伝統板・第二

2517237
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

内なる宝庫 ② - 伝統

2018/06/27 (Wed) 03:21:41

     *伝統板・第二「内なる宝庫」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6909070

天国は汝の内にあり

       *「光明法語」(6月27日)より

自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 平成30年6月27日 頓首再拝>

あなたの内に一切がある - 伝統

2018/07/10 (Tue) 03:05:54


       *「希望を叶える365章」(P40)より   

今、此処に自分のうちに神が在(ましま)すのである。

神は無限の善であり、無限の愛であり、無限の智慧であり、無限の供給であるから、
今・此処に無限の善が無限の祥福が自分の内にあるのである。

キリストは「神の国は汝の内に在り」と教えている。

まことにも、あなたの内に一切があるのである。

それなのに外にそれらのものがあると思って、自分の内を磨くことをしないで、
外にそれを掴もうとするところに間違いがある。

それは恰(あたか)も映画のスクリーンに向かって、スクリーンにある映像を
つかもうと思って跳びついて行くようなものである。

映画面上の画像は、それ以前に作られたフィルム上の画像であるように、
現象界の事物は、それ以前に作られてある「心の姿」の投映でしかないのである。

あなたが自己の本性の完全さを自覚すればする程、
現象界にはその完全さを実現するために自然的順序ある動きが現れて来るのである。

        <感謝合掌 平成30年7月10日 頓首再拝>

”霊的自我”に目覚めよ - 伝統

2018/07/24 (Tue) 03:44:06


      *『希望を叶える356章』(P5~6)より

自己を信頼し得ない者は、何事も大成することはできないのである。
併し自己を信ずるとは、身長1メートル数十センチ、体重50キロ乃至70キロの
肉体より発するところの僅かなる力を信ずるのではないのである。

本当の自己信頼の底の底には肉体の自己ではなく、
肉体の奥に存在するところの「霊妙きわりなき存在」なる“霊的自我”
 ―― その“霊的自我”を信ずることによって、

“宇宙の霊的自我” ―― 即ち“神”と協同体なる自己を発見し、
その自己を信ずるものでなければならないのである。


肉体の奥に宿るところの“霊的自我”を通して、私たちは“神”と一体となり、
神と協力することが出来、神の無限大の能力を、自己を媒介として実現することが
できるのである。

有限の自己に頼る者は、好運に恵まれている者には景気がよいようであるが、
逆境が来たったときには、ひとたまりもなく崩壊するのである。

自己の霊的自我を通して、神との一体感を有(も)つ者は
逆境に処しても崩折れることはないのである。

         <感謝合掌 平成30年7月24日 頓首再拝>

「神の国は爾の内にあり」 - 伝統

2018/08/01 (Wed) 04:28:45


        *「光明道中記}(8月1日 神想観に心浄まる日)より

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
(生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。

しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを
「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」とあらわしているのである。
「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、
吾々の超空間的な「心」の中に空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

       <感謝合掌 平成30年8月1日 頓首再拝>

内なる神に、信じて求めよ - 伝統

2018/08/20 (Mon) 04:10:19


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月20日)より

求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。

しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。

あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。

そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。

宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。

         <感謝合掌 平成30年8月20日 頓首再拝>

自己の中に一切世界が存在する - 伝統

2018/09/11 (Tue) 04:53:24


        *「光明法語」(8月31日 拝む者のみ拝まれる)より

文殊菩薩が維摩居士を訪ねたときに、
維摩は『あなたは色々の佛の国土へ神通力で自在においでになりましたが
好上妙(こうじょうみょう)の功徳を成就せる佛国土は何処(どこ)ですか』と問うた。

文殊菩薩は答えて「東方に須彌相国(すみそうこく)というのがあり、その国の佛を
須彌燈王(すみとうおう)如来と言い、身長(みのたけ)八萬四千由旬(ゆじゅん)あり、
その獅子座は高さ八萬四千由旬で実に素晴しいものです」と言った。

維摩はこの時、自分の室に、この広大なる獅子座を来入せしめた。

維摩の方丈(一丈四方)の室中に八萬四千由旬(一由旬は九哩<マイル>)の
獅子座が入る事が出来たのは、自己の中に一切世界が存在する真理の象徴である。

         <感謝合掌 平成30年9月11日 頓首再拝>

自己を深く掘り下げよ! - 伝統

2018/10/17 (Wed) 04:37:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月17日>(P102)より

ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。

自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。

自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。

目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。

ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。

人間もまたかくのごときものである。

表面にあらわれている力だけで満足する者は自己の内にただそれだけの値打ちしか
発見することができないが、今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。

何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。

今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。

なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。

           <感謝合掌 平成30年10月17日 頓首再拝>

自己内在の本質を喚び出す祈り - 伝統

2018/10/31 (Wed) 04:23:11


       *「聖経 真理の吟唱」(P186~190)より

私は神の最高の自己実現であるのである。
永遠なる者、無限なるもの、神秘なるもの ―― それが神であり、
その神聖なるものが「自己内奥の本質」として、自分の内に宿っており、
それが毎日一層完全に顕現しようとしているのが地上の人間なのである。


肉体は、単に「自己内奥の本質」なる神性が、
地上においてその使命を果すための道具として
「心の絃(いと)」を組合わして織(お)り上げられた
存在に過ぎないのである。

