伝統板・第二

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「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

今・ここ ③ - 伝統

2018/02/19 (Mon) 03:19:41

      *伝統板・第二「今・ここ②」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6924605



”ぐずぐず”するな、今、行動せよ!

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より


時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。


・・・

<関連Web>

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「人生の時間銀行 」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357  →(消滅)

(2)「光明掲示板第一」内スレッド「「今」を全力を出して戦いとれ」。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=302

(3)「光明掲示板第二」内スレッド「“今”を生かせということ (28)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=16

(4)光明掲示板・第三「今を生きよ! (135)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=58

(5)光明掲示板・伝統・第一「今が時なり (54)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=35

(6)伝統板・第二「今・ここ①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458155

         <感謝合掌 平成30年2月19日 頓首再拝>

人生は「今今今」の数珠つなぎ - 伝統

2018/03/04 (Sun) 04:30:44


      *「たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと」
         青山 俊董・著(P146~147)より

1日24時間という命をつづる一針には、
朝、目がさめ、布団をたたみ、押し入れに入れるという一針もある。

Aさんはしずかに起きあがり、心地よいめざめをいただいたことに
感謝の合掌をし、しずかに埃をたてないように、しかもきちんと
布団をたたみ、押しれに入れた。

Bさんはめざまし時計でガバッと布団を蹴って起きがあり、
布団をまるめて押し入れにほうりこんだ。

Cさんはさんざん起こされ、愚図り愚図り起き、布団はそのまま、
ノソノソとお手洗いに立った。

3人の針の運びは大分違う。
それはそのまま一日の出足の、そして3人のそのひとときの命という一針の、
しかも永久に消すことのできない針の運びなのである。

「人生は、今今今の数珠つなぎ」と、それこそ運針(うんしん)で書いた
ふきんをいただき大事にしているが、毎日なにげなく運んでいるこの一針の
運びが、重なって一生となる。

この一針にその人の一生が象徴されていることも忘れてはならない。

道元禅師は『正法眼蔵』の中で、お便所での心得や作法を「洗浄の巻」とし、
洗面の心得や作法を「洗面の巻」として示された。

朝から晩までの一切を、寝ることすらも、座禅を行ずると同じ姿勢で勤めよ
とおおせられ、これを「一行(いちぎょう)に遇(お)うて一行を修(しゅ)す」
というお言葉で示しておられる。

一つひとつを、あるべきように従って、精いっぱい勤めよということである。

         <感謝合掌 平成30年3月4日 頓首再拝>

「今」があなたの生きる時である。 - 伝統

2018/03/19 (Mon) 03:40:48


           *『幸福をひらく鍵』(P43)より

思い立ったが吉日、遅すぎることも早すぎることもない。
信念をもって断じて行えば其の通りになるのである。
自己限定をやめるがよい。

「今」を生きよ、「今」のほかに時はない。
人類のためになることなら、いつはじめても遅いということはない。

「今」があなたの生きる時である。

「明日」と言うなかれ。

「明日」と常に言う者は、毎日「明日は」と言いながら、
ついに生きる時を失ってしまうのである。

         <感謝合掌 平成30年3月19日 頓首再拝>

「いつ死んでもよいような、今日只今の生き方をする」 - 伝統

2018/04/10 (Tue) 03:02:40

       *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2016年12月16日)より
            ~禅宗/円相の教え(青山 俊董)

過去の総決算である”今”を、過去を引きずらず、背負い込まず、
まっさらな心で、今日只今を、 これからの人生の新たな出発点として立つ・・

それが「いつ死んでもよい」生き方になっていく。

「癌は 私の見直し人生の ヨ~イドンの癌でした。 私 今 出発します」

これは47歳で世を去らねばならなかった鈴木章子さん の、最後の頃の詩です。

癌のお陰で、生命の尊さに気づかせてもらうことができた。

癌という厳しい贈り物のお陰で・・残り時間のない中で
・・人は初めて生命の尊さに気づき・・今日1日命を頂いた喜びを
・・朝を迎えることができた喜びを・・
心から味わえるのではなかろうか。

