伝統板・第二

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「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

本掲示板の目的に従い、法令順守および社会倫理の厳守をお願いします。本掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付のうえ、本掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

真理の生活 ③ - 伝統

2018/02/16 (Fri) 04:01:04

《相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。》

           *「光明道中記」(2月16日自己の尺度を捨てる日)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、
相手を害(そこな)い、自分を害う。  (『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、
悉く異なって見えるものである。

争いは、見る立場は一つしかないと云う
根本的な迷誤(まちがい)から発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、或る人には正面が見え、或る人には斜めに見える。
もっと委(くわ)しく分けるならば、一つの顔でも全然同じように見えることは
あり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに相手の立場に立って考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、「己(おのれ)の欲せざるところを他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」と言ったが、

今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、
己の欲する所も、彼は欲しないかも知れないことを知って、
各々相手の立場に立って相手を生かしてやらなければならぬ。

・・・

<関連>

(1)伝統板・第二「真理の生活 ①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6971129

(2)伝統板・第二「真理の生活 ②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7583747


            <感謝合掌 平成30年2月16日 頓首再拝>

人事処三相応である  - 伝統

2018/02/21 (Wed) 03:33:07


           *「光明道中記」(2月21日 躓かざる日)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
                       (生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、
「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

            <感謝合掌 平成30年2月21日 頓首再拝>

十分合理性を持たせて事件を落着させることが大切である。 - 伝統

2018/02/26 (Mon) 03:29:19


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月26日)」より

腹を立てることと、相手に対して悪意を抱くことは相手を殺すことになる。

今日(きょう)、中島さんが入って来てこんな話をした。

○○電気局長のN氏、ある婦人と婚約したが、
しばらくの後その婚約した婦人のところへN氏から送られて来たものは、
N氏がすでに別の婦人と結婚したという通知のハガキであった。

あとで聞いてみると、さきの婦人はその時ハッと思っただけで
深く怨みに思ったわけではなかったというが、ともかく重大な問題について
約束を破られたのであるから、強い衝動を受けたということは明らかである。


それからが問題である。――

爾来、N氏の結婚生活は不幸であった。
N氏の新妻は常に病気で、ほとんど健康な日とてはなかった。
その間に一人の女児を儲けたが、N氏の家族は妻の病気のために不快な日がつづいた。

N氏が三回目に逓信省の辞令によって洋行したとき、N氏はどういう考えだか、
その夫人との13年間の結婚生活を解消すべく離縁状を送った。

夫人が結婚生活以来13年間の病気は、その結婚解消と同時に
たちまち完全に治ってしまったのであった。

N氏は今また別の婦人と夫婦生活を営んでいるが、
常に夫婦喧嘩の絶え間がないそうである。
中島さんの話はこれだけである。


あとはわたしの感想である。

第一の約束は先取的特権として最高権威をもち、ぜひとも守られるべきものである。
守らないくらいならば、イエス・キリストも「誓うなかれ」といったように
約束すべきではなかったのである。

やむをえずに約束を破らねばならぬようになったならば、
一片の葉書などで破約すべきではない。

先方が大調和の心持で快諾するまで十分話し合って、
心残りのないように十分合理性を持たせて
事件を落着せしむべきものである。

最初の約束を破って、N氏が結婚した二人目の夫人が始終不健康であったのは、
最初の婦人の恨みの念が、二番目の婦人を縛っていたのだとも
解することができるのである。

あるいはN氏自身の自己審判の潜在意識が夫人に移入して
夫人が13年間も病気していたのだとも解せられる。

ともかくとうとうN氏は二番目の婦人を去ることによって、
最初に約束をしたその婦人に申し訳をしたのである。

言葉で十分相手に申し訳をして
潜在意識がその行為の合理性に納得せしめられていたならば、
生活や行為に不幸な現象を現わして最初の夫人に申し訳する必要はなかった
に相違ないのである。

           <感謝合掌 平成30年2月26日 頓首再拝>

《自分を見苦しく広告してはならない》 - 伝統

2018/02/27 (Tue) 03:38:55


           *「光明法語」(2月27日)より

吾々の生活は一言一行が広告である。
それは「此処にこんな人がいる」と云うことを広告して歩いているのだからである。

怒りっぽい人は「此処にこんな怒りっぽい下らない人間がいる」と広告をしているのだし、
ニコニコした人は「此処にこんなニコニコした人がいる」と広告しているのである。
膨れっ面は、不平な人を広告しているし、泣き面は悲しい心持を広告しているのである。

何のために諸君はそんなに自分の見苦しい面ばかりを広告してあるくのか。
それは人生を見苦しくし、諸君自身の値打を下げる。

           <感謝合掌 平成30年2月27日 頓首再拝>

一事を見て万事を判断してはならぬ - 伝統

2018/03/06 (Tue) 04:23:51


           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

           <感謝合掌 平成30年3月6日 頓首再拝>

悪事を断ち切る道 - 伝統

2018/03/07 (Wed) 04:07:52

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7日)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。
そして本当の「私」でない者に、今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 平成30年3月7日 頓首再拝>

行き詰った時にはこうせよ  - 伝統

2018/03/08 (Thu) 04:35:17


           *「光明法語」(3月8日)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

            <感謝合掌 平成30年3月8日 頓首再拝>

時節に乗ることが大切 - 伝統

2018/03/14 (Wed) 04:27:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月14日)」より

