伝統板・第二

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法則としての《神》 ③ - 伝統

2018/02/21 (Wed) 03:57:47

     *伝統板・第二「法則としての《神》②」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6957478

《神は“宇宙を貫く法則”であるということ》

          *新講『甘露の法雨』解釈(P40~48)より

さて、次にはこのようにしめされております。


   宇宙を貫く法則
   真理
   光明
   知恵
   絶対の愛。
   これらは大生命 ――
   絶対の神の真性にして  


「神は宇宙を貫く法則」とありますが、
神は「法則」であるという事を知らない人がずいぶん多いのであります。

私が或る所へまいりまして講習をやりまして「この世界は神様がお創りになったのである」
という事を申しましたら、後でその講習生の一人が私の宿を訪問して来て、
私は面会しなかったが、随行の人に面会してこう云ったそうであります。

「谷口先生は、この世界は神様が拵(こしら)えたと言うけれども、
わたしはそうではないと思う。神様がこの世界に生まれる前から、
この世界は自然にあったのだと思う」
 
なるほどその通りでありまして、その「自然」というのが神様であるのであります。
神さまというものをあまりにも神人同形的に考えて、神様が、何か粘土か石膏をもって
或る形を拵(こしら)えて、生命の息をそれに吹き込んだのが人間だというようなものの
考え方をしている人にとっては、「この世界は神様が拵えた」という事を不合理に感ずる。

そして、「この世界は自然にあるのだ」と思うと言うのであります。

しかしながら、その「自然の法則」というもの
―― 自然界をかくあらしめている「法則」というものが、「神様」だ
と説明してあげますと、よくおわかりになると思うのであります。

「地球がどうして落ちないで宙に浮いているのですか? 」といって訊ねた子供が
ありますが、科学者に言わせると、これは自然の法則によって地球は空中に浮かんでいる
とこういう事になるのでありますが、その自然界の「法則」が「神」なのであります。

ただ科学者と宗教家はそれぞれの立場にしたがって名称の付け方が異なるのであります。


《神は法則であるから泣きついても聴かれない》

神は「法則」でありますから、神人同形的な原子民族的な「神」の概念で、
「神様に何でも頼み込んだら言う事を聴いてくれる」と考えている人が、
神に頼んでみても自分の願いが聴かれない場合がずいぶんあるので、

そこでそのような人は、
「神様なんて無いのだ」と無神論を唱えたくなって来るのであります。

しかし神様は自然界の「法則」でありますから、法則に叶(かな)わぬ事をしておって、
それで神様にいくらお願いしてみても、それは聞かれないという事になる訳であります。


《“心の法則”及び“霊の法則”について》

もっとも、「自然界の法則」と言いましても、
自然界はただ、「物質の法則」のみで出来ているのではないのであります。

法則には「生命の法則」もあれば、「霊の法則」もあり、「心の法則」もあるので
ありまして、いわゆる自然科学というのは、その物質面だけの法則を研究している
のであります。

精神科学というのは、精神方面の法則を研究しているのでありまして、
私たちの団体でも『精神科学』と題する雑誌を出しておりますが、

「心の法則」のその奥に「生命の法則」といいましょうか、
「霊の法則」とでも言いましょうか、物質の法則、精神の法則よりも、
尚深遠な法則があるのであります。

それですから祈りによって自然界の法則に背くように見える
「何事」かが成就するというような事が起って来る事もあるのであります。

その場合には、自然界の「物理学的法則」と異る別の法則がそこに働いてきたのだ
と言う事が言えるのであって、決して「法則」が破られたのではないのであります。

嘗て戦争中でありましたが、生長の家の誌友で船富さんという人が船長をしている
小さな輸送船がありましたが、運悪く海南島の沖合にある暗礁に座礁して動かなく
なってしまったのであります。

その暗礁に乗り上げた時がちょうど春の大潮の季節の満潮時であった。

それは、もう一年中で一番水面が高くなっている時に岩の上に乗り上げたものですから、
その次の日になったら海水はいくら満潮時でも、もう前日よりも水面が低いですから、
船は暗礁の上に乗っかったままで海水が船体を浮揚さしてくれるほどに揚がらないのは
当然であります。

船富船長はその時に無線電信で海南島を呼び出して救いの船を呼んでロープを
船にかけて曳(ひ)いて貰ったりしたのでありますけれども、
海水が低いのですからどうしても船が暗礁からおりないのです。

積荷を下ろしても、その座礁した船は水位が低いので、どうしても浮き揚らない。
まったく人力ではどうすることも出来ない危急の場合に立ち到ったのであります。

その時に、さすがに船富船長は生長の家の誌友でありましたから
一心不乱に祈ったと言いますね。
そうすると不思議な事が起こって来たのです。

その翌朝でした。その潮の一番高い大潮の満潮時よりもなお一層、潮が高くあがりまして、
海南島からやって来た救いの船がロープで曳くと、船富さんの船はもう自然に浮き揚って
いましたので暗礁からスルスルとぬけ出す事が出来たと
いうような体験談を手紙に書いてよこされた事があるのであります。

これなどは、自然界の法則から言ったら、春の大潮の満潮時を過ぎると、その大潮の時
よりは、どうしてもそれ以上水嵩(みずかさ)が上がらないのでありますけれども、
その時には、祈りによって「霊の法則」が《そこ》に働いたのだと解釈できるのであります。

このように物質科学の法則よりも、もっと大きい精神の法則があり、
或いはそれに感応して働くもっと大きい「霊の法則」というべきか「神様の愛の法則」
とでも言うべきか、ともかく、尚一層高い法則が祈りによって発動するのであります。

ここには、「神は宇宙を貫く法則」と書かれているのでありまして、
神の法則的な面は、自然科学の物質面の法則ともなって現れ、
あるいは精神科学の法則ともなって現れますが、

さらに「霊の法則」「生命の法則」「愛の法則」というふうな、
そういう《高度》の法則ともなって現れて来るのであります。

そのように「神」は「法則」でありますから、泣きついて頼み込んだところが
聴かれないという事は、一面に於ては真理でありますが、その「頼む心」が本当に
徹底いたしました時に、又別の高度の法則が働いて来るのであります。

それは物質界の法則でも、或る温度まで熱すると、固体が液体となり、
それを支配する法則が変わって来るにも似ています。

吾々の精神の熱度が信仰によって高まることが必要であります。
我(が)の精神力で ”潮が三尺だけ一層余計に上る” と一心不乱に念じましても、
これは単に「精神科学の法則」や「心理学の法則」だけでは海水の水位を上げる事
などはとても出来ないのであります。

けれども、神は地球を創(つく)り、太陽を創り、地球の表面に潮を創った。
海水は誰が作ったかと言うと、やはりその創り主は神様ですから、
神様がそれを支配する事は決して、むつかしい事ではないのであります。

だから、その“つくり主(ぬし)”なる
《神様に感応するような、そういう深い信仰の心が起こって来た時には》、
その時にこそ「神様の法則」が働いて来る。

これもやはり法則によるのであります。

例えば飛行機が飛ぶという事は、飛行機は空気より重いのでありますから、
「重力の法則」という地球の引力が引っ張っている法則によって、空気より重い飛行機は、
空中に置いたら下へ落ちるのが当り前になっているのでありますけれども、

