伝統板・第二

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放てば、自由 ③ - 伝統

2018/07/23 (Mon) 03:41:51

《自己限定と自縄自縛とから、自己を解放する》

        *「希望を叶える365章」(P153~154)より

自己限定を破る

あなたの幸福と不幸、収益と損失、健康と不健康、
それらは悉く原因結果の法則によって、
その結果が招来せられたのである。

それは決して単なる偶然の産物ではないのである。

自己限定によって、損失や貧乏や病気等を想像して、
その観念によって自縄自縛せられて、よき想いきが出て来ず、

行くべき時に行かずに決行すべき時に決行せず、
食すべき物を食せず、食すべからざる物を食し、
食してもそれが真に身につかず、完全に疲れ切って
為すところを知らないのが、失敗する人の特徴である。


何よりも「人間は神の子である」と云う真理を自覚して、
自己限定と自縄自縛とから、自己を解放すしなければならないのである。

自己限定と自縄自縛とを破るとき、”人間神の子”として自己の内に
内在する処の無限の智慧と力とが解放せられ、人と時と場所とう応じて
自由自在の行動がとれ、何事を行なうとも常にその希望を実現し得るように
なるのである。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第三「無執無縛 (1208)」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=250

(2)光明掲示板・伝統・第一「放てば、自由 (33)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=20

(3)伝統板・第二「放てば、自由①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6464501

(4)伝統板・第二「放てば、自由②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7082385

            <感謝合掌 平成30年7月23日 頓首再拝>

去るものは追わず - 伝統

2018/08/09 (Thu) 04:41:26


            *「女性の幸福365章」(P384)より


過去は過去である。
既に過ぎ去ったのである。
過去の悲しみを反芻(はんすう)するな。

古いものをつかんでいたならば、新しいものを捉(とら)えることはできない。
過去を捨てるときには過去に感謝して捨てるがよい。

困難だった過去でも、その困難と闘わなければ発達せしめることができないような
ある種の自分の能力を発達させてくれたのであるから、
そのことに感謝して過去と別れるがよい。


去る者に執着して追ってはならない。
去りゆく者はあなたの魂に何物かを与える役目を果たし終わったから去るのである。
去る者に対して自分を裏切ったなどと憤(いか)りや恨みをもってはならない。

去る者を感謝して放ち去ったとき、
新しい友または伴侶が来るための空席がしつらえられるのである。

過去の恋人をいつまでも心の中に持っていて結婚するならば、
その結婚は禍(わざわい)となる。

去り行くすべての人と物と事とに感謝せよ、新しき良きもの来(きた)る。

            <感謝合掌 平成30年8月9日 頓首再拝>

一つの形に執しない - 伝統

2018/08/22 (Wed) 04:03:54


        *「光明法語」(8月21日~22日)より

神は五感も六感も超越せり

「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。

感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。

感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。

六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。

・・・

無相にして無限相

霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、神の化身(けしん)を見たに過ぎない。

神は、かくの如き六感を超えた存在であり、相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。

これを無相にして無限相と呼ぶ。

吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。

無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。

            <感謝合掌 平成30年8月22日 頓首再拝>

執着を断つ - 伝統

2018/08/25 (Sat) 04:28:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月25日)より

執着の愛は憎悪と裏表である。

憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。

法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。

天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。

搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。

         <感謝合掌 平成30年8月25日 頓首再拝>

信じて其儘たらしめよ - 伝統

2018/09/13 (Thu) 03:29:52


         *「叡智の断片」(P88~90)より


人を自由に放つことが最大の美徳である。
その完全なる解放の奥には人間性の善に対する深い信頼があるのである。
人間性の深い信頼の奥には、
人間を創造りたまえる神への深い信頼と尊敬があるのである。

人を悪であると思うものはこの意味に於いて、
彼は神を信頼せず神の創造の本来の完全さを信仰せず、
神の全智全能を信頼せず、神にも欠陥あるものだという
不敬な観念が奥底に潜んでいるのである。

一切の不幸は、神の善と愛と智慧と力との完きことを信ぜず、
その創造に欠陥ありとする漠然たる又は明瞭なる潜在意識の信念の具象化であって、
神の創造には責任はないのである。

神の創造は、今も、(諸君が不幸に見舞われているように見えている時にも、
また病気に襲われているように見えている時にも)完全円満にして、
今ここに実在するのである。

その実在に心の眼をひらかず、自己の心の仮作せる禍の雲を見、病の霜を見て、
日光の燦然と輝くごとき実相世界(実在)の完全なる相を見ないのが、
あわれなる禍と病いになやむ人である。

神を信ぜよ。
神の創造の完きを信ぜよ。
禍いと病いと悪しき人とは、
神が創造りたまいしものではないから非実在なのである。

わが言葉を信ぜよ。
而して神の創造の善なることを信ぜよ。
しかして全ての人間が神の子として善なることを信ぜよ。

信じて人を縛ることなかれ。
「こうあって欲しい」と思うのも人を縛ることである。
彼自身を《そのまま》たらしむることが真の人間の解放である。

そのままたらしめたときに、全ての人に善そのままの実相があらわれる。
その時すべての悪は消え去り、総ての人は善となり、
禍いと病いと貧しさと悩みとは此の世界から姿を消すであろう。

信じて《そのまま》たらしめよ。
そのままの時、実相あらわる。
実相は完全円満である。

         <感謝合掌 平成30年9月13日 頓首再拝>

真の愛は放つ - 伝統

2018/09/24 (Mon) 03:37:09


        *「光明法語」(9月24日)より

真の愛は放つということである。
そのものの生命(いのち)のままにそのものを行かしめることである。

朝顔の蔓(つる)に牡丹の花を咲かせようとすることではない。
小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、
自分の子供を放つと云うことである。

個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。
個人個人の自由を縛るのは、
神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。

それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、
神の創造のみわざに対する冒涜である。

           <感謝合掌 平成30年9月24日 頓首再拝>

【人生の達人の生き方】 - 伝統

2018/10/09 (Tue) 04:11:43


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年08月27日)より

   (本田健氏の心に響く言葉より…)

   人生の達人の生き方は、自分のところにやってくるものを拒まず、
   100%受け入れることです。

   そして自分の人生から去っていくものを追わず、
   期待せず、ただ淡々と生きることです。

   人生の目的は、あなたが心から大切だと思うものを大事にすること
   によってしか実現できません。

   また、それは、目の前に来たものを大事にするということでもあります。


   それがポジティブなものでもネガティブなものでも、
   来るものを拒まず受けとめること。

   去っていくものは、追いかけようとはせず、ただただきれいに手放すこと。

   この2つができると、あなたは幸せに近づけます。


   そうはいっても、執着は、なかなか手放せないものです。

   それは、お金かもしれませんし、若さかもしれません。
   お金をもっていたい、若くありたいという気持ちを手放すことに、
   痛みを感じる人は多いと思います。


   執着の対象は、別れたのに未練を感じている恋人かもしれないし、
   就職できなかった会社やうまくつかめなかったビジネスチャンスかもしれません。

   そういうとき、それにしがみつこうとすると、他のものが見えなくなります。

   たとえば、女性、男性で言うと、
   あなたのことを好きになってくれる人は、
   世界にはその人以外にたくさんいるはずです。

   けれど、いったん執着してしまうと、そこが見えなくなります。

   そして、苦しくなるのは自分です。


   苦しくなったとき、「また、次があるさ」というのは、
   心を楽にしてくれるアファーメーションです。

   自分がいましがみつこうとしているよりも、
   もっと素敵なパートナー、チャンスが必ず来ると保証されたら、
   楽に手放せるはずです。

   あなたが成長したら、きっとそれに見合うものがやってきます。

   そのためにも、何かにしがみつきそうになったら、
   大きく深呼吸をして、硬くなった手を開きましょう。

           <『人生の目的』大和書房>

            ・・・

小林正観さんは、「執着」についてこう語っている。
(この世の悩みがゼロになる)より

『執着やこだわり、捕らわれ、そういう呪縛から解き放たれた人を、
日本語では「ほとけ」と呼びました。

それは「ほどけた」「ほどける」というところから語源が始まっています。

自分を縛るたくさんのもの、それを執着と言うのですが、
その執着から放たれることが出来た人が仏というわけです。

ところで、「執着」とは何か、と聞かれます。
執着というのは、「こうでなきゃイヤだ」「どうしてもこうなってほしい」
と思うことです。

それに対して、楽しむ人は、「そうなってほしい」のは同じなのですが、
「そうなったらいいなあ。ならなくてもいいけれど。
「そうなるといいなあ」「そうなると楽しいな」「そうなると幸せだな」と思う。

