伝統板・第二

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今・ここ ③ - 伝統

2018/02/19 (Mon) 03:19:41

      *伝統板・第二「今・ここ②」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6924605



”ぐずぐず”するな、今、行動せよ!

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より


時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。


・・・

<関連Web>

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「人生の時間銀行 」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357  →(消滅)

(2)「光明掲示板第一」内スレッド「「今」を全力を出して戦いとれ」。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=302

(3)「光明掲示板第二」内スレッド「“今”を生かせということ (28)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=16

(4)光明掲示板・第三「今を生きよ! (135)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=58

(5)光明掲示板・伝統・第一「今が時なり (54)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=35

(6)伝統板・第二「今・ここ①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458155

         <感謝合掌 平成30年2月19日 頓首再拝>

人生は「今今今」の数珠つなぎ - 伝統

2018/03/04 (Sun) 04:30:44


      *「たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと」
         青山 俊董・著(P146~147)より

1日24時間という命をつづる一針には、
朝、目がさめ、布団をたたみ、押し入れに入れるという一針もある。

Aさんはしずかに起きあがり、心地よいめざめをいただいたことに
感謝の合掌をし、しずかに埃をたてないように、しかもきちんと
布団をたたみ、押しれに入れた。

Bさんはめざまし時計でガバッと布団を蹴って起きがあり、
布団をまるめて押し入れにほうりこんだ。

Cさんはさんざん起こされ、愚図り愚図り起き、布団はそのまま、
ノソノソとお手洗いに立った。

3人の針の運びは大分違う。
それはそのまま一日の出足の、そして3人のそのひとときの命という一針の、
しかも永久に消すことのできない針の運びなのである。

「人生は、今今今の数珠つなぎ」と、それこそ運針(うんしん)で書いた
ふきんをいただき大事にしているが、毎日なにげなく運んでいるこの一針の
運びが、重なって一生となる。

この一針にその人の一生が象徴されていることも忘れてはならない。

道元禅師は『正法眼蔵』の中で、お便所での心得や作法を「洗浄の巻」とし、
洗面の心得や作法を「洗面の巻」として示された。

朝から晩までの一切を、寝ることすらも、座禅を行ずると同じ姿勢で勤めよ
とおおせられ、これを「一行(いちぎょう)に遇(お)うて一行を修(しゅ)す」
というお言葉で示しておられる。

一つひとつを、あるべきように従って、精いっぱい勤めよということである。

         <感謝合掌 平成30年3月4日 頓首再拝>

「今」があなたの生きる時である。 - 伝統

2018/03/19 (Mon) 03:40:48


           *『幸福をひらく鍵』(P43)より

思い立ったが吉日、遅すぎることも早すぎることもない。
信念をもって断じて行えば其の通りになるのである。
自己限定をやめるがよい。

「今」を生きよ、「今」のほかに時はない。
人類のためになることなら、いつはじめても遅いということはない。

「今」があなたの生きる時である。

「明日」と言うなかれ。

「明日」と常に言う者は、毎日「明日は」と言いながら、
ついに生きる時を失ってしまうのである。

         <感謝合掌 平成30年3月19日 頓首再拝>

「いつ死んでもよいような、今日只今の生き方をする」 - 伝統

2018/04/10 (Tue) 03:02:40

       *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2016年12月16日)より
            ~禅宗/円相の教え(青山 俊董)

過去の総決算である”今”を、過去を引きずらず、背負い込まず、
まっさらな心で、今日只今を、 これからの人生の新たな出発点として立つ・・

それが「いつ死んでもよい」生き方になっていく。

「癌は 私の見直し人生の ヨ~イドンの癌でした。 私 今 出発します」

これは47歳で世を去らねばならなかった鈴木章子さん の、最後の頃の詩です。

癌のお陰で、生命の尊さに気づかせてもらうことができた。

癌という厳しい贈り物のお陰で・・残り時間のない中で
・・人は初めて生命の尊さに気づき・・今日1日命を頂いた喜びを
・・朝を迎えることができた喜びを・・
心から味わえるのではなかろうか。

「精いっぱい生きる日が もう1日与えられているとは
なんと幸せなことであろう」

これはインドの神父、アントニー・デ・メロの詩です。

「1日だけ生命をさしあげます」と神様に言われたら、
私たちはどうするであろうか・・

この神父のように「なんと幸せなことであろう」などと言えるはずもなく、
ただうろたえるだけで、何も手につかないだろう。

病人であるとか、老人であるとかいうことには関係なく
人生常に死と背中あわせであることを忘れてはならない。

「いつ死んでもよいような、今日只今の生き方をする」

これが円相の語りかける終着点の2つ目の意味である。

  (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2016/12/

         <感謝合掌 平成30年4月10日 頓首再拝>

今の仕事に全力を尽くす - 伝統

2018/04/22 (Sun) 03:47:12


       *『 生長の家 』(昭和23年3月11日の法語)より

   《より高き仕事に対する立場》

   「 斯う云う仕事はつまらない 」 と
   今従事している仕事に不満足な感じが起るのは、

   自分の内部生命が、もっと高い仕事を求めており、
  “ もっと ” 高い仕事に対する能力が
   自分に“ ある ” 事を内部から告げているのである。

   と云って今ある仕事を疎(おろそ)かにしては、
   “ もっと ” 高い仕事は恐らくは出て来ないであろう。

   高い仕事に対しては時としては
   見窄(みすぼ)らしい足場が与えられる。

   それに全力を尽すとき次なる足場が与えられる。

   現在の仕事に全力を尽し乍(なが)ら、
   その余裕で新しい仕事をやるのは好(よ)い。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13127396.html?type=folderlist

            <感謝合掌 平成30年4月22日 頓首再拝>

今を生きる - 伝統

2018/05/12 (Sat) 03:39:55


       *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2016年12月19日)より
            ~禅宗/幽霊が語るもの(青山 俊董)

「 過ぎたるを追うことなかれ
未だ来たらざるを想うことなかれ

過去 そはすでに捨てられたり
未来 そはいまだ致らざるなり

今日まさになすべきことを熱心になせ
誰か明日 死のあることを知らんや 」

どの一瞬もかけがえのない命の歩みとして、
天地いっぱいに生かされている今、
今を生きることが、命を本当に大切に
生きるということであろう。


「世の中には4種類の人間がいる」と釈迦は言う。

(1)闇から闇へゆく人
(2)闇から光へゆく人
(3)光から闇へゆく人
(4)光から光へゆく人


幽霊のイメージといえば、おどろ髪を長く後ろに引いて
両手を前に垂らし、足がないのが特徴です。

おどろ髪を長く後ろに引いている姿は、
もう過去のことでどうにもならないことを、いつまでも
ぐずぐずと引きずっている様を表している。

反省するのと、心の中で引きずるのとでは違います。

反省は、しなければならない・・
しかしどうにもならないことに、いつまでもぐずぐずと
引きずって、心が後ろ向きになっている姿・・
それが、おどろ髪を長く後ろに引く姿なのです。

それとは反対に、どうなるかわからない未来に取り越し苦労して、
心が前のめりになっている姿・・
それが両手を前に垂らしている姿になって表れる。

癌を告知され、まだ初期の段階だというのに、病気より心が病んでしまい
「ああ~もうだめだ、死ぬのは恐い」
と、病気を更に悪い方に推し進めてしまう・・

幽霊が両手を前に垂らしている姿は、お釈迦様の言う、
闇から闇への生き方になる。

両足をついて立っているのに、
心は、過去へ未来へと飛んでしまっている。

「今、ここに」

地に足をつけて生きていかなければならないのに、
仕事も何も手につかず、うわのそらの状態
・・それが幽霊でいう、足のない姿になるのです。

   (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2016/12/

            <感謝合掌 平成30年5月12日 頓首再拝>

【いまでなければ、いつするのか?】 - 伝統

2018/06/05 (Tue) 04:10:37


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年06月03日)より

   (ジム・ドノヴァン氏の心に響く言葉より…)

   ある人が最近、
   「いやあ、そんなことをするには私はもう年をとりすぎているよ」と言った。

   こういう言葉を聞くと私は悲しくなる。

   以下の事実について、あなたはどう思うだろうか。


   ☆ ヴェルディは76歳で「アベマリア」を作曲した。

   ☆ マーサ・グラハムは75歳まで演技を続け、
     95歳のときに180作目となる作品を演出した。

   ☆ ミケランジェロは88歳で死ぬ6日前にピエタ像を彫っていた。

   ☆ 作家のマリオン・ハートは54歳で飛行機の操縦法を学び、
     大西洋を横断する単独無着陸飛行を全部で7回おこなった。
     最後の飛行をおこなったのは1976年だったが、そのとき彼女は84歳だった。

   ☆ 画家のグランマ・モーゼスは80歳にして初の個展を開いた。


   もしあなたがかねてから念願のことをするのに
   自分が年をとりすぎていると思うなら、考え直してそれを実行に移そう。


   「この世のすべての悲しい言葉の中で、
   最も悲しいのは『しておけばよかった』である」と、ある高名な詩人は言った。

   あなたがずっとしたいと思ってきたことで、先延ばししてきたことは何だろうか?

