 頓首再拝>

顔は吾々の心の鏡である - 伝統

2018/08/24 (Fri) 04:42:34


         *「光明法語」(8月23日~24日)より

容貌を美しくするには

ロックフェラー研究所の外科医長カレル博士は言う、

「容貌の特徴は、皮膚の下の脂肪の中で動く筋肉の状態で定まる。
是等(これら)の筋肉の状態は吾々の思想感情の状態によって定まる。

人は各々望み通りの顔附(かおつき)表情をする事が出来る。
けれども其の顔附、表情をば永久に被(かぶ)っているわけには行かない。

併し、吾々の知らない間に吾々の顔附は
心の状態によって少しずつ作られて行くのであり、
年をとるにつれて益々はっきりと人間全体の感情や欲望や希望一切の
看板の様になる」と。

・・・

心に化粧せよ

誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。

顔は吾々の心の鏡である。
白粉(おしろい)でいくら塗っても、その精神の下劣さは隠すことは出来ない。

「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。
人間の顔には、その人間の悪徳や、美徳や、理性や、知識や、愚かさや、
感情や、最も隠された性癖や、さらにその上の全肉体の構造や、質や、
生理的、心理的病気の傾向まで現れる」 とカレル博士は更に言っている。

誰も隠すことは出来ないのである。

天知る、地知る、自分知るである。

          <感謝合掌 平成30年8月24日 頓首再拝>

人間関係は、自分の生き方を写す鏡 - 伝統

2018/09/09 (Sun) 03:24:36


       *「わたしが神さまから聞いた人間関係の裏ルールをお話しします。」
         井内 由佳・著 (P198~201)より

人がしあわせだと感じるのは、いい人間関係に恵まれたときです。

一度いい人間関係をつくれたら、これまで書いてきたルールを守っていただければ、
これからもっといい人間関係を築ける幸せスパイラルに入っていきます。

人間関係にはそれぞれのステージがあり、
自分の考え方に合わせてアップダウンしていきます。

   いい人の所にはいい人が集まり、そして、いい情報も集まります。
   いい情報が集まるところに、お金も集まってくるのです。


この世の中は、「したことがされる」で成りたっています。
ですから、自分の未来は、自分である程度設計できるのです。
それは、自分がされたいように、人にすればいいのです。

そして、今の人間関係は、いままで自分が生きてきた結果なのです。

ただ、どんないい人でも、嫌な人とはどこかで必ず関わるものです。
そして、嫌な人と関わったとき、その人と同じレベルで、
怒ったり悔しがっていたら、自分の人間関係のステージは変わらず、
また似たようなタイプの人と関わって、怒ったり悔しがったりすることを、
繰り返すことになります。

でも、嫌な人と関わったときも、ここで自分がどう向き合って、
どう付き合っていくかで、自分の人間関係のステージがアップ、ダウンする
ということを知っていれば、少しは冷静になれて、
いかに相手とうまく付き合うかを考え、実行するようになるはずです。


そして、いま目の前の嫌な人ともそつなくおつきあいできるようになったとき、
もう、そんな人と関わらなくていいステージに上がっていく。


一方、目の前の嫌な人に対して、怒って、悔しがって、
揉めたり険悪な仲になったりすると、その人よりもっと手強い嫌な人と
関わることになり、人間関係のステージは下がっていくのです。

いい人間関係を築いていくには、嫌な人を避け、
自分の気の合う人とだけ付き合っていても、
新しい、素晴らしい出会いに恵まれなくなるのです。

人間関係も、自分の計らい通りにはならず、これはその人の考え方に応じて、
神さまが取りはからうものなのです。

長い間、たくさんの方の相談に乗らせて頂いて、確信したことです。

 【しあわせな人間関係を築いていくために、自分がされたいことをしよう。
  自分が言われたいことを言おう。】

        <感謝合掌 平成30年9月9日 頓首再拝>

「私」の周りのすべてを決めているのは「私」 - 伝統

2018/09/26 (Wed) 04:24:55

       *『たくさんの「奇跡」が舞い込む感謝の法則』小林正観・著、宝島社 より 
          (P9、メッセージ03)

怒鳴ったり、いばったり、すごくきつい言葉を使ったり、
イライラしたりする人には、そのレベルの人格に対応する
社員しか集まってこないでしょう。

イライラする社長のもとには、
イライラする社員が集まるのです。

お釈迦さまの言葉に「すべてがあなたにちょうどいい」
というものがあります。


  今のあなたに今の夫がちょうどいい

  今のあなたに今の妻がちょうどいい

  今のあなたに今の父母がちょうどいい

  今のあなたに今の子どもがちょうどいい

  兄弟も上司も部下も友人もちょうどいい

  (今のあなたに今の仕事がちょうどいい)

  死ぬ日もあなたにちょうどいい

  すべてがあなたにちょうどいい

「私」が周りのすべてを決めているということです。

        <感謝合掌 平成30年9月26日 頓首再拝>

境遇は、自分の性格の反影 - 伝統

2018/09/29 (Sat) 03:25:24


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より

自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。

境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。

あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。

鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。

たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、苛辣であって気が短く、
人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、まず自分自身を寛容にすればよい。

             <感謝合掌 平成30年9月29日 頓首再拝>

自分が変わるしかない - 伝統

2018/09/30 (Sun) 03:13:41


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より

鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。

鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。

結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。

自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。

             <感謝合掌 平成30年9月30日 頓首再拝>

「認識の形式」の上に投影されたる影 - 伝統

2018/10/04 (Thu) 04:29:40


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月4日>(P94)より

多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて必ずしも実在(ほんとにある)ではない。

映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、それは実在(ほんとにある)では
なくてただ光の波にすぎないと同じように、病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。

それは心の波が「時間・空間」という「認識の形式」の上に投影されたる影である。
「認識の形式」というのは、人間の心の中につくられている映写機のようなものである。

見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければそんな姿はあらわれない。

           <感謝合掌 平成30年10月4日 頓首再拝>

心の通りの姿が、肉体や境遇に反映してあらわれる - 伝統

2018/10/28 (Sun) 02:39:48


          *「光明法語(10月28日 神罰ではない)」より

病気をした為に神を知ったと言い、災難を受けたために神信心をするようになった。
これは神の導きであったと言う人がある。

これは摂理であり、「理」であり、神が自由意志をもって、導かんがために、
病気や不幸を課したのではない。

「理」にしたがって、心の通りの姿が、肉体や境遇に反映してあらわれるのである。
眼をとじていれば暗いが、その暗いのは「理」に従って暗いのであって、
神罰によって暗いのではない。

