伝統板・第二

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明治150年 - 夕刻版

2018/02/25 (Sun) 19:37:11

  このスレッドでは、明治150年に関する種々の情報を
  紹介してまいります。


《明治元年「1868年」とは、どんな年だったのか
 新旧が混在する不思議な年に起きたこと》


       *Web:東洋経済オンライン(2018年2月23日)より


2018年は明治150年の節目。
その年は「慶応4年」として始まり、9月に「明治」に改元、
江戸が7月に東京と名を変え、新旧が混在する不思議な年だった。

1カ月1章で、戦争や市民の生活を描き、毎日のお天気まで入れた
『1868 明治が始まった年への旅』(時事通信社)から、
明治元年の意外な真実を紹介しよう。

(注)年齢はすべて数え年です


《パリで日本語新聞が刊行された》

1868年6月、「パリで日本語の新聞が発行された」ことが
日本の新聞の記事で紹介されました。
「よのうはさ」というタイトルです。

発刊したのはレオン・ド・ロニーというフランス人で、
日本を訪問したことはありませんが、日本語が自在。

福沢諭吉が訪欧した時も接触し、
「ロシアの軍艦が対馬を奪ったというが本当?」などと質問します。

福沢が否定すると、そのことをすぐパリの新聞で紹介する。
その行動力はすごい。

「よのうはさ」の「発行の趣旨」で、ロニーは
「日本人は利発で、アジアの他の国はこれに及ばない」としたうえ、
知恵を磨かなければ「下和のあら玉と同じ」、
他国のまねばかりでは「くぐまりゆく」……。

独特な(?)日本語も交えて、熱く説いています。

「戦争の時、敵味方の区別なくけが人を介抱する赤十字が、
スイスで生まれヨーロッパに広がっている」

「カラー写真が研究されているが、暗いところに置かないと色が消えてしまう。
工夫をして青は色が残るようになった」などの最新ニュースが載っています。
購読料は年間30号で「三両一朱」。送金すれば船便で届けるとPRしています。
日本人にパリ発の情報をいち早く伝えようとしていたようです。

残念ながらこの新聞は1号限りで終わってしまいましたが、
『明治のジャーナリズム精神』(秋山勇造著)は、
ロニーと交わった福沢、福地源一郎、栗本鋤雲、成島柳北といった
旧幕臣がのちに『時事新報』『東京日日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』を主宰し、
日本のジャーナリズムの先導者になったことをとらえ、
「因縁ともいうべきものが感じられる」と書いています。


アメリカの南北戦争は明治元年の3年前に終わっています。
海の向こうの戦争は1868年の日本にさまざまな影響を及ぼします。

南北戦争で米南部の綿花畑は荒れ果て、世界は「綿花飢饉(ききん)」に陥ります。
代用の綿を求めたヨーロッパの紡績業界へ向け、中国やインドの綿が大量に輸出され、
アジアでも有数な綿花栽培を誇っていた日本が注目されました。


《流転の最強軍艦》

一方で、南北戦争で改良された銃や火薬が、戦乱の日本に流入します。
明治維新の牽引役となる薩摩藩をはじめとした国内の諸勢力は
「綿を売って武器を買った」ことになります。

軍備の最大の目玉は南軍がフランスに発注した最強軍艦「ストーンウォール」でした。
フランスから納入された時には南北戦争も終わっており不要に。
それを幕府が購入し、この年の4月に横浜に入港しました。

幕府はこの時すでに大政奉還を終え瓦解しています。
軍艦が旧幕府・新政府のいずれの手に渡るかは
戊辰戦争の戦況に大きな影響を及ぼす重大問題でした。

各国の公使はこの時、どちらにも味方しない「局外中立」の立場をとっており、
結局、最強軍艦は引き渡しが凍結され、塩漬けにされます。


東北、北越の各藩には、皇族の輪王寺宮能久(りんのうじのみやよしひさ)親王を
「東武皇帝」に見立てた「北部連邦政府」の構想もありました。

当時のアメリカ公使は奥州での戦いを「日本版南北戦争」と位置付けています。
戊辰戦争と南北戦争は何かと縁があるようです。


兵器輸入では、外国の武器商人も暗躍します。
この年5月、プロイセン出身のヘンリー・スネルが会津若松に屋敷を持ち
「平松武兵衛」を名乗ります。

会津藩の軍事顧問。
縮れた髪を後ろに束ねて月代(さかやき)をそり、羽織袴(はかま)。
腰に大小、ピストルもぶら下げていました。
碧眼(へきがん)の武士は実戦にも参加しています。


戊辰戦争後の明治2(1869)年、スネルは旧会津藩を中心とした日本人を連れ渡米。
アメリカのカリフォルニアに「アズ(会津)ランチ(牧場)」をつくりますが、
事業は失敗し、日本人を残してふっつりと失踪しました。


武器商人も軍艦同様、激動する時代の中で流転しました。

この年の閏(うるう)4月、新聞に「200年後の世界を描いた書が翻訳刊行される」
という記事が載りました。
オランダの科学者、ピーター・ハーティング著の
SF『紀元2065年 及び未来の瞥見(べっけん)』。
訳したのは近藤真琴。蘭学塾を経営していました。

主人公は、見慣れない都市に立っています。
高い塔の上には「紀元2065年1月1日」と書いてあります。


《ネット社会を予言したようなくだりも》

電信電話が発達し、地球上は十重、二十重に
クモの巣のように「索(なわ)」がひかれています。

アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ……。
どこの新聞でも、瞬く間に知ることができる……。
こんなネット社会を予言したようなくだりもあります。


都市はガラスのドームで覆われ、冷暖房完備。
複数の人工太陽でいつも街は明るい。
石炭採掘量が減ったので「電化」しています。

「旅の言葉」という万国共通語が使われ、戦争はなくなっています。
軍人は舞台の上でしか見られません。

翻訳者の近藤が、各章末にコメントを書いていますが、
軍備撤廃については「アジアの形勢に至っては、作者は洞察できないだろう」
としています。

翻訳者は著者より現実的です。
ただ、この年にできていたSFの訳稿が刊行されるのは明治11(1878)年になります。

1868年は、文芸はまだまだ夜明け前。
夏目漱石(金之助)はこの年2歳。貧しい古道具屋に里子に出されていました。

将来の文豪は、がらくたと一緒に、小さなザルに入れられて
四谷の夜店にさらされていました。
通りかかった姉が家に連れて帰りますが、
金之助は泣き続け、父親は姉をしかりました。


森?外(林太郎)は今の島根県津和野町に生まれ、この年7歳。
上京するのは4年後です。

明治屈指のベストセラー『不如帰』の著者、徳冨蘆花はこの年の10月に誕生。
ドストエフスキー『罪と罰』を翻訳する内田魯庵は
この年、閏(うるう)4月に生まれました。


昭和43(1968)年、明治維新百周年の時、
日本人は国をあげて、自分たちの祖先(多くは祖父母の時代)の
幕末から明治にかけての活躍ぶりを、嬉々(きき)として振り返ったものでした。

ところが、それから50年が経過してみると、
今度の150周年はおもむきが前回とは大いに異なっていることに気がつきます。

明治維新の過ちを書いた本がベストセラーになりました。
日本人は素直に、過去を喜んでいません。

日本は、大きな曲がり角に差し掛かっています。
明治維新の頃と同様、このままではいけないという状況です。

日本の問題を解決するためには、今一度、150年前に起きたことを
振り返っておくべきかもしれません。

   (https://news.infoseek.co.jp/article/toyokeizai_20180223_209531/

            <感謝合掌 平成30年2月25日 頓首再拝>

誤りなく歩んだ「明治150年」 - 伝統

2018/02/26 (Mon) 21:55:00

誤りなく歩んだ「明治150年」 東洋学園大学教授・櫻田淳

         *Web:産経ニュース(2018.1.26)より

「明治150年」の節目を迎えた。
日本にとっては、過去150年の歳月は、第二次世界大戦の敗北、
あるいは「第2の敗戦」と称されたバブル崩壊以降の経済停滞を経たとはいえ、
それ自体が一つの「成功物語」と評されるべきものであった。

 
≪封建制が近代の「跳躍台」に≫

明治150年の軌跡が「成功物語」であった所以(ゆえん)は、
明治期の対英同盟や第二次世界大戦後の対米同盟に象徴される対外政策路線の基調が、
第二次世界大戦前の一時期を除けば、誤っていなかったことにある。

こうした対外政策路線は、日本が近代以降に「西欧列強に伍(ご)すること」を大義と成し、
現在に至っては自由、民主主義、人権、法の支配といった「近代の価値」を擁護する
対外姿勢に結び付いている。

日本にとっては、英米両国を含む「西方世界」との提携は、
日本の人々が意識しているかはともかくとして、
それが日本の「文明」に特質に照らし合わせて無理の伴わないものであったと
評されるべきである。


対英同盟や対米同盟の樹立は、その表層だけを眺める人々の目には
往時の覇権国家への追随と映るかもしれないけれども、
それもまた、日本の「無理を伴わなかった選択」の事例である。

明治期以降の「西方世界」との提携が無理の伴わなかったものであった所以は、
実は江戸期以前の封建制の歳月にこそある。

確かに、日本においても西欧世界においても、中世以来の封建制の下では、
諸々の封建領主は、互いに並立的に「権力」を保持し、それを行使した。

しかも、日本における博多や堺、そして西欧世界におけるハンザ同盟諸都市のような
自治都市の形成は、封建領主の「権力」も相対化される風景を出現させた。

加えて、商人層や職人層の伸長は、民衆の中の「自立」意識を促した。

こうした封建制の様相こそが、自由、民主主義といった
「近代の価値」の揺籃(ようらん)となったものである。

日本にとっては、江戸期以前の封建制の歳月は、近代への「跳躍台」になったのである。



≪中国との交わりは「水の如く」≫

翻って、目下、日本が抱える対外政策上の難題は、
東アジア近隣の中韓朝3カ国との関係に絡むものである。

中韓朝は、日本や「西方世界」諸国が経たような中世封建制の歳月を持たない故に、
前に触れた「近代の価値」の定着が甚だ怪しいという意味においては、
日本にとっては「地勢上は近隣であっても文明上は異質な国々」である。

これらの3カ国に相対するには、
「近隣にして異質」という意識を徹底させることがすべての前提となる。

これに関して、今年の日本政府の政策方針としては対韓関係をほうり出してでも、
対中関係の修築に取り掛かるのに重きが置かれるのであろう。

もし習近平中国国家主席の訪日が実現すれば、またそこに至らなくても
日中関係の「修築」傾向が明らかになれば、文在寅韓国大統領がそれを
どのように受け止めるかは、韓国の対日姿勢に跳ね返ってくると思われる。

 
もっとも日中関係の「修築」が成ったとしても、
それが1980年代のような「日中蜜月の風景」を再現させるわけでもない。

日中関係が「互いに喧嘩(けんか)しない関係」であることを確認できれば、それで十分である。

この件、漢字文化圏にいれば理解できる一つの格言がある。

『荘子』に曰(いわ)く、

「君子の交わりは淡きこと水の如し、
小人の交わりは甘きこと醴(れい)の如し」

である。

べたべたした日中関係が気色悪いという感覚が共有されることは、
日中関係のマネジメントに際しては大事であろう。



≪「価値の落差」が日韓疎遠の要因≫

また、目下、「厳冬期」どころか「氷河期」に入ろうとしているかに映る対韓関係に際しては、
日韓慰安婦合意の扱いに絡んで「新たな動きは一切、起こさない」という日本政府の姿勢は正しい。

「対韓関係を悪くしてはいけない」という情緒によって、
「最終的・不可逆的な解決」という原則上の立場を曲げると、
「法の支配の擁護」という信条が疑われることになる。

加えて、日本は、対米同盟を日本防衛だけではなく
「アジア・太平洋の安定」や「近代の価値の擁護」という大きな絵の中に
位置付けているけれども、

韓国は、対米同盟をたかだか北朝鮮に対する便宜上の「盾」としか見ていない。

文大統領執政下、そうした韓国の対日姿勢や対米姿勢は一層、露骨になっている。
文大統領にとっては、対日関係や対米関係に反映される「近代の価値」への意識よりも、
対朝関係に反映された土着的な「同胞」意識の方が強いのであろう。

そうした日韓両国における「近代の価値」への意識の落差こそ、
日韓関係の疎遠を来す最たる要因である。

誰であれ、自らの過去の足跡に照らし合わせてふさわしくない振る舞いに走れば、
大概失敗する。

日本にとっては、「明治200年」に向けた歩みもまた、そのようなものであろう。

(東洋学園大学教授・櫻田淳 さくらだ じゅん)

            <感謝合掌 平成30年2月26日 頓首再拝>

「明治150年 どう振り返る?」 - 伝統

2018/02/27 (Tue) 19:26:37


       *Web:NHK解説アーカイブス (2018年01月05日 )より抜粋
            ~増田 剛 解説委員

(1)政府の「明治150年」記念事業

  ①ロゴマークを作成。

  ②今年、実施される関連事業の数

   国が主催するものが147。
   都道府県など自治体が主催するものが1018にのぼります。

  ③例として、外務省が主催する事業で、
   「明治150年記念展示 国書・親書にみる明治の日本外交」というのがあります。

   これは、諸外国の元首が明治天皇に宛てて送った、自筆の署名入りの手紙、
   非常に貴重なものですが、これらを展示して、
   日本外交の歩みを紹介しようというものです。

  ④他の例として、明治記念大磯邸園の設置というのがあります。

   これは、初代の内閣総理大臣を務めた伊藤博文の旧邸宅などがある
   神奈川県大磯町のおよそ6万平方メートルのエリアを公園として整備し、
   一般公開するというものです。国土交通省が所管する事業です。

   具体的に公園として整備されるのは、「滄浪閣」と呼ばれる、伊藤博文の旧邸宅、
   旧大隈重信邸、旧西園寺公望邸、それに、旧陸奥宗光邸といった建物群があるエリアです。

   高名な政治家達の邸宅や別荘が集中していたことから、
   大磯は「明治政界の奥座敷」とも呼ばれていました。

(2)「明治150年」への政府の思い

  ①政府としては、この機会に、明治の精神にならって、
   更に国家として飛躍する機運を盛り上げたいというところでしょう。

   自治体としては、地域にゆかりのある人物や出来事をPRすることで、
   観光を盛り上げたいという狙いもあるかもしれません。

  ②「明治の精神に学び、更に飛躍する国へ」というキャッチフレーズを打ち出しました。

   「明治期には、能力本位の人材登用のもと、
   若者や女性が、外国から学んだ知識を生かし、新たな道を切り拓いた。

   明治に生きた人々のよりどころとなった精神を捉えることにより、
   日本の技術や文化といった強みを再認識し、日本の更なる発展を目指す」


  <参考:「明治100年」(昭和43年)、当時の佐藤栄作首相が行った式辞。

   「100年前、我々の先達は、勇気と英断をもって新しい時代の扉を開き、
   東洋の島国にすぎなかった日本は、近代化を成し遂げ、
   国際社会の重要な一員に成長した。

   この100年の歩みの中から、我々は、多くの教訓を学び取るとともに、
   日本国民の英知と勤勉に大きな誇りを持つことができる」。>

(3)(解説委員による)まとめ

   歴史を振り返り、学ぶ意味は、時代の正と負の両面を多角的に検証し、
   良い伝統は受け継ぐ一方で、過ちは繰り返さないことにあると思います。

   そういう意味で、明治150年の今年は、私たち日本人が歩んできた道と、
   これから歩む未来に思いを巡らせる、絶好の機会になるのではないでしょうか。


  (http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/287812.html

            <感謝合掌 平成30年2月27日 頓首再拝>

明治150年 「独立自尊」を想起したい 国難乗り越えた先人に学ぼう - 伝統

2018/02/28 (Wed) 17:37:09


         *Web:産経ニュース(2018.1.3)より

明治の改元から今年は150年となる。日本が進むべき道を、先人の足跡に見いだしたい。

 
異国の船が日本に押し寄せた幕末と現代は、よく似ている。

開国を求めて横浜沖に船を泊めた米国のペリー艦隊は、
母国の記念日に100発以上の祝砲を放った。

砲艦外交にほかならない。
攘夷(じょうい)の機運が高まり、薩摩藩と英国艦隊の薩英戦争などが起こって
外国の砲弾が国土を撃った。

 
現代、中国の公船が尖閣諸島周辺に押し寄せている。
北朝鮮のミサイルがわが国の上空を飛び、あるいは日本海に落下している。

 
≪外圧にどう向き合った≫

今年も北朝鮮と中国の脅威は増すことになろう。
日本にかかる、あからさまな外圧には、幕末と現代に共通するところがある。
国難に向き合い、明治人は何を目指したかを改めて学ぶべきだ。

「今の日本国人を文明に進(すすむ)るは、この国の独立を保たんがためのみ」

この時代の教育や言論の分野で指導的役割を果たした福沢諭吉が、
明治8年の「文明論之概略」で記した。
西洋文明も完全ではないが、遅れている日本は西洋に制されてしまう、
という危機感をあらわにしている。

追いつこう。がんばろう。
小さい体で、額に汗を浮かべながら、明治人は刻苦勉励したのだろう。
あらゆる分野で「西洋」をひたむきに学んだ。

富国強兵策は、このような文脈で理解されるべきである。
国の独立を保つために、ひた走った先人の姿を思い浮かべたい。

国力は増し、日本は植民地にならずにすんだ。
日清、日露という2つの戦争を明治人は戦った。
2つとも、日本の国防にとって要衝の地となる朝鮮半島の安定化を目指すものだった。
戦ってでも、日本の独立を守ろうとした。

 
明治150年にちなむさまざまな展示会やイベントが、各地で持たれている。
それらに足を運んでみるのもいい。明治人の書き残した言葉を読むのもよかろう。

単なる回顧ではなく、先人の精神のなにがしかを学びたい。

近代日本を独り立ちさせるために尽くす心根が、
さまざまな事跡や文章から読み取れるだろう。


明治がひとくくりに栄光の時代だったわけではない。
急激な近代化により、伝統や環境の破壊が激しくなった時代でもある。

急速な、ときには皮相な西洋化が進むなかで、
明治の半ばには日本人のアイデンティティーを探そうとする人たちが現れた。

 
≪血潮は継承されている≫

陸羯南(くが・かつなん)は、明治22年に新聞「日本」の発行を始めた。
創刊の辞では、自らの根拠をなくし、西洋に帰化しようとしているかのような
日本人を厳しく戒めている。

「一個人と一国民とに論なくいやしくも自立の資を備うる者は、
必ず毅然(きぜん)侵すべからざるの本領を保つを要す」

陸のいう個人の自立と福沢のいう国家の独立は、同じものといってよい。

福沢は「学問のすゝめ」で、「国中の人民に独立の気力なきときは
一国独立の権義を伸ぶること能(あた)わず」といっている。

明治人は個人と国家の独立自尊を求めた。
先人が残した誇るべき財産である。

ひるがえって現代はどうか。

 
最高法規である憲法について考えてみたい。

占領下、連合国軍総司令部のスタッフが大急ぎで草案を作った憲法は、
国権の発動である戦争を放棄し、交戦権を認めていない。
国家の権利の制限である。

日本人は平和を誠実に希求しており、およそ戦争を求める日本人はいまい。
だが、権利を制限される形で制定された憲法をいつまでも頂くことが、
独立国といえるだろうか。

国の守りについて、手足をしばっているのは専守防衛という考え方だ。
抑止力の一環である敵基地攻撃能力の保有について、
正面から継続的に語り合う姿を見ることはない。

拉致被害者を自力で救出する手段はないのに、ならばどうするという議論は起きない。

とうに改正されてしかるべき憲法だが、現政権の下でようやく議論は緒に就いた。
これを加速させたい。

国難に毅然として立ち向かった明治人の血潮は、現在の日本人にも流れている。
現代の国難を乗り越えるため、明治人が見せた気概こそ必要ではないか。

    (http://www.sankei.com/column/news/180103/clm1801030001-n1.html

            <感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>

武家の教育 - 伝統

2018/03/03 (Sat) 19:03:27

現代なら異常。偉人・吉田松陰が受けた武家の教育が凄まじかった

       *Web:MAG2NEWS(2018.01.30)より抜粋

《精神性の高さ》

(1)日本の、そして日本人の歴史をちょっとだけでも繙けば、
   我々のご先祖さま達って非常に高い精神性を持っていたことが分かります。

(2)吉田松陰の子供時代

  ①彼は実の叔父から猛烈な教育というか薫陶というか、指導を受けて、
   今の人でいうと小学生に上がるかどうかという年齢で、
   長州藩の藩主の前で軍学の講義をしちゃうんです。

  ②少年吉田松陰(当時は幼名で寅次郎)は叔父(実父の弟)から
   しごきとも言えるような教育を受けていたんです。

   これが苛烈というか、非人道的というか、今同じことをやってたら、
   間違いなくこの叔父さんは警察に捕まっています。

   ある夏の日のことでした。吉田寅次郎少年は、実の叔父さん(玉木文之進といいます)
   からいつものように授業を受けていました。
   今のようにエアコンもクーラーもない時代です。
   だから暑いわけですけど、それをグッと堪えて寅次郎少年は勉強していたんです。

   そこに暑さのあまり汗がひとしずく頬を伝ったんです。
   寅次郎少年はそれを手で拭ったその刹那、この叔父さんの鉄拳制裁が下ったんです。

   貴様、何をした!! というが早いか、叔父さんは寅次郎少年をぶん殴ったわけですよ。
   それも一発や二発じゃないんですよ。少年が気を失うまで殴り続けたんです。

   
   玉木文之進からみて寅次郎の態度は如何であろうか?

   彼は暑さによって流れた汗を気にかけたのだ。
   汗が流れるのは「私」であり、その流れる汗が不快だという感覚もまた「私」なのだ。

   公のための授業をやっている最中に、公よりも私の不快を優先したということが、
   授業中に汗を拭うという行為なのだ。

   つまりこの瞬間に寅次郎は、サムライの魂を捨てて下賤に落ちたのだ。
   そのような者はサムライとして生きる価値はない。

   だからその腐った性根を叩き直すために、殴らなければならないのだ。

(3)『武士の娘』に出てくるエピソード

   この『武士の娘』を書いた杉本鉞子(エツコと読みます)さんは明治6年に、
   今の新潟地方になる長岡藩の家老の娘として生まれるんです。
   サムライのしかも国家老の娘ですから、当時としては最上流に所属する家柄ですね。

   当然彼女にも子供の時から家庭教師のような先生がついています。

   公の教育機関がなかった頃は、武士は自分たちで、
   学問を授けてくれる人を探さなきゃならなかったんですね。

   そしてまだ6歳だった鉞子ちゃんも、寅次郎少年と同じように
   マンツーマンの授業を受けていたわけです。

   その2時間の稽古中は、ずっと畳の上に正座です。
   もちろんお師匠さんは座布団に座っているんですよ。

   そして稽古中に一度だけ身体を動かしたことがあったんですって。
   ちなみに書くと、稽古中はお師匠さんも手と唇を動かす以外は、
   身動き一つしなかったみたいです。


   すると、お師匠さまのお顔にかすかな驚きの表情が浮かび、やがて静かに本を閉じ、
   きびしい態度ながら、やさしく「お嬢さま、そんな気持ちでは勉強はできません。
   お部屋にひきとってお考えになられた方がよいと存じます」とおっしゃいました。


   これに対して、この鉞子ちゃんはエラかった。

   恥ずかしさの余り、私の小さな胸はつぶれるばかりでしたが、
   どうしてよろしいものやら判りませず、唯、うやうやしく床の間の孔子様の像にお辞儀をし、
   次いでお師匠さまにも頭をさげて、つつましくその部屋を退き、
   何時もお稽古が終わると父のところへゆくことにしていましたので、
   この時もそろそろと父の居間へ参りました。


   たった6歳の少女が、2時間の稽古中に畳の上でちょっと足を崩しただけで、
   叱責を受け、そのことを恥ずかしいと感じる気位の高さというか、
   精神性の高さをかつての日本人は持っていたんですね。


(4)こういう精神性の高さがあったから、
   明治維新後の急速な文明開化が成し遂げられたんです。

   ちなみに、この幕末頃に教育を受けた人たちが、
   維新後に海外の大学に留学して、そこで学んだこと、
   身に付けたことを日本で展開したんですね。

   そんな彼らの多くは、海外のそれぞれの派遣された大学で卒業時に首席だったりするんです。
   入学時には言葉もままならなかった、後進国ジャパンから来た留学生が
   卒業する時には首席ですよ。

   これは彼らが優秀だったからでもあるんですが、
   もっと土台のところに精神性の高さがあったからでもあるんです。

   彼らの多くは、

   ● 国費で留学させて頂いて、首席にもなれずに日本に帰るのは恥ずかしい

   と考えていたんです。

   国の名誉を背負って、そしてその学んだことを日本で広めるという使命に燃えて、
   勉学に励んだから、文字通り寸暇を惜しんで勉強したわけで、
   その結果現地の学生をごぼう抜き出来たわけですよ。

(5)平均寿命の伸びと相関?

  ①明治の頃は人生50年って言われていて、
   その50年で生涯のやるべきことをやっていたんです。

   それが今では80年ですから、増えた30年分、濃度が薄まるという
   現象が起きているんじゃありませんかね。

   当時の5歳、6歳で身に付けた精神性を、15歳で身に付ければ、
   80年という人生ではトータルで辻褄が合う、みたいな自然の摂理が働いている、
   と書いたら言い過ぎでしょうか。

  ②もしそうであれば、この80年に伸びた人生で、
   早めに精神性の高さを確立出来た人は、人生を非常に豊かに暮らせる
   ということになると思うんです。

   どうせ身に付けなきゃならないのなら、意識してこれを前倒しでやってしまった方が、
   トータルではお得だと思うんですよね。

   若い人はこの点について、早めに気付いた方が良いですよ。

     (http://www.mag2.com/p/news/348435

            <感謝合掌 平成30年3月3日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第1回~「万機公論に決すべし」 - 伝統

2018/03/05 (Mon) 19:17:00

        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年04月12日)より

ふつう「明治維新」というと、ペリー来航に始まるとされますが、
それがいつ終わったのかとなると、諸説あるようです。

歴史学者の田中彰・元北海道大学教授は、著書『明治維新』(講談社学術文庫)で
七つの見解を列挙しています。

第1は1871(明治4)年。

全国の藩を廃止して府県を設置した「廃藩置県はいはんちけん」によって幕藩体制が一掃され、
新政府による統一国家が成立し維新は終了したとする見方です。
右大臣・岩倉具視を大使とする米欧回覧使節団が派遣されたのもこの年です。
明治日本の富国強兵、文明開化が本格始動します。

 
第2は73(明治6)年です。

この年の前後、学制公布・国立銀行条例(72年)や徴兵令・地租改正条例(73年)などの
諸改革令が出されます。
さらに征韓論をきっかけに明治政府の内部に亀裂が入り、
西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の5参議がいっせいに辞職する
「明治六年の政変」が起きました。


第3は77(明治10)年です。

西郷隆盛ら鹿児島県士族が決起し、徴兵中心の政府軍を相手に「西南戦争」を戦いました。
この「最大にして最後」と形容される士族の反乱は、政府軍の勝利に終わり、西郷は自刃します。
西南戦争のさなか、木戸孝允は病死し、翌78年には大久保利通が暗殺され、
いわゆる「維新の三傑さんけつ」(西郷・木戸・大久保)の時代が終焉しゅうえんを迎えます。

 
第4は政府が「琉球処分」を完了した79(明治12)年です。

日本政府は72年に琉球王国を琉球藩に、国王を藩王に改称したのち、
79年、廃藩置県を宣言して琉球藩を廃し、沖縄県の設置を強行しました。 

 
第5は「明治十四年政変」の81(明治14)年です。

自由民権派の国会開設要求が高まるなかで、政府は、参議の大隈重信を罷免する一方、
欽定きんてい(天皇が定める)憲法の制定と「90年国会開設」を公約しました。

 
第6は「秩父事件」が起こった84(明治17)年です。

埼玉県の秩父地方で貧しい農民たちが負債の返済緩和などを要求して立ちあがった大蜂起です。

 
そして第7は、大日本帝国憲法(89年)と教育勅語(90年)が
それぞれ発布された89~90(明治22~23)年が挙げられています。

それは、これによって「明治天皇制の法的な枠組みとイデオロギーの支柱が形づくられ」、
ようやく維新にピリオドが打たれたという見方です。


このどれを取るかは、明治維新をどう性格づけるかによって判断が分かれそうですが、
いずれにしても「日本近代国家成立の出発点に明治維新をおき、
その維新のプロセスこそが、その後の明治国家や近代天皇制の性格や構造を決定づけた、
とみる点では共通している」(同書)ということです。


《「一世一元の制」》

では、この「明治」という元号は、どこから来ているのでしょうか。

その出典は、「五経ごきょう」(儒教で尊重される5種の教典)の一つ、
「易経えききょう」の中にある、「聖人南面して天下を聴き、明に嚮むかいて治む」です。

68(明治元)年10月23日(旧暦9月8日)、宮中の賢所かしこどころで、
儒者に選定させたいくつかの元号候補から、天皇が御籤みくじをひいて
「明治」と決まりました。

この日に布告された「改元詔書」には、天皇一代の間は、ただ一つの元号を用いる
という「一世一元いっせいいちげん、以て永式となせ」とあります。

日本では645年に「大化」と号したのが最初で、
元号が制度として確立するのは701年の「大宝」からです。

その後は、天皇即位(代始め)や祥瑞(しょうずい)(吉兆)、
災害・異変、干支60年にあたる辛酉(しんゆう)年と甲子(こうし)年に革命が起こる
という説などを理由として、元号はしばしば改められてきました。

 
徳川家康は1615年、禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)
を制定して「改元の基準」を定め、幕府は改元についても干渉しました。

しかし、18世紀末になると、天皇を尊ぶ水戸学の藤田幽谷(ゆうこく)らが
「一世一元」論を提唱するようになります。

そして明治の改元では、岩倉具視が、これまで改元の際に繰り返されてきた
「難陳なんちん(互いに論難・陳弁しあうこと)」論議は煩わしいならわしなので、
今後は簡略にして「一世一元」とするよう提案、明治天皇の裁可をえて導入されました。

 
もっとも「一世一元」は、これが初めてでではなく、平安前期には少なからずありました。

その後、「一世一元」は1889年制定の旧皇室典範に明文化され、
大正、昭和改元に適用されました。

現在の元号法(1979年施行)でも「一世一元」は存続し、
「平成」は同法に基づいて政府が政令で決めました。

なお平成は、大化から数えて247番目の元号です。

 
ちなみに、「維新」の出典ですが、これは「詩経」の
「周は旧邦と雖いえども、其の命維これ新たなり」とされ、
あらゆるものを一新する、という意味です。

当時の人々は、政府が次々に繰り出す政治の変革や時流の変化を「一新」と呼びましたが、
これを「詩経」中の洗練された言葉に置き換えたものが「維新」だとされています。


《鳥羽・伏見の戦い》

さて、明治新政府は、68年1月3日(旧暦12月9日)に発足しました。
しかし、これに旧幕府勢が立ちふさがります。

徳川慶喜が同月25日に発した文書「討薩(薩摩藩征討)の表」は、
薩摩の「奸臣(かんしん)」(主君に対して悪事をたくらむ家臣)どもを
「誅戮(ちゅうりく)」(罪をただして殺害)しなければならない、
という荒々しいもので、宣戦布告にひとしいものでした。

薩摩側の江戸での挑発行動に乗った形でしたか、
この「表」で旧幕府主戦派は勢いづきました。

これに対して、慶喜をつぶしたい薩摩・長州両藩は、
ここで雌雄を決しようと京都郊外で火ぶたを切ります。

これが「鳥羽・伏見の戦い」でした。

京都から大阪城に退いた慶喜のもとに集結した旧幕府軍はおよそ1万5000でした。
これに対して薩長軍は5000人程度にすぎず、兵の数では旧幕府側がはるかに勝っていました。

1月27日、鳥羽・伏見街道を北上した旧幕府軍は、緒戦から手痛い敗北を喫します。
戦いの2日目、新政府議定の仁和寺宮(にんなじのみや)嘉彰(よしあきら)親王が
征討大将軍に就任し、天皇から「錦旗きんき」(錦の御旗みはた)が渡されました。

これによって新政府軍は「官軍」となり、旧幕府軍を「賊軍」の立場に追い込みます。

戦闘は4日間に及び、旧幕府軍は敗北しました。

戦いの3日目、慶喜は大阪城で「この城、たとい焦土になるとも死をもって守るべし」
と大演説を行い、将兵を奮い立たせました。

ところが、開戦から4日目の夜、会津藩主・松平容保(かたもり)、
桑名藩主・松平定敬(さだあき)、老中・板倉勝静らを引き連れて大阪城を脱出、
船で江戸に向かってしまいます。

最高指揮官の「逃亡」でした。

これは慶喜にとって、後世まで語り継がれる大失態でした。

なぜ、家臣たちをだましてまで不名誉な遁走とんそうをはかったのか。

『会津戊辰戦史』(山川健次郎監修)は、「例の変節病」として、
慶喜が急に臆病風に吹かれたのではないかとみています。
また、慶喜は、「逆賊」「朝敵」になることをとくに恐れていたという見方もありますし、
この内戦が収束できなくなるのを恐れたという分析もあります。

大政奉還した時と同様、その真意をはかりかねるところがあって、
慶喜の政治的人格の不可思議さを思います。

旧幕府軍の敗因は、はじめ戦闘態勢をとっていなかったこと、
幕府陣営の淀藩、津藩が寝返ったこと、装備や士気、指揮官が劣っていたことが指摘されています。

鳥羽・伏見の戦いにおける旧幕府軍の敗北は、
1600年、「関ヶ原の戦い」で覇権を握った徳川幕府の事実上の滅亡を意味しました。

ただ、この戦争のあとも上野戦争、北越・東北戦争、そして箱館(函館)戦争――
これを総称して「戊辰ぼしん戦争」という――が続くことになります。


《五箇条の御誓文》

さて、維新政府の成立宣言と言うべきものが、
有名な<五箇条ごかじょうの御誓文ごせいもん>です。

68年4月6日、御所の紫宸殿(ししんでん)に
「天神地祇(てんじんちぎ)」(日本国土の固有の神々)がまつられ、
天皇が、公家と諸侯とともに<御誓文>の趣旨を誓約する儀式が行われました。

 
それは以下の5か条です。

 一、広く会議を興おこし、万機ばんき(あらゆる重要な政治課題)公論に決すべし

 一、上下しょうか心を一いつにして、盛さかんに経綸けいりん(国を治めること)を行うべし

 一、官武かんぶ(公卿と武家)一途いっと庶民に至る迄まで、
   各おのおの其その志を遂とげ、人心をして倦うまざらしめん事を要す

 一、旧来の陋習ろうしゅうを破り、天地の公道に基もとづくべし

 一、智識を世界に求め、大おおいに皇基こうきを振起しんき(ふるいおこす)すべし

 

この<御誓文>の原案は、越前藩士の由利公正(ゆりきみまさ)(1829~1909年)が作り、
土佐藩士の福岡孝弟(たかちか)(1835~1919年)の手で修正されたといわれています。

 
徳川慶喜は大政奉還で、天皇親政(しんせい)と公議輿論(よろん)の両立をうたっていました。
これを受けて朝廷が宣言した王政復古の大号令では、
天皇親政とともに「公議をつくす」ことが盛り込まれました。

そしてこの五箇条の御誓文でも、
第1条に公議輿論を施政の基本とすることが打ち出されたのでした。

当初、福岡案では「列侯会議を興し」とありました。
しかし、木戸孝允によって「広く会議を興し」と修正されました。

「列侯会議」という表現では、公議政体派の諸侯会議と受け止められる可能性があるうえ、
公家も排除されてしまうことに配慮したためといわれます。


《御誓文の読み方》

ところで、天皇が政治を行う「天皇親政」と「公議輿論」は矛盾することはないのでしょうか。

それにはこんな答があります。

この御誓文の第1条は「公議の尊重」うたっていますが、
これは天皇親政を前提に、「天皇自らが『公論に決する』旨を誓っているのであり、
言いかえれば、天皇が『公論』を自らの意思すなわち『宸断しんだん』(天皇の裁断)
とするという宣言にほかならない」(坂本多加雄『明治国家の建設』)というのです。

つまり、天皇が衆議を尽くしてのちの結論に基づいて裁断し、
結論が出ない場合にのみ「聖断」するというのであれば、
天皇親政と公議輿論の両立は可能だということでしょう。

 
また、第2・3条は、身分の上下にかかわらず、心を通わせて一致協力し、
人材の登用もはかって国民の心が離れないようにすべし、としています。

これは議会制度の設置につながる公約とも言え、のちに自由民権派の人々が
民撰議院設立要求の根拠とします。

 
第4条の「旧来の陋習」とは、封建社会の悪習という意味ですが、幕
末に吹き荒れた攘夷の活動もその一つとされます。

今後は「天地の公道」、すなわち「万国公法」(国際法)に基づいて
諸外国との和親に努めるというわけです。

 
第5条は、積極的な開国で富強化する「開国攘夷」によって、
「皇基」(天皇の国家統治の基礎)を、いわば天皇中心の国家をもり立てていくという意味です。

 
<誓文>と同時に、木戸孝允起草の「国威宣揚(こくいせんよう)の宸翰(しんかん)
(天皇直筆の文書)」も告示されました。

 
この中で天皇は、武家政権の長きにわたり、敬して遠ざけられてきた朝廷は、
「億兆(万民)の父母として赤子の情(民の心)」を知ることができなかったと述べています。

そのうえで、「今後は、億兆を安撫(あんぶ)し、萬里(ばんり)の波濤(はとう)を拓開し、
国威を四方(世界)に宣布したい(あまねく行き渡らせたい)」と強調し、
この私の志をしっかりと体得して共に進もうではないか、と国民に訴えています。

    (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170406-OYT8T50005.html

            <感謝合掌 平成30年3月5日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第2回~「万国公法」って何だ? - 伝統

2018/03/06 (Tue) 18:26:11


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年04月26日)より

「鳥羽・伏見の戦い」(1868年1月)の硝煙とともにスタートした維新政府は、
1月31日、将軍・慶喜の追討令を出します。

大坂城から「敵前逃亡」した慶喜は、大坂湾から旧幕府軍艦「開陽丸」に乗って
江戸(東京)に到着します。江戸城中は主戦派と恭順派に二分されていました。

慶喜は、勝海舟を陸軍総裁に、大久保忠寛(一翁)を会計総裁にそれぞれ任命し、
3月5日、謝罪・謹慎の意を示すため、江戸城を出て上野寛永寺・大慈院に移りました。

これに対し、薩長両藩を主流とする維新政府は、東海道・東山道・北陸道の3道から
江戸に向けて軍隊を進めます。
兵力は両藩兵を中心に総計約5万。有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が
総裁在職のまま東征大総督に就き、「錦旗(きんき)」(錦の御旗)を押し立てての行軍です。

錦旗は、鳥羽・伏見の戦いでも翻りましたが、
赤地の錦の上部に日月を金銀の糸で刺しゅうしたものです。

岩倉具視が大久保利通と長州藩士・品川弥二郎(1843~1900年)に依頼し、
国学者の玉松操(たままつみさお)が作図しました。

この「錦の御旗」が世間に広まったのは、
俗謡「トコトンヤレ節」の流行が一つのきっかけだったようです。

 
   宮さん宮さん お馬の前に ちらちらするのは何じゃいな トコトンヤレ トンヤレナ
   あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗を知らないか トコトンヤレ トンヤレナ

 

『明治天皇紀』は、この歌は、品川弥二郎が作詞して官軍に歌わせ、
速やかに広まったとしたうえで、「我が国における近世軍歌の嚆矢(こうし)」にして
士気を鼓舞すること少なくなかった、と書いています。

松下村塾に学び、尊皇攘夷の活動家だった品川は、薩長同盟締結では連絡役を務め、
明治政府においては藩閥政治家として内務相などを歴任します。


《東京招魂社創建》

鳥羽・伏見の戦いでは、新政府軍(官軍)は60人、
反政府軍(旧幕府軍)は279人が死亡したといわれます。

そのうちの官軍の戦死者を弔うため、68年2月、薩摩、長州藩に各500両、
芸州(広島)、因州(鳥取)、土佐藩に各300両が下賜かしされるとともに
「招魂社(しょうこんしゃ)」の創建が命じられました。

さらに戊辰戦争が続いている同年6月末、
新政府は維新前後の殉難者と戦死者に対して慰霊と顕彰をおこなう方針を打ち出し、
とくに戦死者は「朝命を奉じ奮戦死亡」した者として「官軍」に限定しました。

8月には最初の「招魂祭(しょうこんさい)」が京都の河東(かわひがし)操練場で
おこなわれ、各地で戦死した官軍兵士32藩374人(『明治天皇紀』)の霊がまつられました。

天皇が京都の東山に建立を希望したとされる「招魂社」は、
東京遷都によって九段の地に建てられることになります。

戊辰戦争終結後の69年8月、東京招魂社が創建され、
この戦争での官軍側の死者3588人が合祀(ごうし)されました。
79(明治12)年6月、同社は「靖国神社」と改称されます。


《列強の「局外中立」》

駿府(今の静岡市)に進出した大総督府は68年3月29日、
江戸城を「4月7日」に総攻撃する旨を発令します。
その日は五箇条の御誓文発出の翌日にあたっていました。

イギリス公使のパークスは2月18日、「万国公法」に基づいて「局外中立」を宣言します。
外国側も、「ミカド(天皇)と大君(将軍)との戦争」によって日本市場や居留地が
混乱することは避けたいと考えていました。

また、日本側の兵員輸送のため、外国船がチャーターされると、
内戦に巻き込まれる懸念もありました。

他方、戦争当事者の新政府も旧幕府も、諸外国が武器・艦船などを
敵方に売却しないよう各国公使に働きかけていました。

このイギリスの「局外中立」に
アメリカ、フランス、イタリア、オランダ、プロシアが追随します。

これにより戊辰戦争は、国際法上の「内戦」と認定され、
各国とも中立の立場をとることになります。

いずれの国も戦争当事者に軍艦を用意したり、兵器・弾薬を輸送したりすることが禁止され、
旧幕府は、アメリカから購入を予定していた甲鉄艦「ストーン・ウォール号」を
入手できなくなりました。この強力艦が封じられたことは、新政府側に有利に働きました。


《パークス襲撃事件》

3月23日、天皇に謁見する予定だったイギリスのパークスが京都で攘夷論者に襲われ、
負傷する事件が起こりました。

パークスは事件について、妻への手紙でこのように書いています。

「一人の日本人が狂気のようにあたりかまわず斬りかかりながら、
私たちのそばを駆け去った。私は大声で、犯人を斬り倒せと部下に命じた。

襲撃があった時、(同行の日本の高官)後藤象二郎は直ちに馬から飛び降りて駆け出し、
刀を抜いて町角を曲がった。すぐ後をついてゆくと、彼は、一人を斬り倒していた」

日本研究の先駆者であるイギリスのG・B・サンソムは自著で、
徳川幕府を倒壊した強藩で鍛えられた「旧封建官吏」の存在を論じるなかで、
この時の後藤に触れています。

サンソムは、後藤の「離れ業」は、
「ふだんの修練と尚武の気質なしにはできるものではない。
そして新政府の閣僚と役人の大半は、いくらでも似たような武勲をあげうるひとたちだった」
と書いています。

この事件に衝撃を受けた新政府は4月7日、再発防止のため、
「五榜(ごぼう)の掲示」(太政官から民衆向けに出された5枚の立札)で、
「万国公法」の順守や条約の履行、外国人殺傷の禁止などを広く周知します。


《知らなかった国際法》

この「五榜の掲示」で言う「万国公法」とは、近代国際法のことです。

1864年にアメリカ人宣教師ウィリアム・マーチンがアメリカの国際法学者
ヘンリー・ホイートンの国際法のテキストを漢文に訳し、その<万国公法>が
日本に輸入されて知られるようになりました。

その後、法学者の箕作麟祥(みつくりりんしょう)が「万国公法」にかえて
「国際法」という名称を使い始め、81(明治14)年に東京大学の学科目に
「国際法」の言葉が使われて以降、「国際法」が次第に一般化します。

そもそも国際法は、ドイツを舞台にした30年戦争(1618~48年)を
終結させたウェストファリア条約や、「国際法の父」といわれるグ
ロティウスの著作『戦争と平和の法』(1625年)などが源流とされています。

18世紀まで、国際法は、もっぱら欧州だけにしかあてはまりませんでした。
しかし、欧州諸国がアメリカ、アジア、オセアニア、アフリカ大陸に進出するにつれて、
世界に広まっていきます。

17世紀から鎖国を続けてきた日本人が、国際法を知らないのは無理もないことでした。

幕末に来日した駐日アメリカ総領事・ハリスは、箱根の関所通過の際、
「国際法上の特権(外交官特権)」を申し立てて検査を受けることを拒んで、
日本の役人を困惑させました。

また、日米修好通商条約の幕府側の担当者は、ハリスに対して、
万国公法に関し「全く無知識なることは小児と同じなので、
貴使が忍耐して私らに教えられることを望む」と、
率直に教えを請うたというエピソードも残されています。


《「万国公法」の使われ方》

幕末の大政変は、外交問題に端を発しており、国際法と密接にかかわっていました。

そして幕末から明治にかけての指導層は、列強との接触を通じて、
今後、日本が国際社会で生きていくには、欧米諸国間で作られた
基本的なルールを受け入れるほかはないと考えました。

ロシア軍艦が対馬を不法占拠した事件(1861年)処理などで外交経験を積んだ
幕臣・勝海舟は、マーチン訳の<万国公法>を私費で重版し、
各藩諸侯や弟子たちにも配布していました。

中でも勝の弟子であった坂本龍馬は、この<万国公法>に強い関心を示した一人でした。
とくに海難事件や貿易取引のトラブルを近代法によって解決すべきだと考え、
「いろは丸事件」でこれを適用したのです。

これは1867年、龍馬の「海援隊」が伊予大洲(おおず)藩から借用していた
「いろは丸」が、武器弾薬類を長崎から大坂へ運ぶ途中、
紀州藩の船に衝突されて沈没してしまった事故です。

事件処理にあたって、徳川御三家のひとつ、紀州藩が
幕府の長崎奉行を使って圧力をかけてきたのに対して、
龍馬は事実審理に基づき「公法」によって判定を下そうと考えました
(池田敬正著『坂本龍馬』中公新書)。

他方、西周(あまねや)津田真道(まみち)がオランダでの留学から帰国後、
万国公法について翻訳書を出したり講義をしたりしたことは、
以前、<俊秀たちの留学ラッシュ>の項で触れましたが、
これが日本国内における国際法の認識を広めることになりました。


《”手のひら返し”の釈明》

万国公法の使われ方は、それに限りませんでした。

司法官で歴史学者の尾佐竹猛(おさたけたけき)(1880~1946年)は、
こんなことを書いています。

「在野党時代に盛んに無責任なる鎖港攘夷説をもって幕府を攻撃したる西南諸藩が、
一度政権に有りつくや、翻然(ほんぜん)としてその持論を捨てて開港を宣し、
その理由として、これ万国の公法に拠ると声明したのである」

つまり、新政府は、攘夷から開国へと手のひらを返したことへの釈明に、
なんと万国公法を使ったというわけです。

尾佐竹と同時代の政治学者で民本主義を唱えた吉野作造(1878~1933年)も、
同じようなことを言っています。

吉野によれば、京都(新)政府は、自分たちの態度豹変を天下に何と説明したらよいものか、
はたと当惑してこう考えたというのです。

「われわれは外人を夷狄禽獣(いてききんじゅう)と思っていた、
だから交わるのを快しとしなかったのだ、しかるによく聞いてみると、
彼らは天地の公道をもって交わろうと言っているそうで、
われわれもまた公法をもってすべきではないか、

みだりにこれを排斥するは、古来の仁義の道にそむくのみならず、
またおそらくは彼らの侮りを受くるだろう」

新政府の要人は、「公道」の観念を使って態度豹変を弁解したわけですが、
ここに言う「公道」とは万国公法のことです。

しかし、世間ではそうは受け取らず、「人間交際の道というくらいに理解」していた
と吉野は書いています。(「わが国近代史における政治意識の発生」)

当時は、「公法」や「公論」、「公道」という文字が大変、流行したのでした。


《「半未開国」の日本》

マーチン訳の<万国公法>には、国家の基本権や平等権、国際儀礼、外交特権のほか、
領海の範囲や公海自由の原則、条約批准手続き、宣戦布告や捕虜交換、停戦と休戦、
局外中立などが盛り込まれていました。

ただ、現代の国際法とは異なり、征服や発見、移民などによる領有を正当と認めていました。

井上勝生氏の著作『幕末・維新』(岩波新書)によりますと、
近代の欧米では、世界の民族と国家を「三つの群」
――文明国(欧米諸国)、半未開国(トルコ、ペルシャ、タイ、中国、朝鮮、日本など)、
未開(それ以外の諸民族)――に分けていました。

このうち、「『未開』は国と認められず、近代国際法のまったくの妥当範囲外」でした。
日本などの半未開国は、国法の存在は認められましたが、
「欧米であれば認められる外国人への国法の適用が認められず、
領事裁判権など各種の特例が設けられた」のでした。


      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170421-OYT8T50005.html

            <感謝合掌 平成30年3月6日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第3回~江戸無血開城の裏側で - 伝統

2018/03/07 (Wed) 19:44:02


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年05月17日)より

《「幕末の三舟」》

東海・東山とうさん・北陸の3道に分かれて進軍してきた新政府軍は、
1868年4月7日(旧暦3月15日)に設定された「江戸城総攻撃」をにらんで、
着々と準備を整えます。

新政府軍にとって「最大の朝敵」である徳川慶喜は、静寛院宮(せいかんいんのみや)
(もと和宮、故・徳川家茂夫人)、天璋院(てんしょういん)(故・徳川家定夫人)、
輪王寺宮(りんのうじのみや)(輪王寺門主)、徳川茂栄(もちはる)(一橋家当主)らに
「免罪」の周旋を頼み、上野・寛永寺に閉じこもります。

幕臣では、山岡鉄太郎(鉄舟、1836~88年)、勝海舟、大久保一翁(いちおう)らが、
慶喜救済のために動きます。

鉄舟は、堂々たる体躯(たいく)の剣の達人で、
慶喜の警固にあたる「精鋭隊」のリーダーでした。

槍術(そうじゅつ)家で幕府「講武所(こうぶしょ)」教授・高橋泥舟(でいしゅう)の妹を
妻にしており、鉄舟と泥舟と海舟は、「幕末の三舟」と称されました。

慶喜はある日、鉄舟に対し、
自分は「朝命に背そむかざる無二(むに)の赤心(せきしん)があるだけ」と語りかけ、
この真意を朝廷側にじかに伝えて、疑念の解消を図ることを鉄舟に託します。

鉄舟は、初めて訪問した勝海舟に、捕縛・斬首を覚悟のうえで官軍との折衝に臨む考えを説明。
勝も同意し、西郷隆盛あての書状をしたためます。

鉄舟は3月29日、駿府(すんぷ)(静岡市)へと出発します。
鉄舟には、薩摩藩邸焼き打ち事件で捕らえられ、勝が身柄を預かっていた
薩摩藩士・益満休之助(ますみつきゅうのすけ)が同行しました。

2人が六郷川(多摩川)を渡ると、官軍の先鋒すでに布陣しています。
案内を請わずに宿営に入り、「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府に行く」と断ると、
その迫力に気圧(けおさ)れてか、誰も何も言わず、警戒線を難なく突破します。


《「命もいらず、名もいらず」》

鉄舟は後年、駿府行の経緯を「大総督府ニ於おいテ西郷隆盛氏ト談判筆記」
と題する文書に残しています。

それによりますと、東征大総督府参謀の西郷との面会が実現したのは4月1日でした。

席上、西郷が示した慶喜処分案は、「徳川慶喜を備前(岡山)藩に御預け」、「城明け渡し」、
「軍艦は残らず・軍器は一切を渡すこと」、「家臣は向島に移す」などからなっていました。

これに対して、鉄舟は「慶喜の備前預かり」では徳川の家臣たちが承服せず、
合戦が起きて数万の生命が失われると説き、撤回を求めました。
しかし、西郷は「朝命です」とはねつけます。

そこで、鉄舟はこう迫りました。

「先生の主人の島津侯が間違って朝敵の汚名を着せられ、先生が今の私の任にあるならば、
朝命を奉戴ほうたいし速やかに主君を差し出し、安閑としていられますか。
君臣の情、先生の義からみてどうお考えか」

しばらく黙っていた西郷は、
「先生の説はもっともなことです。慶喜殿の件は私が引き受け、取りはからう」と述べました。

先の東征軍出発前、慶喜厳罰論に立っていた西郷は、ここで大きく方向転換したわけです。

芝居の一幕を見るようなこの会談で、西郷は鉄舟の無私の精神に心打たれたようです。

 <命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。
  この始末に困る人ならでは、艱難かんなんを共にして国家の大業は成し得られぬなり>
                       (『南洲翁遺訓』角川ソフィア文庫)

西郷はこんな格言を残しましたが、これは鉄舟を評したものにほかならない、
と勝が証言しています(安部正人編述『鉄舟随感録』秋田屋書房)。 

江戸に戻った鉄舟から報告を受けた海舟は、鉄舟の「沈勇」と高い見識を評価しました。

明治に入って、鉄舟は、静岡藩の権大参事(ごんだいさんじ)などを歴任したあと、
10年間にわたり宮内省に出仕し、明治天皇の側近として宮内大書記官などをつとめました。