   自問しよう。

   「いまでなければ、いつするのか? 」と。


   ウォリー・エイモス(米国の有名な起業家)が講演を終えると、
   ひとりの女性が歩み寄って「もし私がこれからロースクールに行ったりしたら、
   卒業するときには55歳になってしまいます」と言った。
   
   エイモスはこう問い返した。

   「もし行かなかったら、何歳になるのですか?」


      <『何をしてもうまくいく人のシンプルな習慣』ディスカヴァー携書>

              ・・・

100以上の国と地域に、36,000以上の店舗を出店しているのがマクドナルド。

創業者はレイクロックというが、彼は高校を中退し、52歳まで
しがないミルクセーキミキサーのセールスマンだった。

そして、59歳のときに立ちあげたのが、マクドナルドだった。


120の国や地域に、18,000店以上があるのがケンタッキーフライドチキン。

カーネルサンダースは、いくつもの事業の失敗を乗り越え、
65歳のときにケンタッキーフライドチキンを創業し、
73歳のときには600店まで拡大したという。


100歳の時に、30年分の木材(彫刻の材料)を買い込んだことで有名な、
平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)という彫刻家がいる。

「60、70は鼻たれ小僧、男ざかりは100から100から、わしもこれからこれから」

「実践実践また実践、挑戦挑戦また挑戦、修練修練また修練。
やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。
今やらずしていつできる。わしがやらねばだれがやる」

という有名な言葉を残している。


「いまやらずして、いつできる! 」

まさに、胸に響く言葉だ。

            <感謝合掌 平成30年6月5日 頓首再拝>

今この一瞬、天地いっぱいの働きに生かされている - 伝統

2018/06/21 (Thu) 03:03:08


      *「たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと」
         青山 俊董・著(P196~198)より抜粋

われわれが気づく気づかないにかかわらず、今この一瞬を安らかに
過ごさせていただくことができる背景には、太陽系惑星から銀河系惑星に
至るまでのもの、文字通り宇宙が総力をあげての協力をいただいてこそ
可能なのだという。

「天地いっぱいの働き生かされて」という言葉を使うが、
科学的に説明をしていただくとよくわかる。

約2千五百年前の4月8日、お釈さまはお生まれになると同時に
「天上天下唯我独尊」と叫ばれたという。

それはこの地上に存在する一切のものが、例外なくどれもこれも
全く平等に天地いっぱいという価値を持った存在なんだよ、
それにめざめなされ。というお示しなのである。

            <感謝合掌 平成30年6月21日 頓首再拝>

今此処が天国 - 伝統

2018/06/24 (Sun) 04:12:18


       *「光明法語」(6月24日)より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受しこれを生かし働かすとき
其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 平成30年6月24日 頓首再拝>

天国は「今」を生かすにある - 伝統

2018/06/26 (Tue) 03:32:30


       *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。
”Every day is best day in the year ”(毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。
天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。

鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、
魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。
他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

        <感謝合掌 平成30年6月26日 頓首再拝>

今始める人だけが本当に事物を始めうる - 伝統

2018/06/29 (Fri) 03:33:39


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、
いつの間にか纏まった感想集ができているのである。

気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。
明日から、または来年正月から始めようと思っているような人は
結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、
『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 

との自覚で、現象的には余裕のない中から、
気がついて即刻始めたのが『生長の家』である。

日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、
何一つ大事ができないであろう。

           <感謝合掌 平成30年6月29日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2018/07/01 (Sun) 03:54:52


           *「光明法語」(7月1日)より

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

           <感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>

今、あなたの完全像を現実化せしめよ - 伝統

2018/07/13 (Fri) 04:22:00


         *「希望を叶える365章」(P228~229)より

あなたの中にあなたの「完全像」がるのであって、
あなたの「完全像」の自覚の”ひろがり”が、あなたの環境となり境遇となり
運命となってあらわれて来るのである。

自分の自覚の程度があなたの運命の程度である。

今が時である。
常に今が時である。

今一層あなたの完全像(実相)を自覚せよ。
今一歩一歩自己の完全像に現実の自分を近づけせよ。

           <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>

一切の過去は「今」の一点に握られている - 伝統

2018/07/26 (Thu) 04:49:07


        *「希望を叶える365章」(P93)より

将棋の駒をどこにさすか

過去に何があろうとも、それに就いてクヨクヨ思い煩う勿れ。

過去の行跡(ぎょうせき)は過去に於いて或る役割を果たしたのである。
それについて思い煩う必要はなく、その果たした役割に対して
感謝すればよいのである。

そして一切の過去は「今」の一点に握られている。
それは将棋の駒のようなものである。

過去にある役割を果たしたあとに、
その駒は自分の掌(て)に握られているのである。

その駒を何処(どこ)へさすかのよって「過去」が「現在」の行動となり、
その過去からの「持駒」が「未来」の勝因を決定する要因となるのである。


それは、勝利であるか、敗北であるかは「今」がそれを決定するのである。
過去も、現在も、未来も、「今」がそれを掌握している。

「今」の中にすべてがある。

過去について思い煩うな。
「今」を「神」と結合するために、
神想観を修して、神との一体感を深めよ。

           <感謝合掌 平成30年7月26日 頓首再拝>

生長の家とは『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。 - 伝統

2018/08/13 (Mon) 04:51:31


        *「生長の家」昭和23年2月号 より

生長の家を米国光明思想の受売りだと思っている人もあれば、
古事記の解釈より出現したる日本古道を本とすると考えている人もあり、
クリスチャン・サイエンスを祖述したものだと考えている人もある。

併しその何れも正鵠を得ていない。

叙述の素材は以上のいずれよりも引用してあるし、
佛教の諸経典更に老子、孔子、孟子、菜根譚や心霊学の諸著書から博引傍証してある。

併し、それを渾然融合せしめたものは、
『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。


今・此処の一点 ― 時間・空間未発の一点に久遠生命を把握する深さは
《ニューソート》や《クリスチャン・サイエンス》には見られない。

よく似た所まで往っている人もあるが、それでも〃Here and Now〃位か
〃Eternal Now〃位の所である。 

『神の国は汝の内に在り』と云うイエスの言葉が、それ故に空転するのである。


今・此処・我が渾然一体となって、肉体無の無字の一点に全実在を把握しなければ、
『汝の内』とは『外』に対する『内』になって真の意味は把めない。

『汝の内』とは『外』に対する『内』でもなければ、
肉体に対する『心』でもないのである。

『心』に幸福を思い浮べたら、その人は既に天国にいるのも同様であるから、
キリストは『神の国は汝の内にあり』と云ったのだと云うように解するのは
余りにも浅い解釈である。

『汝の内』とは『外』に対するものではなく、
『内外打成一片の生命』の端的であり、實相である。

『内外打成一片』の今此処に真の神の国があり、天国がある。
身心脱落・脱落身心である。
身心一切が十字架にかかるのである。


(「http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/28655808.html より抜粋)

           <感謝合掌 平成30年8月13日 頓首再拝>

今日まさに作すべきことを熱心になせ - 伝統

2018/09/02 (Sun) 02:49:42


          *Web:般若心経ドットインフォ より抜粋

「一夜賢者経」と名づけられたお経がある。


過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるを念うことなかれ

過去、そはすでに捨てられたり
未来、そはいまだ到らざるなり

されば、ただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし

揺ぐことなく、動ずることなく
そを見きわめ、そを実践すべし

ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ

たれか明日死のあることを知らんや
まことに、かの死の大軍と
逢わずいうは、あることなし

よくかくのごとく見きわめたるものは
心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん

かくのごときを、一夜賢者といい
また、心しずまれる者とはいうなり
                      
(増谷文雄訳『阿含経典第五巻』)

   (http://www.hannyasingyo.info/yomu/5_4.html

           <感謝合掌 平成30年9月2日 頓首再拝>

《「今」を充分に生きる》 - 伝統

2018/09/23 (Sun) 04:56:36


        *『生活の智慧365章』
           (第1部生命の泉)第2篇( P54) より

家族と倶にあるときには、充分その愛情を表現し交換し愉快に談笑するがよい。
その「今」の生活を、過去や未来の妄想予想などで汚してはならないのである。

「今」を充分に生き、「今」を充分に愉(たの)しく生活し、
その愉(たの)しさの来(きた)る根元なる神に対して感謝するがよい。


仕事をするときには、其の「今」を純一無雑に仕事に集中して、
神が「今」この仕事を為さしめ給うのであると観じ、

「われ今神と偕(とも)にこそ仕事を為す」 と信じ、

その如く念じながら感謝して、仕事を為すがよい。

過ぎ去りたるものを嘆くことなく、来たらんとするものを憂えることなく
「今」をよろこび感謝して生きるとき、その人の生活は常に幸福であるのである。

           <感謝合掌 平成30年9月23日 頓首再拝>

《生長の家とは『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。》 - 伝統

2018/10/10 (Wed) 04:45:42


        *「生長の家」昭和23年2月号 より

生長の家を米国光明思想の受売りだと思っている人もあれば、
古事記の解釈より出現したる日本古道を本とすると考えている人もあり、
クリスチャン・サイエンスを祖述したものだと考えている人もある。

