伝統板・第二

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「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

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そのまま・法爾自然 ② - 伝統

2018/02/28 (Wed) 04:32:57


     *伝統板・第二「そのまま・法爾自然」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6983067


『法爾自然』

        *『人間無病の原理』(P65~67)より


その宇宙の大法というものにね、自分がぴったりと一つになって、
その「思い」や「行為」が自然に調う。 

これが『法爾自然』であります。


此の宇宙の大法と一つになろうと思ったならば、
「自分」という「我」の塊があったら決して一つにはなれません。 
「自分」という塊がとけてしまわなければならない。 

ミキサーにかけるように、「自分」と云う塊を完全に融かして壊いてしまった時に、
宇宙の実相の円満な智慧と一つになることができるのです。

 
宇宙の智慧というものが、どんなに円満なのかと言いますと、
一個の人体をとって考えてみましても四百兆もある人体の細胞が
複雑に組織されてオートメーション的に、少しも狂いなく運転している
 ―― そういうすばらしい構造を編み出した智慧であります。

その素晴しい智慧は、単に人体だけではない、宇宙の森羅万象、あらゆる物象の中に、
そしてまた吾々の日常生活のいろいろの出来事の中に、網の目をひいたように
法則が張りわたされて秩序が保たれてあるわけであります。

世界における出来事は一見混沌としているようだけれども、
原因結果の法則の下に、実に秩序整然と運行しているのであって、
自分の播いた種は必ず穫り取らねばならぬようになっている。

その宇宙の中に張りめぐらされた因果の法則の中に「わしが」という固まりが出来たら、
それが衝突のもとになり、その衝突が連鎖反応を起こして、
無限に原因結果が循環するのであります。

だから「原因結果の法則」による「悪業の循環」から逃れようと思ったら、
「わしが」という固まりがなくなってしまって、天地に充ち満ちている
完全な「実相」の智慧そのままの中に融けこんでしまって、その侭働くのです。 

これが 『法爾自然』 の動きです。

『法爾自然』 というのは、実相の完全な法さながら、真理そのままに、
自然に動きでることであります。 動かないんじゃないのであります。 
動かなければいけません。 

しかし「我」で動いては駄目です。 

天地の法そのままに、実相の智慧そのままに動くのであります。

            <感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>

天地自然の智慧とひとつになり、自然法爾に動き出す - 伝統

2018/03/29 (Thu) 03:52:28


         *『人間無病の原理』(P68~69)より

すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の智慧の中にとけこまないで
「我」の塊で運動しておるから、うまくいかんのであります。

「祈り」又は「神想観」によって天地の智慧の中に没入し
「我」と云うものが無くなり、天地自然の智慧と一つになって動き出したら、
何事でも調和した姿に現れてくることは間違いがないのであります。

併し祈ったり「神想観」すると言っても、
動かないで祈っておったらいいというわけではありません。

祈り且つ神想観をすれば、心が整って、實相の智慧と一つになるのです。
實相の智慧と一つになって、そこから自然法爾に動き出そうという
内からなる“催し”が自然と湧いてくるのです。

その内からなる“催し”に素直に従って、その導きのままに行動する
という所に信仰が行動化して運動化し、そこに實相の完全さが、
その行動を通して実現して来るということになるのであります。

   (「光の泉」昭和34年4月)

            <感謝合掌 平成30年3月29日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2018/04/29 (Sun) 04:03:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。
冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。
魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。
しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月29日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2018/06/10 (Sun) 04:42:46

         *「真理」第3巻初学篇(P307~308)より

絶対善の生活をしようと思ったならば、
すべての「立場」を捨てなければならない。

「善」という立場すらも捨てて、「そのまま」にならなければならない。

この「そのまま」は、もう善悪の立場を超えて、
絶対と「一つ」になっているのであります。

だから慧能(えのう)は、明上座(みょうじょうざ)に真理を教えて下さいと云われたときに、

「善をも思わず、悪をも思わず、ギリギリの正念場に立った時、
もう人間知恵でどうすることも出来ぬとき、その時、人間考えを完全に捨てる
一刹那が来ることがある。その時だ、その時だ、お前の本来の面目――
人間知恵を超えたそのままの人間の本当のすがたがわかる!」

と云ったのであります。

道元禅師も「正法眼蔵、生死巻(しょうじのまき)」に

「ただ我身をも心をも放ち忘れて仏の家になげいれて、仏の方よりおこなわれて、
これにしたがいもてゆくとき、ちからをも入れず、こころをもついやさずして
生死(しょうじ)をはなれ仏となる」