暗くて頭を打つのも「理」にしたがって頭を打つのであって神罰ではない。

           <感謝合掌 平成30年10月28日 頓首再拝>

周りの人の態度を決めているのは自分自身かもしれません。 - 伝統

2018/12/21 (Fri) 04:25:33


       *『たくさんの「奇跡」が舞い込む感謝の法則』小林正観・著、宝島社  
          (P17、メッセージ07)

宇宙の大法則に、「投げかけたものが返ってくる」というものがあります。

それは同時に「投げかけないものは返らない」ということでもあり、
「愛すれば愛される」「愛さなければ愛されない」
「嫌えば嫌われる」「嫌わなければ嫌われない」
の法則にもつながっています。

その法則でいえば、「自分がイライラしていると相手もイライラする」
「自分が不機嫌だと相手も不機嫌になる」
「自分が不愉快を感じながら接していると相手も不愉快な対応をしてくる」
と言えそうです。


たとえば、或る人の上司がいつもイライラしていたとします。
その場合、もしかしたら自分のイライラが上司のイライラを呼び寄せてきた
可能性があるのです。

「私自身がそういう状況を改善できる」と気がついたら試してみてはどうでしょう。

イライラせず、人にやさしくこまやかにと心がけるのです。
試しはじめてもすぐには変わらないかもしれませんが、
徐々にいろいろなことの解決方法が見えてきそうです。

           <感謝合掌 平成30年12月21日 頓首再拝>

環境も肉体も自己の念(おもい)の反映である - 伝統

2019/01/04 (Fri) 04:57:18


         *「光明法語」(1月4日《先ず想いを変えよ》)より

自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映であるから、
思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。
不幸を思えば不幸が来(きた)るのである。

若(も)し自分に危険が迫って来るとするならば、
それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、
それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。

危険を予感するものには危険が来るのである。

自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。
不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを
止(や)めることから始めねばならないのである。

           <感謝合掌 平成31年1月4日 頓首再拝>

《心の反映が環境である》 - 伝統

2019/01/05 (Sat) 04:46:37


         *「光明法語」(1月5日)より

自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。

環境が具体的に一変するに先立って、自己の念(こころ)が平和になり、明朗になり、
落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念(こころ)を変化したことの証明である。

神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。

人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。

           <感謝合掌 平成31年1月5日 頓首再拝>

我が住む世界はわが心の反影である - 伝統

2019/01/17 (Thu) 04:36:23


           *「光明道中記」(1月17日 環境浄まる日)より

【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】

我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。

自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。

他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。

あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。

苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。

何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。

            <感謝合掌 平成31年1月17日 頓首再拝>

「夫は優しい人だった」 - 伝統

2019/01/30 (Wed) 04:18:01


「内田さんに謝ってからあの世に…」樹木希林さんが明していた夫・内田裕也への思い

       *Web:文芸春秋(2018/10/13)より


網膜剥離や乳がんなど、晩年は病とともに過ごした日々だった。
独特の感性に基づく発言の数々。
そして、テレビや映画での名演技――。

樹木さんの人生は一言では語りつくせない。

 
その中でも、特に樹木さんらしさが感じられるのは、
夫の内田裕也さん(78)との関係ではないだろうか。

樹木さんの訃報を受け、

「人を助け人のために祈り人に尽くしてきたので天国に召されると思う。
見事な女性でした」

と語った内田さんだが、2人の結婚生活は独特だった。

 
樹木さんは64年に俳優の岸田森さんと結婚し、4年後に離婚。
73年に内田さんと再婚した。
長女の也哉子さん(42)の誕生前にすでに別居は始まり、
40年以上離れ離れの生活を送っていた。


81年には内田さんが一方的に離婚届を区役所に提出し、
希林さんが離婚無効の訴訟を起こして勝訴するという騒動もあった。


「夫は優しい人だった」
 
実は樹木さんは、左目の網膜剥離と乳がんを患った後、
ひそかに内田さんに謝罪をしたのだという。

樹木さんはかつて「文藝春秋」の取材に対し、その理由を語っていた。

〈いざ「死」というものを突きつけられると、ガラリと心境が変わった。
なぜ、自分には言葉を発するための口が与えられているのに、謝れないのか。
これまで放っておいたことを含めて、すべて謝ろうと思いました〉

 
謝罪の後の内田さんは、
〈すごくテンションが高くて、とても嬉しそう〉だったという。


〈若いときはあんなに喧嘩ばかり繰り返していたのに、
私が自分の悪い点を見据えて、頭を下げるようにしたら、
夫は実は優しい人だったんです〉

〈あるとき、離れていても何かにつけて内田のことが頭をよぎるという話をしたら、
(内田さんも)オレもそうだった、と。
何かと私のことが頭をよぎっていたと聞かせてくれた。
やっぱり夫婦なんです〉


他人から見ると、実に変わった、個性的な夫婦といえるだろう。
しかし、2人の間には確かに深い情愛があった。

その愛を貫いた樹木さんは、まさに「見事な女性」だった。

http://bunshun.jp/articles/-/9308?utm_source=news.goo.ne.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=relatedLink


            <感謝合掌 平成31年1月30日 頓首再拝>

眼はその人の心と運命を現している - 伝統

2019/02/01 (Fri) 04:51:46


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月1日)」より

人に逢うて何かなつかしく、
いつまでもその人と話していたいと思える人と、そうでない人がある。

眼の光のなごやかな人と、鋭い人と、温かい人と、冷たい人と、
なんとなく凄い人と、狡(ずる)そうに見える人と、
人間にもいろいろあるものだ。

ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。

幼児(おさなご)の眼が澄んで清らかなのは、
幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
幼児でも虐げられている継児(ままこ)は清らかな眼はしていない。

濁りに染まない幼児の眼のような心になりたいものだ。

いろいろの眼の光のあるうちで、一番わたしの好きでない眼は狡い光の眼である。
愛の光のある眼は温かく、知恵の深い眼は時として冷たい。
時として冷酷にさえ感じる。

冷たい眼でも、その冷たさが知恵の深いために
冷たい光を湛(たた)えているのは崇高にさえ感じられる。

隠し心のある眼、正面(しょうめん)を真正面(まとも)に見られない眼、
下を向いていて上眼(うわめ)づかいで見る眼、
顔の向かぬ方を盗み視(み)する眼
 ―― およそ狡(ずる)い眼の光はこういう眼の種類である。

ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で
相手を見る人は必ず好運である。

形は心の影である。
眼の形、眼の光、そのとおりの形のものがあなたの運命をあらわしている。

どんより曇っている眼の人は、心も曇っている。
眼の三角の人は心も三角である。

            <感謝合掌 平成31年2月1日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2019/02/02 (Sat) 03:53:17