それは地上における使命を果たす期間だけ必要な
「心の絃」の織物(おりもの)であって、「心の絃」が切れてしまったなら、
肉体の形は崩れ始めて、姿を失ってしまうのである。


だから肉体は永遠の存在ではない。
永遠に存在しないものは、仮りの存在であって「真の存在」ではないのである。
「真の存在」ではないものは、真実の意味において「実在」ではないのである。
それは影の如く、響きの如く、波の如く、唯あらわれているだけのものである。


「あらわれていること」を「真実の存在」だと思ってはならないのである。
それはテレビの画像のようなものである。

それをあらわしている「本当に生きたもの」がその背後にあるのである。
肉体は映画の人物のようなものである。
それをあらわしている「本当に生きたもの」が、
「神の生命」であり、人間の《生命の実相》であるのである。

私たちは、この「本当に生きたもの」「永遠の存在」「神なるもの」を
自己の「生命の真物(ほんもの)」として自覚しなければならないのである。


この自覚を得たときにこそ、「本当の人間」の生活がはじまるのである。

それまでは「本当の人間」の生活を送っていたのではなく、
「人間の皮袋」や「道具」の生活を送りながら、それを間違えて、
人間が生きていたと錯覚していたに過ぎないのである。

そして肉体の欲望を人間の基本的人権だと見あやまり、
肉体の快楽を、人間の 魂 の悦びだと間違えていたのである。

しかし、今や、私は「人間とは肉体に非ず」と悟ったのである。
これは天動説が地動説に変革したよりも尚一層大なる
「人間観の革命」であるのである。

人間が肉体でないと知ったとき、人生が別の光で輝いて見えるのである。

肉体の快楽本能の満足が、「人間の満足」だと過去において思っていたことが、
それが全く価値顛倒であり、それは人間生命の内奥の「神我」が「肉体」という
皮袋の道具となり、捕虜となり、奴隷となって「肉体」につかえていたもの
であったということが分ったのである。


今日(こんにち)より 私は 自己の本質であるところの
「神に生命」を「本当の自己」であると自覚し
決して肉体の欲望の道具とはならないのである。

むしろ肉体を、魂 の要求を満足せしめ、魂 の地上使命を果たすための道具として、
これを霊につ仕(つか)えせしめるのである。

神よ、私の 魂 をこの高き自覚にまで到達せしめ給いしことに感謝いたします。

ありがとうございます。

           <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>

《“内部の霊”のみ“活かす力”である》 - 伝統

2018/11/18 (Sun) 04:00:18


       *『人生の秘訣365章』第10篇(P249~250) より

私たちが生かされているのは、内部からである。
それは傷が治る事実が、内部から肉芽を発生し、
ついに皮膚を再生するに至る事実によって明らかであるのである。

外からの薬品や包帯は、内部から傷が修復されることを妨げないように
外から包むだけのことである。

内部の霊は、宇宙大生命なる太霊につながっており、
其処から、必要に応じて無限に肉体を補修する力を喚び出して来るのである。

自己に宿る“内部の霊”が目覚めた程度にしたがって、
宇宙大生命との通路が一層大きくひらかれ、単に健康の問題のみならず、
あらゆる人生問題に就いて、宇宙大生命の叡智の導きを受けることが出来るのである。

こうして宇宙大生命の叡智と一体になり得た者のみ
本当に自主的生活を送り得るのであって、
その他の者はすべて環境や境遇の奴隷なのである。

何故(なぜ)ならすべて外界に支配される者は奴隷であるからである。

           <感謝合掌 平成30年11月18日 頓首再拝>

あなたの魂の奥底には全智全能の力が宿る - 伝統

2018/12/07 (Fri) 04:28:42


        *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-05-25)
             昭和46年1月9日 ラジオ放送分 より抜粋

インドの神話に、こういう話がございます。

神様はその全智全能の力をもって、神の子を人間としてお創りになりまして、
それに全智全能の力を授けたのであります。

ところが人間は、その全智全能の力を利用して、勝手気侭な振舞いをして、
とうとういろいろの乱行を営むということになったのであります。

そこで神様は、彼にそんな全智全能の力を与えておいたらいかんから、
あれを奪い取って何処かへ隠さなければならないというので、
八百万神を集めて、彼に与えておいた全智全能の力を奪い取って、
どこへ隠したらよかろうかという相談をしたというのであります。

ある神様は、
「その全智全能の力を山の奥へ隠しておいたら、彼は発見しないであろう」 
と言いましたけれども、山の奥などへ隠したのでは、すぐ発見されるというので、
それでは地面の奥深く埋めておいたらよかろうと言いましたけれど、

いや、人間は、やがて科学の力によって、地面の底まで掘り出して、
また探し出して、全智全能を我がものとして勝手気侭な振舞いをするかもしれないから、
地面の底では駄目であるというので、

それではどうしたらよかろうかということになりました。

それは海の底へ埋めたらよかろう。 いや、科学が発達してくると、
海洋開発ということになって、海の底に沈めてあるところの全智全能の力を
また掘り出して、それを使って勝手気侭なことをするということになる恐れがある。 

