伝統板・第二

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素直(すなお)  ② - 伝統

2018/04/25 (Wed) 03:05:31

     *伝統板・第二「素直(すなお)」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898756
 

【「素直さ」こそ最強の武器である】

        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年04月23日)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   自分が現在やっていることや、話している言葉に
   「愛」があるかどうかと考えてみるといいよね。

   わがままで、嫌われてしまうのは、
   やっていることや使っている言葉に「愛」がないからなんだよ。

   あなたの言動に愛があるか、ないかの違いなの。

   わかるかな?


   それさえ気をつければ、大抵のことはうまくいくんだよ。

   素直さを取り戻すっていっても、
   本来はあなたの心の中に必ずあるものだしね。

   それとね、人と自分は違うんだってこともわかった方がいいの。


   他人と自分を比べることをやめるの。

   同じ人っていないんだよ。

   目だって、鼻だって、指紋だって違うしDNAも全部違う。

   一つも同じものってないんだよ。


   幸せになりたいならば、
   これから先は、自主性を持たなければ幸せにならないよ。

   自主性って、とても大事になってくるの。

   人まかせっていうのは、20世紀で終わったんだよ。


   魂の時代っていうのは、自分本位の時代ってことなの。

   だって、魂にしても人それぞれで、全部違うんだから。

   少し前の時代までは、貧しくて食べるのもままならない時代だったら、
   みんな我慢して周囲に合わせていたんだよ。

   自分だけ勝手なことを考えちゃいけないとかね。

   だけど、今は豊かになったから、自由にしていいの。


   みんなと同じという時代が終わって、これからは、もう違う時代なんだよ。

   だから、これから学ばなきゃいけないのは、
   それぞれが幸せになるっていう「魂の時代」が来たってことを
   理解することだよ。

   私には私の考えがあり、あなたにはあなたの考えがあるってことなの。


   夫婦になって、「俺が幸せにしてやるよ」って言ったところで、
   そんなのできないよって話なの。

   たとえ夫婦っていっても、幸せの価値観て違うしね。


   自分のことは自分で幸せにすればいいの。

   素直になってみるとできるんだよ。

   あなたの魂は、もうその方法がわかっているからね。

        <『「素直さ」こそ最強の武器である』秀和システム>

               ・・・・

松下幸之助翁は、「素直な心」についてこう言っている。

『 素直な心とは、寛容にして私心なき心、
広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。

また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります』
(素直な心になるために)より。

そして、

『素直な心のうどん屋さんであれば、
“この不況は自分の力を存分にふるうチャンスだ。

自分の本当の勉強ができるときだ”
というように考えるのではないか思うからです。

したがってそのうどん屋さんは、従来の自分の商売のやり方とか考え方を、
私心なく、第三者の立場に立ってみつめ、考え直すと思います。

今までのやり方を徹底的に反省してみるわけです。

このようにして、そのうどん屋さんが素直な心で対処してゆくならば、
不況に際してもゆきづまることなく、かえってお客が増えて繁盛してきた、
というような姿を生み出すこともできるようになるわけです』


素直な心とは、すべてのことに対して、
従順になれとか、言うことを聞け、という訳ではない。

従順とは、おとなしくて、人の言うことを「ハイハイ」と聞いたリ、
人に逆らわないことを言う。

だが、これでは自分というものがまったくなくなってしまう。

本当の素直な心とは、謙虚に学ぶ姿勢とか、
利己の心ではなく利他の心を持つことであり、人のせいにしない姿勢のこと。

利他の心は人を喜ばせること。

つまり、愛ある言葉をいつも使うこと。


人のせいにしないとは、自らが決め、自ら主体的に動く姿勢のこと。


素直な心を身につけたい。

            <感謝合掌 平成30年4月25日 頓首再拝>

素直な心がない場合には、秩序が乱れがちとなる - 伝統

2018/05/19 (Sat) 03:47:04


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がない場合には、個々人がバラバラとなって
共同生活の秩序も乱れがちとなり、治安が悪化しやすくなる》

共同生活を営むお互い一人ひとりが、それぞれの生活、活動を自由にスムーズに
進めてゆくためには、そこに秩序というものが必要になってくるわけですが、
その秩序が十分保たれ、人びとが安心して生活を営める状態が、
いわゆる治安の保たれているということだと思います。

もしもそういう社会の秩序、治安というものが十分保たれていなかったならば、
お互いは安心して日々の活動、生活を営むことができにくくなるでしょう。

たとえば、ちょっと外出するという場合でも、治安がわるければいつどこで
ひったくりに会うかわからない、辻強盗にあうかわからない、
あるいは暴力団の争いや爆破事件にあうかわからない、といったような
さまざまな心配、不安が出てくるわけです。

こういう姿では、安心して外出することもできにくくなりますから、
お互いの日々の生活、活動というものは、なかなかスムーズに進まないように
なってしまうでしょう。

そういう意味からいって、共同生活の秩序を保つ、よりよい治安を保っていく
ということは、お互い一人ひとりにとってきわめて大切なことだと思われます。

したがって、お互いこの治安の大切さを十分に理解し、
よりよき秩序、治安を保ってゆくことができるよう、
つね日頃から十分に心がけてゆくことが大事だと思うのです。

けれども、お互いが素直な心というものをもっていない場合には、
その大切な治安というものが保たれにくくなってくるのではないでしょうか。

というのは、お互いが素直な心をもっていなければ、共同生活の秩序も
とかく乱れることが多くなり、事故や犯罪もふえて、治安が悪化しがちに
なってしまうと思うからです。

 
すなわち、素直な心がなければ、物事の実相を見ることができません。
したがって物事を判断する場合に、どうしても自分の利害とか立場などのみに
とらわれがちとなってしまいます。

そのために何が正しいのか、何をなすべきか、といったことがわからなくなり、
したがって正しいことに毅然として従うという姿も見られず、めいめいが
いわば自分勝手な考えをもって行動しがちになるのではないでしょうか。

つまりみんながバラバラで、自分の思い通りに行動しようとするわけですから、
共同生活全体の秩序というものが成り立ちにくくなってしまうわけです。

それはたとえば遵法の精神なり、約束事を守るという態度が失われる
という姿となってあらわれてくると思います。そ

して、各人が自分なりの考えとか欲望のみに基づいて物事を判断し、
行動していくことがますます多くなっていくでしょう。

しかもその判断や行動が自分では正しいと思い込んでいるわけですから、
互いに衝突して譲らないということにもなりかねません。

早い話が、交差点の信号が黄色になっても赤になっても自分の車は進むのだ
という人ばかりの社会であったら、どうなるでしょうか。

たちまちのうちに車と車が衝突し、互いに傷つき、
道路という道路は大混乱に陥るでしょう。そ

のように共同生活を律する約束事をお互いに守り合うという姿が全くなければ、
共同生活が無法状態に陥り、治安が乱れに乱れるということにもなりかねません。

            <感謝合掌 平成30年5月19日 頓首再拝>

素直が一番 - 伝統

2018/06/01 (Fri) 03:17:39


       *「光明道中記」(6月1日 素直第一の日)より

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

            <感謝合掌 平成30年6月1日 頓首再拝>

素直な心で、今ある天国を味わう - 伝統

2018/06/25 (Mon) 03:25:35

       *「光明法語」(6月25日)より

天国は満ちたる杯(さかずき)の如し


天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。

静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、
全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 平成30年6月25日 頓首再拝>

素直さに欠けると、意思疎通が不十分になる - 伝統

2018/07/10 (Tue) 02:44:23


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がなければ、率直にものを言うこともなく、
素直に耳も傾けないために、互いの意思疎通が不十分となりがちである》

ときおり、新聞などの報道でみる事件に、
両親に結婚を反対されたので思いあまって自殺したとか、
二人で心中したとかいった姿があります。

そしてそういう記事をみますと、そのご両親などの談話として、
「二人がそれほど思いつめていたとは知らなかった。
こんなことになるくらいなら、結婚を許してやればよかった」
といったようなことばがのせられていることが少なくないようです。

これは、まことにいたましい、気の毒な姿だと思います。
だからお互いに、こうした姿がおこってほしくはない、
ということをだれもが考えるだろうと思います。

ところが、実際にはくり返しおこっている、ということです。
いったいどうしてこういった姿がおこるのでしょうか。

考え方はいろいろあるでしょう。
が、やはり一つには、そこに素直な心というものが働いていなかった、
ということもそういう姿のおこる原因の一つではないでしょうか。

というのは、お互いが素直な心をもっていない場合には、
往々にして互いの意思疎通が不十分になってしまうと思うからです。

つまり、お互いが素直な心をもっていなければ、
いろいろなことにとらわれたり、こだわったりして、
とかく率直にものが言えないといった姿にも陥りかねません。

また聞く側にしても、自分なりの先入観や考えにとらわれがちとなって、
相手の言うことを素直にありのままに聞くといった態度を
見失いがちとなるでしょう。

ですから、そこにとかく十分な意思疎通を欠く
といった姿もあらわれてくるわけです。

たとえば初めにあげた例でいえば、子は子なりに、
「親たちはいくら言ってもどうせ理解はしてくれない。
子の気持ちなど親にはわからないんだ。もういい、死んでやるから……」
というように考えて、親の気持ちを理解しようとはせずに行動に走ってしまった、
ということかもしれません。

また親の方は親の方で、
「まだ若くて生活力も十分にないうちに結婚すれば、
必ず本人たち自身が苦労して、ゆきづまってしまうだろう。
だから、今、二人が結婚することには反対だ。
この親心がなぜ二人にはわからないんだろう……」

という考えにとらわれて、
本人たちの真剣さには十分考えが及ばなかったのかもしれません。

しかし互いに素直な心があれば、少なくとも意思疎通がわるいための
悲劇というものは、さけられるのではないでしょうか。

けれども素直な心というものがない場合には、
そうした意思疎通もとかく不十分となって、
そこにさまざまの好ましからざる姿をもたらしかねないわけです。

そしてそれは、単に家庭内の問題に限らず、
会社などでも、また社会、国家といった大きな集団においても、
およそ共同生活というものにおいて同じようなことがいえるのではないでしょうか。

つまり共同生活にお互いの意思疎通が十分でないと、
相手を理解しあうということも十分でなく、
また、お互いに疑いをもったり不信感を抱いたりして、
いろいろと好ましくない姿が生じてくることにもなりかねない、というわけです。

        <感謝合掌 平成30年7月10日 頓首再拝>

素直さに欠けると、独善に陥りやすい - 伝統

2018/07/23 (Mon) 03:29:58


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がない場合には、自分の考えにとらわれ、視野もせまくなって、
 往々にして独善の姿に陥りかねない》

お互い人間というものは、つねにあやまちなく物を考え、行なっているかというと、
神様ではありませんから、なかなかそうもいかないようです。

たとえ自分ではまちがいない、 正しいと思い込んでいたとしても、
客観的にみれば、ずいぶん道を外れ、あやまった姿に陥っていた
というような場合が少なくないと思われます。


