伝統板・第二

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先祖供養 ② - 伝統

2018/02/05 (Mon) 03:51:46

先祖のまつり

          *Web:神社ものしり事典 より抜粋

(1)日本人は死んだらどこに行くの?

   日(ひ)の本(もと)に生(あ)れ出(い)でにし益人(ますひと)は 
   神より出(い)でて神に入(い)るなり (江戸時代の伊勢の神宮の神官 中西直方)


   「祖先の神があってこそ生まれ出た自分、
   その自分もやがては祖先の神のもとへと帰っていくのだ。」というこの歌は、
   日本人の死についての昔からの考え方を明確に表現しています。

   民俗学の草分けといわれる柳田国男は、著書『先祖の話』のなかで、

   「日本人の死後の観念(かんねん)、即ち霊(れい)は永久に、
   この国土のうちに留まって、そう遠方へ行ってしまわないという信仰(しんこう)が、
   恐らくは、世の始めから、少なくとも今日まで、かなり根強くまだ持ち続けられている」
   と述べています。

   つまり、日本人にとって、「死ぬ」ということは、
   仏教で説いているように、十万億土(おくど)のかなたに消え去っていく
   ということではないのです。

   死後、人はやがて祖霊(それい)となり、
   さらに祖先神(そせんしん)へと昂(たかま)っていき、
   この世の子孫の生活を見守っていて下さると考えてきました。

(2)先祖祭りの恩恵で高まっていく

  ①その祖霊(それい)は、子孫の行う「祭(まつ)り」(先祖祭りの意味)を
   受けることにより、歳月とともに浄化(じょうか)され、
   子孫を守り、家を守る「氏神(うじがみ)」として、

   またその土地・地域をもお守り下さる「産土(うぶすな)の神」として
   昂(たかま)っていかれるのです。

  ②ここで重要なのは、人の御霊(みたま)は、歳月の経過によって、
   浄化されるとともに、家族をはじめ人々からの「まつり」を受けることによって
   さらに浄化と昇華をし、神格性を持つということです。

   稲魂(いなだま)を育て、水を配り、子孫の生活を温かく見守る
   守護神・氏神となるのです


(3)日本古来から続く「先祖祭り」

  ①「草葉(くさば)の蔭(かげ)から見守る」という言葉がありますが、
   ご先祖さまの御霊(みたま)は、常に私たちの身近にいらっしゃって、
   私たちを見守っています。

   この祖霊(それい)を慰め、霊威(れいい)が昂(たかま)っていただくために行う
   「祭(まつ)り」を「先祖まつり」といいます。

   お盆や春秋のお彼岸の行事などは、今では仏事のように一般には思われていますが、
   祖霊(それい)をおまつりすることは、もともと仏教にはない
   我が国の固有(こゆう)の習俗(しゅうぞく)です。

  ②春・秋の中日は、お墓参(はかまい)りをしてご先祖さまをお慰めし、
   感謝をする大切な日であることを忘れてはなりません。

   (http://jinjya.sub.jp/monoshiri/pc/section7.html

・・・

<関連Web>


(1)「光明掲示板・第一」スレッド「先祖供養 (125)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=63  

(2)「光明掲示板・第二」スレッド「先祖供養 (96)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=45

(3)「光明掲示板・第三」スレッド「先祖供養 (511)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=128

(4)伝統板・第二「先祖供養」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6539638

           <感謝合掌 平成30年2月5日 頓首再拝>

先祖も承認欲求 - 伝統

2018/02/19 (Mon) 03:12:30


      <Webより(2018-01-06)>  

(1)一人寂しく死んで行き、
   その死後も誰からも思い出されることが無かった故人は、
   アノ世の境界を流れる川を渡ることが難しく成ります。

(2)その川を余裕をもって渡るためには

  ①生きる縁者から「良い意味で思い出されること」。
   「感謝されること」。

  ②供養の行為を、生きる縁者からされた故人。

  ③生前は一人であり、縁者も無く、誰からも供養をされない故人でも、
   自分自身で「正しい」先祖供養を行っていた故人は、
   大勢の先祖霊に迎えられて鬼の船頭無しで川を余裕で渡ります。

