伝統板・第二

2517062
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

無限の富を汲みだす④ - 伝統

2018/06/05 (Tue) 04:17:37

先ず神を認めよ、其処から無限の富が湧き出て来る

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月5日)より

神が吾々神の子に求めていられる処のものは先ず「吾を認めよ」と云うことである。
人間でも親が子に求めているところのものは、先ず「親をみとめよ」と云うことである。

親の無視が即ち親不孝であり、親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。

だから先ず何よりも吾らは自分の生命(いのち)の親を、神を、
認めなければならないのである。

先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「無限の富 (5854)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1098

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「無限の富を汲みだす (120) 」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=56

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「無限の富を汲みだす (69)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=35

(4)「光明掲示板・伝統・第一」スレッド「無限の富を汲みだす (67)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=41

(5)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460527

(6)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす②」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6824314

(7)「伝統板・第二」スレッド「無限の富を汲みだす③」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7542012


            <感謝合掌 平成30年6月5日 頓首再拝>

本当の「無限の富者」とは - 伝統

2018/06/17 (Sun) 04:37:09


        *『生命の實相』第18巻宗教問答篇(P167~169)より

「生長の家」が「人間神の子、本来無限の富者なり」との真理を説き始めましてから
五年に達しますから、無限の富者がもうソロソロその実証としてあらわれてよいものだ
とのお説はごもっともであります。

しかし「無限の富者」とは固定せる富の億万長者の意味ではない
ことを知らねばなりません。

億万長者といえども「無限の富者」にくらぶれば
貧窮の一市井人(いちしせいじん)たるにすぎないのであります。

本当の「無限の富者」というものは、何億円とか何兆円とか
《限られたる》数量の固定の富を有する者ではありません。

必要に従っていくらでも富が流入し、彼は貪慾者ではありませんから、
必要なき時には自然に流入量を減じて必要を調和し、
伸縮自在の「無」にして「無限」 の富を有するものであります。

このことが判明しますと「無限の富者」となるというのは
現在経済界の癌腫になっている「富の遍在」を起こすような
富豪を作る意味でないことがおわかりになりましょう。

本当を言えば、「富の偏在」を生ぜしめている富豪のごときは、
「放したら減る」との観念に支配せられて、
搾取の非難を受けつつ放すこと少なくして掻き集めた富でありますから、

一種の「迷い」の顕われであり、
「実相無限の富」の顕われでないことを知らねばなりません。

だから実相を知った者が、現代のいわゆる富豪にならないかというのは
これまた見当違いの質問なのであります。

(中略)

富者というものは、金(かね)を手許に持っているだけであって、
必要なものを必要に従って駆使しえなければ 、何も富者の効能はない。

金(かね)がなくとも必要な時に、億万長者より以上に駆使しうれば、
その人は億万長者以上の富者だと言えるのであります。

無限供給というのはすべてにわたって無限供給であって、
金(かね)ばかり固定偏在せしめておいて、ほかの点で不自由不如意なのは
無限の富者ではないのであります。

            <感謝合掌 平成30年6月17日 頓首再拝>

真の無限供給を受けるには - 伝統

2018/06/21 (Thu) 03:14:29


       *「光明道中記」(6月21日 三たび自己を顧みる日)

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。(『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。
その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ
吾等は祈るべきである。

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、
日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア―― などと
利己的なことを考えながら神から無限供給が来ると思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとはただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

            <感謝合掌 平成30年6月21日 頓首再拝>

お金は、全体のために有用に使うためにある - 伝統

2018/06/22 (Fri) 04:32:38


       *「光明道中記」(6月22日 神意(みこころ)を行ずる日)

【十字架を負うてすべての持てるものを捨てて我に従え。(『生命の實相』第九巻)】

金は必ずしもある切り出し切るのが神意に適うのではない。
と言って金の出し惜しみをするのが神意に適うのでもない。
全体のために有用に使うことである。

今、有用に使う道が発見せられないならば、
「有用に使う道を発見せしめ給え」と祈りつつ、
有用に使う道が発見されるまで貯蓄して置くべきである。

有用に使う道を発見せずしてみだりに金を放出する者を浪費者と言うのである。
浪費者は天物を亡殄(ぼうてん)するものであるから、
やがて自己が貧しさに苦しまねばならぬ時が来るであろう。

貯蓄は老衰後のためや手足が不自由になったり、
頭脳(あたま)が役に立たなくなった時の生活費にと貯えるべきものではないのである。

老後のためと思えば老衰が来るであろうし、
手足の不自由の時のためだと思えば手足が不自由になるであろうし、
頭脳が役に立たなくなった時のためだと思えば、やがて頭脳が役に立たなくなって
来るだろう。

思う通りに何事でも成就するからである。

「貯蓄は有用なる使途を発見するためのものだ」と思って貯蓄すれば、
やがて有用なる使途が発見されるであろう。

その使途はまたその人を高め上げ無限供給を招(よ)ぶであろう。

            <感謝合掌 平成30年6月22日 頓首再拝>

《富は聖なる目的に使うもの》 - 伝統

2018/07/06 (Fri) 04:01:15


     *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P181) より

現象の富は、神の国なる実相の富の現象界への延長であることを
知らなければならない。

それであるからその富は、
ただ貪(むさぼ)って蓄積するだけに使ってはならないし、
浪費するために使ってもならないのである。

それは実相世界の素晴らしさを現象世界にあらわすための
聖なる目的のために使わなければならない。
換言すれば建設的な目的にのみ使わなければならないのである。

ただ蓄積のためのみに使ってはならないし、
ただ消費するためのみに使ってはならないのである。

無論、聖なる目的のために使うためには、
半端な資金ではどうにもならない事であるから、
ある金額に達するまでそれを蓄積したり、共同貯蓄することも必要である。

学校や学生寮を建設したり宗教目的に使われる建物をつくったりするのは、
聖なる目的にかなうもので、建設的な目的に使うことに当たるのである。

            <感謝合掌 平成30年7月6日 頓首再拝>

「無限供給」は”今””既に””ここに”ある  - 伝統

2018/07/14 (Sat) 04:25:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月14日)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。
法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