と教えられているのであります。

「善をも思わず、悪をも思わず」とは、
要するに我(が)の立場 ―― 「自分」と云う片寄った物の考え方 ―― 
がなくなって、「仏の方(かた)からおこなわれる」から、
生活が仏ばかりになるのであります。

生活が仏ばかりの生き方になれば、融通自在行きづまることがない、
これが禅の生活であります。

            <感謝合掌 平成30年6月10日 頓首再拝>

行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2018/06/16 (Sat) 03:31:56


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

            <感謝合掌 平成30年6月16日 頓首再拝>

「そのままの心」 - 伝統

2018/07/02 (Mon) 04:50:13


     *『神ひとに語り給う』神示講義 教えの巻(P322~523)より

多くの失業者は「職業がない」と訴えて居りますけれども、
職業の無い人は一人も無いのであります。

「だって誰も私を雇ってくれないんだもの、職業はないんだ」
と言う人があるけれども、しかし一寸往来を見渡しても
沢山のゴモクが落ち散って居て醜(みぐる)しいのでありますが、
誰も掃除して居(お)らない。

「往来」は無言の声で我らに呼び掛けている。
「大分、よごれましたから誰か私を掃除してくれませんか」と。

「よし来た。私が掃除しよう」と、素直に、その呼び掛けに応えたら、
もう其処に自分の職業があるのであります。

唯、その職業は金(かね)を呉(く)れんだけであります。
失業者の多くは、「金をくれんから働かん」と思っているから
職業がないのであります。

かれ等は「金(かね)」という条件によって自分が縛られているから、
「そのままの働き」を失って、仕事が眼の前にありながら、
仕事をしないのであります。

「そのままの心」になれば、
自然に汚いものをきれいにしたいという衝動が起って来る。
その運(めぐ)り合いに任せ切るのが任運無作、自然法爾なのであります。

それなのに貨幣制度だとか、搾取だとか、いろいろの問題にひっかかって、
自分がそれに縛られているから、そのまま”自然のはたらき”を失って居るから、 

生命(せいめい)自身の自由自在の働きというものが出てこないで 
職業がない、収入がない、ということになるのであります。

若し其の人がそのままになる働きをして眼の前に横たわっている仕事を
頼まれもしないでも社会のために奉仕的にでもして居ったら、

何人(なんぴと)もその人をみとめて、「あの人は素晴らしいなあ」と
いうことになり、「あの人に来て貰いたい」という会社や商店が随分沢山
出てくるに相違ないのであります。

            <感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く - 伝統

2018/07/13 (Fri) 04:27:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月13日)より

神はすべてのすべてだとわかったら、罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に自然(じねん)に動き出してくる
ごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>

いっさいをそのまま受ける - 伝統

2018/08/18 (Sat) 03:27:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月18日)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって
某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る
自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように
実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、
眼の白い部分は老衰の結果どんより曇ってしまって、
永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼には
なれないものだと思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、
彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活を
そのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、
まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

         <感謝合掌 平成30年8月18日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 - 伝統

2018/08/24 (Fri) 04:45:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月24日)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は
親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。

「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば
吾が弟子となることを得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。

いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。

捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、
ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、
それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