剣と同じく禅や書にも通じた鉄舟は、
東京・谷中に禅寺「全生庵ぜんしょうあん」を開基しました。

「怪談牡丹燈籠(ぼたんどうろう)」など多くの名作を生んだ
明治落語界の巨匠・三遊亭圓朝も、鉄舟の弟子の一人でした。

全生庵には鉄舟の墓がありますが、圓朝はそのすぐそばで眠っています。


《西郷「総攻撃を中止」》

さて68年4月5日、旧幕府の最高実力者である勝海舟は、
江戸高輪の薩摩藩邸に西郷隆盛を訪問しました。

事実上の両トップ会談です。

勝は、1か月ほど前、西郷に書簡を送り、
「徳川家は今なお12隻せきの軍艦を所有している」と、
海軍力を誇示して官軍の動きを牽制し、兵力は箱根以西にとどめおくよう求めていました。

もしも、政府軍が、徳川側の嘆願を聞かずに進撃してくるなら、
先手を打って江戸市街を焼き払い、官軍の進軍を妨げて
「一戦焦土を期す」作戦も考えていました。

5日の会談は短時間に終わり、和戦の決定は、すべて翌6日に持ち越されます。

6日の第2回会談で、勝は、鉄舟がもたらした徳川処分案について、
大久保一翁らと協議してまとめた「嘆願書」(対案)を示し、
「御寛典(寛大)の処置」を求めました。

対案は、「慶喜の備前藩預かり」を「水戸での謹慎」とする、
「城明け渡し」は、いったんその手続きをした後、徳川一門の田安家が保管する、
軍艦・兵器の没収も、ひとまず全て政府が没収し、いずれ相当数を返還する、
などとなっていました。

新政府側の完全武装解除要求を押し戻す内容でした。

会談の中で、勝はこのように力説しました。

「インド、中国の轍(てつ)をふみ、天下の首府(江戸)で一戦を交えて
国民を殺すようなことは、決して考えていない。ここで公平至当の処置がとられるならば、
海外諸国はその正しさを見聞きし、国信一洗、和親ますます固まりましょう」

これに対して、西郷は「一人で決めることはできない」と語り、
直ちに大総督府へ言上すると表明。
そのうえで、「明日侵撃(しんげき)の令あり」と述べて
軍事担当を呼ぶや、その中止を命じました。

勝の『断腸之記』によりますと、西郷は、少しも大事に臨むようなそぶりはみせず、
「面色温和」で、「襟度きんど(度量)寛大」でした。

一方、単騎(たんき)、会談先に赴いた勝は、その帰途、
何者かの狙撃にあい、辛うじて命拾いしています。

それだけ江戸市中は殺気立っていました。

勝は、その日の『日記』に、
「かれ(西郷)が傑出果決(けっしゅつかけつ)を見るに足れり」と記し、
「薩藩一、二の小臣、上(かみ)天子を挟(はさ)み、列藩に令して、
出師(すいし)迅速、猛虎の群羊(ぐんよう)を駆るに類せり。
何ぞ其それ、雄なる哉かな」とも書いています。

このあと、西郷は大総督宮に復命したあと、京都へと急ぎ、
そこでの三職(総裁・議定・参与)会議は、勝の嘆願書をおおむね認めた処分を決めます。

勝と西郷との政治折衝で、家名存続を許された慶喜は、
5月3日、江戸城を官軍に明け渡し、水戸に向かって江戸を去ることになります。


《列強からの圧力》

イギリスとフランスは当時、横浜に駐留軍を置いていました。
イギリス海軍は当時、日本近海に日本の海軍力を上回る艦隊力をもち、
フランスもアメリカも、日本海域で軍事プレゼンスを維持していました。

その意味では、「戊辰戦争は列強の監視下」にありました。

江戸城が開城されるまで、横浜港には不測の事態に備えて、
イギリス、アメリカ、フランス、プロイセン、オランダの5か国、
計14艦(砲211門)の軍艦が集結していました。(保谷徹『戊辰戦争』吉川弘文館)

イギリス公使のパークスは、西郷の意を受けた東海道先鋒総督参謀の木梨精一郎と
4月5日(あるいは6日)、横浜で会見します。

そこで木梨が江戸攻撃に伴う負傷者用の病院の確保を求めたのに対し、
パークスは怒り出し、このような厳しい意見を口にします。

「恭順の意を表して謹慎している相手に戦争を仕掛け、慶喜を死に陥れる道理はない。
助命されたい」

「戦端を開くならば、居留地をもつ外国の領事に通知がなければならない。
それが一つもない。仕方がないので、我が海軍兵を上陸させている。
今日、貴国に政府はない」

さらに木梨が「慶喜の亡命」について質ただすと、
パークスは「亡命を受け入れるのが万国公法」と答えました。

この一連のパークス発言は西郷に報告されます。
それは、西郷―勝の第2回会談以前のことで、
西郷はこの「パークスの圧力」を受けて総攻撃を取りやめた、という説があります。

これに対して、パークス発言が西郷に伝えられたのは会談後のことであり、
それを否定する論者もいます。

ただ、いずれにせよ、木梨の報告を受けた西郷は、
パークスの忠告に愕然(がくぜん)としながらも、「かえって幸い」と言ったそうです。

総攻撃中止にいきりたつ将兵らに対して、
「パークスがそう言う以上、仕方がない」と言えば説得しやすくなる、
というしたたかな計算からです。

実際、東山道先鋒総督参謀・板垣退助も、そう聞かされて引き下がったといわれます。


《ロシアの政略》

勝海舟の回顧談『氷川清話ひかわせいわ』(江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫)は、
よく知られています。

その中で勝は、官軍が江戸に攻め上ってくる当時を思い起こして、
「オロシヤ(ロシア)などが、是非金を貸すから、それで存分戦争をして
内国の始末をつけなさい、その間は我々も黙って箱館でみていましょうと言って、
(ロシア公使が)しきりに迫ってくる」という話を明かしています。

その時、勝は「一時しのぎに外国から金を借りるということは、
たとえ死んでもやるまいと決心」して、「借金政略」は拒み通した、と強調しています。

勝も、その弟子の坂本龍馬も、そして西郷も、
外国勢力の介入にはかなり神経を使っていました。

また、木戸孝允にしても、幕長戦争の際、ロッシュ仏公使とパークスに対して
「私は外国の援助を求めなかったし、今後も外国の介入が全く差し控えられることを
信頼するのみだ」と語っています。

 
幕末から明治初期の激動期、イギリス、フランス、ロシアが
日本の植民地化をねらって侵略する可能性は、当時の国際情勢から、
そう大きくはなかったとみられています。

とはいっても、旧幕府、雄藩のリーダーらが、列強の対日干渉に敏感だったことが、
日本の植民地化回避に役立ったことは事実のようです。

      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170510-OYT8T50061.html

・・・
<参考Web:山岡鉄舟>

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   (伝統2015/09/26 (Sat) 19:09:41)

            <感謝合掌 平成30年3月7日 頓首再拝>

龍馬の金策日記 - 伝統

2018/03/08 (Thu) 18:18:38


        *『龍馬の金策日記:維新の資金をいかにつくったか』竹下倫一・著より

(1)坂本龍馬は、他の志士にはない、独創的な方法論を持っていた。

  ①西洋船を購入し、貿易や運輸で資金を稼ぎ、
   それを政治活動費用にあてようというのは、
   他の名だたる志士にはあまり見られないものである。

  ②しかし実はこのアイデアは龍馬の独創ではない。
   若狭藩の脱藩浪士梅田雲浜は、1856年ごろから、
   廻船問屋などの商人と結託して、各地の産物の交易に一役買うことで、
   商人から活動資金を得るということを始めている。

  ③各地を遊説する志士活動は、各地の産物情報を入手しやすく、
   副業として交易の手伝いをすることはもってこいだったのだ。
   梅田雲浜以来、脱藩浪士が商人の後ろ盾を得て、
   遊説とともに交易活動を行うことは、しばしば行われてきたのだった。

  ④亀山社中、海援隊などで行った龍馬の交易活動は、
   先人のアイデアをよりスケールアップして実現させた、ということがいえる。

   そして龍馬の活動アイデアに、もっとも強いインスピレーションを与えたのは、
   勝海舟だといえる。

   「艦船を入手して貿易を行い、国力をつけて外国の脅威に備える」
   という龍馬が終生持ち続けた思想を、具体的に明示したのは
   勝海舟だといえるだろう。


(2)龍馬の生涯は、その輝かしい業績と同時に、
   数多くのトラブルや困難続きだった。

  ①普通の人が一生に一度遭遇するかどうか、という事件や事故に、
   たった3~4年のうちに、何度も何度も巻き込まれている。

   私は、龍馬の先見性や発想のユニークさよりも、
   その前向きさに感銘を受ける。

  ②普通の人だったら、1年、2年ふさぎこんでもおかしくないようなトラブルの連続。
   そのトラブルとトラブルの間に、大きな仕事をやってのけるのだ。

   龍馬が衆人に比してもっとも優れていた面というのは、
   「決して諦めないこと」だったのではないか。

(3)幕末の志士たちの活動には、侠商といわれる商人たちの支えがあった
   ということは、よく知られている。

  ①たとえば、明治維新に大きな役割を果たした長州藩の奇兵隊は、
   下関の白石正一郎という廻船業商人が、スポンサーとなって発足した。

  ②商人たちが志士に肩入れした理由は、だいたい2つあったようだ。
   一つは、西洋の動向は、武士商人を問わず
   知識階級にとって共通の不安材料だったということ。

   そして志士たちの活動に期待した。
   この国をなんとかしなくてはというのが、
   知識階級にとって共通の思いだったようだ。

  ③もう一つは、志士たちは全国を駆け回るものなので、
   志士たちを使って各地の情報を掴みたかったということである。

   商人にとって、各地の情報は仕事上不可欠のものだった。
   志士たちの情報網は、商業上とてもメリットがあるものだった。

(4)イギリスをはじめとする西洋諸国の貿易商人たちは、
   日本でも暴利をむさぼろうとしていた。
 
   「総合商社」というものは、幕末から明治にかけて、
   西洋諸国から食い物にされないように、
   日本が独自に創造した事業形態だ。


(5)フランスは幕府に武器を売り、英国は薩長らを支援していた。
   双方に代理戦争をさせ、内戦で日本を疲弊させ漁夫の利を得て、分割統治を狙った?

(6)海軍塾にいたときに北海道開発計画を幕府に出していた。
   浪士たちを送り込み、彼らのエネルギーを建設的なことに生かそうとした。

   龍馬の甥で坂本家を相続した高松太郎は維新後、
   蝦夷地開拓のため函館府参謀として北海道に赴き、
   彼の弟・直寛も北見に農場を作った。

            <感謝合掌 平成30年3月8日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第4回~「東京」が生まれるまで - 伝統

2018/03/09 (Fri) 19:35:54


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年05月31日)より

《1年半の戊辰戦争》

江戸城は無血開城されたものの、内戦は収まりませんでした。
新政府は、以下のように、戊辰戦争を戦いながら変革を推し進めますが、
その一環として「東京遷都」が浮上します(年月は陽暦)。

            ・・・

1868年  
 1月 王政復古の大号令。新政府発足。鳥羽・伏見の戦い

 2月 新政府、各国に王政復古と外国との和親方針を告知
    英米仏伊蘭普6か国が内戦に局外中立を宣言

 4月 西郷隆盛―勝海舟会談。五箇条の御誓文
 5月 新政府軍、江戸入城。徳川慶喜、水戸へ退去

 6月 新政府、政体書を出し、太政官制度発足
    奥羽越列藩同盟成立

 7月 新政府軍、上野の彰義隊を討伐

 9月 江戸を東京と改称

10月 新政府軍、会津若松城を攻撃(11月、会津藩降伏)
    明治天皇、即位の大礼、明治と改元

11月 天皇、京都出発(69年1月、京都に帰る)
    江戸城を皇居とし東京城と改称
  
1869年  
 1月 旧幕府海軍副総裁・榎本武揚ら蝦夷地を占領
 2月 米英蘭仏独伊の6か国、局外中立を解除

 3月 薩長土肥4藩主、版籍奉還を上奏

 5月 天皇、太政官を東京に移設(東京遷都)

 6月 箱館(函館)総攻撃、五稜郭開城。戊辰戦争終わる

            ・・・

旧幕府の将兵は、1868年の江戸城明け渡しに伴う武器・艦船の引き渡しに反発し、
大量脱走を図ります。

開城当日の5月3日夜、旧幕府海軍副総裁の榎本(えのもと)武揚(たけあき)が、
艦船ともども房州(千葉県)館山方面へ逃れます。
一方、歩兵奉行・大鳥圭介(1833~1911年)らは、
兵を引き連れて、徳川宗廟(そうびょう)の地・日光をめざします。

百姓一揆やゲリラ戦も各地で頻発し、関東一帯は、騒然とした空気に包まれました。


《太政官に権力集中》

江戸開城後の6月11日、京都の新政府は「政体書」を定め、政府組織の整備を図ります。

それによると、「太政官」と称する中央政府に国家権力を集中させ、
それを立法・行政・司法の三権に分け、
それぞれ議政官・行政官・司法官という名の組織を置きました。

この太政官制度は、五箇条の御誓文の趣旨に基づいて、
米欧の三権分立を参考に、副島(そえじま)種臣(たねおみ)と
福岡孝弟(たかちか)らが考案しました。


議政官は、議定(ぎじょう)・参与からなる「上局」と、
貢士(こうし)(諸藩からの出仕者)からなる「下局」で構成し、
行政官には、神祇官じんぎかん、会計官、軍務官、外国官、刑法官が置かれて
知事・判事らが任命されました。
「官員の任期は4年で公選」(実際の実施は1度だけ)するとしていました。

議定には、天皇を補佐する輔相(ほそう)の、三条実美・岩倉具視らが就きました。
参与には、木戸孝允、大久保利通、広沢真臣(さねおみ)、後藤象二郎、福岡や副島、
由利公正(きみまさ)、横井小楠らが就任します。

軍務官では大村益次郎(1825~69年)、外国官では伊藤博文、井上馨(かおる)、
大隈重信らが命じられ、彼らが維新政府の一線で政策を主導していくことになります。 

ただし、明治初めの官制は、その後も目まぐるしく変わり、
人事の動きもあわただしいものがあります。



《上野・彰義隊の戦い》

江戸城下では、68年3月16日、慶喜を支持する旧幕臣らが
「薩賊討滅」を合言葉に「彰義隊(しょうぎたい)」を結成します。

その後、江戸開城に憤る兵たちが続々と参集し、慶喜守衛を目的に
上野寛永寺(徳川家の菩提寺)に屯所を設置。
隊員数は2000人以上に膨れあがります。

彼らは、輪王寺(りんのうじ)門主の公現法親王(こうげんほうしんのう)(輪王寺宮)
に接近します。同寺執当の覚王院義観(かくおういんぎかん)が彰義隊の熱心な支援者でした。
彰義隊は、市中を巡回し、官軍と小競り合いを繰り返します。

慶喜は懸念を示し、山岡鉄舟や勝海舟らが隊員の暴走を諫いさめますが、聞き入れません。

これに対し、新政府側は5月、長州藩の洋式兵学者で軍防事務局判事・大村益次郎を
東京に派遣し、軍を指揮するよう命じました。
大村は、上野包囲作戦を立て、梅雨の季節の7月4日、彰義隊攻撃に踏み切ります。

寛永寺正面の黒門口に薩摩藩兵を配していた大村の計画書をみて、
西郷隆盛は、「薩兵を皆殺しにする朝意でごわすか」と問うたといわれます。

当日、大村が江戸城から戦場を観望していたのに対し、
西郷は黒門口に出動して戦闘を指揮しました。

 
肥前(佐賀)藩がイギリスから輸入したアームストロング砲などが威力を発揮し、
戦いは夕刻までに終結します。

戦いに勝利した新政府軍の死者は34人、反政府軍は260人と言われています。
政府軍の死傷者は薩摩に多く、彰義隊は半数が死傷したとされます。
敗走した生存者の多くは、このあと会津や函館での戦争に加わります。


《大阪遷都構想》

新政府の内国事務掛じむがかり(内務相)・大久保利通は68年2月、
朝廷に「大阪遷都の建白書」を提出しました。

そこには、<数百年来の因循(いんじゅん)腐臭を一新し、
官武の別なく天下万人が感動涕泣(ていきゅう)する(涙を流して泣く)ほどのことを
実行することが急務>であり、

<わずかな公卿しか拝顔できない存在だった天皇の、民の父母たる天賦(てんぷ)の役割を
踏まえると、大変革すべきは京都からの遷都の典>であると書かれていました。

旧態依然の京都を去るべきだと言う大久保は、あわせて、今後、
天皇は表の御座所に出て政務を行うこと、その際は女官の出入りを厳禁すること、
天皇は内外情勢について学び乗馬の訓練をすることなどを柱とする
天皇・宮中改革案を岩倉具視に提言しました。

しかし、この遷都論は公家たちの抵抗にあって否決されてしまいます。

そこで大久保は、今度は大阪への「行幸(天皇の外出)」を企画します。
官軍の最高司令官としての「親征(天皇自らの征伐)」という位置づけでした。

天皇は4月半ば、「葱華輦(そうかれん)」(天皇の乗物の一種)に乗って京都を出発、
大阪に約50日間滞在し、その間、天保山(てんぽうざん)沖で艦隊演習を天覧しました。
 
天皇の大阪滞在中、大久保と木戸孝允は、それぞれ初めて天皇と会見の機会を得ます。
二人とも、天皇との面会を「未曽有の事」ととらえ、
「余一身の仕合(しあわせ)、感涙の外ほかこれなく候(そうろう)」などと
日記に書いています。


《京遷都を実現》

大阪遷都が進まない中、大久保に宛てて江戸への遷都を提言したのが、
近代郵便制度の創設者としても知られる、旧幕臣の前島密ま(1835~1919年)でした。

江戸遷都の理由として前島は、東京は大阪と違って、
官庁、学校、藩邸、住宅などのインフラがある、
宮城も江戸城を修築すれば足りるので国費が節約できる、
江戸を首都にしないと市民は四散してしまい、
世界の大都市(江戸)が荒涼とした「大寒市」に変じてしまう――ことを挙げていました。

ちなみに東京の町人人口は、徳川家の駿河移封後の69年4月調査で、
50万3703人という数字が残っています。


ついで大総督府軍監・江藤新平らが5月、「東西2京設置案」を岩倉に提出します。
「都(みやこ)は京都」にこだわる公家や京都周辺の世論に配慮した案でした。

これと前後して、木戸孝允が「京都をもって帝都となし、大阪を西京、江戸を東京として
時宜(じぎ)にしたがって東西巡幸する」という案を出します。

大阪遷都論の大久保も、徳川氏を駿府に移し「江戸を東京とすることが良策」であると、
東京遷都を支持します(東京都発行『東京百年史』第2巻)。

戊辰戦争の舞台が関東から東北、そして北海道へと移行するにつれ、
新政府の管轄地域も拡大し、国内統一が急がれるようになります。

とくに東京が政治的にも軍事的にも重要性を増してきていたことが、
東京遷都論に弾みをつけたとみられています。

 
9月3日、天皇は江戸を東京と定める「東京奠都てんと」の詔書を出します。

東京府庁が置かれ、天皇の東京への行幸が発表されました。
これには再び、京都の側が、「東京遷都につながる」として激しく反発します。

政府内にも慎重論が出ましたが、江藤や大久保らは
「戊辰戦争とそれによって惹ひき起こされた国内の人心の動揺をおさめ、
国内統一を実現するためには、ぜひとも天皇を中心とした
ネーション・ステイト(国民国家)をつくるべきだ」として、
反対論を押し切ったといわれます(松本健一『開国・維新』)。


《新しい天皇像》

10月12日、天皇は日本古来の儀式にのっとり、即位の大礼を挙げます。
その前日には天皇誕生日(旧暦9月22日)を国民の休日(「天長節」)と定め、
23日には「明治」と改元されました。

明治元年の11月4日、天皇は「鳳輦(ほうれん)」に乗って
京都を出発し、東京に向かいました。

天皇の行列には、衣冠(いかん)・狩衣(かりぎぬ)姿の公家らが従い、
供(とも)は約2300人に達し、長州・土佐など6藩兵が警固にあたりました。

途中、熱田神宮に参詣し、農民の稲刈りを見物し、
大磯の海岸では地引き網を見て楽しみました。

東京市民は天皇行幸を歓迎しました。
東京府は名主らに対し、火元に注意すること、道筋の掃除を入念に行うこと、
羽織袴(はおりはかま)を着用して迎えることなど種々の準備を指示しました。

 
明治天皇の父である孝明天皇が63年に賀茂社に行幸するまで、
歴代天皇は200年以上、京都御所の外に出なかったといわれます。

 
大久保利通らは、これからの天皇はヨーロッパの帝王のように
国内を歩いて民衆と積極的に接することが必要と考えていました。
その意味で、東京行幸は「見えない天皇から見える天皇」への「劇的な変貌」でした
(佐々木克『幕末の天皇・明治の天皇』講談社学術文庫)。

 
新政府の威光を印象づけ、国民統合のシンボルとしての役割を期待された明治天皇は、
その後、72(明治5)年から大かがりな巡幸を6回行って全国を回ります。

それは終戦直後の1946(昭和21)年から「地方巡幸」を始め、
「象徴天皇」として全国各地を訪れた昭和天皇の姿と重なるところがあります。

明治天皇は1868年11月26日、東京に到着すると、
江戸城を東京城と改め、皇居にすることを布告しました。

69年1月20日、天皇は東京を出発し、京都に還幸(行幸先から戻ること)します。
2月3日に京都入りし、孝明天皇の三回聖忌を行ったあと、
天皇の花嫁である一条美子(はるこが)入内(じゅだい)
(皇后に決まった女性が正式に宮中に入ること)しました。

 
天皇は4月18日、再度東京へ向かい、5月9日東京城に到着します。
東京城の呼称を「皇城」と改め、太政官を皇城内に設置しました。
これが事実上の東京遷都となります。

新しい都の誕生は、平安京遷都(794年)以来のことでした。

      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170524-OYT8T50022.html


            <感謝合掌 平成30年3月9日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第5回~異彩を放つ「北方政権」 - 伝統

2018/03/10 (Sat) 18:23:15


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年06月14日)より

《「会津・庄内を討て」》

戊辰戦争の舞台は東北地方に移ります。

官軍の照準はぴたり「朝敵・会津」です。
新政府は1868年2月10日、仙台藩に対し「会津藩追討令」を出します。
あわせて秋田、盛岡、米沢の各藩には、仙台藩を支援するよう命じました。

会津を討つか、救うか、仙台藩内部の意見は分かれましたが、
首席家老らは、「会津征討」に強い疑問を抱いていました。

新政府側は、鳥羽・伏見の戦いで、
幕府・会津側が先に発砲したことを「朝敵」の理由に挙げていました。
ところが、徳川方は薩摩勢の発砲にやむを得ず応戦したと主張し、明確でなかったからです。

それだけではありません。
徳川慶喜は政権を返上し、朝廷に背く意図もない以上、追討の必要はない。
そもそも、「禁門の変」で朝敵とされた長州藩には、「寛大な処置」がとられたではなかったか。
加えて、再び内戦となれば、諸外国はいかなる動きに出るか計り知れず、
国辱を万国にさらすことになる――。

こうした維新政府への批判が「会津追討反対」の声を広げていきます。

新政府の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府の九条道孝(みちたか)一行が4月中旬、
京都から仙台入りし、仙台・米沢両藩に対して出兵を迫りました。
次いで、仙台・天童・秋田各藩に対して、庄内藩(山形県北西部、酒田・鶴岡)追討を命じます。

庄内藩は、戊辰戦争開始直前の江戸薩摩藩邸焼き打ち事件(68年1月)を主導したことで
「朝敵」とされたようです。


《奥羽越列藩同盟》

もはや交戦は必至とみた会津藩と庄内藩は、同盟(会庄同盟)を締結します。

仙台・米沢藩は、会津藩に「恭順」を勧めますが、同藩は抵抗し、
会津藩主・松平容保(かたもり)の城外謹慎、領地削減という条件でようやく折り合います。

5月末、仙台・米沢両藩は、秋田、盛岡など奥羽諸藩に呼びかけ、
仙台藩領・白石で列藩会議を開きます。
席上、会津藩に寛大な処置を求める嘆願書に14藩が署名しました。

各藩とも、政府軍の進撃を抑え、戦争を回避しようとしていたのです。

しかし、九条総督は、仙台・米沢両藩主の嘆願を却下しました。
強硬論者の総督府参謀・世良修蔵(せらしゅうぞう)(長州藩)の意見に押されたようです。

殺気立つ仙台藩士らが、傍若無人で鳴る世良を暗殺します。
これを機に諸藩と新政府との対立はエスカレートします。

6月22日、各藩代表は、「大義を天下に」とうたった
奥羽列藩盟約書と太政官建白書に署名しました。
3日後には、長岡、新発田(しばた)など北越諸藩も同調し、
ここに31藩からなる「奥羽越列藩同盟」が成立しました。


《奥羽政権の夢》

列藩同盟は、上野戦争から逃れ、会津入りした
輪王寺宮(りんのうじのみや)公現法親王(こうげんほっしんのう)
を「同盟の盟主」として担ぎます。

総督には仙台、米沢の両藩主が就き、参謀には
小笠原長行(おがさわらながみち)と板倉勝静(いたくらかつきよ)の旧幕府重鎮を充てます。

白石城には「公議所」が設置され、諸藩の重役たちが
軍事・会計・民政などについて評議することになりました。

列藩同盟は、こうして「盟主」を頂点に、権力の執行体制を整えました。
その意味で、同盟は、「明らかに京都政権に対抗する、地方政権=奥羽政権
としての意識と実態をもって」いたのです(佐々木克著『戊辰戦争』)。

同盟の戦略立案にあたった一人に、仙台藩士の玉虫左太夫(たまむしさだゆう)がいました。
玉虫は、1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため、初訪米した
幕府使節団の正使・新見(しんみ)正興(まさおき)の従者でした。

アメリカで見聞を深めた国際派の玉虫は、
アメリカの「共和政事」を最終目標に置いていたといわれます。

攻守同盟の性格を強めた同盟は、戦闘態勢に入り、
戦線は太平洋岸や会津国境、北越方面へと拡大していきます。


《河井継之助(かわいつぐのすけ)の戦い》

北越戦争の焦点は、長岡城の攻防でした。

譜代の名門・長岡藩は、同盟に加わる以前は、中立的な立場をとっていました。
しかし、鳥羽・伏見の戦いの後、家老・河井継之助(1827~68年)は、
江戸藩邸などを売り払って数万両を得ると、外国商人から最新の銃砲・弾薬を購入しました。
横浜で荷積みをし、箱館経由で新潟に送ります。

新潟港は当時、武器補給港の様相をみせ、
プロイセンの武器商人であるスネル兄弟らが暗躍していました。

河井が帰藩した船には、兄の会津藩主・容保とともに「朝敵」とされた
桑名藩主、松平定敬(さだあき)一行も同乗していました。

北陸制圧をめざす政府軍が、会津藩の飛び地だった小千谷(おぢや)を占領します。
6月21日、河井は、東山道軍軍監・岩村精一郎(土佐藩士)と会談し、
政府軍の進撃阻止を要請しますが、岩村がはねつけました。

談判決裂を受け、会津、桑名、長岡の連合軍と政府軍との戦闘が開始されます。
北陸道鎮撫(ちんぶ)総督兼会津征討総督参謀・山県有朋(やまがたありとも)らは
7月8日、信濃川の渡河作戦を敢行して長岡城を占領しました。

これに対して、河井が率いる同盟軍は9月10日、2か月ぶりに長岡城を奪回しますが、
河井は銃弾を受けて負傷し、5日後には敗退します。
ついで新潟も政府軍に占領され、越後平野は平定されました。


《「白虎隊」の悲劇》

東北の諸勢力を結集した列藩同盟にも、ほころびが出ます。

秋田藩の同盟離脱です。
仙台を脱出した九条総督一行が8月中旬、盛岡から秋田に到着し、
政府軍兵士も総結集すると、その圧力の前に、秋田藩は藩論を転換したのです。

秋田藩と政府の連合軍は、庄内藩へ進撃しました。
しかし、庄内藩は、領内侵攻を食い止めただけでなく、
逆に秋田藩を追いつめるなど奮戦しました。

会津藩主・松平容保は、江戸から会津に帰った68年3月以降、軍制改革に取り組みました。
同藩の総兵力は7000余でしたが、部隊を年齢別・身分ごとに再編成し、
この中で16、17歳を対象にした部隊が「白虎隊(びゃっこたい)」でした。


政府軍に立ち向かう会津藩に衝撃の報が伝わります。
長岡城陥落の日(9月15日)、列藩同盟の二本松が政府軍の急襲を受けて落城しました。
そして同盟の盟主・仙台藩が戦線を離脱したのです。

板垣退助(土佐藩)、伊地知正治(いじちまさはる)(薩摩藩)両参謀を司令官とする
政府軍にとって戦機到来です。
10月8日早朝、政府軍は若松城(通称・鶴ヶ城)下に侵攻します。

激しい戦闘に疲れ果て、飯盛山(いいもりやま)にたどり着いた白虎隊士20人は、
火に包まれ砲煙をあげる市内を見下ろし、もはや落城とみるや、お互い差し違えるなどして、
うち19人が悲劇的な最期を遂げます。

市中では、籠城戦の足手まといになることへの懸念や、会津滅亡への絶望感から、
女性や子供たちの自害が相次ぎました。
家老・西郷頼母(たのも)の家では、母、妻、妹2人、娘5人の計9人が自刃しています。


逆に登城して戦う女性もいました。
砲術師範役・山本覚馬かくまの妹八重は男装して7連発銃をかつぎ、
軍事総督・山川大蔵(おおくら)の母、妻、妹たちも薙刀なぎなたを手に城に入ります。
藩士の娘・中野竹子、妹の優子らの「娘子軍(じょうしぐん)」も、
弾丸が飛び交う中、奮闘しました。

山川は、幕府外国奉行・小出秀実のロシア使節団に随行した経験をもつ、若きリーダーでした。
実弟の山川健次郎は、白虎隊に編入されましたが、幼すぎるなどとして除隊させられました。
彼は後年、東京帝大総長になります。


若松城を包囲した政府軍は、
50門の大砲からすさまじい砲撃を繰り返し、天守閣にも命中します。
一昼夜に2700発の弾丸が撃ち込まれたとも言われています。

1か月にわたる籠城戦の末、11月5日、弾薬も食糧も尽きた会津側は、
「降参」と大書した白旗を立てます。

万国公法に基づく白旗は、包帯などで白布を使い尽くしたため、
女性たちが白い小片こぎれを縫い合わせてつくりました。

会津攻防戦で死亡した兵士は、反政府軍2557人(うち女性194人)、
政府軍は395人といわれます。会津藩の奮戦ぶりは、「会津士魂(あいづしこん)」や
「婦人の鑑(かがみ)」などと称たたえられ、胸打つものがあります。

ただし、白虎隊や娘子軍、民間の老若男女を多数巻き込んだあげくの敗戦は、
人事や作戦、用兵の誤りが指摘されており、当時の会津藩首脳陣の責任は免れがたいようです。


《五稜郭の「榎本政権」》

北海道・函館に「五稜郭(ごりょうかく)」という名の洋式城郭があります。

江戸幕府が北辺防備のため、箱館奉行所として1857年に着工し、
7年かがりで64年に完成させました。
蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)がフランスの築城書などを参考にして設計したものでした。

ここが戊辰戦争の最後の舞台になります。
主役は旧幕府海軍副総裁の榎本武揚です。

68年10月4日、榎本は、勝海舟らの再三の自重要請を振り切って
、艦隊とともに品川沖から北方へ向かいます。
艦隊は「開陽」「回天」「咸臨(かんりん)」など計8艦で、
フランス軍人10人が参加していました。

新政府に対して送った文書は、「今の王政は天下の輿論(よろん)を尽くしていない、
一、二の強藩の私意に基づくものだ」と批判し、「徳川家の遺臣」の生計維持のため、
「蝦夷(えぞ)(北海道)開拓」を認めるよう求めていました。


榎本軍は、12月はじめ箱館から40キロの地点に上陸しました。
東北で戦って敗れた旧幕府の松平太郎(陸軍奉行)や大鳥圭介(歩兵奉行)、
竹中重固(たけなかしげかた)(陸軍奉行)、板倉勝静(備中松山藩主)、
小笠原長行(唐津藩世子)、土方歳三(ひじかたとしぞう)(新選組副隊長)らを
仙台で乗せており、総勢は2500人を超えていました。

箱館府の政府軍を圧倒し、五稜郭と箱館を手中に収めた榎本軍は69年1月、
各国領事に対して蝦夷地の領有を宣言しました。

この「榎本政権」は、首脳陣の人事を陸海軍士官の投票で決めました。
総裁には榎本武揚が圧倒的多数の票を得て選ばれました。

政府勢力を打ち破って誕生した榎本政権は「サムライの共和国」とも称されますが、
天皇の新政府に敵対する意図はなく、新政府の下で徳川家臣団の生き残りを図ることが
真意だったようです。

箱館に派遣されたイギリス、フランスの軍艦の両艦長は、
いったん榎本政権を「事実上の権力」と認めましたが、
イギリス公使のパークスは、すでに「内戦は終結した」との判断を示し、
2月9日、米英蘭仏独伊の6か国公使は、そろって局外中立解除を布告、
榎本軍は反乱軍となってしまいます。

政府側はこれにより、アメリカの甲鉄艦「ストーン・ウォール号」を手に入れます。
これは、日本の最強艦「開陽」が荒天で沈没してしまい、海上優位を失った榎本軍を
打倒するための切り札になります。

政府軍は春5月、反撃に移って松前を攻略し、6月20日、箱館総攻撃に出ます。
榎本政権の海軍奉行並に就いていた土方は戦死し、
甲鉄艦の艦砲射撃が容赦なく五稜郭を襲います。

22日、政府軍参謀の黒田清隆が榎本らに降伏を勧告しました。
榎本は、オランダ留学から持ち帰った海事国際法『海律全書』を黒田に託し、
黒田は酒5樽たるを榎本陣営に贈ったというエピソードが残っています。

5日後、戊辰戦争は終わりました。


      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170609-OYT8T50023.html

            <感謝合掌 平成30年3月10日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第6回~戊辰戦争、敗者の側から - 伝統

2018/03/11 (Sun) 19:39:28


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年06月28日)より

《柴五郎の無念》

戊辰戦争の敗者には、新政府による処分が待っていました。

69年1月に出された処分で、会津藩主・松平容保(かたもり)は、
「死一等を減じ(死罪を免れ)」鳥取藩に「永預(ながあずけ)(無期刑)」となる一方、
同藩の領地はいったん没収されました。

そして翌70年6月、同藩は青森・下北半島の斗南(となみ)に移封(いほう)されます。
石高はこれまでの23万石から3万石へと削られました。
しかも斗南はやせた土地で、実収は7000石に過ぎなかったようです。

藩士とその家族は、そうとは知らずに移住し、寒さと飢えに苦しむことになります。
その悲惨極まる生活は、『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書)
によって明らかです。

柴五郎(しばごろう)(1859~1945年)は、晩年、戊辰戦争での
「薩長の狼藉(ろうぜき)」に対して、「いまは恨むにあらず、怒るにあらず、
ただ口惜(くやしき)ことかぎりなく、心を悟道(ごどう)に託すること能(あた)わざるなり」と、
血涙滲(にじ)む、この書を残しました。

会津戦争で自刃した祖母と母、姉と妹の遺骨を、瓦礫(がれき)の中から拾ったという柴は、
江戸の捕虜収容所で生活した後、斗南地方に送られます。
それは、柴の言葉を借りれば、「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」というべきものでした。

その後、柴は上京して、下僕(げぼく)生活の末、「陸軍幼年生徒隊」(幼年学校の前身)の
試験に合格してチャンスをつかみます。大本営参謀やイギリス・清国公使館付武官などを歴任し、
最後は陸軍大将として台湾軍司令官をつとめました。

兄の一人が、小説『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』
を書いた柴四朗(東海とうかい散士さんし)です。

この長編は、会津藩の悲劇を知る日本人青年が、
アメリカでアイルランドの独立運動の闘士らと出会って、
世界の弱小民族のために連帯を誓い合う政治小説でした。

 
政府の東北諸藩に対する処分をみると、仙台は62万5千石から28万石に、
長岡は7万4千石から2万4千石に、庄内は17万石から12万石に、
米沢は18万石から14万石に、それぞれ削封されました。

戊辰戦争での抵抗ぶりや降伏時の対応などが斟酌(しんしゃく)されたようですが、
それにしても会津処分の過酷さが際立ちます。

一方で、政府は69年7月、鳥羽・伏見の戦い以降の「戦功」を賞します。
藩主では、島津久光父子(薩摩)、毛利敬親父子(長州)に各10万石、
山内豊信父子(土佐)に4万石などが支給されたのです。

なお、会津藩主・松平容保は80年2月、日光東照宮の宮司となり、余生を全うします。


      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170622-OYT8T50009.html

            <感謝合掌 平成30年3月11日 頓首再拝>

保阪正康氏が語る「賊軍」側からの見直し - 伝統

2018/03/12 (Mon) 17:43:26

150年目、「明治維新」が問い直される根本理由
~保阪正康氏が語る「賊軍」側からの見直し

       *Web:東洋経済オンライン(2018年01月09日)より

《「薩長史観」によりつくられた通史》

――なぜ、明治維新の「常識」を覆すような書籍が次々と刊行されているのでしょうか。

よく用いられる「薩長史観」という言葉があります。
明治維新の際の勝者である薩摩・長州(薩長)の側からの歴史解釈ということです。

要は「勝者が歴史をつくる」ということで、
以下のような単純な図式で色分けされた歴史観だともいえるでしょう。


   薩長土肥(官軍)=開明派(正義)
   旧幕府側(賊軍)=守旧派(悪)


明治維新以来、日本の歴史教育は、基本的にこの薩長史観に基づいて行われてきました。
歴史研究者なども、薩長政府の意向を忖度して「通史」を形作ってきた面もあると思います。
われわれの歴史認識も知らず知らずのうちに
この薩長史観の影響を大きく受けてきたのではないでしょうか。

ところが、150年という歳月を経て、
ようやく客観的に明治維新を見直す時期になったのかもしれません。

そもそも、勝者がすべて正しいはずがなく、敗者の側にも正義があったはずです。
地域ナショナリズムの高まりのようなこともあり、
その事実に真正面から目を向けるようなったのかもしれません。

そうした流れの中で、反「薩長史観」的な書籍が次々と刊行されるようになった
と見ることもできるでしょう。

書籍だけでなく、2013年に放映された大河ドラマ「八重の桜」なども、
ずいぶん反「薩長史観」的な内容だったと思います。


――薩長史観には、見直すべき誤りがあるのでしょうか。

幕末に幕府が、意外に現実的な開国策や近代化策をとっていたことは
もっと評価してもいいのではないでしょうか。

薩長は「攘夷」を掲げて政局を動かし、そのくせ権力を奪取した後は
あっさりと「開国」に転じています。

また、何よりも旧幕府側を「賊軍」として貶(おとし)めたことは見直すべきかと思います。
とくに会津藩などは、賊軍の筆頭として討伐され、徹底的に蹂躙されました。

しかし、史実を見れば明らかなように、
会津は、律儀に天皇に忠誠を尽くして職責を果たしただけだったのです。

謀略に明け暮れた長州や薩摩にくらべ、純粋に「尊王」藩だったという見方もできます。


《旧幕府側にも正義はあった》

――天皇も会津に対して絶大な信頼を寄せていたようですね。

孝明天皇は長州を避け、会津藩主の松平容保(かたもり)を深く信頼していました。
このため孝明天皇は毒殺されたという説がささやかれているほどです。

一方、薩長は、天皇を「玉(ぎょく)」と呼び、
おさえて利用しようとするきらいがあったように思います。

鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」が出たことにより、旧幕府側は戦意を喪失するわけですが、
そもそもこの「錦の御旗」は薩長が作った偽物だともいわれています。
同様に「討幕の密勅」も偽勅だったようです。

薩長は自らの権力奪取のため、徹底的に天皇の権威を利用したともいえるわけです。


――「賊軍」とされた側は、明治維新以後も苦労したようですね。

たとえば会津藩は、23万石から3万石に家禄を減じられ、
辺境の地である斗南(となみ・青森県)に追いやられました。
寒冷不毛の地で、会津藩士とその家族たちは、塗炭の苦しみを味わいます。

後に薩長閥の中で会津出身者として白眼視されながらも陸軍大将に上りつめた柴五郎は、
このときまだ少年でした。食べるものにも事欠き、塩漬けの野良犬を20日も
食べ続けたこともあったと記録に残しています。

会津藩は、薩長と戦った戊辰戦争後、生死に関わるような懲罰を科せられたわけです。

奥羽越列藩同盟軍に属し会津に味方したほかの「賊軍」藩も、家禄を減らされるなどしました。
さまざまな差別もあったといわれ、賊軍藩出身者は、政官界などでなかなか
出世できなかったといいます。


『賊軍の昭和史』で半藤さんがおっしゃっておられるのですが、
昭和の戦争で活躍した石原莞爾(庄内)、米内光政(盛岡)、山本五十六(長岡)なども、
賊軍藩の出身であったため、ずいぶん苦労したようです。

このように明治維新以降の近現代史についても、
今まで語られなかった「賊軍」側の視点から捉え直すことができるのではないでしょうか。


――映画『日本のいちばん長い日』などで有名な、
日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も、賊軍藩の出身者だったのですね。

鈴木貫太郎さんは、賊軍である関宿藩(千葉県)の出身です。
鳥羽・伏見の戦いが始まったころ、藩主が幕府の大坂代官だったため、大坂で生まれています。

その後、海軍に入り日清戦争で大殊勲を上げます。
「鬼の貫太郎」といわれるほどの大戦果を上げたんです。

ところが、薩摩閥の系統の後輩たちに、出世では先を越されます。
こんな不公平な人事をする海軍にはもういられないと、辞めることを決意しました。

けれど、お父さんに手紙で「おまえは出世するために海軍に入ったのか」といさめられ、
踏みとどまりました。

彼がここで辞めていたら、後の日本は太平洋戦争を終結させることができず、
破滅へと向かっていたかもしれません。


――『賊軍の昭和史』では、「官軍出身者が始めた戦争を賊軍出身者が終結させた」
というユニークな見方が展開されていますね。

終戦時の海軍大臣の米内光政のほか、戦争終結を強く望んだ海軍大将の井上成美も
賊軍(仙台)出身ですからね。

そもそも、この2人とともに戦前「左派トリオ」といわれ、
日独伊三国同盟に強硬に反対した山本五十六は、
会津に味方し官軍に頑強に抵抗した長岡藩の出身です。

反対に、日独伊三国同盟に前のめりだった陸軍や海軍の軍人は、
官軍の流れを汲む人たちだったと見ることもできるでしょう。

ですが、何よりも私は、「勝てば官軍」的な「官軍的体質」をもった人たちが
昭和の戦争を始めたと思っております。

それに対して、「賊軍的体質」を持った人たちが戦争を終結に導いたと。
彼らは「負け方」を知っている、それで戦いを収めることができたのではないかと……。


《鹿児島での「薩摩と長州はまったく違う」という声》

――反「薩長」的な主張が目立つようになってきたことに対して、
鹿児島県(薩摩)や山口県(長州)の方たちはどう思っているのでしょうか。

鹿児島に行ったときのことです。
『賊軍の昭和史』を読んだ方から、こんなことをいわれました。


「先生は“薩長”という言葉で簡単に一緒にするけど、薩摩と長州は全然違うんですよ」

薩摩は1877(明治10)年、それこそ「西郷どん」の西南戦争で負けて
「賊軍」になってしまいました。賊軍の立場も知っているわけで、
ずっと官軍できた長州とは違うというわけです。

会津(福島県)などからすれば「薩長」と一緒にしがちですが、
たしかに薩摩と長州はまったく異なります。
価値観も大きく違うように思えます。


――確かに、ひとくくりにはできない、地域ごとの歴史があるわけですね。

最近の明治維新の見直しは、
地域の歴史ということに思いをはせるいい機会かもしれません。

日本の歴史といっても、地域ごとの歴史がありますし、それぞれの歴史観があるわけです。
薩摩や長州からの歴史観と、会津からの歴史観は違って当然ともいえるでしょう。

昨年はスペインのカタルーニャ独立運動が大きく報道されましたが、
この背景にも地域の歴史観ということがあるはずです。

地域ごとの歴史の多様性を認めたうえで、
歴史の教訓を生かすことがいま求められているのかもしれません。

地域性なども含め、明治維新を改めて問い直すことで、
日本の近現代史をより深く解析できるような気がします。

そうした意味で最近の薩長史観の見直しは、
薩長の人々にとっても意義あることといえるのではないでしょうか。

    (http://toyokeizai.net/articles/-/203511

            <感謝合掌 平成30年3月12日 頓首再拝>

半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 - 伝統

2018/03/13 (Tue) 19:00:21

半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」
「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す

       *Web:東洋経済オンライン(2018年01月27日)より

《「明治維新」という言葉は使われていなかった》

――そもそも「明治維新」という言葉が使われたのは、
   明治時代が始まってからずいぶん後のようですね。

私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。
彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。
特に永井荷風はまったく使っていないのです。

漱石や荷風など江戸の人たちは、
明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。
徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。

「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。

明治初期の詔勅(しょうちょく)や太政官布告(だじょうかんふこく)などを見ても
大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。
少なくても明治10年代までほとんど見当たりません。

そんなことから、「当時の人たちは御一新と呼んでいたのか。
そもそも維新という言葉なんかなかったんじゃないか」と思ったことから、
明治維新に疑問を持つようになりました。

調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、
明治13(1880)年か14年でした。


明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長(薩摩・長州)政府というよりは
長州政府が、肥前(佐賀)の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。
このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。

薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、
それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が
「明治維新」であることがわかったのです。

確かに「維新」と「一新」は、
「いしん」と「いっしん」で語呂は似ていますが、意味は異なります。

「維新」は、中国最古の詩集『詩経』に出てくる言葉だそうで、
そう聞けば何やら重々しい感じがします。

薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、
「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか。
自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、
薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。

歴史というのは、勝った側が自分たちのことを正当化するために改ざんするということを、
取材などを通してずいぶん見てきました。

その後、いろいろ調べて、明治維新という名称だけではなく、
歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、
いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきたことがわかりました。


《「薩長史観」はなぜ国民に広まったのか》

――どのようにして薩長史観が広まったのでしょうか。

そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、
明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです。
勝者側が史料を取捨選択しています。
そして、その「勝った側の歴史」を全国民は教え込まれてきました。

困ったことに、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。
ほとんどの人が古い文書を読みこなせません。

昔の人が筆を使い崩し字や草書体で書いた日記や手紙を、専門家ではない私たちは読めません。
読めないですから、敗者側にいい史料があったとしても、なかなか広まりません。
どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。

そこでは、薩長が正義の改革者であり
、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています。

学校では、「薩長土肥の若き勤皇の志士たちが天皇を推戴して、
守旧派の幕府を打ち倒し新しい国をつくった」
「幕末から明治にかけての大革命は、すばらしい人格によってリードされた正義の戦いである」
という薩長史観が教えられるわけです。

さすがに最近は、こうしたことに異議を申し立てる反「薩長史観」的な本が
ずいぶん出ているようですが……。


――子どもの頃、半藤さんのルーツである長岡で「薩長史観」の誤りを感じられたそうですね。

私の父の郷里である新潟県の長岡の在に行くと、
祖母から教科書とはまったく逆の歴史を聞かされました。

学校で薩長史観を仕込まれていた私が、明治維新とか志士とか薩長とかを
褒めるようなことを言うと、祖母は「ウソなんだぞ」と言っていました。

「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、
あんなのはドロボウだ。
7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。
連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」

いまでは司馬遼太郎さんの『峠』の影響もあり、河井継之助が率いる長岡藩が
新政府軍相手に徹底抗戦した話は有名ですが、当時はまったく知りませんでした。

明治維新とはすばらしいものだったと教えられていた私は、
「へー、そんなことがあるのか」と驚いたものです。

また祖母は、薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。
長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。
いまでも長岡ではそうだと思います。
これは、会津はじめほかの同盟軍側の地域でも同様ではないでしょうか。

そもそも「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉です。
「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません。
正直言って私も、使うのに抵抗があります。


《「明治維新」の美化はいかがなものか》

――幼少期の長岡でのご経験もあり、「明治維新150年」記念事業には違和感があるのでしょうか。

「明治維新150年」をわが日本国が国を挙げてお祝いするということに対しては、
「何を抜かすか」という気持ちがあります。

「東北や北越の人たちの苦労というものを、
この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」と言いたくなります。

司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、
戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。
「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない。
これも司馬さんの言葉です。

本来は官軍も賊軍もないのです。と
にかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。
いまの言葉で言えば侵略戦争です。

そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って
両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。
つまり薩長に隷属しろと言われたのです。

これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、
薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。

私は、戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています。
西軍の側が手を差し伸べていれば、やらなくていい戦争ではないかと。

にもかかわらず、会津はじめ東軍の側は「賊軍」とされ、
戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。

そうした暴力的な政権簒奪(さんだつ)や差別で苦しめられた側に配慮せず、
単に明治維新を厳(おごそ)かな美名で飾り立てようという動きに対しては何をかいわんやです。


――賊軍となった側は、具体的にはどのような差別を受けたのでしょうか。

宮武外骨の『府藩県制史』を見ると、「賊軍」差別の様子がはっきりわかります。

これによると、県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、
そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です。

つまり、廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、
わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、
宮武外骨は言っているわけです。

たとえば、埼玉県は岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩だった。
「さいたま」という名前がどこから出たのかと調べると、
「埼玉(さきたま)」という場所があった。
こんな世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます。

新潟県は県庁所在地が新潟市なので名は一致していますが、
長岡が中心にありますし、戊辰戦争がなければ長岡県になっていたのではないでしょうか。

県名や県庁所在地だけ見ても、明治政府は賊軍というものを規定して、
できるだけ粗末に扱おうとしていることがわかります。

また、公共投資で差別された面もあります。
だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。

いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、
関係あるかもしれません。


《立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者》

――中央での人材登用でも、賊軍の出身者はかなり厳しく制限されたようですね。

賊軍藩の出身だと、官僚として出世できないんですよ。
歴史事実を見ればわかりますが、官途に就いて名を成した人はほとんどいません。
歴代の一覧を見れば明らかですが、総理大臣なんて岩手県の原敬が出るまで、
賊軍出身者は1人もいない。ほとんど長州と薩摩出身者で占められています。

ちなみに明治維新150年目の今年は長州出身の安倍氏が総理ですが、
彼が誇るように明治維新50年も(寺内正毅)、100年も(佐藤栄作)も
総理は長州出身者でした。

また、明治年間に爵位が与えられて華族になったのも、公家や殿様を除けば、
薩長出身者が突出して多いのです。
特に最も高い位の公爵と侯爵を見ると、全部が長州と薩摩なんです。

政官界では昭和の戦争が終わるまで、賊軍出身の人は差別されていたと思われるのです。
明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したのです。


――2013年放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」では会津藩出身者の苦労が描かれていましたが、
  それ以外の負けた側の藩の出身者も差別されたわけですね。

例を1つ挙げれば、神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています。
長岡出身で博文館を創業した大橋佐平という人がいちばん初めに古本屋を開いて
成功したのですが、当時、いちばん大きい店でした。

その後、大橋が中心となって、長岡の困っている人たちをどんどんと呼んで、
神田に古本屋がたくさんできていったんです。

こんな具合に、賊軍藩の出身者たちは、自分たちの力で生きるしかなかったのです。


――『賊軍の昭和史』でもおっしゃっていますが、軍人になった人も多かったようですね。

前途がなかなか開けない賊軍の士族たちの多くは、軍人になりました。

いちばん典型的なのは松山藩です。
司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』で有名な秋山兄弟の出身地です。
松山藩というのは四国ですが賊軍藩です。
ただ、弱い賊軍で、わずか200人足らずの土佐藩兵にあっという間に負けて降伏しました。

その松山藩の旧士族の子弟は苦労したんです。
秋山兄弟の兄の好古(よしふる)さんは家にカネがないから陸軍士官学校へ行った。
士官学校はタダですからね。
あの頃、タダだった教育機関は軍学校と師範学校、鉄道教習所の3つでした。

弟の真之(さねゆき)さんは、お兄さんから言われて海軍兵学校へ入り直していますが、
兵学校ももちろんタダでした。

この兄弟の生き方を見ると、出世面でも賊軍出身の苦労がよくわかります。
好古さんは大将まで上り詰めますが、ものすごく苦労しているんです。
真之さんも苦労していて、途中で宗教に走り、少将で終わっています。

賊軍藩は、明治になってから経済的に貧窮していた。
だから、旧士族の子弟の多くは学費の要らない軍学校や師範学校へ行った。

その軍学校を出て軍人になってからも、秋山兄弟と同様に賊軍出身者は、
立身出世の面で非常に苦労しなければなりませんでした。

『賊軍の昭和史』で詳しく触れましたが、
日本を終戦に導いた鈴木貫太郎首相も賊軍出身であったため、
海軍時代は薩摩出身者と出世で差をつけられ、海軍を辞めようとしたこともありました。


《敗者は簡単には水に流せない》

――負けた側の地域は、差別された意識をなかなか忘れられないでしょうね。

私は、昭和5(1930)年に東京向島に生まれましたが、
疎開で昭和20(1965)年から旧制長岡中学校(現長岡高校)に通いました。
有名な『米百俵』の逸話とも関係する、長岡藩ゆかりの学校です。


