伝統板・第二

3276052
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(七月)の法語 - 伝統

2018/07/01 (Sun) 03:41:02

このスレッドでは、次の5つの法語を紹介してまいります。



(1)『 生長の家 』  昭和二十四年七月号
            ブログ「 住 吉 大 神 浄 め 給 う」 
            http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/m/201404/1

(2)『 生長の家 』  昭和二十五年七月号
            谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐より紹介
            http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

(3)『 生長の家 』  昭和二十六年七月号( 一日の法語 ~ 十八日の法語)
            ブログ「 住 吉 大 神 浄 め 給 う」 
            http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/549262d625380b2d3657ed29ac99f2c9
            
(4)『 理想世界 』 昭和四十二年七月号
            伝統板・第二
            「青年よ悪習慣の鏈(くさり)を断ち切れ
             =最も大切な性格形成の問題について=」
            http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412

(5)『 生長の家 』  昭和四十三年七月号の法語」
            http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7754652


・・・


【一日の法語(7月1日)】

(1)《与えただけの値打のものが来る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7dd174f3c05e24216f87966583a937e9


   (抜粋として)

   吾々の得る所の喜びは、その値打を払っただけのものであって、
   それ以上のことはあり得ないのである。

   奮闘の後に得られたる獲得こそ、
   しみじみと自分の魂にその価値が感じられるのである。

   小人(しょうじん)は困難に遭って屈服してしまうのであるが、
   偉大なる人は困難あるごとに一そう自己が偉大となるのである。

・・・

(2)《狭き門より入れ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   実相智に到達すれば 喜ぶ世界のみであるけれども
   それに到達するには 己に打ち克つことが必要である。

   「 己 」 とは 「 ニセモノの自分 」 である。
   「 狭き門より入れ 」 とイエスが教えたのは そのためである。

・・・

(3)《天地万物に感謝せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/549262d625380b2d3657ed29ac99f2c9


   (抜粋として)

   一筋の藁、一本の大根、それに神の愛を感じ、
   感謝出来るのが宗教的境地であって、
   金が儲(もう)かるから集ると云うのは 相場師の境地である。

   百丈和尚(ひゃくじょうおしょう)は 一枚の大根の葉が流れ行くのを
   追っかけて往(い)って拾って頂いたと云う。

・・・

(4)《“粗暴”の種を蒔いてはならない》

   ある有名な哲人がいった言葉には、

   「ある行為の種を蒔けば、吾らは習慣というものを穫りとるのである。
   習慣の種を蒔けば自分の性格というものを収穫する。
   自分の性格という種から自分の運命というものが実るのである」と。

   一寸した行動が粗暴であること位は何の悪い影響もないかの如く考えられ勝ちで、
   若い人たちは、一寸した日常の動作を粗暴にやってのけてそれで
   “元気溌剌”たる若人の特権の如く考えていることが多いらしいが、

   それは毎日”粗暴”の種子を蒔きつつあるのであり、
   それが習慣となって生長し、ついには世界の平和を掻き乱す
   恐るべき果実をみのらす結果ともなることを考えるならば、
   少年だからとて日常の行動を粗暴にしてはならないのである。

   元気と粗暴とは異る。

・・・

(5)《「死」は「生」につながる》

   「死」は「生」につながるのである。
   「死」と見える現象は「生」の始めであるのである。

   私たちの肉体の全細胞は、常に陳き(ふるき)ものは死につつあり、
   そして間断なく新しき細胞はつくられて陳き(ふるき)死滅細胞に
   とって代わりつゝあるのである。

   何が、誰が、その新陳の交代を支配つゝあるのであらうか。

   それは細胞という一個の微小体それみずからに、
   それだけの叡智がないということは明らかである。

   細胞それ自体は、どこに自分たちが整列したら
   心臓の形になって血液を循環させ得るとか、
   腎臓の形になって、それぞれの生理的役割を果たし得るか
   などということを計画し得る智慧はない。

   では、この新陳代謝を司るところのものは何であらうか。
   それは人間の「生命」である。
   生命の中に存する叡智のみが此の重大なる役割を果し得るのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4300

・・・

<参考:7月の谷口雅春先生の言葉>


(1)『 光明法語<道の巻> 』(七月の法語「生命の本源(神)を顕すには」)
   (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=93

(2)『 生命の實相 』第三十七巻幸福篇(七月「真諦成就」)
   (本流宣言掲示板)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2546

(3)『 光明道中記 』(七月「浄行ととのう」)
   (光明掲示板・第一)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1821

            <感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>

【二日の法語(7月2日)】 - 伝統

2018/07/02 (Mon) 04:38:39

(1)《障礙(しょうがい)物は進歩の踏台》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/91b3c7f27b37743f351a0e60d8176e5f


   (抜粋として)

   「 我は 如何なる困難をも克服する所の偉大なる神の子である。」

   かく信じて目の前にある障礙物を却(かえ)って
   自己の向上する為(ため)の踏台とする人こそ
   やがて偉大に成功するのである。

   魂を磨く所の鑢(やすり)は困難である。
   困難こそ人間を玉成するのである。

・・・

(2)《五官は番犬に過ぎない》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   五官の心は 「人間自身」 ではなく
   人間の道具である。
   それは 番犬のようなものである。

   肉体の快楽は 一時的に汝を喜ばすかは知れないが、
   汝の魂に深い悩みと淋しさとを残すのである。

   それは 「 本当の自分 」 が
   打ち敗(ま)かされたからである。

   本当の魂を喜ばすのは
   実相智によるほかはないのである。

・・・

(3)《仕事に悦びを感ずるには》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/491a18692ccef688f441aca102a8e891


   (抜粋として)

   人生が退屈であったり、無意義に見えたりするのは
   その人の愛が乏しいからである。

   愛して何事でも、愛のために行うならば
   自然と歓喜が湧(わ)いて来て 退屈であったり、
   無意義に感じたりする筈(はず)はないのである。

   利己主義のところに真の悦(よろこ)びは 湧いて来る筈はない。
   神の愛を実現する処(ところ)にのみ 真の悦びは湧いて来るのである。

・・・

(4)《雑草からは良きものは実らない》

   プラトー(ギリシャの哲人)も言うのである。

   「無限の善が、良き習慣から生まれて来るのである。
   良き習慣というものは、良き行為の範例や、良き友との交わりや、
   道徳的知識や、道徳的行為の体験を通して養われるのである」と。

   戦後のあまりにも過ぎた日本社会の如き自由主義的放漫の生活からは、
   良き行為の範例や、良き友との交わりや、道徳的知識・・・・・などには
   滅多に接することができないのである。

   そして自由に伸びるものは雑草の如き無秩序性である。
   雑草の中からは決して良きものは実らないのである。

   良き果実を実らせようと思うならば、雑草を自由に伸ばしてはならないのである。
   雑草を引き抜いて、良き種子を選択して播種しなければならないのである。

   自由放漫の中からは稀にしか良きものを生じない。
   行動の自由主義の効果には限界があるのである。

・・・

(5)《肉體は“被造物”である》

   古い細胞の死も、新しい細胞の新生も、
   その背後に、一層偉大な支配者があって、
   それによって支配されているのでゐるのである。

   それ故に肉體それみずからは被支配者であって主人公ではないのである。

   人體の主人公は、肉體それみずからでなくて、
   「肉體の奥に物質の奥に霊妙きはまりなき霊的存在」として
   “神の子”が存するのである。

   “神の子”とは、神なる大生命の分流が人體に宿って、
   そこに神の叡智をもって人体を支配してゐるところのものを指すのである。

   肉體は、この“神の子”が設計し工作し、
   神の生命を宿すところの「神の宮」としてつくられたものである。

   “肉體”はこのやうにしてつくられたものであるから、
   人間を“肉體”そのものとして観る以上は、
   人間は”被造物”に過ぎないのである。

   それは “つくられたるもの”であり、
   それが、”造られたもの”である限りに於いて、
   それはやがて毀れるものであり、“死すべきもの”であるのである。

   人間が肉體である限りに於いて、“永遠の生命”は無いのである。 

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4307

            <感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>

【三日の法語(7月3日)】 - 伝統

2018/07/03 (Tue) 03:19:00


(1)《努力なしには地下の宝玉は得られぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f8a321701bff09ca11de9c55a2bbeb49


   (抜粋として)

   多くの才能は地下に埋蔵された宝石と等しく、
   努力なしに放置する時には眠っているのであるが、
   困難の刺戟(しげき)によってそれが現実となるのである。

・・・

(2)《五官の心を神にまで統制せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   本当の喜びは 五官の心を徹底的に自己統制して、
   自分の生活の凡ゆる瞬間、如何なる小さき行動も、
   如何なる小さき心の想いも
   神にささげてしまった時にのみ得られるのである。

・・・

(3)《神を愛する者は人をも愛する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/440df0246a5efc3ba7f0b10ff42fbd22


   (抜粋として)

   神を愛するとは 自己に宿る神性(しんせい)を愛することにほかならない。
   自己に宿る仏性(ぶっしょう)を愛することにほかならない。

   自己に宿る 神性 仏性 を愛するには
   同時に他に宿る 神性 仏性 を愛しなければならない。

   汝の隣人を愛さないでいて、神を愛していると云うことは、
   虚言(そらごと)にすぎないのである。

・・・

(4)《習慣の“環”は早いうちに中断せよ》

   習慣は、一つ一つの行為の“環“の連続である。その一つ一つの”環“は
   小さいけれどもそれがつながって長き鏈(くさり)となるとき、
   強力に自分をしばる鉄の鎖となるのである。

   何人も、あまりに長くつづいた“習慣の鏈”によって十重二十重に
   縛りつけられるならば、その鏈の縛りを切り放って自由になることは
   殆ど不可能となるのである。
   それは“殆ど”であって“絶対”ではない。

   その実例を、喫煙をやめたいと思って色々と工夫し努力して見ながら
   どうしても喫煙がやめられない“喫煙癖”の奴隷の如き人間を見るがよい。
   全く彼は気の毒な状態ではないか。

   まだ一つ一つの行為の“環”が二つや三つや五つぐらい連続しているだけの
   初期状態では、それは鏈という程でないから、途中でやめられるし、
   自分の全身をしばる長い鉄鎖とならないのであるから、
   「これは悪い習慣になりそうだ」と気がついたら、

   それが習慣となる前にすぐその行為をやめるがよい。

・・・

(5)《人間そのものは“叡智ある生命”である》

   しかし“人間”そのものは肉體ではないのである。

   小さな卵細胞に受精せしめて、人體をつくり出さしめた
   叡智そのものが人間であるのである。

   更に精しく言へば、卵細胞すら無きところから卵細胞をつくり出し
   “無”よりして生體をつくり出したところの“叡智ある生命”
   そのものが人間なのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4311

            <感謝合掌 平成30年7月3日 頓首再拝>

【四日の法語(7月4日)】 - 伝統

2018/07/04 (Wed) 04:13:06


(1)《摩擦ある環境もお蔭(かげ)である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fa6ad9358ba8bb76fe1e4e26484fa68f


   (抜粋として)

   すべての困難と抵抗とは 自己を向上せしめ
   前進せしめるための天与の刺戟である。

・・・

(2)《人生の目的は神を実現せんがためである》
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾(われ)は 今 吾(わ)が本性の 「 神 」 なることを知ったのである。

   吾は個人ではないのである。吾は全体である。
   吾は無限である。吾は絶対である。
   吾は永遠である。吾は不滅である。

   吾が人生の目的は これを実現せんがためである。

・・・

(3)《汝(なんじ)の肉体を讃美せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/80ce80b21afdac0966776c2b7e2d50be


   (抜粋として)

   あなたが肉体を愛し、その健康を求めるならば、
   肉体に小言(こごと)を云っては ならないのである。

   肉体に感謝し、肉体にお礼を云い、肉体の美を讃(たた)え、
   肉体の健康を祝福しなければならないのである。

・・・

(4)《自分の蒔いた行為の種が芽を吹くとき》

   【四日のことば】

   イタリアのトリノにある大学のボネリ教授の実験によるならば、
   30年間葡萄酒の中に入れてアルコール漬けにされ、さらに16年間、
   空中に乾し晒らされたガラガラ蛇の牙にまだ毒性が残っているかどうかを
   試すために或る動物の皮膚をその牙で刺して実験してみたところ、驚くなかれ、
   その1時間後にはその動物は蛇毒にあてられて死んだのだった。

   行為の積み重ねによって生じた習慣というのも、
   このように吾々の生命の奥深く眠っていて、ある機会が来たら、
   それが活性化して吾々の行動を支配することがあるのである。

   だから、吾々はガラガラ蛇のような、
   人を害する毒性のある想念や行為を積みかさねて
   それを潜在意識の底に眠らしておいてはならないのである。

   一千年以上も以前に乾燥状態で埋もれていた蓮の実が,
   播植してみたら発芽した実例もある。

   人間は、現世一代の存在ではなく、幾度も生れ変って来ているのであるから、
   今、種を播いておいた善行又は悪行が、数代もの生まれ変わりの後に報いられて
   来ることもあるのであるから、人生をこの世一代の存在だと思って、生きてるうちに、
   どんなズルイ事でもやって出来るだけ快楽を貪って置けというような考えから
   悪行の種を播いておくと、数代後の生まれ変りに、困難な状態におかれる
   ということもあるのである。