         <感謝合掌 平成30年7月14日 頓首再拝>

無一物中無尽蔵 - 伝統

2018/07/26 (Thu) 04:51:00


        *『生命の實相』第5巻聖霊篇上(P212)より

生長の家では「無」は「そのまま」であって、
我(が)の「はからい」がなくなることです。

「はからい」がなくなれば、天地無限の供給の實相と波長が合うことになって、
おのずから無限の供給が現象界にあらわれて来るのであります。

天地間の生物界の実相を奪い合いと見ること
そのことが我の見解でありまして、
奪い合いを心に描いている限りは、現象界にもそれは消えません。

天地間をただ、神一元の無限の供給の世界であると、
そのまま信じて我見(がのかんがえ)を無にするとき
現象界にも無尽蔵があらわれて来るのであります。

         <感謝合掌 平成30年7月26日 頓首再拝>

《真の富はエデンの園から》 - 伝統

2018/08/13 (Mon) 04:49:09


      *『生活の智慧365章』
        (第3部繁栄の泉)第7篇(P181~182) より

必要な建設的目的に使うために蓄積されたる富は、実相の投影であるけれども、
未来に起るであろう何か不祥事を予想してたくわえる富は恐怖の投影であるから、
その予想する心が、予想する不幸を呼び寄せることになるのである。

心に予想することが実現すると云うのが心の法則であるから、
不幸を予想してたくわえた富は、将来必ず予想した不幸が来て、
それを消耗してしまうことになるものである。

病気したときの治療費として金を貯える人は、恰度(ちょうど)、入院費用だけが
貯まったときに、本当に病気に罹(かか)って、その貯金を治療費に使ってしまい、
恰度その治療費の貯えがなくなったときに病気が治ったりするのである。

 
真の富と云うものは、

一切のものが其処から生み出されて来る「エデンの園」(龍宮海)
即ち実相界から供給されて来るのであって、
常に実相に波長の合う心を持っておれば必要に応じて、
それが現象界の富となって供給されるのである。

         <感謝合掌 平成30年8月13日 頓首再拝>

神様の無限供給をいただく方法 - 伝統

2018/08/19 (Sun) 04:37:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月19日)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

      <感謝合掌 平成30年8月19日 頓首再拝>

「負債」無し、神の無限供給の現われ - 伝統

2018/09/05 (Wed) 14:09:09


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月5日)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、どちらの側も「欠乏」という観念から
抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、この欠乏の感じを
「お蔭」(神からの供給)の考えに転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、

債務者の方からが、「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。
神の無限の供給が種子(たね)になっていよいよますます幸福がやって来る、
ありがとうございます」
と考えるがよい。

             <感謝合掌 平成30年9月5日 頓首再拝>

すべてを祝福することが、自己を富ます道 - 伝統

2018/09/08 (Sat) 03:14:46


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月8日)より

神はいっさいの本源であり、いたるところに充ち満ちてい給い、
われわれに無限に健康なる生命(せいめい)と、
豊かなる供給を与えていられるのである。

しかし、それはラジオの波のように肉眼には見えないのであって、
ただわれわれがそれに対して適当な条件を与えることによって
可視的(めにみえる)世界にあらわれて来るのである。

富める者に嫉妬し、それを搾取であると呪うことは、
「富」そのものを呪い、「富をもつこと」そのことを排斥することになるから、
その人は大いに富むことはできないのである。

貧しき者、損をかけた者を、「無限供給」の思念によって祝福してあげるとともに、
富める者にも祝福を与えることがかえって自己を富ます道である。

             <感謝合掌 平成30年9月8日 頓首再拝>

富の道 - 伝統

2018/09/12 (Wed) 03:14:33


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月12日)より

各人の富は、神の無限供給の源泉を、自分の心で受けた分量であるから、
自分の心の影だということができるのである。

もしすべての人の富を回収して、それを全人類に平等に分配しても、
たちまちのうちに富む者は富み、貧しくなる者は貧しくなるのであろう。

その人の心が、その分配されたるものを操作して
おのおの異なる結果を生むことになるのである。

今日(こんにち)自分が働く力、考える力、生きる力、味わう力・・・等々を
与えられていることを感謝せよ。
すでに無限の供給の今あることに感謝せよ。

(損失なんて考える必要はないのである)そして、感謝のうちに報恩のために
働く力を、考える力を他(ひと)のために与えて奉仕せよ。

これが富の道である。

             <感謝合掌 平成30年9月12日 頓首再拝>

恵みに報謝する働きをする - 伝統

2018/09/13 (Thu) 03:26:15


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月13日)より

金を借りるのは必ずしも悪いことはないが、
約束の時に必ず返却しうる万全の用意ができていなければならないのである。
返却しうる可能性だとか決心だけではいけない。

碁の布石のように、この石をこう置いたらこの次の石はこうなるという
ハッキリした計画と準備があって、それで金を借りるのならよい。

実際神の無限供給があるのに、
「債務を負っている」という一種の「欠乏」とか「貧乏」とかの
観念の伴いやすい生活条件に入ることは好ましくないのである。

神の無限供給の世界に入るならば、そこには債権者も債務者もないのである。
そこは、ただ恵まれている世界である。
その恵みに報謝する働きをしておれば必要なものはことごとくやって来るのである。

             <感謝合掌 平成30年9月13日 頓首再拝>

余った物を粗末にしてはならない - 伝統

2018/09/17 (Mon) 03:45:02


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月17日)より

宇宙の終始一貫せる法則の中には、因果応報の法則がある。
原因あれば必ず結果があるという法則である。

いかに狡猾に原因だけを造っておいて、結果だけをのがれようと試みても、
結果は早いか遅いか、あるいは他の形態をもってするか、
いずれにせよその人に報いてくるのである。

イエスが5つのパンと小さき肴(さかな)2つを5千人に分け与えて
なお12の籃(かご)にパンの余りが残っていたという奇跡が行なわれたときに、
なぜそのような奇跡があらわれたのであろうか。

