伝統板・第二

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幸福の筐を開く⑤ - 夕刻版

2018/03/09 (Fri) 19:49:43


    *伝統板・第二「幸福の筐を開く④」からの継続です。
           → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7609493


《過去の不幸を駆逐せよ》

      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第2篇( P52~53) より

「人間・神の子」の実相のみが実在であるから、
その他の一切の悪しきものは非存在なのである。

過去に犯した罪も存在しないし、過去に不快だった出来事も結局非存在であって、
一時(じ)、雲があらわれたが、今はその雲は消えて
それを再現しようと思っても再現出来ないようなものである。

されば、過去にあった一切の不幸を、一切の不快な出来事を、心の世界から駆逐せよ。

そのとき、あなたを不幸の世界に引き戻そうとしていた”心の綱”が消えてしまって、
ただ幸福の世界にのみ前進することができるようになるのである。


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「幸い (475)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=137     

(2)「光明掲示板・第ニ」内スレッド「幸福 (10773)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2071

(3)光明掲示板・第三「幸福 (85)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=42

(4)光明掲示板・伝統・第一「幸福への出発」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=17

(5)伝統板・第二「幸福の筐を開く①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6493420

(6)伝統板・第二「幸福の筐を開く②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6840845

(7)伝統板・第二「幸福の筐を開く③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7564514

            <感謝合掌 平成30年3月9日 頓首再拝>

【幸せ指数を高める】 - 伝統

2018/03/10 (Sat) 18:19:46


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年02月26日)より

   (ジェリー・ミンチントン氏の心に響く言葉より…)

   幸せとは、自分が作り出す心の状態のことである。

   「幸せ指数」を高める方法をいくつか紹介しよう。


   ◎本当に楽しいと思うことをもっとする。

   何かに没頭していたときのことを思い出そう。
   そのとき、あなたは不確実な未来や悲痛な過去について考えず、現在に生きていた。
   幸せとは、我を忘れて何かに没頭しているときの感情だ。


   ◎ネガティブな出来事を分類する

   ネガティブな出来事を
   「どうにもならないこと」と「なんとかなること」のふたつに分類しよう。

   どうにもならないことに不平を言っても時間と労力のムダだ。

   なんとかなることに取り組もう。


   ◎幸せを感じる理由をたくさん見つける。

   一部の人は、不平ばかり言ってネガティブな出来事を強調する人を身近に見て育った。
   だが、こんな悪習に染まってはいけない。

   幸せを感じる理由を探し出そう。
   たくさん見つかるはずだ。


   ◎自尊心を高める。

   人生はつまらないと思うなら、意識的かどうかは別として、
   人生とはそういうものだと信じているからだ。

   この状況を変えるには、自尊心を高めるといいい。

   自分は素晴らしい人生を送る価値があると思えるはずだ。


   ◎いいことが起こると期待する。

   幻想を抱いて何もせずにじっと待つという意味ではない。
   いいことが起こると期待すると、実際にそれを経験することになる。
   楽天的でいると、問題解決に向けて前向きな考え方ができるからだ。


   《幸せは、自分でつくり出せる感情だ》

          <【うまくいっている人の考え方】ディスカヴァー>

              ・・・

今すぐに、一瞬で幸せになる方法がある。

それは、「今、幸せだ」と感じること。


小林正観さんは、
「幸せという状態」があるのではなく「幸せを感じる自分」がいるだけだという。

寒い晩に温かなお風呂に入ったとき、
「ああ、しあわせ」としみじみ感じたら、それが幸せな状態。

何気ない日常でそれを感じるかどうか。


健康で食事ができて「幸せ」。

自分の足で歩くことができて「幸せ」。

夜眠れる家があって「幸せ」。

道ばたに咲いている小さなタンポポをみつけて「幸せ」。


幸せ指数を高めたい。

            <感謝合掌 平成30年3月10日 頓首再拝>

幸福になる道はただ《自分で》掘り出すことにある - 伝統

2018/03/12 (Mon) 17:49:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月12日)」より

持ち主もなく宝物がいたるところに埋(うず)められている。
誰もそれを掘り出さないだけだ。

幸福になる道はただ《自分で》掘り出すことにある。

            <感謝合掌 平成30年3月12日 頓首再拝>

幸福とは心の一つの状態である - 伝統

2018/03/13 (Tue) 19:15:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月13日)」より

幸福になりたければ、まず自分が幸福になれである。
あたりまえのことがあたりまえである。噛みしめれば味がある。

注意すべきは、幸福とは心の一つの状態であるということである。
金殿玉楼の中にいて、輾転(てんてん)反側して眠れない人もいれば、
弾丸雨飛の中にいて喜びいっぱいの人もある。

            <感謝合掌 平成30年3月13日 頓首再拝>

幸福は無我の中にある - 伝統

2018/03/16 (Fri) 18:41:47


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月16日)」より

幸福は無我の中にある。従うことの中にある。

幸福が我欲の中や、強情我漫の中にあると思っている間は、
その人の心に悪魔が忍び込んでいるのである。

無いものを「有る」と主張する嘘つきが悪魔である。

            <感謝合掌 平成30年3月16日 頓首再拝>

【自分が今、手にしているものに目を向ける】 - 伝統

2018/03/23 (Fri) 19:09:15

        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年03月23日)より

   (綾小路きみまろ氏の心に響く言葉より…)

   その昔、オーストリアに、エリザベートというそれは美しい女性がいたそうです。

   貴族の娘として生まれたエリザベートは、やがて皇帝に見初められ、
   16歳でオーストリア皇后となります。

   ところが生来の自由人気質から、堅苦しい宮廷生活を嫌い、
   ヨーロッパ各地を旅行してばかりだったとか。

   皇后としての職務だけでなく、妻や母としての役目も
   果たそうとしなかったエリザベートは、やがて宮廷内で孤立していき、
   その寂しさから、さらに破滅的な行動に拍車がかかっていったといいます。

   そんなエリザベートの唯一の武器は、圧倒的な美貌でした。

   彼女は美しい顔立ちをしていただけでなく、
   身長172センチの長身、体重は45キログラム程度。
   ウエストにいたってはなんと50センチと、
   驚異的な体型の持ち主だったそうです。


   エリザベートの美に対する執着は、常軌を逸していました。

   美貌と若さを維持するために、肉は一切食べず、
   食事は専(もっぱ)らブイヨンやオレンジジュース、ミルク、
   卵の白身だけで済ませていたようです。

   また、体型維持のため、何人もの侍女を従えて
   1日中宮廷内を早足で歩いたり、
   毎晩お酢に浸した布をウエストに巻きつけて過ごしたりしたといいます。

   しかし、それほどの努力をもってしても、
   老いに抗(あらが)うことはできませんでした。

   晩年、エリザベートは、分厚い黒のベールを頭からかぶり、
   さらに扇や日傘で隠して、決して顔を見せようとはしかなったといいます。

   シワやシミだらけになってしまった自分の醜い顔を、
   人前にさらしたくなかったからです。

   その後、1898年に、エリザベートは旅行先の湖のほとりで
   暴漢に胸を刺され、その生涯を閉じます。

   死後、彼女の波乱に満ちた人生は舞台化され、
   現在も世界中で人気を博しています。


   女性に美に対する憧れと執念は、今も昔も変わりません。

   エリザベートの歩んだ人生を見てみると、美しさを手に入れることが、
   必ずしも人生の幸福につながるというわけではなさそうです。

   彼女は、圧倒的な美しさによって大きな成功を手に入れました。
   しかし美しかったゆえに、それを失うことを、人一倍恐れた。
   老いて醜くなるほど、彼女の苦しみや孤独は、
   人の何倍も大きく膨らんでいったのです。


   人は、必ず老いていきます。
   その運命からは逃れられません。

   美しい人はたるんでいく顔に、たくましい人はやせ細っていく体に、
   聡明な人はぼんやりと鈍っていく頭に、人一倍悩んで老いていきます。

   人よりも輝いている部分をもっている人ほど、
   人生の後半は、それに悩まされて死んでいくのです。

   人生は、良いことも悪いことも全部半分ずつ、均(なら)せば同じ。

   最後は、ちゃんと辻褄が合うようにできているのですね。

   どんな人にも、その人にしか務まらない役割があると、私は思います。

   美しくなくとも、体力がなくとも、
   全員、どこか一つはいいところが必ずある。

   人には、それぞれ生まれ持った器があるのです。


   美しさや若さは眩(まぶ)しくキラキラ輝いて見えますが、
   日が陰り光を失ったときにこそ、その人の正体は生々しく浮かび上がります。

   自分にないもの、失ったものと同じだけ、
   自分が今、手にしているものに目を向けられるか。

   そこに人生を最後まで楽しむヒントが隠されているように、私は思うのです。

   《優れた部分がある人ほど、最後はその衰えに失望しながら死んでいく。
    自分にないものではなく、手にしているものに、目を向けて生きよう。》

        <『しょせん幸せなんて、自己申告。』朝日新聞出版>

            ・・・

絶世の美女と言われた、小野小町の詠んだ歌。

「花の色は うつりにけりな  いたづらに  わが身世にふる  ながめせしまに」


桜の花の色は、 長雨が降り続く間に 、衰え色あせてしまった。

私も、恋や世俗の事に思い悩んでいるあいだに、むなしく月日を過ごしてしまった。

ちょうど私の美貌が衰えたように。


そして、こんなすさまじい辞世の句を残した。

「われ死〇ば 焼くな埋むるな 野にさらせ 痩せたる犬の腹肥やせ」

もし、私が死んでも、焼いたリ埋めたりしなくてもよい。

野に放り出して、痩せた犬にでも食わせてやってくれ。


どんなに絶世の美女であろうが、時がたてば老い、そして死んでいく。

そして死〇ば、自分の体は、あの世に持っていくことはできない。

これは、財産も、名誉も、肩書も、みな同じこと。


だからこそ、無いものを嘆くのではなく、
今自分が持っているものに目を向け、
そしてそれがあることに感謝することが必要。

今、仕事があり、家があり、家族や友や仲間があり、
そして、 生きていること、五体あることに感謝する。


幸せな人は、ないものを嘆くのではなく、今あるものに感謝する。

自分が今、手にしているものに目を向けたい。

  *〇:ね

            <感謝合掌 平成30年3月23日 頓首再拝>

幸福の秘訣 - 伝統

2018/03/25 (Sun) 17:31:42


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月25日)」より

胸を広くして待っていること。

ここに幸福の秘訣がある。

            <感謝合掌 平成30年3月25日 頓首再拝>

招かずして幸福来る日 - 伝統

2018/04/13 (Fri) 18:20:14


           *「光明道中記」(4月13日)より

【貨幣を与えると労働力が動き出して価値創造が始まるのであります。
                          (『百事如意』)】


何でもあまり追っ駈け廻すと嫌われる。
恋人にさえもあまり執着するならば、その人は嫌われるであろう。
執着と云うものは相手にまつわり着き、
相手を心で縛って窮屈な感情を起こさしめるからである。

「金」を追っかけると「金」は逃げて了(しま)うか、
「金」から来る「幸福」は逃げて了う。
「儲けよう」と思ってそればかりを追っかけている相場師に、
結局儲けた人も幸福になったひとも一人もない。

「眠り」を追っ駈け廻して「是非眠らねばならない」と
「眠り」を追っ駈け廻す時は「眠り」は逃げて了う。
―― 心の法則は何事に当て嵌めても同一効果である。

夜よく眠る法は、寝床は眠くなるところだ、と知らなければならない。

人生も同じことである。
幸福に《なろう》とするよりも、
人生と云うところは幸福な所だと気が附けば幸福がおのずから来るのである。

今晩はまた眠れないだろうと予想することは寝床とは眠くならぬ所だと
予想することになるから、不眠の原因となる。

今晩は眠れないだろうの感情は恐怖を伴った感情である。
恐怖は外敵に対峙する感情であるから、
外敵がある場合眠らないでいることが必要であるから、不眠は自然の自衛作用である。

自衛作用を病気だと取違する者は愚か者である。

            <感謝合掌 平成30年4月13日 頓首再拝>

幸福の声を聴く日 - 伝統

2018/04/14 (Sat) 17:41:08


           *「光明道中記」(4月14日)より

【誰でもあらゆる物を有(も)って出発する。全てが吾がうちに在るんですからな。
                              (百事如意)】


「幸福」の天使(てんのつかい)が出て来まして或る日私に斯(こ)う言いました。――

「私は常にあなたの後を追っ駆けて走っているのですのに、
あなたは何故(なぜ)そんなに逃げるのですか。もっと緩(ゆっく)り歩きなさい。

急ぐことは要らないのです。当たり前に歩いていさえすれば
私は屹度あなたに追着くことが出来るのです。
それだのにあなたはそんなに私から逃げて走って行くのですか」

私は答えました ――

「幸福さん、私は貴方(あなた)から逃げているのではありません。
私は貴方に近附こうとして一所懸命走っているのです。
それだのに貴方は私が走れば走る程逃げて行くのです」