それではどうしたらよかろうかなどと考えましたけれども、
八百万神は、どこへ隠したらいいか、どうしても見当がつかないのでありました。

その時に、一番中心の神様がこうお仰言ったのであります。

「そういう外の世界へ隠したのでは、科学の力によって必ず発見される。 
けれども、科学の力で発見されない一つの隠し場所がある。 
それはどこであるかというと、彼の魂の奥底だ。 

彼の魂の奥底へ隠しておいたら、彼は外ばかり探して、
ついにそれを見出さないであろう」

こう言われて、人間の魂の奥底に、
全智全能なるものを埋めておかれたという話であります。


この話は、全ての人間には、全智全能なる実相が
宿っているということを表わしているのであります。 

  (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/a21e0ac798a9c0f12258aa4dfcbee9ad )

           <感謝合掌 平成30年12月7日 頓首再拝>

内なる無形の中心(センター) - 伝統

2019/01/09 (Wed) 04:34:33


           *「光明道中記」(1月9日 無字透関の日)より

【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】

靖国神社法に就いて。
戦後、占領軍の指示によって靖国神社を宗教の中に入れてしまったが、
靖国神社は宗教ではないのである。

国のために生命を献(ささ)げた勇士の生命を、謝恩のために
国が祭祀するのは報恩感謝の道徳であって、道徳は宗教ではないのである。

宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。

「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。

人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、
肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の面があるから、
そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。

併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、
皮膚を剥ぎ、肉を切り、骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと
穿(うが)って往っても其処からは何の力も湧き出でては来ないのである。

所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。

それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。
「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。

            <感謝合掌 平成31年1月9日 頓首再拝>

《“永遠のキリスト”われに宿ると知ること》 - 伝統

2019/01/27 (Sun) 04:18:44


        *『人生の秘訣365章』第12篇(P307~308) より

私たちが本当に自由人となり、完全に解放されたる人間となるためには、
人間は“神の子”であり

“神の子”とは、まだ“神”に生り切らない小さな存在という意味ではなく、
神《そのもの》が自己に宿っていて、その神《そのもの》こそ
“本当の自分”であるということを意味するのである。

それがパウロの「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」
(「ガラテヤ書」第二章第二十節)の自覚である。

パウロだけにキリストが宿っているのではなく、
すべての人間が、自己の内生を自覚するとき、

「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」

の自覚を得るのである。

吾々は肉体がユダヤ人と見えたるキリストを知るだけではなく
“永遠のキリスト”“普遍的キリスト”を知らなければならないのである。

            <感謝合掌 平成31年1月27日 頓首再拝>

わが内に宿る神 - 伝統

2019/03/22 (Fri) 01:51:27


           *「光明法語」(3月22日)より

『マタイ伝』第六章六には

『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』

とイエスが教えている。

必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。

『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。

神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。

わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。

            <感謝合掌 平成31年3月22日 頓首再拝>

《自己の内》に入るためには - 伝統

2019/03/26 (Tue) 02:17:02


           *「光明法語」(3月26日)より
             ~神と波長を合わすには

「神の国は汝の内にあり」とイエスの言った如く、
わが祈りの密室は《自己の内》にあるのである。

この至聖所(しせいしょ)に吾々が入るならば、
どれだけでも無尽蔵の豊富な生命、智慧、愛の供給があるのである。

しかしこの至聖所に入るにはすべての憎み、怒り、恨み、呪い、悲しみ、悩みの
非存在(ニセモノ)を排除(とりのぞ)かなければならないのである。

そして先ず神を愛することである。
隣人を愛することである。

愛なくして、欲ばっていて、自分の祈りが神に通じないと言っても、
波長が合わぬから仕方がない。

            <感謝合掌 平成31年3月26日 頓首再拝>

《“埋蔵されたる寶”を発掘せよ 》 - 伝統

2019/04/15 (Mon) 03:16:38


        *『人生の秘訣365章』第3篇(P78) より

人のうちに、この偉大なる修復力が宿っているのであり、
それが、“自己に宿る神”である“内在の神”である。
それは単なる頭脳智よりも幾百倍幾万倍すぐれたる智慧であるのである。

その智慧を呼び出すことをわすれて、
単に頭脳智だけで行動しようとするところに
“行き詰り”や“失錯”の原因があるのである。

神から与えられたる“埋蔵されたる宝”
 ―― それがこの“内在の神”である。

“内在の神性”を呼び出すことを忘れて、「わたしは病気である」と言う。
「わたしはくたびれた」と言う。
そして“内在無限の力”の発動を言葉の力で抑えてしまうのである。

諸君は決して「わたしは病気だ」とか、「私はくたびれた」とか言ってはならない。
“わたしは神の子である、外からどう見えようとも、実際は健康である”
と言わなければならない。

このような言葉に出して言うとき、
あなたは、自己に宿る“内在の神”を掘り出しつつあるのである。
実相界に“埋蔵されたる宝”を現実界に引き上げつつあるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月15日 頓首再拝>

《内在のキリストは 吾が道である》 - 伝統

2019/05/31 (Fri) 04:21:07


        *『 生長の家 』(昭和25年4月26日の法語)より

   キリストは 「 吾は道なり真理なり、生命(いのち)なり 」
   といい給うたのである。

   吾々が苦難に面して どの道をとればよいかわからない時には、

   「 吾に宿るキリストよ。あなたは道であります。眠りより覚め給え。
   復活して吾に道を示し給え 」 と静かに数分間念ずるようにすれば
   自然と道が開けてくるのである。