「こうでなきゃイヤだ」と思ったときに、それが執着になります』


「放下着(ほうげしゃく)」という禅の言葉がある。

捨ててしまえ、という意味だ。

我々は、年齢を重ねれば重ねるほど、
たくさんの思い込みや、こだわりそして、
執着という荷物を背負(せお)ってしまう。

しかし、時代の変化に対応するには、
身につけたたくさんの荷物を捨てなければ、
変化と言う「谷」は飛び越えられない。


執着を手放し、人生の達人を目指したい。

         <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

囚われない - 伝統

2018/10/17 (Wed) 04:36:10


    *「光明道中記」(10月17日 愛憎を超える日)より

【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。
                        (『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は
元の兵来たって彼を斬ろうとした時平然として
「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」と
一喝を諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って斬ろうとしたとき
平然として首をさし伸べたが三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。
囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 平成30年10月17日 頓首再拝>

愛憎に囚われない道 - 伝統

2018/10/18 (Thu) 03:35:52


         *「光明道中記」(10月18日 愛憎を捨てる日)より

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。
(『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、いろいろの分別が胸に候間、胸のうちにいろいろに動き候。
止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候
(まじくそうろう)。若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば受流す
べけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、弓を取る手に心が止まらば、九百九十九の手は皆、
用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

           <感謝合掌 平成30年10月18日 頓首再拝>

《欲しい》と《たい》を捨てる - 伝統

2018/10/31 (Wed) 04:17:45


        *「光明道中記」(10月20日 「欲しい」を捨てる日)より

【自分を本当に愛する事が出来る者は、本当に隣人を愛する事が出来る。
                          (『生命の實相』第二巻)】

善悪愛憎に捉われると云うことは、
「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」
「見《たい》」「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。

この「《たい》」が心にある間は、その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。

天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、
八つの埃と言っている。

「たい」が心の病気であり、心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。

時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。

すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。

「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、
斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」と
言いますと、「それはあります」と言われる。

その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、生命力が自由を得ないで病気に罹っている。

その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。

           <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>  

【マイナス心理にマイナス行動をとるな】 - 伝統

2018/11/18 (Sun) 03:31:37


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年11月15日)より

   (ひろさちや氏の心に響く言葉より…)

   「マイナス心理にマイナス行動をとるな」。

   そんなモットーを教わった。

   たとえば、タクシーに乗って、運転手の態度にむかっとすることがある。
   腹が立つ。

   それがマイナス心理である。
   だからといって、こちらが乱暴な態度をとってはいけない。

   「なんだ、その態度は!?」と声を荒げたり、バタンとドアを閉める
   といったマイナス行動をとると、いつまでも不快な気分が残ってしまう。

   「そんな場合は、少し高めのチップを運転手にやって、
   “ありがとう”と言って降りる。相手は“おやっ?”といった顔をしますよ。
   そうすると、こちらの気分が爽快(そうかい)になります。
   それが、マイナス心理を消す秘訣ですよ」

   そんなふうに言われた。

   早速、わたしも実践してみたが、なるほど効き目があった。


   仏教の開祖の釈迦は、こんなふうに言っておられる。

   「悟りを開いた聖者も悟りを開いていない凡夫も、ともに第一の矢を受ける。
   しかし、凡夫はその第一の矢につづいて第二の矢を受けるが、
   聖者は第二の矢を受けない」


   人に足を踏まれたとき、「痛い!」と感じる。
   あるいは、美しい花を見て「きれいだ!」と思う。

   それが第一の矢である。

   聖者にしても「痛い」「美しい」と思うのだ。
   その点では、聖者と凡夫に変わりはない。


   しかし凡夫は、その第一の矢につづけて第二の矢を受ける。

   「なぜ、俺の足を踏んだのだ。あやまれ!」と腹をたてつづけ、
   ときには仕返しを考えたりする。

   それが第二の矢だ。

   あるいは、美しい花をつんで、わが家に持ち帰ろうとする。

   それも第二の矢だ。

   そして聖者は、凡夫と違って第二の矢を受けない。


   マイナス心理にマイナス行動をとるな…ということは、
   釈迦の言われた第一の矢と第二の矢の教えと同じものだと思う。

         <『捨てちゃえ、捨てちゃえ』PHP研究所>

               ・・・

二人の若い禅僧の話がある。

あるとき、二人の若い禅僧が川を渡ろうと岸に来た時、
一人の若い女性が向う岸に渡れなくて困っていた。

すると見かねた一人の禅僧が、さっさと女性を背負い、
向う岸に渡って下ろし、何事もなかったようにまた歩き始めた。

その一部始終を見ていたもう一人の禅僧が、
「お前は修業中の身として、女性を背負ったりして恥ずかしくないのか」となじった。

すると、女性を助けた禅僧は、
「お前はまだあの女性を背負っているのか」と答えたという。


「放下著(ほうげしゃく)」という禅語がある。

こだわりを捨ててしまえ、放り投げろということだ。
我々は、色々なものを後生大事に抱え込んでしまう。


まさに、第一の矢がそれだ。

マイナス心理がわき起こったとき、それにいつまでもこだわっていると、
第二の矢というマイナス行動が生まれてしまう。

「こだわり」「しがらみ」「嫉妬(しっと)」
「妬(ねた)み」「恨(うら)み」「怒り」「憎しみ」などの感情を手放すこと。


五日市剛氏は、その負の連鎖を断ち切るには、「ありがとう」と言うといいという。

マイナス心理にマイナス行動をとらない人でありたい。

           <感謝合掌 平成30年11月18日 頓首再拝>

囚(とら)われない - 伝統

2018/11/24 (Sat) 04:26:46


       光明道中記」(11月24日 あとに苦味の残らぬ日)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。
                   (『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。
先生でも人間が嫌いになることがあるのですかと言われると、仕方がない。

降参するほかはない。
実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、
やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、熱いものは熱いと感ずるし、
快いものは快いし、不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云うのだったら
私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、そうかも知れない。
ただ常人は一度熱いと執したら冷たい膾(なます)でも熱いと囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

          <感謝合掌 平成30年11月24日 頓首再拝>

迷ったら手放せ。 - 伝統

2018/12/10 (Mon) 03:57:53


      *メルマガ「テネモス通信」(2018.12.08)より

普通は、問題にぶつかったり、悩んだら、
解決するべく、努力するというのが、好ましい方法と思われているでしょう。

実際に、頑張れば何となってしまう問題も経験しているし、みています。


でも、どうしても、どうにもならないというときに、
全てを手放して、生命そのもののはたらきに身をゆだねてしまうと、
上手くいってしまうということ、

もしかして、経験されていませんか。


そうなんですよね。

ここにも、大自然の、宇宙の法則が活きています。

というか、宇宙の法則が効いていない処など無いわけですから、

たったひとつから観るということの応用力は、無限大です。


テネモスの創設者、飯島秀行は、無類のラジコン飛行機好きでした。

幼稚園に入る頃から、飛行機を作って飛ばしていたそうです。

小学生時代には、大人にも教えていたほど。

学校をさぼって、自宅のトイレで飛行機作りをしていて、

母親にみつかって・・・なんて話は、講演会でも聞かれたことがあるかもしれません。


そんな彼ですから、もちろん飛行機の操縦免許も取得して、
実際に飛ぶという体験もしています。

自ら操縦する飛行機での遊覧飛行デートに誘ったというロマンチストな面もあったとか。



飯島さんのつくるラジコン飛行機は、
スローフライトで、通常では考えられない飛び方をします。

トンボのように、空中でとまったり、進んだり、
動画をユーチューブなどで観たことがあるかもしれません。

不思議に思うかもしれないけど、
トンボと同じメカニズムで作ってあるなら、不思議でもなんでもありませんよね。

今はまだ、トンボの飛んでいる仕組みがよくわかっていないから、
不思議に思っているだけです。



そんな飯島さんのつくった飛行機を、一度だけ操縦させてもらったことがあります。

その時、操縦するアドバイスとして、

「コントロールが効かなくなったり、上手く操縦できないと思ったら、
 コントローラーから手を放しなさい」

と言われたんですね。


(えっ! そうなの? 大丈夫なの?)と思いますよね。


「どんなに強風でも、飛び損ねた鳥は見たことないでしょ。
 翼に風をうけると、振動が起こって、浮かび上がるようにできているからなんだ。

 同じように作った翼の飛行機も、同じさ。

 手を離せば、勝手に態勢を整える。さぁやってみな。」


と、手渡された操縦機をもって飛ばした感覚は、今でも忘れません。

そして今、その実感が、法則の気づきを助けてくれます。


そうか! 宇宙は、すべてを完全完璧につくってあるんだ!!

だって無限宇宙は、完全完璧そのものでしょ。

その完全完璧が生み出したものだから、完璧なんだ。

鳥だってそうだ、大風のときでも、羽を広げれば、地面にたたきつけられることはなく、
自然と浮かび上がってしまう、翼の構造をもたされているんだ。



そうか!