「幸福」は斯う答えました。

「私は逃げていません。私も貴方に追着こうとして走っているのです。
それだのに私は貴方に追着けないのです。
あ、判りました。私たちは人生と云う円周の上を走っているのでした。
どちらかが緩(ゆっく)り歩いたら、すぐ二人は一緒のところへ来るのでした」

「斯うですか? 」私は人生の歩みを止めました。
と同時に「幸福」の天使の姿は見えなくなり、

「止まっては可(い)けません。
止まってはどう云うものか私にはあなたの姿が何処(どこ)にいるか見えなくなるのです」
と云う声だけが聞こえました。――

            <感謝合掌 平成30年4月14日 頓首再拝>

幸福が追着いてくれるためには - 伝統

2018/04/15 (Sun) 18:41:06


           *「光明道中記」(4月15日 喜びに招かれる日)より

【・・・この力と接触する道は、最大多数の人間には最大多数の善を為そうと思って
 自己の生活を正しくすることです。『百事如意』】


「幸福」はあなたを愛人のように追駆けて走っており、
あなたも亦「幸福」を愛人のように追駆けて走っており、
そうして互いに相逢ことが出来ないのは、

「幸福」と同一円周上にいながらあなたが「幸福」をあまりに追駆け廻している
からだと云うことに気がお着きになったことでしょう。

一所懸命に「幸福」を追賭け廻している限り、
ついに吾々は「幸福」に追着くことが出来ないのです。

では停止して了(しま)ったら、「幸福」の方から追着いてくれるでしょうか。

吾々が人生の働きの歩みを停止したら、「幸福」の眼には吾々の姿が見えなくなるのです。
何故なら各人は、「生命」であり、「生命」は活動している時だけ、
その姿が顕れているからです。
「生命」が活動を止(や)めたときに、そこに吾々はもういない。

吾々の姿は無くなるのです。

だから「幸福」の天使(てんのつかい)に追着いて貰うためには
吾々は「幸福」を追駆け廻してはならないし、
それだと言って「生命」の歩みを止(と)めてはならないのです。

「幸福は必ず自分に追着いてくれるもの」と信じて、
急がず焦らず悠々と着実に今自分に与えられたる人生の行路を歩む者には
遂に幸福が追着いてくれるのです。 

            <感謝合掌 平成30年4月15日 頓首再拝>

本当の幸福の味 - 伝統

2018/04/27 (Fri) 17:36:37


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月26日)」より

本当の幸福は淡々たる水のごときものである。
淡々たる水のごとき幸福によってのみ魂は本当の渇(かつ)を癒されるのである。

どぎつい幸福、有頂天な歓喜、陶酔的な快味は、アイスクリームのごとく、
コーヒーのごとく、砂糖入りの紅茶のごとく、酒のごとく、アルコールのごとく、
刺激が強いかわりにいつまでも渇きは続くのである。

淡々たる生活の本当の幸福の味を知るようになるまで、
人間は彷徨(さまよ<ほうこう>)い歩かねばならないのであろう。

            <感謝合掌 平成30年4月27日 頓首再拝>

【苦あれば楽あり】 - 伝統

2018/04/28 (Sat) 19:02:43


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年04月21日)より

   (中島輝氏の心に響く言葉より…)

   《人生は、避けがたい条件に包まれている》(エマソン)

   避けがたい条件とは、「原因があるから、結果がある」
   「得るものがあれば、失うものがある」など、
   人生には分離できないものがあるということです。

   エマソンはこのことについて、以下のように苦言を呈しています。


   賢明でない人間は、富や名声を得るということは、
   苦しい面は受け取らず甘い面だけを得ることだと考え、
   自分の欲しいものを欲しくないものから切り離せると考える。

   このような試みは、すべて失敗に終わることは明白だ…。


   仕事でもプライベートでも、物事がうまくいかない時は、
   切り離せないものの片方だけを得ようとしている時ではないでしょうか?

   利益ばかり考えて先行投資をしなかったり、
   失敗を一切しないで成功させようとしたりしていませんか?


   本来分離できないものを分離し、片方の「甘い」部分だけを得ようと
   してしまうのは、時々そうやって利益だけを獲得している人がいるから
   なのかもしれません。

   それを自慢する人もいるでしょう。


   しかし、エマソンは「もし人生の条件を避けたように見えたとしても、
   それは人生に抵抗し、自分から逃げ出しているからにほかならず、
   それに応じた報いを受ける」と言います。

   人生には、避けがたい条件を受け入れる覚悟が必要なのです。

        <『エマソン 自分を信じ抜く100の言葉』朝日新聞出版>

              ・・・

小林正観さんは、幸福と不幸についてこう語る。

『たとえば、私たちから見て右半分が一般的に言われる「不幸」で、
左半分が一般的に言われる「幸福」だと思ってください。

私たちが「幸せになりたい」とお願いすると、
神さまは「わかりました」といって振り子を左に持っていくかと思いきや、
右のほうに引っ張れるだけ引っ張るらいしいのです。

たとえば、山の中で遭難して何も食べられなかったとしましょう。

なんとか助けられて里にたどりつき、そこで一杯のおかゆをいただいた。

それはこのうえなくおいしく、楽しく、幸せで、素晴らしい食事となります。

でも、毎日のように贅沢な食事を食べ続けている中で一杯のおかゆをもらっても、
その価値はわからない。

つまり、私たちが「幸福」を感じるためには、
その前に、一般的に「不幸」と言われるような現象が存在しなければなりません』
(心を軽くする言葉)より


「苦あれば楽あり」という言葉がある。

苦と楽は表裏一体で、片方だけを得ることはできないという意だが、
まさに不幸と幸福も同じこと。

幸福を感じるためには、一般的にいう不幸という現象が必要だからだ。


「苦あれば楽あり」と、人生を楽しみたい。

            <感謝合掌 平成30年4月28日 頓首再拝>

「幸運」と「幸福」の違い  - 伝統

2018/04/30 (Mon) 18:26:59


        *「天に守護され、運命が好転するスピリチュアル」
               ~ 洪正幸・著(P132~133)より

宝くじを高額当選者や、多額の遺産を相続される人など、
運が良いと思われる人を見て、羨ましいと感じたり、どうして自分には
めぐってこないのだろう? と不満に思ったりする方もいます。

一攫千金で大金を手にすると、「運が良くて羨ましい」と思う人が多いのは
当然のことかもしれません。

しかし、一見して幸運をつかんだようでも、
それが幸福であるかは別の話です。

たとえば宝くじの当選は、突然に多額のお金が舞い込んだために、
金銭感覚がマヒして散財してしまい、のちに逆に苦しい生活を送るようになる
といった話はよくあります。

また、知り合いから無心されたり、強盗にあったり、さらには行方不明になるなど、
いたましい事件に巻き込まれることもあります。

このように、他の、何らかの不幸を背負うことがあるのです。

また、お金がたくさんあると、ほとんどの物は何でも簡単に手に入ったりしますので、
普通の人が経験する、苦労して何かを手に入れる喜びが、薄らいでしまいます。

そしていずれは、必ず「お金」以外の別な課題が出てきます

たちえば、周りに集まる人はお金目当ての人ばかりで、
真に愛する者が現れない場合があります
これは、お金では解決できない問題です。

一般に、大金を手に入れることは幸運であり、それがすなわち幸福だと
考えがちですが、実際にはそうではありません。

幸運といわれるものの代価として背負うことになる課題があり、
課題に耐えられず不幸に見舞われることがあります。

《その人にふさわしい分の、あるいは器に入る分のものを得るのが良くて、
それ以上を手に入れようとすると、どこかで無理が出て破綻してしまいます。》

ですから、一攫千金で安易に幸せを手に入れようとするのではなく、
自身を磨いて、器を大きくするように心がけるのが幸福への近道です。

            <感謝合掌 平成30年4月30日 頓首再拝>

幸福を演ずる役者  - 伝統

2018/05/03 (Thu) 17:15:46


       *「希望を叶える365章」(P52)より

先ず心を明るくせよ。
一切の暗黒をあなたの心の中から消し去れ。
悦びのみを心に描け。

心を愉快にもて。
自己を「愉快」と云う配役を演ずる役者の如く、人生に於いて振舞え。
人々に対して歓びの表情を投げかけよ。

苦痛を訴えるな。
他(ひと)に同情を求めるな。
他の人を辛く批評するな。

手近にある善き事を、愛にかなう仕事を何かなせ。
他(た)に同情を求むれば、自己が同情せられなければならないような
不幸や災難や病気を自己の潜在意識が造ることになる。

他(た)の人を辛(から)く批評すれば、また自分も辛く批評されることになる。

 
「幸福」と云う芝居で幸福役を演ずる役者に、
人生に於いて完全に成り得るならば、
あなたは本当にまた幸福者となり得るのである。

特に女性はこのような明るい女性となるとき家庭全体が光明化し、
その妻に背いていた良人も又その妻に魅力を感じて
家庭に帰って来る事になるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月3日 頓首再拝>

《あなたは神さまから愛されている》 - 伝統

2018/05/06 (Sun) 18:05:38


        *『人生の秘訣365章』第4篇(P101~102) より

私には「今ある幸福」などは無いのだ。
私が生れて来てこのかた、一度だって幸福だったためしはない
―― などと言われる人たちも沢山あると思います。

しかしあなたは太陽から光や温度をいただき、空気から酸素をいただき、
大地から、五穀や野菜や色々の食物を頂いて来ております。

今お召しになっている着物の繊維だって
恐らく御自分でおつくりになったのではありますまい。

あなたは無数の、そして量り知れない無限の恩恵の中に
包まれて生かされて来たのです。

そのように無量無限の恩恵の中に包まれて生かされて来ながら、
それを幸福だと感じ得られなかったのは、
それに気がつかなかったに過ぎないと思います。

あなたは恋人から愛されていると知ったら、幸福感につつまれるでしょう。

しかしあなたは「人間」という種類の恋人よりも尚一層高く尊い恋人である
神様から愛されて、空気も水も日光も穀物も野菜も衣類も・・・・・・
その他無数の贈り物を与えられていたのだと気がついたら、
今直ぐにでも「今ある幸福」に感謝する気持が起るに相違ありません。

            <感謝合掌 平成30年5月6日 頓首再拝>

幸福になる最大要件は何事に臨んでも全体観を失わないこと - 伝統

2018/05/09 (Wed) 21:15:48


         *『幸福の哲学』(P83~84)より

この宇宙に調和していないものは一つもないのでございます。
調和していないように思うのは、吾々の思いの間違いなのでございます。
吾々の五官は二局部しか見ることが出来ないのでございます。

五官の透過膜を通過したものしか見ないのですから
全体を見ることが出来ず、従って不調和に見えるのでございます。

全体を見ない場合には

「一方の足が後にいるのに一方の足は前に出るから不調和である。
どうして両方揃って前方へ進出しないのか」

と云うように、調和した歩行運動をすら、
不調和に見るのが人間の五官であります。

幸福の問題も同じことでございます。
一局部だけを自分の尺度で測って視て不幸だと見るのですけれども、
全体として視るときは、どんな経験もあなたにとって、
あなたの幸福のために存在するのでございます。

不幸だとお感じになるのは全体観を失ったからでございます。

幸福になる最大要件は何事に臨んでも
全体観を失わないと云うことでございます。

            <感謝合掌 平成30年5月9日 頓首再拝>

【「悲劇」はすべて「否定する心」からはじまる】 - 伝統

2018/05/18 (Fri) 19:09:35


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年04月18日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   《世の中の「悲劇」はすべて「否定する心」からはじまります》

   「そうじゃない、そうじゃない」と思う心、
   “非ず、非ず”と否定する“心”、
   これが“悲しい”という文字になっています。

   悲劇は、すべて否定する心からはじまるのです。


   もし、その現象が、つらくて大変で楽しくないものであっても、
   私は「そうではないとらえ方」をお教えすることができます。

   たとえば、コップに水が半分入っているのを、
   「半分しかない」と思ったら、
   <不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句>になります。