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、子に腹の立ったとき、
親に腹の立ったとき、そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

            <感謝合掌 平成31年2月2日 頓首再拝>

周囲の相が観世音菩薩である - 伝統

2019/02/06 (Wed) 03:13:59


        「光明道中記」(2月6日 一切に感謝謝する日)より抜粋

観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。

自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。

            <感謝合掌 平成31年2月6日 頓首再拝>

吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である - 伝統

2019/02/07 (Thu) 04:50:20


           *「光明道中記」(2月7日 深切を与える日)より

【常に他に与えたいと思っている者は他から愛され、常に他から与えられたいと
 思っているものは他から嫌われる。 (『生命の實相』第十一巻)】

「あの人から深切して欲しい」と思う心は兎(と)もすれば其の人を躓かせる。
深切が欲しければ自分が先ず深切を自分の生活から造り出すことである。

深切を他から求めるような人は屹度深切に飢えている人である。
深切に飢えている人は、自分自身が深切を身辺に造り出していない証拠である。

他が深切にしてくれないと思う人は、
自分が他に深切をしているかどうかを省みるが好い。

蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、
「深切」の少きを嘆いてはならない。

「深切」を沢山欲しい人は、
自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。

こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。
こちらが渋面(じゅうめん)すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。


 吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。
 人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。

 自分だけの幸福を護り育てていたい者には、
 その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。

            <感謝合掌 平成31年2月7日 頓首再拝>

《無意識の心的影響》 - 伝統

2019/02/19 (Tue) 04:57:38


           *「光明法語」(2月19日)より

吾々の人々に与うる影響は、意識的に与うる影響よりも、
無意識的に与えている影響の方が強いのである。

意識的に相手に好(よ)き影響を与えようとして一所懸命相手に深切丁寧をつくしても、
心の中に反感や、嫌悪の念や、けむたがるような感じをもっている限りは、
相手は決してこちらに対して好感をもってくれるものではないのである。

世間によくある姑を恐れつつ、しかも形の上では丁寧慇懃をきわめながらも、
却ってギコチない感じを姑にあたえて、姑からいじめられている嫁の如きはそれである。

            <感謝合掌 平成31年2月19日 頓首再拝>

心の温かさが、人を引き寄せる - 伝統

2019/02/20 (Wed) 04:38:21


           *「光明道中記」(2月20日 雪が融ける日)より 

【他が自分に対して薄情である場合は、自分自身に何か暗い冷たさがある思え。
                        (『生命の實相』第四巻)】

温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。人を拝めば人が集る。

荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で
園長をしていられたときに一人の生徒が脱走した。

その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、
「私の懐は温かいのだ。生徒よ帰って来い。私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」
という意味の思念をせられたら、脱走した生徒が急に帰園したくなって
帰って来たという話を聞いたことがある。

若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、
それは自分の中に「温かさ」がないからである。
暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。

また内心に温かいものを持ちながらでも、
他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、
それは相手を追い出す心になる。

如何に多くの愛深き妻が、良人を責める心を起したがために、
その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。

だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」
(『生命の實相』第二巻))であり、

「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」
(『生命の實相』第五巻))と示されている。

            <感謝合掌 平成31年2月20日 頓首再拝>

鏡の世界 - 伝統

2019/03/10 (Sun) 06:28:01


        *Web:かんながら(2018年12月26日)より抜粋


人が目覚める時、最初に起きるのが「他者の目」からの自由です。

いかに多くのエネルギーを他者の目のために使っていたか。

いかに自分をよく見せようとして生きていたかに気づきます。



なぜそれほどまでに他者の目を意識しなければならなかったのでしょう。

その理由は、直接自分で自分を知ることができなかったからです。


したがって鏡に映すしかない。

その鏡が他者の目です。



しかし他者は、あなたの外側しか見ることができません。

それを知っているので、腹の中で怒りをためていても笑顔を振りまく。

するとあなたは社会的には明るい人になります。


良い人、賢い人、優しい人、ユニークな人、真面目な人、成功している人・・・

なんでもいいから、それなりの人に見られたいのです。



まず認めるべきは、自分が他者の目という鏡の中で生きてきたということ。


そして目覚めとは、ダイレクトに自分を知ることです。

他者に対して作り出していた偽の自分が消えて、
目覚めた純粋意識としての本当の自分になること。


本当の自分・・・そこに永遠の安らぎがあります。

それを見出すのは自分の外側ではなく内側です。

  (https://abetoshiro.ti-da.net/e10879001.html

           <感謝合掌 平成31年3月10日 頓首再拝>

【燦爛輝く桜花】 - 伝統

2019/04/01 (Mon) 03:38:23


       *「光明道中記」
        ~四月「相倚りたすける」はじめの言葉 より

観る世界は観られる世界である。
能観(のうかん<あるもの>)の中に所観(しょかん<みられる>)の世界があり、
所観の世界の中に観る人の心がある。

観る者と観られるものとは本来一体であるのである。
これを吾々は心の影と言っている。


日本に美しい桜の花が多いのも、日本人の心が桜の花のように美しく潔いからであり、
執拗でなく淡白であるからである。

本居宣長の『敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』
と云う歌は日本精神を詠んだものとしてその内容に就て色々と解釈せられているが、

『朝日に映(は)えている爛漫たる相(すがた)』が日本精神だとか、
散りぎわの潔い相(すがた)が日本精神だとか、互に言い争って、
その解釈の優劣を決定する必要はないのである。

観る世界が観られる世界であると云う真理が本当に解るならば、
日本の国の相、日本の樹木の相、日本の風光の相、すべて、日本人の心を
現していないものはひとつもないのである。

風土が人間を感化するとも言えるが、桜も生命であり、心の表現であり、
人間も生命であり、心の表現であるから、

日本人が桜を感化し、桜が日本人を感化し、日本人の中に桜があり、
桜の中に日本人があるのである。

差し昇る朝日に映える桜花を鑑賞する日本人の心には、
差し昇る朝日に映える桜花の心があるのである。

           <感謝合掌 平成31年4月1日 頓首再拝>

《周囲の光景は自分の心の影》 - 伝統

2019/04/19 (Fri) 04:19:21


         *『 生長の家 』 昭和25年3月20日の法語)より

   周囲が自分に対して けわしいのは
   自分の心の中に けわしいものがあるからである。

   周囲が自分に対して荒っぽくあたって来るのは
   自分自身の心の中に荒っぽいものがあるからである。

   吾々は 自分が幸福になろうと思ったならば、
   自分の心が輝いて、どんな人に対してでも、

   その人の内に宿っている 「 神性 」 又は 「 仏性 」
   をみなければならないのである。

   立ち向う人は 心の影として現われるのであるから、
   吾々は彼の姿をみて、彼の本当の自分を見出すことができないのである。

   吾々は、谷に対して叫ぶが如(ごと)く ただ自分の言葉の反響を聞いて
   それを相手だと思うにすぎないのである。

   自分の口より出(い)ずる言葉が やさしければ
   相手から出る言葉も やさしいのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