その飛行機が速度をはやめて滑走すると、空気より重い物は下へ落ち、
空気より軽い物は浮かぶという法則に反して、重い飛行機が空中飛行するという事が起る。

それはなぜであるかと言うと、それは又別の法則が働くのであります。

すなわち「重力の法則」のほかに、「流体力学の法則」が働いて、
空気の抵抗が自然に利用されて、別の法則によって飛行機が浮き上るという事になるので
あって、決して「重力の法則」が破棄されたのではないのです。

「重力の法則」はやはり働いておりながら、又別の「流体力学の法則」がそこに働いて、
空気より重い飛行機が浮き上ることになるのであります。

しかし、このためにはタービンやプロペラの回転する「速力が迅(はや)い」と
いうことが必要であります。

「祈り」によって自然界の物理的法則が破られたのごとく見えるような奇蹟的なことが
起こるのも、信仰によって心の回転速度が非常に高まることが必要でありまして、
その時に又「別の法則」か働き出すのであります。

引例致しました海南島の沖の暗礁に座礁した船が、当り前なら、
どうしても水嵩(みずかさ)はあがらない筈であるけれども、
その時に自然界の法則が破られたかと言うと、破られたのではない。

やっぱり自然界の法則はあるのですけれども、船富船長の心に、
激しい回転速度のある信仰心が起ったので、別の「霊の法則」というものが働いて、
そしてその船が浮び上り得るだけに、満潮時の水位が上ったのであります。

その船長からの手紙にはまた、このようなことが書いてありました。

「自分は今まで何回も、日本の軍人を乗せて南方へ往復したが、魚雷に見舞われたり、
爆弾に見舞われたりしたけれども、一発も命中しなかった。それは皆神様の御蔭であると
信じておったのに、とうとう暗礁に座礁してしまって、どうしても暗礁から船を降す事が
出来ないという事になった。

その時、自分は考えました ―― ああ今迄爆弾にも中(あた)らず、
魚雷にもやられなかったのは、神様の御蔭だと思っておったけれども、
あれは偶然だったのだ。

それは『都合のいい偶然』であったのが、今ここに『都合の悪い偶然』が出て来て、
暗礁に乗り上げて降すことが出来ないのだ、《ふと》そう思いそうになった。

しかしその時、いやいやこういう不信仰の心を起こしてはいかん。
神は全能である。神にとってできないことはないのである。
だから神はこの災難から我々を救い給わない筈はないのである。

神様にそのまゝお任せ致しましょう、という心、神の全能を信じて、
神にスーッとお任せをする心持になって祈りつづけのです」

船富船長が、こんな心境になった時に又別の法則「神の法則」というものが
発動したのであります。
飛行機が「重力の法則」を高速回転のプロペラで超越したようにであります。

これにはその人の心境が非常に大切な役割を演じているのであります。
 
その人の心境が「神様の法則」にスーッと乗るようになった時、
その時に「神様の法則」が働く。
「神様の法則」は《そこ》にっても、それに同調するようにうまく吾々の心の波長が
合わなかったならば「神様の法則」は働かない。

飛行機でも同じ事であります。
飛行機は空気より重いのであるから、「流体力学の法則」はすでにあっても、
それにうまく乗るように高速度を出さなかったら、「重力の法則」によって
墜落するしか仕方がない。

いくら「流体力学の法則」によって飛行機が空中に浮ぶのだと言ってもやはりその法則に
うまく順応するように、操縦士が操縦しなかったならば飛行機は墜落する。

それと同じように、神様の「愛の法則」は今すでに此処にあるけれども、
吾々がその神様の「愛の法則」にうまく順応し、うまく調和するような心境にならなかった
ならば、神様の「愛の法則」はあれども働かないということらなる訳であります。

神様は、依怙贔屓の方でないから、「あいつは頼むから聴いてやろう。
あいつおじぎを余計したから聴いてやろう」というような愛憎の念によって動かされて、
その結果吾々に功徳を与えたまうのではないのであります。

神は頼んでも、頼まないでも、常に吾々に功徳を与えて居られるけれども、
その功徳は、「愛の法則」に吾々がうまく乗り得るような心境になり得るかどうか
という事によって、功徳が現実にあらわれるかどうかという差別ができるのでありまして、

愛の法則にうまく乗るような心境になった時に、船富船長のように「頼んだら聴かれた」
というような現象をあらわすのであります。

しかし、これは我々の心境の問題でありますから矢張り《祈り》という事を無視する事は
出来ないのであります。何故なら、「祈り」という事は、祈っているうちに、心が神に向う
ものですから、心が清まって来る。雑念がなくなり、自然と「神と一体」の心境になり易い。

しかし、在来の懇願的な神様に泣き附くような祈り方をして、
神様に憐みの念を起させてそして無理矢理に助けて貰おうというような祈りでは、
自分の「不幸」や「病気」の存在を強く思い浮かべて泣きつくのですから、

「強く思うものが形にあらわれる」という法則によって、
かえって「不幸」や「病気」が消えないのでのであって、自分の心境が神様の愛に、
うまくぴったり乗るように、波長が合うようにならしめるように、
「《既にある》恵」を“感謝する祈り”をする方がその祈りが成就するのであります。

だからキリストは
「汝ら祈りて何事にても求むるとき既にそれを受けたりと信ぜよ、
求むるものは与えらるべし」と教えられたのであります。

どんな人にも一様に、既に与えておられるのが「愛の神様」であり、
しかも、法則に合わなけれは゛、その恵みが現実化しないのであります。

その恵が現実化しないのであります。

そのような訳で、「神は宇宙を貫く法則」という事と「神は愛なり」という事とは、
別に抵触しないのでありまして、神は「愛」であると同時にあくまでも「法則」である。

だから神様に金を沢山献納したというような事で、或いは御百度をふんで
たびたびお辞儀をしたからとて、それで御利益があるというものではないのであります。

生長の家の教えは、このように頗(すこぶ)る科学的な宗教でありまして、他の宗教では、
或いは沢山お金を奉納したなら御利益を余計やるぞとおっしゃるかも知れぬけれども、
生長の家はそういう事は言わないのであります。

しかしながらお金は出さない方が得になるから、
医者にかゝるよりも安上がりであるから来た。

「かなわぬ時の神だのみ」で、病気が治ったら、もう神様に用がない
というような心が、神様の「愛の法則」にうまくぴったり波長が合うかどうかという事は、
又別の問題であります。

・・・

<参考>

伝統板・第二「法則としての《神》①」
  → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6532750


        <感謝合掌 平成30年2月21日 頓首再拝>

《神から功徳を得るには神の法則に従わねばならぬ》 - 伝統

2018/02/28 (Wed) 04:26:53

           *「光明法語」(2月29日)より

電気の働きによって、電燈を得、電熱を得るためには、吾等は電気の法則に従わねばならぬ。

神の働きによって色々の功徳を得る為には、吾々は神の法則に従わねばならぬ。
神の法則とは、『与える通り与えられる』と云うことである。

若し与えられなかったら祝すべきである。
それはなお天の倉に蓄えられて増殖しつつあるのだからである。
その報いが遅ければ遅いほどそれは複利計算で神様から利子がつけられるであろう。

一方に与えて置いたら、軈(やが)て予想もしない他のところから
無限の供給がやって来ると云うことである。

            <感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>

《自然界の法則と心の法則》 - 伝統

2018/03/17 (Sat) 03:36:08


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇(P38~39) より

法則というものは実相の智慧から発現した生命顕現の秩序である。

従って法則に従順に随(したが)うとき、
生命(せいめい)が伸び伸びと発現して
物事が順調にはこぶことになるのであるが、

法則を破るときには何事も順調に行かず、
苦痛や悩みを受けることになるのである。

それは神が神罰を与え給うのではなく、
生命(せいめい)顕現の秩序に反したから、
激流を遡る人が流れを順調に下)くだ)る人よりも、
より多く苦痛を受け、時には溺れるのと同じことなのである。