(3)臨死体験談の8割に共通するのが「流れる川」「トンネル」です。
   そこには、やはり善徳貯金が必要な「最初の」関門が出現します。

   つまり亡くなった故人も、生きる縁者から、
  ①存在したことを承認されること。
  ②定期的に良い意味で、思い出されること。
  ③感謝されること(これは最高位の理想)。

   これらが故人の善徳貯金(生前の生活・行為の反射)となり、
   その先の霊界への道程、来生に生まれ出る環境条件に反映されます。
   
   (http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20180106

           <感謝合掌 平成30年2月19日 頓首再拝>

感謝だけの先祖供養は天から指定されています。 - 伝統

2018/03/04 (Sun) 04:28:05


      <Webより(2018-02-01)>

(1)先祖供養というのは、これを行う人自身が試される行為です。

(2)人類への試金石として、感謝だけの先祖供養は天から指定されています。

(3)公平な試験ツール(道具)として、先祖供養は最適なのです。

(4)先祖供養は、皆様が思われている以上に、重要なことです。

(5)先祖供養の方法は、世の中に色々と有るでしょうが、
   私は感謝だけを捧げる方法をお勧めします。

(6)無理な先祖供養ではなく、自らの先祖供養を。

   (http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20180201

           <感謝合掌 平成30年3月4日 頓首再拝>

先祖供養で不幸になる人・幸せになる人 - 伝統

2018/03/19 (Mon) 03:13:50


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2013年4月29日)より

日本では先祖を大切にする思いが強く、先祖供養も盛んな国です。

先祖供養をされて幸せになる人もいらっしゃるでしょうが、
かえって状況が悪くなるという逆転現象もおこりえます。

それは正しい供養の意義が見失われているからだと思います。


波長同通の法則というものがあります。
これは同じような考えを持っているもの同士が引き寄せられるという法則です。

たとえば、同じような趣味を持っている人同士が集まったり、
同じような考えを持つものと仲良くなったりいたします。

霊的な存在についても言えることで、
地上の人間の考えと共通するような存在が引き寄せられて同通していきます。


先祖供養におきましても、波長同通の法則はなりたちます。

つまり、地上の人間がどのような思いで供養されているかによって、
結果が違ってくるのです。

地上の者が、自分の不幸の原因は先祖のせいではないかと、
責任をご先祖様に擦り付けるような考えを持って、
自分が幸せになるために、いわば先祖供養を利用しようとする思いでなすならば、

同じく、未浄化な霊存在があって、その霊は自分が浮かばれないのは、
子孫がちゃんと供養してくれないからだと、自らの不幸を子孫のせいになす、
責任を転嫁するものと思いが同通し、

先祖供養することで未浄化な霊と通じるようになります。


また、日々自身が幸せに過ごせるのはご先祖様のお陰と、
謙虚に感謝の思いで先祖供養をなされる人には、

浄化された子孫の幸せのために役立ちたいと望む、ご先祖の霊と思いが通じ、
ますます幸せな状況になって行きます。

霊的な世界は思いの世界であり、
たとえ口先でありがとうや感謝の言葉を述べようとも、
その思いにおいて、自らの幸のためにご先祖様を利用しているだけならば、
思いの通りの存在とつながっていきます。

