伝統板・第二

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「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

「祈り(3)」 - 伝統

2018/04/17 (Tue) 03:22:17


   *伝統板・第二「祈り(2)」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7543475



《時期に適する祈り》

         *「光明法語」(4月17日)より

時期に適しない祈りは成就しないが、その祈りを持ちつづけるならば、
時期が来たときになって自然成就するのである。
急いではならない。

寒中に朝顔の花を咲かしめ給えと祈るような祈りは成就しないが、
温室で咲かせても貧弱な花しか咲かないのである。
何事も時期が来ると云うことが必要である。

時期にの乗ると云うことは神のみこころに乗ると云うことである。
「みこころの儘に適当な時期に、適当な場所に、適当な何々を与えたまえ」と
云うような祈りこそ最も謙遜な祈りである。


・・・

<関連Web>

(1)本流宣言掲示板「人は何のために「祈る」のか (4612)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=965

(2)光明掲示板・第二「「不断念仏」「平生業成」」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2014

(3)伝統板・第二「祈り」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818447

            <感謝合掌 平成30年4月17日 頓首再拝>

《祈りの成就には時の要素が要る》 - 伝統

2018/05/04 (Fri) 03:55:13


        *「光明法語」(5月4日)より

祈りが成就するには「時」の要素がいるのである。
今日(きょう)、種子(たね)を蒔いたからとて
明日必ず芽が出ると云う訳のものではない。

「時」の要素を忘れてしまって、今日の種子が明日ただちに芽が出ないからとて、
種子を掘り返してしまうようでは駄目である。
必ず神(法則)はその種蒔(たねまき)に応えたまうと云う確信が必要なのである。

何事も急いではならないのである。
時が解決して呉れるのである。

「果報は寝て待て」と云う言葉があるが、信じて待てば、
種子を蒔いて置きさえすれば必ず発芽するのである。

            <感謝合掌 平成30年5月4日 頓首再拝>

《電源に結びついても直ぐには熱くならぬ》 - 伝統

2018/05/06 (Sun) 03:52:19


         *「光明法語」(5月6日)より

電気鏝(こて)を温めるのでも、
スイッチを入れたからとて急に一ぺんに加熱する訳ではない。
スイッチを入れることは電源につながることに過ぎない。
と同時に電流は流れ入って来るが鏝は必ずしもすぐに温かくはならない。

鏝が温かくならないのは電流が来ないからではなく、時間の要素が足りないからだ。

祈りと云うことは「神」と云う無限供給の電源とつながることではあるが、
その電源につながっても、その瞬間に欲する物が出るとは限らない。

鏝が温まるのを待つと同じに、祈りに於いても結果が現れるまで待つ忍耐が必要である。

            <感謝合掌 平成30年5月6日 頓首再拝>

常の思いが祈りになる - 伝統

2018/05/14 (Mon) 03:38:49


         *「光明法語」(5月14日)より

《不景気を心に思うな》

祈りというものが短時間の言葉で神に所謂(いわゆ)る
「祈り」を捧げるものであると思うのは間違いである。

「祈り」と云うのは魂の底ふかくその人が生命で宣(の)べているところのもの
であるから、今朝(けさ)「神の無限供給が自分に流れ入る」と念じながら、
ラジオ放送や新聞記事で世間の経済恐怖をきいて、

「こんなに不景気になってはたまらない」などと考え、
または人と人との噂話に不景気や物質の不足を話しているようなことでは、
それは「不景気」や「物質不足」を祈り顕わしているようなものである。

            <感謝合掌 平成30年5月14日 頓首再拝>

《不断の祈り》 - 伝統

2018/05/15 (Tue) 03:31:52


         *「光明法語」(5月15日)より

「常の祈り」が大切である。
所謂る「不断念仏」「平生業成(へいじょうごうじょう)」である。
平生(へいぜい)の祈りの業(ごう)が成就して、現象界に現れるのである。