ということは、人間も、宇宙が生み出した完全完璧な存在。

悩んだときは、全てを手放して、ゆだねていけば、たたきつけられるようなことはなく、
自然と立ち上がっていけるんだ。


あれがいいとか、これがいいとか、思い込みをつかんで執着している分、

飛び方が、生き方が、不自然になって、墜落しそうになるんだな。


『 迷ったら手放せ。』


こんな気づきをいただいた師走のはじまりでした。

ありがとうございます。

すてきな年末をお過ごしください。

<参考>

飯島式ラジコン飛行機①
https://www.youtube.com/watch?v=dbkOZ0tkG8w


飯島式ラジコン飛行機②
https://www.youtube.com/watch?v=NbPCm0FZP28

          <感謝合掌 平成30年12月10日 頓首再拝>

「釈(ゆる)す」は「放つ」である - 伝統

2018/12/27 (Thu) 03:55:56


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より

それは食物に関係して起こるというのは物質科学の解釈であるが、
同一家族にして同一食物を摂(と)りながら、一人は便秘し一人は下痢する
という場合において考えるならば、
それはたんに食物を変更するだけでは治療せしめないのである。

フロイド流の精神分析によれば、それが肛門に関係した疾患であるから、
すぐに幼児期の性欲に連関して解釈しようとするのであるが、
そうすべてを汎性欲論で片づけてしまうべきではないのである。

便秘は肉体の心の影という方面から分析してゆくならば、
あらゆる種類のものを失うことに対する恐怖が具象化したものだ
と言うことができるのである。

金銭の喪失に対する恐怖、友を失う恐怖、愛情を失う恐怖、
・・・等のごときはそれである。
これを一言(いちごん)にして言えば「把(つか)む」こころである。

把(つか)んで放たない心であるから、まず心を放下することを、
何物にも引っかからず、ゆったりと緊張を解く心に誘導すべきである。

恐怖はすべて把む心である。溺れるものは藁をも把む。

恐怖すれば手に汗を握る。(握るは把むである。)
すべての心が元であって、恐怖する念が起これば
全身にその形があらわれるのである。

血管は収縮し、皮膚は収縮して肌(はだ)に粟(あわ)を生ずる。
心臓も急激頻繁に把むがゆえに、その鼓動を増加し、
血圧は高まり、時として狭心症を生ずるのである。

かくて恐怖する者は直腸も肛門を収縮して「尻(けつ)の穴の狭い者」となり、
排便しえない状態になるのである。


われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈(ゆる)す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。

他(ひと)を釈(ゆる)すことのできない者は「尻(けつ)の穴の狭い者」であり、
他(ひと)を害する心あるがゆえに、自分自身をも他(ひと)から害される
恐怖があるのである。

かくて内臓も筋肉もすべてみずから把(つか)むことによって
硬化し萎縮してしまうのである。

それを癒す道は、症状に対して直接的には
「人間は神の子であるから、害されるものではない。
われ便通によって生きず、神の生命(いのち)によって生くるなり」と
大らかな気持ちになって心から便秘を放つのである。

そして間接的にはもっと根本的には、
ゆたかに愛しゆたかに釈(ゆる)す念(こころ)を起こすことである。

いやしくも人を釈(ゆる)さず、やっつけてやろうというような考えを
起してはならないのである。

他(ひと)を傷つける心は自分を傷つけ、
他(ひと)を愛する心は自分を愛することになるのである。

            <感謝合掌 平成30年12月27日 頓首再拝>

むすんでひらいて - 伝統

2019/01/17 (Thu) 04:11:56


     *「すべては今のためにあったこと」中山靖雄・著(P128~131)より


   つかんだものは放しましょう。
   それがいいものであっても、
   結んだ手を開くことで
   次の縁をつかめます。


みたまどおり生きるコツは「頭からっぽ、心なし」です。
その時、その場、その名のとおりの人になるということです。

生きている間は、なかなか「頭からっぽ」や「心なし」にするのは難しいのですが、
「何も考えていない時」は、自然の流れに添いやすいのです。
逆に考えている時は、心で何かをつかもうとして、自然の流れを止めてしまいます。

やっと自然の流れに乗ったと思ったら、またまた「頭」で考え、「心」はもっともっとと、
求めてしまったりと、人はだんだん良い方向へいきたくなってしまうものです。
こうしてまた、流れを止めてしまうので、自然に生きるには「頭からっぽ、心なし」で
い続けるのが大切なのです。

しかし、このような上昇志向があるからこそ、人類は発展してきたというのも事実です。
大切なのは、「こんなふうに思ってはいけない」とも、思わないことです。
それも頭で考えていることだからです。

難しいことですが、「『頭からっぽ、心なし』にしないと、ダメだ」とも
思わないということなのです。
ダメだと思うことも心がいっぱいの状態なのですね。


「むすんでひらいて」という童謡があります。
この歌のように「むすんでひらいて」が大切です。


   むすんで ひらいて
   手をうって むすんで
   またひらいて 手をうって
   その手を 上に


これは、「結んだら開きなさい」ということを教えてくれていると思うのです。
つまり、つかんだら、放しなさい。これが「頭からっぽ、心なし」です。

「むすんで ひらいて」でつかんものを放したら、
「手をうって」で、手を叩いて、喜ぶということです。

しかし、「手をうって むすんで」というように、喜んでも、またすぐつかんでしまう。
「またひらいて 手をうって」と繰り返したら、最後は「その手を 上に」で、
すべてを手放して、万歳をします。

これは、手放せばすべて天が教えてくれるよ、天に万歳! ということなのです。

これが「むすんでひらいて」の教えです。


いいものがあると、つかんでしまう。
でも、それを結んだら開きなさい。
開いたら違うものが結べるよ、違う縁に出会えるよ、ということです。

つかんだままだと、次の縁をつかまないで終わってしまいます。

このように、結んで、開いて、めくるめく縁を味わって、
最後は万歳で嬉しい一生だったということになる。

心から無邪気に自由にしておけば、天本来のものに出会えるということですね。

            <感謝合掌 平成31年1月17日 頓首再拝>

《自分の立場を捨てること》 - 伝統

2019/02/05 (Tue) 04:27:42


           *「光明法語」(2月5日)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。

            <感謝合掌 平成31年2月5日 頓首再拝>

とげとげしい心を捨てる - 伝統

2019/02/15 (Fri) 04:32:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月15日)」より

どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。
人に嫌われるのは心に棘があるからである。

これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというような人は、
これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろうと、
みずから疑うバラの花のようなものである。

とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、
その一つ一つを抑えようとしてもなかなか直るものではない。

まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。
とげとげしい心を捨てるには「とげとげしい心」を
アリとして抑えてもなかなか直るものではない。

暗は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。
暗を消すには光を持ってくるにかぎる。

とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。
「自分は優しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、
その反対の念を自分自身にいって聞かせればよいのである。

            <感謝合掌 平成31年2月15日 頓首再拝>

子供は放つとき、よく生きる - 伝統

2019/02/17 (Sun) 04:31:16


           *「光明道中記」(2月17日 自在を得る日)より抜粋

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。
                        (『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。執を縛(ばく)と言う。
執は一定のところに縛り附けて其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、
子供はその自由を失って病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。

執愛は縛愛(なくあい)であり、
一定の場所に相手を縛りつけて自由を失って了う愛であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、
その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。

子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

            <感謝合掌 平成31年2月17日 頓首再拝>

困難を心から放つ - 伝統

2019/03/24 (Sun) 04:32:49


          *『眞理』(第九巻生活篇)(P153~154)より

困難をつかんではなりません。

困難を困難とみとめてそれと戦ってはなりません。
困難を困難として心につかむとき、
その困難は自分から離れがたいものとなるのです。

心を神の方へ向けなさい。

神と云う「無限の智慧」に心を向けかえて其処から出て来るヒントに従って
素直に事をはこぶとき、どんな困難も完全に克服できるようになるのです。

困難はほっておけば、困難みずからで自壊するのです。

困難を敵として取り組んで、それをつかんで色々と掻き廻すから、
池の中を棒で掻きまわすように益々周囲がにごって来るのです。

池の水を澄ます途(みち)は池の水を掻き廻さないことにあるのです。
自分が困難を克服することは要らないのです。
神が困難を克服したまうのです。

私達はただ神の指示するままに従っておれば好いのです。

神は無限の智慧であります。
無限の智慧をわがものとしなさい。

            <感謝合掌 平成31年3月24日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2019/04/23 (Tue) 03:44:05


