伝統板・第二

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”善”のみ実在する ③ - 伝統

2018/02/17 (Sat) 03:18:01


    *伝統板・第二「”善”のみ実在する②」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6932920


《自己自身を善たらしめよ》

           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「”善”のみ実在する (6016)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1126 

(2)伝統板・第二「”善”のみ実在する①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6495764

            <感謝合掌 平成30年2月17日 頓首再拝>

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である - 伝統

2018/02/19 (Mon) 03:26:32


           *「光明道中記」(2月19日 無礙無縛の日)より 

【善にでも引っかると悪になる。
心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し 病気を引起す。
                     (『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、
古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。

そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき
多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

            <感謝合掌 平成30年2月19日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2018/02/24 (Sat) 03:55:21


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、
自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。
三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 平成30年2月24日 頓首再拝>

善き事のみを創造する - 伝統

2018/03/11 (Sun) 04:31:57


       *「希望を叶える365章」(P177)より

今日(きょう)、あなたは自己が神の子であり、神に愛され、神に護られ、
神に導かれ、神に恵まれていることをしっかり自覚したのである。
だからあなたの心は平和であり、安定している。

あなたは自分の前に困難が横たわっているなどと云うことを決して考えない。 
何故ならあなたは神の子であり、神に護られ、神の無限の力は
どこまでもあなたに味方しておるのであり、神より大なる力はないから、
どんな困難でも自由に切りひらき得ると云うことを知ったからである。

あなたは、神が一切のものを「心で想う」ことによって創造(つく)ったのであるから、
“神の子”たるあなたも「心で想う」ことによって一切のものを造ることができる
と云うことを知ったから、決して、悪や不完全や不幸や病気や災難などを
心に思うことをしないのである。

そして善き事、好ましきこと、愛すべき事、悦ばしき事、人に与える事、
与える力があること、与える悦びの事などを「心に思う」のである。

やがて、その想った通りのことがあなたの運命となるのである。

            <感謝合掌 平成30年3月11日 頓首再拝>

善きもののみを触れるようにしなければならない - 伝統

2018/03/18 (Sun) 03:45:00


      *「光明道中記」(3月18日 環境も大切である。環境を選ぶ日)より抜粋

【欠点と自分と四つに組んでは欠点は直らぬ。(『生命の實相』第九巻)】


吾々の内部には全てのものを包蔵しているが、受動状態にある限りに於て、
外部から触発されたものだけが、内部から外部へと発現してくるのである。
即ち彼に触れることによって引き出されたものだけが引き出される。

吾々に赤い色の波動が触れれば、吾々の内部から赤の波動が引き出されて、
初めて其処に「赤」の感覚を生ずるのである。

この意味に於て、吾々に触れる物は環境にせよ、愛情にせよ、食物にせよ、
いずれも善きもののみを触れるようにしなければならない。

孟母三遷の故事もこの意味に於て価値があるのである。

            <感謝合掌 平成30年3月18日 頓首再拝>

神は善であるから、神の本性を受け嗣ぐ一切のものは、善である - 伝統

2018/04/10 (Tue) 03:24:32


       *『希望を叶える365章』(P109~110)より

真理のみ実在

「汝ら真理を知れ。神は一切の根源である。
神によって一切のものは創造(つく)られたのである。
神によって創られた一切のものは、神の本性を受け嗣ぐものである。

神は善であるから神によって造られ、神の本性を受け嗣ぐところの
一切のものは、善であるほかはないのである。

これが真理である。

真理のみ実在である。
真理でないものは非存在なのである。
だから一切の悪 ―― 不幸、災難、病気、貧乏、死等は存在しないのである。

これが真理である。

〝真理は汝を自由ならしめん〟と神が言いたまえる如く、
この真理を知るとき一切の悪、不幸、苦痛から解放されるのである。

宇宙には如何なる事物も《あなた》を害することはできないのである。
《あなた》はすべての不幸から解放されたのである。
《あなた》はすべての苦痛から解放されたのである。」

 ―― 以上の言葉を家族や知人が病気その他の悩みで苦しんでいる時、
相手の名を念じてから30分間朝夕2回念ずれば、
相手はやがて病気や悩みから解消される。

この一節の《あなた》という語を《わたし》と言う語に置きかえて、
1日数回十数分間ずつでも念ずるがよい。

あなたの潜在意識の底の底まで想念が徹底されたとき
あなたは完全に一切の苦厄から解放されるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月10日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善のみ - 伝統

2018/04/14 (Sat) 03:14:30


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

            <感謝合掌 平成30年4月14日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2018/05/20 (Sun) 04:18:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月20日 頓首再拝>

”実在の延長”としての善と”迷い”の表現としての幻影 - 伝統

2018/06/15 (Fri) 04:02:47


         *「真理」第9巻生活篇(P369)より  

私たちは、正しい確(かた)い信仰をもって生活せねばなりません。
正しい確(かた)い信仰とは、ただ善のみ実在であって、
悪は存在しないと云う強く動かない信仰です。

これは、創造主(つくりぬし)なる神は唯一(ただひと)つであり、
決して悪はつくらないという神への深い信頼から来る信仰です。

すべての悪は人類の主観がつくった幻影に過ぎないのです。
あなたは「客観的にあらわれている事物を幻影(まぼろし)などとは
思われない」と言われるかも知れません。

併し具体的な形はすべて結果であって原因ではないと云うことです。

心が原因者であって、心が計画するとおり具体はあらわれるのです。
正しい心があらわした具体なら本物ですが、迷っている心があらわした
具体ならば、それは”妄想のあらわすところ”即ち幻影に過ぎないのです。

