伝統板・第二

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昭和の日(3) - 伝統

2018/04/29 (Sun) 04:24:47

「昭和の日」に際し、次の情報を紹介いたします。


昭和天皇の御巡幸にまつわるエピソード

         *Web:ぼやきくっくり(2011.05.02)より抜粋


(私は、昭和天皇の御巡幸にまつわるエピソードをいくつか思い出しました。)
 
【当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。
小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で
昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。

引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、
「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。
 
ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、
その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、
号泣していたのである。
 
後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。
複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって
泣きながら「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、
皇室記者になってからも、たびたび思い出した。】

<SAPIO 2009.2/11・18合併号「昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々」>
[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の
全国巡幸/松崎敏弥>

               ・・・

【私は終戦の翌年に小学校に入学し、戦後教育を受けた人間である。
そのため、一時期は皇室の存在自体に疑問を抱くほどリベラルな思想に染まっていた。

だが、中学3年生の頃、谷口雅春氏らの著書を読んで昭和天皇のお人柄、事蹟に触れ、
目から鱗が落ちるように感激した。
 〈中略〉

全国を行幸されたときのエピソードにも感銘を受けた。
例えば、地方によってはまともな宿泊施設がなかったため、
焼け残った民間の建物や学校の教室にお泊まりになることも厭わなかった。

また炭鉱では労働者が皇室制度に反対する演説をぶとうと待ち受けていたが、
いざ昭和天皇がこられると、自然と万歳を唱えていた。

昭和天皇の持つ、言いようのないご威光を感じたに違いない。】

<SAPIO 2009.2/11・18合併号「昭和天皇と私たち日本人の幸福な日々」>
[ワイド]我が心の昭和天皇 陛下の自然体のご威光を受けながら
日本は驚異の復興を遂げた/平沼赳夫>

               ・・・

【(静岡県静岡市の戦災者・引揚者寮にて)

天皇は一室ごとにお言葉をかけて回られる。
中には「巡幸反対」を唱える共産党員もいたが、
全く気にせず、等しくお言葉をかけられた。
 
天皇のお帰りの際、その共産党員は御召車すれすれに顔を寄せ、叫んでいた。

 「天皇陛下、万歳!」
 
大金益次郎(おおがね・ますじろう)侍従長は、その模様をこのように記している。
「陛下の虚心な御行動の先ざきでは、我々の複雑な先入観は、常に事実として、払拭される。
そこで、我々はただ日本人を見る。党派も階級も貧富も見えない。
我々はただ日本人の血の叫び、魂の交流だけを感ずる。
党派も貧富も階級もその障壁をなさない」】

<「昭和天皇論」第7章 昭和天皇の御巡幸/小林よしのり>

               ・・・

昭和天皇の御巡幸は、終戦直後、塗炭の苦しみにあった国民を勇気づけるとともに、
戦後日本の復興の大きなエネルギー源となりました。

      (http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid994.html

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「昭和の日」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1500

(2)生長の家光明掲示板・第二
   《 昭和の日をお祝いする集い 》 4月29日 :明治神宮会館 (7755)
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1551

(3)伝統板・第二「(4月29日)は「昭和の日」」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6477200

(4)伝統板・第二「昭和の日②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7554592

             <感謝合掌 平成30年4月29日 頓首再拝>

昭和の日 時代の意義を伝え続けよ - 伝統

2018/04/30 (Mon) 04:54:46


           *Web:産経ニュース(018.4.29)より

(1)激動の昭和

   昭和の幕開け早々には世界恐慌に直撃され、
   やがて戦時色を強めながら先の大戦へと突入し、敗戦に至る。

   直後の荒廃と窮乏からみるみる復興を果たすと、
   高度経済成長によって世界有数の経済大国へと発展した。

   「昭和元禄」の呼び名に象徴されるような平和と繁栄を享受したのである。

   昭和天皇の崩御で平成を迎え、30年がたった。

   昭和以前の生まれはおよそ4人に3人となったが、
   その人たちが今でも特別の感慨をもって昭和時代を語るのは、
   戦争による甚大な犠牲や戦後の国民の努力が現在の日本の礎となっているからに違いない。

   「昭和の日」には、あらためてそのことを深く胸に刻みたい。

(2)あらたな時代へと

   来年4月30日の天皇陛下の譲位に続き、5月1日には皇太子さまが即位され、
   平成に代わる新しい元号が始まる。

   昭和への郷愁がいやがうえにも増し、
   あの時代の空気を今一度吸ってみたいとの思いにも駆られよう。

   町の路地には子供らの遊ぶ声が響き、
   ときに近所のおじさんの厳しくも優しい一喝が交じったりした。

   漫画のサザエさんの世界のように近隣が助け合い、
   地域で子供を見守る温かさがあった。
   家庭内では、ちゃぶ台を囲んでの団欒(だんらん)の光景がごく普通にみられた。

   たとえ時代が移り、生活スタイルが変わろうとも、
   昭和時代の温(ぬく)もりは懐古や郷愁を超えていつまでも大切にしたいものである。

   戦後の復興、高度成長とともに歩んできた団塊の世代の
   誰もがまもなく70歳代となり、新しい元号の時代は
   彼らの孫の世代も加わって創造していくことになる。

   物心ともに豊かな日本であり続けたいと、夢や期待が日一日と膨らむこの頃である。

   そんな次代への教訓とするためにも激動の昭和を生きた人たちはぜひ、
   昭和という時代の匂いや悲喜こもごもの経験、さまざまな意義を、
   後の世代に伝え続けてほしい。

   (https://www.sankei.com/column/news/180429/clm1804290002-n1.html

             <感謝合掌 平成30年4月30日 頓首再拝>

突然のソ連侵攻に狼狽する軍部 - 伝統

2018/05/01 (Tue) 03:55:09

”道産子 さま”が感動で涙し、多くの方々が感動で涙した
「昭和天皇の涙【感動】」
   → https://www.youtube.com/watch?v=AJAP0OA_jgU&feature=youtu.be

            ・・・

突然のソ連侵攻に狼狽する軍部 そのとき、天皇が敢然と動いた

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.3.17)より

《大日本帝国最後の一週間(1)》

漆黒の闇の中、大粒の雨が大地を激しく打っていた。
国境付近に集結した数十万のソ連軍を照らす月明かりはなく、
戦車のエンジン音は雨音にかき消された。

昭和20(1945)年8月9日午前零時、危機の迫る満洲(現中国東北部)は、
いまだ深い眠りの中にあった。

その1時間前、モスクワのクレムリンでは、
駐ソ大使の佐藤尚武が顔面を蒼白(そうはく)にして、
ソ連外相モロトフが読み上げる宣戦布告状を聞いていた。

 「……即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコトヲ宣言ス……」

佐藤は口元をゆがめ、無理に笑みを作ってみせた。ここで抗議しても何も変わらない。
今は一刻も早く本国に知らせなければ。

 「ただいまの通告を、外交特権で東京に至急打電したい。よろしいですね」

 「もちろんだ」

クレムリンを辞去した佐藤は日本大使館に車を急がせた。
だが、開戦を告げる電報はソ連当局に妨害され、東京へは届かなかった。

× × ×

満洲は、まだ眠っている。
首都新京(現吉林省長春市)の関東軍総司令部も、ひっそりとしている。
総司令官山田乙三は大連(現遼寧省大連市)に出張中で、
留守を預かる総参謀長や高級参謀らは官舎で就寝中だった。

午前1時、当直参謀室の電話が鳴った。

 「東寧(とうねい)及び綏芬河(すいふんが)正面の敵、攻撃を開始せり」

 「牡丹江(ぼたんこう)市街は敵の空襲をうけつつあり」

満洲東部を守備する第5軍司令部からの緊急報告。
受話器を握る参謀の手が震えた。
続いて新京郊外が爆撃を受け、各方面軍からも被害報告が飛び込んでくる。

ついにソ連軍が日ソ中立条約を破り、
東部、北部、西部の三方から一斉に攻め込んできたのだ。


総司令部はパニック状態に陥った。
急ぎ登庁した参謀らは各方面から届く報告に色を失い、
さらなる情報を求めて慌ただしく庁内を走り回った。

東京の政府と大本営にも衝撃が走った。
当時、米英中3カ国から「全日本軍の無条件降伏」を求めるポツダム宣言を
突きつけられていた政府は、ソ連を仲介しての和平交渉に
一縷(いちる)の望みをつないでいた。

そのソ連から、卑劣な無警告急襲を受けたのだ。

午前4時、外務省ラジオ室はソ連の宣戦布告を伝えるモスクワ放送を受信。
参謀本部も同情報を入手する。
しかし何ら有効策は打ち出せず、夜が明けても関東軍に命令一つ下せないでいた。

混乱の極みの中で、満洲の、そして日本の破滅が刻一刻と近づいていく。

この時、昭和天皇が、敢然として動いた。

× × ×

宮内庁が平成2年以降、24年の歳月をかけて編集した
『昭和天皇実録』に、こう記されている。

 8月9日《午前九時三十七分、(昭和天皇は)御文庫において
 陸軍参謀総長梅津美治郎に謁(えつ)を賜(たま)い、戦況の奏上を受けられる。
 午前九時五十五分、御文庫に内大臣木戸幸一をお召しになる。

 内大臣に対し、ソ聯邦と交戦状態突入につき、
 速やかに戦局の収拾を研究・決定する必要があると思うため、
 首相と十分に懇談するよう仰せになる》(34巻31頁)

戦況の奏上を受けてから、戦局収拾の指示までわずか18分。
終戦を決意した昭和天皇に、迷いはなかったようだ。

昭和天皇の指示を受けた木戸は、すぐさま首相の鈴木貫太郎に面会、
「聖旨を伝へ、此の際速やかにポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説」
したと、『木戸幸一日記』に書かれている。

「ポツダム宣言の利用(すなわち受諾)」を口にしたのは、
昭和天皇の意向と考えていいだろう。

鈴木は木戸に言った。

 「聖旨は承(うけたまわ)りました。本日午前十時半から、最高戦争指導会議を開催します。
 そこで、ポツダム宣言に対する態度を決しましょう」

 「大日本帝国」最後の、そして最も長い一週間が始まった--。



   (https://www.sankei.com/premium/news/180317/prm1803170016-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月1日 頓首再拝>

ポツダム宣言受諾か否か・・・ - 伝統

2018/05/02 (Wed) 04:14:26

昭和天皇が起こした奇跡!洗脳された青年を覚醒させた感動の一言とは?
https://www.youtube.com/watch?v=k88eRTCEO2o

           ・・・

ポツダム宣言受諾か否か… 会議の最中、人類史上2発目の原爆が落とされた

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.3.18)より

《大日本帝国最後の一週間(2)》

昭和20(1945)年8月9日未明に満洲を急襲した
ソ連軍の侵攻兵力は兵員157万人、火砲2万6100門、
戦車・自走砲5500両、航空機3400機に上る。

ソ連の狙いは、日本が戦争をやめないうちに占領地を拡大し、既得権益化することだ。
満洲だけでなく樺太、千島、あわよくば北海道をも奪取しようという魂胆だった。

対する関東軍は兵員70万人ながら3割強は補充兵で、
火砲1000門、戦車200両、航空機200機にすぎない。

かつて無敵といわれた戦力も、昭和18年以降は南方戦線の悪化で
精鋭部隊が次々に引き抜かれ、“張り子の虎”と化していた。

戦争が長引けば長引くほど、極東の地図は赤く塗られていくだろう。

× × ×

昭和天皇が終戦の決意を固めたことを受け、
最高戦争指導会議が始まったのは9日午前10時半過ぎである。

出席者は鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾(これちか)陸相、
米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武(そえむ)海軍軍令部総長の6人。

冒頭、鈴木がこう切り出した。

 「情勢上ポツダム宣言を受諾せざるを得ないと思うが、皆の意見を聞きたい」

外務省が昭和27年に編集した『終戦史録』によれば、
鈴木の発言により「座は急に白けてしまい暫時沈黙が続いた」という。

受諾は「全日本軍の無条件降伏」を意味する。
それをあっさりと鈴木が口にしたことに、阿南ら軍部首脳は憮然(ぶぜん)とした。

沈黙を破ったのは、米内である。

 「皆黙っておってもしょうがない。
  問題は、ポツダム宣言の無条件受諾か、条件を付けるかだ」

以後の議論の様子が、『終戦史録』に収録された「東郷外相口述」に記されている。

東郷「速やかにポツダム宣言を受諾するのを適当と認める。
   ただ、皇室の安泰についてのみ、是非留保する必要がある」

阿南、梅津、豊田
  「当然だ。ほかにも日本本土は占領しないか、
   少なくとも東京は除外し、占領地域を少なくする必要がある。
   また、武装解除は日本の手によって行いたい。
   戦争犯罪の問題も日本側で処分することにしたい」

東郷「そういう条件を持ち出すのなら交渉決裂の覚悟が必要だ。
   決裂の後、勝つ見込みがあるのか」

阿南、梅津、豊田
  「究極的に勝つという確算は立ち得ない。しかしまだ一戦は交えられる」

東郷「本土に上陸させないだけの成算があるか」

梅津「戦争だから、うまく行くとばかり考えるわけにはいかない」

東郷「(上陸戦で打撃を受ければ)日本の地位は、全く弱いものになってしまう。
   早期に戦争を終結する以外に方策はなく、絶対に必要なもののみを
   条件として提出すべきだ」

× × ×

ポツダム宣言受諾にあたり、外相の東郷は国体護持、
すなわち天皇を中心とする政治体制の維持のみを条件とすべきと主張した。

首相の鈴木と海相の米内も、発言こそ少なかったが、
東郷の意見を支持していたとされる。

一方、陸相の阿南と陸海両総長の梅津、豊田は、
(1)武装解除の方法(2)戦争犯罪の自主処分(3)被占領地域の範囲-
についても条件をつけるべきだと訴えた。

敗色濃厚とはいえ、日本軍はいまだ国内に370万人、
国外に360万人以上の大兵力を有している。

本土決戦で敵に打撃を与えることは可能だし、
そうすればより有利な条件を引き出せると考えたのだ。

豊田の手記によれば、会議では、
その3日前に広島を破壊した原爆についても意見が交わされた。

しかし軍部側は、「原子爆弾の惨禍が非常に大きいことは事実であるが、
果たして米国が続いてどんどん之を用い得るかどうか疑問ではないか」と、
強気の姿勢を崩さなかった。

長崎に人類史上2発目の原爆が落とされたのは、そんな議論の最中である。
ときに8月9日午前11時2分。長崎市街は一瞬にして火の海と化し、
約24万人の市民のうち7万3884人が死亡、7万4909人が負傷した。

だが、原爆投下の一報が伝えられても、軍部の姿勢は変わらなかった。
会議は結局、ポツダム宣言の受諾には国体護持のほか3条件をつけるという、
軍部側の主張で押し切られた。

× × ×

この方針に驚愕したのは、外務省である。
次官の松本俊一は会議が終わるのも待ちきれず、
休憩で室外に出てきた東郷をつかまえて様子を聞くと、真っ青になって言った。

 「大臣、あなたはそれをきかれたのですか」

東郷が、弱々しく首を振る。松本はくってかかった。

 「そんな条件を付けたら絶対に話はこわれて仕舞います。何とか食い止めて下さい」

武装解除などの条件を連合国がはねつけるのは目に見えている。
戦争被害が一分一秒の単位で急拡大する中、最少条件によるポツダム宣言の
即時受諾しか選択肢のないことは、東郷にも痛いほど分かっていた。

ただ、最高戦争指導会議の方針は、閣議を経なければ正式決定とはならない。
東郷は、直後に開かれる臨時閣議で巻き返しをはかることに、すべてをかけた--。

  (https://www.sankei.com/premium/news/180318/prm1803180021-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月2日 頓首再拝>

《陸相と海相が激論 「もはや聖断しかない」》 - 伝統

2018/05/03 (Thu) 04:02:29

昭和天皇も尊敬した大物!その教えが素晴らしい!
学校では教えてくれない、日本に残る美しい精神とは
https://www.youtube.com/watch?v=nr2dLOlVTRA

          ・・・

《陸相と海相が激論 「もはや聖断しかない」》

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.3.24)より

大日本帝国最後の一週間(3)


「天皇の終戦御希望の熱意は、(政軍首脳部の)つとに知るところであった。
しかし、一方、内地には尚戦わざる数百万の軍隊が存し、
外地には、二百余万の軍が在(あ)った。

その軍の中枢部は本土決戦を主張する意見が優勢を占めていた。

一歩誤らば、叛軍(はんぐん)となって、内は、内乱を起し、
外はゲリラ戦に出ずるおそれがあり、情勢は複雑微妙であった」

 
昭和27年に外務省が編集した『終戦史録』に、こう記されている。
ソ連の大軍が突如として満州に攻め込んだ20年8月9日、
ポツダム宣言受諾をめぐる抗戦派と終戦派の駆け引きは、
重大局面を迎えたといえるだろう。

この日、午前10時半過ぎから午後1時過ぎまで行われた最高戦争指導会議で、
外相の東郷茂徳は国体護持のみを条件としてポツダム宣言を受諾すべきと主張した。

しかし自説を通せず、より好条件でなければ戦うべきと息巻く陸海両総長らに
押し切られた形になってしまった。

とはいえ、その後の閣議でひっくり返す成算はあった。
閣議には、陸海両総長が出席しないからだ。

陸相の阿南惟幾(これちか)が唯一、強硬に反対するだろうが、
大半の閣僚の支持を得られると、東郷は思っていた。

しかも、閣議決定は全会一致が原則だ。
外相と陸相が対立したまま決定を下せず、最後は昭和天皇の決心、
すなわち「聖断」によって決しようというのが、東郷の腹だった。


× × ×

 
午後2時半、首相官邸で始まった臨時閣議は、
1時間の休憩をはさんで前後7時間に及んだ。

このとき、最高戦争指導会議の方針を白紙に戻そうと果敢に論争を挑んだのは、
海相の米内光政である。

終戦派の米内は、最高戦争指導会議ではほとんど発言しなかった。
その結果、抗戦派の主張が通ってしまったことに、責任を感じていたのではないか。

温厚な性格で口数が少なく、凡庸(ぼんよう)然としているため
「昼行灯(あんどん)」とも陰口された米内だが、
この時の発言には鬼気迫るものがあった。

 
内閣情報局総裁だった下村宏が、閣議の緊迫したやりとりを戦後に書き残している。

阿南 「原子爆弾、ソ連の参戦、これに対しソロバンずくでは勝利のメドがない。
   しかし大和民族の名誉のため戦い続けている中には何らかのチャンスがある。
   死中に活を求むる戦法に出れば完敗を喫することなくむしろ戦局を
   好転させうる公算もある」

 
米内 「現在の国内情勢では戦争を継続できるか疑う。
   海相としては英米に対して勝味はない。降伏して日本を救い得るか。
   それとも一か八かとにかく戦いつづけるのがよいか、
   極めて冷静に合理的に判断すべきである。
   面目、面子(メンツ)などにこだわっていられない」

 
阿南 「(連合国に)保障占領された後では口も手も出しようがない。
   先方のなすままとなる。統帥府の空気は私より強い。
   戦局は五分五分である。互角である。敗(まけ)とはみていない」

 
米内 「戦争は互角というが、科学戦として武力戦として明らかに敗けている。
   局所局所の武勇伝は別であるが、ブーゲンビル戦以来、サイパン、ルソン、
   レイテ、硫黄島、沖縄みな然り、みな負けている」

 
阿南 「会戦では負けているが戦争では負けていない、陸海軍間の感覚が違う」

 
米内 「敗北とはいわぬが、日本は負けている」

 
阿南 「負けているとは思わぬ」

 
米内 「勝つ見込みがあれば問題はない」

 
阿南 「ソロバンでは判断できぬ。とにかく国体の護持が危険である。
   条件つきにて国体が護持できるのである。
   手足をもがれてどうして護持できるか」


× × ×

 
戦局をめぐり、激しく火花を散らす陸相と海相-。
下村の回顧録によれば、ほかの閣僚からは次のような発言があった。


豊田貞次郎軍需相

「六月中旬より空襲激化し、七月青函船撃沈され、爾来(じらい)
汽車も日本海側も瀬戸内海も輸送力低下し、
青函船一カ月一六万トンの石炭は一〇万トンを欠き、
青森の貯炭一〇万トンを以て一時しのぎをしている。
軍需工場では安全感を失い政府にも軍にも信を置かない」