現象界においては時節が事を成就する。
時節に乗ると乗らぬとは、成敗(せいはい)の基(もとい)である。

時節に乗る秘訣は神に一致すること。
神に一致するには、《今ある》状態をまずありがたいと享受して、
そこで百%を行ずること。

急ぐはことを破壊し、急ぐ息はセク息である。

            <感謝合掌 平成30年3月14日 頓首再拝>

人生、値切るなかれ! - 伝統

2018/03/18 (Sun) 03:42:42


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 平成30年3月18日 頓首再拝>

人生を花をもって飾り、讃えましょう - 伝統

2018/03/19 (Mon) 03:23:04


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月19日)」より

人生を花をもって飾りましょう。
縮かんでしまってはなりません。

死人があるからとて、バラの花は咲くように神様から美を与えられているのです。
地上に悲惨があればこそ、われわれはいっそう地上を美しく飾らねばなりません。
委縮するものはついに国を滅ぼすのです。

元気にその日その日を生き、元気に人生を讃(たた)えましょう。

            <感謝合掌 平成30年3月19日 頓首再拝>

真理とともに立つ - 伝統

2018/03/27 (Tue) 03:52:33


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、
おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 平成30年3月27日 頓首再拝>

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ! - 伝統

2018/03/30 (Fri) 03:21:02


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月30日)」より

調和の中(なか)に万物が育つ。

大地はいっさいの不浄を浄化する。
いっさいの汚物を大地の中に委ねるならば大地はその一つをも排斥しないで、
それを肥料とし養分として効用に替えてしまうのである。

大地のごとく何物をも排斥しない心になれ。
すべてはなんじのうちにおいて育つであろう。
富も栄達も健康も祥福も大地のごとき心のうちにこそあるのである。

            <感謝合掌 平成30年3月30日 頓首再拝>

与えられた以上に発展工夫するところには自己創造があるのである。 - 伝統

2018/04/04 (Wed) 03:34:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月4日)」より

環境が彼の表現欲望を強いて抑えつけるならば、
人間は狂乱状態に陥るか、ヒステリーになるか、
生命(せいめい)が委縮して病気になるかする。

ロシアのある囚人の刑務の一つとして
終日2つのバケツに同じ水を交互に空(あ)けかえる仕事を
課したときには、その囚人は気が狂ったという。
(ドストエフスキー『死人の家の記録』)

これは仕事が強制として課せられて
「自己自身の生命」を表現するなんらの道を与えられなかったからである。

またある精神病者は、
自己の好む仕事に熱心に従事せしむることによって治ったという。
彼はその「仕事」の中に「自己」を表現する道を見出したからである。

自己創造のない「仕事」は人類を窒息または狂死せしめ、
自己創造のある「仕事」は人類の生命を伸び伸びせしめ、
たえず自分に生気を吹き込み、たえず自分を若返らしめる。

「仕事」が面白くない人は、その仕事に自分の生命を打ち込まないからである。
自己創造をしないからである。いかなる仕事の中にも自己創造ができる。
仕事に愛を持つとき、愛は生み出す力であるから自己創造となる。

与えられただけの仕事のみをするところに自己創造はありえない。
仕事を愛して、与えられた以上にその仕事の発展のために工夫するところに
自己創造があるのである。

与えられただけの仕事だけしかしない人はロシアの囚人に甘んずる人である。
彼はただ生命を擦(す)り減らし、老いゆくのみである。
今ある立場において、与えられた以上に発展工夫する者は
常に新しく、常に老いない者である。

            <感謝合掌 平成30年4月4日 頓首再拝>

《神と實相のみを愛せよ》  - 伝統

2018/04/07 (Sat) 03:53:14


        *「光明法語」(4月7日)より

祈りも、神想観も、結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。
父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好いのである。
神よりも御利益を愛するもの、實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

            <感謝合掌 平成30年4月7日 頓首再拝>

【口善人と呼ばれないために】 - 伝統

2018/04/21 (Sat) 03:21:48


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年03月01日)より

   (北川八郎氏の心に響く言葉より…)

   《釈尊はいう。まず自分を正しく整え、次いで他人に教えよ。
    そうすれば煩わされて悩むことが無いだろう。
    他人に教える通りに、自分でも行え。
    自己は実に制し難いからである。》


   本当に自己は制し難い。

   人に忠告するのは簡単である。

   人に良きことを説きたければたくさんの本を読み、
   そのことばを伝えれば良い。

   しかし、頭で考えたことや、自分がなし得ないことをいくら説いたところで、
   ことばに光や、重みがないので、人の心にはしみ込まない。

   不思議なことだ。


   自分が体験し、苦しみ、そして平安や、安らぎを得て
   ・・・釈尊のいわれる「先ず自分を正しく整えて」・・・
   初めて、人に喜びを与える感動等がことばになる。

   その時こそ平凡な、使い古されたことばでも、人の心を打つ。

   ことばにエネルギーが乗り、人の心に飛んでゆくからだ。


   NHKのTV番組で、ある県の健康大会の模様を中継しているのを見ていた。

   その中で、司会者を挟んで両側に東大の先生が座り、
   タバコの害をしきりにグラフや数字で示していた。

   喫煙がガンの原因になることを説き終わり、
   「ところで、両先生も、タバコは吸われないんですよね」と司会者がいった時、
   二人とも「いえまだ吸っています」と答えた。