   何故なら キリストは 「 吾が道 」 であるからである。

   自分の生命が危険に陥り、医者もどうすることもできないという時に
   「 吾に宿るキリストよ 吾に生命を与え給え。
   あなたは生命でありますから 」 と

   念ずるようにするならば
    自(おのず)から無限の生きる力が わきでて来て
   その人は健康となるのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13848135.html

            <感謝合掌 令和元年5月31日 頓首再拝>

神の真が自分の中に生きている - 伝統

2019/06/12 (Wed) 04:39:28


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より

信心とは《自分が》こう信ずるということではない。

神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。

           <感謝合掌 令和元年6月12日 頓首再拝>

内なる神、われを導き給う - 伝統

2019/07/10 (Wed) 04:26:37


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月10日)より

われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、
われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。

万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

         <感謝合掌 令和元年7月10日 頓首再拝>

《内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ》 - 伝統

2019/07/27 (Sat) 04:40:09


       *『 生長の家 』(昭和25年5月11日の法語)より

   吾々が救われるのは
   吾々の実相によって救われるのである。

   神の子である所の
   すでに救われている実相を認めることが必要である。

   神の子をくらます様な何事をも なすな。
   自分にいる所の 「 神の子 」 をくらましては
   自分自身は滅びるより仕方がないのである。

   吾々は自分に宿る 「 神の子 」 を通してのみ、
   凡ゆる困難に打ち勝って勝利者となることができるのである。

   吾に宿る神の子は、
   自己に宿るキリストであり、
   内在の仏性である。

   それに目覚めることが第一である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

         <感謝合掌 令和元年7月27日 頓首再拝>

《吾が真実の自分は 「 神の子 」 である》 - 伝統

2019/08/13 (Tue) 04:52:53


        *『 生長の家 』(昭和25年5月14日の法語)より
 
   吾に宿り給う 「 神 」 が本当の自分である。

   神は遠い所に ますますのではなくして
   今ここに自分の内に
   凡ゆる善を与えんがために すでに い給うのである。

   全能の神が自分の内に宿っていて、
   もし自分がそれに振り向きさえするならば、
   いつでも神は吾がために働き給うのである。

   常に神は働き給うているのであるのに
   気づかずして、神からはなれて 自分の我で
   物事をしようとするから失敗が現われて来るのである。

   神は吾にその生命を
   投げ入れ給うたのである。

   それ故に吾も神に吾が生命を
   投げ入れるべきである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

内なる神に、求めよ - 伝統

2019/08/20 (Tue) 04:54:15


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月20日)より

求めよ。
ただし、信じて求めよ。
さらば必ず与えられん。

飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。

しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。

あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、
時とすると声の届かない遠方にいたりして、
こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。

そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。

宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。

         <感謝合掌 令和元年8月20日 頓首再拝>

他を羨むな! 自己の内に宿る価値を掘れ! - 伝統

2019/08/26 (Mon) 04:48:23


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月26日)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。
自分が貧弱なままで諦めておれということではない。

自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

          <感謝合掌 令和元年8月26日 頓首再拝>

先ず 「 内 」 なる宝を発見せよ - 伝統

2019/09/08 (Sun) 04:58:53


        *『 生長の家 』(昭和26年5月3日の法語)より

   吾々は自己が神の子として、
   自己の内に与えられている力を自覚することを
   先ず目標としなければならない。

   外の宝を求めるよりも、
   先ず自分の内にある 「 宝 」 を発見することを
   先にしなければならない。

   外の力に頼るな。先ず自分を発見せよ。
   自分の内の力を発見したら 先ずその力を働かせることが必要である。

   祈っただけで何もしないでいることは、電気の存在を知っただけで、
   発電装置も作らず、スイッチを入れないのと同じことである。

   それでは、電気は存在すれども何の効果もあらわさないのと同じように、
   神は存在すれども何の効果もあらわれないのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

          <感謝合掌 令和元年9月8日 頓首再拝>

自己を深く掘り下げよ! - 伝統

2019/10/17 (Thu) 02:33:27


     *『生命の實相』幸福篇下 第三十八巻(10月17日)より

ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。

自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも
土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。

自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。

目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。

ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。

人間もまたかくのごときものである。

表面にあらわれている力だけで満足する者は
自己の内にただそれだけの値打ちしか発見することができないが、
今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。