         <感謝合掌 平成30年8月24日 頓首再拝>

そのままの心で愛を行ずる - 伝統

2018/09/15 (Sat) 04:24:59


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

             <感謝合掌 平成30年9月15日 頓首再拝>

そのまま、あるがままに脱落する - 伝統

2018/10/04 (Thu) 04:34:24


        *「生長の家」昭和23年2月号 より抜粋

心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、一切があるがままに脱落する。

それをそのままと云う。

『そのまま』と云うような言葉は外国語には翻訳が困難である。
外国語に翻訳が困難であると云うのは、それに適当した観念がないと云うことである。

『そのまま』は不来であり、不去である。

そのままにして肉体無しと悟る。
敢て肉体の抹殺を必要とせず今、此処に、無時・無空間の生命の実在を悟るのである。

これをキリストの十字架の真義とする処に、西洋哲学と東洋哲学との一致を見出す。

《クリスチャン・サイエンス》や《ニューソート》にない教えで
生長の家にある教えは『中心帰一』の思想である。

多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起っている。

頭痛を訴える或る婦人は医師の判断では脳髄の中に出来ている腫物にある
と云うことを、脊髄液をとって検査することによって診断した。

ところが良人に対して絶対無我になる事をすすめて
良人に対する不平の心を取去るように教導したのである。

話しているうちに、その婦人のなやましき頭痛はやまってしまい、
それ以来その頭痛は再発することがなかったのである。

上に従順なる思想、中心者に服従の思想を戦犯的思想だと考えるのは間違いだ。

平和愛好の天皇陛下の御意志を曲げて横車を押して戦争を始めたのは
軍閥であった事を戦争裁判は暴露しつつある。

陛下の『平和に事を解決せよ』との御心に真に従順に従う心
 ― 即ち上意に素直な心 ― があったならば、
戦争は起らなかったに相違ない。

八月十五日に日本が無条件降伏を行って、上陸連合軍に対して
何らの抵抗も暴動も演じなかったのも、国家の中心者に従順である心からである。

吉祥寺のS氏の嫁が内耳に真珠腫が出来て脳髄を圧迫するので、
放置するといつ突然脳髄の故障が起って死ぬかも知れぬと云うのであり、
手術をしようと思ったが、

その手術も脳髄に接近している部位なので重大な手術であり、
躊躇しているとき、或る人が生長の家の話をきいて見ないかと勧めてくれた。

頭の痛むのは目上に対して反抗心がある、
耳の中に真珠腫のような塊が出来るのは、目上の人に対して
『我』の塊をもっていて聞きたくない心があるからとて、
そのような『我』を取去るよう指導された。

話しているうちに頭痛は治り再発はしなかった。


(「http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/28655808.html

             <感謝合掌 平成30年10月4日 頓首再拝>

すべて有り難く受け流して行く - 伝統

2018/10/19 (Fri) 04:46:34


         *「光明道中記」(10月19日 心配のなくなる日)より

【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。(『生命の實相』第十二巻)】


「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、那箇(いかん)かこれ
明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。

善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かんと言っている間は通力を
失った状態であるから本当の大善は出て来ないのである。

「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって
血を喀(は)いたりするのである。

善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。

「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。

「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、
出たのは出たとして、それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。

心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。

血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。

           <感謝合掌 平成30年10月19日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2018/12/11 (Tue) 04:10:11


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。

老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているが
そのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らず
そのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いてそれに
「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。
単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって
深さが足りない感じがするのである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所から
そのまま美しい木目が脈々と見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。

足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に鍛錬を経た
作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。

            <感謝合掌 平成30年12月11日 頓首再拝>

そのまま受けることが天意に協(かな)うことである - 伝統

2018/12/19 (Wed) 04:21:43


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。
そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、
これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、
自分も保護され、自分の子も保護されるのである。

            <感謝合掌 平成30年12月19日 頓首再拝>

そのまま素直に受ける~実際の尊い体験 - 伝統

2018/12/21 (Fri) 04:35:31


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。

よい心境である。
そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。


「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、
いろいろ奇跡のお蔭を受けております。

昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、昨日(きのう)は
どうも谷口先生にお礼を申さなければならないような気がしまして、
朝一番で参りまして、昨日(きのう)お礼申し上げようと思いました
が、他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、
遠慮いたしましてつい今日に延びました。

実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、
それから中耳炎と喘息はこれは親伝来の遺伝だというやつで、
いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
外出もしなかったのですが、

昭和9年、谷口先生のお山に伺って、いろいろお話をうけたまわりましてからは、
もうそのことは全然忘れてしもうて、冬でも、前橋で誌友会がありますので、
そこへ行く時はどんな寒中でもいつも自転車を飛ばします。
そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。

あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが

『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかもしれんけれども、
もしものことがあったら、あなたを当てにして喜んであつまる人を困らせはしないか。
そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、誌友会の日は自動車で来たらどうか』

という忠告を受けたくらいでありますが、
それでもかつて怪我というものをしたことがありません。

ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、
宅(たく)のつい近くまで来ますと、県道の岸が少し崖になっております。
そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。

そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、それを避けようと思って、
避けようとした瞬間、どうしたものか、《ずーん》とその川縁(かわぶち)から
中へ飛び込んでしまったのです。
一丈ぐらいある所なんです。

ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。
普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、
その考えが『ああ神の子だ』というようなありがたい気がしまして、
ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。

ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたように
ズラリと尖っておって実に怖いようなのです。
その中へ自転車でずっと落ち込んだ。

その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと
『ああ神の子だ! 』という気がして別に何とも慌てないで落ちついていましたが、
子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』と言うので、
見ますと、なるほど落ちています。

荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。
子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく上がって来ましたが、
どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。

此の服を着ておりましたが、どこも洋服屋さんの世話に
ならなければならないような所もなく帰ってきました。
実に尊い。

私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、

《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』という感じがなしに、
ただふわふわと『神の子だ! 』というような感じで、そこに落ちて行った。
これがありがたいのです》。