           <感謝合掌 平成31年4月19日 頓首再拝>

《至る処に自分の心の映像(かげ)を見る》 - 伝統

2019/05/07 (Tue) 03:31:47


           *「真理」第9巻生活篇(P112)より

鏡に向かって御覧なさい。
其処に映っている自分の映像(すがた)は自分の思う通りに動くでしょう。
自分が微笑(びしょう)すれば微笑するし、
自分が眼をつり上げれば鏡の映像(えいぞう)の眼がつり上がるのです。

全く自分の支配下にあるのであります。

併し、此処に一つ大切なことがあります。
それは鏡の中の映像(すがた)を動かそうと思ったら、
自分自身が先ず動かなければならないと云うことなのです。


黒住宗忠は

「立ち向かう人の心は鏡なり、おのが姿を映してや見ん」

と詠まれましたが、

人の心だけではない、
自分の周囲にあらわれるあらゆる事件、境遇、身辺の事情等、
悉(ことごと)く自分の心の映像(かげ)であるのです。

自分の心の映像(かげ)であると云う事を知らないで、
人を憎んだり恨んだりしていては、憎み恨み排斥などの状態が、
自分の心の反映として自分に加えられるのは無理がないのです。

           <感謝合掌 令和元年5月7日 頓首再拝>

世界はあなたの心を映し出す鏡です - 伝統

2019/06/12 (Wed) 04:17:49


       *「あなたが「宇宙のパワー」を手に入れる瞬間 永遠に続く幸せの源泉」
        ~ディーパック・チョプラ(著)(P162~163)より

《起こったことはすべてあなたが自分でつくり出したもの》

あなたの内側の世界に起こっていることは、
あなたの外側で起こっていることと同じです。

外側の世界は、ただあなたの内側の世界を反映したものに過ぎません。

世界はあなたの心を映し出す鏡で、あなたの心は世界を映し出す鏡です。

(中略)

私たちの内部で考えることは何でも、
時空間の中で私たちがそれそのものになり、それだけが経験されます。

           <感謝合掌 令和元年6月12日 頓首再拝>

立ち対(むか)う人・環境は自分の心の鏡である - 伝統

2019/06/16 (Sun) 04:37:44


       *「光明法語」(6月16日《よき「思い」を種蒔くこと》)より

神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。

蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。

自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。

まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。

        <感謝合掌 令和元年6月16日 頓首再拝>

《現象界に不幸が起こって来る原因》 - 伝統

2019/07/10 (Wed) 04:29:58


         *「眞理」第9巻生活篇第13章(P363~364) より

実在の完全な人間が、そして実相世界の完全な状態が、時間・空間の
映写幕の上に映って来る過程に於いて、心のレンズが曇らされても、
物質の映写幕に歪曲(ゆがみ)が起こっても、
其処には不完全な映像があらわれて来る。

心のレンズが曇るということは、心の持ち方の不正や、感情の過度の興奮や、
抑圧された嫌悪、嫉妬、憤怒等の潜在意識であって、此れ等が、
現象界にあらわれる状態(事件及び健康状態)を歪んだものにするのである。

物質の映写幕の歪曲(ゆがみ)とは、毒物を摂取するとか、
自働車が衝突するとか云うことである。

いずれの原因からでも現実界に故障が起こって来る可能性があるのであるが、
毒物を摂取したり、自働車が衝突したりするのは、結局、自己の潜在意識の
中に、罪悪意識や、自己処罰観念や、自己破壊意識や、攻撃精神があるのが
自己に反映して来たのである。

        <感謝合掌 令和元年7月10日 頓首再拝>

心の影として形の世界(現象)に現れる - 伝統

2019/07/30 (Tue) 04:09:09


     *「あなたは必ず救われる」藤原敏之・著(P243~244)より

病気も事故も失敗も親子の不調和も、
あると信じている心の影として形の世界(現象)に現れるのであります。

このありもしない悪や不幸をあると信じ、心に把むから自由を失い、
動きのとれないことになり、ますます不幸になるのであります。
このようなのを地獄というのであります。

現象が影だと判り、すべて自分の心にあると知ったならば、
何が起っても一切心配することはないのであります。

極楽とは完全な自由な世界であり、何があっても何が起っても
困らない人間ほど自由なものはないでしょう。

そんな人には極楽の必要がなくなり、
極楽の必要がなくなった者には地獄もなくなります。

極楽と地獄の二つある人、善と悪と二つある相対世界に生きている人には
本当の幸福はありません。
 

私達の住む世界は常に一つであります。
現実は一つしかなく、二つ同時にあるということはありません。
二つあるのは現実を離れ空想している時であります。

それを迷いというのであります。

幽霊には足がないというのは、現実を生きないで
考えてばかりいる人のことを指しているのであります。
 
現実は常に一つであるということは、右と左と同時に進むことは出来ない、
右でなければ左であり、左でなければ右であります。

その一つだけの現実を絶対というのであります。
その一つを最も善であると観る生活が極楽なのであります。

このすべてを最善と観る秘訣は〝都合〟のない人間となることであります。
都合のない人間とは一切が神のものであると判り、一切を神に返し切る生活であります。

私もなければ、私のものもないと知らされる時、感謝以外なくなるのであります。
丸貰いの丸儲けの人生となります。

よくよく考えてみると、自分の力でしたことも出来たことも一つもないことが判り、
全部貰いもの、全部預かりものとなり、預かりものであったと判る時、
執着がなくなり、一切の執着から離れたのを仏というのであります。