「精いっぱい生きる日が もう1日与えられているとは
なんと幸せなことであろう」

これはインドの神父、アントニー・デ・メロの詩です。

「1日だけ生命をさしあげます」と神様に言われたら、
私たちはどうするであろうか・・

この神父のように「なんと幸せなことであろう」などと言えるはずもなく、
ただうろたえるだけで、何も手につかないだろう。

病人であるとか、老人であるとかいうことには関係なく
人生常に死と背中あわせであることを忘れてはならない。

「いつ死んでもよいような、今日只今の生き方をする」

これが円相の語りかける終着点の2つ目の意味である。

  (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2016/12/

         <感謝合掌 平成30年4月10日 頓首再拝>

今の仕事に全力を尽くす - 伝統

2018/04/22 (Sun) 03:47:12


       *『 生長の家 』(昭和23年3月11日の法語)より

   《より高き仕事に対する立場》

   「 斯う云う仕事はつまらない 」 と
   今従事している仕事に不満足な感じが起るのは、

   自分の内部生命が、もっと高い仕事を求めており、
  “ もっと ” 高い仕事に対する能力が
   自分に“ ある ” 事を内部から告げているのである。

   と云って今ある仕事を疎(おろそ)かにしては、
   “ もっと ” 高い仕事は恐らくは出て来ないであろう。

   高い仕事に対しては時としては
   見窄(みすぼ)らしい足場が与えられる。

   それに全力を尽すとき次なる足場が与えられる。

   現在の仕事に全力を尽し乍(なが)ら、
   その余裕で新しい仕事をやるのは好(よ)い。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13127396.html?type=folderlist

            <感謝合掌 平成30年4月22日 頓首再拝>

今を生きる - 伝統

2018/05/12 (Sat) 03:39:55


       *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2016年12月19日)より
            ~禅宗/幽霊が語るもの(青山 俊董)

「 過ぎたるを追うことなかれ
未だ来たらざるを想うことなかれ

過去 そはすでに捨てられたり
未来 そはいまだ致らざるなり

今日まさになすべきことを熱心になせ
誰か明日 死のあることを知らんや 」

どの一瞬もかけがえのない命の歩みとして、
天地いっぱいに生かされている今、
今を生きることが、命を本当に大切に
生きるということであろう。


「世の中には4種類の人間がいる」と釈迦は言う。

(1)闇から闇へゆく人
(2)闇から光へゆく人
(3)光から闇へゆく人
(4)光から光へゆく人


幽霊のイメージといえば、おどろ髪を長く後ろに引いて
両手を前に垂らし、足がないのが特徴です。

おどろ髪を長く後ろに引いている姿は、
もう過去のことでどうにもならないことを、いつまでも
ぐずぐずと引きずっている様を表している。

反省するのと、心の中で引きずるのとでは違います。

反省は、しなければならない・・
しかしどうにもならないことに、いつまでもぐずぐずと
引きずって、心が後ろ向きになっている姿・・
それが、おどろ髪を長く後ろに引く姿なのです。

それとは反対に、どうなるかわからない未来に取り越し苦労して、
心が前のめりになっている姿・・
それが両手を前に垂らしている姿になって表れる。

癌を告知され、まだ初期の段階だというのに、病気より心が病んでしまい
「ああ~もうだめだ、死ぬのは恐い」
と、病気を更に悪い方に推し進めてしまう・・

幽霊が両手を前に垂らしている姿は、お釈迦様の言う、
闇から闇への生き方になる。

両足をついて立っているのに、
心は、過去へ未来へと飛んでしまっている。

「今、ここに」

地に足をつけて生きていかなければならないのに、
仕事も何も手につかず、うわのそらの状態
・・それが幽霊でいう、足のない姿になるのです。

   (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2016/12/

            <感謝合掌 平成30年5月12日 頓首再拝>

【いまでなければ、いつするのか?】 - 伝統

2018/06/05 (Tue) 04:10:37


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年06月03日)より

   (ジム・ドノヴァン氏の心に響く言葉より…)