これは何であろうか、長く先生のお導きをいただいておりますことによって
こういう気持になることができたんだろう、帰りましてさっそく神想観をし、
私を最初に導いてくださいました福島博先生にお会いしまして、
こういうわけで今日こそ実にありがたい体験をしました、
ありがたくてしかたがないと言って私はお話をしたのであります。

すると福島さんは

『この間からあなたはいろいろとお蔭を受けていられる。早くから蚕をしても、
人は外(はず)すというのに、あなたは安く桑を買って、
誰も豊作したという人はない今年に、いつもより1割以上も成績をあげていながら、
それで谷口先生にお礼に行かないから、谷口先生にお礼に行くように
神様がそうさせたんじゃないか、早く行ってらっしゃい』

と言うので、実はこの度(たび)上京して来たような始末であります。

だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、今日(こんにち)まで
50年間蚕に従事しておりますが、お導きをいただきましてから4、5年この方、
蚕は必ずうまくゆくものであるという確信を持たせていただいております。

それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、
いったい蚕(かいこ)というものは字で書いてみると、
天の虫とか、天の日の虫とか書いてあります。

それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。
そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、こちらの神様とお詣りしてあるきます。

それが本当の信心なら結構でありますが、あちらこちらと諸方の神仏を
渡り歩く心持の中にはつまり確信が無い、確信を持っておらないから
あちらの神様を拝みながらそれを信じきれずこちらの仏様を拝む、
そういうふうに少しもそこに固い信念がないから常に動揺しておって、
自分の『蚕は必ず豊作である』などという確信がございません。

その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。

ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、本当に『お蚕さん』として
『あなたは立派なお蚕さん』としてその仏性神性を拝むようにしていったところが、
当たり外れがなくなってしまった。

お蔭さまで、蚕の飼育については自分ほどの確信を持っている人は他(ほか)にあるまい
というくらいの信念をもって働かせていただくようになりました。
お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、
実際飼育上の成績であるから、それが尊いことだと思う。

            <感謝合掌 平成30年12月21日 頓首再拝>

神の心の波さながらに生きる - 伝統

2019/01/11 (Fri) 04:18:55


         *「光明道中記」(1月11日 天地の法輪を聴く日)より


【全世界は如来の転ずる法輪である。大法輪が実在の宇宙である。
                       (『驀進日本の心と刀』)】

生命は無空間の世界にあって、その大いさはない。

恰(あたか)も点のようなものであるが、
点と言えば「小さい」と云うことを予想せしめるし、
また小さいにせよ微粒子的小体が予想せられるが、
空間的広がりがないのであるからその微粒子的小体も《ない》のであるから、
其の「小ささ」と云うものもない、大もなく小もない。

その一点にして無限なるものが、
「心の波」を起して空間的に展開したものが宇宙である。

「心の波」をコトバと言い、法と言う。
法の転ずる世界を法界(ほっかい)と言う。

大宇宙は「神の心」の展開なり。
肉体は「個の心」の展開である。


神の心の波さながらに生きることを
法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、
神随(かんなが)らに生きると言う。

「個」の心が「神」の心に融合するなり。
「個」が「全体」を背負って立つなり、
「永遠」を背負って立つなり、無窮を背負って立つなり。

茲に於て恐怖なし。

宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。

具体的「永遠」と「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。
具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

            <感謝合掌 平成31年1月11日 頓首再拝>

そのまま、引っかかりのない生活 - 伝統

2019/01/29 (Tue) 03:46:30


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より

悪はないのである。
引っかかるのが悪である。

柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。
紅でなければならぬと定(き)めたときに、緑が来ればわれらの心は引っかかる。
引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。

天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。
《よし》と言いて、《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。
そのまま《よく》、そのままそれに対応して、自然法爾の作(はたら)きができるのが
引っかかっていないのである。

雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。

雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。

借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、いろいろのことを鍛えられる。

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。

雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。

            <感謝合掌 平成31年1月29日 頓首再拝>

神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心 - 伝統

2019/02/18 (Mon) 03:46:30

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より

人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。

精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。
《わがまま》は自分のしたいままをする自己愛撫だと考えられやすいけれどそうでない。
《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで地踏鞴(じだたら)踏んで
泣き叫んでいる悪童の延長でしかない。

彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。

《わがまま》が自己虐待である証拠に、
《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。

《わがまま》を別語でいえば、
「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。

「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、
「本当の我(われ)」ではない。

それは久遠普遍のひろびろとした「本当の我(われ)」を
縛るところの《自己限定》である。

「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、
「我(が)を出す」ということである。

だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。

本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに気がついた時には、
人間は誰とも大調和するものである。

大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。

            <感謝合掌 平成31年2月18日 頓首再拝>

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