仏とは解(ほど)けたものという意味であります。
仏教でも「解脱をもって仏となす」とあります。
 
現象がすべて影だと判れば現象は問題でなくなりますが、
影だと判らず本ものだと思い違いするから
現象に振り廻されて動きがとれなくなります。
それを迷いといいます。
 
今現れているのは影であり、
これまでの間違った思いが現れて消えたのであると判れば、
何も心配することもない、反対に喜べるのであります。

借金が無くなって苦にする人はないでしょう。

悪いことが現れたのを見て、悪くなったと見ないで
善くなるためだと判ったら安心するのであります。
 
雨が降るのは、お天気になるために水蒸気が雲になっているのが
雨になって、雲がなくなり晴天になるためでありましょう。

日が暮れて夜がふけるのは、朝が来るためであります。

電車がトンネルに入るのは、トンネルを通って出てくるためであります。

このように悪くなったように見えるのは、
すべて善くなるためだと観るのが生長の家であります。

悪いことを悪いとだけ見たのでは普通の考え方であって、暗黒思想でありましょう。

生長の家は徹底した光明思想であって、善くなることだけを想い、
善くなることに感謝して生活しようとお教え頂くのであります。

        <感謝合掌 令和元年7月30日 頓首再拝>

顔は心の鏡である - 伝統

2019/08/24 (Sat) 04:43:20

         *「光明法語」(8月24日《心に化粧せよ》)より

誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。

顔は吾々の心の鏡である。
白粉(おしろい)でいくら塗っても、
その精神の下劣さは隠すことは出来ない。

「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。
人間の顔には、その人間の悪徳や、美徳や、理性や、知識や、
愚かさや、感情や、最も隠された性癖や、さらにその上の全肉体の構造や、
質や、生理的、心理的病気の傾向まで現れる」 

とカレル博士は更に言っている。

誰も隠すことは出来ないのである。

天知る、地知る、自分知るである。

        <感謝合掌 令和元年8月24日 頓首再拝>

関係の鏡で自分を見つける - 伝統

2019/09/09 (Mon) 03:35:54


        *「迷ったときは運命を信じなさい」
         ディーパック・チョプラ・著(P170~172)より

「わたしは、それである」とは、世界のなかのあらゆるものを観察して、
自分のもうひとつの姿がそのすべてのなかに映し出されていると気づくことなのです。

あなたとわたしは同じであり、すべてのものが同じです。

わたしは「それ」であり、あなたも「それ」であり、
すべてのものが「それ」なのです。

誰もが他者を映し出している鏡です。
わたしたちは他人のなかに自分の姿が映し出されていることに
気づかなくてはいけません。

これを「関係の鏡」と呼びます。
関係の鏡を利用して、「すべて」である自己を見つけ出すのです。
 

人間関係は魂を進化させる手段でもあります。
この進化の究極の目標は、宇宙との一体感を肌で感じとることです。

人間はひとり残らずこの宇宙の意識に含まれていますが、
日常生活のなかで宇宙とのつながりに気づいたときにしか、
わたしたちは大きく飛躍することができないのです。

また、人間関係を断たれてしまう人は生きてはいけません。


親、子供、恋人、同僚など、
自分が築き上げた人間関係の網の目をいつも意識しましょう。
心の奥深くでは人間関係のすべてがスピリチュアルな体験なのです。


人を愛しているときは、時が止まったように感じるものです。
その瞬間、あなたは不確実なものとも調和しています。
あなたは最高の気分を味わいつつも、傷つきやすくなっています。

親密さを感じつつ、危険にさらされたような気持ちを抱えています。
この状況のなかで、人は変容していきますが、そのことに不安はなく、
むしろ驚きの念を抱いています。

これがスピリチュアルな体験なのです。
 
あらゆる人間関係の鏡を通し、
わたしたちは自分の知覚が拡大されていくのに気づきます。

あなたが好きな人も、嫌いな人も、同じように自分自身を映す鏡です。

あなたはどんな人に魅力を感じますか? 
おそらく自分と似た性格の人でしょうが、
同じというだけで好きになることはありません。

その人と仲良くなりたいのは、
付き合うことでその人物の特徴を自分でももっと表に出したい
と潜在意識で思っているからです。
 

魅力を感じる人が現れたなら、
なぜその人物に心を引かれるのか、自分の胸に問いかけてください。

魅力を感じたのは、その人の美しさ、気品、優雅さ、
影響力、権力、知性のいずれでしょうか? 

理由が何であれ、その人物の性質が、
あなたのなかでまだ開花していないことを確認してください。
そうすれば、自分のほんとうの姿にもっと近づくことができます。
 
もちろん、嫌いな人にも同じことがいえます。
自分が否定している性格を映し出している人物に対して、
人は嫌悪感を覚えます。

しかし、とことん見つめれば、
あなたが嫌いな人物があなたと共通する性格をもっていることに
きっと気づくはずです。

ほんとうの自分の姿に近づこうとするとき、
あなたは自分自身の嫌な面に気づき、
その面に対処していかなくてはなりません。

対立している価値が共存しているところに、
宇宙の本質的な性質があります。

心のなかに臆病者がいなければ、あなたは勇敢にはなれません。
内面にけちな人間が住んでいなければ太っ腹になることはできません。
悪の才能がなければ、徳の高い人間にもなれないのです。
 

わたしたちはマイナス面がないかのように振る舞い、
嫌いな性質をほかの人間に投影しています。

知らないうちに、「ふさわしくない」人間を
自分のまわりに引き寄せている人がいないでしょうか? 
なぜ繰り返し、そんなことになってしまうのか、彼らは気づいていません。

そういった人は嫌いな人を引き寄せているのではなく、
自分のなかにも彼らと同じ性質があることを認めようとしていないだけなのです。
 

不愉快な人間と出会ったなら、対立するものの共存という逆説を受け入れ、
あなた自身の新しい面を発見する機会として利用してください。
あなたのスピリチュアリティ、自己はそれで一歩成長します。

この世で悟りを開いている人は、光と闇の両方が持つ可能性を
きちんと受け入れています。

自分のマイナスの性質に気づき、認めている人といっしょにいるとき、
あなたは彼らに評価を下されているとはまったく感じません。

何かを判断しようとするのは、自分とは関係ないと一線を引き、
善悪、正誤を見きわめようとする心の表れなのです。


進んで自己の光と影の部分を認められた瞬間、
わたしたちは自分自身、そして人間関係のどちらも
改善していくことができるのです。

他人のなかに自分の姿を見いだせることがわかれば、
すべての人間関係が自分の意識を進化させる手段になります。
 
        <感謝合掌 令和元年9月9日 頓首再拝>

《人生は山彦である》 - 伝統

2019/09/21 (Sat) 04:16:30


      *『生活の智慧365章』
        (第3部繁栄の泉)第9篇(P237~238) より

世界は鏡であり、人生は山彦である。

世界は自分の心が示す姿の通りの表情をもって応えてくれるし、
人生は自分の心の響きの通りを呼び返してくれるのである。

鏡にむかって手をあげて挑(いと)みかかれば、
鏡の中の像も手をあげて挑みかかって来るであろう。

鏡にむかってにこやかに微笑めば
鏡の中の像もにこやかに笑い返してくれるのである。

谷に向かって大声で叫べば山彦は大声でその通りの声を送り返すし、
金切声で叫べば山彦はまた金切声で応えてくれるのである。

        <感謝合掌 令和元年9月21日 頓首再拝>

境遇は、自分の性格の反影 - 伝統

2019/09/29 (Sun) 04:55:05


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より

自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。

境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。

あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。

鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。

たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、
苛辣であって気が短く、人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、
まず自分自身を寛容にすればよい。