それは愛のゆえに分け与えたこと、
そして「廃(すた)るものなきよう擘(さ)きたる余りを集めよ」
というイエスの教えを実行したからである。

無限供給を念じさえするならば、物の余りを粗末にしてもさしつかえない
と思うのはまちがいである。

             <感謝合掌 平成30年9月17日 頓首再拝>

富は有益に使う - 伝統

2018/09/20 (Thu) 02:40:56


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月20日)より

使わずに蓄(た)めておくということもある時期においては必要である。
それは種子(たね)を適当な種蒔きの時期まで保存するような意味である。

しかし未来の欠乏の恐怖によって物に執着する意味での貯蓄は、
「欠乏」の想念(こころ)が先になっているから、あまり感心しないのである。

まず神の国の無限供給を認識し、それを生かし表現することにつとめるならば、
未来も今も常に無限の供給に満たされることになるのである。

富の固定をもって真の富と考えてはならない。
固定しているかぎり、それはなんら人生に益することはできないのである。

富は有益に使うとき増殖する。

             <感謝合掌 平成30年9月20日 頓首再拝>

「無限の富」とはいかなるものか - 伝統

2018/10/08 (Mon) 02:55:44


          * 徳久 克己 「『生命の實相』教室」より

『生命の實相』 第5巻 聖霊篇205頁に

「無限の富と申しますのは自分の名義になっている富だけを数えるのは、
本当の富ではないのであります。 

自分の名義になっている富だけを言うならば、
百億万円の金持でも有限の金持であって無限の富ではないのです。 
また現在必要もないのに自分の懐中に百億万円もあっては、
その富は重いばかりで自分の自由を縛るばかりである。 
 
本当の無限の富とは必要なだけ、滾々と井戸の水を汲んでも汲んでも尽きないように、
いくら使っても使っても必要に応じて無限に湧き出て来るのが
本当の吾々の自由を縛らない自由無限を展開するための無限の富であるのです。」


この「無限の富」というものを、よく理解していないと
生長の家の「無限供給」の本当の意味がわかりません。

「欲するもの、好ましきもの、おのずから集りきたり、
欲せざるもの、好ましからざるもの、おのずから去る」

如意宝珠観のこの一節が心の底から理解されますと、
実に楽しい、明るい、嬉しい生活ができます。

なんでもかんでも自分の名義でみんな持っているのが「無限の富」だと思うと、
富を持ちながら自由を失った悩みの生活になってしまいます。

次の頁に 
「本当の無限の富の所有者は使っても減らないで、打出の小槌のようにまた出て来る」  

と説かれています。 

「神の子」である私たちはすべて 「富の本源」 である神の子なのである、
ということを、まず根本的に理解しなければなりません。

    (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24768861.html

             <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

《貧しさからの脱却の祈り》 - 伝統

2018/10/21 (Sun) 04:05:36


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P198~199) より

「この貧しさから逃れたい」と切に願って
「神よ、吾れを富ましめ給え」祈りながら、
富もうとして計画する仕事や思惑が悉く失敗して
益々貧乏の底に落ち込んで行く人がある。

そんな人は、現在意識(表面の心)では「富みたい」と思っているけれども、
潜在意識の底には「自分は富んではならない」という反対観念があるのである。

その「富んではならない」という反対観念の中には、聖書にあるイエスの
「富める者の天国に入ることの難きことは駱駝の針の孔を通るが如し」という
清貧礼賛の言葉に引っかかっている場合もあれば、

自分が何か人に損をかけるような事をしているので、
自分が富んでは申訳がない ―― というような謙(へりくだ)った懺悔
又は自己処罰の念が覆蔵(ふくぞう)されていることもあるのである。

私たちが富むためには、
このような清貧礼賛の念をも自己処罰の感情をも
超克しなければならない。

             <感謝合掌 平成30年10月21日 頓首再拝>

創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」がある - 伝統

2018/11/04 (Sun) 06:17:41


          *「光明道中記」(11月4日)より抜粋

【完全に自分の生命を与え切ったとき自分の生命はその仕事と一つになる。
                           (『生命の實相』第四巻)】

「儲ける」の語源は「設ける」である。
設けるとは施設することであり、ものを創造することである。
創造のあるところ、「設け」があり、「儲け」があるのである。

天地の真心を受けて創造されたるものが「設けの君」である。
「もうけ」は「真受(まうけ)」である。

天地の真心を受けたときそこに価値施設が行われ、創造が行われ、自然に儲かるのである。

本来「儲け」は「設け」に伴うものであったのに、近来、資本主義の爛熟期に到達するに
及んで「設け」ずして、金銭を遣(や)り取りしたり、電話で商談を運ぶのみにて「儲ける」
と云う本末転倒の扁行為(へんこうい)が行われることになったのである。

          <感謝合掌 平成30年11月4日 頓首再拝>

無限供給 - 伝統

2018/11/05 (Mon) 03:39:13


          *「光明道中記」(11月5日 無限供給を受くる日)より

【時間を巧みに生かす者は自己の生命を生かす者である。(『生命の實相』第四巻)】

宇宙は無限、天地は無限供給である。
神は無限の富者、人は無限の富者の後嗣者(あとつぎ)である。

「我」と云う限界を撤廃したときに、宇宙がそのまま自分のものとなるのである。
手を握れば一握(あく)の砂をも入るに足らず、手を開けば、掌上に宇宙が載るのである。

生命(いのち)の営みがあれば、そこに衣食おのずからあり、
「儲け」は「設け」であるからである。

『生命の實相』の中に、金魚を入れた水盤と、金魚を入れない水盤と2つがあって、
そのいずれにも水を満たして置けば、金魚の住んでいる水盤には速やかに藻が生えて、
金魚はそれを食して生活しているが、金魚の住まない水盤には容易に藻が生えないと云う
事実が書いてあるが、味わうべじである。

藻が生えてからあの水盤の中へ跳び込もうと思って、金魚が陸(おか)から水盤の中へ
跳び込まずにいたならば、ついに
その金魚が餓死するか窒息して了うであろう。

何も食物の無い水中へでも跳び込んで、其処に生命の《いとなみ》が始まったら、
自然と其処に藻が生えて来るのである。

《いのち》の営みは、「設け」であり、生えて来る藻は「儲け」である。
「儲け」があって働くのではない。
藻が生えてから跳び込むのではない。

          <感謝合掌 平成30年11月5日 頓首再拝>

神の無限供給について - 伝統

2018/11/11 (Sun) 02:42:03


       *「光明法語」(11月11日の法語)より

神は寛大であり、無限の供給であって、他を害せず、他の持物や享受を侵害せずして
自分に《なくてならぬもの》は必ずそれを与え給うのである。

《なくてならぬもの》とは必ずしも、切羽詰った
「それがなくては死ぬ」と云うようなものでなくとも、

その生活に
「愛を生かし、美を生かし、智慧を増進し、平和と調和をもたらす為に必要なるもの」
であれば、一寸した菓子や机の上の装飾物や、ラジオ・セットや蓄音機のような
生活必需品でなくとも与えられるのである。