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、

なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。

かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>

悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出る - 伝統

2019/05/11 (Sat) 04:31:13


         *「光明法語」(5月11日《喜びの青空に出る道》)より

海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。

墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。

今有(も)てる何物かを失った時には、それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。

かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。

神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。

            <感謝合掌 令和元年5月11日 頓首再拝>

「喜捨」(きしゃ) - 伝統

2019/06/07 (Fri) 04:26:33


      *Web:伊勢ー白山 道(2019-05-11 )より要点の抜粋


(1)喜捨=喜んで捨てる、のは自分自身の執着心です。
   金銭や財産を捨てろ、では無いのです。


(2)自分の一番大切なものを「失くした」(天に喜捨した)と想像をするだけでも、
   執着心が正されて、正しく、公平に、ソレを大切にすることが出来るのです。


(3)誰もが、裸でアノ世に一人で行くことになります。

   それに備えて、普段からの想像だけでの喜捨が大切なのです。

https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/104e6d2caec70f5a4969ef36fa5c88e7

           <感謝合掌 令和元年6月7日 頓首再拝>

放つということ - 伝統

2019/06/27 (Thu) 04:44:12


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月27日)より

一度放(はな)してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無(む)」を握っている。

なんにも無いということは「一切が常にある」ということを知ることである。
「《一つだけ》がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

            <感謝合掌 令和元年6月27日 頓首再拝>

功徳を求める心を放つ - 伝統

2019/07/03 (Wed) 04:44:24


          *「光明道中記」(7月3日 無限功徳ある日)より

【娑婆本来無いから、娑婆にいながら寂光土にいるのだ。(「生命の實相」第十一巻)】

梁(りょう)の武帝は達磨大師から、今まで自分の行(おこな)って来た供養が、
「無功徳!! 」だとの喝を受けて、自分の倚(よ)って立っていた真理が
くだけた気がして寂しくて耐(た)まらなかった。 

それでは何が最も功徳ある真理だろうか、それが聴きたい。
そこで、「いかなるかこれ聖諦(しょうたい)第一義? 」とたずねたのである。
それでは何が第一義の聖(とうと)き真理でございましょうかと云うほどの意味である。

達磨の答は意表に出(いで)た。
「廓然無聖(かくねんむしょう)」と彼は言ったと、「碧巌録」に書いてある。
聖(しょう)は「悟りの真理」と云うことである。

「聖(とうと)い悟りの真理なんて、そんなものはないのだ」と云う一喝なのだ。

《これが》真理だ、《これが》功徳だなどと言っているものには、
功徳を先ず打消し、真理さえも打消してしまうところに、
本当の真理があらわれて来るのである。

一つのものを指(ゆびさ)して、「《これが》」と言ったとき、
指(ゆびさ)すことの出来ない大地に充(み)つる宏大な真理が
くらまされてしまうのである。

達磨が「廓然無聖(かくねんむしょう)」と言って
聖諦(さとりのしんり)を否定して了(しま)ったとき、
却って其処に天地に満つる宏大無辺な真理が肯定されているのである。

            <感謝合掌 令和元年7月3日 頓首再拝>

執着を脱して始めて自由 - 伝統

2019/07/06 (Sat) 04:13:42


         *「光明法語」(7月6日)より

「我はいと勝(すぐ)れた者である。一切のものに執着しない。
慈愛(じあい)悉(ことごと)く解脱してみずから覚(さと)る」。

これは釈迦が菩提樹下で悟りを開いて
いと静かに鹿野苑(ろくやおん)の方へ歩まれた時、
異学の優陀(うだ)と云う者が、釈迦の容貌気色清浄(ようぼうけしきせいじょう)
妙(たえ)にして面光照りわたりたるを見て訊ねた時に答え給うた言葉の一節である。

「われはいとすぐれたる者だ」とみずから宣言せられたのであるが、
その何がいと優れたる者であると云うと、

一切のものに執着しない事、
あらゆる愛を盡(ことごと)く解脱していることであった。

            <感謝合掌 令和元年7月6日 頓首再拝>

《すべての事物は結局は最善の結果へ向かう》 - 伝統

2019/07/25 (Thu) 04:42:41


       *『 生長の家 』(昭和25年5月18日の法語)より

   もし吾々がここが神の世界であり、
   凡ゆるものが自分を祝福するために
   共同作用を営みつつあるものだということがわかるならば、

   吾々は 現在目の前に進行している出来事が
   どんな不幸の様に見えても
   それについて思い煩う必要はないのである。

   もし吾が心の平安が害(そこな)われるということがあるならば、
   その瞬間ふりかえりて光明面に心を転じさえすればいいのである。

   それには
   「 すべてのものは 共同作用を営みつつ 吾が善を成就しつつあるのである 」
   と繰り返し繰り返し心に念ずるがいいのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 令和元年7月25日 頓首再拝>

一つの形に執しない - 伝統

2019/08/22 (Thu) 04:17:15


        *「光明法語」(8月21日~22日)より

神は五感も六感も超越せり

「神は五感を超越している、六感も超越している」と『甘露の法雨』は説く。
五感とは眼耳鼻舌身の五つの感覚である。

感覚そのもでは神はわからないが感覚を契機として、
感覚以上のものに超入することは出来るのである。

感覚を通して天地万物、生理作用等の秩序整然たる運行等を見て、
その奥に神あると悟るは是甚(これはなは)だよしである。

六感とは霊眼、霊聴、霊臭、霊味、霊触の如きものであって、
普通の感覚器官以外の方法にて、視、聴き、嗅ぎ、味わい、触覚する如きものである。

・・・

無相にして無限相

霊眼で白髪の老翁の神姿(かみのすがた)を見たとか、
霊触で神の衣に触れたとか云う如きを六感と言うのでるが、
これは神そのものを見たのではなく、神の化身(けしん)を見たに過ぎない。

神は、かくの如き六感を超えた存在であり、相(すがた)形(かたち)なくして、
一切の相(すがた)を現ずるのである。

これを無相にして無限相と呼ぶ。

吾々も神の自己顕現である以上、
無相にして無限相を顕ずる事を心掛けなければならない。

無相とは一つの形に執しない事である。
一切の形式を心から放って自由自在になる事である。

            <感謝合掌 令和元年8月22日 頓首再拝>

個人個人の自由を縛るなかれ - 伝統

2019/09/24 (Tue) 04:20:11


        *「光明法語」(9月24日《真の愛は放つ》)より

真の愛は放つということである。
そのものの生命(いのち)のままにそのものを行かしめることである。

朝顔の蔓(つる)に牡丹の花を咲かせようとすることではない。
小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、
自分の子供を放つと云うことである。


個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。

個人個人の自由を縛るのは、
神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。

それは個人に対する冒涜であるばかりでなく、
神の創造のみわざに対する冒涜である。

           <感謝合掌 令和元年9月24日 頓首再拝>

愛憎を放つ - 伝統

2019/10/17 (Thu) 02:35:41


    *「光明道中記」(10月17日《愛憎を超える日》)より

【真に人を救う道は無我の愛にて相手を目覚めさせるにある。
                   (『生命の實相』第二巻)】

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は
元の兵来たって彼を斬ろうとした時平然として
「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」と
一喝を諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って斬ろうとしたとき
平然として首をさし伸べたが三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。
囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。

           <感謝合掌 令和元年10月17日 頓首再拝>

放てば自由自在 - 伝統

2019/10/18 (Fri) 02:43:24


    *「光明道中記」(10月18日《愛憎を捨てる日》)より 

【ひらいた掌(てのひら)だけが新しいものを掴むことが出来る。
                   (『生命の實相』第十一巻)】

沢庵禅師が柳生但馬守と試合(たちあ)ったとき、
沢庵禅師に少しも隙がなかったが、
禅師が柳生但馬守に授けられた『不動智神妙録』と云うのがある。

それには和解が必勝の道であると云うことが書いてあるのである。
和解と云うのは愛憎に囚われない道であるから同時に必勝の道となるのである。

『不動智神妙録』の一節に

「物に心が止(とどま)り候へば、
いろいろの分別が胸に候間、胸のうちにいろいろに動き候。
止まれば止まる心は動きても、うごかぬにて候。

たとへば十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、
一太刀を受流して跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾ひ候はば、
十人ながらへ働きを欠かさぬにて候。

十人十度、心は働けども、一人にも心を止めずば、
次第に取合ひて、働きは欠け申す間敷候(まじくそうろう)。
若し又、一人の前に心が止まり候はば、一人の打つ太刀をば受流す
べけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべく候。

千手観音とて、手が千御入(おい)り候ば、
弓を取る手に心が止まらば、九百九十九の手は皆、
用に立ち申す間敷(まじく)候。・・・」

心が一つ物に囚えられたなら、
千本手があっても他の手がお留守になって自由自在を失う。

           <感謝合掌 令和元年10月18日 頓首再拝>

善悪愛憎を放つ - 伝統

2019/10/19 (Sat) 04:29:13


          *「光明道中記」(10月19日《心配のなくなる日》)より 

【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。(『生命の實相』第十二巻)】


「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、那箇(いかん)かこれ
明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。