             <感謝合掌 令和元年9月29日 頓首再拝>

自分自身が変化せよ! - 伝統

2019/09/30 (Mon) 04:10:26


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より

鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。

鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。

結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。

自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。

             <感謝合掌 令和元年9月30日 頓首再拝>

すべての原因は自分の内にある - 伝統

2019/10/16 (Wed) 04:22:38


      *Web:ツキを呼ぶ感謝のことのはブログ(2009年8月2日)より

このすべての原因が自分の内にあるということについて、
とてもわかりやすく教えてくれる話があります。

中国であった実話です。

この話は、心理学者のカール・ユングの友人で、宣教師として中国に渡り、
「易経」などを翻訳しヨーロッパに伝えたリヒアルト・ヴィルヘルムという人が、
中国で実際に体験したお話です。


彼がある地方にいた時、その土地は大旱魃(かんばつ)でした。
もう何ヶ月も雨が降らず、田畑の植物は干(ひあ)上がって、
枯死(こし)寸前でした。

そこで農民たちが相談して、雨降らしの名人という評判の人を招きました。
数日後、その名人がやってきました。

見たところ、本当にみすぼらしい、ヨボヨボの老人で、
ヴィルヘルムにはとても、その老人がそんな特殊な能力の持主のようには
みえませんでした。

その老人は、一軒の家の提供と日に三度の食事の差し入れを要求して、
その家にとじこもってしまいました。

中の様子をうかがっても、しんと静まりかえっており、
太鼓や鉦(かね)をたたいて祈ったり、お経を上げたり、
呪文をとなえたりしているようにはみえませんでした。

ところが、三日目に突然雲があつまって、ド、ドッと大雨が降り、
農民たちは大喜びで雨の中で踊りまわったそうです。


ヴィルヘルムは家から出てきた、その雨降らしの名人に、
「いったいどうして雨を降らせたのですか」とたずねました。
老人は次のように答えました。

「私は雨を降らせようとしたわけじゃありませんよ。
この土地にやって来た時、この土地がこんなにも干枯(ひから)びているのは、
私の心がうるおいを失って砂漠化しているせいだとわかりました。

それで私は家に閉じこもって、
この土地をこんなにしてしまった私のあやまりをおわびしました。

おわびの心が深くなってゆくにつれて、私の心にうるおいがもどって来、
心の乱れが整理されて調和のとれた姿となってゆきました。

そして、それ(その心の状態)が本物になった時、
この土地の不調和の状態もおしまいになり雨が降ったのです。
私は決して雨を降らそうと思ったわけじゃないのですよ」


身の回りで起こったことを変えたい時、
その原因は自らの内にすべてはあります。


この中国の老人は枯れた天候でさえ、
自らの心がうるおいを失っていたからだと、
すべてを自分のことと受け止めています。

自らで、すべての元は自分にあり、と受け止めて
(ひとついのちを理解できると自然に、当然自分の責任!と感じられるようになります)、
自分の心の内で、お詫びし、感謝し、愛して、豊かな心に変えていけばいいのです。


自分がすべてに責任を負えるから、
人生をガラリと明るく澄みきった歓びにあふれたものに、変えていけるんですね。

「目の前に広がる世界は、すべて自分のものなのです」。

「すべては私に責任がある!」と自ら進んで宣言できた時、
本当の意味での「自分の人生」が始まるのではないでしょうか。

  ( http://kansya385.blogspot.com/2009/ )

             <感謝合掌 令和元年10月16日 頓首再拝>

「顔は心の窓」~顔を見ればその人がわかる - 伝統

2019/10/27 (Sun) 04:23:32


       *『平澤興講話選集「生きる力」』(第3巻)より
        ~メルマガ「人間力」(2019.10.05)


いつも申します通り、身体の中で
はだかになっておるのは顔だけであります。

化粧をしましても、塗るだけでありますから、
それは目の慣れない人から見ればひととおり綺麗でありますが、
化粧の美は本当の美ではありません。

慣れた目から見ますというと、化粧も遠くに飾っておれば結構ですけれど、
話をして、一度か二度笑わせてみれば、その人のもとの顔が出るのであります。
ごまかすことはできません。

一度笑わせたあとに、一番もとの顔になります。

鬼のような顔は上手に笑っても、きれいな顔が笑っても、
笑ったあとの瞬間の表情を、顔を見れば瞬間であります。

もとの顔であります。

これはおそろしいものであります。

ですから私、いつも申します通り、
ごく大事な人事には書いた履歴書はとりません。
人からも聞きません。

人から聞いても、その人の言うことはあてになりません。
書いたものもあてになりません。

なぜなら、昔はちょっと面白くなくて罪を受けた、
罰を受けたという人でも、それを通り越して、
乗り越えて、さらに立派な人になっておるんなら、
昔のことを責めることはないと思うのであります。
私はそう思います。

むしろ昔間違いをおかして
今日は普通の人より偉くなっておるという、
その人の努力はたいしたもんであります。

私は大学におります時も、
重要な人事は決して人に聞きません。

人に聞きますというと、
本当にいい人が悪口を言われる場合があります。

書いたものを見ても、なんだか途中に妙なところがあります。
そんなものに気をとられますと、適切な人事はできません。


まず、真っ先に会う。
会ってしばらく話をしておりますと、
これはもう、誰がどう言っても確かであります。

まあ決してということが言えるかどうか、
私の経験の範囲内では、私は幸い「決して」という
思い間違いをしたことはありませんでした。

これはいい人だと思ったのに、
あとから「なんと」ということは、一度もありません。

しかしまあ、私は幸運であったと思います。
だから、決してとはよう言いませんけれども、
まず間違いはないのであります。


顔ははだかであります。

顔は心の窓であります。

心がちゃんと顔に出ておりますから、
自信とかそんなものとは違います。

https://www.mag2.com/p/news/419378

             <感謝合掌 令和元年10月27日 頓首再拝>

こんなに良人を愛しているのに良人が冷たい - 伝統

2019/11/10 (Sun) 04:51:38


       *『女は愛の太陽だ』(P122~123)より

あなたの家庭が淋しいと感じられ、良人が冷たいと感じられ、
やるせない寂寥感に悩まされる時があるならば、
その冷たい良人を恨んだり、責めたりする感情を
先ず棄てることが肝腎であるのである。

