伝統板・第二

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神への全托 ③ - 伝統

2018/03/28 (Wed) 03:14:53

      *伝統板・第二「神への全托②」からの継続です。
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6945881


内在の神性に委せ切れ

           *「光明法語」(3月28日)より

イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、
ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。

「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。

ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。

この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「神に全托」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1562 

(2)光明掲示板・伝統・第一「神への全托 (81)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=50

(3)伝統板・第二「神への全托①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460526

            <感謝合掌 平成30年3月28日 頓首再拝>

神の御心のままに - 伝統

2018/04/15 (Sun) 02:35:48


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月15日)」より

「《あれ》がほしい」と思ったが得られないとて嘆くな。
あの電車に乗っていたら衝突していたのだからね。

「《あれ》がほしい」と思って成就する時と
しない時との区別(けじめ)はそこにある。

こんな時に神から離れる者は
永久に《本当の幸福》を掴むことはできないものである。

            <感謝合掌 平成30年4月15日 頓首再拝>

神に全托(ぜんたく)すれば最も善いものが来る - 伝統

2018/05/05 (Sat) 03:22:41


        *『 生長の家 』(昭和25年1月20日の法語)より


「 私の意志が 神様にきかれますように」と祈るよりも、

「 神さまの意志が、み心の通りに私の中に行われますように 」 と

祈る方が正しき祈りであるのである。


自分の欲するものが その祈りの結果として実現して来なくとも、
それは 却(かえ)っていいことなのである。


自分の意志よりも、神さまの み心の方が、
何が一そう善いかということをよりよく知り給うからである。


神への無条件降伏は 宗教の極致であり、幸福の源泉であるのである。

無条件降伏が無条件幸福である。

   (http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/04babba361b61c4710eb0611f64f4c45

            <感謝合掌 平成30年5月5日 頓首再拝>

《喜びの青空に出る道》 - 伝統

2018/05/11 (Fri) 03:39:40


        *「光明法語」(5月11日)より

海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。

墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。

今有(も)てる何物かを失った時には、それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。

かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。

神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。

            <感謝合掌 平成30年5月11日 頓首再拝>

《神が汝をつかんでいる》  - 伝統

2018/05/12 (Sat) 03:47:53


        *「光明法語」(5月12日)より

神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。

神に手を握って貰おうと思ったならば、
ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。

空手にして郷(きょう)に帰るとき、
掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。

しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。

つかむも放つも人間の自由である。

しかし一切を神にその空手を差出さねば
神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。

            <感謝合掌 平成30年5月12日 頓首再拝>

《難問題は神に委ねよ》 - 伝統

2018/05/20 (Sun) 04:20:43


        *「光明法語」(5月20日)より

人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。

「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」 
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。

また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月20日 頓首再拝>

《全てを神の手に托せよ》 - 伝統

2018/05/21 (Mon) 04:21:40


        *「光明法語」(5月21日)より

如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。

それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。

それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。

すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。

神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。

            <感謝合掌 平成30年5月21日 頓首再拝>

一切を神に托し切れ - 伝統

2018/06/14 (Thu) 03:17:44


       *「光明法語」<6月14日>より

自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。

それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。

取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。

神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。

ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。

これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。

            <感謝合掌 平成30年6月14日 頓首再拝>

みずからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。 - 伝統

2018/06/25 (Mon) 03:28:15


       *「光明道中記」(6月25日 神に全托する日) 

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】

自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。

自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。

自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。

公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。

讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。

われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。

みすからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。

「主はみこころを必ず成し給わん」

            <感謝合掌 平成30年6月25日 頓首再拝>

心の扉を開け放ち、神を招き入れる - 伝統

2018/06/28 (Thu) 03:42:06


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月28日)より

神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。

心を開いて待つことが神を招く方法である。

明るい心、歓喜の心、愛の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。

           <感謝合掌 平成30年6月28日 頓首再拝>

《神にゆだねる時一切が好転する》 - 伝統

2018/07/12 (Thu) 03:27:24


        *『人生の秘訣365章』第6篇(P156) より

神に於いては、大も大ならず、小も小ならずなのであるから、
どんな大(だい)なる問題でも、どんな小なる問題でも神にゆだねて、
その叡智の指導を受けることはよい事であるのである。

神に敵対する力のあるものはこの世の中に何ものも存在しないのであるから、
神に問題をゆだねる以上は、心を騒がす必要も、恐怖する必要もないのである。

ただあなたにとって必要な心の態度は、
「此の今の時点に於いて、神の御心を成就するのに何を為すべきかを導き給え」
という信仰をもつことである。

そしてそのような信仰によって毎日祈るとき、それから後(のち)、
どんな環境があらわれて来ようとも、その背後には
「神の聖なる御心」があるのであるから、

それはその上に、御心である壮麗な建築が造られるための地均しであるから、
感謝してそれが必ず好転し行くことを見戌(みまも)るがよい。

           <感謝合掌 平成30年7月12日 頓首再拝>

宇宙に遍満し給う神に全托 - 伝統

2018/07/15 (Sun) 03:59:07


        *「光明法語」(7月15日の法語 神は遍満し給う)より

神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。

謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。

「タオルを手拭いかけに掛けるように、私は私の生命(いのち)を神様にすっかり
もたれかけました」と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。

全托である。

           <感謝合掌 平成30年7月15日 頓首再拝>

神に与え切る - 伝統

2018/07/16 (Mon) 07:11:48


        *「光明法語」(7月16日の法語 神に対して戸を開け)より

神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。

与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。

神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。

神に与え切りにする人こそ癒されるのである。

           <感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>

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