併しその何れも正鵠を得ていない。

叙述の素材は以上のいずれよりも引用してあるし、
佛教の諸経典更に老子、孔子、孟子、菜根譚や心霊学の諸著書から博引傍証してある。

併し、それを渾然融合せしめたものは、
『今此処の一点に全実在を把握する』特殊の悟りである。


今・此処の一点 ― 時間・空間未発の一点に久遠生命を把握する深さは
《ニューソート》や《クリスチャン・サイエンス》には見られない。

よく似た所まで往っている人もあるが、それでも〃Here and Now〃位か
〃Eternal Now〃位の所である。 

『神の国は汝の内に在り』と云うイエスの言葉が、それ故に空転するのである。


今・此処・我が渾然一体となって、肉体無の無字の一点に全実在を把握しなければ、
『汝の内』とは『外』に対する『内』になって真の意味は把めない。

『汝の内』とは『外』に対する『内』でもなければ、
肉体に対する『心』でもないのである。

『心』に幸福を思い浮べたら、その人は既に天国にいるのも同様であるから、
キリストは『神の国は汝の内にあり』と云ったのだと云うように解するのは
余りにも浅い解釈である。

『汝の内』とは『外』に対するものではなく、
『内外打成一片の生命』の端的であり、實相である。

『内外打成一片』の今此処に真の神の国があり、天国がある。
身心脱落・脱落身心である。
身心一切が十字架にかかるのである。

《ニューソート》にはこんな境地はない。

心もなく、身体もなく、からだもなく、心もなく、一切があるがままに脱落する。
それをそのままと云う。

『そのまま』と云うような言葉は外国語には翻訳が困難である。
外国語に翻訳が困難であると云うのは、それに適当した観念がないと云うことである。

『そのまま』は不来であり、不去である。
そのままにして肉体無しと悟る。
敢て肉体の抹殺を必要とせず今、此処に、無時・無空間の生命の実在を悟るのである。

これをキリストの十字架の真義とする処に、西洋哲学と東洋哲学との一致を見出す。

《クリスチャン・サイエンス》や《ニューソート》にない教えで
生長の家にある教えは『中心帰一』の思想である。

多くの病人が一家の中心たる良人に対する反抗心で起っている。

頭痛を訴える或る婦人は医師の判断では脳髄の中に出来ている腫物にある
と云うことを、脊髄液をとって検査することによって診断した。

ところが良人に対して絶対無我になる事をすすめて
良人に対する不平の心を取去るように教導したのである。

話しているうちに、その婦人のなやましき頭痛はやまってしまい、
それ以来その頭痛は再発することがなかったのである。

上に従順なる思想、中心者に服従の思想を戦犯的思想だと考えるのは間違いだ。

平和愛好の天皇陛下の御意志を曲げて横車を押して戦争を始めたのは
軍閥であった事を戦争裁判は暴露しつつある。

陛下の『平和に事を解決せよ』との御心に真に従順に従う心
 ― 即ち上意に素直な心 ― があったならば、
戦争は起らなかったに相違ない。

八月十五日に日本が無条件降伏を行って、上陸連合軍に対して
何らの抵抗も暴動も演じなかったのも、国家の中心者に従順である心からである。

吉祥寺のS氏の嫁が内耳に真珠腫が出来て脳髄を圧迫するので、
放置するといつ突然脳髄の故障が起って死ぬかも知れぬと云うのであり、
手術をしようと思ったが、

その手術も脳髄に接近している部位なので重大な手術であり、
躊躇しているとき、或る人が生長の家の話をきいて見ないかと勧めてくれた。

頭の痛むのは目上に対して反抗心がある、
耳の中に真珠腫のような塊が出来るのは、目上の人に対して
『我』の塊をもっていて聞きたくない心があるからとて、
そのような『我』を取去るよう指導された。

話しているうちに頭痛は治り再発はしなかった。

『クリスチャン・サイエンス』はただ肉体の無を説き、病気の非実在を説くだけである。
そしてどんな病気は、どんな心の誤りだと云うことを説かなかった。

そしてクヰンビーの方法を踏襲したエディ夫人は
按手して思念する療術行為的なことをやった。

エディの著書の中には粘膜の炎症は恐怖心のあらわれだと云うようなことが
説かれているだけで、各種の病気に対する心の細かい対応などは説かれていない。

これを詳しく説いているのが生長の家である。
生長の家は触手的な療術行為と誤れる虞れを避けて
全然按手的触手的方法を用いることを、その講師又は指導者に禁止し、

全然教えのみを説くことにし、各々の病気に対して、
それに相応ずるような精神の持ち方を改めるように説く。
それで病気が治るのである。


エディ夫人が『肉体の無』を説きながら、
なぜ、触手的に患者に触れねばならなかに就いては
彼女からクヰンビー方法(メソッド)を教えて貰った講習生から
盛んに反駁的質問が来たのでエディ夫人も困ってしまったが、

依然として触手的方法を捨て得なかった実情は
『世界光明思想全集・第十四冊、初期のクリスチャン・サイエンス』
に詳しく書かれている。

生長の家を単なる日本のクリスチャン・サイエンスだと思ったら間違いである。
クリスチャン・サイエンスの真理も内に包容しながら、
それ以上に飛躍しているのである。

エディ夫人の伝記を読む者は、彼女が如何に周囲の人々と不和であったか、
事毎に摩擦を生じ、迫害と裏切りとに取囲まれていた事を知って驚く。

そこにも生長の家の根本的中心教義たる『天地一切のものと和解せよ』の教え
とクリスチャン・サイエンスとが甚だしく相異することが示されている。

エディの主著たる『真理と健康(サイエンス・アンド・ )』の中にも
『天地一切のものと和解せよ』の思想はない。
ただ物質無、肉体無、病気無、を主張するだけで、
如何なる心が如何なる病気を起すかの解明はない。

 
グレン・クラーク博士の著述の中には『心臓』は愛の象徴的存在であり、
血液循環は歓喜の表現、肺臓は生命の霊の流れ入り流れ出ずる表現、
肝臓は真理の霊の象徴、胃の腑の作きは調和と力の霊を受けて同化する事の
表象である。

嫉妬及び憤怒、恐怖は真理の観点を損い偏寄せしめる、
それ故忽ち肉体の消化機能に激しい影響を与える ― この程度の説明しかない。

これも一面の真理であるが、生長の家の説く様な
聴きたくない心が耳の病気を起すなどの事は書かれていない。


生長の家の光明思想の根幹を流れるものは米国的な明るい光明思想であるが、
決して単なる受売りや寄せ集めでもない。


奥太利の精神分析も取入れてはいるが、フロイドの精神分析のように
神経病や神経障碍のみが治るのではなく、実質的病気も心の改造によって治るのである。


先般、脚が充分立たない人が生長の家に入っても治らないのはどう云う訳かと、
自分以外の治らぬ人の実例も挙げて反駁して来られたが、
治らぬのには治らぬ訳があるのであり、
『生命の實相』を読んでも心の変らぬ人は治らぬ。

(「http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/28655808.html

             <感謝合掌 平成30年10月10日 頓首再拝>

”今”は無限にして”久遠”である - 伝統

2018/10/26 (Fri) 04:20:28


       *『如意自在の生活365章』(P53)より

過去の失敗などを心の中に反芻することをやめよ。

過ちや罪や後悔や愚かしさは、
それはただ幻想の世界のみに存在するのであって、
実在の世界には存在しないのである。

”無い”ものを”有る”と思って後悔することに
時間やエネルギーを使ってはならないのである。

”今”―― あなたの世界は「実相・無限の世界」につながる。
”今”が無限にして久遠であり、
”今”すでに一切が成就しているのである。

”今”無限の力をもって起(た)ち上がれ。

             <感謝合掌 平成30年10月26日 頓首再拝>

《今・此処に天国がある》 - 伝統

2018/11/14 (Wed) 03:45:43


        *『人生の秘訣365章』第10篇(P256) より

神の国はそんなに遠く遥かなる処には存在しないのである。
神の国は今此処にあるのである。

仰いで太陽の輝くのを見よ、
それを単なる物質として見るのは科学者の立場である。
それはそれで良いのであって間違いではないのである。

しかし生きた人間としてそれを見れば、又別の面から太陽を見るのである。
降りそそぐ太陽の光熱のもとに万物が生かされている。

太陽を受けない時と、太陽を受けているときとは樹木の輝きが異なるのである。
それを科学者は単なる“光線の反射”だと解釈するであろう。

しかし、“人格ある人間”が“生きている樹木”を見れば、
単なる“光線の反射”以上のものがあるのである。

詩人は其処に、神の愛を感じ、生命(せいめい)と生命(せいめい)との共感に触れ、
其処に単なる科学的立場以上の「美」を感ずるのである。

詩人と宗教人とは到る処に、神の生命を感じ、神の美を見出し、神の愛に触れる。
そこに天国があるのである。

             <感謝合掌 平成30年11月14日 頓首再拝>

時々刻々、心を練ること - 伝統

2018/11/29 (Thu) 05:00:29


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月29日)より

人間の一生涯の時間を平均35万時間だと計算した人がある。

フランクリンは

「君は自己の生命(せいめい)を愛するか。
然らば、けっして時間を浪費してはならない。
なぜなら時間こそ君の生命(せいめい)が造られている実質であるから」

と言ったということである。

時間の貴重さは、『生命の實相』の生活篇の第一章にも書かれていることであって、
空費されたる時間は再び取り返すことができないのである。

時間を空費する者は時間を殺しつつあるのであり、
時間を殺しつつある者は自分の生命を殺しつつあるのである。

無駄に過ごされる時間に、何が行なわれつつあるかといえば、その間(かん)に
人は健康を失いつつあり、若さを失いつつあり、人格がもっと輝き出るはずのものが
失われつつあり、学識経験からもっと広くなるはずのものが失われつつあり、
掴(つか)めばすばらしい幸運がひらけてくる機会を放棄しつつあるのである。