長岡中では、薩長と戦った家老・河井継之助を是とするか、
恭順して戦争を避けるべきであったのかを友人たちと盛んに議論しました。

先ほども言いましたように、明治に入っても官僚になった長岡人はほとんどおらず、
学者や軍人になって自身で道を切り開いていくしかなかった現実があり、
私の世代にも影響していました。

私よりかなり先輩になりますが、真珠湾攻撃を指揮した山本五十六海軍大将も、
海軍で大変苦労しているのです。

「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。
賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が
横たわるわけです。

いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、
長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。


   「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて?忍苦まさに幾星霜~」


勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう。

   (http://toyokeizai.net/articles/-/205960

            <感謝合掌 平成30年3月13日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第7回~「明治国家」誕生のとき - 伝統

2018/03/14 (Wed) 18:30:05



        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年07月12日)より

《藩支配に限界》

1869(明治2)年6月に終わった戊辰戦争は、日本社会に何を残したでしょうか。

第1は、巨額の戦費負担によって、各藩の財政を急速に悪化させました。
各藩とも、出兵費用や、軍艦・武器・弾薬購入に充てるため、
有力商人や外国から多額の借金を重ねました。

 
第2は、戦乱の被害を受け、軍役にもかり出された農民たちの一揆が、
全国的に頻発ひんぱつしました。北会津地方でも、会津攻防戦終結後の68年11月、
農民たちが蜂起して名主らを襲撃する事件が起きています。

つまり、戦争は、藩財政の行き詰まりだけでなく、
藩による治安維持でも弱点を露呈させ、藩支配の瓦解を促すことになりました。 

こんな「藩解体」を尻目に、維新政府は68年6月、自らへの権力集中を図るため、
政府組織の整備に乗り出します。そこで出された「政体書」で、地方は、
府・藩・県の三つに区分されました(府藩県三治ふはんけんさんち体制)。

旧幕府などから接収した直轄地に「府」(東京・京都・大阪など)と「県」を設置。
そのほかの大名領は旧来の「藩」のままとし、府には「知府事」、
藩には「諸侯」、県には「知県事」を置きました。

政府はその後、藩家老の門閥世襲制度をやめさせるなど、藩への介入を強めます。
いずれ藩を政府に吸収・統合しようとする狙いのもと、戊辰戦後に打ち出されたのが
「版籍奉還はんせきほうかん」です。

これは「すべての土地(版)と人民(籍)は天皇の所有である」という
「王土王民おうどおうみん」思想に基づき、藩主から土地・人民の支配権を
天皇に返上させるものでした。


《「版籍奉還」を促す》

版籍奉還を初めて唱えたのは、
薩摩藩士の寺島てらしま宗則(むねのり)(1832~93年)と、
長州藩士の木戸孝允(たかよし)でした。

木戸は、薩摩藩の大久保利通、小松帯刀(たてわき)らと会談して、
版籍奉還で基本合意にこぎつけ、土佐藩、肥前藩もこれに加わります。

69年3月2日、長州、薩摩、肥前、土佐の4藩主が連署して版籍奉還を建白しました。
他の全国の藩主たちも、西南雄藩の薩長土肥に遅れまいと、これを追いかけます。

ただ、藩主の多くは、いったん版籍を奉還した後は、
天皇から「再交付」のお墨付きをえて、藩主の地位のまま、
藩を再建しようと考えていたようです。

というのは、建白書は、「願わくは、朝廷その宜よろしきに処し、
その与うるべきはこれを与え、その奪うべきはこれを奪い」などと、
あたかも所領を再確認するような一文が挿入されていたからです。

木戸は後日、「用術施策」を使ったと告白していますが、
結論を先に言うなら、「再交付」はなされず、藩主たちの期待は裏切られます。

まるで「捕らぬタヌキの皮算用」に終わった藩主は、
「用術」ならぬ「妖術(ようじゅつ)」にひっかかったといえるかもしれません。

それでも、版籍奉還はあくまで「公論」で決めようと、
諸藩選出の公議人でつくる「公議所」に諮問されたことは、注目に値します。

そこでの議論の中心は、「封建」か「郡県」かでした。
封建は、諸侯による分割統治で、郡県は、中央政府が全国に郡県を置く
中央集権の制度です。

徳川幕府が「封建」とすれば、維新政府がめざすのは「郡県」でした。

公議所の結論は、藩体制維持を前提とした封建・郡県の折衷案でした。

これを受けて同年7月25日、版籍奉還が勅許されます。

これにより、274藩主が非世襲の知藩事に任命されました。
旧藩主らは、これまでの領有権を否定されたうえで、
天皇の土地を管轄する一地方長官になりました。

ただ、藩名は残され、旧藩主は、公家と並ぶ「華族」の称号と、
歳入の10分の1にあたる家禄かろく(報酬)が与えられました。
また、藩士や旧幕臣は「士族(華族の下、平民の上)」となります。

この直前には、戊辰戦争の軍功に賞典禄・賞金が下賜されており、
これが反対を和らげたと言われています。


《長岡藩の「米百俵」》

版籍奉還間もない69年9月、
高崎藩(群馬)で年貢減免を求める農民4300人が蜂起します。
11月には、凶作に苦しむ新川県(富山)でも大規模な農民反乱が起きるなど、
一揆はやむことを知りませんでした。

一方、領地を削られた「朝敵」諸藩や、中小の諸藩は、
財政破綻に陥り、自主的に「廃藩」を申し出るところが出てきます。

戊辰戦争で敗北し、小藩に転落した長岡藩もその一つでした。

70年6月、支藩・三根山みねやま藩の士族から、
困窮状態にある長岡藩の士族に見舞米100俵が贈られました。

その時、長岡藩の士族は、米を分配するよう要求しましたが、
大参事・小林虎三郎(とらさぶろう)(1828~77年)はこれを退けます。

この逸話は、昭和戦争時の1943年、作家・山本有三が、戯曲化して初演されました。

劇中、虎三郎は藩士たちをこんなふうに説得します。(『米百俵』新潮文庫)

「百俵ばかりの米を家中の者たちに分けてみたところで、
一軒のもらいぶんは、わずかに二升そこそこだ。一日か二日で食いつぶしてしまう。
あとに何が残るのだ。

おれは、この百俵の米をもとにして、学校を立て、道場を設けて、
子どもを仕立てあげてゆきたいのだ。
この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、
はかり知れないものがある。

その日暮らしでは、長岡は立ち上がれない。あたらしい日本はうまれないぞ」

虎三郎は、佐久間象山の門下で吉田松陰(寅次郎)とともに
「両トラ」と並び称された俊才でした。
戊辰戦争では河井継之助らを批判して非戦論を唱えていました。

 
この『米百俵』は2001年、小泉純一郎首相が所信表明演説で取り上げ、
広く知られるようになりました。

長岡藩は1870(明治3)年11月、廃藩となり、柏崎県に併合されます。
同じく「朝敵」の盛岡藩も、それに先立つ8月に廃藩を選択し、盛岡県になります。
このように廃藩置県が実施される前に、自主的に廃藩を申請した藩は13に上りました。


《「御親兵」創設》

版籍奉還後、政府内で兵制改革論議が活発化します。
69年10月には、新政府の軍政・軍令の中心にいた兵部大輔(たいふ)・大村益次郎が、
京都で長州藩士らに襲撃されて重傷を負い、2か月後に死亡します。

兵制改革によって士族の特権がおびやかされることに対して反発した
攘夷(じょうい)派浪士たちの犯行でした。

当時は、戊辰戦争に参加した兵士の間で、賞罰の不公平や幹部の不正などに対して
憤りの声が広がっていました。これに火がついたのが、奇兵隊など
長州諸隊の脱退騒動(70年2月)です。
隊員の半数に上る約1200人が藩に反旗を翻したといわれています。

かねて「尾大(びだい)の弊」(尾が大きすぎて自由に動かせない状態のこと。
転じて、臣下のパワーが君主の権力を拘束すること)という表現で、
兵士らの動きに頭を痛めていた同藩の木戸は、先頭に立って反乱を鎮圧しました。


一方、多数の凱旋がいせん兵士を抱えた薩摩藩では、
帰郷した西郷隆盛が藩内にとどまったまま、中央政府の役人の
「無定見」な内外政策や贅沢ぜいたくな生活ぶりに批判を強めます。

加えて同藩が在京の藩兵を引き揚げたため、
「薩摩は蜂起するのではないか」といった風聞が流れます。

危機感を抱いた政府は、薩長の提携強化と西郷への説得工作によって
事態の沈静化をはかり、西郷もようやく政府入りします。

71年4月、維新政府は、薩摩・長州・土佐3藩の歩兵・砲兵合計1万を
親兵として差し出すよう命じました。
これは西郷の政策提言を取り入れたもので、
この「御親兵」は翌年、「近衛兵」に改称されます。

戊辰戦争では、政府軍といっても、それは薩長両藩など倒幕派の連合軍でした。
政府は、親兵によって自前の軍隊をもつと同時に、
戊辰戦争で膨らみ過ぎた藩の軍事力をうまく吸い上げることができました。

8月11日、政府は、派閥対立でギクシャクする首脳らの人事を刷新し、
木戸孝允を除く参事全員が辞職。薩摩藩大参事の西郷と木戸が参事に就任し、
両人による連立体制が生まれます。


《「廃藩置県」を断行》

こうした中、維新政府が、クーデター的に断行したのが「廃藩置県」でした。

これは、長州藩の鳥尾小矢太とりおこやたと野村靖が、
兵部少輔(しよう)の山県有朋(やまがたありとも)と懇談し、
「郡県の治」(廃藩)の実施で一致したのが始まりです。

これに井上馨、木戸が同意し、同藩の合意が形成されます。

山県は8月21日、西郷の意見を聞くため、
西郷邸を訪ねると、西郷は即座に同意しました。
思いもよらぬ西郷の即決ぶりに、山県の方が度肝を抜かれたようです。

27日、木戸、西郷、大久保が会談して、廃藩置県の大綱が決定されます。
これを直前に知らされた岩倉具視(ともみ)は、「狼狽(ろうばい)」したと言っています。

29日、天皇は、在京56藩知事らを急きょ呼び出し、
「今更に藩を廃し県と為す」と、廃藩置県の詔書を出しました。

翌30日、政府首脳の会議で今後の処置を声高に議論していた際、
西郷が、「この上、もし各藩にて異議が起こったならば、兵をもって撃ち潰つぶします」
と発言すると、議論はピタリと止まりました。

維新政府が抜き打ち的に廃藩置県を実施したのは、
農民一揆の多発や自発的廃藩の動きを背景に、財政が苦しい政府に諸藩の税源を集中させ、
その税収を殖産興業や富国強兵に充てる計算がありました。

とくに西洋的な軍隊をつくるため、軍制を一元化し国民皆兵を実施するには、
廃藩置県はぜひとも必要なことでした。


《明治維新「第2の革命」》

作家の司馬遼太郎氏は、廃藩置県は、
「明治維新(王政復古)以上に革命的」と書いています(『「明治」という国家』)。
君臨してきた大名が一夜にして消滅し、たくさんの士族が「平等に失業」したからです。

確かに、版籍が奉還されて2年経たち、廃藩を望む藩もありました。
知藩事に対しては家禄を保証するなど優遇策が採られ、
士族も家禄の大幅カットが進みながらも、しばらくの間の生活は保障されていました。

しかし、それにしても、この「政治的破壊作業」が、
大名の側に一例の反乱もなく行われたのはなぜなのか。

司馬氏は、幕末以来、米欧による侵略や植民地化に対して
「日本人が共有していた危機意識」と、「日本国意識(国家を、破片の藩として見ず、
日本国全体を運命共同体としてみる意識)」によるものと書いています。

 
当時、福井藩のお雇い外国人教師だった、
アメリカ人のウィリアム・グリフィスは、廃藩置県の報が同藩に届き、
武家の間に激しい興奮が渦巻く中でも、

「ちゃんとした武士や有力者は、福井のためでなく、国のために必要なことで、
国状の変化と時代の要求だと言っている」と日記に記しています。

そして彼らは、
「これからの日本は、あなたの国やイギリスのような国々の仲間入りができる」
とも言ったそうです。


もちろん、士族反乱や百姓一揆は続きます。
しかし、ペリー来航以降、顕在化した幕藩体制の限界や藩の身分秩序の崩壊は、
下級武士たちを中心に共通の「時勢認識」を生み出し、
これが「第2の明治革命」を成就させたのです。

藩主の中でも、反発が心配されていた薩摩藩知藩事の父、島津久光は、
西郷や大久保の専断を非難し、のちのちまで西郷らを悩ませるのですが、
この時は「邸中に花火をあげ、噴気ふんきを漏らされたり」と、
花火で鬱憤うっぷんを晴らして終わりました。

261を数えていた藩は、廃藩置県によってそのまま県となり、
それまでの府県と合わせ3府302県となりました。
旧藩主の知藩事は免官され、府県の長官は政府によって新たに任命されます。

ついに徳川の藩体制に終止符が打たれ、
中央集権国家としての「明治国家」がここにスタートを切ることになるのです。

      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170706-OYT8T50005.html

            <感謝合掌 平成30年3月14日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第8回~ビスマルクとガリバルディ - 伝統

2018/03/15 (Thu) 18:28:20

        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年07月26日)より


《統一国家・ドイツ》

日本の明治初期、我が国と同じように近代的な統一国家を形成した国が、
ヨーロッパにありました。ドイツとイタリアです。

ドイツ北東部のプロイセンでは、1861年、王位に就いたヴィルヘルム1世が、
ドイツ統一に乗り出します。

翌62年、首相に任命したのが、ユンカー(領主貴族)出身の
ビスマルク(1815~98年)でした。

日本の幕末期にあたり、同年、薩摩藩・島津久光の行列を横切ったイギリス人が
殺傷される「生麦事件」が起きるなど、日本では攘夷(じょうい)の嵐が吹いていました。

 
ビスマルクは首相就任直後、下院の予算委員会で次のような演説をしました。

「現下の大問題は、言論や多数決によっては解決されません。
1848年と1849年の過ちはそこにありました。
それは、鉄と血によってのみ解決されるのです」

彼は、「鉄(武器)と血(兵士)」によってドイツの統一を図るという、
この演説によって、「鉄血宰相」の異名をとることになります。

ここでビスマルクの言う48~49年には、
フランスで発生した「2月革命」(48年2月)が、
ドイツ連邦(オーストリア、プロイセンなどの王国や中小諸邦、
独立都市で構成された国家連合組織)にも波及し、

ウィーンでは民衆が蜂起してメッテルニヒが失脚、
プロイセンでは自由主義的内閣が成立(3月革命)しました。

ドイツでは既に34年、プロイセン主導により、
加盟国間の関税をなくす「関税同盟」が結成されて以降、統一への動きが出ていました。

3月革命の際は、フランクフルト国民議会で統一の機運が高まりましたが、
オーストリア中心の統合をめざす「大ドイツ主義」と、
プロイセン中心の「小ドイツ主義」が対立し、失敗に終わりました。

ビスマルクは64年、オーストリアと結んで、
領地の帰属をめぐって係争中だったデンマークを攻撃して勝利を得ます。

ところが66年、今度はオーストリアと戦端を開き、
参謀総長モルトケの指揮の下、わずか7週間でオーストリアを打ち破りました。

このあと、ドイツ連邦は解体され、67年には、プロイセンを盟主とする
北ドイツ連邦が結成されます。
ドイツから外されたオーストリアは、「オーストリア・ハンガリー帝国」を作ります。


さらに、ビスマルクは、スペインの王位継承問題に関与してフランスと対立し、
70年7月、フランスとの戦争(普仏戦争)に突入し、71年1月にはパリを陥落させ、
ナポレオン3世を捕虜にします。

ドイツは、多額の賠償金とアルザス・ロレーヌ地方の割譲を受け、
対仏戦争に加わった南ドイツ諸邦の合意を得て、ドイツ統一に成功します。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式は、
同月18日、パリのヴェルサイユ宮殿で挙行されました。


《鉄血宰相・ビスマルク》

岩倉具視をトップとする日本の米欧使節団がベルリンに到着したのは、
それから2年余り経った73年3月のことでした。

一行は同月15日、さっそくドイツ帝国宰相・ビスマルクの招宴に臨みます。

久米邦武編著『米欧回覧実記』によれば、
そこでビスマルクは、おおむね以下のような演説をしました。

「世界各国は親睦の念と礼儀を保ちながら交際しているが、
これは全くの建前であって、裏側では強弱のせめぎ合いがあり、相互不信がある」


「万国公法(国際法)も、大国は自分に利益があれば守るけれども、
不利となれば、軍事力にものを言わせるので、公法を常に守ることなどありえない。

小国は一生懸命、公法を無視しないように努力するが、
力任せの政略に自分の立場を守れないことはよくあることだ。

私は、そのような我が国の状態に憤慨し、いつか国力を強化し、
どんな国とも対等の立場で外交しようと考え、
愛国心を奮い立たせて行動すること数十年、ようやくその望みを達した」

 
「英仏両国は、海外植民地で搾取しており、
ヨーロッパの平和外交など信用するわけにはいかない。
皆さんもひそかな危惧を捨て去ることが出来ないのではないか。
国権と自主を重んじるドイツこそ、日本にとって最も親しむべき国であろう」

 
ビスマルクの人間的な迫力と説得力のある弁舌、
とくに、日本政府が幕末以来あがめてきた「万国公法」は、
目的のために利用する代物であり、最後は「力」がものを言うのだ、
というビスマルクの話は、使節団メンバーの木戸孝允や大久保利通らに
強い衝撃を与えたようです。


《桂太郎のドイツ留学》

岩倉使節団が訪問したベルリンには、のちの内閣総理大臣・
桂太郎(1848~1913年)が留学していました。

桂は、明治後期から大正初年にかけて3度も組閣し、
首相在任期間が通算で2886日と8年近く宰相の座にあった人です。

桂は長州出身で、「ニコポン」(にっこり笑ってポンと肩をたたく)の流儀で
相手を丸め込む、調整型の政治家、軍人というイメージが強いのですが、
日英同盟の締結や日露戦争、韓国併合など日本近代史を画する出来事は、
いずれも桂内閣時代のことです。

 
戊辰戦争で東北各地を転戦した桂は1870年、
賞典禄(戦争の功労に対して与えられた賞与)を使ってフランス留学に向かいます。

ところが、プロイセン・フランス戦争のために、ロンドンで足止めをくい、
そこでプロイセンの勝利を知ると、一転、留学先をプロイセンに変更します。

桂は3年半、軍事学を学んで73年に帰国、陸軍に入り、
75年にはドイツ公使館付武官としてドイツに赴任。

軍政の調査・研究にあたり、帰国後は、山県有朋陸軍卿(陸軍省長官)の
庇護を受けてドイツを模範とする軍制改革を進めることになります。

兵部省は、70年に兵制のモデルを、陸軍はフランス、海軍はイギリス式にしましたが、
普仏戦争を契機に陸軍は範をプロイセンにシフトさせます。
桂はまるで陸軍の「ドイツ傾斜」を先取りするかのように留学先を変えたことになります。

 
桂よりも早くプロイセンに留学していたのが青木周蔵(1844~1914年)です。

青木は68年に医学修業のため、長州藩留学生としてベルリンに来ましたが、
政治・経済学を学んで外務省に入ります。

74年には最初のドイツ公使になり、ドイツ貴族の娘と結婚、
我が国指折りのドイツ通の外交官として、懸案の条約改正問題にあたります。



《「藩閥政府」発足》

さて、明治国家としてスタートした日本政府は、
廃藩置県後、政府組織・人事の再編に動きます。

1871(明治4)年9月、これまでの太政(だじょう)官制を改め、
正院(せいいん)・左院(さいん)・右院(ういん)の三院制としました。

正院は、政治の最高機関として、太政大臣・左大臣・右大臣・参議で構成し、
その下に神祇(じんぎ)・大蔵・兵部・外務・文部・工部・司法・宮内の8省と
開拓使を置きました。


太政大臣は三条実美(さねとみ)、右大臣に岩倉具視、
参議には薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の木戸孝允に加えて、
土佐藩の板垣退助と肥前藩の大隈重信が就任しました。

このほか、各省の卿(きょう)(長官)と大輔(たいふ)(次官)には、
薩摩藩から大久保利通、黒田清隆、長州藩からは伊藤博文、井上馨(かおる)、
山県有朋、土佐藩からは後藤象二郎、佐々木高行、肥前藩からは大木喬任(たかとう)、
副島(そえじま)種臣(たねおみ)、江藤新平らが登用されました。

この顔ぶれをみると、これまで要職についていた公家や旧藩主は、
三条、岩倉を除いて排除されており、薩摩・長州・土佐・肥前の「薩長土肥」4藩の
士族に権力が集中する「藩閥政府」と呼ばれる体制が浮かび上がります。

もはや「志士の時代」は終わりました。
「藩・藩主離れ」した彼らは、天皇の朝臣(あそみ)=「維新官僚」として、
旧体制を打破し、明治政府を強化するための施策の実行者になります。

12月には、すでに言及しました岩倉を特命全権大使とし、
木戸、大久保、伊藤らが参加する、大規模な政府使節団が
アメリカ・ヨーロッパに旅立ちました。

一方、その留守居役の西郷、大隈、板垣らの「留守政府」は、
学制改革や徴兵令の施行、地租改正、太陽暦の採用など
さまざまな改革に着手することになります。

      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170719-OYT8T50021.html

            <感謝合掌 平成30年3月15日 頓首再拝>

<維新政府、変革の序章>第9回~廃仏毀釈と「廃城」の跡 - 伝統

2018/03/17 (Sat) 18:46:53


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年08月09日)より

《神仏分離令》

1868年1月、新政権樹立の際に発せられた「王政復古の大号令」には、
「諸事、神武じんむ創業の始めにもとづき」との表現がありました。
つまり、「神武天皇の国家創業」への復帰が掲げられたのです。

徳川幕府から権力を奪取した維新政府は、
新しい政権の権威と正統性の理念を求めていました。
そこで着目したのが、古代天皇の神権的な絶対性でした。

政府は、同年4月5日、国学者や神道家らが建言していた
神祇官(じんぎかん)(701年の大宝律令で置かれた、神々の祭祀をつかさどる官庁)
の再興を布告します。


同7日には、一般民衆向けの「五榜(ごぼう)の高札(こうさつ)」(5枚の立札)で、
「切支丹邪宗門(きりしたんじゃしゅうもん)」を厳禁しました。

さらに4月20日、江戸時代の仏教政策を否定し、神社から仏教色を排除するため、
「神仏分離令」を出します。

これらは、いずれも「神道国教化」をめざした措置で、
70年2月には、新しい国教を広めるための
「大教宣布(たいきょうせんぷ)の詔)みことのり)」が発せられます。

日本の宗教の主流は、1000年以上にわたって「神仏習合」でした。
これは、朝鮮や中国などから伝来してきた仏教信仰と、日本固有の神祇信仰とを
融合・調和させたものです。

神仏習合が進む中で生まれたのが「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」でした。
これは「本地である仏・菩薩が、衆生(生きとし生けるもの)を救うために、
日本の神々に姿を変えてこの世に現れた(=垂迹)」という思想です。
例えば、阿弥陀如来の垂迹が八幡神などと説かれました。

この考え方からすると、仏が神よりも尊い存在と位置づけられます。
さらに江戸時代、寺が檀徒に対して、キリシタンではなく自分の檀家であることを
保証した「寺請(てらうけ)制度」が、寺院・住職の権限を強めることになりました。

このため、お寺(寺院)とお宮(神社)が隣り合わせで併存している場合は、
神社より優位にあった寺院が、その主導権を握りました。
神仏分離令は、いわばこの仏と神の地位を逆転させようとしたのです。

政府は全国の神社に対して、僧侶が社務(神社の事務)に従事することを禁止したり、
社務に就く場合は全員還俗(僧から俗人に戻ること)して、
僧位・僧官を返上させたりしました。


《仏像破壊のあらし》

神仏分離令が出されて以降、日本全国で吹き荒れたのが、
廃仏毀釈のあらしでした。
「毀釈」とは、釈迦の教えを捨てるという意味です。

廃仏毀釈は、江戸時代の17世紀、会津藩や水戸藩、岡山藩などで
小規模ながら行われていましたが、明治初期の廃仏毀釈は、
これとは比較にならない大きさと広がりをもっていました。

神仏分離令が出されて数日後、近江(滋賀県)の比叡山山麓にある
日吉山王社(ひえさんのうしゃ)が武装した一団に襲われました。
日吉社は延暦寺の鎮守神でした。

首謀者は神職の樹下茂国(じゅげしげくに)で、
政府の神祇官の事務局に名を連ねていました。

樹下は、諸国の神主で作る「神威隊」50人と農民ら数十人を率いて、
神域に乱入すると、神体として安置されていた仏像や仏具、経巻(きょうかん)類を
破壊し、焼き捨てました。

樹下ら日吉社の神職は、それまで延暦寺の僧たちの指示に従って勤めてきました。
樹下には、積年の恨みがあったようで、仏像の顔を弓矢で射とめて
快哉(かいさい)を叫んだといわれています。


各地で廃仏運動は活発化し、京都では、薬師如来の垂迹とされる
牛頭天王(ごずてんのう)を祀まつる祇園社が、八坂神社と社号を改めさせられました。
奈良の興福寺では、春日大社との分離に伴って僧侶が全員還俗し、
同大社の神官に転じたため、廃絶の状態になりました。

五重塔を250円、三重塔を30円で売却、
買い主は金具をとるために焼こうとしましたが、
周辺住民の強い反対によって消失を免れました。

鎌倉の鶴岡八幡宮では、仁王門や護摩堂、源実朝が中国の宗(そう)から取り寄せた
という一切経(いっさいきょう)を所蔵する輪蔵(りんぞう)、多宝塔(たほうとう)、
鐘楼(しょうろう)、薬師堂などが、1870年6月のわずか十数日のうちに
すべて破却されてしまいました。

このほか、薩摩藩では69年、藩主の菩提寺が廃寺になり、
その後、1060の寺院が破却されました。
数年間、藩内に一つの寺院も、一人の僧侶も見られなくなったと言われています。

富山藩では70年、領内の1635の寺院のうち、6つの寺院が存続を許されたほかは、
すべて廃寺とする政策がとられました(『佛教大事典』)。

これに対して、過剰な仏教排撃が政府批判に結びつくことを懸念した維新政府は、
71年4月、政府の許可なしに仏像などの排除を禁止するとともに、
地方官による寺院の強引な統廃合を制限しました。

寺院の破壊は68~76年ごろまで続いたとされ、破却され廃寺になった寺院数は、
当時存在した寺院のほぼ半数に上るといわれています(『日本仏教史辞典』)。

廃仏毀釈により多くの貴重な文化財が失われました。
この”暴風雨”については、「国学的な思想が『原理主義化』した例とみることができ、
攘夷(じょうい)感情のなかで育まれた『純粋な日本』の復興という情熱が、
維新期社会の興奮のなかで一気に暴発した」(坂本多加雄『明治国家の建設』)
といった分析があります。


《キリシタン弾圧》

政府が「切支丹」を厳禁したのは、開国に伴うキリスト教の浸透を、
神道国教化の上からも防ぐ必要があると考えたからです。

徳川幕府も、宣教師やキリスト教信者を迫害してきました。
すべての庶民を対象に、踏み絵によって「宗門改(しゅうもんあらため)」を実施。
17世紀末には、日本からキリスト教徒はほとんど姿を消したとみられていました。

しかし、19世紀半ば、フランスのカトリック宣教師らが琉球・那覇へ布教のために来訪し、
1865年には、居留外国人のため長崎に大浦天主堂を建てました。
そこを近郊の浦上村に住む隠れキリシタンたちが訪ね、
以来、村民たちは公然と信仰を表明するようになります。

九州鎮撫(ちんぶ)総督兼長崎裁判所総督に着任した政府参与・沢宣嘉(さわのぶよし)は、
浦上のキリシタン徹底弾圧の方針を固めます。

浦上では江戸時代、過去3回にわたり「浦上崩(うらがみくずれ)」と称された
キリシタン検挙事件が起き、長崎奉行所が捕らえた信者の中から獄死者が
相次いだ歴史がありました。

維新政府は、御前会議で浦上の全キリシタンを流刑に処することを決めます。
まず、中心人物の114人を捕らえて、津和野・萩・福山の3藩に配流(はいる)し、
さらに3384人の老若男女の信徒を、西日本の20藩に流罪としました。
流刑中に613人が死亡したといわれます(『国史大辞典』)。 

政府の切支丹禁止に続いて、この4回目の「浦上四番崩れ」に対しては、
在日外交団から批判の声が沸き上がり、とくに米欧歴訪中の岩倉使節団に対して、
訪問先で各国から抗議が寄せられました。

このため、政府は73年2月、切支丹禁止の高札を撤去し、
キリスト教はようやく活動の自由を得ます。

さらに、仏教側の抵抗・反撃も強まり、「寺請け」制の神社版である「氏子調べ」制も、
うまくいかず、1年10か月で廃止されました。
廃藩置県後、神祇官は神祇省に格下げされて間もなく廃止されます。
神道を唯一の宗教として国民に教化・定着させる政策は行き詰まりました。

一方、政府はこの間、全国の神社を行政管理の下に置き、
神職の世襲廃止や神社の社格を定める制度づくりを進めました。

社格とは、神社を神祇官所管の官社と地方官所管の諸社に分け、
官社は官幣社(かんぺいしゃ)(大社・中社・小社・別格官弊社)と
国幣社(こくへいしゃ)(大社・中社・小社)とし、諸社も序列化しました。

こうして天照大神を祀る伊勢神宮を頂点に、これら多数の神社を
国家制度の枠の中に組み入れます。


《消えた144城》

廃藩置県のあとは、「廃城」の波が押し寄せました。

「文明開化、旧物破壊の思想」が強かった明治初年、「封建遺制の象徴」として、
「旧藩士らの反抗運動」の拠点として「障害物視」されたのが、
全国各地の城郭(じょうか)でした。

当時は、現代と違って城郭を「文化財として保存しようとする考えは少なかった」ようです
(森山英一『明治維新・廃城一覧』)。

時代を遡りますと、徳川幕府は大坂夏の陣(1615年)で豊臣氏を滅ぼすと、
諸大名に「居城以外の城は破却せよ」と命じました。
城郭は一つに限って許すという「一国一城令」は、軍事力の削減を狙いとしており、
各地で約400の城が数日のうちに取り壊されたといわれます。

さらに、徳川幕府は武家諸法度を制定し、居城以外に城を新築するのはもとより、
無断で修理改築することも禁止しました。

その結果、江戸時代末期には、幕府直轄の江戸城、大坂城、駿府城、二条城、
甲府城、五稜郭の6城をはじめ、諸大名の居城など合計180余りの城郭が存在していました。

戊辰戦争は数多くの城を舞台に繰り広げられましたが、火砲の使用は、
城郭の防御力の限界を露呈させ、明治維新後に城を取り壊してしまう藩も相次ぎました。

廃藩置県後、城郭は兵部省―陸軍省の管轄となります。

1873年1月、陸軍の6鎮台(軍団)・14営所(兵営)の全国配置が決まり、
それらのほとんどが城郭内に置かれました。

それに伴い、陸軍が軍用財産として残すものは「存城」、
それ以外の、淀城など144城が「廃城」の対象になり、
城郭建築は取り壊されることになりました。


各地で城郭の保存・復興計画が進められるようになるのは、
大正時代に史跡・国宝保存の法律が制定されてからのことです。


《「荒城の月」》

 <春高楼こうろうの 花の宴えん/めぐる盃さかずきかげさして 
/千代の松が枝 わけいでし/むかしの光 いまいづこ>

歌曲『荒城の月』は、『花』『箱根八里』『お正月』など、
今も愛唱される歌を数多く残した、作曲家・滝廉太郎(1879~1903年)の作品です。

滝は1894年に東京音楽学校に入学し、ピアノを学びますが、
同校が募集した中学教材用の唱歌に自作を応募、当選した曲が『荒城の月』でした。

作詞者は土井晩翠(ばんすい)(1871~1952年)です。
『小諸なる古城のほとり』で、同じように滅びゆく古城をよんだ
島崎藤村と並び称された大詩人でした。

土井は「『荒城の月』のころ」と題する、以下のような一文を残しています。

<東京音楽学校から『荒城の月』の歌詞を求められた時、第一に思い出したのが、
学生時代に訪れた「会津若松の鶴ケ城」だった。また、歌詞の3番の
『垣に残るは唯ただかづら、松に歌うは唯嵐』は、私の故郷「仙台の青葉城」の実況である。
滝君は、この曲を、少年時代を過ごした竹田町(大分県竹田市)に帰省した際、
その郊外の「岡の城址(じょうし)」で完成したのであった>

大分県の南西部、南に阿蘇の山々を望む岡城は、1871年から72年にかけて
天守をはじめ建造物は取り壊され、廃城になりました。

滝は、『荒城の月』がおさめられた小曲集『中学唱歌』が発行されて
1週間後の1901年4月、ピアノ・作曲研究のため、満3年の予定でドイツに出発します。

バッハが大きな足跡を残した「音楽の都」ライプチヒで、
メンデルスゾーン(1809~47年)創設の音楽院に合格し、留学生活を始めました。

しかし、結核に冒された滝は、02年、やむなく帰国。
大分市の父母のもとで療養生活を送りますが、03年6月、
わずか23年10か月という短い生涯を閉じました。

      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170802-OYT8T50004.html

            <感謝合掌 平成30年3月17日 頓首再拝>

文明開化 世は変わりけり - 伝統

2018/03/18 (Sun) 18:19:34


           *Web:日本経済新聞(2018/3/12)より
                 ~カバーストーリー

文明開化 世は変わりけり
明治の歌集「開化集」を解読 新時代への驚きいきいきと 青田伸夫


「開化新題歌集(開化集)」は西南戦争後の明治10年代に出た古い歌集である。
全3編に、開化の文物をいきいきと詠んだ歌が1491首収録されている。

当時の歌人が競うように詠み、さながら「明治の万葉集」の感もある。
だが今、この歌集のことを知る人はどれほどいるだろうか。

戦後、第1編だけは活字になって世に出たが、今では入手困難だ。
国会図書館には所蔵されているものの、原典は草書体の崩し字で書かれている。
ここに写真を掲載したが、これを読める人はなかなかいないだろう。


少年の頃に出合い

歌人の私は少年の頃に抜粋を読むことがあり、いつか全編を完読したいと思っていた。
今から40年近く前、50代でその難事に挑戦することになるが、その話の前に、
まずはどんな歌が詠まれているのかを紹介しよう。

 〈ことのはのかよふをみれば風の音の遠きさかひはなき世なりけり 三条西季知〉。

言葉が行き交うのを見るに距離を感じることのない世の中になった――。
何のことかわかるだろうか。電信、つまりモールス信号を詠んでいる。
舶来の技術への驚きを詠い、新時代をことほいだ秀歌だと思う。


当時、街の風景は劇的に変わっていった。
れんが造りの建築が登場すると〈埴(はに)をもて建てつらねたる家つくり
異国(とつくに)にこし心地こそすれ 長谷川安資〉と詠われた。


〈くれゆけば巷(ちまた)に立てるともし火の光も御世の花とこそ見れ 増山喜久子〉。
街路にともるガス灯の光が「花」だったというところに実感がこもる。



1872年、東京―横浜間に鉄道が通ったことは、いやが上にも時代の変化を感じさせたはずだ。

〈すすみゆく御世の姿はときのまに千里をはしる車にぞしる 八木雕(あきら)〉。
そうした情報を伝える新聞も詠まれている。

〈手にとりて見れば筒井の蛙(かはず)すら世に海川の有るを知るらん 近藤幸殖〉

◇ ◇ ◇

廃刀令で侍も安堵

四民平等の時代である。廃刀令によって威張る侍はいなくなった。

〈君が代の春ぞのどけき長刀(ながかたな)さして花見る人しなければ 屋代柳漁〉。


だが侍のほうにも、二本差しから解放されてやれやれという気分の者もいたのではないか。

〈弓矢をば小田の案山子(かかし)にまかせつつ鋤(すき)とる身こそ心やすけれ 岡野伊平〉

 

「開化集」の編者は大久保忠保という人物である。
旧幕臣であったこと以外の来歴はよくわからない。

大久保は全国の歌人名簿を作成し、これはと思う者に歌を発注した。

作品を寄せたのは公家や士族、神官、寺僧などの知識層なので、
大衆の感覚とはいささか懸隔があろう。

だが当時の鋭敏な感受性が新時代の到来をどうとらえていたかは、
余すところなく伝えていると思う。



1930年生まれの私は戦中に少年時代を過ごした。
読みたいものが自由に読めなくなり、文字に飢えていたときに、
友人から文学全集の「現代短歌」の巻を借りた。

そこに「開化集」からいくつかの歌が採録されていた。
それらは私の心を強く惹(ひ)くものだった。

◇ ◇ ◇

崩し字1字ずつ

30代から短歌を始め、明治期の旧派歌人である大熊弁玉に関心が向き、いろいろ調べていた。
この弁玉が「開化集」に歌を寄せた一人だった。

少年の日に読んだ歌集への興味がにわかによみがえったが、いかんせん本が手に入らない。
そこで国会図書館に行って初めて原典を見た。

私に崩し字を読む素養はない。
ではどうしたかというと、戦後に出た活字版の第1編と原典を突き合わせ、
1字ずつ読んでいったのである。

サラリーマンだった現役時代さながらに、横浜の自宅から国会図書館に通い詰めた。
為せば成るもので、約10年かけて全編を“解読”した。

「開化集」は歌人にとって面白いだけでなく、歴史資料としても価値がある。
一人で読むだけではもったいないと思い、注目作を抄出し解説をつけた
「文明開化の歌人たち 『開化新題歌集』を読む」(大空社出版)という一巻にまとめた。

今年は明治維新から150年の節目の年である。

往時とはすっかり変わってしまった社会に私たちは生きているが、
ふとした折に過去が息づいていると感じることもあるのではないか。


編者の大久保は廃城をこう詠んだ。

〈築泥(ついひぢ)も城門(もん)もくづれて松ばかり昔の色にかはらざりけり〉。

過去を慕わしく思う人の心持ちはいつの時代も変わらぬものであろう。

(あおた・のぶお=歌人)


            <感謝合掌 平成30年3月18日 頓首再拝>

根津記念館 - 伝統

2018/03/19 (Mon) 19:08:32

根津記念館、明治150年で書画展 西郷「敬天愛人」を初公開 山梨

       *Web:産経新聞(2018.3.17)より

■伊藤や井上の直筆15点 5月6日まで

明治150年記念「西郷隆盛と明治の書画展」と題する企画展が、
山梨市正徳寺の根津記念館で始まった。

同市出身の作家・林真理子さん原作のNHK大河ドラマ「西郷どん」の効果もあり、
市民の注目を集めている。

明治初期に活躍した西郷や初代首相の伊藤博文、外相を務めた井上馨の書など、
計15点を展示している。

このうち西郷が好んだ言葉「敬天愛人」の書など13点は、
市内の収集家が企画展用に所蔵品を提供。2点は同館所蔵品という。

5月6日まで。(松田宗弘)

 
書画を提供したのは、市観光協会元会長の掛本次郎さん。
「多くは50年ほど前から収集したものですが、代々受け継いできたものもあり、
すべてが本邦初公開です」と話す。

西郷関係の展示は3点。
「天を敬い人を愛する」を意味する「敬天愛人」のほか、
鹿児島時代の「守至誠」、漢詩を写した「五言絶句」の掛け軸2点。

掛本さんの13点のほとんどは鑑定書付きだが、「敬天愛人」にはないという。
根津記念館の担当主査、鈴木祐子さんは「雅号の『南洲』が記され、
西郷の朱印もあるので、実物ではないか」と説明した。

 
このほか、同館ゆかりの実業家・根津嘉一郎が、
交流があった伊藤博文からもらい受けた伊藤や
盟友・井上馨の直筆の書なども展示されている。

鈴木さんは「激動の明治を生きた偉人たちの気持ちに触れていただきたい」と話す。

    (https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180317-00000047-san-l19


根津記念館
http://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/citizen/gover/public/park-spa/nezu-kinenkan/

            <感謝合掌 平成30年3月19日 頓首再拝>

最強交渉人・勝海舟の江戸無血開城 - 伝統

2018/03/20 (Tue) 17:19:51


        *Web:日経BizeGate(2018/03/14)より

150年前の1868年(慶応4年=明治元年)3月14日、
東征軍参謀の西郷隆盛は幕府側の代表である勝海舟との2度目の会談で、
翌15日の江戸城総攻撃を中止した。

当時、江戸の人口は150万人(推定)。
市街戦に突入して、住民の生命と財産を戦火にさらす危機を防いだこの決定は、
近代史上最も優れた政治的決断のひとつとして語り継がれている。

しかし最新の研究から浮かび上がってくるのは、敗者側の海舟の卓越した交渉術だ。


《「敵への人脈が広い」が交渉役抜てきの条件》

同年1月の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、海路を江戸へ逃走した15代将軍・徳川慶喜の
最初の決断は海舟の起用だった。

慶喜がその後朝廷・薩長両藩中心の新政府に恭順路線を貫いたことはよく知られている。
慶喜の母方は有栖川宮家の出身。「西郷隆盛」(ミネルヴァ書房)の著者である
家近良樹・大阪経済大客員教授は「慶喜は自分が朝廷側の人間でもあるという意識が強く
『朝敵』とされることをひどく恐れていた」と指摘する。

それまで疎遠な関係だった勝海舟を東征軍との和平交渉役に登用したのは、
長崎海軍伝習所などを通じて雄藩の実力者らと幅広い人脈を築いていたからだといわれる。

特に西郷に対してだ。
「西郷隆盛と勝海舟」(洋泉社)を著した安藤優一郎氏は
「幕府に代わる新体制の構想などを政治的にアドバイスされ、
西郷にとって勝海舟は畏敬すべき人物だった」と言う。

幕府内における抵抗論者らは罷免され、
新撰組の近藤勇も甲州防衛の名目で江戸から外した。

幕府内で抗戦・恭順論者間のバランスを取ったことで、
勝海舟は交渉役としての立場を強くした。

13代将軍御台所で薩摩出身の天璋院(篤子)、
14代将軍正室で明治天皇の叔母にあたる静寛院宮(和宮)も
新政府とのパイプ役に加えた。


《強硬論者・西郷の悩みは資金と海軍》

一方の西郷は、盟友の大久保利通に「慶喜を切腹させる」と意気込む手紙を送るほど、
徹底的な断罪を主張する強硬論者だった。
「西郷は慶喜の政治力を恐れていた」と家近教授はみる。

幕末の薩土同盟や倒幕の密勅は、大政奉還の切り返しで雲散霧消してしまう。
王政復古のクーデターで排除しても、いつの間にか慶喜が新政府入りする方向で
政局は進んだ。

西郷、大久保にとって慶喜は「家康の再来」ともいうべき政治的モンスターだった。

ただ西郷にも弱点があった。
軍資金の不足と海軍だ。
「鳥羽・伏見」の直前まで薩摩藩は倒幕反対が大勢で、西郷らは少数派だったという。

安藤氏は「薩英戦争や度重なる上京・出兵で藩の財政が破綻寸前だった」と指摘する。
その上での戊辰戦争だ。
三井、小野、島田ら大商人からの資金調達で何とかしのがなければならなかった。

海軍問題はさらに深刻だった。
「鳥羽・伏見」前に戦われた品川沖の戦いや阿波沖の海戦で
幕府海軍は薩摩軍に圧勝していた。

慶喜が海路で江戸へ戻ることができたのは
江戸・大阪沖を軍事的に実効支配していたからだった。

「幕末の海軍」(吉川弘文館)の著者である神谷大介・東海大非常勤講師は
「保有軍艦の数、海軍としての組織力、海軍に出仕した武士の能力や経験などから
幕府海軍の優位は動かなかった」と分析する。

もし江戸決戦が実際に行われた場合、神谷講師は幕府海軍の戦略として

①反新政府の諸藩と海路を通じて連携
②主力が留守中の薩摩・長州など国元を襲撃
③箱根を襲撃。東海道を分断し補給路を断って孤立させる――などが考えられたという。

西郷にとっては悪夢のシナリオだ。

西郷にとって悩ましかったのは、ちょうど「倒幕の主力を務めてきた薩摩藩に
新政府内から嫉妬と不信が噴出していた時期だった」(家近教授)こともあった。

かりに江戸城攻撃が成功しても、さらに功績を重ねた薩摩藩が、
幕府に代わる権力奪取の野心を味方から疑われるのは必至だった。


《硬軟織り交ぜて西郷の譲歩を引き出す》

海舟の講和交渉は硬軟織り交ぜた絶妙のタイミングで始まった。
最初は駿府(静岡市)にまで進軍した西郷への手紙だ。
「海軍を使えば大阪湾からも東海道筋からも攻撃できるが、恭順しているからしない。
東征軍も箱根の西にとどめてほしい」と要求した。

海軍をちらかせたのが効果的だった。
「痛い所を付かれて西郷は激怒した」(安藤氏)という。

さらに天璋院から徳川家存続の嘆願書を送った。
島津斉彬の養女である天璋院が、大奥入りする際に
あれこれ担当したのが側近の西郷だった。

青山忠正・仏教大教授は「明治維新を読み直す」(清文堂)で
「西郷は幕府の恭順姿勢が真剣なものであるという、
確かな手応えを感じ取っただろう」としている。

慶喜の政治的復権は、もはや無い。

英国のパークス大使が江戸城攻撃に反対したのも影響が大きかった。
家近教授は「海舟が幕府と親しいロシェ仏大使を通じて工作した
可能性も否定できない」とみる。

新政府と親しい英国と幕府に肩入れしていたフランスは、当時ライバル関係にあった。
しかし、横浜居留地まで戦争に巻き込まれる事態に陥れば、利害は共通する。
 
西郷が使者の山岡鉄舟に示した7条件は
①慶喜の備前藩お預け
②江戸城明け渡し
③軍艦引き渡し
④兵器引き渡し
⑤城内家臣の謹慎――などだった。

すでに当初の切腹論は影もなかった。
それでも幕府側にとって厳しい条件だが、
拒否させて無理やり開戦に持ち込もうというほどの内容でもない。

備前藩は早くからの新政府側だが当主は慶喜の弟だ。
「強硬姿勢は西郷の駆け引きだったのだろう」(安藤氏)。
その心理を海舟は読み切っていたようだ。

3月13日、江戸・高輪の薩摩藩邸での第1回会談は若干の質問、応答のみで終わったが、
海舟は一言「和宮の安全を図らなければならない」と急所を突いたという。
あとは西郷が気持ちよく下りられる状況を作ればよかった。


《あやうく徳川慶喜が江戸城帰還》

翌14日に海舟は長広舌を振るい、江戸を戦場とする無意味さ説いたという。

他方、具体的な受け入れ条件は

①謹慎は慶喜の故郷である水戸
②慶喜に味方した大名らには寛大な処分
③処分決定後に軍艦、兵器引き渡し――。

当初の西郷案を骨抜きにしたものだった。
即座の兵器引き渡しは、不満を持つ幕臣らが納得せず不測の事態も懸念される
という理由で、内部対立を抱えている自らの弱点も交渉材料に利用した。

西郷は妥協し江戸城総攻撃を中止した。
名目的には延期だったが、実質的な中止だ。
この日の西郷の態度はおおらかなものだったという。

4月11日に江戸城無血開城が実現した。

神谷大介講師は「海舟は軍人として、新政府軍を相手に相当戦えるが
最後は負けると予測していたのだろう」とみる。

「海軍力の保持に食糧・水、弾薬、石炭などの補給、船体の修復が不可欠で、
そのベースとなる軍港を維持しなければない。長期的には難しかったはずだ」(神谷氏)。

双方の力量を冷静に判断した海舟の大局観が光っていた。

海舟の辣腕ぶりは、これだけでは終わらない。
西郷が徳川家の具体的な処分を決める会議のため京都へ戻ると、
江戸に駐留していた新政府軍は弱体化し、治安が悪化した。

すかさず海舟は
「水戸に謹慎している慶喜を江戸へ戻せば、治安は正常化する」と提案した。

家近教授は「めまぐるしく変わる状況の急所をキャッチし、
最大の利益を得ようとする点で、
海舟と西郷は同じ型のリアリスト」と指摘する。

結局このプランは彰義隊の上野戦争もあって実現しなかったが、
あやうく江戸城が徳川家に戻る可能性もあったわけだ。

敵ながらあっぱれと思ったかどうか、
明治政府はその後海舟の交渉力をさまざまに利用した。

ストレス悪化で辞意をもらす西郷の説得など、
当事者の心のひだに触れるような難しい案件ほど、海舟は引っ張り出された。

前政権の代表といった立場でなく、海舟本人の力量が求められたケースも多かった。

1898年(明治31年)、明治天皇と慶喜は初めて会談した。
見知らぬ者同士が手っ取り早く親しくなるには、
共通の知人のうわさ話が効果的だという。

海舟の話題も出たに違いない。
人間的にどうも好きになれないが、アノ男は仕事ができるやり手でと、
互いに苦笑しあったかもしれない。

     (http://bizgate.nikkei.co.jp/article/159112220.html )

            <感謝合掌 平成30年3月20日 頓首再拝>

西郷隆盛 弱点はストレス・人事下手 - 伝統

2018/03/22 (Thu) 17:08:31


       *Web:日経BizGate(2018/02/07)より要点の抜粋

《旧主・島津久光からの憎悪になやまされる》

(1)西郷は1869年(明治2年)に薩摩藩の「参政」として藩政改革を、
   71年(同4年)には明治政府で木戸孝允と共同トップの参議として
   廃藩置県を断行した。

   いずれも久光の怒りを買う政策だった。

(2)西郷はひたすら久光の憎悪に耐え忍ぶしかなかった。


《「西郷の推薦してきた人物は役に立たない」》

(1)西郷は「もともと極めて真面目で神経が細かく、気配り型の性格」。

(2)久光が怒った原因には西郷の人事の拙速さもあったようだ。

(3)中央政府でも人事は案外下手だった。


《嫌った大隈重信、信頼した山県有朋》

(1)新政府の中で、西郷は参議の大隈重信と大蔵大輔の井上馨を嫌った。
   現実主義・出世主義で豪華な私生活とカネの噂のある人物を私利私欲がある
   と見なした。

   井上に対しては三井財閥との関係が深いことから
   「三井の番頭どん」とからかったという。

(2)西郷が信頼した唯一の長州藩士は山県だった。

(3)「岩倉使節団(71~73年)」の外遊中に、西郷をトップとする留守政府は
   学制、徴兵制、地租改正という「明治の3大改革」を達成した。
   しかし西郷が強力なリーダーシップを発揮した形跡はみられない。

   岩倉具視、木戸、大久保の首脳が外遊中に、大隈、山県、井上ら
   「維新第2世代」は頭上の重石が取れたかのように改革政策の実現に励んだ。


《征韓論の直前は極度の体調不良に》

(1)久光からの糾弾と政府部内の混乱に苦しめられ西郷の心身は疲労していったようだ。
   天皇から侍医を派遣され、肥満のため血行が悪化していると診断されたのは
   この時期だ。

   減量のため食事療法と下剤服用を始めたが、かえって激しい下痢を発症した。
   西郷は辞意をもらし、帰国したばかりの大久保は勝海舟まで動員して
   翻意の説得に当たったほどだった。

(2)西郷の辞任・帰郷に伴い多くの陸軍、警察幹部も辞職したが、
   実弟の西郷従道、いとこの大山巌は残留した。


《西郷自身の戦法を逆用された西南戦争》

(1)「西郷は幕府を倒した成功体験から抜け出せず、情勢を楽観視していた。
   作戦は部下に任せ、途中では趣味のウサギ狩りも楽しんだという。

(2)対して新政府側の大久保は、すぐ西郷の「陸軍大将」を?奪し
   逆賊として征討軍を派遣した。西郷は困惑しただろう。

   鳥羽・伏見の戦いで、薩摩軍が錦の御旗をいち早く掲げ、
   徳川慶喜を賊軍に貶(おとし)め、戦意を喪失させたのと同じ手法だからだ。

   「大久保は西郷の戦略をそのまま逆用して勝利した」

(3)久光のある側近は、晩年の西郷を
   「若者と交際し、異論を持つ者とは付き合わなかった」と証言した。
   特に同年配で遠慮無く交際しえた薩摩藩士が少なかったという。

(4)カリスマ性を持つトップほど、直言できる人間が周囲に欠かせない。
   西郷のケースは、そのことを140年後の我々に示しているかもしれない。

  (http://bizgate.nikkei.co.jp/article/157333017.html

            <感謝合掌 平成30年3月22日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第1回~いざ行かん、未知の国へ - 伝統

2018/03/27 (Tue) 18:28:35


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年09月06日)より

《岩倉使節団派遣》

(1)1871(明治4)年12月23日、いわゆる「岩倉使節団」が、
   巨大な外輪(がいりん)蒸気船「アメリカ号」(4554トン)で、
   米国に向けて横浜港を出航しました。

   これまで徳川幕府も、6次にわたり米欧に使節団を派遣してきました。
   それらは条約批准や締結交渉を主な任務としていました。

   これに比べ、今回の使節団は、西洋文明の実地体験を通じて、
   明治国家建設に資する知恵やデータを得ることを大きな使命としていました。

(2)出発前の12月15日、明治天皇は岩倉具視全権大使に対し、
   各国元首に捧呈(ほうてい)する「国書」を授けました。

   国書は、使節団の目的について、「聘問(へいもん)の礼を修め、
   親好の情誼(じょうぎ)を厚く」するための親善訪問であることを
   明らかにしています。


《2年近く12か国》

(1)政府使節団の特命全権大使には、右大臣・岩倉具視(数え年47歳)、
   副使には、参議・木戸孝允(たかよし)(39歳)、大蔵卿・大久保利通(42歳)、
   工部大輔(たいふ)・伊藤博文(31歳)、
   外務少輔(しょうゆう)・山口尚芳(ますか)(33歳)の4人が選ばれました。