          <感謝合掌 平成30年11月11日 頓首再拝>

《宇宙大生命は循環流通する》 - 伝統

2018/12/02 (Sun) 04:14:56


       *『人生の秘訣365章』第8篇(P218~219) より

神は宇宙の大本源であり、一切生命の中に循環流通しているのであるから、
固定することを嫌うのである。

従って固定するとき、その価値は減って来るし、
増殖する力はなくなり、伸び率が減少して来るのである。
これは財産でも、企業でも、健康でも同じである。

終戦時には銀行に眠っていた預金は三万二千円以上は
封鎖せられて使えなくなったし、
銀行利子は物価高騰に追いつかないから、
動かない金(かね)の利用価値は段々減少しつつあるのである。

最高利子の銀行預金で十年間に元金が二倍に増加したと喜んで
それで土地を買って家を建てようと思うならば、
その地価は十年前にくらべると五十倍にも百倍にも奔騰しているのである。

即ち、動かさない預金は数字の上では十年間に二倍になったようでも、
實際はその価値が数十分の一に減少しているのである。

すなわち宇宙大生命は流動循環する本性をもっており、
固定することを嫌うのである。

       <感謝合掌 平成30年12月2日 頓首再拝>

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬ - 伝統

2018/12/15 (Sat) 04:12:30


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月15日)より

決意、心の世界における素描(そびょう)、その素描の上に絵の具を塗る実行、
それは絵師(えかき)だけのことではない。
人生の画布(カンパス)の上に実生活の絵を描くところの人間の一生もそれである。

真に富者(ふうじゃ)となるには、「われすでに富めり」の素描を心の中に描き、
それを実践に移さなければならぬ。しかし富とははたして何であるか。

富とは決して物質の所有ではないのである。
多くの人たちは富とは物質の所有であり、物質を所有することによって
生活の安全感と優越感とを確保しうるもののように誤解しているのであるけれども、
物質はそれを所有すればするほど、生活の安全感は失われるのである。

いかにしてその所有を減らさず確保しようかということは、
物質の所有者に絶えざる不安を与えるのである。

さればキリストは、「富める者の天国(最大の安全感ある場所)に
入(い)ることの難きこと駱駝の孔(あな)を通るがごとし」と言ったのである。


真の富はもっと精神的または霊的なものである。

鑑賞する力の多き者は真に富める者と言うことができるのである。

山肌の美しさ、蒼空(あおぞら)に漂う白雲(はくうん)の美しさ、
路傍に咲く1本の草花の美しさ、小鳥の囀(さえず)りの美しさ
・・・挙(あ)ぐれば限りなく豊富な美しさがいたるところに満ちているのである。

それは預金帳や小切手や金庫の中で数えられる富や、
大邸宅とその付属庭園で見られるごとき有限なる狭き美しさではないのである。

何よりも富とは外界の物質そのものではなく、そこから引き出し来(く)る
悦びの豊富、美の感受能力、鑑賞力の豊富さであることを知らねばならないのである。

猫や犬に活け花の美や、彫刻の美や、絵画の美や、
山脈(やまなみ)の曲線の美しさや、樹々(きぎ)緑したたる美しさはわからない。

彼等には美の感受能力乏しきがゆえに、無限に豊富なる美の宝庫の中に
入れられていてさえも、そこから美を汲(く)み出すことを知らず、
ただ腐肉や、魚の骨をさがし求め争うているのである。

しかるにあたかも万物の霊長であり、神の最高顕現なる人間が、
この豊富なる美の宝庫なる人生に生まれながら、
腐肉を追い、魚骨(さかなのあら)を探しもとめる犬猫のごとく、
ただ固定した一塊(ひとかたまり)の札束(さつたば)や、
物質的富のみを求めるならば、それは人間として与えられたる
至高の特権を放棄せるものと言わなければならないのである。

しかしわれらは決して、物質的富を排斥するものではないのである。

精神的にして霊的なる富がわれらにゆたかにひらかれるならば、
必ずきまって物質的富はおのずから、その反影として整うのである。

これに反して物質的富の中には必ずしも精神的霊的なる富はひらかれない。

あまり物質の所有欲に心が捉えられるとき心は物質にしばられて
他の豊かなる美を鑑賞する暇と能力とを失ってしまうからである。

真に富まんと欲するものはまず霊的精神的なる富を得なければならぬのである。

決意、素描、実行
 ―― これは心が形の世界に顕(あら)われる3つの要素である。

       <感謝合掌 平成30年12月15日 頓首再拝>

《富とは貨幣のみではない》 - 伝統

2018/12/16 (Sun) 04:12:47


       *「光明法語」(12月16日)より

富と云うものは貨幣のみではない。
又物資のみでもない。

人に深切を盡して置くと、それが富である。
軈て入用の時に其の人から再び深切にされ援助される事がある。

よき考えもまた富である。
実用新案などと云って、一寸した小さな「善き考え」さえも
無限に儲けを引出すこともあり得る。

よき友人を持つ事も富の一種である。

信用も亦富である。
意思の強固さや、持続力の強さや、頭脳の良さも亦富である。
更によき妻をもち、よき子をもち、良き召使を持つ事も大なる富である。

       <感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。 - 伝統

2018/12/25 (Tue) 04:47:09


       *「光明道中記」(12月25日 必ず一人を救う日)より

【毎日一度は誰かに深切にせよ。与えることによってのみ自己は拡大する。
                      (『生命の實相』第四巻)】

富は富自身に魅力を有(も)っていて、富が蓄積されはじめると、
富を人類に有用な方向に使用することを惜しむように成り勝ちである。

そうなると、その富はやがて単なる「形骸」となり終って
内容たる「生命」を失いはじめるのである。

キリストはかかる富の魅力に捉えられざらんがために、
「富める者の天国に入ることの難きこと駱駝の針の孔(あな)を通るが如し」
と言ったのである。

すべて何でも大きくなって来るときには、「大いさ」と云うものの魅力が
加わって来るが為に、何のために「大きくなること」が必要であったかと云う
本当の目的を失って了って、「大きくなること」のみを求めるようなことになる。

人間の愛の目的が失われ、物を集め大きくしたのは「愛」の目的があった
と云うことが忘れられ、雪達磨が坂道を自転しつつ次第に大きくなりつつ、
しかも破滅に近づきつつあることを自覚しないと
同じような事実が、富の蓄積にも言い得られるのである。