機会なしと言うことなかれ、心さとき人々にとっては時々刻々が機会であり、
時々刻々の機会に心の練(ね)れていないものは、画期的な大機会が来たときに、
それを迅速に掴むことができないで、あたら、見逃してしまうのである。

これを大音楽家ハイドンの例に見よ、彼は貧しき馭者(ぎょしゃ)の家に生まれ、
ある音楽教師の下(もと)に走り使いをする小僧として雇われたのである。
しかし彼はその間(あいだ)にも時間を無駄にしないで
音楽の知識を吸収するにつとめたのである。

彼の外見的な不幸はなおつづいた。
彼はウィンナ(=ウィーン)で理髪小僧になったのであるが、
その間(あいだ)にも彼は音楽の勉強と、自己改造と機会を捉えることに
時間を空費することはなかった。

彼はある日店に来た市の有力者の靴が埃によごれているのを見て
その靴をただ深切の気持ちで磨いてあげたのが機会となって、
その人と知合いになり、そこに機会が掴まれたのである。

1798年この憐れなる少年の作曲「天地創造」が楽壇に紹介されるや、
永遠に沈まない太陽の光のような華やかな讃嘆の声にとりまかれたのである。

彼はかくて世界的音楽家となり、皇帝、皇后と食事をともにし、
王子たちに取り巻かれる貴族のごとき生活を送るにいたったのであるが、
この貧苦と貧乏のうちで時間を空費することなく作曲された「天地創造」こそは
彼の全生涯八百有余の作曲のうち最も大なるものだと言われているのは
何を語るであろうか。

皇帝と食事をともにする栄誉も世界的大作曲家としての栄誉も
貧しき「無(な)き時間」のうちに自己訓練して得た成果である
ということである。

ローマは一日にして成らず、
最大の栄誉は「無(な)き時間」を活かして
自己訓練するところから得られるのである。

         <感謝合掌 平成30年11月29日 頓首再拝>

「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きる - 伝統

2018/12/08 (Sat) 04:53:11


        *「光明道中記」(12月8日 永遠の今を生きる日)より

 【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、
形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。
太陽の前の星のようなものである。

《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、
ただ権力の増大や、名誉の高揚や、自己の勢力範囲の拡大のために
目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に大きかろうとも、
宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。

では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。

外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、
何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のためにその仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、それは随伴現象に過ぎない。

         <感謝合掌 平成30年12月8日 頓首再拝>

「今」の瞬刻を生きる日 - 伝統

2018/12/18 (Tue) 04:17:11


           *「光明道中記」(12月18日)より

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。
世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】


過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、それは既に無きものなのである。

犬は良人に分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、
自分の生んだ子を、一匹、一匹と他の人に与えられても、
もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。
また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。

犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、
人間ほどに鋭感(デリケート)でないからである。


私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、
痛みも感じ、苦しさも感ずるだけのデリケ-トな心の琴線を有(も)ちながら、

それを《感じ得ない》のではなく、感じ得るにも拘(かかわ)らず、
意識的努力によって、感ずべき波と感じてはならない波とを区別して、
それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

         <感謝合掌 平成30年12月18日 頓首再拝>

《“今”に精神を集中して生きよ》 - 伝統

2019/01/01 (Tue) 04:13:18


         *『人生の秘訣365章』第11篇(P269) より

今、眼の前におかれている仕事又は学問探求に全力を集中せよ。

机上に雑然と色々のものを置いて、あれを一寸見、これをちょいと触れて見、
こちらの本をパラパラと披いて見たりしているうちに時間はたち、
仕事ははかどらないのである。

その仕事を一旦やろうと決意した以上は、それは必ず成就すると信じて、
その仕事の不成功や途中の妨害などに関して不安や恐怖の念を起さず、
一路邁進するがよいのである。

その強固なる意志と決意と勇敢なる前進の迫力とによって、
自然にそれに共鳴する協力者が殖えて集まって来ることになるのである。

前進の速力おそきものに対しては、
人は退屈を感じて其処から去ってしまうであろう。

強固なる決意と成功の自信と目的の崇高さの前に
人類は磁力に吸い寄せられるが如く集まって来るのである。

         <感謝合掌 平成31年1月1日 頓首再拝>

「今」天地一新したのである - 伝統

2019/01/02 (Wed) 04:51:10

       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日)より

すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。

         <感謝合掌 平成31年1月2日 頓首再拝>

今日、生きよ(デール・カーネギー) - 伝統

2019/01/19 (Sat) 04:35:27


      *ブログ「心の糧・感謝の心で」(2018-12-9)より

過去と未来を鉄の扉で閉ざせ、
そして今日という区切りの中で生きよ。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

デール・カーネギー
(1888~1955)
アメリカの社会教育家


悲惨な状況から抜け出すための彼は決断は、こうでした。

まず、嫌な仕事をやめる。
そして、夜間学校の成人クラスでスピーチの方法を教えて生活すること。

そうすれば、昼間に本が読めるし、本も書ける。
つまり、「書くために生活し、生活するために書くこと」でした。

凡人であった彼が成功したのは、自分の長年の願いのために、
日々、弛まぬ努力と研究を続けたことにあります。

彼の著書、『道は開ける』『人を動かす』『話し方教室』『自己を伸ばす』
などを読めば、それがよくわかるのです。

ちなみに、彼が『道は開ける』の第1章で述べていることは、
「現在という時間を懸命に生きよ」ということです。


そのひとつのエピソード。

あの日野原重明先生にも多大な影響を与えたウィリアム・オスラー医師は、
若い頃、ひとりでずいぶん悩んでいた時期があったそうです。

しかし、次の言葉に出合い、迷いがふっきれ、勇気づけられたのです。

「我々の大切な任務は、遠くにあるぼんやりしたものを見ることではない。
はっきりと、手近にあるものを実行することである」(カーライル)

もどってはこない過去を思い出してクヨクヨするのではなく、
来ないかもしれない未来を心配し過ぎて憂鬱になるのではなく、
いまの自分にできる目の前の小さなことをする!

今日、私もそうありたいと願っています。

 ( https://lucky.t-nakai.work/2018/12/09/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%80%81%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%88%EF%BC%88%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%82%AE%E3%83%BC%EF%BC%89/ )

         <感謝合掌 平成31年1月19日 頓首再拝>

今日、今を生きる(フランクリン) - 伝統

2019/01/27 (Sun) 04:08:40

       *Web:今日も良いことがあるように(2018.12.23)より

今日の一日は、
明日の二日分に値する。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

ベンジャミン・フランクリン
(1706~90)
実業家・政治家・科学者・哲学者

「アメリカ建国の父」とも言われるフランクリンは、
巡回図書館や哲学協会などの創設、ストーブや羅針盤の発明、
独立宣言や合衆国憲法制定など、各方面にまたがってし仕事をしていました。

その活躍を支えたのが、「今日」「今」を大切にする心構えでした。

そして、これはすべての成功者に共通する心構えです。

この前、「夢の扉」というテレビ番組に、
ある居酒屋の全国チェーンの社長が登場していました。

自分の夢をしっかり持ち、夢の実現期限を決めるようにと、
社員にも薦めているカリスマ社長です。

番組のなかで、「夢に期限をつけるのはなぜですか」という質問に、
彼はこう答えていました。

「いつまでに実現させるかを決めると、
逆算して、今日何をすべきかが決まるからです」

つまり、今日やるべきことを決めて果たすこと、
これが夢の実現につながると社長さんは考えているのです。

彼はこうして店を全国展開させるなど、
自分の夢を次々と実現させていっています。

夢につながる「今日」「今」を精一杯生きること。
これはすべての成功者に共通している生き方です。

私たちは年の瀬になると、今年一年を振り返るものですね。
とてもよいことだと思います。

ただ、いたずらに「過去」を悔やみ、
来ないかもしれない「明日」を言い訳にするのではなく、

私たちも、過去を反省しつつ感謝し、
未来の夢につながる「今日」「今」を前向きに生きていきましょう。


  ( https://lucky.t-nakai.work/2018/12/23/custom-3/ )