(2)横浜出港時の使節団の全メンバーは46人、平均年齢は約32歳で、
   このほかに大使・副使の随行者や、留学をめざす華族・士族らが加わり、
   総勢は107人に達しました。

(3)使節一行は当初、14か国を10か月半かけて回る予定でした。
   しかし、途中で帰国した大久保や木戸らを除いて、回覧の期間は
   足かけ1年10か月に及び、周遊した諸国は、米欧の12か国(アメリカ、
   イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、
   スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイス)に上りました。


《フルベッキの建言》

(1)この使節団の派遣には、一人のお雇い外国人がかかわっていました。
   オランダに生まれ、アメリカの神学校で学んだ宣教師の
   フルベッキ(1830~98年)です。

   フルベッキは幕末の1859年、長崎に上陸し、佐賀藩致遠(ちえん)館の教師として
   日本人子弟の教育にあたりました。大隈重信や副島種臣(そえじまたねおみ)らには、
   聖書やアメリカ憲法を教えたといわれます。

(2)69年から政府顧問に就いたフルベッキは、
   同年6月、日本による米欧使節団派遣を建言します。

   はじめ大隈に伝えたのですが、すぐには生かされず、
   71年12月、岩倉がフルベッキからその内容を尋ねた記録(ブリーフ・スケッチ)が
   残されています。

《幻の大隈使節団》

(1)大隈重信は、のちの回顧談で、使節団はもともと
   「余よ(おのれ)の発議」であったと強調しています。

   そして自分が進んでその任にあたろうとしていたのに、意外なことに、
   内政の整理のために留とどまるべき、木戸や大久保が派遣されるに至ったと、
   不満を表明しています。

(2)ともあれ、「大隈使節団」が実現せず、「岩倉使節団」になった背景には、
   幕末以来の岩倉と三条、木戸と大久保、そして西郷、さらには大隈ら
   権力者同士の確執や派閥対立、廃藩置県後の「文明開化」の進め方、
   人事、政局運営をめぐる各人の主導権争いがあったことは確かなようです。

   西郷隆盛が、使節団を横浜に見送ったあと、
   一行の船が途中沈没してしまえばいい、と放言したとされるのも、
   使節派遣をめぐる複雑な事情をうかがわせるものです。


《大礼服の制定》


《散切り頭をたたいてみれば…》

(1)使節団が出発する3か月前の71年9月23日、政府は、
   「散髪、制服、略服、脱刀とも、勝手為すべき事」とする布告(散髪脱刀令)
   を出しました。

   これまで男子の頭髪は丁髷でしたが、
   髪形、服装も「欧米並み」をめざすための措置でした。

(2)木戸孝允の場合は、手回しよく、発令に先立って散髪したといわれます。
   しかし、世間では、断髪も廃刀も、すんなりとは進まなかったようです。

(3)ちなみに、73年3月頃、東京府下の男性の7割は
   丁髷などの旧来の半髪(はんぱつ)で、3割が断髪でした。

   明治天皇が同月、散髪を「断行」すると、
   女官たちは「皆驚歎(きょうたん)」(『明治天皇紀』)し、
   官員(役人)らはあわてて髪を切り出したそうです。

(4)他方、政府は、帯刀を「弊習(へいしゅう)」とし、
   治安維持も考えて「廃刀」を計画したのですが、
   士族の刀に対する思い入れが強いことから、この時は「脱刀」にとどめました。

   廃刀令を出してこれを強制するのは76年のことです(『国史大辞典』)。

   <半髪頭をたたいてみれば、因循(いんじゅん)姑息(こそく)の音がする>

   <散(ざん)切(ぎ)り頭をたたいてみれば、文明開化の音がする>

   こうしてザンギリ頭が文明開化の象徴として広まっていくことになります。

      (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170824-OYT8T50006.html

            <感謝合掌 平成30年3月27日 頓首再拝>

米百俵の精神 - 伝統

2018/04/04 (Wed) 18:25:22


本スレッド<維新政府、変革の序章>第7回~「明治国家」誕生のとき(2018/03/14)
内の『《長岡藩の「米百俵」》』に関連した情報です。

      *Web:大和心を語るねずさんのひとりごと((2018/03/31)より


    百俵の米も、食えばたちまちなくなる。
    だが教育にあてれば明日の一万、百万俵となる


米百俵(こめひゃっぴょう)といえば、2001年の流行語として
覚えておいでの方も多いのではと思います。
当時、小泉内閣発足時の総理の国会所信表明演説で、
この言葉を引用して有名になりました。

もともとは幕末から明治初期にかけて活躍した
越後・長岡藩(いまの新潟県長岡市東部)で大参事を務めた
小林虎三郎(1828-1877)にまつわる故事から引用された言葉です。

越後・長岡藩藩主の牧野氏は、三河国でもともとは今川家の家臣でしたが、
今川家が滅び、後に徳川家康の家臣となりました。
豪勇を持って知られ、徳川十七将に数えられた名門の家柄です。

この牧野氏が当時知行していた牛久保は、
戦国時、常に今川、武田、織田、松平からの脅威に晒されていたところで、
ここから家訓として「常在戦場」の四字が生まれています。

これは「常に戦場にあるの心を持って生きる」という意味です。

ちなみに山本五十六大将も、この「常在戦場」を座右の銘としていました。


米百俵の逸話に出てくる小林虎三郎も、「常在戦場」を座右の銘にしていました。

小林虎三郎は、幼いころ天然痘を患い、その後遺症が左顔面に残る人でした。
けれど一生懸命に努力して、長岡藩校で若くして助教を務めるほどの俊才となり、
長じて佐久間象山の門下生になりました。

佐久間象山は、私塾「象山書院」を運営して多数の弟子を獲った人ですが、
特に後に吉田松陰と呼ばれる吉田寅之助と小林虎三郎は、「二虎」と呼ばれ、

「義卿(松陰)の胆略、
 炳文(虎三郎)の学識、
 稀世の才」

と称えられています。

ちなみに佐久間象山自身も、江戸昌平黌(しょうへいこう)において
佐藤一斎のもとで学び、山田方谷と共に「佐門の二傑」と称されています。

二虎に二傑、いまなら対立的な用語を用いて「ライバル」と呼ばれそうですが、
もともとの日本語にライバルなどという言葉はありません。
むしろ、「両雄並び立つ」といわれたくらいで、
互いに競い合い高め合って並び立つことこそが大事とされていたのです。


この頃佐久間象山が小林虎三郎に送った手紙の一節です。

「宇宙に実理は二つなし。
 この理あるところ、
 天地もこれに異なる能わず。
 鬼神もこれに異なる能わず。
 百世の聖人もこれに異なる能わず。
 近来西洋人の発明する所の
 許多の学術は、
 要するに皆実理にして、
 まさに以って我が
 聖学を資くるに足る」

実理というのは、空理の対語で、実際に即した道理をいいます。

洋学も漢学も、すべては「おほみたから」である民のためにあるというのが、
林羅山にはじまる江戸の昌平黌の学問の基幹であり、佐藤一斎はその最後の学長です。

その教えを受け継いだのが佐久間象山であり、
小林虎三郎であり、吉田松陰であったわけです。

さて、この頃、黒船が来航しています。
このとき幕府の老中であった長岡藩主の牧野忠雅に、
横浜開港を建言したのが小林虎三郎です。

このことが原因で小林虎三郎は帰国謹慎を申しつかるのですが、
結果として虎三郎のこの案は幕府の採用するところとなりました。

こうして、何もない砂浜だった横浜に、
わずか三ヶ月という、おどろくべき短期間で建設されたのが、
横浜の町並みで、これがいまの「横浜市」に至っています。

戊辰戦争のとき、小林虎三郎は、やってくる官軍に対し、
幕府の正当性をしっかりと訴えながら、
なおかつ戦わないという独自の非戦論を唱えました。

けれど藩内の意見は河井継之助の奥羽越列藩同盟による開戦論となります。
長岡藩は勇敢に戦いました。
この戦いは、戊辰戦争中、最大の戦いであったともいわれています。

が、結果は敗北。
そのため、14万2700石あった藩の収入は、
わずか6分の1の2万4000石に減じられてしまいます。

減封になったからといって、藩士たちの食べ物が6分の1で済むようにはなりません。
藩士たちはたいへんな貧窮のどん底に追いやられてしまいます。
残念なことですが、一部の足軽などの下級藩士が、
妻子に食べさせる食べるものを得るために商家に盗人に入ろうとして、
護衛の浪人者に斬り殺されるという事件などもあったそうです。

あまりの藩内の貧窮ぶりに、藩主の親戚の三根山藩の牧野氏がみかねて、
長岡藩に米を百俵送ってくれることになりました。
飢えに苦しむ藩士たちからしてみれば、ひさびさに米にありつけるありがたいことです。

けれど、百俵の米というのは、藩士とその家族の数で頭割りしたら、
ひとりあたり、わずか2合程度にしかなりません。

そこで当時、藩の大参事となっていた小林虎三郎は、
その百俵を元手に、藩に学校を造ろうと提案しました。

「皆、腹は減っている。
 しかし百俵の米をいま、
 ただ食べてしまうだけなら
 それだけのもので終わる。

 こうした苦しい状況に
 藩が追いやられたのも、
 もとをたどせば、
 官軍と自藩の戦力の違いを見誤り、
 ただ感情に走ったことにある。

 結果、多くの命が失われ、
 生き残った者も、
 このように苦しい生活を
 余儀なくされている。

 それもこれも、
 教育がしっかりしていれば、
 時勢を見誤ることなく、
 危機を乗り越えることが
 できたはずである。

 そういうことのできる
 人材が育っていなかったために、
 藩がこのような窮乏に
 立たされている。

 二度と同じことが起こらぬよう、
 しっかりとした
 人材を育てるべきである。

 そのためにこそ、
 この百俵の米を
 使うべきである」


けれど誰もが腹を減らしているのです。
藩士だけなら我慢もしましょう。

妻子が目の前で腹を減らしているのに、
どうして、目の前にあるせっかくの米を「要らぬ」ということができましょうか。

藩士たちの言い分と、小林虎三郎の意見は真っ向から対立しました。
膝詰め談判となったとき、小林虎三郎の目の前には、藩士の刀が突き立てられたそうです。

このとき虎三郎は、静かに「常在戦場」の額を示したそうです。

「長岡藩の家訓は
 『常在戦場』にある。
 戦場にあれば、
 腹が減っても
 勝つためには、
 たとえ餓死してでも
 我慢をしなければならぬ。
 貴公らは、
 その家訓を忘れたか。」

「百俵の米も、
 食えばたちまちなくなる。
 だが教育にあてれば
 明日の一万、百万俵となる」

長岡藩の武士たちは、その妻子に至るまで、みな腹を空かせていました。
しかし武士は民のためにあります。
戦乱を招き、結果として民にまで苦労をかけている。


二度とそうならないためには、あらためて『常在戦場』の言葉を思い出して、
二度と同じことが起こらないように、しっかりとした人材を育成するというのが、
小林虎三郎の意見です。


ちなみに米一俵は、おおむね1両に相当します。
1両はだいたいいまの6万円くらいです。
つまり米百俵とは、金額にすればおよそ600万円ということになります。
一藩の財政という点からすれば、決して大きな額ではない。
逆にいえば、その600万円が藩論をゆるがすほどの大金とされるほど、
当時の長岡藩は財政的にも、また食糧自給の面においても、
追い詰められていたということです。


結果、米は売却されました。
そして売得金によって、藩内に学校が建てられました。

ちなみに明治政府が学制の布告によって全国に小中学校を建てたときは、布告だけです。
「学校を建てることが決まった。
 あとは地元でなんとかしろ」
というだけです。

それでも全国各地では、旧藩士や地元の庄屋さんたちが集まって、
土地や校舎建設や、机などの什器備品代から教師を雇う費用まで分担しあって、
短期間のうちに全国に学校が整いました。

長岡藩の場合は、この建設および初期費用として、
藩として少額ながらもちゃんと費用負担をしたうえで、
まさに学制などに先駆けて、学校を建設したわけです。

しかもこの学校には、士族だけでなく、一般の庶民の入学も許可されました。
藩士たちだけでなく、庶民までもが「納得して虎三郎に協力してくれた」から、
これが実現したのです。


なぜ長岡藩では誰もが納得したのでしょうか。
とりわけ武士たちの窮状は目に余るものがありました。
武士だけなら我慢もしましょう。
しかし妻子が腹を減らしているのです。
誰だって一杯の飯で良い。
米は食いたいです。

それでも武士は人の上に立つ者として、
明日の民のよろこびと幸せを実現していかなければならないし、
そのために腰に日本の刀を差しているのだという矜持が、
長岡藩の武士にも、その家族の婦女にもあった。

だから我慢したのです。

明治政府によって学制が敷かれたとき、
この学校は現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校となって、
現在に至っています。

本当に苦しいときにこそ、自制して明日の民の幸せのために行動するか。
それとも目先の欲望のために、道義や道徳観を失って非行に走るか。
あるいは辛いからと逃げ出すか。


先の大戦が終結したとき、
半島では、終戦の詔勅と同時に日本人の婦女が襲われました。
わずか12歳の少女が、半島において、半島人の若い男性たちが
妙齢の日本人女性が全裸にして二本の棒で手足を開いて縛って担ぎ、
真ん中に棒を刺し通していた様子を目撃していた実話があります。

今度詳しく紹介しますが、いとも簡単に手のひらを返して
非行・非道を行なうのは半島人の特徴です。

現代日本人は、そんな半島人と同じ程度の民度に落ちるのでしょうか。

戦後の日本は、加害者が被害者に、被害者が加害者に置き換えられてきた歴史を持ちます。
そしてそれはいまも森友問題などで繰り返されています。

「知」という漢字の訓読みは「しる、あきらか、さとし、とも、のり」です。

「さ」とは神界の稲のことで、それを収穫するのが「さとし」であり、
それを「のり=決まったこと」として、
「とも」に「あきらか」に「しる」ことが、「知」の意味です。

その「知」は、ですから本来、神のものです。

その神から与えられた知恵を、我々はありがたく活用させていただいて、
すこしでも住みよい良い国(豈国)を築くのです。

それが武士の道(武士道)であり、政治を司る「臣」の役割であり、
そういうことをしっかりと教えることが教育であり、学問所であるとしてきたのが、
ほんの150年前までの日本です。

戦後は、左翼の活動によって、教育から徳義が外され、
ただの丸暗記や受験勉強のためだけのテクニックにすり替えられてしまいました。
これでは実理実学にさえなりません。


教育は
「米百俵の人をつくるもの」。

小林虎三郎は、
「こうした苦しい状況に
 藩が追いやられたのも、
 もとをたどせば、
 官軍と自藩の戦力の
 違いを見誤り、
 ただ感情に
 走ったことにある」
と厳しく指摘しています。

感情に走るということは、条理を外れて欲望に走るということです。
それはまったく半島人の気質そのものになってしまう。

昔、武士であっても、街を歩けば、地廻りのヤクザものに絡まれたり、
脅されたり、喧嘩を売られたりということは、往々にしてありました。

しっかりとした剣術を習っているのですし、
腰には大小二本の刀を差しているのですから、戦えば武士が勝ちます。

しかし刀を抜いて相手を斬り殺したり、そこまでいかなくても峰打ちで怪我をさせれば、
武士の側は腹を斬らなければならないのです。
だからどうしたかといえば、武士がどつかれっぱなしで、ひたすら謝りました。

そのうえで、地廻りのような乱れを生んでしまった藩政を自分のこととして憂い、
二度とそのような地廻りが他の人に迷惑をかけることがないように、
しっかりとした治世をしていく。

そのために知恵をしぼり、何年かけてでもそのような事態が起きないようにしていく。
それが武士の勤めだと考えられてきたのです。

この小林虎三郎の物語は、映画化されています。
映画の中で、小林虎三郎は、藩の大参事に就任したときに、妻に離婚してくれと申し入れます。
収入が減って厳しくなっている藩政に責任を持つというときに、
妻に迷惑をかけたくなかったからのことです。
妻は離婚し、実家に帰りました。
けれど妻は、その後も小林虎三郎を気遣って、
毎日のように虎三郎のもとを訪れて内助の功を尽くします。

そんな中で、虎三郎の米百俵を学校建設に、という話が持ち上がるわけです。
藩論は、猛反対です。
当然のことです。みんな飢えに苦しんでいたからです。

このとき、妻はなんとかして夫の主張を、藩の武士たちに納得してもらおうと、
藩士の女性たちに集まってもらい、妻たちから夫を説得してくれるように、
夫の虎三郎に内緒で行動を起こしています。
結果は、「とんでもない」と、追い返されるというものでした。
そしてその帰り道、虎三郎の妻は下手人不明で、路上で斬殺されます。
この妻の行動と死は、映画製作時の作り話なのだそうですが、心情はわかる気がします。

映画については、下のHPに詳しい情報が出ています。
http://www.hirameki.tv/%E3%80%90%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%91%E7%B1%B3%E7%99%BE%E4%BF%B5/

この映画ができたとき、試写会の案内を長岡市内の66ある学校に出したそうです。
けれど試写会にやってきた学校は、わずか7校でした。
平成5年(1993)のことです。
まだ日教組華やかりし頃です。
しかし逆にいえば、日教組が強大な実力を発揮していたときであっても、
すくなくとも1割強の学校では、
米百俵の映画の試写会に学校の代表者を出席させていたのです。

日本を取り戻すということは、この精神を取り戻すことであると思います。

いつの時代であっても、「変えよう」とする力は、
はじめはごく少数の志を持った者たちから始まります。

そしていま、日本は目覚めつつあります。

  (http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3712.html

・・・

<動画「映画「米百俵」小林虎三郎の天命 "Kome hyappyo"」
   → https://www.youtube.com/watch?v=kn7I1ViPLVE >

            <感謝合掌 平成30年4月4日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第2回~米大陸横断鉄道の旅 - 伝統

2018/04/07 (Sat) 18:25:35


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年10月04日)より

《オークランド発》

岩倉使節団は1872(明治5)年1月15日、太平洋航路で、
最初の訪問国であるアメリカ・サンフランシスコに到着しました。

勝海舟らの「咸臨丸」以来、12年ぶりの日本使節団の来航は、
市民から大歓迎を受け、大使・副使らは、最も格式の高い「グランドホテル」に投宿、
その壮大な建物や行き届いた部屋の設備に驚嘆の声をあげます。

別のホテルでは、団員がロビーの一角にある小部屋、つまり「エレベーター」に乗り込み、
にわかに釣り上げられて肝をつぶすなど、何もかもが初体験、
「驚異の種」(久米邦武『回顧録』)でした。

連日のように歓迎行事が催され、
現地の政治家や官吏、軍人、事業家たちが多数押しかけます。

サンフランシスコの派手な饗応きょうおうぶりに、副使の木戸孝允は、
「何かお返しをしなければ独立国の体面が保てない」と、いたく心配します。

他方、使節団一行は、施設見学を怠りませんでした。
毛織物や鉱山機械の製造工場、裁判所や議事堂、小学校、兵学校、大学などの教育施設、
電信機局も視察。植物園や動物園も精力的に見て回りました。

カリフォルニア劇場で芝居も見物しています。


1月31日、使節団は、いよいよ「アメリカ大陸横断鉄道」の旅に出ます。

アメリカ大陸を西から東へ、太平洋から大西洋へと横断する7昼夜の旅程です。
サンフランシスコ湾に面したオークランドの駅から貸し切り列車で出発、
首都・ワシントンをめざします。


《蒸気車に乗る》

もともと、東部13州だったアメリカは、
イギリスが独立を承認した1783年のパリ条約で、
ミシシッピ川以東の領土を獲得すると、

1803年にはフランスからルイジアナ(ミシシッピ川以西、ロッキー山脈までの地域)
の買収に成功し、19年にはスペインからフロリダを購入しました。

その後、西部開拓によって45年、テキサスを併合し、
メキシコとの戦争でカリフォルニアやニューメキシコを獲得、
イギリスとの共同管理地域になっていたオレゴンなども領土としました。

うして急速に拡大したアメリカの領土を横断する鉄道建設事業は、
西部の開拓やカリフォルニア州の成立、わけても南北戦争時の南部の連邦離脱で
建設ルート問題が解決したことから進展し、62年に連邦議会で認可されます。

ユニオン・パシフィック鉄道が、ネブラスカ州のオマハを起点にして西方向へ、
セントラル・パシフィック鉄道がカリフォルニア州のサクラメントから東へと敷設を進め、
ユタ準州のオグデン付近で69年5月10日、連結されました。

とくにサクラメントからの工事は、シエラネヴァダ山脈を横断しなければならないために
難航し、数千人の中国人移民労働者が使役されました。

彼ら中国人移民はやがて人種差別的な扱いを受けるようになり、
中国人移民を禁止する中国人排斥法が82年、初の移民制限法として成立します。

なお、アメリカに張りめぐらされた鉄道の総延長距離をみると、
1860年には4万9000キロでしたが、90年には30万9000キロへと伸び、
国内の鉄道網がほぼ完成します。


《日本も鉄道建設を急げ》

鉄道についての知識は、幕末、日本にもたらされました。

1854年、ペリー来航の際、アメリカは日本への贈り物として
小型蒸気機関車の模型を船に積んできました。

横浜で披露されましたが、『ペリー提督日本遠征記』は、
その様子を「(機関車は)小さいので6歳の子供を乗せるのがやっとだった。

それでも日本人は、なんとしても乗ってみなければ気がすまず、屋根の上にまたがった。
威儀を正した大官が、長衣を風でひらひらさせながら、ぐるぐる回っている姿は、
少なからず滑稽な見ものだった」と書いています。

ただ、日本人は模型に興じていただけではありません。

西洋の先進技術の摂取で抜きんでていた佐賀藩の精錬方(せいれんかた)は、
53年に長崎に来航したロシア使節・プチャーチンが積んでいた
蒸気機関車の模型をじっくりと観察していました。

さらに、長崎奉行所がオランダから購入した小蒸気船を分解して仕組みを理解すると、
55年には蒸気船と蒸気車の「動く」模型を製作したのです。
これが日本人の手による初の蒸気船・車といわれています。

明治新政府が、日本の鉄道敷設計画を決定したのは69年12月のことで、
アメリカ大陸横断鉄道が完成した直後でした。

東京―京都間の幹線鉄道をはじめ、東京―横浜間、琵琶湖近辺―敦賀間、
京都―大阪―神戸間に支線を設けるという内容です。


鉄道敷設の推進役は、大蔵大輔・大隈重信、同少輔・伊藤博文らでした。
鉄道網の整備は、モノとヒトの移動量を増大させ、貿易・経済を発展させ、
国民の一体感をも醸成する。

彼らがそう考えるに至ったモデルが、欧米にあったことは明らかです。

70年には東京―神奈川間の測量・着工にこぎつけ、
お雇い外国人のイギリス人建設師長モレルの指導・監督の下で工事を開始し、
翌71年、イギリスの車両で試運転を始めました。

72年10月14日、日本最初の鉄道として、
新橋―横浜間の開業式が横浜駅と新橋駅の2か所で行われました。

式典には、明治天皇が直衣(のうし)・烏帽子(えぼし)姿で出席し、
天皇自ら、新橋―横浜間を鉄道で往復しました。


開業式や沿線には多数の民衆が押しかけ、
西洋文明の利器を目の当たりにすることになります。

使節団の岩倉らは外遊中のため、開業式に出られませんでした。
しかし、実のところ、一行は、外遊出発直前の71年11月、
この鉄道に試乗していました。

その一人、大久保利通は、よほど感心したとみえ、
「蒸気車に乗る。実に百聞は一見に如しかず。愉快にたえず。
この便を起こさずんば、必ず国を起こすこと能(あた)わざるべし」
と日記に書いています。

大久保の子である牧野伸顕は、この時の試乗を後年、振り返り、
「米国に着いて初めて汽車に乗るのでは体面に係わるというので、
皆品川の浜辺まで行き、プラットフォームなどないので、
露天で汀みぎわ(水際)より汽車に乗って横浜まで行った」
(牧野伸顕『回顧録』)と、その内情を語っています。


《大平原を走る》

岩倉使節団の一行は、カリフォルニアの州都サクラメントで、
これから乗る大陸横断鉄道用の蒸気機関車の製造工場を視察しました。

列車がシエラネヴァダの険しい山岳地帯に入ると、
機関車を3両連結する「三重連」で登ります。

一行は、車窓からインディアンの生活を垣間見ました。

大陸横断鉄道の竣工の地、オグデン駅に着いたあと、
モルモン教徒が47年に入植した町、ソルトレークシティーに向かい、
モルモン教会を訪ねます。

使節団は折あしく、当地で大雪に見舞われ、18日間も足止めされます。

開通のあと、列車はロッキー山脈の無人の荒野を3日間走り続けました。

 
使節団がアメリカ西部を訪ねた時期は、
「ロングドライブ」がもっとも盛んな時期でした。

ロングドライブとは、南北戦争後のテキサスで3~4ドルの牛が、
北部市場では40ドルもの高値がつくと知った牧畜業者が、
66年ごろから始めた牧牛(牛の放し飼い)のことです。

つばの広いテンガロンハット、ジーンズの元祖というべき
ズボンを身に着けたカウボーイが、テキサスから数千頭の牛を
ミズーリなど北方の鉄道の駅まで追っていき、沿線の大規模市場へ送り出しました。

ロングドライブは以来、有刺鉄線で耕地を囲む開拓農民や、
保留地のインディアンらとの紛争を繰り返しながら20年間にわたり続けられます。

 
岩倉使節団の列車は、ミズーリ河岸のオマハを経て、大都市のシカゴに到着。
さらにピッツバーグを経由して72年2月29日、ワシントンに到着しました。

サンフランシスコを出てからはや1か月が過ぎていました。


《南北戦争の英雄・グラント》

岩倉大使をはじめ木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らは3月4日、
ホワイトハウスを表敬訪問し、第18代米大統領グラント(1822~85年)に
国書を捧呈します。

64年、南北戦争で北軍の総司令官に任命されたグラントは、
翌65年、ヴァージニアで南軍総司令官のリー将軍が率いる軍団を打ち破り、
北軍に勝利をもたらした英雄でした。

南北戦争終了直後の65年4月15日、
リンカーン(56歳)が南部人の俳優によって暗殺され、
後継の大統領には、副大統領のジョンソンが昇格します。

グラントは、68年大統領選で共和党から推されて立候補し、
第18代大統領に就任しました。

グラントは大統領を2期つとめたあと、世界周遊の旅に出て、79年に来日します。

岩倉ら顕官が前大統領夫妻を迎え、旧交を温めますが、
グラントはこの訪日で、日本の内政・外交について忠告や警告を発し、
明治天皇らに強い印象を与えます。

さて、岩倉使節団の訪問は、グラント政権1期目のことで、
使節団一行は南北戦争終結(65年4月)から7年後のアメリカをみたことになります。

南北戦争は、悲劇の内戦でしたが、戦場にならなかった
北部の鉄工・火薬など諸工業に好況をもたらし、鉱山など資源開発を促し、
70年代からのアメリカ資本主義興隆の基盤をつくります。

岩倉一行も、米大陸の都市部に入るにつれて、
産業資本の充実ぶりを実感したに違いありません。


《奴隷解放は名ばかり》

南北戦争がアメリカ社会にもたらした最大の変化は、
およそ400万人の奴隷たちが解放され、自由の身になったことです。

戦後の南部は、経済も財政も破綻に陥ったうえ、食糧難にもあえいでいて、
「南部の再建」がジョンソン大統領に課せられます。

ジョンソンは、南軍の指導者たちに恩赦を与え、南部の土地所有者は、
憲法修正第13条(奴隷制度の廃止、65年成立)を支持するだけで
土地を取り戻しました。

「ブラック・コード」と呼ばれる黒人取締法も成立します。

結局、南部に残った奴隷たちの多くは、土地は得られず、
プランテーション(農場)での苦しい生活が続きます。
奴隷解放は名ばかりのものでした。

しかし、ジョンソンの「反動政策」に対し、黒人たちも黙っていませんでした。
彼らの反対運動に米議会の共和党急進派などが呼応し、
68年には、黒人に公民権を付与する憲法修正第14条を成立させ、7
0年には、選挙権を保障する憲法修正第15条も付け加えました。

これを受け、アメリカ黒人は初めて選挙権を行使し、
州議会に多数の黒人議員が送り出されました。

69年から76年の間に、米議会には
黒人の下院議員14人と上院議員2人がそれぞれ誕生します。

さらに黒人の高等教育機関として
「黒人大学」が相次いで設立されるのもこの時期のことです。


しかし、こうした動きに猛反対する活動が開始されます。
攻撃の先頭に立ったのが、
白人の秘密結社「KKK」(クー・クラックス・クラン)です。

65年、テネシー州で少数の旧南軍士官らが結成したこのテロ組織は、
三角帽の不気味な装束で、黒人たちを脅し、黒人の家を襲い、
投票を暴力的に妨害しました。
彼らのテロ活動は、70年頃にピークに達したといわれます。

さらに南部諸州では、白人たちが、黒人を公共施設から閉め出すようになります。
交通機関、公立学校、病院、電話ボックス、レストランなどで
白人と黒人を隔離する政策が、州法や条例で法制化されます。

加えて90年のミシシッピ州を手始めに、
諸州において黒人の選挙権の剥奪が進みます。

人頭税や読み書き試験を課して黒人を巧妙に排除し、
黒人の権利はすっかり逆戻りしてしまいます。

岩倉使節団はワシントン滞在中、「黒人学校」を視察しています。
『米欧回覧実記』は、奴隷制度の由来と廃止の経緯を説明したあと、
なかなか鋭い現状分析をしています。

「白人たちは(黒人と)同列視されることを喜ばず、
いまもなお人種間の隔ては歴然たるものがある。

とはいえ、中には早々と自立した黒人もおり、
現に下院議員に選出された傑出した人物もあるし、
巨万の富を築き上げた名士もいる。

皮膚の色と知能の優劣は無関係であることははっきりしている。
だからこそ有志の人々は黒人教育に力を尽くし、学校を作るのである」

 (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170914-OYT8T50002.html

            <感謝合掌 平成30年4月7日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第3回~「金ぴか時代」の米国で - 伝統

2018/04/25 (Wed) 17:55:56


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年09月20日)より

《伊藤博文と西洋文明》

少し話を戻して1872年1月23日の夜。

サンフランシスコのグランドホテルで開かれた岩倉使節団歓迎会で、
副使の伊藤博文(1841~1909年)が、英語で演説しました。

日本人が公式の場で英語スピーチをしたのは、
おそらくこれが嚆矢(こうし)でしょう。

下級武士だった伊藤は、幕末、長州藩留学生としてイギリスに密航し、
半年間、当地で生活しました。

伊藤はそこである程度、英語能力を身につけ、同時に攘夷思想を捨て、
西洋文明の信奉者になります。

 
長州の松下村塾で、伊藤の師にあたる吉田松陰が、
伊藤を「周旋(しゅうせん)家」と評したことはよく知られています。

人あたりがよく対外折衝や世話役向き、という評価であり、
のちの初代首相・伊藤の能力・資質を見抜いたものではありませんでした。

留学先のイギリスで、伊藤は、物おじせず外国人と話のできる
「コミュニケーション能力」を磨き、帰国後は外国艦隊相手に通訳を務めるなど
藩政治で重用されます。

伊藤にとって、西洋文明とは、
「またとない立身出世の梃子だった」(瀧井一博『伊藤博文』)のです。

実際、新政府では、外国事務掛(がかり)、兵庫県知事に就きます。
知事は、中小藩主と同格のポストであり、
足軽出身の伊藤にとっては破格の出世でした。

そのあと、大蔵少輔(しょうゆう)に就任した伊藤は、
今度は半年間訪米して財政・貨幣制度の調査にあたり、
日本で初の金本位制を定めた新貨条例の制定(71年6月)にこぎつけます。

これによって、新しい貨幣の単位は、円・銭・厘に統一されました。

 
岩倉使節団出発前、イギリス公使館で開かれた晩餐会で、
伊藤はすでに流暢(りゅうちょう)に英語を使っていたといわれます。


《英語で「日の丸演説」》

伊藤による英語スピーチからは、新進政治家としての伊藤の自信や自己顕示欲、
さらには使節団員の高揚感が伝わってきます。

演説で伊藤は、まず、到着以来のアメリカ側の
「慇懃(いんぎん)なる接待」に謝意を表しました。

そのうえで、「今日我が国の政府及び人民の最も熱烈なる希望は、
先進諸国の享有(きょうゆう)する文明の最高点に到達する」ことにあるとし、
日本の改良は「物質的文明」で迅速なりといえども、
国民の「精神的改良」は一層はるかに大なるものがあると論じました。

さらに、日本国内では、版籍奉還に続いて、「数百年来鞏固(きょうこ)」に
成り立っていた封建制度が、「一箇の弾丸を放たず、一滴の血を流さずして、
一年以内に撤廃せられたり」と強調。

「今や相一致して進歩の平和的道程を前進しつつあり」と述べて、
廃藩置県で封建制度を打破し、近代国家としての歩みを始めたことを力説しました。

そして演説の最後を伊藤はこう結びました。

「我が国旗の中央に点ぜる赤き丸形は、もはや帝国を封ぜし封蝋(ふうろう)
(書状をしっかり閉じるために使う蝋状の物)の如ごとくに見ゆることなく、
将来は事実上、その本来の意匠たる、昇る朝日の尊き徽章(きしょう)となり、
世界における文明諸国の間に伍して前方に且かつ上方に動かんとす」

これが「日の丸演説」といわれるゆえんです。

「日章旗」が日本国の旗として掲げられたのは、幕末の1855年、
薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)が幕府に献上した、
西洋型軍艦の「昇平丸」が始まりとされます。

幕府は、斉彬の申し入れを受けて前年、日の丸を国旗(総船印)として
全国に通達していました。

ところが、この「日の丸」、外国人から「日本の封蝋」と
笑われることもあったようです。伊藤はそんな見方を否定して、
日の丸こそ、昇る朝日=「ライジング・サン(rising sun)」の
エンブレム(象徴的図案)であって、日本国はこれから、朝日の勢いで、
世界の文明諸国の仲間入りをする、との決意表明をしたのでした。



《条約改正で大混乱》

ところが、伊藤は、それから向かったワシントンで、大失態を演じてしまいます。

当地滞在中の72年3月11日、岩倉大使・副使の計5人と
小弁務使(米国駐在の代理公使格)の森有礼もりありのり
(1847~89年)らが、米国務省にフィッシュ国務長官を訪ねました。

彼らは席上、幕府から引き継いだ不平等条約の改正交渉を切り出します。
これは使節団の使命にはなかった仕事です。

伊藤や森らは、晩餐会などアメリカ側の歓迎ぶりに得意になり、
「米国くみしやすし」と思い違いをしたようです。
岩倉ら首脳陣も、伊藤らの交渉の勧めに乗ってしまったのです。

これに対してフィッシュは、元首からの正式の委任状の提示を求めます。
しかし、はじめから条約交渉を本務としていない日本側に、その用意はありません。

それでも、「我々は天皇の信任を受けている」と食い下がりますが、
フィッシュは「万国公法(国際法)上、応じられない」とにべもありません。

このため、使節団は、副使である大久保利通と伊藤博文の2人を帰国させ、
全権委任状を整えてくることにします。そこまでするのですから、
なお意欲満々、まだ交渉は可能とみていたのでしょう。

大久保と伊藤が東京に到着したのは5月1日のことでした。

これに対して、「留守政府」の外務卿・副島(そえじま)種臣(たねおみ)
や外務大輔・寺島宗則らは強く反発します。

使節団が勝手に外交方針を変更したことや、
訪問国ごとに個別交渉を考えているのは許し難いとして、
委任状交付に同意しませんでした。

問題はこじれにこじれて、
大久保、伊藤の「割腹」による責任論すら取りざたされます。

その際、副島が「切腹の儀は御勝手にせらるべし、
敢(あ)えて御勧(おすす)め、御止めも致さず」と、
冷たく言い放ったとされ、事態は深刻化します。


《交渉談判中止》

双方の反目は続き、約50日が経たった6月19日、
ようやく委任状が出されます。

大久保と伊藤は、イギリス大弁務使として赴任する寺島を同行して、
7月22日、ワシントンに着きました。
対米交渉を「大失策」と決めつけていた寺島は「監視役」だったようです。

大久保らが帰国している間、滞米中の岩倉具視や木戸孝允らは、
対米交渉を行いますが、壁は厚いうえ、アメリカを相手に条約改正で
譲歩した場合、それが自動的に他の締約国にもそのまま適用されることを
知って驚き、大いに悔やみます。

委任状の件といい、この最恵国待遇のルールといい、
使節団の外交知識の欠如は明白でした。

とくに「日の丸演説」で声価を高めた伊藤は、一転、
この失策によって使節団内部からも批判にさらされます。

とくに、伊藤の親分格の木戸は、
「予(よ)は、元より外交の事は甚(はなは)だ不案内なる故に、
彼等の云ひなりに任せて置いたのが予の過ちなり。
全体伊藤等が知った風になまいきな事をするから、
得てこんな失策するから困る」(『尾崎三良さぶろう自叙略伝(上)』)と、
憤懣(ふんまん)をぶちまけました。

また、国内の知人への手紙の中で、「生兵法大疵(おおきず)のもと、
万事その始めの思慮が大事」と自省したり、使節になったことを
「一生の誤(あやまり)」などと後悔したり、
木戸はこの時期、外国でストレスが高じ、精神的に参っていたようです。

大久保と伊藤がワシントンに戻った時は、
「条約談判中止」は既定路線になっており、
岩倉、木戸との間で中止を確認したあと、
7月24日、米政府との間で打ち切りが決まります。

アメリカ滞在は予定を大幅に超える6か月半に及びました。
その分、ワシントンやフィラデルフィア、ニューヨーク、ボストンなど
アメリカ視察は充実しましたが、スケジュール変更は、
使節団内部にあつれきを生じさせ、団員には徒労感も漂いました。

<条約は結び損ない/金は捨て/世間へ大使(対し)/何と岩倉>
という狂歌も行われました。

使節団首脳部の威信は低下し、伊藤は鼻っ柱をへし折られる始末となりました。

岩倉使節団は72年8月、ボストンを発ち、次の訪問国イギリスに向かいます。


《明治天皇の国内巡幸》

一方、日本国内では、同じ頃、明治天皇の国内巡幸が実施されていました。

天皇が自ら日本の地理、形勢、人民、風土を視察するのが目的で、
72(明治5)年6月28日に皇居を出発し、
「留守政府」トップの西郷隆盛が随行しました。

伊勢神宮、大阪、京都、下関など西日本各地を巡り歩きます。

長崎滞在中、燕尾(えんび)形ホック掛の正服姿の天皇に対して、
県民の1人から天皇の「洋服着用禁止」を求める建白書が出されました。

西郷は、建白した人物に直接会って、
「汝(なんじ)、未(いま)だ世界の大勢を知らざるか」と一喝した
というエピソードが残っています。

鹿児島で天皇は、この「世界の大勢」に強く反発している旧薩摩藩主の父、
島津久光と会見します。久光は「共和政治の悪弊」を挙げ、
旧臣の西郷と大久保の更迭を求めます。

久光の根深い怨念は、政界の重責を担うに至った西郷や大久保を
精神的にさいなみ続けることになるのです。

国内巡幸は49日間にわたり、天皇は8月15日、帰京しました


《ベルとエジソン》

岩倉使節団が図らずも長期滞在したアメリカは、1890年頃にかけて、
「金ぴか時代」と呼ばれる繁栄期でした。

これは「トム・ソーヤーの冒険」などで知られる作家の
マーク・トウェイン(1835~1910年)の共作小説
『The Gilded Age』(1873年)の題名に由来しています。

「Gilded」とは、金箔をかぶせたといった意味で、
カネ万能の社会と浅薄な成り金趣味を皮肉ったものとされます。

この時代の米大統領の一人、グラント(在任1869~77年)は、
金権政治にまみれます。鉄道建設に関連した公金横領事件や、
大統領個人秘書が絡むウイスキー業者の不正事件など議員や政府高官らの
汚職が続発し、南北戦争の英雄・グラントの名声も地に墜おちてしまいます。

他方、この時代のアメリカは、第2次産業革命によって技術革新が進み、
夢のある発明が相次ぎます。

スコットランド生まれの物理学者・ベル(1847~1922年)は、
難聴者のための学校を開き、音声研究から磁石式電話を発明し、
76年6月のアメリカ建国100年大博覧会では、電信電話装置を展示します。

同じく発明家にエジソン(1847~1931年)がいました。
新聞の売り子から電信技師となった彼は、タイプライターや謄写版、蓄音機、
白熱電球、電気機関車、活動写真などを矢継ぎ早に発明。

その特許は1093点にのぼったとされ、その発明品の数々が
人々の日常生活を一変させました。

新聞記者に「天才とは何か」と問われて、エジソンは、
「99%のパースピレーション(発汗)と1%のインスピレーション(霊感)」
と答えました。

つまり、大いなる努力とほんのわずかなひらめきが、
天才の成功の秘訣なのでした。


《カーネギーとロックフェラー》

鉄鋼界を代表する企業家・カーネギー(1835~1919年)や、
全米石油界に独占的な支配権を確立したロックフェラー(1839~1937年)
が活躍したのもこの時代です。

48年にスコットランドからアメリカにやってきたカーネギーは、
郵便配達などの職を転々とした後、鋼鉄製レールの生産を始め、
大量生産化に成功します。

彼は40歳のころ、進化論を唱えたイギリスの生物学者・ダーウィン
(1809~82年)の『種の起原』や、イギリスの社会学者・スペンサー
(1820~1903年)の社会進化論にいたく共感したといわれます。

スペンサーの哲学は、金ぴか時代のアメリカで、
百万長者も貧者も「自然淘汰の産物」などと受け止められ、
もてはやされました。

また、スペンサーの進歩史観は、日本にも移入され、
徳富蘇峰はこれを基礎に名著『将来之日本』(1886年)を書き、
ベストセラーになります。

 
カーネギーは晩年、莫大な財産を大学や図書館などに寄付します。
その一つ、ニューヨークのコンサート会場である「カーネギー・ホール」の
こけら落とし(91年5月)では、ロシアの作曲家・チャイコフスキー
(1840~93年)が指揮をとりました。

また、ロックフェラーも、慈善団体「ロックフェラー財団」の設立などに
巨費を投じ、教育・社会事業に力を尽くしました。

 
一方、大企業の出現や利潤追求を第一とする資本主義の進展は、
経営者と労働者との対立を生み、70年代には各地で労働条件の改善を
めぐる労使紛争が広がりました。

「労働騎士団」という名の組織が広がり、84年の鉄道ストライキを契機に
会員が増加、約70万人に膨らみます。

しかし、8時間労働を求める全国ストライキで、
無政府主義者が演説中、爆弾テロが発生し、この事件をきっかけとして
衰退に向かいました。

騎士団に代わって86年、職能別大組合の連合組織「アメリカ労働総同盟」
(AFL)が正式発足し、労働者の地位向上や賃上げなどを目指す
現実的な運動を通じて組合員を増やしていくことになります。


《アメリカ、世界一の工業国へ》

19世紀後半、日米両国でほぼ同時期に起きた、
「南北戦争」と「明治維新」を比較したユニークな論文に
「明治維新と南北戦争」(佐伯彰一『外から見た近代日本』所収)があります。

それによりますと、当時、日本もアメリカも、類似の国際的環境の下、
ヨーロッパ列強の干渉を招いて分裂国家に至る可能性がありました。

しかし、両国の指導者はこれを乗り切り、1860年代、
「近代化・ナショナリズムという同じ出発点につき、ともに猛烈な
スタート・ダッシュで走りつづけ」たというのです。

確かに、アメリカは、鉄鋼生産や石油精製など基幹産業が発展し、
80年代を境に農業国から工業国へと大きく転換。

19世紀末には、石炭採掘高でも、銑鉄生産高でも、綿花消費高でも、
イギリスを引き離し、世界第1の工業国に成長します。

日本経済も、この間に発展を遂げ、
「産業化、工業化、都市化という経済的な側面と、
常備軍の整備、充実という軍事的な側面との、二つについてみるなら、
両国の規模の相違は別として、ほぼそっくりの推移、展開」をたどります。

19世紀末、アメリカはスペインとの戦争(1898年)に勝利して
フィリピン・グアムを獲得。

日本が日清戦争(1894~95年)に勝利して台湾を領有するのも
同じ時期のことで、やがて両国は太平洋国家として対峙することになるのです。

   (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20170927-OYT8T50033.html

            <感謝合掌 平成30年4月25日 頓首再拝>

歴史は常に、ウソで動いていく - 伝統

2018/04/26 (Thu) 19:12:29

なぜ西郷どんの「ウソ」はゆるされたのか
歴史は常に、ウソで動いていく

         *Web:プレジデントオンライン(2018.2.13)より
              ~歴史家・作家 加来 耕三


《日本の植民地化を、防ぐための決意》

今のビジネスパーソンの世代は、「ペリー来航が引き金となって、
明治維新への動きが始まった」と習ったはずです。

でも、今の歴史学のコンセンサスでは、そこから13年前、
1840年に始まったアヘン戦争を明治維新の出発点と考えます。

当時の清(しん)の人口は3億5000万人、陸軍の兵力は88万人。
一方、当時のイギリスの人口は1300万人、投入した戦力は述べ2万人にすぎません。

それなのになぜ、清はイギリスに敗れたのでしょうか。

日本人で、その答えに最初にたどり着いた1人が、
薩摩藩主になる前の世子・島津斉彬(なりあきら)でした。

彼は清の敗北の原因が、封建制という社会体制そのものにあると気付くのです。
清では省の境を越えると、もう同じ「国」ではありませんでした。
天津がイギリス軍に攻められても、他の省はどこも助けに行かない。
88万の兵力は、バラバラだったのです。

三百諸侯が治める日本も、状況は全く同じでした。
封建制を改め、中央集権的な国民国家をつくる以外に、
日本の植民地化を防ぐ道はないと、斉彬は気付いたのです。

ところが幕藩体制のもとでは、島津家のような外様の大名には発言権がない。
ましてや当時の斉彬は、父である藩主、島津斉興(なりおき)の反対で、
藩主にすらなれずにいました。

そこでウソをつくわけです。


《旧幕府を挑発して、戊辰戦争を起こす》

1849年12月、薩摩藩でお由羅(ゆら)騒動と呼ばれるお家騒動が起きます。
次期藩主に斉彬を推す一派と、異母弟の島津久光(ひさみつ)を推す一派が対立し、
斉彬派の人々が腹を切らされたり、流刑や蟄居(ちっきょ)といった処分を
受けました。

でも、お由羅騒動を煽ったのは、実は斉彬だったのではないか、と私は見ています。

そもそもお由羅騒動の前に、斉彬は自らの藩主就任に反対していた
家老・調所(ずしょ)笑左衛門(広郷)を、藩が琉球との間で行っていた
密貿易を幕府に密告することで自殺に追い込んでいます。

騒動は結局、徳川幕府の老中・阿部正弘の助けもあり、斉興の隠居で決着しました。

それもこれも、一刻も早く自らが薩摩藩主になるためでした。
それは私利私欲ではなく、「日本の国を救うためにはこれしかない」と、
斉彬が信じていたからです。


西郷隆盛も同じようなことをやっています。
1867年、「討幕の密勅」〈実はこれも、岩倉具視(ともみ)らによる
偽造文書です〉が薩摩に下された翌日、徳川慶喜(よしのぶ)が
大政奉還を宣言しました。

当時の朝廷の経済力は10万石、対して徳川幕府は公称800万石、実質400万石。
このままでは、新政府ができても徳川家が実権を握ることは避けられません。

新しい体制をつくるには、戦争をして旧幕府を打倒する必要がありました。
そこで西郷は、配下の薩摩藩士らに密命を与え、
江戸市中で放火や殺人、強盗などのテロ活動(薩摩御用盗事件)を展開。

ついには市中の取り締まりを担当していた庄内藩の屯所(とんしょ)に
鉄砲まで撃ち込み、薩摩藩邸焼き討ち事件を誘発させます。

これが戊辰(ぼしん)戦争の引き金となり、
最終的には明治新政府の誕生につながるわけです。

鳥羽・伏見の戦いでひるがえったという錦の御旗。
あれも公家の岩倉具視が中心となり、大久保利通と長州の品川弥二郎が
でっちあげたものです。

「見たことはないが、たぶんこうだろう」と、
買ってきた西陣織の布で作ったのです。

そんな代物でも、錦の御旗が上がったという情報で旧幕府軍は戦意を喪失。
態勢を立て直そうと向かった淀藩からは入城を拒否され、
近くを固めていた津藩からも、賊軍扱いされて大砲を撃たれてしまいます。

これは大変だと大坂城に帰れば、慶喜はすでに逃げ出して江戸に向かっている。
みんな錦の御旗という「ウソ」にやられたわけです。


《歴史は常に、ウソで動いていく》

これ以外にも、「討幕は毛頭考えていない」と薩摩藩内を説得して
鳥羽・伏見に兵を出した島津久光、

藩は残すと殿様に約束しながら廃藩置県を断行した西郷と大久保など、
維新の立役者たちがついた、さまざまなウソが残っています。

最近、薩長が政権を取らずに、もう少しましなやり方で明治維新が行われたら、
日本はもっと豊かな国になった、
あるいは軍国主義に行かなかったという議論が出ています。

でも、それは結果論にすぎません。

斉彬も久光も、西郷も大久保も、明日どうなるかわからない状況下で
自らが最善と考える選択をし、結果としてウソが生じてしまったのです。

自分の利益をはかるためだけのウソ、相手を傷つけるためのウソは論外ですが、
私利私欲でない信念、西郷が言う「至誠」の気持ちを胸に、
確たる目的意識をもってつくウソは許される、と私は思います。

明治維新に限らず、歴史は常にそうしたウソで動いていくものだからです。

       (http://president.jp/articles/-/24396

            <感謝合掌 平成30年4月26日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第4回~「国民皆学」と「国民皆兵」 - 伝統

2018/04/27 (Fri) 17:30:34

        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年10月18日)より

《走り出す留守政府》

岩倉具視、木戸孝允らがアメリカに長逗留している間、
留守政府の大隈重信や井上馨(かおる)、江藤新平、
山県(やまがた)有朋(ありとも)らは、使節団との「約定」に拘束されず、
軍事・教育・税制面で近代化政策を展開していきます。

この「約定」というのは、使節団出発3日前の1871(明治4)年12月、
岩倉や木戸、大久保利通らの使節組と、留守を預かる三条実美(太政大臣)、
西郷隆盛(参議)、大隈重信(同)、板垣退助(同)らの間で交わされた、
「約定12か条」の覚書のことです。

覚書は、「国内外の重要案件は、お互いの報告を欠かさない」、
「内地の事務は、大使が帰国のうえ改正するので、なるべく新規の改正をしない」、
「諸官省長官の欠員は任命せず、官員も増やさない」などとしていました。

つまり、新規事業や重要人事を事実上、凍結する内容でした。

しかし、留守居組は、大隈の表現を借りれば、既定の施策はもとより新規の政策を、
「前後を顧慮する暇いとまもなく」、あれよあれよという間に「短兵急に断行」
(『大隈伯昔日譚(たん)』)していったのです。

しかし、その後、使節団のアメリカでの条約交渉失敗をはじめ、
留守政府による新規政策や太政官制改革など「約定違反」の出来事が相次ぎます。

それは使節団と留守政府との間に軋(きしみ)を生じさせ、
岩倉使節団帰国直後の大政変(明治六年政変)の一因になります。


《身分制度の廃止》

明治維新が人々にもたらした変革のはじまりは、封建的身分制度の廃止でした。

69年の版籍奉還で藩主―藩士の主従関係が解消されたのに伴い、
政府は、これまでの藩主・公家を「華族」、藩士や旧幕臣を「士族」、
百姓・町人を「平民」と定めました。

72年、平民には、苗字(名字)をつけることが初めて許されました。
また、華族・士族・平民相互の結婚も許可されました。

71年5月には戸籍法が定められ、「四民(士農工商)平等」の見地から、
これまでの身分を基本にした「宗門人別帳」をやめ、
住地別に記載する統一戸籍が編成されます。

73(明治6)年当時の日本の総人口は、
合計3330万672人だったというデータがあります。
内訳は華族2829人、士族154万8568人、
卒(足軽などの下級武士)34万3881人、平民3110万6514人、
その他(僧侶や神職など)29万8880人で、
平民が全体の93%を占めていました。

71年10月、政府は、いわゆる解放令(穢多えた・非人ひにん等の称廃止令)を
布告し、封建的身分制度で最下層だった賤民身分を廃止し、
身分・職業は「平民同様たるべき事」としました。

ところが、行政府みずからが廃止令に反し、
旧賤民身分に「新平民」の呼称を用いて差別扱いしました。

その後も、被差別部落の住民に対する社会的、経済的な差別は解消されず、
西光万吉が差別の撤廃を求めて「全国水平社」を結成するのは、
1922(大正11)年のことです。


《学制公布》

明治維新当時、わが国には、徳川時代からの寺子屋や藩校、郷学、私塾など
多数の教育機関がありました。

維新政府の成立宣言といえる「五箇条の御誓文」は、「旧来の陋習を破り」
「智識を世界に求め」と、新しい教育の指針を示しました。

69(明治2)年1月、木戸孝允は、「人民の富強こそが国の富強」の礎であり、
一般人民に知識がなくしては維新も空名(くうめい)に終わるとして、
「全国に学校を振興」するよう唱えました。