   私たちは毎日よき種子を業の世界に播いておかなければならない。

・・・

(5)《潜在意識を“暗い暗示”から衞ること》

   人間の中心体なる「最高の叡智者」を吾々は「實相」と称ぶのである。

   しかし生命体がつくりられた後は、實相それみずからは
   「奥の宝座」にましまして、陰・陽の意識を道具として外界に対応して
   人対的な生活を營ましめることになっているのである。

   “陽の意識”は“現在意識”とも称せられていて、
   表面にあらはれて外界の出来事や情況に応対するのである。

   “陰の意識”は“潜在意識”とも称せられていて、
   表面にあらわれていないで、専ら内部的な役割を果すのである。

   即ち記憶の保存とか、人体内部の生理作用の調節とか、直感によって
   内的に感受したことを“蟲の知らせ”などの形で現在意識に報道するとか、
   要するに内的微妙なハタラキを営むのであるが、

   “陽の意識”(現在意識)が男性的・主動的であるに反して
   “陰の意識”は女性的又は受身的であって、外界または現在意識から発せられた
   暗示をそのまま受け容れて、それを心内に懐妊して、やがてそれを具体化して
   産み出すやうなハタラキを分担するのである。

   内部にあって生理作用を司っている潜在意識が外界からの暗示に感応して
   その暗示に左右せられ易いために、暗い暗示を潜在意識が受けるならば、
   生理作用が陰気な影響を受けて活発に働かなくなり、
   病氣や虚弱状態をあらわすことになるのである。

   だから私たちは常に潜在意識に対して明るい健全な暗示を与えるように
   工夫しなければならないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4312

            <感謝合掌 平成30年7月4日 頓首再拝>

【五日の法語(7月5日)】 - 伝統

2018/07/05 (Thu) 03:42:48

(1)《抵抗は有難い、吾々を前進せしめる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d14ec46bd5e21bf633f5327ac1344cc9


   (抜粋として)


   人間が反対と摩擦から解放されてしまった時に
   それはレールの上に油を塗って滑らした機関車のように、
   上向することはできないで下向(げこう)するばかりである。

   抵抗と摩擦とによって人間は自己をみがき上昇し向上する。

・・・

(2)《今、吾が生命を直視(じきし)せり》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾は凡ゆる苦痛と悩みとの彼方(かなた)に超出したのである。
   吾は 今 絶対完全なる自由を獲得して
   神人の実相を実現したのである。

   五官の誘惑は 自分を もはや ひきつけないのである。

・・・

(3)《自己に宿る自然療能力に感謝せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e8ba579a5ccc941d9989c4bf18a4b634


   (抜粋として)

   神の自己表現の機関である肉体は 健康であるように、
   美しくあるようにつくられたのであり、

   その美と健康とを維持するように 内部に自然療能
   (神御自身の再生能力)を与えられているのである。

   常に神の再生能力は 吾(われ)らを生かし、修復し、若返らせ、
   疲労を恢復(かいふく)せしめつつあるのである。

   その驚くべき恢復を発現せしめようと思うならば、
   先ず、その力の存在を認め、それに感謝することである。

・・・

(4)《肉体の快楽に誘惑されてはならない》

   どんな悪業を積んでおいても、それが報いられる筈はないという甘い考えで、
   瞬間の快楽のために、誘惑の奴隷となって、ある人妻と姦通した青年がいた。

   彼がその人妻を本当に恋愛しているのであったならば、
   その行為に、ある情状酌量の点数がつけられるかも知れない。

   併し、彼はその人妻のほかに、同じ期間に、別の人妻と姦通していたのであった。
   だから彼は純粋に一人の女性を恋いしたっていたのでもなかった。

   その青年は脚が立たなくなった。あの立派な青年(男)がどうして、
   腰相部の脊髄神経麻痺にかかって脚が立たなくなったりしたのであろうと
   私たちは不思議に思っていたのであった。

   彼の病気の治療は私の毎日の祈りの中に加えられていたにもわらず、
   既に六ヵ月を超えても腰部脊椎神経の麻痺は治らないのであった。

   或る日、この青年から右の事実を告白した手紙が来た。

   それは前非を悔いた手紙であって、姦通した二人の女性のうちの一人とは、
   その女の産んだ可愛い赤ちゃんが側で二人の行為を見ている前で、
   「どうせ赤ん坊のことだから見ていても何をしているか分らないだろう」
   と思って行為したという告白であった。

   ”その幼い子供の純粋な心を汚したことを思うと耐えがたい悔恨だ”
   というような反省がその手紙にはあらわれていた。

   腰部は色情帯であって其処に健康に故障が起こるのは
   色情の過ちが具象化するのである。

・・・

(5)《暗黒思想に對して、聖語の波状攻撃を加へよ》

   この世界には無数の不健全な暗示に満たされているのである。

   特にテレビ、ラジオの發達に伴って、吾々に商業広告
    ―― 特に新薬の広告宣伝―― が薬を買わせるために、
   病氣を恐れさせ、老衰を予告する「言葉」が愈々益々
   氾濫して来ているのである。

   「言葉」は種子であることを知るならば、吾々はこのような
   “病気”や“老衰”の観念を潜在意識に投げ込む暗示から
   “自分の心”を衞る工夫をしなければならないのである。

   といってラジオやテレビに対して耳をふさぎ眼をとじている訳にも
   行かないで、私たちは積極的防衛策を、「攻撃は最良の防御である」
   という諺にしたがい、積極的に「光明思想」の言葉の砲弾を射ち込んで、
   暗黒の想念が潜在意識を占拠しつつあるのを撃滅し
   追い払わなければならないのである。

   繰り返し繰り返し聖典を読むこと、そしてあまり同じ聖典を読んでいると、
   言葉の新鮮味がなくなり、それだけ印象力が弱まって来るから、
   また別の聖典を読むこと、未だ読まざる新しき聖典を読むこと、
   これによって暗黒想念の定着せんとするのに対して波状攻撃を加える訳である。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4316

            <感謝合掌 平成30年7月5日 頓首再拝> 

【六日の法語(7月6日)】 - 伝統

2018/07/06 (Fri) 03:46:06

(1)《危機を恐れるな、人間の全力は危機に出る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/31f9c2b5ee6544531d0dfaa49ae27ced


   (抜粋として)

   危機一髪のところに無限の力がでてくるのである。
   歴史にその名の出ている人は 殆(ほと)んどすべてが、
   世界の危機に出現した人たちばかりである。

   危機は英雄豪傑を作るのである。

   高きにのぼらんとする努力が
   人間の生活を高邁(こうまい)にするのである。

・・・

(2)《絶対者の顕現としての我》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾は 永遠なるものである。
   吾は 不滅なるものである。

   吾は 神である。
   吾は 仏である。
   吾は 普遍である。

   吾は 時間をこえ、空間をこえ、久遠に存在し、
   無限の智慧をもち、無限の愛をもち、
   死せず滅せず、苦しまず、悲しまず、
   永遠に喜ぶ所のものである。

・・・

(3)《人生は錦織(にしきお)りなす織物である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6ca0b00d4f971cef1d613ba287ea3a34


   (抜粋として)


   人生を織物にたとえるならば、人間はその織り手である。

   経糸(たていと)は 全体を貫く自分の希望であり、理想である。
   緯糸(よこいと)は 経糸を遮(さえぎ)り
   交叉(こうさ)するところの出来事である。

   すべての出来事は 人生を美しき織物に織りなす素材である
   に過ぎないのである。

・・・

(4)《あなたの良心の審判から免れることはできない》

   赤ん坊は見ていないかも知れない。
   又たとい見ても無関心で、何のことか行為の意味を解しなかったかも知れない。

   本人以外誰もそのことは知らないかも知れない。
   ”天知る地知る”といっても部屋の中で、天も地も知らないかも知れない。

   神もそれは看過すかも知れない。
   神は見ていても直接には神罰を下すことはないであろう。

   しかし本人の意識はそれを知っているのである。

   肉体の全細胞はその行為について連関(かんれん)をもっていて、
   その行為に対して反応を示すのである。
   その反応の一つが「腰が立たぬ」ということであった。

   それは同時に彼の意識の自己処罰であった。
   「下腹部を立ててはならない」と彼の潜在意識の自己批判は
   このように考えたのであった。

   そして彼の下腹部から下方が全然不随になったのである。

   私たちは、何人も知らぬと思い、神の罰もないと思っても、
   自分自身の良心が与える判決の前には、
   人は何の抵抗もなくそれに随わねばならないのである。

・・・

(5)《肉体の健・不健を支配する潜在意識》

   肉体は、“人間”そのものでないけれども、
   “人間”の“生命”又は“魂”が地上生活を営む上に欠くべからざる
   道具であるのであるから、その道具が健康であるか、不健康であるかは、
   魂が地上で使命を果たす能率に大変な相違を来すのである。

   しかもその肉体のはたらきは、生命が、肉体の生理作用をつかさどるための
   媒介である“潜在意識”の状態(想念の内容)によって支配されるのであるから、
   潜在意識に不純な感情、暗黒な感情などが溜まっていて、生命の純粋な健全な
   はたらきを妨げることのないよやうに注意しなければならないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4317

            <感謝合掌 平成30年7月6日 頓首再拝>

【七日の法語(7月7日)】 - 伝統

2018/07/07 (Sat) 04:17:01

(1)《危急の時に自己の全力を発揮させる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9525d56a7bf2ea70daa447fc89c9b418


   (抜粋として)

   危急存亡の時に到(いた)れば
   吾々の生命の中にある無限の能力が揮(ふる)いおこされる。

   一度 意を決したる人には 如何なる困難も
   その人の自由を奪うことはできないのである。

・・・

(2)《 己に克つことが実相を顕現する》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   己に克つことが実相を顕現する唯(ただ)一の道である。
   「 己 」 とはニセモノのことである。
   ニセモノを否定しないで本物が得られると思うな。

・・・

(3)《自己の心を護(まも)ること》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/efdd9661dbc7c5719ce482817c82a8c4


   (抜粋として)

   最も辛(から)く見えるところの境遇や出来事も、
   それは一層 魂を深めるところの素材である。

   外界が荒々しいときには、人間も外にひろがることを考えないで、
   内を守るが好(よ)いのである。

   自分の心の中に悪い想念はないだろうか、
   間違った感情はないだろうか、
   よく自己反省して見ることである。

   そして外の悪想念の吹き込まないように
   自己の心を守り育てるべきである。

・・・

(4)《“過去の業”が目を醒ます時》

   ツーロンの港に伝染経路不明のコレラ(激しい白色下痢を起こして
   水分が欠乏して死する病気、法定伝染病)が発生したことがあった。
   最初の発病者はフランス政府の輸送船モンテベロ号の二人の船員であった。

   この船は長期間使われずに港の入口にもやってあった老朽船で,
   嘗ては不要の軍の装備の廃品の倉庫がわりに使われていたことがあり
   フランスの兵隊でコレラにかかってセバストボールで病死した兵員の装備も
   そこに、ほり込まれていたことがあることがだんだんわかって来たのであった。

   この二人の新たにコレラに罹った船員は、最近この船に乗って、
   船艙の底に使われずに棄てられていた兵隊の持物の残骸を引っぱり出して
   船艙を掃除したことが判明したのであった。

   そのときモンテベロ号の船艙に眠っていたコレラ菌が目を醒まして
   活性となり、この二人の船員を捉えたのであった。

   私がこの話を引合に出したのは病菌の伝染経路を語るためではないのである。

   或る”行為の業”は、種となって、此のコレラ菌の如く、
   見えざる世界に眠っていて、或る機会が来ると、その”行為の業”が
   目を醒まして活性となり、その業の報いを穫りとらせることになるのであるから、

   吾々は日常生活中に、ちょっとでも、”悪い行為”を種蒔いておかないように
   注意しなければならないということが言いたかったのである。

・・・

(5)《“人間の解放”の意味するもの》

   生命力は一種のエネルギー資源であり、
   それは仮に天然石油ガスにたとえても好いのである。

   天然ガスを液体石油ガスとして
   飛行機や自動車の燃料になる形にすることもできれば、
   石油化学によって各種用途のプラスチックを製造することもできれば、
   またそれを繊維化して衣料にすることもできるのである。

   それを如何に変化するかは、智慧の働きによるのである。

   吾々の生命力を如何なる用途に使うかは吾々自身の智慧によるのである。

   「人間の解放」という語が、近頃屡々となえられるけれども、
   単に人間の内部にある色々の本能をただ無暗に解放してそれを
   全然“智慧”によって統制することを忘れるならば、

   それは天然ガスを無暗に噴出するにまかせて棄てている
   ようなもので、それは空気を汚染し、人間をガス中毒に陥れ、
   ついには人間を窒息せしめるに至ることもあり得るのである。

   だから人間内部の生命エネルギーは単に噴出せしめて
   何らの統制をも加えない事は
   人間性そのものを却って破壊してしまうことになるのであって、
   決して「人間の解放」にはならないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4318

            <感謝合掌 平成30年7月7日 頓首再拝>  

【八日の法語(7月8日)】 - 伝統

2018/07/08 (Sun) 04:18:16


(1)《吹きすさぶ風に戦う樹木の根は深い》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4baaffc4696b85e8ea13f34d11f03d06