    (http://www.spacebrothers.jp/2013/04/blog-post_29.html

           <感謝合掌 平成30年3月19日 頓首再拝>

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》 - 伝統

2018/03/21 (Wed) 03:44:07

今日は、春のお彼岸の中日です。

仏教的に、お彼岸は、先祖の成仏を
「悲願」「彼岸=三途の川の向こうへ」「祈願」する日です。

ご先祖さまに、感謝の祈りを奉げます。


さらに、今日は「春季皇霊祭」でもあります。

歴代の天皇・皇后・皇親の霊をお祭りします。

太陽の神様である天照大御神様の直系の子孫としての
歴代の天皇様の御霊を通じて、神様に通じる日です。

歴代のご皇霊に心を向けることによって、繋がるものがあり、
それによって電流が流れるように、
歴代天皇様を通じて神様から頂くものがあるのです。

             ・・・

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》

        *『生命の實相』第28巻(久遠佛性篇下)(P65~66)より


【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】


皇霊を礼拝するということ虚礼ではありません。

われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、
どんなときにも日本国が動揺せずに、ここまで日本民族が発展してきました
不倒翁の重心のごとくドッシリとして、

その中心からどんな時にも日本国が立直ることができた重心は
天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇の御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を献げるのであります。


<参考Web:お彼岸のお中日と皇霊祭の意味
        → http://soseinippon.way-nifty.com/shinto/2012/09/post-3de1.html >

           <感謝合掌 平成30年3月21日 頓首再拝>

《先祖に対して聖経を読誦するときの心得》 - 伝統

2018/04/05 (Thu) 04:11:43

4月5日(木) 先負 [旧暦二月二十日]

今日は【清明】(二十四節気の一つ)。

草木清明にして東南風の心地好い季節という意味。

春分後の15日目にあたり「清浄明潔」を略したものと言われる。

中国ではこの日を清明節と呼び、
日本の彼岸のように先祖の墓参りをするようです。

・・・

《先祖に対して聖経を読誦するときの心得》

       *「人生を支配する先祖供養」(P26~28)より

先祖に対して聖経を供養する時

「先祖の霊魂よ、お前は迷っていて、迷いの霊破を送ってくるので困っている。
この聖経を読んであげるから、それをよく聴いて悟りを開いて、
二度と迷いの霊波を送って悩まさないようにしてくれ」

というような事を言ったり、思ったりして聖経を読誦しても効果が少ないのである。

何故なら、そのような気持ちで聖経を読誦したりすることは、
相手の悪をみとめて、軽蔑的語調や”よく勉強せよ”などと言っているようなもので、
現実界の人間に対してでもこのようなことを言うと、
反抗心を起こして反発されたりするのである。

 
これと同じ事が先祖の霊たちにも起こるのであって
「お前は迷っているから、おの真理のお経をおききなさい」では、
いくら聖経を誦げても霊魂達は聴きに来ないかもしれないのである。

 
だから、祖霊に対して聖経を誦む時には、

(1)唯、尊敬と報恩・感謝の念をもって誦むこと。

   ただ尊敬と感謝の念をもって、

   「今まで色々と子孫が受けて来た密たる御恩に対して唯感謝のために
   この真理の御経を霊界に対して放送しますから、どうぞ御受け下さいませ」

   と誦えて、”ただ感謝”の念をもって読誦するがよい。

(2)聖経の意味を説明する。

   聖経を読む前に、先ず

   「この聖経『甘露の法雨」はあなたが先祖から伝承して来たxx宗の教えの真理を
   最も解り易く、現代語で書かれたものでありますから、心を集中して此の聖経を
   聴き給うて、その真理を体得し、霊界に於いて解脱を得て神通自在となり給いて
   仏陀の境涯に達し給わんことを冀(こいねが)う」

   と生ける人に語るが如く唱えてから聖経を読むのがよい。

   そうでないと折角、「甘露の法雨」を誦んであげても、
   それは他宗教の経文であると誤解して反感を起こして傾聴しない場合があるのである。

(3)読誦の時間を定める。

   聖経読誦は、毎日一定の時間を決めて、正確に必ず読誦するようにするがよい。
   霊界には霊的訓練があって、中々多忙であって、毎日不定の時間に読誦していては、
   残念ながらその聖経の読誦を霊が拝聴することができないことがあるのである。