朝起きれば、「寝ている間にも呼吸をなさしめ給い、血液を循環せしめたまい、
夜中自分の生命を護り給うた神よ、有難うございます」と神に感謝し、
「一夜を暖かく眠らせ給うた布団よ有難うございます」と感謝して起きるのである。

今与えられている事に充分感謝しないでいて、次の善きものが与えられると
云うことはあり得ない。

感謝することによってのみ、今与えられたものの充分の価値が享受出来る。

            <感謝合掌 平成30年5月15日 頓首再拝>

《仕事をなす時の祈り》 - 伝統

2018/05/18 (Fri) 04:14:34


         *「光明法語」(5月18日)より

「わが仕事はわれとわが家族と全人類の福祉のための祈りである」。
常に仕事をなさんとする時には目をつぶりてかく祈りてから始めよ。
仕事のあいまに、「仕事が祈りである、祈りが仕事である」と念ぜよ。

かくすれば仕事の質が上がり、量が殖え、新しき智慧が発現し、
仕事に新生面がひらかれるのである。
思わぬ間違いが発見され故障に到らずにすむのである。

「仕事よ有りがとう。この仕事は神のみ栄えである」と念ぜよ。
かくすれば神のみ栄えの顕現として立派な仕事が成就するのである。


            <感謝合掌 平成30年5月18日 頓首再拝>

《飲食をなす時の祈り》 - 伝統

2018/05/19 (Sat) 03:54:44


         *「光明法語」(5月19日)より 

食事のときには、「神の生命と愛とが食物の形となって吾に栄養を与え、
我が生活をして神の光栄をあらわさし給う」と念じて食せよ。

飲料をとるときには「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、
再びかかる罪を繰返すことなきしるしとして之を飲む」と念じて飲むが好いのである。

不平や不快や憤り恐怖を感じながら食物をとることは唾液の中に毒素をつくり、
それを服(の)んでいると同じである。

食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。

            <感謝合掌 平成30年5月19日 頓首再拝>

実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ - 伝統

2018/06/08 (Fri) 04:46:27


      *「光明道中記」(6月8日 祈りに始まり祈りに終る日)

【祈りに始まり祈りに終るとき、心の中に滞(とどこお)りがなくなり
自由自在の境涯になる。           (『生命の實相』第一巻)】 
  
神様、あなたは全ての渾(すべ)てでいらっしゃいます。
あなたは一切のところに充ち満ちていらっしゃいます。

あなたは智慧でいらっしゃいます。
あなたは愛でいらっしゃいます。
あなたは生命でいらっしゃいます。

あなたのお造りになった世界には
罪も病も死も一切の不幸も争いもないのでございます。

其処には既に、
日本天皇陛下に中心帰一せる天国浄土が実現しているのでございます。

神意(みこころ)の天に成るが如く地にも成らせ給え。
実相の世界の既に完全なるが如く現象の世界をも完全ならしめたまえ。
中心帰一の天国を地上にも来(きた)らしめ給え。

みこころの実現するための道具として私をお使い下さい。
間違いなくみこころを行ずることが出来ますように
あなたの智慧を私に流れ入らしめ給え。
私をお導き下さい。

どれだけ働いても労(つか)れませねようにあなたの生命を私に注いで下さい。
すべての人々を赦し、赦すだけではなく、
すべての人々に感謝出来ますように、あなたの愛を私に流れ入らしめ給え。

自壊作用なくして理想世界が実現しますように。

すでにわが願いがあなたに聴かれたることを感謝いたします。

            <感謝合掌 平成30年6月8日 頓首再拝>

神の心に従うよう祈る - 伝統

2018/06/17 (Sun) 04:27:46


      *「光明道中記」(6月17日 正しく祈る日)

【利己的行動によって快楽を掴(つか)もうとすれば、却(かえ)って魂の平和を失う。
                           (『生命の實相』第四巻)】