   (抜粋として)

   禿山の頂上に植えつけられた樫の苗は、
   常にはげしく吹きすさぶ風と戦いながら、
   深く根を張り、成長は徐々であるが幹は一そう強固に太くなり
   遂には亭々として天をも摩する大樹となるのである。

・・・

(2)《肉体の快楽に精力を浪費してはならない》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   肉体の快楽に精力を浪費すれば
   霊的能力はそれだけ減少するのである。

   心が五官に奪われて、心が 「 霊 」 に向かわなければ
   霊的力は発揮しないのである。

・・・

(3)《心の窓を閉じて自分を護ること》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/12077fefc563c08d3dacc9c17d7a7a3f


   (抜粋として)

   外に寒い風が吹きすんだり、あまり外に埃(ほこり)が立つときには
   諸君は 窓をしめて、その風や埃が吹き込まないようにするであろう。

   人が誰(だれ)かの悪口を云うときには 自分の心の窓を閉じよ。
   人が汝を悪しざまに云うときには 自分の心の窓を閉じよ。
   人が病気の話をするときには 自分の心の窓を閉じよ。

・・・

(4)《無意識の完成について》

   剣の修行も、英語の修行も同じことである。

   毎日の修練が一つ一つの鎖の“環”を形造って、潜在意識の底にそれが蓄積され、
   敵が襲って来るとか何事かが起こったとき、或いは何かを英語で喋らなければ
   ならなくなったとき、

   潜在意識の底に積み重ねられていた”業の蓄積”が(この場合は)
   自動的に動き出して、適当に敵の刃を払いのけ、敵を一撃の間に斬り仆す動作
   となったり、自動的に英語が喋れるようになったりするのである。

   そのためには修練を重ねなければならないのである。

   いちいち現在意識で考えながら剣を揮っているようなことでは
   敵の急襲に反撃することはできないし、

   相手が早口にしゃべって来るのに、一々現在意識で単語を文法に合うように
   置きならべてから応答しているようなことでは日常会話の
   役に立たないのである。

   たんに剣の打ち込み方を型で習っても修練を重ねなければ
   やり方はわかっていてもその通りに剣が動かないのである。

   このように舌を曲げ、唇をこのようにして発音するのだと知っていても
   修練を重ねねば、咄嗟の場合にその通りに口が動いて発声できないのである。

   良き事の”行為の業”をたびたび重ねることによってのみ、
   無意識の良き行動が完成する。
   それが良き性格の形成である。

   それと同じく悪しき事の“行為の業”を重ねることによって、
   “悪しき行為をやめよう”と思っても、潜在意識が“悪しき行為”を
   無意識のうちにやらせてしまう。

   だから日常生活中の小事にも、
   悪しき事を習慣とするような生活は慎まなければならない。

・・・

(5)《潜在意識の電子計算機的役割》

   大生命の叡智は、人体を構成するところの色々の要素を
   驚くべき智慧をもって組織化してこのやうな人体をつくったのである。

   そして一応その“人体”それ自身の腦髄智に“自由”を与えて、
   人体を自治体にしたのであった。

   しかし腦髄智は、いまだ嘗て“人体”そのものを製造したことはないから、
   完全には人体を本当に健康にする道を知らないのである。

   だから、大生命の叡智は、人体の動きを内から指導する
   電子計算機的ハタラキをする潜在意識”を与えて、
   これによって自働的に生理作用が調節せられるようにしたのである。

   ところが電子計算機には記憶装置があって、その記憶装置に
   「あやまった事項」(データ)が組込まれていると、計算機の答えが
   間違って来て誤った指導をするのと同じように、

   潜在意識に「あやまった事項」(憎しみや、怒りや、悲しみや、不平や、屈辱や、
   嫉妬や、貪慾や、欲求不満や、意気消沈など)が組み込まれることになると、
   純粋に大生命の叡智そのままに潜在意識が生理作用を正しく調節することが
   できなくなり、そこに病気や早期老衰をひき起こすことになるのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4319

            <感謝合掌 平成30年7月8日 頓首再拝>

【九日の法語(7月9日)】 - 伝統

2018/07/09 (Mon) 03:07:31


(1)《困難は受け方で毒とも薬ともなる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ed27cbb371adb837540eba1dd399d512


   (抜粋として)

   障害物が人間を滅ぼすのではなく、
   それの受け方が人間を滅ぼしもすれば向上させもする。

   神は青年を教育せんとする時には必ずしも学校へは送らないのである。
   そしてむしろ絶対絶命の境地に追いつめる。
   そしてそこから無限の能力をしぼりださせるのである。

・・・

(2)《生命の真理を自覚する》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   魂の喜びは焔をのむことによっては得られないのである。
   キリストが 「 永遠にかわかぬ水 」 といった所の
   生命の真理を自覚することである。

   生命の真理を自覚することによってのみ
   人間は魂の渇きは 永遠に癒されるのである。

・・・

(3)《神とはどんな難問題をも解決したもう》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4e611a8076c6ee4611c171ace03a28c2


   (抜粋として)

   何事が起って来ようとも、
   問題が起るのは 解決があるから起るのであるから
   心配することは 要らないのである。

   解決が出来ないのは 智慧(ちえ)が足りないからである。
   神の智慧をもって来さえすれば どんな問題でも解決出来るのである。

   神の智慧をもって来るのはどうするか、
   神にその問題をわたしてしまえば好いのである。

   神に 「 自分 」 を明け渡すのである。

・・・

(4)《超越意識の自己審判について》

   私たちの潜在意識の奥には、
   自分自身の行為を自己審判する超越意識が存在する。

   それは“良心”とも通俗的に呼ばれるものであって、
   良心は人類共通に同一の審判の規準となるものをもっている。

   随ってそれは、普遍的な意識であって”殺生”に対しては誰でも、
   “それは善くない”という審判を下すように、
   共通的判断の規準を備えているのである。

   しかし、吾々は実際生活に於いて時々、その規準を犯して行動するのである。

   そのようなとき、吾々の超越意識はそれに対して、
   “自己懲罰”の判決を与える ―― すると潜在意識が、
   その刑の執行係となって、無意識行為によって自分に対して
   苦痛や病気や不幸や災難を与える方向に動き出すのである。

   その時、その人は自分の潜在意識を“敵”又は“処刑係”に廻すのであり、
   現在意識が如何に幸福を求めても不幸が来たり、
   富を求めて行動すればするほど失敗して損になったり、
   健康を如何に求めても病気が治らなかったりするのである。

   こんな時、心がクラリと転向して前非を悔いて、生活の方向を一変するとき、
   特赦の恩典に浴するかの如く、病気が突然にして消え、
   運命が突如として好転することが起こったりするのである。

・・・

(5)《自然良能を妨げる潜在意識》

   ちょっと皮膚に傷を受けたり筋肉が傷ついたりすると、
   内部の潜在意識がその電子計算機的なハタラキによって、
   どこに如何なる成分を移動して、如何にその成分を組織して、
   新たなる皮膚組織や筋肉組織を復旧するが好いか判断せられて、
   その判断によって作業が進められるのである。

   ところが、そのように直ちに復旧作業の行われる人体と、
   手術したあとが少しも新しい肉芽を発生せずに
   糜爛と腐爛とを繰返して行く人体とがあるのである。

   速やかに健康を恢復する肉体と、
   段々病状が深刻になって行く肉体との
   差別が生じて来るのは如何なる理由によるのであろうか。

   私は戦争で片脚を失った傷痍軍人の脚の切り口がいつまでも癒えずに
   糜爛に糜爛を繰返していて、その原因が不明であったのが、

   妻が早速、自分を病院に見舞に来てくれない事に対する憤りが
   原因であって、妻が早速自分を見舞に来ててくれなかったのは
   実にやむを得ない事情があったのであって、

   妻の自分に対する愛情は少しも失われていないことがわかって、
   妻に対する怨みの感情が消えると共に、
   直ちにその脚の切断部の傷が癒えはじめて
   1週間ほどのうちに完全に癒えてしまった実話をきいたことがある。

   これは潜在意識の癒能を指導する電子計算機的ハタラキが
   「妻に対する怨恨の感情」で歪められられていた間は
   治癒が完成しなかったのである。

   他の病気でも同じことである。

   長く癒えない病気に苦しんでいる人は、
   自分の心の中を振り返って見る必要がある。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4322

            <感謝合掌 平成30年7月9日 頓首再拝>   

【十日の法語(7月10日)】 - 伝統

2018/07/10 (Tue) 02:46:34


(1)《困難は能力の働く場である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3f668e6447bbcd17c01dd3d2469e6cca


   (抜粋として)

   競技がなければ勝利が存在しないように、
   困難がなければ成功は存在しないのである。

   又 困難がなければ能力が存在しないのである。

   困難は能力の働く場である。

・・・

(2)《自己が霊的存在であることを瞑想せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   生命の真理を自覚する為には、
   自己が永遠の生命であり、不滅の生命であり、
   無限の智慧と愛と生命とにみたされている所の
   霊的存在であるということを、

   常に瞑想することが必要である。

・・・

(3)《「 今 」 を完全に生きよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/776fdceb9039fb5d186d29d1946ce6ba


   (抜粋として)

   今を生かせ。

   「 今 」 は実相世界に既にあるところの勝利が
   現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

   「 今 」 を支配するものは
   過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
   未来永劫に ただ悦(よろこ)びの生活を送ることが出来るのである。

・・・

(4)《最初の一回が大切である》

   “一ぺん位良いだろう。なんでも経験してみなければ分らない”
   などといって
   煙草を喫んでみたのが抜きがたい喫煙壁の始まりであったり、

   一ぺん競馬、競輪に賭けてみたとき、
   旨く大穴に当てて賞金がとれたのが病みつきで、とうとう働かずに
   賭け事ばかりの熱中して財産も人格も滅茶苦茶にしてしまう人もある。

   “一ぺんは赤線街を覗いてみないと話にならぬ”と
   遊里に足を踏み入れたのが因で、商売女にひっかかって
   生涯を堕落に身をもち崩すことになる人もあるのである。

   小事大切、最初の一回が大切だ。

   トルストイの『復活』の女主人公カチューシャは、一回だけ、
   その雇主なる公爵の息子ネフリュードフに貞操を犯されたのが因で、
   その生涯を堕落せしめることになったのである。

   ”行為”は一回であっても”業”をそこに造るのであり、
   “業”は“業”自身の力によって自動し始める。

   そして人間は往々、この”業”の自動力に
   引きずり廻されることになるのである。

   これを「業力によって転ぜらる」というのである。

・・・

(5)《“そのままの心”になって潜在意識を淨化せよ》

   潜在意識は受動的であり、現在意識が知覺をもって感じるところの印象や、
   それによって反応する現在意識の感情の起伏が潜在意識に蓄積されていて、
   潜在意識の司る生理作用の調節を混乱状態に陥れるのである。

   「そのままの心」なるということは、このような混乱から、
   自分の心が自由に解放され、大生命の叡智のそのままになる
   ということである。

   泳ぎを知らぬ人が水に跳び込んでも、
   そのままの心でゐれば沈むことがないのである。

   水面に“大”の字に寝て全身が平等に浮いて沈まなければ、
   その人の心に偏りがなく、不安がなく、恐怖がなく、
   そのままの心であるしるしである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4323

            <感謝合掌 平成30年7月10日 頓首再拝>

【十一日の法語(7月11日)】 - 伝統

2018/07/11 (Wed) 04:15:30


(1)《克服する物 大なれば自己が偉大となる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/24caecd2bd3a94e474310e22df9b6492


   (全文掲載)

   スター・デーリーは困難を克服した時
   自分の中に潜在する能力がもっとも強く発揮されるといって
   午前四時に必ず起きて精神統一の修行をする事にしたのである。

   彼は獄中を出た後もっとも自分の不得手である所の
   文筆と講演とで生活することにした。

   しかも彼の文筆と講演とによって救われる人は随分沢山あるのである。

・・・

(2)《肉体を神の栄光のために捧げよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   肉体の自己を否定し、肉体の欲望を否定し、ニセモノの自分を抹殺し、
   肉体を神の目的までささげることによってのみ
   人間の実相の完全さは現われて来るのである。

   百万の敵軍を殲滅(せんめつ)するよりも
   汝(なんじ)の内に宿る低卑なるものを征服する方が
   偉大であるのである。

・・・

(3)《善 と 愛 と 深切 の言葉のみを語る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d9d1b98e2cc1f03767bbd615155ac9a0


   (抜粋として)

   われは今日、善と愛と深切の言葉のみを語るのである。
   われは それ故に愛と深切のみを刈り取るのである。

   自分は言語(げんご)が神であり、創造者であることを知ったのである。
   だから、今後自分は善き事のみを語り、善き事のみが実現するのである。


・・・

(4)《過去の”悪業“に負けるな”善業“を創造せよ》

   潜在意識の録音テープは、吾々のテープレコーダーよりも、もっともっと
   精妙に一切の自分の想念・言葉・行為を記録して、どんな精細なことでも、
   それを記録からはずしてしまうことはないのである。