善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かんと言っている間は通力を
失った状態であるから本当の大善は出て来ないのである。

「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が
多く肺病にかかって血を喀(は)いたりするのである。

善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。

「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。

「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。

心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。

血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。

           <感謝合掌 令和元年10月19日 頓首再拝>

求める心を放下する - 伝統

2019/10/30 (Wed) 04:35:12


    *「光明道中記」(10月30日《求むるに先立ちて財宝集る日》)より 


【結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。
 よき果を結ぶのは結果を求めない愛ばかりである。(『生命の實相』第一巻)】

「求めよ、さらば得られん」これは第一段階である。
「神は求むるに先立ちて必需物を知りたまう」これは第二段階である。

更に進んでは「知り給う」も「与え給う」も、
そんな「求めるもの」を私事に予想する心が
なくなってしまわなければならないのである。

ただ神”のみ”がましますのである。
神は大慈である。
ただ大慈”のみ”がましますのである。

今更何を求めよう。

ただ、神の中へ溶け込むことのみをこそ求めなければならないのである。
溶け込むとは固まりがなくなることである。
「我」の求めがなくなることである。

偉くなり、富を得たい、光栄を得たい、すべての野心、野心がとげられない悲しみ、
一切の怒り、不安、恐怖、呪詛(のろい)、之(これ)らすべてのものを放下せよ。
真に神の神意でありますようにと祈れ。

おお! その中にこそ全てがあるものを。

神を、聾(つんぼ)扱いしてはならぬ。
大声で怒鳴らなければ聞こえない者だと思ってはならない。
注文をして置かなければ、神はこの問題を忘れ給うかも知れぬと思うな。

           <感謝合掌 令和元年10月30日 頓首再拝>

健康に捉われない - 伝統

2019/11/14 (Thu) 04:54:04


        *「光明道中記」(11月14日《執着が無くなる日》)より

【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
                       (『生命の實相』第九巻)】

下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。

「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。

実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。

そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。

凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。

されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。

けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と
切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。

          <感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>

病不病を離れる - 伝統

2019/11/16 (Sat) 04:49:06


          *「光明道中記」(11月16日《自在無礙の日》)より

【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】

秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が赤痢に罹ったときの
心境と生活態度を時々話して感嘆せられてものであった。

「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。

私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。と云うと、
『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』と小さい声で言って居った。

ナカナカそんな本など見て居れる時ではないは、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」


秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。

見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。

若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。

          <感謝合掌 令和元年11月16日 頓首再拝>

湧き出た思いを、痕に残さない - 伝統

2019/11/24 (Sun) 04:58:34


    *「光明道中記」(11月24日《あとに苦味の残らぬ日》)より

【過去を捉えて離さないのは自分の心である。
 過去の過(あやまち)を消す極意は過去から心を放つにある。
                     (『生命の實相』第一巻)】

人間が時々好きになったり、嫌いになったりすることがある。
嫌いになるのは人間の実相が晦(くら)まされているときである。
先生でも人間が嫌いになることがあるのですかと言われると、仕方がない。

降参するほかはない。
実際人間がたまらなく嫌いになることがあるので、掛値は言わない。
偉がろうとも思っていない。

解からない人間は耐(たま)らなく嫌いであり、
虫の好すぎる人間もたまらない。
功績を鼻にかける人間も耐(たま)らない。

先生でもそんなに好き嫌いがあるのですかと言われると、
やっぱり、冷たいものは冷たく感ずるし、熱いものは熱いと感ずるし、
快いものは快いし、不快なものは不快だと言うほかはない。

冷たいものが熱く感じられたり、熱いものが冷たく感じられたり、
下手な音楽が上手だと感じられたりしなければ悟でないと云うのだったら
私はもう悟は御免を蒙(こうむ)りたい。

先生それでは先生は常人と同じではありませんかと言われれば、
そうかも知れない。

ただ常人は一度熱いと執したら
冷たい膾(なます)でも熱いと囚(とら)われるが、
私が異(ちが)うのはただ痕(あと)がのこらないことである。

          <感謝合掌 令和元年11月24日 頓首再拝>

【自分を捨てるということ】 - 伝統

2019/12/11 (Wed) 04:30:05


      *メルマガ「人の心に灯をともす」( 2019年11月26日)より

   (石川洋氏の心に響く言葉より…)

   かつて遠州知波田村(ちばたむら)に農協の破産があった。
   後任組合長がなく、いつになっても立ち直らなかったのだ。

   困りはてた末、人もあろうに、非農家で、
   しかも肺病で寝ている木村市郎氏に懇願した。

   木村市郎氏は、湖西市名誉市民第一号として慕われ、一燈園の仲間だった。

   彼は村人の誠意にこたえ3つの条件を示した。

   (1)「節約の実行」

      冠婚葬祭の大改善をはじめとする強硬な要求だった。
      木村氏は代表者の受諾だけでは承知されず、
      組合員の総意を求められた。

      総会を開き実行を誓約した。

   (2)「組合長になっても、一切出席しないこと」

      これには村人も組合員も驚いた。

      短気な人は、「馬鹿にしている、こんな人に頼むな」と言ったが、
      他に人はいないし、

      「それでよい、わからんことは枕頭に聞きに行けばよい」と、
      第二条を承知した。

      人々は第3条を恐れた。

      病床の木村氏は、2ヵ条を村の人がのんだことについて
      深く感銘を受け、第3条を示した。


   (3)「自己(木村氏)の所有する田畑、山林、家屋敷を
      一切農協に寄付するから、即日登記すること」

      代表者は愕然とした。

      「それだけは絶対に止めていただきたい」と申し出たところ、
      木村氏は「それでは組合長は辞退する」と言われる。

      この決意を聞いた組合員は、
      全員が泣いて先生に感謝し、一致協力、組合の再起を誓った。



   「おそれなきを施す」という自戒の言葉がある。

   ① 夜道がこわい(命がおしいからだ)

   ② 病気がおそろしい(幸せすぎるからだ)

   ③ 家業が心配だ(欲が深いからだ)

   ④ おせじが言いたい(よく思われたいからだ)

   ⑤ 縁起(吉凶の前触れ)が思える(自分だけが幸せになりたいからだ)

   ⑥ 目上の人がおそろしい(出世がしたいからだ)

   ⑦ 同僚を疑う(自己の誠心が足りないからだ)


   最後まで尾を下げることのできない、
   大狐(たいこ)の厳しい自己内省ではないだろうか。

   責任ある立場に置かれている人は少なくともどこかで
   「自分を捨てるもの」を持たなければならないのだ。

   富士の裾野がいかに広大であっても、多くの人を生かし、
   感動せしめるものがなくてはならない。

   むしろ裾野をあてにするのではなく、
   一人の人間としての裸性を厳しく見つめ、
   「おそれなきもの」を自得する必要があるのではないだろうか。


   西田天香さんは、

   「得んとする者は亡び、捧ぐる者は残る」

   と言われている。

   何が亡びに至る道であり、何が残る道であるか、
   責任のある立場の人は捨身の体験の大切さに
   気づかなければならないのである。
  
        <『ありがとう宣言』勉誠出版>

           ・・・

人物を見るには、その人の「出処進退」を見よ、という。

出処進退の「出」とは、地位につくことであり、
「処」とは地位につかないこと。

「進退」は、身の処し方であり、役職や地位を辞めるときの態度のこと。


地位に恋々とするのではなく、
役職を辞する時の身の処し方、鮮やかさが大事だといわれるが、
同時に、役職や地位に就くときもその私心のなさが問われる。

まさに「公」のため、火中の栗を拾わなければならないようなことを
頼まれたときの身の処し方だ。

私心のなさとは、「自分をいかに捨てることができるか」。


「捨てて」という短い詩がある。(ほほえみ読本)より


どんな大事なものでも

荷物はみんな捨ててください

自分のからだも捨てるんですよ

《三途(さんず)の川の番人のことば》



どんなにお金を稼ごうが

どんなに綺麗で美しいスタイルであろうが

どんなに知識があって頭がよかろうが

どんなに地位が高くて栄耀栄華を極めようが

三途の川を渡るときは全部捨てていかなければならない。



『責任ある立場に置かれている人は少なくともどこかで
「自分を捨てるもの」を持たなければならない』

肚を決め、覚悟を決める…

自分を捨てる勇気のある人でありたい。

          <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>

愛するとは放つこと - 伝統

2019/12/25 (Wed) 04:01:29


         *「光明法語」(12月25日《良人を愛するには》)より

良人を愛するつもりで、良人の欠点を出来るだけ探して、
それを是正しようと思ったり良人のすることが何だか危なかしくて、
色々注意を与えたりする人があるが、絶えず夫人より批判されていると云う事は
良人にとって好い気持ちなものではない。