 
石黒忠篤農商相

「食糧は非常に困難となり、飢餓の状態はやむを得ない。
ことに動員兵の民家に食をあさるに至りしは、誠に寒心すべきものあり、
今後の事態は大いに懸念に堪えない」

 
小日山直登運輸相

「鮮満(朝鮮と満洲)はもとより今後北海道との交通すら極めて困難であり、
関門トンネル必ずしも保証ができない。海上の封鎖は一層強くなり、
九州の輸送関係も断たれるおそれあり」……

 
日本は、戦える状況ではなかったのだ。

閣議の終盤、首相の鈴木貫太郎は、ポツダム宣言受諾にあたり
国体護持のみを条件とする外相案への賛否を求めた。

だが、大半の閣僚が賛成したものの、
保障占領の拒否など4条件を求める陸相案を支持する声もあり、
意見の一致をみなかった。

 
もはや聖断しかない。

 
閣議の散会後、鈴木は皇居へ急いだ。時計の針は、午後10時を回っていた--。

   (https://www.sankei.com/premium/news/180324/prm1803240014-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月3日 頓首再拝>

運命の御前会議開催へ 「陛下は非常な御決心でおられる」 - 伝統

2018/05/04 (Fri) 03:59:19

【日本人はすごかった】驚愕!GHQの期待を見事に裏切った昭和天皇と日本人の絆!
昭和天皇の全国御巡幸の様子に日本中が感動!命知らずの天皇に欧米が
https://www.youtube.com/watch?v=g4EqgGJz5tU

               ・・・

運命の御前会議開催へ 「陛下は非常な御決心でおられる」

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.3.25)より

大日本帝国最後の一週間(4)

昭和20年8月9日午後10時55分《(昭和天皇は)
内閣総理大臣鈴木貫太郎・外務大臣東郷茂徳に謁(えつ)を賜(たま)う。

外相より、現在までのポツダム宣言の受諾条件をめぐる
議事の経緯につき説明を御聴取になる。

また首相より、最高戦争指導会議への親臨(天皇臨席)につき奏請を受けられる。
両名退下後の十一時二十分、最高戦争指導会議への親臨に関する
内閣上奏書類を御裁可になる》(昭和天皇実録34巻33頁)

 
戦争の即時終結に向け、天皇臨席の最高戦争指導会議、
すなわち御前会議の開催を求める首相と外相--。

『昭和天皇実録』には記されていないが、
このとき昭和天皇は、聖断を下す決心でいたようだ。

 
重光葵(まもる)元外相の手記「鐘漏(しょうろう)閣記」に、
昭和天皇の決心の一端がうかがえる。

首相らが拝謁する前の9日午後4時、重光は木戸幸一内大臣に面会を求め、
ポツダム宣言に国体護持以外の受諾条件をつけないよう、
「此際(このさい)は天皇御勅裁(聖断)の必要なこと」を申し入れた。


これに対し木戸は、「君らは何でもかんでも、勅裁、勅裁といって、
陛下に御迷惑をかけようとする。いったい政府や外務省は何をしているのか」
と非常に不機嫌であったという。

だがその後、重光の説得を受けて昭和天皇に拝謁した木戸は、
再び重光に会い、喜色を浮かべて言った。

「陛下は万事よく御了解で非常な御決心でおられる。君らは心配はない。
それで今夜ただちに御前会議を開いて、御前で意見を吐き、
勅裁を仰いで決定するように内閣側で手続きをとるようにしようではないか」


昭和天皇の「非常な御決心」は、木戸と重光によって
終戦派の首相、外相、重臣らに内々に伝えられ、
ひそかに御前会議の準備が進められた。

誰もが聖断にすがりたい一心だったのだ。

 
重光は木戸に言った。

「自分らが内閣や外務省に働きかけても限界がある。
軍部の意向を覆すことが出来ぬからだ。
これを覆すのは勅裁に頼るほか道はない。

もはや最後の土壇場にきている。
政府内閣の出来ないところを陛下に御願いして
日本の運命を切りひらいていただきたいのだ」


× × ×


こうして、終戦派が期待する天皇臨席の最高戦争指導会議が、
皇居の御文庫附属室で開催される運びとなった。

のちに第1回御前会議と呼ばれる、日本の運命を決めた会議である。

ただし安心はできない。終戦派にとってネックは、御前会議の構成員だった。
ポツダム宣言の即時受諾を求める外相案に、大半の閣僚は賛同しているが、
彼らは御前会議に出られず、かわりに、外相案に反対する陸海両総長が出席するからだ。


御前会議の構成員は鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、
阿南惟幾(これちか)陸相、米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、
豊田副武(そえむ)軍令部総長の6人。

このうち鈴木、東郷、米内が終戦派。
阿南、梅津、豊田が抗戦派で、賛否が拮抗(きっこう)している。
しかも議長役の鈴木は自分の意見を言いにくい立場だ。

このため鈴木は、勅許を得て枢密院議長の平沼騏一郎を出席者に加えた。
平沼が外相案を支持するだろうと、見込んでいたのだろう。


だが、平沼は「観念右翼の巨頭」と評されており、
土壇場で不支持に転じないともかぎらない。

 「多数決なら今日勝てる見込みがあるか? 平沼男(爵)は危ないぞ」

海軍首脳でありながら終戦派の米内が、
内閣書記官長の迫水(さこみず)久常に不安を漏らした。

もしも御前会議で平沼が外相案に反対すれば、反対票が賛成票を上回り、
昭和天皇が聖断を下しにくくなる。

果たして御前会議では、この平沼が重要な役割を果たすことになるのだが……。

       (https://www.sankei.com/premium/news/180325/prm1803250012-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月4日 頓首再拝>

最初の聖断 - 伝統

2018/05/05 (Sat) 03:26:35



昭和天皇が過ごしたボロボロの御所
 https://www.youtube.com/watch?v=Nh4g6h9pNTI

            ・・・

第1回御前会議 形勢を左右した枢密院議長の発言

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.3.31)より

大日本帝国最後の一週間(5)

昭和20年8月9日深夜、皇居の地下防空壕・御文庫附属室に集まった政軍首脳は、
身を固くして昭和天皇を待った。

同日未明にソ連軍が満州に侵攻、正午前には長崎に原爆が落とされ、
国内外の戦争被害が急拡大している。
ポツダム宣言を受諾して終戦するか、より多くの条件が認められるまで抗戦するか-。

これから日本の運命を決める天皇臨席の最高戦争指導会議、すなわち御前会議が始まるのだ。

出席するのは鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾(これちか)陸相、
米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武(そえむ)軍令部総長の6人と、
鈴木の意向で加わった枢密院議長の平沼騏一郎。

このうち鈴木、東郷、米内が終戦派。
阿南、梅津、豊田が抗戦派で、平沼の態度次第で流れが大きく変わることになる。

日付が変わった10日午前零時3分、
昭和天皇が侍従武官長の先導で入室、御前会議が始まった。

総合計画局長官として陪席した池田純久によれば、
最初に鈴木が臨時閣議の経緯を説明し、
東郷が改めてポツダム宣言の受諾条件について訴えた。

「情勢から見て、多くの条件を出すことは全部を拒絶せらるる危険があります。
ただ一つのものを提案するのがよいと思います。それは皇室の護持安泰であります」

米内が言った。

「外務大臣の意見に同意します」

阿南は反論した。

「外務大臣の意見には全然反対であります。
あくまで戦争遂行に邁進(まいしん)すべきものと考えます。
ただし和平を行うとせば、この四条件(国体護持のほか戦争責任者の自国処罰、
自主的な武装解除、保障占領の拒否)は絶対的なものであります」


梅津も追随した。

「陸軍大臣と全然同様であります。本土決戦には準備すでに整い確信があります。
ソ連の参戦は状況を不利に致しましたが、これがため、最後の一撃を
米英に与うるの機会を放棄するには当たらないと思います」


× × ×

 
ここまでは、半ば予想通りの展開といえよう。問題は平沼がどちらにつくかだ。

その平沼が、口を開いた。

「外務大臣にうかがいたい。戦争犯罪人とはいかなる人をさすのか、
またこれは連合国に引き渡すのか、その処罰は自国において行うものかどうか」

東郷 「ドイツの例によれば、戦争犯罪人は先方に引き渡しております。
   裁判については文面上何ら規定はありません」

平沼 「日本軍隊の武装解除を、日本側にて自主的に行うという当方の要求に対しては、
   先方は同意すまいという見解であるか」

東郷 「そう思います」

平沼 「陸海軍当局にお尋ねします。将来戦争を継続することにつき確信がありますか。
   ことに原子爆弾は恐るべき威力を現わしておりますが、
   これに対する防御は可能であるかどうか」

梅津 「原子爆弾については、その惨害を絶対に防止することは困難でありますが、
   制空対策を十分に行えば、ある程度は阻止しうると思います。
   今後空襲の激化はやむをえないと思います。
   しかし空襲の惨害や苦難に堪える覚悟さえあれば、
   これだけで戦争終結にはならぬと思われます」

平沼 「海軍として、敵の機動部隊につき対策はありますか」

豊田 「今日まで航空兵力は本土決戦のために集中配置してありまして、
   敵の機動部隊に対しては小兵力をもって奇襲する程度に致しております。
   しかし今後は反撃するつもりであります」

 
枢密院議長の平沼は、自身の発言が形勢を左右すると自覚していたのだろう。
昭和天皇の前で各出席者に質問した後、姿勢を正し、こう述べた。


「本日突然のお召しにて何ら腹案もなく出席致しました。
しかし状況はきわめて窮迫しておりますがゆえに、私の意見を申し述べます」

平沼は語気を強めた。

「外務大臣の趣旨に同意であります」

これで、外相案への支持表明が平沼、東郷、米内の3人、
不支持表明が梅津、豊田、阿南の3人。

いよいよ聖断を下す環境が整った。
首相の鈴木は、あえて自分の意見を明らかにはせず、最後にこう言った。

「皆じゅうぶん意見を吐露したものと認めます。
しかし意見の一致を見るに至らなかったことは遺憾であります」

そして静かに席を立つと、昭和天皇の前に進んで深く頭を下げた。

「外務大臣案によるべきか、または四条件を付する案によるべきか、
謹みて御聖断を仰ぎます」-

  (https://www.sankei.com/premium/news/180331/prm1803310015-n1.html

              ・・・

軍部を叱責した天皇 かくて最初の聖断は下された

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.1)より


大日本帝国最後の一週間(6)

昭和20年8月10日午前2時過ぎ

《(昭和天皇は)
議長の首相より聖断を仰ぎたき旨の奏請を受けられる。

天皇は、外務大臣案を採用され、その理由として、
従来勝利獲得の自信ありと聞くも、計画と実行が一致しないこと、
防備並びに兵器の不足の現状に鑑(かんが)みれば、
機械力を誇る米英軍に対する勝利の見込みはないことを挙げられる。

ついで、股肱(ここう)の軍人から武器を取り上げ、
臣下を戦争責任者として引き渡すことは忍びなきも、
大局上三国干渉時の明治天皇の御決断の例に倣い、人民を破局より救い、
世界人類の幸福のために外務大臣案にてポツダム宣言を受諾することを
決心した旨を仰せになる》(昭和天皇実録34巻34頁)


× × ×


聖断は下った。
御前会議の出席者は静かに起立し、退席する昭和天皇を見送った。

この時の様子を、内閣書記官長として陪席した迫水(さこみず)久常が、こう述懐する。

「何という畏(おそ)れ多いことであろう。
御言葉の要旨は我が国力の現状、列国の情勢を顧みるときは、
これ以上戦争を継続することは日本国を滅亡せしむるのみならず、
世界人類を一層不幸に陥れるものなるがゆえに、

この際堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、
戦争を終結せんとするものであるという主旨であった。

(中略)

この御聖断によって会議は結論に到達した。
真(まこと)に未曾有(みぞう)の事である。
一同陛下の入御を御見送り申し上げ、粛然として満感を胸に退出した」


一方、外相案に反対であった軍令部総長の豊田副武(そえむ)は、こう書き残している。

「(昭和天皇から)最後まで本土決戦とか戦争継続とかいうけれども、
戦備は一体出来上がっているのかという御詰問があって、
陸軍の九十九里浜の新配備兵団の装備が、六月頃には完成するという話だったが
一つも出来ていないじゃないかという強い御叱(しか)りもあった。

御聖断に対しては何人も奉答する者なく御前会議は十日午前二時半終了して
諸事唯(ただ)聖旨を奉じて取り運ぶこととなった」


× × ×


御前会議後の10日午前3時、臨時閣議開催。聖断に従い、
国体護持のみを条件にポツダム宣言の受諾を正式決定する。

外務省はただちに電文作成に取りかかり、6時間後の午前9時、
中立国のスイスを通じてアメリカと中国に、
またスウェーデンを通じてイギリスとソ連に、以下の緊急電報が発せられた。

 
「帝国政府は天皇陛下の平和に対する御祈念に基き
即時戦争の惨禍を除き平和を招来せんことを欲し左の通り決定せり。
帝国政府は対本邦共同宣言(ポツダム宣言)に挙げられたる条件中には
天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に
右宣言を受諾す……」

 
一方、そのころ満洲では、当初の混乱から抜け出した関東軍が、
ソ連の大軍を相手に壮絶な防衛戦を繰り広げていた-。

  (https://www.sankei.com/premium/news/180401/prm1804010021-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月5日 頓首再拝>

関東軍とソ連軍との戦い(1) - 伝統

2018/05/06 (Sun) 03:59:12


熾烈を極めたソ連軍の砲撃 関東軍は完全に不意を突かれた

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.7)より

関東軍最後の戦い(1)

中国黒竜江省虎林市の郊外、中露国境のウスリー河を望む丘陵の地下に、
約80年前につくられた巨大なコンクリート建造群が今も残る。

虎頭要塞-。
第二次世界大戦の直前、まだ物資が豊富な時代に4年余の歳月をかけて完成した、
関東軍の地下要塞だ。猛虎山、虎東山、虎北山、虎西山、虎嘯(こしょう)山、
平頂山の6つの陣地で構成され、主陣地猛虎山の地下数十メートルには
鉄筋コンクリートのトンネル網が縦横に延びる。

大戦初期、要塞には東洋最大の41センチ榴弾(りゅうだん)砲1門、
射程50キロの24センチ列車砲1両、30センチ榴弾砲2門、
24センチ榴弾砲2門、15センチ加農(カノン)砲6門が設置され、
第4国境守備隊8000人がソ連軍の侵攻に備えていた。

だが、戦局の悪化にともない守備兵力の大部分が他の戦線に転用され、
終戦直前の昭和20年7月に再編制された第15国境守備隊の兵力は
わずか1400人にすぎなかった。


× × ×


同年8月9日午前零時、この虎頭要塞に向けて、
戦力十倍以上のソ連軍部隊が突如砲撃を開始した。

その瞬間を、主陣地から離れた地点で警戒任務についていた
七虎林監視隊の後藤守少尉が、こう書き残している。

「突然南の方向で異様な光景が起こった。
それは虎頭正面の『ソ』軍陣地から一斉に猛烈な砲撃が始まり
遠く闇の彼方(かなた)に幾条かの光芒(こうぼう)が我が要塞に集中している。
生まれて初めて見る壮大な光の束が一方向にウスリー河を越えているのだった」


東部戦線のソ連軍にとって、シベリア鉄道を射程に収める虎頭要塞は最大の脅威だ。
開戦直後に要塞を制圧しなければ、鉄道による補給路が断たれてしまう。
このため砲撃は熾烈(しれつ)を極めた。

一方、戦力寡少の要塞は完全に不意を突かれた。
しかも守備隊長の西脇武大佐は作戦主任参謀らを連れて
牡丹江(ぼたんこう・現中国黒竜江省牡丹江市)の第5軍司令部に出張中だった。

かわって指揮をとった砲兵隊長の大木正大尉が第5軍司令部に開戦を急報。
これが関東軍総司令部に伝わり、ソ連侵攻の第一報となった。

ソ連軍の集中砲火は明け方の午前5時まで続き、猛虎山一体の山肌を深く削り取った。

だが、関東軍は、なす術もなく蹂躙(じゅうりん)されたわけではない。

突然のソ連侵攻を受け、満州の首都新京(現中国吉林省長春市)にある
関東軍総司令部は当初混乱したが、午前6時、虎頭要塞を含む国境の各部隊に向けて、
ついに「侵入し来る敵を破砕すべし」の作戦命令を発令する。

準備を整えた要塞の各砲が、午前11時を期して一斉に火を噴いた-。

     (https://www.sankei.com/premium/news/180407/prm1804070014-n1.html

              ・・・


要塞を死守せよ! 関東軍の決死の反撃、ソ連軍は大混乱に陥った

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.8)より

関東軍最後の戦い(2)

虎頭要塞から発射された15センチ加農(カノン)砲の砲弾が
次々に満ソ国境のウスリー河を越え、対岸のソ連軍陣地で炸裂(さくれつ)する。

41センチ榴弾(りゅうだん)砲は20キロ離れたシベリア鉄道の関連施設を粉砕。
30センチ榴弾砲も火を噴き、対岸のトーチカなどを破壊した。

突然のソ連侵攻からおよそ半日が過ぎた昭和20年8月9日午前11時、
満州東部の要衝で、関東軍が反撃に転じたのだ。
高度に機械化された敵の大軍に対し、要塞に立てこもる関東軍の第15国境守備隊は、
兵力寡少ながら士気も練度も高かった。

猛虎山の主陣地で敵情捜索にあたった監視隊員の戦闘記録によれば、
要塞の重砲はソ連軍に一泡も二泡もふかせたようだ。

とくに41センチ榴弾砲の威力はすさまじく、ウスリー河にかかるイマン鉄橋に命中、
極東ソ連軍の生命線ともいえるシベリア鉄道を一時不通にした。

同日未明の5時間にわたるソ連軍の先制砲撃で要塞周辺の山肌は深く削り取られたが、
地下に構築された鉄筋コンクリートの陣地は、健在だったのである。

思わぬ反撃に、ソ連軍陣地は大混乱に陥った。


× × ×


守備隊は夜になると、斬り込み攻撃を敢行した。
要塞の各陣地から小部隊が飛び出し、近くまで浸透していたソ連軍の狙撃部隊を襲撃、
爆弾を抱えた兵士が戦車に体当たりして擱座(かくざ)させた。

一方、ソ連軍は明くる10日に爆撃機を投入、
上空と地上から猛烈な砲爆撃を加えた上で、11日午後6時、
圧倒的な火力を背に狙撃部隊が総攻撃を仕掛けてきた。

これに対し守備隊は決死の斬り込み攻撃で応じ、
戦力がはるかに上回るソ連軍を撃退した。

13日には、要塞を見下ろす高所にソ連軍が続々と進出、
奪還をはかる守備隊との間で激しい白兵戦が展開された。

守備隊陣地の一つ、臨江台をめぐる戦闘の様子を、
前出の監視隊員がこう書き残している。

「敵が小臨江台の一番高い所を狙って攻撃し、これを占領して赤旗を掲げると、
(守備隊の)小隊は下の方から攻め上りこれを奪回する。
幾度となくこのような攻防戦が繰り返された。

(中略)

十三日夕刻、例によって薄井見習士官は抜刀指揮して逆襲を敢行し、
陣地頂上に駆け上ったところを、敵の手榴弾(しゅりゅうだん)が命中しついに倒れた。
彼は文字どおり七生報国の念願を果たし、弱冠二十二才にして臨江台の土と化した」

 
圧倒的な火力をもって次々に攻め寄せるソ連軍に対し、
何度も、何度も立ち上がる守備隊将兵-。

腹部に銃弾を受け、要塞の仮包帯所に運び込まれた砲兵隊中尉は天に叫んだ。

「おれは死なないぞ、もう一度やる」


戦っているのは、将兵だけではなかった。

ソ連侵攻の9日以降、猛虎山陣地には約300人の、
平頂山陣地には約150人の在留邦人が避難しており、
婦女子を含め率先して負傷兵の看護、弾薬の搬送、炊事などに従事した。

速射砲中隊所属の兵士がつづった戦記によれば、
要塞外の作業で「敵が襲撃して来たらどうするか」と話し合っていた兵士らを、
看護婦のひとりが「そのときは突っ込めばよい」と叱咤(しった)激励したという。

だが、所詮は多勢に無勢である。

ソ連軍が無尽蔵ともいえる兵力を投入してくるのに対し、
孤立無援の守備隊は補給の手段がなく、戦力は日増しに激減した。

やがて虎頭要塞は、壮絶な最期を迎えることになる-。

   (https://www.sankei.com/premium/news/180408/prm1804080017-n1.html


             <感謝合掌 平成30年5月6日 頓首再拝>

押し付けられた日本国憲法、日本の運命を決めた70分間の真実 - 伝統

2018/05/06 (Sun) 13:13:41

「最終決着・憲法9条」
日本の運命を決めた70分間の真実

  → https://you.prideandhistory.jp/niht1_1805_vsl_shu_af/?cap=shu_af1

    (この情報の公開は、今から、約34時間に限られているようです。
     ご関心のある方は、早急に閲覧することをお勧めいたします)