   その瞬間、今までの講義内容は苦笑とともに消え去ってしまった。


   東大の先生であろうと…まず、
   「自分を正しく整え、次いで他人に教えよ」と2500年前に釈尊は教えている。

   そうすれば、その東大の先生が信を失うことはなかったであろう。


   たくさん良きことを口にしていると、
   それが自然に自分の耳に入り、自分が少しずつ正されてゆく。

   良きことを行い、良きことを口にし続けると、
   自分が少しずつ修正されて澄んでくるのが解る。

   自分がなさないことを口にして、人を諭すのを名づけて口善人と呼んでいる。

   私自身への警告である。

   口善人と呼ばれないために、出来ないことは口にしない。

          <『ブッダのことば 「百言百話」』致知出版社>

              ・・・

「修身斉家治国平天下 (しゅうしんせいか ちこくへいてんか)」
という言葉が「大学」にある。

「大学」とは、中国の儒教の「四書五経」のうちの、最も大事だとされる教え。

あの、銅像でよく見かける、薪を背負っている二宮金次郎が
読んでいる書物が、この「大学」だ。


天下をおさめるには、先ず自分の心を鍛え、身を修める。

そして次に家庭をしっかりとととのえ、そののちに天下を平らかにするということ。


親でも教師でも、経営者でもリーダー的な立場にある人が、
口で言っていることと、やっていることが違ったら、誰もついてこなくなる。

自分を修めることができていない人は、人にモノを教えたり、導いたリすることはできない。


親は、往々にして、自分ができなかったことを子供に要求する。

教師も、経営者もまた然(しか)り。


他人に言うのは簡単だが、自分を律することはまことに難しい。

口善人と呼ばれないために…

いくつになっても、自分の行いを律し、身を修める人生を歩みたい。

            <感謝合掌 平成30年4月21日 頓首再拝>

《親切丁寧と云うこと》 - 伝統

2018/05/01 (Tue) 03:29:07


           *『光明道中記』(P138)より

どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、
それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。

聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。

「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。
「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。

不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。

物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、
物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、
実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。

すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。

この意味に於て「行」が大切である。

            <感謝合掌 平成30年5月1日 頓首再拝>

《人間運命の弱小は自己欺瞞に過ぎぬ》 - 伝統

2018/05/03 (Thu) 03:56:16

         *「光明法語」(5月3日)より

神の子であるところの人間が、
そんなに弱小なる運命に定められていると思うのは自己欺瞞に過ぎないのである。

自己欺瞞を去れ。
汝は神の子ではないか。

人間は自分自身の運命を斯くの如く限ってはならないと同時に、
他の人の運命も限ったり縛ったりしようと望んではならないのである。

誰をも害しない、誰をも束縛しない
自分の伸びる道があると云うことを信じなければならない。

自己の運命をよくするためには、悪は存在すると云う人類の通念に縛られず、
現象の形に惑わされないようにせねばならぬ。

            <感謝合掌 平成30年5月3日 頓首再拝>

言い訳をやめる - 伝統

2018/05/07 (Mon) 03:51:23


         *Web:direct-connect(2018/05/06)より
              ~From:ダン・ケネディ(米国・億万長者)

   デブラ・ラフェイブは14歳の生徒と性交渉を持った
   悪名高いセクシーブロンド中学教師でしたが、
   父親不在の家庭で育ち、夫ともつまらない結婚生活を送っていたそうですね。

             ・・・

   騒動を起こしたメル・ギブソンは酒に酔っていたそうですよ。

             ・・・

   あからさまな性的内容のEメールを未成年男子に送った
   元フロリダ州選出の下院議員は
   (a)子供のときに牧師によって性的いたずらをされ、
   (b)酒に酔っており、
   (c)同性愛者であり、

   辞職に追い込まれた後は自身のアルコール中毒を証明するために
   更生施設に入りました。

             ・・・

   フィリップ・ウィルソンの「悪魔が私にそうさせた」という言葉は、
   ジョークから戦術へと進化していきましたね。



残念なことに、その戦術は今や世界中で使われるようになりましたよ。

誰もが言い訳をし、名誉を回復するためにさっさとリハビリに向かうのです。

世の中狂っていますよ。

はっきり理解してほしいのですが、
「説明」と(許される)「言い訳」のあいだには
グランドキャニオンなみの大きな違いがあります。

私だって昔は大酒を飲んだり、酔った勢いで本当に馬鹿なこともしましたよ。
その中には覚えていることも、残念ながら覚えていないこともあります。

酒に酔った状態というのは確かに状況説明としては使えますが、
言い訳には全くならないのですよ。

私が飲酒運転で子供をひいてしまったら、
許される理由なんて存在しないのですからね。


誰もが許してもらおうと弁明するのに必死になっているのです。

彼らは「大目に見てください」と泣きつき、
それですべてを終わらせたいと思っています。

(中略)

一個人として、そして社会全体としても、
私たちは一刻も早く次のように言えなければなりません。

「いいえ、申し訳ないですが、あなたの言い訳は許されません」


子供に学習させることができない教師や校長、
コーチやチームメイトと協力できないフットボール選手、
売ることができない販売員、自分の仕事ができない従業員、
任期中に盗みや汚職がやめられない選出議員など、

すべてクビになり、追放されるべきですよ。


まずは自分自身から始めなければなりません。

私が一緒に仕事をしていたり、大金を稼いでいる少数のエリートたちは
上記のことについても考えや言うこと、することが違います。

彼らは意図的に、そして当然のこととして自分の行動に責任を持っていますからね。

そして、そういう態度でいるほうが誰にとっても効率的なのですよ。


自分の考えを明確にしない、返答せずに時間稼ぎをする、嘘をつく、
または他者を非難することは周囲に困難をもたらしたり、
既にあるトラブルを更に悪化させたりします。

あなたは自分の成功にも、そしてひどい失敗にも責任を持ってくださいよ。

そして、勇敢な戦士のように潔い態度を取ってください。


何かを成し遂げることよりも自分たちの失策や愚かさを隠す方が大事だ
と思っている役人や役員のおかげで、政府や大企業はおかしくなっていますよ。


しかし、起業家精神に溢れた私たちは彼らの悪いお手本を見習う必要はありません。

道徳的権威を持った思考や言動を自分自身が選択し、
あなたの周りのすべての人にもそれをしっかりと要求できるようにしてください。

もしあなたが言い訳を考えることで手一杯だとしたら、
ほかのことなんて何も達成できないのですからね。

            <感謝合掌 平成30年5月7日 頓首再拝>

霊感多きで、慢心するなかれ - 伝統

2018/05/13 (Sun) 03:21:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より

『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。

南泉和尚が修行の力なくして鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。

人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしいというのではないという意味である。

道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して
「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、すでに得道のとき、
天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむねあきらむべし」と悟しておられるのである。