良人の現象的状態は妻の心の影であることを悟らなければならないのである。

良人が冷たいのは、あなた自身が良人に対して冷たいのが映っているのである。

しかしあなたは「いいえ、私は良人を熱愛しているのです。
良人の愛をこんなにも求めているのです。それなのに良人が冷たいのです」
と仰言りたいのでしょう。

あなた自身の言葉が証明しているように、
あなたは良人の愛をそんなにも求めているのです。

しかし“求めている”ということは「愛を与えている」ことではないのである。

「良人から愛を奪いとろう」としているのです。

それは自己愛であり、良人への愛ではないのです。

自分ばかりを愛していて、自分を愛するために、
良人から愛を奪おうとしているのです。

だからあなたは本当は自分自身に対しては熱く、良人に対しては冷たいのです。

その心が良人に反映して良人が冷たくあらわれるのです。

             <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>

あなたの運命は自身の心が造る - 伝統

2019/11/22 (Fri) 04:17:11


        *『女は愛の太陽だ』(P26~27)より

美貌よりも表情の善さが男性を魅きつけるのである。

表情も態度もジェスチャーも一種のコトバである。

しかも表情は、自分の心情をあらわすコトバである。

うまれつき美貌でないからとて歎くことはないのである。

コトバは創造主である。
明るきよき表情は、よき運命を引き寄せるのである。

1分1秒間といえども、自分の心に“暗い影”をおとしてはならない。

心に描かれた“暗い影”はただちに形に化して表情としてあらわれると同時に、
現象化して、自分の運命となってあらわれるのである。

             <感謝合掌 令和元年11月22日 頓首再拝>

心の美しさが容貌にあらわれる  - 伝統

2019/12/13 (Fri) 04:41:46


       *『女性の幸福365章』(P145)より

精神の輝きも、”性”の輝きも要望にあらわれる。
容貌をアトラクティーブ(魅力的)にするためには、
肉体的にも活力を備えるために、
食物の摂取に注意しなければならないが、

精神の輝きを表現するためには精神上の食物をとることにも
注意しなければならない。

精神上の食物とは、高尚な内容をもった書籍を読み、
精神的なものを考えることである。

生長の家の花嫁学校の生徒などは一見しただけで何処となく
雰囲気が柔らかくつつましやかで女性として善い面があらわれている
という批評をする人があるが、

それは、毎日『生命の實相』を読んだり、
精神的な講話をきいているからだと思う。

 
精神美を発揮する道は、”真理”を書いた聖典を読むだけではなく、
人に深切な行為をすること、忍び難きを忍び、
感謝し難きを、感謝すべき面を見つけて感謝すること、
あらゆる機会に応じて、慈悲又は布施の行をなすことなどは、

魂の筋肉(譬喩的(ひゆてき)に謂う)を発達せしめる
”魂の体操”だということができるのである。

あらゆる精神の動きは、その精神の彫刻刀をもって自分の容貌を彫むのである。

        <感謝合掌 令和元年12月13日 頓首再拝>

《心の反映が環境である》 - 伝統

2020/01/05 (Sun) 03:45:07


         *「光明法語」(1月5日)より

自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。

環境が具体的に一変するに先立って、自己の念(こころ)が平和になり、明朗になり、
落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念(こころ)を変化したことの証明である。

神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。

人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。

        <感謝合掌 令和2年1月5日 頓首再拝>

自分の欠点を知るには、鏡(家族、社会)がいる - 伝統

2020/01/22 (Wed) 05:02:55


       *「光明道中記」(笑門福来七宝充満の日)より抜粋

【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】

凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、夫婦は似たり寄ったりのものである。

自分の欠点はわかりにくいのは、
自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。

自分の睫毛を見るためには鏡が要る。

            <感謝合掌 令和2年1月22日 頓首再拝>

温かいところには人が集まり、冷淡なところからは逃げ出す - 伝統

2020/02/20 (Thu) 04:25:44


           *「光明道中記」(2月20日《雪が融ける日》)より 


【他が自分に対して薄情である場合は、自分自身に何か暗い冷たさがある思え。
                       (『生命の實相』第四巻)】

温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。人を拝めば人が集る。

荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で
園長をしていられたときに一人の生徒が脱走した。

その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、「私の懐は温かいのだ。
生徒よ帰って来い。私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」という意味の
思念をせられたら、脱走した生徒が急に帰園したくなって帰って来た
という話を聞いたことがある。

若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、
それは自分の中に「温かさ」がないからである。
暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。

また内心に温かいものを持ちながらでも、他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、
それは相手を追い出す心になる。

如何に多くの愛深き妻が、良人を責める心を起したがために、
その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。

だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」
(『生命の實相』第二巻))であり、

「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」
(『生命の實相』第五巻))と示されている。

            <感謝合掌 令和2年2月20日 頓首再拝>

情有るもの・情無きもの悉く皆如来 - 伝統

2020/03/06 (Fri) 05:00:53


         *『白鳩』(昭和47年5月号)より

    たち向ふ人の姿は鏡なり己が心を映してや見ん

と、黒住教祖宗忠尊師は教えられたが、
この鏡の原理は宇宙到るところに充ち満ちていて、吾らを導いて下さるのである。

自然界の森羅万象は、唯物論者から見れば唯の物質分子の物理化学的集合体に
観えるのであろうけれども、物質には知性がなく計画性もないから、
単なる物質の物理化学的な偶然集合では、生きた木の葉一枚造ることはできないのである。 

どんな立派な科学界の大学者でも、実験室の試験管又は試験装置の中では
木の葉一枚でも製造し得た人はないのである。

だから自然界の森羅万象を単に物質の集合体と見る唯物論は間違いであるのである。 
それは 『宇宙普遍の観自在原理』 ―― すなわち仏如来の生命と智慧と愛との
顕現なのである。 

そのことを釈尊は三十五歳の十二月八日、菩提樹下に坐して
暁の明星を見ながら忽然と悟られたのであった。

それが  『有情・非情・同時成道。 山川草木国土悉皆成仏』  の悟りである。 

“有情(うじょう)” というのは “情(こころ)有(あ)るもの” 即ち生物である。 
“非情(ひじょう)” というのは “情(こころ)あらざるもの” 無生物のことである。 

同時とは、過去・現在・未来を同(ひと)つに握った “絶対無” の
無時間無空間の一点から観ずるとき、それは “成道(じょうどう)” 
すなわち “天地(てんち)の道”〈即ち真如〉 の現成であるというのである。

それを、更に言い換えたのが 『山川草木国土悉皆成仏』 である。 
山川(さんせん)・国土は無機物であって 『非情』 のことである。 

草木(そうもく)は生物であって 『有情』 に属する。 
〈最近、嘘発見機的な電子感応装置によって植物にも心があることが科学的に証明された〉  
その 『有情』 も、その 『非情』 も、悉く皆成仏だというのである。 