             <感謝合掌 平成30年5月6日 頓首再拝>

関東軍とソ連軍との戦い(2) - 伝統

2018/05/07 (Mon) 04:36:24


【NHK】 歴史秘話ヒストリア~昭和天皇のそばにいた男・鈴木貫太郎
https://www.youtube.com/watch?v=fjo1L1aMFoE

          ・・・

玉音放送を謀略と判断 壮絶な死闘の末、要塞は静寂に包まれた

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.14)より

関東軍最後の戦い(3)

昭和20年8月9日未明にソ連軍が満ソ国境の虎頭要塞を急襲した際、
守備隊長の西脇武大佐は作戦主任参謀らを連れ、
牡丹江(ぼたんこう・現中国黒竜江省牡丹江市)の第5軍司令部に出張中だった。

この西脇が要塞にいれば、戦況は違った展開をたどっただろう。
和歌山藩剣術指南役の家柄に生まれた武人で、部下からの信頼が厚かったと伝えられる。

第5軍司令部でソ連軍侵攻を知った西脇は9日午前、
偵察機を手配して虎頭に近い東安飛行場まで戻り、
そこから守備隊に復帰しようと八方手を尽くしたが、
すでに要塞はソ連軍の重包囲下にあり、果たせなかった。

西脇はその後、東安の第135師団司令部とともに行動せよとの命令を受け、
17日、要塞より早く停戦する。
まだ部下が戦っているのにと、やり切れない思いだったのではないか。

戦後は中国共産党から指揮能力を高く買われ、戦術指導役として
八路軍に加わるよう再三要請されたが、西脇は首を縦に振らなかった。

断ればどんな運命が待ち構えているかを知らなかったわけではあるまい。
23年10月31日、西脇は八路軍兵士に連行され、そのまま消息を絶った。


× × ×


話を戦況に戻そう。

20年8月15日正午、西脇不在の虎頭要塞は、高度に機械化された
ソ連軍2万人の完全包囲下にあった。

第5軍司令部との通信は途絶し、
戦闘を続ける将兵に終戦の玉音放送は伝わっていない。

17日、ソ連軍の捕虜となった日本人5人が白旗を掲げて猛虎山の主陣地に訪れた。
終戦を伝え、降伏するよう勧告したのである。

だが、守備隊幹部は玉音放送を謀略と判断。
5人のうち1人を斬殺し、4人を追い返した。
守備隊長がいないため、冷静な判断力を欠いていたのだろう。

降伏勧告を拒絶されたソ連軍は18日、ロケット弾を連続発射する
カチューシャ砲などを使ってさらなる猛攻を仕掛けてきた。

要塞の守備隊は、残っていた15センチ加農(カノン)砲に火薬だけを詰めて発射する
「薬筒射撃」でソ連軍部隊の波状攻撃を撃退。
要塞の周囲は「敵の死体でうずもれるほどであった」と、守備隊兵士が書き残している。

しかし、それが限界だった。

「明けて十九日はソ軍の先制攻撃に見舞われた。
昨日大活躍した十五加(15センチ加農砲)に対し報復が行われた。
イマン飛行場を飛び立った小型機が、上空に飛来し次々と爆弾を落していく。

そのうちに大型戦車が前後からやってき、(中略)
十五加の砲門孔などに徹底的破壊攻撃を行ったうえ、
狙撃兵が入口付近に殺到して友軍との間に手榴弾(しゅりゅうだん)戦が展開される。
薬筒射撃を続行したが、もう昨日ほど敵は慌てなくなった」…


× × ×


いまや守備隊は要塞の出入口を固めて中に立てこもるしかなく、
ソ連軍は外からガソリンを流し込んであぶり出しにかかった。

守備隊長代理の砲兵隊長、大木正大尉は、最期のときと覚悟を決めたようである。
19日夜、主陣地に爆薬を仕掛け、約300人の避難邦人もろとも自爆した。

主陣地近くの砲塔陣地でソ連軍の猛攻をしのいでいた砲兵第2中隊も
19日の戦闘で壊滅的打撃を受け、中隊長の川崎巌中尉が上半身やけどの重傷を負った。

川崎は要塞の戦況を上級部隊に伝えようと、残存兵力をまとめて21日に陣地を脱出。
自身のやけどのため部下の足手まといになることを気遣いながら、
最後は単身、ソ連軍のいる方向へ走り去った。

主陣地西方の虎嘯(こしょう)山陣地を守備する歩兵第2中隊は26日まで戦い続け、
生き残りの約30人がソ連軍部隊に向けて最後の突撃を敢行、玉砕した。

ここに虎頭要塞は、ついに陥落したのである。

翌27日、それまで途切れることのなかった砲声がピタリとやみ、
要塞周辺は深い静寂に包まれた。

第15国境守備隊約1400人のうち生存者は約60人。
このほか平頂山陣地に避難していた在留邦人約150人が脱出したが、
29日以降に遭遇したソ連軍の無差別攻撃を受け、大多数が死亡したと伝えられる-。

    (https://www.sankei.com/premium/news/180414/prm1804140006-n1.html

・・・

関東軍総司令部の非情な決断 皇帝溥儀は愕然とし

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.15)より

関東軍最後の戦い(4)

関東軍の奮戦は、虎頭要塞だけにとどまらない。

昭和20年8月9日午前零時を期して満洲の東部、西部、北部の三方から
一斉に攻め込んできた150万超のソ連軍により、国境付近を守備する
中隊以下の小部隊や監視哨(しょう)の多くは同日中に撃破され、消息を絶った。

だが一方、大隊以上の部隊は損害を受けつつも応戦し、
中でも東部守備の第5軍は、比較にならぬほどの戦力をもつソ連軍の進撃を
牡丹江(ぼたんこう・現中国黒竜江省牡丹江市)東側の陣地で15日夕まで食い止め、
同地の在留邦人6万人が避難する時間をかせいでいる。

のちに「関東軍最後の戦い」と呼ばれる奮戦を支えたのは、
名もない日本兵の、決死の行動だった。


× × ×


各部隊にとって最大の驚異はソ連軍のT-34戦車だ。
これに立ち向かう日本兵の戦闘が、第5軍第126師団の作戦記録に記されている。

東部国境を越えたソ連軍の主力が牡丹江に進撃するのを阻止するため、
予想進路に各部隊を展開した第126師団は、12日午後にT-34戦車と遭遇、
翌13日から本格戦闘に入った。

ソ連軍は14日、T-34戦車30両と火砲50~60門の集中砲火で
日本軍陣地を次々に突破。日本軍側は夜襲などで戦車十数両を破壊するなど
応戦するが、15日も8時間連続の砲撃を受けて師団の砲兵部隊がほぼ壊滅し、
正面を守る歩兵部隊も戦車に蹂躙(じゅうりん)された。

「かくて敵戦車十五両は師団戦闘司令所直前に現出す」と、作戦記録は書く。

万事休すだ。


この時、輸送などを主任務とする輜重(しちょう)兵が戦車に突撃した。

「我輜重隊の肉攻班長以下五名は十五キロ爆弾を抱き、各人先頭に前進せし
五両の戦車を攻撃す。突入と同時見事爆発し同時五両の戦車を完全に破壊せり。
この情況を目撃せし後続戦車は急遽(きゅうきょ)退却し、追随せし敵歩兵も
また潰走(かいそう)せり」

こうした日本軍の“肉弾攻撃”は各地で展開され、ソ連軍を戦慄させた。
第126師団の捕虜となったソ連軍将校は、こう語っている。

「日本軍特攻隊が我が戦車の接近するや、むっくり起き上がり
爆弾と共に戦車に突入し自爆する状態は、ソ連人の到底実行しえざることなり」


× × ×


だが、第一線部隊が壮絶な戦闘を続ける中、関東軍総司令部は非情な決断を下す。

9日未明のソ連軍侵攻を、関東軍総司令官の山田乙三は出張先の大連で知った。
急ぎ用意された偵察機に搭乗し、首都新京の総司令部に着いたのは同日午後1時ごろ。
ソ連軍侵攻の一報から半日が過ぎていた。

山田は、総参謀長の秦彦三郎から報告を受けると、
直ちに宮内府に赴き皇帝溥儀(ふぎ)に拝謁した。

「陛下、総司令部は近日中に、朝鮮との国境近くの通化(現中国吉林省通化市)に
転進いたします。陛下と陛下の政府も、安全のため、通化に近い臨江に遷都されますよう、
お願い申し上げます」


満洲の面積は約120万平方キロメートル、現在の日本の国土の3倍に及ぶ。
実質8個師団程度にまで戦力が低下していた関東軍ではとても支えられない。
早々に朝鮮国境付近に撤退し、通化と臨江を中心とする領域で持久戦を
展開しようというのは、事前に大本営とも打ち合わせていた既定方針だった。

これに愕然(がくぜん)としたのは、皇帝溥儀とその側近たちである。
無敵といわれた関東軍が張り子の虎と化していたことを、
溥儀は知らされていなかった。

山田が辞去した後、満洲国政府内では、後方への遷都案に激しい反発が起こった。
満系の張景恵国務総理(首相)と日系の武部六蔵総務長官は、
国民とともに首都新京に留まるべきだと主張したが、
ソ連軍が急速に新京に迫る中、溥儀に選択肢はなかった。

13日午後、溥儀と皇后を乗せた特別列車が、
臨江近郊の大栗子(だいりっし)駅に到着した。
近くに鉱業所の社宅などがあるだけの、寒村である。

その鉱業所長宅が溥儀の“宮廷”となった。
溥儀は自伝に、大栗子の印象を「(風光明媚〈めいび〉だが)すべてが
私の目には灰色だった」と書いている。


× × ×


もっとも、在留邦人の避難すら進まない中で、
軍が撤退することを潔しとしない空気は関東軍内部にもあった。

満洲西部を守る第3方面軍司令官の後宮(うしろく)淳は、
総司令部の意図に反してソ連軍の進撃路に方面軍の全力を集中させ、
全滅覚悟で邦人避難の時間をかせぐ決断をいったんは下す。

しかし、却って満洲の崩壊を早めると作戦参謀らに説得され、
前方決戦案を断念せざるをえなかった。

当時、満洲の在留邦人はおよそ155万人。
その命運は、もはや風前のともしびと言っていいだろう。

そんな中、東京の政府と軍部はいったい何をしていたのか。

実は、ポツダム宣言受諾の聖断が下された後、
すべてを振り出しに戻しかねない深刻な事態が起きていた-。

  (https://www.sankei.com/premium/news/180415/prm1804150007-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月7日 頓首再拝>

激高する軍部 冷静な昭和天皇の対応 - 伝統

2018/05/08 (Tue) 03:38:03

【天皇陛下と日本国民の絆】GHQを驚かせた占領下「皇居勤労奉仕」誕生秘話
https://www.youtube.com/watch?v=OM2Sfea2Gpc

          ・・・

激高する軍部 天皇は「至極冷静に」対応した

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.21)より

バーンズ回答の衝撃(1)

昭和20年8月10日、昭和天皇の聖断により、
「国体護持」を唯一の条件として米英中ソに発信されたポツダム宣言受諾の緊急電報-。
その回答が、12日に返ってきた。

 「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官にsubject toする…」

外務省に、激震が走った。

(be)subject toの意味は「支配下にある」、もしくは「従属する」だ。
これを直訳すれば抗戦派が激怒するに違いない。

しかも回答には、
「最終的な日本の政治形態(The ultimate form of government of Japan)は
日本国民の自由に表明する意思により決定される」とあった。

主権在民の発想であり、天皇主権の大日本帝国憲法と相いれない。
唯一絶対の条件であった「国体護持」が、拒絶されたとも解釈できた。

この回答は12日午前零時、米サンフランシスコのラジオ放送より、
米国務長官ジェームス・バーンズの書簡(バーンズ回答)として発表された。

それを傍受した外務省は、「subject to」を「従属する」ではなく
「制限の下に置かれる」、「form of government」を「政治形態」ではなく
「政府の形態」と意訳した。

政府であれば天皇は含まれない。
陸軍など抗戦派の反発を恐れての、精一杯“穏やかな表現”だった。

当時、外務省の条約局長としてバーンズ回答の翻訳にあたった渋沢信一は、
戦後の手記で「軍人は訳文にたよるに違いないからこれはうまく訳さなければいかぬ
と思った」と述懐している。

だが、すでに陸軍も回答を入手し、抗戦派は「隷属する」と訳していた。


× × ×


なぜアメリカは、日本側が受け入れがたい回答をよこしたのか。

実は、日本からのポツダム宣言受諾電報について米大統領ハリー・トルーマンが
側近らと協議した際、陸軍長官ヘンリー・スチムソンと軍事顧問ウィリアム・リーヒーは
国体護持の条件を承認すべきだと主張した。

これに対しバーンズが、日本側が持ち出した条件を受け入れる形はとりたくないとして、
自らペンをとって回答文を起草したのだ。

バーンズは、日本への原爆投下を強く主張した人物としても知られている。

この回答に、果たして抗戦派は激高した。
参謀総長と軍令部総長がそろって参内し、昭和天皇に受諾拒否を求めたのである。

 
以下、『昭和天皇実録』が書く。

《(8月12日)午前八時四十分、(昭和天皇は)御文庫において
参謀総長梅津美治郎・軍令部総長豊田副武(そえむ)に謁を賜い、
当面の作戦につき奏上を受けられる。

また両総長より、サンフランシスコ放送を通じて入手の
バーンズ回答の如(ごと)き和平条件は断乎(だんこ)として
峻拒(しゅんきょ)すべきであり、

統帥部としては改めて政府との間に意見の一致を求め、
聖断を仰ぎたき旨の奏上を受けられる》(34巻39~40頁)

バーンズ回答では国体護持が危うい、もはや徹底抗戦しかないという、
両総長の憤慨ぶりが伝わってくるようだ。

れに対し昭和天皇は、「至極冷静に」対応したと、
当時参謀次長だった河辺虎四郎が戦後に回想している。

「梅津総長が(皇居から)帰って来られたとき、上奏の際の模様をたずねたところ、
天皇は至極冷静に総長の申し上げることをお聴きの後、公式の敵側の返信でもない放送、
しかもその日本の訳語もよく練ったものかどうかも疑わしいのに、
それをつかまえてやかましく議論立てすることなど、つつしむべきだと、
両総長をむしろ戒められるお気持ちを拝したとのことであった」

だが、それで大人しく引き下がる抗戦派ではなかった-。

 (https://www.sankei.com/premium/news/180421/prm1804210010-n1.html

・・・

皇族を一斉呼集 天皇の決意はいささかも揺るがなかった

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.22)より

バーンズ回答の衝撃(2)

「全軍将兵に告ぐ、『ソ』連遂に皇国に寇す、明文如何に粉飾すと雖(いえど)も
大東亜を侵略制覇せんとする野望歴然たり、事茲(ここ)に至る、又何をか言はん、
断乎(だんこ)神州護持の聖戦を戦ひ抜かんのみ」

昭和20年8月10日の夕刻、新聞各社に配布された「陸軍大臣布告」だ。
国体護持を唯一の条件としてポツダム宣言受諾を決めた昭和天皇の聖断に、
背をそむけるような内容である。

これに誰より驚いたのは当の陸相、阿南惟幾(これちか)だっただろう。
布告は抗戦派の一部将校が独断で作成し、阿南には知らされていなかったからだ。

いよいよ暴走する兆しを見せ始めた陸軍の抗戦派-。
「少しく政情に通じた人々は、ここにいたつて、
政府と陸軍との最後的対立を来したものと見て、頗(すこぶ)るこれを憂慮した」と、
外務省編集の『終戦史録』が書く。

そんな抗戦派の主張に、半ばお墨付きを与えたのが、
「天皇は連合軍最高司令官にsubject toする」とした連合国のバーンズ回答だった。

「国体護持の条件は拒絶された」「ポツダム宣言受諾を撤回すべし」と、
陸軍将校らの鼻息は荒ぶるばかりだ。

しかしこの時、抗戦派を抑えようと、昭和天皇が自ら動いた。


8月12日《午前十一時五分、天皇は御文庫において外務大臣東郷茂徳に謁を賜い、
バーンズ回答の趣旨、及びこれに対する措置振りにつき奏上を受けられる。

外相に対し、先方の回答どおり応諾するよう取り計らい、
なお、首相にもその趣旨を伝えるべき旨を仰せられる》(昭和天皇実録34巻40頁)

連合国からバーンズ回答を示されても、
昭和天皇の即時終戦の決意は、いささかも揺るがなかった。
ポツダム宣言を速やかに受諾するよう、弱気になりつつあった外相を激励したのである。


× × ×


昭和天皇は、日本に戦う余力のないことを知っていた。
ここは、たとえ理不尽であっても連合国の回答を受け入れ、
一刻も早く終戦して国民の被害を最小限に抑えるしかない。

続いて昭和天皇は在京の皇族を呼び集め、終戦の決意を伝えて協力を求めた。

《午後三時二十分、御文庫附属室に宣仁(のぶひと)親王・崇仁(たかひと)親王・
恒憲(つねのり)王・邦壽(くになが)王・朝融(あさあきら)王・
守正(もりまさ)王・春仁(はるひと)王・鳩彦(やすひこ)王・
稔彦(なるひこ)王・盛厚(もりひろ)王・恒徳(つねよし)王・
李王垠(ぎん)・李鍵(けん)公をお召しになり、

現下の情況、並びに去る十日の御前会議の最後に自らポツダム宣言受諾の決心を
下したこと、及びその理由につき御説明になる》(昭和天皇実録34巻41頁)


開戦以来、皇族が一堂に会するのは初めてだった。
東久邇宮(ひがしくにのみや)稔彦王の回顧録によると、
皇族は戦時中、「陛下の御耳に雑音を入れないためにというので、
拝謁できないことになっていた」という。

それだけにこの日、久々に拝した昭和天皇の顔に深い苦悩と非常の決心が
刻まれているのを、その場にいた全員が感じ取ったのではないか。

最長老の梨本宮(なしもとのみや)守正王が、皇族を代表して発言した。

「私共一同、一致協力して、陛下をおたすけ申し上げます」

ここに皇族は、一枚岩となった。

のちに皇族は終戦の聖旨を各方面軍に徹底させるため、満洲や南方などに飛んでいく。

一方、宮中が終戦に向けて結束する中、政府は、新たな混乱の谷に突き落とされていた。

かなめの首相、鈴木貫太郎が揺らぎ始めたのだ-。

  (https://www.sankei.com/premium/news/180422/prm1804220016-n1.html

            ・・・

<参考Web:伝統板・第二「終戦を支えた皇族たち」
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6566763 >

             <感謝合掌 平成30年5月8日 頓首再拝>

枢密院議長が首相に横やり 「これでは国体護持が保証できない」 - 伝統

2018/05/09 (Wed) 04:24:20



海外が感動した日本の底力!天皇陛下のために日本人がとった行動に世界が震えた…
https://www.youtube.com/watch?v=1Jf0SPC2Jrk

               ・・・

枢密院議長が首相に横やり 「これでは国体護持が保証できない」

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.28)より

バーンズ回答の衝撃(3)

「国体護持」を唯一絶対の条件としたポツダム宣言受諾をめぐり、
終戦派と抗戦派を再び衝突させた、連合国のバーンズ回答-。

国内外の戦争被害が急拡大する中、
これほど日本の首脳部を揺るがせた混乱要因はないだろう。

終戦派の本丸、外務省の解釈はこうだった。

バーンズ回答の第1項に書かれた「天皇は連合軍最高司令官にsubject toする」の
subject toは「制限の下に置かれる」の意味であり、
降伏すれば当然主権は制限されるのだから、一般的なことを明記しただけで
国体の変更を要求したものではない。

 
また、第4項に「最終的な日本の政治形態(The ultimate form of government of Japan)は
日本国民の自由に表明する意思により決定される」とあるのは、
連合国が日本の好まない政体を押し付ける意図のないことをアメリカ流に表現したまでで、
やはり国体の変更を要求したものではない-。