今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、真実、仏道の悟りを得たならば、
天人の霊眼にも見えないし、鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。

その深き意義を明らかに考究せよという意味である。

いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、まだ最高級の悟りに達していない
のだから注意せよと道元禅師は言われたのである。


そして道元禅師は、五祖の章の結末を
「しるべし、無修の鬼神に?見せらるるは、修行のちからなきなり」と叱咤していられる。

本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にあるヴェッテリニの霊告によっても、
低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、現実界にあらわれる以前に
地上に渦巻く雰囲気を感知して、高級霊よりもいっそうよく予言などが的中するのだ
と示されている。

高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである ―― もっともそれはそれぞれの
霊的因縁によることであり、それぞれの使命のあることであるが ―― 
したがって霊感などがあまり多くあることを慢心してはならないのである。

むしろ霊感多き人は南泉和尚のように「老僧修行のちからなくして鬼神に?見せらる」と
修行の足らざるを反省すべきである。

道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」と嘆いたと書いている。

*覰見(ちょけん)=うかがい見る

            <感謝合掌 平成30年5月13日 頓首再拝>

自分を「公な存在」に常に置き換えること - 伝統

2018/05/18 (Fri) 04:12:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日)」より

神は自己自身を実現するために「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。
しかしてわが欲することは神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからないなどとは思うな。

「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。

            <感謝合掌 平成30年5月18日 頓首再拝>

「公的精神」 - 伝統

2018/05/19 (Sat) 03:53:12


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月19日)」より

我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

            <感謝合掌 平成30年5月19日 頓首再拝>

生活が本当になったとき心が落ちつく - 伝統

2018/06/06 (Wed) 03:15:26


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より

生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に据わっていないからである。

機械でも据わるべきところへ据わったら、震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。

心を落ちつけるのも大切であるが、心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。
ごまかしの生活をしながら心ばかり落ちつかせようと焦ってもしかたがない。

正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月6日 頓首再拝>

落ちつける生活 - 伝統

2018/06/07 (Thu) 04:01:15


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月7日)」より

減るという考えがあっては落ちつけぬ。
損するという考えがあっては落ちつけぬ。

人間は神の子であって、減らない生命と財とを与えられているのであり、
どんな時にも損するということはないものじゃという考えになったときに初めて
われわれは落ちつけるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月7日 頓首再拝>

真実の生活を送る - 伝統

2018/06/16 (Sat) 03:19:06

       *「神道 感謝のこころ」葉室頼昭・著(P129~132)より

三十五億年もの間、生命が続いてきたわけは、
細胞中の遺伝子を絶やすことなく伝えてきたことによります。

親の遺伝子を子に伝え、子が親の遺伝子を受け継ぐという方法以外に、
命が伝わることは絶対にありえません。

これを人間の体で伝えているのが新陳代謝です。
古い細胞がその遺伝子を新しい細胞に常に伝えることによって、
われわれは生かされているのです。

この新陳代謝が終わったとき、人間の生命も終わるのです。

生命というのは、個体の生命だけを指すのではありません。
生き物はそれぞれ、その種の生命を伝えることによって、
個々の生命が伝わるという仕組みになっているからです。

人間なら、個人の生命だけでなく、国としての生命、民族の生命、企業の生命、
そしてそれぞれの家の生命を伝えることによって、
個々の生命が伝わるという風にできているのです。

ですから、国や民族が持っている特有の伝統文化を伝えなくなると、
その国は滅亡し、個人の生命もまた滅んでいくことになります。

しかし、戦争に負けてからの日本は、日本人として誇りを持つべき
過去の歴史や伝統文化をすべて否定し、子供たちに伝えなくなってしまいました。
これは大変なことです。

このために戦後生まれの人たちは、過去のことは
すべて自分には関係ない古いことだと考え、
日本の国に誇りを持たないようになってしまったのです。

日本の歴史や文化を知らないために、アメリカや西欧が正しく、
また優れていると考え、日本人は外国人よりも劣っていると思い込んでいる人が
多いのです。

しかしこれは、日本人の生活やものの考え方が外国人とは異なっているだけ
のことであって、その異なっていることの中に、他国の人たちには見られない
素晴らしい宇宙観、自然観そして優れた情緒が息づいているのです。

日本人は、人間は自分で生きているのではなく、
すべて神さまの恵みと祖先の恩によって生かされているという
感謝の生活を送ってきたということです。

これは、人間の生きる素晴らしい真実の道です。

この世の中にはいろいろな悩みや苦しみ、病気などがありますが、
それらすべては、生かされているという感謝の気持ちを忘れ、
自分で生きているという「我が」の心が原因で現れてきます。

いろいろな悩みが現れるのは、神さまからいただいた清浄で健康な素晴らしい姿を
覆って包んでしまう罪(包み)や、私たちを生かしてくださる神さまの尊い気を
枯らしてしまうような穢(けが)れ(気枯れ)が身についたためだということを、
昔の日本人は直感で知っていました。