         <感謝合掌 平成31年1月27日 頓首再拝>

”ぐずぐず”するな、今、行動せよ! - 伝統

2019/02/19 (Tue) 05:01:45


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より


時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

               <感謝合掌 平成31年2月19日 頓首再拝>

今、この瞬間を生きる - 伝統

2019/03/08 (Fri) 04:45:05


       *「あなたが「宇宙のパワー」を手に入れる瞬間 永遠に続く幸せの源泉」
        ~ディーパック・チョプラ(著)(P206~207)より抜粋

今、この瞬間を生きて下さい。

超時間的な世界は純粋意識の世界で、そこで各瞬間が自由です。

あなたの全ての苦悩は過去か未来に存在しているため、
この瞬間は自由なのです。
これは、すべての苦悩は
あなたの想像の中に存在しているという意味です。

この瞬間から状況を切り離してみて下さい。
なぜなら瞬間は継続して残っていますが、
状況は過ぎ去るものだからです。

状況は常に変化しますが、各瞬間は完全であり、変化せずに残ります。
この瞬間にあなたの注意を持続させてください。

この瞬間が、あなたが行動するパワーを持っている唯一の瞬間です。

人生はこの瞬間に存在しているのです。

だから、この瞬間を生きて下さい。

この瞬間に行動して下さい。

この瞬間に意図を固めて下さい。

この瞬間に心配を手放して下さい。

この瞬間に留まって下さい。

これが生きることにフォーカスした、今この瞬間の意識です。

生きることにフォーカスした、今この瞬間の意識を実践することに
よって、あなたはこの瞬間を美しい完璧な場面にすることができます。

「今」が永遠への扉で、あなたがこの瞬間を生きるとき、
あなたは源に立脚して生きているのです。

             <感謝合掌 平成31年3月8日 頓首再拝>

過去・未来を忘れ、今を喜べ - 伝統

2019/03/17 (Sun) 04:53:10


        *『幸福を招く365章』第3項(P57) より
          ~《巧みな忘却は人生を洗う石鹸なり》

過去の事を思い煩うな、
未来のことを心配するな。

思い煩いと心配とはあなたの神経を病的に刺激し、
つい生理的不調和を惹起(ひきおこ)し
或いは抵抗力を弱めて病気に至らしめるのである。

過去は過ぎ去ったのである。思い煩うは愚かなことである。
未来はまだ来たらないのである。心配するのは愚かなことである。

結局、悩む者は、過去を今に持ち来し、未来を今に持ち来し、
今の幸福を想像の中で汚してしまうのであるから、
そんな愚かな事はしないが好い。

「今」を喜べ。
過去を忘れよ。
未来を忘れよ。

この忘却はあなたの人生を清める石鹸の働きをするのである。

             <感謝合掌 平成31年3月17日 頓首再拝>

「今」に集中し、小さな一歩を踏み出すこと - 伝統

2019/03/28 (Thu) 04:02:37


       *『「言い訳」をやめるといいことがたくさん起こる』 
         第2章 より ウエイン・W・ダイアー:著 

あなたには「今」しかない。
頭に浮かぶすべての考えは今、起こっている。

そして変化が起こるのも、
何か、あるいは誰かが気づきを与えてくれる「今、この瞬間」である。

心理学者のマレー・バンクス博士は、
ある女性との間で交わした短いやりとりを紹介している。

彼女は、卒業時には年をとりすぎているという理由で、
大学へ行く夢をあきらめようとしていた。

「今からはじめて、その学位をとるのに五年かかったとしたら、
あなたはいくつになりますか」

「四十九歳です」

「では、大学へ行かなかったとしたら、五年後にあなたはいくつになるのですか」

「四十九歳です」

女性は戸惑いながら答えた・・・・・自分の言い訳に自分で気づいたようだ。
 
何かをするのに、長い時間がかかるという証拠はどこにもない。

「長い時間」というのは幻想であり、ただ、「今」という瞬間があるだけである。

   ( http://maemuki-blog.com/?p=127 )

               <感謝合掌 平成31年3月28日 頓首再拝>

『今』をしっかり生きてますか? - 伝統

2019/04/03 (Wed) 02:39:29


       *Web:充実人生ラブ(2019年1月12日)より抜粋

過去に囚われず、将来に不安を抱かず今この時を精一杯生きて行く、
それが本当の意味での『今』を生きるということではないかと思うのです。


《過去に起こったことに囚われない。》

”生命の実相哲学”を提唱された谷口雅春先生が、
次のようなことを述べておられます。



「済んだ事の中に生活せず、『今』の中に生活せよ。

『今』は常に生きている。

『今』の中にはあらゆるものが輝いている。

『今』は常に新しく、『今』は常に喜びに満ちている。

過去にどんなに悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。

『今』天地は一新したのである。

もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹きさらされたことを嘆かないで、
『今』梅の花は喜びに満たされて咲いている。

梅の花よりも強く尊くたくましきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人間である。」


誰もが一度はそのような辛い悲しい出来事を
長い人生の中で経験するのだろうと思います。

そういった中、その辛い悲しい出来事にいつまでも囚われないで
生きて行くヒントが上の言葉にはあるように思います。


1.それは、今の生活の中に喜びがある、ということ。


過去の悲しい出来事に心がとらえられ、それのみを見つめているから、
今眼前にある喜びに盲目になっている。

探そうと思えばいろんな喜びが身の周りにはころがっています。

普段当たり前のように思っていることですが、ちょっと周りを見渡すと、
いろんなありがたい喜ぶべきことに囲まれていることに気づきます。


いつもそこに眼前にあるから、当たり前の光景になっていますが、
全てが吾々に贈られている有難い”ギフト”なんじゃないでしょうか。


2.もうひとつは、辛い経験を経て成長するということです。

木は成長するごに年輪を刻んでゆきます。

過去の成長の記録といってもいいでしょう。

吾々人間も同じことです。

辛い出来事を経ているまさに今、
大きな年輪を刻んでいるのです、成長しているのです。

立ち上がることさえできれば、辛い悲しい出来事は、
自分をより一層愛深くたくましい人間にするための肥やしとなってくれます。

止まない雨はないし、明けない夜もありません。

今ある喜びに目をむけて、自分を信じて歩んで行きましょう。

その時あなたは、きっと過去よりももっと大きな自分に成長しているのです。


《将来に不安を抱かない。》

    起こってもいないことを不安に思ったり、
    取り越し苦労したりするのは”ヒマ”なんです。

    無我夢中で生きていたら、そんなヒマはないはずです。

上の文章は、片岡鶴太郎さんが近著「心の中に「静」をもつ」、
P183で述べられている言葉です。

かなり辛辣な文章ですね。

悩んでいる人は、”ヒマ”なんだ・・・。



この”ヒマ”は、”無我夢中”の欠如だと鶴太郎さんは言われています。

今を一生懸命に生きていれば、心に不安や恐れが入り込む余地などはない。

なぜなら将来に不安があれば、
それに対応する処置を考えて実行に移せばいいだけの話ですから。

それを考えず、実行に移さないでおいて、
不安だ、不安だと嘆いておいては益々不安になるばかりです。

その事を鶴太郎さんは”ヒマ”と表現しているのですね。

熟考して行動を起こしたら、後は結果を待つ、
そしてそれで失敗したらどこがまずかったかを反省して再トライする。

それだけのこと、何も不安に思うことはないですよ、と鶴太郎さんは言っている。


《今を生きる―まとめ。》

1. 日々の生活の中に喜びはたくさん転がっている。
  その喜びに目を向けよう。

2.過去の辛い出来事を経て吾々は成長する。
  自分にその苦難を克服する力はあるのだ。

3.将来に不安があるなら、対処を講ずる行動を起こそう。
  ”ヒマ”な状態からは脱却しよう。

4.取り越し苦労は絶対にしない。
  自分の力を信じて、精一杯生きていれば、
  大いなる力が必ず後押ししてくれる。

  (http://livewelllaboratory.com/2019/01/12/life-live-now/ )

             <感謝合掌 平成31年4月3日 頓首再拝>

《無常の中に展開する久遠不滅 》 - 伝統

2019/04/21 (Sun) 04:30:46


       *谷口雅春著『人生の秘訣365章』第1篇(P42) より

変化を恐れてはならないのである。

新しき年が何故よろこばれ、祝われるかというと
変化の《けじめ》をハッキリなし得(う)る機会であるからである。

實相無限内容の世界が、現象界という時間空間の映写幕上に
実写されるためには時間空間上に“変化の永遠の持続”という形を
とるほかはないのである。

有限のものが無限を表現するためには
時間の流れの上に無限の変化を継続しつつ、
映像全体としてその無限を展開するのである。

今、自分の生命(せいめい)の時々刻々の変化の上に
“無限生命(せいめい)”が生きて展開しつつあることを知るがよい。

             <感謝合掌 平成31年4月21日 頓首再拝>

【時間にはお金以上の価値がある】 - 伝統

2019/05/10 (Fri) 04:20:58


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年03月30日)より

   (江原啓之氏の心に響く言葉より…)

   たましいにおいて、時間はお金以上の価値があることを知っていますか?