 
この解釈を、当初は首相の鈴木貫太郎も受け入れた。

 
だが、思わぬ人物から横やりが入る。

枢密院議長の平沼騏一郎が、バーンズ回答では国体護持が保証できないと、
鈴木に向かって強硬に主張したのだ。


平沼は木戸幸一内大臣にも面談し、このままでは受け入れられないと訴えたが、
昭和天皇の意を知る木戸は一顧だにしなかった。

昭和天皇実録には、《内大臣は(平沼に対し)外務当局の差し支えないとする
解釈を信頼し、現状のまま進むべき旨を説く》と記されている(34巻40~41頁)。

一方、鈴木の心は揺れた。

平沼は8月10日の第1回御前会議で、
ポツダム宣言受諾の聖断を導いた功労者でもある。

受諾条件を「国体護持」に絞るとした外相案を支持する首相、海相と、
それに反対する陸相、陸海両総長とで意見が3対3に割れたとき
、臨時に出席した平沼が外相案を支持したからこそ、有利な形で聖断を下す環境が整った。

鈴木にはその時の恩義がある。

平沼もまた、自らの支持表明で「国体護持」が唯一絶対の受諾条件となった以上、
この一点だけは明確にしておかなければ気が済まなかった。

国体論の信奉者である平沼にとって、
「皇室君臨の名(めい)、皇室統治の実(じつ)は変わるべからざるもの」であり、
「日本国民の自由に表明する意思により決定される」ものでは断じてなかったからだ。


このときの平沼と鈴木とのやりとりを、
外相秘書官などを務めた加瀬俊一が戦後につづっている。

「(報告のため)総理官邸に赴くと、平沼男(爵)が来合せて、
連合国側回答中の第一項及び第四項は国体維持を不可能とすると述べ、
首相もまた大阪城の外濠を埋めるに等しいと云つて
若干動かされた様子も見えぬではなかつた。
(それまで終戦派に傾いていた)形勢はかくて再び逆転の兆を示した」

事実、平沼の横やりを受けた鈴木は、直後の閣僚懇談会で、
すべてを振り出しに戻すような発言をしてしまう-。

    (https://www.sankei.com/premium/news/180428/prm1804280011-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月9日 頓首再拝>

外相は天を仰いだ 「もはや陛下しかいない…」 - 伝統

2018/05/10 (Thu) 03:21:37


始まりは昭和天皇だった!?外国人も感動する○○が始まった意外な理由とは…!?
https://www.youtube.com/watch?v=x7lblIgPm48

          ・・・

首相が変心! 外相は天を仰いだ 「もはや陛下しかいない…」

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.4.29)より

バーンズ回答の衝撃(4)

昭和20年8月12日午後3時、首相の鈴木貫太郎は閣僚懇談会を招集した。
ポツダム宣言受諾をめぐる連合国回答(バーンズ回答)への対応を協議するためである。

席上、回答を受け入れるべきと主張する外相の東郷茂徳に対し、
陸相の阿南惟幾(これちか)が反論した。

「このまま回答を受け入れれば日本が唯一絶対の条件とする国体護持が不安であるから
再照会すべきである。あわせて自主的武装解除と占領地域の限定についても
照会すべきである」

東郷は断固反対した。

「再照会すれば、連合国は日本の終戦決意を疑い、交渉の糸口が切れてしまう
恐れが大である。その上、聖断により受諾条件としないことになった
自主的武装解除などを今になって持ち出すのは、自ら交渉を打ち壊すことと同じだ」

このとき、東郷にとって予想外だったのは、
内相の安倍源基と法相の松阪広政が発言を求め、阿南の再照会論を支持したことだった。

聖断が下される前の臨時閣議で東郷と阿南が衝突した際、
大半の閣僚は東郷を支持したが、バーンズ回答がもたらされた後の閣僚懇談会では、
空気ががらりと変わっていたのだ。

東郷は閣僚懇談会を中座し、外務次官の松本俊一に電話をかけた。

「形勢はすこぶる悪い」


× × ×


東郷をさらに追い詰めたのは、同志と頼んでいた首相、鈴木の変心である。
閣僚懇談会の終盤で鈴木は、こう言って議論を締めくくろうとした。

「この回答文では、国体護持が確認されないし、また、武装解除も
全く先方の思うままにされるのは軍人として忍びないから、再照会してみよう。
もし、聞かれざれば、戦争を継続するもやむを得ない」

東郷は愕然とした。鈴木の発言は交渉決裂と同義である。

 (このまま議論を終わらせてはならない)-

東郷はとっさに言った。

「バーンズ回答は米サンフランシスコのラジオ放送を傍受したもので、
正式な回答ではない。正式な回答がきてから改めて議論したい」

この発言で、閣僚懇談会はいったん散会した。

だが、いまや終戦派と抗戦派の形勢は完全に逆転している。
憔悴(しょうすい)して外務省に戻った東郷は、次官の松本に辞意を漏らした。

外務省編集の『終戦史録』が書く。

「鈴木首相の再照会論に遭い、流石(さすが)に東郷外相も
『もう駄目だ』となげかかった。このことを聞いた松平(内大臣秘書官長の松平康昌)は
外務省に外相を訪ね、寸刻でいいからと面会方を求め外相を激励促言した。

『日本には「カケコミ訴エ」ということがある。
外務大臣として、「カケコミ訴エ」をやって御覧(ごらん)なさい。
陛下は待っていらっしゃるかも知れぬから』…」


× × ×


鈴木の変心により、「もう駄目だ」と天を仰いだ東郷だが、
「陛下」と聞いて勇気を取り戻す。

 (そうとも、ここであきらめたら国家が破滅してしまう)-

以後、東郷を中心とする終戦派は巻き返し工作に奔走する。
連合国の正式回答の公電は同日午後6時頃に届く見込みだったが、
これを翌13日朝に届いたことにして時間をかせいだ。

それでも猶予はあと半日しかない。東郷は車に飛び乗り、皇居へ急がせた。

もはや最後の頼みは、昭和天皇しかいなかった-。

    (https://www.sankei.com/premium/news/180429/prm1804290008-n1.html )

             <感謝合掌 平成30年5月10日 頓首再拝>

風は再び、終戦派に吹き始めた - 伝統

2018/05/11 (Fri) 03:56:08


地方ご巡幸
https://www.youtube.com/watch?v=GKJdH_z5qJs

            ・・・

首相を改心させた「陛下の思召」 風は終戦派に吹き始めた

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.5.5)より

バーンズ回答の衝撃(5)

即時終戦につながるバーンズ回答を受諾せず、占領地域の限定など
新たな条件を再照会して「(連合国側が)聞かれざれば戦争継続もやむを得ない」
と発言した首相、鈴木貫太郎の“変心”-。

もはや最後の頼みは昭和天皇しかいないと、
皇居へ車を急がせる外相、東郷茂徳は、車中でぐっと拳を握りしめていた。

昭和20年8月12日の、夜の帳(とばり)が下り始めた頃である。

それより前、閣僚懇談会の散会後に東郷は鈴木と面談し、
「首相の意見には納得しがたい。自分は単独上奏するかも知れない」
と非常の決意を伝えていた。それを今、実現しようというのだ。

ただ、内閣が再照会論で固まりつつある中で反対意見を単独上奏すれば、
仮に昭和天皇の支持を得られたとしても、閣内不一致が露見し
内閣崩壊の危機に直面する。

皇居についた東郷は、まずは内大臣の木戸幸一を訪ねて相談した。

木戸は、昭和天皇が即時終戦の決意であることを誰よりも知っている。
鈴木の変心と東郷の決意に驚きつつも、

「陛下の御意図は、最早(もはや)お伺いするまでもなく
きまっておいでであるから、自分から鈴木首相を説得しよう」
と言って単独上奏を思いとどまらせ、鈴木に面談を申し入れた。


このとき鈴木は、抗戦派に押されて再照会論を表明してしまったことに、
内心は揺れていたようだ。

木戸の面談要請を渡りに船と、自ら皇居を訪れた。

外務省編集の『終戦史録』によれば、
「内府(木戸)は、このとき陛下の思召(おぼしめし)として、
外相の意見通り進むを可とする旨を述べた模様である。
首相は、思召と聞いて早速賛意を表した」


× × ×

 
ちょうどその頃、中立国の在スイス公使から、
ポツダム宣言受諾をめぐる連合国の正式回答が外務省に入電した。
未明に傍受したバーンズ回答と同一の内容である。

しかし、外務省はこれを翌13日早朝に届いたことにし、
その間、形勢が好転するのを待った。

果たして、木戸の説得で鈴木が再び即時終戦の意志を固めたほか、
海外の新聞が連合国の回答について、実質的に日本の要求を認めたもの
と報じているとの情報も入ってきた。

中でも外務省が注目したのは、文字通りの無条件降伏を求めるソ連の動きだ。
在スウェーデン公使からの公電によれば、ソ連は正式回答の文面に強く反対し、

アメリカが「天皇の地位を認めざれば日本軍隊を有効に統御するものなく
連合国は之が始末になお犠牲を要求せらるべし」と説得した結果、
ようやく文面が決まったという。


こうした事情を閣僚に伝えれば、形勢は終戦派に大きく傾くに違いない。

「憂鬱に閉ざされた昨日の空気は今朝になって急に明るくなって来た」と、
外務次官の松本俊一が戦後の手記につづっている。


一方、陸軍中央部でもこの頃、皇室の存廃について欧米メディアが
どう報じているかを丹念に調べ、終戦派への反論材料を集めていた。

抗戦派の筆頭、陸軍省軍務課内政班長の竹下正彦中佐が8月13日付の
「機密作戦日誌」に書く。

「ニューヨークタイムス及ヘラルドトリビューン両紙ノ、
日本皇室ニ関スル論説放送アリ。皇室ハ廃止セラルベシトノ
露骨ナルモノナリシヲ以テ、大イニ喜ビ急遽印刷ノ上、
閣議席上ノ大臣ニ届ケタレドモ、迫水(久常内閣書記官長)、
閣議中配布セザリシ由ナリ」……


× × ×

終戦派と抗戦派が水面下で動く中、13日午前9時から始まった
最高戦争指導会議は、即時受諾を主張する外相を首相と海相が支持し、
国体護持などについて再照会すべきと訴える陸相を陸海両総長が支持するという、
3対3の意見の応酬で膠着(こうちゃく)状態となった。

だが、即時受諾論に分があったといえよう。
昭和天皇という、見えない1票があったからだ。

午後3時まで断続的に続いた会議の途中、昭和天皇が外相を宮中に呼んだ。

《午後二時二十分、(天皇は)御文庫において外務大臣東郷茂徳に謁を賜い、
昨日午後の閣僚懇談会以来のバーンズ回答をめぐる審議の状況につき
奏上を受けられる。天皇は外相の主張に支持を表明され、
首相にもその旨を伝えるよう仰せられる》(昭和天皇実録34巻42頁)

風が、再び終戦派に吹きはじめた-。

 (https://www.sankei.com/premium/news/180505/prm1805050010-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月11日 頓首再拝>

運命の閣議 埋まらぬ賛否の溝 「再び御聖断を仰ぐしかない」 - 伝統

2018/05/12 (Sat) 03:54:19

天皇裕仁 3 (大正10年:1921)
https://www.youtube.com/watch?v=-10vSQ5kLZI

           ・・・

運命の閣議 埋まらぬ賛否の溝 「再び御聖断を仰ぐしかない」

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.5.6)より

バーンズ回答の衝撃(6)

昭和20年8月13日午後4時、ポツダム宣言受諾に対する
連合国の正式回答が届いたのを受け、日本の最終的な対応を決める閣議が開かれた。

議題は一つ、国体護持について連合国に再照会すべきかどうかだ。

総合計画局長官として出席した池田純久が、閣議の様子を戦後に書き残している。

冒頭、首相の鈴木貫太郎が閣僚一人ひとりの意見を改めて確かめた。


東郷茂徳外相

「(連合国の回答は)全体として上々ではないが、
わがほうの目的は達せられるので、受諾しても差し支えないと思う」

 
松阪広政司法相

「日本の統治権はすでに決まっている。遺憾ながらこの回答文は承認しがたい」

 
桜井兵五郎国務相

「希望を付けて総理に一任する。戦争継続はできない。
無理にやればドイツ以上に悲惨なことになる」

 
広瀬豊作蔵相

「外相の意見に同意する。ソ連参戦によって生産力は全く停頓する。
今日屈して他日伸びるべきだ」

 
石黒忠篤(ただあつ)農商相

「この際受諾するを可とする」

 
安井藤治(とうじ)国務相

「この案には不満もあるが、国務と統帥とが一体となりうるならば受諾するがよい」

 
小日山直登運輸相

「不満であり残念ではあるが、大御心(おおみごころ)や国内状況を観察すれば、
受諾する以外に方法はない」


安倍源基内相

「この回答文では国体の護持に保証はできない。
一億玉砕、死中に活を求むる以外に方法はない。
さらに交渉するか、戦うかは総理に一任する」

 
下村宏国務相

「先方と交渉できるとも思えるが、万一、交渉が決裂して
戦争となり焦土となっては、すべてが終りである。
大御心も拝した。受諾のほかはなかろう」

 
左近司政三国務相

「これ以上の交戦は民族の破滅。国体の護持はできない。忍ぶべきである」

 
阿南惟幾(これちか)陸相

「回答文には不安がある。疑問点があれば堂々と再交渉すべきだ。
どうして意気地なく屈するのか、その理由が分からない」

 
ひと通り意見が出そろったところで、鈴木が口を開いた。

 
「確かに国体護持に危険を感ずる。さりとて戦争継続もできぬ。
陛下の大御心に反してはならない。
よって、自分としては再び御聖断を仰ぐ決心である」

賛否の溝が埋まらない中、最終決定を昭和天皇の判断、
すなわち聖断に託そうという鈴木の発言は、閣僚の耳に重く響いたようだ。

抗戦派の阿南も、こう言うのが精一杯だった。

「御聖断に反するわけではない。あらためて希望を述べるばかりである」

 
これで終戦への道筋はついた。

だが一方、陸軍内では、鈴木ら終戦派が最も恐れていたことが起きようとしていた。

クーデター計画が阿南のもとに持ち込まれたのだ-。

  (https://www.sankei.com/premium/news/180506/prm1805060011-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月12日 頓首再拝>

タトヘ逆臣トナリテモ… 陸相に“決起”迫る強硬派将校 - 伝統

2018/05/13 (Sun) 03:32:04

昭和天皇皇太子時代の台湾行啓
https://www.youtube.com/watch?v=RBcjbtKOl5I

             ・・・

タトヘ逆臣トナリテモ… 陸相に“決起”迫る強硬派将校

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.5.12)より

クーデター計画

「吾等少壮組ハ、情勢ノ悪化ヲ痛感シ、地下防空壕ニ参集、真剣ニクーデターヲ計画ス。
(中略)竹下ヨリ大綱ヲ示シ、手分ケシテ細部計画ヲ進メ、更ニ秘密ノ厳守ヲ要求ス」

「夜、竹下ハ稲葉、荒尾大佐ト共ニ、『クーデター』ニ関シ、
大臣ニ説明セント企図シアリ所、二〇〇〇頃閣議ヨリ帰邸セル大臣ヨリ招致セラレ、
椎崎、畑中ト同行官邸ヲ訪ヒ、(中略) 仮令(たとへ)逆臣トナリテモ、
永遠ノ国体護持ノ為、断乎(だんこ)明日午前、之ヲ決行セムコトヲ具申スル所アリ」

陸軍省軍務課内政班長、竹下正彦中佐が記した
昭和20年8月13日付の「機密作戦日誌」だ。

竹下は陸軍内の最強硬派で、阿南惟幾(これちか)陸相の義弟でもある。

阿南の秘書官、林三郎大佐が戦後に書いた回想記によれば、
竹下らのクーデター計画は以下のような内容だった。

 一、(ポツダム宣言受諾をめぐり)日本の希望する条件を連合国側が容認するまで、
   交渉を継続するよう(昭和天皇の)御裁下を仰ぐを目的とする

 二、使用兵力は近衛第一師団および東部軍管区の諸部隊を予定する

 三、東京都を戒厳令下におき、要人を保護(実際には監禁)し、
   陛下を擁して聖慮(せいりょ)の変更を奏請する

 四、陸軍大臣、参謀総長、東部軍管区司令官、近衛第一師団長の全員同意を前提とする

 
13日夜、陸相官邸で竹下ら中堅将校に囲まれ、
この計画を突きつけられた阿南は何を思っただろう。


阿南は昭和4年から8年にかけ、侍従武官として昭和天皇に仕えた。
敬愛の念は誰よりも厚い。

その自分が、昭和天皇の意思に反すると知りながら、クーデターの先頭に立つのか-。

 
秘書官として側にいた林は、この頃の阿南が「どうも西郷さんのようにかつがれそうだ」
とつぶやくのを聞いている(※1)。

林によれば阿南は、いったん竹下らを退室させた後、計画に参画した
荒尾興功(おきかつ)軍事課長を呼び、クーデターに訴えても国民の協力を得られないと、
否定的な意見をほのめかしたという。

一方、竹下らは阿南の心中をこう受け止めた。

「大臣ハ容易ニ同ズル色ナカリシモ、『西郷南州ノ心境ガヨク分カル』、
『自分ノ命ハ君等ニ差シ上ゲル』等ノ言アリ」

まさしく阿南は西郷隆盛のように苦悩し、葛藤し、逡巡(しゅんじゅん)していた。
そして翌朝、決心が持てぬまま行動に出る。


× × ×

 
以下、昭和天皇実録が書く。

《(14日)午前七時、陸相は軍事課長とともに参謀総長に対し、
本日午前十時より開催予定の御前会議の際、隣室まで押しかけ、
侍従武官をして天皇を御居間に案内せしめ、他者を監禁せんとする
クーデター計画の決行につき同意を求めるが、
参謀総長は宮城内に兵を動かすことを非難し、全面的に反対する》(34巻43頁)

 
この記述からも明らかなよう、阿南は竹下らのクーデター計画に、いったんは乗りかかった。
しかし参謀総長の梅津美治郎に反対され、むしろほっとしたのではないか。


梅津も抗戦派だが、軍の規律を何より重視した。
昭和11年の二・二六事件後に陸軍次官となり皇道派の粛正を断行したほか、
14年のノモンハン事件後に関東軍司令官となって下剋上的な空気を一掃している(※2)。

この日、梅津は阿南に言った。

「今は御聖断に従うよりほかに道はない」

情に流されやすい阿南が陸相としての統率力を失いつつある中で、
軍規に厳しい梅津が参謀総長だったことが日本に幸いした。

梅津の反対により、竹下らのクーデター計画は頓挫する。
聖断に逆らうのだ。全軍一致でなければ成功しないと、首謀者の竹下はみていた。

しかし、血気にはやる中堅将校の一部はおさまらず、のちに暴走する。

彼らは、たとえ聖断が下されても、
それが君側(くんそく)の奸(かん)によるものなら盲従してはならず、
君側の奸を取り除いて正しい聖断に導くことこそ忠義であると信じていた。

また、たとえ何百万の国民の命が奪われようと、
戦わずして負けるより戦って負ける方が、後世に残るものが多いと信じていた。

 
海上護衛総司令部参謀だった大井篤(海軍大佐)によれば、
クーデター計画に関与した将校の一人が戦後、大井に向かってこう言ったという。

「仮に民族が絶滅しても、国体護持に殉じた精神は世界史の頁を飾るであろう。
日本国家の特質たる国体を失い、奴隷として残存することは民族として忍びないことだ」

彼らの思想は、「狂信的」の一言で断罪できるものではないかもしれない。
ただ、彼らは知らなかっただろう。地上戦に巻き込まれた民間人がみる地獄を。

その地獄がこの日、この瞬間、満州の広野で起きていた--。

   (https://www.sankei.com/premium/news/180512/prm1805120005-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月13日 頓首再拝>

悲劇の満州在留邦人 婦女子らの列にソ連軍戦車が突っ込んだ! - 伝統

2018/05/14 (Mon) 03:47:51

昭和天皇香淳皇后御大婚
https://www.youtube.com/watch?v=Na5T3lPIUr4


昭和天皇香淳皇后その1
https://www.youtube.com/watch?v=lYVAgOVCi-8

           ・・・

悲劇の満州在留邦人 婦女子らの列にソ連軍戦車が突っ込んだ!