ですから、これらの罪穢れを祓い除けば、もとの健康で幸せな姿が現れるとして、
古来より祓いということを行なってきたのです。
これは、世界に誇るべきことであると私は思います。

今の医学では、病気は存在するものであり、それを撲滅するのが治療だと思われています。
しかし私は、この日本人の「罪穢れを祓えばもとの健康が現れる」という考え方
のほうが真実の医学ではないかと思うのです。

日本人は古来より素晴らしい真実の生活を続けてきた
世界でも珍しい民族でありますから、これらをひとりでも多くの人が自覚し、
日本人の誇りをもって、胸を張って生きてほしいと願っているのです。

            <感謝合掌 平成30年6月16日 頓首再拝>

《暗黒面を見るよりも光明面を見よ》 - 伝統

2018/06/20 (Wed) 04:45:57


        *『人生の秘訣365章』第5篇(P124~125) より

人の欠点を見るよりも美点を見る習慣をつけよ。
人の光明面を見るように心掛けよ。

美点や光明面を見る心の習慣をつけることによって、
美点や光明面の映像が自分自身の潜在意識に印象せられる
ことになるのである。

そして、その印象された美点と光明面とが自分自身の性格として
顕れて来ると共に、自分の身辺にも美しさや明るさが実現することになる。

他(た)の人の美点や明るさを常に自分に移入することによって、
自分自身が素晴しくなるのである。

不幸や暗黒に同情するよりも
幸福や光明に同調することによって人間は一層伸びる。


「あの人は不幸な人だ」と涙をかき垂れるよりも、
「あの人は不幸に見えているけれども、その實相は神の子で
幸福になり得る要素が内在するのだ」と、

その實相の光明面を拝み顕すことによってのみ、
その人を起上(たちあが)らすことが出来るのである。

            <感謝合掌 平成30年6月20日 頓首再拝>

善き友と交わること - 伝統

2018/06/21 (Thu) 03:10:20


       *「光明法語」(6月21日)より

見る姿・形は一種の暗示となって吾々の魂の中に投げ込まれるのである。

友だち又は知人の悪しき範例(おてほん)を見ていると、
その悪しき姿が自分の潜在意識内のレコードとなり、縁を得れば
その通りの悪しき姿が自分の行為(おこない)に現れてくる。

善き友と交わり、善き友の行為(おこない)を見、善き友の言葉をきく事は、
目に見えぬ無限の宝を内に積むことになるのである。

潜在意識の中にあるよき想念は、無限のよき宝であると云うのは、
其処から無限の善きものが湧き出るからである。

すべて心に入りたる物はやがて形となって顕れて来る。

        <感謝合掌 平成30年6月21日 頓首再拝>

決意をもって断じて行え - 伝統

2018/06/22 (Fri) 04:29:42


       *「光明法語」(6月22日)より

「断じて行えば鬼神も避く」と諺(ことわざ)は言う。
道は、決然たる意志の前にはその扉を開く。
道がなければ自分が道を造れば好い。

キリストは「我は道なり」と言った。
八方が塞がっても上方はあいているのだ。
上方は神に通ずる道である。道なき時には神に頼れである。

不可能を可能にかえ得るものは決意である。
「意志の教育こそは吾人存在の目的である。
断乎たる決意ある者の前には常に時と機会とが待っている」とエマーソンは言っている。

世界を動かす梃子(てこ)は意志の力である。

        <感謝合掌 平成30年6月22日 頓首再拝>

荘厳なる生活をせよ - 伝統

2018/06/28 (Thu) 03:38:24


          *「光明法語」(6月28日)より

吾等は吾が生活を荘厳なるものたらしめるべからず。
何となれば人間は神の子であるからです。

魂を高揚せしめる大思想家の文章は汝の魂をして荘厳ならしむべし。

低卑なる市井(しせい)の俗語に耳傾くべからず。
闇の話、脱税の話、野卑の話、猥褻なる話きくべからず。

仏典を読むべし。聖書を読むべし。
『甘露の法雨』を読むべし、
『生命の實相』を読むべし。

すべて天啓、神示に基づく荘厳なる文章を読むべし。

猥雑極まる近代のエロ文学読むべからず。

言葉の力は恐ろしき迄強き也。

        <感謝合掌 平成30年6月28日 頓首再拝>

時間を大切にせよ - 伝統

2018/06/29 (Fri) 03:31:51


       *「光明法語」(6月29日)より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、然(しか)らざれば向下するかである。

        <感謝合掌 平成30年6月29日 頓首再拝>

真理の前に跪(ひざまづ)く - 伝統

2018/07/01 (Sun) 04:01:12


       *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月1日)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

         <感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>

「ハイ」と「否」 - 伝統

2018/07/04 (Wed) 04:16:59


        *「光明法語」(7月3日、7月4日)より

七月三日の法語 「ハイ」の「無限力

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
   然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

・・・

七月四日の法語 「否定」の威力

   「ハイ」に対する最も簡単にして最も偉大なる力は、「否!」である。

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも自由に販売しているところの
   百貨店だと言える。
   それを求める貨幣は「決意」である。