ところが問題は、そのあやまちを自分自身ではなかなか気づかない、
気づくことができにくい、ということです。

気づかないどころか、むしろまちがいない、これが正しいのだ、
と決め込んでいる場合が少なくないわけです。
これはまことに困った姿です。


というのは、そういう姿では、もし仮に他の人びとからそのまちがいを
指摘されたとしても、それを素直に受け入れることは少なく、
往々にして、それをいわば非難や中傷であるかのごとく受けとりかねない、
というおそれがあるからです。

しかし、こうした独善の姿に陥ってしまったのでは、
自分がまちがいを犯しているうえに、さらに他との摩擦、トラブルなどの
好ましからざる姿をもたらしかねません。

 
それではなぜこうした独善の姿が生じてくるのかというと、
もちろん見方、考え方はいろいろあると思います

。けれども、こうした好ましからざる態度、姿というものは、
やはりお互いに素直な心が働いていないところから生ずる場合が
多いのではないかと思われます。

というのは、素直な心が働いていない場合には、
やはりどうしても自分の考えのみにとらわれてしまい、
それのみが正しいというように思い込みやすくなるのではないかと思うからです。

 
そうした姿の例としては、例えばあのナチスドイツの
ヒットラーがあげられるのではないでしょうか。
ヒットラーは私心にとらわれ、独善に陥り、大戦争をひきおこして
、幾多の尊い人命を損ない、膨大な物資を破壊しつくすといった
好ましからざる姿をもたらしました。

また、今日、一つの主義思想を是として、それを尊ぶあまりに絶対視し、
それ以外のものはみなまちがっているのだ、
という考えに陥っている傾向も一部にみられるようです。

が、こうした姿というものも、やはり素直な心のないところから
おこる独善の姿の一つではないかと思われます。

というのは、もし素直な心が働いていたならば、
広い視野がひらけ、あらゆる角度から、物事を見、考えることができますから、
ただ一つの主義思想にとらわれるといった姿に陥ることもなく、
あらゆる主義思想のそれぞれの長所というか、
それに含まれている真理を見出すこともできやすくなるでしょう。

したがってそこには、百の思想を百とも生かすといったような、
まことに好ましい姿ももたらされてくると思います。そ

してそういう姿からは、いってみれば百の思想の百の真理がすべて生かされ、
それによって、諸事万般にわたってのよりよき姿、一層の幸せの姿、
お互い人間の共同生活の向上というものももたらされてくるのではないでしょうか。

        <感謝合掌 平成30年7月23日 頓首再拝>

素直さに欠けると、生産性が低下する - 伝統

2018/08/09 (Thu) 04:31:26


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《 素直な心がない場合には、いろいろな無駄や非能率が多くなって
  生産性というものが低下するようになる 》


お互い人間のそれぞれの活動がスムーズに進められ、
その努力にふさわしい成果が得られるところから、
この世の中はしだいにみのりゆたかな姿をあらわし、
共同生活の向上という好ましい姿ももたらされてくると思います。

そしてそれは、ことばをかえていうならば、いわゆる生産性の高いところから
世の繁栄発展がスムーズにもたらされ、お互いのよりよき共同生活というものも
実現してくる、ということではないかと思われます。

だから、この社会の各面各分野において、それぞれなりの生産性の向上を
生み出していくということが、きわめてのぞましく、大切なことではないか
と思います。

けれども、お互いが素直な心をもっていない場合には、
人それぞれの活動や共同生活の営みの上にいろいろとムダや非能率な姿が多くなり、
そういう生産性の向上というものは得がたくなるというか、
むしろ逆に生産性の低下といった好ましくない姿も生じてくるのではないでしょうか。

 
なぜ、素直な心がないとムダや非能率がふえてくるのか。

これは一つには、素直な心がない場合には、お互いに調和する心、
ゆずりあう心といったものが低調になるからではないでしょうか。

調和する心が十分にあれば、たとえ多少考え方のちがいなどがあったとしても、
それをことさらに問題として互いに非難したり争ったりするようなことはさけて、
ちがいはちがいとみとめつつ、和やかに物事を進めていくといった姿にもなるでしょう。

したがって、衆知もあつまり、また、ムダも少なく非能率な姿も少なくなると思います。

ところが、反対に、調和する心がうすければ、ちょっとしたちがいであっても、
それをことさら問題にして、いろいろなトラブルがおこることにもなるでしょう。

そういう姿からは、いろいろとムダも生まれ、
非能率にも結びついていくのではないでしょうか。

しかも、素直な心がなければ、それぞれが自分の立場とか
利害得失にとらわれがちになるでしょう。
そうすると、やはりどうしても相手に対する配慮もうすくなってしまいます。

それで、相手に譲るべき場合でも譲らないとか、許すべきであるのに許さないとか、
守るべき約束を守らないとか、あるいはまた何かにつけてとがめだてするとか、
疑いの目でみたりするとかいった姿にも陥りかねません。

こういうギクシャクした姿になった場合には、たとえば交渉ひとつするにしても、
必要以上に説明や釈明をしなければならないというようなことになって、
ムダや非能率に結びつき、往々にして生産性の低下ということを招きかねない
のではないかと思われます。

まして、問題などがこじれてケンカになったり裁判沙汰にでもなれば、
生産性の低下は一層その度合を深めることになってしまうのではないでしょうか。

このようなことを考えてみても、素直な心がない場合には、
ムダな時間や費用が多くかかり、またいらざることに心を労し、
頭をつかうなどして、生産性が非常に低下するのではないかと思うのです。

        <感謝合掌 平成30年8月9日 頓首再拝>

素直に笑い、無邪気に受け入れる - 伝統

2018/08/17 (Fri) 04:25:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月17日)より

家庭光明寮は婚前の処女に花嫁としてのあらゆる資格を与えるために訓練する学校であるが、
ある時、その中に一度結婚して、姑との折合いが悪くてついに離婚になった美しい娘が、
もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、他の寮生とが全然
異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。

それは彼女自身が間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、箸の転んだのにまでも
愉快そうに笑うのが低級に見えて皆さんと合わない」と申し出たことによって
ハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと無邪気に受け容れる性質を
持っていなかったのであったのである。

素直に笑う事ができないものは
「笑う門に福運来たる」の法則にすでに背いているのである。
その上、まだ素直に笑っている少女たちを低級だとか何だとか非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。
だれでも低級だと見られて喜んで、その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

価値に「なぜ?」という理窟づけをしたときに、
その人はもう知恵の樹の実を食べたイブになったのである。
そして彼女は永遠にエデンの楽園から追い出されねばならないのである。
彼女が離縁になったのも無理はない。

価値は、理窟なしに価値なのである。

         <感謝合掌 平成30年8月17日 頓首再拝>

素直な心を養うための実践10ヵ条~その1( つよく願う) - 伝統

2018/09/14 (Fri) 04:10:32


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《 素直な心を養うためには、まず素直な心になりたいという
  つよい願いをもち続けることが必要である 》

お互いが素直な心を養おうとする場合には、
やはりなんといってもまずはじめに、素直な心になりたい、
というつよい願いをもつことが必要だと思います。

もちろん、素直な心になればなかなかよさそうだから、
素直な心になれればいいなあ、と思うけれでも、
少しは素直な心に近づくかもしれません。

けれども、やはりその程度では
十分に素直な心を高めていくことはむつかしいでしょう。

やはり何事においても、よりよきものを生み出そうとか、
事をなそうといった場合には、そこにそれなりの志というものをしっかりもって、
つよく願い、のぞむことが必要だと思います。

一枚の絵を描くにしても、まあ適当に描けばそれでよいなどと考えていたのでは、
ある程度のものはできても、それほどすぐれた作品は生まれないでしょう。

それに対して、自分は一生のうちでも最高の作品を描き上げるのだ、
ぜひ快心の作をものにしたい、といったつよい願いをもっていたならば、
やはりそれにふさわしいものが生まれてきやすいでしょう。

もちろん、つよい願いをもつといっても、
心の中にそういうものをもっておりさえすればよい、
それでよい結果が自然に生まれてくる、というわけにはいかないだろうと思います。

やはりつよい願いを心にもったならば、
それは実際に自分の態度や行動となってあらわれてくると思います。

いいかえれば、その願いを実現するために
身も心もそれに打ち込むようになってくると思うのです。

だから、会心の作をものにしたいと願うのであれば、
たとえば自分の腕を徹底的に磨き直すというようなこともするでしょう。
また、他の多くのすぐれた作品を見て真剣に学ぶことにもつとめるでしょう。

そして自分なりに日夜いろいろと構想をねったり、
さまざまな工夫をこらしたりもするでしょう。

さらには、雑念をはなれるとか、いわば寝食を忘れて作品の製作に没頭する
というような真剣な態度も出てくるのではないかと思います。

そういう打ち込んだ態度を保っていくところから、
はじめて魂のこもった立派な作品も実際に生まれてくるのではないでしょうか。

こういうことは、単に絵を描く場合だけに限らず、
他の多くの場合にもあてはまるのではないかと思いますが、

お互いが素直な心になろうとする場合においても、
やはりまず素直な心になりたい、というつよい願いをもつことから
はじめなければならないと思うのです。

もちろん、そういうつよい願いというものは、
はじめの一時期だけもっていればいいというものではありません。

つまり、一度だけつよく願ったから、あとはひとりでに素直な心に近づいていく、
というわけではないと思います。やはりつねにというか、
たえずというか忘れることなくその願いをもちつづけてゆくことが必要だと思います。

         <感謝合掌 平成30年9月14日 頓首再拝>

素直に飛びつく者は愛される - 伝統

2019/02/14 (Thu) 04:58:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

            <感謝合掌 平成31年2月14日 頓首再拝>

【知らないことを否定せず、素直になること】 - 伝統

2019/03/09 (Sat) 04:19:24


   *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年11月05日)より

   (佐藤芳直氏の心に響く言葉より…)

   《知らないことを否定せず、素直になることだ。
    無駄なことなど一つもないのだから。》


   「一番程度が悪いのはね、知らないことを否定してしまうことだよ」

   笑顔ではあるが、明らかに怒気を含んだひと言でした。

   輪廻転生の話が、若手社員に語られていたとき、誰かが笑いながら首をかしげた。

   そのときのひと言だったのです。


   舩井幸雄先生が、人は生まれ変わるという一つの哲学に至ったきっかけは、
   先の奥様が29歳で若くして急死したことでした。

   後には、乳飲み子が残されました。

   寒い季節、朝見送ってくれた奥様が、夕方には亡くなっている。

   そんな悲しい経験。


   水屋には、いつまでもお昼に用意していた食事が残っている。

   葬儀の後、その水屋を見ながら先生は考えたと言います。

   「人はなぜ生まれてきて、なぜ死んでゆくのか?
   生まれてきた理由は何か? そして死にゆく理由は何か? 」


   それから先生は、ただ一途に人間の生まれる理由、
   そして死んでからどうなるのかを探求するのです。

   スウェーデンボルグ、
   イアン・スティヴンソン『前世を記憶する20人の子供』、
   エドガー・ケイシー。

   さまざまな探求のなかで、先生は、一つの結論に至ります。

   「ほとんどの人は死ぬと、また人に生まれ変わると思われる。
   そのように現在の地球上の構造やルールはなっているからだ」


   舩井先生が1980年以降、『包みこみの発想』という名著以降、
   生まれ変わりについて講演で話したり、著書で書いたりすると、
   社内ですらオカルト呼ばわりする人間が出てきました。