   だから、聖経を誦み終わると

   「毎日、”この時間”または幾時に聖経を読誦しますから
   必ずその時間に来たりて傾聴して下さい」

   と約束して置くがよい。

          (『生命の實相』頭注版第26巻参照)

           <感謝合掌 平成30年4月5日 頓首再拝>

リメンバー・ミー - 伝統

2018/04/06 (Fri) 03:28:14


先日、ディズニー/ピクサーのアニメ映画「リメンバー・ミー」を観てきました。

その制作も内容も素晴らしく、
多くの小さな子供連れのお母さん方も感嘆しておりました。


以下は、Web:一条真也の映画館(2018.3.17)からの要点の抜粋です。


(1)ヤフー映画の「解説」には、以下のように書かれています。

   「1年に1度だけ他界した家族と再会できるとされる祝祭をテーマにした、
   ディズニー/ピクサーによる長編アニメ。

   死者の国に足を踏み入れた少年が、笑いと感動の冒険を繰り広げる。
   テーマパークのような死者の国の描写、祖先や家族を尊ぶ物語に引き込まれる」

(2)「リメンバー・ミー」を観れば、
   死者を忘れないということが大切であると痛感します。

   わたしたちは死者とともに生きているのであり、
   死者を忘れて生者の幸福など絶対にありえません。

   最も身近な死者とは、多くの人にとっては先祖でしょう。
   先祖をいつも意識して暮らすということが必要です。

   わたしたちは、先祖、そして子孫という連続性の中で生きている存在です。
   遠い過去の先祖、遠い未来の子孫、その大きな河の流れの「あいだ」に漂うもの、
   それが現在のわたしたちにほかなりません。

(3)「リメンバー・ミー」の舞台はメキシコです。

   メキシコの人々は基本的にカトリック信者ですが、
   みな先祖を大切にするといいます。

   先祖を大切にすることは家族の絆を強め、精神的な安定にもつながります。
   「リメンバー・ミー」にはメキシコの先祖供養の様子が描かれています

(4)「リメンバー・ミー」にはとても大切なテーマがあります。
   それは、死者の名誉を回復するということです。

   死者の国に迷い込んだミゲル少年はある1人の先祖の不名誉を晴らします。
   そして、ミゲル少年自身の運命をも大きく切り拓きます。

   死者は無実の罪を着せられても、それを自分で晴らすことができません。
   これまでの人類史上、どれだけ多くの死者たちが「濡れ衣」を
   着せられたままでいるかを想像すると、ゾッとします。

(5)人が死んでも、生前について知る人が生きているうちは、
   死んだことにはなりません。
   生き残った者が心の中に呼び起こすことができるからです。

   しかし、記憶する人が死に絶えてしまったとき、
   死者は本当の死者になってしまうというのです。
   誰からも忘れ去られたとき、死者はもう一度死ぬのです。

(6)(この項は、映画では触れていませんが)

   神秘哲学者のルドルフ・シュタイナーによる、
   生者が死者と豊かな関係を築くための方法について

  ①生者が死者をイメージすることが非常に大切である。
   そのような場合、たとえば死者の後ろ姿をイメージすることが
   大事だといいます。

   親が道を歩いているときに見たその後ろ姿の肩の感じとか、
   少し前かがみになって歩いている姿とかが記憶に残っているとするとしますね。
   そういうところをできるだけ、ありありと思い浮かべると、
   死者は生者からの呼びかけを感じることができるのです。

  ②それから、何でもないような、一緒に食事をしたり、
   話し合ったりしたときの情景、何かしてくれたときの様子などが
   自分の中にはっきり思い出として残っている場合、