         <感謝合掌 平成30年7月4日 頓首再拝>

道は自己の「真剣」の中にあり - 伝統

2018/07/06 (Fri) 04:03:09


          *「光明道中記」(7月6日 至誠身を献ぐる日)より

【遊女マグダレーナは一切を真理(キリスト)の足下に漑(そそ)いだのであります。
                              (『完成の聖書』】


達磨大師の法を嗣(つ)いだ人が第二祖の慧可禅師である。
少(わか)くして出家し洛陽竜門の香山(こうざん)にいたり
永穆寺(えいぼくじ)の僧となる。

諸法を歴遊し、三十二歳再び香山に帰って参禅瞑想すること八年、
あまり宇宙の真理を瞑想し過ぎたので、
「頂骨(ちょうこつ)為(ため)に変じて五峰(ごほう)の秀出(しゅうしゅつ)
せるに似たるものあるに到れり」と言うから、瞑想のために骨相が変り、
五峰が突々(とつとつ)として聳えているようにろ頂骨が盛り上って来たものらしい。

真理を求めるには八年参禅して真理を瞑想して骨相まで変る
 ―― この意気が欲しいと思う。

慧可四十歳の時、達磨大師が嵩山(すうざん)に巡錫(じゅんしゃく)
せられたのを機会に、嵩山(すうざん)の少林寺を訪れて
入室を乞(こ)えども許されない。

終夜雪の中に過して翌暁(よくあけがた)に至るも尚(なお)許されない。

そこで慧可はみずから左の肱(ひじ)を切断して、
入室を許されずんば死すとも此処を去らずの赤誠(せきせい)を
披瀝(ひれき)したので、とうとう入室を許されたのである。


今は、生長の家の道場に入ることの易きこといかばかりぞや。
それだけに真剣味ありや。
真剣味ある者は幸いなり。

道は自己の「真剣」の中にあり。

漫然と来(きた)って漫然と聴き、漫然と批評し去る者は愚かなるかな。
自分の心だけのものしか見えず聴えずである。

            <感謝合掌 平成30年7月6日 頓首再拝>

日常生活、事々物々禅である - 伝統

2018/07/13 (Fri) 04:20:11


          *「光明道中記」(7月13日 日常生活に道を現す日)より

【本当の美しさと云うものは深切な愛の行(おこな)いの内にこそ輝くものであります。
                          (『生命の實相』第十五巻)】

五祖弘忍の弟子に慧能と云う米搗男(こめつきおとこ)があった。
日常生活、事々物々禅であることを気着かぬ人は慧能を学ぶが好いのである。

禅とは変な、日常生活に適用せぬような奇警(きけい)な警句を吐いて問答し、
奇行怪言(きこうかいげん)相手を翻弄するの妙(みょう)を得ることだと思っていれば、
それは大変な間違である。

米を搗(つ)くのが禅であり、掃除をするのが禅であり、飯を炊(た)くのが禅であり、
茶を淹(い)れるのが禅である。

禅と茶との一致の妙用に達したのが茶道である。
茶道を手先の袱紗(ふくさ)《さばき》や、足の踏出し方の足先の技巧だと思っている人は
いつまで経っても「茶の淹れ方」に過ぎぬのであって「茶道」には達せぬのである。

「茶の淹れ方」は茶道の師匠の免許までも得るほどに稽古出来ていてさえも、
日常の坐作進退方(ほう)にかなわず、御飯を焚(た)いても硬軟その所を得なかったり
するのでは何にもならぬ。

御飯たくことが茶道なのである。
御菜(おさい)を煮ることが茶道なのである。
一芸に名人と謳(うた)われるような人は何をやらせても直ぐ、骨(こつ)を体得する。

「道」は万(すべ)てに通ずるが、
「手先の技巧」ではすべてに通ずることは出来ぬのである。
心得べきことである。

            <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>

道は生活に如実に実現しなければならない - 伝統

2018/07/16 (Mon) 07:13:54


          *「光明道中記」(7月16日 道を歩む日)より

【世界は公平で自分の心だけのものを投げ返す。
 之(これ)を生長の家では「心の法則」と言う。(『生命の實相』第八巻)】


趙州(じょうしゅう)和尚の「飯を食ったら茶碗を洗え」の公案は
『生命の實相』に書いてあるから茲(ここ)には再び書かないが、
趙州和尚は常にこう云う導き方をした人である。

ある時一人の修行僧が趙州和尚を訪ねて道をたずねた。

「道は牆(かき)の外にあり」(《そら》其処に道があるじゃないか)と趙州は答えた。

「そんな詰(つま)らない道のことじゃありません。人間の歩む大道(たいどう)のことです」
と修行僧は言った。

「そうか、そんな大道か。大道なら都(みやこ)の長安に通じているよ」と趙州は答えた。

道とか大道とか言っても、そんな抽象的なものが道ではないのである。
道は具体的なものである。
生活に如実に実現しなければならないのである。

人類愛だなどと言いながら、
手近にいる家族と仲好く出来ないようなことでは道が大地についていない。
それは空中楼閣に過ぎないのである。

手近なところに道がある。
1枚の紙、鉛筆の削り方、筆箱の整理、茶碗を洗う、廊下を拭く、便所を掃除する、
すべて道ならざるはないのである。

至道無難(しいどうぶなん)唯揀択(ただけんじゃく)を嫌うとはよく言ったものである。

            <感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>

適時、適所、適人 - 伝統

2018/07/25 (Wed) 04:46:12


         *「光明法語」(7月25日) 

生長の家は毒物を食しながら、
心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と思念しながら食べたら、
毒が変じて栄養となると云うのではない。