神は人語(じんご)を語り給わないので、
法則を、人間みずから発見するほかはないのである。


法則にも物質界の法則と、心の法則とがあるが、
これはいずれも生命(せいめい)が顕現する場合の両面の秩序であって、
いすれも、ゆるがせにすべきではないのである。

物質界の法則でも、古代人はそれを発見する程度が低いものだから、
無智にして知らず識らずの間に自然の脅威にさらされ、
生活に安定性が乏しかった。

一層多く自然界の法則を知り、
その法則に則(のっと)って生活するようになったとき
文化が発達して人類の生活に安全性が増加して来たのである。

併(しか)し尚(なお)、人類の大多数は、心の法則に無智であるために、
この面から生活の危機が迫っているのである。
原水爆戦の危機などもそれである。

            <感謝合掌 平成30年3月17日 頓首再拝>

《人間は法則に従うことによって一切のものを支配する》 - 伝統

2018/04/03 (Tue) 04:28:59


       *『 生長の家 』(昭和25年2月27日の法語)より

   人間は 万物の霊長として
   世界の一切のものを支配する力を与えられているのである。

   然(しか)しながら
   それは 如何(いか)にして支配し得るかといえば、
   法則に従順に従う事によってである。

   電気は驚くべき恵福を人類に与えてくれる。
   その電気の力を支配するには
   電気の法則に従順であるということによってである。

   従うものだけが従えることができるのである。

   もし吾々が電気の法則を無視すれば、電気も吾々を無視して、
   光も動力も与えてくれないし、
   時とすると吾々に驚くべき災厄を与えるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成30年4月3日 頓首再拝>

《神の法則とは 愛の法則である》 - 伝統

2018/04/19 (Thu) 02:50:20


        *『 生長の家 』(昭和25年2月28日)の法語より

   神の恵みを自由に受けようと思うならば
   神の法則に すなおに従う外はないのである。

   神の法則とは 愛の法則である。

   「 汝(なんじ)の如(ごと)く 汝の隣人を愛すべし。」

   これが神の法則であるのである。

   憎み、怒り、争い・・・・・等(など)は
   神の法則に逆うものであるから

   電気の法則に逆うものは 感電して致命傷を受けるのと同じように、

   神の法則に逆って人を憎み、怒り、争うものは
   又 自分自身に致命傷を負わすことになるのである。

   どんなに今 不幸の人も、病気の人も、神を愛し隣人を愛し
   まず赦(ゆる)すことから始めよ、そこから幸福が芽生えて出る。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成30年4月19日 頓首再拝>

《神は法則である》 - 伝統

2018/04/26 (Thu) 04:33:02


        *「光明法語」(4月26日)より

神は法則である。

『甘露の法雨』には「神は宇宙を貫く法則」であると書かれている。

法則は秩序である。秩序性は一定の規則があると云うことである。
生命は一定の秩序あるところのみ出現し、秩序が破るれば生命は姿を消すのである。

動物は本能によって其の秩序性を守って生活し、
人間は自主的統制によって其の秩序性を守って健康に生活する。

人間の自由とは無秩序のことではなく、
自由意志と自由選択とによる完全なる自己統制である。

孔子の所謂(いわゆ)る「心の趣く所に随って矩(のり)を超えず」である。

            <感謝合掌 平成30年4月26日 頓首再拝>

《神は法則であり偏頗はない》 - 伝統

2018/04/30 (Mon) 04:44:58


        *「光明法語」(4月30日)より

種子(たね)を植えて恐怖なしに土地に委ねることが出来るのは、
法則が支配していることを知っているからである。
法則の支配を信じなければ恐怖するほかはない。

神は法則であり、蒔いた種子の通りの芽を出さしめるのであり、
例外なしにそうであるから吾々は恐れる必要がないのである。

罪人が蒔いても善人が蒔いても法則によれば同じ種子には同じ植物が生えるのであるから、
どんな罪人も、善き種子をこれから蒔けば善き植物が間違いなく生ずるのである。

何も恐るることはないのである。
神は法則であり偏頗(へんぱ)はない。

            <感謝合掌 平成30年4月30日 頓首再拝>

《進歩の法則に支配されている人生》 - 伝統

2018/05/08 (Tue) 03:27:49


        *「光明法語」(5月8日)より

人生は進歩の法則、無限生長の法則によって支配されているのであるから、
旧態依然たるものは、次の新しきものによって取って代わられる。

商売のやり方でも、旧態依然たるものは新しき経済戦術によって
新商売をやる者には必ず圧倒される。

かくて職業を失うに到るとも、職業を失う者は幸いなるかな。
神は彼に新しき職業と、新しき環境を与え給うことによって、
新しき面から、彼の魂をみがき得る機会を与えたまうのである。

旧生活の破壊に失望することなく新しき位置と職業を与え給えと祈れば好いのである。

            <感謝合掌 平成30年5月8日 頓首再拝>

《神は到(いた)る処(ところ)に在(いま)す》 - 伝統

2018/06/02 (Sat) 03:11:59


          *『 生長の家 』(昭和25年3月1日の法語)より

   神は到る処に みちみちていられるのである。
   神は 無限の愛であり 無限の智慧であり 無限の生命であり、
   常に吾らを その無限の愛をもって 護(まも)っていられるのである。

   だから、神の無限の智慧と無限の力とは
   いつでも自由に自分が利用する事ができるのである。

   神は法則であり 法則は到る処にみちみちているのであって、
   吾々が食事をする時にも、空気を吸う時にも、仕事をする時にも、
   常に神は吾々の生活に利用される形でい給うのである。

   法則は 吾々の内にあり、又 同時に外にあって、
   内の智慧なる法則を知る事ができるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成30年6月2日 頓首再拝>

《法則は受動者であり 人間が主動者である》 - 伝統

2018/06/19 (Tue) 03:55:42


         *『 生長の家 』(昭和25年3月3日の法語)より

   人間は自然界の法則を駆使して事物を創造する。

   法則は 神の 「 受動的現われ 」 であり、
   人間は 神の 「 能動的な現われ 」 である。

   人間は主動者となって法則を支配して
   一切の事物を自己の欲するままに創造することができる。

   法則を支配するということは、
   法則を無視するということではないのである。

   法則の本性を活(い)かしながら
   その法則によって自分の欲する事物を創(つく)り上げる。

   人間は彫塑家であり、
   法則は 粘土のようなものである。

   彫塑家は 粘土の本性をそのまま利用しながら
   自分の欲する肖像を造り上げるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成30年6月19日 頓首再拝>

《神の愛と法則との実現する世界》 - 伝統

2018/07/05 (Thu) 04:01:44


      *『人生の秘訣365章』第6篇(P160~161) より

神は愛であり給う。

私たち人間が「愛の神」によって造られたる此の世界に
生んで頂いたことに感謝いたしましょう。

神の愛は痙攣的に発作的に溺愛して
前後をわきまえないような愛ではないのであります。

神の愛は、神御自身の無限に完全なる自由を自己限定し給うて
「法則」という「一定の律」に《みずから》を規定して
人間の利用し易いように、はかられたのであります。

この世の中に法則という常にかわらぬ信頼できるものが存在するということは
何という私たちの幸福でありましょう。

神が恣意(しい)をもって、恣(ほしいまま)に法則をかえ給うとしたならば、
私たちは何物に対しても信頼することができず、どんな発明も無効に終り、
ラジオやテレビは無論のこと、汽車、汽船、電車、飛行機等々
何一つ享受することができず、常に何が起るかわからないで
不安動揺恐怖の中に生活していなければならない筈である。