   しかし、「半分も残っていて嬉しい、楽しい、幸せ」と思ったら
   同じ現象も喜びになります。

   さらに、「誰かが半分も残していてくれて、ありがとう」
   という受け止め方もあります。


   私は「否定してはいけないとか、否定をすべきではない」
   と言っているのではなく、

   「半分しかないという否定的な事実は、宇宙のどこにもない」
   ということを言いたいのです。

   宇宙に存在している現象というのは、何の意味づけもされていません。

   ニュートラル(中立)で冷厳なる現象があるだけ。

   このことをお釈迦さまは“空(くう)”と言われたようなのです。

      <『たくさんの「奇跡」が舞い込む感謝の法則』宝島社>

              ・・・

「好況よし、不況さらによし」という松下幸之助翁の言葉がある。

また、「鳴かぬなら、それもまたよし、ホトトギス」とも言った。

どんなに絶望的な状況にあっても、
「それもまたよし」と肯定したとき、そこからパワーが生まれる。

肯定からしか創造力も、エネルギーも生まれない。


反対に、否定からはマイナスのエネルギーしか生まれない。

ダメ、できない、無理、難しい、嫌い…。

そして、「でも」、「しかし」、という否定語から入る。


『「悲劇」はすべて「否定する心」からはじまる』

どんなときも、肯定から入る人でありたい。

            <感謝合掌 平成30年5月18日 頓首再拝>

科学的に証明されたハッピーになる7つの方法 - 伝統

2018/05/22 (Tue) 18:30:30


      *Web:ウィメンズヘルス(09 August 2017)より

(1)たくさん寝る

  ①2013年のサリー大学の睡眠研究所によると、1時間睡眠を多くするだけで
   気分を大幅に上げる効果があることが分かった。

   研究者は2つのグループに対して実験を行い、6.5時間の睡眠のグループと、
   1時間多い7.5時間のグループとの違いを調べた。

   すると、6.5時間のグループは炎症や肥満、ガンのリスクを上げる遺伝子が
   活発化したのに対して、1時間増やしただけで逆の効果があったそう。

  ②心理学者のノーベルト・シュワッツ氏によると、
   年間665万円収入が増えることよりも、日常のしあわせへの影響は
   1時間睡眠を多くした方が多かったそう。

(2)外に出かける

  ①アメリカの研究では緑が多い所に住んでいる人は、
   緑が10%以下のエリアに住んでいる人に比べて、
   ストレスも少なく不安や落ち込みが少なかったそう。

  ②外で過ごすだけでもしあわせレベルを上げることができる。
   昼休みに外を歩いたり、屋外でエクササイズをしてみて。

(3) 誰かを助ける

   エクセター大学メディカルスクールの研究によると、
   ボランティアをしている人は落ち込みが少なく、
   健康状態もよく人生に対する満足度も高かったと言う。

   さらに死亡リスクも22%下がったとか。

(4) 瞑想をする

  ①2005年のThe National Center for Biotechnology Informationの研究では、
   瞑想をしている人の方が大脳皮質が厚かったそう。

   大脳皮質は、感情や集中力や感覚をつかさどる部分。
   瞑想をすればするほど、大脳皮質は厚くなるという驚きの結果。

  ②瞑想は社会性も増すそう。
   瞑想することで他人に対して寛容になれるのだそう。
   さらに孤独感を減らし、他者とつながっている感覚が増すとか。

(5)他人のためにお金を使う

  ①いくつもの研究で、他人にお金をあげることで
   自分の健康と心の状態がよくなることは分かっている。

   2008年の雑誌「Science」に発表された研究によると、
   これは大金を使わなくても可能だとか。

  ②このカナダの研究によると、研究者は46人にその日の夕方5時までに使うようにと、
   5ドルか20ドルを渡して実験した。

   一部の人は自分のために使うように指示され、
   もう一方の人は他人のため、たとえばプレゼントを買ったりチャリティーに
   寄付したりするように言われた。

   その結果、他人のためにお金を使った人の方が
   その金額に関係なくしあわせを感じていたそう。

(6)あるものに感謝する

   「Journal of Personality and Social Psychology」の2003年の研究によると、
   被験者は毎週いくつかの文章を書くように言われた。

   1つ目のグループはその週に起きたことで感謝していること。
   2つ目のグループは不満だったこと。
   3つ目は、よい悪いにかかわらず影響を受けたことについて書いた。

   10週間後、感謝していることについて書いた人の方が
   楽観的で人生に対してプラスに思えたそう。

   さらに、ネガティブなものに気持ちを傾けたグループに比べて
   運動の回数も増え、医者にかかる頻度も少なかったそう。

(7)運動する

   最後に、運動を忘れてはいけない。
   汗をかくことはストレスを減らして睡眠の質をよくして、
   生産性を上げて総合的な健康状態をよくしてくれる。

   そしてこれは運動のメリットのほんの一部。
   ゆるやかなヨガだけでもしあわせ度を増してくれるそう。

   (https://womenshealth-jp.com/a-7-scientifically-proven-ways-to-be-happy-20170809/

            <感謝合掌 平成30年5月22日 頓首再拝>

本当に幸福になるためには - 伝統

2018/05/24 (Thu) 19:19:17


          *『幸福生活論』はしがき より

多くの人達は、幸福をもとめながら、しかも不幸になっているのは何故でしょうか。
幸福の法則を知らないからです。

多くの人達は物質や、富や、領土や、凡およそ形あるものを目蒐(めが)けて
それを掴もうと思って驀進して行くのでありますが、
「形あるものは形なきものの影」でありますから、
影のみを掴むと、掴んだと思った刹那、それは消えてしまうのであります。

本当に幸福になるためには吾々は影の奥にある
「実物」(実相)を把つかまなければなりません。


幸福の法則を知ると云いうことは、
換言すれば原因結果の法則を知ると云いうことです。

これは簡単に云いえば、因果の法則を知ると云うことです。
昔から蒔(ま)かぬ種子(たね)は生(は)えぬ、
瓜(うり)の蔓(つる)には茄子(なすび)が生(な)らぬと申します。

仏教では三界唯心と申します。
基督キリスト教では「汝の信ずる如ごとく汝になれ」と申します。

あなたの心の状態が形の世界にあらわれて来るのです。

            <感謝合掌 平成30年5月24日 頓首再拝>

お金があろうがなかろうが - 伝統

2018/05/27 (Sun) 20:11:55


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2013-08-24)より

   (クリスティーヌ・ルウィッキー氏の心に響く言葉より…)

   ベストセラー心理学書「幸せはいつもちょっと先にある」(早川書房)
   の著者であるハーバード大学教授ダニエル・ギルバート氏が行なった実験を
   ご存知ですか?

   この実験でギルバート教授は、宝くじが当たった人が、
   1年後にどれだけ幸せかを調査しました。

   その結果、大金が転がり込んだことで生活のレベルが激変しても、
   その人が感じる幸福度は以前とほとんど変わらなかったということが
   わかったのです。

   さらに興味深いのは、この幸福度の法則は不幸に見舞われた人に対しても
   同じように当てはまるということです。

   ギルバート教授が、下半身麻痺になってしまった人に対して
   調査を行なったところ、下半身麻痺になる前後でもやはり
   幸福度は変化していなかったのです。


   これらの実験結果からわかるように、
   たとえプラスに働こうが、マイナスに働こうが、
   外的要因は人の長期的な幸福度には影響を与えません。

   外部の状況ではなく、満足しながら毎日を生きているかどうかで
   幸せが決まると言い換えてもいいでしょう。

   つまり、周りの環境と幸せとは無関係なのです。


   お金があってもなくても、健康でも病気でも、仕事があってもなくても、
   そうした要因はあなたが幸せかどうかに影響を与えません。

   だからこそ、置かれた状況の中でどう生きるかに目を向ける必要があります。

   今の暮らしの「ありがたさ」を感じ、希望を持って前向きに生きるのか、

   それとも将来に絶望し、ストレスを感じながら、世をはかなんで
   日々を無意味に過ごすのか。

   すべてはわたしたちの選択次第なのです。


   「今やっていることがうまくいけば、状況が一変して後は万事OK」
   と思っている人もいるかもしれません。

   しかし、そんなふうに外部状況が好転しても、
   やはり幸せにはなれないのはすでに見たとおりです。


   毎日を明るく楽しく生きるコツは、
   日常のささやかなことがらに価値を見い出すことにあります。

   お日様の光、朝起きたときにどこからともなく聞こえてくる鳥のささやき、
   まわりの人の愛、仕事で人の役に立つ幸せ、
   そんな何げないことを大切にするようにしてください。

      <『いつもの「グチ」がなくなる本』クロスメディア・パブリッシング>

               ・・・

「明珠在掌(めいじゅたなごころにあり)」という禅語がある。

美しい宝石は、実は自分の中にある、ということ。

メーテルリンクの童話、『青い鳥』のチルチルとミチルのように、
「幸せ」を探して遠くまで行ったが、
結局、「幸せ」は身近なところにあったことに気づく、と同じこと。


お金があろうがなかろうが、健康であろうがなかろうが、仕事があろうがなかろうが、
そういった外的要因は「幸せかどうか」には関係がない。

「置かれた状況の中でどう生きるか」

日々の毎日の中に、幸せと価値を見出したい。

            <感謝合掌 平成30年5月27日 頓首再拝>

《幸福は外の世界に求めるな》 - 伝統

2018/06/03 (Sun) 19:20:03


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月3日)より

吾々は誰も幸福を求める。
然し乍(なが)ら大抵は外の世界にそれを求め、
外の手段方法をとつおいつ心配して心を労するのである。

併しそれは拙劣(せつれつ)なる求め方である。

労して誰も幸福になれるのであったら、
「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺その儘に
誰も彼も幸福に豊かに富める筈であるが、

事実は

「はたらけどはたらけど猶(なお)わが生活(くらし)
楽にならざりじっと手を見る」

という石川啄木の歌のように、
いくら人間力で労して見ても幸福になり切れない場合が多いのである。

ここに反省しなければならぬものがある。

心の方向を転換しなければならぬ。

            <感謝合掌 平成30年6月3日 頓首再拝>

幸福の方向へ向く - 伝統

2018/06/04 (Mon) 20:02:25


      *「希望を叶える365章」(P94片栗粉が透明になるまで)より抜粋

今如何なる運命にあろうともそれに嘆くことは要(い)らないのである。
今、何処(どこ)にあなたが立っているかと云うことよりも、
今、あなたが何(ど)の方向を向いて歩いているかが最も重大なのである。

何故(なぜ)なら、不幸の方向へ向けば不幸になるであろうし、
幸福の方向へ向けば幸福になるからである。

            <感謝合掌 平成30年6月4日 頓首再拝>

神は不幸を与え給わない - 伝統

2018/06/07 (Thu) 19:15:55


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月7日)より

神は吾々の親様である。
神が吾々に不幸を強要したまうことはあり得ないのである。

神は吾々神の子に幸福を与えたくて仕方がないのである。
幸福が来ないのは親が与えたまわないのではなく、
『法華経』の長者窮子の譬えにあるように神の子みずから
親のみ許(もと)をはなれて神の賜(たまもの)から逃げ出しているのである。