愛され過ぎている総領息子が身体が弱くて神経質になると同じで、
良人も度々神経質になり癇癪持になり、遂には、ただ無批判でついて来る女性を求め、
妻以外に女性を求めることにもなる。

愛するとは放つことである。

          <感謝合掌 令和元年12月25日 頓首再拝>

明日には明日の風が吹く - 伝統

2020/01/15 (Wed) 04:40:25


           *『女性の幸福365章』(P161)より

不安、恐怖、嫉妬、憎悪、怨恨、呪詛……等は人間の心を切りきざむ。
従って容貌をも切りきざんで速かにその人を老人に変貌するのである。
不快な事柄に自分の心をいつまでも引っかけて置いてはならないのである。

以上に挙げたような自分の心を切り刻む感情を常に放ち去り、
そのような感情を起す原因となった事柄を心の中から捨て去るがよいのである。

よくよく考えてみれば、どうでもよいような瑣細なことに
心を引っかからせてはならないのである。

一切の悪を、瑣細な心労を放ち去れ、放ち去れ。



悲しい出来事が起こったら、それを心から放ち去れ。

くよくよと思い煩ってみたところがその出来事が消える訳ではないのである。
くよくよ思い煩うことによって、一つの悲しみも心の中で醸成され
醗酵して幾十倍にもふくれ上ることになるのである。

“悲しみはその事件の起った一日にして足れり”である。

“明日には明日の風が吹く”のである。

悪しき事件は、よくなることの前駆として出て来ることがあるのである。

「悪」に低徊して心を悩ましてはならない。
心を悩ましたとき貴方の容貌は大急ぎで老衰の皺をきざむのである。

          <感謝合掌 令和2年1月15日 頓首再拝> 

《自由を得るには自由を与えよ》 - 伝統

2020/01/28 (Tue) 05:01:29


        *『真理』第九巻生活篇(P265~266)より

「与えよ、さらば与えられん」は吾らが「心の自由」を求める場合にも、
矢張り当て嵌(は)まるのである。

自分自身の「心の自由」は、相手を縛ってやろうと考えている限りは得られない。
他(た)を縛る心は先ず自分自身を縛ることになります。

他(た)を自由に解放してのみ自分自身が「心の自由」を得るのであります。
他(た)を自分の尺度で批判してはいけません。
それは他(た)を自分の尺度で縛ることになります。

他(た)に対して自分の考え通りに「こうあって欲しい」と考えてはいけません。
彼には「彼みずからの如くになれ」と考えねばなりません。

人それぞれに神から与えられたところのその時その場の役目があります。
「彼が彼の割り当てられた、神の御心にかなうような正しい生活に導かれますように」
と愛の心で祈ることはよいことです。

          <感謝合掌 令和2年1月28日 頓首再拝> 

《自分の立場を捨てること》 - 伝統

2020/02/05 (Wed) 02:24:41


           *「光明法語」(2月5日)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。

          <感謝合掌 令和2年2月5日 頓首再拝> 

自在を得る日  - 伝統

2020/02/17 (Mon) 04:51:59


           *「光明道中記」(2月17日)より

【一つのものにでも執(しゅう)したら、苦しみは其処から始まる。
                     (『生命の實相』第十一巻)】
 
解脱を仏と言う。解脱とは執なきを言う。
執のなきを自在と言う。執を縛(ばく)と言う。
執は一定のところに縛り附けて其の自由を奪って了(しま)うからである。
 
子供に執すれば、子供はその自由を失って病気に罹ったり成績が悪くなったりするであろう。
執愛は縛愛(なくあい)であり、一定の場所に相手を縛りつけて自由を失って了う愛
であるからである。
 
子を愛する者は、子を《よく》放たねばならぬ。
小鳥を愛する者は小鳥を《よく》放たねばならぬ。

小鳥を愛すると称して籠の中につなぎとめて置くとき、その小鳥は永生きしないであろう。
放たれてこそ、小鳥はその生命の自由を発揮して健全なるを得るのである。
子も亦斯くの如くよく放つとき、よく生きる。

「愛」を釈迦は煩悩のうちに数えた。
愛をキリストは神性のうちに数えた。
愛は煩悩より出でて神性にまで昇るものである。
愛は神性より出でて煩悩にまで墜落するものである。
 
愛が愛である使命を果たすには智慧に導かれねばならぬ。

          <感謝合掌 令和2年2月17日 頓首再拝>  

《解放の最初のそして最後の鍵》 - 伝統

2020/03/15 (Sun) 03:35:42


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P48)より

時代は大きく転回しつつあるのです。
物質の力は原子力の開発によって全人類が死滅するか否かの
最期の土壇場まで来たのであります。

もう物質だけでは救われる道はない。
全人類の精神が転換しなければならないのであります。

その方向転換は物質の方から霊の方向へです。

物質を「死」の方向に用いるか、「生」の方向へ用いるかは
人間自身が「霊」の方向へ振り向き、利己主義を去り、
人類は「唯(ただ)一つの神」の子だと云う自覚に
目覚めなければならないのであります。

「解放」と云うことが叫ばれていますが、「物質」に究極の力があると
云うことを認めている間は、人間は「物質」の奴隷であって
最後の解放を得たと言うことはできないのであります。

先ず最初の最後の人類解放の鍵は全人類が悉く霊であると知る事です。

物質を支配する霊人を、超人を、私たちは求める。

          <感謝合掌 令和2年3月15日 頓首再拝>  

【人生を楽しむには執着を捨てること】 - 伝統

2020/03/26 (Thu) 02:54:10


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.03.24)より

   (江原啓之(ひろゆき)氏の心に響く言葉より…)

   私が今回この本の中にいちばん込めたいことは、人生賛歌です。

   何においても楽しむということがすごく大事です。

   失敗もすべては成功のもと。

   失えば得るものがあり、得れば失うものがある。
   《失う、得る》ということの繰り返しなのです。

   それを楽しんで受け止めていく姿勢をつくることが大事だと申し上げたいのです。


   特に物質的なものは、得たら縛られる。
   失ったら自由を得ます。


   私もいろんなところで陰口を言われます。

   スピリチュアル・カウンセラーとして有名になって、
   一世を風靡(ふうび)しているように見えるでしょう。

   いまの立場にしがみついて執着して、自分だけで独り占めしている。
   そんなことを同業者から言われたりもします。

   インターネットで意地悪な書き込みなどをされることもあります。

   ところが当の私には、しがみつきたいという意思はこれっぽっちもないのです。

   いままでもそうでした。

   得て失って…、そいういうことはしょっちゅうやっています。


   あるとき誰もが私の存在をすっかり忘れてしまったとしたら、
   それはそれで、『ラッキー!次なる人生あり』と思えると思うんです。

   私は楽しみ上手というか、そもそも勝手な空想をするのが好きなのです。


   語弊(ごへい)があるかもしれませんが、
   職がない、仕事がないという話と一緒です。

   選ぶからないわけで、『こんな仕事もいいかな』と選り好みせずに
   飛び込んでいけば、どんなに不況でも職はあるのです。

   要は、思考する柔軟さが足りないのです。

   私は、そういうバイタリティを持てば人生はもっと楽しめると思っています。
   人生でいいサーフィンができます。

   人生も想像力なのです。


   こんな人生もいい、あんな人生もおもしろい、
   と思える人のほうが絶対に楽しめるわけです。

   そう思えない人たちの問題点は、
   物質主義の権化(ごんげ)になっていることです。

   物質に執着しているために、自由な発想が生まれない。
   たくましく生き抜こうというバイタリティが湧いてこない。


   生まれて、学校へ行って、就職して、
   そうしたら今度は結婚して、結婚したら子どもを持って、
   次にマイホームを持ったり車を持って、
   老後には…などと決めつけているわけです。