実在をしっかり見詰めて実在をあらわした具体ならば、
それは実在の延長として本当にあるのです。

実在でない悪を心に描いて現わしたものは単なる幻影でしかないのです。

            <感謝合掌 平成30年6月15日 頓首再拝>

六つの誓い - 伝統

2018/06/22 (Fri) 04:31:11


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。
今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。
今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。
今後必ず自分の耳を傾けて他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。
今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

           <感謝合掌 平成30年6月22日 頓首再拝>

すべての善は神よりのみ来る - 伝統

2018/07/09 (Mon) 03:16:48


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月9日)より抜粋

人から見て目覚しい仕事を為すということは、
それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、
人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。

すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。
すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。

されば、自分の善を誇ってはならないし、
またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

           <感謝合掌 平成30年7月9日 頓首再拝>

すべての善きものは  - 伝統

2018/07/23 (Mon) 03:39:21


         *『女性の幸福365章』(P19)より

何故人間は、尽きない「求め」をもっているのであろうか。
それは人間は内部に「無限のもの」を本来もているあkらであって、
その無限のものをあらわすために、無限に「求め」つづけることになるのである。

しかし彼は、現象を見て、外にこれを求める。
しかし現象は唯(ただ)心の「影」に過ぎないから、心の世界において、
善きものを沢山積んで置かない限り、現象世界においてのみ
よきものを実現しようと思っても、現れることは難しいのである。


智慧を求めよ。
すべての善きものは、智慧を媒介として
「実相・無限の世界」からあらわれて来るのである。

物質的富は必ずしも人間の幸福を約束しない。

それは薬剤を与えることはできても必ずしも健康を約束しない。

それは柔い寝床を与えるかもしれないけれども
必ずしも心安らかな眠りを約束しない。

それは高価な装飾品や衣装を与えることができるかもしれないけれども、
必ずしも人間の美しい容貌を約束しない。

本当の美と健康と、安らかな心の悦びとは、
正しい生活と智慧と愛とのみから得られるのである。

           <感謝合掌 平成30年7月23日 頓首再拝> 

世界及び人間の本質はそれ自身「善」である - 伝統

2018/08/06 (Mon) 03:26:37


       *「光明道中記」(8月6日 娑婆即寂光土と悟る日)より

【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】

「世界に非道が充ちていると云うことは、歴史と同じように
それよりも更に古い文学さえも同じように、否あらゆる文学中の
最も古きものなる祭司の宗教と同じように古い嘆きである」
とカントは言っている。

けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。

それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りは
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように
見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないとするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも

「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から身体(しんたい)が
健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、人間をその本性上から
精神的にも健全にして善なりと見做してはならない理由はない」

と言っている。

すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。

釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、
「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。

       <感謝合掌 平成30年8月6日 頓首再拝>

善き事のみを創造する - 伝統

2018/09/02 (Sun) 02:59:27


           *「希望を叶える365章」(P177)より


今日、あなたは自己が神の子であり、神に愛され、神に護られ、神に導かれ、
神に恵まれていることをしっかり自覚したのである。
だからあなたの心は平和であり、安定している。

あなたは自分の前に困難が横たわっているなどと云うことを決して考えない。 
何故ならあなたは神の子であり、神に護られ、神の無限の力は
どこまでもあなたに味方しておるのであり、神より大なる力はないから、
どんな困難でも自由に切りひらき得ると云うことを知ったからである。


あなたは、神が一切のものを「心で想う」ことによって創造(つく)ったのであるから、
“神の子”たるあなたも「心で想う」ことによって一切のものを造ることができると
云うことを知ったから、決して、悪や不完全や不幸や病気や災難などを
心に思うことをしないのである。

そして善き事、好ましきこと、愛すべき事、悦ばしき事、人に与える事、
与える力があること、与える悦びの事などを「心に思う」のである。
やがて、その想った通りのことがあなたの運命となるのである。

              <感謝合掌 平成30年9月2日 頓首再拝>

実相の善のみを想う - 伝統

2018/09/24 (Mon) 03:45:37


         *『栄える生活365章』(P181)より

神を想うこと、神の完全さを想うこと、実相世界の完全さを想うこと
―― これに、もっと吾々は時間をかけるようにすべきである。

その時、滔々として実相世界にあるよきアイディアが吾々にふりそそぎ来って、
それを行動に移すとき、行くところ可ならざる善き結果を生み出すのである。


神を想うこと、実相の善のみ実在であることを想うこと、
完全の実相のみを想うこと、それによって想念は浄まり、
一切の恐怖が無くなるのである。


『般若心経』に、「顛倒夢想を遠離(おんり)すれば恐怖なし」とある。

神を想うこと、実相の善のみを想うところに恐怖がおこる筈はないのである。

              <感謝合掌 平成30年9月24日 頓首再拝>

吾れは唯善のみを見、善のみを聞くのである - 伝統

2018/10/19 (Fri) 05:01:20


        *『日々読誦三十章経』(十九日の経言 神と融合するための言葉)より

吾れは今(いま)最(い)と高き御親の神の奥殿に這入(はい)ったのである。
吾れは神の御前(みまえ)にいて平和である。

此の世のものは今わが眼界にない。
吾れは今五官の世界を去って霊の奥殿にとじこもるっている。

われは渾(すべ)ての渾(すべ)てなる者 ―― 神に触れている。
吾れはそこから生命(せいめい)と平和と豊富との泉を汲むのである。
吾れは神の御前(みまえ)に侍る ―― 神は吾が力を新生したまいつつある。