何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。

今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。

なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。

           <感謝合掌 令和元年10月17日 頓首再拝>

内なる真我 - 伝統

2019/12/02 (Mon) 04:31:16


    *フェンウイック・ホームズ 『沈黙の歌』より

 吾は無限の叡智と一体である。

 そして無限の力はわが語る言葉の背後、

 わが語る希望の背後にはたらいているのである。

 吾れは吾が欲する事物を吾が『内なる真我』の名において求めるのである。

 神はかく黙示し給う。


    吾は汝の内なる生命、
      吾は汝の健康である。

    吾は汝が選びし宝、
      吾は汝の富である。

    吾は汝の奥底の智慧、
      吾は汝の光である。

    吾は汝の内なる力、
      吾は汝の威力である。

    吾は汝の温かき感情、
      吾は汝の真理である。

    吾は汝の朽ちぬ遺産、
      吾は汝の若さである。

    吾は天なる汝の希望、
      吾こそは道である。

    吾は汝の永遠の光、
      吾こそは太陽の光である。

    吾は勝たんと欲する意志、
      吾は汝の剣である。

    吾は汝の求むる平和、
      吾こそは言葉である。



     
    吾は内奥久遠の実在、         
      常に汝と偕にあり―

    『吾れあり』と汝言うとき、         
      吾れ汝と常にあり。

    ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17263092.html より転写  )


           <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>

自己に宿る神を祈り顕(だ)すこと - 伝統

2019/12/29 (Sun) 04:10:46


        *『真理は生活にあり』(P174~175)より

自分が変れば周囲が変るのである。
人間は周囲の奴隷でもなければ、環境の奴隷でもない。
人間は”神の子”として完全な自由をもつのである。

しかしその自由は自覚したとき、その自由を発揮し得るのである。
  
吾々は、毎日祈る、或いは間断なく神に祈る。
「神に祈る」というよりも「神を祈る」といった方が寧ろ適切な表現である。

”祈り”の力によって、今まで無頓着な神をこちらに振り向かせ、
こちらの希望を成就せしめようと思って、毎日、”神、神、神、神……”と
間断なく呼んで見たところが、それは見当ちがいである。
  
神の愛は常住の存在であり、
神の愛が多くなったり少なくなったりするものではないのである。

神は無常の可変的な存在ではないのだから、祈ったからとて、
神が特に自分に好意をもって、他の人に対するよりも、
もっとしっかりお護り下さるというのではないのである。
  
祈りを熱心につづけているうちに自分の心が変り、自分ぜんたいの生命の波動が、
神に融会し、神に同化し、自己に内在する”実相”なる”神”を祈りによって
喚び起しているのである。

だから「神に祈る」というよりも
「神を祈る」という方が適切であるというのである。
  
誰にでも”神”宿っている。その”宿っている神”があなたの実相なのである。

それだから危急に際して神を呼ぶのに
「わが魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」と、
自己に宿り給う神を祈り出すとき、

誠験場にてど忘れしていた問題の解答を突然思い出したり、
咄嗟に行き詰った事象に、解決の道が自然に思い出されて来たりするのである。

           <感謝合掌 令和元年12月29日 頓首再拝>

《「内部」の神を自覚する》 - 伝統

2020/02/08 (Sat) 02:40:29


          *「真理」第9巻生活篇(P5)より


自己の生命(せいめい)の内に横たわる無限の力 ―― 
これを称して、吾等は神と言うのです ―― 

従来の或る宗教に於ける神のように、天上にいて吾らを監視していて
処罰を与えると云うような神ではないのです。

自己の内部に神を発見したときに、
わたしたちの力は2倍になり3倍になり4倍になるのです。

肉体的には虚弱な、永遠に十一貫五百匁(め)を上下しているような私が、
人々の2倍以上の仕事をして老いず、

九貫五百匁しか体重のない吉川英治が、戦争中従軍記者として難行軍をつづけながら、
それほどつかれず、驚くべき筆力をもって新平家物語を書きつづけて老いることなく、
65歳になっても髪黒々としている神秘は、人間は肉体ではない。

「内部の神性」こそ真物(ほんもの)の自分だと云うことを自覚している者が、
その日常生活の力を数倍又は十数倍になし得る証拠でなく何でありましょう。

           <感謝合掌 令和2年2月8日 頓首再拝>

人生は「宝探し」 - 伝統

2020/02/27 (Thu) 02:32:45


          *「栄える生活365章」(P110)より

あなたは人生至る処に”宝探し”をやっているようなものである。

神は、あまり貴(とうと)いものを地表に直(す)ぐ見えるところには
置き給(たま)わなかったのである。

すべての貴金属でもダイヤその他の宝石でも、すべて労力をかけて
探し出さねばならないようにしてあるのである。

それと同じく人間の”善さ”というものも、
人間の表面だけを見ていては判らないのである。

どんな人間にもダイヤモンド以上に高貴な輝く美しき“神性”が宿っているのである。
それを掘り出す掘鑿機(くっさくき)や鑿岩機(さくがんき)が
“想念”と“観(かん)”となのである。

先ず彼に宿ゐる”神性”を心に”想念”して、
それを一向先進ひたすれに”観ずる”のである。

その“観(かん)”が徹底したとき、そんな”悪人”と見える人にも
”善人”があらわれる。

そして神の創造(つく)給うたこの世界には決して
”悪人”は無いと知ることができるのである。

           <感謝合掌 令和2年2月27日 頓首再拝>

わが内に宿る神 - 伝統

2020/03/22 (Sun) 02:20:44


           *「光明法語」(3月22日)より

『マタイ伝』第六章六には

『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』

とイエスが教えている。

必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。

『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。

神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。

わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。

           <感謝合掌 令和2年3月22日 頓首再拝>

《内在のキリストは 吾が道である》 - 伝統

2020/04/26 (Sun) 04:44:28


        *『 生長の家 』(昭和25年4月26日の法語)より

   キリストは 「 吾は道なり真理なり、生命(いのち)なり 」
   といい給うたのである。

   吾々が苦難に面して どの道をとればよいかわからない時には、

   「 吾に宿るキリストよ。あなたは道であります。眠りより覚め給え。
   復活して吾に道を示し給え 」 と静かに数分間念ずるようにすれば
   自然と道が開けてくるのである。