   ある人が最近、
   「いやあ、そんなことをするには私はもう年をとりすぎているよ」と言った。

   こういう言葉を聞くと私は悲しくなる。

   以下の事実について、あなたはどう思うだろうか。


   ☆ ヴェルディは76歳で「アベマリア」を作曲した。

   ☆ マーサ・グラハムは75歳まで演技を続け、
     95歳のときに180作目となる作品を演出した。

   ☆ ミケランジェロは88歳で死ぬ6日前にピエタ像を彫っていた。

   ☆ 作家のマリオン・ハートは54歳で飛行機の操縦法を学び、
     大西洋を横断する単独無着陸飛行を全部で7回おこなった。
     最後の飛行をおこなったのは1976年だったが、そのとき彼女は84歳だった。

   ☆ 画家のグランマ・モーゼスは80歳にして初の個展を開いた。


   もしあなたがかねてから念願のことをするのに
   自分が年をとりすぎていると思うなら、考え直してそれを実行に移そう。


   「この世のすべての悲しい言葉の中で、
   最も悲しいのは『しておけばよかった』である」と、ある高名な詩人は言った。

   あなたがずっとしたいと思ってきたことで、先延ばししてきたことは何だろうか?

   自問しよう。

   「いまでなければ、いつするのか? 」と。


   ウォリー・エイモス(米国の有名な起業家)が講演を終えると、
   ひとりの女性が歩み寄って「もし私がこれからロースクールに行ったりしたら、
   卒業するときには55歳になってしまいます」と言った。
   
   エイモスはこう問い返した。

   「もし行かなかったら、何歳になるのですか?」


      <『何をしてもうまくいく人のシンプルな習慣』ディスカヴァー携書>

              ・・・

100以上の国と地域に、36,000以上の店舗を出店しているのがマクドナルド。

創業者はレイクロックというが、彼は高校を中退し、52歳まで
しがないミルクセーキミキサーのセールスマンだった。

そして、59歳のときに立ちあげたのが、マクドナルドだった。


120の国や地域に、18,000店以上があるのがケンタッキーフライドチキン。

カーネルサンダースは、いくつもの事業の失敗を乗り越え、
65歳のときにケンタッキーフライドチキンを創業し、
73歳のときには600店まで拡大したという。


100歳の時に、30年分の木材(彫刻の材料)を買い込んだことで有名な、
平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)という彫刻家がいる。

「60、70は鼻たれ小僧、男ざかりは100から100から、わしもこれからこれから」

「実践実践また実践、挑戦挑戦また挑戦、修練修練また修練。
やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。
今やらずしていつできる。わしがやらねばだれがやる」

という有名な言葉を残している。


「いまやらずして、いつできる! 」

まさに、胸に響く言葉だ。

            <感謝合掌 平成30年6月5日 頓首再拝>

今この一瞬、天地いっぱいの働きに生かされている - 伝統

2018/06/21 (Thu) 03:03:08


      *「たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと」
         青山 俊董・著(P196~198)より抜粋

われわれが気づく気づかないにかかわらず、今この一瞬を安らかに
過ごさせていただくことができる背景には、太陽系惑星から銀河系惑星に
至るまでのもの、文字通り宇宙が総力をあげての協力をいただいてこそ
可能なのだという。