先ず自身が神の子であると知ることが
貧窮の子が長者の父のみ許(もと)に到ることにあたるのである。

そして自分の本来の位置を自覚して人間を、
不幸になるよう定められているような下らないものだと思わぬことである。

            <感謝合掌 平成30年6月7日 頓首再拝>

【オリンポスの神々と「幸せの秘訣」】 - 伝統

2018/06/10 (Sun) 19:05:04


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年06月01日)より

   (致知出版、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   昔、ある人にこういう話を聞いた。

   オリンポスの神々が集まり、
   「幸せになる秘訣をどこに隠したら、
   人間がそれを見つけた時にもっとも感謝するか」を話し合った。

   「高い山の上がいい」
   「いや、深い海の底だ」
   「それよりも地中深く埋めるのがいい」と議論百出。

   すると、一人の神が「人間の心の奥深いところに隠すのが一番だ」と言い、
   全員がその意見に賛成した、という話である。


   幸せの秘訣は人間の心の奥深くにある。
   自分の花を咲かせる秘訣は心の中にある、ということである。

   だが、心の奥深く隠されているが故に、
   秘訣に気づかぬままに人生を終える人も少なくない。

   どうすればその秘訣に気づき、自分の花を咲かせることができるのか。


   まず、自らの命に目覚めること。

   自分がここにいるのは両親がいたからであり、
   その両親にもそれぞれ両親があり、それが連綿と続いて、
   いま自分はここにいる。

   どこかで組み合わせが変わっていたら、あるいは途絶えていたら、
   自分はここにはいない。

   自分の命は自分のものではない。
   すべては与えられたものだ。
   その自覚こそ、自分の花を咲かせる土壌になる。


   次に大事なのは「一つ事」を見つけること。
   この一事をもって人生に立っていく。

   あるいはいま携わっている仕事をもって自分の一つ事にする。

   そう決意することである。


   第三に大事なのは、その一つ事に本気になること。


   「本気になると
   世界が変わってくる
   自分が変わってくる

   変わってこなかったら
   まだ本気になってない証拠だ。

   本気な恋
   本気な仕事

   ああ
   人間一度
   こいつを
   つかまんことには」

           …坂村真民…



   「なんでもいいからさ
   本気でやってごらん

   本気でやれば
   たのしいから

   本気でやれば
   つかれないから

   つかれても
   つかれが
   さわやかだから」

          …相田みつを…

        <『小さな修養論』致知出版社>

            ・・・

「汝(なんじ)自身を知れ」

デルフォイの神殿に刻まれていたといわれる有名な格言だ。

神と比べれば人間の知恵など取るに足らない、
自分の無知や無力さを知ることが、すべての出発点になるとして、
ソクラテスはこの言葉を好んで使ったといわれている。


知っているようで、一番知らないのが自分のこと。

自分の力で生きているように思っているが、
実は多くの力によって生かされていたことに気づかない。

そもそも、両親がいなかったらこの世に生まれることもできないし、
多くの不思議なご縁によって今がある。

たとえば、ジグソーパズルのように、
たった一つのかけら(ピース)が欠けただけでも、今の自分はない。


人は、メーテルリンクの童話「青い鳥」のように、
幸せの青い鳥を探しに遠い旅に出る。
しかし、くたくたになって家まで帰ってくると、
結局は、幸せの青い鳥は家にいた、という話だ。


それを禅語では、「明珠在掌(めいじゅたなごころにあり)」という。
大切な宝はすでにあなたの手の上にある。
どこかに探しに行かなくても自分が持っている、ということ。


だからこそ、もうすでにある、目の前の一つ事に命をかける。

どこか遠くに幸せの秘訣があるわけではないからだ。

そして、それを本気でやる。


オリンポスの神々が隠したという「幸せの秘訣」を見つけ出したい。

            <感謝合掌 平成30年6月10日 頓首再拝>

働き(活動)の中に人間の本当の幸福がある - 伝統

2018/06/11 (Mon) 21:22:08


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月11日)より

金(かね)が幾億万円自分の前に積み上げられたとて、
それを使うことができなければ自分が幸福だというわけではない。
そこでわれらは、金を使うことができるので幸福だと考える。

では魔法使いが一瞬目の前に幾億万円の金をあらわして、
次の瞬間その幾億万円を眼界から消し去って
「もうお前は金を使ってしまった。お前は金を使ったから幸福だろう」
と宣告してもわれらは幸福になれる訳ではない。

そこで「それが幸福でないのは、その金を自分で使わないからだ」
とわれらは考えるであろう。

では、自分で金を使うことが幸福であろうか。
金を自分で使うのが幸福であるならば、なぜ金持はその金を召使や他の人に対して
自分が坐っていて必要な品物を買わせているのであろう。

なんでも自分で買物に出かけなければ幸福でありえないというならば、
金持はその多くの金を消費するために、
毎日自分で多数の商家を訪問して歩かねば幸福になりえないであろう。

しかしそんなことをしている金持も幸福者も一人もない。

そこでこんなことがわかる。

金はたくさん持っているということが幸福ではなく、
それを使うということが幸福でもなく、
自分が使うということが幸福でもない。

金というものは持っていても使っても幸福になんの関係もないものなのである。
ただ金はわれわれに、また他々(ひとびと)に、働きの動機を与える。
金はわれわれを、そして人々を働かせる媒介となるものなのである。

その「働き」または「働かせ」の感じが幸福であるのを錯覚して
「金が幸福を与える」と誤想しているのである。

働き ―― 活動 ―― のみが人間の本当の幸福なのである。
猟師は獲物をことごとく自分が食べるのではない。
猟師は猟(りょう)をすること、その働きのみが楽しいのである。

人を救うことそのことが楽しいのである。
救った結果収入がないとかあるとかいうことは問題ではない。

多くの生長の家の誌友たちが自分で自動車賃などを費やして、
人々を救(たす)けてあげているのは涙ぐましい立派な行ないであるが、
それはその人の中に宿っている「神」が働いているのである。

「神」は「生命(せいめい)」であり「働き」である。
働くもののみが幸福であり、健康であり、活々(いきいき)してくるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月11日 頓首再拝>

【為合(しあ)わせること】 - 伝統

2018/06/20 (Wed) 18:19:40


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年06月13日)より

   (福聚寺住職、玄侑宗久氏の心に響く言葉より…)

   私が好きな中国の詩人で、陶淵明(とうえんめい)という人がいます。

   その陶淵明に「帰去来辞(ききょらいじ)」という詩があります。

   彼は41歳で、いまでいう郡の役所の長くらいにまでなりましたが、
   公務員に嫌気がさし、自分の故郷に帰っていく途中で「帰去来辞」を詠むのです。

   その詩の最後に書きつけた言葉が、私は好きです。


   「いささか化(け)に乗じて以て尽くるに帰し
   かの天命を楽しんでまたなんぞ疑わん」

   どんな変化が来てもそれに乗っかり、その変化が尽きるにまかせよう。
   そして、これが天命なんだと信じて疑わない。
   陶淵明はそう決意を述べるのです。

   災害に続けて遭った時などもそうですが、
   「なんで私らばっかり」と思うものです。

   しかし、「なんで私らばっかり」と漠然と感じているときには、
   どこかでまだ「天命なのではないか」と思っているでしょう。

   まだ誰をも恨んでもいない。

   誰を恨んでもいない状態はむしろ幸せなのです。

   しかし、「仮設トイレはまだできないのか」
   「役場は何をしているんだ」というように、
   「災害は誰のせいでもないけれど、いまのこの状況は誰かのせいだ」
   という主張になってくると、一気に不幸になります。

   「事故」というのは、誰のせいで起こったものでもない。

   でもそれは、すぐに「事件」になります。
   事件というのは、誰かのせいです。

   誰かのせいだと思った途端に、人は不幸になるのです。

   これは大いなる法則です。

   ですから、「天命」という言葉であらかたの変化を受け容れたときに、
   今を生きる幸せというものは得られると思うのです。

   宿命とか運命という云い方があります。

   もともと定まっているものとして考えられたのが、「宿命」です。
   「宿」というのは「宿場」と使われるように、
   「とまる」という意味があります。

   「運命」の「運」は「うごく」と訓(よ)みます。

   これは天と人との関わりが予定もなく変化し続けるという見方です。

   同じ境遇に生まれ育ち、似たような人々の間に暮らしたとしても、
   人はそれぞれじつにさまざまな人生を生きる。

   この認識から、おそらく「運命」という言葉が生まれたのでしょう。

   皆さんには、是非とも運命のほうの考え方をしていただきたいのです。

   その得体のしれない運命の波に、陶淵明は乗るのだと決意しています。

   これとほぼ同じことを、孟子は「立命」という言葉で表現したのです。


   それと似た態度なのですが、奈良時代には、
   運命の流れに「為合(しあ)わせる」意味から、
   「しあわせ(為合)」という和語が生まれました。

   運命の流れにうまく為合(しあ)わせることがしあわせであるということです。

   室町時代になると、この「しあわせ」に「仕合」の文字が当てられ、
   相手も天ではなく人を想定するようになりました。

   人が刀をもって向き合うことを「仕合」(今は「試合」ですが)と
   表記したことからもわかるように、

   「しあわせ」とは相手の出方に対してどう対応するか、
   というかなり技術的な問題です。


   そもそも、運命の波には善意も悪意もなく、
   要はその波に乗るなり、立つなりできるかどうか、
   つまりうまく「仕合わせ」られるかどうか。

   本人の心構えや技術によるところが極めて大きいはずです。


   結局、どっちにでもできるわけです。

   最初についていると思ったか、ついていないと思ったか、ただそれだけです。

        <『流れにまかせて生きる』PHP>

               ・・・

「流れにまかせる」について玄侑氏はこう語る。(本書より)

『なりゆきという言葉は、普通は良い意味では使われないですけれども、
仏教的な世界の認識の仕方は諸行無常です。
つねに変わり続けている。

これを和語で言うとすれば、「なりゆき」という言葉になるのではないでしょうか。
なりゆきに任せられたら、一番いいと思います。

どこに行き着くのかということもわからない。
わからないのですが、わからないところに向かって生きていくのが人生だと思います』


小林正観さんは、「流れにまかせる」ことをこう表現している。

『頼まれごとがきたら、基本的には全部引き受けます。

頼まれごとは「適当」にやることをお勧めします。

「適当に」というのは、「適度に」ということです。

「引き受けたからには、いい仕事をしなくてはいけない」と気負わずに、
そのときの加減で「良い加減」でニコニコと取り組んでいけばいいのです。

頼まれごとを引き受けて行くと、三年くらい経ち、
ある方向性でこき使われていることに気がつきます。

「どうもこういうことをするために、この世に生まれてきたみたいだ」
というように、自分の“使命”がわかる瞬間があります。

それを「立命」の瞬間といいます。』


頼まれごとを好き嫌いを言わず、ニコニコしながら引き受ける。

そして、運命の波に為合(しあ)わせる。

それが、流れにまかせて生きること。


為合(しあ)わせることは、幸せに通じる。

            <感謝合掌 平成30年6月20日 頓首再拝>

【今あるハッピーを感じるセンサー】 - 伝統

2018/06/23 (Sat) 20:00:33


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年06月23日)より

  (本田晃一氏の心に響く言葉より…)

   リアルタイムでハッピーを味わいつくす達人に、書道家の武田双雲くんがいます。
   双雲くんは感謝とリアクションの天才です。
   彼の様子を見ていると、周りの人も何だかうれしくなってしまいます。

   たとえば一緒にごはんを食べに行ったりすると、
   双雲くんは、料理を食べた瞬間「う…うまい!」とか言って、
   箸を落とすんです。

   周りに人がいっぱいいるお店で、このオーバーリアクション!

   ごはんの時だけじゃありません、雨が降ってくると、
   「この水の感触…最高!」とか、いきなり言います。

   僕はいつも、ちょっとびっくりしてしまうんですけど、
   そんな時の双雲くんは、とっても幸せそう。

   そして、そんな彼を見て、僕も何だか楽しい気持ちになってきます。


   こう話すと、皆さんは少し驚いてしまうかもしれません。

   でも、僕たちはみんな、子どもの頃は双雲くんみたいに
   「今、目の前にあるラッキー」をキャッチする達人でした。

   滑り台を発見すると、「滑り台滑りたい!」って思った瞬間、
   駆け出して、僕たちは全力で「今ここにあるハッピー」を
   味わいつくしていたと思います。


   好きなことって、いつも理屈では決まらないものです。

   でも、子どもから大人になるにつれて、
   「好き」という感情を正当化するために、
   いろいろな理屈をこねるようになっていきます。

   テストでいい点数を取るとか、知識を身につけるとか、
   偏差値の高い大学に入るとか、高い収入を得るとか、
   そういう「定量化・数値化できる幸せ」の総量を増やすことが正義、
   という価値観がインストールされていくからです。


