伝統板・第二

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そのまま・法爾自然 ② - 伝統

2018/02/28 (Wed) 04:32:57


     *伝統板・第二「そのまま・法爾自然」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6983067


『法爾自然』

        *『人間無病の原理』(P65~67)より


その宇宙の大法というものにね、自分がぴったりと一つになって、
その「思い」や「行為」が自然に調う。 

これが『法爾自然』であります。


此の宇宙の大法と一つになろうと思ったならば、
「自分」という「我」の塊があったら決して一つにはなれません。 
「自分」という塊がとけてしまわなければならない。 

ミキサーにかけるように、「自分」と云う塊を完全に融かして壊いてしまった時に、
宇宙の実相の円満な智慧と一つになることができるのです。

 
宇宙の智慧というものが、どんなに円満なのかと言いますと、
一個の人体をとって考えてみましても四百兆もある人体の細胞が
複雑に組織されてオートメーション的に、少しも狂いなく運転している
 ―― そういうすばらしい構造を編み出した智慧であります。

その素晴しい智慧は、単に人体だけではない、宇宙の森羅万象、あらゆる物象の中に、
そしてまた吾々の日常生活のいろいろの出来事の中に、網の目をひいたように
法則が張りわたされて秩序が保たれてあるわけであります。

世界における出来事は一見混沌としているようだけれども、
原因結果の法則の下に、実に秩序整然と運行しているのであって、
自分の播いた種は必ず穫り取らねばならぬようになっている。

その宇宙の中に張りめぐらされた因果の法則の中に「わしが」という固まりが出来たら、
それが衝突のもとになり、その衝突が連鎖反応を起こして、
無限に原因結果が循環するのであります。

だから「原因結果の法則」による「悪業の循環」から逃れようと思ったら、
「わしが」という固まりがなくなってしまって、天地に充ち満ちている
完全な「実相」の智慧そのままの中に融けこんでしまって、その侭働くのです。 

これが 『法爾自然』 の動きです。

『法爾自然』 というのは、実相の完全な法さながら、真理そのままに、
自然に動きでることであります。 動かないんじゃないのであります。 
動かなければいけません。 

しかし「我」で動いては駄目です。 

天地の法そのままに、実相の智慧そのままに動くのであります。

            <感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>

天地自然の智慧とひとつになり、自然法爾に動き出す - 伝統

2018/03/29 (Thu) 03:52:28


         *『人間無病の原理』(P68~69)より

すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の智慧の中にとけこまないで
「我」の塊で運動しておるから、うまくいかんのであります。

「祈り」又は「神想観」によって天地の智慧の中に没入し
「我」と云うものが無くなり、天地自然の智慧と一つになって動き出したら、
何事でも調和した姿に現れてくることは間違いがないのであります。

併し祈ったり「神想観」すると言っても、
動かないで祈っておったらいいというわけではありません。

祈り且つ神想観をすれば、心が整って、實相の智慧と一つになるのです。
實相の智慧と一つになって、そこから自然法爾に動き出そうという
内からなる“催し”が自然と湧いてくるのです。

その内からなる“催し”に素直に従って、その導きのままに行動する
という所に信仰が行動化して運動化し、そこに實相の完全さが、
その行動を通して実現して来るということになるのであります。

   (「光の泉」昭和34年4月)

            <感謝合掌 平成30年3月29日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2018/04/29 (Sun) 04:03:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。
冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。
魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月29日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2018/06/10 (Sun) 04:42:46

         *「真理」第3巻初学篇(P307~308)より

絶対善の生活をしようと思ったならば、
すべての「立場」を捨てなければならない。

「善」という立場すらも捨てて、「そのまま」にならなければならない。

この「そのまま」は、もう善悪の立場を超えて、
絶対と「一つ」になっているのであります。

だから慧能(えのう)は、明上座(みょうじょうざ)に真理を教えて下さいと云われたときに、

「善をも思わず、悪をも思わず、ギリギリの正念場に立った時、
もう人間知恵でどうすることも出来ぬとき、その時、人間考えを完全に捨てる
一刹那が来ることがある。その時だ、その時だ、お前の本来の面目――
人間知恵を超えたそのままの人間の本当のすがたがわかる!」

と云ったのであります。

道元禅師も「正法眼蔵、生死巻(しょうじのまき)」に

「ただ我身をも心をも放ち忘れて仏の家になげいれて、仏の方よりおこなわれて、
これにしたがいもてゆくとき、ちからをも入れず、こころをもついやさずして
生死(しょうじ)をはなれ仏となる」

と教えられているのであります。

「善をも思わず、悪をも思わず」とは、
要するに我(が)の立場 ―― 「自分」と云う片寄った物の考え方 ―― 
がなくなって、「仏の方(かた)からおこなわれる」から、
生活が仏ばかりになるのであります。

生活が仏ばかりの生き方になれば、融通自在行きづまることがない、
これが禅の生活であります。

            <感謝合掌 平成30年6月10日 頓首再拝>

行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2018/06/16 (Sat) 03:31:56


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

            <感謝合掌 平成30年6月16日 頓首再拝>

「そのままの心」 - 伝統

2018/07/02 (Mon) 04:50:13


     *『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻(P322~523)より

多くの失業者は「職業がない」と訴えて居りますけれども、
職業の無い人は一人も無いのであります。

「だって誰も私を雇ってくれないんだもの、職業はないんだ」
と言う人があるけれども、しかし一寸往来を見渡しても
沢山のゴモクが落ち散って居て醜(みぐる)しいのでありますが、
誰も掃除して居(お)らない。