吾が心は開かれ、吾がたましいは啓示を待つ。
吾が体は神の無限の治癒力(なおすちから)に触れている。

此の霊の静かなる奥殿に吾れは恐れなく、いとやすらかにいるのである。
如何なる禍も、吾れには降りかかることが出来ない。
如何なる悪も吾を悩ますことは出来ない。

何故(なぜ)なら吾れは悪を恐れない。
悪は実在の力ではないからである。

吾れは唯善のみを見、善のみを聞くのである。
吾が前にはすべてのものは美(うる)わしく、すべてのものは善である。

吾れは神の有(も)ちたまう新生力と創造力にうちまかせる。
吾れは神を信じて法悦に満たされているのである。

御祖(みおや)の神に感謝をささげます。

              <感謝合掌 平成30年10月19日 頓首再拝>

善いところへ目を向ける - 伝統

2018/11/16 (Fri) 02:44:45


          *「光明道中記」(11月16日 自在無礙の日)より

【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】

秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が赤痢に罹ったときの
心境と生活態度を時々話して感嘆せられてものであった。

「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。
看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて居る。
それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。

私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。
私が、こんな大患で貴僧本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。
と云うと、『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方でやるさ』
と小さい声で言って居った。

ナカナカそんな本など見て居れる時ではないは、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」


秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。

見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。

若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。

          <感謝合掌 平成30年11月16日 頓首再拝>

「善」への衝動 - 伝統

2019/01/28 (Mon) 04:20:38


           *「光明道中記」(1月28日 一切人間を礼拝する日)より

【既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、
            自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。
若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。
生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、
善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

            <感謝合掌 平成31年1月28日 頓首再拝>

絶対善を悟る日 - 伝統

2019/01/31 (Thu) 04:31:16


           *「光明道中記」(1月31日)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。
                          (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。

神の造り給うた人間の子に悪はない。
病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのは
それは五官が見るのであり、五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって
真相が歪められたる相(すがた)を見るに過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、
屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

            <感謝合掌 平成31年1月31日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2019/02/17 (Sun) 04:23:10


           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

            <感謝合掌 平成31年2月17日 頓首再拝>

善とは無縛を言う - 伝統

2019/02/19 (Tue) 04:59:52


           *「光明道中記」(2月19日 無礙無縛の日)より 

【善にでも引っかると悪になる。
 心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。(『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、
古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。

そして「善とはこれだ! 」と
一つのものに執着したとき多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

            <感謝合掌 平成31年2月19日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2019/02/24 (Sun) 04:53:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、
自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。

三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 平成31年2月24日 頓首再拝>

《すべての善きものは神より来る》 - 伝統

2019/03/18 (Mon) 02:17:16


          *『人生の秘訣365章』第12篇(P294) より

すべての善きものは、それが、たとい現象人間から発生したように見えても、
実は“存在の本源”即ち“神”から来たのである。

この事を私たちは深く理解しなければならないのである。

人間の生命(せいめい)の、肉体の動きのように見えていても、
実は肉体は単に動かされているだけであって、
内部の“存在の本源”即ち“神”からあらわれて来ているのである。

その“存在の本源”から来る催しを、
少しも歪めることなく行動にそれを顕したとき、
その人は希望を成就し、目的を達成し、成功と繁栄の主人公となるのである。

その聖なる“本源”から来る生きる力を、そのまま歪めずに生理作用に顕すとき、
それは健康なる肉体となるのである。

           <感謝合掌 平成31年3月18日 頓首再拝>

《何が“善”の顕現を妨げるか》 - 伝統

2019/04/07 (Sun) 04:07:37


        *『人生の秘訣365章』第12篇(P295) より

では、何が“善”のあらわれようとするのを、
歪めたり抑制したりするのであろうか。

現象世界にみとめられるものは、
すべて“心”という“認識の媒介”を通してあらわれて来るのである。

“心”がカメラレンズの働きをし、
迷いの心がフィルターのような働きをするのである。

フィルターの色の濃いのをかければ、かけるほど
カメラの受け入れる光線は弱くなり、
写真にうつる光の程度も弱くなるのである。


それと同じく迷いが濃厚になればなるほど、
“存在の本源”から来る光は抑制せられ、
屈折せしめられて不完全な状態が顕れて来ることになるのである。

その“迷いの心”とは一体何であろうか?

           <感謝合掌 平成31年4月7日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善いものばかりである - 伝統

2019/04/14 (Sun) 03:34:46

          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

            <感謝合掌 平成31年4月14日 頓首再拝>

《我は 到(いた)る処(ところ)に唯(ただ)善のみを見る》 - 伝統

2019/04/29 (Mon) 04:38:30

          *『 生長の家 』(昭和25年3月25日の法語)より

   凡(あら)ゆるものの中に 神がみちみちていられるのであるから、
   吾々は 神から逃げだすことはできないのである。

   神は善であるから 吾々は善から逃げだす事はできないのである。

   されば 心の眼(め)を開いて見れば 吾は到る処に唯 善のみをみるのである。

   神は自分の智慧であるが故に、吾は到る処に神の導きを見るのである。

   静かに坐(ざ)して考うる時 吾は神の声をきくのである。
   神は吾が内に宿って い給うのである。

   吾は神の愛を吾がうちに感じ
   神を吾が内に抱き 神から又抱かれているのである。

   神の愛は決して私を裏切るということはないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成31月29日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2019/05/20 (Mon) 04:37:52