   それをイメージすると、やはり死者はそれによって
   生者からのメッセージを受け取れるといいます。

  ③それから、死者に対する生者からの働きかけは眠っているときにも生じます。
   夜眠ると、生者の魂は死者と同じ世界に入ります。

   毎晩、眠っているときのわたしたちは、
   実は死者たちと一緒に暮らしているのです。

   だから眠りの中に、死者に対する供養になるようなイメージを持ち込めるといいます。

    (http://ichijyo-cinema.com/2018/03/post_314.php

   ・・・

   <参考Web>

    リメンバー・ミー|映画|ディズニー公式
     → https://www.disney.co.jp/movie/remember-me.html

    映画『リメンバーミー』で見逃せない12のこと(2018年3月27日更新)
     → https://ciatr.jp/topics/62365

    映画【リメンバー・ミー】主題歌日本語ギター弾き語り(歌詞付) - YouTube

     → https://www.youtube.com/watch?v=IcC-eypI-R4

              <感謝合掌 平成30年4月6日 頓首再拝>

縁者の霊を供養する - 伝統

2018/05/03 (Thu) 03:57:59


       *「光明道中記」(5月3日 縁者の霊を供養する日)より

【亡者の霊魂が感憑(かんぴょう)するとその念波の影響を受けて股関節の先天的脱臼、
 小児麻痺的現象・・・等々を起す。
            (『生命の實相』第十四巻、『人生を支配する先祖供養』)】


生後1年2ヶ月乃至15ヶ月を経ても歩行し始めない幼児は、
小児麻痺か何かの神経的疾患であるかも知れぬ。
小児麻痺の後遺症の手足の不随は、現在の医学では治癒の道がないのである。

併し、生長の家では無数に治癒した実例がある。

それは祖先に対して聖経『甘露の法雨』を毎日一定の時間に
「××家先祖代々親族縁族一切之霊」と数回思念を籠(こ)めて唱えて招霊(よびだ)し
「この聖経『甘露の法雨』により霊界に於て本来神子仏子なる実相を成(じょう)じ
たまえ」と恰(あたか)も生ける人に言うが如く唱えてから『甘露の法雨』を
誦するのである。

1回で効果を現した実例もあるが、数ヶ月を要した実例もある。
それは浮かんでいない縁者の霊魂の悟を開く遅速によるのであって、予(あらかじ)め
その治癒の期限を予告することは出来ない。

生まれつきの聾唖(ろうあ)にして聖経読誦6ヶ月にして耳聴えはじめ、
物言い始めし例もある。

神想観を修して、観中、歩行不能ならざる、既に歩行自在なる実相人間の念像を描いて
精神統一するとき、18年間の歩行不能者が歩行し得るようになったとは
藤岡秀信氏の体験談である。

              <感謝合掌 平成30年5月3日 頓首再拝>

《祖先に感謝する》 - 伝統

2018/05/31 (Thu) 04:09:38


         *『人生の秘訣365章』第4篇(P102~103) より

希望実現の第八の法則は、神に感謝すると共に祖先に感謝することである。
あなたという「生命体」の存在は。第一原因を神より発し、
祖先の生命(せいめい)及び霊魂を通して、爰に(ここに)
「あなた」という独自の「個性ある人間」として顕現して来たのである。

神が無ければ「あなた」は無いし、
祖先がなければ「あなた」は存在しないのである。

「恩を知る」ということは、「恩」という字が、
「原因」の“因”という字と“心”との合字であることによって
象徴されているように、

あなたの生命(せいめい)が何処より来ったかの原因を知り、
今日(こんにち)、「自分」が存在するのは。神を因として先祖を第二原因とし、
父母(ふぼ)を縁として因縁相合して自分が今此処に存在するのだ
ということを知り、その“原因”と“縁”とに対して感謝することである。