   いのちは、お金では買えません。

   それは残された時間を見つめて生きている人には、
   痛いほど理解できていると思います。


   だからこそ、時間は大切に扱わなければならないのです。

   人との待ち合わせでさえも、相手の現世での時間を費やしてしまうと考えれば、
   無闇に遅れることもなくなります。


   また、いつも人目を気にして悩んだり、くよくよすることも同然です。

   取返しのつかないことや、無駄なことに心を煩わせるだけ、
   人生を無駄にしているのです。

   ならば、「生き金、死に金」というお金を有効に使う考え以上に、
   つねに時間に対しても「生き時間、死に時間」という考えを持つことが大切です。


   もちろん、休養も重要です。

   それも、何となくダラダラと無計画に一日を過ごすのではなく、
   「今日は何もしないで、身体を休ませる」と決めて、
   有効に時間を費やせば、それは「生き時間」となるのです。

   このメッセージは、“いのちの時間”を見つめたときに、よく理解できることでしょう。

   しかし、その前に気づくべきです。

   すると、幸せがより実感できます。


   《命は有限。「限りがある」と理解できれば、
    時間を1分1秒も無駄にはできなくなる。
    また、遅刻したときは、自分の時間だけではなく、
    相手の時間をも無駄にしてしまったのだと理解すること》

         <『あなたにメッセージが届いています』マガジンハウス>

              ・・・

『明日死ぬかのように生きよ。 永遠に生きるかのように学べ』

という、マハトマ・ガンジーの言葉がある。

あたかも、明日死ぬかもしれないと思って、今日、この一瞬を大切に生きる。

そして、たとえ100歳を過ぎたとしても、永遠に生きるかのように、今日、学び続けること。


この一瞬一瞬は、もう二度と返ってこない大切な時間、と頭ではわかっているが、
多くの人はそれをムダに使ってしまう。

それは、まだ、何年も生き続けるに決まっている、と漠然と思っているからだ。


遅刻を繰り返す人は、人の時間を奪っているという自覚がない。

そして、待たされた人の気持ちがわからない。


だが、何時までに行かなければ大事な人の命が危険にさらされるとか、
10億円の契約がとれなくなってしまう、ということになれば、たいていの人は遅刻しない。

つまり、「この程度のことなら」、「この人なら」、「この会合なら」
遅れてもいいと思っている。

ナメているのだ。

時間をナメているということは、人生をナメているということ。

人生をナメたら、いつか大きなしっぺがえしがくる。


「時間にはお金以上の価値がある」

自分の時間はもちろんのこと、他人の時間も大切にする人でありたい。

           <感謝合掌 令和元年5月10日 頓首再拝>

人生は短い! 悩む前に動こう - 伝統

2019/05/31 (Fri) 03:35:50


       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P37~40)より

人生を思いどおりに生きる秘訣は、
「良い気の貯金」と「不安の気のリセット」にかかっています。

この善悪2種類の「気」を相殺した残りが、
今と未来の自分を構成していきます。


お店で品物を買うときは、お金が必要です。
これと同様に、「仕事に就きたい」「病気を治したい」などの
個人の望みも、実現させるためのエネルギーが必要なのです。

善悪2種類の「気」を相殺した残りが、
自分の「実現力」を表すエネルギーです。

この世で苦しみ人の大半は、気の総和がマイナスの状態です。
これでは自分の思いを「出現」させることはできないでしょう。

自分が持つ不安な気が、良い悪いの気を駆逐してしまい、
希望を叶える「出現力」をなくしてしまうのです。

まさに、気が漏電するのです。
この気の漏電こそが、
人生を中途半端な消化試合にさせてしまう原因となります。


(中略~ある営業マンの苦しみの例)

すべての原因は、何時間もの間、
不安の気による想像に苦しめられていることにあります。

これを私は「心の漏電」と呼んでいます。


では、どうすれば良いのでしょうか?

答えは、目の前のことに集中すれば良いのです。
24時間の集中です。

次に営業会議があれば、正直にすべてをさらけ出し、
真剣に思いっきり怒られましょう。

隠すから心配が増えるのです。
上司も通過してきた道です。
わかっているから怒っているのです。

仕事中は懸命に集中し、悩む前に動きましょう。
そして家庭に帰ったならば、家族の話に耳を傾け、
家族の一員として全力を注ぎましょう。

このとき、仕事の悩みを中途半端に家庭に持ち込まないこと。
家のことに集中していると、逆に仕事の解決案が浮かぶこともあります。
違う刺激が、気づきを呼ぶのです。

(中略~求職活動の例)

見当違いの神頼みをするよりも、
自分で動いたほうが、断然未来が開けます。

生あるかぎり、チャンスはあります。

           <感謝合掌 令和元年5月31日 頓首再拝>

前後を断ち切る - 伝統

2019/06/21 (Fri) 04:06:09


      *Web:かんながら(2019年06月03日)より

昨日、向禅師が天河神社の講話の中で話していたこと。

「人生の全ては、この一呼吸にあり」

まさにいま呼吸をしている、これだけが真実。

次の呼吸のことは分からない。

いまのこの呼吸だけがリアルな人生であり、
これ以外はすべて思考が作りだした仮の世界の話だ。

前後裁断

昨日と明日を断ち切って、今日一日を生きる。

一瞬前と一瞬後を断ち切って、いまこの瞬間を生きる。

あーじゃ、こーじゃの考えにハマることなく、
いまこの一呼吸を生きたとしたら、
その時、問題はどこにあるだろう。


いまを生きよう。

いまを強烈に生きよう。


強烈に生きられないのは、性格でも年齢でも環境でもない。
単に、いつもエネルギーがダダ漏れしているから余力が残されていないだけ。
あーじゃ、こーじゃの思考こそが、エネルギーを漏らしている張本人だ。

このような生き方を
有漏路(うろじ)と言う。


一方、この一呼吸を生きる生き方を
無漏路(むろじ)と言う。

この一呼吸に全身全霊が投入されているのでエネルギーの漏れがない。


前後を断ち切る


だからいざという瞬間が来たときは、
いつだって対応するだけの力を温存している。

それを知っているから、
先のことをいたずらに心配したり不安がることもない。

不安や心配は、あーじゃこーじゃの思いの中にしかないのだから、
有漏路から無漏路にシフトした時、「何でも来い」の心境になれるのだ。


一休禅師はこのことをそのまま歌に残している。

そしてこの歌が、一休という名前の由来だと言われている。


  有漏路より無漏路に帰る

  一休み

  雨降らば降れ 風吹かば吹け


今日一日、考えの世界に暮らすのは止めよう。

無漏路の世界で一休みだ。


「人生の全ては、この一呼吸にあり」

これによって、後悔(過去)も心配(未来)も一瞬にして消えてしまう。

理屈はいらない。

まさに、この一呼吸を生きるのみ。

知識としてでなく実践が大切だ。

このような生き方に馴染んでくれば、生きることは容易くなってくる。

何ごとも習慣から。

その習慣を修業と呼ぶ。

こういう修業は楽しいし、人生がスムーズになってくるからやりがいがある。

今日一日、このことを何回思い出せるだろうか。

「人生の全ては、この一呼吸にあり」

     ( https://abetoshiro.ti-da.net/e11127366.html )

           <感謝合掌 令和元年6月21日 頓首再拝>

天国は「今」を生かすにある - 伝統

2019/06/26 (Wed) 05:05:01


           *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。
”Every day is best day in the year ”(毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。
天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。

鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、
魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。
他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

        <感謝合掌 令和元年6月26日 頓首再拝>

今始める人だけが本当に事物を始めうる - 伝統

2019/06/29 (Sat) 04:48:59


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、いつの間にか纏まった感想集ができているのである。
気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。
明日から、または来年正月から始めようと思っているような人は結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 
との自覚で、現象的には余裕のない中から、気がついて即刻始めたのが『生長の家』である。
日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、何一つ大事ができないであろう。

           <感謝合掌 令和元年6月29日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2019/07/01 (Mon) 04:52:57


         *「光明法語」(7月1日)より

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

           <感謝合掌 令和元年7月1日 頓首再拝>

“今”の時点に、“今”の位置にある物事に全力を尽くす - 伝統

2019/07/20 (Sat) 04:28:16


       *『人生の秘訣365章』第11篇(P270) より

《あなたの使命は何であるか》

「自分の使命が何かわからぬ」などと言うこと勿れ。

今あなたが置かれている時点に於けるその位置に於いて
あなたの眼前(めのまえ)にあるものを解決することが、
今あなたに与えられている使命なのである。

生涯を通じて一貫して与えられた使命というようなものは、
確かに各人にあるのであるけれども、それは山頂を眺めるようなものであって、
その山頂まで登って行く一歩一歩を健実に歩み行くことによってのみ
その使命の最高峰に到達することができるのである。