   そのときも、そうでした。

   「確かに死んだことがないし、前世の記憶もふつう我々にはない。
   生まれ変わりがあるかもしれないし、ないかもしれない。
   しかし、知らないこと、わからないことを、はじめから否定はしないことだよ」

   とても穏やかに語る舩井先生の言葉を聞きながら、
   先生のつくった“成功の三条件”の意味を教えられたように思えたのです。


   一 勉強好き

   二 プラス発想

   三 素直


   成功する人間に共通するこの三条件を、成功の三条件と言います。

   舩井総合研究所の社屋の入口には、この三条件が、舩井先生の自筆で刻み込まれています。

   私にとっても、いや、舩井幸雄先生と接したことがある人間なら、
   すべて心の財産としている三条件でしょう。


   勉強好き。

   それは知らないことを知ろうとすることです。

   知らないことを知ろうとすること、それは人間の成長の原動力ともいえます。

   老人とは、その知的好奇心を失ってしまった人間を指すのです。


   プラス発想。

   人間はできない理由を100でも200でも並べることができます。

   しかし、できない理由をいくつ並べても、何も変わりません。

   できる方法を見つけるのです。

   コップ半分の水を、もう半分しかないととるか、まだ半分あるととるか…。

   人生は、そこで大きく変わるものです。

 

   素直とは、何でしょうか。

   よいと思ったことを、すぐに取り入れること。

   悪いと思ったことをすぐにやめることです。

   それは、知らないことを決して否定しないことです。

   知らないことを否定した瞬間、
   その先にあるかもしれない気づきも、感動も失われてしまいます。

   人間は知らないことを恐れて、自ら道を閉ざしてしまう人と、
   知らないことに感動し、その道の奥を覗きたい!と思う
   二つのタイプに分けられます。


   舩井先生は明らかに後者です。

   だからわかるのでしょう。

   「世の中に無駄なことなど一つもない。
   だから知らないことを否定しても、よいことは一つもないじゃないか」と。


   よく思うのですが、人の一生は思いのほか短いものです。

   その一生のなかで懸命に生きて何かを残そうとします。

   人間は何を残せるのでしょう。

   それは自分の生き様そのものだと思います。

   今生で永遠の生命を望む者はいないでしょう。

   だからこそ、永遠に語り継いでほしい、
   あるいは子や孫に覚えておいてほしい生き様を刻もうとします。

   資産や財産を残すこと以上に、自らの生き様を残そうとする思い。

   そこに、人間の切実さがあります。


   「そうだよ。生き様だけが多くの人の勇気となり、人を惹(ひ)きつけるんだ」

   舩井先生はそう言ってくれました。

   とすれば、人の記憶に残る生き様を残そうと、
   人間性を磨き成長させ、今世の役割を果たすことこそが、
   生まれてきた目的だと思うのです。

   よりよい、より尊い魂として、この短い人生で叶えられる自己の成長、
   その成長は、次の世、そして次の世へと引き継がれなければなりません。

   過去における行いが、現在における幸不幸を決め、
   現在の行いに応じて未来の幸不幸が決まるというルール。

   そのルールは、果てしなき時の流れのなかで人間が築いてきた一つの価値観です。


   いまの私たちの生は、いまだ未熟な魂を教育するためにあると考えます。

   だからこそ、今生という時間を味方にして、
   私たちはプラス発想で学び続けなければならないと思うのです。

          <『舩井幸雄の60の言葉』マガジンハウス>

               ・・・

目に見えないことや自分の知らないことをすぐに否定する人がいる。

これは老若男女問わず一定数存在する。

それが、素直でない人。


松下幸之助氏は「素直」についてこう語っている。

『素直な心とは、寛容にして私心なき心、
広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります』

分を楽しむとは、置かれた場所で、花を咲かせるということ。


素直な人は、文句や愚痴や不平不満を言わず、何事も否定しない。

肯定的な心からしか、感動や、驚きや、パワーは生まれない。


勉強好きで、プラス発想で、素直な人をめざしたい。

            <感謝合掌 平成31年3月9日 頓首再拝>

【素直になれたら】 - 伝統

2019/04/02 (Tue) 04:18:35


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年03月31日)より

   (修養団・元伊勢道場長、中山靖雄氏の心に響く言葉より…)

   修養団で三泊四日の研修を終えられた最後の日に、
   「帰ったら弟にごめんなさいってお詫びをしたいと思います」
   と言ってくださった方がおられました。

   「私の弟は耳が聞こえません。
   そしてしゃべることができません。

   その弟と、おふくろと私と三人暮らしなんです。
   親父が早く死んで、私が父親代わりで今まできました。

   おふくろや弟を大事にしてやらなきゃいけないってことは、
   いやというほどわかっていましたが、なかなかできませんでした。

   今はおふくろに、
   『母ちゃんは弟のことが心配なんだろう?俺に安心して任せておきなさい』
   って言いたい気持ちがしています。

   だけど、家に帰っておふくろの顔を見たら、
   照れくさくてとうていそんなことは言えないような気がします。

   ただ今日は家に帰って、弟を一回抱きしめて、
   言っても聞こえませんが、今までごめんって、お詫びをしたいと思います」


   そう言われたのです。

   それを聞いて、

   「明日の朝、電話を入れるから話を聞かせてね。
   絶対嘘つきにならんといてね」と言って別れました。

   翌日、電話を入れると、私からの電話を待っていてくださったようでした。

   「先生、やれました」そうおっしゃいました。

   「ただいま」と帰ったら、弟が部屋にいた。

   「謝ろう」と思ったのに、なんとなく体が動かない。

   お兄ちゃんがいない間は、鬼のいぬ間でのびのびしていた弟も、
   お兄ちゃんが帰ってくたから、また「やられる」と思ったのでしょう。

   気配を察して、弟が慌てて遊び道具を片付けて、
   外に遊びに出かけようとしたのだそうです。

   その時、弟の後ろ姿にだったから言えたのかもしれないけど、
   「今までゴメンだったね」と言えたというのです。

   今まで弟のせいで、自分がいじめられることもあり、
   心の底では悪いなと思いながらも、
   やり場のない思いを幼い弟にぶつけてしまっていた。

   言葉で抵抗できない、ものを言えない弟をいじめていたのだ、というのです。

   それをお母さんはずっと見ていて、知ってはいても、
   お母さんもお兄ちゃんのつらい気持ちを思うと叱ることもできず、
   そんな兄を見守るしかなかったという家庭だったといいます。

   弟に申し訳なかったと思っている今の気持ちを、
   なんとかわからせたいと思い、外へ飛び出した弟を追いかけた。

   すると、弟が必死に走って逃げだすのです。

   「逃げんでもいいぞ」と言っても、弟には聞こえない。

   いくつめかの信号でやっと襟首を捕まえたのですが、
   逃げようとして七転八倒します。


   なんとか、今の気持ちをわからせたいと思うけど、どうにもならない。

   しかたがないから、襟首をぐっと引きずり寄せて、
   回れ右させてて、自分の体に押さえつけるように抱き寄せながら、
   「ごめんね、ごめんね」って、体をさすってみたのだそうです。

   もがいていた弟も、いつもならボカボカってやられるのに変だな、
   と思ったのか、ほっと顔を上げたのだそうです。

   その弟のなんとも言えない恐々とした表情を見た瞬間、
   あふれるものを止めることができなかったといいます。

   その流れだす涙が弟の顔にもポトリポトリと当たって、弟にも何かが伝わった。


   「先生、あいつが、何をやってくれたと思う?
   俺の首ったまに、パッとぶら下がって、『あ~っ』って、
   声にならん声を一生懸命搾(しぼ)り出そうとするんだ。

   もし、ものが言えたら
   『にいちゃん、こんな嬉しいことはないよ、ありがとう』
   と言いたいんだろうなって思ったら、もうたまらなくて、

   みんながいる往来で『ごめんな、ごめんな』の繰り返しでした」
   とおっしゃいました。

   それから一緒に家に帰って、お風呂に入って、ご飯食べて、
   お母さんが布団を並べて敷いてくれたそうです。

   いつもは必ず、布団を離して隅に持っていこうとする弟が、
   その日は並んだ布団にすぽっと入って、すやすやと寝ている。

   「言うても聞こえんし、寝てるし、わからんと思ったけど、布団の上から
   『今までゴメンだったね、ゴメンだったね』って、
   もう一度、お詫びをさせてもらいました。

   こんな思いが、いつまで続くかわからんけど、精一杯大事にしてやりたいなぁ。

   そんな気持ちでいっぱいなんです」とおっしゃいました。


   みなさん、いろんな条件があるでしょう。

   それぞれの条件の中で、今を喜びに変えながら生きていくこと。

   それが、世界を清めていくのです。


   さまざまな条件の中、素直になれなかったその方も、
   初めてその人本来の本性(ほんせい)に立ち戻ったのですね。

   そこに気づかなかったら、
   勝手な思いのままの性(しょう)でいってしまいます。

   しかし、どんな人も、出来事を良し悪しにせず、
   その条件の中で喜びに出会うご縁をいただいているのだと
   気がつきさえすれば、本性に立ちかえることができるのです。


   人の本性はみな優しいのですから。

   本性に立ちかえると、自分の心が安らげます。

   大きな祈りの中で過ごせるものを、
   みんな生まれながらにして持っているのです。

      <『すべては今のためにあったこと』海竜社>

            ・・・

禅の名僧、良寛さんにこんな逸話がある。

『良寛さんに馬之助という甥(おい)っ子がいた。
馬之助があまりに放蕩三昧なので、
良寛さんは周囲から、説教をしてくれるように頼まれた。

しかし、何日たっても、良寛さんは何も言わない。

とうとう、四、五日たってしまい、帰ることとなった。

良寛さんが、出かけようと玄関に腰掛けたが、
わらじの紐(ひも)がうまく結べず、馬之助に結んでくれるよう頼んだ。

わらじを結んでいる馬之助の首筋に、何か冷たいものが落ちてきた。
びっくりして見上げると、良寛さんの目には大粒の涙があった。

その姿を見て、馬之助はすっかり改心したという』


涙には、言葉以上の真実がある。

あふれ出す涙は、人の心をふるわせる。


涙が出るときは、自分が素直になれたとき。

素直でないときは、人を疑ったり、冷たくしたり、すねたり、
意地悪したり、謝れなかったり…。


素直な気持ちになれたら、人にやさしくできる。

            <感謝合掌 平成31年4月2日 頓首再拝>

【いくつになっても無邪気な童心をもち続ける】 - 伝統

2019/04/21 (Sun) 03:53:00


       *メルマガ「人の心に灯をともす」( 2019年04月12日)より

   (人生相談家、喜楽氏の心に響く言葉より…)