   何故なら キリストは 「 吾が道 」 であるからである。

   自分の生命が危険に陥り、医者もどうすることもできないという時に
   「 吾に宿るキリストよ 吾に生命を与え給え。
   あなたは生命でありますから 」 と

   念ずるようにするならば
    自(おのず)から無限の生きる力が わきでて来て
   その人は健康となるのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13848135.html (消滅)

           <感謝合掌 令和2年4月26日 頓首再拝>

先ず 「 内 」 なる宝を発見せよ - 伝統

2020/05/26 (Tue) 04:59:10


       *『 生長の家 』(昭和26年5月3日の法語)より

吾々は自己が神の子として、
自己の内に与えられている力を自覚することを
先ず目標としなければならない。

外の宝を求めるよりも、
先ず自分の内にある 「 宝 」 を発見することを
先にしなければならない。

外の力に頼るな。
先ず自分を発見せよ。
自分の内の力を発見したら 先ずその力を働かせることが必要である。

祈っただけで何もしないでいることは、電気の存在を知っただけで、
発電装置も作らず、スイッチを入れないのと同じことである。

それでは、電気は存在すれども何の効果もあらわさないのと同じように、
神は存在すれども何の効果もあらわれないのである。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

           <感謝合掌 令和2年5月26日 頓首再拝>

内在する 「 神の子 」 の力を確信する - 伝統

2020/06/06 (Sat) 04:45:39


       *『 生長の家 』(昭和26年5月9日の法語)より
         ~勝利者としての確信

「 われ常に人生に於いて勝利す 」 と云うのが
我らの標語でなければならないのである。

一切の困難と見ゆるものは、真に困難なのではなく、
我々の力を鍛錬して高め上げるための運動競技の道具である。


吾々はその運動競技の道具を跳び超えることによって
内在する 「 神の子 」 の力をより一層多く発揮することが出来るのである。


具体的な勝利は、勝利の確信の具象化であるのである。

勝利の確信なくして勝利したるものはないのである。


神はわが生命(いのち)であり、
わが内に神いまして、わが事業を導きたまい、
わが肉体の健康を維持したまうのである。

これを信ずるとき 如何なる病いも如何なる不幸も我を害することは出来ない。

           <感謝合掌 令和2年6月6日 頓首再拝>

内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ - 伝統

2020/06/08 (Mon) 04:18:04


       *『 生長の家 』(昭和25年5月11日の法語)より

吾々が救われるのは、吾々の実相によって救われるのである。

神の子である所の、すでに救われている実相を認めることが必要である。

神の子をくらます様な何事をも なすな。

自分にいる所の 「 神の子 」 をくらましては
自分自身は滅びるより仕方がないのである。

吾々は自分に宿る 「 神の子 」 を通してのみ、
凡ゆる困難に打ち勝って勝利者となることができるのである。

吾に宿る神の子は、
自己に宿るキリストであり、内在の仏性である。

それに目覚めることが第一である。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 令和2年6月8日 頓首再拝>

神の真が自分の中に生きている - 伝統

2020/06/12 (Fri) 04:41:42


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より

信心とは《自分が》こう信ずるということではない。

神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。

           <感謝合掌 令和2年6月12日 頓首再拝>

吾が真実の自分は 「 神の子 」 である - 伝統

2020/06/18 (Thu) 04:53:57


        *『 生長の家 』(昭和25年5月14日の法語)より

吾に宿り給う 「 神 」 が本当の自分である。

神は遠い所に ますますのではなくして
今ここに自分の内に
凡ゆる善を与えんがために すでに い給うのである。

全能の神が自分の内に宿っていて、
もし自分がそれに振り向きさえするならば、
いつでも神は吾がために働き給うのである。

常に神は働き給うているのであるのに
気づかずして、神からはなれて 自分の我で
物事をしようとするから失敗が現われて来るのである。

神は吾にその生命を
投げ入れ給うたのである。

それ故に吾も神に吾が生命を
投げ入れるべきである。

           <感謝合掌 令和2年6月18日 頓首再拝>

天国は汝の内にあり - 伝統

2020/06/27 (Sat) 04:32:19


       *「光明法語」(6月27日)より

自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 令和2年6月27日 頓首再拝>

わが内に、神を感ずるために - 伝統

2020/07/11 (Sat) 04:47:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月11日)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、感ずる対象と同じ波を
    こちらが起さねばならぬ。神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、
われらが神を自分のうちに感ずるためには、

すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、「個(ひとり)」と「全体」との
つながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