   すると、かつてあった
   「今あるハッピーを感じるセンサー」が鈍くなっていきます。

   実はこれって、運気を下げるもとなんです。

   なぜなら僕たちは、心が目の前に運ばれてきた「運」を
   気持ちよく受け取る状態に切り替わっていないと、
   ご機嫌に受け取れないからです。

   楽しく受け取れなければ、ハッピーもラッキーも、やってきません。


   子どもの頃は「行動すること自体」が目的でした。

   はしゃいだ瞬間、うれしいことや楽しいことがどんどんやってきていました。

   だから、僕たちって本当は生まれながらに「超強運」なんです。


   でも、成長するにつれて「行動すること」ではなくて、
   「知識を身につけること・頭で考えること」を目的にするようになります。

   知識や思考って、目的じゃなくて、
   行動した時にスムーズにいろいろなことを進めていくための、
   「手段」だったのに、不思議ですよね。

   幼い頃のように「なんか知らないけど、目の前にあるハッピー」を味わう、
   ニュートラルな自分に戻ると、「運」が舞いこんできます。

      <『なんか知らないけど、強運が舞いこむすごい習慣』SB Creative >

               ・・・

大人になると、たいていの人は「驚く力」を失ってしまう。

「驚く力」は、感動する力でもあり、共感する力でもあるし、
ワクワクする力でもある。

子どもは、無邪気で、天真爛漫(らんまん)、好奇心いっぱいで、
目をキラキラさせて毎日を感性豊かに生きている。


「遊びをせむとや生まれけむ
戯(たはぶ)れせむとや生まれけむ

遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそゆるがるれ」

『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)の中の言葉だ。


子どもたちは、遊びをしようとして生まれて来たのであろうか。

面白がったり、ふざけたりしようとして生まれてきたのか。

無邪気に遊んでいる子どもたちの声を聞くと、
自分までワクワクして、心や体が動きそうになってしまう。


大人になっても…

今あるハッピーを感じるセンサーを研ぎ澄ませておきたい。

            <感謝合掌 平成30年6月23日 頓首再拝>

感謝の中にこそ本当の幸福がある - 伝統

2018/06/26 (Tue) 20:12:20


          *「幸福の哲学」(P88~90)より

利己主義とか、我利主義とか、迷いとか、憎みとか、悲しみとか
 ── これらすべての不徳は一局部だけを観て、
全体を見渡さないから起るのでございます。

全体を見るときすべての悲しみも不幸も消えてしまうのでございます。

冬の肌をつく木枯はこの一陽来復の春の花のためではなかったのでございましょうか。

あなたには幸福な運命の春が真近に待っているのでございます。
どんな木枯もあなたを育てるためにあるのだと知るとき、
あなたは今の境遇に感謝なさらねばなりません。

神は「感謝の念の中にこそ汝はわが姿を見るであろう」と仰せられました。
感謝の中にこそ本当の幸福があるのでございます。


   *「和解の神示」

    汝ら天地一切のものと和解せよ。
    天地一切のものとの和解が成立するとき、
    天地一切のものは汝の味方である。
    天地一切のものが汝の味方となるとき、
    天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。

    汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは
    汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。

    (中略)

    汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。
    神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ。
    天地万物と和解せよとは、天地万物に感謝せよとの意味である。

    本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。
    怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。
    感謝し合ったとき本当の和解が成立する。

    神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。
    天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、
    争いの念波は神の救の念波を能(よ)う受けぬ。

    皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫または妻に感謝せよ。
    汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。
    天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。

    その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救を受けるであろう。

    われは全ての総(すべ)てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。

    ・・・(『生命の實相』第一巻巻頭)

            <感謝合掌 平成30年6月26日 頓首再拝>

【足し算の幸福】 - 伝統

2018/08/28 (Tue) 20:25:57


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年08月08日)より

   (曾野綾子氏の心に響く言葉より…)

   三浦朱門の知り合いの青年が、高校時代にアメリカに留学していた時のことです。

   高校の階段の手すりに腰を掛けて友人としゃべっていて、
   バランスを崩して転落してしまった。

   頭のいい青年でしたが、典型的な優等生ではなくて、
   少しやんちゃな若者だったらしい。

   彼は、その事故で車椅子の生活を送ることになりました。

   それで母親が彼を日本に帰すか、アメリカへ行って面倒を見ようとしたら、
   本人は、「大丈夫。ぼくが全部一人でやりますから」と言って、
   車椅子で大学を受験して入り、大学での生活もほんとうに一人で乗り切った。

   すばらしい人ですね。


   その青年も、ケガをした直後は当然いろいろ悩んでいた。

   その時一人のカトリックの神父が、彼にこう言ったそうです。

   「ないものを数えずに、あるものを数えなさい」

   それは慰めでも何でもないと思います。

   誰にも、必ず「ある」ものがあるのです。


   でも、人間というのは皮肉なことに、
   自分の手にしていないものの価値だけを理解しがちなのかもしれません。

   自分が持っていないものばかりを数えあげるから、
   持っているものに気づかないんですね。


   私は、日本で生活していてもアフリカを基準に考える癖が抜けません。
   アフリカには、人間の原初的な苦悩があります。

   生きられないということです。

   貧乏で食料が買えないから満腹したことがない。

   ここ数ヶ月、体を洗ったことがない。

   雨が降ると濡れて寝ている。

   動物と同じです。

   病気になっても医者にかかることができず、痛みに耐えながら土間に寝ている。

   そいう人たちのことを思ったら、私たちの暮らしはどれほど贅沢なことか。


   世界の貧しい人たちは、1日に1食か2食、口にできれば、
   それでごく普通の生活です。

   日本人は、グルメとか美食とか、食事がどんどん趣味的になっていますが、
   私など、干ばつに襲われた年のエチオピアで、
   もう体力のなくなってしまった男の人が地べたに座り込んだまま、
   まわりに生えていた草をむしって食べていたのを見て以来、
   どんなものを食べてもごちそうだと思っています。

   日本は、山があるおかげで水にも恵まれています。

   そのありがたさを普通の日本人は意識しないでしょう。

   しかし、砂漠地帯に行けば、水の貴重さがよくわかります。

   あらゆるオアシスは必ず特定の部族が所有していて、
   そこから所有者の許しもなく一杯の水でも飲めば、
   射殺されても仕方がない場合がある。

   水は命の源だから、その管理は信じられないほど厳しいんです。


   私たち日本人は、水汲みに行く必要もなく、
   水道の蛇口をひねれば水があふれるように出て、
   飲める水でお風呂に入っているし、トイレにも流している。

   言ってみれば、ワインのお風呂に浸かって、
   ワインで水洗トイレをきれいにしているようなものです。

   お湯が出るなんて、王侯貴族の生活です。

   自分の努力でもなく、そういう贅沢をしていられる国に
   たまたま生まれさせていただいた。

   その幸せを考えないではいられません。


   そうすると、少しぐらいの不平や不満は吹き飛んでしまうんですね。

   これが私の言う「足し算の幸福」です。

   自分にないのものを数えあげるのではなく、今あるものを数えて喜ぶ。

   そんなふうにスタートラインを低いところにおけば、
   不満の持ちようがないと思うのですが。


   今の日本は、みんなの意識が「引き算型」なんですね。

   水も電気も医療もすべて与えられて当然、
   と思っているからありがたみがまったくない。

   常に百点満点を基準にするから、
   わずかでも手に入らないとマイナスに感じて、
   どんどん「引き算の不幸」が深くなっていく。

        <『思い通りにいかないから人生は面白い』三笠書房>

              ・・・

小林正観さんは、今この瞬間に、一瞬にして幸せになる方法があるという。

それは、「今、幸せだ」と感じること。

小林正観さんは、 「幸せという状態」があるのではなく
「幸せを感じる自分」がいるだけだという。

お風呂にゆっくり入って、手足を伸ばしたとき
「ああ、しあわせ」としみじみ感じたら、それが幸せな状態。

炎天下でのどがカラカラのとき、冷たい水をゴクゴク飲んで、
「ああ、しあわせ」と感じたら、それが幸せな状態。

つまり、「ないものを数えずに、あるものを数える」ということ。


ひろちさや氏は、仏教では、
「即今(そっこん)・当処(とうしょ)・自己」でものを考えるという。

即今とは、「今」。昨日でも、明日でもない、今この瞬間。

当処とは、「ここ」。あちらでもなく、別の場所ではない、この場所。

自己とは、「私」。あなたでも彼でも彼女でもない。まぎれもない自分。


今ここで、この瞬間、他のだれでもないこの自分が、感じる「幸せ」。


あるものを数える「足し算の幸福」を、かみ締(しめ)めたい。

            <感謝合掌 平成30年8月28日 頓首再拝>

今生きていることのありがたさに気づいて、生きようとすれば幸せの神様が輝きだします - 伝統

2018/08/30 (Thu) 19:03:52



       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P95~97)より

人は心が苦しいときほど「早く死にたい」と思い、
逆に楽な生活をしているときは「死ぬことを忘れよう」とするものです。
自分の状況に応じて、死を近づけたり遠ざけたりするのです。


これでは、心に存在する幸せの神様は、なかなか安心できません。
楽な生活の中でも死を忘れずに、今生きていることへのありがたさを
意識することが大切です。

これができれば、真の意味で生活を味わい、楽しむことができます。


世の中には難病で苦しみながら、必死に生きようとする人がたくさんいます。
病院に入院している人は、少なくとも「生きよう」と治療している人々です。


人間とは、本当に死が迫ると「生きよう」とするものです。
これが人間の性(さが)であり、幸せの神様を守ろうとする本能です。

「早く死にたい」と思う人は、
幸せの神様が心の奥に隠れてしまっている状態にあります。

幸せの神様が奥に隠れるほど、心が不安になり、不運な選択や生き方を
してしまい、ますます状況が悪くなるものです。
まさに泣きっ面に蜂です。


この状態を回復するには、現状の生活の中で感謝すべきことを探し、
「こんな自分でも生かされている」という原点にかえって感謝をすることです。
この感謝の気を蓄積させれば、自分自身に良い形で必ずかえってきます。

            <感謝合掌 平成30年8月30日 頓首再拝>

人生はこの儘幸福なのでございます - 伝統

2018/09/27 (Thu) 19:15:35


         *『幸福の哲学』(P86)より

光が充ち満ちているのに思い違いをして
眼をつぶって暗いなと思うと自分に対してだけは
暗く現れて見えるのでございます。

ところが眼を開いて見ると本当は矢張り明るいのでございます。

それと同じように人生はその儘(まま)明るいのでございます。
人生はこの儘幸福なのでございます。

不幸だと感じられますのは、吾々の思い違いだけなのでございます。
思い違いというものは事実を覆い隠している眼瞼(まぶた)のようなものであって
謂わば「包み」なのでございます。

            <感謝合掌 平成30年9月27日 頓首再拝>

幸福を招く法則は「類は朋を呼ぶ」の法則によります。 - 伝統

2018/10/15 (Mon) 17:14:59


        *「生命の實相」第36巻幸福生活篇(P3)より

仏教では三界唯心と言います。

キリスト教では「汝の信ずるごとく、汝にまで成れ」と申します。

金光教では「おかげは我が心にあり」といいます。

黒住教では「立ち向かう人の心は鏡なり、おのが姿を映してや見ん」と申します。

世間では「笑う門には福来たる」とかあるいはまた「泣き面に蜂」であるとか
申しますのは、皆この「類は朋を招ぶ」法則によるのであります。

泣き顔をしている者には蜂が螫(さ)す、
ニコニコ笑っている者には幸福な音信(おとずれ)がやって来る
ということになるのであります。

            <感謝合掌 平成30年10月15日 頓首再拝>

【幸せの眼鏡】 - 伝統

2018/11/16 (Fri) 20:39:26


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年11月16日)

   (ミシェル・ピクマル氏の心に響く言葉より…)

   ある日、島の反対側に住んでいるという青年が、哲学先生を訪ねてやってきた。

   その青年は、この世は悲しみと不正に満ちていると考えていた。

   為政者といえば汚職だらけだし、友人には裏切られっぱなし。
   幸せはつかんだかと思うとすぐ消えさり、悲しみばかりが重くのしかかる…。

   こんな世界に生きていていったい何の意味があるのだろう?
   そう悩んでいたのだ。

   青年からひとしきり話を聞いた哲学先生は、
   何やらポケットから取りだしてこう言った。

   「これがあればだいじょうぶですよ!

   さあ、この眼鏡をかけてごらんなさい。

   そうすれば(あなたが望みさえすればすべてが変わる)
   ということがわかるはずです」


   青年はなんだか狐につままれたような思いで家に帰った。

   それでも、翌日さっそくその眼鏡をかけてみた。
   すると、あきれたことに、それはただのガラスをはめた眼鏡にすぎなかったのだ。


   青年は腹をたて、哲学先生のところにどなりこんだ。

   「ただのガラスじゃないですか!」

   「そうですよ」と先生は答えた。


   「いいですか、この世がどう見えるかは、
   ここにはまっているガラスの問題ではなく、あなたしだいなのです。

   あなたが変わらなければこの世も変わりません。

   たとえば、ワインの入ったグラスひとつとってみても、
   まだ半分ワインがあると思うか、もう半分しかないと思うか、
   それはあなたが決めることでしょう。

   雨だといってなげくのか、それとも、これで植物が育つぞと喜ぶのか。
   日の光を浴びてうれしいと思うか。

   それともまぶしいからといやがるのか…。

   結局この世界は、あなたが見るようにしか見えないのです。

   その眼鏡をどんな眼鏡にするかはあなたしだい!