   童心とは邪気のない子どもの心です。
   トトロや座敷童子が見える、素直な心です。

   私たちはみな、この無邪気な心をもっていました。

   しかし、大人になるにしたがって、ずるさや駆け引きなどを覚えます。

   それがいつしか我欲となり、心に邪気が入り、
   心の目を曇らせているのではないでしょうか。

   私は、今までに多くの成功者に会ってきました。

   その中でも特に「この人は本物だ」と思える人には、ある共通点があります。

   それは、“邪気がない”ということです。


   邪気があっても成功している人は、私のまわりにもたくさんいます。

   ある意味、その邪気をパワーの源にしているフシさえ感じます。

   ただこういう人は、その邪気に自分もやられてしまうため、
   つねになにがしかの問題や悩みを抱えています。


   逆に、私が「この人は本物だ」と思う成功者に会うと、いつも楽しそうです。

   まわりの人に分け隔てがなく、だれに会っても態度を変えることがありません。

   だれに対しても、そして、なにをするときでも無邪気なのです。


   ときに童心に返り、無邪気さを取り戻すのは必要なことです。

   そこで私がお勧めしているのは、
   田舎がある人は、そこでお墓参りをしたり、祖父母や親に会って
   自分の子どものころの話を聞き、無邪気なころの自分を思い出し、
   その心と向き合ってみることです。

   そのころの楽しい思い出を思い返しながら、
   そのころの自分からメッセージを受けとったり、
   インスピレーションを感じ取るのです。


   もし、あなたが都会育ちで田舎もないのだとしたら、
   自分が生まれ育った地元の産土(うぶすな)神社に行って、
   これまで生かされてきたことに感謝を述べてください。

   さらに境内で落ち着ける場所があるなら、
   そこで自分の子どものころを思い返してみましょう。

   きっと同じようなインスピレーションが得られるはずです。


   神社のお祭りに参加するのもオススメです。

   お祭りは神様に感謝するための行事であり、
   お祭りに参加することは邪気を祓(はら)い、
   楽しい気持ちになって童心に返る効果もあります。

   いくつになっても無邪気な童心をもち続けることは大切なことです。

   心のゆとりにもつながりますから、ぜひ、ためしてみてください。

       <『全感謝する練習』サンマーク出版>

             ・・・

行徳哲男氏の「おさなごころ」についての一文がある。(感奮語録)より

『四国・宇和島に蓮華寺という寺がある。
その山門には「人間にとって最も大切なもの、それは童心を忘れないこと、
童心とは神に最も近く接する姿である」と書いてあった。
子ども心に近づくほど神様と一緒になれるというのである。なんと素敵なことだろうか。』


『明治天皇の御製の中に
「すなほなる をさな心を いつとなく 忘れはつるが惜しくもあるかな」とある。
何が惜しいと言って、子どもっぽさを失うことほど惜しいことはない。』


『アメリカの詩人ワーズワースは
「大人になっても虹を見て心が躍る自分が一番うれしい」と。』


『人間的に魅力があると思われる人はどこか子どもっぽさ、あどけなさをもっている。
また、それは長寿の秘訣でもある。』


大人になっても、子どもっぽさを忘れない魅力ある人の顔には険(けん)がない。

反対に、素直さのない人すなわち、
斜に構えたり、偏屈だったり、ひねくれた人の顔には、険がある。

険のある人は、トゲトゲしかったり、なんとなく攻撃的だったり、
愛嬌のない人でもある。


いくつになっても無邪気な童心をもち続ける人でありたい。

            <感謝合掌 平成31年4月21日 頓首再拝>

素直であること - 伝統

2019/05/09 (Thu) 04:12:05


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年04月22日)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   《自分の人生を生きる上で、
    いじけたり、悩んだりしているヒマはないってことでしょうか?》


   まさにそうだよ。

   だから、「ああ、この考えは間違いだったんだ」と気づいたら、素直に直す。

   いい人だと思ってつき合ったり、素直にその人の言うことを聞いていたら、
   あとから違うとわかる場合もあるんだよ。

   気づいたのなら素直にやめればいいんだよ。


   素直な気持ちに従って出した答えって、その時は最高の答えなの。


   だけど、もっと経験を積んで学んでいくと、
   もっといい答えが出る時だってあるんだよ。

   そうしたら、また素直に改めればいいの。

   いちいち、あの時はこうだったしな、とか言っているなんて、
   学ぶ時間がもったいないからね。

   あいつは嫌な嫌なやつだってわかったら、離れればいいの。

   その離れ方にしても、文句を言いながら離れるより、
   「学ばせてくれてありがとう」って、感謝できて離れられれば一番だけど、

   すぐにそうできないのなら、そんなスマートな離れ方ができる日まで
   自分の心に素直でいるよう心がけて、
   いつかスッと離れられるようにすればいいの。


   人って、成長しているから、学んでいくと答えも変わってくるんだよ。

   それも少しずつ少しずつ良くなっていくの。

   だから、素直に自分の思ったことに耳を傾けてください。


   それを一旦言っちゃったことだからとか、
   あれこれ考えるからおかしくなっちゃうの。

   みんながいい人と言ったって、自分にとって嫌な人なら、それでいいんだよ。


   もっと、自分のことを信じて、自分の気持ちも素直に聞くんだよ。


   自分の気持ちに耳を傾けていると、
   素直ってことがどういうことかがわかってくるものなの。

   素直さがわかるようになると、
   この人の言うことなら素直に聞いた方がいいとか、
   この人の言っていることは素直に聞いちゃいけないってことがわかってくるの。

   最初からうまくいくことってないよ。

   でも自分の気持ちに素直になっていれば、
   直観でわかるようになってくるんだよね。


   だから、ほんの少しでいいから、自分の本心を素直に聞いてごらん。

   何が好きで、何が嫌いとか。

   どんなことが楽しくて、どんなことにイライラしてしまうとか。

   どんな人が好きで、どんなところに行きたくて、夢や希望は何なのかとかね。


   何だっていいの。

   自分の気持ちに素直になると、とにかく楽しいんだよ。

   一人さんは、いつも自分に対して素直に生きているんです。

   だから毎日が楽しい。


   みなさんも、きっと楽しくなるから、
   少しだけで構わないので「自分に素直」になってみてください。

         <『「素直さ」こそ最強の武器である』秀和システム>

           ・・・

経営の神様といわれた松下幸之助は、「素直さ」についてこう語っている。

『ほんとうの素直とは、
自然の理法に対して、すなわち本来の正しさに対して素直であると、そういうことやな』

本当の素直さとは、人の言うことに対して、何でも「ハイハイ」ということを聞くことでも、
無邪気にまるごと受け入れることでもない。

天地自然の理(ことわり)や道理、あるいは法則に対して素直なこと。

人は、学んだり経験することにより自分のレベルが上がってくるが、
そのレベルに従って、今まで受け入れられなかったことも、
受け入れられるようになったりする。

それが本当の意味での素直さ。


また、相田みつを氏はそれをこう語っている。(にんげんだもの・角川文庫)より

『そのむかし 道元禅師という方が、
宗の国に渡り修行をされて得てきたものはただひとつ、柔軟心であったといいます。

柔軟心とは やわらかいこころのことです。

何物にも引っかからない素直な心のことです。

きれいな花を見たらきれいだなぁ…と素直に感ずる心のことです。

きゅうりにはきゅうりの良さを認め、なすにはなすの良さを認める心です。

たとえけんかをした相手のことでも、
良いところは良いと認める大らかな心のことです。

そして、おかしい時には腹の底から笑い、
泣きたい時には全身で泣く、それが柔軟心です。

心がやわらかいから素直に笑えるのです。

心がやわらかいから素直に泣けるのです。

心がやわらかいのは、心が若いことです。

柔軟心を持ちましょう。

いつまでも心の若さを保つために…』


いつまでも若くあるため、素直な心を持ち続けたい。

            <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>

《神の遺産を素直に受け取りましょう》 - 伝統

2019/05/31 (Fri) 04:18:05


           *「真理」第9巻(P96~97)より

幸福、平和、調和、健康は神が神の子たる人間に約束されたる賜物であります。
神を抜きにしてそれらのものは決して与えられないのであります。

悲しみや、憤(いか)りや、呪いや、嫉妬や、争いや、不安や、恐怖は、
神が人間に与えたもうたものではないのであって、

人間が神に叛(そむ)き、神の与えられたる積極的な恵みを
自ら受け取らないことによるマイナス状態に過ぎないのです。

人間は神の子として神の与え給うた全ての祝福を受け取る権利を
持っているのでありますが、それは恰も吾々人間社会に於いても、
親の財産を継承する自由もあるが、その権利を放棄する自由もある
のに似ているのであります。

病気や貧乏は神からの遺産ではなく、
神の遺産を継承しない結果おこる状態であります。

この不継承の消極(マイナス)的状態は
私たちが神の遺産(既にある完全なる実相)を素直に継承し始めるに従って
消滅し始めるのであります。

            <感謝合掌 令和元年5月31日 頓首再拝>

素直な心を養うための実践10ヵ条~その2( 自己観照) - 伝統

2019/06/24 (Mon) 03:44:24


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《 素直な心を養うためには、たえず自己観照を心がけ、
  自分自身を客観的に観察し、正すべきを正してゆくことが大切である 》

“我執”ということばがありますが、お互い人間は、意識しないまでも、
つい自分自身にとらわれるというか、自分で自分がしていることを
正しく評価できないことが多いのではないでしょうか。

もちろん、人はよく「自分のことは自分が一番知っている」といいます。
たしかに自分の思いは、他人にはうかがいしれない場合が多いのですから、
他人よりも自分のほうがよく知っているはずです。

しかし、自分の考えや行ないが果たして独善でなく、
道理にかなっているのかどうか、社会的に正しいことかどうか、
人情の機微に適したものかどうかを評価する段になると、
これはまた別だと思うのです。

むしろその点については、他人のほうがよく知っている場合が少なくないでしょう。
それはやはり、人間というものは、どうしても知らず知らずのうちに自分中心に、
あるいは自己本位にものごとを考えがちになって、
他人からみたらずいぶんおかしいことでも、一生懸命に考え、
それを正しいと信じている場合が多いからではないでしょうか。

もしそのように、自分自身にとらわれた自己本位の考え方を押し通そうとしたら、
やはり物事が円滑に運ばないでしょう。

他人が傷つくか、あるいは自分が傷つくかするでしょうし、
ましてその考えが社会正義なり共同の幸せに反することならば、
やがては自分の身を滅ぼしてしまうことにもなりかねません。