そして、その使命の最高峰に到達するまでは、
“今”の時点に、“今”の位置にある物事に全力を尽くす事が
今与えられている使命である。

           <感謝合掌 令和元年7月20日 頓首再拝>

死(人生のゴール)をみつめることで、今を大切に生きる - 伝統

2019/08/08 (Thu) 04:40:54


死を見つめ前向きに生きる『天使のラストメッセージ』

       *Web:今日も良いことがあるように(2019/01/13)より

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

僕は、人生いつどこで倒れても、
倒れた時に前を向いていたいと思っている。
そんなふうに生きていたいと
いつも考えているんだ・・・

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

松原ななみ著『天使のラストメッセージ』から


松原ななみ著『天使のラストメッセージ』という本を読みました。

涙がでるくらい感動しました。
そして、どうしてもお伝えしたくなりました。

『天使のラストメッセージ』は、人の生と死の意味を問う、
優しい詩とエッセイで構成された美しい本です。


著者の松原さんは、商社勤務を経て、ナースとなり、医療現場で
たくさんの患者さんの死と直面してこられた方です。

人の死は、悲しく厳粛なもの、死を扱う話は縁起でもないと、
とかく日本では敬遠されがちです。

でも、この本には暗さのなかに光が、悲しみの先に喜びが感じられるのです。


詩やエッセイの全編には、著者の患者さんへのあたたかな思い、感謝、
さらには患者さんとの天国での再会への期待感もつづられています。


天国へ旅立った患者さんが残してくれた言葉や思い出は、
彼女にとっては「天使からのメッセージ」であり、
ご自身の「心の糧」として、いまでも彼女のなかに生きているのです。


さて、冒頭にご紹介した言葉は、かつて松原さんが
商社勤務をされていたときに、同僚の男性から聞いたものです。

北陸の工場からその商社に出向してきた彼を、
松原さんは兄のように慕っていました。

殺伐としたフロアのなかで自分よりずっと若い商社マンに
厳しい言い方をされても、まったく動じないで、
黙々と誠実に仕事をする人だったそうです。

あるとき松原さんは、
その人に、どうしてあんな状況で笑っていられるのか、
どうして腹が立たないのか、と問い詰めたことがありました。

北陸なまりの話し方の、おだやかな彼は、こう答えたそうです。

「僕は、人生いつどこで倒れても、倒れた時に前を向いていたいと思っている。
そんなふうに生きていたいといつも考えているんだ・・・」


後に、彼は故郷に帰り、体の悪いお母さんのために癒しの水を取りに行く
途中、交通事故に巻き込まれて亡くなります。


「あれから私は多くの人の最期に立ち会う中で、
彼がいつも人生の終わりを意識していた意味を少し理解するようになりました。

やがてくる自分の死を見つめることは、
つまり今をしっかり生きるということです。

彼はいつ自分に『天国への帰還命令』が下っても
後悔のない生き方を求め、文字通りそう生きたのでした」


『天使のラストメッセージ』を読む限り、彼のこういう生き方を
著者自身も受け継ぎ、心がけていらっしゃるのは、間違いがありません。


死、つまり人生のゴールをみつめることで、今を大切に生きること。

いつ死んでも、後悔も未練もない生き方をすること。

皆さんにとっても、そんな生き方への決意を促され、
励まされる機会になればと願ってご紹介しました。


     いつ死んでも、後悔も未練もない生き方をしよう。


出典:松原ななみ著『天使のラストメッセージ』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/01/13/book-2/ )

           <感謝合掌 令和元年8月8日 頓首再拝>

《今ここに勝利がある》 - 伝統

2019/08/21 (Wed) 03:39:23


       *「眞理」第9巻生活篇第4章(P86~87) より

「今」がすべてである。

過去も未来も考えることなしに、
「今」ここに「自分」に於(お)いて神が生きていると観ぜよ。

「今」が私の日であり、「今」が神の生命の出発である。
「今」ここに神が生き、「今」ここに勝利がある。
今日が勝利の日であり、今日が幸福の日である。

今、神はわれと偕(とも)にある。
何を憂(うれ)えんや。
今、神の智慧はわが内に働き、
今、神は吾(われ)を導き給(たま)うているのである。

「昔はこうであった」とあなたが言うようになったとき、
あなたの生命(せいめい)は前方に向わずに後方に向う。
それは進歩の停止であり、老衰の徴候である。

「今」を祝福せよ。
「今」が幸福の時である。

「今」ここに吾(わ)が内に生きる神を自覚して、
神と偕(とも)なる自己を祝福せよ。
     
「今」万物は新たである。
「今」あなたは幸福である。
「今」あなたは神と偕(とも)にある。

           <感謝合掌 令和元年8月21日 頓首再拝>

《日々是好日である》 - 伝統

2019/09/02 (Mon) 04:58:16


         *「眞理」第9巻生活篇第4章(P87) より

あなたの健康が衰えたとか、病気があらわれたとか云うときには、
”「今」わたしは神の生命(せいめい)を無限に受けているのである。
今日(きょう)直ちに病気は治癒し、無限の精力はこんこんと湧き出でる”
―― と念ぜよ。

断々乎として神より与えられたる完全の権利を主張せよ。

「明日のことは思い煩うな。明日は明日にて足れり」
「今」が新しき生命(いのち)である。
無限の力が「今」この一点に凝縮してあらわれる。

「今」が機会である。
新しき生命(せいめい)と、新しき力との機会である。

日々是好日である。

「今」与えられている。
神からの贈り物(無限の生命力と無限の智慧と)を
完全に受けていることを承認せよ。

みずからその贈り物を受けていることをみとめることを拒むな。
与えられていても、認めることがなければ
それは与えられていないのである。

素直にあなたが神の生命(せいめい)を受けていることを承認せよ。

           <感謝合掌 令和元年9月2日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2019/09/17 (Tue) 04:52:16


        *『真理』第二巻より

あなたの前に現れて来る時々刻々を、
「今」よりほかに為すべき時はないと信じて
「今」を生かして使う者は永遠に楽しく生きることが出来るのです。

「今」の時を、歓びと、愛と、仕事と勇気をもって生きることです。

勇気を持て、愛を持て、歓びを持て、而して今為すべきことを
明日に延ばさず、今それを行うことであるのです。

多くの人は「今」なすべきことを
次の時に、次の日に、次の月に荏苒(じんぜん)それを
延ばしてしますことによって、
時間がない時間がないとつぶやいている人が多いのです。

実は時間がないのではないのであって、時間を生かさないからです。

今を悔いなく生きよ。

過去について思い煩うこと勿れ、未来について思い煩うことなかれ。
刻々瞬々が「今」のみを生きるとき無限に悦びに満たされた
毎日となるのである。

    (http://michie-h.jugem.jp/?eid=959 より転写)

           <感謝合掌 令和元年9月17日 頓首再拝>

人生とは、「いま」を生きること - 伝統

2019/09/26 (Thu) 03:44:13


        *Web:かんながら (2019年09月16日)より

30歳のころに書いたショートストーリーがあります。

初めての気づきが訪れた直後のことです。

        ・・・・・・・

ある男のもとに死神が訪れました。

「お前の命は今日までだ。
最後にやりたいことはあるか?」

すると男は言いました

「そりゃひどい。だって僕はまだ30歳ですよ。
まだ十分に生きていない。
十分に生きてから迎えに来てもらうわけにはいきませんか」


死神は男の願いを受け入れました。

「よろしい。あとどれくらいの歳月が必要か?」

「せめて70歳までは生かしてくださいよ。
人並みの人生を送るにはそれくらいの時間は必要ですから」


そして瞬く間に40年が過ぎました。

「迎えに来たぞ」

すると男は言いました。

「え?もうですか?
40年はもっと長いかと思った。
だって僕はまだ十分に生きてないんですよ。

上手くいくこともあったけど、上手くいかないこともあって、
人生のやりくりに翻弄されていたらあっという間に時間が経ってしまいました。

今度の事業計画は完璧です。
せめてこの仕事が成功するまで待ってください。
大きなプロジェクトですからね。

そうですね、あと20年くらい」


死神はまたしても受け入れました。

そして次の20年間もあっという間に過ぎ去りました。

男は齢90歳。

もういつ死んでもおかしくない歳です。

「さあ時間だ。準備はいいか」

すると男はシワだらけの顔で言いました。

「まだやらなきゃいけないことがあるんですよ。
孫が離婚して、ひ孫の生活の面倒を見なきゃいけない。
どうかこの子が成人するまで待ってください」

こんなことが何回も繰り返されて、男はすでに300歳に達していました。

死神は言いました

「もうこれ以上は待てない。お前には特別措置をし過ぎたようだ」

すると男は言いました。

「もう結構です。
あなたが来るのを待ってました。

私はいつも、いつか問題を無くして幸せになるんだと言いながら生きてきた。
それなのにいつも何かに巻き込まれて、同じことの繰り返しでした。

私の目はいつも未来を向いていた。
いつか、いつかって。

でもいまやっと気が付きました。

人生とは今だと。

いつも今ならば、いつだって同じこと。
さあ、もうこんな催眠トリックみたいな世界は十分です。

私は十分生きました。
十分に時間を無駄にしました」

          ・・・

これを書いてから30余年が過ぎました。

そしていま、この物語は正しかったと思っています。
このまま何十年生きても同じだということも分かります。

そして同時に、「いまここ」にある無上の存在も知っています。
この経験だけが人生の宝であり、それを瞑想という形で手にしています。

実際に死神が迎えに来るまでは、
このまま夢を見させてもらうことにしますが、
もしいま迎えが来ても

「ああそうですか」

と言える自分がいます。


だからと言って人生を儚んでいるわけではなく、
絶望しているわけでもありません。

こんなに恵まれた人生はありませんでした。


そんな僕が言うのはおかしいですが、
やることなすことが失敗の連続で、
何も手にできなかった人生だとしても、実は同じことです。


完全な「いまここ」にあっては、みんな平等で同じだから。


そして人生とは、「いま」を生きること。

   ( https://abetoshiro.ti-da.net/e11265501.html )