        <感謝合掌 令和2年7月11日 頓首再拝>

《内在の神を自覚するには》 - 伝統

2020/07/27 (Mon) 03:52:44


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P391)より

神があなたの内に在ることが本当に自覚されましたら、
あなたは単に心の平和を得ることができるばかりではなく、
生活が明るく活発になり、常に進歩的になって来ます。

あなたの人生は、もう楽しいばかりです。

だからあなたは今日(きょう)から斯(こ)う念じなさい。

「神は常にわたしの内にある。神の愛が常に私を護っていたまうのである。
 私は仕事をするときにも、書物を読むときにも、人と対談するときにも
 常に神と偕(とも)にある。

 神は常に私を導き給うのである。
 私は感謝の心をもって、神の導きに常にしたがうのである。
 私は神の導きのどんな小さな囁きをも、聞きのがすと云うことはないのである。
 
 私は自己中心の心をふり棄(す)て、神に完全にまかせ切るのである。
 私は神と一体である。
 神来りてわれを導きたまうのである。」

        <感謝合掌 令和2年7月27日 頓首再拝>

今、そして此処に、一切が「我」が内に”有る” - 伝統

2020/08/01 (Sat) 04:24:07


      *「光明道中記」(8月1日《神想観に心浄まる日》)より

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
                      (生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。

しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを
「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」とあらわしているのである。
「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、
吾々の超空間的な「心」の中に
空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに
此の超空間的な存在であるところの「我」が自覚出来てくる。

澄み切った虚空と一体の「我」である。
否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

        <感謝合掌 令和2年8月1日 頓首再拝>

汝の内なる神を自覚せよ - 伝統

2020/08/15 (Sat) 04:51:25


       *『 生長の家 』(昭和26年6月18日の法語)より

あなたの内に神 住みたまう。

神はあなたの内に宿りたまいて、夜も昼も絶え間なく
あなたを護っていられるのである。


あなたの内には、あなた自身が自覚していられるよりも
尚(なお)一層偉大なる力が宿っているのである。

あなたは、今 到底自分には出来ないと思われるような
困難を打破する力を持っているのである。

その力は自覚の深まる程度に従ってあらわれて来るのである。

それを自覚するためには毎日、神想観をして
自分の「 実相 」が神の生命であることを諦視すること。

毎日、真理の書の一章を読むことである。


最近、松田午(うま)三郎氏と関口野薔薇(のばら)氏とが訳してくれたハードマン博士の

「 メンタル・サイエンス綱要 」 などは好い本である。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

        <感謝合掌 令和2年8月15日 頓首再拝>

内なる神に、信じて求めよ - 伝統

2020/08/20 (Thu) 05:02:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月20日)より

求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。

しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。

あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。

そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。

宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。

        <感謝合掌 令和2年8月20日 頓首再拝>

自己の内に神が宿っている - 伝統

2021/05/07 (Fri) 04:53:56


        *「光明法語」(5月7日《内在の神の道具となれ》)より

金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。

その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。

されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。

自己の内に神が宿っているのであるから、
常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)をなくならせて、
ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。

        <感謝合掌 令和3年5月7日 頓首再拝>

《自己臍下丹田の神》 - 伝統

2021/05/24 (Mon) 05:01:22


       *『 生長の家 』(昭和32年5月19日の法語)より

   自己臍下丹田の神と謂っても、別に形の臍の下のところに
   神がましますと云うのではない。それは「種子(たね)」
   の中にある「花」の形のようなものである。

   種子(たね)を植えねばその植物が伸びて花を咲かせることは
   不可能であるから、種子(たね)に《於いて》花の「理念」は
   在るのであるが、

   では種子(たね)の何処(どこ)にその花の「理念」(精神的原型)
   があるかと顕微鏡で探し求めてみても、物質の種子(たね)そのもの
   の中にはついに「花の理念」はみつからないのです。

   花の理念は種子(たね)に《内在し》ながら、
   その「物質的形態」の《中にはない》のです。

   それと同じく人間に「内在する神」も
   形の臍下丹田に居給うのではない。
   而(しか)も矢張り「自己」に《於いて在る》のである。

   先ず天地遍満の神を観じ、
   その神が静呼吸の吸う息と共に自己に流れ入って、
   自己臍下に《於いて》「内在する神」を観じ、

   その御心にひたすら心を集中して、
   そのみ心のみ、声のみ、ひたすら聴かん事を願いて
   一点集中するのです。

    (『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P302~303>に収載)

        <感謝合掌 令和3年5月24日 頓首再拝>

神が汝(なんじ)の内に宿っている - 伝統

2021/06/10 (Thu) 03:37:15


         *『生長の家』(昭和25年6月30日の法語)より

どんな悪しき形をも よき形に変化し得ないという様な神の力はないのである。

神は 暗黒の中に光を放ち、
悪と見ゆるものから善を放ち、
貧しさの中から富を生み出す所の力である。

その神を吾(わ)が内に見出す時には
吾は 如何(いか)なるものの中からも
よきものを生みだすことができるのである。

躓(つまず)きを恐るな。

躓いても すぐ立ち上がって
光明に面するのが生長の家の生活である。

神が汝の内に宿っているではないか。

それを思いおこすことが必要である。


神は一切の不幸を幸福に変貌(へんぼう)する力である。

その力が自分の内に宿っているのである。

喜べ喜べ。神を信ぜよ。自己を信ぜよ。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2 )