伊藤博文も、東西両京に大学を、郡村に小学校を設けることを提案しました。

ただ、こうした文明開化の教育路線は、儒学や国学中心の教育を求める
論者から批判を受け、直ちに政府の受け入れるところにはなりませんでした。


廃藩置県直後の71年9月、教育行政を担当する文部省が設置され、
文部大輔(たいふ)(文部次官)の江藤新平(1834~74年)が
最高責任者になりました(文部卿=文部大臣は欠員)。

当時、新政府の教育行政機関だった「大学校」は、
国学派と儒学派と洋学派が対立して紛争を続けていました。

江藤は、文部省に加藤弘之(のちの東京大学総長)や
箕作(みつくり)麟祥(りんしょう)(のちの行政裁判所長官)ら洋学者を採用し、
教育行政にも啓蒙主義路線を敷きます。

江藤と同じ佐賀藩出身の大木喬任(たかとう)(1832~99年)が文部卿に就任し、
72(明治5)年9月、日本の基本的な学校制度を定めた法令
「学制」が公布されました。


《「不学の戸」をなくす》

「学制」の趣旨を明らかにした「被仰出書(おおせいだされしょ)」
(学事奨励に関する太政官布告)を読んでみましょう。

まず、「学問は身を立るの財本(ざいほん)」にして、
「人たるもの誰か学ばずして可ならんや」と、国民すべてに学問が必要だと強調。

そして今後は、「一般の人民、必ず邑(むら)に不学(ふがく)の戸なく、
家に不学の人なからしめん事を期す」と、男女の別なく、
すべての子供を小学校に就学させるとしています。

言わば<国民皆学(かいがく)>のススメです。

また、授業も、「国家のため」と唱えて「空理(くうり)虚談(きょだん)」
(無駄な理屈)に陥っていた従来型を改め、読み書きそろばん、職業上の技芸、
法律・政治・天文・医療など実学を重視するよう求めました。

この内容は、福沢諭吉著『学問のすゝめ』(72年3月に初編刊行)に記された
「一身独立して一国独立す」の思想の影響がみられます。

当時、福沢の感化力は大きく、「文部卿は三田(慶応義塾の所在地)にあり」
とまでいわれていたそうです。

学制の本文は、全国を8大学区に区分し、各大学区に大学校1、中学校32、
各中学区に小学校210を設ける計画を示し、国民はすべて6歳で
入学するとしていました。

学区制はフランスがモデルでしたが、これだと小学校を全国で
計5万3760校もつくる勘定になります。人口600人に1校というのは、
いかにも非現実的で、結局、机上のプランに終わりました。

しかし、文部省は、小学校の設立に力を注ぎ、
75年には全国に2万4303校が生まれます。

就学率も35%(男子51%、女子19%)になりました。
就学が敬遠された理由は、児童が貴重な労働力であったことや
授業料負担にあったようです。


73年の「小学教則」で、教科は
「読物・算術・習字・書取・作文・問答・復読・体操」の八つに定められました。
福沢が世界の地理や歴史について書いた『世界国尽(くにづく)し』も、
授業で使われていて、児童らは「世界は広し万国は、多しといえど、
おおよそ五つに分けし名目は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、
北と南のアメリカに、境限りて五大州」などと、名調子の七五調で暗唱し、
世界への目を養いました。


《徴兵令と山県有朋》

政府は71年3月、薩摩・長州・土佐の3藩の合計1万の兵によって、
親兵(のち近衛兵に改称)を編成し、自前の軍隊をもちました。

8月に廃藩置県の詔書が出されると同時に、兵部(ひょうぶ)大輔(たいふ)に就いた
山県有朋(1838~1922年)は、旧藩兵の解散を告示し、全国の兵権
(軍を指揮する権能)を掌握します。

72年4月、兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が置かれ、
山県は陸軍大輔に任命されました。

長州藩士の山県は69年から、薩摩藩士の西郷従道(1843~1902年、隆盛の弟)
とともに赴いた、1年間にわたるヨーロッパ軍制視察で、西洋文明の洗礼を
受けていました。

兵制の採用にあたり、山県は、「プロイセン式」を志向しましたが、
陸軍はすでに「フランス式」を決定済みでした。

同年12月、「全国募兵」の制を設けるとの徴兵の詔書が発せられます。
次いで翌73年1月10日、国民の兵役義務を定めた徴兵令が出されます。


徴兵の詔書と同時に公にされた太政官の告諭こくゆは、大政一新して、
士族も平民も等しく皇国の民であり、国に報いる道に別はない、と述べています。
国民皆兵論者だった故・大村益次郎の遺志は、ここに生かされました。

しかし、国民皆兵制は士族の既得権を脅おびやかすものでしたから、
政府内でも賛否両論が沸き上がりました。

反対論者は、「武芸や戦争を知らない農工商の子弟は、その任に堪たえられない」
「我が国の地勢では、ヨーロッパの大陸諸国のように徴兵で大兵を備える必要はない。
英米両国のように志願制がよい」などと主張しました。

これに対して、賛成派は「志願制にすれば、薩長その他の強藩の兵ばかりになり、
戊辰戦争で敗れた東北諸藩の兵士は徴兵を拒否し、そこに対立が生まれる」
「財政上も、志願制は徴兵制に比べ、多額の経費を要する」などと反論しました。

徴兵の詔書が出た翌日の72年12月29日、大きなスキャンダルが発生しました。
政商・山城屋和助陸軍省内で割腹自殺したのです。

山城屋は長州藩奇兵隊で山県の部下でした。陸軍省出入りの御用商人として、
巨利を博し、パリで豪遊していたところを目をつけられ、
帰国後、借用した公金の返済を迫られ万事休したようです。

この不祥事で山県は窮地に追い込まれ、近衛都督を辞します。
西郷参議がこれを兼務し、近衛兵の動揺を抑えて、山県は政治生命をつなぎます。

それでも山県には、幕末の長州藩で奇兵隊という精兵をつくりだした実績がありました。
それが徴兵制反対論を抑えるうえで役立ったといえます。


《徴兵逃れ》

徴兵令によると、男子17歳から40歳までを兵籍に登録して国民軍とします。
20歳をもって徴兵検査を行い、さらに抽選をもって現役に徴募して
3年の常備軍を編成するとしていました。

常備軍役を終えた者は、家に帰って仕事をしますが、
年に1度の短期勤務のある第一後備役2年、勤務のない第二後備役2年の
合計7年間にわたる兵役義務を定めていました。

しかし、徴兵令にはたくさんの「例外」(免役制)が設けられていました。

例えば、身長5尺1寸(約1メートル54センチ)未満の人や、
官吏、医科学生、海陸軍・官公立学校生徒、外国留学者などは
兵隊にとられませんでした。

また「一家の主人」(戸主)とその後継ぎ、一人っ子、一人孫などや、
養子も除外されました。

このため、徴兵検査の前にいったん誰かの養子に入って徴兵を逃れる
「徴兵養子」という言葉がありました。

さらに代人料といって、270円を上納すると「常備後備両軍を免ぜられる」
という金持ち優遇の仕組みもありました。

つまり、国民皆兵といいながら抜け穴だらけで、
「徴兵逃れ」は後を絶ちませんでした。

陸軍現役兵の徴集人員は、73年の2300人で始まり、
次第に免役条件が狭められ、「国民皆兵」の原則に近づいていきます。


《地租改正》
 
明治政府は、各藩の借金を引き受けました。
ただし、そのすべては負いかねるとして、踏み倒したケースも多かったようで、
大名に金を貸していた34の商家のうち23家が倒産したと言われます。

発足したばかりの明治政府の財政は、それだけ困難を極めていました。
各省から予算要求が殺到し、それぞれの政策を実施するには安定した財源が
欠かせませんでした。

政府の歳入は、それまで農民が年貢として納める米で賄われてきました。
ところが、豊年と凶年で収穫高に増減があるうえ、
全国から集まる米の保管も大変でした。

土地税制改革は、摂津県知事だった陸奥宗光らが具体的なプランを提出し、
論議が活発化しました。とくに政府機関の制度寮にいた神田孝平(たかひら)は70年、
米納原則の弊害を指摘、田地売買を許可し、金納に改めるよう提案しました。

こうした中、大蔵省は、財政再建を期して土地と税制の大改革、
すなわち「地租(土地に対して課する収益税)改正」にいよいよ着手します。

岩倉使節団出発前の71年10月、大蔵卿・大久保利通と大蔵大輔・井上馨が、
統一国家にふさわしい新税制の必要を建議します。
租税負担の公平を図ること、「米納」に変えて「金納」租税に統一すること、
土地売買の自由などが政府の基本方針として打ち出されます。

72年、田畑永代えいたい売買の禁止令を解除、土地の所有者を確定し、
地券(土地所有権を示した証券)を与えます。
地券には、土地収益から算定した地価が記載されており、
これに基づいてその3%を地租として徴収することにしました。

さらに地方税として1%が加算されることになります。

地租改正は、73年7月に条例が公布され、81年までにほぼ完了します。


《太陽暦の採用》

政府は旧暦(太陰太陽暦)を廃止して太陽暦を採用することにしました。
これも西洋諸国にならったものです。

その移行を前にして72年11月9日(旧暦)、改暦の式が皇居で行われました。
明治天皇は伊勢神宮を遥拝した後、明治5年12月3日をもって明治6年1月1日となす、
と告げました。

天皇が正院で太政大臣・三条実美に示した改暦の詔書によれば、その理由として、
2、3年ごとに「閏うるう月」を置かなければならない太陰暦に比べて、
太陽暦は4年ごとに1日を加えればよく、最も精密で極めて便利である旨を挙げていました。

また、これとは別に、国家財政の上からも太陽暦導入の必要に迫られていました。
明治政府は、官吏の俸給を前年から月給制としたため、13か月になる閏年では、
支出額が1か月分増えてしまいます。

当時、そんな財政余力はなく、来年に閏年が迫る中で、
太陽暦の実施を決断したというわけです。

しかし、突然の暦の変更で迷惑をこうむったのは庶民です。
当時は、商取引で「大晦日か払い」が多く、突然、それが
1か月繰り上げられたわけですから、商工業者らはさぞや大あわてしたことでしょう。


《「新政反対」一揆》

こうした新政府による一連の近代化政策は、国民の間に新たな負担・不安感を与え、
これに反対する「一揆いっき」が頻発します。

とくに徴兵制の「兵役義務」は、これを忌避する道はあったにもかかわらず、
反発が広がります。とくに徴兵告諭の中に、西洋人は兵役を称して「血税」と言い、
「其生血(そのいきち)を以(も)って国に報ずるの謂(い)い(意味)なり」
と書かれていたことから、徴兵が生き血をとるという流言を生んだのです。

このため、徴兵令制定の73年から74年にかけて、
三重や福岡、大分、愛媛各県など西日本を中心に徴兵令反対の
農民一揆(血税一揆)が続発しました。

73年5月の北条県(岡山県)美作(みまさか)地方の一揆には、
大阪鎮台の軍隊が出動し、処罰者は死刑も含めて2万7000人近くに上りました。

これら一揆の理由には、徴兵だけでなく地券発行や断髪・洋服、小学校の建設費負担、
新暦採用なども挙げられていました。

なかでも地租改正は、農民たちに対し、これまで以上に重い税が課されるのではないか
という強い不安を与えていました。税の軽減を求める一揆の発生を受けて、
政府は77年、地租の税率を2.5%に引き下げます。

   (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20171012-OYT8T50079.html

            <感謝合掌 平成30年4月27日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第5回~津田梅子と大山捨松 - 伝統

2018/05/08 (Tue) 17:31:02


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年11月01日)より

《サムライの娘たち》

1871(明治4)年12月、日本を出発した岩倉使節団の中の
5人の女子留学生の名は、津田梅子(うめこ)(数え8歳)、永井繁子(しげこ)(9歳)、
山川捨松(すてまつ)(12歳)、吉益(よします)亮子(りょうこ)(15歳)、
上田悌子(ていこ)(16歳)でした。

アメリカで教育を受けるのが目的で、少女たちのお世話役は、
使節団に随行してアメリカに帰国する駐日公使デロングの夫人でした。

横浜港で、児髷(ちごまげ)に振り袖姿の彼女たちを見送る人々の間からは、
こんな声が漏れたそうです。

「あんな娘さんをアメリカ三界(さんがい)(くんだり)へやるなんて、
父親はともかく、母親の心はまるで鬼でしょう」

最年少の津田梅子の父親は、元佐倉藩士で洋学者の津田仙でした。
仙は67(慶応3)年、幕府のアメリカ軍艦購入にからむ交渉で
ワシントンに派遣された勘定吟味役・小野友五郎の随員として渡米した経験がありました。
同じ随員の中には福沢諭吉もいました。

仙は訪米の際、サンフランシスコで断髪し、
自分の髪を国元へ送り、異様な頭で帰国しました。
このエピソードからも相当な開明派だったことがわかります。

山川捨松の父・尚江は会津藩家老をつとめた人で、
長兄の浩は、幕府のロシア使節団に随行した経験があり、
次兄の健次郎は、当時、北海道開拓使から留学生に選ばれて米国に派遣されていました。

「捨松」は「咲子」から改名したものです。
「捨て」たつもりで娘を手放す覚悟と、無事の帰還を「待つ」母の思いが、
この名に込められたといわれます。

永井繁子は、静岡県の士族のところへ養女に出されて永井姓でしたが、
実兄は、のちに三井物産社長など三井財閥で活躍する益田孝です。
益田は、幕末に遣欧使節の随員となった父親の従者として
ヨーロッパを訪問したことがありました。

吉益亮子の父は東京府士族で外務大録、上田悌子の父は元新潟県士族で、外務中録でした。

こうしてみると、5人の父親は、いずれも士族で、海外事情に通じ、
明治維新ではいわば「敗者」の側に置かれていました。


《女子留学生の発案》

この時代に女子をアメリカに留学させようと考えたのは誰だったのでしょうか。

提唱者は黒田清隆(1840~1900年)です。
政府軍参謀として函館・五稜郭の戦争を平定した黒田は70年、
「開拓使」(北海道・樺太の開拓・経営を担当する官庁)の次官になります。

黒田は北海道の開拓事業を進めるためには、
近代技術の導入や日本人の人材教育が必要だと考えました。

71年には、7人の留学生とともに訪米してグラント米大統領と会談し、
米農務局長・ケプロンの招聘(しょうへい)に成功しました。

この半年間にわたる訪米で、アメリカ女性の社会的地位の高さや
女子教育の進展に刺激を受けた黒田は、帰国後、女子留学の意見書を政府に提出し、
開拓使から派遣する女子の募集を始めました。

明治初期の女子教育は、上流の子女は家庭で、
一般家庭ではわずかの子女が寺子屋などで読み書きを学ぶ程度でした。

政府が学制を公布して女子教育を制度化し、初めて女学校も開校するなど、
女子教育が緒に就くのは72年のことです。

黒田には、「教育を受けた女性からは、賢い子が育つので、
次代のために女子を海外に送り出そう」という発想が強かったようですが、
当時の少女の外国留学自体、きわめて大胆な試みでした。

留学期間は10年、政府から年間800~1000ドル(当時1ドルは1円)が
支給されることになっていました。
東京帝国大学の授業料(79年)が年額12円という時代ですので、
大変な厚遇といえました。

ところが、当初、応募者は全くありませんでした。
追加募集の末、津田ら5人だけが応募し、全員が合格しました。

彼女たちは出発前、明治天皇の美子(はるこ)皇后から皇居に呼ばれ、
女子の「洋学修業の志誠」は殊勝なことであり、
帰国のうえは「婦女の模範」になるように、と書かれた沙汰書を下されました。


《アメリカの娘として》

72年2月、ワシントン入りした5人のうち、吉益と上田の年長の2人は、
健康がすぐれず、留学生活を断念して帰国することになります。

津田梅子(1864~1929年)は、ワシントン郊外ジョージタウンに住む
日本弁務使館(公使館)書記官・ランマンの家にあずけられます。

はじめは1年という約束でしたが、結局10年の長い年月を、
知的で生活に余裕のあるランマン夫妻に、
我が子同様愛されて過ごすことになります。

梅子は、そこから私立小学校に通い、73年7月にはキリスト教の洗礼を受けます。
78年夏からは、女学校のアーチャー・インスティチュートで学びました。

 
一方、大山捨松と永井繁子は、72年10月、米コネチカット州ニューヘイブンの
ベーコン牧師の家に引き取られます。
ベーコンは奴隷解放の運動家としても知られた人物でした。

繁子は、間もなく別の牧師の家に移ります。

75年9月、捨松は男女共学の公立高校に入学し、
3年後には名門女子大学として知られるバッサーカレッジに合格して寮生活を送ります。

繁子も、音楽専攻特別生として同カレッジに入学しました。

捨松の成績はトップクラスで、在学中、校内誌に
「日本の明治維新とその政治的背景」と題する記事を書く一方、
卒業時には、イギリスの対日外交政策を批判する演説をしています。

繁子は81年に一足先に帰国し、バッサー在学中に知り合った、
アナポリス海軍兵学校の留学生・瓜生(うりゅう)外吉(そときち)
(のちの海軍大将)と結婚し、東京音楽学校でピアノを教えます。

梅子と捨松は、いずれも留学期間を1年間延長して、
梅子は高校卒の資格を、捨松は学士号をそれぞれとります。

捨松は、米国の大学の学位をとったアジア人初の女性といわれます。

梅子と捨松は、一緒に帰国の途につき、82年11月、横浜港に着きました。

アメリカの娘として育った梅子も捨松も、まる11年ぶりの日本とあって、
もはや日本語がわかりませんでした。
故国は異国になり、まるで異邦人のようでした。

2人は、カルチャーショックに見舞われながら、日本語の読み書きを学習しますが、
「長い、含みのある、意味のはっきりしない、理解し難いセンテンス」(梅子)
に大変、苦しみます。

加えて2人を困惑させたのは、仕事が見つからないことでした。
政府は、彼女たちを鳴り物入りで国費留学生として送り出しながら、
帰国後の受け入れ態勢をとっていませんでした。


《津田塾大学を創立》

83年11月、梅子は、岩倉使節団のメンバーとして同じ船で渡米した
参議・伊藤博文に再会し、伊藤家の家庭教師をします。
そのあと華族女学校の開設と同時に英語教師となることができました。

しかし、梅子はそれに満足することはできませんでした。
89年には再び渡米してブリンマー・カレッジに入学し、生物学を専攻します。
ここで書いた論文「カエルの卵の適応性」は、日本女性として初の科学論文です。

92年に帰国した梅子は、再び華族女学校で教鞭きょうべんをとり、
98年には女子高等師範学校教授を兼任します。

そして在米中に抱いた夢である、
日本の女子高等教育向上のための私塾の創設に動きます。


梅子は、アメリカ留学で捨松がお世話になったベーコン牧師の末娘、
アリスの協力をあおぐため、捨松とともにアリスの再度の来日を懇請します。

アリスは88年から1年間、華族女学校の講師をしていました。

1900年7月、勤務していた両校教授のポストを辞した梅子は、
「女子英学塾」(津田塾大学の前身)設立の認可をとると、塾長に就任。
捨松が顧問に就き、教師陣にはアリス・ベーコンらを迎えました。

梅子は9月、10人の生徒を前に開塾のあいさつをし、

「将来英語教師の免許状を得ようと望む人々に、確かな指導を与えることが
塾の目的の一つ」としたうえで、英語だけでなく、幅広い知識と教養をもち、
しとやかで謙虚な「完まったき婦人、
すなわち allroundオールラウンド womenウーマン」

を目ざして学ぶことを強調しました。

梅子は、女子のための最高学府の官位を返上した直後、
アメリカの友人に対し、手紙で「とうとう私は“自由”になったのよ
……保守的なものや古いしきたりとは決別し、一平民として、
やりたいことをやりたいようにやるつもりです」と書いています
(ジャニス・P・ニムラ『少女たちの明治維新―ふたつの文化を生きた30年』)。

少女時代から背負わされてきた重い荷を降ろした解放感が伝わって来ます。
岩倉使節団の一員として訪米してから30年近い歳月が流れていました。


《鹿鳴館の貴婦人》

山川捨松(1860~1919年)は、戊辰ぼしん戦争の会津攻防戦のとき、
わずか8歳の身で、家族とともに鶴ヶ城に籠城しました。
与えられた仕事は「蔵くらから鉛の玉を運びだす」ことでした。
官軍の砲弾によって義姉は無残な死に方をし、自分も軽傷を負いました。

敗戦後は、会津若松を去って移封先の青森・斗南(となみ)地方に送られ、
極寒不毛の地で野良仕事を手伝ったりしています。

捨松は83年11月8日、陸軍卿(きょう)の
大山巌(いわお)(1842~1916年)と結婚しました。

旧薩摩藩で西郷隆盛の従弟にあたる大山は、戊辰戦争には砲兵隊長として各地を転戦し、
会津の鶴ヶ城攻防戦に参加していました。

城に砲弾を撃ち込んでいた宿敵・薩摩の軍人からの結婚申し入れを、
山川家は拒絶します。

しかし、西郷の弟で農商務卿だった西郷従道が間に入って説得し、
山川家も捨松の意思次第というところまで折れます。



大山は70年、ヨーロッパを訪問して普仏戦争を視察し、いったん帰国後、
今度は陸軍少将として渡欧し、フランスで軍政や砲術を研究して74年に帰国しました。
80年には陸軍卿に就任します。

大山は当時、24歳の捨松より18も年上で、妻を亡くして3人の娘がいました。
大山はパーティーの席上、外国語に堪能ですらりとした美人の捨松を見そめたようです。

当時、捨松は、宿願の学校を作る夢をあきらめ、結婚を考え始めていました。
大山からの結婚申し込みに関して、捨松は、アリス・ベーコンあての手紙に、
仕事か結婚か、揺れ動く心を綴つづっています。

「私はお国のために結婚するのではありません。私はこの結婚を日本のためばかりでなく、
自分自身のためにも真剣に考えています。お国のために役立つからといって、
自分自身がみじめになるのはいやですが、自分も幸せになれ、
その上お国のためにも役に立つ道もあるはずだと思います」
(久野明子『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松』)

大山夫妻は、条約改正を悲願とする明治政府が開設した洋風2階建ての
社交場「鹿鳴館」で、結婚披露の晩餐会を開きました。
捨松はアメリカ仕込みの接待術をみせ、社交界に本格デビューし、
「鹿鳴館の花」とうたわれる存在になるのです。


《官費留学生が急増》

ヨッロッパの先進文化の摂取せっしゅに躍起だった明治新政府は、
徳川幕府と同様、海外留学に熱意をみせ、これを推進しました。

例えば、欧米の軍事・兵制・兵器研究などのため、
山県有朋や西郷従道、大山巌、品川弥二郎らを欧米に派遣したのが好例です。

70年には、陸軍兵学寮の生徒10人をフランスに、
海軍兵学寮でも、4人をアメリカへ、12人をイギリスにそれぞれ派遣しています。

文部省をはじめ、開拓使、大蔵省、工部省も積極的に留学生を送り出す一方、
71年には、華族に対して勅諭が出され、社会的指導層にふさわしく、
文明開化の役割を果たすようにと、留学・海外視察を推奨しました。

こうして70年末から71年の前半までの間、留学生が急増し、
その数は350~360人と、この時期のピークに達しました。
留学先はアメリカが最多で、これにイギリス、さらにドイツ、フランスが続きました。

しかし、留学生の急増は、質的なレベルの低下を招き、
一部の雄藩出身者に偏かたよる人選なども問題化します。

とりわけ、官費留学生の費用の増大が国の財政を圧迫し、
大蔵省などが留学生の減員と整理を求めます(石附実『近代日本の海外留学史』)。

 
こうして岩倉使節団は、在外留学生の実態調査を行うことを委託されました。
使節団の副使・伊藤博文は、実態調査の結果を受け、
ロンドンから留守政府にあてて、このままでは

「独り人才(じんさい)を養育するを得ざるのみならず、巨万の財用(ざいよう)を捨て」
ることになるので、留学生の「修学の方法を一洗」する必要があると進言しました。

     (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20171026-OYT8T50008.html

            <感謝合掌 平成30年5月8日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第6回~大久保利通と資本主義 - 伝統

2018/05/09 (Wed) 21:11:33


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年11月15日)より

《自由貿易帝国主義》

岩倉使節団は1872(明治5)年8月17日、イギリスのロンドンに到着しました。

イギリス経済は1840年代、どん底状態にありましたが、
51年、ロンドンで開かれた第1回万国博覧会を機に高度経済成長の波に乗ります。

全館ガラス張りの大展示館「水晶宮(クリスタル・パレス)」が人気を集め、
5か月半で延べ600万人を超える入場者を記録しました。

この大イベントは、「世界の工場」と称されたイギリスの経済力と技術水準を
各国に誇示する場となりました。

1840~60年代のイギリスは、海外膨張の時代でもありました。

この時にとられた帝国政策は、イギリスの研究者によって
「自由貿易帝国主義」と名付けられています。

ここでは、政治的には独立国であっても、イギリスの圧倒的な経済勢力圏に
取り込んでしまう形を「非公式帝国」(ラテンアメリカ諸国や中国など)と呼びます。

これが奏功そうこうせず、相手国から抵抗を受けた場合は、
軍事力によって「公式帝国」(インド、オーストラリアなど)、
つまり政治的にも経済的にも植民地にして支配するというものです。

実際、日本も、この政策の例外ではなく、
54年の日英和親条約、58年の日英修好通商条約締結により、
イギリスに有利な自由貿易を強いられていました。


岩倉使節団は、ロンドンで、この不平等条約改正へ地ならしの交渉をするわけ
ですが、結局、進展はみられませんでした。


《ヴィクトリア女王》

そのころのイギリスは、ヴィクトリア女王(1819~1901年)の治世でした。
女王は37年に18歳で即位し、ドイツ出身のいとこアルバート公と結婚、
9人の子供を産みました。在位は64年の長きにわたりました。

40~50年代には、清朝を相手にアヘン戦争やアロー戦争(第2次アヘン戦争)を
起こす一方、57~59年のインド大反乱を鎮圧したあと、直接統治に乗り出し、
77年、インド皇帝に即位します。

岩倉使節団が予定より大幅に遅れて到着した結果、
避暑でスコットランドの離宮にいた女王とは、すぐに謁見できませんでした。

結局、ロンドン郊外のウィンザー城で、女王と会見できたのは12月5日のことです。

女王は席上、その右隣に座った第2王子・エジンバラ公が、
69年8月に訪日した時の日本の接遇に謝辞を述べました。


実は、日本政府は、エジンバラ公が皇居の門を通る際、
外国人の「穢けがれ」から皇居を守るためとして、
御お祓はらいの儀式を行っていました。

幸い、外交問題化することはありませんでしたが、
エジンバラ来日の準備にあたった岩倉具視らは、
イギリス王室の離宮に入り、つい3年数か月前の出来事を思い起こしたかもしれません。


《大久保利通の手紙》

岩倉使節団は、4か月にわたるイギリス滞在中、数多くの産業都市を訪れました。
大久保利通がその模様を西郷隆盛に手紙で伝えています。

「首府(大都市)ごとに、製作場(工場)あらざるはなく
、なかんずく盛大なるはリバプール造船所、マンチェスター木綿器械場(綿紡績工場)、
グラスゴー製鉄所、グリーノック白糖器械(精糖工場)、
エジンバラ紙漉しろく器械所(製紙工場)
、ニューカッスル製鉄所(アームストロングの小銃・大砲製作所)、
ブラッドフォード絹織・毛織物器械所、バーミンガム麦酒・ガラス製作所……。

これに次ぐ大小の器械場、枚挙するにいとまあらず、
英国の富強をなす所以ゆえんを知るに足るなり。
僻遠(へきえん)に至り候そうろうても、道路橋梁に手を尽くし、
馬車はもちろん、汽車の至らざる所なし」

イギリスでは、1830~40年代に鉄道ブームが起こり、
鉄道営業距離は急速に伸びて、60年までに蒸気機関車が全土を走っていました。

使節団の記録係・久米邦武は、イギリスの旅を次のように総括しました。


<英国は商業国である。船を五大洋に派遣し、世界各地から天産物を買い込んで
自国に運び、それを石炭と鉄の力を借りて工業製品とし、
ふたたび各国に輸出して販売している。

欧米列国で工業生産を志すものは、
その生産原料を英国市場において求めなければならない。

また、農業に従事する者もまた、その収穫した産物を
英国市場に向けて取引しなくてはならない。

ロンドンという一つの都市に世界的大市場が成立し、
世界の工業生産や貿易が盛んになるに従って、ロンドンはますます繁栄し、
いまや350万の人口を持つ大都市となるに至った>(『現代語訳 米欧回覧実記』)

 
大久保も、世界一のイギリスの経済力の源泉は
「工業生産と貿易」にあると見極めました。

そして元薩摩藩士の大山巌(いわお)への手紙には、英国諸都市の繁栄は、
「五十年以来の事なるよし。然(しか)れば皆、蒸汽車発明あって后のちの義」
と書きました。

これは、日本も産業革命を推進すれば、約50年でキャッチ・アップは可能だ
、と判断したとも言えます。

しかし一方で、大久保は、イギリス滞在中、同行者に
「私のような年取ったものは、これから先の事はとても駄目じゃ、
もう時勢に応じられんから引くばかりじゃ」と弱気な言葉を吐いています。

イギリス人から、同じ島国の日本は「東洋のイギリス」と言われても、
なぜ、こんなに彼我の差が生じたのかを考えると、
前途多難を思わざるを得なかったのでしょう。


《殖産興業政策を推進》

大久保は、次の訪問国であるプロイセンの日程を終えると、
一足早く帰国の途につき、73(明治6)年5月26日、帰国します。

大蔵卿(大臣)だった大久保は、「明治六年(征韓論)政変」を乗り切ったあと、
殖産興業政策の推進機関として「内務省」を設置(73年11月)して
内務卿を兼務しました。

「おおよそ国の強弱は人民の貧富に由より、人民の貧富は物産の多寡たかに係る」
(74年の勧業建白書)として、国民生活・経済重視の姿勢を打ち出します。

政府主導の「上から」の産業育成策――つまり殖産興業の強化を図ることになります。

この政策こそ、日本に、欧米で生まれた資本主義――工場や機械・原材料などの
生産手段を所有する資本家が、労働者から労働力を商品として買い、
生産活動を行って利潤をあげる経済体制――を独自に導入・移植しようとする
試みにほかなりませんでした。

殖産興業は、すでに70年に設置された工部省が手がけていました。
まず、鉄道を敷設し、旧幕府が経営していた佐渡・生野いくのの鉱山や
長崎造船所、さらには旧藩営の高島・三池みいけなどの炭鉱も、
それぞれ接収して官営事業にしました。

通信では71年、前島密(ひそか)の提案で、江戸時代の飛脚制度にかわって
近代的な郵便制度が出来ました。電信も、69年に東京・横浜間で開通し、
間もなく全国規模のネットワークに発展します。

大久保は、内務卿として、農業技術の近代化と農地開拓を進めます。

前者は、現在の東京・新宿御苑の地に置かれた内藤新宿試験場(一般農業技術
・牧畜・養魚・製糸・製茶など)、三田育種場(植物試験場)、
駒場農学校(東京大学農学部などの前身)、下総(しもうさ)種畜場(牛・馬・
豚の改良と羊の飼養しよう)などを拠点とし、

後者では、福島県安積(あさか)平野の開拓事業が挙げられます。


《安積疏水と富岡製糸場》

安積開拓事業は、猪苗代湖の水を安積平野に引いて田畑の干害を防ぐとともに、
新田を開いて困窮した士族の授産に結びつけるものでした。
ここで設けられた全長約130キロ・メートルの水路が「安積疏水(そすい)」です。

1876年、大久保は福島県を訪れたのを機に、この開拓事業を推進します。
実際の工事は79年10月に着工され、82年10月に完成しました。

ただ、大久保自身は、安積疏水を含む国土計画に関する7大プロジェクトを
建議した直後の78年5月、テロで死去したため、
安積疏水を見ることはできませんでした。

 
大久保はまた、官営模範工場の設立を主導します。
76年に毛織物の千住(せんじゅ)製絨所(せいじゅうしょ)(東京)を設立し、
翌77年には「新町(しんまち)屑糸(くずいと)紡績所」(群馬)を開業しました。


国内初の官営器械製糸場である「富岡製糸場」(群馬県)は、72年に操業を開始しました。
フランスから輸入された機械を使って、全国から女子の工人を募集。
そこで伝習を終えた工女は、出身地に戻って製糸の技術的リーダーとなりました。

なお、富岡製糸場は2014年、ユネスコの世界遺産に登録されました。

大久保は、貿易と海運を外国人の手から取り返すため、
生糸や茶などの産品の直輸出を試みています。

同時に、政府の所有船を旧土佐藩出身の岩崎弥太郎が経営する
「三菱」(郵便汽船三菱会社)に与えて、手厚い海運保護政策をとりました。

この優遇策は非難も受けましたが、これにより近海から外国汽船を追い出し、
三菱は東洋最大の汽船会社に育つことになります。

このようにして大久保は、「政府主導によって世界市場に適応しうる
資本主義的生産様式を造り出していこうとした」
(三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』)のでした。


《お雇い外国人》

安積の干拓事業では、オランダ人技師のファン・ドールンが72年に来日し、
工事の設計にあたりました。

また、富岡製糸場でも、フランス人のブリューナらが、製糸機械を買い付け、
熟練の技師や工女を日本に連れてきました。

明治政府は、欧米諸国から多数の「お雇い外国人」を採用しました。
それも殖産興業分野に限らず、政治・法制・軍事・外交・金融・財政・教育・
美術・音楽など人文社会分野まで多岐にわたります。

フランスの法学者で民法・刑法の起草にかかわったボアソナード、
ドイツの法学者で明治憲法の生みの親と称されたロエスレルは、その代表的存在です。

また、条約改正や日清、日露両戦争時の外交交渉に参画したデニソンと、
教育令の作成などに貢献したモルレーは、いずれもアメリカ人でした。

殖産興業政策を建言したドイツ人化学者のワグネル、
岡倉天心(明治美術界の指導者)とともに東京美術学校の設立に努めた
アメリカ人哲学者で美術研究家のフェノロサもいます。

彼らは皆、日本でそう呼ばれるままに「YATOI」と自称した、お雇い外国人でした。

明治政府は、欧米の生産技術や近代的な制度を上手に導入・移植するには、
直に教えを請うのが効率的と考えていました。

多数の日本人留学生も、すぐには役立たず、
当面は外国人教師に頼らざるをえなかったのです。

政府雇用の「お雇い外国人」は、74、75年にそれぞれ
約520人を数えたのが最多で、
技術者と学術関連の教師が約7割を占めていました。

大久保が内務卿として殖産興業の展開した時期にあたります。
国別では、イギリスが半数以上を占め、
フランス、アメリカ、ドイツの4か国がこれに続きました。

お雇い外国人の74年の月給をみますと、
800円(太政大臣相当)以上が10人を数えています。

大久保の月給500円に対して、ロエスレルやモルレーは600円です。
もちろん、すべてが大臣並みの高給ではありませんが、
「富国強兵」のためとはいえ、いかに高額の出費を覚悟して外国人を
雇っていたかがわかります(梅渓昇『お雇い外国人』)。


1880年になると、政府雇いの外国人の数は、最盛期に比べて半減しますが、
学校や会社にプライベートで雇われる外国人は、逆に増えていきました。


《死の跳躍を越えて》

お雇い外国人は、日本の急ピッチの近代化・資本主義化・文明開化を
どうみていたのでしょうか。

73年に来日したイギリスの言語学者チェンバレン(1850~1935年)は、
はじめ海軍兵学寮の英語教師になり、間もなく浜松藩の老武士から
日本の古典を学び始め、86年には東京の帝国大学「日本語学」の教授になります。

チェンバレンは、代表作『日本事物誌』の中で、
「薩摩、長州の抜け目のない武士たち」は、攘夷から一転して「欧化」を宣言したが、
「これほどすばやく、賢明な豹変は、歴史上かつて見たことがない」と書いています。

そして西洋の侵略から領土を保全できなかったインドや中国を挙げつつ、
日本の「指導的な大名の下にあった知的な武士たちが、
この国のヨーロッパ化は生死の問題であると自覚した瞬間から、
彼らは改革と進歩の仕事を続けることを決して止めていない」と観察していました。

 
チェンバレンが「日本の言語学の父」なら、
ドイツ人医師のベルツ(1849~1913年)は「日本の近代医学の父」です。


ベルツは76年、日本政府の「お雇い外国人」として横浜に着き、
東京医学校(東京大学医学部の前身)で生理学の講義をします。

以来、30年近く日本で生活しますが、ベルツは着任して間もなく、
日記に日本の国情について以下のように記していました。

「日本国民は、10年にもならぬ前まで、われわれ中世の騎士時代の文化状態にあった。
それが、昨日から今日へと一足飛びに、われわれヨーロッパの文化発展に要した
五百年たっぷりの期間を飛び越えて、十九世紀の全成果を即座に、
しかも一時にわが物にしようとしている」

そのうえで、ベルツは「これは真実、途方もなく大きい文化革命」であり、
「このような大跳躍の場合――これはむしろ『死の跳躍』というべきで、
その際、日本国民が頸(くび)を折らなければ何よりなのですが――」と心配しつつ、
「西洋の思想はなおさらのこと、その生活様式を誤解して受け入れる際に、
とんでもない脱線が起こるものであることは、当然すぎるほど当然の事がらで、
それによってくじけてはならないのです」と結んでいました(『ベルツの日記』)。

  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20171109-OYT8T50034.html

            <感謝合掌 平成30年5月9日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第7回~ビッグ・ベンと凱旋門 - 伝統

2018/05/10 (Thu) 20:03:08


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年11月29日)より


《英国の選挙権拡大》

岩倉使節団は1872年(明治5年)9月4日、
ロンドンのウェストミンスター宮殿(国会議事堂)を訪れます。

『米欧回覧実記』は、時計塔とそこにつるされた巨大な時鐘(じしょう)(ビッグ・ベン)
を紹介しながら、イギリスの議会政治についてリポートしています。
それらは近現代の日本政治のお手本になるものです。

19世紀のイギリス政治を見てみますと、選挙法が3度にわたって改正され、
順次、参政権が拡大され、男子普通選挙(実現するのは1918年)へと向かっています。

その最初の大改革は、1832年の第1次改正でした。

住民のほとんどいない選挙区を廃止し、
マンチェスターなど人口の増えた都市に議席を配分します。

同時に、地主・貴族ら土地所有者だけに与えられていた選挙権の財産資格を緩和し、
工場経営者や市民中間層にも選挙権を拡大するものでした。
この結果、有権者はほぼ50%増加します。

この選挙法改正は政治を変えることになります。

まず、改正によって、自由に一票を投じる有権者が生まれて、
国王や政府が、選挙を操作することができなくなり、
内閣は国王から独立、首相の地位が非常に強化されます。

そしてこれ以降、君主は、下院選挙で勝利を得た多数党の指導者が
内閣を組織するのを承認しなければならなくなります。
このルールは、権力者が遵守すべき「憲法習律」となって
議院内閣制が確立するのです(K・レーヴェンシュタイン『イギリスの政治』)。

また次第に、産業資本家らが望んでいた自由貿易政策も実現されます。
46年、安い穀物の輸入を禁止した穀物法の保護関税制度が撤廃され、
49年には、輸入品は英国船または産出国の船に限るとしていた航海法が廃止されました。


《日本の「憲政の手本」》

しかし、第1次選挙法改正では、労働者たちに選挙権は与えられませんでした。

当時、労働者は極めて劣悪な労働環境に置かれていました。
1833年には、悲惨な境遇の年少者の労働時間を制限する工場法が制定されています。

こうした中、労働者たちは「チャーチスト運動」という名の政治運動に立ち上がります。
38年5月、男子普通選挙権や秘密投票制、議員の財産資格廃止などを盛り込んだ
「人民憲章」を起草し、その実現を政府に要求する大規模な請願運動を繰り広げます。

67年、第2次選挙法改正が紆余うよ曲折の末、保守党内閣の手で実現し、
都市の賃労働者や手工業者らに選挙権が与えられました。
有権者総数は247万人(全人口の1割)へと倍増します。


この選挙権の拡大により、自由党のグラッドストン(1809~98年)や、
保守党のディズレーリ(1804~81年)のような市民階級出身の党首が誕生し、
政党内閣も発足して政党の組織活動や選挙運動が活発化しました。

イギリスの選挙では、以前から有権者に対する買収と脅迫が横行していました。
67年の国会審議で、ある自由党議員は「選挙費用申告のウソと買収を調べれば、
議員の半分は当選無効になるはず」と発言したといわれます。

このため、選挙違反根絶に向けて、72年に秘密投票法、
83年に腐敗・不正行為防止法が制定されました。

誰に投票するかを係官に口頭で伝える投票方法は廃止され、
買収などを行った候補者は、罰則としてその選挙区から
永久に出馬できないことになりました。

第2次グラッドストン内閣は84年、第3次選挙法改正を行い、
これまで取り残されてきた農民や鉱山労働者に選挙権を与え、
有権者は約440万人に増加します。

議院内閣制、2大政党制、普通選挙権、選挙の腐敗防止などは、
いずれも日本政治が憲政の基本として、今日まで取り入れてきたものにほかなりません。


《グラッドストンとディズレーリ》

グラッドストンはリバプール生まれ。
スコットランドにおいて貿易商として成功した父親の勧めにより、政界入りしました。

ディズレーリはユダヤ人家系の出身で、小説家でした。
いずれも、従来の指導者のように大地主・貴族の出身ではありませんでした。
2人は、ライバルとしてしのぎを削り、典型的な二大政党政治を確立します。

68年の総選挙では、自由党が、労働者階級の支持を背景に
382議席(保守党は276議席)を獲得して勝利しました。

敗退したディズレーリは、女王に辞表を提出し、後任にグラッドストンを推挙し、
第1次グラッドストン内閣(68~74年)が発足します。

自由主義者のグラッドストンは70年、アイルランド(01年、イギリスに併合)の
小作人の権利を保護する土地法を成立させただけでなく、
教育法を制定して公立学校を増設します。7

1年には労働組合法で組合の法的地位を認めるなど、矢つぎばやに改革を断行しました。

グラッドストンはこれ以降、計4次にわたって内閣を組織し、
首相在任期間は15年近くに及びました。
92年に第4次内閣を発足させた時は83歳になっていました。

これ対して、ディズレーリは、「近代イギリス史上、もっとも偉大な野党指導者」
と言われるように、野党党首の時代が長いリーダーでした。

それでも2度、政権を担当し、第2次内閣の75年には、
スエズ運河(69年開通)の株を、ユダヤ系金融資本のロスチャイルド家から
緊急融資をあおいで買収し、アジア航路を大幅に短縮しました。

80年代、スエズ運河を通過する船舶の5分の4は、イギリスの船だったといわれます。
77年にヴィクトリア女王が「インド皇帝」に即位するなど大英帝国外交を
進めたのもディズレーリです。


《パリ・コミューン》

ロンドン滞在中の1872(明治5)年8月、木戸孝允は
、普仏戦争後、帝位を追われてイギリスに亡命した
ナポレオン3世を列車内でみかけています。

ルーブル宮殿などを建造し、道路・上下水道工事など大規模な
都市改造によって美しいパリを造り出したのは、ナポレオン3世でした。

岩倉使節団の一行が、街路のガス燈の光がゆらめくパリに到着したの
は同年12月16日の日没後。

久米邦武は、パリの第一印象をこう記しています。

 <月輪げつりん正二上リ、各都ノ風景、自ラ人目ヲ麗うるわシ、
  店店二綺羅(きら)(美し衣服など)陳(つら)ネ、旗亭(きてい)
  (レストラン)ニ遊客(ゆうかく)ノ群(むらが)ル、府人(都の人々)
  ノ気風マタ、英京(ロンドン)ト趣キヲ異ニス>(『米欧回覧実記』)

「煤煙黒霧」のイギリスから、大気爽快「文明の中枢」フランスに到着し、
使節団一行は、なんとも人心地がついたようです。

使節団は、19世紀初頭、ナポレオン1世が戦勝記念に建設を命じた
凱旋門近くに宿をとりますが、やがてこの門にも、パリ・コミューン時の
生々しい弾痕を認めることになります。

ナポレオン3世の第2帝政は、普仏(ドイツ・フランス)戦争に敗れて、
70年9月に崩壊し、ティエール(1797~1877年)率いる
臨時政府が成立しました。

ティエールは、ドイツと仮の講和条約を結びますが、
屈辱的な条約に抗議してパリの民衆(職人、小店主や労働者)が蜂起し、
民兵組織の国民衛兵とともに各所にバリケードを構築、
71年3月18日、パリを支配下に置きます。


1週間後には選挙が行われ、知識人や社会主義者らを中心とする
パリ・コミューン議会が成立。
同28日、史上初の労働者による革命的自治政府である
「パリ・コミューン」が宣言されました。

ティエールらはパリから脱出し、ベルサイユに移り、
フランスに政府が二つ生まれます。

ティエールの政府は、ドイツの捕虜になっていたフランス兵士を釈放してもらい、
13万人の政府軍をもって5月、パリに突入して市街戦になります。
「血の1週間」といわれる激烈な戦いでコミューン側は3万人が死亡し、
コミューン政府は72日間で壊滅しました。
ティエール政府側の死者は1000人足らずとされています。


《西園寺公望の目撃談》

パリ・コミューンを直接、目撃した日本人がいました。
のちに首相になる西園寺公望(きんもち)(1849~1940)です。

西園寺は、公卿(くぎょう)の筆頭「五摂家(せっけ)」の次に位する
「九清華(せいが)」の出身でした。

戊辰戦争の会津攻防戦などに参加し、
木戸ら新政権の中枢とも親しく交わっていました。

西園寺は71年1月、留学のため米英経由でフランスに向かい、
3月27日にパリに着きました。
パリ・コミューンの成立宣言の前日のことでした。

西園寺は、政府軍の5月総攻撃で「余の寓居(ぐうきょ)も戦場に係る」中、
政府軍と「暴徒」(コミューン側)との血なまぐさい市街戦を日記に活写しています。

お雇い外国人として73年末に来日するフランスの法学者・ボアソナードは、
当時、教えていたパリ大学近くのカルチエ・ラタンで、
パリ・コミューンを体験しました。

彼は、この時期に書いた本の序文に、
「最後の戦いのさなかにおいては、法それ自体が、
正に崩壊する寸前と思われたのであり、絶望してペンを取り落とさぬためには、
法の不滅の支配への揺るぎない信仰が必要であった」と述べています。


《コミューンは「賊徒」》

ティエールは71年8月に大統領になりますが、
73年にはルイ王朝の復活をめざす王党派から不信任を受けて退陣に追い込まれます。

王党派と共和派の対立は、その後も続き、共和政の憲法制定とともに
第三共和政が発足するのは、75年のことです。

米欧使節団の岩倉らが、エリゼ宮でティエール大統領と会見したのは、
72年12月26日でした。

『回覧実記』は、パリ・コミューンを弾圧したティエールについて、
「老練熟達の政治家」「ごく背の低い老人で、言葉遣いも容貌も
温和なところがなかなか魅力的」と、好印象を伝えています。


これは、マルクスがコミューン崩壊直後に公表した『フランスの内乱』で、
ティエールについて、「公生活は忌まわしく、私生活は破廉恥」などと
非難しているのとは対照的です。

マルクスは、国際労働者協会(第1インターナショナル)の宣言の中で
「労働者のパリは、そのコミューンとともに、新社会の光栄ある先駆者として、
永久に讃たたえられるであろう」と、その歴史的意義を高く評価していました。

これに対して、西園寺や岩倉使節団のメンバーは、コミューンは、
政府に反旗を翻している「賊軍」「賊徒」とみていて、
そこには当然ながら大きな落差がありました。

イギリスやフランスでは、すでに社会主義思想が生まれていました。

イギリスの工場経営者・ロバ-ト・オーウェン(1771~1858年)は、
自ら工場法の制定に尽力し、フランスのサン・シモン(1760~1825年)や
フーリエ(1772~1837年)も、労働者の待遇改善や団結を訴えていました。

パリ・コミューン以前のフランス労働者に大きな影響を与えたのが、
無政府主義を唱えたプルードン(1809~65年)でした。

このあとに登場するのがドイツ出身のマルクス(1818~83年)と
エンゲルス(1820~95年)です。
2人は、オーエンやサン・シモン、フーリエの思想を空想的社会主義と呼び、
労働者階級の革命運動によって社会主義を実現する科学的社会主義の
理論を打ちたてました。

また、史的唯物論に基づいて資本主義を考究した『資本論』は、
67年にマルクスによって第1巻が世に問われたあと、
マルクスの死後は、盟友エンゲルスによって、
85年に第2巻、94年に第3巻が出版されました。

日本で『マルクス・エンゲルス全集』(全27巻、改造社版)が刊行されるのは
1928~35年のことです。我が国の資本主義が本格的に成立し、
労働者たちのストライキが発生し、労働組合が組織され始めるのは1890年代の末。

そしてマルクス主義の影響を受けた社会運動が最盛期を迎えるのは、
同全集が刊行された時期とほぼ重なります。


《帝政ロシアの「脅威」》

岩倉使節団は、フランスのあとベルギー、オランダを訪問し、
成立したばかりのドイツ帝国の首都・ベルリンに到着します。

使節団の首脳陣が、当地で「鉄血宰相」のビスマルクや
戦略家のモルトケらと会見し、彼らの「万国公法より力」の論理に
感じ入ったことは、<維新政府、変革の序章>「ビスマルクとガリバルディ」
の回で述べました。

大久保や木戸は、アメリカ、イギリス、フランス3か国の訪問を通じて、
日本と3か国との文明の落差を痛感しました。

それだけに、使節団にとっては、後進国から急に勢いを増した新興国・ドイツは、
日本にとって格好の近代化モデルと映ったようです。

一行はこのあと、帝政ロシアに向かいます。

ロシアの皇帝アレクサンドル2世(1818~81年)は、
クリミア戦争に敗れたあと、国内改革を志向し、
61年、農奴解放令を出し、行政、裁判、教育、軍隊、財政など大改革を進めました。
人口の大部分を占める農奴の法的な自由と土地所有を認めました。

しかし、与えられた土地には地代が課せられ、
その返済のために長期の負債を抱えたため、生活は一向に改善されませんでした。

当時、ロシア都市部の若い青年・学生たちが「ヴ・ナロード(人民の中へ)」
のスローガンを掲げ、農村に入って、農民を啓蒙しながら社会主義的改革を
めざしました。

だが、農民の同調は得られず、
テロリズムやニヒリズムに走る活動家も現れます。

 
アレクサンドル2世は、オスマン帝国下のボスニア・ヘルツェゴビナにおける
農民反乱を機に、77年にオスマン帝国に宣戦して勝利します。
サン・ステファノ講和条約で、ブルガリア国の成立をオスマン帝国に
認めさせますが、オーストリア、イギリスの反対と、
ドイツのビスマルクの調停により、断念させられます。

南下政策の野望を阻止されたアレクサンドル2世は81年、
ナロードニキ(人民主義者)に暗殺されてしまいます。

 
岩倉使節団がアレクサンドル2世に謁見したのは73年4月のことでした。

『回覧実記』は、ロシア国総説の中で、
「其その政ハ専制ノ下ニ圧セラレ、其化(教育や文化)ハ
古教(古い宗教)ノ内ニ迷ヒ、其富ハ豪族ノ手ニ収メラレ、
人民ノ一般ノ開化ハ、猶なお半開の地位ヲ免レズ」と述べ、
日本と同じように「半開の国」としています。

当時、日本は英仏よりもロシアを恐れていました。
北から南下をうかがい、帰属問題でもめる樺太ではトラブルが絶えず、
日本政府にとって帝政ロシアは脅威の存在でした。

しかし、『回覧実記』は、ロシアに恐怖心を抱くのは、
1804年に来日した、ロシア使節・レザノフによって
「鎖国ノ夢ヲ驚破(きょうは)(びっくりさせること)」され
、日本国民に「露国ヲ憚(はばか)ルノ妄想」が生まれたためだと指摘。

この際、そのような「妄想虚影」の論は排斥し、精神を澄ませて
国の外交上の進路を考えるよう求めていました。

  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20171124-OYT8T50012.html

            <感謝合掌 平成30年5月10日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第8回~副島種臣の「国権外交」 - 伝統

2018/05/11 (Fri) 18:41:13

        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2017年12月13日)より

《旧佐賀藩の系譜》

《揺籃期の明治外交》

《人道性アピール―マリア・ルス号事件》

《副島の清国訪問》

《「跪拝の礼」拒絶》

《琉球漂流民殺害事件―台湾出兵論》

《日清両属の琉球―日本帰属化》

《清朝「台湾は『化外』」》

《琉球はどうなるのか》

  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20171207-OYT8T50022.html

            <感謝合掌 平成30年5月11日 頓首再拝>

<米欧回覧と文明開化>第9回~高まる征韓論、波乱の政局 - 伝統

2018/05/13 (Sun) 17:29:16

        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年01月17日)より

《混迷する留守政府》


《ラジカルな司法卿》


《政治スキャンダル》


《朝鮮との国交断絶》


《「征韓論」が浮上》

《朝鮮使節に西郷内定》


《岩倉使節団帰国》


  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180110-OYT8T50027.html

            <感謝合掌 平成30年5月13日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第1回~明治維新、二人の役割 - 伝統