富は入用の程度で満足することを知らねばならない。

入用の程度で満足していたならば、世界には資源争奪も起らなかったし、
世界の資源は人類の福祉のために自由に解放せられて黄金世界を現じたであろうし、
現代の石油ショックも起らなかったに相違ないのである。

       <感謝合掌 平成30年12月25日 頓首再拝>

「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである - 伝統

2018/12/26 (Wed) 04:53:07


           *「光明道中記」(12月26日 愛念雲の如く湧く日)より

【周囲に対して微笑みかけよ。周囲も又汝ににこやかに微笑みかける。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

富が人類へ奉仕(サーブ)するための目的から離れて、
自働的にそれが富自身を追求するようになる時、
それは「貧乏」が人間の生命を縛るのと同様に、
「富」も亦、人間の生命を縛るようになるのである。

「富」それ自身が欲しくなったとき、
その人は、すべての供給が「神」からくるのではなく
「物」からくるのだと思い違えはじめた証拠である。

人間の幸福は「物」から来るのである、
「物」は消耗するものだとの観念が強くその人の生活をリードするから、
「富」の飽(あ)くなき蓄積がはじまるのである。


ところが人間への供給と幸福とは決して「物」から来るのでなく、
「神」から来るのである。

従って、吾々に与えられて、或いはその使用にまかせられているべき
この富と、力と、生命力とは、人間に貢献(サーブ)する目的で使用せられる限り、
永遠に神より来たって補給されて失われると云うことはないのである。


蓄えられたる「死金」ほど愚かにも滑稽なるものはない。
それは人間の魂を飢えさせ、餓鬼道の苦しみに陥(おとしい)れるものである。


「無限供給」とは撓(たゆ)みなき流れである。
それは停止ではなく、蓄積ではなく、また枯渇でもないのである。
余れるにも非ず、足らざるにも非ず、不断に周囲を潤して流れ行くものである。

       <感謝合掌 平成30年12月26日 頓首再拝>

冥加(みょうが)のある「富」 - 伝統

2018/12/27 (Thu) 03:53:04


           *「光明道中記」(12月27日 無限供給の日)より

【自己の心だけの事物しか自分の運命に引き寄せることができない。
                       (『生命の實相』第四巻)】

富そのものを集積する蓄積と、「物」に内在する神の恵みを大切にして
少しも浪費しないことはおのずから別なことである。

キリストは「5つのパンを5千人に分けて与えた」
これは愛は神から無限供給を招(よ)び出すものであって、
外見の「物」の分量にかかわらないことが示されているのである。

併しながら5千人の食べ残ったパン屑は悉く集められて籠一杯になったともある。

これは「神の恩寵」であるところの「供給」を
少しでも無駄にしてはならないと云う教えであるのである。

富そのものの大を希(ねが)いて、雪達磨のように転げつつ大きくなることは
避けなければならないが、すべての「供給」は神よりの《もの》と知り、
少しも浪費することなく有効に利用すべく心掛けなければならないことは当然である。

そこにこそ、「富」そのものを追求するには非ざれども、
自然に湧き来る富が発生するのである。

斯くの如き富を冥加(みょうが)のある「富」と言う。
神の冥々(めいめい)の加護である「富」であり、
「福田」の表現としての「富」である。

若し吾々が日常生活に於いて釜浚(かまさら)いの御飯粒をも、
お皿に残った一滴の醤油をも浪費しないで、拝むような心持で頂くとき、
そんな収入の少ない人でも尚残って余りある籠の中に一杯のパンを見るであろう。

       <感謝合掌 平成30年12月27日 頓首再拝>

《神の流通パイプの中を詰らせてはならない》 - 伝統

2019/01/14 (Mon) 04:51:24


         *『人生の秘訣365章』第12篇(P304) より

吾々が神の供給の流通パイプと完全になり得たときには、
神は無限の富者であり、無限供給の本源であるから、
吾々の懐の中には、神の無限の富が必要に応じて
常に裕(ゆたか)に流通することになるのである。

自然にそう成るのであって、
無限供給を得ようと思って献金を《自分》がするのではないのである。
神が神の愛の事業に、神の富を無限循環せしめ給う。

吾々はただその流通パイプに成るだけの事である。

その事がわかるならば、神の愛の事業に献金したからとて、
それだけ自分の富が減る譯ではないのであり、
常に神の供給が自分の内に流通する習慣がつくならば、
愈々益々自分の経理内容は裕なものになって来るほかはないのである。

私たちが無限供給を受けることができず、常に貧しき状態であるのは、
「自分の富」だと“有限の富”を握って、それを次に廻すことを忘れて、
富の流通パイプの中を、我(が)の所有欲の塊で閉塞してしまっているからである。

       <感謝合掌 平成31年1月14日 頓首再拝>

ケチな心、贅沢な心のところには、富は永遠にいない - 伝統

2019/01/21 (Mon) 04:53:12


       *「光明道中記」(1月21日 笑門福来七宝充満の日)より

【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】

凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、夫婦は似たり寄ったりのものである。
自分の欠点はわかりにくいのは、
自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。
自分の睫毛を見るためには鏡が要る。

それと同じく自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、
自分の夫であり、妻であり、子である。

妻が出しゃばりであるのは自分が出しゃばりであり、
子供が要らぬことに金を費やすのは、儲けてはならない不当なことに儲けていた反影である。
金持三代続かないのはその為である。

善行をして次第に集った富ならば何時までも続く筈である。

ケチな心は貧しい心、出し吝(おし)みする心であるから、
一時は出口を押さえる力で蓄積が出来るものであるが、
やがてその人の周囲にはケチな心、出し吝(おし)みする心の持ち主ばかり
が集って来て、ついにはその人自身が立たなくなり衰微して滅んでしまうのである。

贅沢な心のところにも富は永遠にいないものである。
何故なら物の価値を知らないで、湯水のように贅沢に恵みを悟らずに
使いほかしにする心の処には神の恵みは何時迄も停(とどま)らない。

            <感謝合掌 平成30年1月21日 頓首再拝>

富と幸福 - 伝統

2019/01/23 (Wed) 04:44:21


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月23日)より

心の平和を得ることが幸福の本である。
心が平和を得なければ億兆の富といえどもなんの幸福をもわれわれにもたらしえない。
それはかえってわれわれの生活を掻きみだし、われわれを地獄へ突き落とす重荷となる。