   そして録音テープをテープレコーダーにかけて音を再生せしめるならば、
   前と同じ音をそのまま繰り返すのと同じように、

   一度我々が行った行為は、同じような環境条件が再来したときに、
   同じような行為を繰り返すことになり勝なのである。

   (意志の力によってそれに抵抗し、新たなる良き業を創造するときは別である。)

   諸君は常に新しき”良き業”を創造して、”悪しき業”があらわれて
   動き出す隙間を与えぬようにしなければならないのだ。

・・・

(5)《悟りによって人間が健康になる理由》

   人間が“そのままの心”なるとき、
   潜在意識は偏光のない歪みのないレンズのように
   大生命の叡智をそのまま素通しに生理作用に反映し出すことになり、

   大生命そのままの叡智は人体の設計者であり、
   最初の創造の技術者であるから、
   そのままの叡智に生理作用が導かれるとき、
   人体は自然に健康を恢復するのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4324

            <感謝合掌 平成30年7月11日 頓首再拝>   

【十ニ日の法語(7月12日)】 - 伝統

2018/07/12 (Thu) 03:18:55


(1)《せまき門より入れ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bd02b0892e905364c92189f61c0c997e


   (抜粋として)

   安易なる道を選ぶな。
   一つの物事をするのに安易なごまかしの道と、
   刻苦精励の道とがあるとすれば 必ず 刻苦精励の道を選ぶべきである。

   刻苦精励の道は 遂(つい)には
   必ずその目的を到達する。

   たといその目的が到達されないにしても、刻苦精励そのものから、
   目的それ自身よりも尚(なお)偉大なるものが得られるのである。

・・・

(2)《神の国を迷いで汚すな》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 などの玩具をとりのけて
   その邸宅を清掃した時にのみ
   実相の清らかな邸宅を見ることができるのである。

・・・

(3)《繁栄への道》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f0b648755f87462c2d6035c9abd6ae7a


   (抜粋として)

   繁昌(はんじょう)は 一日にして来らず、
   それが単なる偶然の好運であるかに見えても、

   必ず過去に蓄積されている 善き想念、善き言葉、
   善き行為、善き感情 が現実化して生ずるのである。

   すべての 想念、感情、言葉、行為 の結果は
   実現しないではいないのである。

   繁栄せんと欲する者は、顧客に対して よき想念、善き感情、深切な注意、
   行き届いたサービスの精神 を揮(ふる)い起さなければならないのである。

・・・

(4)《幸いなるかな、安全の水路のみを航するもの》

   ある新しい船員が25年間、船長をしているベテランの海員に、

   「船長となって船を安全に航海させるには、どこにどんな浅瀬があるか、
   どこにどんな暗礁があるかを詳しく知って置かなければならないでしょうね」

   といって訊いたら、

   その船長は、

   「そんな事はありません。どの水路がいちばん深いかを知っていればよいのです。
   浅瀬や暗礁を探し廻っていたら自分の船は幾艘あっても足りません。
   吾々は、唯ふかいところだけを知って、その水路ばかりを航しておれば
   間違いないのです」

   と答えたのだという。

   つまらない経験を「一度は経験しておかなければならない」などとやっていると、
   暗礁にぶつかって自分の運命の船が破壊して沈没してしまうのである。

・・・

(5)《何故、病気が継続するか》

   常に人体には新陳代謝が行われているのであり、
   陳き老衰の細胞は送り出されて、新生の若き細胞がとって代わるのである。

   それ故に吾々の全身の細胞のうち、1年以上も陳い細胞が存続するのは
   極少部分に於いてだけであるといわれている。
   だから肉体の殆ど全部分は頗る若いのである。

   それゆえ、現在、あなたの体のある部分が病気していても、
   その部分の細胞は暫くのうちに送り出されて
   「新生細胞」によって置き換へられるのである。

   それゆえに現在、どこかに病気があっても心配する必要はないのである。
   やがて病気の細胞は送り出される、しかしそれに置き換へられる
   「新生細胞」が病気の想念を擔っていては病気が継続するのである。

   慢性病というのはそれである。

   若しあなたが、病気について思い煩い、
   「新生細胞」にその病気を擔わしているならば、
   「新生細胞」といえども“病念を擔った細胞”であるから
   病気を継続ほか仕方がないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4325

            <感謝合掌 平成29年7月12日 頓首再拝>

【十三日の法語(7月13日)】 - 伝統

2018/07/13 (Fri) 04:14:54

(1)《間断なき奮闘そのものが精神的獲得である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/49ad2fa0c771db5bf69455980ad7e3df


   (抜粋として)

   成功そのものは 概(おおむ)ね 物質的状態であるが、
   間断なき奮闘によって得られるものは
   燦然(さんぜん)たる魂の光輝である。

・・・

(2)《地上の欲望を超えた者は高級霊である》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   されば煩悩の脳熱を消去せよ。
   五官の快楽を捨てて 浮世の欲望を放ち去れ、
   それが汝の魂の向上する道である。

   神の国へ行く道は 「 せまい 」 のである。

   徒(いたずら)に楽行道だと称して、五官の喜びに まどわされるのは、
   サタンに跪(ひざまず)いて礼拝するものである。

・・・

(3)《人の富を非難してはならない》

   (全文は)
   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/69716c487dd8dd8c398cc91ac4318be5

   逆境がやって来たときに、人は 大抵自分よりも順境でいる人や、
   幸福な人に対して 批評的になりたがるものである。

   しかし 他の富を非難する者には、
   自分に対しても 「 富 」 は近づいて来ないのである。

   奪おうと云うものは奪われるのである。
   すべて心の世界に蒔(ま)いたものは
   現実の世界に刈りとらねばならぬのである。

・・・

(4)《「一度だけ」が生涯を誤まる因になる》

   「一度だけ」「少しの期間だけ」「ちょっとの間だけ融通して貰っておこう」
   このような一時的な”小悪“で、誰も知らぬ間に返済しておけば
   それは誰にも損をかけないじゃないか

   ―― などと甘い考えを起こしたのがもとになって、汚職が生じ、
   一生涯の運命を台なしにしてしまった人々は随分たくさんあるのである。

   一寸のことを、おろそかにしたために一切が駄目になることが随分ある。

   「千丈の堤も蟻の一穴から崩れる」という古諺もある。

   何事も行き届いて、小さい過ちでも、
   それをただ一回でもやらないように心懸けなければならぬ。

   一回ぐらい、もう一遍ぐらいと思って、自己を許しているうちに、
   いつの間にかその行為が繰り返されて習慣の奴隷になってしまうのである。

・・・

(5)《あなたが健康を取り戻す簡単な方法》

   あなたが病気の根を断ち切ろうと思うならば、その方法は頗る簡単であるのである。
   新生細胞に、病気を擔わせぬことである。

   即ち、病気が存在するという念を起こさぬこと、病気の継続を心配せぬこと、
   憤り、憎み、不安、恐怖、嫉妬、憂へ、貪り、損失、残念、口惜しい・・・・等の
   感情的歪みをなくしてそのままの心となり、心のレンズに偏光なく
   大生命の叡智そのままの指導を生理作用に受け容れることなのである。

   このようにするとき、新生細胞は悉く大生命の設計した通りの健全さをもっていて、
   それが大生命の本来の設計通りに新細胞を形成し、細胞配列を行うのであるから
   人体は健康になるより仕方がないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4326

            <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝> 

【十四日の法語(7月14日)】 - 伝統

2018/07/14 (Sat) 04:14:07


(1)《裸一貫になることを恐れるな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6d32d10c516fe5d74e13cb6d9ef99cd2


   (抜粋として)

   もしユダヤ民族に対する運命の重圧がなかったならば、

   ダビデの詩篇(へん)、ソロモンの箴言(しんげん)、
   ナザレのイエスの福音、

   これらのもっとも尊きものは発現しなかったであろう。
   民族も裸一貫になって見なければ その真価はわからないのである。

・・・

(2)《影を追いて実を求めぬ者は愚かなり》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   肉体も 現象世界も 影であることを知れ。

   汝ら影であるもののみを追いて、
   実なるものを何故(なぜ)かえりみぬか。

   本当の喜びは 「 実 」 なるものからのみ得られるのである。

・・・

(3)《ただ善事のみ数えよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3c09a72ecfeb3c3ee15ff5f39ad5c544


   (抜粋として)

   人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。
   小さな過ちを廓大(かくだい)鏡で見て
   増大するような事を避けよ。

   善事はどんな小さな事でも これを廓大(かくだい)して見、
   そしてそれを賞(ほ)め語れ。

   さらば他の人々も諸君の過ちを見のがし、
   諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

   それが心の法則である。

・・・

(4)《すべての行為は記録させられている》

   すべての行為は記録せられ数えられ、
   それを清算しなければならない時が来るのである。

   それは宇宙の潜在意識に記録せられているのである。

   自分が忘れてしまっていても、
   宇宙の潜在意識は、個人の超越意識と融合していて、
   或る時期が来たとき、審判して判決を下すのである。

   不幸に逢ったとき、その不幸は、そのとき初めて発生したのではないのである。

   それは過去の或る機会に自分が種を蒔いておいた行為(想念及び感情も
   心で行う行為の一種である)から実ったものの収穫であるのである。

   私たちは幸福になろうと思うならば、
   “善き行為”の種を蒔かねばならぬのである。

・・・

(5)《現在意識・潜在意識・生理作用》

   あなたが感覚にてものを視、如何なる感情又は想念を起こすにしても、
   かくしてあなたが起した現在意識は、その強弱の程度に従って或は強く、
   或は弱く潜在意識層に印象せられ、その印象の程度に従って
   生理作用に影響を与えるのである。

   明るい感情想念の影響は生理作用を強める方向に影響し、
   暗い感情想念の影響は生理作用を沈鬱せしめる方向に影響するのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4327

            <感謝合掌 平成30年7月14日 頓首再拝>

【十五日の法語(7月15日)】 - 伝統

2018/07/15 (Sun) 03:50:26


(1)《困難を超えて来た者には腹が出来る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d04b1db47589c3ed9e466c7c52291ece


   (抜粋として)

   困難と貧乏とは すべての蔽(おお)いをとり去って
   人間を裸にして その尊き実相をえぐり出すのである。

   困難に対して奮闘してきた人のみが
   何が起って来ても、驚かないような魂の平静を
   獲得することができるのである。

・・・

(2)《消ゆる肉体を永遠の存在だと思うな》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)


   愚かなるものは、
   この消ゆる肉体を永遠の存在であると思い、
   それを追求し それを美しく保ち、

   人に好かれ様と思うのであるけれども、
   彼は 魂のみが本当の存在であるということも知らないのである。

   肉体は一時の影にすぎないのである。

・・・

(3)《月が円満なるが如(ごと)く人間は円満なり》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0437d51f25999f55b68c183ace073cec


   (抜粋として)

   この世界は 神の創造し給(たま)える世界であるから
   悪いことは何一つ存在しないのである。

   それはたとえば円満なる満月の如くである。

   それが曇って見えるのは、満月そのものが曇っているのではなく、
   雲が曇っているのを 月が曇っていると間違えているようなものである。

   実相は永遠に曇らないのに、
   人間の心が曇って 実相が曇ったように見えるに過ぎないのである。

・・・

(4)《あなたの表情を明るくする習慣を養え》

   私たちが常に養成しておかなければならない良き習慣は、
   常に明るい心を持ち、明るい表情をする習慣である。

   この世界には“類を以って集まる”という法則が存在するのであって、
   明るい心をもっておれば明るいものが集まって来、
   明るい運命が訪ずれて来るのである。

   眉の間に皺をつくったり、鼻の上部に縦皺をつくって、
   いつも険しい表情をしているような習慣は、その人に、やがて不幸を喚びよせる
   霊波をもって世界に通信しているようなものである。

   少年時代から常に自分の表情を明るく、
   人から懐かしがられる習慣をつくって置けば
   将来必ずその人の運命は発展するのである。

・・・

(5)《人類意識の大海に泳ぐ人々》

   あなたの容貌の若さは、あなた自身が「私は幾歳である」と
   感ずる通りにあらわれるのである。

   容貌の若さだけではなく、体力の若さやスタミナの強さも
   「私は幾歳である」とあなたが始終想っている程度にあらわれるのである。

   地球上には、そこに住んでいあた人類が過去に経験し、
   感じ想って来た想念の波が、
   放送電波のように始終宇宙に漂っているのである。

   これを人類意識と吾々は称している。

   私たち各人は“人類意識”の大海の中を泳いでいる一尾の魚のようなものである。
   だから各人はその人類意識の大海の波(想念・感情の波)の動きに左右せられて、
   生理作用のみならず、原因不明の“心の暗さ”や“心の明るさ”も
   それに影響せられることになるのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4329

            <感謝合掌 平成30年7月15日 頓首再拝> 

【十六日の法語(7月16日)】 - 伝統

2018/07/16 (Mon) 07:07:46

(1)《反対者があるので隙(すき)のない修行が出来る》


   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c0b969f50c318fcfa0d7c4b1fc53e5e4


   (抜粋として)

   吾々の反対者は 実は味方である。

   反対者は吾々の気づかない欠点を
   わざわざ教えてくれる先生である。

   反対者があるので、微塵(みじん)も隙(すき)がなくなる修行が
   できるのである。

・・・

(2)《肉体は死んでも人間は死なない 》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   太陽が輝きて西の空に没するとも
   太陽は死んだのではないが如く、