   自分は不幸だと思っている人はだいたいそうなのです。

   「美人じゃないので恋人がいません」

   「子どもが欲しいのに妊娠できません」

   「お金がなくて家を買えません」

   などと、ちょっとつまずいただけですぐ、「もう絶望です」となってしまう。


   結局、たましいの想像力や柔軟性というのは、
   「経験」と「感動」の数に比例するのです。

   経験と感動の数の少ない人は、選べるメニューがどうしても少ない。

   反対に、たくさんこなしている人は、
   何があっても「ケ・セラ・セラ」になるんです。

   過去のいろんな経験と感動によって生きるバリエーションを
   いっぱい味わっているので、バランスよくたましいの筋力がついている。

   すると、『これがダメなら、あれもありかな』という思いつきができるのです。

          <『苦難の乗り越え方』PARCO出版>

              ・・・

江原氏は、「執着」について本書の中でこう語っている。

『この世にある苦難、そのおおもとはシンプルに言うと「執着」です。
病気や金銭問題は、苦難の一例でしかありません。

たとえば病気が苦難に思えるのは、元気に飛び回っていたいという執着からです。
「死にたくない」という、この世への執着もあります。

お金のこともそうです。

いつもおいしいものを食べていたい執着。
いいものを着ていたい執着。
いい家に住んでいたい執着。

すべて執着によって作り出されています。』


執着とは、小林正観さん的に言うなら、
「ものごとに良い悪いはない。そう思っているあなたがいるだけ」ということ。

たとえば「会社をリストラされる」ということも、
それがいいことだとか、悪いことだ、という価値観の色はついていない。

なぜなら、「会社をクビになってしまったけど、今までの生き方を見直す
いいきっかけになった、きっと、新しい道を歩めということだな、ありがたい」
と思う人もいれば、

反対に、「最悪だ、こんなときに会社をクビになるなんて、会社をうらんでやる。
まったくツイていない」と思う人もいる。

そう思っているあなたがいるだけ、だからだ。


これは、森羅万象(しんらばんしょう)すべてにおいて同じことが言える。

さまざまな執着を少しずつ捨て、人生を楽しめる人になりたい。

          <感謝合掌 令和2年3月26日 頓首再拝> 

《過去を心から放ち去る祈り》 - 伝統

2020/04/04 (Sat) 01:57:57


       *『 生長の家 』(昭和49年4月4日の法語)より

   【 祈り 】

   【 過去は既に過ぎ去ったのである。過去は既に無いのである。
   それは鳥が飛び去った跡の蒼空(あおぞら)のようなものである。
   私は過去に私に害を与えたすべての人を宥(ゆる)し、
   心から放ち去ったのである。

   私がすべての人の過ちと罪とを宥し去った如く、
   神も私の過去の一切の過ちと罪とを赦し給うて、
   今、私には一点の濁(にご)りもなき清浄潔白な実相があらわれたのである。

   それ故に今後は、私には 善き事、裕(ゆた)かなる事、美しき事、
   調和せる事、幸福なる事のみがあらわれて来るのである。】



   人間は“ 神の子 ”であるから本来自由自在で、
   凝滞(ぎょうたい)なくすべての事物の進行が円満に行われ、
   その希望することは必ず成就するように創造(つくら)れているのである。

   すべての事物の滞(とどこお)りや難航は、
   現象界の事物の動きに、“心”が捉えられ、
   それに“心”が引っかかっていて、
   “心”が自由自在を失ってしまった結果なのである。

   それだから、あなたは、心の中に“過去”を把んでいてはならない。

   神想観を実修して、神の智慧の導きを受け、
   “ 今 ”目前にあらわれている事物に、
   その智慧を集中して、誠をはげみ、

   過去もなく、未来も無く、ただ“今”
   神の智慧と一体となって神と偕に動いていると
   いう自覚の下に、自己の働きを集中するとき、

   自己のはたらきは必ず、神の働きとなり、
   如何なる事物も都合よく すらすらと進捗(しんちょく)する
   ようになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

          <感謝合掌 令和2年4月4日 頓首再拝> 

つかもうとするのをやめると、逆に、幸運が流れ込むのが宇宙の法則 - 伝統

2020/04/20 (Mon) 04:51:49


           *『つかまない生き方』大木ゆきの・著プロローグより 

自己紹介が遅くなりました。

僕はそんなたくさんの「惜しい人たち」が、
幸運を受け取れるように宇宙から送り込まれた
「つかまない妖精のパー君」です。

言っとくけど、パーはバーでも、パッパラパーのパーじゃないからね。
宇宙が与えてくれるラッキーやミラクルを、
グーにしている手を開いてパーにすれば受け取れるよ♪ っていう意味のパー君だから。
そこんとこ、よろしく

グーにしている手をパーにするっていうのは、どういうことかというと、

とらわれない
しがみつかない
期待しない
流れに逆らわない
狙わない
気にしない
コントロールしようとしない
 
ってこと。

これらを総称して「つかまない生き方」って言っているんだ。
 
これまでの人生を振り返ってみて。
 
どうしてもこれだけは手に入れたいと思ったことほど、手に入らなかったんじゃない?
 
それは「つかむ生き方」をしていたからなんだ。

「絶対にこれを手に入れなきゃ幸せになれない」ってこだわり、
しがみつき、躍起になりすぎたがため、手がグーの状態、
つまりエネルギー的には収縮状態になり、受け取る間口が狭まり、
欲しいものが受け取れなくなっていたんだ。
 
せっかく自分を幸せにしようとする情熱を持っているのに、
その情熱の使い道を間違っていたってこと。
 
ってことはつまり、
「つかまない生き方」を心がけることに情熱を傾ければいいんだよ。
 
宇宙からのラッキーやミラクルも、
手がパーになっている状態なら、いくらでも受け取れるから。

多くの人は、この逆転の法則を知らずに今日も空回りしている。
そしてだんだん人生そのものに疲れてしまうんだ。
あなたには絶対にそうなってほしくない。

 僕は知っている。
 あなたは賢い人だ。
 説明すれば、宇宙の法則だってちゃんと理解できる。
 それに、自分を幸せにしたいっていう素晴らしい情熱の持ち主である。

 これから、つかまない生き方をすることによって、
 心の通じる人や素敵な人たちと次々出会い、
 楽しいことをやっているだけなのに、どんどんお金が流れ込み、

 想像さえしなかったミラクルが連続し、
 毎日快適に暮らせるようになり、
 いよいよあなた本来の魅力や才能があふれ出し、
 誰もやっていないようなことにも、
 歓びをもってチャレンジできるようになっていく。

           <感謝合掌 令和2年4月20日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2020/04/23 (Thu) 04:48:54


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、なおいっそうよくないのは、

かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 令和2年4月23日 頓首再拝>

「執着」を手放す - 伝統

2020/05/05 (Tue) 04:36:53


         *『つかまない生き方』大木ゆきの・著(P41~43)より 

執着は極論すると相手に自分を満たしてもらいたいっていう願望なんだよ。
だから、執着は相手を不自由にする。だけど愛はそうじゃない。
逆。相手を満たそうとする優しさなんだよ。

だから愛は相手を自由にする。そんな愛の持ち主に人が寄ってこないわけないだろ。
 
なかなか妖精もいいこと言うだろう♪ へっへっへ。

ということは、相手へのコントロールを手放せば手放すほどいいってことだよね。

相手の幸せを願うだけで、何も求めない。相手の好きにさせる。
そして何らかの接点があったなら、自分にできることは心を込めてする。

決して恩を売るってことじゃないよ。
それだと見返りを期待しているってことだから。
そういう下心もやっぱり伝わってしまう。

だから純粋に心を込めてできることをするだけ。
 
後は自分の好きなことに集中していればいい。
 
そうなると、今度を相手の方があなたのことを思い浮かべただけで、
なんだかホッとしたり、笑顔になれたりする。
 
そうなると相手もあなたに遭いたくなってくるものなんだよ。
顔を見たいなあ、一緒にお茶でも飲みたいなあって思うようになる。
どう見ても嫌われるようなことにならないと思うよ。
 
そしてそこから本当にお付き合いが始まったなら、
相手が本当に自分のことを好きかどうか試したり、
疑ったり、束縛しようとしたりしないこと。
 
自由にさせる。
相変わらず相手の幸せを願う。

かといって相手に気に入られようと頑張って
すごいことをしなくてもいいんだ。
無理をする必要はない。

何かするんなら、本当にしたいと思ったことをするだけでいい。
そして相変わらず何の見返りも期待しない。
 
ただ純粋にあなたの愛を表現するだけ。

お礼のメールが来ないなあとか、
今度は相手も私に何かプレゼントするべきだとか、
そういうものは一切つかまない。

愛は何かを差し出したら、
何かを受け取る決まりになっている契約じゃないんだよ。
 
思い切って、そういうものをつかむのを全部やめてしまえば、
意外にも相手はますますあなたのことが手放せなくなってくる。
コントールも駆け引きも本物の愛には勝てないのさ♪

           <感謝合掌 令和2年5月5日 頓首再拝>

悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出る - 伝統

2020/05/11 (Mon) 04:42:15


       *「光明法語」(5月11日)より
        ~《喜びの青空に出る道》

海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。

墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。

今有(も)てる何物かを失った時には、それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。

かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。

神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。

           <感謝合掌 令和2年5月11日 頓首再拝>

執着を断つ - 伝統

2020/05/20 (Wed) 04:11:40


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020.05.03)より
              ~霊的真実|スピリチュアルで知っておくべき基礎とは

霊的な真実として、私たちが知っておくべき根本とは何でしょうか?