「天地いっぱいの働き生かされて」という言葉を使うが、
科学的に説明をしていただくとよくわかる。

約2千五百年前の4月8日、お釈さまはお生まれになると同時に
「天上天下唯我独尊」と叫ばれたという。

それはこの地上に存在する一切のものが、例外なくどれもこれも
全く平等に天地いっぱいという価値を持った存在なんだよ、
それにめざめなされ。というお示しなのである。

            <感謝合掌 平成30年6月21日 頓首再拝>

今此処が天国 - 伝統

2018/06/24 (Sun) 04:12:18


       *「光明法語」(6月24日)より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受しこれを生かし働かすとき
其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 平成30年6月24日 頓首再拝>

天国は「今」を生かすにある - 伝統

2018/06/26 (Tue) 03:32:30


       *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。
”Every day is best day in the year ”(毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。
天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。

鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、
魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。
他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

        <感謝合掌 平成30年6月26日 頓首再拝>

今始める人だけが本当に事物を始めうる - 伝統

2018/06/29 (Fri) 03:33:39


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、
いつの間にか纏まった感想集ができているのである。

気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。
明日から、または来年正月から始めようと思っているような人は
結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、
『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 

との自覚で、現象的には余裕のない中から、
気がついて即刻始めたのが『生長の家』である。

日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、
何一つ大事ができないであろう。

           <感謝合掌 平成30年6月29日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2018/07/01 (Sun) 03:54:52


           *「光明法語」(7月1日)より

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

           <感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>

今、あなたの完全像を現実化せしめよ - 伝統

2018/07/13 (Fri) 04:22:00


         *「希望を叶える365章」(P228~229)より

あなたの中にあなたの「完全像」がるのであって、
あなたの「完全像」の自覚の”ひろがり”が、あなたの環境となり境遇となり
運命となってあらわれて来るのである。

自分の自覚の程度があなたの運命の程度である。

今が時である。
常に今が時である。

今一層あなたの完全像(実相)を自覚せよ。
今一歩一歩自己の完全像に現実の自分を近づけせよ。

           <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>

一切の過去は「今」の一点に握られている - 伝統

2018/07/26 (Thu) 04:49:07


        *「希望を叶える365章」(P93)より

将棋の駒をどこにさすか

過去に何があろうとも、それに就いてクヨクヨ思い煩う勿れ。

過去の行跡(ぎょうせき)は過去に於いて或る役割を果たしたのである。
それについて思い煩う必要はなく、その果たした役割に対して
感謝すればよいのである。

そして一切の過去は「今」の一点に握られている。
それは将棋の駒のようなものである。

過去にある役割を果たしたあとに、
その駒は自分の掌(て)に握られているのである。

その駒を何処(どこ)へさすかのよって「過去」が「現在」の行動となり、
その過去からの「持駒」が「未来」の勝因を決定する要因となるのである。


それは、勝利であるか、敗北であるかは「今」がそれを決定するのである。
過去も、現在も、未来も、「今」がそれを掌握している。

「今」の中にすべてがある。

過去について思い煩うな。
「今」を「神」と結合するために、
神想観を修して、神との一体感を深めよ。

           <感謝合掌 平成30年7月26日 頓首再拝>

生長の家とは『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。 - 伝統

2018/08/13 (Mon) 04:51:31


        *「生長の家」昭和23年2月号 より

生長の家を米国光明思想の受売りだと思っている人もあれば、
古事記の解釈より出現したる日本古道を本とすると考えている人もあり、
クリスチャン・サイエンスを祖述したものだと考えている人もある。

併しその何れも正鵠を得ていない。

叙述の素材は以上のいずれよりも引用してあるし、
佛教の諸経典更に老子、孔子、孟子、菜根譚や心霊学の諸著書から博引傍証してある。

併し、それを渾然融合せしめたものは、
『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。


今・此処の一点 ― 時間・空間未発の一点に久遠生命を把握する深さは
《ニューソート》や《クリスチャン・サイエンス》には見られない。

よく似た所まで往っている人もあるが、それでも〃Here and Now〃位か
〃Eternal Now〃位の所である。 

『神の国は汝の内に在り』と云うイエスの言葉が、それ故に空転するのである。


今・此処・我が渾然一体となって、肉体無の無字の一点に全実在を把握しなければ、
『汝の内』とは『外』に対する『内』になって真の意味は把めない。

『汝の内』とは『外』に対する『内』でもなければ、
肉体に対する『心』でもないのである。

『心』に幸福を思い浮べたら、その人は既に天国にいるのも同様であるから、
キリストは『神の国は汝の内にあり』と云ったのだと云うように解するのは
余りにも浅い解釈である。