   人間の魂も、没したかの如く見えようとも
   決して死んでいるのではない。

   人が死するが如く見えるのは、 「 幻 」 にすぎない。

・・・

(3)《そのままの心でおれ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6ca666545d0dbab2b4e16492e8a18459


   (抜粋として)

   その儘(まま)だ。そのままの心になるのだ。
   神に委(まか)せ切りの心になるのだ。

   神の創造(つく)り給いし世界には 何一つ悪いものはないのだ。

   そのままでおれば 水は澄み切っているものを、
   そのままの心を失うがゆえに、
   その心の反映として 万事が波立って見えるのだ。

・・・

(4)《明朗な”ハイ“という返事を》

   返事をするのでも、明るい語調で返事をして、それを聞いている人に
   気持ちの良い感じを与える者の運命は屹度伸びて、
   幸運を迎えることができるのである。

   “ハイ”という発音は文字に書けば同じようであるけれども、
   「うるさい!! 」というように聞こえる“ハイ”もあり、
   面倒くさそうに聞こえる“ハイ”もある。

   私たちは、明朗に素直に、魂の呼びかけに
   魂が溌剌と答えるような“ハイ”という気持ちのよい返事をするよう、
   少年少女時代から習慣をつけておくことが大切である。

   嫁に往ってからや、大人になってから、つとめて、よい気持の“ハイ”という
   返事をするようにしようと心掛けても、その反対の語調で返事をする習慣が
   ついていたり、返事をせずに物ぐさく行動にうつる習慣のついている人には
   “ハイ”という返事を気持ちよくすることは中々むつかしいのである。

・・・

(5)《あなたが常に健康であるために》

   吾々の生命力は、一方に於いて意識(心)の力によって方向を与えられ、
   他方に於いて物理化學的な自然界の法則によって、化合や分解が行われて
   人体が形成せられるのである。

   だから“心の力”を無視することはできないが、
   物理化學的な医療も無視することはできないのである。

   しかし物理化学的な治療をしてをれば、
   心の方はどうでもよいという訳にはゆかないのである。

   三界は唯心の所現であるから
   先ず心を「健康」に振り向けなければならないのである。

   「病気本来無」の“生命に實相哲學”の味読がこのために役立つのである。
   聖経には「心に健康を思へば健康を生じ、心に病ひを思へば病ひを生ず・・・」
   と示されてゐるのである。

   心が一転して本来無病の“實相”の方へ振り向くことを要するのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4330

            <感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>

【十七日の法語(7月17日)】 - 伝統

2018/07/17 (Tue) 03:11:34


(1)《難儀は人生の好機会である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/71dc66790f336c692af2243176a628c7


   (抜粋として)

   人生には千百の好機会がある。
   その好機会とは困難である。

   天理教祖は「 難儀は節じゃ、節から芽が出る 」と
   いったのはそのことである。

   噴水は 狭いところへ押し込まれたので高く昇るのである。

   人間の魂も困難にあってくだけてのみ 高く上(のぼ)るのである。

・・・

(2)《常にそのままであれ 》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   常に単純であれ。
   常に“そのまま”であれ。

   構える心をおこすな。
   “そのまま”の心になれ。
   しかも行きとどくべし。

・・・

(3)《神なる無限供給の源泉と連絡せよ》

   (全文は)
   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ba1fe944a278f2d35d08b5ffb298980f


   (抜粋として)

   神は 万物を生み給うた。
   それゆえに神は無限の富の源泉であり、
   貯蔵庫であることが判るであろう。

   神は無限の富の源泉であるから、
   人間はその無限の富の意識的表出口(あらわれるでぐち)だ
   と云うことが出来るのである。

・・・

(4)《事物の光明面・内在の意義を見ること》

   明るい語調で返事をし、明るい語調で話をする習慣をつけると同時に、
   常に明るい心をもつ習慣をつけて置くことは、
   運命に対して不死身の性格を養うことになるのである。

   明るい心は、どんな不幸も吹き飛ばしてしまって
   幸福を呼び寄せる事になるのである。

   どんな時にも、事物の明るい面を見、不快なことや不幸なことが起こって来ても、
   それの奥にあるところの深い意義を考えて、思い直して見るようにするならば、
   人生には到るところに良き教訓が漲っているのであり、

   自分に対して辛く当る人も、自分を鍛えて下さる鉄槌であり、
   観世音菩薩が夜叉の仮面をかぶって私を善導して下さるのだと思えば、
   明るい感謝の心をもって、万事を迎えることができるのである。

   これも常にそのように心懸けているならば、それが心の習慣となり、
   すべての人に、事に、物に和解して、万事が円滑に搬んで、
   何事も順調に行くことになるのである。

・・・

(5)《あなたが常に若々しくあるために》

   私たちは老人のヨボヨボした姿をなるべく見てはならないのである。
   それは感覚を通して「人間は必ず老いるものであり、老いればヨボヨボになる」
   という観念を暗示として受取り、自分の潜在意識にそれを印象して、
   その模型の通りに自分の肉体を老衰した状態に導くのである。

   私たちは常に若い人たちと交わるがよい。
   そして自分もその若い人たちのひとりであるという暗示を
   受けるようにするがよいのである。

   神想観して時間を越えた境地に入り、人類意識の

   「人間は年齢によって老衰するものである」

   との観念から超出しなければならないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4331

            <感謝合掌 平成30年7月17日 頓首再拝> 

【十八日の法語(7月18日)】 - 伝統

2018/07/18 (Wed) 03:37:04


(1)《偉大なる決意は困難を玉成(ぎょくせい)する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fdc453419bfe8baf348eacbbc47411ca


   (抜粋として)

   ベートーヴェンは、殆(ほと)んど完全に耳聾(しい)てから
   彼のいとも有名な諸作品を作曲したのである。

   ミルトンはその主要な著作を貧乏で病気で盲人になった時に
   書いたものだといわれている。

   偉大なる決意の前には困難は
   彼を縛ることはできないのである。

・・・

(2)《良心は汝にやどる神の囁(ささや)きである》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   汝の内なる魂のささやきを
   無視してはならない。

   神は 汝の魂の内にあるのである。
   良心は 汝の魂の内なる神のささやきである。

   高き理想は 汝の内にやどる神のみこころである。

   常に高き理想を描きて邁進(まいしん)するものは、
   常に神につかえている者である。

・・・

(3)《静かに坐して実相を観(み)よ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/379ab23c8551c38c4fb493db9ffed702


   (抜粋として)

   静かに坐して 神の完全なるを観ぜよ。
   そして神の無限の愛と智慧と、無限の供給とを観ぜよ。

   観ずる程度に従って
   実相の円満完全な相(すがた)があらわれて来るのである。

・・・

(4)《現行憲法の不道徳性》

   現行の憲法は、人間の道徳性を破壊して、
   善悪の基準を混乱せしめるようにつくられているのである。

   数ヵ月前の出来事であるが、ある会社に入社のとき、一人の女性が、
   妊娠して子供が出来たら職場から退くという契約書を入社時に
   その会社に入れて就職したのであった。

   ところが、彼女が子供を産んだので入社時に契約した通りに、
   会社はその女性を解雇したのであった。

   何年か経ってその女性は不当解雇であるから、
   解雇期間も就職中と認めて賃金を支払えという訴訟をした。

   すると裁判所では、
   憲法第十四条にはすべての国民は法の下に平等であると規定されており、

   憲法第二十七条には「すべての国民は、勤労の権利を有し義務を負う」
   とあるから、

   婦人にして子供が出来たから解雇するという約束は、憲法に
   規定されたる法の下に平等の権利と勤労のとを犯すところの契約であるから、
   そのような契約は本来為すべからざる契約であり無効である。

   それゆえ、原告の要求通り、会社は解雇中の給料を支払うべし
   という判決が下ったのであった。

   これでは「人間はウソをついてもよい」という判決をしたわけである。

   「相互の契約があっても、基本的人権と称するものを侵害する契約は無効である」

   というのであり、

   「相互の信頼による契約」よりも、憲法の屁理屈的解釈の方が優先する
   というのであれば、今後、人間は相互に約束を信頼できないことになり、
   滅多に契約できないことになり、社会的秩序が混乱してしまうではないか。

   しかも契約に従って解雇され、出勤していない期間の給料も
   会社側が支払わねばならぬというに至っては、
   会社の財産権というものは無視されているではないか。

・・・

(5)《自分自身を“人類一般”のレベルに堕すな》

   年老いて老衰するというのは人類意識の中にある観念の型であるけれども、
   その型に、はまり易くなるのは自分が“人類の常識”にみずから許して
   同調するからなのである。

   そんな“人類の常識”に同調して、
   自分という人間を“一般化”にまで引き下げる必要はないのである。

   人間は“神の子”であるというのは、
   “一般化”の人間になることではなく“個性ある自己”になることである。

   人類一般が六十歳で老衰してしまおうとも、
   自分はそのように一般化する必要はないのである。

   人類一般が七十歳で老衰してしまおうとも、自分はそれに迎合して、
   自分も亦七十歳で老衰して人生に役に立たぬ人間になる必要はないのである。

   人間よ、あなたが“神の子”であるということは、
   あなたには個性ある自由が許されているということである。

   そして時間の制約さえも超え得る自由をもつということである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4332

            <感謝合掌 平成30年7月18日 頓首再拝>

【十九日の法語(7月19日)】 - 伝統

2018/07/19 (Thu) 04:04:59

(1)《重きものは筋肉を発達せしめる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/508c64494605c4fb3ce67545161615bf


   (抜粋として)

   もっとも美しき、もっとも強き、もっとも高邁(こうまい)なる性格は、
   温室のような環境では育たないのである。

   それはもっとも美しき筋肉美が、重きものを動かす運動をしないで
   発達しないのとおなじことである。

   環境の重圧に耐えて来た魂の筋肉美こそ最も美しいのである。

・・・

(2)《自己の迷いで縛られるな》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   いつまでも囚人(とらわれびと)の如(ごと)く
   煩悩の繭の中に眠っていてはならない。

   煩悩の繭を食い破って
   自己解放をとげなければならないのである。

   煩悩の糸に縛られるものは
   囚人(しゅうじん)である。

   煩悩の糸を悉(ことごと)く摧破(さいは)し
   克服したものが仏である。

・・・

(4)《現行憲法はこのように悪用される》

   現行憲法にもとづいて「ウソをついてもよい」という判決をした実例が
   さらにもう一つ出たことが最近また一つあるのである。

   それは横浜市港北区日吉東町一七七五小泉方、県誠而氏が東北大学経済学部を
   卒業して三十六年四月一日富士通信機製造株式会社に入社したが、入社までの
   経歴書には、学生時代共産党員であったことを書かずに経歴を胡麻化して入社した。

   それは経歴を偽ってウソをついて入社したのであるからとて、
   会社側は県氏を懲戒解雇したのであった。

   それに対して県氏は解雇無効確認請求訴訟を提起した。

   その訴えは東京地裁民事十一部で審理されていたが、駒田駿太郎裁判長は、

   「共産党員であったことを理由として解雇することは憲法第十四条の「法の下に平等」
   の原則に反し、憲法第十九条には”思想及び良心の自由“が保障されている
   のであるから、自分の思想を隠すことも、思想及び良心の自由の権利に含まれている
   のであるから、このウソをついたことは合憲性であって違憲性でないから、
   これを理由とした解雇は無効であるから、解雇中の賃金九十四万四千六百五十五円を
   原告に支払うよう会社側に申し渡した」

   というのである。

   ・・・・・・尚その理由による解雇無効は継続しているのであって、
   永遠に解雇できないとしたら会社側は永遠に出勤せざる県氏に給料を支払わされる
   のであろうか。

   ウソをつくのも、「思想及び良心の自由」の中に入る現行憲法は果たして
   正しいのであろうか。

   「思想及び良心の自由」といって全国民が平気で真実を語らずウソをつき出したら、
   人間相互の信頼は失われ、社会の秩序は混乱してしまうではないか。
   毎日毎日がエープリル・フールの状態になるのである。

   こうなればまことに現行憲法は益々道徳無視の憲法であるという
   馬脚を暴露したといわなければならないのである。

・・・

(5)《心から“弱さ”を追放せよ》

   人間が常に若々しく健康であるためには、心に“健康”を常に想念して、
   “弱さ“を自分の心から訣別すると共に、
   健康の法則を蹂躙してはならないのである。

   反感や逆念を起さず、暗悪の想念感情を起さず、常に明朗快活であると共に
   他の人たちの幸福をねがって、苟も人々に対して何らかの害念をも
   懐いてはならないということである。

   他の人々の幸福を願う心のみが自分に幸福を与えるのであり、
   他の人々の健康を願う心のみが自分に健康を与えるのである。

   他の人々の健康のために祈れば、自分の内にある不健康の観念が
   自分から追放されることになるのである。

   愛する者のみが、必ずしも自分の愛する相手から愛されないにしても、
   神から愛されるのである。

   神がその人の味方であるのである。

   悦べ喜べ、人は常に孤独では無いのである。
   神はあなたの側に常にい給うのである。

   神はあなたに常に愛と祝福の微笑を投げかけていられるのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4333