それなのに神はみずからの力を発作的に出鱈目には発動せしめ給わず、
“法則”の形に於いて人間に“愛の奉仕”をしてい給うのである。

私たちが法則ある宇宙に生れたという事は何という幸福なことでありましょう。
神に感謝いたしましょう。

            <感謝合掌 平成30年7月5日 頓首再拝>

物質の法則の上に精神の法則の優位がある - 伝統

2018/07/22 (Sun) 04:48:56


         *「光明法語」(7月22日の法語 生長の家と科学)より

生長の家は科学を否定しない。
寧ろ精神と物質との間に科学的法則を見出す。
だから精神科学といわれる所以である。

今迄は物質と物質の間のみに法則を見出して、
精神と物質との間に相互の因果関係があると云う事を忘れていた。

物質の法則の上に精神の法則の優位があるのは、
ただの物理化学的法則以上にそれに精神が働きかけた時、

物質はただの物質ではなく肉体となり、霊妙なはたらきを現し、
自然の物理化学的変化以上を有意志の変化にかえて了(しま)うのである。

            <感謝合掌 平成30年7月22日 頓首再拝>

法則とは何ぞや - 伝統

2018/07/23 (Mon) 03:35:20


         *「光明法語」(7月23日の法語)より

法則とは物理化学の法則でも、精神の法則でも、神のはたらきの「道」である。
かかる「道」を通って、霊が、生命が、はたらくのである。

霊が、生命が、創造力が、働くところの「道」「方法」を知らないときに
吾々は生命の創造力の「道」に邪魔物を、知らず識(し)らずに置くことになる。
そこに生命の創造力は閉ざされ、病気を生じ、不幸を生じ、禍を生ずることになる。

科学とはかくの如き「道」を発見して、
生命の創造力を豊かにる流露(るろ)せしめんがためのものである。

            <感謝合掌 平成30年7月23日 頓首再拝>

神に於いては無法則 - 伝統

2018/07/26 (Thu) 04:40:10


         *「光明法語」(7月26日の法語)より

神は決して「法則」と云うようなもので自縄自縛されてい給うような方ではない。
その意味に於いて、神自身から言えば、「無法則」である。

しかし、神はその創造活動があらゆる方面において調和し、秩序だっているから、
それを人間の方から見ると、神の創造は「法則」と云う「道」を通って行なわれる
ように見えるのである。

精神の法則も、物質の法則も「一(ひとつ)」の神の調和した創造の二面であるから、
互いに調和しているのである。

不調和に見えるのは観察が足らなぬのである。

            <感謝合掌 平成30年7月26日 頓首再拝>

心の法則と物質の法則との調和 - 伝統

2018/07/27 (Fri) 03:54:58


         *「光明法語」(7月27日 行く処必ず安全)より

爆弾に中(あた)っても死なないと云うのは神の法則の自己破壊であって、
そんな事が尊いのではない。

爆弾の中らぬような所へ、自然に、心の働きで、
自分の身体(からだ)が行っている事が、
心の法則と物質の法則との調和である。

毒を飲んでも死なぬのではなく、毒など自然に飲まなくなる事が、
心の法則と物質の法則との調和である。

天災地変や列(汽)車の顛覆が起こっても大丈夫と云うのではなく、
天災地変や列(汽)車の顛覆の所などへ立ち寄らぬ様になるのが
心の法則と物質の法則との調和である。

            <感謝合掌 平成30年7月27日 頓首再拝>

法則は神の顕現 - 伝統

2018/08/08 (Wed) 04:40:29


         *「光明法語」(8月7日~8日)より

神とは何ぞや

物理学者や天文学者の研究が発見したところでは、
物理や天文の世界を支配しているのは数学的法則であって、
滅裂(めつれつ)出鱈目(でたらめ)のものではないと云う事である。

物質の世界や天体の世界が、法則なき雑然とした
滅多(めった)矢鱈(やたら)に成り立っているものならば、
それは偶然の出鱈目の産物だと言い得るであろうが、

数学的法則でそれが成り立っている事を知るならば
物質や天体を構造せしむるに到った力は余程数学的知性を
もったエネルギーだと言わねばならないのである。

叡智を有する不可思議力を神と言う。

・・・

法則は神の顕現

人間の頭脳が、自然を研究するに従ってそれを支配する法則が
段々徐々にわかれば、自然を構造したところの知性(神)は、
吾々人間の頭脳知よりも遥かに発達した知性であると言わなければならない。

「神」と言うと迷信くさく思う人があるが、
「法則」と言えば、科学者も信仰しているものである。

『甘露の法雨』には、神の事を「宇宙を貫く法則」と書かれている。
すべての事物は法則によって支配されている。

併し法則をば必ずしも「物質法則」に限る必要はない。

            <感謝合掌 平成30年8月8日 頓首再拝>

「法則」とは神が人間にわざと利用しやすきようあらわれたもの - 伝統

2018/08/14 (Tue) 04:44:28


         *「光明法語」(8月14日 物質科学の目的)より

物質を研究する科学は、その研究が次第に深くなるに随って、
その奥に横たわる法則や秩序や、智慧なしには構造することが出来ない
微妙複雑なる構造に、驚異の眼(まなこ)をみはるに到り、

此処についに、
物質の奥底にあって一切のものを構造する本源者「霊なる神」を
みとめずにはいられなくなるのである。


凡(およ)そ「法則」とは神が人間にわざと利用しやすきよう、
常に普遍妥当なる形においてあらわれたものであって、
結局「法則」を研究する科学は神を研究することになるのである。

            <感謝合掌 平成30年8月14日 頓首再拝>

《神は法則であり、資材である》 - 伝統

2018/09/04 (Tue) 04:11:01


        *『人生の秘訣365章』第7篇(P166) より

可視的宇宙が生まれて来るまでは、
即ち宇宙雲や、宇宙塵、更にそれが発展して
諸種の天体が発生して来るまでは、物質は本来存在しなかったのである。

物質は其処に存在しなかったが、物質をば、法則にしたがって顕現せしめる
“不可視の本源者”があったのである。
その“不可視の本源者”が、神であるのである。

即ち“霊”なる神の心の中に“可視的宇宙”のアイディアが存在して、
それが法則に従って徐々に顕現して来たのが現在の可視的宇宙である。

しかし“法則”を“神”が使って宇宙を創造したと考えては、
“神”は“法則”と対立する存在であり、
その絶対性が失われることになるのである。

神御自身が“法則”であるのである。

また神は何らかの“資材”をつかって、
それを加工して宇宙をつくったというならば、
“資材”と“神”とは対立することになり、
神の絶対性は失われることになるのである。

神は創造者であると同時に、自分自身が“霊的資材”であったのである。

            <感謝合掌 平成30年9月4日 頓首再拝>

宇宙の法則の一貫不動性 - 伝統

2018/09/16 (Sun) 02:41:39


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月16日)より

宇宙には動かすべからざる法則が支配しているのである。
その法則は人間が作った法律のようにごまかしたり、くぐり抜けたりできぬものであり、
絶対に終始一貫かわらざるものであるのである。

