伝統板・第二

369866
「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

そのまま・法爾自然 ② - 伝統

2018/02/28 (Wed) 04:32:57


     *伝統板・第二「そのまま・法爾自然」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6983067


『法爾自然』

        *『人間無病の原理』(P65~67)より


その宇宙の大法というものにね、自分がぴったりと一つになって、
その「思い」や「行為」が自然に調う。 

これが『法爾自然』であります。


此の宇宙の大法と一つになろうと思ったならば、
「自分」という「我」の塊があったら決して一つにはなれません。 
「自分」という塊がとけてしまわなければならない。 

ミキサーにかけるように、「自分」と云う塊を完全に融かして壊いてしまった時に、
宇宙の実相の円満な智慧と一つになることができるのです。

 
宇宙の智慧というものが、どんなに円満なのかと言いますと、
一個の人体をとって考えてみましても四百兆もある人体の細胞が
複雑に組織されてオートメーション的に、少しも狂いなく運転している
 ―― そういうすばらしい構造を編み出した智慧であります。

その素晴しい智慧は、単に人体だけではない、宇宙の森羅万象、あらゆる物象の中に、
そしてまた吾々の日常生活のいろいろの出来事の中に、網の目をひいたように
法則が張りわたされて秩序が保たれてあるわけであります。

世界における出来事は一見混沌としているようだけれども、
原因結果の法則の下に、実に秩序整然と運行しているのであって、
自分の播いた種は必ず穫り取らねばならぬようになっている。

その宇宙の中に張りめぐらされた因果の法則の中に「わしが」という固まりが出来たら、
それが衝突のもとになり、その衝突が連鎖反応を起こして、
無限に原因結果が循環するのであります。

だから「原因結果の法則」による「悪業の循環」から逃れようと思ったら、
「わしが」という固まりがなくなってしまって、天地に充ち満ちている
完全な「実相」の智慧そのままの中に融けこんでしまって、その侭働くのです。 

これが 『法爾自然』 の動きです。

『法爾自然』 というのは、実相の完全な法さながら、真理そのままに、
自然に動きでることであります。 動かないんじゃないのであります。 
動かなければいけません。 

しかし「我」で動いては駄目です。 

天地の法そのままに、実相の智慧そのままに動くのであります。

            <感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>

天地自然の智慧とひとつになり、自然法爾に動き出す - 伝統

2018/03/29 (Thu) 03:52:28


         *『人間無病の原理』(P68~69)より

すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の智慧の中にとけこまないで
「我」の塊で運動しておるから、うまくいかんのであります。

「祈り」又は「神想観」によって天地の智慧の中に没入し
「我」と云うものが無くなり、天地自然の智慧と一つになって動き出したら、
何事でも調和した姿に現れてくることは間違いがないのであります。

併し祈ったり「神想観」すると言っても、
動かないで祈っておったらいいというわけではありません。

祈り且つ神想観をすれば、心が整って、實相の智慧と一つになるのです。
實相の智慧と一つになって、そこから自然法爾に動き出そうという
内からなる“催し”が自然と湧いてくるのです。

その内からなる“催し”に素直に従って、その導きのままに行動する
という所に信仰が行動化して運動化し、そこに實相の完全さが、
その行動を通して実現して来るということになるのであります。

   (「光の泉」昭和34年4月)

            <感謝合掌 平成30年3月29日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2018/04/29 (Sun) 04:03:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。
冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。
魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月29日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2018/06/10 (Sun) 04:42:46

         *「真理」第3巻初学篇(P307~308)より

絶対善の生活をしようと思ったならば、
すべての「立場」を捨てなければならない。

「善」という立場すらも捨てて、「そのまま」にならなければならない。

この「そのまま」は、もう善悪の立場を超えて、
絶対と「一つ」になっているのであります。

だから慧能(えのう)は、明上座(みょうじょうざ)に真理を教えて下さいと云われたときに、

「善をも思わず、悪をも思わず、ギリギリの正念場に立った時、
もう人間知恵でどうすることも出来ぬとき、その時、人間考えを完全に捨てる
一刹那が来ることがある。その時だ、その時だ、お前の本来の面目――
人間知恵を超えたそのままの人間の本当のすがたがわかる!」

と云ったのであります。

道元禅師も「正法眼蔵、生死巻(しょうじのまき)」に

「ただ我身をも心をも放ち忘れて仏の家になげいれて、仏の方よりおこなわれて、
これにしたがいもてゆくとき、ちからをも入れず、こころをもついやさずして
生死(しょうじ)をはなれ仏となる」

と教えられているのであります。

「善をも思わず、悪をも思わず」とは、
要するに我(が)の立場 ―― 「自分」と云う片寄った物の考え方 ―― 
がなくなって、「仏の方(かた)からおこなわれる」から、
生活が仏ばかりになるのであります。

生活が仏ばかりの生き方になれば、融通自在行きづまることがない、
これが禅の生活であります。

            <感謝合掌 平成30年6月10日 頓首再拝>

行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2018/06/16 (Sat) 03:31:56


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

            <感謝合掌 平成30年6月16日 頓首再拝>

「そのままの心」 - 伝統

2018/07/02 (Mon) 04:50:13


     *『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻(P322~523)より

多くの失業者は「職業がない」と訴えて居りますけれども、
職業の無い人は一人も無いのであります。

「だって誰も私を雇ってくれないんだもの、職業はないんだ」
と言う人があるけれども、しかし一寸往来を見渡しても
沢山のゴモクが落ち散って居て醜(みぐる)しいのでありますが、
誰も掃除して居(お)らない。

「往来」は無言の声で我らに呼び掛けている。
「大分、よごれましたから誰か私を掃除してくれませんか」と。

「よし来た。私が掃除しよう」と、素直に、その呼び掛けに応えたら、
もう其処に自分の職業があるのであります。

唯、その職業は金(かね)を呉(く)れんだけであります。
失業者の多くは、「金をくれんから働かん」と思っているから
職業がないのであります。

かれ等は「金(かね)」という条件によって自分が縛られているから、
「そのままの働き」を失って、仕事が眼の前にありながら、
仕事をしないのであります。

「そのままの心」になれば、
自然に汚いものをきれいにしたいという衝動が起って来る。
その運(めぐ)り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。

それなのに貨幣制度だとか、搾取だとか、いろいろの問題にひっかかって、
自分がそれに縛られているから、そのまま”自然のはたらき”を失って居るから、 

生命(せいめい)自身の自由自在の働きというものが出てこないで 
職業がない、収入がない、ということになるのであります。

若し其の人がそのままになる働きをして眼の前に横たわっている仕事を
頼まれもしないでも社会のために奉仕的にでもして居ったら、

何人(なんぴと)もその人をみとめて、「あの人は素晴らしいなあ」と
いうことになり、「あの人に来て貰いたい」という会社や商店が随分沢山
出てくるに相違ないのであります。

            <感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く - 伝統

2018/07/13 (Fri) 04:27:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より

神はすべてのすべてだとわかったら、罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に自然(じねん)に動き出してくる
ごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>

いっさいをそのまま受ける - 伝統

2018/08/18 (Sat) 03:27:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る
自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより曇ってしまって、
永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼には
なれないものだと思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、
彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活を
そのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

         <感謝合掌 平成30年8月18日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 - 伝統

2018/08/24 (Fri) 04:45:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月24日)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は
親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。

「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば
吾が弟子となることを得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。

いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。

捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、
ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、
それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

         <感謝合掌 平成30年8月24日 頓首再拝>

そのままの心で愛を行ずる - 伝統

2018/09/15 (Sat) 04:24:59


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

             <感謝合掌 平成30年9月15日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.