   灰色の陰鬱(いんうつ)な眼鏡をかけていたいのなら、どうぞご自由に。

   でも、それをなげきにここへ来るのは、もうご遠慮願いたいものですな」

         <『人生を変える3分間の物語』PHP研究所>

              ・・・

すべて、この世の現象はその人の見方しだい、考え方しだいで決まる。

幸せだと思うなら、幸せだし、不幸だと思えば不幸だ。
幸せという現象があるのではなく、幸せと感じる人がいるだけだ。

病気の最中にあっても、幸せだと思う人はいるし、不幸せを嘆く人もいる。


つまり、その人がかけている眼鏡によってこの世は変わってくる。
バラ色で明るく見えるのか、灰色で薄暗く見えるのか。

眼鏡のガラスの色は自分で決められる。


日々、幸せが見える眼鏡をかけてくらしたい。

            <感謝合掌 平成30年11月16日 頓首再拝>

【楽しい気分でいたら楽しいことは勝手に起こる】 - 伝統

2018/11/17 (Sat) 18:48:52


          *「あなた何様?」ナリ心理学代表・ナリ氏・著からの要点の紹介

(1)「私って毎日幸せやん♪ 」という前提で生きると、
   その前提を証明するための証拠が集まってきます。

(2)一番大切なのは、今、幸せな気分でいること。

   今、楽しむこと。

(3)人生の主導権を握る、ということは、
   起きることすべてを受け取ると決めること。

   完璧をあきらめて「なんの問題もなく完璧な人生を送ること」をあきらめること。
   でも、「完璧をあきらめる」ということは同時に、
   「想像以上の結果を受け取る準備をすること」でもあるんです。

(4)「愛」と「信頼」。

   愛されなくても人生はうまくいかないし、
   信頼されていなくてもやはり人生はうまくいかない。

   両方が必要だったわけですね。

   それは、人生を解放してくれる重要なキーワードですが、
   過去に戻って取り戻すことができなくても、人生は終わりではない。
   今からでも補完していけるものなんです。

(5)人はおもしろいように、ゆるせない人にどんどん引っ張られていくのです。

   そして、引っ張られないように抵抗するのにはまた大変な労力が必要です。

(6)あのころ怖かったお母さんは、今はもうただのおばあさん。
   それが現実です。

  ①完璧なお母さんから言われたことだから、
   大人になった今でもその「言葉に縛られている」だけです。
   でも、お母さんは未熟だった。

   大人になった今だから少しわかるはずなんです。

  ②お母さんをゆるせていない限り、世界(周りの人)からゆるされません。
   もしもあなたが本当に自分の人生を変えたいのなら、
   まずは、何よりもお母さんをゆるす必要があります。

(7)あなたの「今やりたいこと」とは、「今」から逃げたいということ。
   だから「やりたいことがわかりません」という人は、
   まず、本当に何もしないことをおすすめします。

(8)未来を変える「前提の書き換え方」の3ステップ

  ①自分が思っていることを、とにかくノートに書きまくれ!
  ②なぜこんな思い込みがあるのかを考えてみる。
  ③感謝して、思い込みを捨てる。

(9)夜更かしグセのある人は一度
   「そうしていることによって何の得をしているのだろう」と考えてみると良いですよ。

(10)「他人に迷惑をかけたくない」と思うなら、
   さっさと我慢をやめて、自分が本当にやりたいことを自由にやるべき。

   あなたが自由に生きてくれるほうが、周囲のためになるのだから。

(11)今のあなたの人生は、
   過去9割の「起きなかったから大丈夫」と1割の「起きたけど大丈夫だった」で、
   できているのです。

   どのみち、大丈夫なのだから、
   自分の好きなこと、やりたいことを、思うがままにやればいい。

(12)他人を見て、勝手に「かわいそう」「不幸そう」って、
   すごく失礼な態度ですよね。

   知りもしないのに人を勝手に不幸扱いするのをやめると、
   自分も幸せを受け取りやすくなりますよ。

(13)お金に好かれる人というのは、笑顔でいる人のこと。

   だから、まずは笑顔でいることから始めてみてください。

            <感謝合掌 平成30年11月17日 頓首再拝>

幸せは、ただ単に、「ありのままでいいんだ」と心から思える状態のこと - 伝統

2018/11/19 (Mon) 18:44:45


      *「幸せなことしか起こらなくなる48の魔法」
            大木 ゆきの・著(P18~19) より

幸せを難しいものだとず~っと思ってきた私にとっては、
その事実に気づいてみると、確かに「幸せって意外にカンタン!」だったのです。

それはたくさん苦しんできたからこそ、つかんだ真実であり、
それを生きているからこそ、自分の言葉として伝えられるんだと思います。

でもね、本当の幸せは、幸せであるとか、不幸であるとか、
全く意識しなくなることのようです。

どの瞬間も、どんな体験も「すべてがすべてあるがままでいいのだ」と、
受け容れてしまうと、幸せと不幸の境目がなくなってしまうからです。

そして、あなたが自分の人生をどう感じているかに関わらず、
実は今この瞬間も、あなたはその究極の幸せの中に在る。
何もしなくてもすでに満たされている。

そんなことは私が言うまでもなく、あなたの魂はちゃ~んと分かっている。
分かっているんだけど、忘れたことにして、顕在意識を使って
思い出すゲームをしているだけです。
 
この世は、思い出しゲームなんですよ。
 
要するにあなたの好きなコース、
好きなペースを選んでそれをやっているだけのこと。

だから何も間違っていないんです。ちゃんとうまくいっています。
 
それに気付いて、じゃあ後は楽しむだけだなと、
どの瞬間も生きていることを味わいながら過ごすもよし。

深刻になって、あえいでみるもよし。

好き好きだってことです。

            <感謝合掌 平成30年11月19日 頓首再拝>

願いが叶わないのは、自分がその幸せを受け取ることを自分に許可していないから - 伝統

2018/11/21 (Wed) 17:08:50


      *「幸せなことしか起こらなくなる48の魔法」
           大木 ゆきの・著(P25~27) より

ものすごく高級なレストランに行ってみたいと思うけど、
実際に行ってみると、なんとなく自分はお呼びじゃなかったような気がして、
身の置き場がないような気持ちになってしまう。
 
そして、うちに帰ってお茶漬けを食べたら落ち着く、みたいなことがあると思います。

それと同じように幸せや夢が叶うことを、
どこかで恐れ、現状維持でいいと思っていることってあります。
 
あるいは「私みたいな者が、いいのだろうか」と思っていたり・・・・・。
 
もしかするとそもそもその夢は、
本当は叶わない方がいいと思っているってこともありますね。
 
よ~く周りを見回してみてください。
そんなに才能があるわけでもないのに、幸運に恵まれている人っていると思います。
そういう人は自分に対して「許可」することができているんです。
 
もちろん努力も必要でしょうけれど、もっと大事なのは「許可」です。
 
実力そのものよりも、「自分が幸せになっていい」と
思っているかどうかの方がずっと影響力が大きいのです。
 
不思議な話かもしれませんが、どこか悲劇好きな人っているんですよ。
悲劇のヒロインの方が落ち着く・・・・・みたいな。こ

んなに幸の薄い私って健気(けなげ)。
誰よりも不幸な私・・・・あぁかわいそう・・・・みたいな。
 
それを自分で明確に認識しているなら、
それはそれでその人の好みですからいいと思います。
 
でもあなたはどうですか? 
私は悲劇のヒロインはあんまりやりたくないなぁ。
どう見ても悲劇のヒロインぽいキャラじゃないですからね。

お気楽極楽、みたいなのがいいなぁ。
 
もしもあなたも楽しく人生を生きて、夢をどんどん実現させてみたいなら、
まずどうなりたいのかを意図し、そして次に、思った通りになることを許可しましょう。
 
それが夢を実現させるための最初のステップです。


            <感謝合掌 平成30年11月21日 頓首再拝>

《幸福に豊かに生活するには》 - 伝統

2018/11/23 (Fri) 18:06:52


        *『人生の秘訣365章』第10篇(P242~243) より

人間が日々の生活に幸福感が得られないで、
鬱陶しい面白からぬ生活を送っていなければならないのは、
自己に内在する力を自由奔放に放出することができないで、
自己内在の力を内に抑圧して鬱結せしめているからである。

抑圧と鬱結とを取去れ、さらば人生が明るく見えて来るであろう。

その抑圧を取去り、鬱結を除き去るには、
内在の霊的力に対して通路をひらかなければならないのである。

それには心を「内部の霊」の方向に振り向けなければならないのである。

普通吾々は、日常生活の現実的多忙に追いまわされて、五官的事物の方に心を奪われ、
「内部の霊」に心を振り向ける時間も余裕もなくなっているのである。

私たちの「心」は五官を通して、有限の物質世界に縛られ、
「霊的自覚」(悟り)を通して「霊的無限の世界」と通ずるのである。

「霊的無限の世界」に通じて無限を引出し来り、生活を豊かにすべきである。

            <感謝合掌 平成30年11月23日 頓首再拝>

360度の幸せ - 伝統

2018/11/28 (Wed) 19:15:24


      *「幸せなことしか起こらなくなる48の魔法」大木 ゆきの・著(P44~45) 

想像以上の幸せというのは、結果的に起こることであり、
こちらから意図して起こすものではありません。


(中略)


天に委ねるということは、小さな自分が小細工することをすべてあきらめ、
何かを期待することすら、完全にやめることです。

そして、天に委ねている状態にある時、あなたがすることはただ一つ。
毎瞬魂に従う・・・・それだけです。

それが無限の恩寵を三次元上に勝手にもたらします。


(中略)


毎瞬、最高最善が起こっているということを信頼していて、常に現在形です。


いろいろ言いましたが、結局あなたは、無限の恩寵そのものなのです。
すべてをすでに持っているのです。
だからわざわざ何かを望む必要なんてないんだ、とも言えます。

無駄な抵抗をやめて、期待も全部捨てて、ただ純粋に魂に従いつづければ、
自動的に360度から無限の恩寵が流れ込む・・・・。


実はとてもシンプルなお話なのです。

            <感謝合掌 平成30年11月28日 頓首再拝>

しあわせの扱い方 - 伝統

2018/11/29 (Thu) 18:48:48


        *「しあわせの言の葉」山下 景子・著(P72~73)より

【 しあわせは手ごたえを伴ってやって来るが、
   しあわせぼけはさりげなく侵入する

            幸田文「しあわせぼけ」より 】

物語なら、「みんなしあわせになりました」でおしまい。
でも、現実は、そこでは終わらない。

   ”有難いと思い、感謝し、ひたすら平安に落付いているうちに、
    勇気は失う、気力は減る、忍耐はあまりなくなる、
    からだは弱くなる、ものが億劫になる、と喪失ばかりである”

幸田文は、それを「しあわせぼけ」と呼んでいます。

(中略)

不幸を克服するよりもしあわせを上手に扱う方が難しいと、
彼女は言います。

先人たちは、不幸を克服することに懸命でした
その努力の上に、今の私たちのしあわせが成り立っているのです。

   ”ふしあわせをなんとかしのげたのなら、
    しあわせももっと上手に扱える筈である”

しあわせの扱い方については、まだまだ、勉強する余地がありそうですね。

            <感謝合掌 平成30年11月29日 頓首再拝>

【不幸は幸運につながり、幸運は不幸につながる】 - 伝統

2018/11/30 (Fri) 18:06:23


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年11月30日)より

   (浜松医大名誉教授、高田明和氏の心に響く言葉より…)

   わたしたちは成功したり、地位が上がったり、
   周囲に尊敬されることを望みます。

   そして当然ながら、そのことを何も悪いことだと思っていません。


   ところで、ブッダも達磨も「因縁の法則」ということを述べています。

   「善因善果(ぜんいんぜんか)」といいますが、
   わたしたちの思うこと、行うことのすべてが
   「宇宙の貯金通帳」といわれる「業」に記録されます。

   よいことをすれば善業として貯金され、それが幸運につながります。

   一方、悪いことをすれば悪業として通帳の借金になり、不運につながるのです。


   ブッダも達磨もこういっています。

   失敗したり、悪いことが起こったりすると人はぺしゃんこに挫けるが、
   じつはそれは業の借金を払ったようなものだ、
   いつかはとり立てられなくてはならない借金を払ったのだから、
   借金なしになったと思えばよい。