神の心に従って物を考え、神の心に順(したが)って生活を行ずることが
吾等のこの世に生まれた使命である。
人類の考え方や、或るグループの考え方に従うのではないのである。

吾々が神想観によって事物の成就を願うときには
「金」を与え給えと云うように願ってはならないのである。

「金」は使い方によっては善ともなるが、使い方によっては又悪ともなるのである。
「金」の来ることのみを願って、正しい使い方を願わない場合には、
「金」は集って来たけれども、それが何らの利益に使用することも出来ず、
却って悩みの種になるであろう。

世間の金持の中には随分そんな不要な「金」を集めて、
子孫親戚たちを争いの渦中に投じたり、
自分を不要に堕落せしむるためにその「金」を使っている人もある。

それを考えて見るならば、
「金」のみを神想観で求めることが如何に下らないことであるかが判るであろう。

「金」がそんなにも欲しいならば、それは人類の心に従うて物を考えているからである。

吾々は神の心に従うて考えねばならぬのである。

「人を救い得るように吾が生命(いのち)をお使い下さい。
そしてそれに必要な一切の設備と費用とをお恵み下さい」と。

            <感謝合掌 平成30年6月17日 頓首再拝>

”本当の祈り” - 伝統

2018/07/02 (Mon) 04:48:14


      *「希望を叶える365章」(P290)より

忍辱と精進

釈尊は彼岸に達する6つの修行(六波羅蜜)として
布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、
禅定(ぜんじょう)、般若を訓(おし)えられたが、

イエスは

「幸福(さいわい)なるかな、義(ぎ)のために責められた者、
天国はその人のものなり。我(わ)がために、人なんじらを罵(ののし)り、
また責め、詐(いつわ)ちて各様(さまざま)の悪しきことを言うときは。
汝ら乞う幸福(さいわい)なり。喜び喜べ、天にて汝らの報いは大なり」

と訓(おし)えていられるのである。

これは、仏教で謂えば「忍辱」と「精進」の誡めである。


どんなに罵(ののし)られても憤慨したり、腹を立てたりしないで、
義(ただ)しいと思うことを勇猛に精進努力して、いくら責められても
喜び喜んで、勇敢に義(ただ)しいと思うことを実践する 
 ―― これが”本当の祈り”なのである。

口先だけで、神様に阿諛(おべっか)を言うような祈りをしても
神の教えを実行しないようなものは、口先だけが神と波長が合っても、
実際に全生命が神と波長が合わないから、祈りは実現しないことになるのである。


            <感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>

《常識をこえる力》 - 伝統

2018/07/16 (Mon) 07:16:26


         *『生活の智慧365章』
            (第1部生命の泉)第3篇( P85~86) より

すべての生活を、祈りに始まって祈りに終わる生活となせ。
祈りは“神の心”と“人間の心“との波長を合わす最良の道である。

”神の世界“には一切の良きものが
「アイディアの形」又は「理念」として存在するのであり、
”神の世界“に波長を合わす事によって、その欲するものを受像して、
現象界に具体化することができるようになるのである。


吾々は常識的に判断して現象的には到底不可能だと見える問題に面すると、
もう常識的判断だけで“迚(とて)も駄目だ”と見切りをつけて、
祈ることすらも抛棄(ほうき)してしまうことがあり勝ちであるのである。

併(しか)し、それが正しい要求である限り、
常識的判断で”到底駄目“と見える事でも、
神に於いては不可能なことはないのである。

どんな失敗でも、神はそれを償うてあまりある救済策を与え給うのである。
如何なる複雑な問題でも神によって解決できない問題はないのである。

どんな面倒な人間関係でも、神の愛がそこにあらわれるとき、
何人もみな満足できるような解決に到達し得るのである。

どんな悪癖悪習慣でも例えば麻薬の中毒患者でも。
神の力が発現するならば矯正できない種類のものはないのである。

ヒロポンの中毒患者が、注射を中断すると
恐ろしい禁断症状で苦しむのが普通であるが、
飛田給の生長の家練成道場で神想観をし、神との一体感を深め、

「人間・神の子、ヒロポン中毒本来無し」の自覚に入ると、
忽ちにして中毒症状は去り、自然に注射がいらなくなり、
注射を止(や)めても、少しも禁断症で苦しまずに
健康な生活に移行し得た実例も屡々(しばしば)あるのである。