もしこの宇宙の法則の一貫不動性というものがなかったならば、
太陽系統は成り立たず、人類の生活は成り立たないことになるのである。

終始一貫性はある意味では純潔の美徳であり、ある意味では誠実の美徳である。
宇宙は純潔と誠実との美徳によって支えられているというも過言ではないのである。

人間もこの宇宙に存在する以上、誠実と純潔との美徳なければ、
大宇宙の生活と波長が合わないのである。

人生に繁昌成功せんとするには純潔と誠実とが必要である。

             <感謝合掌 平成30年9月16日 頓首再拝>

「理」は神から来る - 伝統

2018/10/29 (Mon) 04:42:30


          *「光明法語(10月29日)」より

「理」はどこから来たかと言うと、神から来たとも言える。
しかしそれは神罰と云うものを課するために神がつくったものではなく、むしろ神御自身が
人間によって利用できるように「一定不変」の形になってあらわれ給うたものである。

自然界の法則も同じである。
神は「自由の本体」であるから変幻自在である。
しかし「変幻自在」では人間は神を利用することが出来ないのである。

それで神は一定不変の法則となり、一方では「科学の法則」となり、
一方では「心の法則」となってあらわれたのである。

             <感謝合掌 平成30年10月29日 頓首再拝>

「理」に順応せよ - 伝統

2018/10/30 (Tue) 03:09:21


          *「光明法語(10月30日)」より

高圧電線に触れて傷つくのも、機械の歯輪(はぐるま)にはさまれて傷つくのも、
食い過ぎて胃を悪くするのも、「科学の法則」にふれたからである。

腹が立ったり、悲しんだり、取越苦労をして
病気になるのは「心の法則」にふれたからである。

食いすぎて胃病になっても別にそれは神が罰を当てたのではない。
それは「理」によってなっているのであって、「理」に逆らったからに過ぎない。

省みて「理」に順応して、高圧電線にふれる時にゴムの手袋をはめ、
歯輪(はぐるま)の間に手を入れず、食べすぎねば傷つくことはない。

             <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>

神は宇宙を貫く法則・真理 - 伝統

2018/11/13 (Tue) 04:46:07


         *『美しき生活』(P91)より

生命(せいめい)の世界には、法則があるのであります。
法則とはノリであります。

生(せいめい)命のリズムには一定の法則があり、
生命(せいめい)はコトバでありますから、『宣り』であります。

肉体を支配している物理学上の法則や生理学上の法則は影の法則であります。

             <感謝合掌 平成30年11月13日 頓首再拝>

循環の法則 - 伝統

2019/02/09 (Sat) 04:13:17


         *『人生の秘訣365章』第8篇
            (P219 植物界と動物界との循環流通) より

宇宙大生命は循環流通する過程を通して、
その生命(せいめい)の発現を増大して行くのである。

植物は人間が吐き出す炭酸ガスを吸収して自己の栄養として、
酸素を放出するのである。
植物が放出したその酸素を人間が吸収して自己の健康を保持するのである。

そこには「与えよさらば与えられん」の
循環の法則が厳然と行われているのを見るのである。

若し人間その他の生物が植物界に炭酸ガスを与えることを拒絶するならば、
多くの植物は枯死(こし)してしまい、植物が枯死するならば、
人間は酸素は勿論、色々の野菜も穀物も果物も得ることができず、
人間自身も全滅してしまうほかはないのである。

ここにも与えたものと受けるものとの循環の中に
生物は伸びて行くことを知るのである。

この循環を阻礙するところに凡ての公害は生ずるのである。

             <感謝合掌 平成31年2月9日 頓首再拝>

《生命創化の法則》 - 伝統

2019/02/27 (Wed) 04:49:04


         *『人生の秘訣365章』第1篇(P23~24) より

この世界には「生命(せいめい)創化の法則」がある。
無形の生命(せいめい)が形ある姿に化して現象界を創造する法則である。

生命(せいめい)は創造のための実質であり、
同時に創造のためのエネルギーでもある。

そのエネルギーをどの方向に導いて その実質をどんな形にまで現すかは、
想念又は言葉の力によるのである。

想念とコトバとは本質的に同じものである。

私たちはコトバとは吾々の聴覚器官に感じられる
発生音だけのことを称するのだと思いがちであるが、
私たちは何事でも心で想っているとき、
それに相応するコトバを心の中で唱えているのである。

例えば「これから自分の家は繁昌するに違いない」と心で想っているとき、
私たちは、心の中で、その通りのコトバを唱えているのである。

そして聖書の「ヨハネ伝」にある通り
「コトバは神と偕(とも)にあり、コトバは創造者である」
からその通り実現するのである。

             <感謝合掌 平成31年2月27日 頓首再拝>

《神から功徳を得るには神の法則に従わねばならぬ》 - 伝統

2019/02/28 (Thu) 04:31:06


           *「光明法語」(2月29日)より

電気の働きによって、電燈を得、電熱を得るためには、
吾等は電気の法則に従わねばならぬ。

神の働きによって色々の功徳を得る為には、吾々は神の法則に従わねばならぬ。
神の法則とは、『与える通り与えられる』と云うことである。

若し与えられなかったら祝すべきである。
それはなお天の倉に蓄えられて増殖しつつあるのだからである。
その報いが遅ければ遅いほどそれは複利計算で神様から利子がつけられるであろう。

一方に与えて置いたら、軈(やが)て予想もしない他のところから
無限の供給がやって来ると云うことである。

            <感謝合掌 平成31年2月28日 頓首再拝>

《 あなたは「増加の法則」に乗るがよい 》 - 伝統

2019/03/14 (Thu) 04:55:38


        *『人生の秘訣365章』第2篇(P55) より

宇宙には「増加の法則」というのがあるのである。

人口の増加、食料生産額の増加、自動車生産台数の増加、資本の増加等
あらゆる方面に「増加の法則」が現実化しつつあるのである。

私たちは、この「増加の法則」に逆ってはならないのである。
あなたが若し、この増加の法則に従うならば、
あなたの繁栄は益々増加するに相違ないのである。

あなたは“神の子”であるから、神から無限の供給と無限の繁栄とを
譲られているのであり、その供給と繁栄とは既に輸送管の中に入れられて
あなたに送られて来つつあるのである。

そのパイプの中の流通を“自己縮小”の観念や“恐怖”や“不安”の念で
閉塞してしまわない限りは、常にあなたの繁栄と成功の程度は増大するに
きまっているのである。

            <感謝合掌 平成31年3月14日 頓首再拝>

《「増加の法則」を家庭生活に実行せよ 》 - 伝統

2019/03/29 (Fri) 03:47:01


       *『人生の秘訣365章』第2篇(P59) より

夫婦陰陽が調和するためには、
“夫唱婦和”の法則、即ち「夫先づ唱え、婦これに和す」の法則に
従わなければならないのである。

夫は婦(つま)を覆い、婦は夫を載せて生命を受ける
―― これが「増加の法則」であり、
これが調和して行われるとき子孫が繁昌することになるのである。

結婚しても子供を妊娠しない夫婦があるならば、
夫婦生活みずからを反省してみるがよい。

その妻は、何事もすべて夫の仰言る通りを直ぐ素直に、
悦びをもって実行しているであろうか。

夫の言う通り実行してはいるけれども、心の中に抵抗がなかったであろうか。
心の中に抵抗もなかったが、面倒くさいので直ぐ実行しないような、
何となき習慣が残っていなかったであろうか。