2018/05/14 (Mon) 19:10:24


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年01月31日)より

《鹿児島城下の生まれ》

明治維新の主役である西郷隆盛さ(1827~77年)と大久保利通(1830~78年)
の政治活動をたどると、「維新史」の輪郭が浮かび上がります。

ここで二人を軸にいま一度、幕末~明治初期の動きを振り返ってみましょう。

二人は、ともに鹿児島城下の下加治屋町で生まれました。
西郷が生まれて10年後、大塩平八郎(大阪町奉行所の与力で陽明学者)が
貧民救済のために武装蜂起しています。

また、大久保の誕生から10年後には、
イギリスと清国との間でアヘン戦争が勃発しました。

西郷の方が大久保より三つ年上で、二人は親しい仲間でした。
ともに家柄は、城下に住む武士の中でも下層の御小姓与(おこしょうぐみ)で、
生活は楽ではなかったようです。


《西郷は斉彬の庭方役》

アメリカのペリー提督が再来航した1854年、西郷は、
薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の参勤交代に従って江戸に向かいます。

斉彬は、西洋文明を受け入れることにより、経済・軍事の近代化を図るべきだ
とする積極的開国論者であり、西郷が師父と仰ぐ人物でした。

西郷は庭方役(にわかたやく)を拝命します。
庭方役は、幕府の御庭番にならったもので、藩主専属で機密事項を扱うポストです。
ここで西郷は、斉彬の意を体し、政界の裏工作などにあたります。

この仕事を通じ、西郷は、水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の腹心である
藤田東湖と出会い、この尊王論を鼓吹(こすい)する著名な学者に心酔します。

また、越前藩主・松平慶永(よしなが)の懐刀だった橋本左内とも知り合い、
徳川家定の将軍継嗣問題では、ともに一橋慶喜(よしのぶ)(斉昭の子)
擁立のために奔走。

斉彬の養女で将軍家定の正室となった篤姫(あつひめ)(のちの天璋院)らを通じて
大奥工作も展開しました。

しかし、大老に就いた井伊直弼は、日米修好通商条約の調印を強行、
新将軍は家茂(いえもち)と決まり、斉彬ら一橋派の敗北に終わります。

これを受け、井伊は反対派の大弾圧に打って出ます。
この「安政の大獄」(58年10月)は、そもそも、
条約の無断調印(同年7月)に怒った孝明天皇が水戸藩に発した勅書
(戊午密勅<ぼごのみっちょく>)が導火線になっています。

西郷はその密勅の運び役を仰せつかっています。

井伊は、一橋派を厳しく罰し、左内も斬罪に処せられ、西郷の同志だった
僧月照(げっしょう)も幕吏に追われます。
西郷は、月照を保護しようと帰藩しますが、西郷への風当たりは強く、
二人は鹿児島・錦江湾に入水し、西郷だけが蘇生そせいします。

西郷は、その「恥」をしのびつつ、奄美大島で3年間、幽閉生活を送ることになります。


《大久保、藩の中枢へ》

他方、藩の記録所書役(かきやく)助に就職した大久保は、
「お由羅ゆら騒動」(1849年、藩主斉興(なりおき)の嫡子(ちゃくし)・斉彬と、
側室お由羅の子・久光間で起きた家督争い)に巻き込まれ、父親は喜界島に島流し、
自分も免職となり、「謹慎」生活を強いられました。

大久保は3年後に復職し、57年には西郷とともに徒目付(かちめつけ)に就きます。
しかし、安政の大獄直前に斉彬が死去すると藩政は一変し、新しい藩主の父親である
久光(斉彬の異母弟)が実権を握ります。

大久保は藩内の有志らと尊皇攘夷派の「誠忠(せいちゅう)組」を結成します。
彼らは一斉に脱藩して、井伊ら幕府首脳を襲撃しようと計画します。

大久保は、「突出」行動を抑えて巧みに久光に接近し、61年には、
藩主側近の小納戸役(こなんどやく)に昇進し、藩の権力中枢に食い込みます。

以後、久光と大久保は、斉彬が遺のこしていった公武合体構想の実現をめざして、
藩兵を率いての京都・江戸遠征を計画します。

62年、奄美に流されていた西郷が赦免されて復帰しました。
ところが、西郷は中央政局に乗り出す久光を「ジゴロ(薩摩言葉で田舎者)」と批判、
さらに尊攘派の扇動者とみられたことで久光の怒りを買い、
今度は徳之島~沖永良部(おきのえらぶ)島へ流罪(るざい)となります。

この2度目の島流しで、西郷は座敷牢(ざしきろう)に入れられるなど、
過酷かつ孤独な生活を余儀なくされました。


《公武合体運動を推進》

大久保は62年5月、藩兵1000人余を率いて京都入りした島津久光に同行します。

久光は「公武合体」のための幕政改革を朝廷に上申する一方、
「浪士鎮撫(ちんぶ)」の勅命を受けて、伏見の寺田屋に集合していた
急進派の薩摩藩士らを殺害します。

大久保は、一橋慶喜を将軍後見職に任ずる勅命を得るため、
朝廷の実力者・岩倉具視を訪ねます。
のちに明治国家の中枢をなす岩倉―大久保ラインは、この時の初対面に始まります。

久光は、勅使とともに江戸入りし、この幕府の新人事を実現させました。

ところが、その帰路、行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する
生麦事件(62年9月)が起き、これが薩英戦争(63年8月)の原因になります。

大久保は、イギリスから要求された賠償金問題の解決にあたります。
彼は、幕府老中の屋敷に薩摩藩士を差し向け、
「貸してもらえぬならイギリス公使を斬り、自分たちも切腹する」と言わせて老中を脅し、
7万両を工面したといわれます。

大久保は63年3月、家老に次ぐポストの側役(そばやく)・小納戸(こなんど)頭取
兼任に異例の昇格をします。

久光が去った京都では、「尊皇攘夷」の長州藩が朝廷を動かして将軍家茂を上洛させ、
孝明天皇は、幕府に攘夷決行を命じました。

これに対して、63年9月、公武合体派の会津藩と薩摩藩がクーデターを起こし、
尊皇攘夷派の公卿と長州藩を京都から追放しました。

このあと、64年2月、久光の公武合体論にもとづく「参預会議」
(会津・越前・土佐・宇和島の各藩主と一橋慶喜、島津久光で構成)が設置されます。
しかし、久光主導を警戒した慶喜によって会議は、2か月で解体されてしまいます。

とはいえ、大久保が側近として同行した久光の京都・江戸入りは、外様雄藩が、
幕府改革に強い発言力を示し、朝廷の会議にも参加する道を切り開いた点で
画期的といわれます。

 
このころ、流罪で辛酸をなめた西郷が召還されます。

都合5年近くにわたる島流しに耐え、人間的に深みが加わった西郷は、
同年4月に上洛し、久光と会見して、関係は一応修復されます。
その後、西郷も、小納戸頭取に昇格するなど出世を重ね、
京都で薩摩藩を代表して対外折衝にあたるようになります。

西郷と大久保の時代の到来です。


《「討幕」で二人三脚》

64年7月、新選組が尊攘派の志士たちを殺害した「池田屋事件」が発生しました。

これをきっかけに長州藩兵が京都に乗り込み、8月、御所に進撃して発砲します。
いわゆる「禁門の変」(または「蛤御門<はまぐりごもん>の変」)です。

西郷は、この戦闘で部下を率いて長州軍と戦います。
この時、流れ弾が足にあたり落馬して負傷しますが、
この戦功で、西郷は重職の側役に就任します。

朝敵となった長州征討に、西郷は軍の参謀役として出向きます。
しかし、長州藩を徹底的に追い詰めることはせず、
3家老の切腹によって戦闘を回避しました。

その際、長州藩が、奇兵隊の創設者である高杉晋作の切腹や斬首も検討したことを
示す文書が、最近、山口県岩国市で見つかりました。
刑死を免れた晋作は、このあと下関で挙兵し、藩政府を打倒します。
(読売新聞朝刊2018年1月21日)

幕府は1865年5月、長州の再征討へと動きます。
会津藩が強く主張し、一橋慶喜と桑名藩が同調しますが、
西郷や大久保は、大義名分が立たない再征に猛反発します。

再征を阻止するため、大久保は朝彦(あさひこ)親王に対して、
「非義の勅命は勅命にあらず」と言い放ち、二条関白には、これが撤回されなければ、
朝廷を見限ると宣言します。

しかし、幕府は勅許を手に入れ、翌66年7月、長州再征の戦争が開始されます。

その約1年前の65年8月、西郷は坂本龍馬と京都で会い、
長州藩に武器を融通することに同意していました。

66年3月には、龍馬の呼びかけで、薩摩藩の西郷と大久保、
小松帯刀(こまつたてわき)が、宿敵だった長州藩の木戸孝允と京都で会合し、
一橋・会津・桑名の「一会桑」打倒に向けて「薩長同盟」(薩長盟約)を締結します。

67年7月には、西郷、大久保、小松の3人は、土佐藩の後藤象二郎らとの間で、
「薩土盟約」を結びました。王政復古によって徳川氏を一藩主に戻し、
公卿・諸藩会議を設けること(公議政体)で合意したのです。


《徳川慶喜を「排除」》

しかし土佐藩は、これを実現するため、軍事力を行使することに否定的でした。
このため、薩摩藩は盟約を破棄したうえで、大久保が10月、長州を訪問し、
木戸らとの間で挙兵のための出兵協定を結びます。

大久保はその際、長州藩の首脳陣に軍事クーデター計画を説明しています。
(勝田政治『<政事家>大久保利通』)

だが、西郷・大久保の足元の薩摩藩内では、出兵反対論が巻き起こり
、厳しい状況に追い込まれた西郷は、「討幕の密勅」によって事態打開を企てます。

67年11月8日、公家の岩倉が「賊臣・慶喜を殺せ」との
趣旨の密勅を大久保らに手交します。

ところが、この日、徳川慶喜は、土佐藩の建白を受け入れる形で大政奉還を決断し、
在京の諸藩士に大政奉還の意向を表明しました。

この慶喜の決断は、西郷、大久保にとって思いもよらぬものでした。
それでも西郷、大久保は、王政復古のクーデターをあきらめず、計画を練り直します。

二人は、慶喜に対して強い不信感を抱いていました。
同時に、朝廷を支配してきた摂関家の問題処理能力の欠如も痛感していました。

このため、西郷と大久保は、慶喜の政権返上に反発する会津、桑名両藩を
打倒するとともに、新政権で主導権をとるため、慶喜の「排除」を決意します。
(家近良樹『西郷隆盛』)


68年1月3日(慶応4年12月9日)、遂にクーデターが断行されます。
西郷が薩摩、土佐など5藩兵を指揮して宮門を封鎖しました。

その光景を大久保は、日記に「未曽有の壮観」と記しています。
王政復古の大号令が宣言され、新政府が樹立されます。
これによって700年にわたる武家政治が幕を閉じることになったのです。

大久保は、宮中での小御所会議で、公卿・大名の言動に目を光らせ、
会議は慶喜の「辞官(じかん)納地(のうち)」(内大臣辞退と領地返上)
で決着しました。

ところが、間もなく、新政府内から慶喜の処分を見直す動きが浮上し、
西郷・大久保は批判の矢面に立たされます。

この二人の窮地を救ったのが、庄内藩兵による江戸薩摩藩邸焼き打ちでした。
この事件が鳥羽・伏見の戦いに火をつけたのです。

西郷は、薩摩側が放った「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりもうれしい」と、
大喜びしたと伝えられます。

68年2月、天皇親征の詔みことのりが発布されると、
西郷は東征大総督府下参謀に任命され、5万の大軍を率いて京都を出発しました。

慶喜征討に熱意を燃やし、江戸総攻撃を4月7日(旧暦3月15日)と定めます。
しかし、西郷は、最終局面で幕府陸軍総裁・勝海舟と会談、
総攻撃中止と江戸無血開城を実現させます。


《「廃藩置県」を断行》

西郷は、新政府入りせず、68(明治1)年12月に鹿児島に帰ります。
箱館戦争のため、翌年、北海道に出陣しましたが、
到着した時は既に平定されていました。

王政復古の第1の功臣として、西郷には賞典禄永世2000石が下賜される一方、
正(しょう)三位(さんみ)にも叙せられます(のちに辞退)。

西郷は、藩参政として藩政改革にあたります。
凱旋兵士らに優遇措置をとりますが、これが島津久光らの反発を招きます。

さらに西郷は、「下血げけつ」など深刻な体調不良に悩まされるようになり、
久光とその周辺との関係も、以前のように悪化します。

間もなく西郷は、新政府批判を繰り広げるようになります。
大臣以下が「驕奢(きょうしゃ)」(ぜいたく)に過ぎ、
朝廷の役人は月給をむさぼるだけの「泥棒なり」などと言い出します。

一方の大久保は、西郷が戊辰戦争で転戦している間、
京都で天皇政府樹立への政略をめぐらせていました。

とくに京都から大阪への遷都を提案し、それを機に「民の父母」たる
新しい天皇像の創出を考えていました。
目指すところは、天皇みずから万機(ばんき)を親裁(しんさい)(裁決)する
天皇親政の実現です。

藩主が土地(版)と人民(籍)を天皇に返上する「版籍奉還」でも、
大久保は、木戸らと話し合い、69年1月、長州・薩摩・肥前・土佐の4藩主の
建白によって、奉還へのレールを敷きました。

しかし、新政府は、首脳・幹部同士の対立や、農民反乱、凱旋兵士の反抗、
貨幣贋造(がんぞう)などが相次ぎ、その基盤はいっこうに安定しませんでした。

このため、西郷の中央政府入りを求める声が強まり、71年2月、岩倉勅使が
大久保とともに鹿児島を訪ね、島津久光と西郷の上京を求めました。

これに対して、西郷は、陸海軍の充実や親兵の献上、外交における信義・礼節の尊重、
政府要人の贅沢禁止などを要求します。
岩倉がこれを了承し、西郷は政府入りを決めます。

大久保らとともに鹿児島を出発したあと、
山口、高知を訪ねて薩長土3藩の協力体制を再構築します。

東京で西郷が中心になって3藩からなる約8000人の「親兵」が創設されます。
71年8月、西郷は木戸と二人だけの参議に就任します。

同月29日には廃藩置県の詔書が出されます。
長州藩の山県有朋から事前に廃藩置県を打診された西郷は、「断然同意」を表明。
大久保も「断然決行すべし」と、この知らせにうろたえてしまった岩倉を励ましています。

日本近代化の礎となる廃藩置県は、「親兵」の武力を背景に、
西郷が示した判断が、決定的な役割を果たしました。

だが、その分、西郷は、藩体制の存続を願う久光をはじめ、
職を失うことになる士族たちから恨まれます。

それからわずか4か月後、岩倉をトップに木戸や大久保が参加する
米欧回覧の政府使節団が旅立ちました。

西郷は留守政府を預かる立場に置かれます。
留守政府はその後、地租改正や学制公布、太陽暦の採用、徴兵制導入など
数多くの改革を実施しました。

岩倉使節団の一行は73年9月に帰国します。
西郷は、これを待たずに、征韓論の立場から自ら朝鮮使節に手を挙げます。
これが、大久保らと決定的な対立を招き、政府大分裂の引き金を引くことになるのです。

 (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180125-OYT8T50025.html

            <感謝合掌 平成30年5月14日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第2回~西郷隆盛は征韓論者か - 伝統

2018/05/15 (Tue) 17:33:28


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年02月14日)より

《西郷の手紙》

三条実美・太政大臣は1873(明治6)年8月
、避暑のため箱根に滞在中の明治天皇を訪ね、
閣議で内定した西郷隆盛の朝鮮派遣について上奏しました。

これを受けて天皇は、米欧使節団の岩倉具視・右大臣の帰朝を待って「熟議」し、
そのうえで改めて報告するよう命じます。


一体、西郷隆盛が、この時期、突然、朝鮮行きを希望したのは、なぜだったのでしょうか。

その手がかりになるのが、西郷が、参議・板垣退助にあてて書いた手紙です。
この時期に出された9通が残されています。

その最初の手紙(7月29日付)は、このように書かれていました。

「朝鮮に当方から出兵するとなると、必ず相手は撤兵を要求するに違いない。
こちらが撤兵を拒めば、兵端(戦端)が開かれ、最初の御趣意(趣旨)に反する。

したがってまず、公然と使節を差し向けるのがいいのではないか。
そうすれば、朝鮮側は必ず暴挙に出るはずで、
討つべき(開戦)の名(目)も確かに成り立つ。

使節は暴殺されると思われるので、なにとぞ、私(西郷)の派遣を伏してお願いする。
(清国に出張した)副島君(種臣・外務卿)のような立派な使節はできなくても、
死する位くらいの事はできると思うのでよろしくお願いしたい」

文中の「最初の趣旨」とは、何を意味するのか。

それは、明治元年以来の朝鮮政策の基本方針、すなわち、使節を朝鮮に派遣して、
「昔からの隣交のよしみで公理公道をもって交渉を尽くすが、
それでもなお朝鮮が聞き入れない場合は征討する」という方略(ほうりゃく)です。

かつて「征韓論」を唱えた木戸孝允の朝鮮遣使論を引き継ぐものでした。
(川道麟太郎『西郷隆盛』)。

西郷は、閣議で自らの派遣が内定したことを大変喜びました。
内定直後の板垣への手紙には、「もう横棒(横槍よこやり)の憂いもこれあるまじく、
生涯の愉快この事に候そうろう」と記していました。


《非征韓論者説》

西郷は、8月17日の板垣への手紙で、「戦いは二段」からなるとしています。
まず、第1段階で、使節派遣から暴殺に至れば、「天下の人」(一般国民)は
「討つべきの罪」を知るので、ここに至って第2段階の戦争に入る、という主張です。

これからいえば、彼は明らかに「征韓」論者です。


しかし、この見方に対して異論を唱えたのが、維新期のさまざまな政治家像を
提示してきた歴史学者の毛利敏彦氏でした。

その著書『明治六年政変』(1979年刊)は、二つの理由を挙げて、
西郷を非征韓論者としています。

その理由の第1は、使節派遣を先行すべきだとしていた西郷は、
即時派兵論に賛成した板垣を説得し、自分への支持を得るためのテクニックとして、
使節暴殺論を持ち出した。

第2は、1864年の第1次長州征討や、68年の徳川慶喜追討でも、
西郷は、まず強硬姿勢を示して実力行使の準備を進めながら、
交渉による解決策を探り、最後は自ら乗り込んで穏便に落着させていた
――というものです。

つまり西郷は、73年の夏~秋には征韓の即時決行を期してはおらず、
その真意は、西郷が10月15日の閣議に提出した「始末書」に
述べられているとしています。

始末書は、これまでの経緯をまとめたもので、
朝鮮とは「是非交誼(こうぎ)を厚く成される御趣意を貫徹いたすようありたく」
などと記されており、西郷はあくまで交渉による朝鮮との修好を求めていたというわけです。

 
少し話はそれますが、後年、「西郷は征韓論者にあらず」と主張した政治家がいました。
幕末の江戸無血開城交渉で、西郷のカウンターパートだった勝海舟です。

勝は、その根拠として、75年、日本が朝鮮に軍艦を送って挑発し、
砲撃を誘って報復攻撃に出た江華島カンファド事件の際、
「向こうが撃ってきたから撃ち返したでは、天理において恥ずべき行動だ」と、
道理を尽くさない武力行使に西郷が憤慨していた事実を挙げていました。


《維新のやり直し》

西郷が「朝鮮使節」を急に言い出したのは、いくつかの要因がありました。

その一つにロシア問題が指摘されています。

西郷は、南下を続けるロシアとは、いずれ戦争になるとみて、
それに備える意味でも朝鮮問題の早期解決を考えていたというのです。

さらに、大きな理由として挙げられるのが士族対策です。

西郷は、板垣への8月17日の手紙の中で、「内乱を冀(こいねが)う心を外に移して、
国を興すの遠略(遠大な謀りごと)」という言葉を使っています。

これは、征韓論問題のキーワードといえ、内乱の可能性もある中、
士族たちの不満を外にそらし、あわせて国威を海外に発揚することと解釈できます。

確かに、留守政府の責任者だった西郷は72年、陸軍大輔(たいふ)・山県有朋が
進める兵制改革に薩摩出身の近衛兵が反発する中、自分は「破裂弾中に昼寝」だと、
外遊中の大久保に伝えていました。

陸軍元帥兼参議兼近衛都督の西郷は、近衛兵の暴発を懸念し、
相当な緊張を強いられていたようです。

しかし、征韓論が単なる不平士族らのガス抜きのためというのは短見に過ぎます。

70年8月、旧薩摩藩士の横山安武(やすたけ)(森有礼の実兄)が、
「新政府大官の侈靡驕奢(しびきょうしゃ)(おごりぜいたくすること)」などを
厳しく批判する建白書を提出、太政官の門前で割腹する事件がありました。

西郷はその志を大いに称たたえて顕彰碑に揮毫しています。

歴史家の萩原延壽氏は、この西郷のキーワードに関して、
その「『内乱を冀う心』の持ち主は、だれよりもまず、
他ならぬ西郷自身ではなかったろうか」と指摘し、

「朝鮮問題こそ、皮相な『文明開化』に充足する日本人に覚醒の機会をあたえ、
再度の革命の引き金になろうと、西郷の夢想はふくらんでいったようである」
(『遠い崖』)と書いています。

西郷は自らの朝鮮行きを「第一憤発の種蒔(たねまき)」と表現していました。
朝鮮問題を機に、西郷はもう一度、明治維新をやり直そうと考えていたとみられるのです。


《「大義ある死」切望》

西郷は、「守旧派」の島津久光の執拗な要求にも辟易していました。
加えて、深刻な健康問題が大きな影を落としていました。

西郷は73年8月3日の板垣への手紙に、
「(三条)公へ参殿すると申し上げておきましたが、数十度の瀉くだし方にて、
はなはだ疲労いたしましたので、(建言書を)別紙のとおり認したためましたので……」
と、体調不全を訴えています。

西郷は同年5月ごろから、5尺9寸余、29貫=約180センチ、100キロ超の
肥満体に異常をきたしていました。
政治家の健康状態が、政治決断に多大な影響をもたらすことは、
古今東西の歴史が教えるところで、西郷も例外ではなかったようです。

西郷の板垣への手紙(8月23日付)には「死を見ることは帰する如く」
「死を急ぎ候義は致さず」「死する前日迄までは」など<死>の文字が頻発しています。

板垣への最初の手紙にあった「死する位の事はできる」――をはじめとした
西郷の言葉から、西郷は朝鮮特使の任務で「大義ある戦死」を切望していた
という見方は少なくありません。

そして、西郷の言う「暴殺」とは、朝鮮側に殺されるのではなく、
西郷の「自決」であるとする研究者もいます。
当時、西郷は「尋常ではない精神状態」にあったようです。

こうしてみてくると、「征韓」を口にしてこなかった西郷が、
突如、朝鮮使節を望んだのは、朝鮮開国やロシア問題、士族対策、健康状態と
「死」への渇望、維新をやり直す「第2の維新」など、
実にさまざまな要因があったことがわかります。

さて、西郷は果たして「非征韓論者」だったのでしょうか。

その説の論拠とされた始末書に関して、歴史学者の猪飼隆明氏は、
長州勢が京都に攻めのぼった「蛤御門はまぐりごもんの変」(1864年)のとき、
薩摩兵を陣頭指揮して戦った西郷がこれと「瓜うり二つ」の戦術
(長州兵の引き揚げを命じ、それを聞かなければ罪状を明記して追討する)
をとったことを挙げ、
使節派遣は朝鮮派兵のための正当性と大義名分づくりだったとしています。
(猪飼隆明『西郷隆盛』)

また、幕末維新史が専門の家近良樹氏は、近著『西郷隆盛』で、
次のような趣旨を述べています。

<西郷が、征韓を決行することにより、維新遂行上不可欠の
『戦いの精神』を復活させようと目論もくろんだとしても不思議ではなかった。
もっとも、西郷が征韓論的な言を吐いたとしても、それは後年の軍国主義者が唱えた
征韓論などとは、かなり様相を異にするものであった。
朝鮮を植民地として確保し、同地を足掛かりに大陸への進出を図るといった
レベル(侵略主義そのもの)の構想はとうてい持ちえていなかった>

これは、朝鮮使節を志願した時点の西郷は、征韓論者だったと判断せざるを得ないが、
後年の軍国主義者と同一視できないということなのでしょう。


《大久保、参議に就任》

ともあれ、西郷の征韓論は、岩倉使節団帰国後の政局に大波乱を巻き起こします。

73年9月13日、米欧回覧から横浜に帰り着いた岩倉は、三条と会談し、
留守中に山積した懸案解決のため、大久保利通の参議起用で一致します。

同じく帰国組の伊藤博文は、三条、岩倉、木戸、大久保の結束固めのため、
関西旅行から東京に戻った大久保への働きかけを強めます。

同月下旬、西郷をはじめ副島種臣らが
朝鮮使節問題の閣議開催を三条と岩倉に強く要求します。
これに対して、木戸や伊藤らが西郷の使節派遣を阻止する動きを活発化させます。

征韓問題がまさに政局の焦点に浮上し、大久保の参議起用とも絡みます。

大久保は10月8日、西郷との衝突を避けるために拒み続けてきた
参議就任を引き受けます。
内治を優先させる以上、西郷はじめ対外強硬派を排除しなければならない。

そのためには、西郷との全面対決も辞さない覚悟を決めたのです。

参議受諾にあたり、大久保は、西郷の使節派遣の延期方針について、
三条と岩倉が中途で変説しないよう、念押しの約定書をとりました。

また、西郷と決裂すれば、不平士族らの反感を呼び、自ら命を落とすこともある
とみた大久保は、息子たちに「遺書」をしたためます。


《西郷と対決へ》

大久保は、西郷の遣使問題を次のように整理していました。

 <西郷の主張は、国家運営に必要な深謀遠慮を欠いている。
  維新以来なお日も浅く、政府の基礎はいまだ確立していない。
  戦争が勃発すれば、士族・農民の反乱を誘発し、軍事費もかさんで
  一層の財政赤字と輸入超過をもたらす>

 <無用の戦争は、幾多の生命を損ない、政府創造の事業
  (富国強兵・殖産興業)を道半ばで廃絶させることになる>

 <対外的に最も警戒すべきはロシアであり、朝鮮との戦争は
  ロシアに漁夫の利を与えてしまう。イギリスへの負債返済が困難になれば、
  これを口実にしたイギリスの内政干渉を招く>

 <日本は欧米各国との不平等条約下にあり、
  イギリス、フランスの軍隊が日本に駐屯している。
  日本は属地のようであり、早く条約を改正し、
  独立国の体裁を全うするのが先決である>

大久保は、以上の内容を7か条にまとめます(毛利敏彦『大久保利通』)。

そして「今国家の安危を顧みず、人民の利害を計らず、好みて事変を起こす」
西郷使節派遣に強く反対します。

  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180207-OYT8T50009.html

            <感謝合掌 平成30年5月15日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第3回~「大久保政権」の成立 - 伝統

2018/05/16 (Wed) 18:03:13


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年02月28日)より

《西郷が押し切る》

1873(明治6)年10月11日、西郷隆盛は、太政大臣・三条実美に手紙を出します。
もし自らの朝鮮派遣が中止されれば、それは「勅命軽視」にあたり、
自分は「死を以もって国友(鹿児島士族ら)へ謝」するしかないと、
自殺をほのめかしていました。三条は、この書面に相当な風圧を感じたはずです。

その3日後の14日、朝鮮使節派遣が閣議にかけられました。
出席者は、三条、右大臣の岩倉具視、参議の西郷、板垣退助、大隈重信、
後藤象二郎、江藤新平、大木喬任(たかとう)、新たに参議に任命された
大久保利通と副島種臣そえじまたねおみの計10人でした。木戸孝允は病気欠席でした。

閣議では、西郷が8月17日の閣議決定(自らの朝鮮派遣)の再確認を求めます。
これに対して、三条と岩倉は、「樺太での紛争解決が先だ」「戦争準備が不足している」
などとして反対し、遣使の延期を求めました。

大久保は、西郷の派遣が開戦に直結し、日本の財政や内政、外交上の困難をもたらす
として同じく「延期」を主張しました。

こうして議論は「延期」で収束しそうでしたが、西郷がひとり「即時派遣」を力説して
抵抗をみせ、その日は結論を持ち越しました。

10月15日に再開された閣議では、
副島と板垣が西郷の派遣を決定するよう断固要求します。
参議の中では、大久保だけが派遣延期を訴えて孤立し、
最後は三条と岩倉に一任されます。
西郷は、この日の閣議は欠席していたようです。

三条と岩倉が話し合い、三条は、西郷の派遣賛成に回ります。
大久保との「約定(やくじょう)」(約束)に反して変説したのです。
西郷の派遣が延期されれば、西郷の進退問題につながり、
近衛兵など陸軍が暴走することを恐れたためといわれます。

大久保もこれ以上、異議を唱えず、
結果的に全会一致で西郷の「即時派遣」が決定されます。

17日早朝、大久保は三条邸を訪問して参議の辞表を提出しました。
三条は、大久保の憤怒と、岩倉が辞意を表明して大久保側についたことに
大きなショックを受け、にわかに昏倒、人事不省に陥ります。

しかし、この三条の「発病」が閣議決定の上奏(天皇に申し上げること)を遅らせ、
大久保らによる「どんでん返し」を可能にすることになります。


《大久保のどんでん返し》

大久保は19日の日記に、形勢挽回のための
「只(ただ)一ノ秘策アリ」と記しています。

大久保は同日、その秘策を腹心の開拓次官・黒田清隆に与え、
逆襲へ大きな賭けに出ます。

それは、宮中工作によって、閣議で正式に決まった西郷派遣を阻止する策謀でした。

職制上、太政大臣が欠席する場合は、左・右大臣が職務を代行するのがルールです。
当時は、左大臣が欠員のため、右大臣・岩倉が太政大臣代理に就くことになり、
その人事が同日の閣議で決まります。

これにより、天皇に上奏するのは、三条から岩倉に替わりました。

そこで大久保と岩倉は、閣議決定の即時派遣論と、岩倉自らの見解として
延期論を併せて上奏し、「天皇に対立意見を判断させる形式をとって
閣議決定を葬り去る」という策を練り上げます(勝田政治『<政事家>大久保利通』)。

このため、黒田が同じ薩摩出身の宮内少輔(しょうゆう)・吉井友実(ともざね)
を通じて、宮内卿の徳大寺実則(さねつね)に根回しし、徳大寺は20日、
延期論が裁可されるべく、明治天皇に「秘密上奏」をしたとされます。

22日、岩倉邸で西郷、板垣、副島、江藤の4参議は、岩倉に対して
西郷即時派遣の閣議決定の早急な上奏を求めましたが、
岩倉は「即時派遣」と「延期」の両論を上奏するとして、これを突っぱねました。 

岩倉は23日、明治天皇に上奏し、裁断を仰ぎました。
天皇は即答を避け、翌24日、西郷派遣延期論を受け入れる勅書を出します。

岩倉、大久保らは、無法・違法な手続きによって「明治六年政変」を制したのです。


《明治政府の大分裂》

大久保らの策略によって朝鮮使節を阻止された西郷は、
10月23日、天皇裁可の結果を待たずに、病気を理由に
陸軍大将近衛都督兼参議の辞表を提出しました。
明治天皇に直訴することもしませんでした。

翌24日、西郷は、「陸軍大将」の職を除いて解任されます。

同じ日、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の各参議も辞表を提出し、
25日、受理されました。明治政府は、閣僚の半数がいっせいに追放される
という大分裂に至ったのです。

陸軍少将の桐野利秋、同じく少将で近衛局長官・篠原国幹(くにもと)ら
西郷系の武官・文官600余人があとを追って辞職し、西郷とともに鹿児島へ帰ります。


《明治六年政変とは》

この明治六年政変を「維新史の山」と評したのは、著作家の徳富蘇峰でした。
蘇峰は、その発端を米欧回覧の岩倉使節団にみていました。

「若もし岩倉、木戸、大久保、伊藤(博文)の明治四年末より、明治六年の秋まで
米欧諸国の巡回が無かったならば、征韓論の破裂を見るに至らなかったかも知れない。
或あるいは対立や、衝突はありえても、何とか交譲(こうじょう)(互いに譲り合うこと)、
妥協の地を見出したであろう」(『近世日本国民史』)と書いています。

これに対して、『征韓論政変』の著者である姜範錫(カンボムソク)・元駐日韓国公使は、
使節団派遣それ自体ではなく、大久保と伊藤が、政治的野心に燃え、
予定外の条約改正交渉を試みようと、全権委任状をとりに一時帰国、
本隊を4か月もアメリカに足止めさせたことが政変の誘因だとしています。

それがなければ、使節団は当初計画通り、明治5年初秋には帰国し、
留守政府は、使節団側と交わしていた「約定」違反の行動には出なかったろう
というわけです。

岩倉使節団の外遊中、留守政府と使節団のメンバーの双方に、さまざまな
齟齬(ゆきちがい)が生じていました。使節団からみると、留守政府の開化策は、
財政事情を顧慮しない、あまりに急進的なものだという不満がありました。


これに対して、留守政府の首脳陣は、中央集権体制の確立や軍事力の整備に向け、
廃藩置県のフォローアップや徴兵令などを遂行。
それに伴う士族たちの不満を背景に、「国威」を海外に広げようとする征韓論が
クローズアップされてきたのです。

これに対して、外遊で日本と米欧各国との国力の差を痛感してきた
岩倉使節団の主要メンバーが、征韓論について「今はその時ではない。
国政を整え民力を養成することこそ、最優先の課題だ」と主張したのも、
当然のことでした。

外交政策が、純粋にそれのみで争われることは、古今、まれです。
外政は内政の延長であり、征韓論をめぐる対決も、
国内政策をめぐる対立が絡んでいました。

同時に、外交問題は、政治家たちの権力闘争の具にされがちです。
明治六年政変も、その例外ではありませんでした。

「征韓論政変」とも言われるように、この政争は、西郷の「征韓論」を契機に、
岩倉使節団チームが、留守政府のチームから政権運営の主導権を奪回しようとした
権力闘争にほかなりませんでした。

三条、岩倉、大久保、木戸らが、「政見」を異にした
西郷、板垣、江藤、副島、後藤らを政権から追い出したのです。

この熾烈な権力ドラマで注目すべきは、司法卿・江藤の失脚でした。
これで江藤による汚職摘発に苦しんでいた長州閥が大いに助けられました。
この政争のひとつの性格をここに読み取ることができます。


《両雄の決別》

両チームの頭目の大久保と西郷は、73年5月、大久保が米欧回覧から
帰国した当初こそ、往来がありましたが、次第に距離が生じました。

岩倉使節団で条約改正に失敗した大久保は、失意の底にあったともいわれます。
しかし彼は、米欧体験を踏まえて、政府主導の殖産興業によって
日本に資本主義を導入するための、国家富強プランをあたためていました。

その「内治優先」論に真っ向からぶつかるのが、西郷の「征韓論」でした。

西郷にはもちろん、欧米の歴史や地理の知識はありました。
ただ、「欧米諸国は道ならずして人の国を奪う」などと、
鋭い欧米批判を隠そうとしませんでした。

これに対して、大久保は、帰国後、日常の起居まですっかり欧米流に染まっていきます。
両人には、西洋趣味や文明観で大きな違いがあったのかもしれません。


西郷と同じ鹿児島出身で、明治34年生まれの作家・海音寺潮五郎氏の小説に
『西郷と大久保』(1965年10月~66年6月まで読売新聞で連載)があります。

その終わりのほうで、西郷が岩倉邸を訪ね、西郷派遣の閣議決定の上奏を迫って決裂し、
屋敷の門を出る(1873年10月22日)、こんなシーンがあります。


<西郷は一同をふりかえった。微笑して言った。

「(岩倉)右大臣な、ようふんばりもしたなァ。あっぱれでごわした」

かくして、征韓派の惨敗で、征韓論は決裂した。

この日帰途、西郷は途(みち)をまげて大久保の邸やしきを訪れた。
大久保は来合せていた伊藤博文と碁を打っていた。

西郷は通されてその座敷に来るなり、
「(大久保)一蔵どん、今日これこれで、わしは負けた。
いずれ国に帰るから、後のことはおはんに頼むぞ」

すると、大久保はむっとした顔になり、
「わしが一人でどう出来るものでごわすか。大事な時には、
いつも国にもどってしもうて。わしは知らんぞ」

西郷は巨(おおき)な眼(め)をしずめて、大久保を凝視した後、
「お邪魔でごわした。伊藤さんもごめん」と言って、立去った>

 
政治家や革命家同士の関係は、権力欲や嫉妬心、利害対立、路線選択、
時流や世論によって離合を繰り返すものです。

西郷・大久保についても、確かに「竹馬の友」「盟友」「同志」で
あったことは間違いありません。しかし、二人はやがて「ライバル」的な存在になり、
ともに国家中枢の責任ある立場に置かれました。やはり決別は免れなかったようです。

この小説に描かれた西郷と大久保の場面は、史実ではこの日でなかったようですが、
これが二人にとって最後の顔合わせになりました。


《「内務省」を新設》

征韓派参議の辞任を受け、大久保は、73年10月25日、
参議自ら国政の実務を担う参議・省卿(しょうきょう)の兼任制を打ち出します。
後任人事はこれに則(のっと)って行われました。

伊藤博文、勝海舟、寺島宗則(むねのり)が新たに参議に就任し、
伊藤は工部卿、勝は海軍卿、寺島は外務卿をそれぞれ兼務します。

伊藤は、今回の政変の舞台裏で、岩倉、木戸、大久保との間を走り回り、
非征韓派の結束に努めたことが評価されました。

大隈重信は参議兼大蔵卿、大木喬任は参議兼司法卿に就きます。
参議の大久保は11月に、内務卿を兼任。74年1月には、木戸参議が文部卿を兼ねます。

大久保は、73年10月25日、大隈、伊藤と会談し、
大久保を中心にして大隈と伊藤が両脇を固める新体制づくりで一致しました。

これらの刷新人事により、岩倉使節団の帰国前、
薩摩1(西郷)、長州1(木戸)、土佐2(板垣、後藤)、肥前3(大隈、大木、江藤)
だった参議の構成は、薩摩2(大久保、寺島)、長州2(木戸、伊藤)、
その他3(大隈、大木、勝)に変わりました。

土佐は消え、政変で大久保側に密着した大隈、大木は、
新薩長連合(西郷一派を除く薩派と長派の連合)に組み込まれたかたちです。
(『征韓論政変』)

 
大久保の上には、三条太政大臣や岩倉右大臣がいましたが、
最終判断は、大久保に委ねられることが多く、
ここに事実上の「大久保政権」が成立しました。

大久保は11月10日、「国内の安寧、人民保障の事務を管理する」
として内務省を設置しました。
同省の任務は、殖産興業の育成と全国警察権の掌握でした。

新しい警察制度は、川路(かわじ)利良(としよし)(1834~79年)らが
ヨーロッパをモデルにして導入にあたり、74年1月、内務省直轄の警視庁が
東京に設置されます。

初代内務卿の大久保は、同省を拠点に、
日本の早急な産業化をはかるための諸政策を展開します。

これについては、本連載の<米欧回覧と文明開化 第6回>
『大久保利通と資本主義』を読んでいただきたいと思います。

なお、内務省は1947年に廃止されるまで、
警察・地方行政・選挙など内政を管轄する、
国の中枢官庁として長らく存続することになります。

   (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180221-OYT8T50003.html

            <感謝合掌 平成30年5月16日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第4回~野党の反撃、武家の解体 - 伝統

2018/05/18 (Fri) 19:14:06

        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年03月14日)より

《岩倉襲撃事件》

大久保利通政権は、「明治六年政変」で野(や)に下った
“野党”(反政府派)の反撃にさらされます。

その一つは士族たちによるテロと武力反乱であり、
もう一つは、民権派の国会開設要求でした。

1874(明治7)年1月14日夜、右大臣の岩倉具視が東京・赤坂の
仮皇居から馬車での帰途、喰違(くいちがい)坂で、数人の刺客に襲撃されます。

明治時代の実話を集めた『明治百話』(篠田鉱造著)の中にある
『岩倉卿を背負った話』によりますと、遭難劇は以下のようでした。

<当時、岩倉公と申したら、天下無双の喧(やかま)しやで、
世間からも狙われる人物でしたから、警戒も殊ことの外ほか厳重でした。
刺客は、一刀を抜くや馬車馬の脚を斬きって馬車を停め、車内に斬り込んだので、
卿は暗殺されたに違いない、という知らせです。

御所の宿直だった私たちが駆けつけると、肝腎の卿の胴体がない。

提灯を振って土堤の上から水際を照らすと、卿が九死を免れて水中に隠れておられた。
羽織袴の博多の帯(おび)が刃(やいば)に深く斬り込まれていて、
これがまったくお身代りでした。

卿が土手からズルズルと御濠(おほり)にはまったところに、
運良く岩があってそれが卿を助けたのも、浦島(太郎)の亀の甲みたいで
不思議な因縁でした>

犯人は、高知県士族の武市(たけち)熊吉(くまきち)らで、
征韓の閣議決定を葬った岩倉らに憤激して犯行に及んだといわれます。

このテロ事件は、政府首脳らを震撼(しんかん)させます。
政府は、警視庁の川路利良(かわじとしよし)・大警視に犯人検挙を厳命しました。

犯人9人が逮捕され、7月には早くも、ことごとく斬罪(ざんざい)に処せられました。


《佐賀の乱》

当時、鹿児島、山口、高知、佐賀などでは不平士族が不穏な動きをみせていました。
前参議・江藤新平の地元佐賀では、政変後の73年12月、征韓論の貫徹と
第二の維新を唱える「征韓党」が結成されます。

同党幹部が東京に江藤と副島種臣を訪ね、郷党の指導にあたってほしいと求めます。
二人とも反乱を鎮めるため帰省しようとしますが、板垣退助が押しとどめ、
結局、江藤だけが、民撰(みんせん)議院設立建白書への署名をすませた直後、
佐賀へと旅立ちます。


他方、薩摩の島津久光を盟主と仰ぐ「憂国党」という士族集団もありました。
彼らは、北海道開拓判官(ほうがん)、侍従、秋田県権令(ごんれい)などを
歴任した島義勇(しまよしたけ)(1822~74年)をトップに担ぎました。

74年2月1日、憂国党の士族が、家禄(給与)の遅配に苛いら立って、
公金を扱っていた小野組の支店を襲うと、政府は熊本鎮台(ちんだい)に
佐賀への出兵を命じます。

これに対して16日、江藤の征韓党と島の憂国党がともに決起し、
約2500の大軍をもって佐賀城を攻めとり、大久保が任命したばかりの
佐賀県権令・岩村高俊(たかとし)を敗走させました。

大久保は19日、佐賀鎮圧の全権を帯びて九州・博多入りし、ここに本営を置きます。
同日、佐賀県下に暴徒征討令が布告され、翌20日、政府軍が出撃します。

政府軍の攻勢に江藤は、征韓党軍を解散して脱出。
島はその後も抗戦の指揮をとり、政府軍と激戦を続けました。
3月1日、佐賀城は平定されます。

江藤は退去後、鹿児島に西郷を訪ねて助力を求めましたが、西郷は応じませんでした。
江藤は諦めて四国・宇和島にわたり、高知に潜行します。
しかし、同月28日、土佐・阿波(徳島)の国境で逮捕されました。


《江藤「悲運の末路」》

江藤は、佐賀に護送され、裁判に付されます。
権大判事・河野敏鎌(こうのとがま)は、江藤に対し、十分審理を尽くさず、
4月13日、「除族(華族・士族の除籍)の上、梟首(きょうしゅ)(さらし首)」
という惨刑を言い渡しました。

大久保は、江藤逮捕の報に「じつに雀躍に堪えず」、その死刑判決・処刑の日には
「江藤、醜体(態)、笑止なり」と、それぞれ日記に書いています。
政治家・大久保の非情な一面をうかがわせます。

島義勇も、同罪に処せられました。
この佐賀の乱の反乱士族は1万人を超え、戦死173人、有罪410人
と伝えられています。

佐賀出身の大隈重信は後年、『大隈伯昔日譚(せきじつたん)』で、
征韓論派参議の心境や思惑について、「一種の私情」と「陰(隠)密の意志」
に駆られたものと回想しています。

その中で大隈は、西郷について、必ずしも征韓論の主唱者ではなく、
「旧君(久光)の難責や群小不満の徒の政府攻撃で、失望落胆の極みに沈み、
北海道への隠遁すら考えるなか、むしろ対韓問題を自らの悲境を切り開く
一血路とみなして、使節たらんことを要望した」とみています。

とくに同郷人で、刑死した江藤については、
「不満不平の徒に擁せられて、むしろその本性というべき実務家・立法家より、
一変して武人、将帥(しょうすい)となり、軍を率い、一敗地にまみれ、
自ら定めたる新律綱領(しんりつこうりょう)(刑法典)によって刑せられ、
悲運の末路を見るに至りしは、惜しみてもなお惜しむべしの至りなり」
と述べています。

政府はその後も、西郷らによる西南戦争まで、
各地で士族の武力反乱に苦しめられることになります。


《民撰議院設立建白書》

岩倉が襲撃される2日前の74年1月12日、板垣を中心に
「愛国公党」が結成されました。

同党は、結成の目的として、「人民の通義権理(つうぎけんり)を保全主張し、
もって人民をして自由自主独立不羈(ふき)の人民たるを得せしむるにあるのみ」
と明記しています。

同月17日には、建白を受理する機関である左院に、
「民撰議院設立建白書」が提出されます。

建白書には、副島、後藤象二郎、板垣、江藤の下野参議4人と、
「五箇条の御誓文」の原案の起案者である由利公正(ゆりきみまさ)(前東京府知事)、
イギリスで立憲制度を視察した小室信夫(こむろしのぶ)(徳島県士族)、
坂本龍馬に従い国事に奔走した岡本健三郎(前大蔵大丞)、
古沢迂郎(うろう)(滋)(高知県士族)が署名しました。

イギリス留学帰りの古沢が起草しました。


《「有司専制」批判》

建白書は、多くのメッセージを発しています。

その冒頭で、「方今(ほうこん)政権の帰する所を察するに、
上(かみ)帝室に在らず、下(しも)人民に在らず、而(しか)も独(ひとり)
有司(ゆうし)に帰す」と述べ、

現政権が天皇のもとにも人民のもとにもなく、ただ「有司(官吏)」にあるのみだとして、
大久保政治の「有司専制」ぶりを批判しています。

そのうえで、「朝出(令)暮改、政刑情実(じょうじつ)に成り、言路壅蔽(ようへい)
(言論がふさがれていること)」の現状では、「国家土崩(どほう)」の危機を招来する。

これを救う道は、「天下の公議」を反映させるしかなく、
そのためには民撰議院(国会)を設立しなくてはならないと強調していました。

また、建白書は、「夫(それ)人民、政府に対して租税を払うの義務ある者は、
乃(すなわち)其その政府の事を与知(あずかりしり)可否(かひ)するの権理を有す」
という注目すべき見解を示していました。

政府が租税を課すには国民の同意が必要であり、
ここに民撰議院設立の根拠を求めていたわけです。


《公議輿論の尊重》

民権派は、少数者による専決は避け、幅広く議論を重ねる「公議輿論」の
尊重を掲げていました。

公議輿論は、そもそも幕末・維新期の重要な政治理念でした。

はじめは有力諸侯による「参預会議」などの合議体制として具体化します。

明治維新の「五箇条の御誓文」(1868年)では、
「万機公論に決すべし」として諸藩代表(貢士こうし)の参加をもとめました。
廃藩置県の後は、次第に個々人からなる「世論」を重視する考え方も生まれてきます。

当時の有識者らは、福沢諭吉の『西洋事情』や、中村正直(敬宇)が
ミルの『自由論』を翻訳した『自由之理』などを通じて、すでに
ヨーロッパの議会政治に関して、一定の知識をもっていました。

しかし、板垣らの建白は、すぐには受け入れられませんでした。
ただ、建白書は、『日新真事誌(にっしんしんじし)』(イギリス人ブラックが
72年、東京で創刊した日本語の新聞)に掲載され、論争を巻き起こします。

とくに議院尚早論の立場から反対したのが、宮内省四等出仕(しゅっし)の
加藤弘之(1836~1916年、のち東大総長)でした。

加藤は、国民に政治的知識も自覚も乏しい中で、民撰議院を開けば
「愚論(ぐろん)の府」となり、国家に大きな害を及ぼしかねないと主張。
「人民蔑視だ」と反発する愛国公党などとの間で論戦を展開しました。

その後、板垣は高知に帰郷し、士族の政治結社「立志社」を組織し、
75年には同社の社員が中心になって全国的な規模の自由民権結社
「愛国社」を大阪で設立します。

板垣らの民撰議院設立建白書は、士族らを中心にして明治10年代に本格化する
自由民権運動の出発点になるのです。


《家禄に新税》

73(明治6)年11月、大久保政権は、士族や華族に支給していた
給与のコメ=禄米(ろくまい)=家禄(かろく)に、
新税の「禄税(ろくぜい)」をかけることを決めます。

禄高(ろくだか)6万5000石~5石までを335段階に分け、
累進税率(最高35.5%~最低2%)をかけたものです。

これに対して、参議の木戸孝允が、「2~300万人の衣食を奪い、
士族だけが有する愛国の恒心を消滅させる」として新税創設に反対しますが、
聞き入れられませんでした。

加えて12月には、「家禄奉還制」も導入します。

これは、家禄を政府に返還した士族に対して、
事業資金などとして現金と公債を支給するものです。

世襲の家禄である永世禄の場合は6か年分、
一代限りの終身禄では4か年分が、半額は現金で、残りは
8分利子付きの「秩禄(ちつろく)公債」でそれぞれ支払われました。

これらにより、国家歳出中の家禄支出の約35%が減少したといわれます。
その費用は、イギリスで募った1000余万円の外債がいさいが充てられました。


《「士族の商法」》

家禄を廃止する「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」は、
政府にとって重要な政治課題でした。

華士族は、当時の人口の5%に過ぎませんでした。
彼らは失職したにもかかわらず、国家財政の3~4割を占める
多額の禄を得ていました。

厳しい批判が出るのは当然で、政府には、殖産興業推進の有力な財源として
秩禄カットが欠かせませんでした。

政府が69年の版籍奉還の際、諸藩に命じた「禄制(ろくせい)改革」で、
旧家臣団の家禄は約4割削減されたといわれます。
そして士族たちを農民、商人に復帰させる帰農商(きのうしょう)政策を進めました。


71年の廃藩置県によって、藩がつぶれると、武士の家禄もその根拠を失いました。
73年1月、士族・平民の別なく兵役に服させる徴兵令が公布されると、
武士は完全に職を失います。

徴兵告諭は、士族を「世襲座食(ざしょく)(働かないで食う)」と決めつけていました。

生活難に陥った士族の約3分の1が家禄を奉還し、資金を元手に転身を図りました。
しかし、農業は重労働ですし、商売はまったく未知の世界でした。
天ぷら屋や茶漬け屋などをやっても、利益は上がりませんでした。

慣れない商いに手を出して失敗することを「士族(武士)の商法」と呼ぶのは、
ここに始まります。

また、家禄奉還によって得た、多額の現金に目がくらんで蕩尽し、
一家離散といった悲劇も起きたそうです。

もちろん、士族から官吏や軍人、警察官、教師、新聞記者などに転職する人もいました。
資金難を乗り越えて開墾や養蚕事業に成功した例も残っています。

結局、家禄奉還制は、所期の成果を上げられずに打ち切られ、
政府は76年、家禄・賞典禄を全面的に廃止し、
代わりに金禄公債証書を交付することを決めます。

こうして旧武士層は解体されることになるのです。


《武士の出処進退》

士族が没落に向かい、波乱の政局がつづく中、それとは距離を置き、
一切の公職を断つという、潔い出処進退をみせたサムライもいました。

その一人が、上野(こうずけ)国(群馬県)高崎藩で勘定奉行を
つとめていた深井景忠です。

五男の英五(えいご)(1871~1945年、元日銀総裁)が自伝の中で、
父のことをこのように回顧しています。

 
<明治四年の廃藩置県により、旧来の武士階級は一斉に禄と職とを失った。
父は其時(そのとき)五十三歳であったが、爾後(じご)、全く世間から退隠して
細き生計を立て、前代の遺民(いみん)として固く自ら持した。

愚痴も言わず、時事も論ぜず、只至尊(しそん)(天皇)の下、
四民平等の世の中になったのだからと云いって、従来の所謂いわゆる
百姓町人に対して直ただちに態度を改め、対等の礼を以もって接すると同時に、
新時代の顕官貴人(けんかんきじん)に対して、故ゆえなく礼を厚くすることを
屑(いさぎよし)としなかった。

又藩政の下に於ては、渉外関係に注意して居たにも拘かかわらず、
退隠後は西洋嫌いで押し通し、出来るだけ洋風の新式品の使用を避けた>
(佐伯彰一『近代日本の自伝』)

景忠は、「尚武(しょうぶ)」(武道・武勇を尊ぶこと)の人で
要職を歴任しましたが、いわゆる「守旧」派ではなく、
生糸輸出で貿易上の事務に携わるなど現実的な開明派であったと伝えられています。

   (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180307-OYT8T50017.html

            <感謝合掌 平成30年5月18日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第5回~台湾出兵と北京交渉 - 伝統

2018/05/22 (Tue) 18:36:16


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年03月28日)より

《一転して外征へ》

征韓論に端を発する大政変(1873年10月)の後、台湾問題が再び浮上します。

1874(明治7)年1月、内務卿・大久保利通と大蔵卿・大隈重信は、
台湾出兵の方針を固め、2月6日の閣議に「台湾蕃地(先住民が住む未開の地)処分要略」
を提案しました。