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.5.13)より

《葛根廟事件》

昭和20年8月14日、事件は、満州西北部の興安総省葛根廟(かっこんびょう・
現中国内モンゴル自治区)で起きた。

省都の興安が8月10日にソ連軍機の無差別爆撃を受けたため、
約4千人の在留邦人は3班に分かれて北方へ避難を開始した。

このうち、約40キロ離れた葛根廟に向かって移動中の約1300人が、
14日午前11時40分、草原の中でソ連軍の戦車部隊と遭遇した。

興安総省旗公署参事官の浅野良三に率いられた在留邦人の大多数は、婦女子と老人だった。
約80人の男たちの一部が警戒のため小銃を携行していたが、
民間人が避難しているのは誰の目にも明らかだ。

しかしソ連軍は、この避難民に向けて、一斉に銃弾を浴びせた。

生存者らの証言によると、殺戮(さつりく)は凄惨(せいさん)を極めた。

ソ連軍は最初、無抵抗の姿勢を示した浅野を機関銃で射殺(※1)。
続いて戦車14両が避難民の列に突っ込み、婦女子らを轢き殺していった。

戦車は列を通り過ぎてから反転し、再び列に突っ込む。
キャタピラに轢き回された死体が空中に飛んだ。

戦車の攻撃が終わると、
歩兵部隊が逃げ惑う避難民をところどころに包囲し、自動小銃で掃射した。

殺戮は、1時間以上にわたって続いたという。


(※1)邦人避難のリーダー役だった浅野良三参事官はソ連軍に射殺される直前、
    馬上で刀を抜いたとする説もある


× × ×


当時、興安に居住し辛くも難を逃れた元日銀副総裁の藤原作弥氏が、
生存者の手記や体験談を著書に掲載している。

「やがて戦車の群れは止まり、中から何人ものソ連兵がおりてきて、
倒れている人や逃げまどう人々を片はしから撃ち殺していきました。
一人の兵隊は、私たち子供の馬車までやってきて、
病気で寝ていたおじいさんを引きずり出し、自動小銃で頭を撃ち抜きました」
(在満国民学校で当時1年生だった男性)

 
「壕の先の方で女の人が三十人ぐらい集まり、子供たちを真中にして、
泣きわめいていました。それを見つけた(ソ連軍の)女兵士は、
何人かの男の兵隊を呼んできて、一緒にダダダダ…と続けざまに撃ちました。
一人残らず倒れるまで撃ちました」(当時2年生だった女性)

 
「戦車が、撃ち殺された母をまた轢いて、押しつぶしていきました。
あの恐ろしい場面を私は昨日のように覚えています。
あの気の遠くなるような広い広い草原を、妹とただ二人。
淋しさと恐しさと飢餓の中で、はいずりまわったのでした。
…(あとはもうお許しください。書けません)」(匿名の手記)

 
地獄は、ソ連軍が去っても終わらなかった。


× × ×


旧厚生省引揚援護局の調査によると、この事件の推定死者数は約1000人。
だが、このうちソ連軍による殺戮は約600人で、
残りの約400人は集団自決などの犠牲者だとされる。

敵に囲まれた草原で、孤立無援の在留邦人が味わった恐怖、絶望はどれほどだったか。
生存者の一人はこうつづっている。

「ソ連兵の殺戮(さつりく)に続いて、生存者がこの世を儚(はかな)み
自殺する者が続出しました。お互いに刃物を握り、一、二の三と叫んで
刺し違えて倒れていく姿には鬼気迫るものがあり、
残酷でこの世の出来事とはとても思えませんでした。

(中略)

親が子供の首に紐をかけて殺しているのが目に映りましたが、
子供の手は虚空を掴(つか)み、足をばたつかせて動かなくなっていきました」……

 
夜になると、今度は近在の農民らが、暴民となって生存者を襲った。

「ふっと気が付くと、何時の間に近づいて来たのか、
麻袋を担ぎ大きな丸太ん棒を持った満人がいきなり雅ちゃんの着ていた
外套を奪おうとしていました。

私が必死で抵抗しますと、持っている丸太ん棒で私を叩くのです。
どうする事もできません。為すがままです。
一人が去ったかと思うと、又別のが来ます。

(中略)

その麻袋はどれもこれも大きく膨れています。
死人の着物だけでなく、生きている人の着物もみんな剥ぎ取ってしまったのでしょう。
私達は全裸にはなりませんでしたが、中には全裸にされ、
コーリャンの葉っぱで覆っていた人も居たそうです」……


一方で、親を失ってさまよう子供たちを救い、わが子同然に養育した
中国人が多数いたことも、忘れてはならない。


× × ×


ところでこの間、在留邦人を守るはずの関東軍は何をしていたのか。

ソ連軍侵攻前、省都の興安は3個師団を有する第44軍に守られていた。
しかし8月10日、関東軍総司令部は、興安の邦人を残して
第44軍を首都新京や奉天に後退させる命令を下す。

同軍はこれを邦人に知らせぬまま、秘密裏に移動を開始した。

事件当時、興安周辺は無防備状態だったのだ。

関東軍の方針は、在留邦人を犠牲にしてでも全軍を後退させ、
長期持久戦に持ち込むというものだった。

このため在留邦人の逃避行は悲惨を極め、
葛根廟と類似の事件が各地で起きた(※2)。


(※2)葛根廟事件のほか終戦前後に起きた虐殺事件では、
    1945(昭和20)年8月13日に南満州鉄道(満鉄)の避難列車が
    満州・吉林省の小山克(しょうさんこく)で暴民に襲撃され、
    多数の邦人婦女子が強姦、虐殺されたうえ、
    100人以上が集団自殺に追い込まれた小山克事件。

    戦後の1946(昭和21)年2月に旧満州・通化市で、
    民間の邦人約2千人が中国共産党の八路軍と朝鮮人民義勇軍に
    虐殺された通化事件などがある


 
防衛庁編集の公刊戦史が、悔恨を込めて書く。

「最後の対ソ防衛戦における在満居留民の動態は、我が国の歴史上
類例のない大悲劇であり、それはまた統帥との相関性についても
大きな問題として残されている……」

地上戦に巻き込まれ、文字通りの“地獄”に突き落とされた満州の在留邦人。
凄惨な被害が刻一刻と拡大する中、
東京では、最後の御前会議が始まろうとしていた--。

     (https://www.sankei.com/premium/news/180513/prm1805130007-n1.html

・・・

次回以降は、産経ニュース「昭和天皇の87年」からの紹介を少しの間中断をいただき、
昭和天皇(さま)の別の話題を紹介してまいります。

             <感謝合掌 平成30年5月14日 頓首再拝>

昭和天皇も讃えた功績。海の安全を築いた「掃海部隊」の戦後 - 伝統

2018/05/15 (Tue) 03:41:28

昭和3年(1928年) 昭和天皇 即位の大礼
https://www.youtube.com/watch?v=vbhra_c0OLI

               ・・・

昭和天皇も讃えた功績。海の安全を築いた「掃海部隊」の戦後

       *Web:MAG2NEWS(2017年5月28日)より


《機雷除去に命をかけた男たち》

2011年3月28日付け産経新聞は、一面トップに
「黙して任務全う自衛隊員 『国民守る最後の砦』胸に」との見出しで、
黙々と被災地救援の任務につく自衛隊員たちの活動ぶりを詳細に伝えている。

「我が身顧みず被災者第一」との小見出しでは、
「自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉もない」

東京電力福島第一原子力発電所で、被曝(ひばく)の恐怖に臆することなく、
17日からの放水活動の口火を切ったのも、自衛隊だった。

ある隊員からは、こんなメールが届いたという。

「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」
「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」

「国民を守る最後の砦」として「危険を冒してでも黙々とやる」とは、
まさに武人の覚悟である。

そして、その精神は終戦後まもなく、自衛隊の萌芽期から発揮されてきた。
桜林美佐さんが『海をひらく 知られざる掃海部隊』で見事に描いた
掃海部隊員たちの姿がそれである。


《「対日飢餓作戦」》

先の大戦末期、米軍は「対日飢餓作戦」を実施した。
これは東京、名古屋、大阪、神戸、瀬戸内海、さらには新潟など
日本海側の主要港に約1万2,000個の機雷を敷設し、海上輸送ルートを根絶して、
日本の息の根を止めようという作戦だった。

終戦までに、これらの機雷により日本が失った艦船は357隻。
たとえば神戸港ではそれまでに毎月114隻が入港していたのが、
機雷敷設後は31隻に減少し、満洲などからの物資・食糧補給が大幅に阻害された。

米軍の戦史は「対日飢餓作戦」の成果を次のように語っている。

   機雷敷設により日本周辺の海上交通は完全に麻痺し、
   原材料や食糧の輸入は根絶して、日本を敗戦に追い込んだが、
   もし終戦にならず、あと1年この作戦が続いたら、
   機雷のために日本本土の人口7,000万の1割にあたる700万人が餓死したに違いない。

         (『海をひらく 知られざる掃海部隊』桜林美佐・著/並木書房)


海軍の掃海部隊が機雷の除去に務めていたが、終戦を迎えた時点でも、
ほとんどの機雷が全国の主要港を封鎖していた。

終戦からわずか9日後の昭和20(1945)年8月24日、大湊から朝鮮へ帰国する
朝鮮人を乗せた「浮島丸」(4,730トン)が舞鶴沖で触雷沈没し549名が死亡。

10月7日には、関西汽船の「室戸丸(1,253トン)が大阪から別府に向かう途中に
神戸の魚崎沖で触雷し、336名が死亡、というように被害が続いていた。


日本復興のためには、まずはすべての機雷を除去し、
港湾と海路を安全にしなければならなかった。

(終戦の日から、掃海隊員の本格的な仕事が始まった)


《「我々掃海隊員に課せられた責務」》

終戦直後に、占領軍は帝国陸海軍を解体させたが、
機雷除去は海軍の掃海部隊しかできないため、この部隊だけはそのまま残し、
すべての機雷の速やかな除去を命じた。

戦時中から機雷除去にあたっていた掃海部隊は
そのまま危険な除去作業を続けることになった。

ただ、終戦後はB29爆撃機が新たな機雷を落とさなくなった、というだけの違いであった。

徳山での掃海作業の指揮官は、終戦時に次のような訓示をしている。


   諸子はこれまで危険な機雷の掃海作業に日夜辛酸をなめたのであるが、
   終戦を迎えた今日この時から、さらに本格的な掃海隊員としての仕事が
   始まることを覚悟しなければならない。

   それが我々掃海隊員に課せられた責務であり、国家同胞に報いる所以である。

                    (同上)

こうして戦後の掃海作業が始まった。
装備は、海防艦約20隻、徴用漁船その他約300隻余、そして人員は1万名余りであった。


《機雷除去作業》

一口に機雷といっても、様々な種類がある。
形態として海底に沈んだ重しからワイヤーで結ばれて海中に浮かんでいる「係維機雷」と、
海底に沈んでいる「沈底式機雷」がある。

「係緯機雷」は、2隻の掃海艇が平行して走りながら、掃海索(ワイヤー)を曳航して、
それによって機雷と重しとの間のワイヤーを切断し、浮き上がった機雷を銃撃して爆発させる。

このタイプは、帝国海軍が防衛のために自ら敷設したものが主で、
敷設した場所も分かっているだろうし、処理も単純なので、約1年で除去完了となっている。

厄介なのは、主に米軍がばらまいた「沈底式」である。

沈底式には、艦船の発する磁気に感応するタイプが3種類、音響に感応するタイプ2種類、
加えて磁気と水圧の変化の複合型と7種類もあった。

磁気に感応するタイプに対しては、自身では磁気を発生させない
木造の掃海艇2隻が掃海電線を曳航し、それに電流を流して磁気を発生させて爆発させる。

さらに、感応9回目ではじめて爆発するような設定になっていたりする。
すると、1,000メートルの航路を掃海するためには、100メートルずつの幅に分け、
各幅を9回、合計90回の曳航を繰り返す。

しかもレーダーがない当時は、2分ごとに自分の目で3角測量という方法で測定するしかない。
測量を間違えれば、掃海していない空白部分ができ、そこに機雷があれば、
大事故につながるのである。


(葬儀さえまともに出せない「悲しすぎる理由」)

《名誉の戦死者でも、戦没者でもなく》

掃海艇自身が機雷で被害を受けることもしばしばであった。
終戦時から昭和24(1949)年5月までの約4年間で、掃海艇30隻、死者70余名、
重軽傷者200名の被害が出ている。

昭和24(1949)年5月23日、関門海峡東口で起きた
掃海艇MS27号の触雷沈没事故もその一つである。

同じ現場にいた僚船の艇長であった浜野坂次郎氏は、手記にこう書いている。

   午後1時45分頃、MS27号の船底から水柱が沸き上がった。
   水柱が落ちると、すでにMS27号の煙突から後方が水面下に沈んでいた。

                       (同上)

浜野艇長のMS22号がすぐにMS27号に近づいて生存者救助に務めた。
負傷者3名を救助したが、どうしてもあと4名が見つからない。
その後1週間をかけて、沈んだ船内に潜水夫を入れて、4名の遺体を収容した。

殉職した西崎三郎・操機長は新婚ホヤホヤ、残りの3名も20代の独身だった。
彼らの葬儀は表向きにできなかった。

というのも、そもそも1907(明治40)年にオランダのハーグで締結された条約では、
商業上の航海を阻むような機雷敷設は禁止されており、
連合軍の行為はまさに国際法違反そのものであったからだ。

おりしも開かれていた東京裁判では、日本の国際法違反が厳しく問われていたが、
占領軍総司令部は自らの国際法違反は厳重に秘匿していた。

したがって、掃海部隊員は殉職しても、名誉の戦死者でも、戦没者でもなかった。
しかし、それでも彼らは危険を承知で、黙々と掃海に取り組んだのである。


昭和天皇の温かいお心遣い

《「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」》

しかし、彼らの活動が報われた瞬間があった。
昭和25(1950)年3月、戦後、全国の国民を励ますために巡幸を続けられていた
昭和天皇が、四国巡幸の途上で小豆島土庄(とのしょう)に立ち寄られることになった。

しかし、この海域はまだ掃海が済んでいなかった。
ただちに掃海艇6隻、木造曳船6隻、掃海母船「ゆうちどり」が急派された。
作業は3月7日に開始され、巡幸2日前の13日に完了すべく、寒風吹きすさぶ中で
不眠不休の掃海作業が続けられた。

安全を確認するために、最後は「ゆうちどり」が、御召船の航路を試航した。

15日、行幸の日、御召船が小豆島に向かった時には、
24隻の掃海隊がやや離れた播磨灘の掃海を実施していた。
隊員たちは、御召船の安全航行を願って、遙拝した。

お召し船の同乗した元掃海部長の池端鉄郎氏は、次のように手記に記している。

   高松出港後、陛下は左舷甲板にお出ましになり、私はご前に進み、
   左舷北方遙かに小豆島北航路掃海中の姫野掃海隊指揮官が率いる
   24隻8編隊による整然たる磁気掃海の状況を望見しながらご説明申し上げ、

   …隊員一同危険を顧みず懸命の努力をいたしていることを申し上げたところ、
   陛下におかせられてはそのつど頷かれ、次のようなご質問があった。


   「話を聴くと危険な作業のように思うが、殉職者は何人か」

   「76人でございます」と申し上げると、続いて
   「今、殉職者の遺族はどうしているか」とお尋ねになり、
   私は「それぞれの郷里において暮らしておることと存じます」と申し上げると、

   「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」と仰せられ、
   私はご温情に感激してご前を下がり急ぎ船橋に向かった。

                       (同上)

《荒れ海の登舷礼》

昭和天皇は、その後、高松、高知、徳島、鳴門を巡幸され、
3月31日に徳島市の南の小松島港から、淡路島の洲本に向かわれた。
寒さが続いたため、感冒にかかられて、1日だけ休養をとられた後だった。

しかし、この日は大時化(しけ)であった。

海上では、関門、瀬戸内海の掃海作業にあたっていた掃海部隊332隻が、
二列縦陣を作り、荒天の中、登舷礼(とうげんれい、乗員が艦上に整列して出迎える)で
御召船をお迎えしていた。

海上保安庁長官・大久保武雄はこう記している。

   私は天皇に、「掃海船隊が編隊航行をしつつ登舷礼を行っておりますが、
   非常な時化でありますから、天皇はおとどまりいただき、登舷礼に対しては
   私どもがこれにこたえるようにいたします」と申し上げて、
   私は甲板に立っていたところが、私の上着の裾をうしろから引っ張る者がある。

   ふり返ると天皇が、揺れる船の甲板の、しかも吹き降りの雨風に揺れながら立って、
   掃海隊の登舷礼に答えておられた。

   私は、びっくりして天皇陛下のうしろにさがって侍立した次第であった。

                           (同上)

巡幸の間、天皇のお側から離れなかったカメラマンたちも、この時化には参ってしまい、
下の船室にもぐり込んでいたのだった。

荒れる海で小さな掃海艇32隻は見事に一定の距離を保ち、その揺れる船上で
隊員たちは直立不動の姿勢を保ち続けた。
遠目にも御召船上の陛下のお姿が見えたであろう。

登舷礼に加わっていた掃海部隊の一人は、こう記している。

   乗員一同精一杯の準備をすすめていた。
   とにかく隊員は、大感激の一日であった。

   旧海軍時代はともかくとして、
   天覧艦船式とか天覧海自演習などの行事は一度も行われていない。

   これらのことから考えてみても、画期的な行事であった。

                         (同上)

危険を顧みずに掃海作業を続ける隊員たちが報われた一瞬であった。


(海の安全を築き上げた掃海隊員の功績)

《「掃海殉職者顕彰碑」》

昭和27(1952)年、日本沿岸の全ての主要航路と100余ケ所の港湾に対して
「安全宣言」が発せられた。これにより、各港が一般船舶に開放され、
港湾都市からは歓呼の声があがった。

この「安全宣言」による経済効果は絶大で、復興を大きく後押しすることになった。

なお、日本側で掃海した海面からは、一度も触雷事故が起こっていないという。
掃海部隊員がいかに緻密に、辛抱強く、自らの責務を果たしたかの証左である。

同年6月、79名の殉職隊員を顕彰するため、32の港湾都市の市長らが発起人となって、
海上交通の守り神として信仰されている香川県金刀比羅宮に
「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、以後、毎年追悼式が行われている。

世のため人のために、危険を顧みずに挺身する人々の活動を、
天皇が励まされ、そして不幸にして殉職した人々に対しては、末永く顕彰するのが、
我が国の伝統なのである。

      (http://www.mag2.com/p/news/250801

             <感謝合掌 平成30年5月15日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその1> - 伝統

2018/05/19 (Sat) 04:00:54


天皇裕仁 1 (明治34-末期:1901-1911)
https://www.youtube.com/watch?v=6dcEndkOSLY&list=PL8A4584944C9696E7

天皇裕仁 2 (明治末期-大正中期:1910-1920頃)
https://www.youtube.com/watch?v=UJj_UO5tmp4&index=1&list=PL8A4584944C9696E7

天皇裕仁 3 (大正10年:1921)
https://www.youtube.com/watch?v=-10vSQ5kLZI&list=PL8A4584944C9696E7&index=2

天皇裕仁 4 (大正10年:1921)
https://www.youtube.com/watch?v=UCMYiFbhizY&list=PL8A4584944C9696E7&index=3

天皇裕仁 5 (大正12-15年:1923-1926)
https://www.youtube.com/watch?v=A3DGBiJJMH4&index=4&list=PL8A4584944C9696E7

天皇裕仁 6 (昭和3-8年:1928-1933)
https://www.youtube.com/watch?v=z8ZJwV4HNF4&list=PL8A4584944C9696E7&index=5

天皇裕仁 7 (昭和7-12年:1932-1937)
https://www.youtube.com/watch?v=v_oxKAtQ5uQ&list=PL8A4584944C9696E7&index=6

天皇裕仁8 (昭和13-16年:1938-1941)
https://www.youtube.com/watch?v=pKMuZlghjjY&list=PL8A4584944C9696E7&index=7

天皇裕仁 9 (昭和16-18年:1941-1943)
https://www.youtube.com/watch?v=xh7jgyvx2B8&list=PL8A4584944C9696E7&index=8

天皇裕仁 10 (昭和18-20年:1943-1945)
https://www.youtube.com/watch?v=sVWYY3X8x_A&list=PL8A4584944C9696E7&index=9

              ・・・
<昭和天皇~エピソードその1>

       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P8~10」より

[巻頭言]①

「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王


(昭和天皇とお二人きりでお話になられたことはございましたか?)
 