           <感謝合掌 令和元年9月26日 頓首再拝>

時間を無駄にしたくない - 伝統

2019/10/09 (Wed) 04:07:31


        *Web:今日も良いことがあるように(2019/07/09)より抜粋

   あすがある
   あさってがあると考えている間は
   なんにもありはしない

   かんじんの
   「今」さえないんだから     東井義雄


校長だった東井義雄先生は、
100人いる卒業生一人ひとりに手書きの色紙を贈っていました。

皆、違う言葉が書かれていました。

これはすごいことです。簡単にできることではありません。


それぞれの子どもをよく見て、
その個性に応じて、その子に合う言葉を贈っていたのです。


冒頭の言葉は、その40年後に、
『東井義雄の言葉 (心の花がひらくとき) 』を書くことになる
西村徹くんへの言葉です。


ぼんやりとした小学生だった西村徹くんは、
当時、その意味がよくわからなったそうです。

しかも、もらったことさえも忘れる始末。

しかし、教師になり、いくつかの困難に出会い、もがいている時に、
偶然にタンスの中からこの色紙が出てきて、恩師の言葉と再会します。

今の自分の姿を言い当てられているようで驚いたそうです。


色紙の言葉が「人生は二度ないのだよ。あなたは、どう生きるのだ」
という問いに思えた時、

「私の二度目の誕生とあり、教師という仕事に対し、
さらに真剣に取り組み始める契機となりました」

とあります。


恩師の言葉が、長い年月を経て西村先生を鼓舞し、導いていくことになったのです。

いま西村先生も、恩師にならって、卒業生に色紙を贈っています。

●真面目さがゆっくり咲かせる 大輪の花

●長い冬を 文句ひとつ 言わず ぐちひとつ こぼさず
 春には 満開の花を 咲かせる さくら

師の言葉が、教え子の心に「今」生きて受け継がれているのだと思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

【出典】西村徹(著)『東井義雄の言葉 (心の花がひらくとき) 』
東井先生の言葉と西村先生の「さくら通信」が合わさった素晴らしい本です。

   ( https://lucky.t-nakai.work/2019/07/09/word-76/  )

           <感謝合掌 令和元年10月9日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2019/10/23 (Wed) 04:29:42


        *Web:ロクロクのブログ(2014/9/4)より

――あなたの前にあらわれて来る時々刻々を、
「今」よりほかに為すべき時はないと信じて「今」を生かして使う者は
永遠に楽しく生きることが出来るのです。

「今」の時を、歓びと、愛と、仕事と勇気をもって生きることです。
勇気を持て、愛を持て、歓びをもて、而して今為すべきことをを明日に延ばさず、
今それを行う事であるのです。 

多くの人は「今」為すべきことを、
次の時に、次の日に、次の月にと荏苒(じんぜん)
それを延ばしてしまうことによって、
時間がない時間がないとつぶやいている人が多いのです。

実は時間がないのではないのではあって、時間を生かさないからです。 
今を悔いなくいきよ。過去について思い煩うこと勿れ、
未来について思い煩う事なかれ。

刻々瞬々が「今」のみを生きる時無限に悦びに満たされた毎日となるのである。

https://blogs.yahoo.co.jp/ienobu283/11074862.html

           <感謝合掌 令和元年10月23日 頓首再拝>

「今」を生きるのが幸福の道 - 伝統

2019/11/04 (Mon) 04:43:50


        *Web:ロクロクのブログ(2014/9/4)より

――あなたの内に宿っている力を「今」に集中したときのみ、
最大の能率を発揮することが出来るのです。
あなたの内に宿っている力はあなたの想念の向かうところに
振り向けられるのでありますから、

過去や未来に「心」を集中しているときには、
力は過去や未来に分散されてしまって
それだけ「今」に集中する力が足りないことになります。

従って成績はあがらず、碌(ろく)な仕事は出来ないと云うことになります。 
いまに生命を集中するとき「今」の一点は「久遠無限」に通ずるが故に
無限の力が湧き出でて来ることになるのです。

過去のすべての不快な記憶を拭い去りなさい。
過去は既に過ぎ去ったのです。
未来の不安を捨てなさい。

すべてのものは実際いに来てみると「死」でさえも左程のものではないのです。
「今」を生きよ。

https://blogs.yahoo.co.jp/ienobu283/11074862.html

           <感謝合掌 令和元年11月4日 頓首再拝>

【今日、ただ今、この刹那を生きる】 - 伝統

2019/12/03 (Tue) 04:37:43


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019.11.25)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   《「過去」を悔やむことはなく、「未来」を心配することもない。
    ただ一つ考えているのは「念を入れて生きる」ということ》


   「念」という字を分解すると、「今」の「心」と書いてあります。

   「念」を入れるということの意味は、と
   てもわかりやすく文字に書いてあるのです。

   「念」とは「今」の「心」。

   「今」を大事にする「心」。

   「今、目の前にいる人を大事にし、今、目の前にあることを大事にすること」


   お釈迦さまが、弟子にこう聞かれました。

   「お師匠さまは神通力にすぐれ、人の前世や来世が見えるとのことですが、
    私の前世はどんなものだったのでしょうか」

   お釈迦さまはこう答えたそうです。

   「そんなことは考えなくてよいから、今日(こんにち)、ただ今、
    この刹那(せつな)を大事にして生きなさい」


   弟子はしばらく黙っていましたが、再び聞きました。

   「私の来世はどんなものでしょうか」

   普通の人なら「わからずや」と呼ぶところでしょうが、
   お釈迦さまはやはり静かに、こう言いました。

   「そんなことは考えなくてよいから、
    今日、ただ今、この刹那を大事にして生きなさい」


   お釈迦さまが使った「この刹那」というのは、今の一瞬一瞬のこと。

   現代では「刹那主義」と言えば
   「今さえよければあとはどうなってもいいと思うこと」との意味ですが、
   本来の「刹那主義」とは一瞬一瞬を大事にして生きる思想、考え方のことでした。


   私も時々人から聞かれます。

   「私の前世は何だったのでしょう」

   そのたびにお釈迦さまの答えを引用していますが、
   時にこんな回答もつけ加えます。


   「仮に前世が殺人者で、あるいは強盗で、
    あるいは詐欺師であったとしましょうか。
    では、今生でのテーマは何だと思いますか?」

   「わかりません」

   「今生では、ほかの存在、これは人だけでなく動植物全ての存在ですが、
    その存在たちから喜ばれる存在になることではないでしょうか」

   「なるほど」

   「では、前世で、多くの存在たちから喜ばれる存在だったとしましょう。
    今生でのテーマは何でしょうね」

   「……」

   「今生でのテーマは、もっと喜ばれる存在になりなさい、
    ということではないでしょうか。そう考えたら、
    前世が何者であったかはどうでもよいことになる。

    今生でのテーマは、いかに多くの存在物から喜ばれる人になるか、
    ということですよね」


   「私のこの考えは、「念」という言葉から生まれ出てきたものです。

   「念」という言葉は、「念じるとそうなる」
   「そうならないのは念じ方が足りないからだ」というように、
   「自分の思い通りに未来を作る」「未来を呼び寄せる」
   という意味に使われてきました。

   しかし、「念」ということの本当の意味としては、
   そんな「未来的」な意味は全く含まれていないのです。

   「念」とは「今」の「心」、としか書いてないのですから。


   そして、仮に、目の前の人を大事にし、
   目の前のことを一つ一つ大事に、やっていったとします。

   その「念」を入れた生き方は“未来”につながっていくでしょう。

   「今」が独立して存在しているわけではない。

   「今」の積み重ねが“未来”を作っているのです。

          <『生きる大事・死ぬ大事』イースト・プレス>

              ・・・

「人生二度なし」と言ったのは、哲学者の森信三先生。

今日やるべきことを明日に延ばさない、ということであり、
今日(こんにち)ただ今しかないのだ、という気持ちで生きること。


アメリカの9.11の同時多発テロで、有名になった、
「最後だとわかっていたなら」という詩がある。

『あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら

わたしはあなたを抱きしめてキスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしはその一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう』


「今生でのテーマは、多くの存在から喜ばれるように生きること」

『一度だけの人生だ。だから今この時だけを考えろ。
過去は及ばず、未来は知れず』(中村天風)


二度とない、今日、ただ今、この刹那を、一所懸命に生きていきたい。


           <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>

「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きる - 伝統

2019/12/08 (Sun) 04:35:14


      *「光明道中記」(12月8日《永遠の今を生きる日》)より

 【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。
太陽の前の星のようなものである。

《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、ただ権力の増大や、名誉の高揚や、
自己の勢力範囲の拡大のために目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に
大きかろうとも、宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。

では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。
外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のためにその仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、それは随伴現象に過ぎない。

           <感謝合掌 令和元年12月8日 頓首再拝>

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