妻は夫に対してはカラッポになっているとき妊娠するのである。
これは避妊薬その他の挿入してはならないという物質的意味だけではなく、
心の世界に於いて、妻は夫に無我随順を悦びとするのでなければならない
ということである。

肉体のことは、精神的交りの象徴に過ぎない。

            <感謝合掌 平成31年3月29日 頓首再拝>

「増加の法則」に乗るためには、“神の子”の自覚を潜在意識に印象する - 伝統

2019/04/18 (Thu) 04:02:54


      *『人生の秘訣365章』第2篇(P55~56) より

《“神の子”の自覚を深化すること》

「増加の法則」に乗るためには、第一、人間は“神の子”であり、
無限の可能性を ―― 物量的にも精神的にも、霊的にも、
能力に於いても、智力に於いても、万般の方面に無限の可能性を、
譲られていることを強く自己の潜在意識に印象することである。

潜在意識は、現在意識面(現象生活)と、
“實相無塵蔵の世界”とをつなぐ架け橋又はパイプとなるものである。

次の如く念ずるがよい。――

「私は神の子である。神はコトバである。コトバとはアイディアの表現である。
神の世界には神の無限の良きアイディアが充満しているのである。
私は今、自分の心のチャンネルを神に対して振り向け、
ボリュームいっぱいに私の心を神に対して全開したのである。

それゆえに、神から私が繁栄するために必要なアイディアが
滔々と流れ入りつつあるのである」


このように繰返し念じて神の叡智の流れ入る有様を「光の流入」の形で
十分間ほど精神を統一して瞑視するがよい。

            <感謝合掌 平成31年4月18日 頓首再拝>

《神は法則である》 - 伝統

2019/04/26 (Fri) 04:51:23


         *「光明法語」(4月26日)より

神は法則である。
『甘露の法雨』には「神は宇宙を貫く法則」であると書かれている。

法則は秩序である。秩序性は一定の規則があると云うことである。
生命は一定の秩序あるところのみ出現し、秩序が破るれば生命は姿を消すのである。

動物は本能によって其の秩序性を守って生活し、
人間は自主的統制によって其の秩序性を守って健康に生活する。

人間の自由とは無秩序のことではなく、
自由意志と自由選択とによる完全なる自己統制である。

孔子の所謂(いわゆ)る「心の趣く所に随って矩(のり)を超えず」である。

            <感謝合掌 平成31年4月26日 頓首再拝>

《神は法則であり偏頗はない》 - 伝統

2019/04/30 (Tue) 04:33:50


         *「光明法語」(4月30日)より

種子(たね)を植えて恐怖なしに土地に委ねることが出来るのは、
法則が支配していることを知っているからである。
法則の支配を信じなければ恐怖するほかはない。

神は法則であり、蒔いた種子の通りの芽を出さしめるのであり、
例外なしにそうであるから吾々は恐れる必要がないのである。

罪人が蒔いても善人が蒔いても法則によれば同じ種子には同じ植物が生えるのであるから、
どんな罪人も、善き種子をこれから蒔けば善き植物が間違いなく生ずるのである。

何も恐るることはないのである。
神は法則であり偏頗(へんぱ)はない。

            <感謝合掌 平成31年4月30日 頓首再拝>

《この世界には平衡の法則が働いています》 - 伝統

2019/05/19 (Sun) 04:12:36


         *「真理」第9巻(P92~93)より

腹の立っている時に人に対して
手紙を書いたり反駁文を書いたりしてはなりません。

自分に対して不当の批評を加えた人に対して、
自分の心を整えないで、すぐやり返してはなりません。

何よりも自分の心を整えることが先です。
そのためには神想観して相手の実相が完全であることを、
赦しと愛と深切の心で見詰めましょう。

そして、”自分に対しては何人も傷付けることができない、
すべては神の子であって、調和している”という実相を心で確認してから
次の行動に移るのがよいのです。

何が起こっても恐れることはありません。

此の世界には、「平衡の法則」と云うのが働いているのです。
奪ったものは必ず奪い返えされるのです。
深切をつくしておれば、何時かは深切が自分に返って来ます。

「正しいのに不幸だ」と一見思われる事件がありますが、
そう云う正しさは、正しさの故に相手を憎んでいたことに気が付かねばなりません。

         <感謝合掌 令和元年5月19日 頓首再拝>

神は人格であると同時に法則である - 伝統

2019/06/08 (Sat) 04:33:53


            *『光明法語』(6月8日)より

親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。

間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、与えたる富はただ他を害する為
のみに使う様な場合には親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。

それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、神は人格であると同時に法則なのである。
その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。
神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。

それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。

         <感謝合掌 令和元年6月8日 頓首再拝>

《愛と法則としての神》 - 伝統

2019/06/28 (Fri) 04:53:54


         *「眞理」第9巻生活篇第13章(P348) より

私たちが”内部の神”の法則を破るとき、法則が自働的に自己処罰するのである。
そらは全くオートメーション的に自働的に制御するようになっていて、
神が私たちを有意志的に処罰するのではないのである。

神は愛であって、愛憎の念によって恵みを与える者と、
罰を与えるものと差別をつけたまうことはない。

神は「愛」であるがゆえに「法則」を通して働きたまうのである。
法則はそれを知ることによって、それに随うことも出来れば、逆らうことも出来、
人間の自由にゆだねられているのであるが、

高圧電気に触れれば傷つくように、私たちは法則を逆用して傷つくのであるが、
その高圧電気を順用すれば、大いなる電動力や、化学変化や、
物理的変化も可能となるのである。

神は”宇宙を貫く法則”として全く従順に私たちの導く方向に
”自分自身”を委(まか)していられるのである。

         <感謝合掌 令和元年6月28日 頓首再拝>

法則とは何ぞや - 伝統

2019/07/23 (Tue) 04:40:51


        *「光明法語」(7月23日)より

法則とは物理化学の法則でも、精神の法則でも、神のはたらきの「道」である。
かかる「道」を通って、霊が、生命が、はたらくのである。

霊が、生命が、創造力が、働くところの「道」「方法」を知らないときに
吾々は生命の創造力の「道」に邪魔物を、知らず識(し)らずに置くことになる。
そこに生命の創造力は閉ざされ、病気を生じ、不幸を生じ、禍を生ずることになる。

科学とはかくの如き「道」を発見して、
生命の創造力を豊かにる流露(るろ)せしめんがためのものである。

         <感謝合掌 令和元年7月23日 頓首再拝>

二つの法則 - 伝統

2019/07/24 (Wed) 03:59:55


        *「光明法語」(7月24日)より

人生には、精神の道と、肉体の道とが互いに縄のように交わりながら進んでいる。
吾々は心の法則の中にも住んでいるし、物質の法則の中にも住んでいるのである。

毒物(本来食物として創造(つく)られていない物の意であって、それは他の用途に
使えば毒物ではない。本来毒物は何もない)を食すれば胃腸を害し消化力を減ずるのは
物質の法則によるのであるが、

心配したり、腹立ったり、不快な思いをしながら食べるとき
胃腸を害し、消化力がにぶるのは心の法則によるのである。

         <感謝合掌 令和元年7月24日 頓首再拝>

神に於いては無法則 - 伝統

2019/07/26 (Fri) 04:34:26


        *「光明法語」(7月26日)より

神は決して「法則」と云うようなもので自縄自縛されてい給うような方ではない。
その意味に於いて、神自身から言えば、「無法則」である。

しかし、神はその創造活動があらゆる方面において調和し、秩序だっているから、
それを人間の方から見ると、神の創造は「法則」と云う「道」を通って行なわれる
ように見えるのである。