殿下 

二十代の頃でしたが、将来のために陛下とどうしても直接お話をして伺いたい
ことがあると高松伯父様にお願い申し上げたら、二度実現しました。

その時の記憶で特に鮮明なのは、
陛下が「自分は半生の中で自らの意見を述べたのは二度ある」と
淡々とおっしゃったことでした。

一度目が二・二六事件の時、二度目が終戦の時というのです。
本来陛下を補弼(ほひつ)する責任を持つ重臣たちが、
前者の場合は消息不明であり、後者の場合は意見を伺いたい旨を
言上(ごんじょう)したわけで、

いずれの場合も陛下ご自身がお動きにならざるを得ない状況におかれたのです。

この話は後に陛下が記者会見でも発言されましたが、
その時は初めて聞く話でしたから、仰天すると同時に背筋がゾッとしました。
 
またある時、高松伯父様が「若い者が陛下のところに行ってお話ししろ」
とおっしゃるので、私と弟の高円宮の二人で陛下のお側に行きました。

私は青少年育成で日本中を回っている時の話を色々申し上げました。
自分が直に全国各地の青少年と議論をして聞き出してきた、
各地方の特色ある生の声を得意になってご説明したのですが、
陛下はみんなお見通しでした。

「その地方の若者はこういうことを言わなかったか」と、
実に的を射たご下問をなさる。
各地の若者たちの悩みや問題点をじつによく把握なさっていました。

私は帰りの車の中で高円宮と
「これは一体どういうことか、不思議なことがあるものだ」と話し合いました。

             <感謝合掌 平成30年5月19日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその2> - 伝統

2018/05/20 (Sun) 04:30:21


[巻頭言]②

「公平無私の上御一人は私にとって命がけでお守りする存在でした」/寛仁親王

(昭和天皇は実に細やかな気配りをなさる方であったと伝え聞いております。)

殿下 

これはあまり世に出していない話ですが、私が昭和五十五年に結婚
(編集部注:信子妃殿下は麻生太郎現首相の実妹)した時に、
両陛下をはじめご親族を招いて晩餐会を開いたのです。

義祖母の夏子おばあちゃん、義母の和子女史や義兄の太郎をはじめ、
麻生家の親族に列立してもらって、陛下に拝謁を賜りました。

父が一人ずつ紹介しようとしたところ、陛下は皆に向かって突然、
 
「太賀吉は元気でおるか?」
 
とおっしゃったのです。
 
実はその時、岳父の麻生太賀吉氏は食道がんで入院中でした。
その情報はもちろん陛下のお耳には届いていたのでしょう。

それでも陛下のお心遣いに一同言葉にならず、ただポロポロと涙を流すばかりで、
とても紹介どころではありませんでした。

このような絶妙なタイミングで、思い遣りのお言葉を自然に出されるのが昭和天皇でした。


(国民に対するお気遣いも有名でした。)

殿下 

台風の時など、まず「稲穂の状況と被災民の様子」を常に心配されて、
侍従を通してご下問がありました。

それは見事に自然な形で発せられるので、地元の人々は
このお言葉を翌日の紙面で知ると勇気づけられますし、奮起するのです。

どの災害、事件の時も同じでした。
あれほど「公平無私」の心をお持ちの方を私は知りません。


(今の日本の繁栄があるのは、昭和天皇が常に国家の平安を祈られ、
国民を激励し続けてこられたからではないでしょうか?)


殿下 

敗戦国の元首が国民の中に分け入って
熱狂的な歓迎を受けるという例は、世界史上皆無でしょう。

ここに、他国の王室や皇室とはどうしても比較できない、
陛下と国民の間の人間的な絆があるのです。

ある時、過激派への対策として、皇居や赤坂御用地に
機動隊のバスがずらりと並んでいたことがありました。

それをご覧になった高松伯父様は宮内庁の役人に、
「お前たち、皇室は軍人や警察官に守られて二千数百年も続いたんじゃないぞ。
国民に守られてきたんだ。あんなものは即刻撤去せよ!」
 
とおっしゃり、翌日、すべての配備をときました。
もちろん、何も起こりません。
 
また、伯父様はこうもおっしゃっていました。
 
「京都御所を見てみなさい。わずか三十センチくらいの疏水が流れているだけで、
誰でも乗り越えられるし、どこからでも侵入できる。
でも、長い年月、何者にも侵されていない。それは歴代の国民が守ってくれたからだ」
 
まさにおっしゃる通りだと思います。
良識ある国民の総意で万世一系の百二十五代は続いてきたのです。

             <感謝合掌 平成30年5月20日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその3> - 伝統

2018/05/21 (Mon) 04:27:22

昭和天皇が見せた生涯で一度だけ激怒した姿 ~元側近が語る胸の内~
 → https://www.youtube.com/watch?v=4cu5-yGnrFA

          ・・・

<昭和天皇~エピソードその3>

       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P11~13」より

■[戦後]国民の心を抱きとめ、慈しみ、祈る「記憶の王」昭和天皇の「畏るべき」姿
 /松本健一

戦後の日本再生のなかで、わたしは昭和天皇のさらなる「畏るべき」要素を垣間見た。
 
昭和50(1975)年5月、イギリスのエリザベス女王が来日したときのことだった。
天皇のアメリカ訪問の半年ほど前である。

エリザベス女王とにこやかに並んで立つ天皇の間には1人の通訳官が立っていた。
この通訳官は「二・二六事件」の重要な脇役だった真崎甚三郎大将(軍事参議官。
もと教育総監)の息子だった。



このことは何を意味していたのか。

二・二六事件を起こした青年将校らを、天皇は「反乱軍」とみなしていた。
その事件に関わった人間の息子を自らの通訳として立たせることによって、
決起した青年将校のことは許さないが、その心情ぐらいは察してやってもいい
との意志表示ではなかったのか。
 
ここに、わたしが「記憶の王」と呼ぶ昭和天皇の「畏るべき」姿がある。
昭和11年の事件から40年近くが過ぎ、天皇もすでに74歳になっていた。
肉体は衰えても天皇の記憶は少しも衰えていなかった。
 
天皇が、二・二六事件において決起青年将校から一時は軍事政権の首班として
推(お)された、真崎大将の息子とにこやかに並んでみせたのは、
「記憶の王」が40年ちかくの時間をかけて判断を下した天皇政治だったのではないか、
とわたしは考えている。
 
天皇家として、天皇制が国内の権力闘争を超えて存続するシステムとなるための、
天皇自身の判断だったのではないだろうか。

             <感謝合掌 平成30年5月21日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその4> - 伝統

2018/05/22 (Tue) 04:40:02

[激励]足掛け8年半で3万3000キロ 2万人に声をかけられた焼け跡の中の全国巡幸/松崎敏弥

       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P14~16」より抜粋

当時の天皇と国民との関係については、私にも印象的な思い出がある。

小学生のとき、学校の夏期合宿からの帰り、軽井沢の手前の横川駅で
昭和天皇のお召列車とすれ違ったときのことだ。

引率していた女性教師が、汽車の窓を開けてはいけないと注意した後に、
「私は天皇陛下万歳とはいいません。そういう人間ではありません」といった。

ところが、いざお召列車が目の前を通り、天皇陛下がこちらに手を振っておられた時、
その女性教師は他の乗客たちと一緒になって「天皇陛下万歳」と叫びながら、
号泣していたのである。

後に、先生が婚約者を戦争で亡くしていたと聞いた。

複雑な感情を持ちながら、それでも目の前を通るお召列車に向かって泣きながら
「天皇陛下万歳」といわずにはいられなかった姿を、皇室記者になってからも、
たびたび思い出した。(談)

             <感謝合掌 平成30年5月22日 頓首再拝>

前例なき御前会議 陸海軍両総長は泣きながら抗戦を訴えた - 伝統

2018/05/23 (Wed) 04:39:00


(産経ニュース「昭和天皇の87年」からの紹介に戻ります)

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.5.19)より


涙の聖断(1)

帝都に空襲警報が鳴り響く昭和20年8月13日の夕刻、
空から落ちてきたのは、爆弾ではなく紙だった。

「日本の皆様 私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。
お国の政府が申込んだ降伏条件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット連邦を
代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、
このビラを投下します」

翌14日の早朝、米軍機B-29がビラを散布したとの情報を得た
内大臣の木戸幸一は愕然とした。

政府の正式発表より前に降伏が広く知られれば、国内は大混乱となり、
それに乗じて抗戦派などが暴発する恐れもある。

首相の鈴木貫太郎も、同じ思いだった。
もはや事態は一刻の猶予も許されず、内閣から正式な手続きをとって
御前会議を開くのでは間に合わない。

鈴木は急ぎ木戸を訪ね、相談の上、昭和天皇の決心にすがることにした。

 
以下、『昭和天皇実録』が書く。

《(14日)午前八時三十分、(昭和天皇は)御文庫において内大臣木戸幸一に謁を賜い、
米軍機がバーンズ回答(※1)の翻訳文を伝単(宣伝ビラ)として散布しつつあり
との情報に鑑み、この状況にて日を経ることは国内が混乱に陥る恐れがある旨の
言上を受けられ、戦争終結への極めて固い御決意を示される。

引き続き、特に思召しを以て内閣総理大臣鈴木貫太郎及び内大臣に列立の謁を賜う》
(34巻43頁)

戦前は「宮中・府中(政府)の別」が厳しく、
首相と内大臣が並んで拝謁するのは初めてだ。

昭和天皇もまた、非常の覚悟だったのだろう。

このとき鈴木は、内閣からの奏請ではなく、天皇の意向による
御前会議開催を求め、その場で許された。これも前例のないことだった。

続いて昭和天皇は、在京の陸海軍元帥を宮中に集めた。

《午前十時二十分、御文庫に元帥陸軍大将杉山元・同畑俊六、少時遅れて
参殿の元帥海軍大将永野修身をお召しになり、三十分にわたり謁を賜う。
終戦の御決心をお示しになり、三名の所見を御下問になる》(34巻44頁)

これに対し杉山と永野は徹底抗戦を主張、畑は交渉継続を求めたが、
昭和天皇は《戦争終結は深慮の末の決定につき、その実行に
元帥も協力すべき旨を仰せになる》(同)


× × ×


同日午前10時50分、昭和天皇の異例の「思召し」により、
全閣僚と陸海両総長、両軍務局長、枢密院議長ら政府軍部の全首脳が
御文庫附属室に集められた。

閣僚らは正装する間もなく、まちまちの背広姿だったという。

御文庫附属室は、皇居の地下10メートルにある堅固な防空施設だ。
10トン級の超大型爆弾にも耐えうる構造で、会議室2つ、控室2つが、
厚さ1メートルのコンクリート壁で仕切られている(※2)。

この日、会議室の正面に小机と玉座が置かれ、向かい合って椅子が3列。
前列には首相、枢密院議長、外相、陸海両相、両総長らが、中列には残りの閣僚らが、
後列には内閣書記官長、総合計画局長官、陸海両軍務局長らが座った。

これから始まる帝国最後の御前会議で、日本の運命が決まるのだ。
外光の届かない地下の空間を、静寂と緊張が満たした。


午前11時2分、侍従武官長を従え、昭和天皇が入室する。
一同は起立し、首相の鈴木が玉座の前に進んだ。

《首相は前回の御前会議以後の最高戦争指導会議及び閣議の経過につき説明し、
この席上において改めて無条件受諾に反対する者の意見を御聴取の上、
重ねて御聖断を下されたき旨を言上する》(34巻44~45頁)

 
鈴木から発言を促され、梅津美治郎参謀総長と阿南惟幾(これちか)陸相は、
連合国の回答では国体護持に不安があること、再照会すべきであること、
聞き入れられないなら抗戦して死中に活を求めることを、声涙で訴えた。

豊田副武(そえむ)軍令部総長も泣いていた。

「今日までの戦争遂行において、海軍の努力の足らなかったことは認めます。
陸海軍の共同も決して十分ではありませんでした。
これからは過ちを改め、心を入れ替え、最後の奮闘をいたしたいと思います。
本土決戦の準備はできております。いま一度、戦争を継続することをお願い申し上げます」

三人の発言のあと、再び静寂。

しばらくして、昭和天皇が口を開いた--。

  (https://www.sankei.com/premium/news/180519/prm1805190003-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月23日 頓首再拝>

「万民の生命を助けたい」…天皇は何度も手袋で眼鏡をぬぐった - 伝統

2018/05/24 (Thu) 04:11:03


       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.5.20)より

涙の聖断(2)

《天皇は、国内外の現状、彼我国力・戦力から判断して自ら戦争終結を
決意したものにして、変わりはないこと、我が国体については外相の見解どおり
先方も認めていると解釈すること、敵の保障占領には一抹の不安なしとしないが、
戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなること、

これに反し、即時停戦すれば将来発展の根基は残ること、
武装解除・戦争犯罪人の差し出しは堪え難きも、国家と国民の幸福のためには、
三国干渉時の明治天皇の御決断(※1)に倣い、決心した旨を仰せられ、
各員の賛成を求められる》(昭和天皇実録34巻45頁)

昭和20年8月14日の正午前、真夏の太陽が届かない地下10メートルの
御文庫附属室で厳かに下された、戦争終結を告げる聖断--。

『昭和天皇実録』には要約しか記されていないが、この聖断の一字一句を、
内閣情報局総裁として出席した下村宏が、ほかの出席者の手記やメモとも
照らし合わせて戦後に書き残している。

 
周囲がしんと静まる中、昭和天皇はこう言った。

× × ×

--外(ほか)に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。

反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変わりはない。
私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは
無理だと考える。

国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、
私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。

先方の態度に一抹(いちまつ)の不安があるというのも一応はもっともだが、
私はそう疑いたくない。

要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、
この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える。

どうか皆もそう考えて貰(もら)いたい。

さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことは
まことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。

しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。
この上戦争を続けては結局我が邦(くに)がまったく焦土となり、
万民にこれ以上苦悩を嘗(な)めさせることは私としてじつに忍び難い。

祖宗の霊にお応えできない。

和平の手段によるとしても、素より先方の遣り方に全幅の信頼を措き難いのは
当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、
少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。

私は明治大帝が涙をのんで思いきられたる三国干渉当時の御苦衷をしのび、
この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。

今日まで戦場に在って陣没し、或(あるい)は殉職して非命に倒れた者、
またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。

また戦傷を負い戦災をこうむり、
家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。


この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。
国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。

一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合
動揺も甚(はなはだ)しかろう。陸海将兵にはさらに動揺も大きいであろう。

この気持をなだめることは相当困難なことであろうが、
どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、
よく治るようにしてもらいたい。

必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。
この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。

以上は私の考えである--


× × ×

御文庫附属室のコンクリート壁をも震わす玉声。出席者の誰もが泣いていた。
激しく嗚咽(おえつ)する者もいた。

昭和天皇もまた、白い手袋で何度も眼鏡を拭った。

聖断は下された--。

 
下村は書く。

「陛下は席をたゝれた。一同は涙の中にお見送りした。
泣きじやくり泣きじやくり一人々々椅子を離れた。
長い長い地下壕をすぐる間も、車中の人となつても、首相官邸へ引き上げても、
たまりの間にも閣議の席にも、思い出してはしやくり上げ、涙は止め度もなく流れる……」

    (https://www.sankei.com/premium/news/180520/prm1805200003-n1.html

・・・

(次回からは、しばらく<昭和天皇~エピソード>を紹介してまいります)

             <感謝合掌 平成30年5月24日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその5> - 伝統

2018/05/25 (Fri) 04:35:29


       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P20」より

■[会見秘録]マッカーサーが「思わずキスしようとした」ほど興奮した
 昭和天皇「男子の一言」/本誌編集部

(昭和20年9月27日、昭和天皇とのマッカーサーとの第一回会見について)記録が
公開されず、後に種々の資料が登場したことで、「何が語られたか」が
論争になっているのは周知のとおり。

もっとも有名なのは、『マッカーサー回想記』(1964年刊)のこの記述だ。

<天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。
 
「私は、国民が戦争遂行するにあたって政治、軍事両面で行った
すべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身
をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」

私は大きい感動にゆすぶられた。
死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、
明らかに天皇に帰すべきでない責任を引き受けようとする、
この勇気に満ちた態度は、私を骨のズイまでゆり動かした>

 
回想記の出版以前にも、昭和30年9月、重光葵外務大臣が、
天皇の言葉を受けたマッカーサーが「私は、これを聞いて、興奮の余り、
陛下にキスをしようとしたくらいです」と語ったと紹介している。

こうした発言の真意をめぐり、「作文だ」「日米合作の天皇免責だ」などの意見もあるが、
鳥居民氏(歴史研究家)は、「これまでの記録を見れば、発言の輪郭は明らか」という。

「敗戦直後の9月、米国では真珠湾の騙し討ちに対する非難が高まり、
国際法規を守ることに気を配っていた天皇を懸念させていました。

真珠湾攻撃は東条英機がやったことだが、
すべては私に責任があると、天皇はいったのです。
 
忘れてはならないのは昭和天皇が何を語ったかの議論に隠れている事実です。

そもそもマッカーサーに天皇を免責するしないの選択はできませんでした。
天皇を免責するという米国の基本方針は1943年に内々に決まり、
トルーマンが大統領になっても変わりませんでした。

マッカーサーはそれに従ったのです。
 
マッカーサーが天皇に好意を抱いたのは確かでしょう。
ただその好意を日本向けに度々見せたことには、
外交上の狙いもあったと考えたほうがいいでしょうね」

一方、昭和天皇は、この会見については
「マッカーサーと、これはどこにもいわないと約束したから」と、
最後まで語らなかった。

昭和52年夏の記者会見で記者の質問に答え、
その約束を守ることを「男子の一言」と表現している。

・・・

<参考Web>

(1)本流宣言掲示板「天皇・日本の使命と終戦の真相」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=752

(2)Web:正しい歴史認識(2007/4/30)
   「マッカーサーを感動させた昭和天皇の言葉」
   → https://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/18934657.html

(3)光明掲示板・第一「勇志国際高校の挑戦」
   ~「昭和天皇のマッカーサー元帥とのご会見」に見る究極の自己責任 (10340)
     2013年08月03日
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/koumyou/&mode=res&log=1944

(4)光明掲示板・第二「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか 」
   ~昭和天皇とマッカーサー (6851)(2014年03月25日 )
    天皇陛下賛えるマッカーサー元帥 (6935))(2014年03月28日)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/koumyou2/&mode=res&log=974


             <感謝合掌 平成30年5月25日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその6> - 伝統

2018/05/26 (Sat) 03:25:02

       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P26~29」より

■[エピソード]ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「佳話」/加瀬英明~その1

●昭和天皇は生涯にわたって、
 ご自分が行なわれたことを自慢されたことなど、一度もなかった。

 また、終生にわたって名誉や栄誉を求められたことも、まったくなかった。
 ご自分についてはじつに無欲な方だった。

 天皇は敗戦の年の昭和20年12月に、松村謙三農林大臣を皇居に呼ばれてこういわれた。

 「戦争で塗炭(とたん)の苦しみを受けた国民に、
 このうえ餓死者を出すことは自分には耐え難い。
 政府が要請をしたのにもかかわらず、アメリカは食糧を与えてくれないという。

 だが、考えれば、当方に代償として提供すべき何物もないのだから、
 いたしかたがあるまい。
 それで聞けば、皇室の御物(ぎょぶつ。天子の所有物、あるいは皇室の所蔵品)の
 なかには、国際的に価値のあるものが相当あるとのことだから、これを代償として
 アメリカに渡して食糧に代えて、国民が飢餓を一日でもしのぐようにしたい」

 そして帝室博物館の館長に命じてつくらせてあった皇室御物の目録を農相に渡された。
 天皇の意向は幣原喜重郎首相(在任昭和20年10月?21年5月)を通じて
 マッカーサーに伝えられた。

 しかし、マッカーサーは「それは皇室の人気取りだ。そのようなものは必要ない。
 私が責任を持って、かならず本国から食糧を輸入する方法を講じよう」といって、
 緊急食糧を日本に放出するようワシントンに求めた。

 昭和54年8月、宮内庁記者団とのご会見のときに、
 記者団から当時のことについて質問が出された。

 「そういうことがあったのは事実です。しかし、自分のしたことですから、
 あまり公にしたくはありません」

 これが天皇のご返事であった。

             <感謝合掌 平成30年5月26日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその7> - 伝統

2018/05/27 (Sun) 03:51:14


       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P26~29」より

■[エピソード]ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「佳話」/加瀬英明~その2

昭和24年から東宮御教育常時参与となった小泉信三博士は、
皇太子(今上天皇)の教育係を引き受けるに当たって、昭和天皇に拝謁した。
 
そのときに、「陛下の御態度は、侍臣のおすすめ参らせた結果によるものでしょうか、
あるいは古の聖人の書や明哲の伝記などをお読みになって、
そういう習慣を御身につけられたのでしょうか」とうかがった。