            <感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>

「毎日祈ることが大切」  - 伝統

2018/07/27 (Fri) 03:57:09


        *『女性の幸福365章』(P13)より

祈りというものは、魂が神に近づく心の体操であるから、
毎日、肉体の体操をしておれば筋肉が発達して来るのと同じように、
祈りを毎日重ねていると、魂は毎日一層清まり、発達して来るのである。

それが本当の祈りの御利益というものであって、
現世的なことばかりを御利益だと思ってはならない。

現世的な御利益は肉体の死とともに捨ててしまわねばならぬけれども、
魂の清まりと発達とは死を超えて存続する永遠の功徳なのである。


毎日祈ることが必要である。
それは毎日食事をとり、ある程度の肉体的運動が必要なのと同じことである。

食事をするときには自分自身に適する食物と、適しないでも常食として
常に食しなければならない食物があるのと同じように、一定の言葉を念ずる
基本的神想観をすることは正しい主食品を常食とするようなものである。

それのほかに祈る際、自分自身の個性に適するところの「念ずる特殊の言葉」
が自然に生じて来るものである。

その特殊の言葉を『私はこうして祈る』の本から選び出すのもよいが、
自然に祈っているうちに、内部の神から教えられて来るものである。

            <感謝合掌 平成30年7月27日 頓首再拝>

祈りは知らない人も癒してしまう - 伝統

2018/08/14 (Tue) 04:34:17


       *『読むだけで心がラクになる22の言葉』
            本田健・著(P60~62)より

アメリカの研究で、こんな実験がありました。

末期がん患者を無作為に選んで、
AとBの2つのグループに分けます。

彼らから遠く離れたところに住む10人の健康な人に、
Aグループの患者さん10人の名前を伝えて
回復を祈ってもらいます。

Bグループの患者さんには、
まったく何もしません。

その結果は、驚くべきものでした。

祈ってもらったAグループの患者さん
(自分が祈ってもらっているとは知らない)は、
あきらかに回復率が高かったのです。

祈っている人は相手が誰かも知らないし、
祈ってもらっている人は何も聞かされていない
にもかかわらず、です。

何回実験しても、また
ニューヨークの病院の患者さんでも
ロサンゼルスの病院の患者さんでも
同じ、
という結果になりました。

祈りの効果には、距離も関係がないことがわかったのです。

現代の科学では、そのメカニズムはまったく解明されていませんが、
その効果は科学的に証明できたわけです。

それほどまでに、祈りには力があるのです。

私がおもしろいと思ったのは、
祈るほうもたいして信心深い人ではなく、
特別に気合いをいれて(!?)祈ったわけでもないのに、
効果があったという点です。

キリスト教や仏教の熱心な信者でなくても、
自分の祈りの効果を信じていなくても、
効いたというのですから驚きです。

自分のために祈っても無心の状態にはなれませんが、
誰か自分よりも大変な人を思い浮かべて祈ってあげると、
一生懸命になれます。

あなたよりも経済状態が悪かったり、病状がひどかったり、
人間関係に苦しんでいたりする人のために、
ぜひ祈ってあげてください。

そういう人がまわりに思い浮かばない人は、
外国で戦争やテロの犠牲になったり、
食べ物を満足に食べられない子どもたちのために
祈ってあげてください。

すると、不思議なことに、
心が安らかになってきます。
無心になって人の幸せを祈ると、自分にも
それが返ってくるからです。

愛は、差し出すことで、
いくらでも自分の中から湧いてくるという
不思議な性質を持っています。

でも、相手からその見返りが欲しいと思った途端、
愛が返ってこないと感じてイライラしたり、落ち込んだりします。

欲しいと思うと手に入らないのに、
他人にあげようと思った途端に手に入るとは、
ユニークな仕組みです。

人間の心に、この仕組みが
プレインストールされているのなら、
宇宙の摂理がそうなっているのかもしれません。

もし神様がいるとしたら、