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

           <感謝合掌 令和元年5月20日 頓首再拝>

善を呼び出す「六つの誓い」 - 伝統

2019/06/22 (Sat) 04:49:33


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。
今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。
今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。
今後必ず自分の耳を傾けて他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。
今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

           <感謝合掌 令和元年6月22日 頓首再拝>

何が”善”の顕現を妨げるのか - 伝統

2019/07/31 (Wed) 05:06:20


*『人生の秘訣365章』第12章(P295)より 

《何が“善”の顕現を妨げるか》

では、何が“善”のあらわれようとするのを、
歪めたり抑制したりするのであろうか。

現象世界にみとめられるものは、
すべて“心”という“認識の媒介”を通してあらわれて来るのである。

“心”がカメラレンズの働きをし、
迷いの心がフィルターのような働きをするのである。

フィルターの色の濃いのをかければ、かけるほど
カメラの受け入れる光線は弱くなり、
写真にうつる光の程度も弱くなるのである。


それと同じく迷いが濃厚になればなるほど、
“存在の本源”から来る光は抑制せられ、
屈折せしめられて不完全な状態が顕れて来ることになるのである。

その“迷いの心”とは一体何であろうか?


《完全な感謝は明るいカメラ・レンズである》

“善”の顕現を抑制したり、歪めたりして、
そこに“悪”と称する虚像をつくり出すところの“迷いの心”とは、
神の心に波長の合わない心なのである。

それは“怒り”“憎しみ”“嫉妬”“排斥”“悲しみ”“争い”“貪欲”
“利己心”“恐怖”“憂鬱”-----等の暗い、相互に衝突したり
対立したりする場合に起る想念が、それは対立であるが故に、衝突し、抑制し、
屈折せしめて、本来の完全な相(すがた)を顕すことをできなくさせるのである。

このような心を“迷いの心”というのである。

“迷いの心”を去るには、そのような対立闘争の心を抛棄して、
すべてを感謝してそのまま天地の恵みを完全に受けとる心になればよいのです。

それをカメラに喩えればすべての光を抑制無しに受け入れる
良質の明るいカメラ・レンズを備えるのと同じことです。

これによって、どんな微細な“神の恵み”のすがたでも
現象界に写し出すことができるのである。

「天地一切のものに感謝せよ」の神示はこの真理を示すのである。

           <感謝合掌 令和元年7月31日 頓首再拝>

心の眼を開いて見れば、すべては「善」である - 伝統

2019/08/06 (Tue) 04:43:49

      *「光明道中記」(8月6日《娑婆即寂光土と悟る日》)より

【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】

「世界に非道が充ちていると云うことは、歴史と同じように
それよりも更に古い文学さえも同じように、否あらゆる文学中の
最も古きものなる祭司の宗教と同じように古い嘆きである」

とカントは言っている。

けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。

それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りは
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように
見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないとするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも

「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から身体(しんたい)が
健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、人間をその本性上から
精神的にも健全にして善なりと見做してはならない理由はない」

と言っている。

すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。

釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、
「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。

           <感謝合掌 令和元年8月6日 頓首再拝>

善のみ実在である - 伝統

2019/08/22 (Thu) 04:31:10


       *『愛は刑よりも強し』(P38~39)より   

「善のみのほか何も恒久性のものはない。
何物も善の反対のもののほか滅尽するものはない。

善のみ実在である。

悪は唯反影である。

『善徳』より悪の影を取り去ればただ善のみが残る、
悪は影を消すのである。

又『悪徳』より善の支柱を取り去ればそこに尚善が残る、
かくして悪徳は影を消すのである。」


この最後の一句は実に深い真理を蔵している。

「悪徳」それ自身で存在し、自立しているのではないのである。
苟(いやしく)も存在する限り、その存在の力は
善によって支えられているのである。

病気の如きも苟(いやしく)も存在する限り、
病気それ自身が存在を保ち得ているのではなく、
生命があるから病気の姿が存続し得るのである。
 
生命が肉体から脱け出してしまったら、病気の症状も存在し得ない。
即ち症状は生命のはたらきである。

症状は善なる生命があらわれんがための経路としての状態である
というのに一致している。

だから善のみ存在するのであって、悪と見えるものでさえも、
善によって存在の姿があらわれ得るのである。

だから、ただ霊的想念、善なる想念、久遠永遠の生命の念をもって
満たせば結局その反対のものは消滅するほかはないと云うのである。

           <感謝合掌 令和元年8月22日 頓首再拝>

善のみ実在である。悪は唯反影である。 - 伝統

2019/09/04 (Wed) 04:34:36


        *「愛は刑よりも強し」(P30)より

ライファーは常に云った。

「善のみのほか何も恒久性のものはない。
何物も善の反対のもののほか滅尽するものはない。
善のみ実在である。悪は唯反影である。

『善徳』より悪の影を取り去ればただ善のみが残る、悪は影を消すのである。
又『悪徳』より善の支柱を取り去ればそこに尚善が残る、
かくして悪徳は影を消すのである。」

この最後の一句は実に深い真理を蔵している。

「悪徳」それ自身で存在し、自立しているのではないのである。

苟(いやしく)も存在する限り、
その存在の力は善によって支えられているのである。

病気の如きもいやしくも存在する限り、
病気それ自身が存在を保ち得ているのではなく、
生命があるから病気の姿が存続し得るのである。
 
生命が肉体から脱け出してしまったら、病気の症状も存在し得ない。
即ち症状は生命のはたらきである。

症状は善なる生命があらわれんがための
経路としての状態であるというのに一致している。

だから善のみ存在するのであって、悪と見えるものでさえも、
善によって存在の姿があらわれ得るのである。

           <感謝合掌 令和元年9月4日 頓首再拝>

唯一の善は飛躍することである~その1《人間に神を実現する》 - 伝統

2019/10/03 (Thu) 04:53:41

       *『生命の實相』第13巻倫理篇(P178~179)