『汝の内』とは『外』に対するものではなく、
『内外打成一片の生命』の端的であり、實相である。

『内外打成一片』の今此処に真の神の国があり、天国がある。
身心脱落・脱落身心である。
身心一切が十字架にかかるのである。


(「http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/28655808.html より抜粋)

           <感謝合掌 平成30年8月13日 頓首再拝>

今日まさに作すべきことを熱心になせ - 伝統

2018/09/02 (Sun) 02:49:42


          *Web:般若心経ドットインフォ より抜粋

「一夜賢者経」と名づけられたお経がある。


過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるを念うことなかれ

過去、そはすでに捨てられたり
未来、そはいまだ到らざるなり

されば、ただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし

揺ぐことなく、動ずることなく
そを見きわめ、そを実践すべし

ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ

たれか明日死のあることを知らんや
まことに、かの死の大軍と
逢わずいうは、あることなし

よくかくのごとく見きわめたるものは
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん

かくのごときを、一夜賢者といい
また、心しずまれる者とはいうなり
                      
(増谷文雄訳『阿含経典第五巻』)

   (http://www.hannyasingyo.info/yomu/5_4.html

           <感謝合掌 平成30年9月2日 頓首再拝>

《「今」を充分に生きる》 - 伝統

2018/09/23 (Sun) 04:56:36


        *『生活の智慧365章』
           (第1部生命の泉)第2篇( P54) より

家族と倶にあるときには、充分その愛情を表現し交換し愉快に談笑するがよい。
その「今」の生活を、過去や未来の妄想予想などで汚してはならないのである。

「今」を充分に生き、「今」を充分に愉(たの)しく生活し、
その愉(たの)しさの来(きた)る根元なる神に対して感謝するがよい。


仕事をするときには、其の「今」を純一無雑に仕事に集中して、
神が「今」この仕事を為さしめ給うのであると観じ、

「われ今神と偕(とも)にこそ仕事を為す」 と信じ、

その如く念じながら感謝して、仕事を為すがよい。

過ぎ去りたるものを嘆くことなく、来たらんとするものを憂えることなく
「今」をよろこび感謝して生きるとき、その人の生活は常に幸福であるのである。

           <感謝合掌 平成30年9月23日 頓首再拝>

《生長の家とは『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。》 - 伝統

2018/10/10 (Wed) 04:45:42


        *「生長の家」昭和23年2月号 より

生長の家を米国光明思想の受売りだと思っている人もあれば、
古事記の解釈より出現したる日本古道を本とすると考えている人もあり、
クリスチャン・サイエンスを祖述したものだと考えている人もある。

併しその何れも正鵠を得ていない。

叙述の素材は以上のいずれよりも引用してあるし、
佛教の諸経典更に老子、孔子、孟子、菜根譚や心霊学の諸著書から博引傍証してある。

併し、それを渾然融合せしめたものは、
『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。


今・此処の一点 ― 時間・空間未発の一点に久遠生命を把握する深さは
《ニューソート》や《クリスチャン・サイエンス》には見られない。

よく似た所まで往っている人もあるが、それでも〃Here and Now〃位か
〃Eternal Now〃位の所である。 

『神の国は汝の内に在り』と云うイエスの言葉が、それ故に空転するのである。


今・此処・我が渾然一体となって、肉体無の無字の一点に全実在を把握しなければ、
『汝の内』とは『外』に対する『内』になって真の意味は把めない。

『汝の内』とは『外』に対する『内』でもなければ、
肉体に対する『心』でもないのである。

『心』に幸福を思い浮べたら、その人は既に天国にいるのも同様であるから、
キリストは『神の国は汝の内にあり』と云ったのだと云うように解するのは
余りにも浅い解釈である。