心が完全に働けば、
本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。

そして食物の分量や質の配置なども適当となり、
すべてが《ある》べきところに《ある》ように
適当におかれると云うのである。

神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。

            <感謝合掌 平成30年7月25日 頓首再拝>

「心」と「言葉」と「行ない」との一致 - 伝統

2018/07/29 (Sun) 04:20:07


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月29日)より

生長の家では、心と言葉と行ないとこの3つが一致しなければならないのである。

「イエス言い給う『なんじらも今なお悟りなきか。すべて口に入るものは腹にゆき、
遂に厠に棄(す)てらるることを悟らぬか。されど口より出(い)ずるものは心より出ず、
これ人を汚すなり』」と「マタイ伝」第15章16節~19節にある。

またあるところでは「主よ主よと言うもの必ずしも天国に入るに非ず、
天の父の御意(みこころ)を行なう者のみ天国に入るなり」ともイエスは言っている。

口先ばかりでも救われないし、行ないばかりでも救われない。
心が伴った言葉、心が伴った行ないでないと救われないのである。

         <感謝合掌 平成30年7月29日 頓首再拝>

打てば響く - 伝統

2018/07/31 (Tue) 04:35:08


        *『光明道中記(7月31日 打てば響く生き方の日)』より

【所を得ていない状態は、まだ実相が現れていないのであります。
                      (『生命の實相』第十五巻)】

「打てば響く」と云う語(ことば)があるが、
何でも打てば響くような応答が出来なければならない。

剣道の極意も、猶予なく瞬間を捉えて、その刹那に打ち込むところにある。
同じ動作をやっても、機会を失ったら何にもならないのである。

「汝は是れ慧超」と云う語(ことば)も別の機会に言ったら
別の意味を有(も)ったことになるであろう。

「如何なるか是れ仏」の問いに対して『お前は慧超だ』と発止と応えたところに、
仏が仏であり、お前は始めから慧超であるように、仏が仏であり、
始めから成仏しているのが仏であり、衆生本来仏であると云う意味なども、
この端的の語(ことば)の中に一切が引くるめられているのである。

楠木正成公がまだ若かった頃、奈良の春日山に参詣した途上で一人の雲水に遇った。
その雲水に正成公が「仏教の妙密(みょうみつ)の極意を教えて下さい」と頼んだ。

すると、その老僧はそれに応えないで、「正成! 」と
あらためて楠公の名を呼んだのである。

「ハイ」と楠公は覚えず応えた。

「そこだ、仏教の極意は、そこに何の妙密がある? 」と老僧は言った。

『爾来(じらい)兵を用いること自在無礙、恰(あたか)も自己の手足をつかうが如し」
とは楠公自身の述懐である。

打てば響くが仏道である。

         <感謝合掌 平成30年7月31日 頓首再拝>

《足を踏みしだくこと》 - 伝統

2018/08/01 (Wed) 04:21:59

          *「光明道中記」(八月 列日に伸びる)より

上位は下位を下属せしめなければならぬ。
天は地を覆い、地は天を載せなければならない。

吾々はそれを日々行じなければならないのである。
先ず自分自身にそれを行じなければならぬのである。
心に行じ、身に行じ、体に行じなければならぬのである。

真理の実践である。

人々は姿勢を軽んずるが、まず真理は自分の最も近いところの自分の身の形(姿勢)に
上位をして完全に下位を下属せしめていることを実現しなければならないのである。

姿勢の根本は腰にあって腹の膨大にはない。
腰は後屈を忌む。即ち腰くだけを忌むのである。

併し足の位置整わずして意志の力にて腰のみを正しく《立てる》(屈み腰の反対)
ことには、到底長時間は耐えられない。

腰を正しく立てるには左足の足蹠(つちふまず)が会陰部(えいんぶ)を下より覆い、
左足の甲全体を右足の足蹠(あしうら)によって下より覆い右足の足趾(ゆびさき)は
左足の外側踝(くるぶし)に稍々(やや)触れる位に重ね、足全体を完全に全身の下位
にあり、隠れしめねばならぬ。

会陰は一切の陰になる部位(足を含む)と相会し隠れて了うのである。
肛門は足蹠又は踵(かかと)よりに後部に落ちる。

斯くの如く坐して腰を前方へ張出す如くして腰部に上体の支点を置き、
その上に上体を垂直にフウワリと位置せしめるろ頂部を天上に釣り上げられる如き
気持ちで坐せば、自(おのずか)ら肩の力が落ちて、

上位、下位の真理が如実に行ぜられるのである。

         <感謝合掌 平成30年8月1日 頓首再拝>

「道は邇(ちか)きにあり」 - 伝統

2018/08/10 (Fri) 04:21:12


        *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月10日)より

世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが自分にとって
最も消化しやすい栄養であるのである。

手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。

神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。
邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものは
ついに天国に到ることができないのである。

「道」は ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、太陽は毎朝東から差しのぼって
なんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

      <感謝合掌 平成30年8月10日 頓首再拝>

排斥する心は毛虫のような心 - 伝統

2018/08/11 (Sat) 04:30:35


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月11日)より

人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのが
わたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、
ある人を排斥するのはまちがっている。

「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。
ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、
自分を衛(まも)るために人の不快がる装いをして平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

      <感謝合掌 平成30年8月11日 頓首再拝>

他を羨むな! 自己の内に宿る価値を掘れ! - 伝統

2018/08/26 (Sun) 04:41:48


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月26日)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。
自分が貧弱なままで諦めておれということではない。
自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

         <感謝合掌 平成30年8月26日 頓首再拝>

ただ、恵まれている体験を語り、互いに讃嘆する - 伝統

2018/09/01 (Sat) 03:48:02


        *「光明道中記」(9月1日 心澄み切る日)より抜粋

誌友会に出ても色々の真理の書の文章を批判し、此の書には斯う書いてある。
自分はこの方の方に共鳴するとか何とか、甲論乙駁する人たちがあるが、
そう云う人々は解釈によって救われよとする人であって、自力の行である。