            <感謝合掌 平成30年7月19日 頓首再拝> 

【ニ十日の法語(7月20日)】 - 伝統

2018/07/20 (Fri) 03:47:26


(1)《困難は魂を浄化する》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bfdb706a940194f3ffea807b7423de3b


   (抜粋として)

   人生は一見 有用なるものばかりでは
   成り立ってはいないのである。

   人生に不用に思われる摩擦や困難が
   吾々の魂の清浄作用に役立っているのである。

・・・

(2)《精進努力は実相実現の鑿(のみ)である》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   忍耐、克己及び精進努力は
   実相を実現するために
   トンネルを穿(うが)つところの鑿であるのである。

   吾々は精進努力して煩悩の岩を穿って
   魂の自由なる境涯まで達するために
   トンネルをうがたなければならないのである。

・・・

(4)《果たして現行憲法は道徳的に正しいか》

   人生の最初の出発の方向が正しければ
   その人の到着点もただしいということができるのである。

   出発の最初に於いて、反対の方向に向かっているならば、、
   努力して前進すればするほど、到着点から遠ざかってしまうものである。

   単に目標から遠ざかって行くだけではほろびの道を歩むことになるのである。

   「良心の自由」などというような事が現行憲法に定めてあるとするならば、
   「泥棒するのは正しいと思う。貧しき者が富める者から奪うことを自分の良心は
   善とみとめる」ということを国民がいい出して到る処に盗みが発生しても、
   裁判長は、これは憲法第十九条で定められている「思想及び良心の自由」であるから、
   何ら違法性はみとめられないという判決を下すであろうか。

   こんな歪曲自由の憲法があってよいものであろうか。

・・・

(5)《健康のためには獸肉食を避けよ》

   善念を起すとき、健康に必要なる内分泌が分泌せられる。
   あなたが常に善念をもちつづけるとき、その善念は、大生命の叡智をして
   少しも歪みなくあなたの“心のレンズ”を透過して潜在意識に入らしめ、
   その潜在意識の指導によって生理作用が健全なる方向にいとなまれることに
   なるのである。

   しかしながら、肉体的方面の注意もまた肝要であるのである。
   肉体は魂(生命)の棲む“宮”であるからそれを清潔にすることを
   怠ってはならないし、清淨にして、健康な食物をその人の体格に応じた
   適当な分量をとるがよいのである。

   近代の健康食だと考えられている獣肉食の如きは、
   人間を肥滿に導くかは知らないが、
   それは自然の健康な肥滿ではないのである。

   体重重がある標準以上になることは、
   あまり痩せすぎているのと同様に不健康のしるしである。

   巨大な体格・体重をもつ横綱たちが、
   “栄養々々“と美食を過食するために糖尿病にかかって
   土俵を降りて行く実例をみるのは誠に遺憾なことである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4334

            <感謝合掌 平成30年7月20日 頓首再拝>

【ニ十一日の法語(7月21日)】 - 伝統

2018/07/21 (Sat) 03:30:58


(1)《困難を見ず真直(まっすぐ)に行け》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bf578e341a2f4eb53f68fe99473b6ca7


   (抜粋として)

   どんな困難の前にも困らないで
   常に楽しい精神状態でいるもののみが
   人から歓迎されるのである。

   困難を言葉で表現すれば困難は増大する。

   真直に行け。
   断じて行け。

・・・

(2)《実相は肉体よりも尊い》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   天地は失せても魂の喜びが消えないほどの境地に達したものほど
   実相を悟るものだといわなければならないのである。

   古人曰(いわ)く、
   朝(あした)に道をきかば夕べに死すとも可なりと。

   実相を知る悦びは、肉体の御利益を超越しているのである。

・・・

(4)《業は連鎖反応を起こしてついに性格破産に導く》

   諸君は現行憲法にどのように定められているにしても、
   「憲法が許しているから、ウソをついてもよい」などと甘いことを
   考えてはならないのである。

   最初の一つのウソが暴れたら困るというので、
   最初のウソを覆い隠すためにその人は次のウソを言う。
   そのウソを胡麻化すために、また次のウソを言う。

   こうしてその人はウソを告く業を重ねて、業の連(金偏の)の縛り
   の中で、本当の「良心の自由」を失ってしまって「ウソも方便、
   ウソをついても俺の良心はとがめない」などと空を嘯ぶく。

   これは最初のウソの行為が循環的に連鎖反応を起こして、
   ついに良心を麻痺せしめて、その人を性格破産に導く実例である。

   「良心の自由」ということは、そのような「どんなことでも正しいと思う
   自由がある」という意味ではないのである。

   そんなことをいう人は「良心の麻痺した人、良心が麻痺して自由を失った人」
   のことなのである。

・・・

(5)《食物は心を左右する》

   日本政府はメキシコから流行病の菌で汚染したかも知れない牛肉を
   加熱装置で消毒した保證のあるものならば輸入することにしたという
   報道をきいて私は愕然として驚くと共に悲しんだのである。

   何のためにそのような不潔な獣肉を輸入して国民の血液を
   よごさねばなないのか私は政府要路の人たちにききたいのである。

   「食は心なり」という諺もあるのである。

   肉食をする獅子や虎や狼は獰猛であって自己の食欲を滿たすためには
   他の生命を傷つけることを何とも思わないのである。
   そして平常は働かずに懶けている。

   懶けていて貪り喰いたいのが肉食獣の性質である。
   日本も戦後肉食が殖えて来るにしたがって懶けていて貪りたい人間が
   次第に殖えているのである。

   即ちストライキや遵法闘争で出きるだけ働く時間を少なくして
   収入を貪りたい肉食獣的パターンの人間が増加しているのである。

   この事は「類を以て集まる」といふ法則からも説明できるが、

   人はその食する食物によってその性質が左右という
   「食心一元」の理からも説明できるのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4335

            <感謝合掌 平成30年7月21日 頓首再拝> 

【ニ十ニ日の法語(7月22日)】 - 伝統

2018/07/22 (Sun) 04:38:50


(1)《一念不動、ただ前進せよ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ab37262da69318d6ba602b25340bc5a7


   (抜粋として)

   一念不動である。
   傍目(わきめ)をふること勿れ。

   目的以外に精力を浪費しないものは、
   遂(つい)に目的を貫徹するものである。

   特に仕事の最中に机の上に色々の物を置いて
   気を散らしてはならない。

・・・

(2)《未来は今日の想念の中にある》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   今なすべきことを明日にのばすな。

   今時々刻々自己の完全なる生命を生ききれ。

   今を生きないものは永遠に生きることはできないのである。
   今生きよというのは今魂のことを生きよということである。

   自分の生命を時々刻々神にささげたるものとしなければならない。

・・・

(4)《「良心の自由」の本当に意味するもの》

   ”良心”というものは人間に宿るところの“普遍的神性”の囁きであって、
   万人共通の善悪の規準をもっているのである。

   だから、「殺す勿れ」「盗む勿れ」という風に人類共通の判断を下すのである。

   その判断を正確に実行することが、「良心の行使の自由」であって、
   その良心の判断を色々に胡麻化して、「殺すこともよい、盗むこともよい、
   ウソをつくのもよい、私の良心は、自由自在に時によって判断をかえる自由がある
   のである。これが憲法に定められている良心の自由である」などというのは、
   実は「良心の自由」を失って「良心の麻痺」である。

   「良心の自由」と「良心の麻痺」とは全然異なるのであろう。

   自由を確保した良心は、磁石が一定の方向を示すが如く、常に一定の行為の規準を示す。

   しかし麻痺した良心は、常に一定した規準を示すことなく、磁性を失い、
   磁性が麻痺した磁石の如く、常に一定の方向を示さず、出鱈目な方向を示すのである。

・・・

(5)《食物は容貌及び性格を變化する》

   徳川幕府時代の美人が面長であったのは歌麿の浮世繪を見てもわかるのであるが、
   近代に於いては円ぽちゃの美人が殖えて来つつあるのである。
   それは食物の關係からであることが証明されるのである。

   肉食獣の顔貌は肉や骨を咬みくだくために顎の力学的関係から
   支点から重点に至る距離が短いほど、力を少なく加えて咬みくだく力が強くなるので、
   顎が前方に長く伸びずに横に張ってゐるので円顔になるのである。

   肉食を幼い時から続けていると、歯の形も肉食獣に近づいて来たのである。

   即ち草食動物には野菜等を咬み切るためにもっている菜刀の形をした門歯が
   発達しているのであるが、獣食肉を多食する人の門歯がだんだん肉食獣の歯
   即ち犬歯に似て来てその先端が尖って来つつあるのである。

   食物がこのように生理作用までも変化する力があり、
   生理作用は潜在意識の支配するところであることを考えると、
   食物の変化が“意識”に影響を与えることは類推するに難くないのである。

   即ち獣鳥肉を多食するときは、平和的な門歯が戦闘的な犬歯に変形すると同じく、
   それを食する人の精神状態が平和的性格から好戦的性格に移行することは
   やむを得ないというほかはないのである。

   肉食愈々多くして、平和を叫びながら、
   平和を理由に戦争や闘争を繰返す人類の現状を見るとき、
   食生活の平和化の必要を私は痛感せずにいられないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4336

            <感謝合掌 平成30年7月22日 頓首再拝>

【ニ十三日の法語(7月23日)】 - 伝統

2018/07/23 (Mon) 03:32:00


(1)《天才とは精神集中者である》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ec3b774567c5bc697f856d6c4867f7cf


   (抜粋として)

   まず一人一目的に精神力及び肉体力を集中すべきである。

   一人一目的に集中する時 余程の凡庸なるものも
   必ずその目的を貫徹することができるのである。

   寧(むし)ろ天才とは巧みに事物に興味をもって
   精神力を集中し得た凡庸人とも云(い)えるのである。

・・・

(2)《肉体を十字架につけて新生せよ》

   (全文は)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾々は肉体だと思ってはならないのである。
   肉体はイエスと共に十字架につけ抹殺してしまったのである。

   かくてキリストと共に吾は新生するのである。

   古きはすでにすぎ去り、
   みよ 汝 新しくなり 霊的存在となったのである。

・・・

(4)《日本はこれでよいのか》

   最初の間違った実行が、それが連鎖反応を起こして重なるに従い、
   それが習慣となり、習慣が第二の天性となり、本来の天性なる”神の子”たる
   正しい良心の判断を麻痺せしめてしまうことになるのである。

   一事が万事を惹き起こす。
   類が類を招き寄せて、悪業がふくらんで行くことになるのである。

   例えば「なまける」という悪徳の一つがその人の習慣となると、
   職場や色々の会合への出席時間に遅刻することが起こり、
   「なまけていまして遅れました」などと正直にいっては、相手の気持を害する

   と思って、他にウソのアリバイを作って遅刻の理由を言い訳をする
   ・・・・・こうしてウソを覆い隠すためのウソを生じ、
   更にそのウソの辻褄を合わせるためにウソをつかざるを得なくなり、

   彼はついに「欺く勿かれ」「妄語する勿かれ」の戒律に対して不感症になり、
   換言すれば「良心の麻痺症」に罹るのである。

   そして、しまいに「ウソをつくのを正しいと思う思想の自由、良心の自由」を
   強調してそれが当たり前にだと思うようになる。

   そんな人間が、神聖なる裁判の法廷に裁判長となって、
   「ウソを言った人」の味方に立ち、「これは憲法に定められている良心の自由」
   であって、「違法ではない」と判決して、
   正しい人が馬鹿を見て、悪い人の行為が合憲法であるとせられる。

   果たして、日本はこんなことでよいのだろうか?