要略は、出兵について、71年に台湾に漂着した琉球人が原住民の「生蕃(せいばん)」
に殺害されたことに報復するのは「政府の義務」であり、先に訪中した副島種臣・外務卿
に対して、清朝側が台湾蕃地を「化外(けがい)の地」としたことからも、
ここは国際法上、「無主(むしゅ)の地」とみなすべきだ、としていました。

日本政府は、これを理由とした台湾出兵により、日清両属だった琉球(沖縄)を
日本の主権下に置くことをねらっていました。

日本近代で初めての海外派兵は、こうして同日の閣議で正式決定されます。

日本国内では、すでに述べたように、この直前の1月には、岩倉具視襲撃事件や、
板垣退助らによる「民撰議院設立建白書」の提出、2月に入ると江藤新平らの
「佐賀の乱」の勃発など、反政府運動が活発化し、大久保政権を激しく揺さぶっていました。

それにしても、征韓論に徹底的に反対した大久保が、
一転して台湾出兵を推進したのは、なぜだったのでしょうか。

一つには、各地の不平士族らの反政府的機運をこれ以上、放置できなかったことがあります。
二つには、出兵に伴う清国や列強の軍事介入のリスクが、征韓に比べると小さいとみられたこと、
などが指摘されています。

大久保にしても、鹿児島士族をはじめとする外征論者らの圧力は如何ともしがたく、
士族階級の不平不満のはけ口を台湾出兵に求めたものとみられます。


《英・米は「反対」》

1874年4月4日、陸軍大輔(たいふ)(次官)・西郷従道(つぐみち)
(1843~1902年 隆盛の弟)が、陸軍中将に昇進し、
台湾蕃地事務都督(ととく)(遠征軍総司令官)に任命されます。

西郷が組織する征台軍は約3600人、その主力には鹿児島兵800人が含まれていました。
また、台湾蕃地事務局長官には大隈が就任します。

政府は4月2日、外務省顧問・リジェンドル(米国人)らの提言を受け、
従来の問罪のための派兵から、台湾の植民地化まで図る新方針を閣議決定します。

この西郷従道ら旧薩摩派が主導した拡大路線に、
木戸孝允ら旧長州派が強く反発し、木戸は参議を辞任しました。


当時、大久保は、「佐賀の乱」の鎮圧のため、現地にあって不在でした。
木戸は、日本の国力、財力では戦争に耐えられないとみていました。
征韓論にともに反対した大久保の「変身」も許せなかったものとみられます。


台湾出兵に対しては、列強からも強いクレームが出されます。

欧米諸国は、日清衝突の事態が、貿易・経済活動に多大な悪影響をもたらすことを
懸念していました。

イギリス公使のパークスは、日本の出兵を清朝側が自国領土への侵略行為と見なす場合は、
英国人や英国船を従事させることはできないと日本側に警告しました。

「台湾全土が清国領土」という立場のアメリカ公使・ビンガムは、
日本の台湾遠征は清国への敵対行為だとして、日本が米国人・船を使うことを拒否しました。


《「延期」のち「決行」》

英米の干渉を受けて、日本政府は4月19日、いったん台湾出兵の延期を決めます。

しかし、西郷従道は、「姑息の策は、かえって士気を鬱屈させ、その禍は、
佐賀の乱の比ではない」として、延期決定を拒否。

4月27日と5月2日に計約1200人の先遣部隊を台湾に向けて出航させてしまいます。

佐賀から帰京したばかりの大久保は、
急ぎ長崎に入り、5月4日、大隈と西郷従道と協議します。
結論は、出兵という「既成事実」を容認し、「出兵延期」を撤回します。

大久保は、その際、リジェンドルの帰京とアメリカ人士官の解雇、
対清交渉に向けての柳原前光(さきみつ)公使の清朝派遣などを指示しました。

西郷従道は17日、約1800人の本隊を率いて高砂丸で長崎を出港します。
日本政府は19日になってようやく、正式に「台湾蕃地処分の布告」を出しました。

西郷は5月22日に台湾南部に上陸。
6月1日から5日にかけて総攻撃をかけ、琉球人を殺害した原住民らの拠点である
牡丹(ぼたん)社を陥落させました。

遠征軍の戦死者は12人、負傷17人。
このほか全軍3658人のうち、伝染病や風土病とくにマラリアなどによる
病死者が561人に上りました(毛利敏彦『台湾出兵』)。

現地兵士は、伝染病に苦しみ、悲惨な状況にあったのです。


《緊迫の日清関係》

清朝は、日本にどう対応したのでしょうか。

清朝皇帝は6月24日、
日本の即時撤兵を要求せよ、との勅命をくだし、強硬な態度に出ます。

7月には、総理衙門がもん(清朝外務省)が、駐清公使の柳原に対し、
台湾出兵について正式に抗議しました。

清朝は、台湾出兵は日清修好条規違反としていました。
同条規第1条は、「両国所属の邦土」への「侵越」を禁じており、
日本が清朝の邦土である台湾に武力侵攻したことは許されないというわけです。

 
日清両国間の対立が深まります。

日本政府内では、台湾から撤兵するか、清国と開戦するか、で意見が分かれます。
大隈は開戦を強く主張しました。伊藤は撤兵論だったようです。
陸軍卿の山県有朋は、早期撤兵・日清戦争回避の立場で、
陸軍内の将官の多数が開戦は不可としていました。

政府は7月8日の閣議で、対清国交渉では「和親」保持に努めるのはもちろんだが、
もしも、清国が戦端を開くならば、「交戦已やむを得ざるべし」(『明治天皇紀(第三)』)
と決しました。

ただ、交渉にあたる柳原駐清公使への訓令には、占領地を譲与する代わりに
償金を獲得して、撤兵するとしていました。

交渉が妥結しない場合は開戦も辞せず、という方針のもと、
政府は8月1日、大久保を全権弁理大臣として清国に派遣することを決定します。

大久保には、交渉で「和戦いずれかを決する」権限が与えられました。
台湾出兵という、自らまいた種を刈る形になった大久保の交渉に臨む姿勢は、
「あくまで避戦であった」(勝田政治『<政事家>大久保利通』)ということです。


《大久保、北京入り》

大久保は9月10日、北京入りしました。
お雇い外国人であるフランスの法学者ボアソナードが顧問として同行しました。

日清交渉は、日本側から大久保、柳原ら、
清朝側から恭親王(きょうしんのう)、文祥らがそれぞれ出席して
14日からスタートしました。

が、案の定、難航します。

日本側は、国際法の基準に照らせば、台湾の原住民の「生蕃」には、
清朝の統治が及んでおらず、出兵は日本の「義挙(ぎきょ)」であると主張します。


これに対して、清朝側は、台湾が中国に属するのは内外に周知のことであり、
生蕃は、清朝流のやり方で治めている。
清国領である同地への出兵は、日清修好条規に違反していると反論します。

結局、国際法(万国公法)を盾にする日本側と、
日清2国間条約を根拠とする清朝側との議論は、交わることがありませんでした。
交渉は暗礁に乗り上げ、10月25日、大久保は清朝側に帰国を通告します。

しかし、この前後、イギリスの駐清公使・ウェードが仲介に入ります。
ウェードによる精力的な斡旋あっせんの結果、日清双方は、「談判破裂」を乗り越え、
27日、調停案を受け入れました。

31日に調印された「互換条款(じょうかん)(協定)」等には、
日本の出兵は「保民義挙」のためであり、清国は「蕃地」での遭難者と遺族に
「撫恤(ぶじゅつ)(いつくしみあわれむという意味)銀」10万両を即時払いすること、
日本軍が「蕃地」に設営した道路・建物は40万両で清国が譲り受けることが
盛り込まれました。

日本軍は12月20日までに撤兵することも決められました。

とくに注目すべきは、協定に「台湾の生蕃、かつて日本国属民等に対し、
妄(みだ)りに害を加えたるをもって」という表現が使われことです。

これは、清国側が「琉球人は日本国民である」という日本の主張を
間接的に認めたことを意味していました。


《日本外交の勝利》

北京交渉で大久保は、清朝側から大幅な譲歩を勝ち取り、
戦争を回避して外交的な勝利を収めました。

伊藤は、木戸宛ての書簡で、「此上このうえなき国家の大幸」であり、
それも大久保の「大功」であると高く評価しました。

台湾出兵問題で閣外に去っていた木戸も、「雀躍に堪えず」と、
その功績を称える手紙を大久保に書き送りました。

 
清国から得た賠償金に関して、一つのエピソードがあります。

大久保は、計50万両のうちの40万両は、
清朝皇帝に「謝却」(返却)しようと考えていました。

参議・黒田清隆あての手紙によると、大久保は、
返却金は原住民の開化と航行の安全のために充てることを希望し、
この欧米では例のない措置によって、我が国の盛名を世界に輝かすことができる
と書いていました。

ただ、これは実行されずに終わります。(清沢洌『外政家としての大久保利通』)。

もちろん、日清開戦や台湾領有にまでエスカレートしていた強硬派は、
この決着に不満を示しました。

また、賠償金をはるかに上回る戦費を要したことへの批判もくすぶり、
大久保は「ウェード公使の助力によってなんとか政治生命を保てた」
という歴史家の評価もあります。

さらに、台湾出兵が、その後の「日・清対決」に道を開いたことも事実です。

11月27日、大久保らが横浜港に帰着すると、国旗を掲げた
「内外人民群むれを成す」(大久保日記)ほどの歓迎陣が、一行を迎えました。

当時の英米の新聞も、大久保の交渉手腕を高く評価する記事を掲載しました。

大久保は、協定署名の10月31日の日記に、
「是迄の焦思(しょうし)苦心、言語の尽くす所にあらず。
生涯又如此(かくのごとき)事あらざるべし」、

北京を立った11月1日の日記には、「自ら心中快を覚ゆ」と記し、
難しい交渉を仕上げた大久保の深い安堵が伝わってきます。

結果的に大久保の声価は、一気に高まり、自らの権力基盤を固めることになるのです。

   (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180322-OYT8T50004.html

            <感謝合掌 平成30年5月22日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第6回~琉球王国の歴史に幕 - 伝統

2018/05/25 (Fri) 17:18:44


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年04月11日)より

《清朝が受けた衝撃》

清朝は、その周辺に、自治的統治を認めた「藩部(はんぶ)」と呼ばれる地域と、
朝貢(ちょうこう)・冊封(さくほう)関係にある「属国」をもっていました。

藩部は、モンゴルやチベット、新疆(しんきょう)などをさしており、
属国は、朝鮮や琉球(沖縄)、ベトナム、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)などです。

ただ、属国といっても、清朝は、一般的に
その国の内政や外交に直接、干渉することはなかったようです。

これに対して、交易・商取引関係にある国々は「互市(ごし)」と呼ばれ、
日本や西洋の国々がこれにあたります。

こんな中国中心の東アジアの国際秩序の下、日本による台湾出兵(1874年)は、
清朝に大きな衝撃を与えました。
それは小国にすぎない隣国の軍事侵攻を未然に防ぐことができなかったからです。

日清の北京交渉で、調停案を受け入れざるをえなかった
総署大臣・恭親王(きようしんのう)は、上奏文で「わが海疆(かいきょう)の武備
が恃(たの)むに足るものであったら、決裂を虞(おそ)れる事もなかったろう」
と述べています。

海洋防備をおろそかにしたため、「不法」の日本に譲歩せざるをえなかった、というわけです。

清朝は、これを教訓に海防強化を本格化させ、直隷(ちょくれい)(現在の河北省)
総督・李鴻(りこうしょう)章をトップに北洋海軍の建設に着手します。

1874年に海防増強計画が策定されると、翌75年から留学生を
イギリスとフランスに派遣して海軍術を学ばせます。

鉄甲艦なども輸入し、旅順、威海衛(いかいえい)に軍港を建設します。

こうして編成されることになる北洋艦隊は、のちの日清戦争(1894~95年)で
日本艦隊と雌雄を決することになるのです。


《藩属体制の危機》

北京交渉で71年の日清修好条規が役に立たなかったことは、
それを締結した李鴻章にとって容易ならざる事態でした。

同条規第1条の「両国所属の邦土への不可侵」の規定は、
中国沿岸や朝鮮など「属国」を含めた広範な「邦土」への不可侵を、
日本に義務づけようとしたものでした。(岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ』)

ところが、日本側は、そんな解釈にはお構いなく、
台湾南部は「無主の地」だとして派兵してきました。

清朝は、こうして日清修好条規が通用せず、明治維新以降、富国強兵を進める日本を
新たな「脅威」とみなすことになるのです。

このころ、清朝は、中央アジアにおけるロシアの勢力拡大と
イスラム教徒の反乱に苦慮していました。

日清修好条規が締結された71年には、
ロシアが、新疆で発生したイスラム教徒の反乱に乗じてイリ地方を占領します。


清朝は、陝甘(せいかん)総督の左宗棠(さそうとう)(1812~85年)に
イスラム教徒の鎮圧を命じます。
彼は、太平天国の乱で、義勇軍の「楚軍(そぐん)」を率い、
曾国藩の「湘軍(しょうぐん)」、李鴻章の「淮軍(わいぐん)」とともに
反乱軍と戦い、勝利した人物です。

左宗棠は、中国北西部の陝西(せんせい)省から甘粛(かんしゅく)省へと軍を進め、
73年には平定します。

さらに新疆まで兵を進めようとした時、日本の台湾出兵が起きました。
その際、李鴻章は、海防の強化に力を注ぐため、
ロシアとイギリスの進出が著しい新疆は放棄すべきだと提案しましたが、却下されました。


《琉球の日本専属化》

このあと、清朝は、日清両属の琉球の日本専属化を図る、日本政府の攻勢に直面します。

北京交渉で日清間が結んだ協定には、
「琉球人は日本国民」と解釈できる表現が使われていました。

日本政府は、これを論拠に「琉球は日本の版図(はんと)」だとして
帰属問題の決着を急いだのです。

台湾出兵中の74年7月、日本政府はまず、
琉球案件の所管を外務省から内務省へと移しました。

さらに同12月、北京から帰国した内務卿・大久保利通は、日清協定を踏まえて
「清国との関係を一掃」する措置――すなわち、琉球を日本の領土に完全に組み込む
ことを建議し、承認されます。

次いで大久保は、内務大丞(だいじょう)・松田道之(みちゆき)を
処分官として那覇に派遣。

75年7月14日、松田は首里城を訪問し、
琉球藩王代理の今帰仁(なきじん)王子に会い、政府の命令を伝えました。

それは、清朝への朝貢使・慶賀使の派遣禁止、清朝による
冊封(さくほう)(王の位を受けること)の廃止を厳命していました。

そのほか、琉球藩内ではすべて明治の年号を奉じることや、
日本への謝恩のために藩王が上京すること、
日本の刑法の施行、軍の鎮台分営の設置なども求めていました。

琉球側は、これまで、琉球藩の設置(1872年)の時も、
琉球漂流民殺害事件をめぐる対清交渉(73年)の際も、
これらが琉球処分への布石であるとは受け止めず、
政府側の説明をうのみにして、のんきにかまえていたようです。

ですから、この清国との関係を一切断つよう命じた松田処分官の言葉に、
琉球側は驚愕(きょうがく)します。

それでも、琉球当局は、刑法施行や分営設置など一部の要求は受け入れましたが、
朝貢や冊封の禁止などは、「清朝との国際的信義上、出来るものではない」と
拒絶しました。

とくに清国に近い、藩内の「親清派」(頑固党)の人々は強く抵抗しました。 

結局、琉球当局による東京での直接の陳情が許され、75年9月には特使が派遣されます。
彼らは、清朝との断絶や琉球の国体・政体の変更は望まないことを繰り返し陳情しますが、
日本政府は受け付けませんでした。

日本政府は76年5月、内務少丞(しょうじょう)・木梨精一郎に琉球藩在勤を命じ、
同藩がもっていた司法権を内務省出張所に接収します。
これに伴い、清国への渡航は同出張所の許可がなければ不可能になります。


《琉球、清朝に密使》

琉球藩王・尚泰(しょうたい)は、同年12月、
清国・福州に密使として幸地(こうち)親方らを派遣します。

幸地らは翌77年2月、藩王の密書を清朝側に提出するとともに、
これまでの経緯を報告し、救援を求めました。

一方、東京駐在の琉球藩の役人は、日本に赴任してきた清国初代駐日公使・
何如璋(かじょしょう)と連絡をとり、アメリカ、イギリス・オランダの
駐日公使にも支援を要請、問題の国際化を図ろうとします。

清国の何公使は、外交交渉と同時に、琉球に軍艦を派遣して
日本政府の譲歩を迫る強硬策を建議しています。

同年10月、何公使は、寺島宗則外務卿に対し、日本の措置は
「隣交に背(そむ)き、弱国を欺(あざむ)く」行為だと非難しました。

寺島は「暴言だ」と反発し、交渉は停滞します。

なお、日本国内ではこの年の2月、西郷隆盛を首領とする士族の大反乱(西南戦争)
が起き、政府は半年間、その鎮圧に追われていました。


《琉球処分》

78年5月、琉球処分を指揮してきた内務卿・大久保利通が暗殺され、
伊藤博文が後任に就きます。

伊藤は、国際問題化を避けるため、駐日の各国大使に調停を求めていた
琉球藩の役人を東京から退去させる一方、琉球処分官の松田を再び琉球に派遣します。

79年1月、松田は那覇入りします。
75年6月の初訪問から3年半の月日が経過していました。

松田は到着後、直ちに首里城を訪ね、藩王代理の今帰仁王子に対し、
密航や外国公使への働きかけを非難したうえで、日本政府の命令に従うよう、
最後通告ともいうべき「督責(とくせき)(ただしせめること)書(しょ)」
を手渡しました。

これに対し、琉球側は、「遵奉(じゅんぽう)(したがい、固く守ること)書」
を提出しませんでした。

松田は帰京すると、琉球処分の早期断行を上申し、政府は、軍隊の派遣と、
松田に3回目の出張を命じました。

松田は79年3月25日、内務省の官吏30余人、警察官160余人、
熊本鎮台分遣隊400人を率いて那覇に上陸しました。

松田は27日には首里城に乗り込み、今帰仁王子に対し、
「廃藩置県」(琉球藩の廃止と沖縄県設置)の太政大臣達書を自ら朗読しました。

4月4日、琉球藩を廃し、沖縄県を置くことが全国に布告されます(琉球処分)。

県名を沖縄にしたのは、中国からあたえられた琉球をさけ、
沖縄人自身の呼び名にもとづいたからです(宮城栄昌『沖縄の歴史』)。

 旧藩王尚泰は明治政府の命により、沖縄を離れ、6月、上京しました。

15世紀に成立し、400年に及んだ琉球王国は、ここに歴史の幕を閉じます。


《属国ドミノ現象》

毛利敏彦著『台湾出兵』によれば、清国公使の何如璋は、
日本の琉球併合を阻止すべきだと本国に警鐘を乱打していました。

琉球の喪失を黙認すれば、それは決して「一琉球」にとどまらず、
朝貢国・朝鮮の喪失へと連動し、<ドミノ現象>のあげく、
朝貢国体制が総崩れになることを恐れていたというのです。

ドミノ現象とは、ある出来事が起きると、次々とドミノ(将棋)倒しのように、
連鎖的によく似た事件が起こることをいいます。

日本にすれば、近代国民国家として存立するには、
国家主権の及ぶ範囲(国境)の画定が必要で、琉球処分は避けて通れませんでした。

ところが、その日本の行動は、大清帝国を支える華夷(かい)秩序への挑戦を
意味していました。そしてこの<ドミノ現象>は清朝の杞憂で終わらず、
朝鮮やベトナムにおいて現実化していくことになります。

  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180404-OYT8T50026.html

            <感謝合掌 平成30年5月25日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第7回~「砲艦外交」で朝鮮開国 - 伝統

2018/06/15 (Fri) 18:09:13


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年04月25日)より

《朝鮮でも政変》

李朝(りちょう)(1392~1910年)後期の朝鮮外交は、
宗主国である清国との関係を基軸とし、
徳川幕府の日本とは対等な隣国同士の交際をしていました。

明治維新後の日朝関係は、日本の王政復古を知らせる外交文書の文言を巡ってこじれ、
日本政府は1872(明治5)年9月、朝鮮・釜山プサンに置いた
対馬藩の「草梁倭館そうりょうわかん」を接収し、大日本公館としました。

翌73年10月には、朝鮮に開国を迫る特使の派遣をめぐって、
日本政府の内部で大政変(征韓論政変)が起こりました。

この日本の政変と時をほぼ同じくして、朝鮮でも政変がありました。

同年12月、即位して10年を迎える国王・高宗が親政を宣言し、
最高権力者だった実父の大院君が摂政の座から降ろされました。

高宗の妻である閔妃(びんひ)(ミンビ)は、
大院君夫人の実家にあたる閔氏から迎えられた女性でした。

ところが、国王の権限を利用して、
閔氏一族一門を政権の中枢・要職に就かせて急速に力をつけました。

こうして大院君を隠棲(いんせい)させ、政権を掌握した閔氏一族は、
ここに新たな「勢道(せいどう)政治」(国王が認めた特定の個人や集団が
権勢をふるう政治)を開始します。

新政権は、大院君の施策のほとんどを廃棄し、
外交でも鎖国攘夷論の大院君の下で対日強硬策を貫いてきた当局者らを罷免します。
対日政策も変更される可能性が出てきました。


《江華島事件》

日本政府は74(明治7)年4月、改めて朝鮮との国交回復をめざし、
外務省官員の森山茂を釜山に派遣します。だが、交渉は再び難航します。

翌75年、森山は、副官である広津弘信を通じて、寺島宗則・外務卿に対し、
測量を名目に、軍艦1、2隻を朝鮮に派遣するよう提案しました。

朝鮮の鎖国攘夷派が追われたこの時期に、
軍事的示威を加えて、交渉の進展を図ろうとしたのです。


日本政府は75年5月末から6月初めにかけ、艦長・井上良馨(よしか)
(後の海軍大将・元帥)少佐が率いる小砲艦「雲揚号」(排水量245トン)など
2隻を釜山に派遣し、砲撃演習をして朝鮮側を脅かしました。


同年9月20日、おなじ雲揚号が、今度は航路測定を名目に朝鮮の西海岸を北上し、
首都ソウルへの表玄関である「江華島(こうかとう)」(カンファド)に接近します。

艦長の井上少佐がボートをおろして草芝鎮(チョジジン)に近づこうとしたところ、
砲台から攻撃を受けました。

翌21日、雲揚号は、草芝鎮に報復攻撃して砲台を焼き払い、
22日には南下して小島である永宗島(ヨンジョンド)の要塞を急襲して将兵が上陸。
朝鮮の軍人・民間人ら35人を殺害し、銃砲などの兵器を奪って引き揚げました。 


井上からの事件報告を受けて政府は29日、居留民保護の名のもと、
軍艦の派遣を決め、大型快速艦「春日」(排水量1269トン)が釜山港に入りました。

日本側は、雲揚号は「飲料水を求めていた」と説明しましたが、
「許可を求めることもなしに、国交のない異国船が内国河川に侵入し、
しかも要塞に接近することは歴然たる挑発行為」(海野福寿『韓国併合』)でした。


《日朝修好条規締結》

日本政府は、この江華島事件を口実として、
日朝修好条規の締結を朝鮮に迫ることになります。

政府はまず11月、朝鮮の宗主国・清国に森有礼(もりありのり)を公使として派遣し、
朝鮮が対日交渉のテーブルにつくよう協力を求めます。

これに対して清朝側は、「朝鮮の国事には干渉しない」と答えました。

これを受けて日本政府は、朝鮮と交渉を進めることとし、
特命全権大使に黒田清隆(きよたか)、副全権に井上馨(かおる)を任命しました。

黒田は76年1月、軍艦6隻に総員800余人を乗せて出発。
同時に政府は、陸軍卿・山県有朋を下関に急派し、
有事に備えて朝鮮遠征軍を編成し待機させました。

黒田らは2月10日、江華島に上陸して11日から交渉を開始します。
停泊艦はいっせいに「紀元節」(73年、神武天皇即位の日をもって定められた祝日)
の礼砲を放って示威行動を行います。

朝鮮国内は、開国派と攘夷派に分かれていました。
下野した後も影響力を残していた大院君は、開国派と政府の軟弱外交を強く批判します。

しかし、朝鮮政府は、日本の強圧的な外交に反発しながらも、
「開国はやむをえない」と判断し、日本案を修正のうえ、
2月26日には日朝修好条規が調印されます。

ただ、交渉にあたった朝鮮側の正使も副使も、
「万国公法」に対して何ら知識を有せず、条約の何たるかも知らなかった
(趙景達『近代朝鮮と日本』)ということです。

修好条規は、十二款(かん)(条)からなり、
第一款は「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」と明記されました。
日本側は、これによって朝鮮に対する清国の宗主権を退け、
その影響力を排除しようと考えていました。

このほか、倭館が置かれていた釜山以外の2港の開港、
日本の朝鮮沿岸の自由測量、日本の領事裁判権の規定も盛り込まれました。

さらに、日本貨幣の流通を認め、輸出入品の関税が免除されるなど、
朝鮮側にとって極めて不平等な内容でした。


駐日アメリカ公使のビンガムは、
副全権の井上に『ペリーの日本遠征小史』を送っていました。

日本の対朝鮮開国外交は、ペリー提督が日本に対してみせた
「ガンボート・ディプロマシー」(砲艦外交)によって、
欧米流の不平等条約を朝鮮側に押しつけるものでした。

ただ、朝鮮側には、日本と条約を結んでも、開国したという意識はなく、
徳川幕府との「旧信」の回復と考えていました(金重明『物語 朝鮮王朝の滅亡』)。

このため、日本との復交後も、米欧列強からの開国要求を拒み続けます。

しかし、清朝の李鴻章が、朝鮮に代わってアメリカとの間で条約交渉を進め、
82年5月には朝米修好通商条約が調印されました。


《日露で樺太・千島交換条約》

日本政府は、明治維新後、新しい官庁として開拓使を設置し、
「蝦夷地」を改称した北海道と樺太を管轄させ、開拓を進めました。
それに伴い、そこに居住していたアイヌの人々も日本に編入しました。

日本とロシアの国境は、日露和親条約(1855年)によって、
千島列島の択捉(えとろふ)島と得撫(ウルップ)島の間と決められました。

しかし、樺太については、全島領有を要求するロシア側と、
北緯50度での分割を主張する日本側とが対立して決着がつきませんでした。

その結果、日露混住の地とされた樺太では、両国人の紛争が絶えず、
開拓次官の黒田清隆は、樺太経営の「不利益」を唱え、
政府内では、樺太放棄論も出始めます。

「国権外交」を進めた副島種臣(そえじまたねおみ)・外務卿が
樺太の買収・売却案を示して交渉にあたりましたが、
ロシア側の拒絶にあって実らなかったことは<米欧回覧と文明開化 第8回>の中で触れました。


明治六年政変のあと、大久保政権は樺太放棄論に傾きます。
74年1月、黒田の推薦により、榎本(えのもと)武揚(たけあき)
(1836~1908年)が駐露公使に起用され、難交渉にあたります。

榎本は、旧幕府の海軍副総裁で、戊辰戦争の箱館五稜郭の攻防戦では、
新政府軍参謀だった黒田の敵将でした。

江華島事件が起きた75(明治8)年の5月7日、日露両政府は、
ロシアのペテルブルクで、樺太・千島交換条約に調印しました。

その結果、ロシアが樺太全島の権利を得て、日露の境界は宗谷海峡と定められました。
代わりに日本は、得撫島以北の千島列島(クリル諸島)の18島の権利を得、
カムチャツカ半島のラパッカ岬と占守島(しゅむしゅとう)間が国境となりました。

しかし、ここでようやく定まった日露の国境問題は、その後、紆余うよ曲折を経ます。

日本が勝利した日露戦争後に締結されたポーツマス条約(1905年)で、
ロシアは、樺太・千島交換条約で獲得した樺太全島のうち
南樺太(北緯50度以南)を日本に割譲しました。

その後、太平洋戦争終結直前の1945年8月9日、
ソ連は日ソ中立条約を破って対日参戦。ソ連軍は、日本がポツダム宣言を受諾し
て降伏した後も、戦闘を継続して南樺太や千島列島を制圧し、
8月末から9月はじめにかけ、根室市の沖合に連なる国後(くなしり)、
択捉(えとろふ)、歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)の「北方4島」も占拠しました。

日本政府は、51年のサンフランシスコ講和条約で千島列島と南樺太を放棄します。
日本政府は、この放棄した千島列島の中に「北方4島」は含まれないとして、
全4島の返還を要求しています。

しかし、ロシア(ソ連の後継)は、「第2次大戦の結果、ロシア領になった」と、
今も実効支配しているのが現状です。


《小笠原諸島を領有》

日本政府は1875年、小笠原諸島の日本帰属を宣言しました。

東京から南方約1000キロの太平洋上に散在する同諸島は、
父島や母島、南鳥島、沖ノ鳥島などからなります。

徳川幕府が1675年、同諸島へ調査船を派遣したという記録があり、
その後、1827年にイギリス艦の船長が島を探検し、
イギリス領を示す銅板などを残したといわれます。

しかし、いずれにしても定住者はなく、長い間無人島でした。

最初の入植者は欧米人やハワイ人の男女25人からなる移民団で、
1830年に父島に入って生活を始めました。


53年6月、アメリカのペリー提督が浦賀に向かう前に、小笠原に寄港しました。
ペリーは、父島を太平洋航路の停泊地や捕鯨船の避難港にしようと考え、
4日間滞在して島を踏査しました。

ペリーは、蒸気船の波止場や、石炭倉庫の建設地を選定し、
そのための土地の所有権も得ました。

ペリーには、この島に植民地を建設する計画があったようで、
移民のアメリカ人を「行政長官」に任命しました。

ただ、ペリーは、同諸島の主権に関しては
「疑いなく、一番古い占有者である日本に属する」と認めています。

これに対して、江戸幕府は62年、外国奉行の水野忠徳(ただのり)らを
咸臨丸(かんりんまる)で島に派遣し、まず開拓のために、
八丈島の農民や職人ら38人が入植しました。

76年、寺島外務卿が各国に同諸島の日本領有を正式通告します。
イギリスもアメリカも異議は唱えず、同諸島は80年には伊豆七島とともに
東京府の管轄になりました。

小笠原諸島を構成する一つの島、硫黄島が、太平洋戦争末期の
1945(昭和20)年2~3月、日本とアメリカの激戦地となり、
日本軍は玉砕しました。

日本の敗戦後、小笠原諸島は、沖縄と同じく、サ
ンフランシスコ講和条約発効後もアメリカの占領下に置かれます。

小笠原の返還に関しては、1967年の日米首脳会談で合意に達し、
翌68年4月、返還協定が調印され、日本に復帰しました。

  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180418-OYT8T50015.html

            <感謝合掌 平成30年6月15日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第8回~「西南戦争」への助走 - 伝統

2018/06/21 (Thu) 19:20:45


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年05月16日)より

《鹿児島に「私学校」》

明治六年政変で下野した西郷隆盛は、1873(明治6)年11月、
鹿児島に帰省した後、農作業に精を出す一方、
愛犬を伴って狩猟や湯治(とうじ)に出かける日々を送ります。

また、自分に付き従って帰省した大勢の地元将兵らの面倒をみようと、
74年6月には「私学校」を設立。

その目標は、「道義においては一身を顧みず」、
「王を尊び、民を憐あわれむ」心で、
ひたすら難にあたることのできる士官の育成でした。

元近衛局長官・篠原国幹(くにもと)の下に銃隊学校を設置し、
元宮内大丞(だいじょう)・村田新八(しんぱち)には砲隊学校を任せました。
そこでは軍事訓練や漢学講義などを実施、県内各地に数多くの分校を置きました。

戊辰戦争の賞典禄をもとに、戦没者子弟のための「賞典学校」も設立し、
旧下士官への授産に役立てるため、「吉野開墾社」も作りました。

私学校は次第に軍事・政治組織化します。
 
鹿児島県令の大山綱良(つなよし)(1825~77年)は幕末期、
西郷らの指揮下、倒幕工作に従事し、戊辰戦争では軍事参謀として転戦、
軍功を上げました。

地元出身でありながら県令に就くというのは異例の措置で、
鹿児島県庁では役人も県外の人を採用しませんでした。

そこへ私学校のメンバーが浸透し、
各行政組織や警察のほとんどのポストを彼らが占めます。

この結果、鹿児島は、西郷と私学校が牛耳る「独立国」の観を呈するようになります。

この間、西郷には、明治天皇をはじめ各方面から
「再出仕(さいしゅっし)」の打診がありました。
西郷は応じません。

政府入りした旧薩摩藩主の父・島津久光からの要請に対しても、
「唯ただ国難に斃(たお)るるのみの覚悟」と断っています。


《大阪会議体制》

政変で勝ち組の内務卿・大久保利通は、殖産興業―工業化路線を推進するためにも、
士族たちの反発を和らげ、政権の安定を図る必要がありました。

大久保は74年2月に台湾出兵を進め、同4月に島津久光を左大臣に任命します。
これらは外征に息巻く士族たちや、不平士族を煽動しかねない久光への宥和策でした。

ところが、久光は、政府の開化政策をことごとく否定する建言書を
太政大臣・三条実美と右大臣・岩倉具視に提出し、
大久保の罷免まで要求します。

久光を政府内に取り込む策は裏目に出ました。

そこで大久保は、台湾出兵に反対して参議を辞めた木戸孝允の政府復帰を図ります。
根回しに動いたのは、伊藤博文でした。

木戸は、岩倉使節団から一足早く帰国した直後の73年7月、
「憲法制定の建言書」を太政官に提出、五箇条の御誓文の中身を拡充して
「政規(せいき)」を確立するよう求めていました。

大久保も同年11月、「君民共治」(立憲君主制)を採用して、
「君権」と「民権」の範囲を「国憲」(憲法)で定める
「立憲政体に関する意見書」をまとめていました。

これらの「立憲政体」論が、両者を接近させます。

大久保は75(明治8)年1月、大阪で木戸と会談して参議への復帰を要請、
木戸は憲法制定や地方議会の開設など制度改革を条件に受諾します。

他方、井上馨はこれに先立ち、木戸と、民撰議院設立を唱える板垣退助との
会談をセットし、両者は今後の連携を確認しました。

2月11日には、大阪で木戸・大久保・板垣の3者が会談し、
制度改革の推進で一致(大阪会議)。

3月8日に木戸が、同12日に板垣がそれぞれ参議に任命されます。


《「漸次立憲政体樹立」》

これらを受け、75(明治8)年4月14日、
「立憲政体の詔(みことのり)」が発せられました。

この詔勅(しょうちょく)には、「漸次(ぜんじ)に国家立憲の政体を立て、
汝(なんじ)衆庶(しゅうしょ)(庶民)と倶ともに
其その慶(けい)に頼よらんと欲す」とあります。

これは明治天皇による立憲政体導入宣言でした。

立法諮問機関としての元老院(上院)と、
司法機関としての大審院(最高裁判所)を新設し、
全国の地方官を集めて意見を募る地方官会議を召集するとしていました。

ここに欧州の三権分立をモデルとする日本の憲法構想がスタートを切ります。

しかし、もともと急進的な板垣は、元老院の性格に関して、
天皇大権を制限するような改正案を提示し、木戸の漸進論と対立します。

他方、島津久光が復古的な提言の採用をしつこく要求し、
板垣提案の「内閣・省卿分離論」(参議と省の長官職の分離)にも同調して、
三条の弾劾(罷免)上奏に及びます。

10月27日、政府は久光と板垣を更迭し、
木戸がリードした大阪会議体制は、あっけなく崩れ去りました。


《廃刀令と秩禄処分》

政府は76(明治9)年3月28日、軍人・警官らを除いて帯刀を禁止し、
違反者は刀を取り上げる旨(廃刀令)を布告しました。

前年12月、陸軍卿・山県有朋による「廃刀の上申」では、
今も帯刀している者は「頑陋(がんろう)」(頑固でいやしく軽蔑すべきこと)
であり、その存在は「陸軍の権威にもかかわる」と述べていました。

他方、「廃刀令」が布告された翌日、
大蔵卿・大隈重信は「家禄・賞典禄の処分」に着手し、
76年8月5日、「金禄公債証書」発行条例を公布し、
禄制の廃止を宣言しました(秩禄処分)。

例えば、永世録の場合、禄高(金禄)に応じて5か年分~14か年分に相当する額
の5分~7分利付の公債証書を交付しました。

禄高20石の下級家臣団が受給者全体(約31万3千人)の84%を占め、
その受け取った公債額は全体額の62%、1人平均で415円、
年間利子収入は29円余にとどまりました(日本近代思想大系『経済構想』解説)。

このため、政府は困窮する士族たちの授産事業を急がなければなりませんでした。

ところが全国士族の13%を占めていたという鹿児島県士族については、
条例の「最大7分」を上回る「1割」の利息が支給される優遇措置がとられました。

大山鹿児島県令の強腕の成果とされますが、
木戸はこれを「不公平だ」と厳しく批判します(落合弘樹『秩禄処分』)。

一方、全体の0・2%に過ぎなかった旧大名・家老・公卿層は、
全体額の18%、1人平均6万円以上の公債を取得し、
年間利子収入は3026円に達しました。

高額の公債を得た華族たちは、これを元手に銀行を設立したりします。

廃刀令や秩禄処分は、士族の特権を剥奪(はくだつ)し、
世襲による支配身分であった武士層の完全解体を意味しました。

それだけに不平士族らの憤懣(ふんまん)をいやがうえにも高め、
大規模な反乱を頻発(ひんぱつ)させることになります。


《神風連・秋月の乱》

76年10月24日~25日、九州・熊本で、太田黒伴雄らが率いる
「神風連(しんぷうれん)」(敬神党)が、反乱を起こしました。

彼らは、政府の欧化政策を批判し、帯刀の禁止は
「神代(じんだい)固有の勇武を摩滅し、国勢を削弱(さくじゃく)」
させると糾弾。約200人が熊本鎮台を急襲するなどして、
鎮台司令官・種田政明少将、県令・安岡良亮らを殺害しました。

鎮台は大混乱に陥りますが、
死傷を免れた残余の鎮台兵が反撃し、間もなく鎮定されました。

次いで10月27日、神風連に呼応する形で、福岡県の旧秋月藩士族・
宮崎車之助らが240余人の同志とともに挙兵しました。

彼らは、国権の拡張と征韓要求を掲げ、旧小倉藩の豊津士族の決起を
促しましたが協力を得られず、6日後、小倉鎮台兵に鎮圧されます。


《前原一誠「萩の乱」》

10月27日、山口県の萩でも、元政府高官の前原一誠(1834~76年)が、
旧長州藩の同志150余人とともに挙兵を決めます。

前原らは、山口への進撃が不利とみると、県北部の須佐から漁船に分乗して
海路島根をめざしますが、強風で断念。
萩に引き返し、政府軍と衝突し、11月8日には壊滅します。

前原は、不平士族たちが、鹿児島の西郷に次いで頼みとする人物でした。

松下村塾で吉田松陰に師事し、高杉晋作らとともに志士としてならした前原は、
戊辰戦争では長岡城攻略で奮闘しました。

68年、大久保利通や副島種臣、広沢真臣(さねおみ)らとともに
新政府の参議に任命されたあと、兵部大輔に就任します。

しかし、新政府の政策と合わないことが重なって同郷の木戸とも不和となり、
70年9月、官職を辞して帰郷しました。

前原は、地租改正や秩禄処分、樺太・千島交換条約、征韓論の放棄などに
強い不満を抱いていたといわれます。

前原は、島根県下で捕らえられ、斬首刑に処せられました。


《「天下驚くべきの事」》

74年の佐賀の乱、76年の熊本神風連の乱、福岡秋月の乱、山口萩の乱と、
隣接した地方で勃発した士族反乱は、政府軍によって次々と制圧されました。

これら反乱士族の間には、西郷が立つことへの期待がありましたが、
西郷の側に呼応する気はなく、西郷は自重を貫きました。


しかし、政府、反政府勢力のいずれもが、この先の西郷の出方を注視していました。

西郷と深い親交のあった人物に桂(かつら)久武(ひさたけ)
(1830~77年)がいます。

桂は、西郷が私淑していた薩摩藩重臣・赤山靱負(ゆきえ)
(お由羅ゆら騒動で切腹)の実弟でした。

その桂に76年11月初旬、西郷は以下のような手紙を出しています。

手紙は萩の乱に関連して、「両三日珍しく愉快の報」があったと、
前原の蜂起拡大を待望しつつ、こう綴つづっています。

「此この方の挙動は人に見せ申さず、今日に至り候そうろうては、
尚更(なおさら)の事に御座候(ござそうろう)。
一度相動き候わば、天下驚くべきの事をなし候わんと、相含み罷まかり在り申し候」

つまり、ひとたび動けば、天下おどろくべきことをなすつもり――と、
決起を示唆していたのです。

この頃、士族反乱だけでなく、農民の間でも、地租改正への不満から
一揆が続発していました。
政府が77年1月に地租の減額措置をとらざるをえなくなるのはそのためです。

大久保政権は対外的な危機を乗り切ったとはいえ、
国内的には多くのリスクに直面していました。

西郷は桂への手紙の3か月後、実際に立ち上がることになるのです。

  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180509-OYT8T50040.html

            <感謝合掌 平成30年6月21日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第9回~西郷軍VS政府軍 - 伝統

2018/06/24 (Sun) 18:54:22


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年05月30日)より

明治の新聞は、1870年に日本初の日刊紙『横浜毎日新聞』が発刊されると、
72年に『東京日日新聞』『日新真事誌(にっしんしんじし)』『郵便報知新聞』、
74年に『読売新聞』『朝野(ちょうや)新聞』などが次々と創刊されました。

当時、政治、経済を扱う硬派の新聞では、『東京日日』が政府寄りで、
他紙はおおむね反政府・民権の論陣をはっていました。

とくに『日新真事誌』に民撰議院設立建白書が公表されて以来、
政治評論が活発化します。

政府は、新聞・雑誌による「圧政批判」を封じるため、
75(明治8)年6月28日、讒謗律(ざんぼうりつ)および新聞紙条例を定め、
言論規制に乗り出しました。

同条例は、新聞紙の発行を許可制とする一方、
「政府を変壊し国家を転覆する」記事・論説の掲載などを禁止し、
厳しい罰則を設けました。

9月には、出版条例も改正し、出版前に事前に検閲を受けるよう義務づけました。

讒謗律の「讒謗」とは、「讒毀(ざんき)」と「誹謗(ひぼう)」の
2語をつづめた言葉です。

讒謗律の第1条をみると、事実を示すことなく、「人の栄誉を害する」行為を讒毀、
「人の悪名を公布する」ことを誹謗と定義。

天皇や皇族のほか、とくに官吏に対する批判を許さないとし、
違反者は禁獄や罰金刑に処するとしていました。

当時の新聞界では、元幕臣で岩倉米欧回覧使節団に同行した福地桜痴(おうち)
(源一郎、1841~1906年)が74年、『東京日日』入りしたのをはじめ、
『報知』には栗本鋤雲(じょうん)(1822~97年)、
『朝野』には成島柳北(なるしまりゅうほく)(1837~84年)、
末広鉄腸(てっちょう)(1849~96年)らがそれぞれ入って、
活発な議論を戦わせます。

77年に西南戦争が始まると、各紙とも「
特派員」を現地に派遣して戦争報道にあたります。

『東京日日』からは社長の福地が自ら従軍し、
3月23日から「戦地採録」の見出しで連載を開始。

『郵便報知』から派遣された犬養毅(1855~1932年、のちの首相)の
従軍記事は高く評価され、これが今日の事実報道のさきがけとされます。


《過激な『評論新聞』》

この間、政府による言論規制は強化され、新聞・雑誌の発行停止・禁止、
記者の逮捕・収監が相次ぎました。

『朝野』に入る前に『東京曙あけぼの新聞』の編集長だった末広鉄腸は、
この条例を批判したかどで、禁獄2か月、罰金20円の罪に処せられました。
同条例による摘発第1号とされます。
鉄腸は『朝野』でも筆禍ひっかにあっています。

75年3月に創刊された政論誌『評論新聞』は、
急進的な開化政策や有司専制を排撃し、岩倉具視や大久保利通らの
暗殺を主張する記事を掲載していました。

76年1月には、編集長の小松原英太郎(1852~1919年)が、
大久保政権を批判する「圧制政府転覆すべきの論」を発表して2年間投獄されます。
同年7月、『評論新聞』は発行禁止処分を受けます。

過激な民権派の論客だった小松原は、その後、新聞界から官界に転じて
司法次官や内務次官を歴任し、1908年、第2次桂太郎内閣では文相に就任。
山県有朋系の貴族院議員として政治への関与を深めるなど、起伏の多い人生を送ります。

さて、『評論新聞』を主宰する海老原穆(えびはらあつし)は、鹿児島県士族で、
元陸軍少将の桐野利秋(1838~77年)や篠原国幹(くにもと)
(1836~77年)と同郷でした。


幕末期、「人斬り半次郎」という異名で知られた桐野は、明治六年の政変後、
西郷隆盛とともに鹿児島に私学校を創設した、西郷派士族の中心人物です。

私学校の士族たちは、征韓論を展開するなど薩摩の主張を代弁する『評論新聞』
を愛読し、反政府熱をあおられます。西郷も同誌を読んでいたそうです。

海老原は77年1月、桐野に対して
「積年の憤懣を流血の中に晴らしたい」と決起を求めました(小川原正道『西南戦争』)。


《村田新八の選択》

元宮内大丞(だいじょう)の村田新八(1836~1877年)は、
米欧回覧使節団のメンバーとして米欧を視察した優秀な士族でした。

しかし、征韓論政変後に帰国した村田は、
大久保と西郷のどちらにつくべきか、去就に迷います。

勝田孫弥著『大久保利通伝』によりますと、村田は大久保と面会し、
政変の顛末(てんまつ)を聞くと、大久保の話は「いちいち尤もっとも」なこと
ばかり、道理において毫ごうも間然かんぜんする所なし」
――つまり、いささかも非難するところがなかったというのです。

そのあと、鹿児島へ帰郷して西郷の意見を聞いてみると、
こちらは「心事において間然する所なし」。

村田は幼少時から西郷に兄事(けいじ)し、
西郷遠島の時は、自らも連座し、苦汁をなめました。

西郷か、大久保か――村田は結局、「容易ならざる恩誼おんぎ」と
「離るべからざる情義」のため、西郷方に投じ、
西郷の最期まで付き添うことになります。

私学校の砲隊学校を監督していた村田は、76年12月、
「今やウドサァー(巨人のこと。西郷を指す)の力にても、
これ(私学校党の形勢)を如何ともすること能あたわず。
現状は、あたかも四斗樽に水を盛り、腐縄をもってこれを纏まといたるがごとし」と、
もはや樽が破裂するのは必至との情勢認識を示していました。

薩摩は不穏な空気が充満していました。
鹿児島に潜入した政府の密偵たちも「暴発出京」情報を頻々ひんぴんと、
東京にもたらします。


《火薬庫襲撃と西郷暗殺計画》

76年暮れ、警視庁二等警部の中原尚雄(ひさお)をはじめ、
鹿児島県出身の警部・巡査ら約20人が、大警視の川路利良(鹿児島県出身)から、
帰郷して私学校党の情報収集と説得にあたるよう指示されます。

翌77年1月、鹿児島県の陸軍火薬庫の弾薬が私学校党の手に渡ることを
恐れた政府は、これをひそかに大阪に移送しようとします。

これに対して私学校党のメンバーは、同月29日夜から2月はじめにかけ、
陸軍火薬庫だけでなく、海軍造船所付属の火薬庫を相次いで襲い、
大量の小銃や弾薬を奪いました。

襲撃には約1000人もが参加しており、事実上、反乱勃発の一報に西郷は、
「しまった」とつぶやいたと伝えられます。

2月上旬、政府が視察のため派遣した中原らが、
現地で私学校党のメンバーに逮捕され、拷問の末、西郷暗殺計画を「自供」します。

中原らの口供(こうきょう)(供述)書によれば、
川路は、挙兵を止められなければ、「西郷と刺し違えるよりほかはない」旨を
語ったとされ、中原自身も、同様の話を鹿児島入り後、旧知に語っていました。

さらに、大久保の命を受けて帰県したという別の人物が自首して、
大久保の関与を裏付ける証言をしたといわれます。

しかし、中原らは、のちに供述内容を否定します。
拷問によるものだとすれば、その信憑性は乏しくなります。

政府内では、中原らの「視察団」を「刺殺団」と取り違えたのではないか、
ということが真面目に論じられていました。

本当に暗殺計画があったのかどうか、真相は未だ不明です。

政府側が、供述書は拷問によって捏造されたものと決めつければ、
私学校側は暗殺計画の実在を信じていました。

そして鹿児島県内では、「憎むべき奸賊は、大久保と川路」といった世論が沸騰します。

西郷自身は、火薬庫襲撃では私学校生を叱責しましたが、
さすがに自分の暗殺計画について聞かされると態度を改めます。


《「政府へ尋問の筋有之」》

2月5日、西郷と私学校党幹部らとの協議で、「暗殺」問題について
大久保と川路に「尋問」するため、「率兵上京(兵隊とともに東京に向かうこと)」
が決まります。

作戦会議では、船を使う海路案は否定され、全軍が陸路で熊本を経由して
東上することで一致しました。

政府は、旧薩摩藩士の海軍大輔(たいふ)・川村純義(すみよし)
(1836~1904年)を鹿児島に派遣します。

川村は9日になって鹿児島湾に到着しますが、不穏な情勢のなか上陸できず、
鹿児島県令の大山綱良(つなよし)と船上で会います。

西郷―川村会談が一応セットされますが、時すでに遅く、
桐野らの反対や妨害もあって会談は実現しませんでした。

西郷、桐野、篠原は12日、大山県令に対して
連名で率兵上京の届けを出しました。

それには、「今般、陸軍大将・西郷隆盛ほか二名、政府へ尋問の筋有之これあり、
旧兵隊等随行……」と、行軍の目的を明記し、中原らの口供書が
添えられていました。届出書は大山によって各府県や各鎮台に通知されます。

西郷軍(薩軍)は出兵準備を急ぎます。

総勢は1万5000人で、各2000人からなる七つの大隊が編成されました。
一番大隊長・篠原国幹、二番大隊長・村田新八、三番大隊長・永山弥一郎、
四番大隊長・桐野利秋など、西郷側近たちが軍の指揮にあたることになります。

14日、閲兵式のあと、まず、六番・七番連合大隊長の別府晋介(1847~77年)
らが先行し、翌15日から、50年来なかったという大雪をついて、
薩軍の本隊が行軍を開始。

当面の目標は政府軍の拠点・熊本城(熊本鎮台)の陥落です。

村田新八は、洋行帰りらしく、燕尾服(えんびふく)に山高帽姿で出陣しました
(ドナルド・キーン『明治天皇』)。

西郷も17日、陸軍大将の正服姿で猟犬を伴い、鹿児島を後にします。


《大久保は「不幸中の幸い」》

弾薬庫襲撃事件を受けて、陸軍卿の山県有朋(やまがたありとも)は2月4日、
神戸に軍参謀部を置きました。9日、各鎮台司令長官に非常事態宣言を発します。

さらに12日、薩軍に対する「作戦意見書」を太政大臣に提出しました。
それには、戦力を一つに結集して、終局は「桜島湾に突入、鹿児島城の滅却を期す」
としていました。

山県は、熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)に対し、
「攻守よろしきに従い、ただ万死を期して熊本城を保つべし」と指令しました。
(川道麟太郎『西郷隆盛』)

 
一方、このころ、大久保は何を考えていたのでしょうか。

2月7日の伊藤博文への手紙によれば、大久保は、私学校の暴発は
桐野が主導したもので、西郷はこんな「無名の軽挙」はしないと信じていました。
こうした見方は、大久保だけでなく、岩倉具視や木戸孝允にも共通していました。

しかし、大久保はその手紙で、これで戦争になれば、相手は
「名もなく義もなく、天下に言い訳もたたないので、その罪をならして討てばよい」
との冷徹な見方を示し、

「この節、これが起きたことは、朝廷不幸(中)の幸いとひそかに
心中には笑いが生じているくらいです」とも書いています。

大久保は、戦争に勝利すれば、これまで中央の支配に何かと抗あらがってきた
鹿児島県を痛打し、その中核の私学校勢力を駆逐できる、
それこそが「不幸中の幸い」とみていたようです。

ただ一方で、大久保は、西郷に会えれば説得できると考えていたとも言われますが、
その機会はついに訪れませんでした。

2月19日、明治天皇は「鹿児島県暴徒」に対する征討令を布告します。
有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を征討総督とし、
征討参軍(幕僚長)に陸軍中将・山県有朋、海軍中将・川村純義を
それぞれ任命して陸・海軍の指揮官としました。

いよいよ、西郷軍と政府軍との「悲劇の内戦」の火ぶたが切られます。

  (http://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180523-OYT8T50038.html


            <感謝合掌 平成30年6月24日 頓首再拝>

【若きリーダー】 - 伝統

2018/07/28 (Sat) 19:56:59


       *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年07月26日)より

   (藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)

   明治4(1881)年11月12日、明治新政府の事実上の首班である
   右大臣岩倉具視(ともみ)(47歳)を団長に、総勢107名(使節46名、
   随員18名、留学生43名)の使節団が欧米諸国を目指して横浜から出発した。

   約300年続いた江戸幕藩体制を実質的に崩壊させた廃藩置県の強行から
   僅(わず)か4か月後である。

   不満をいだく大名や武士が反乱を起こしても不思議はない状況にあった。


   その中を大久保利通(42歳)、木戸孝允(たかよし)(39歳)、
   伊藤博文(31歳)という新政府の中心人物が揃って、
   予定では10か月にわたり14か国を歴訪する海外視察の旅に出たのである。

   使節団の目的は2つ。

   江戸幕府時代に締結された不平等条約の改正と欧米諸国の研究。

   日本の国家のあり方を定める礎(いしずえ)にしたい、という思いからの旅立ちだった。


   留守政府を預かったのは太政大臣三条実美(さねとみ)(35歳)、
   参議の西郷隆盛(45歳)、板垣退助(35歳)、大隈重信(34歳)。

   出発の6日前、三条実美は使節団と留守政府の主要メンバーを自宅に招いて
   送別の宴を開き、こう激励した。

   「いまや体制維新。海外各国と並立(へいりつ)を図るに当たり、
   使節を絶域万里(ぜついきばんり)に奉ず。外交内治前途の大業その成否、
   実にこの挙にあり」

   送るほうも送られるほうも、新国家建設の使命に燃えていた。

   当時の若きリーダーたちの意気込みが溢(あふ)れたスピーチである。


   使節団はアメリカを皮切りに行く先々で熱烈な歓迎を受け、
   旅は延びに延び、結果として632日の世界一周旅行になった。

   この旅に「愚挙」「壮挙」と評価は分かれたという。

   だが、当時のリーダーが世界の中の日本を知り、
   日本の針路を誤らずに今日に導いた事実を見れば、
   「壮挙」であったことは確かである。

   当時のリーダーはリーダーたるにふさわしい器量を備えていた、
   といえるのではないだろうか。


   何よりも特筆すべきは、
   彼らの溢れんばかりのバイタリティであり楽天性である。

   そのバイタリティと楽天性が野放図(のほうず)に流れず、
   「武」と「学」の鍛錬によって陶冶(とうや)されている。

   彼らの人間的迫力、人間的器量はそこに起因している。


   1にバイタリティ、2に楽天性、3に絶えざる自己修練。

   この3つはいつの世もリーダーに欠かせない資質といえる。


   国も会社も家庭も、そこにどういうリーダーがいるかで決まる。

   どういうリーダーがいるかで、
   国、会社、家庭の浮沈(ふちん)、盛衰が左右される。

   いつの時代も問われるのは、リーダーの器量である。

          <『小さな人生論5』致知出版社>

            ・・・

時代が大きく変わろうとする時代の節目は、若者のリーダーが多く輩出する。

明治維新や、今がその時だ。

海外を見渡しても、政治家も、起業家も、若い人が圧倒的に多い。

なぜなら、時代の変化のスピードが早ければ早いほど、
年配者はついていけなくなるからだ。

年をとればとるほど、しがらみや、義理や束縛が増え、変えることができなくなる。


若きリーダーに必要なのが…

「1にバイタリティ、2に楽天性、3に絶えざる自己修練 」

若きリーダーが次々と活躍する時代がやってきた。

            <感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>

天野清三郎~明治日本の造船業界、草分けの第一人者 - 伝統

2018/08/27 (Mon) 19:22:55


         *Web:四国政経塾
              ~「何のために生きるか」 より

松下村塾にはいろんな人がおりました。
松陰の偉いところは、自分が死刑になるとだいたい予感していたので、
獄中から一人ひとりの弟子の身の振り方を、それぞれ決めてやっていることです。
 
その中に、天野清三郎という勉強ぎらいで見込みがないと思われる弟子がいた。

松陰は高杉晋作に「高杉、お前が自分に代わって面倒を見てやれ」と言いました。
そこで高杉晋作は、天野清三郎を引き取って、腰巾着みたいにして
勤皇運動をして歩いたわけです。

高杉は天才中の天才といわれるくらい頭のいい人でした。
一方天野は鈍才中の鈍才です。

「とてもじゃないが高杉さんのまねはできん、
わしは政治運動には向かん事を気づき、何になろうかと考えた」ところが、
耳の中に松陰先生の言葉が残っていた。

「お前たちの中で黒船を造る者はおらんか。
あれを造らなければ日本は植民地にされてしまう」と言った。

「そうだ。おれは勉強嫌いだけれど、手先の仕事は好きだ。
だから舟大工になって黒船を造ろう」

そこで彼は、慶応三年に密航して上海に逃げ、そして上海からロンドンに渡り、
ロンドンの造船所で働きながら船造りを覚えようとました。

ところがやってみると、船を造るには、基礎の数学・物理・力学といった
学問を徹底的にマスターしなければならない、彼は勉強嫌いだから
船造りになろうと思ったのですが、勉強しなければならない、
しかも、天野は鈍才中の鈍才です。

ロンドンという異郷の地で、英語を使って数学や物理、力学を勉強する
のですからもう血を吐く思いだったと思います。

夜学校に入ったのですが、わからない、数学のスの字も知らない人間が、
いきなり造船学の基礎になる高等な数学を勉強するのですから
解らないのが当たり前です。

でもこれをやらなければ、自分の生きる道がないと考え、
今度はアメリカへ渡って、ボストンの造船所で働きながら夜学へ通いました。
すると今度は不思議に良く解ったそうです。

英語も上達していたし、アメリカの学校の教え方が進んでいたのでしょう。

そうやって辛苦の末に造船学をマスターし、明治七年に横浜に上陸した。
そして東京へ訪ねていけば、かつての松下村塾の仲間が明治政府の高位高官にいる
ではありませんか。

面会に行き、「アメリカで船造りを覚えてきた」
「よしっ」ということになって、

天野清三郎は、明治政府が長崎に造った日本最初の長崎造船所の所長になり、
今日、世界一の百万トンドックがある三菱造船所の初代所長になり。
世界に冠たる日本の造船業界の、文字どおり草分けの第一人者になった。

後に名を改めて渡辺蒿蔵といい、日本郵船の社長にもなりました。
 
松下村塾のいわば落第坊主、勉強嫌いの天野清三郎が、
どうしてロンドンやボストンで、血を吐く思いをしてまで勉強することができたのか、
その底力はどこから出たのか。

それは、自分は何のために生きるのかを真剣に考えた末、
自分の持ち味の発揮と、世のため人のために役立つことが結びついたから、
どうしても果たさなければならないという強い志を持っていたからです。

只、残念なのは、現代社会おいて、天野の様な鈍才中の鈍才は、
入学・入社ではじかれてしまい、はじかれた人達は、其のまま自分の世界に入り
世の中に背を向ける人物に成るのでは? 