然(しか)り。肉体の人間(小我の人間)は善をなしうるものではない。
いかなる我の知恵もそれは有限知であるがゆえに、
あらゆる場合と条件とを尽すことはできない。

しかも実際生活の場合と条件とは無限であってその変化は
※端倪(たんげい)をゆるさない。
(※端倪(たんげい)―― 推測すること(「端」は山頂「倪」は水の底)(頭注より))
 
ここにおいて有限知は必ず矛盾葛藤に陥る。

そこで本当の「善」はこの有限知の葛藤を飛び越えなければ得られないものである。

これは形式を超越するのであり、飛躍するのである。
飛躍があって、はじめてわれわれの心は法界を覆う知恵に
達することができるのである。

法界を覆う知恵に達してはじめてすべての場合と条件とを尽して、
人相応、時相応、所相応の三相応を具備することができるのである。

これにはどうしても禅的な修養が必要である。

           <感謝合掌 令和元年10月3日 頓首再拝>

唯一の善は飛躍することである~その2《自我のおきかえ》 - 伝統

2019/10/04 (Fri) 04:48:18


       *『生命の實相』第13巻倫理篇(P179~180)

法界を覆う英知に達して、善を完(まっと)うするのは、
人間(肉我の)にはできないことであるが、
神にしてのみ能(あた)うことである。

なぜなら、神ははじめから法界を蔽うすべてを尽しているからである。

しかし神が善をしても人間が「善」をなさなければ、
人間生活にはなんの関係もないし、道徳の対象にも、
倫理学の対象にもならないのである。

そこで「善」をなすには、
「神」を人間の「思い」の中に「行為」の中に持ち来さなければならない、
《神を人間に実現する》を要するのである。

神人合一境である。

肉の人間が棄揚(きよう)せられて神が実現されるのである。
これが「われの置き換え」である。
自我の転換である。

復活であり、悔い改めであり、廻心(えしん)である。
小慈小悲(しょうじしょうひ)もない自分からクラリと転じて、
仏と合一することである。

小我の力で行った善を、
雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅう)の善であるとして軽蔑して
ひたすら阿弥陀仏の方へ振り向いた
親鸞(しんらん)聖人の心がここにわかるのである。

全法界を覆う能わざる小知で善をなしたと小善ぼこりをしても、
必ずそれは悪に変じているのである。

(もっとも「悪」とは積極的存在の状態ではない
。心が全法界に達していないという消極的状態なのである。
心がそこに達しさえしたら、もうそこは善となっているのである。)


人間の小知は決して全法界に達せざるがゆえに、
根本的には善をなすことができない。

重盛の「忠ならんと欲すれば孝ならず」のごとく
人時所(にんじしょ)の三相応を得(う)ることができないのである。


そこで唯一の善は飛躍をすることである。

そこで親鸞は小善奉行を雑行雑修として振りすてて、
如来の方へ飛躍したのである。

飛躍するまでは親鸞といえども有限知の葛藤に悩んで、
六角堂の観音に日参したのである。

禅宗では公案をつくりことさらに矛盾難問を構えて
この飛躍の修行をするのである。

           <感謝合掌 令和元年10月4日 頓首再拝>

唯一の善は飛躍することである~その3《香厳上樹(きょうげんじょうじゅ)、飛躍の道》 - 伝統

2019/10/17 (Thu) 02:40:32


       *『生命の實相』第13巻倫理篇(P180~181)

たとえば『無門関』の第五の公案「香厳上樹」のごときはその適例である。

この公案は香厳和尚が「人が断崖絶壁の上に懸垂する樹に上(のぼ)り、
口は樹枝(じゅし)を啣(ふく)んで樹よりぶらさがり、
手も足も何も支えるものがないとき、樹下にあって、
『祖師西来(そしせいらい)の意(い)如何(いかん)』
と問うものがあればどうするか。

答えざれば禅門の礼儀として問答に敗れることになる。
答えれば、身を支えている口が樹枝を離れるがゆえに、
断崖絶壁に墜落して身を喪(うしな)ってしまう」というので、
「さてどうするか」という公案を提出したというのである。


右するも滅(ほろ)び、左するも亡(ほろ)びるのである。
形の上では逃れる道はない。
不可不の法則が両方から追い迫ってくるのである。

縦横厚みの三次元空間に生活している限り、逃れる道は断たれている。
もう絶体絶命である。

われわれはこの三次元空間を飛躍するほかに生きる道がない。

そこで飛躍が行われる。

われわれの生命はこの時、
不可不の法則以外の世界における自分を発見する。

口に樹枝を啣んだまま、「ウーン」と彼は一嘯(いっしょう)するか、
口を開いて「サタンよ、去れ!」と一喝するか ―――
どちらを選ぶか、他の方法によるか、それは形の関するところではない。