精神の法則も、物質の法則も「一(ひとつ)」の神の調和した創造の二面であるから、
互いに調和しているのである。

不調和に見えるのは観察が足らなぬのである。

         <感謝合掌 令和元年7月26日 頓首再拝>

心の法則と物質の法則との調和 - 伝統

2019/07/27 (Sat) 04:33:44


        *「光明法語」(7月27日《行く処必ず安全》)より

爆弾に中(あた)っても死なないと云うのは神の法則の自己破壊であって、
そんな事が尊いのではない。

爆弾の中らぬような所へ、自然に、心の働きで、自分の身体(からだ)が行っている
事が、心の法則と物質の法則との調和である。

毒を飲んでも死なぬのではなく、毒など自然に飲まなくなる事が、
心の法則と物質の法則との調和である。

天災地変や列(汽)車の顛覆が起こっても大丈夫と云うのではなく、
天災地変や列(汽)車の顛覆の所などへ立ち寄らぬ様になるのが
心の法則と物質の法則との調和である。

         <感謝合掌 令和元年7月27日 頓首再拝>

法則は神の顕現 - 伝統

2019/08/08 (Thu) 04:50:33


        *「光明法語」(8月8日)より

人間の頭脳が、自然を研究するに従ってそれを支配する法則が段々徐々にわかれば、
自然を構造したところの知性(神)は、吾々人間の頭脳知よりも遥かに発達した知性
であると言わなければならない。

「神」と言うと迷信くさく思う人があるが、
「法則」と言えば、科学者も信仰しているものである。

『甘露の法雨』には、神の事を「宇宙を貫く法則」と書かれている。
すべての事物は法則によって支配されている。

併し法則をば必ずしも「物質法則」に限る必要はない。

         <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>

「法則」を研究する科学は神を研究することになる - 伝統

2019/08/14 (Wed) 04:46:31


         *「光明法語」(8月14日《物質科学の目的》)より

物質を研究する科学は、その研究が次第に深くなるに随って、
その奥に横たわる法則や秩序や、
智慧なしには構造することが出来ない微妙複雑なる構造に、
驚異の眼(まなこ)をみはるに到り、

此処についに、
物質の奥底にあって一切のものを構造する本源者「霊なる神」を
みとめずにはいられなくなるのである。


凡(およ)そ「法則」とは神が人間にわざと利用しやすきよう、
常に普遍妥当なる形においてあらわれたものであって、
結局「法則」を研究する科学は神を研究することになるのである。

         <感謝合掌 令和元年8月14日 頓首再拝>

宇宙の法則の一貫不動性(誠実と純潔)に波長を合わす - 伝統

2019/09/16 (Mon) 03:41:25


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月16日)より

宇宙には動かすべからざる法則が支配しているのである。
その法則は人間が作った法律のようにごまかしたり、
くぐり抜けたりできぬものであり、
絶対に終始一貫かわらざるものであるのである。

もしこの宇宙の法則の一貫不動性というものがなかったならば、
太陽系統は成り立たず、人類の生活は成り立たないことになるのである。

終始一貫性はある意味では純潔の美徳であり、
ある意味では誠実の美徳である。

宇宙は純潔と誠実との美徳によって支えられている
というも過言ではないのである。

人間もこの宇宙に存在する以上、誠実と純潔との美徳なければ、
大宇宙の生活と波長が合わないのである。

人生に繁昌成功せんとするには純潔と誠実とが必要である。

          <感謝合掌 令和元年9月16日 頓首再拝>

因果応報の法則 - 伝統

2019/09/17 (Tue) 04:42:31


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月17日)より

宇宙の終始一貫せる法則の中には、因果応報の法則がある。
原因あれば必ず結果があるという法則である。

いかに狡猾に原因だけを造っておいて、結果だけをのがれようと試みても、
結果は早いか遅いか、あるいは他の形態をもってするか、
いずれにせよその人に報いてくるのである。

イエスが5つのパンと小さき肴(さかな)2つを5千人に分け与えて
なお12の籃(かご)にパンの余りが残っていたという奇跡が行なわれたときに、
なぜそのような奇跡があらわれたのであろうか。

それは愛のゆえに分け与えたこと、
そして「廃(すた)るものなきよう擘(さ)きたる余りを集めよ」
というイエスの教えを実行したからである。

無限供給を念じさえするならば、物の余りを粗末にしてもさしつかえない
と思うのはまちがいである。

             <感謝合掌 令和元年9月17日 頓首再拝>

法則に順応する - 伝統

2019/10/30 (Wed) 04:29:42


「理」は神から来る

          *「光明法語(10月29日)」より

「理」はどこから来たかと言うと、神から来たとも言える。
しかしそれは神罰と云うものを課するために神がつくったものではなく、
むしろ神御自身が人間によって利用できるように
「一定不変」の形になってあらわれ給うたものである。

自然界の法則も同じである。

神は「自由の本体」であるから変幻自在である。
しかし「変幻自在」では人間は神を利用することが出来ないのである。

それで神は一定不変の法則となり、一方では「科学の法則」となり、
一方では「心の法則」となってあらわれたのである。

  ・・・

「理」に順応せよ

          *「光明法語(10月30日)」より

高圧電線に触れて傷つくのも、機械の歯輪(はぐるま)にはさまれて傷つくのも、
食い過ぎて胃を悪くするのも、「科学の法則」にふれたからである。

腹が立ったり、悲しんだり、取越苦労をして
病気になるのは「心の法則」にふれたからである。

食いすぎて胃病になっても別にそれは神が罰を当てたのではない。
それは「理」によってなっているのであって、「理」に逆らったからに過ぎない。

省みて「理」に順応して、高圧電線にふれる時にゴムの手袋をはめ、
歯輪(はぐるま)の間に手を入れず、食べすぎねば傷つくことはない。

             <感謝合掌 令和元年10月30日 頓首再拝>

法則は愛憎によって変化しない - 伝統

2019/11/21 (Thu) 06:57:04


          *「真理」第9巻生活篇(P40~41)より

茄子を播けば茄子が発芽し、瓜を播けば瓜が発芽するのは「法則」によるのであります。

「法則」と云うものは「一定の条件に於いては一定の事物が出現する」
と云う律でありまして、神が吾々にそれを利用し得るように一定の相(すがた)を
もってあらわれたのが「法則」であります。

若し神が変幻自在で、一定の条件に於いて一定の結果を来(きた)さないのであるならば、
私たちは迚(とて)も生活することは出来ないのです。

今日は飯を食べれば、腹がふくれるが、明日は却って腹が減る。
明後日(あさって)はどうなるかわからないのでは御飯一杯食べることが出来ないで
生活が成り立たないのであります。

また或る人に対しては同じ条件で法則は左と作用し、
或る人に対しては右と作用して一定の結果が得られないならば
科学が成り立たないのです。

だから神のあらわれとしての法則は愛憎なく平等に作用します。

             <感謝合掌 令和元年11月21日 頓首再拝>

宇宙の法則は無限生長にある - 伝統

2019/12/11 (Wed) 04:44:01


     *「光明道中記」(12月11日《無限生長の日》)より

【心を尽し、力を尽して自分自身の無限の可能性を信ぜよ。
                    (『生命の實相』第四巻)】 
                 
宇宙の法則は無限生長にある。換言すれば進歩にある。
だから必ずしも隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望むのが悪いのではない。