   一方、よいことが起こる、幸運に恵まれると有頂天になるが、
   それは今までの貯金を使ったようなものだ、
   だからますますよいことをして業の貯金をしなくてはならない、と。

   これはとてもいい教えです。


   つまり幸運ということは不幸につながりやすく、
   不運というのは幸福につながりやすいということになるのです。

   ですから、今が幸せといって喜んでいられないということになります。

   そこでいい気になれば足をすくわれるからです。


   人生は山あり谷ありです。

   このことを初めて悟られたブッダの驚きはいかばかりであったかと思うのです。

   「生老病死」の「生」が苦諦の一つだということはこのことなのです。

   生きることは不幸につながりやすいし、
   また成功することは「楽」になるということになります。

   でも楽になるということは、
   じつはつぎに不幸に向かっているというのですから、
   喜んでばかりいられないということになります。

   一方、失敗は苦しいということです。
   でも、苦は幸運に近づいているということになります。


   禅ではよく「楽中苦あり、苦中楽あり」などといいますが、このことです。

   もし、あなたが今、苦しい思いをしているとすると、
   あなたは業の借金を払っていることになります。

   ですから、幸運が目の前にきている、そう思ってよいのです。


   一方、あなたが成功して、地位が上がったり、
   人からちやほやされるということは、業の貯金を現在使っていることですから、

   生き方に注意して、
   決して傲慢(ごうまん)にならないようにしなければなりません。

   自慢したりして人を不快にしたり、
   心を傷つけたりしないようにしないといけません。

   それを忘れると運を使い果たし、その先に失敗が待っています。

   幸運が不幸につながるのです。

   なんというどんでん返しでしょうか。


   わたしはこのことがブッダの教えのもっとも重要なことの一つだと思っています。

   過去にいかなる人、いかなる宗教人もこれに気づいた人はいませんでした。

   このことに気づくことが「心が楽になる」最良の方法なのです。

         <『人生の目的は「心が楽になること」』新講社>

            ・・・

功成り名を遂げた人が、転落するケースは多い。

一生使いきれないほどの収入を得ているのに、
まだ足りないと強欲にさらに金銭を求める。


「好事もなきにしかず」という禅の言葉がある。

「良きことも、かえってないほうがよい」ということだが、
普通なら良いことはあったほうがよいと思う。

人もうらやむような成功をして、莫大な富を得ることによって、
傲岸不遜(ごうがんふそん)の芽が出て、まわりが見えなくなる。

成功したり、巨万の富を手に入れるということは、
もっと「謙虚になりなさい」「人の幸せのために、お金や労力を使いなさい」
「世のため人のために仕事をしなさい」という天からのメッセージ。


「不幸は幸運につながり、幸運は不幸につながる」

不運の時は決してくさらず、幸運の時はさらに謙虚に、を心がけたい。

            <感謝合掌 平成30年11月30日 頓首再拝>

自分を責めない - 伝統

2018/12/10 (Mon) 18:49:15


      *「幸せなことしか起こらなくなる48の魔法」
             大木 ゆきの・著(P96~99) 

「もうまたやっちゃった! ダメじゃないの。いつまで経っても、そんなことじゃあ」
自分にそんなことを言ったりしてませんか?
 
小さい頃は、自分で稼ぐこともできなかったし、養われる必要もあったので、
親にそういう言葉をたくさん言われても、受け容れるしかなかったかもしれませんよね。

でも、大人になったあなたは、「選べる存在」になりました。
自分で自分をどう扱うかはあなたが自由に選べるんです。

あなたはあなたを幸せにするための神聖な選択権を持っているのです。
その選択権を行使してください。
 
何か失敗したら、そこから学べばいいだけで、
自分を責めたり、腐したりする必要はないのです。
 
責めるということは
「私はそういうことをする自分を自分であるとは認めません。受け容れません」
ということです。このサイクルに入ると、ものすごく消耗します。
 
何らかの受け容れがたい失敗をやらかした自分は、
「お前なんか、私じゃない。出ていけ」と言われると、
ますます意地になって仲間に入れてもらおうと抵抗します。
 
けれどもあなたがそんな自分をどうしても認めたくないとしたら、
あなたも負けずに出ていけ攻撃を激化させることになります・・・・。
 
その結果そういう自分は抑圧されてしまいます。
ぎゅーっと押し入れの奥の奥にしまわれて、出てこないようにされちゃうわけです。
 
すると今度は、ある日「こんなとこにいたんじゃ息もできないよ」と、
もう一人の自分は脱走します。
脱走してあなたの友達や家族に変装して現れるんです。

「あなたはこういうことをやらかす人間ですよね? 違いますか?」
というようなことを、家族や友達に姿を変えて、あなたに指摘しだします。

「いいえ、私はそんな人間ではありません」

あなたはムキになり、そんな人とは縁を切ろうと思います。
 
するともう一人の自分は、新しい友達に変装してまたあなたの前に現れるんです。

「もしもし、あなたはやらかしちゃう人間ですよね?」
 
キャーっどうして? どうしてまたまたこんなこと言われちゃうの?
 
嫌な人とは縁を切ったはずなのに、
なぜ違うところに行っても同じようなことを言われちゃうの? 
みんなひどい! ひどいわぁ! 生きるって、なんて辛いことなんだろう。

頭の中はグルグル巻き。パワーダウンしてやる気も起こらない。
 
こうしてますます自身からほど遠くなってしまいます。
あなたが「ダメな自分だ」と思って仲間外れにしている自分を受け容れるまで、
このゲームはずっとつづくのです。
 
バカバカしいでしょう? 

だから本当に自信を持ちたいとしたら、
うまくいかないことをやった自分を受け容れることをまずやればいいんです。

            <感謝合掌 平成30年12月10日 頓首再拝>

【幸福の法則】 - 伝統

2018/12/15 (Sat) 18:14:22


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年12月07日)より

   (宇野千代氏の心に響く言葉より…)

   ■人間の顔つきも習慣である。

    笑顔が習慣になればしめたものである。

   ■おかしいことであるが、私はいつでも、
    自分の都合の好(よ)いことがあると、これは何かのお蔭ではないかと思う。

    そう思うことが好きである。

    そして、そういうことが続くと、了(しま)いには、
    自分には都合の好いことが続くものだ、と思い込むである。

    不思議なことであるが、何でもそうだと思い込んだことは、
    その通りになるものである。


   ■お洒落(しゃれ)をする、或いは気持ちよく身じまいをすることは、
    生きていく上の、生き甲斐(がい)でもある。

    ちょっと大袈裟(おおげさ)に言うと、人としての義務である。

    お洒落は自分のためだけにするのではなく、
    半分以上は、自分に接する人たちの眼に、気持ちよく映るように、
    と思ってするのだから。


   ■私は若い人が好きである。

    若い人の百パーセントに生きている姿が好きなのである。

    若さとは何か。

    ひと言で言えば、生きが好(よ)いということがその凡(すべ)てである。


   ■あなたの倖(しあわ)せは、ほんのすぐ、あなたの身近にあるのです。

    人間の欲望を遂げたい気持ちは、限りもないものだと思いますが、
    あなたはその欲望を、どのくらいの高さまで、遂げたいと思っているのですか。

    あなたは、あなたの思っているよりも、
    ほんの一桁(けた)、ほんのちょっと格下げをしただけで、
    あなたは倖せになれるのだと思いませんか。


   ■人間は考え方、心の持ち方で幸せになったり不幸になったりするのです。

    絶対の幸福も不幸もありません。

    悩みや心配事から解放されるコツはこだわらないこと、これ一つです。


   ■不幸だとか幸福だとかという言葉くらい、本人の気の持ち方次第のものはない。

    不幸が好きな人は不幸だし、幸福が好きな人は幸福だ。

    おかしな言い方であるが、不幸になるのも幸福になるのも、
    本人の望み次第で、私の好き勝手になれるのだという気がしている。

            <『幸福の法則一日一言』海竜社>

              ・・・

自分が幸せだと思う人は、肯定的な人。

反対に、不幸だと思う人は、否定的な人。


同様に、未来に希望を持っている人は、肯定的な人。

そして、若者が好きだ。


否定からは希望は生まれない。

肯定的な人は、冒険心や、挑戦心、好奇心、そして、バイタリティにあふれている。


幸福という現象も、不幸という現象もない。

あるのは、「幸福」あるいは「不幸」、と感じる自分がいるだけだ。


幸福の法則を身につけたい。

            <感謝合掌 平成30年12月15日 頓首再拝>

0から1を着実に進もう! - 伝統

2018/12/16 (Sun) 19:35:34


      *「幸せなことしか起こらなくなる48の魔法」
            大木 ゆきの・著(P134~140)より

特に自分の人生に新たな展開がある場合、人はなにかと不安になるもの。
不安になる大きな理由のひとつが、一足飛びに結果を出そうとする焦りです。

いきなり0から10をつかもうとすると、
地上から山頂まで駆け上がらなければならない感じがして、
しんどくなってしまうのです。

そんなことできるかなぁ……。
相当頑張らないといけないだろうなぁ……。
そうじゃなくても不安なのに、ますますストレスがかかります。

本当なら0から1進んだだけでも、大進歩なのに、
1進んでも「大して進歩がない」と判断してしまいます。

それどころか、もたもたしてるなあ! いったい何をやってるんだろう、
と、自分を責め立ててしまいます。


「早く結果を出さなければいけない」
「自分は全然努力が足りない!」という思い込みを強烈に持っている人の周りには、
その思いを映し出し、

「いつまでそんなことをやっているつもりだ!」と怒る人や、
「全然進歩がないわね」という人が集まってきます。

そんなこんなでますます焦ってきて、そのことがまたまたストレスになり、
何にもやる気が起こらない、すると、そのことをまた責め出して、
どうにもこうにも立ち行かなくなってしまう。

こういうのって、一種の完璧主義なんですね。
日本人にはこういう人ってけっこういるんじゃないですか?
まじめな人って多いですからね。

親からも学校からも「早くやれ」「ちゃんとやれ」「休むな!サボるな!」
って散々言われてきましたからね。

さて、そんな状況をどうすればいいか?

それは、0からいきなり10を目指さずに、まず1を目指す。

1は簡単です。そして1進んだら、ちゃんとお祝いをする。
少なくとも自分のことを褒めてください。
本当は何かご褒美をあげると、もっといいです。

そうやって一歩一歩進んでいくと、だんだんその道のりが楽しくなってきます。

(中略~そして、徐々に輪が広がっていくもの。)

少しずつであろうとも、確実に進歩しているという感覚は、とても感動的だといいます。

無理して一足飛びに10を目指すと、もとも子もなくなってしまう場合もありますが、
着実に進んでいる分、力も着実についてくるので安定していますし、
何かあっっても簡単に崩れるようなことはないんです。

そうやって一歩すつ進んでいると、ある時、神様が現われます。

一種のミラクルのようなものが、ある日突然やってきます。

チャンスには段階があり、たくさんの人と分かち合おうという気持ちがあれば、
次のチャンスもやってくるもの。

するとまた、神様が現われます。

(中略)

今回のお話を要約すると、段階を追って進み、一段進むごとにお祝いする。

(中略)

目の前のことを、一生懸命心を込めて喜びを持ってやる。
あなたが楽しそうなら、あなたのその楽しい波動につられて、
人が集まってきます。


幸せになるためのいい方法がわかったら、周りの人にも分かち合う。
そしてたくさん幸せな人が増えていくことを応援する。

プロセスを楽しんでいる人のところには、そのうち必ず大きなチャンスがやってくる。
チャンスがやってきたら、喜んで受け取りましょう。
そして、後から来る人たちのために。道をならしておきましょう。