           <感謝合掌 令和元年10月17日 頓首再拝>

唯一の善は飛躍することである~その4《イエスの公案、飛躍の道》 - 伝統

2019/10/30 (Wed) 04:40:23


       *『生命の實相』第13巻倫理篇(P181~183)

「形」の模倣では価値はなさない。
「形」はどちらをとるにしてもその人が
三次元空間を超越した自己を発見していたならば、
彼の前に世界が変貌するのである。

「飢えて死ぬか。悪魔にひざまずいて食を摂るか」

これはイエスの公案であった。
かくのごとくキリスト教は禅的公案に出発しているのである。

イエスは「サタンよ、去れ!」と一喝した。
しかる時、サタンは去って、天使がイエスにつかえたと
聖書は録(しる)している。


イエスが「サタンよ去れ!」と一喝した後にイエスの世界は変貌した。

それは悪魔に取り巻かれた世界から
天使に取り巻かれた世界へと変貌したのである。

イエスはその後も食事をとっているのである。
しかしそれは今までのように、悪魔によって供給された食ではない。

換言すれば他から奪って得たところの食でもなければ、
殺生によって得たところの食でもない。

それは天使が彼に捧持(ほうじ)する食物であるのである。

形から見れば、三次元的空間的立場から見れば
やはり悟前の生活も悟後の生活も同じであるかもしれない。
あるいは異なるかも知れない。

それはおそらく異なるであろうが、
それは異なるにしても空間的立場からは
やはりイエスは空間の制約の中に生活している。

しかしイエスの自覚はもう空間的立場を超えているのである。

「われは道なり、真理なり、われは復活なり、生命のパンであり、
尽くることなき生命の泉であり、われに汲むものは永遠に渇(かわ)くことなし」
という、

彼の自覚はもう三次元的空間的存在の意識から超越して、
無形の真理であり、道であり、生命であるという境地にまで
高昇(こうしょう)したのである。

この境地に高昇したときには、
すでに相対的善悪形式的善悪は超越せられてしまっている。

そこで「上衣(うわぎ)を取る者には下着をを拒むな」と無抵抗であるかと思うと、
その無抵抗という形すらも飛び超(こ)えて、
縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐(お)い出す
――それがすべて人時所にふさわしきところの三相応の「善」となる。


およそ「善」とは「十里の公益を強いられて二十里を行く」ことでも、
「縄の鞭にて神殿の鳩売りを逐い出す」ことでもない。
また必ずしもその反対を実行することでもない。

それでは、また心の赴くままに滅多やたらに
ふしだらにやりたいとおりに実行することでもない。


「善」とは形ではないが、形を破ることでもない。

形に捉われないということにもとらわれないように
超越しなければならないのである。

形に捉われず、空に捉われず、自由自在ということにも捉われず、
それではどうすればよいか、※亡言絶慮(もうごんぜつりょ)、絶体絶命である。

(亡言絶慮(もうごんぜつりょ)
 ・・・言葉を亡(うしな)い、思慮を絶すること。(頭注より) )

いっさいの空間的認識の私的立場(《自分の角度から見た判断》)から脱して、
法的立場または宇宙的立場からの「思い」と行為とがそこに顕現する。


法的立場から叩き伏せるべきものは叩き伏せるし、
生かすべきものは生かすし、看過(みの)がすべきものは看過がす
――そして、それで人時所相応の「善」となるのである。

「神があらわるれば善となる」のであって、
われらはまず「神」を把握しなければ「善」を顕現することもできないし、
「調和おのずから備わる」ところの人時所相応の善を
奉行(ぶぎょう)することもできないのである。

           <感謝合掌 令和元年10月30日 頓首再拝>

ただ『善』のみ實在するという信仰 - 伝統

2019/12/06 (Fri) 04:51:21


        *『生長の家』(昭和42年11月号)より

『何の信仰も、私はもっていない』という人がある。
  
併し本当は何の信仰ももっていない人はないのである。

『神を信じない』と云う人は物質の力を信じているのであり、
『不幸が来るかも知れない』と恐怖している人は、
『悪』の力を信じているのである。

そして信じている相手の力に圧倒されて、
『不幸』を信ずる人には不幸が訪れて来、
『悪』を信ずる人には『悪』が襲ってくるのである。

そしてついに『吾が信じたる処のもの、皆われに襲いかかれり』と
嘆かずにはいられなくなるのである。

それは『不幸』や『悪』が真に客観的な存在として
我々に襲いかかって来るのではなくして、
その存在を信ずる自分の『信念』が外界に移入されて、
そのような結果をもたらすのである。

では、そのような《悪》や《不幸》の存在を信じないで、
愛ふかき神のみの存在を信じ、そのような神が常に吾々を《神の子》として
護って下さり、無限の恵みを与えて下さるのだと信ずれば、

その信念が外界に移入されて、
色々の幸福が豊かに恵まれて与えられることになるのは当然ではないか。

  
人は信ずる通りの運命を自分自身に受けるのである。

正しい信仰をもつことが必要である。

『悪』の存在を信じてはならない。
『悪』は存在しないのであって、唯、『善』のみ存在するのであり、
『悪』と見えるものは、其処に『善』が存在しないか、
『善』の顕現がまだ不充分であるか、『善』が顕現する途上であって、
  