『汝の内』とは『外』に対するものではなく、
『内外打成一片の生命』の端的であり、實相である。

『内外打成一片』の今此処に真の神の国があり、天国がある。
身心脱落・脱落身心である。
身心一切が十字架にかかるのである。

《ニューソート》にはこんな境地はない。

心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、一切があるがままに脱落する。
それをそのままと云う。

『そのまま』と云うような言葉は外国語には翻訳が困難である。
外国語に翻訳が困難であると云うのは、それに適当した観念がないと云うことである。

『そのまま』は不来であり、不去である。
そのままにして肉体無しと悟る。
敢て肉体の抹殺を必要とせず今、此処に、無時・無空間の生命の実在を悟るのである。

これをキリストの十字架の真義とする処に、西洋哲学と東洋哲学との一致を見出す。

《クリスチャン・サイエンス》や《ニューソート》にない教えで
生長の家にある教えは『中心帰一』の思想である。

多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起っている。

頭痛を訴える或る婦人は医師の判断では脳髄の中に出来ている腫物にある
と云うことを、脊髄液をとって検査することによって診断した。

ところが良人に対して絶対無我になる事をすすめて
良人に対する不平の心を取去るように教導したのである。

話しているうちに、その婦人のなやましき頭痛はやまってしまい、
それ以来その頭痛は再発することがなかったのである。

上に従順なる思想、中心者に服従の思想を戦犯的思想だと考えるのは間違いだ。

平和愛好の天皇陛下の御意志を曲げて横車を押して戦争を始めたのは
軍閥であった事を戦争裁判は暴露しつつある。

陛下の『平和に事を解決せよ』との御心に真に従順に従う心
 ― 即ち上意に素直な心 ― があったならば、
戦争は起らなかったに相違ない。

八月十五日に日本が無条件降伏を行って、上陸連合軍に対して
何らの抵抗も暴動も演じなかったのも、国家の中心者に従順である心からである。

吉祥寺のS氏の嫁が内耳に真珠腫が出来て脳髄を圧迫するので、
放置するといつ突然脳髄の故障が起って死ぬかも知れぬと云うのであり、
手術をしようと思ったが、

その手術も脳髄に接近している部位なので重大な手術であり、
躊躇しているとき、或る人が生長の家の話をきいて見ないかと勧めてくれた。

頭の痛むのは目上に対して反抗心がある、
耳の中に真珠腫のような塊が出来るのは、目上の人に対して
『我』の塊をもっていて聞きたくない心があるからとて、
そのような『我』を取去るよう指導された。

話しているうちに頭痛は治り再発はしなかった。

『クリスチャン・サイエンス』はただ肉体の無を説き、病気の非実在を説くだけである。
そしてどんな病気は、どんな心の誤りだと云うことを説かなかった。

そしてクヰンビーの方法を踏襲したエディ夫人は
按手して思念する療術行為的なことをやった。

エディの著書の中には粘膜の炎症は恐怖心のあらわれだと云うようなことが
説かれているだけで、各種の病気に対する心の細かい対応などは説かれていない。

これを詳しく説いているのが生長の家である。
生長の家は触手的な療術行為と誤れる虞れを避けて
全然按手的触手的方法を用いることを、その講師又は指導者に禁止し、

全然教えのみを説くことにし、各々の病気に対して、
それに相応ずるような精神の持ち方を改めるように説く。
それで病気が治るのである。


エディ夫人が『肉体の無』を説きながら、
なぜ、触手的に患者に触れねばならなかに就いては
彼女からクヰンビー方法(メソッド)を教えて貰った講習生から
盛んに反駁的質問が来たのでエディ夫人も困ってしまったが、