成仏とは、これから何億年経ったら 『仏に成る』 という意味ではない。 
今、無時間の一点に立ってその実相を観ずるならば、
悉く皆 “仏” のいのちの現成であるというのだ。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p8.html
8/19/13

            <感謝合掌 令和2年3月6日 頓首再拝>

環境と心は合わせ鏡のように互いに影響し合う。 - 伝統

2020/03/27 (Fri) 05:06:23


        *『靜思集』(P175~176)より

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。

如何なる不快なる相(すがた)をもってあらわれようとも、
その不快なる相(すがた)は、現在又は過去に於いて
自分のどこかに潜んでいた不快な心の反映であると信じ、自己を省みよ。

そして相手の奥にある真實相を見て敬し、禮(らい)し、拝め。


自己には峻厳であり、他(ひと)には寛大であれ。

自己に峻厳で、他(ひと)に対して寛大なのは、
自己は峻厳に耐え得(う)る強さがあり、
他(ひと)は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、

責任を自己に帰し自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

            <感謝合掌 令和2年3月27日 頓首再拝>

【燦爛輝く桜花】 - 伝統

2020/04/01 (Wed) 04:53:59


      *「光明道中記」四月「相倚りたすける」はじめの言葉

観る世界は観られる世界である。
能観(のうかん<あるもの>)の中に所観(しょかん<みられる>)の世界があり、
所観の世界の中に観る人の心がある。

観る者と観られるものとは本来一体であるのである。
これを吾々は心の影と言っている。


日本に美しい桜の花が多いのも、日本人の心が桜の花のように美しく潔いからであり、
執拗でなく淡白であるからである。

本居宣長の『敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』
と云う歌は日本精神を詠んだものとしてその内容に就て色々と解釈せられているが、

『朝日に映(は)えている爛漫たる相(すがた)』が日本精神だとか、
散りぎわの潔い相(すがた)が日本精神だとか、互に言い争って、
その解釈の優劣を決定する必要はないのである。

観る世界が観られる世界であると云う真理が本当に解るならば、
日本の国の相、日本の樹木の相、日本の風光の相、すべて、日本人の心を
現していないものはひとつもないのである。

風土が人間を感化するとも言えるが、桜も生命であり、心の表現であり、
人間も生命であり、心の表現であるから、

日本人が桜を感化し、桜が日本人を感化し、日本人の中に桜があり、
桜の中に日本人があるのである。

差し昇る朝日に映える桜花を鑑賞する日本人の心には、
差し昇る朝日に映える桜花の心があるのである。

            <感謝合掌 令和2年4月1日 頓首再拝>

《相手が自分を苦しめるのは自分の心の不調和が因(もと)》 - 伝統

2020/04/18 (Sat) 04:21:45


       *『 生長の家 』(昭和25年4月18日の法語)より

   自分が誰かと不調和な状態になったり、
   誰かが自分を苦しめると思えるようになった時には
   それは自分の心の影であるから自分の想念感情を振りかえって見て反省せよ。

   自分自身の心がおだやかとなり、
   自分自身の態度が相手に調和する様になった時、
   相手は自分にとって味方となってくれるのである。

   相手がたとい利己主義であっても それに対して腹を立て、
   攻撃しては 相手の利己主義は治らないのである。

   自分が彼を愛してやり、自分が彼に感謝してやることによってのみ
   彼の利己主義は治るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13825912.html (消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月18日 頓首再拝>

環境と心は合わせ鏡のように互いに影響し合う。 - 伝統

2020/05/17 (Sun) 02:47:09


        *『靜思集』(P175~176)より

今日(きょう)いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。

如何なる不快なる相(すがた)をもってあらわれようとも、
その不快なる相(すがた)は、現在又は過去に於いて
自分のどこかに潜んでいた不快な心の反映であると信じ、自己を省みよ。

そして相手の奥にある真實相を見て敬し、禮(らい)し、拝め。

自己には峻厳であり、他(ひと)には寛大であれ。

自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、
自己は峻厳に耐え得(う)る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、
責任を自己に帰し自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

            <感謝合掌 令和2年5月17日 頓首再拝>

害心を持つものは、わが心の害心の反映であり、本来は無い - 伝統

2020/05/22 (Fri) 04:27:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より

すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。

一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。

もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。

           <感謝合掌 令和2年5月22日 頓首再拝>

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、客観化(かたちにか)したもの - 伝統

2020/06/13 (Sat) 04:44:45


       *「光明道中記」(6月13日《絶えず明るく微笑する日》)より

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】

恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。

念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。

体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、外界境遇貧富等は外的環境である。

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。

「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。

されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。

「悪」は存在しないのである。

ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く視(み)えるに過ぎない。

静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。

           <感謝合掌 令和2年6月13日 頓首再拝>

立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である - 伝統

2020/06/16 (Tue) 03:23:27


       *「光明法語」(6月16日《よき「思い」を種蒔くこと》)より

神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。

蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。

自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。

まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。

        <感謝合掌 令和2年6月16日 頓首再拝>

《鏡に対して微笑せよ、鏡も亦汝に微笑せん》 - 伝統

2020/09/04 (Fri) 04:36:25


        *「眞理」第2巻基礎編第6章(P112~113)より

一日に数回、必ず鏡を視て、最も幸福なる表情をして微笑(びしょう)し、
鏡に映っている自己の幸福そうな顔を見て「自分は、神の子で幸福だ」と念じ、
その幸福の観念を自分の心の奥(潜在意識)に強く強く印象せよ。

そしてその幸福の微笑(びしょう)の時の感じを覚えておいて、
仕事の合間の一寸(ちょっと)暇(ひま)な時間を利用して、
その同じ微笑をして「私は幸福(こうふく)だ」と念ぜよ。

人に対しても、人の話しているのをきくとき、
このような微笑(びしょう)を顔に浮かべながら好感をもって
相手の話をきくようにするのである。

すると相手はこちらに好感をもってくれて、
相手と調和して事を運ぶことが出来るのである。

人生は一種の鏡であって、こちらが微笑(びしょう)すれば人生も微笑(びしょう)し、
こちらが眉を顰(ひそ)めれば人生も眉(まゆ)をひそめる。

        <感謝合掌 令和2年9月4日 頓首再拝>

境遇は、自分の性格の反影 - 伝統

2020/09/29 (Tue) 04:30:51


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より

自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。

境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。

あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。

鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。

たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、苛辣であって気が短く、
人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、まず自分自身を寛容にすればよい。

             <感謝合掌 令和2年9月29日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.