幸福は富の有無ではない。
しかしわれわれは富を排斥するのではない。

富に捉えられずして富を善事に駆使しうる者は
富ますます多くして世のためになることますます多くなるであろうが、
多く人の場合は「富」を得るときそれに捉えられる。

俗人は「富」をもてば増殖したくなるであろうし、
それが奪われざらんことを欲して守りたくなるであろう。

ここに、人が現象に捉えられて、自己の内にすでにある「無限の富」を
忘れがちとなる危険がひそんでいるのである。

多くの富豪の家庭にはおもしろくないことが潜んでいる。
誰でも必要以上に富をもつことは人生に不要な重荷を背負い込んだことになる。

無限供給というのは飽食の意味ではなく、
必要なだけ食膳に上(のぼ)るということである。

このことは食物に限らず「金(かね)」でも同じことである。

            <感謝合掌 平成31年1月23日 頓首再拝>

《富の父性原理と母性原理》 - 伝統

2019/02/11 (Mon) 04:38:57


        *『真理』第5巻女性篇(P135~137)より抜粋

人間に父母があるように、富にも父性原理と母性原理とがあります。

富の父性原理とは「出して与える原理」です。

「受ける原理」ばかりあっても「与える原理」があなたに調わなければ
「富」という立派な子供は生まれません。

聖書のルカ伝には
「与えよ、さらば与えられん。
人は量目をよくし、押入れ、揺れ入れ、あふるるばかりに汝の懐に入れん」
と教えられています。

富を得るにはあなたは富の種子を蒔かねばなりません。
大地に与えなければならないのです。

今日(きょう)、今からよき種子を蒔くことによって
新生活を始めようではありませんか。

人を救うことです。
何か人のためになることを毎日一つでもすることです。

(中略)

そうすれば必ず人に喜ばれます。

人は神の子ですから、必ず神に悦ばれます。

供給は神から来るのですから、神に悦ばれることをしていたら
必ず無限の供給が与えられるのであります。

         <感謝合掌 平成31年2月11日 頓首再拝>

《豊かさがもたらす思念》 - 伝統

2019/02/16 (Sat) 04:32:49


        *『生活の智慧365章』
         (第3部繁栄の泉)第7篇(P185~186) より

一時的な快感や一時的の豊富さは人間的工夫によって操作して
得られることがあるけれども、永遠の魂の悦びや、永遠の豊かなる流れは
人間的工夫によっては得られぬものである。

自己の魂の底にある霊を通して神につながる事によってのみ、
私達は永遠の魂の悦びと供給の豊かなる流れを受けることができるのである。
 

私たちは何としても、現象だけに頼らず、この内なる霊の鍵を通して
無限の供給の流れと結びつかなければならないのである。

外のものに頼るよりも「内なる鍵」を通して無限の宝庫の扉をひらくのである。

私たちの内には霊感とも云うべき内部の能力が宿っており、
その燈火(ともしび)が私たちを導いて下さるのである。

「わが魂の底の底なる神よ。無限の力わき出でよ」

暇あるごとに常にこの言葉を黙念して、内部の無限の力より汲むべきである。

         <感謝合掌 平成31年2月16日 頓首再拝>

《繁栄の根源は人類に幸福を与えるにある》 - 伝統

2019/02/18 (Mon) 03:36:50


           *「光明法語」(2月18日)より

幸福も繁栄も同様に神の他の二つの面である。

『悪』を犯して幸福になろうとしても幸福は来たらないのである。
『悪』を犯して繁栄しようと思っても、一時は栄えるように見えても
結局は栄えることは出来ないのである。

鼠小僧も石川五右衛門も百万長者になることは出来ないのである。
況や億万長者になった盗賊は一人もいない。

しかしロックフェラーも、ヘンリー・フオードも億万長者になり得たのは、
彼が人類に必要なものを出来るだけ広く与えたからである。

一方は鉱油を、一方は自動車を出来るだけ安く。

         <感謝合掌 平成31年2月18日 頓首再拝>

《人のためになる事が富の本源》 - 伝統

2019/02/25 (Mon) 04:45:36


           *「光明法語」(2月25日)より

金は自分が儲けるから得られるのだと普通考えられているのであるが、
儲けるとは一体どう云うことか。

それを何処からか横取りして来ると云う意味であるならば、それは寧ろ搾取である。

ところが、真実はお金と云うものは何か人のためになることを尽したその報いとして、
自然に自分に廻って来るのである。
人のためになることを余計すればするほど、その人にはお金は一層多く廻って来る。

そしてそれは普通、種子を蒔くようなもので、
与えたよりも余程多く与えられることになるのである。

         <感謝合掌 平成31年2月25日 頓首再拝>

貧しさの理由 - 伝統

2019/03/11 (Mon) 04:36:27


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月11日)」より

すでにあるのに、多くの人が貧しいのは、第一家庭の調和を欠いていること。
祖先の祭祀(さいし)が足りないので祖先の守護の足りないこと。

家族の不調和と祖先の祭祀の不足とで、その人が外に出ても自分の身辺に漂うている
雰囲気が刺々(とげとげ)しくて、他から好意を持たれないことなどである。

            <感謝合掌 平成31年3月11日 頓首再拝>

《他の繁栄を悦ぶ祈り 》 - 伝統

2019/03/13 (Wed) 04:58:55


      *『人生の秘訣365章』第2篇(P56~57) より

「増加の法則」に乗るためには、
他(た)の繁栄(その事業の増大や、財産の増加)を羨んではならないのである。

他(た)の人の繁栄を羨んだり、憎々(にくにく)しく思うならば、
それは“繁栄”を、心の世界で拒絶し否定していることになるのであるから、
自己の“繁栄”をも拒絶し否定することになり、

従って、自分の計画が失敗し、自分の事業が蹉跌し、
ついに繁栄を失うことになるのである。


他(た)の人が繁栄するのを聞けば、
その人に代って神様に感謝の祈りを獻(ささ)げるがよい。

次の如く祈りなさい。――

「神さま、あなたはすべての繁栄の源泉であられます。
すべての繁栄は、神さま、あなたから来るのであります。
私の知人何某は(名を唱える)あなたさまの叡智を受け、
大いに繁栄いたしました。