他の色々の本に斯う書いてある、彼(ああ)書いてあると言って誇り顔に言う人は、
また別の新しい説き方をする人があったら直ぐ信仰が崩(くず)れて了うのである。

救われるのは「実相」により、念仏によるのであるから、
誌友会に臨んでは理窟を言うよりも、
ただ有りがたく救われている体験を謙遜に語り合い、互いに讃嘆すべきである。

         <感謝合掌 平成30年9月1日 頓首再拝>

【人の悪口を言わないための修業】 - 伝統

2018/09/11 (Tue) 04:42:12


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年06月22日)より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   不安な人って結局ね、神様を信じてないんです。
   神様がいるんだってことを信じてない。

   でも、この宇宙には歴然たる法則というのがあって、

   人の悪口を言いながら幸せになるとか、
   不安なことを考えながら幸せになるとか、
   そんなことはできないようになってるんだよ。


   一人さんってね、下心なく人のことを褒めるんです。

   それに、お弟子さんが困ってたり、
   お手伝いが必要だなって人がいたりすると、
   私は飛んで行って手伝います。

   それで一人さんに何かいいことあるんですかっていうと、
   どういうことが起きるかまではわからないけど、
   必ずいいことがあるんです。

   そういうものなんだよ。


   ただ、もしごほうびがなかったとしても、
   お手伝いをした人から喜ばれるだけでいいことだよね。

   周りの人に喜ばれるだけで、私も幸せな気持ちになれるんです。

   この世の中っていうのはね、まずは自分の周囲、簡単に言えば
   周り近所の人に喜ばれることしかない。


   私はいつも「自分も人もゆるそうね」って言うんだけど、
   人をゆるしましょうって言ったって、
   それはあなたの周り近所にいる人に対してだけなんです。

   別に、ヒットラーをゆるせとか、そういう話じゃないよ。

   だって、ヒットラーはあなたの側にいないでしょ。

   あなたの側にいるのは、口うるさいお姑(しゅうとめ)さんだとか、
   近所のおじさんくらいだよね(笑)。


   もし会社が嫌なんだとしたら、会社を辞めちゃえばいいし、
   嫌な人とは付き合わなきゃいいんだよね。

   で、どうしてもその相手と付き合わなきゃならないんだとしたら、
   それは文句や愚痴を言わない修行なんです。

   相手がいくら悪口を言っても、自分は言わない。

   あのね、嫌なことが起きるということは、
   ちょっと嫌なことあると人の悪口を言ったりするからなの。

   自分がそういう性格だから、嫌なことを引き寄せてくるんです。

   人の悪口とか、愚痴やなんかを言わなくなると、人生は必ず変わるよ。

   自分が変われば、すべて変わるようになってるんです。


   どうしてですかっていうと、神様がそういう仕組みを作ったんだよね。

   あぁ、これは人の悪口を言わないための修業だなってわかれば、
   人生はパッといい方向へその瞬間に変わります。


   この世の中は、人を変えようとするからおかしくなっちゃうんです。

   私なんて、もし週刊誌で自分の悪口を書かれたとしても、
   「この週刊誌、売れるといいね」って言います(笑)。

   あのね、悪口を言うってことは、
   自分の畑に唐辛子(とうがらし)の種をまいてるのと同じなんです。

   人から悪口を言われて、こっちも言い返しちゃうと、
   言ったぶんだけ自分の畑に唐辛子の種をまくようなものだから、
   それを刈り取らなきゃいけなくなる。


   ピリッと辛くて目にしみるような出来事が嫌なんだったら、
   最初から唐辛子の種をまかなきゃいいんです。

   念のために言っておくけど、唐辛子がいけないってわけじゃないよ。

   これはたとえ話だからね(笑)。

         <『斎藤一人 俺の人生』マキノ出版>

              ・・・

斎藤一人さんはこう語ります(本書より)。

『普通、「これはさすがに黙っていられないな」ってくらい
嫌なことをされると、つい文句を言っちゃう。

でもね、それでも言わないでいると、
神様のごほうびがもっともっと多くなります。

ものって考えようなんだよ。

こんなに嫌なことされたんだから、
堪忍袋の緒が切れてもしょうがないって。
そんなふうに判断して、つい文句を言っちゃう。

つい堪忍袋の緒が切れるような難しい問題を神様から出されると、
みんなすぐひっかかっちゃうんです。

だけど、そこでひっかからない。
そうすると、得点が高いんだよ。

難しい問題でも、サラっと答えに愛が出せると、すごいごほうびがもらえる』


世の中にはひっかけ問題が本当に多い。

ここまでひどいのだから、文句を言ってもいいだろう、と思わせる出来事などだ。

言うにしても、愛ある言葉で、愛ある態度で、愛ある表情で、言うならいい。

しかし、鬼のような形相で怒鳴ったり、
相手を傷付けるようなひどいことを言ったら、
ひっかけ問題にひっかかってしまったということだ。

人の悪口を言わないための修業を、日々実践をしたい。

         <感謝合掌 平成30年9月11日 頓首再拝>

人・物を大切にするということは、神の愛を持ち来たすことになる - 伝統

2018/09/19 (Wed) 04:15:49


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、
神の栄えはあらわれないのである。

神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、
神の愛をあらわれの世界に持ち来たらしさえするならば
人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、「物を大切にすること」とはちがうのである。
「貪欲」は自己の貧しさを恐怖して、むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とはその物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

             <感謝合掌 平成30年9月19日 頓首再拝>

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