恰も卵殻が割れて雛が生まれ出ようとしている
『卵殻の割れ』を『悪』と思い違いしているようなものである。

吾々は卵殻の破壊の方を見て、それを不幸と感ずるよりも、
新生した雛の方を見て、それを祝福する気持ちにならなければならないのである。

右すべきか左すべきか、いずれが良いのであるかという問題に直面したときに、
戦後の人は大抵誰でも自分の利益になるのはどちらだろうかということを
選定の基準に立てて自分の行動を選ぼうとする傾向があるのである。

しかし本当はどちらが善であるか、換言すれば、
どちらが道徳的要請にこたえるものであるかによって
行動の基準とすべきものなのである。

  
では『善である』とか『道徳的要請にこたえる』とかいうことは、
もっと具体的に云うならばどういう事をすればよいのであろうか。

自分を基準にせず他の人々を基準にして
できるだけ多くの人が幸福になる行為を選んでするがよい。

それが結局、自分自身をも幸福にする道にかなうのである。

何故なら『与えよ、さらば与えられん』の法則が人生を支配しているからである。

     (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18352636.html より転写)

           <感謝合掌 令和元年12月6日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2020/02/17 (Mon) 04:49:56


           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

            <感謝合掌 令和2年2月17日 頓首再拝>

無礙無縛の日 - 伝統

2020/02/19 (Wed) 05:03:22


           *「光明道中記」(2月19日)より 


【善にでも引っかると悪になる。心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。(『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。


            <感謝合掌 令和2年2月19日 頓首再拝>

《直観による善一元の世界の把握》 - 伝統

2020/03/16 (Mon) 02:31:17


          *「真理」第9巻生活篇第2章(P47~48)より

合理主義や常識主義では病気を否定することはできません。
不幸を否定することもできません。

合理主義や常識主義は、肉眼に見える現象的な相(すがた)を、
そのまま実存するとして理論づけをしますから、どうしても病気や不幸を
そのまま《あり》として肯定するほかはありません。

病気や不幸の存在を否定し、現象的にもそれを消滅せしめてしまうためには、
どうしても我々は現象の存在を否定しなければならない。
合理主義を超えなければならないのです。

常識を超え、合理を超えるには

「神のつくり給える世界には悪はあり得ない。
唯、善のみ実在する。実在は善である。
実在でない現象は、ただ現れて見えるだけで本当は存在しない。」

と直観によって「善一元の実在界」を把握しなければならないのです。

以上の直観を神想観中に繰返し黙念すれば病気を治す効果がある。


            <感謝合掌 令和2年3月16日 頓首再拝>

善きもののみに触れる - 伝統

2020/03/18 (Wed) 02:21:11


           *「光明道中記」(3月18日)より抜粋
             《環境も大切である。環境を選ぶ日》

【欠点と自分と四つに組んでは欠点は直らぬ。(『生命の實相』第九巻)】


吾々の内部には全てのものを包蔵しているが、受動状態にある限りに於て、
外部から触発されたものだけが、内部から外部へと発現してくるのである。
即ち彼に触れることによって引き出されたものだけが引き出される。

吾々に赤い色の波動が触れれば、吾々の内部から赤の波動が引き出されて、
初めて其処に「赤」の感覚を生ずるのである。

この意味に於て、吾々に触れる物は環境にせよ、愛情にせよ、食物にせよ、
いずれも善きもののみを触れるようにしなければならない。

孟母三遷の故事もこの意味に於て価値があるのである。

            <感謝合掌 令和2年3月18日 頓首再拝>

根本的なる善業とは? - 伝統

2020/03/29 (Sun) 04:21:48


        *『如意自在の生活365章』(P59~60)より

善き業にもいろいろある。

他に金銭を恵むのも善き業であり、真理を伝えるのも善き業である。
もっと根本的な善業は、神の善意を信ずることである。

神を、神罰の本源や、災禍の本源であるかのごとく信ずるならば、
それは根本的な悪業を積むことになるのである。

神は健康の本源であり、力の本源であり、美の本源であり、
富の本源であり、繁栄の本源であるのである。

その本源を正しく認めて、その本源と融合して、
神の”み心”とともに生活するように心懸けるのが、
本当の根本的な善業である。

単に金銭を人に与えることは必ずしも善業にはならないことがある。

誰に、何を、何の目的で与えるかが問題である。

            <感謝合掌 令和2年3月29日 頓首再拝>

神は善であり完全であります - 伝統

2020/04/13 (Mon) 04:48:18


          *「真理」第9巻生活篇第3章(P68~69)より

《唯物論では人権の根拠がありません》

神は善であり完全であります。
こんなことは何故わかるかと言う人がありますが、
善であり完全きわまるものを想定して「神」と言うのであるからです。

そして斯(か)くの如き「神」を吾々の心が想定することができるのは、
既に自己の内に完全なる「神」が宿っているから、その内からなる催し
として「神」を完全なるものとして想定することになるのであります。

さて斯(こ)うして神が自己の内に宿り、それが自然に内からの催し
として神を心に描くのだと云うことがわかりますと、マルキシストが、
神は人間が考え出した者だと云う説にも合致しながら、しかも

神を考え出すことができるのは「自己に神が宿っているからだ」と云う
内在神の説にも一致し、すべての人に神が内在すると云う立場から、
すべての人に尊敬すべき基本人権が宿っていると云うことも
合理的に肯定できて来るのであります。

            <感謝合掌 令和2年4月13日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善いものばかりである - 伝統

2020/04/14 (Tue) 04:31:10


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。
わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