依然として触手的方法を捨て得なかった実情は
『世界光明思想全集・第十四冊、初期のクリスチャン・サイエンス』
に詳しく書かれている。

生長の家を単なる日本のクリスチャン・サイエンスだと思ったら間違いである。
クリスチャン・サイエンスの真理も内に包容しながら、
それ以上に飛躍しているのである。

エディ夫人の伝記を読む者は、彼女が如何に周囲の人々と不和であったか、
事毎に摩擦を生じ、迫害と裏切りとに取囲まれていた事を知って驚く。

そこにも生長の家の根本的中心教義たる『天地一切のものと和解せよ』の教え
とクリスチャン・サイエンスとが甚だしく相異することが示されている。

エディの主著たる『真理と健康(サイエンス・アンド・ )』の中にも
『天地一切のものと和解せよ』の思想はない。
ただ物質無、肉体無、病気無、を主張するだけで、
如何なる心が如何なる病気を起すかの解明はない。

 
グレン・クラーク博士の著述の中には『心臓』は愛の象徴的存在であり、
血液循環は歓喜の表現、肺臓は生命の霊の流れ入り流れ出ずる表現、
肝臓は真理の霊の象徴、胃の腑の作きは調和と力の霊を受けて同化する事の
表象である。

嫉妬及び憤怒、恐怖は真理の観点を損い偏寄せしめる、
それ故忽ち肉体の消化機能に激しい影響を与える ― この程度の説明しかない。

これも一面の真理であるが、生長の家の説く様な
聴きたくない心が耳の病気を起すなどの事は書かれていない。


生長の家の光明思想の根幹を流れるものは米国的な明るい光明思想であるが、
決して単なる受売りや寄せ集めでもない。


奥太利の精神分析も取入れてはいるが、フロイドの精神分析のように
神経病や神経障碍のみが治るのではなく、実質的病気も心の改造によって治るのである。


先般、脚が充分立たない人が生長の家に入っても治らないのはどう云う訳かと、
自分以外の治らぬ人の実例も挙げて反駁して来られたが、
治らぬのには治らぬ訳があるのであり、
『生命の實相』を読んでも心の変らぬ人は治らぬ。