すると、天皇はいとも簡単に

「それは人のすすめによったものでもなく、読書の結果でもない。
これはわが家の伝統である」

とお答えになった。

             <感謝合掌 平成30年5月27日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその8> - 伝統

2018/05/28 (Mon) 04:14:25


       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P26~29」より

■[エピソード]ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「佳話」/加瀬英明~その3

天皇は酒を飲まれなかったし、美食を好まれることもなかった。
衣類についても飾ろうとされることがなかった。

側近にすすめられて、公務の場で着られる洋服を新着されても
、新調した服が傷まないように、奥に入られると
几帳面にすぐに古い背広に着替えられた。


皇太子が学習院初等科を卒業された昭和21年3月、
天皇はお祝いに写真機を贈ることを思いつかれた。

侍従に「市場にあるものは、闇市でたかいことだろう。
(宮内省)写真部に中古はないか」と写真部から中古品を一つ取り寄せられた。
 
「これでよろしい。皇太子にはこれが手ごろだよ。
あまり立派なものや、高いものを与えては、将来のためにならない」
 
といわれた。今上天皇のカメラ好きはこのときに始まる。

             <感謝合掌 平成30年5月28日 頓首再拝>

近衛師団長を惨殺! クーデター部隊が皇居に侵入した - 伝統

2018/05/29 (Tue) 04:03:55


(産経ニュース「昭和天皇の87年」からの紹介に戻ります)

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.5.26)より

宮城事件(1)

「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」-。
昭和20年8月14日、皇居の地下10メートルの御文庫付属室で下された、
終戦の聖断。

それを陸軍の抗戦派はどう受け止めたか。

中堅将校のリーダー格、陸軍省軍務課内政班長の竹下正彦中佐が、
同日の「機密作戦日誌」にこう記している。

「竹下ハ万事ノ去リタルヲ知リ、自席ニ戻リシガ、黒崎中佐、佐藤大佐等
相踵(あいつい)デ来リ、次ノ手段ヲ考フベキヲ説キ、特ニ椎崎、畑中ニ動カサル」

「茲(ここ)ニ於テ『兵力使用(クーデター)第二案』ヲ急遽起案ス」

「(御前会議終了後、竹下は阿南惟幾陸相に)兵力使用第二案ヲ出シ、
(終戦の)詔書発布迄(まで)ニ断行セムコトヲ求ム。
之二対シ、大臣ハ意少カラズ動カレシ様ナリ」

 
竹下ら抗戦派将校は、クーデターを諦めていなかったのだ。

だが、阿南以外の陸軍長老、とくに参謀総長の梅津美治郎には、
聖断に逆らう意志など毛頭なかった。

14日午後、阿南が竹下らに迫られ、参謀総長室を訪れたときのやりとりを、
たまたま居合わせた総合計画局長官の池田純久が聞いている。


阿南「クーデターをやっても戦争を継続しようという意見があるがどうだろう」


梅津「すでに大命は下った。これを犯してクーデターをやる軍隊は不忠の軍隊である。
  今は御聖断に従うのみ。正々堂々と降伏しよう。これが軍の最後の勤めであろう」


梅津はその後、教育総監、第1、第2総軍司令官、航空総軍司令官とともに、
参謀次長が発案した陸軍方針「皇軍は飽(あ)くまで御聖断に従い行動す」に署名。
これに阿南も署名し、陸軍全体が暴走する危険はなくなった。

政府もまた、ただちに閣議を開いて終戦の詔書案を審議した。
一部の文言に阿南が待ったをかけたため、最終案の内奏は午後8時以降にずれ込んだが、
昭和天皇が署名し、全閣僚が副署して、終戦が正式決定する。

ときに14日午後11時。

終戦の詔書は翌15日正午に、昭和天皇の玉音放送によって公表されることとなった。

昭和天皇実録によれば14日午後11時25分、

《(昭和天皇は)日本放送協会により設営されたマイクを御使用になり、
放送用録音盤作製のため、大東亜戦争終結に関する詔書を二回にわたり朗読される。

宮内大臣石渡荘太郎・侍従長藤田尚徳・侍従三井安弥・同戸田康英・
情報局総裁下村宏が陪席する。

録音盤は、侍従徳川義寛により階下の侍従職事務官室の軽金庫に収納される》
(34巻48頁)

 
だが、これで終わりではなかった。
その1時間後、この録音盤を狙って、抗戦派の一部が遂に決起するのだ。

× × ×

日付が変わった8月15日、大日本帝国が自由意思をもつ最後の一日は、
宮城内への軍靴の響きで始まった。

《十五日、陸軍省軍務課員らを中心とする一部の陸軍将校は、
ポツダム宣言受諾の聖断撤回のため、近衛師団を以て宮城と外部との
交通通信を遮断するとともに、東部軍の兵力を以て要人を拘束、
放送局等を占拠するクーデター計画を立案し、これを実行に移す》
(34巻49頁)

後に宮城事件と呼ばれる、抗戦派将校の暴発である。

事件は15日午前1時すぎ、陸軍省軍務課の畑中健二少佐、
陸軍通信学校教官の窪田兼三少佐、航空士官学校区隊長の上原重太郎大尉らが
近衛第1師団司令部に森赳(たけし)師団長を訪ね、
クーデターに反対の森に向かって畑中が発砲、上原が斬殺したことから急展開する。

これを制止しようとした第2総軍参謀の白石通教(みちのり)中佐も窪田に斬殺された。

続いて畑中は、虚偽の師団作戦命令を発し、
それに基づいて近衛歩兵第2連隊の一部が宮城内に展開。

第1連隊の一部は東京・内幸町の放送会館を占拠した(※1)。

さらに、玉音放送の録音を終えて宮城から出ようとする
下村宏内閣情報局総裁や大橋八郎日本放送協会会長ら18人が将兵らに足止めされ、
二重橋の衛兵所に監禁された。

× × ×

畑中らの狙いは、君側(くんそく)の奸(かん)と見なした木戸幸一内大臣の排除と、
玉音放送を収めた録音盤の奪取だ。
いずれかが畑中らの手に落ちれば、事態はさらに悪化するだろう。

 
このとき、辛くも危機を乗り切ったのは、徳川義寛侍従の機転だった。

徳川は抗戦派将校が決起する前から、万が一を思って録音盤を
侍従職事務官室の軽金庫に収め、その周りを書類で埋めて隠していた。

また、決起を知るや直ちに木戸と石渡荘太郎宮内大臣を案内して
地下の防空室に避難させた。

「私(徳川)は二回程廊下に出て見た。
兵をつれた将校や二、三人の将校だけが何度も廊下を通った。
録音盤と内大臣を捜していた。

(中略)

少し経って兵を連れた別の将校が来て、内大臣室を聞いたので
、私は『案内するまでもなく、この階段を登ってゆけば最上階に内大臣室がある』
と教えたが、内大臣が自室に居られないことを承知の上であった。
将兵の一部は階上へ、その他は階下へと去って行き、私は日の出も間近いと感じた」

 
未明の皇居で繰り広げられる、前代未聞の軍暴発。
それに終止符を打ったのは陸相、阿南の割腹自決だった--。


(※1)畑中少佐ら決起将校は森師団長を殺害後、事前に準備していた作戦命令に
    師団長印を押し、「近作命甲第五八四号」を発令。

   「一、師団ハ敵ノ謀略ヲ破摧(はさい)天皇陛下ヲ奉持我カ国体ヲ護持セントス」

   「二、近歩一長(近衛歩兵第1連隊長)ハ其ノ主力ヲ以テ東二東三営庭及ビ
   旧本丸馬場付近ヲ占領シ外局ニ対シ皇城ヲ守護シ奉ルヘシ又約一中隊ヲ以テ
   東京放送局ヲ占領シ放送ヲ封止スヘシ」

   「三、近歩二長(近衛歩兵第2連隊長)ハ主力ヲ以テ宮城吹上地区ヲ外周ニ対シ
   守護シ奉ルヘシ」

   などとする近衛命令を各部隊に下達したが、
   虚偽と見破った連隊長、部隊長も少なくなかった。

   実際に動いたのは近衛歩兵第1、第2連隊の一部で、
   このうち宮城内で玉音放送の録音盤と木戸幸一内大臣を捜索したのは
   2個小隊ほどだった。


   (https://www.sankei.com/premium/news/180526/prm1805260005-n1.html

             <感謝合掌 平成30年5月29日 頓首再拝>

クーデターを防いだ阿南陸相の切腹 決起将校も次々と自決した - 伝統

2018/05/30 (Wed) 03:31:30


       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018.5.27)より


宮城事件(2)

昭和天皇の玉音放送を収めた録音盤を奪取すべく、決起将校に率いられた
クーデター部隊が宮城内に軍靴を響かせていた昭和20年8月15日未明、
陸軍首脳で唯一抗戦派に理解を示していた陸相の阿南惟幾(これちか)は、
大臣官邸の自室で最後の杯を傾けていた。

午前1時半、クーデター計画に関わった義弟の竹下正彦中佐が阿南を決起させようと訪れた。
だが、すでに自決の準備をしているのをみて説得を諦めた。

竹下は日誌に書く。

「(阿南が)平素ニ似ズ飲マルルヲ以テ、アマリ飲ミ過ギテハ、
(切腹を)仕損ズルト悪シ、ト云ヒシ所、否、飲メバ酒ガ廻リ血ノ巡リモヨク、
出血十分ニテ致死確実ナリト、予ハ剣道五段ニテ腕ハ確カト笑ハレタリ」

× × ×

最後まで徹底抗戦を訴えた阿南だが、実は中堅将校らの暴発を抑えるため
敢えて先頭に立ったのであり、暗黙のうち終戦工作に協力していたとする説もある。

 
首相の鈴木貫太郎も戦後、
「若(も)し、彼にして偏狭な武弁であり、抗戦のみを主張する人ならば、
簡単に席を蹴つて辞表を出せば、余の内閣などは忽(たちま)ち瓦解(がかい)して
了(しま)うべきものであつた」と述懐する。

しかし阿南は内閣瓦解を防ぎ、その職務を全うした。

自決の前夜、阿南は鈴木のもとを訪れ、こう語っている。

「自分は陸軍の意志を代表して随分強硬な意見を述べ、総理をお助けするつもりが
反(かえ)つて種々意見の対立を招き、閣僚として甚だ至らなかったことを、
深く陳謝致します」

阿南が侍従武官を務めていた昭和4年から8年まで、鈴木も侍従長として宮中にいた。
お互い深く信頼し合っていた仲だ。
「総理をお助けするつもり」の言葉に、偽りはなかっただろう。

午前3時、阿南はシャツを着替えた。侍従武官時代、昭和天皇から拝領したシャツである。
勲章で飾られた軍服は床の間に置き、その両袖に抱くようにして、
戦死した次男惟晟(これあきら)の写真を載せた。

午前5時、短刀にて割腹。
竹下が介錯(かいしゃく)しようとしたのを断り、午前7時すぎ絶命した。

享年五十八。自室の机上には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」の遺書が残された。

× × ×

自刃の一報は、すぐにクーデター部隊の将校らに伝わった。
それは、命と引き替えの諫止(かんし)と聞こえたに違いない。

近衛歩兵第2連隊第1大隊長の北畠暢男(のぶお)はのちに、
「この時点で私は、天の時は過ぎたのだ、と覚悟するに至りました」と述懐している。

阿南の自刃により、宮城事件は急速に収束へと向かう。

 
東部軍管区司令官の田中静壱(しずいち)が自ら鎮圧に乗り出したのは、
夜が白々と明けた頃だった。

午前5時過ぎ、近衛歩兵第1連隊に車で乗りつけた田中は、
クーデター計画に関与した石原貞吉少佐を憲兵隊に拘束させると、
決起将校らの直属の上官だった近衛歩兵第2連隊長の芳賀豊次郎に対し、

「当面は俺自身が近衛師団の指揮をとる。
貴官は直ちに現態勢を解除して原態勢に復帰させ、守衛任務を遂行せよ。
お詫び言上のため(皇居の)御文庫へ伺候したいので案内せよ」

と命じた。

× × ×

一方、首謀者の畑中健二少佐は最後の手段として、
クーデター部隊の一部が占拠した東京・内幸町の放送会館に乗り込み、
日本放送協会(NHK)報道部の柳沢恭雄副部長に拳銃を突きつけた。

「決起の趣旨を訴えたい。放送させよ。さもなければ撃つ」

だが、柳沢は無言のまま動かなかった。

ここに畑中も決起の終末を知る。

午前7時、畑中は近衛師団の宮城内守衛隊司令官室に行き、
自ら殺害した森赳師団長に宛てた遺書を芳賀に提出した。

 
森閣下 霊前ニ

陛下ノ為 誠ニ申シ訳ナキ コトヲ致シマシタ 
トウカ オ許シ下サイ アノ世テ 必ス 御詫ヒイタシマス

 
畑中が自決したのは午前11時過ぎ、皇居前の芝生の上で腹を切り、
森を撃った拳銃で自らの頭を撃ち抜いた。
同じ場所で首謀者の一人、椎崎二郎中佐も軍刀を腹に突き刺し、拳銃で自決した。

宮城事件には東条英機元首相の女婿、古賀秀正少佐も深く関わっていた。

古賀は皇居賢所(かしこどころ)に土下座して礼拝した後、
部下の一人に「若い者は死ぬな。全責任は俺が負う」と言ったと伝えられる。

その後、森の遺骨(※1)が安置されている近衛師団司令部の貴賓室へ行き、
割腹の上、とどめの拳銃の引き金をひいた。


× × ×


昭和天皇が宮城事件の顛末(てんまつ)を知ったのは、夜が明けてからだった。

《侍従武官長蓮沼蕃(しげる)は東部軍管区司令官と同道、御文庫に参殿、
七時三十五分に単独にて拝謁し、事件の経過並びにその鎮圧につき奏上する。
八時、天皇は侍従長藤田尚徳(ひさのり)をお召しになり、事件の発生を嘆かれる》

 
この日、快晴。

正午がゆっくり近づいていた--。



(※1)畑中少佐らが殺害した森師団長の遺体は15日早朝、
検視もしないまま司令部近くの窪地で荼毘(だび)に付されたが、
その理由や経緯については諸説ある。

遺骨は師団長室の隣にあった貴賓室に安置された。
なお、宮城事件で森師団長ら2人が殺害され、畑中少佐ら3人が自決したほか、
事件を鎮圧した東部軍管区の田中司令官も9日後の8月24日に自決した

https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_prm1805270010/

・・・

<参考Web:田中静壹大将と甘露の法雨>

(1)谷口雅春先生に帰りましょう・第二
   「終戦秘話『甘露の法雨』国難を救う 『生長の家』誌昭和35年10月号」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=711

(2)本流宣言掲示板「田中静壹大将と甘露の法雨 」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=980

(3)伝統板・第二「聖経『甘露の法雨』の功徳」内の記事
   「田中静壹大将と甘露の法雨 (2015/08/14)」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6463679

(4)Web:光の進軍「終戦時の田中静壱大将のこと」~ 仙 頭  泰
   → http://hikarinoshingun.giri.jp/03-aikoku/0301akk-sendou-ronbun/13tanaka-taishou.htm

(5)Web:ブログ「山ちゃん1952」

  ①(2013年11月13日)田中静壹大将と甘露の法雨①
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1054634.html

  ②(2013年11月13日)田中静壹大将と甘露の法雨②
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1054638.html

  ③(2013年11月13日)田中静壱大将と甘露の法雨③
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1054647.html

  ④(2013年11月13日)田中静壹大将と甘露の法雨④
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1054657.html

  ⑤(2013年11月13日)田中静壹大将と甘露の法雨⑤
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1054662.html

  ⑥(2013年11月13日)田中静壹大将と甘露の法雨⑥
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/1054672.html

             ・・・

  ⑦(2015年08月24日)田中静壱大将と甘露の法雨 -1
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/40956034.html

  ⑧(2015年08月24日)田中静壱大将と甘露の法雨-2
    → http://tecnopla1011.blog.jp/archives/40956639.html


             <感謝合掌 平成30年5月30日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその9> - 伝統

2018/05/31 (Thu) 04:11:49


(しばらく<昭和天皇~エピソード>を紹介してまいります)

       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P26~29」より

■[エピソード]ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「佳話」/加瀬英明~その4

昭和のはじめ、陸軍大演習のため名古屋地方へ行幸された際、
演習終了後に名古屋市内にある愛知時計電機の工場を視察されたその夜、
30名ばかりの地方の民間功労者を晩餐(ばんさん)に招かれた。

時計が話題となった。すると陪食(ばいしょく)を賜(たまわ)った一人が、
チョッキから金鎖を手繰(たぐ)り、金時計を取りだし、得意げに

「陛下、これは外国製で御座居ますが、実によく合います。
国産のものはどうしても不正確で、まだまだとうてい外国製には及びません」

と申し上げた。

天皇はそれを聞かれると、ご自分の右ポケットから懐中時計を取り出された。
 
「わたしのこの時計は12円50銭の国産品だけどもよく合うよ」
 
と嬉(うれ)しそうに示された。

その時計は侍従が天皇にいわれて東京・銀座のシチズン時計店で買ってきたものだった。
高価な外国製時計よりもはるかに安価だったが、天皇はお使いになって
外国製に負けないことを心から喜ばれていたのだった。

・・・

<参考Web:昭和天皇が愛用した時計
       → https://getnavi.jp/fashion/64108/ >

             <感謝合掌 平成30年5月31日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその10> - 伝統

2018/06/01 (Fri) 03:52:30


       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P26~29」より

■[エピソード]ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「佳話」/加瀬英明~その5

天皇の機知にあふれたユーモアは外国でも大いに発揮された。
昭和50年、天皇皇后両陛下はアメリカを訪問された。
カリフォルニア州のディズニーランドを行幸啓され、
居合わせたアメリカの子どもたちとも交歓されて大いに楽しまれた。

このときにミッキーマウスの腕時計を贈られ、
帰国後にこの時計を腕にはめられるという茶目っ気も御披露された。


御訪米時にお迎えしたのが、ジェラルド・フォード大統領だった。
両陛下がお泊まりだったホワイトハウスの向い側にある迎賓館「ブレアハウス」に
フォード大統領が訪ねて、予定時間よりも長く歓談された。

両陛下は翌日にアメリカの国民的スポーツである
アメリカン・フットボールをご覧になる予定だった。
そこで、フットボール談議となった。
 
フォード大統領が「スポーツのゲームを(大統領として)観覧しますときには、
どちらかのチームを応援することができないので困ります」と申し上げた。
 
すると、天皇が相づちを打たれて、
「とくに明日、あなたが出場されていたら、困りますね」とすかさず答えられた。
 
天皇はフォード大統領が学生時代にアメリカン・フットボールの名選手として
ならしていたことを、知っておられたのだった。

この話は私が直接フォード大統領から聞いたものである。

フォード大統領は昭和49年に国賓として訪日したときにはじめて天皇と会ったが、
天皇の真摯(しんし)なお人柄にすっかり魅せられていた。
 
昭和天皇のお人柄によって、深く魅了された外国の元首や政治家は多かった。

・・・

<参考Web>

(1)Web:ニチマイ米国事務所(12日 7月 2016)
       昭和天皇のご訪米

(2)Web:Newsweek(1989.1.15)
       1975年、たった一度の昭和天皇単独インタビュー
       → https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/03/1975.php

(3)動画:1975 昭和天皇初訪米&初公式記者会見
       → https://www.youtube.com/watch?v=4b6VuxlBUYI

(4)Web:日米の氷解(前編)
       → http://royal.must-reading.info/main/showa8.html

       日米の氷解(後編)
       → http://royal.must-reading.info/main/showa9.html

       <感謝合掌 平成30年6月1日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその11> - 伝統

2018/06/03 (Sun) 03:54:42

       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P26~29」より

■[エピソード]ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「佳話」/加瀬英明~その6


昭和天皇の即位式である即位大礼が行なわれたのは、
大正天皇の諒闇(りょうあん。天子が父母の喪に服する期間)が明けた
昭和3年11月だった。

天皇は27歳。
 
翌月の15日、東京の皇居前広場で、東京、千葉、埼玉、山梨、神奈川の諸団体から、
青年男女約8万人が参加する大礼奉祝の式典が行なわれ、
天皇が御親閲されることになった。

天皇は大会の開催に同意されるとともに、天候を心配された。

「もしも当日、雨が降ることがあったら、
青年たちに雨具を着用させるようにしてほしい。
また、いかような大雨になっても、わたしが立つ場所に天幕を張ってはならない」

とお命じになった。

当日は早朝から大雨であった。
そこで、御座所の位置の上に天幕が張られた。
宮内大臣をはじめ側近たちは天皇のご健康を思いやってのことだったが、

天皇は

「天幕を取り除いてほしい。
司令官も時と場合によっては第一線にたつことがある。
今日はわたしのいうことに従ってほしい」

と要望された。

午後2時、天皇は雨のなかを二重橋正門から自動車で式場に到着された。
天皇が下車されると、侍従がすぐにうしろから雨用のマントをおかけした。
だが、お立ち台の上でマントをお脱ぎ捨てになった。