しかもその人が、社会の指導的な地位に立っていたならば、
単に自分を滅ぼすだけでなく、指導される人びと全体を誤らせてしまう
ことにもなってきます。

かつてのヒットラーやムッソリー二、あるいは日本の軍部指導者のなかにも、
こうした傾向が一部あったことは否定できないと思うのです。

つまりそういう人たちは、自分の考えを絶対に正しいと信じこんで、
知らず知らずのうちに自己本位の勝手な考えなり行動に陥っていることに
気づかなかった。

それが自分だけでなく周囲の多くの人びと、あるいは国全体を迷わせ、
そこに多大の損失と不幸を招くことになってしまったのだといえましょう。

こうした経験は、お互いに多少とももっているのではないかと思いますが、
それではどうすれば自分自身にとらわれない素直な心になれるのかといえば、
その一つとして「自己観照」を心がけたらどうかと思います。

これは、いわば自分の心をいったん外に出して、
その出した心で自分自身を眺め返してみる、
つまり客観的に自分で自分を観察することを心がけたらどうかということです。

昔から“山に入る者は山を見ず”とか言いますが、
山の本当の姿は、あまり山の中に入りすぎるとわからなくなってしまいます。

山の中にはいろいろな草木もあれば、石ころもある。
それらも山の一部ですが、しかしそれだけが山の姿ではありません。

山の全貌を正しく知るには、やはりいったん山から離れて、
外から山を見るということもしなければならないと思うのです。

            <感謝合掌 令和元年6月24日 頓首再拝>

素直な心を養うための実践10ヵ条~その3( 日々の反省) - 伝統

2019/07/13 (Sat) 04:20:05


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《 素直な心を養うためには、毎日、自分の行ないを反省して、
  改めるべきは改めてゆくよう心がけることが大切である 》

私たちが、何か物事を行ない、それに成功していくために大切なことの一つとして、
反省ということがあげられると思います。

こういうことをしてみたいと考えて、それをやってみる。
そうすると、うまくいくこともあるでしょうし、そうでないときもあると思います。

うまくいったらうまくいったで、どうしてうまくいったかを考えてみる。
うまくいかなければ、どこにうまくいかない原因があったかを考えてみる。

そのような反省をしては、その結果を次のときに生かして、
失敗をより少なくし、よりうまくいくようにしていくことが大切だと思います。

そういう反省なしに、ただ何となくやっていたのでは、
同じ失敗をくり返したり、なかなかうまくいかないということになると思うのです。

 
昔の中国の名言に「治にいて乱を忘れず」ということばがあります。
これはつまり、おだやかで平和な満ち足りた状態にあるからといって
安心しきって油断してはいけない、いつまた情勢が変わって
危機に陥るかもしれないのだから、つねにそれに備えて心をひきしめておくことが
肝要である、というようなことをいっているのだと思います。

たしかに、そういった油断のない態度、心がけというものを保っていくならば、
個人としてもまた団体としても国家としても、
つねにあぶな気のない姿を保持していくこともできるのではないかと思います。

そして、こういう名言がどうして生まれたのかを考えてみますと、
考え方はいろいろあるでしょうが、一つにはやはり過去をふり返って
十分に反省をしたところから生まれてきたとも考えられると思います。

すなわち、個人でも団体でも、国家の場合でも、事がおこってゆきづまるとか、
危機に直面してそれに打ち負かされてしまったとかいうような姿を
くり返しているわけです。

そこで、なぜそういう姿がおこるのかを深く反省したところ、
しばらく好調な姿が続いたのでそれになれてしまい、なすべき努力を怠り、
必要な心くばりを忘れてしまっていた。

その結果、時代の流れ、情勢の変化に相応ずることができないほど、
みずからの力が弱まっていた。それでゆきづまってしまったのだ、
というようなことがわかったわけでしょう。

そういう反省から、「治にいて乱を忘れず」という名言も
生まれてきたのではないかと思いますが、そのように反省というものは、
みずからのあやまちを防ぎ、よりよき明日を迎えるためにきわめて
大切なことだと思うのです。

だからそういう反省は、事がおこってからするよりも、
いわば日常一つひとつの事柄について反省を加えるということが
必要ではないかと思います。

 
したがって、私たちが素直な心を養い高めていこうという場合も、
やはり日々自分を反省してみることが大切ではないでしょうか。

「今日一日自分は素直な心で人に接し、物事をやっただろうか。
あの時自分は、腹が立っていて、ついその怒りにとらわれていたのではないだろうか。
ああいう意見をいったけれども、あの考えは少しかたよっていなかっただろうか」

そういったことをいろいろ反省してみて、
次の時には、なるべくそうならないように心がけていくわけです。

            <感謝合掌 令和元年7月13日 頓首再拝>

素直な心を養うための実践10ヵ条~その4(つねに唱えあう) - 伝統

2019/08/03 (Sat) 04:22:09


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心を養うためには、素直な心になるということを、
 日常たえず口に出して唱えあうようにしてゆくことが大切である》

お互いが素直な心の大切さをよく認識し、素直な心になりたい
とつよく願いつつ日々の生活を営んでいくところから、
しだいに素直な心が養われていくのではないかと思いますが、

実際には往々にして日々の忙しさにとりまぎれ、
素直な心になることをつい忘れてしまうということもあると思われます。

そこで、お互いが素直な心になるということを忘れてしまうことのないように、
折にふれ、ときに応じて、お互いに“素直な心になりましょう”とか
“素直な心になって”ということを、いわば一つの合言葉のように
口に出して唱えあうということが必要ではないかと思います。

たとえば、朝おきてお互いが顔を合わせたならば、
“おはようございます。きょうも素直な心で過ごしましょう”とあいさつをかわす。

仕事の打ち合わせをする前には、
“それでは素直な心で検討しあいましょう”とみんなで唱えてから話を始める。

また、どういう話をする場合でも
“素直に考えたならば、こういうことになるのではないでしょうか”とか、
“素直に見て、このようにいえるでしょう”とかいうように、
たえず互いに素直ということを口に出しつつ話を進める。

こういうように、いってみれば寝てもさめても、いても立っても、
日常のすべての会話、行動の中において、たえず素直になるということを
念頭におき、それを口に出して唱えるわけです。

仏教においては、“念仏三昧”というようなこともいうそうですが、
この場合はいわば“素直三昧”というようなことにもなるでしょう。

しかもそれは、自分一人でも素直三昧をすると同時に、
互いにそういう姿を生み出していくわけです。

そういう素直三昧というような姿をお互いがともどもにあらわしてゆくならば、
何を考えるにも素直に、何をするにも素直に、というように
おのずと心がけあってゆくようにもなるでしょうから、

そこからしだいに、お互いともどもに素直な心で物事を考え、
判断するような姿に近づいていくこともできるのではないでしょうか。

もちろん、ただそういうように口に出して唱えれば、
それで素直な心になれるのかというと、必ずしもそうではないと思います。

口に出すということは、それを忘れずに心がけてゆくためであって、
そういう形にともなう実のある内容がなければならないと思います。

その実のある内容をそなえていくためには、
やはり素直な心の意義というものを十二分に理解して、
素直な心そのものを養っていくことをたえず心がけていくことが大切だと思うのです。

そのようにして、実のある内容をともないつつ、
しかもたえず形にあらわすというか、お互いの合言葉として
つねに口に出して素直になるということを唱えるようにしていくならば、
お互いに素直な心になるということを忘れることもなく、
たえずそれを心がけてゆくことができるでしょう。

だから、そういうことも、お互いが素直な心を実際に養っていくために
大切なことの一つになってくるのではないかと思うのです。

            <感謝合掌 令和元年8月3日 頓首再拝>

素直に受け入れる - 伝統

2019/08/17 (Sat) 04:23:13


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月17日)より

家庭光明寮は婚前の処女に花嫁としての
あらゆる資格を与えるために訓練する学校であるが、
ある時、その中に一度結婚して、姑との折合いが悪くてついに離婚になった
美しい娘が、もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、
他の寮生とが全然異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。

それは彼女自身が間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、
箸の転んだのにまでも愉快そうに笑うのが低級に見えて皆さんと合わない」
と申し出たことによってハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと無邪気に受け容れる性質を
持っていなかったのであったのである。

素直に笑う事ができないものは
「笑う門に福運来たる」の法則にすでに背いているのである。

その上、まだ素直に笑っている少女たちを
低級だとか何だとか非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、
素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。
だれでも低級だと見られて喜んで、その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

価値に「なぜ?」という理窟づけをしたときに、
その人はもう知恵の樹の実を食べたイブになったのである。
そして彼女は永遠にエデンの楽園から追い出されねばならないのである。
彼女が離縁になったのも無理はない。

価値は、理窟なしに価値なのである。

         <感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝>

いっさいを、素直にそのまま受ける - 伝統

2019/08/18 (Sun) 04:36:36


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、彼はひと晩ぐっすり寝入って
翌朝洗面して向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより曇ってしまって、
永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼には
なれないものだと思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、
彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活を
そのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

         <感謝合掌 令和元年8月18日 頓首再拝>

素直な心を養うための実践10ヵ条~その5(自然と親しむ) - 伝統

2019/08/31 (Sat) 02:30:44


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心を養っていくためには、心して自然と親しみ、
 大自然の素直な働きに学んでいくことも大切である》

お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つに、
自然に親しむというか、大自然のさまざまな営み、姿というものに
ふれるということもあるのではないでしょうか。

自然の営みというものには、私心もなければ、とらわれもないと思います。
いってみれば、文字通り素直に物事が運び、素直な形でいっさいが
推移していると思うのです。

したがって、そういう大自然の営みの中に身をおいて、
静かに自然の形を見、その動きを観察していくならば、
しだいしだいに素直な心というものを肌で理解し、
それをみずからの内に養っていくということもできるようになると思うのです。

 
たとえば、大自然の中に遊ぶ鳥や獣の姿を見つめてみるのもいいでしょう。
鳥たちの無心の動作、そして獣たちの何気ない日々の行動を見るならば、
そこに素直な心を養う上での何らかのヒントもつかめるのではないでしょうか。

 
親子の間の姿にしても、動物たちの場合は、人間とはまたちがった愛情の
細やかなところがあるともいわれます。

人間の場合は、子すて子殺しといったようにむしろ今日では一部でいろいろと
問題もおこりがちとなっていますが、動物の場合はおしなべて、
自然のままに素直に愛情を発露させるといった姿がみられるのではないかと思われます。

 
したがって、そういった自然な動物の姿にふれていくところから、
素直な心を養っていく上でのなんらかの参考となるものも得られる
のではないかと思うのです。

それは、もろろん動物のみに限らず、自然の山野にあふれる植物、
さらには野や山や川や海などのあらゆる大自然の面についても
いえることではないかと思います。

そういった自然の姿というものは、やはり私心なく、なんらのとらわれもなく、
自然のままに、素直に日をおくっているわけです。

 
したがって、そういった自然のあらゆる面につねにふれていくことによって、
とらわれのない、素直な心を養っていく上でのいろいろなヒントを得ることも
できやすくなっていくのではないでしょうか。

いってみれば、ただ一輪の草花にしても、
私心なく、自然に、素直に花を咲かせているわけです。

そういった花の姿をみて、もちろん何も感じないという人もいるでしょうが、
しかし、素直な心になりたいというつよい願いをもっている人の場合には、
あるいはそこに何らかの偉大なヒントを見出すかもしれないと思うのです。