ユーモアのセンスがありますね。

「与えるものは、与えられる」のです。

            <感謝合掌 平成30年8月14日 頓首再拝>

他の人々の為に祷る祈りが効果を現す - 伝統

2018/08/29 (Wed) 04:02:30


       *「光明法語」(8月29日 祈りと健康の関係)より

カレル博士は肉体に解剖的な結果を引起すところの精神状態の一種として
「祈り」の精神状態を指摘している。

博士は「それは哲学者や科学者には分かりもしないし、達することも出来ないが、
心の純真な人は、神をまるで太陽の熱や、友達の如く容易く感ずることが出来る」
と言っている。

特に博士が指摘した健康を改善する祈りは
「先ず全く捨我、捨我なき状態たる事を要する」。

自分の病気を癒し給えると祈るよりも他の人々の為に祷る祈りが効果を現すのである。

            <感謝合掌 平成30年8月29日 頓首再拝>

自分を放擲した祷(いの)りが時として奇跡を起こす - 伝統

2018/08/30 (Thu) 03:09:02


       *「光明法語」(8月30日 吾の祈りは神に通ず)より

カレル博士は言う、
「総じて祈る人は、自己が治癒することを願うものではない。
祈る人は他の人々の為に祈る。
この種の祈りは、その条件として自分を放擲(ほうてき)すること、
即ち一種の禁欲、没我の高い精神を要する。

謙遜な人々、無知な人々、貧しき人々は、富める人々や、知識ある人々よりも、
その可能性が一層ある。
祷(いの)りが時として奇跡を起こすのは斯う云う訳である」と。

自分の病気の癒える事を常に念ずる者は病いを心の描くから却って癒えないのである。

            <感謝合掌 平成30年8月30日 頓首再拝>

《神は霊であるから霊を求むるべきである》 - 伝統

2018/09/18 (Tue) 04:24:28


         *『 生長の家 』(昭和25年1月18日)の法語より

   祈りの効果は、その祈りによって、
   物質的な何ものかが 与えられるということではなく

   神の智慧を与えられ、神の愛を与えられ、
   神の力を与えられるということが
   祈りの最大の効果であるのである。


   神の世界に於(お)いては、 「 物質 」 は存在しないのであるから、
   「 物質 」 を求めることは、存在しないものを求めるにすぎないのである。

   それよりも必要なのは、神は霊であるから
   その霊なる生命と、智慧と、愛とを求めることであるのである。

   神の生命を得た時に 健康になるのは当然のことである。
   ( 新著 「 祈りの科学 」 参照 )。

   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d57028029d52676c48b4010b208cfab6

            <感謝合掌 平成30年9月18日 頓首再拝>

神の波長に合わす - 伝統

2018/09/24 (Mon) 03:39:40


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月24日)より

働いても働いても成功しないのは、
その働きの方向が、まちがった方向または無駄な方向、
あるいは、能率少ない方向に向かっているからである。

かく誤った方向にその動きが向けられるのは、
それは神の智慧に導かれないからである。

神の智慧に導かれないのは、神の心と波長が合わないからである。

神の心と波長が合わないのは、神に祈らないからである。

神に祈るということは、神の霊波に心を振り向けるということであって
感応すべき波を選ぶ選波の努力である。

祈ってもきかれないのは、心を神に振り向けるけれども、信仰が少ないのと、
明るい心がないために神の波長に自分の心が合わないからである。

             <感謝合掌 平成30年9月24日 頓首再拝>

正しい祈り - 伝統

2018/10/10 (Wed) 04:26:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月10日>(P97)より