        <感謝合掌 令和3年6月10日 頓首再拝>

《神はあなたの内にある》 - 伝統

2021/07/13 (Tue) 04:09:15


          *「眞理」第2巻基礎編第6章(P163~164))より

「神さまがよいようにして下さる」
こう考えて、何事も抛(な)げやりにして置くのが
信仰の生活ではないのである。

神は「法則」である。

「法則」のあらわれは「秩序」であるから、
「秩序」ある生活を営むことが、其処に自分を通して
神が生き給うことになるのである。

「神の国は汝の内にあり」とイエスが言われたように、
その汝の内に「神の国」があり、其処に「神」がい給うのであるから、
その「神」を働かして何事でもシッカリと行うことが、
「神が良くして下さる」ことなのである。

いくら神様に祈っても、
外なる神は時計の捩子(ねじ)一つかけては下さらないのである。

自分の内に神があり、その神を働かすとき、
偉大なる御業(みわざ)を成し就(と)げることが出来るのである。

        <感謝合掌 令和3年7月13日 頓首再拝>

《キリストは霊を以て洗礼し給う》 - 伝統

2021/07/31 (Sat) 04:13:25


          *「眞理」第2巻基礎篇第3章(P97~98)より

イエスの献身は単に自身が十字架にかかって死ぬことではなかったのである。
『我れ往きて汝らに来(きた)るなり』とイエス自身が云った通り、
永遠のキリストは肉体を十字架につけると共に、万人に来ってい給う。

だからキリストは今、諸君の内に宿っているのである。
これが生長の家の解釈する「新しきキリスト教」なのである。

教会キリスト教が、人間をば、教会に来て洗礼を受けないと
決して救われないと決して救われない罪人であると断じ、
信者を教会に引著(ひきつ)けて置こうと思うのは
狡猾なる教会繁栄策に過ぎない。

既にキリストは諸君の内に来たり給うているのだ。
これを「霊による受洗(じゅせん)」と云うのである。

水による洗礼は洗礼のヨハネまでである。

イエス自身は信者を祝福したことはあるが、
イエス自身が弟子に水で洗礼したとは聖書の何処にも書いてない。

ただ「われに来(きた)れ」又は「われに従え」と
云っていられるだけである。

        <感謝合掌 令和3年7月31日 頓首再拝>

内なる神に、信じて求めよ - 伝統

2021/08/20 (Fri) 04:24:27


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月20日)より

求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。

しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。

あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。

そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、
実に自分の手近なところにいまして、常にわれわれの求めを聞いてくださる
「内在の神」に求めることにすべきである。

宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。

      <感謝合掌 令和3年8月20日 頓首再拝>

自己の中に一切世界が存在する - 伝統

2021/08/31 (Tue) 04:54:43


       *「光明法語」(8月31日《拝む者のみ拝まれる》)より

文殊菩薩が維摩居士を訪ねたときに、維摩は

『あなたは色々の佛の国土へ神通力で自在においでになりましたが
 好上妙(こうじょうみょう)の功徳を成就せる佛国土は何処(どこ)ですか』

と問うた。

文殊菩薩は答えて

「東方に須彌相国(すみそうこく)というのがあり、
 その国の佛を須彌燈王(すみとうおう)如来と言い、
 身長(みのたけ)八萬四千由旬(ゆじゅん)あり、
 その獅子座は高さ八萬四千由旬で実に素晴しいものです」

と言った。

維摩はこの時、自分の室に、この広大なる獅子座を来入せしめた。

維摩の方丈(一丈四方)の室中に
八萬四千由旬(一由旬は九哩<マイル>)の獅子座が入る事が
出来たのは、自己の中に一切世界が存在する真理の象徴である。

          <感謝合掌 令和3年8月31日 頓首再拝>

《「内部の神」に心を集中せよ》 - 伝統

2021/09/24 (Fri) 05:07:03


       *「眞理」第2巻基礎篇第8章(P228~229)より

自己の内に神があることを信ぜよ。
如何なる時にも内在の神はあなたを護っていて下さるのである。

外にどんな擾乱が起ろうとも、肉体に如何なる変化が起ろうとも、
あなたの「内部の神」はその擾乱に巻き込まれることなく
静謐(せいひつ)であるのである。

あなたが心の平和を取り戻すには先ず「内部の神」に心を集中せよ。

そして「内部の神」とあなたとが結ばれるとき、
迷い児になって騒いでいる幼児が父を見つけて
その手を握った時のような平和と落ち着きとを
回復することが出来るのである。

この平和のうちにこそ神の無限の智慧は流れ入って
どんな困難でも快刀乱麻を断つように解決し得る叡智に
導かれることが出来るのである。

この平和のうちにこそ、如何なる病気も完全に克服し得(う)る
自然療能が湧き出て来るのである。

其処より無限の生命と無限の叡智を汲み取り得るものは
まことにも幸いなるかなである。

          <感謝合掌 令和3年9月24日 頓首再拝>

自己の内には、無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されている - 伝統

2021/10/17 (Sun) 04:54:57


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月17日)より

ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。

自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも
土壌を深耕しなければならない。

深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。

自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。

目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。

ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。

人間もまたかくのごときものである。

表面にあらわれている力だけで満足する者は
自己の内にただそれだけの値打ちしか発見することができないが、

今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。

何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。

今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。

なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。

         <感謝合掌 令和3年10月17日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.