ただそれが「公(おおやけ)」なる道に乗らないのが悪いのである。
彼が「公」なる道に乗る限りに於いて、進歩を心がけること、前進を心掛けること、
成功を心がけることは正しいことであり、祝福されることである。

前進する者は衰退しない。
前進する者は多くの困難と戦わなければならない。
困難と戦うことには色々の新しい経験を得る。困難と苦痛とは異なる。

新しい経験は自分の生命の中から「新しい推理」を発掘して来る。
前進するものは常に新しい鉱石に打(ぶ)つかる。

吾々の獲得は、そのたび毎に増加するのである。
吾々の獲得は眼に見えた成果のみではない。
もっと眼に見えない魂のダイヤモンドが吾々の前進によって得られるのである。

そして此の魂のダイヤモンドは、
その採掘の動機が利己的でなければならない程、
「公」であればあるほど、より多く獲得することができるのである。

人間は物質的にどれだけあれば生活出来るか、
それは極(ごく)僅(わず)かな分量である。

それ以上に費やされるのは多くは虚栄(みえ)のためである。
此の分量を「公」にために献げよ。

         感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>

法則の結果が形の世界に現れるのは、時間を通して現れる - 伝統

2020/02/03 (Mon) 04:36:14


      *「光明法語」(2月3日《気が短いのでは可(い)かぬ》)より

「与えれば与えられる」と云う法則は
直ぐ覿面(てきめん)にあらわれて来るものもあるが、
必ずしも直ぐ結果が現れないこともある。

電燈はスイッチを捻ればすぐつくが、
水力電気や火力電気の設備を構築するのは一夜に出来た事ではない。

電燈がスイッチ一つでつくようになったのは、
それらの発電設備や配電設備が、多くの与えられた労力の蓄積として
「天の倉」に蓄えられているからである。

麦は一夜にしては実らない。卵も一夜にしては孵化しない。

すべての形の世界に現れるのは時間を通して現れる。
気が短いようなことでは可(い)かぬ。

         感謝合掌 令和2年2月3日 頓首再拝>

《神は罰を与えない》 - 伝統

2020/02/24 (Mon) 02:56:15


          *「真理」第9巻生活篇(P8~9)より

生長の家では神罰を説きません。
その宗教が邪教であるか正しい信仰であるかを区別する示標は、
その宗教が神罰や神の怒りで脅かすか、どうかにかかっているのです。

大体、宗教とは人間の魂を解放して大安心の境地にいたらしめるものであるのに、
神罰や神の怒りを説いて恐怖心や自宗にしばりつけて置くのは、
宗教の人間解放の目的に一致しないものであります。

人間に不幸が起こるのは法則を逆用したり、法則に触れた結果です。

例をもって言えば、列車の走っている時に踏切をわたって傷つくのは、
列車が罰を与えたのではありません。

その人自身が法則に触れたのであって、法則は法則通りに、
原因に対して結果を与えるのであります。

しかし、法則は、単に物質界の法則だけではなく、心の法則もあれば
霊界の法則もあると云うことを考慮に入れねばなりません。

         感謝合掌 令和2年2月24日 頓首再拝>

《人類の進歩は新しき法則の発見によって得られる》 - 伝統

2020/03/11 (Wed) 04:57:05


          *「真理」第9巻生活篇(P9~10)より

人類の文化が進むのは、法則を発見することによってであります。
今まで発見されている法則だけを法則だと思っていては
進歩は決してあり得ないのです。

20年前までは原子は断じてこれ以上破壊しがたき
原本的単位物質であると考えられていました。

しかし今では人類はその原子を破壊して其処から驚くべき
エネルギーを引き出す法則を発見して、原子力発電所が各国で
つくられようとしているのであります。

物質の素粒子が目に見えざる、不可知のエネルギー源である
「無」の世界から誕生して「無」の世界に還元するような事も
物理学上の精密実験によって証明されるようになって来まし。

生長の家は今や、心の法則を発見し、霊界の法則を発見し、
それを日常生活に応用する道を発見しつつあるのです。

多くの悩める人々や、病める人々が、それによって救われているのです。

         感謝合掌 令和2年3月11日 頓首再拝>

法則を知り、法則に従うことにより、法則を支配する - 伝統

2020/03/21 (Sat) 06:56:04


          *「真理」第9巻生活篇(P10~11)より
           ~《勝手に自分で人生を複雑にするな》

法則を知ってそれに従う者は、法則を支配することができるのです。
法則を知らずして、無智にしてそれに触れる者は傷つき悩むのであります。

法則は2と2とを加えれば4、4より2を引けば2となる
と云うほどの簡単な審理であります。


人生は吾々自身が、勝手に複雑に法則に引っかかって、
蜘蛛(くも)の網に引っかかった蝶のように複雑にならない限りは
単純な平易なものです。

何故なら、それは「類をもって集まる」と云う
簡単な法則に支配されているからなのです。

その法則を知らないで、人に「損」をかけて、自分が「得」を得ようと
するような、「反対」のことをして置いて「順(じゅん)」の結果を
得ようとするから、簡単な法則をわざと捻(ね)じまげて、複雑に
その法則の網の目に引っかかってしまうことになるのです。

「与えよ、さらば与えられん」が心の世界の根本法則であります。

         感謝合掌 令和2年3月21日 頓首再拝>

《法則は愛憎によって変化しない》 - 伝統

2020/04/08 (Wed) 02:41:20


       *「真理」第9巻生活篇第2章(P40~41)より

茄子を播けば茄子が発芽し、
瓜を播けば瓜が発芽するのは「法則」によるのであります。

「法則」と云うものは「一定の条件に於いては一定の事物が出現する」
と云う律でありまして、神が吾々にそれを利用し得るように
一定の相(すがた)をもってあらわれたのが「法則」であります。

若し神が変幻自在で、
一定の条件に於いて一定の結果を来(きた)さないのであるならば、
私たちは迚(とて)も生活することは出来ないのです。

今日は飯を食べれば、腹がふくれるが、明日は却って腹が減る。
明後日(あさって)はどうなるかわからないのでは
御飯一杯食べることが出来ないで生活が成り立たないのであります。

また或る人に対しては同じ条件で法則は左と作用し、
或る人に対しては右と作用して一定の結果が得られないならば
科学が成り立たないのです。

だから神のあらわれとしての法則は愛憎なく平等に作用します。

         感謝合掌 令和2年4月8日 頓首再拝>

《あなたの収穫するところ》 - 伝統

2020/04/22 (Wed) 04:20:24


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P41)より

「法則」は神のあらわれであり、愛憎なく平等に作用する。

あなたが「不幸」を心に描けば、
いくら神様に「不幸が来ないように」と祈って見ても駄目なのです。

「法則の世界」を”田地(でんち)”にたとえ、「人間」を”種蒔く人”、
そして「想念」を”種子(たね)”にたとえることができます。

私たちは、法則の”田地”に想念の”種子(たね)”を蒔くのです。
すると法則にしたがって想念”種子(たね)”が発芽し、生長し、
やがて花をひらき、実(み)を結び、
自分の蒔いたところのものを刈り穫(と)ることになるのです。

茄子(なす)を蒔きながら、茄子の苗が生長するのを見て、
「私は茄子を好まない。神よ、願わくば、この茄子を胡瓜(きゅうり)に
変化せしめたまえ」と祈っても、

植物は蒔いた種子(たね)の類に従って生長するのであって、
若し現在生長している事物を好まなければ、
”想念”の種子(たね)を蒔き更(か)えるほかはないのです。

         感謝合掌 令和2年4月22日 頓首再拝>

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