そういうことを考えてみると、お互いが素直な心を養っていくための
一つの実践として、このように大自然の営み、自然の姿というものにふれて、
その素直さに学んでいくということも大切だと思います。

         <感謝合掌 令和元年8月31日 頓首再拝>

素直であること - 伝統

2019/10/19 (Sat) 04:08:29


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019-04-22)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   《自分の人生を生きる上で、
    いじけたり、悩んだりしているヒマはないってことでしょうか?》


   まさにそうだよ。

   だから、「ああ、この考えは間違いだったんだ」と気づいたら、素直に直す。
   いい人だと思ってつき合ったり、素直にその人の言うことを聞いていたら、
   あとから違うとわかる場合もあるんだよ。

   気づいたのなら素直にやめればいいんだよ。

   素直な気持ちに従って出した答えって、その時は最高の答えなの。

   だけど、もっと経験を積んで学んでいくと、
   もっといい答えが出る時だってあるんだよ。

   そうしたら、また素直に改めればいいの。

   いちいち、あの時はこうだったしな、とか言っているなんて、
   学ぶ時間がもったいないからね。

   あいつは嫌な嫌なやつだってわかったら、離れればいいの。
   その離れ方にしても、文句を言いながら離れるより、
   「学ばせてくれてありがとう」って、感謝できて離れられれば一番だけど、

   すぐにそうできないのなら、そんなスマートな離れ方ができる日まで
   自分の心に素直でいるよう心がけて、
   いつかスッと離れられるようにすればいいの。


   人って、成長しているから、学んでいくと答えも変わってくるんだよ。
   それも少しずつ少しずつ良くなっていくの。

   だから、素直に自分の思ったことに耳を傾けてください。

   それを一旦言っちゃったことだからとか、
   あれこれ考えるからおかしくなっちゃうの。

   みんながいい人と言ったって、自分にとって嫌な人なら、それでいいんだよ。

   もっと、自分のことを信じて、自分の気持ちも素直に聞くんだよ。

   自分の気持ちに耳を傾けていると、
   素直ってことがどういうことかがわかってくるものなの。

   素直さがわかるようになると、
   この人の言うことなら素直に聞いた方がいいとか、
   この人の言っていることは素直に聞いちゃいけないってことがわかってくるの。

   最初からうまくいくことってないよ。

   でも自分の気持ちに素直になっていれば、直観でわかるようになってくるんだよね。

   だから、ほんの少しでいいから、自分の本心を素直に聞いてごらん。

   何が好きで、何が嫌いとか。
   どんなことが楽しくて、どんなことにイライラしてしまうとか。
   どんな人が好きで、どんなところに行きたくて、夢や希望は何なのかとかね。

   何だっていいの。
   自分の気持ちに素直になると、とにかく楽しいんだよ。

   一人さんは、いつも自分に対して素直に生きているんです。
   だから毎日が楽しい。

   みなさんも、きっと楽しくなるから、
   少しだけで構わないので「自分に素直」になってみてください。

       <『「素直さ」こそ最強の武器である』秀和システム>

               ・・・

経営の神様といわれた松下幸之助は、「素直さ」についてこう語っている。

『ほんとうの素直とは、
自然の理法に対して、すなわち本来の正しさに対して素直であると、
そういうことやな』

本当の素直さとは、
人の言うことに対して、何でも「ハイハイ」ということを聞くことでも、
無邪気にまるごと受け入れることでもない。

天地自然の理(ことわり)や道理、あるいは法則に対して素直なこと。

人は、学んだり経験することにより自分のレベルが上がってくるが、
そのレベルに従って、今まで受け入れられなかったことも、
受け入れられるようになったりする。

それが本当の意味での素直さ。


また、相田みつを氏はそれをこう語っている。(にんげんだもの・角川文庫)より

『そのむかし 道元禅師という方が、
宗の国に渡り修行をされて得てきたものはただひとつ、
柔軟心であったといいます。

柔軟心とは やわらかいこころのことです。

何物にも引っかからない素直な心のことです。

きれいな花を見たらきれいだなぁ…と素直に感ずる心のことです。

きゅうりにはきゅうりの良さを認め、なすにはなすの良さを認める心です。

たとえけんかをした相手のことでも、
良いところは良いと認める大らかな心のことです。

そして、おかしい時には腹の底から笑い、泣きたい時には全身で泣く、
それが柔軟心です。

心がやわらかいから素直に笑えるのです。
心がやわらかいから素直に泣けるのです。

心がやわらかいのは、心が若いことです。

柔軟心を持ちましょう。
いつまでも心の若さを保つために…』


いつまでも若くあるため、素直な心を持ち続けたい。

         <感謝合掌 令和元年10月19日 頓首再拝>

素直な心を養うための実践10ヵ条~その6(先人に学ぶ) - 伝統

2019/11/14 (Thu) 04:36:52


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心を養っていくためには、先人の尊い教えにふれ、
 それに学び、帰依していくことも大切である》

お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つに、
幾多先人の尊い教え、貴重な考えといったものを学ぶ
ということもあるのではないでしょうか。

すなわち、今日、われわれは、幸いなことに過去の偉大な人びとの考えや行ない
というものを、書物等によって知ることができます。

そしてそういった先人の考えや行ないの中には、
素直な心のあらわれと考えられるもの、
素直な心そのものだと考えられるようなものも、
あるのではないかと思われます。

 
もちろん、それらの考えや行ないが、
直接“素直な心”ということばで説かれている場合はほとんどないだろうと思います。

けれども、お互い人間の心をゆたかにしたとか、
悩み苦しむ人びとに光明、救いを与えたとか、
よりよき共同生活を実現するために努力したとか、
人間として生きてゆくべき道を的確にさし示したとかいったように、

人びとの幸せを高めるために貢献した先人の考え、行ないというものは、
そこにおのずと素直な心が働いていたとも考えられると思うのです。


というのは、そういった考えや行ないというものは、
やはり私心にとらわれることなく、物事の実相を見て
何が正しいか何をなすべきかをつかんだとろから生まれてきたものだ
ともいえるのではないでしょうか。

だから、素直な心ということばで説かれてはいなくとも、
それはまさに素直な心のあらわれた姿であり、
素直な心になることの教えであるということもいえると思うのです。

したがって、そういう偉大な先人の方がたの考えや行ない
というものを学んでいったならば、知らず知らずのうちに
素直な心が養われていくということもあるでしょう。

またそこまでいかなくても、素直な心を養っていく上での
貴重なヒントを得ることはできるのではないでしょうか。

お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つには、
このように幾多の先人の方がたの尊い教え、考え、行ない
というようなものを学んでいく、ということもあるのではないでしょうか。

だから、そういった先人の方がたのことばを記録した書物、
その考えや行ないについて書かれたもの、
またそれらの方がたの書きあらわされた著述、

そいうものを熟読玩味するとか、あるいはまた正しい宗教心を培い、
よりよき宗教活動に参加していくといったことも、
素直な心を養っていくための一つの実践になると思います。

         <感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>

素直な心を養うための実践10ヵ条~その7(常識化する) - 伝統

2019/12/18 (Wed) 03:57:09


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心を養っていくためには、それを養うということ自体を、
 お互いの常識にすることが大切である》


お互いがともどもに素直な心を養っていくという姿をあらわしてゆくためには、
みんなが素直な心の大切さを十分認識し、素直な心を養いあうことの必要性を
正しく認識することが必要不可欠ではないかと思います。

いってみれば、素直な心を養うということが、
お互いの常識の一つになるということが肝要ではないかと思うのです。

たとえば今日、お互い人間として、ある程度の教育を受け、
学問を身につけるということが一つの常識になっているとすれば、
それと同じように、

“人間ならだれでも素直な心を養わなければならない”
ということを一つの常識にするわけです。

もしも実際にそういうことが常識となったならば、
たとえば小さな子どもの頃から、両親や周囲の人たちはみな、
どのようにしてこの子に素直な心をつちかってゆけばよいか、
といったことをある程度真剣に考えるのではないでしょうか。

したがって、幼児教育の内容の中に、素直な心を養うという一つの項目が
必ず入っていなければならないということになるかもしれません。

また義務教育の過程においても、基礎教育の一つとして素直な心をつちかう
という内容が大きな比重をもって加味されてくるでしょう。

またさらには、子どもたちの本などにも、素直な心をとりあげたものや、
そこまでいかなくても、素直な心になりましょうという呼びかけのことばが
しばしば出てくるようになるでしょう。

もちろん、家庭においても、家族同士が互いに素直な心を養い、
素直な心で日々の生活を営んでいくようにつとめると思います。

家族のうちのだれかが素直ならざる考え方、行動をしたならば、
みんなでこれを改めるよういろいろと心を配り、協力しあう、
といった姿も生まれてくるのではないでしょうか。

さらにそれでも素直な心が養われていきにくいという場合には、
「素直道場」というか、素直な心を専門に養うための一つの機関が
できるかもしれません。

この素直道場には老若男女を問わず、だれでも入門できるようにするわけです。

そして三ヵ月なら三ヵ月の間、素直な心というものについてあらゆる角度から
勉強し、認識、理解を高めていくわけです。

そのようにすれば、たとえ素直な心が足りないという場合でも、
それをある程度補うこともできるわけです。

 
素直な心の大切さ、素直な心を養っていくということがお互いの常識となったならば、
こういった姿のほかにも、いろいろと素直な心を養うことを促進するような姿が
あらわれてくるのではないかと思います。

つまり、先にあげた子どもの本以外にも、おとなの本、さらには
ラジオやテレビや映画などにおいても、いろいろな形で
とりあげられるのではないでしょうか。

たとえば、これまでしばしば、人間の姿、生き方をとらえた小説や演劇において、
愛とか憎しみとか、悲しみや怒りがとりあげられてきました。

それと同じような観点から、この素直な心がとりあげられるということも
考えられるのではないかと思います。

すなわち、愛を一つのテーマにした小説があるとするなら、
素直な心をテーマにした小説もまたいろいろと考えられるのではないでしょうか。

そしてそれは、愛をテーマにしたものより以上におもしろく、
また感動的なものになるかもしれないと思います。

こういったように、素直な心を養っていくということがお互いの常識になったならば、
社会のあらゆる面において、さまざまな形で素直な心がとりあげられ、
しかもそれを養い高めてゆくことがいろいろな面で強調されるようになって
ゆくと思います。

したがって、そこにはおのずと、お互いの素直な心が養い高められてゆく
といった姿もあらわれてくるのではないでしょうか。

このようなことを考えてみますと、お互いが素直な心を養っていくためには、
この素直な心を養っていくこと自体を、つまり“人間としてだれしもが
素直な心を養っていかなければならないものなのだ”ということを、
お互いの一つの常識としていくことが、きわめて大切だと思うのです。