それは、私たちは肉体が本質ではなくて、
この身体に宿っている魂こそが、私たちの本当の姿だという事です。

私たちはいつか肉体を脱ぎ捨てて、また光の世界へと帰っていく存在です。

その時には、肉体も、この世で得たお金も土地も、地位や名誉も、
あの世に持って帰ることはできません。

この世でしか通用しないものは、あの世の世界には持って帰れないのです。

あまりにもこの世のものに執着した場合は、
光の世界に帰れず、地上世界を彷徨う幽霊となってしまう方もいます。

自分が生前に得た土地やお家に執着し、ここは自分の物だと言い張って、
地縛霊と呼ばれる存在になってしまうことがあります。

あの世には、そうしたこの世でしか通用しないものは持って帰れないため、
執着を断たねば、綺麗に浄化できないわけです。


そうした霊的な真実があるため、
お釈迦様は執着を断つ教えを述べられたのだと思います。

お釈迦様は、この世のものは移ろい行くものであり、諸行無常であると説かれました。

この世のものは、つかもうとしても手の隙間から落ちていく砂のように、
ずっとあり続けることなく、いつかは自分のもとから去っていきます。

この世の乗り船である肉体も、
いつまでも若くて健康的な身体を維持することは無く、
いつかは衰え、病が現れるでしょう。

若くて美しいと言われていた人も、いつしか肌にはシミやしわが出来て、
衰えていくのを感じる事となるでしょう。

この世でたくさんの富を得た人も、いつかはそれを失う時が来ます

この世で成功して、たくさんの人から称賛された人であっても、
いつしか人々から忘れ去られ、かつての栄光を失う時が来ます。

この世の物事は、いつまでも留まることは無く、
川の流れのように時とともに流れ去っていくのです。

そのため、いつまでもしがみ付いていると、執着となり苦しみを生んでいきます。

では、あの世に持ってかれれるものとは、いったい何でしょう?

それこそがスピリチュアルな知識として、知っておくべきことです。

あの世に持って帰れるもの、
それは、あなたの心であり、思いの傾向性、そして何を信じたかです。

あなたがどのような心を持っているのか?
何を信じ確信して生きてきたか、その性質や特徴は、来世まで持ち越していきます。

善良な心をもってあの世へと旅立てば、善良な人々の暮らす霊界へと赴きます。

自分の欲を叶えるためなら、人から奪ったり傷つけても当然と考えている人は、
同じような他人を思いやれない者たちの住む、暗い霊界に降りていきます。

結局は、この世に生きている間に、
どのような心境を維持して持っていたかによって、
その心はあの世の世界の通行手形になるのです。

いくらこの世で肩書や名誉ある職にあっても、
総理大臣だろうが大企業の社長さんであっても、霊界では通用せず、
ただその心の性質こそが、あの世でのパスポート役や、身分証明書となるのです。

心という身分証明によって、光の世界に帰っていくのか、
落第生として、魂の再学習のための暗い霊界に降りていくのか別れていきます。

より偉大な心をもってあの世へと旅立った方は、
光の世界でも高次の世界である、高級霊界へと帰っていきます。

そうした方は、天使や菩薩と呼ばれる偉大な魂の持ち主です。

彼らは必ずしも、この世では有名人であったり、
数々の賞を取る著名な方では無いかも知れません。

人知れず、その清らかな心や、愛にあふれる思いを持たれて、
無名で亡くなった方もいるでしょう。

宮沢賢治さんなども、作品が有名になったのはその死後においてであり、
彼の家族や支援する人が亡くなった後に世に広める努力をされていなければ、
彼も無名の人として消えていたでしょう。

そのように、この世的にはたとえ無名の人生を歩もうとも、
その心が光り輝いていたなら、高次な霊界へと帰っていきます。

心が暗く、自我によって曇りだらけなら、
この世でどれだけ有名になろうとも、偉大な人物として尊敬されようとも、
あの世で返っていく世界は、暗く厳しい場所となります。

あの世に持って帰れるのは、どのような心かであり、
この世で自らの心をどれだけ統御し、良き性質へと変えていったかが問われます。

そのために、この世において自らの心を良きものへとしていく努力や、
心の修行が大切になってきます。

自らのエゴに向き合い、我欲で人を傷つけてしまっていないか?

もっと人のために役だとことは出来ないか?

自我を矯めて愛を持つように、心を統御していくことで、
それだけよいものをあの世へと持ち帰ることができます。

 (https://www.spacebrothers.jp/2018/04/blog-post.html

           <感謝合掌 令和2年5月20日 頓首再拝>

【ぜんぶ、すてれば】 - 伝統

2020/06/14 (Sun) 03:41:42


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.05.27)より

   (中野善壽(よしひさ)氏の心に響く言葉より…)

   不確実で変化の激しい時代。
   個人の力が試される時代。
   人生100年への備えが必要な時代。


   日々の膨大な情報に対応し、
   新しい技術や価値観へのアップデートが求められる。

   過去の事例はもはや頼れない。

   ロールモデルも、人生プランも、描けない。


   自分の意見や考えを持ち、世の中に発信しなければならない。

   しかし、実績も経験もなく、自信がない。

   先の見えない将来のことを考えると、
   不安で頭がいっぱいになり、疲弊してしまう。

   こんな時代で生き残るには、どのような知識を持ち、
   いかなる力を身につけなければならないのか。



   中野善壽(よしひさ)、75歳。

   伊勢丹、鈴屋で新規事業の立ち上げと海外進出を成功させる。
     
   その後、台湾へ渡り、大手財閥企業で経営者として活躍。

   2011年、寺田倉庫の代表取締役社長兼CEOに就任。

   大規模な改革を実施し、
   老舗の大企業を機動力溢れる組織へと変貌させた。


   その手腕と独自の考え方、そして人柄により、
   各界の著名人に慕われている。

   一方で、メディアにはほとんど姿を現さず、
   社員にさえ、本当に実在するのか疑われていた、異端の人物。



   その生き方の根本にあるのは「何も持たない」こと。

   家や車、時計は持たない。

   お酒やタバコも嗜まない。

   お金も若い頃から、生活に必要な分を除いてすべて寄付している。

   何も持たないからこそ、過去に縛られず、未来に悩まず、
   今日を大切に生きることができる。


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              ・・・

中野氏は、「やりたいことが、なくてもいい。正直であれば、道は開ける」という。

大学を卒業するとき、周りの同級生がさっさと内定を決めて遊んでいる中、
就職先を探さず、ただぼーっとしていたという。

理由は、「やりたいことがなかったから」。

その頃、学生寮にいて、花屋の閉店間際に、毎日一輪だけ買いに行っていた。

世間話のついでに、就職のことを聞かれた中野氏は、
「やりたいことも特に見つからなくて。なんでもいいんです」と花屋のおばさんに言った。

そこで、紹介してくれたのが新宿にある百貨店、伊勢丹だったそうだ。


中野氏はこう語る。

『「思い切ったことをしたいのに、勇気が出ない」と踏み出せない人は、
こんなふうに思ったらいい。

地球のずっと外側、宇宙空間から眺めてみれば、自分の人生なんて、
見えるか見えないかの取るに足らないもの。

人が一人、生まれて死ぬまでの時間は、
宇宙に流れる時間のほんの一瞬、まばたきにも満たないほどでしょう。

それは誰でもそうであって、この世に存在するものすべてがそう。

大したことはないし、この世に永久に役立つものなんてつくり出せない。

そう思えば、なんでも気楽にやってみてもいいんじゃないかと、踏ん切りがつきませんか。


そう、自分が役に立つ存在になるなんて考えるのは奢りです。

もちろん役に立とうとする努力は大切ですが、
今日一日を楽しくありがたく味わって過ごしたい。

仕事で失敗したって、明日死ぬわけじゃない。

なんでも許される若い時ほど、肩の力を抜いて思い切ればいいと思います。』


中野氏は、ミニマリストとして有名だ。

ミニマリストとは、モノを持たずに、
必要最小限のモノで暮らす人のことであり、捨て去ることができる人。


「放下著(ほうげじゃく」という禅の言葉がある。

投げ捨ててしまえ、手放してしまえ、ということ。

煩悩(ぼんのう)も、執着も、お金も、地位も、肩書も、モノも。


「何も持たないからこそ、過去に縛られず、未来に悩まず、今日を大切に生きることができる」

この、こんにちただ今を、大切に生きてゆきたい。

・・・

<参照>『ぜんぶ、すてれば』書評
 https://www.excite.co.jp/news/article/Lifehacker_202005_book_to_read-539/

           <感謝合掌 令和2年6月14日 頓首再拝>

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