祈る場合に、まずその祈り求めるものが、正しいかどうかを省みよ。
正しいということを窮屈な意味にとってはならない。

(1)その求めるものは建設的なことであるか。
   破壊的なことは正しい願いではない。

(2)だれかを豊かにすることであるか。
   (だれかを乏しくならせることは正しい願いではない)

(3)だれかを不幸に陥れたり、損失を与えたりするものではないか。

(4)この世に混乱を起こしたり、
   だれかの感情を掻き乱したりするものではないか。

これらの自己反省してみて、
それのテストに及第するものであれば、祈ってよいのである。

そしてその祈りの言葉は、
宇宙的な創造力によってバックされ実現の途上にあると信じてよいのである。

           <感謝合掌 平成30年10月10日 頓首再拝>

祈りの2つの種類 - 伝統

2018/10/12 (Fri) 03:18:23


          *「光明法語(10月12日)」より

祈りには2つの種類がある。
自力的な祈りと他力的な祈りと。
基督教的に云えば洗礼のヨハネ式祈りとイエス式祈りのとの区別である。

山伏的な修験者的な行(ぎょう)により天国(又は幸福)を地上に来(きた)そうとする
自力の行は断食水行野蜜を食(くら)いて粗衣粗食をした洗礼のヨハネによく顕れている。

仏教でも聖道門の行者は自力的精進によって仏陀(さとり)の境地に達しようとした。

併し法然や親鸞やイエスは、仏の本願力又は神の恩寵によって
「与えられた天国」を受けようとした。

           <感謝合掌 平成30年10月12日 頓首再拝>

相対的祈りと絶対的祈り - 伝統

2018/10/13 (Sat) 03:33:18


          *「光明法語(10月13日)」より

洗礼のヨハネ的祈りは、彼が祈ってやろうと云う相手に対して思念を集中し、
その思念の力によって相手の悩みを撃退しようとする方法である。
これは自分の思念と相手の悩みとが対立的になるのである。

「悩み」は無いのではなくして、「悩み」を「ある」として認め、
それに対抗する光明の念を念送する事によって相手の悩みを抹殺するのである。

イエス的な祈りの方法は、相手の悩みも病いも見ないのである。
ただ、神の国の義(ただ)しきとを観るのである。
観るのも自分が見るのではなくて自己に宿る神が観るのである。

            <感謝合掌 平成30年10月13日 頓首再拝>

祈りの効果は、自分の心の調節いかんにある - 伝統

2018/10/14 (Sun) 04:40:10


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月14日>(P100)より

ラジオが鳴り出すのは、ラジオ・セットそのものの中の機構の調節によるがごとく、
祈りが効果をあらわすのも、自分の心の調節いかんにあるのである。

われわれがラジオ・セットの調節を誤って、ラジオが鳴り出さないときにも、
放送局の放送はプログラムのとおりに《ある》と同じように、

われわれの心の調節を誤って、神の恵みが現実世界にあらわれてこない時にも、
依然として神の恵みは、宇宙に充つることあたかもラジオ波(なみ)のようにである。

祈らないでも神の恵みは充ち満ちているが、
本当の祈りによってその心境になったとき現実世界に、
その恵みがテレビジョン化して現われてくるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月14日 頓首再拝>

神を讃美する祈り - 伝統

2018/10/15 (Mon) 04:17:47


          *「光明法語(10月15日)」より

天の父われに在(いま)してみ業(わざ)を成し給う式の祈りは、
天の父のみ業の荘厳極(きわま)りなく美しき事を認め、
ただ讃(ほ)め称(たた)えるだけで好いのである。

観と讃歎である。

此の種の祈りは長時間やってもつかれる事はない。
天の父の無限の力が流れ入って却って心気爽快、再生の思いがするものである。
聖書によれば、イエスは常に暁方(あけがた)に山に入って長時間祈っていたらしい。