「往来」は無言の声で我らに呼び掛けている。
「大分、よごれましたから誰か私を掃除してくれませんか」と。

「よし来た。私が掃除しよう」と、素直に、その呼び掛けに応えたら、
もう其処に自分の職業があるのであります。

唯、その職業は金(かね)を呉(く)れんだけであります。
失業者の多くは、「金をくれんから働かん」と思っているから
職業がないのであります。

かれ等は「金(かね)」という条件によって自分が縛られているから、
「そのままの働き」を失って、仕事が眼の前にありながら、
仕事をしないのであります。

「そのままの心」になれば、
自然に汚いものをきれいにしたいという衝動が起って来る。
その運(めぐ)り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。

それなのに貨幣制度だとか、搾取だとか、いろいろの問題にひっかかって、
自分がそれに縛られているから、そのまま”自然のはたらき”を失って居るから、 

生命(せいめい)自身の自由自在の働きというものが出てこないで 
職業がない、収入がない、ということになるのであります。

若し其の人がそのままになる働きをして眼の前に横たわっている仕事を
頼まれもしないでも社会のために奉仕的にでもして居ったら、

何人(なんぴと)もその人をみとめて、「あの人は素晴らしいなあ」と
いうことになり、「あの人に来て貰いたい」という会社や商店が随分沢山
出てくるに相違ないのであります。

            <感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く - 伝統

2018/07/13 (Fri) 04:27:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より

神はすべてのすべてだとわかったら、罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に自然(じねん)に動き出してくる
ごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>

いっさいをそのまま受ける - 伝統

2018/08/18 (Sat) 03:27:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る
自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより曇ってしまって、
永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼には
なれないものだと思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、
彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活を
そのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

         <感謝合掌 平成30年8月18日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 - 伝統

2018/08/24 (Fri) 04:45:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月24日)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は
親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。

「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば
吾が弟子となることを得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。

いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。

捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、
ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、
それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

         <感謝合掌 平成30年8月24日 頓首再拝>

そのままの心で愛を行ずる - 伝統

2018/09/15 (Sat) 04:24:59


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

             <感謝合掌 平成30年9月15日 頓首再拝>

そのまま、あるがままに脱落する - 伝統

2018/10/04 (Thu) 04:34:24


        *「生長の家」昭和23年2月号 より抜粋

心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、一切があるがままに脱落する。

それをそのままと云う。

『そのまま』と云うような言葉は外国語には翻訳が困難である。
外国語に翻訳が困難であると云うのは、それに適当した観念がないと云うことである。

『そのまま』は不来であり、不去である。

そのままにして肉体無しと悟る。
敢て肉体の抹殺を必要とせず今、此処に、無時・無空間の生命の実在を悟るのである。

これをキリストの十字架の真義とする処に、西洋哲学と東洋哲学との一致を見出す。

《クリスチャン・サイエンス》や《ニューソート》にない教えで
生長の家にある教えは『中心帰一』の思想である。

多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起っている。

頭痛を訴える或る婦人は医師の判断では脳髄の中に出来ている腫物にある
と云うことを、脊髄液をとって検査することによって診断した。

ところが良人に対して絶対無我になる事をすすめて
良人に対する不平の心を取去るように教導したのである。

話しているうちに、その婦人のなやましき頭痛はやまってしまい、
それ以来その頭痛は再発することがなかったのである。

上に従順なる思想、中心者に服従の思想を戦犯的思想だと考えるのは間違いだ。

平和愛好の天皇陛下の御意志を曲げて横車を押して戦争を始めたのは
軍閥であった事を戦争裁判は暴露しつつある。

陛下の『平和に事を解決せよ』との御心に真に従順に従う心
 ― 即ち上意に素直な心 ― があったならば、
戦争は起らなかったに相違ない。

八月十五日に日本が無条件降伏を行って、上陸連合軍に対して
何らの抵抗も暴動も演じなかったのも、国家の中心者に従順である心からである。

吉祥寺のS氏の嫁が内耳に真珠腫が出来て脳髄を圧迫するので、
放置するといつ突然脳髄の故障が起って死ぬかも知れぬと云うのであり、
手術をしようと思ったが、

その手術も脳髄に接近している部位なので重大な手術であり、
躊躇しているとき、或る人が生長の家の話をきいて見ないかと勧めてくれた。

頭の痛むのは目上に対して反抗心がある、
耳の中に真珠腫のような塊が出来るのは、目上の人に対して
『我』の塊をもっていて聞きたくない心があるからとて、
そのような『我』を取去るよう指導された。

話しているうちに頭痛は治り再発はしなかった。


(「http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/28655808.html

             <感謝合掌 平成30年10月4日 頓首再拝>

すべて有り難く受け流して行く - 伝統

2018/10/19 (Fri) 04:46:34


         *「光明道中記」(10月19日 心配のなくなる日)より

【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。(『生命の實相』第十二巻)】


「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、那箇(いかん)かこれ
明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。

善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かんと言っている間は通力を
失った状態であるから本当の大善は出て来ないのである。

「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって
血を喀(は)いたりするのである。

善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。

「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。

「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、
出たのは出たとして、それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。

心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。

血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。

           <感謝合掌 平成30年10月19日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2018/12/11 (Tue) 04:10:11


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。

老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているが
そのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らず
そのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いてそれに
「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。
単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって
深さが足りない感じがするのである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所から
そのまま美しい木目が脈々と見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。

足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に鍛錬を経た
作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。

            <感謝合掌 平成30年12月11日 頓首再拝>

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