(「http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/28655808.html

             <感謝合掌 平成30年10月10日 頓首再拝>

”今”は無限にして”久遠”である - 伝統

2018/10/26 (Fri) 04:20:28


       *『如意自在の生活365章』(P53)より

過去の失敗などを心の中に反芻することをやめよ。

過ちや罪や後悔や愚かしさは、
それはただ幻想の世界のみに存在するのであって、
実在の世界には存在しないのである。

”無い”ものを”有る”と思って後悔することに
時間やエネルギーを使ってはならないのである。

”今”―― あなたの世界は「実相・無限の世界」につながる。
”今”が無限にして久遠であり、
”今”すでに一切が成就しているのである。

”今”無限の力をもって起(た)ち上がれ。

             <感謝合掌 平成30年10月26日 頓首再拝>

《今・此処に天国がある》 - 伝統

2018/11/14 (Wed) 03:45:43


        *『人生の秘訣365章』第10篇(P256) より

神の国はそんなに遠く遥かなる処には存在しないのである。
神の国は今此処にあるのである。

仰いで太陽の輝くのを見よ、
それを単なる物質として見るのは科学者の立場である。
それはそれで良いのであって間違いではないのである。

しかし生きた人間としてそれを見れば、又別の面から太陽を見るのである。
降りそそぐ太陽の光熱のもとに万物が生かされている。

太陽を受けない時と、太陽を受けているときとは樹木の輝きが異なるのである。
それを科学者は単なる“光線の反射”だと解釈するであろう。

しかし、“人格ある人間”が“生きている樹木”を見れば、
単なる“光線の反射”以上のものがあるのである。

詩人は其処に、神の愛を感じ、生命(せいめい)と生命(せいめい)との共感に触れ、
其処に単なる科学的立場以上の「美」を感ずるのである。

詩人と宗教人とは到る処に、神の生命を感じ、神の美を見出し、神の愛に触れる。
そこに天国があるのである。

             <感謝合掌 平成30年11月14日 頓首再拝>

時々刻々、心を練ること - 伝統

2018/11/29 (Thu) 05:00:29


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月29日)より

人間の一生涯の時間を平均35万時間だと計算した人がある。

フランクリンは

「君は自己の生命(せいめい)を愛するか。
然らば、けっして時間を浪費してはならない。
なぜなら時間こそ君の生命(せいめい)が造られている実質であるから」

と言ったということである。

時間の貴重さは、『生命の實相』の生活篇の第一章にも書かれていることであって、
空費されたる時間は再び取り返すことができないのである。

時間を空費する者は時間を殺しつつあるのであり、
時間を殺しつつある者は自分の生命を殺しつつあるのである。

無駄に過ごされる時間に、何が行なわれつつあるかといえば、その間(かん)に
人は健康を失いつつあり、若さを失いつつあり、人格がもっと輝き出るはずのものが
失われつつあり、学識経験からもっと広くなるはずのものが失われつつあり、
掴(つか)めばすばらしい幸運がひらけてくる機会を放棄しつつあるのである。

機会なしと言うことなかれ、心さとき人々にとっては時々刻々が機会であり、
時々刻々の機会に心の練(ね)れていないものは、画期的な大機会が来たときに、
それを迅速に掴むことができないで、あたら、見逃してしまうのである。

これを大音楽家ハイドンの例に見よ、彼は貧しき馭者(ぎょしゃ)の家に生まれ、
ある音楽教師の下(もと)に走り使いをする小僧として雇われたのである。
しかし彼はその間(あいだ)にも時間を無駄にしないで
音楽の知識を吸収するにつとめたのである。

彼の外見的な不幸はなおつづいた。
彼はウィンナ(=ウィーン)で理髪小僧になったのであるが、
その間(あいだ)にも彼は音楽の勉強と、自己改造と機会を捉えることに
時間を空費することはなかった。

彼はある日店に来た市の有力者の靴が埃によごれているのを見て
その靴をただ深切の気持ちで磨いてあげたのが機会となって、
その人と知合いになり、そこに機会が掴まれたのである。

1798年この憐れなる少年の作曲「天地創造」が楽壇に紹介されるや、
永遠に沈まない太陽の光のような華やかな讃嘆の声にとりまかれたのである。

彼はかくて世界的音楽家となり、皇帝、皇后と食事をともにし、
王子たちに取り巻かれる貴族のごとき生活を送るにいたったのであるが、
この貧苦と貧乏のうちで時間を空費することなく作曲された「天地創造」こそは
彼の全生涯八百有余の作曲のうち最も大なるものだと言われているのは
何を語るであろうか。

皇帝と食事をともにする栄誉も世界的大作曲家としての栄誉も
貧しき「無(な)き時間」のうちに自己訓練して得た成果である
ということである。

ローマは一日にして成らず、
最大の栄誉は「無(な)き時間」を活かして
自己訓練するところから得られるのである。

         <感謝合掌 平成30年11月29日 頓首再拝>

「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きる - 伝統

2018/12/08 (Sat) 04:53:11


        *「光明道中記」(12月8日 永遠の今を生きる日)より

 【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、
形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。
太陽の前の星のようなものである。

《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、
ただ権力の増大や、名誉の高揚や、自己の勢力範囲の拡大のために
目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に大きかろうとも、
宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。

では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。

外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、
何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のためにその仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、それは随伴現象に過ぎない。

         <感謝合掌 平成30年12月8日 頓首再拝>

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