         <感謝合掌 令和元年12月18日 頓首再拝>

誰もが素直な心になれる - 伝統

2020/02/03 (Mon) 04:22:56


      *Web:松下幸之助com より
           ~『人間としての成功』

いちばん大切なことは、お互い人間それぞれには
もともと素直な心になる素地があるということを、
はっきりと認識することだと思います。

つまり特別の修行をした特別の人だけが素直な心になれるというのではなく、
素直な心になることをつねに心がけ、自分なりに工夫をこらしていくならば、
誰もが素直な心になれるということです。

その意味では、素直な心はお互い人間としての自然の心、本然の心だと思うのです。

https://konosuke-matsushita.com/column/cat71/post-118.php )

         <感謝合掌 令和2年2月3日 頓首再拝>

無邪気に、素直に笑う - 伝統

2020/08/17 (Mon) 04:54:25


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月17日)より

家庭光明寮は婚前の処女に花嫁としてのあらゆる資格を与えるために訓練する学校であるが、
ある時、その中に一度結婚して、姑との折合いが悪くてついに離婚になった美しい娘が、
もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、他の寮生とが全然
異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。それは彼女自身が
間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、箸の転んだのにまでも愉快そうに笑うのが低級に
見えて皆さんと合わない」と申し出たことによってハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと無邪気に受け容れる性質を持っていなかったので
あったのである。

素直に笑う事ができないものは「笑う門に福運来たる」の法則にすでに背いているのである。
その上、まだ素直に笑っている少女たちを低級だとか何だとか非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。
だれでも低級だと見られて喜んで、その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

価値に「なぜ?」という理窟づけをしたときに、
その人はもう知恵の樹の実を食べたイブになったのである。
そして彼女は永遠にエデンの楽園から追い出されねばならないのである。
彼女が離縁になったのも無理はない。

価値は、理窟なしに価値なのである。

         <感謝合掌 令和2年8月17日 頓首再拝>

そのまま素直に受ける - 伝統

2020/08/18 (Tue) 03:43:33


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、眼の白い部分は老衰の結果どんより
曇ってしまって、永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼にはなれないものだと
思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる
心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活をそのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

         <感謝合掌 令和2年8月18日 頓首再拝>

素直に受け入れ、感謝する - 伝統

2021/02/05 (Fri) 02:06:18


           *「常樂への道」(P186~187)より抜粋

(1)素直になって全てを受ける。
   それで若しもどんな予期せぬ結果が生じたとしても、
   それは結局瞬時にして消えてしまうものであり、
   
   素直という光が出たことを考えれば、何にも増して
   大きな功徳が与えられたのである。

(2)素直に有難いと感謝する、其の時の最大の宝はその結果として
   生まれてくる現象のよろしさではなくて、有難いと感謝した
   其のこと自身がかけがえの無い尊い宝なのである。

   此の素直と云うもののうちには無量無辺の味わいがあり、
   それが次第次第に深く香ってくるようになることが
   望ましいことであり、有難いことである。

   その有難さ尊さに比べれば目に見える結果などは。
   太陽の前の星よりも遥(はる)かに儚(はかな)いものでしかない。

(3)時には躓き倒れることがある。
   しかし、有難いことに、躓いた時には必ず何かを拾うものがある。

   『転んだら拾った』と私は、何時も思うのである。

   躓いたら、せめて其処にある御光(みひかり)を拾うこと。
   此の光を拾った人は、其の時再び起き上がったのである。

   それを拾い得なければ、人は長い間臥せたきりの姿である。
   臥せた処は業の輪廻の中である。

          <感謝合掌 令和3年2月5日 頓首再拝>

素直に飛びつく者は愛される - 伝統

2021/02/14 (Sun) 02:34:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

           <感謝合掌 令和3年2月14日 頓首再拝>

素直な心根に神のはからいが自然と与えられる - 伝統

2021/03/04 (Thu) 06:39:17


           *「常樂への道」吉田國太郎・著(P210~214)より       

生長の家では何でも思う通りになると申します。思う通りになると云われたら、
『ハイそうですか思う通りになるのですか、有難うございます』、
と受けたらそれでよいのです。

それを、ただ思うだけでよいのだろうか、などと余計な分別の心をさしはさむ、
これだけの一寸した気持の相違が、実は本当に思う通りになるか、
ならないかの天と地の岐(わか)れ路になってまいるのであります。

ある日、福田さんが何でも思う通りになると云う話をしておりますと
集りの中にいた、村田宗一さんと云われます方が、
『先生思うだけでよいのですか、思う位ならば私にだって思える』と云うのだそうです。

『本当に思うだけでよいのですね。思う位ならば、皆さん、
それ位出来るではありませんか。自分は神の子必ず幸福になる、
それだけでよいのですね。これ位ならば出來るじゃありませんか。
さあ皆さん思いましょうよ』と申したそうです。(笑声)

実際涙が出るほど、澄み切った素直さだと思うのです。
先程導かれる者として及第することだけが大切だと申しましたが、
これは完全にそこが及第しております。重味があります。

その村上さんは永い間の風邪なのですが思えばよいと云われた通り、
風邪は無いと思っていたら、そういう意味のことを思っていたら、
その風邪が治ってしまったのです。

御教を受けさえすればそこに結果がちゃんと現れる。

だから力を入れずに、努力もせずに、本当に七つの灯台の点灯者の
御言葉の開かれている、その中へすっと私達は入って行ったら、
力を入れず努力もせず自分がすっかり変わってしまう。

生長の家はそう云う救いであります。

自力で励んで苦しみもだえて、やっと救われる救いではない。
こちらの力の要らない救いであります。ここが生長の家の真面目であります。

その辺には塩田が多く、村上さんは、塩浜の浜子と云う仕事をして居られた。
浜子と云うのはどんな仕事か存じませんが、農村の小作人か、
あるいは使用人の様な立場に当られるのかと思います。

ある日、この村上さんが奥さんの代りに八百屋さんへ買物に行きますと、
店頭に松茸がならべられてある。如何にもその松茸が美味しそうなので
買って帰りたいと思われたのですが、値段が如何にも高い。

これは駄目だと断念して帰られたのですが、その時、思う通りになると云う
生長の家の話を思い出されて、松茸は食べられる松茸は食べられると
思っていたそうです。

何でも無いことですが素直にすーっとそのまま行じた処が尊いと思います。
つまり御教の中に融(と)けこんだのですね。

するとその翌々日とか翌々々日とか云いましたが、久しぶりに訪ねて来た友人が
これはお土産だと云って放り出したものを開けてみると、それが松茸なのです。

やはり思う通りになったのです。
それから思う通りになることがぼつぼつ出て来る。
あまり有難いので鎮守さまにもお礼詣りに行ったのです。

もう霜の来る頃の事でして、鎮守様の鳥居の前に一本の柿の木があって、
真赤にすき透る程に熟した一箇の柿が梢についていて、実に美味そうな色をしている。

それをみた時に、あれを食べたいなあと思われたそうです。
しかし落したらべしゃんこにつぶれてしまうしと思って参詣を済ませて帰って来て、
柿を仰いだ時に、又食べたいなあと思ったそうです。

しかし手がとどかない。落とせばつぶれてしまう。

これは少々無理な願だと思って帰りかけたのですが、
その時、そうそう思う通りになるのだったと思い出して、
その柿を眺めながら、これは食べられるのだと思われたそうです。

その状景を思い、柿の木の下でこの柿は食べられるのだと、
素直に念じている村上さんの姿に何とも云えない尊い光がみえる様な
気がするのであります。

こういうことを馬鹿馬鹿しいとか、薄ッぺらだなどと思わないことです。
そんなこと余り馬鹿馬鹿しいとか、お伽噺じみているとかそんな風に
思う心が自分を殺してしまうのであります。

村上さんはそんな風には思わなかった。そこが偉いところです。
食べられるのだと思い、思う通りになると思って、四五歩歩いていきますと、
その柿の木の下にせまい溝があってそこを綺麗な水がさらさらと流れているのですが、
素直にいまのように思って四五歩歩いた時に後でバシャッと音がした。

ひょっと振返っていたら、その熟柿が水の中へ落ちて(笑声)水の中を流れている。
それを拾いあげた。その時に村上さんの心に何でも思う通りになると云う心がサーッと
入って来て、強い強い信念となったのであります。

そして今迄にない信念のこもった心で、力強く何でも思う通りになるぞと思ったのです。
思う通りになるのだと云われたら、そんな気がしてもしなくても、思う通りに
なるのだと、一応乗って行ってみたらちゃんとこうした信念に入ったのです。

素直な心根に神のはからいが自然と与えられて、こうなってきたのであります。

その時村上さんはようし何でも思う通りになるのだ、
俺はいつ迄も浜子ではいない、必ず浜親方になるのだと信念を固めたのであります。

そして自分の信じた通り遂にこの村上さんは浜親方になりまして、
西伯方村北浦の二番浜と云う浜を自分のものとしたのであります。

ところが二番浜という浜は今まで扱った人が誰も成績をあげたことがない。
しかし、俺はこの浜でも必ずよい成績をあげる、欠損などはしない、
と云う信念で通しました処が、今まで三番塩も取れないようなところから
一番塩ばかりが採れるようになった、と云うのであります。

本当にこの世界は心ばかりが生きている世界で物質と云うものは無い世界
であって心の内容通り、その通りに現われてくるのであります。

この体験談でも証明されているように御教の中へすーっと自分を入れて行く、
後は神が好いようにして下さいます。

           <感謝合掌 令和3年3月4日 頓首再拝>

素直になって全てを受ける - 伝統

2021/04/01 (Thu) 04:41:55


           *「常樂への道」(P186~187)より

(1)素直になって全てを受ける。
   それで若しもどんな予期せぬ結果が生じたとしても、
   それは結局瞬時にして消えてしまうものであり、
   
   素直という光が出たことを考えれば、何にも増して
   大きな功徳が与えられたのである。

(2)目に見えない結果は後(あと)から造り更(か)えることも自由であり、
   悪ければ直せばすむのであるが、生命(せいめい)の方は
   今伸ばさずにしまったならb、そのことは永遠の損失で
   後(あと)から取り返しはつかないのである。

(3)素直に有難いと感謝する、其の時の最大の宝はその結果として
   生まれてくる現象のよろしさではなくて、有難いと感謝した
   其のこと自身がかけがえの無い尊い宝なのである。

   此の素直と云うもののうちには無量無辺の味わいがあり、
   それが次第次第に深く香ってくるようになることが
   望ましいことであり、有難いことである。

   その有難さ尊さに比べれば目に見える結果などは。
   太陽の前の星よりも遥(はる)かに儚(はかな)いものでしかない。

(4)他(ほか)にどんな結果があるかによっては、人間は生長もしなければ
   傷つきもしないものである。

   霊は霊により、魂は魂によらなければ動くことはないのである。
   物と霊とは画然(かくぜん)と別れて相(あい)交わることはない。
   これが此の世のありのままの姿である。