神さま、あの人が神に導かれて大いに繁栄いたしました事について、
あなたに感謝いたします」


この祈りは、吾々の隣国の繁栄や、
貿易の相手国の繁栄を希(こいねが)うために応用すれば、
それが、日本国自体の繁栄に道を拓くことにもなるのである。

            <感謝合掌 平成31年3月13日 頓首再拝>

無限供給の宝はあなたの足下にある - 伝統

2019/03/20 (Wed) 03:16:32


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月20日)」より

小さな損得を気にする者はついに命(いのち)を磨(す)り減らす。

無限供給の宝はあなたの足下(あしもと)に踏まれているのに気がつかない。

どんなものでも羨(うらや)ましいとは思うな。

            <感謝合掌 平成31年3月20日 頓首再拝>

《人の富を非難してはならない》 - 伝統

2019/04/09 (Tue) 04:34:17


       *『 生長の家 』(昭和26年7月13日)より

   逆境がやって来たときに、人は 大抵自分よりも順境でいる人や、
   幸福な人に対して 批評的になりたがるものである。

   他人の富を批評して、

   「 屹度(きっと)それは 闇(やみ)をして儲(もう)けたに相違ない 」 とか

   「 屹度 狡(ずる)い事をしたに相違ない 」 とか考え勝ちであるのである。

   しかし 他の富を非難する者には、
   自分に対しても 「 富 」 は近づいて来ないのである。

   税務官吏で千万長者になった者がないのは、
   常に他の富を苛辣(からつ)に批判して
   それから奪おうと云う心理状態が働くからである。

   奪おうと云うものは奪われるのである。
   すべて心の世界に蒔(ま)いたものは
   現実の世界に刈りとらねばならぬのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/69716c487dd8dd8c398cc91ac4318be5

            <感謝合掌 平成31年4月9日 頓首再拝>

《神は豊かに恵みたまう》 - 伝統

2019/04/18 (Thu) 03:58:17


        *「光明法語」(4月18日)より

神を絶対必要量の最低限度以上のものを与えたまわないような
「ケチな存在者」だと思ってはならない。

かく神をば「ケチな存在者」だと思うことは、
ケチな存在を祈っているのであるから
ケチな存在しか得ることが出来ないのである。

神は富士山を築山(つきやま)にしつらえ
太平洋を其のお庭の池につくりたまうた如き、
寛大にして余裕ある豊かなる存在であらせられる。

山や海さえもかく美しく豊かにつくりたまうた神が
神の最高の自己実現である人間にケチな装いしか与えたまわない
と云うことはないのである。

            <感謝合掌 平成31年4月18日 頓首再拝>

《神よりの豊かなる生活》 - 伝統

2019/04/19 (Fri) 04:14:59


        *「光明法語」(4月19日)より

吾々の豊かなる生活は、神から与えられるものではなくてはならぬ。
神に対立する富を求めてはならないのである。
ただ神のみを求めたら好いのである。

神の中に一切があるのであるから、神のみを純一無雑に求めていさえすれば
豊かななる生活は自(おのずか)ら実現するのである。

神のみを求めながら、若しその人に豊かなる生活が実現しないならば、
「豊かなる生活を送ることは神のみこころにかなわない」とか、
「富める者は天国へ行くことはむずかしい」とか云う迷いが
その人の心の何処(どこ)かに存在するのである。

            <感謝合掌 平成31年4月19日 頓首再拝>

《富を実現するには》 - 伝統

2019/05/07 (Tue) 03:36:42


          *『幸福を招く365章』第9項(P180) より

「吾れは今富んでいるのである」と念ずれば
空(くう)よりして「富」が実現して来るのである。

次の瞬間「そんなことがあるものか」と念ずれば、
「そんなことはなくなる」のである。

多くの人々が、何を念じても、それが成就しないのは、その成就に信念がなく、
次の瞬間から「そんなことがあるものか」と念ずる
―― その念じ方の方が力強く、且つ長時間であるからである。

若し芥子種ほどの信仰があって「吾れは今富んでいるのである」と念じた信念が、
次の瞬間にも崩れることなく、力強く、且つ長時間その想念をつづけることが出来れば
必ず富は実現するのである。

            <感謝合掌 令和元年5月7日 頓首再拝>

《富とは「生命(いのち)」を与えること》 - 伝統

2019/05/16 (Thu) 04:16:22


        *「光明法語」(5月16日)より

富を獲得するためには
何か不正なことを行なわないと得られないと思うのは間違いである。

また富と云うものが神のみ心にかなわぬものだと考えるのも間違いである。

富と云うものは
神の「生命(いのち)さきはえ」が現象界に具現化したものであるから、
人間自身も生命(いのち)を出して与えた程度に従って得られるのである。

与えれば与えるほど、換言すれば多くの人々に役に立つ働きをし、
多くの人々の役に立つ製品をつくり出したとき、
その人の収入は殖え、その人の富は増加するのである。

            <感謝合掌 令和元年5月16日 頓首再拝>

《最大多数の最大幸福に奉仕せよ》 - 伝統

2019/05/17 (Fri) 04:22:09


        *「光明法語」(5月17日)より

「亀の子たわし」を新案して全日本の台所の清潔に貢献した者は百万長者となり、
「わかもと」を新案して人類にビタミンB資源を出来るだけ広く供給する試みを
考案した者は千万長者と成る。

何でも最大多数の人類に貢献した者はその報いを得るのである。

真理を最も平易なる言葉で述べ、一千万人に生老病死を解脱する道を教えた
『生命の實相』の著者が千万長者にならないのは、まだ彼が、清貧に執する気持ちがあり、
宗教家と云うものは富んではならないという通念に縛せられているからである。

            <感謝合掌 令和元年5月17日 頓首再拝>

《富む事は罪悪ではない》 - 伝統

2019/05/22 (Wed) 04:40:21


        *「光明法語」(5月22日)より

若し諸君が富もうと思うならば、
富む事が罪悪であると云うような考えを捨てなければならぬ。
若し潜在意識が「富」を「避くべき罪悪」であると信じているならば、
潜在意識に諸君はする事なす事、貧乏になるような行動をすることになるのである。

神は決してケチを喜び給うような方ではない事は、
地球と云う箱庭に太平洋と云う池をつくり、富士山と云う築山をきずいて、
その美しさを賞(め)でたまう事実を見てもわかるのである。

神の計画は大仕掛である。
人間も神の子ならば大仕掛に富んでも好い。
大なる計画は人を引着ける。

            <感謝合掌 令和元年5月22日 頓首再拝>

《富を獲得する第一条件》 - 伝統

2019/05/23 (Thu) 03:11:01


        *「光明法語」(5月23日)より

富とは「金」のことではない。
封鎖されれば使えなくなるような「金」や紙幣は真の富ではない。

富とは「価値」である。「値打」である。
値打の中には色々の善き考え、身体(からだ)の健康、人格の魅力、
日常生活の快適や豊富さ、享受力の豊かさ、創造力の豊かさなどと云うものが
含まれている。