・・・

(5)《肉食生活を続ける限り世界に平和は来たらず》

   私はアメリカへ行ったとき、立派な宗教家で尊敬に値する地位にある米人と
   会食した際に、その米人が鶏肉を串に刺したやうに、大腿部の肉から
   突き出ている骨を指先で握りながらその肉を貪り食っているその姿を見た時に、
   平和を唱えながら日本に原爆を落とし、ベトナムで血を流している米人の性格の
   根元をみたような気がしたのである。

   「これでは世界に平和が来るのは未だし」といふ感を深うした訳である。

   日本人の食生活が段々アメリカ化して肉食偏重に傾いて来つつあるとき、
   「ヤンキー・ゴー・ホーム」などといっても外部の米国人を追い払うことができても、
   内臓の中までも侵入して来て血液を、そして精神をも、肉食獣化して来つつある
   外来毒素を一体どうするつもりであろうか。

   「ヤンキー・ゴー・ホーム」はその米国的食生活を追放させなければ、
   精神までも「大和」から「好戦的」に変えてしまいつゝあるのである。

   外部へ向かってくに国際的に戦争するかわりに、毎日ゝゝ、賃上げ闘争、遵法闘争、
   学生闘争、何々闘争・・・で開け暮れしている現状の根元的原因の一つは、
   その門歯が肉食獣化しつゝある原因と同じものであるのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4337

            <感謝合掌 平成30年7月23日 頓首再拝>

【ニ十四日の法語(7月24日)】 - 伝統

2018/07/24 (Tue) 03:32:52


(1)《精神の粘着力が天才を作る》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7530021d527f8133a5f10acfbfa4510a


   (抜粋として)

   或(あ)る人はいう。

   「 天才は忍耐なり 」 と。

   まことにも天才は一つの目的に
   精神力を粘着せしめて放さない人である。

・・・

(2)《過去の悪は既に無いのである》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   過去に行いたるすべての悪しきことは
   霊に属せざるものであるから なげくことはないのである。

   それらは 「 肉体無 」 を悟って、
   一度 肉体の無を悟った後には キリストと共に復活して
   「 吾は決して罪なきものである 」 ということを
   知らなければならないのである。

・・・

(4)《一度でも良心を欺いてはならない》

   ギリシャの哲人プラトーは自分の部屋の扉に
   「幾何学を知らざる者はこの部屋に入る勿かれ」
   と書いて貼っていたと伝えられている。

   それは単に数学の一部門たる幾何学に重点を置いたというよりは、
   「数学的に正確にものを考える者のみを歓迎す」という意味である
   と私は思うのである。

   「こうすれば、こうなる」という精確な判断は“幾何”
   (現今は、“図形”という名で学校で教えられている由)
   の勉強によってきたえられるからである。

   一つの行為が次の行為が次の行為を引き起こして、
   それが次第に強力な業となって自分を縛る綱となるというような推論は、
   精確な幾何学的頭脳によって判るのであって、

   「一ぺん位は煙火(たばこ)を吸ってもよいであろう」
   「一ぺん位は赤線地帯で遊んで見た体験は自分の人生を豊富にするだろう」

   などということを考えて、自分の良心の囁きを、色々の口実で、
   一ぺんでも胡魔化したら行く行く自分の鋭角はどうなるか――
   精確な幾何学的推論で考えるがよい。

・・・

(5)《古川大航老師の絶対菜食・絶対健康》

   ラジオやテレビや新聞雑誌で肉食を良質の食物であるとして、政府までも
   国民の健康上、肉食奨勵に協力する立場をとっている如き
   放送などを聴くのは残念である。

   菜食・穀食で健康が長く維持できないといふことは決して無いばかりか、
   肉食の消化・発酵中に起こる分解過程に於いて生ずる毒素は、
   植物食では軽微であるけれども肉食による蛋白質分解産物中には、
   人体に対して猛毒として作用するものを生ずるのである。

   それは腐敗蛋白質を食した時と、腐敗植物食を食した時との、
   人体に対する中毒的反応の強弱を見れば明かなことであり、

   結局、肉食の過多は栄養学的に言っても酸性食の過多となり、
   更に蛋白質の分解毒素を毎日少量ずつ吸収しつゝあるのであるから
   人体細胞が多少とも中毒し、速かにその老衰をはやめることになるのである。

   禅宗妙心寺派の管長古川大航老師は九十六歳にして壮年の如く海外に
   宣教旅行をすること数回、絶対菜食であって、海外に於いても信者が
   絶対菜食を用意していて、ダシにさへ獣鳥魚肉一切を用いない
   清浄食を食されるのであると承ってゐる。

   九十六歳にして尚、壮者を凌ぐこの老師の精力を見るとき、
   人間に動物性蛋白が必要だといふ臆説は砕けてしまうのではないか。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4338

            <感謝合掌 平成30年7月24日 頓首再拝>

【ニ十五日の法語(7月25日)】 - 伝統

2018/07/25 (Wed) 04:42:20


(1)《外界の擾乱(じょうらん)に心をとらわれるな》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e896837bb6be08abb50b5c0ea851c443


   (抜粋として)

   どんな時にでも心を散乱せしめるようなものは
   大業(たいぎょう)をなすことはできないのである。

   一念集中の力は一大磁石の如(ごと)きものである。

   次第次第に周囲のものをひきよせて、
   そして遂(つい)に偉大なる仕事を成就するのである。

・・・

(2)《浮世の喜びは玩具(おもちゃ)に過ぎない》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   幼き童子に玩具(おもちゃ)が必要な如く、世間的名誉も
   人間の或る時代の魂の発達には必要なものであるのである。

   然(しか)し魂の成人したるものは
   かくの如き玩具(おもちゃ)の喜びを捨てるのであって、

   そして古き魂の習慣を脱皮して
   新たに肉体の子から神の子に生れ更(か)わるのである。

・・・

(4)《一つの行為が自分の性格形成に如何に影響するかを考える》

   業というものは、深く自分の潜在意識の海の底に、
   自分の「良心の自由」の信仰を停止するための錨となって重く沈む。

   既に出航の時間が来ているのに、そして出航の汽笛が吹奏され、
   銅鑼が鳴り渡っているのに、その船は動かないのである。

   それは何故であるか、卸していた錨が重く海底に沈んでいて
   船の足をひっぱっているからである。

   悪習慣 ―― なまけものの生き方 ――一 つが重い錨となって
   その人の足をひきずり、全生涯を崩してしまうこともある。

   出席日数不足で、2回も大学卒業を辷った青年もある。
   それが不思議なことにもう1年その大学にいて今度こそは卒業証書を
   もらいたいというのである。

   卒業証書という紙よりも重大なのは、自分の性格形成である。

   日々の”なまけ”が如何なる性格を形成するか、
   もう少し幾何学的に、数学的に計算してみるとよいのである。

   三度も同じ大学に止まって、同じ先生から同じ学科の講義を聞くのは
   中々退屈な修行だと思うので、今学年もまた出席日数不足で落第
   ということにならねばよいがと心配してあげている訳である。

・・・

(5)《二十五日の法語  菜食動物と肉食動物との性格の相異》

   牛や馬は菜食動物であるが、その性格に戦闘的なところは少く、
   柔順にして勤勉、よく忍耐の徳を保って働くのである。
   その容貌は面長であって平和である。

   これは食物の関係からも来ているに相違ないのである。

   私は今、最近逝去せられた一燈園の開祖西田天香老師が
   やはり九十六歳の高齢であったことを思ひ出すのである。

   天香老師は“無相の生活”を理想とせられたので、
   古川大航老師のように接待菜食を堅持することなく、頼まれて托鉢奉仕に
   出向かれた先で出される食物を差別なく合掌して“仏物”として
   食されたのであり、

   このような心境に於いては、京都医大島薗内科でビタミン絶対欠損の食事を
   実験的に二ヶ月間試みられたけれども脚気の症状は全然あらわれなかった
   という体験の持主である。

   心境の浄化は、食物の良不良を超える実験である。

   それでも無差別に何でも拝んで食された食物の中には動物食もあったであらう
   と思われるが、動物食も食された天香老師は九十六歳で示寂、絶対菜食を今も
   堅持せらる古川大航老師は同じ年齢で尚、青年の如く矍鑠たるものがある。

   天授の寿命の問題もあるので、食物のみを原因としては容易に結論を
   与えることはできないが、この両老師の比較はある参考資料にはなると思う。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4339

            <感謝合掌 平成30年7月25日 頓首再拝>

【ニ十六日の法語(7月26日)】 - 伝統

2018/07/26 (Thu) 04:34:31


(1)《人間の能力は太陽の如きものである》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/70f6887d21ea56dd44dc600a70c37eb6


   (抜粋として)

   人間の能力も凡庸のように見えていても
   もしその精神力を集中するならば
   如何(いか)なるものをも 成就する力があるのである。

・・・

(2)《 「 若(も)し・・・ならば 」 と云うな》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   イエスいい給う 「 為(な)し得ばというか。信ずるものには
   凡(すべ)てのこと成し得らるるなり。」
                    ( マルコ伝第九章二十三節 )

   もしも、ならば、だけどもなどというものは
   信仰なきものであるのである。

   信ずるものにはすべての事をなし得られないということはないのである。

・・・

(4)《“良心の自由”について》

   有名な話であって、私たちの少年時代に教科書の採録されていた話であるが、
   ジョージ・ワシントンは少年時代に日常生活に行うべき徳目を百十カ条書いて、

   それを実行し得た時には、その徳目の上に〇を付け、
   その徳目に反いた場合には●をつけて、

   自分の日常生活の習慣が善に傾いて行くための示標として、
   よき習慣をつけるように工夫したということである。


   ベンジャミン・フランクリンもそれに似たことをして
   自分の性格形成に意を用いたということである。

   「思想の自由、良心の自由」ということは決して、
   「どんな悪い思想をもってもよい、自由だ」ということでもなければ、
   良心の判断を誤として、「他の人が悪だと思う行為でも、
   僕には善だと思う自由がある」ということでもないのである。

   良心の正しい批判を完全に行なわしめて、悪によって誘惑されず、
   善を行なう自由を覆されないということである。

・・・

(5)《平和論と殺生食について》

   牛を屠殺場へ曳いて行くときには、何となくそれを感じて牛も涙をこぼす
   ということを私はきいたことがある。

   私は『生命の實相』の本の中でアメリカの屠牛場の悲惨な光景を書き、
   トルストイの菜食論を紹介した。これを読む人がひとりでも多く、
   肉食の残虐行為から遠離せられんことを希望したからである。

   仏教は因果を説く、殺生を十不善の第一誡においてゐるのである。
   そして原因あれば結果は循環して来ることを説くのが仏教である。
   殺すものは殺されるのである。

   人類が動物食を續行し、殺生という悪徳の上に人類だけが繁栄しようと思って、
   いくら平和論を説いても、それは自己の殺生欲をくらます胡魔化しに
   過ぎないのである。

   平和論を為すもの、本当に平和を欲するならば
   肉食という殺生食をやめる事からはじめなければならないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4340

            <感謝合掌 平成30年7月26日 頓首再拝>

【ニ十七日の法語(7月27日)】 - 伝統

2018/07/27 (Fri) 03:50:16


(1)《人生は一路邁進(まいしん)だ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/62cb6664202f07600f39b4052267a49c


   (抜粋として)

   世界は、まっしぐらに一路邁進するものの前には
   自(おの)ずから道を開いて敬意を表するのである。

   人生の前進は「 気合 」によって行われる。

   まず心に実現すべき目的を描いて
   その目標に対して遮二無二(しゃにむに)突き進むのである。

・・・

(2)《現状に飽き足らぬ人は現在が不幸になる》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   吾々の心には
   現在意識と潜在意識とがあるのである。

   現在意識では心のよきものも、
   潜在意識の底に自分の現状にあきたらざる思いがある場合には、
   その現状を破壊して新境地に出でんがために
   現在の環境に斧鉞(ふえつ)を加えて打ちくだいて
   しまうことがあるのである。

・・・

(4)《実践理性の判断をくらましてはならない》

   凡そ、すべての人間は神の子であるから、
   神性の自己批判――即ち道徳規範となるべき善悪の標準――は
   共通的な判断を下すのである。

   「他の人が悪だと思っても、自分には善に思える」などということは、
   “良心”に関する限りあり得ないのである。

   それは二を二倍したら四になるという理性的判断が一つの公理として、
   あらゆる人間の理性の判断に於いて共通であると同じように、

   善悪の理性的判断は共通であるのであって、
   この判断の主体となる理性を、カントは「実践理性」と呼んだのである。

   “殺す勿れ””盗むなかれ“”ウソを告げる勿れ“
   それを犯した場合には、何人も共通に、内心のトガメを感ずる。

   それが人類共通の“良心”即ち“実践理性”による批判なのである。

   しかし或る人は二を二倍して五になると感ずるとするならば、
   その人は精神錯乱か何かであって理性の混乱しているのである。

   それと同じく「”殺す勿れ“などという良心の囁きなどはない」
   という人があるならば、その人は道徳的には精神が錯乱していて
   実践理性が麻痺状態に陥っているのである。

・・・

(5)《“そのままの心”は壽命をのばす》

   西田天香師が京都大学の島薗内科で行った実験では、完全にビタミンB1 を
   抽出除外して“無”にした食物を二ヶ月間食しても脚氣にならなかった
   という実例であるが、

   これによって“心の力”が如何にその人の健康を支配し、
   且つ食物の成分の欠陥を補正することができるかの証拠である
   ということできるのである。

   西田天香師は食物の欠陥を、“悟境”による“そのままの心”によって超越し、
   大生命から流入するところの生命の営みを歪むことなく、そのままに
   受け容れることによって健康をかくまで長く保持せられて長寿を保たれたのに
   相違ないのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4341

            <感謝合掌 平成30年7月27日 頓首再拝>

【ニ十八日の法語(7月28日)】 - 伝統

2018/07/28 (Sat) 03:26:05


(1)《詰まらない仕事が大きな仕事の基礎となる》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7f9d5e54982e0c0db67c5a9f3533617a


   (抜粋として)

   自分の職業をつまらないと思って、
   もっと楽な 成功しているように見える仕事をうらやんで
   心を他にふらふらさせる者は成功することができない。

   どんなつまらない仕事でも、
   それに本当に没頭する時、
   それが基礎になってもっと大きな仕事が
   成就できるのである。

・・・

(2)《常に自己を反省せよ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   汝(なんじ)の潜在意識の中(うち)にある習慣に
   心を振り向けて反省せよ。

   夫の命令に対して 「 然し 」 「 だけど 」 などと考えながら
   言葉だけでハイと答えているようなことはなかろうか。

   人を さばかない積りで
   やはり さばいていることはなかろうか。

   暗いことは考えまいと考えながら、
   ともすれば暗いことを考えていないだろうか。

・・・

(4)《汝自身を清く純粋に》

   諸君は、自分自身の“良心”を麻痺せしめてはならないのである。

   ”良心”とは自己に宿る“神性”であり、
   あなたが“神の子”である本質又は実相であるのである。

   自己の生命の“本質”又は“実相”を麻痺せしめては、
   自己自身の死であるから、どんな肉体の快楽や物質的利益を与えるからといって、
   迫って来ても、あなたの良心の判断によって、
   ”悪い”と感ずることは断じてしてはならないのである。