広場を埋め尽くした青年たちが篠突(しのつ)く雨のなかを
雨具もつけずに全身を濡らしているのを、ご覧になったからだった。
 
やがて、青年たちが御前で分列行進を開始すると、
天皇はずぶ濡れになられながらも繰り返し、挙手の礼をもって答礼された。
多くの青年たちは感動して、涙が雨にまじって顔を濡らした。

天皇は式典が終わる1時間20分のあいだ、
軍帽や軍服から水をしたたらせながらお立ち台に裁ち続けられた。
 
当時の代表的なジャーナリスト、徳富蘇峰は翌日の「国民新聞」に、
式典の天皇の姿に感動して「真に感涙が溢るる」という文章を寄稿した。

・・・

<参考Web>

(1)西暦1928年 - 昭和天皇、即位の大礼
   → https://www.pahoo.org/culture/numbers/year/j1928-jp.shtm

(2)昭和天皇の御聖徳「荒天下の分列式」(木下道雄元侍従次長)
   → http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/51859673.html

       <感謝合掌 平成30年6月3日 頓首再拝>

玉音が厳かに告げた終戦 その日、列島は涙に包まれた - 伝統

2018/06/04 (Mon) 04:15:33


(産経ニュース「昭和天皇の87年」からの紹介に戻ります)

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018年6月2日)より

玉音放送(1)

東京は、からりと晴れていた。

連日の空襲警報もなく、静かに時が流れていた。

昭和20年8月15日正午、ラジオから流れるアナウンサーの声。

「只今(ただいま)より重大なる放送があります。
全国聴取者の皆様、ご起立を願います。重大発表であります」

続いて君が代が奏楽され、玉音が、厳かに終戦を告げた(※1)。

《朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 
非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ 茲ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク 

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇(ソ)四国ニ対シ
其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ》

《交戦已ニ四歳ヲ閲(けみ)シ 朕カ陸海将兵ノ勇戦 朕カ百僚有司ノ励精 
朕カ一億衆庶ノ奉公 各々最善ヲ尽セルニ拘(かかわ)ラス 戦局必スシモ好転セス 
世界ノ大勢亦(また)我ニ利アラス 加之(しかのみならず)
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷シ 
惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而(しか)モ尚交戦ヲ継続セムカ 
終(つい)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス 延(ひい)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ》

《惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス 
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所 
堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス》

《宜シク挙国一家子孫相伝(あいつた)ヘ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ 
任重クシテ道遠キヲ念(おも)ヒ 総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 
志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 
爾臣民 其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ》……

初めて耳にする昭和天皇の声。それを国民は、涙で受け止めた。

「熱涙滂沱(ぼうだ)として止まず。どう云ふ涙かと云ふ事を
自分で考える事が出来ない」(随筆家、内田百●=ひゃっけん ●は門構えに「月」の字)

「戦争終結をよろこぶ涙ではない。敗戦の事実を悲しむ涙でもない。
余りにも大きな日本の転換に遭遇した感動が涙を誘つた」(元国務相秘書官、中村正吾)

× × ×

このほか、当時の文筆家らは、こんな日記や手記を残している。

「警報。ラジオが、正午重大発表があるという。
天皇陛下御自ら御放送をなさるという。
『ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおつしやつたら、みんな死ぬわね』
と妻が言つた。私もその気持ちだつた。

十二時、時報。君ガ代奏楽。詔書の御朗読。やはり戦争終結であつた。
遂に負けたのだ。戦いに破れたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。
眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉(せみ)がしきりと鳴いている。
音はそれだけだ。静かだ」(作家、高見順)

「太陽の光は少しもかはらず、透明に強く田と畑の面と木々とを照し、
白い雲は静かに浮び、家々からは炊煙がのぼつてゐる。
それなのに、戦は敗れたのだ。何の異変も自然におこらないのが信ぜられない」
                            (詩人、伊東靜雄)

「足元の畳に、大きな音をたてて、私の涙が落ちて行つた。
私など或る意味に於て、最も不逞(ふてい)なる臣民の一人である。
その私にして斯(か)くの如し」(作家、徳川夢声)

もっとも、誰もが涙に暮れたのではない。

「菅原氏曰(いわ)く君知らずや今日正午ラヂオの放送、
突如日米戦争停止の趣を公表したりと。恰(あたか)も好し。
日の暮るゝ比、三門祠畔に住する大熊氏の媼(おうな)、鶏肉葡萄酒を持ち来れり。
一同平和克複の祝宴を張る」(作家、永井荷風)

「(駅のプラットホームで)初めてきく天皇の声は、雑音だらけで聴き取り難かった。
それが終戦を告げていることだけはわかったが、まわりの連中はイラ立っていた。
突然、僕の背中の方で赤ん坊の泣き声がきこえ、頭の真上から照りつける
真夏の太陽が堪(たま)らなく暑くなってきた。
重大放送はまだ続いていたが、母親は赤ん坊を抱えて電車に乗った。
僕も、それにならった」(作家、安岡章太郎)

× × ×

一方、栃木県奥日光のホテルの一室では、学習院の制服姿の少年が一人、
ラジオの前に正座し、両手の拳を握りしめながら、玉音の一言一句に耳を傾けていた--。



(※1)玉音放送 ポツダム宣言受諾による日本の敗戦を、
    昭和天皇が国民に直接告げたラジオ放送。

    前夜に昭和天皇が音読し、録音した「大東亜戦争終結に関する詔書」
    (終戦の詔書)が、昭和20年8月15日、国内だけでなく
    外地の在留邦人、日本軍将兵に向けて流された。

    当日は朝から「正午に重大放送がある」「天皇陛下が自ら放送される」
    「国民は必ず聴取するように」などの予告がラジオや新聞の特報で告げられ、
    多くの国民がはじめて昭和天皇の声を聞いた。

    その一方、戦時下における劣悪な放送環境により、
    「雑音がひどかった」「あまり聞き取れなかった」とする証言も多い。

    放送後、積極侵攻作戦中止の大陸令、大海令が発せられ、
    当時国内に計370万人、国外に計360万人以上の兵力を有していた
    日本軍は一夜にして銃を置いた。

    その影響は大きく、公式の戦争終結は降伏文書に調印した9月2日だが、
    玉音放送が流れた8月15日をもって終戦の日と記憶されることになった

  (https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_prm1806020002/

       <感謝合掌 平成30年6月4日 頓首再拝>

若き皇太子の決意「今はどん底。日本を導いていかなければ…」 - 伝統

2018/06/05 (Tue) 04:27:05



【感動】教科書に載らない昭和天皇、今上天皇のいい話まとめ
https://www.youtube.com/watch?v=uXkC4wjYJ0Q

        ・・・

若き皇太子の決意「今はどん底。日本を導いていかなければ…」

       *Web:産経ニュース「昭和天皇の87年」(2018年6月3日)より

玉音放送(2)

 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」--

昭和20年8月15日正午の、列島を涙につつんだ終戦の玉音放送。

それを、学習院初等科6年生だった天皇陛下(当時は皇太子)は、
栃木県奥日光の疎開先で聴かれた。

学習院軍事教官兼御用掛の高杉善治によると、
陛下は、宿泊先のホテルの一室で、ラジオの前に身動きもせず正座し、
膝の上に置いた両手を握りしめ、静かに涙を見せられたという。

当時11歳。
「ご放送が終わった後もしばらくその場にすわり続けられ、
万感無量をじーっとこらえながら、小さなお心を痛め、それに打ちかとう
と覚悟されていたにちがいない。

しっかり結んだお口元には堅いご決意のほどが拝察され、
お気の毒に思いながら、また凛々しさに心打たれるものがあった」と、

のちに高杉が書き残している。

この日、皇太子を護衛する近衛儀仗(ぎじよう)隊は厳戒態勢を敷いていた。
宇都宮の東部軍第14師団が決起し、戦争継続のため皇太子を奉じて
会津若松に立てこもろうとしていると、不穏な情報が流されていたからだ。

このため皇太子を長野県などへ避難させる計画が真剣に検討されたほどである。

 
しかし陛下は、ラジオから流れる父、昭和天皇の覚悟を、
涙とともにしっかり受け止められた。

陛下は日記に、「新日本の建設」と題して、固い決意を記されている。

「昭和二十年八月十五日、この日、我が国三千年の歴史上初めての事が起りました。
そしてこの日が日本人に永久に忘れられない日となりました。
おそれ多くも天皇陛下が玉音で英米支蘇四ケ国の宣言を御受諾になるといふ詔書を
御放送なさいました。

私はそれを伺つて非常に残念に思ひました。
無条件降服といふ国民の恥を、陛下御自身で御引受けになつて
御放送になつた事は誠におそれ多い事でありました」

「今は日本のどん底です。それに敵がどんなことを言つて来るかわかりません。
これからは苦しい事つらい事がどの位あるかわかりません。
どんなに苦しくなつてもこのどん底からはい上がらなければなりません」

「今までは、勝ち抜くための勉強、運動をして来ましたが、
今度からは皇后陛下の御歌(※1)のやうに、
つぎの世を背負つて新日本建設に進まなければなりません。
それも皆私の双肩にかゝつてゐるのです。

それには先生方、傅育(ふいく)官のいふ事をよく聞いて実行し、
どんな苦しさにもたへしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、
もつともつとしつかりして明治天皇のやうに皆から仰がれるやうになつて、
日本を導いて行かなければならないと思ひます」


× × ×

同じ日、皇居の地下10メートルにある御文庫附属室では、
昭和天皇の臨席の下、枢密院会議が開かれていた。

《十一時五十分、天皇は会議を中断し、会議場に隣接する御休所に移られる。
正午、昨夜録音の大東亜戦争終結に関する詔書のラジオ放送をお聞きになる》
(昭和天皇実録34巻51頁)

 
不敗であった神国日本の、初の敗戦を伝える自身の声。
このとき、昭和天皇は44歳。
国民の慟哭が列島を包み込む中で、何を思ったことだろう。

昭和天皇がいなくても戦争は起きたが、昭和天皇がいなければ戦争は終わらなかった。

「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい」とした
終戦の聖断が、日本を救ったのだ。

この聖断がいかなる覚悟のもとに下されたか。
それを知るには、44年前の誕生時にさかのぼって、
昭和天皇が歩んだ激動の日々をたどらなければならない--。




(※1)皇后陛下の御歌 昭和19年12月、
    「疎開児童のうへを思ひて」として発表された香淳皇后の和歌--

    つきの世を せおふへき身そ たくましく

      たゝしくのひよ さとにうつりて

--天皇陛下の母である香淳皇后は和歌とともに、
ビスケット計43万4500袋を下賜し、集団疎開で不自由な生活をしている
全国の子供たちに配られた



     (https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_prm1806030003/

       <感謝合掌 平成30年6月5日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその12> - 伝統

2018/06/06 (Wed) 03:27:32

(しばらく<昭和天皇~エピソード>を紹介してまいります)

       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P26~29」より

■[エピソード]ユーモアと感動に満ちた昭和天皇「佳話」/加瀬英明~その7


終戦直後、フランス領インドシナ、東南アジアなどは
イギリス軍の管轄下で約50万人、グアムなどアメリカ軍管轄下にも多くの日本兵がいた。
 
ノンフィクション作家、工藤美代子さんがロンドンにある国立公文書館で発見した
外交文書によれば、天皇が個人の資金から赤十字国際委員会に5万円を寄付した
というのである。

その目的は「敵国にいる日本人の帰還が円滑に行なわれるのを助けるためと、
彼らを勇気づけるため」に寄付を申し出たという。
現在の貨幣価値に換算すると7500万円くらいになる。

当時の皇室財政は莫大なものといわれるが、
天皇にとって皇室財政は国民のためのものであり、
私するものではないという思いが沁(し)みついていた。

だが、戦争に負け、終戦を迎えると遠い異国で捕虜となっている
日本兵の身の上が気がかりでならない。

おそらく赤十字国際委員会に託した5万円は、
天皇がご自分の意志でなんとか自由になる財産だったに違いない。
 
それは天皇が個人としてできる最大の心遣いだったのである。

       <感謝合掌 平成30年6月6日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその13> - 伝統

2018/06/07 (Thu) 04:20:31


       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P30~31」より

[素顔]陛下はどんなときにご機嫌を損ねられたか/本誌編集部

●昭和43年から崩御まで内舎人(天皇身辺の雑役)として仕え続けた
 牧野名助(もりすけ)氏も、
 陛下はきめ細やかな配慮やお気遣いを忘れない方でしたと追憶する。

 「ある総理大臣が宮殿行事で陛下に拝謁した後のことです。
 陛下は、総理の退出の車が車寄せにいるのか確認したうえで
 『それならば歩いて帰ろう』とおっしゃられたんです。

 陛下が車を呼んで総理の車とすれ違えば、
 総理はおそらく車を降りられて陛下をお見送りするだろう
 というご配慮からのお言葉でした。

 また、たとえば東京都知事と会うときは、
 八丈島の織物・黄八丈のネクタイをご使用になるなど、
 お会いになる方へのご配慮も忘れませんでした。

 皇族の方と会う場合ですら、
 必ずその方から贈られたネクタイをご使用になっていました」


●昭和天皇が厳しく守られていたのが時間だという。
 <中略>
 ただ、こうした厳しさは、すべて配慮とお気遣いに根差したものだった。

 「陛下のスケジュールが急に変更になってしまえば、
 多くの人に影響が生じてしまいます。
 とくに地方への行幸は、幹線道路の通行規制を行ないますから、
 予定が遅れると、関係者や警備をする警察はおろか、市民にまで迷惑がかかってしまう。
 陛下は、こうした事態だけは避けられたかったのでしょう」(前出の牧野氏)


●一方、その日常生活は、質素なものだった。
 牧野氏によれば、鉛筆はサックをつけても短くなるまで、
 ノートは端の余白部分まで使い切るのが当たり前。

 辞典に至っては、汚れが目立ち、表紙が破れてきても、
 修補させてご使用になっていたという。

 「室内の調度品も、なかなか取り替えようとなさりませんでした。
 椅子などは、私がお仕えした20年間でも、一度だけしか
 取り換えなかったと記憶しています」(前出の牧野氏)


●「陛下は国体などの開会式などに出席される場合、
 30分でも40分でも姿勢を崩さず、セレモニーをご覧になっていました。
 この点はどんな場面でも、ご高齢になっても変わりませんでした。
 まさに公人。それ以外の何物でもないという方でした」
  (20年以上にわたり皇室取材を手掛けてきた元カメラマンの瓜生浩氏)

           <感謝合掌 平成30年6月7日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその14> - 伝統

2018/06/08 (Fri) 04:50:37


       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P34~35」より


■[祭祀]「神事優先」の伝統を重んじる陛下は「宮中祭祀の簡略化」に反対だった/斎藤吉久

宮中祭祀の簡略化は昭和40年代以降、入江相政侍従長が具体的に着手しているが、
これは正確には「簡略化」ではなく「破壊」といっていい。
 
宮中祭祀は、天皇自らが祭典を執り行なう「大祭」、
掌典長(しょうてんちょう)が行ない天皇が拝礼する「小祭」、
毎月1日、11日、21日に行なう「旬祭(しゅんさい)」などに分けられる。

このうち、まず旬祭が昭和43年に簡略化された。
1日は親拝(天皇自ら拝礼すること)だったが、
それが5月と10月の年2回に削減された。

さらに45年には宮中祭祀第一の重儀である
「新嘗祭(にいなめさい。11月23日)が簡略化されている。

新嘗祭は天皇が神嘉殿(しんかでん)において新穀を天神地祇に捧げ、
自らもお召し上がりになる祭儀であり、「夕(よい)の儀」と「暁の儀」がある。
このうち親祭(天皇が自ら執り行なう)は夕の儀のみとし、
暁の儀は掌典長が執り行なうこととなった。
 
簡素化は続く。

<中略>

これらは、陛下の「ご高齢」に対する配慮ともいわれるが、果たしてそうか。
簡略化が始まる43年、陛下はまだ60代であった。
しかも46年にはイギリスなど欧州7か国を訪問し、50年には訪米している。

理由は他にあったのではないか。

<中略>

昭和天皇は祭祀を重んじたというよりも、歴代天皇がそうであったように、
天皇第一のお務めとして、粛々とこなされたのだと拝察する。
 
その陛下が、「ご高齢」を理由に簡略化が推し進められる状況をどう思われたのか。
明言されていないが、陛下のお心を察することができる言動がいくつかある。

前述の通り新嘗祭が簡略化された時、
陛下は「これなら何ともないから急にもいくまいが暁(の儀)もやってもいい」
とおっしゃったと『入江相政日記 第4巻』(朝日新聞社)に記されている。

このお言葉を受けて入江は「ご満足でよかった」と書いているが、そうではないだろう。
これは“祭りを正常化せよ”という意思表示であったと捉えるのが自然である。
 
実はその翌年から夕の儀も掌典長が執り行なう予定であった。
入江日記では57年6月には「お祭りすべてお止めということですっかりお許しを得」た
はずなのに、陛下は病床に伏される直前の61年まで
親祭(天皇が自ら執り行なう)を貫かれたのだ。
 
争わずに受け入れるという至難の帝王学のもとで、最大限抵抗されたのだろう。

たしかに祭祀はご負担である。
例えば新嘗祭では座布団もない硬い畳の上に長時間お座りになり、
御直会(おなおらい)をされる。

そのため、新嘗祭が近づくと、陛下は居間でテレビをご覧になる時、
普段はソファに座ってご覧になるが、座布団を敷いて正座してご覧になっていた。
当日は午後3時に始まり、すべての祭儀が終わるのは翌日の午前1時頃だったといわれる。

しかし、周囲が「ご高齢」「ご負担」を繰り返したのには違和感を覚える。
 
負担軽減が必要であれば、国事行為を皇太子に代行させたり、
憲法には記載のない公的な行事へのご臨席を減らすという方法もあったはずだ。

だが、現実には公務が優先され、宮中祭祀が犠牲となった。

<中略>

実は背景には厳格な政教分離の考えがあった。
当時の事情を知るOBによれば、
戦前の宮内省時代からの生え抜き職員たちがそろって定年で退職し、
代わって他の省庁から幹部職員が入ってくるようになったことが原因」だという。

新しい職員たちは国家公務員であるという発想が先に立ち、
皇室の伝統に対する理解は乏しかった。

宮内庁内に厳格な政教分離の考えがはびこり、
「なぜ祭祀に関わらなければならないのか」などと
側近の侍従職までもが声を上げるようになり、祭祀から手を引き始めたのだという。

           <感謝合掌 平成30年6月8日 頓首再拝>

<昭和天皇~エピソードその15> - 伝統

2018/06/09 (Sat) 05:03:59


       *雑誌「SAPIO(2009年2月11日・18日<No460>P36」より

■[ワイド]我が心の昭和天皇 
 「柔道は骨が折れますか?」事件の真相/山下泰裕

【皇居の園遊会に招かれ、
昭和天皇から「柔道は、骨が折れますか(柔道は、大変ですかの意)」と尋ねられ、
「はい、昨年骨折しました」と答えて周囲の爆笑を誘ったエピソードについて】

 
怪我の功名といえばいいのか。
失敗を悔いる間もなく意外な展開が待っていた。
私の勘違いがおかしかったのだろう。

陛下と私の会話に静かに耳を傾けていた他の出席者から笑いがおこった。

さっきまでのピンと張り詰めた緊張が一瞬で解け、会場には和やかな空気が漂った。
陛下も楽しげな笑みを湛え「今日はよく来てくれました」と私をねぎらってくださった。

あの勘違いのおかげで、
私は運良く陛下の自然なお姿と笑顔を知ることができたと思っている。
私にとって大きな体験だった。

陛下の慈しみ深い表情を目前で拝見したとき、こう感じたのだ。
 
陛下は、常に世の中の平和や人々の安らぎを心から願っているのだ、と。
 
私は、いくら言葉を重ねても相手には届かない「思い」というものがあると考えている。
そんな陛下の「思い」が、表情、立ち居振る舞い、雰囲気から私の心に響いてきた。(談)

           <感謝合掌 平成30年6月9日 頓首再拝>

Re: 昭和の日(3) - bgxdbzwfiMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:00

伝統板・第二
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