            <感謝合掌 令和2年4月14日 頓首再拝>

ただ善のみを観よ。 - 伝統

2020/05/02 (Sat) 04:53:16


        * 『信仰の科學』(谷口雅春 F.ホルムス共著)(P146)より

実相を観ずる詩

ただ善のみを観よ。
されば汝は人生に悦びのみを見出すのである。

最悪の事態があると言うのか、
ああそれはことわり。

われらが多くの病を見るとき、
善を見るのは至難だと言うのか。

しかし善は必ずそこにあるのだ。

あの第四次元以上の感覚で視る世界、
現実を超えた精妙なるかたち、雄大率直にして真実なる霊の表現、

神は自己をすべてのものに表現する。
すべてを貫き、全ての中に、
神の御わざ、神の御いのちは満ちているのだ。

そして神みずから観たまいけるに、
それは実在なるがゆえに、
至るところに善はあるのだ。



池の面に緑の藻は太陽に照り輝きて浮び、
池いっぱいに広がって濁り江の底に隠す。

水面の藻は葉の影から洩れる太陽の光の束を捉えようとしているのだ。
そしてやっと捉えたと思ったら、光の反射は消えて戻って来ない。

しかしかかるゲームの中に、
見えぬ地底の深きところより神の命が搏動(はくどう)する。

やがて頭をもたげ浮き藻をかき分け、
池の面にポッカリと頭を出す、見よ
それは百合の花であった!



美しき花の中の女王、
豊かなる薫りとともに
今を盛りと咲きほこる、

その芳しき吐息は、
にごりえの水面いっぱいに漲りわたり、
陽光をその胸の中にふくらませ、

百合は清楚に輝き、
へりくだりて満ち足れるつつましき花、



人とともこの美しき花と同じこと、
すべてのものの内に善があり神がある。

すべてのものの内に、
神おんみずからの力が
切実に表現を求めて動いているのである。

それを見て我々は知る、神はそこに、
〝神の子〟我らの内にあると。

みずから罪の子として神の子を嘲り
ひとりみずからの説を正しとする輩に対し、
キリストおんみずから宣(のたま)いし如く

いまここに善が在る。

みごとなる善が在るのだ。
それは人に宿るところの神性の鬱勃たる衝動だ。

(F・Lホルムス詩集『沈黙の歌』より)

・・・

<参照>

Web:則天去私(2017年07月08日)
    「The Science of Faith 『信仰の科學』」
    http://tecnopla1011.blog.jp/archives/71350183.html

            <感謝合掌 令和2年5月2日 頓首再拝>

《ただ善のみを求めましょう》 - 伝統

2020/05/12 (Tue) 04:36:45


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P127~128)より

わたしたちが他(た)の人の善き処を見、その善を期待し、
その人を賞讃することは、これまた善き事物を祈り出すところの
一種の「祈り」であるのである。

これに反してその人の欠点を期待し、その人の悪を予想し
その人から間違いを摘出しようと思うならば、それは、その人に関して、
「悪」が起こることを「祈って」いるのと同様なのである。

「求めよ、さらば与えられん」と云う
イエスの教えは斯う云う点から言っても真実である。
それは「心の法則」である。

わたしたちが、すべての事物について、
其処に神の顕現をを予想し、其処に神の愛を見出し、すべてのものに神の賜物を見、
それに感謝し、それを讃(ほ)め称(たた)えるならば
それはまことに「善」を呼び出すところの「祈り」となるのである。

さらば皆さん、悪や、困難や、失敗や、欠点などを探し出す心を捨てて、
ただ「善なるもの」「明るいもの」のみを求めることに致しましょう。

            <感謝合掌 令和2年5月12日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2020/05/20 (Wed) 04:33:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

           <感謝合掌 令和2年5月20日 頓首再拝>

すべての事物は結局は最善の結果へ向かう - 伝統

2020/06/16 (Tue) 03:30:26


      *『 生長の家 』(昭和25年5月18日の法語)より


もし吾々がここが神の世界であり、
凡ゆるものが自分を祝福するために
共同作用を営みつつあるものだということがわかるならば、

吾々は 現在目の前に進行している出来事が
どんな不幸の様に見えても
それについて思い煩う必要はないのである。

もし吾が心の平安が害(そこな)われるということがあるならば、
その瞬間ふりかえりて光明面に心を転じさえすればいいのである。

それには

「 すべてのものは 共同作用を営みつつ 吾が善を成就しつつあるのである 」

と繰り返し繰り返し心に念ずるがいいのである。

           <感謝合掌 令和2年6月16日 頓首再拝>

六つの誓い - 伝統

2020/06/22 (Mon) 04:43:05


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。
今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。
今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて
他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。

今後必ず自分の耳を傾けて
他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。

今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

           <感謝合掌 令和2年6月22日 頓首再拝>

適材適所が善である - 伝統

2020/07/31 (Fri) 04:38:29


       *『生長の家』(昭和25年6月18日の法語)より

すべては よきものであるが、

神の智慧が
その善きものが あるべき所に あるべき様に あらしめる様に、
働かないから、そこから悪の姿がわきおこって来るのである。

正しき所に適当なるものを正しき様に置きさえすれば
今まで悪と見えていたものも善に変わってしまうのである。

適材適所が善である。


人間を殺す劇毒剤の砒素(ひそ)でさえも
適当な分量で適当な方法でそれを使えば、
強壮剤ともなり黴(ばい)毒の治療剤ともなるのである。

適当なる智慧とは、神の智慧である。

神の智慧をよびだして来るためには
神想観をすることが必要である。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2 )

           <感謝合掌 令和2年7月31日 頓首再拝>

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