   あなた自身の良心の囁きを、曇らせたり汚してはならないのである。
   あなた自身を“純粋”に保たなければならない。

   純粋とは、唯ひとすじに自己の本質たる”神性の指示“
   ―― 即ち”良心の判断“に忠実に従って、どんな誘惑が来ても、
   純粋で”二た心“をもたないということである。

・・・

(5)《本來涅槃なくして涅槃に入る》

   人間が地上に生を享けた目的は、“神の子”としての実相“完全のすがた”を、
   より多く展開し、進歩し向上し発展せしめることにあるのであるから、
   老熟ということはあるにしても、老衰というやうな進歩、向上・発展に
   逆行するようなことは本来あり得ないことなのである。

   しかもそれが事実としてあらわれて来るのは、人類が過去長期間にわたって、
   色々の生物の(人類自身をも引っくるめて)生老病死の起ることを眼で見、
   感覚で体験し、心の世界に“生老病死”の観念を受け入れて来た結果なのである。

   人間の実相は神の子であり、本来“老病死”なく、
   金剛身・不可壊身・不滅身であるのだけれども、
   老病死なくして老病死を現わしているに過ぎないのである。

   涅槃経に於いて釋尊はこの真理を説きたまい、人間の老病死を否定しつゝ、
   現象的には老病死をあらわしつゝ涅槃に入り給うたのである。

   この真理は実に意味甚深である。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4342

            <感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>

【ニ十九日の法語(7月29日)】 - 伝統

2018/07/29 (Sun) 04:15:03


(1)《目的を定めなければ生命力は浪費される》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8251179f67290743b8850a8fc55003ec


   (抜粋として)

   目的を定めずに努力しても無効に終ることが多い。

   目的がなければ、目的を心に描くことである。

   最高完全なる あこがれの対象を心に描いて
   それが すでに自分であると念ずることである。

   そしてそれを目的として全力を集中せよ。

・・・

(2)《心に悩みを抱いてはならぬ》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   アルコールを飲用してその習慣からぬけだしたいと
   現在意識で考えながら、それから抜けだすことのできないのは、
   潜在意識にアルコールの麻酔力によってごまかさなければならない
   ような心の悩みがあるからである。

   酒をやめたいと思うものは
   家庭全体に感謝するようにならなければならない。

   そして 「 悪癖がある 」 などと思わずに
   「 酒をのむ自分も無い 」 と知ることである。

・・・

(4)《最初の一回が大切である》

   “点滴、石を穿つ”という諺がある。

   小さい悪習慣を「この位のことは、それほどの悪でない」と
   易々加減な甘い考え方で、悪いと知りながら止めないでいると、
   結局自分の性格を破壊してしまうことになるのである。

   大きな釣鐘をただ一ぺん力を籠めて押しただけでは殆ど動かないのであるが、
   その釣鐘の振り子の振動数に合わせて、繰り返し繰り返し押しているときには、
   何百貫の大きな釣鐘も、ついにはブランコのように揺れてくるのである。

   あなたがかりに、どんなに強い性格をもっていても、一ぺんや二へん位、
   悪い友達に誘われて遊びに行っても、
   それで生活を持ち崩してしまうなどということはないと思っていても、

   一ぺん友達の誘いに乗れば、次の日の誘いに断り切れなくなり、
   それを繰り返すうちに、釣鐘の揺れはじめるのと同じように、
   あなたの盤石の性格も揺れ動いてしまうのである。

   最初の一回を犯せば、その次は幾回でも犯されやすくなるのである。

   女性の貞操でも同じことである。
   最初の一回誘惑に乗ったために一生涯ヤクザにおどかし続けられて
   悪徳の世界から抜け出すことのできない女性もたくさんあるのである。

・・・

(5)《人間は死ぬのではない》

   幸いに最近発行された『生命の實相』豪華携帯版の第十巻は“霊界篇”であって、
   その中でデンマルクの劇作家マグナッセンにあらわれたその父の靈からの通信は
   次の如く述べているのである。

   長い霊界通信であるからその要所の一部を抜き書きするほかはないのであるが、 

   『人間とは神から放射された「理念」である。だから人間は神に属し
   『生命の世界』に住するものであって、彼の信ずるが如くには
   地上の住者ではないのである・・・・・』

   『人間は愈々高く向上するのだ。智慧に於いて優れたるものはその智慧によって
   神から与えられたる使命を果し、愛に於いて優れたる者は、愛によって
   神から与えられたる使命を果す。

   しかし最も智慧に於いてすぐれたる者もやがては最も深き愛を獲得するであろう。
   また愚かなる者もやがて最上の智慧を獲得するであらう。
   そして人類は永遠のタイムを通じて等しき高さに向上する・・・・』

   これは、すべての人間は“神の子”であてえ内部に“実相”として
   無限の完全さを包蔵し、それが“永遠のタイム”を通じて顕現し、
   すべての人間が最も高き神の愛と智慧とを発揮する状態に至るまで
   向上するものだという意味なのである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4343

            <感謝合掌 平成30年7月29日 頓首再拝>

【三十日の法語(7月30日)】 - 伝統

2018/07/30 (Mon) 04:08:15

(1)《よき種子(たね)を播(ま)かねばならぬ》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0ddf2e1f499add58947e7a180e567c85


   (抜粋として)

   善き種を蒔くことは、善き収穫を得ることの前提である。

   善き人格の種を蒔けば、善き運命が刈りとられるのである。

   想(おも)い、言葉、行いは、すべて種となるものである。

   すべての想いと言葉と行いとは
   一種の惰力をもっていて、
   それは結局 形をつくる力となるのである。

   習慣がそれである。

   善き習慣をつくれば
   その次には努力なくして善きものが造られる。

・・・

(2)《悪癖を矯正するには》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   悪しき習慣は悪しきものを征服しようと思うも
   それを克服することはできないのである。

   悪癖にとらわれず、よき習慣を養って行けば
   その喜びのために悪癖は 自(おの)ずから消えてしまうのである。

   喜びにみたされる様になった時、悪癖は消滅してしまうのである。

・・・

(4)《あなたは賢者の道を歩め》

   どんな疫病よりも、悪癖というものはその人の性格を滅ぼしてしまうのである。
   そして悪癖の習慣というものは、“最初の一回”の積み重ねであるのである。

   何人も最初の一回を慎めば、生涯悪癖に苦しむことはないのである。

   悪癖にまで誘惑する友達は、生活を蝕む道徳的ビールスの撒布者であるから、
   そのような友達から遠ざかるのが賢者の道である。

   あなたは賢者の道を歩め。

・・・

(5)《神は活在し給う、死は無いのである》

   マグナッセンの父の霊は、彼の子の手を通して自働書記現象で
   生命不滅の真理を書くのである。

   詳しくは『生命の實相』の霊界篇を讀んで頂きたいが
   “生”と“死”との問題を取扱った今月の法語に
   是非引用しておかねばならぬ数行だけを
   三十日と三十一日の法語の中に書いて置きたい。―――

   『すべての人類よ、神は活在したまう。
   汝も亦神の祝福の微笑を見るであろう。』 

   『母よ。涙に泣きぬれたあなたの眼をあげよ。
   あなたの子は死んではいないのだ。
   彼は今も生きていて幸福である。』

   『妻よ、良人を失いし者よ。汝の良人は、今も尚生きている。
   そして霊界にて神を知れるぞ! 』 

   『愛人を失いて嘆く娘よ、汝の愛人は死んではいないのだ。
   神は彼の上に祝福のほほえみを投げかけていられる!』

   『――この驚くべき福音を全世界につたえることは
   吾が来たりし使命である。
   この福音は全世界にひろがるであらう。
   かくの如くして地上に新しき時代は来るのだ。・・・・』

   このマグナッセンの父の霊が伝えた新しき時代は今、
   次第に来つつあるのである。
   谷口清超氏の訳した『天と地とを結ぶ電話』なる豫言書にも
   この“新しき時代”の黎明を告げる語が載っているのである。
   対照して読めば、一層切実にその事が理解できるのである。

   この豫言書は五千年前エジプトで宗教家だったアガシャという
   高級霊からの通信を紹介したものである。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4344

            <感謝合掌 平成30年7月30日 頓首再拝>

【三十一日の法語(7月31日)】 - 伝統

2018/07/31 (Tue) 04:30:30


(1)《仕事の順序を正しくすること》

   (全文は)
    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/15bd362ebc82593e72c1e5c035e0a828


   (抜粋として)

   物事を良くするには
   順序が正しくなければならない。

   勉強するのでも、参考書をチャンと手の届くところに
   定めて置いておくことが必要である。

   すべての物は 正しい置き場に置くことだ。

   使ったものを蔵(しま)うときには、
   少し遠くとも、面倒でも 元あった場所に
   それを返して置くが好(よ)い。

・・・

(2)《常に神は吾を守り給う》

   (全文は)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


   (抜粋として)

   何よりも大切なのは
   神を自分の近くに、むしろ自分の内にましまして、
   常に自分を守り給うものだと自覚するということである。

   自分の生命が 神より来たり、神に生かされ、
   神 吾を守ってい給い、わが内に宿ってい給うが故に

   吾はとぼしきことなく 淋(さび)しきことなく、
   常に喜びに みたされていることを自覚せよ。

・・・

(4)《悪癖を矯正するための思念》

   しかしすでに悪癖の習慣をもっていて、
   それから脱しようとしても脱することができず、
   常に良心の呵責に苦しめられている者は如何にすべきであろうか。

   あなたには悪癖を心につかんでいて
   それから逃れようと思うから逃れることができないのである。

   “つかんでいるもの”は掴んでいる其の事によって、
   それから離れることができないのは、“心の法則”であるのである。

   それから離れるためには“つかみ”を放さなければならないのである。

   「私はこのような悪癖になやまされている」と心で思うな。
   心で思うことは心でつかんでいることなのである。

   次のように、神想観中に念ずるのがよい。――

   「私は“神の子“であり、神の生命を宿し生れているのである。
   それゆえに私の日常生活は神の知恵に導かれているのであるから、
   決して悪癖などは私の生活にはないのである。

   私は“神の子“あり、ただ善のみを行うのである。


   (例えばその人が喫煙癖の場合には)

   “神の子”はすべてのものを支配する権能(ちから)を
   与えられているのであるから物質に支配されるということはないのである。

   支配される者は奴隷である。

   煙草という物質に支配されて、
   煙草がなくては淋しいというのは煙草の奴隷である。

   私は決して煙草の奴隷ではないから、煙草を吸わなくとも淋しくないのである。

   私は“神の子”として“神の愛”に包まれているから唯このままで楽しいのである。」

・・・

(5)《神の子は神に抱かれ永遠に生きる》 

   マグナッセンの父の霊はその子に対して、つづいてこんな事を書いてゐる。――

   『お前は父の死骸がこう云う風に横たわっているのを見たときに、
   そこに突臥して泣けて泣けてしかたがなかった。
   父の死に対してお前ははじめて大いなる悲しみを感じたのだった。
   死、それはお前にとっては不可解な分解と消滅とに感じられていたのだ。』

   『だが、吾が愛する兒よ。生命というものが、こんなに惨めな何の高貴さも
   ないような有様で終りを告げるものだとお前は信ずるだろうか。
   ・・・自分の内に宿っていた力は果してどうなったか。

   私の心臓を鼓動させ、私の肺臓を呼吸させ、私の生命を生活させ、
   私の手を働かせ、眼と口元とに微笑を湛えさせたその力は一体どうなったか。

   ・・・併し私はお前に告げる――人は神の子であるから神は如何なる
   其の小さき子供たちにも祝福の微笑みを投げかけ給うのである。
   その肉体を去って行く如何なる小さき魂にも微笑を投げかけ給うのである。

   間もなく全世界の人類は、神の造り給える此の世界には人間自身が信念によって
   創作しない限りは何一つ醜いものは存在せず、何一つ悪なるものは存在せず、
   何ひとつ恐怖すべきものは存在しないことを悟るに到るであろう。

   すべての醜さ、すべての恐怖すべきものは何一つ実在ではないのである。
   それは実在するかのような外見を示しているけれども本当は実在しないのである。

   人間の真性は(真に実在する人間は)神の子たる霊性である。

   神の子たる人間の霊は本来聖浄であって
   神は常にその上に祝福の微笑を投げかけてい給うのである。

   死するように見えようとも一切の神の子は神に抱かれ神に導かれ、
   永遠に生きるのである。

   あらゆる人は永遠に生き、神と偕に生きるのである。
   何処にも此の世界には恐怖すべき何者も実在しないのである。・・・・』

   まだこの霊界通信は長くつづいているが、爰にはその一部しか書くことはできない。

   要するにマグナッセンの父の霊は高級霊であって
   生長の家の教える真理と同様の真理を悟って、
   それをその子を導くために語っているのであった。

   http://bbs7.sekkaku.net/bbs/kimidouge/&mode=res&log=4345

            <感謝合掌 平成30年7月31日 頓首再拝>

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