            <感謝合掌 平成30年12月16日 頓首再拝>

本当の幸福 - 伝統

2018/12/28 (Fri) 18:27:32


           *「光明道中記」(12月28日 幸福成就の日)より

【実相を悟るものに不足の感じは起こらない。(『生命の實相』第一巻)】

人間は誰でも幸福に成りたい。
しかも多くの人達は幸福に向う道を誤まっているのである。
或る人たちは幸福と快楽とを混同している。

そして幸福になろうとして快楽を得ようとし、快楽を追求して結局得るところのもの
とては幸福ではなくて、苦痛であったと云う場合が多いのである。

仏者は五官の快楽を、瘡面(かさぶた)の痒きを掻くに喩えたことがある。
また渇者が塩水を飲んで渇を医(い)やすに喩えたことがある。

五官の快楽を求める習慣を得るときは、それを得なければ淋しいし、得れば尚一層、
得なければ淋しいこと、阿片中毒の如き状態となる。

阿片中毒者は阿片の奴隷であるし、
五官の快楽を追求せねば淋しい人達も、五官の奴隷である。

金銭の欲望を追求し、追及し、飽くことなき渇欲に心身を疲労せしめている者も
金銭の奴隷である。

本当の幸福は五官の快楽や、金銭の集積で得られないこと、
本当の幸福は阿片の吸引では得られないのと同じである。

本当の幸福は愛と深切と思いやりと、些(ささ)やかな事物の奥にも輝いている
天地の恵みを見ることである。

若し魂の眼(まなこ)が開かなかったならば幸福は何処にもない。

            <感謝合掌 平成30年12月28日 頓首再拝>

与える方向から得られる幸福 - 伝統

2018/12/29 (Sat) 19:24:09


           *「光明道中記」(12月29日 気高き心を把持する日)より

【心は容貌に彫刻の鑿を揮う。心が刻まないとき年の皺は刻まれない。
                        (『生命の實相』第一巻)】

幸福は五官の満足、所有の満足によって得られるのではないと云うことが判ったならば、
吾等は別の方向から幸福を求めなければならないのである。
それはどんな方向からかと言えば与える方向からある。

所有欲は奪う方向から幸福を得ようとしたのであるが、
吾々が世のために尽す真行(しんぎょう)や、国のために尽す忠誠や、
社会のために尽す奉公の幸福感などは、孰(いず)れも与える
方向から得られる幸福なのである。

また幸福は、それが触覚的方面、味覚的方面、所有的方面より来るものである限り、
それは著しく物質的であり、即(つ)いた感じであり、低卑な感じであり、
それは余りに多く満たすときは苦痛に変ずる性質のものである。

いつまでも変わらない幸福は、次第に、触感的、味覚的、所有的な方面から離れて来る。
視覚的な喜びは、触覚的な又は味覚的な悦びに比べて、
著しく「離れたる性質」のものである。

それは必ずしも触れなくとも、所有しなくとも、離れていて味わい得るのである。

芸術を味わうよろこび、自然を鑑賞するよろこびなどは後味の好い喜びである。

鑑賞するよろこびには、必ずしも所有することを必要としない。

            <感謝合掌 平成30年12月29日 頓首再拝>

人の幸福をねがう日 - 伝統

2019/01/02 (Wed) 18:56:51


           *「光明道中記」(1月2日)より

【愛はすべての物に調和と平和とを齎(もたら)す精神波動である。
                    (『生命の實相』第十一巻)】

人を訪ねる時は、その人に幸福を手土産(てみやげ)として行くべきである。
このことを知ったとき、私はひとを訪問することが楽しみとなったのである。

誰でも人を訪問する時には物質的手土産を持って行くことを忘れないのであるが、
手土産と云うものをただ物質的にのみ考えていた時代には手土産なしに
人を訪問することが、何か不自然な忘れ物をしたような感じがして気が咎めたが、
手土産は必ずしも物質に限るべきものではない。

「心の手土産」と云うようなものもあると云うことが解るようになってから、
私は必ずしも人を訪問するのに以前のような窮屈な感じがしなくなったのである。

心の手土産と云うのは何か、調和と平安の精神波動を持参することである。
人を訪問するに当って、相手の家が、神の愛に満たされて調和と平安に満たされている
ことを念じてその家に入るのである。

そんなことが何の価値があるかと言うのは唯物論者のことである。

人が人を訪問するのに、その家の平安を祈りながら戸口をくぐる事は荘厳な行事である。

            <感謝合掌 平成31年1月2日 頓首再拝>

神の生命の顕現のみが人間の幸福なのである - 伝統

2019/01/04 (Fri) 17:46:56


           *「光明道中記」(1月4日 神われに生き給う日)より

 【幸福とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。(「生命の實相」第十一巻)】

「生きとし生けるものを生かし給える
御祖神元津神霊(みおやがみもとつみやま)ゆ幸(さきは)え給え」

「幸(さきは)え」は「咲(さ)き生(は)え」であり、
「割(さ)き延(は)え」であり、神の生命の顕現である。

「霊(みたま)さきはえ」のみが人間の幸福なのである。
人間の幸福は富を実現することではない。名声を挙げることでもない。
神の生命(いのち)を顕現することである。

梅の花は咲き出でることが幸福である。
それは名声を博するがためではないから
奥山にいても依然として芳しく咲き匂うのである。
それは金銭のためでないから、盆栽として売られなくとも咲き出でるのである。

梅の花はただ咲き出で、人間はただ与えられた使命を生きる。
幸福そのなかにあり、悦びその中にあり、楽しきこと限りなし。

若(も)し人が労苦して、そこに悦びが感じられなかったならば、
それはその人が第二義的なものを求めている証拠である。

働きそのものが第一義的目的であり、働きの中に生命が延び、霊魂が進歩する。
第二義的なものは、そのときは値打があるように見えても、その価値には永遠性がない。

            <感謝合掌 平成31年1月4日 頓首再拝>

本当の幸福というものは暗い生活からは生まれぬ - 伝統

2019/01/06 (Sun) 19:14:24


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より抜粋

たえず活(はたら)いているということが喜びの源泉である。
活(はたら)かないものは、何か自分の内部から気がとがめるあるものを感ずる。
この気がとがめる囁きをごまかすために多くの人は外面を麻酔する誘惑に身を投ずる。

「小人(しょうじん)閑居すれば不善をなす」というのは、働かないものが内部に
感ずる良心の囁きをごまかすために誘惑に身を委(まか)せることをいう。

酒や麻酔薬で内部の囁きをごまかしてみても本当の幸福は来ぬのである。
ごまかしの生活の中には必ず何か暗いものがある。

本当の幸福というものは暗い生活からは生まれぬ。

暗い生活をごまかしごまかしして偽りの快感らしい生活を送るのは、
湿疹(しっしん)の瘡蓋(かさぶた)の痒きを掻(か)いてごまかすところの快楽である。
掻けば掻くほど、魂は爛(ただ)れ、みぐるしい膿血(のうけつ)が流れるのである。

            <感謝合掌 平成31年1月6日 頓首再拝>

《心で神の祝福をみとめることによって、それが実現化する》 - 伝統

2019/01/11 (Fri) 18:33:58



       *『人生の秘訣365章』第12篇(P300) より


神は“今”そして“永遠”にわが内にあり、
われは“今”そして“永遠”に神の内にあるとするならば

すべての富の供給も、幸福も、健康も、平和も“今”そして“永遠”に
既に此処に《ある》という譯であって、什一献金をするから、特別に、
その献金者に幸福が与えられるという譯ではないのである。

だから献金を代償として交換的に幸福が与えられるなどと考えることは、
神を誤解し神を侮辱することになるのである。

唯その既に与えられている幸福を、現実の世界に見出すには、
自分の心の眼がひらかなければならないのである。

何故なら、心でみとめたもののみが
現実界の存在として体験されるものだからである。

            <感謝合掌 平成31年1月11日 頓首再拝>

”「決して満足できない」症候群” - 伝統

2019/01/16 (Wed) 19:16:02


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018.12.5)より

   (バーバラ・バーガー氏の心に響く言葉より…)

   あなたは、私の言う「決して満足できない」症候群にかかっていないでしょうか。

   常に「今ある以上のもの」を欲しがったり、
   それを持っていないことで自分を責めたりしてはいないでしょうか。

   前に持っていたもののほうが確かによかったとか、
   自分が手にしているものは近所の人や親友が持っているものほどよくない…とか。


   健康状態も経済状態も、以前のほうがよかったとか。

   自分の服もソファもテレビも気に入らない、家賃が昔に比べて高いのは納得できない、
   日用品の値段も上がるいっぽうで生活が大変だ…そんなふうに感じていないでしょうか。

   あるいは「若かった頃は人生はもっとワクワクするものだった」
   なんて感じているかもしれませんね。

   その他にも、

   「大学を出て、いい仕事についていれば」

   「結婚して家庭を持っていれば」

   「頼りにできる恋人ができていれば」

   人生はもっと満足のいくものになるのに、
   そしてすべてが今よりよくなり、もっと安心して生きられるのに…と。


   もし、こうした感情に心あたりがあるなら、
   あなたは「決して満足できない」症候群にかかっています。

   あなたが幸せでないのも当然です!

   こうした感情が渦まいているとき、心の中は「戦場」です!

   心の中で起きているのは、「現実」との絶えざる戦いです。

   ストレスを感じ、不幸なのも無理はありません。


   「自分が持っていないもの」について嘆き、自分と他人、
   自分の 過去と現実と現在を絶えず比較していることに
   どんなメリットがあるのか、今こそ自分に問い直すときかもしれません。

   「ないものねだり」が、今ここにいるあなたの人生の質を
   どれほど高めてくれているでしょうか?

   現実には、家賃や生活費は上がり続けています。

   健康状態は以前ほどよくないし、テレビは最新モデルではなく、
   ソファも擦(す)り切れています。

   現実には、妻も子も完璧な家族もいないのです。

   まずは、その「事実」に正面から向き合うことです。


   あなたが「自分は大丈夫」とも「幸せだ」とも思えないのは、
   「自分の人生とは、こうあるべき」と自分に言い聞かせている
   ストーリーに原因があります。

   私たちが自分や他の人に語っているストーリーはすべて、
   個々人のまったく勝手な基準とルールに基づいているのです。

   例えば…

   ■大学を卒業して素晴らしい仕事についたら、
    人生はうまくいく (そして幸せになる)。

   ■自分の専門分野で傑出すれば、人生はうまくいく (そして幸せになる)。

   ■大金を稼ぎさえすれば、人生はうまくいく (そして幸せになる)。

   ■かっこよくなってセンスのいい服をいっぱい持てたら、
    人生はうまくいく(そして幸せになる)。

   ■立派な仕事についている男性と結婚して、すてきな家を持ち、
    子どもが二人できたら、人生はうまくいく  (そして幸せになる)。

   ■自分が立派な部長であることを示し、昇進したら、
    人生はうまくいく(そして幸せになる)。

   ■身体がもっということをきくようになったら、
    人生はうまくいく(そして幸せになる)。


   つまり、「こうあるべき」というストーリーが現実になれば、
   人生はすべてうまくいくし、幸せになれるというのです。

   でも、本当にそうでしょうか。


   「状況」とは、「今、まさにそこにあること」です。

   この状況があなたを幸せにするか、不幸にするか、それを決定するのは、
   それぞれの状況に対するあなたの反応なのです。

   言い換えれば、これらの状況や出来事の「意味」について、
   自分にどんなストーリーを言い聞かせるかで、幸・不幸が決まるのです。


   出来事そのものは、「ただ、起こったこと」です。

   そして、「外側の出来事」に対する私たちの反応が、
   いつでも「内側の出来事」となるのです。

   あなたは「外側の出来事」に自分がどう反応するかについて、
   意識したことがあるでしょうか。

   「外側の出来事」に自分がどんな意味づけをし、
   どんなストーリーを言い聞かせているか、その意味づけや
   ストーリーを検証したことがありますか?


   何かが起こったとき、私たちがそれを「いいことだ」と思えば、
   「幸せ」と感じます。

   「悪いことだ」と思えば不幸と感じます。

   それほど単純なことなのです。

   こうした視点で世の中を眺めると、出来事はただ起こり、
   それに対してその後に私たちが反応しているのだと気づきます。

   何かの出来事が起こると、私たちは自分自身の善悪についての
   ストーリーや「現実はいかにあるべきか」という考えに基づいて、
   その出来事を判断し、反応しているのです。

   そういうメカニズムになっているのです。

         <『何があってもうまくいく人10の方法』三笠書房>

             ・・・

何か状況が変わったらすべては解決し、
うまくいくと思っている人は、「幸せ」を感じることはない。

「幸せ」だといつも思っている人は、
今のある状況の中から「幸せ」を探すことができる人だ。

だから、いつも「感謝」の心や、
「おかげさま」の気持ちで満ちあふれている。


もっとお金があったら、もっといい車に乗れたら、
もっといいパートナーに恵まれたら、と思っている限り、
「幸せ」はどんどん逃げていく。

なぜなら、「幸せ」という状況や状態があるわけではなく、
「幸せ」を感じる自分がいるだけだからだ。

お金や車がなくても幸せな人はいくらでもいるし、
病気であっても、幸せを感じることができる人はいる。


出来事はただ起こっているだけで、そこに善悪も、幸不幸もない。

どんなときも、幸せを見つけ出せる人でありたい。

            <感謝合掌 平成31年1月16日 頓首再拝>

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