何故、人を育てるという事をしないのか疑問で有る。

人間はこの世に生まれたからには、必ず其の人の役目が有ると言われます。
自分の志を強く持ち、その人の道を歩き出した時、初めて、自分の価値を
見つけられるのだと思います。

皆さんも自分の家族、友達からでも、大きな気持ちで見守り、
その人に取って良い選択が出来るまで、松陰の様に気長に見守ってあげれば、
世の中少しは変わるのではないでしょうか。

 (http://www.shikoku-net.co.jp/s-seikei/keizai-report/report-no21.htm

            <感謝合掌 平成30年8月27日 頓首再拝>

幕末日本のゴールドラッシュ - 伝統

2018/08/29 (Wed) 18:19:29


     *「大君の通貨(幕末「円ドル」戦争)」佐藤 雅美・著より


19世紀中期の世界の動乱の中で、3つのゴールドラッシュが始まった。

ひとつは、カリフォルニアの金鉱、
そしてオーストラリアの金鉱、
そして最後が幕末日本のゴールドラッシュである。

ただし最後のひとつだけは金山が発見されたわけでもなくまきおこった。

アメリカ人が、為替差をめぐる国際金融の簡単なカラクリと、
幕府政治の怠惰と無責任の構造の間に金鉱を発見したのである。
これが幕末日本のゴールドラッシュである。



当時世界の金融覇権を握っていたイギリスの金と銀の交換比率は、
1717年に万有引力の法則で名だたるニュートンが造幣局長官として発布した、
1対15.21。

一方、日本の金と銀の交換比率は、1対5。

簡単にいうと、この交換比率の差で、サヤ取り(裁定取引)を
主にイギリスの商人が繰り返していたわけである。

これ以降は次のようなシナリオで、私たちが実感として知らない
幕末の革命の導火線に火がつけられる。



【1】日本で銀を金と交換すると、日本以外での交換よりも3倍の金が手に入る。
   簡単な話である。これで金が大流出した。
 ↓

【2】金の流出に危機感を抱いた幕府は、
   金と銀の交換比率を3.375倍に引き上げた。

   これにより、金と銀の交換比率は、1対16までなるとともに、
   通常の取引される決済通貨である銀の価値はおよそ1/3まで(0.31)まで下がる。
   銀貨のデノミである。
 ↓

【3】ただでさえ、開国以来、絹・茶を中心とする物産で
   貿易が輸出超過しはじめていたところに、
   さらに通常流通していた銀の価値が下落し、
   物価はあっというまに高騰しインフレーションが始まる。
 ↓

【4】インフレーションが中長期的なよい影響を及ぼすこともあるが、
   短期的に混乱は巻き起こす。

   これに困るのはいつの時代も給与生活者や資産をすでに形成しているもの。
   このインフレの価格変動を使ってうまく売り抜けられる器量を持つのは商人、
   特に外国商人だけ。
 ↓

【5】インフレで困窮した武士は、
   「こんな世の中悪くなったのは開国したからだ!」とテロに走る。

   一方幕府は貨幣税収の価値が下がり疲弊する。
 ↓

【6】日本国内が経済的・政治的に大混乱。


<参考Web>

(1)「大君の通貨(幕末「円ドル」戦争)」書評(2018年7月6日)
   http://eronews1.com/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%90%9B%E3%81%AE%E9%80%9A%E8%B2%A8%E2%80%95%E5%B9%95%E6%9C%AB%E3%80%8C%E5%86%86%E3%83%89%E3%83%AB%E3%80%8D%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%80%8D%E4%BD%90%E8%97%A4-%E9%9B%85%E7%BE%8E/

(2)Web:ゆとりずむ(20160918)
   https://www.yutorism.jp/entry/edo_money    

            <感謝合掌 平成30年8月29日 頓首再拝>

明治と戊辰の150年 - 伝統

2018/09/03 (Mon) 18:50:24

明治と戊辰の150年
論説フェロー 芹川 洋一
~もうひとつの歴史知る時

      *Web:日本経済新聞(2018/9/3)より 

ことしは明治150年である。
西暦では1868年、干支(えと)でいうと戊辰(つちのえたつ・ぼしん)の年、
慶応から明治に改元した。10月23日のことだった。

明治150年記念式典が当日に開かれるのはそのためだ。


旧暦で慶応4年の正月3日、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争がはじまった。
薩摩・長州藩などの維新政府軍と、旧幕府勢力や会津・庄内両藩、奥羽越列藩同盟
による内戦である。

維新政府の権力が確立。
9月22日の会津落城でひと区切りついた。

明治150年をきっかけに近現代の日本の歴史を振りかえるのは悪いことではない。
しかし物事には表があれば裏もある。
いくさには勝者がいれば敗者もいる。

西の人にとっての明治150年は、東の人にとっては戊辰150年である。
移ろう季節のなかで、そんな歴史に思いをはせた。

神奈川県大磯町。ここで今、
明治150年を記念した政府による公園の整備が進んでいる。
伊藤博文、大隈重信、西園寺公望といった戦前の政党政治で
重要な役割をはたした政治家の邸宅・別荘のあとが残っている。

そこを「明治記念大磯邸園」として一般に開放しようというものだ。

東海道の松並木が残る国道1号線と西湘バイパスにはさまれた約6ヘクタールだ。
目の前に広がる湘南の海からの磯の香をふくんだ風がここちよい。

伊藤は「滄浪閣(そうろうかく)」と名づけた別荘を本宅にして
明治30年(1897年)に本籍も大磯に移した。
西側には伊藤のあとの政友会総裁となった西園寺公望が別荘をかまえた。
すぐ横だったので「隣荘」とよばれた。

「明治政界の奥座敷」といわれた大磯には8人の首相が住んだ。
伊藤、大隈、西園寺のほか山県有朋、寺内正毅、原敬、加藤高明、そ
して戦後は「大磯詣で」という言葉までうまれた吉田茂である。

伊藤、西園寺につづく第3代の政友会総裁が原で、政友会人脈は大磯で育まれた。
原の別荘は2人の別荘とは東に少し離れた場所にあった。

伊藤、山県、寺内の3人が長州、大隈が肥前と
維新政府の中心だった藩の出身だったなかで、
原敬は南部(盛岡)藩士の末えいだ。
戊辰戦争で敗れた東の人である。

薩長が東北を蔑視した「白河以北一山百文」からとった
「一山」をわざわざ自らの俳号にしたように、
原には戊辰戦争へのふつふつたる思いがあった。

「かえりみるに昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。
戊辰戦役は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍負くれば賊軍との俗謡あり、
その真相を語るものなり」――。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡の報恩寺で開かれた
「戊辰戦争殉難者50年祭」で政友会総裁の原敬がささげた祭文の一節だ。

戊辰戦争は「政見の異同」、たんに政治的な見解を異にしただけで、
一方が勝ったからといって負けた方を処断できるすじあいのものではないと説いた。

 
場所にも意味があった。
報恩寺は盛岡藩の家老・楢山佐渡が戊辰戦争の責任を
一身におって切腹したところだった。

薩長藩閥ではない初の平民宰相として原が登場したのは、
50年祭の1年後である。

「朝敵」「賊軍」の汚名を着せられたことが
奥羽越列藩同盟側の地域の人たちには耐えがたい屈辱だった。

直木賞作家で会津藩に関連する多数の著作があり、
会津若松市観光大使も兼ねる中村彰彦さん(69)に聞いた。

「明治維新は日本の夜明けというのが薩長を中心とする西日本の歴史観だが、
関東以北では釈然としない。むしろ戊辰戦争に負けたことで
日本の近代から見捨てられたという感覚だ」

「北の守り、江戸湾の警護、京都守護職として京の治安維持と国の内憂外患に
いちばん力をつくし、孝明天皇から高い評価をえていた藩が
なぜ朝敵といわれなければならないのか。
薩長のうしろからの浴びせ斬りでうちの殿様が汚名を着せられた。
その怒りが会津の人たちにはある」

中村さんは「逆賊を滅ぼした戊辰戦争」といった歴史観を否定する。

「私は山口県出身の総理大臣としては8人目だが、
明治維新から50年目が寺内正毅さん、100年目が佐藤栄作さん。
何とか頑張っていけば、(150年の)2018年も山口県出身の安倍晋三
ということになる」――。

3年前の8月、お国入りした安倍首相が自民党の山口県連の会合で
こんなあいさつをしたことがあった。

20日投票の総裁選で3選を果たせば、それが実現する。
1月の施政方針演説で、会津の白虎隊の出身で東京帝大総長になった
山川健次郎に首相がふれたのは、きっと明治・戊辰150年を意識していたからだろう。

 
そうだとすれば10月の明治150年記念式典では一歩踏み込んで
「奥羽越列藩同盟側は賊軍でなく、朝敵でもなかった」と明言してみてはどうか。
長州出身の首相による戊辰戦後150年談話である。

 
もうひとつある。
靖国神社にまつられているのはいわゆる「官軍」のみだ。
岩手出身の小沢一郎氏が記者会見などで
「白河以北は賊軍とよばれ戊辰戦争の戦死者はまつられていない。
そろそろ朝敵の汚名は返上してもらっていいのではないか」という通りだ。

歴史には光もあれば影もある。
明治150年、影の部分にも思いをめぐらせてみたいものだ。

            <感謝合掌 平成30年9月3日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第10回~悲劇の内戦 西郷の「戦死」 - 伝統

2018/09/08 (Sat) 18:35:16


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年06月13日)より

《熊本城の攻防》

1877(明治10)年2月、西郷軍(薩軍)北上の報を受けた
熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)(1837~1911年)は、
熊本城に籠城する作戦をとります。

この戦略拠点を鎮台兵で持ちこたえ、政府軍主力の来援を待とうというのです。

谷は土佐(高知)の人です。
土佐勤王党の首領・武市(たけち)瑞山(ずいざん)や、2歳上の坂本龍馬、
1つ下の後藤象二郎ら開明派の影響を受けて、討幕運動に奔走しました。

戊辰戦争に従軍したあと、73年、陸軍少将として同司令長官に就任、
翌74年には佐賀の乱の鎮定に出動し、台湾にも出兵しました。

熊本城攻防戦開始直前の77年2月19日、城から突如、火が出ました。
強風にあおられて天守閣は炎上し、城内の多くの建造物や糧食の大半が
焼失しました。

放火説もありましたが、後年、谷は「失火」だったと回顧しています。

21日、城下に侵入してきた薩軍に対して鎮台兵が反撃します。
谷の開戦報告を受けて、征討総督・有栖川宮(ありすがわのみや)は、
「一撃して賊を破る可べし。天下人心の向背(こうはい)は、此この一挙に在り」
と打電しました。

22日から薩軍は、熊本城を強襲して城を包囲します。
しかし、徴兵制にもとづく鎮台兵が必死に防御し、籠城は長期戦に入ります。


《九州諸隊が決起》

西郷決起の知らせに九州各地の士族たちが呼応します。

熊本からは、熊本隊、協同隊、人吉(ひとよし)隊、
大分からは中津(なかつ)隊などが参戦しました。

熊本隊は、池辺吉十郎(いけべきちじゅうろう)(1838~77年)率いる
熊本士族ら1500余人で、2月23日に薩軍に加わります。

協同隊は同県の士族結社「民権党」のグループで、平川惟一(ひらかわただいち)、
宮崎八郎(1851~77年、中国革命運動家・宮崎滔天(とうてん)の兄)らを
リーダーに、政府打倒を期して総勢300人が参加しました。

平川と宮崎は、台湾出兵の際も、熊本で義勇隊を組織して参戦。
その後、中江兆民ルソーの「社会契約論」を抄訳した『民約論』を
テキストに自由民権の教育活動などをしていました。

宮崎(日向ひゅうが)では、延岡、高鍋(たかなべ)、福島、
佐土原(さどわら)、飫肥(おび)、都城(みやこのじょう)の
各隊が兵をあげます。

ほとんどが士族だった熊本諸隊に対して、
日向諸隊は約半数が農兵で占められていました(小川原正道『西南戦争』)。

こうしてみると、西郷を追って旗揚げした諸隊には、
民権家やインテリ士族、農民らが自主的に参加していたのです。

西南戦争は、単に反動派士族の抵抗とみられがちですが、
民主的権利の拡大要求を掲げる諸隊の参加からして、
ある種の「革新」性を帯びていたとの評価があります。

高知県には、全国各地から民権家が集結していました。
板垣退助主宰の自由民権結社「立志社」内では、
薩軍の決起を受けて挙兵計画が練られました。

これに対し、陸軍卿代理として軍政の要職にあった西郷従道(つぐみち)
(隆盛の弟)は、九州以外への戦火拡大を防ぐため、
立志社をはじめ四国の動静に細心の注意を払っていました。

ただ、薩軍不利の戦況が明らかになると、立志社の計画は尻つぼみになります。


《田原坂の戦い》

<雨は降る降る 人馬(陣羽じんば)は濡ぬれる 越すに越されぬ 田原坂たばるざか>

こう歌われた「田原坂」(熊本市北区植木町)は、熊本へと南下を図る政府軍主力と、
これを防ごうとする薩軍との死闘が演じられた地です。

77年3月4日から激戦が始まりました。

政府軍では、連射可能な最新式スナイドル銃(後装ライフル銃)が威力を発揮。
また、薩軍の白刃攻撃に対抗するため、鹿児島出身の巡査を主力に
「抜刀隊」を組織しました。

ここに「薩摩の人をもって薩摩の賊を討つ」、
つまり友達や親族同士が接近戦で殺し合う悲劇が相次ぎます。

一方、政府の警視隊には旧会津藩士が多数参加していました。
彼らには、戊辰戦争での薩摩藩など「官軍」による会津攻撃の
無惨な記憶が蘇よみがえります。

当時22歳、「郵便報知新聞」の従軍記者・犬養毅(いぬかいつよし)は、
その田原坂戦場ルポで、隊員が戦闘中、大声で「戊辰の復讐」と叫んでいた
と伝えています。

3月19日、政府軍の別働隊が熊本県中部の日奈久(ひなぐ)・八代(やつしろ)
方面に上陸します。熊本城攻囲中の薩軍を背後から突こうとする作戦でした。
20日には政府軍が田原坂を突破しました。

参軍・黒田清隆は4月12日、政府軍の総力を挙げて熊本城進撃を開始します。
会津藩出身の陸軍中佐・山川浩の1隊が14日、薩軍の堡塁(ほうるい)を突破、
熊本城の包囲網が解かれました。

籠城50余日、城を守り抜いた熊本鎮台司令長官の谷は、
その後、軍人から政治家へと転進。立憲政治の確立を訴え、
日清・日露戦争では非戦論を唱えるなど、
明治政界に独自の地歩を築くことになります。


《戦時下の民衆》

明治元年に生まれ、のちに陸軍軍人として諜報活動に従事した
石光真清(いしみつまきよ)(1868~1942年)は少年時代、
故郷の熊本で西南戦争を経験しました。

その手記『城下の人』によれば、77年4月、熊本城の包囲が解け、
久方ぶりに平和がやってきました。見渡す限り一面焼け野原の中、
「城下には、家を焼かれ、財を失い、着のみ着のままで、
鍋釜の類を少しばかり手に提げて、一家一団となって焼跡へ戻って来る人が続いた。

誰を見ても衣服は汚れ、帯は縄のようになり、
下駄は草履のように履き減らしたのを大切そうに履いている」とあります。

それから1世紀の後、字の読めない「無文字」の庶民が
西南の役を発端とする近代日本の百年をどのようにみてきたか――をテーマに、
石牟礼(いしむれ)道子さん(1927~2018年)が、
西南戦争を知る100歳以上の古老から聞き書きをしています。

石牟礼さんは熊本県生まれ、水俣病を描いた文学作品『苦海浄土』で知られる作家です。

その著である『西南役伝説(せいなんえきでんせつ)』には、
薩軍と政府軍との斬り合いをみたという一人の老女のこんな語りが出てきます。

「刀のいくさはな、芝居のように、品の良うはいかん。
侍さんでもな、死のうごつはなかろもん。田んぼの藁わら小積みば間にしてな、
両方とも斬られんごつぐるぐる廻まわってなあ、おめき合うたり、突っこけたりして、
勝負のつくまではそらもう大事おおごつ。

…殺す方も殺される方も泥まみれになって、何のわけで殺し合いばしなはるだろうか。

…踏んで踏み固めてなあ、畠も田も使いもんにならんようにしてしもて。
いくさの通った跡は、百姓がどのくらい大事か。迷惑なこつ、ほんなこて」

戦場となった九州各地は、政府軍も薩軍も、ともに市街や村々を焼き払い、
農民は耕作ができなくなったり、人夫や食糧の供出を迫られたりして、
多大な犠牲を払わされました。


《乃木希典の痛恨事》

熊本鎮台歩兵第14連隊長心得・陸軍少佐の乃木希典(1849~1912年 
のち陸軍大将、学習院院長)は、1877年4月17日付で、「
待罪(たいざい)書」を参軍・山県有朋中将あてに提出しました。

乃木は2月22日夜、熊本城をめざして進軍中、薩軍と遭遇。
抜刀隊の夜襲攻撃を受けて退却する間、旗手が戦死し連隊旗を奪われていたのです。

山県は軍紀を正すため、乃木を極刑に処すべきだと主張しました。
これに対して、第1旅団司令長官・野津鎮雄(のづしずお)少将が、
乃木の戦功をほめ、ここは罪を許して他日の奮励を待つべきだ、と論じました。
乃木は処罰を免れました。(大濱徹也『乃木希典』)

乃木は、天皇から授けられ「大元帥」(陸海軍の統帥者としての天皇)の
象徴である軍旗を喪失したことをずっと忘れませんでした。

明治天皇の大喪当日(1912年9月13日)、自刃して「殉死(じゅんし)」
した乃木がしたためた遺書には、西南戦争時の軍旗喪失以降、
「死処」を求めていたが、機会を得られなかった。

今ここに覚悟を決めた――とありました。


《西郷の最期》

参軍の山県は1877年4月23日、西郷にあてて手紙を書いています。

交戦以来、「両軍の死傷、日に数百。朋友相あい殺し、骨肉相食はむ」状況は、
過去に例がなく、「願わくは、君早く自ら謀り、一つはこの挙が君の素志(そし)
にあらざるを証し、今一つは、彼我の死傷を明日に救うの計を成せよ」と、
情理を尽くして訴えていました。

幕末以来、山県と西郷は、薩長提携や戊辰戦争、軍制改革でも協力しあいました。
山県は西郷に敬意をいだいており、それだけに懊悩していたといわれます。

熊本城落城に失敗し、守勢に回った薩軍は、本営を鹿児島県に接する人吉に移します。
薩軍は、武器も弾薬も食糧も欠乏し、敗色は濃厚となっていきました。

4月27日には、参軍・川村純義率いる汽船が鹿児島港に入って兵士が上陸。
5月7日には、鹿児島県令になった岩村通俊(みちとし)が
西郷に投降を呼び掛けました。

7月下旬には都城、宮崎が相次いで政府軍の手に帰します。
追いつめられた西郷は、延岡北方の可愛嶽(えのたけ)の絶壁をよじのぼって
脱出を図り、薩軍は9月1日、鹿児島に突入、焦士と化した城下を支配下に置きます。

出発してから199日ぶりの帰還で、1万5000人とされた薩軍の兵士の数は、
400人を切っていました。


薩軍は城山しろやまに立てこもります。
9月24日、政府軍の総攻撃が開始され、西郷は、流れ弾を肩より股にかけて受けます。
「もう、ここらでよかろう」と言い、最後は別府晋介(ぺっぷしんすけ)が
介錯(かいしゃく)したといわれます。

弾雨の中、別府や桐野利秋、村田新八、桂久武、辺見十郎太、池上四郎らも
力尽きて戦死しました。

西南戦争で政府軍の戦死者は6800余人、戦傷者は9200余人。
薩軍の戦死者は約5000人、戦傷者は約1万人でした。

ただ、兵士1000人あたりの戦死者数は政府軍126に対して薩軍は208で、
薩軍が大きく上回っていました。

戦争終結後、鹿児島県令・大山綱良(つなよし)ら22人の斬罪を含め
2764人が処罰されました(『国史大辞典』)。


《西郷の敗因》

薩軍の敗因について、多くの史家がそろって挙げているのが、
西郷が挙兵の理由を自らの暗殺計画への「尋問」に絞ったことです。
このため、それは「私憤」と受け止められ、「大義名分」に欠けたというものです。

仮に、大久保政権の有司専制批判や民衆救済策を掲げていたならば、
より広範な支持と連帯を得ることができたというのです。

戦費や艦船・装備、動員兵力のいずれの面でも政府軍に劣っていたこと、
熊本城攻撃にこだわりすぎた戦略上の問題なども敗北の原因とされています。

また、薩軍は、メディアの時代が到来する中で「情報戦」に敗れたとの指摘も重要です。

当時、福沢諭吉は、西郷側の敗因として
「電信郵便の便はなく、蒸気船の備えもなく、また印刷を利用して
自家の主義を公布する方法を知らなかった」ことを挙げ、

政府軍がこれと対照的に、
「文明の利器」をフル活用して薩軍を圧倒したとみていました。 

 (https://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180607-OYT8T50002.html

            <感謝合掌 平成30年9月8日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第11回~三傑の死 維新に区切り - 伝統

2018/09/15 (Sat) 18:25:24


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年06月27日)より

《木戸の病没》

西郷隆盛(1827~77年)、
大久保利通(1830~78年)、
木戸孝允し(1833~77年)

の3人は、明治維新の「三傑さんけつ(3人のすぐれた人物)」と呼ばれます。

もちろん、この3人によって維新革命がすべて成就されたわけではありません。
彼らに匹敵するような人物が他にも存在したからこそ、
「御一新(ごいっしん)」は成り立ちました。

三傑といっても、この時代の変革を牽引した代表的な3人、
というふうに受け止めた方がいいかもしれません。

西郷は大久保の3歳年長、大久保が木戸の3歳年長でした。
その3人がほぼ同時期に死去します。

鹿児島の城山で西郷が「戦死」したのは1877(明治10)年9月24日、
木戸は、戦争中の同年5月26日、京都で病没しました。

政府軍の戦争勝利は、大久保の声望を高めました。

大久保は、西南戦争最中の8月21日から、東京の上野公園で、
第1回内国勧業博覧会を開催しました。

農工業の奨励と貿易の発展を期す、大久保肝いりの博覧会でした。
出品者は1万6172人、出品点数は8万4353点。
大久保は、戦争が続いていても中止しませんでした。
11月30日まで、102日間の会期中、45万人が入場しました。

戦争が終わると、西郷と木戸はすでになく、
参議兼内務卿・大久保にとって、まさに独擅場でした。

武力による政府転覆の時代は過ぎ去り、次代のリーダーと目された
伊藤博文、大隈重信らの政治指導力は、まだまだ大久保に及ばないとみられていました。


《大久保の遭難》

しかし、大久保の運命はここで大きく暗転し、命を奪われることになります。

78年5月14日午前8時すぎ、大久保は、太政官に出勤するため、自宅を馬車で出ました。
東京(千代田区)紀尾井町の清水谷にさしかったところで、
石川県士族・島田一良ら6人の襲撃にあい、斬殺されます(紀尾井坂の変)。

島田は、戊辰戦争に従軍したのち
、陸軍大尉にまで進みましたが、帰郷して民権結社を設立。

西南戦争では西郷軍に呼応し、同志と挙兵計画を立てましたが、
実行に至らず、「権臣要撃(けんしんようげき)」に転換しました。

島田らが用意した「斬奸状(ざんかんじょう)」には、
「公議を杜絶し、民権を抑圧し、以もって政事を私(わたくし)する」など
五つの「罪」が列挙されていました。

大久保は、暗殺の日の朝、自宅を訪ねた福島県権令(ごんれい)・
山吉盛典(やまよしもりすけ)に、「兵馬騒擾(そうじょう)」が、
ようやく平らげられた今こそ、「勉(つとめ)て維新の盛意を貫徹せんとす」と語っていました。

大久保は、維新には30年を要するとし、
明治元年~10年までの第1期は「兵事多くして則すなわち創業時間なり」、

11年より20年の第2期が「最も肝要なる時間にして、内治を整え民産を
殖するは此時このとき」にあるので、「利通不肖といえども、十分に内務の職を
尽くさん事を決心せり」と続けました。

そして21年より30年に至る第3期の「守成(しゅせい)」においては、
「後進賢者の継承修飾するを待つ」と付け加えました。

第2期の「10年」に向け、維新の完成に強い意欲を燃やしていた大久保は、
凶刃により無念の最期を遂げたのです。


《三者三様》

ほぼ時期を同じくした三傑の死は、維新史の大きな区切りとなります。

明治のジャーナリスト・徳富蘇峰(1863~1957年)は、
著書『近世日本国民史 明治三傑』で三人を論じています。

それによれば、大久保は、「最善を得ざれば次善を取り、次善を得ざれば三善を取る」、
いわば「徹頭徹尾 現実的政治家」でした。

ただ、「人間味の分量」を比較すると、大久保より木戸、木戸よりも西郷の方に多くあり、
その点は大久保の弱みでした。

西郷は、その巨体とは裏腹に、何事にも「几帳面」な人でした。
ただ、政治家として大久保が「満点」とすれば、西郷は決して「満点」ではなく、
その欠点は、名利(みょうり)に淡泊で、仕事をしてしまえば、
どこかへ黙って行ってしまう「高踏勇退癖(こうとうゆうたいへき)」に
あるとしていました。

剣客だった木戸は、彼が最も感化を受けた吉田松陰の言葉の通り「本来武人」です。
物事を理路整然と語る「理念的政治家」であり、「立憲政治の大棟梁」というのが、
最もふさわしい称号でした。

ただ、大久保が自ら「実行者」を任じていたのに対して、
木戸は「主張者」を任じており、時に「感傷的になりやすく、往々愚痴を言う癖くせ」
があったと付言しています。


《同時代人の視線》

同時代の政治家だった大隈重信(1838~1922年)はどうみていたのでしょうか。

木戸については、「正直真面目な人であって、雄弁滔々、奇才縦横であるが、
なかなか誠実な人」で、「詩も作れば歌も読む風流才子」と評していました。

これに対して、大久保は、「辛抱強い人で喜怒哀楽を顔色に現わさない、
寡言(かげん)沈黙、常に他人の説を聴いている、『宜よかろう』と言ったら最後、
必ず断行する、決して変更しない、百難を排しても遂行する」と高く評価していました。

ただし、「一見、陰気な方で、武骨無意気(ぶこつむいき)」でした。(『大隈伯百話』)

また、米欧使節団の留守政府を預かっていた西郷については、
「不平不満の徒の言動に欺かれやすく、加えて政治上の経験に乏しく、
錯綜せる政務を裁理する能力は有りや無しや疑わしき程」と、
極めて厳しい評価をくだしていました。(『大隈伯昔日譚たん』)

他方、明治初期、新政府に出仕して大蔵権大丞(ごんのだいじょう)をつとめ、
のちに日本実業界のリーダーになる渋沢栄一(1840~1931年)は、

西郷について「将まさに将たる君子の趣おもむき」などと好意的な評価を示す一方で、
大久保については「なんだか厭(いや)な人」などと否定的な見方をしていました。


《福沢諭吉「抵抗の精神」》

西郷は、当時の知識人からも存在が注目され、敬愛されていました。

その一人、福沢諭吉は、西郷死去の報を受け、
『丁丑(ていちゅう)公論』を一気に書き上げます。

緒言(まえがき)で福沢は、「政府の専制咎(とが)むべからず」といえども、
これを「放頓(ほうとん)(放置)」すれば際限がなく、
これを防ぐの術は「抵抗の精神」あるのみと強調します。

そのうえで、西郷の武力行使には賛同できないものの、
「その精神に至いたりては、間然(かんぜん)
すべきものなし(少しも非難すべき点がない)」と、
政府におもねらない抵抗の精神をたたえます。

さらに返す刀で、維新の際は「勲功第一等」と持ち上げておきながら、
一転して西郷を「古今無類の賊臣」と罵倒している新聞の豹変ぶりを痛烈に批判しました。 

福沢は、西郷の決起は「立国の大本たる天下の道徳品行を害したるものにあらず」
と重ねて弁護し、政府は、「天下の人物」である西郷を死地に陥(おとしい)れた
だけでなく、「これを殺したる者というべし」と、激越な調子で締めくくりました。

この論説は、当時の言論弾圧を恐れてか公表がはばかられ、
1901年になって「時事新報」に連載されました。

同年5月、痩せ我慢を忘れて新政府に出仕したとして、
勝海舟と榎本武揚(たけあき)の出処進退を批判した『痩我慢(やせがまん)の説』との
合本で刊行されます。

西郷と福沢は面識こそありませんでした。
だが、西郷は福沢が著した『文明論之概略(ぶんめいろんのがいりゃく)』
(1875年刊)を読み、周辺に勧めていました。

西郷は、ドメスティック(国内専門)な守旧派とみられがちですが、
実際は、国際情勢や西欧社会にも通じた人だったようです。


《南洲翁遺訓》

西郷は1877年2月に挙兵した直後、陸軍大将を解任され、
正三位(しょうさんみ)の官位を剥奪されました。

西郷は、89年の大日本帝国憲法(明治憲法)発布の際の大赦で「賊」の名を除かれ、
政府は再び、正三位を追贈します。

93年からは、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)を主任として、
上野公園で銅像の製作が始まり、98年に除幕式が行われました。
あの犬を連れた、親しみやすく庶民的な西郷像です。


この西郷の名誉回復を喜んだ旧庄内藩主・酒井忠篤(ただずみ)らによって
刊行されたのが『南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)』(南洲は西郷の号)でした。

庄内藩(山形県北西部)は、江戸薩摩藩邸焼き打ち事件(68年)のために、
戊辰戦争で「朝敵」とされます。

同藩は、奥羽越列藩同盟の主軸として政府軍に強く抵抗しますが、
結果は敗北で終わりました。

ところが、進駐した薩摩軍は、庄内藩の予想に反して寛大な処置をとります。
西郷の指示によるものであり、これに感激した藩主の忠篤をはじめ、
側用人(そばようにん)だった菅実秀(すげさねひで)(1830~1903年)らが、
多数の藩士を従えて鹿児島を訪問し、西郷との交流を深めます。

その際、西郷が語った言葉を書き残し、
それをもとに菅らが『南洲翁遺訓』を編みました。


《「敬天愛人」》

この『遺訓』には、西郷の人間観や文明観、国家観などが詰め込まれています。

中でもよく知られているのが「敬天愛人」の思想です。

『南洲翁遺訓』(猪飼隆明訳)から引きますと、

<道は天地自然の道なるゆゑ(え)、講学の道は敬天愛人を目的とし、
身を修するに克己(こっき)を以て終始せよ>

 (訳文=人が踏み行うべき道は、天から与えられた道理であって、
     上に天があり、下に地があるように、当たり前の道理であるから、
     学問の道は天を敬い人を愛することを目的として、身を修め、
     つねに己に克かつことに努めなければならぬ)

 
<人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽し人を咎とがめず、
我が誠の足らざるを尋ぬ可べし>

 (訳文=狭量な人間世界にこだわるのではなく、広大無辺の天を相手にしなさい。
     天の示す道を実現すべく全精力・精神を傾け、人を咎めたりせず、
     自分に真の心が不足していることを認識すべきなのだ)


この「敬天愛人」の言葉に感応したのが、
キリスト教徒の内村鑑三(1861~1930年)でした。

高崎藩(群馬)の武士の家に生まれた内村は、西南戦争が起きた77年、
札幌農学校に入学し、洗礼を受けました。

その内村が日本人の持つ長所を世界に知らせようと、94年、英語で著したのが
『日本及び日本人』(のち『代表的日本人』に改題)でした。


ちなみに、札幌農学校の同級生には、のちに英文で『武士道』を書く
新渡戸稲造(1862~1933年)がおり、2人は長く親交を深めます。

内村は『代表的日本人』で、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人
の5人を挙げています。

この中で内村は、西郷隆盛について、
「『敬天愛人』の言葉が西郷の人生観をよく要約しています。
それはまさに知の最高極地であり、反対の無知は自己愛であります」

「『正義のひろく行われること』が西郷の文明の定義でした。
西郷にとり『正義』ほど天下に大事なものはありません」――と書いています。

内村にとって西郷は「もっとも偉大な人物」であり、「最後のサムライ」でした。


《西郷星と西郷伝説》

西南戦争で薩軍の敗色が濃くなった1877年夏、火星が地球に大接近、
人々は赤く輝いてみえる火星の中に軍服を着た西郷の姿を認め、
「西郷星」と噂うわさし合いました。

そのあと、西郷は西南戦争で死なずに生きている、という生存伝説も流れ、
91年にロシア皇太子ニコライ来日の際には、西郷が亡命先のロシアから
一緒に帰国するという噂も立ちました。

西郷はなぜ、民衆にも人気があったのでしょうか。

徳富蘇峰は、「西郷を冬日愛すべしとせば、大久保は夏日畏おそるべし」と
形容しましたが、峻烈な性格の大久保に対して、人間的な温かみを感じさせる
西郷の人柄が、人気の源泉の一つでしょう。  

また、王政復古や廃藩置県を断行した明治維新の英雄でありながら、
最後は反逆者として悲運の人生をたどったこと、加えて、
江戸城無血開城や朝敵・庄内藩への平和進駐など、
心打つエピソードを残していることも、西郷人気を支えています。

復権後の西郷は、征韓論を唱えた人として、国権主義やアジア主義の先覚者として
讃たたえられるようになり、戦後は逆に侵略思想の持ち主として
否定的にみられることもありました。

西郷に対する評価は今日もなお、揺れ動いているようです。

https://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180621-OYT8T50007.html

・・・

<参考Web:西郷隆盛>

(1)「生長の家“本流宣言”掲示板」内スレッド「西郷隆盛 (4625)」
    →  http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=970

(2)光明掲示板・第一「西郷隆盛(Ⅱ) 」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=376

(3)伝統板・第二「南洲翁遺訓」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7014744

(4)伝統板・第二「西郷隆盛」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7014744

(5)伝統板・第二「西郷隆盛②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7408964

            <感謝合掌 平成30年9月15日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第12回~維新とは何だったのか(上) - 伝統

2018/10/30 (Tue) 18:49:31


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年07月11日)より

《開国決断のとき》

(1)ペリーの最大の目的は、北太平洋横断航路の開設に向け、
   日本に燃料などの補給港を設けることでした。

(2)アヘン戦争(1840~42年)での清国敗北を知っていた
   幕府の老中首座・阿部正弘(在職45~55年)は、
   アメリカの「砲艦外交」を前に54年、限定的な「開国」(日米和親条約)へと
   カジを切ります。

(3)アジアでは、列強によるアジア支配の風波が高まります。

(4)後継老中で開明派の堀田正睦(まさよし)は、阿部の政策転換を引き継いで
   国交・通商開始の方針を固め、58年、大老の井伊直弼が勅許(天皇の許可)を
   得ないまま、日米修好通商条約の締結(58年)を断行します。

   幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を結びます。
   当時、欧米各国は日本を「半未開国」とみなして対等な扱いをせず、
   条約は不平等なものになりました。


《富国強兵の始まり》

(1)阿部老中は、開国問題をめぐり諸大名や幕臣に意見を求めました。
   その結果、幕府の政治的権威は損なわれ、逆に朝廷の立場が向上。
   幕末期、武士や豪農らの間に浸透していた国学の尊王思想などが、
   この流れを後押ししました。

(2)他方、外国との通商によって富国強兵を図ろうとする論議が、
   幕府内部で始まるのもこの時期です。
   開国によって産業・交易を盛んにして「富国」をつくり、
   その利益で「強兵」を養おうという構想でした。

(3)幕府も66年、徳川慶喜よしのぶが「最後の将軍」の座に就くと、
   全面的な開国体制へ移行します。

   慶喜は政争に敗れて政権交代するわけですが、結局、
   「幕末の近代化路線は、ほとんどそのまま明治政府によって継承」された
   ということです。

《尊王攘夷の結末》

(1)幕末期の日本では、さまざまなスローガンのもと、政治運動が展開されました。
   その一つが「尊王攘夷」であり、
   もう一つが「公武(公家と武家)合体」の運動でした。

(2)列強の軍事力に圧倒された薩摩藩と長州藩は、ともに「攘夷」を捨てます。

(3)幕末政局が緊迫する中、慶喜は67年、大胆にも政権を朝廷に返上(大政奉還)し、
   武力倒幕をめざす薩長が用意した「討幕の密勅」を無力化させます。

(4)68年、幕府、西南雄藩、朝廷による三つ巴どもえの権力闘争は、
   「慶喜排除」で決着し、260年以上にわたる江戸幕府は
   倒壊、雄藩と朝廷との公武合体的な新政権が生まれました。

(5)尊王攘夷の「攘夷」は、開国後も明治初期まで気分として色濃く残ります。
   一方、「尊王」の方は「王政復古」で実を結ぶことになりました。


《テロとクーデターと内戦》

(1)維新では、政治目的のために非合法に人を殺害するテロリズムや、
   内戦によって多くの人命が失われました。

(2)テロやクーデターは、明治、大正期のみならず、
   五・一五事件や二・二六事件など昭和時代まで
   連綿と繰り返されることになります。
   
(3)内戦も勃発しました。

   新政府発足後の68年、倒幕派は幕府側を挑発し、新政府軍と旧幕府軍による
   鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に突入します。

   この時の政敵「排除」の論理は、
   73(明治6)年の征韓論をめぐる大政変でも貫徹されました。

   明治六年政変のあと、西郷隆盛らは一斉に下野し、
   その後の江藤新平による佐賀の乱、前原一誠の萩の乱、
   そして日本最大で最後の内戦である西南戦争につながります。


《「乱世的革命」の底流》

(1)財政難により、諸藩は藩札を乱発し、幕府は金貨を改鋳かいちゅう(改悪)します。
   さらに外国と日本の金銀交換比率の違いにつけこまれ、
   大量の金貨を海外に流出させてしまいました。
   これらがインフレーションの引き金になります。

(2)インフレによる実質賃金の低下は職人たちの生活を苦しめ、
   貿易の進展は農村で発達していた綿織物業などに打撃を与え、
   コメの不作は百姓の暮らしを圧迫しました。

   このため、農民一揆や打ち壊しなどが各地で発生し、治安が悪化します。

(3)こうして生じた江戸時代の社会、経済情勢の流動化・不安定化、
   幕府の失政による人心の離反、庄屋・名主層の反権力姿勢などが、
   封建制度を動揺させ、竹越のいう「乱世的革命」につながったとみられます。

   (https://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180705-OYT8T50004.html

            <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>

<西郷隆盛と大久保利通>第13回~維新とは何だったのか(下) - 伝統

2018/10/31 (Wed) 18:29:14


        *Web:読売新聞(YOMIURI ONLINE)(2018年07月25日)より

《世襲身分の解体》

(1)国内の政治的統一と財政の基礎固め

  ①維新政府は、明治初期のわずか10年の間に、版籍奉還、廃藩置県、地租改正を断行し、
   国内の政治的統一と財政の基礎固めを図りました。

  ②また、学制公布と徴兵令で「国民皆学」と「国民皆兵」を実現します。

(2)さらに秩禄処分という、士族の特権(俸禄ほうろく)を奪う施策を遂行しました。
   「百姓町人」を主体とする軍隊を創設する徴兵制も、士族の職分を奪うものでした。

   従来、士農工商と称された世襲の身分制度は、ここに解体され、
   華族・士族・平民という区分に代わり、職業選択も自由になりました。

(3)維新は人々を門閥制度のくびきから解放し、
   原則として実力本位の時代を招来したのです。

(4)ヒトやモノ、組織や思想も、江戸時代に土台が築かれ、
   明治政府に引き継がれたものが、数多くあります。
   歴史は「断絶」のみならず、「継続」の側面からも見ていく必要があるといえます。


《「西洋」を読み込む》

(1)福沢をはじめ、西周(にしあまね)、中村正直、森有礼(ありのり)ら
   「明六社(めいろくしゃ)」に結集した啓蒙思想家は、洋行体験と、
   西洋の国家・社会・経済制度に関する知見を人々に伝える先駆的役割を果たしました。

(2)外国文献の翻訳ブームも起こり、日本人のだれもが西洋の知識や技術に触れ、
   それを取り入れることができるようになりました。


《「地球は小さくなった」》

(1)71年12月、新政府は岩倉具視を全権大使とする米欧使節団を派遣しました。
   政府指導層の半分近くが、2年近くも米欧12か国を訪問するという「壮挙」は、
   いかに彼らが米欧の政治・法律・経済、軍事・教育の仕組み、学術・思想などを
   渇望していたかの表れれです。

(2)使節団は、行く先々でグローバル化の波と、
   欧米と日本との軍事・科学技術の落差を実感したはずです。


《西洋化と伝統文化》

(1)73年、米欧回覧から帰国した大久保利通や木戸孝允らは、
   米欧の機械文明をより積極的に導入しようと考えていました。

   しかし、留守を預かっていた西郷隆盛は、無制限な西洋化に疑問を呈していました。

(2)西郷の考え方と大久保・木戸ら帰国組の考えとは、
   あきらかに齟齬そご(くいちがい)がありました。

   大久保は現実主義であり、西郷は理念主義です。

(3)西郷と大久保の対立は、「明治前期の政治対立の在り方を象徴」しており、
   西南戦争後、西郷タイプは政権内部では衰えますが、
   在野政治家や思想家の間では影響力を長く持ち続けると指摘しています。

《主権国家とアジア》

(1)「主権国家」(独立国)として日本は、米欧各国とは不平等条約の改正を、
   東アジアの諸国とは条約による対等な国家関係の構築をそれぞれ迫られました。

   そのためには国境を画定し、
   一つの領土、国民、主権を備えた国にしなければなりません。

(2)日本の一連の外征策には、国内的には、
   維新の「革命軍」のエネルギーを発散させる狙いがありました。
   一方、清国にとっては華夷秩序に対する日本の挑戦と映っていました。

   日本のアジア外交は、初めからそんな危うさをはらんでスタートしたのです。

《公議輿論と「天皇親政」》

(1)天皇親政と公議政治は「維新政治の二大理念」(笠原英彦『天皇親政』)
   といわれます。

   本来なら、矛盾してみえる両者だけに、明治以降、
   天皇の政治的位置づけをめぐって論議を生むことになります。

(2)75年には「漸次立憲政体樹立の詔みことのり」が出され、
   元老院と大審院の創設、地方官会議の開催が決まります。

   とくに、元老院は、新法制定や法改正を審議する機関と定められ、
   76年には憲法草案を起草します。

(3)他方、「天皇親政」は、藩閥・有司専制政治の前に次第に形骸化してしまいます。
   このため、天皇親政の実質化を図る、巻き返しの運動が起こります。

(4)議会制導入と憲法制定の動きは、明治10年代に活発化します。
   「国会と憲法」がきちんとセットされたことをもって、
   明治維新は完結するともいえます。

   (https://www.yomiuri.co.jp/culture/history/20180718-OYT8T50045.html

            <感謝合掌 平成30年10月31日 頓首再拝>

江戸幕府、幕末の幕閣 - 伝統

2018/11/13 (Tue) 17:10:18


     *『最後の幕閣、徳川家に伝わる47人の真実』徳川宗英・著より
       (徳川宗英氏は、田安徳川家第11代当主。)

(1)暗殺された井伊直弼が彦根35万石の藩主になれたのは、偶然のことからだった。
   兄弟が次々病死し、家督を継ぐ予定のない末弟の直弼にお鉢が回ってきた。

   長く部屋住みをしており、一生埋もれ朽ち果てる覚悟であったが、
   文武両道に励むことで憂さを晴らしていた。

   直弼は豪胆な性格の持ち主に思われがちだが、学識、教養が高く、知性に優れていた。
   とくに国学の研究と茶道に打ち込んだ。
   茶道は石州流の奥義を極めた。

   城外で庶民の間にあって暮らしていたので、直弼は世間知らずの殿様とは違っていた。

(2)越前松平家32万石は、
   徳川家康の次男、結城秀康にはじまる徳川宗家の分家で、
   御家門筆頭の家柄だ。

   幕末に家督を継いだ松平慶永(春嶽)は、若い頃から秀才の誉れが高く、
   すべての人が誠実、率直、真摯、几帳面と評価している。

   慶永が正室の勇姫と婚約したのは13歳のときだった。
   勇姫は、熊本藩の細川家の三女として、生まれ、当時7歳だった。

   しかし、その後まもなく疱瘡を患い、一命はどうにかとりとめたが、
   顔にあばたが残ってしまった。
   細川家では慶永や松平家へ気兼ねして婚約の解消を申し入れた。

   これに対して慶永は、
   「いったん約束したことである。心が美しければ、いささかも気にとめることはない」
   と輿入れを望んだという。

   勇姫は16歳で慶永のもとへ嫁ぎ、奥を支えて、生涯、内助の功を尽くしたのである。

(3)15代将軍、徳川慶喜は2歳のときに、父、斉昭の命令で、
   母から離されて水戸で育てられることとなった。

   水戸藩は質実剛健、文武両道がモットーであった。
   慶喜はこれを徹底的に叩き込まれた。

   後年、英明をうたわれた慶喜だが、少年時代は、読書が嫌いで武術が好きだった。
   のちの学識、教養の深さは20歳を過ぎてからの
   猛烈な勉強によって培われたといわれる。

(4)佐賀藩藩主、鍋島直正は、外国事情に明るい名君として賢侯の一人とされ、
   幕末の西南雄藩、35万石の大名として出色の殿様であった。

   財政の立て直しに多くの藩が質素倹約のみに終始する中で、直正は同時に、
   国産方を設けて石炭、白蝋、陶器などの専売によって巨利を得、
   藩財政の安定に成功して「経済大名」と呼ばれている。

   幕府から黒田藩と一年交代で長崎警固を命じられていた直正にとって、
   長崎の警備強化は至上課題であった。

   彼は、
   「独自に防衛力を発揮しよう」
   と考え、殖産で蓄えた金によって様式軍事工業を導入し、
   溶鉱炉設置、大砲製造、軍艦建造などに力を注いだ。


   佐賀藩はもとから教育に熱心な藩であるが、直正は、西洋の知識の摂取を奨励し、
   藩士たちに蘭学、英学を学ばせた。


   直正がある日、藩校の弘道館で塾生達に、
   「源頼朝と平清盛とでは、どちらが優れているか」
   と問うた。

   「頼朝」と答える塾生達に直正は、
   「清盛は、貿易をひらいて世の中を富まそうとしたのに対して、頼朝は何をしたか」
   と清盛こそ英雄だと答えた。


   直正は、百の空論が一丁の洋式銃に及ばないことを知っていた。
   国を守り、富ますということの本質を、一番よく理解し実行した殿様なのだ。

(5)幕末の勘定奉行、小栗上野介忠順は、
   将軍慶喜に対し、新政府軍への徹底抗戦を主張した。

   そのころ、小栗は、
   「一言で国を滅ぼす言葉がある。それは『どうにかなる』の一言だ」
   とつぶやいたといわれる。


   小栗上野介は、幕臣にあった間に、70回以上の昇進と罷免を繰り返している。
   筋の通らないことや、曲がったことが大嫌いで、
   己の主張を決して曲げずに上役とよく喧嘩になった。

   類い稀な潔癖な人物であり、それでも登用され続けたのは、
   彼の官僚としての力量が飛びぬけていたからだ。

            <感謝合掌 平成30年11月13日 頓首再拝>

Re: 明治150年 - gnkdgofpefMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:58

伝統板・第二
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