兎も角、諸君がこれらの富を得んとすれば、
それを得ることが決して罪悪でないと云うことを先ず知り、
自分が神の子であるから此等のものは必ず得られると云うことに確信を有(も)ち、
且つ必ず得て見せると云う大決心をしなければならぬ。

            <感謝合掌 令和元年5月23日 頓首再拝>

《富は「善き考え」の具象化》 - 伝統

2019/05/24 (Fri) 03:27:32


        *「光明法語」(5月24日)より

富は先ず「善き考え」の具象化(かたちになったもの)であるから、
善き考えを起こさなければならぬ。

人間知恵で善き考えを起こしたくらいでは、
人に抽(ぬき)んで大なる富を得る事は出来ないのである。

多くの発明は天来のインスピレーションで成り立っているのである。
だから大いに富むためにはインスピレーションを得なければならない。
インスピレーションを得るためには神に波長を合わさなければならない。

神に波長を合わすためには、心を清め、心を静かにして、
神想観を行じなければならぬ。

            <感謝合掌 令和元年5月24日 頓首再拝>

《既に与えられているものを完全に利用せよ》 - 伝統

2019/05/25 (Sat) 03:40:50


        *「光明法語」(5月25日)より

神の有ち給えるすべての富は既に汝に与えられているのである。
それをみずから取るか遠慮して取らないかは自分の自由である。

次のものを求むるよりも前に、既に与えられているものを完全に保有し、
感謝し、それを働かせているかいないかを反省すべきである。

既に与えられているものに感謝し、既に与えられている自分の富を、愛を、能力を、
深切を、充分人に与え、且つ働かせてこそ、新たなるものを求むるべきである。

その時にこそ神が既に豊かに与えたまうている物を取る力が出来ているのである。

            <感謝合掌 令和元年5月25日 頓首再拝>

神を認め、神と直結せよ! さすれば無限の富が湧き出て来る - 伝統

2019/06/05 (Wed) 04:32:36


          *『光明法語』(6月5日《先ず神を認めよ》)より

神が吾々神の子に求めていられる処のものは先ず「吾を認めよ」と云うことである。
人間でも親が子に求めているところのものは、先ず「親をみとめよ」と云うことである。

親の無視が即ち親不孝であり、親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。

だから先ず何よりも吾らは自分の生命(いのち)の親を、神を、
認めなければならないのである。

先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。

            <感謝合掌 令和元年6月5日 頓首再拝>

人間は神の子、減らない生命と財とを与えられている - 伝統

2019/06/07 (Fri) 04:36:58


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

           <感謝合掌 令和元年6月7日 頓首再拝>

真の無限供給は、豊富に与えることによって循環してくる - 伝統

2019/06/21 (Fri) 04:20:20


       *「光明道中記」(6月21日《三たび自己を顧みる日》)より

【救うとは人間本来の「生命の自由」を回復することである。
                      (『生命の實相』第三巻)】

神はすべてであるから超利己的な力である。
その超利己的な力に対して、
利己的な動機で祈ると云うことが既に矛盾しているのである。

すべての人に調和し、自分が栄えることによって
他の栄えが害(そこな)われるようなことなき事柄に就いてのみ
吾等は祈るべきである。

宇宙の富は宇宙全体の《もの》であるから、
宇宙無限の富の供給を受けんと思う者は、自分が多く供給されればされるだけ、
それを使って全体のために使い得る用途を見出さなければならぬ。

金でもたんまり入って来たら、
日頃買いたいものを思う様買って利己的に楽しめるのになア
―― などと利己的なことを考えながら神から無限供給が来ると思ってはならない。

欠乏するかも知れぬと思って、有用なことに使うことを恐れている者は
要するに無限供給を知らぬものである。

無限供給は与えられたものを以て
最高度に全体のために奉仕することによって循環して来るのである。

豊富に与えられんと思う者は豊富に与えなければならぬ。
豊富に与えるとはただ無暗(むやみ)に非効率な出し方をすることではない。

叡智の伴わない施与(ほどこし)は自由を傷(きずつ)ける。

           <感謝合掌 令和元年6月21日 頓首再拝>

有用なる使途のための貯蓄は、無限供給を招(よ)ぶ - 伝統

2019/06/22 (Sat) 04:52:29


     *「光明道中記」 (6月22日《神意(みこころ)を行ずる日》)より

【十字架を負うてすべての持てるものを捨てて我に従え。(『生命の實相』第九巻)】

金は必ずしもある切り出し切るのが神意に適うのではない。
と言って金の出し惜しみをするのが神意に適うのでもない。
全体のために有用に使うことである。

今、有用に使う道が発見せられないならば、
「有用に使う道を発見せしめ給え」と祈りつつ、
有用に使う道が発見されるまで貯蓄して置くべきである。

有用に使う道を発見せずしてみだりに金を放出する者を浪費者と言うのである。
浪費者は天物を亡殄(ぼうてん)するものであるから、
やがて自己が貧しさに苦しまねばならぬ時が来るであろう。

貯蓄は老衰後のためや手足が不自由になったり、
頭脳(あたま)が役に立たなくなった時の生活費にと貯えるべきもの
ではないのである。

老後のためと思えば老衰が来るであろうし、
手足の不自由の時のためだと思えば手足が不自由になるであろうし、
頭脳が役に立たなくなった時のためだと思えば、
やがて頭脳が役に立たなくなって来るだろう。

思う通りに何事でも成就するからである。

「貯蓄は有用なる使途を発見するためのものだ」と思って貯蓄すれば、
やがて有用なる使途が発見されるであろう。

その使途はまたその人を高め上げ無限供給を招(よ)ぶであろう。

           <感謝合掌 令和元年6月22日 頓首再拝>

Re: 無限の富を汲みだす④ - nkprziiehkMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:21

伝統板・第二
<a href="http://www.g66c6jh35jlh40o7n32g8ycr8r3b45r3s.org/">ankprziiehk</a>
nkprziiehk http://www.g66c6jh35jlh40o7n32g8ycr8r3b45r3s.org/
[url=http://www.g66c6jh35jlh40o7n32g8ycr8r3b45r3s.org/]unkprziiehk[/url]

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.