彼はそれによって力を得、実際病いを治す時には、「神が成し給う」と思うだけで、
祈りもしないで、「起ちて歩め」と言ったようである。

            <感謝合掌 平成30年10月15日 頓首再拝>

「祈り」は願望実現が目的でない - 伝統

2018/10/22 (Mon) 04:41:17

          *「光明法語(10月22日)」より

神様にまかす位ならば、「祈り」の必要はない。
「祈り」をするのは自分の願いをかなえる為であって、祈りに志向性はつきものである。
自分の願いがないならば「祈る」必要はない

 ―― と考えるのは間違いである。


「祈り」と云うものは、「親なる神」と「子なる人間」との人格的交わりとして
欠くべからざる人間の行事なのである。

だから、潜在意識の深き願いは、神のみこころでなくても
「心の影」として実現するのである。
だから、欲するものを実現するばかりが祈りではないのである。

            <感謝合掌 平成30年10月22日 頓首再拝>

実相完全の願いの実現 - 伝統

2018/10/24 (Wed) 02:18:44


          *「光明法語(10月24日)」より

この現在意識と潜在意識の食いちがいはどううして起こるのか。

それはみずからの「実相の願い」(本来与えられている本性又は使命)を
ツツミて知らざるところから来るのである。
換言すれば、それはツツミ(即ち罪)である。

「みこころのままにならしめ給え」と祈ることは単に自己の現在意識の願いを捨てるに
とどまらず、潜在意識の願いの歪みまでも、その自我放棄によって捨てることになる。

かくて現在・潜在の両意識の歪みが悉く捨てられて実相完全の願いのみが実現する。

            <感謝合掌 平成20年10月24日 頓首再拝>

酒癖を治した人の祈りと行動 - 伝統

2018/11/05 (Mon) 03:43:20

        *『人生の秘訣365章』第8篇(P196~197) より 
          ~ 酒癖を治した人の話

自己改善を遂げようという熱意と決意と努力のある処に、
自己改善を遂げ得るのである。

或る誌友は、飲酒癖をもっていたが、それを止めたいと思って祈ったが、
なかなか飲酒癖が止まなかった。

彼は、「祈っておれば、神が自然にこの癖を止めて下さるだろう」と
安易な、他力的な、蟲のよい事を考えながら依然として酒を飲んでいた。
しかしその祈りは効果を奏しなかったのである。

或る日彼は気がついた。

「自分は誘惑に身をゆだねながら、切実に酒癖を治そうという
真剣な努力をしないでいながら、“酒癖を治したまえ”と神に祈ることは、
神を愚弄することになるではないか。
神に祈る位ならば、神に真剣に協力して、酒癖をやめるべく
自分の行動を開始しなければならぬ」

彼はこのように決意すると、
それ以来断じて酒盃を手にしないことにしたのである。

すると自然に、酒を飲みたいという渇欲が消えて、
他(た)の人が酒を飲んでいるのを見ても少しも飲みたくなくなったのである。

            <感謝合掌 平成30年11月5日 頓首再拝>

「声」と「コトバ」 - 伝統

2018/11/15 (Thu) 02:59:41


       *「光明法語」(11月15日の法語)より

祈りには自力の祈りと、他力の祈りとがある。
自力の祈りは、洗礼のヨハネの如く 「曠野(あらの)に叫べる声」 である。
曠野とは、そこに神の生命が満ちていないと云う意味である。

人と人とは個々に孤立していて、
神の生命によって互いにつながっている自覚がないのである。
互いに呼び交わす声は、声にとどまり、
互いに意味が疎通する 「コトバ」 にはなっていない。

互いに意味が疎通するには一人の生命の動きが神と云う共通の媒介によって
他の人々の生命の動きと共感しなければならぬ。

            <感謝合掌 平成30年11月15日 頓首再拝>

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