(5)我(わ)が生命(せいめい)、霊の国の起き伏して
   物の世界に起き伏すことの無いようにと、
   祈りもちつつも時に躓(つまづ)き倒れることがある。

   しかし、有難いことに、躓いた時には必ず何かを拾うものがある。

   『転んだら拾った』と私は、何時(いつ)も思うのである。

   躓いたら、せめて其処にある御光(みひかり)を拾うこと。
   此の光を拾った人は、其の時再び起き上がったのである。

   それを拾い得(え)なければ、人は長い間臥せたきりの姿である。
   臥せた処は業の輪廻の中である。

           <感謝合掌 令和3年4月1日 頓首再拝>

素直になること - 伝統

2021/04/17 (Sat) 04:34:10


        *「叡智の断片}(P279~280)より

素直になること。

素直になることによって自分の掴んでいる業が消え、
あるべきものがあるべき様にあらわれるのである。

本当の意味の自由は我(が)を通すことではない。

我(が)は業(ごう)であり偏見である。

これを放つとき、何ものにも縛られない世界が開ける。

そのまま すなおなる世界である。

素直なることによって はじめて本当の自由を得るのである。

これが真の民主主義である。

           <感謝合掌 令和3年4月17日 頓首再拝>

素直に聴きましょう - 伝統

2021/05/12 (Wed) 03:55:59


       *「女性の幸福365章」(P117)より

人の忠言(ちゅうげん)を素直にきく者は大度量の人である。
心の狭い者ほど素直に人の忠言をきくことができないものである。

良人から叱られたとき反抗心を起してはならない。
自分の間違いは素直に認めるが好(よ)い。
自分では正しいつもりでやっている事でも良人から見たならば、
また別の見方があるのである。

自分の見方の正しさをみとめて貰いたいならば、
良人の見方の正しさをも認めてあげなければならない。


自分の陥った過ちを償(つぐな)う道は、
それを自分が再び犯さない事と、他(た)の人に再び、
前者の覆轍(ふくてつ)を踏ませないようにすることである。


体験によって得た教訓ほど尊いものはないのである。

老いたる両親の諫言(かんげん)を「古い」と思って
一蹴(いっしゅう)に附(ふ)してしまってはならない。

時代で移りかわって役に立たぬようになる経験もあるが、
時代がどんなに遷(うつ)り易(かわ)っても、
永遠にかわらない深い体験もあるものである。

老人の諫言の中には、
そういう種類の尊いものがあることを知らねばならぬ。

           <感謝合掌 令和3年5月12日 頓首再拝>

素直第一の日 - 伝統

2021/06/01 (Tue) 03:00:50


        *「光明道中記」(6月1日)より  

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、
 此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」
                    (「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、
自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、
忍耐づよきこと、「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、
毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって
神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

           <感謝合掌 令和3年6月1日 頓首再拝>

素直な心を養うための実践10ヵ条~その8(忘れないための工夫) - 伝統

2021/06/26 (Sat) 04:42:40


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心を養うためには、素直な心になることを
 忘れないための工夫をこらすことも必要である》


お互いが素直な心を養っていくために大切なことの一つは、
素直な心を養っていくということを決意し、
その決意を忘れぬよう保ちつづけてゆくということではないかと思います。

いかに強い気持ちをもってした決意であっても、
日がたてばうすれてゆくのが人の心というものです。

また、たとえうすれていく度合が少ないという場合でも、
四六時中、ありとあらゆる考え、態度、行動の中に
素直な心が働くよう心がけるということは、
なかなかふつうではできにくいことではないかと思われます。

 
そこで、そういった姿に陥ることのないように、
いろいろな工夫が考えられるのではないでしょうか。

たとえば、素直な心になるということを何か物に結びつけ、
その物をつねに身につけておく、ということも
考えられるのではないでしょうか。

胸につけるバッジならバッジでもいいでしょう。
「素直バッジ」とでもいったバッジをつくって、
それをつねに胸につけておき、それによって
素直な心になることを忘れないようにするわけです。

 
それからまた、そういう「物」と同時に、
ある一つのしぐさというか動作を工夫して定める
ということも考えられるかもしれません。

もちろん、そうした動作をしたからといって、
つねにのぞましい心持ちとなって、効果をあげるとは限らないでしょう。

しかし、それをするとしないとでは、
やはりそれなりのちがいが出てくるのではないでしょうか。

したがって、お互いが素直な心になりたい、
素直な心で物事に処していきたいという場合でも、
何か一つの定まった動作をする、というようにしてみたらどうかと思うのです。

その動作をすることによって、みずから素直な心になろう、
という思いが浮かんでくるわけです。

だからその動作を一つの習慣として身につけるようにしたならば、
どういう場合にもその動作が出てきて、
あたかも神仏に手を合わすのと同じように、
それによって素直な心になるための実践を忘れないようにしていくことが
できるのではないかと思います。 

このように、お互いが素直な心になるということを
忘れずに日々をすごしてゆくための工夫というものは、
考えれば次つぎと出てくるように思われます。

そして、お互いがそれぞれなりの工夫をこらして、
素直な心になることをつねに忘れずに考えていくようになったならば、
お互いの素直な心というものも一歩一歩、養い高められていくように
なるのではないかと思います。

           <感謝合掌 令和3年6月26日 頓首再拝>

素直という徳に「何故?」という理屈はない - 伝統

2021/08/17 (Tue) 04:57:07


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月17日)より

家庭光明寮は婚前の処女に花嫁としてのあらゆる資格を与えるために
訓練する学校であるが、ある時、その中に一度結婚して、
姑との折合いが悪くてついに離婚になった美しい娘が、
もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、
他の寮生とが全然異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。

それは彼女自身が間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、
箸の転んだのにまでも愉快そうに笑うのが低級に見えて皆さんと合わない」
と申し出たことによってハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと
無邪気に受け容れる性質を持っていなかったのであったのである。

素直に笑う事ができないものは
「笑う門に福運来たる」の法則にすでに背いているのである。
その上、まだ素直に笑っている少女たちを低級だとか何だとか
非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、
素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。

だれでも低級だと見られて喜んで、その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

価値に「なぜ?」という理窟づけをしたときに、
その人はもう知恵の樹の実を食べたイブになったのである。
そして彼女は永遠にエデンの楽園から追い出されねばならないのである。
彼女が離縁になったのも無理はない。

価値は、理窟なしに価値なのである。

      <感謝合掌 令和3年8月17日 頓首再拝>

素直第一の日 - 伝統

2022/06/01 (Wed) 10:23:34


       *「光明道中記」(6月1日) より  

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」
                     (「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

           <感謝合掌 令和4年6月1日 頓首再拝>

「ハイ」の「無限力」 - 伝統

2022/07/03 (Sun) 07:22:20


      *「光明法語」(7月3日)より

最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。

それは「ハイ」の一語である。
一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

「ハイ」は汝を自由ならしめる。
「ハイ」は實相その儘である。

           <感謝合掌 令和4年7月3日 頓首再拝>

素直にそのまま美しいと無邪気に受け容れる - 伝統

2022/08/17 (Wed) 09:32:31


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月17日)より

家庭光明寮は婚前の処女に花嫁としての
あらゆる資格を与えるために訓練する学校であるが、

ある時、その中に一度結婚して、姑との折合いが悪くてついに離婚になった
美しい娘が、もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、
他の寮生とが全然異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。
それは彼女自身が間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、
箸の転んだのにまでも愉快そうに笑うのが低級に見えて皆さんと合わない」

と申し出たことによってハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと無邪気に受け容れる性質を
持っていなかったのであったのである。

素直に笑う事ができないものは「笑う門に福運来たる」の法則に
すでに背いているのである。
その上、まだ素直に笑っている少女たちを低級だとか何だとか
非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、
素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。

だれでも低級だと見られて喜んで、
その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

価値に「なぜ?」という理窟づけをしたときに、
その人はもう知恵の樹の実を食べたイブになったのである。
そして彼女は永遠にエデンの楽園から追い出されねばならないのである。
彼女が離縁になったのも無理はない。

価値は、理窟なしに価値なのである。

         <感謝合掌 令和4年8月17日 頓首再拝>

いっさいをそのまま素直に受ける - 伝統

2022/08/18 (Thu) 11:11:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る
自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより曇ってしまって、
永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼には
なれないものだと思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、
彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活を
そのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

      <感謝合掌 令和4年8月18日 頓首再拝>

そのまま素直にありがたい心 - 伝統

2022/11/17 (Thu) 06:37:55


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。

小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。

天理教祖の所謂(いわゆる)「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。

文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

          <感謝合掌 令和4年11月17日 頓首再拝>

素直に飛びつく者は愛される - 伝統

2023/02/14 (Tue) 06:49:40


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

           <感謝合掌 令和5年2月14日 頓首再拝>

素直が一番 - 伝統

2023/06/01 (Thu) 11:47:44

 
      *「光明道中記」(6月1日《素直第一の日》)

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、
 此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して
 嬰児(みどりご)に顕したまえり」(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、
自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、
愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、
毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって
神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

         <感謝合掌 令和5年6月1日 頓首再拝>

素直に笑い、無邪気に受け入れる - 伝統

2023/08/17 (Thu) 10:10:27


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月17日)より

家庭光明寮は婚前の処女に花嫁としてのあらゆる資格を与えるために訓練する学校であるが、
ある時、その中に一度結婚して、姑との折合いが悪くてついに離婚になった美しい娘が、
もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、他の寮生とが全然
異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。

それは彼女自身が間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、箸の転んだのにまでも
愉快そうに笑うのが低級に見えて皆さんと合わない」と申し出たことによって
ハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと無邪気に受け容れる性質を
持っていなかったのであったのである。

素直に笑う事ができないものは
「笑う門に福運来たる」の法則にすでに背いているのである。
その上、まだ素直に笑っている少女たちを低級だとか何だとか非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。
だれでも低級だと見られて喜んで、その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

価値に「なぜ?」という理窟づけをしたときに、
その人はもう知恵の樹の実を食べたイブになったのである。
そして彼女は永遠にエデンの楽園から追い出されねばならないのである。
彼女が離縁になったのも無理はない。

価値は、理窟なしに価値なのである。

      <感謝合掌 令和5年8月17日 頓首再拝>

いっさいをそのまま受ける - 伝統

2023/08/18 (Fri) 09:27:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して
向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより
曇ってしまって、永久に幼児(おさなご)のように
澄みきった美しい眼にはなれないものだと思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる
心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、
与えられた未決監の生活をそのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して
彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

      <感謝合掌 令和5年8月18日 頓首再拝>

そのまま素直にありがたい心 - 伝統

2023/11/17 (Fri) 09:51:26


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。

小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。

天理教祖の所謂(いわゆる)
「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。

生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。

文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

         <感謝合掌 令和5年11月17日 頓首再拝>

素直に飛びつく者は愛される - 伝統

2024/02/14 (Wed) 10:05:52


       *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

           <感謝合掌 令和6年2月14日 頓首再拝>

素直な思いが出す波動に神気が宿る - 伝統

2024/03/13 (Wed) 12:53:36


未来世界の治療行為のヒントとは
伊勢ー白山 道(2024-03-13 )
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/658aa05092b0d8fe12119b16849bee8a

           <感謝合掌 令和6年3月13日 頓首再拝>

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