祖先に感謝するとき、祖先の霊波とのつながりが出来、
祖先の霊の護りが増加し、あなたの希望が成就し易くなるのである。

              <感謝合掌 平成30年5月31日 頓首再拝>

先祖供養と光明化運動、日本国実相顕現運動は 「一」 である - 伝統

2018/06/23 (Sat) 03:13:03


         *平成3年7月28日 「練成会指導者研修会」講演より  
           宇治別格本山山総務   楠 本  加 美 野

先祖供養で大切なことは、形式を重んずる事ではなく、
先祖供養がどんなに大切なことであるかということがわかることです。

先祖は根であるということ、これは 『人生を支配する先祖供養』 の169頁に、 
「大地は神、根は祖先、幹は父母、自分は枝」 と書いてありますが、
枝葉が子孫ということです。 

つまり枝葉が繁栄しているということは、根がしっかりとはっているということです。 
根は見えないけれども、樹木にとっては一番大切なところであります。

そこで、供養とは根の肥料に相当するものです。 
『霊供養入門』 の “はしがき” には次のように書かれています。


 「布施と云うのは施すということで供養とも云う。 
 布施には物施といって物を施すのと法施といって真理を施すのと二法がある。 
 聖経を祖先霊の悟りのために仏前で読誦するのは法施である。 
 仏前に物をお供えするのは物施である。」


この二法の中で、供養の法施が非常に大切であります。 
特に 『甘露の法雨』 はただ読むだけではだめなのです。 
心から感謝の気持を込めて読誦することが大切です。 

『甘露の法雨』 を読んで、「迷っている先祖よ、早く悟れ」 ではだめなんです。 
また親に感謝しないで先祖に感謝することは出来ません。 
なぜかというと、先祖の初めは親であるからであります。 

生長の家式に先祖供養をしますと霊界で先祖が生長の家になり、
光明化運動をしてくださるようになります。 

霊界と現界の関係は、現界は霊界の写しであり、密接な関係がありますから、
霊界を変えれば現界が変わるということです。 

生長の家総本山の龍宮住吉霊宮建立の意義もそこにあります。

先祖供養と愛国心、つまり日本国実相顕現、天皇の実相顕現が一つであるという事、
これが非常に大切です。     

      (中略)

私が以前飛田給にいた時に、親孝行の話ばかりさせられて、あきてきちゃって、
徳久総務に 「別の話をさせてください」 とお願いをしましたら、
徳久総務は 「広沢虎造を知っているか。 広沢虎造は森の石松しかやらないよ」 
と言われましたので、私は親孝行の話を続けていました。 そ

のうちに使命感がだんだん湧いてきまして、 
「私は日本の国から親不孝を追放する使命があるのだ」  
と思うようになりました。

そうしますと、高級霊が天降って来まして、
講話していましてもぜんぜんその効果が違うんです。 
体験がどんどん出るようになりました。 

ただ単に体験談を話すのと、使命感を持って話すのとでは、内容が違ってくるんですね。

 
今、日本で問題であると思うのは、大東亜戦争で亡くなった人達が
犬死になっていることと、戦後堕された6千万の無縁の流産児のことです。 
それがわが国に於ける霊界の問題ではないかと思います。 

それで 谷口雅春先生 が精霊招魂神社 と 
流産児無縁霊供養塔 をお建てになったのです。

日本国は2600有余年の間、国が変わっていないでしょう、
これが例えば、千年前に国が変わっていましたら、
我々は愛国心と先祖の愛国心が違うことになります。 

それが2千何百年という長い間続いているということは、
日本の国には愛国者の高級霊が満ち満ちているということです。

だから、ここで流産児の供養をしようと思って、供養していたのですが、
そうだ、精霊招魂神社も大切なのだと気が付きまして、供養をすることにしました。 

1年と少し経った頃、谷口雅春先生が夢に現れられて、
私に 「愛国心の話をしなさい」 と言われたのです。 
目を覚まして、不思議な夢をみたものだと思いました。

その頃は、精霊招魂神社で 『甘露の法雨』 を誦げ、
流産児無縁供養塔で 『甘露の法雨』 を誦げると、道場の起床の時間となるのです。 

そこで、皆さんとご一緒に大拝殿で神想観をして、又 『甘露の法雨』 を誦げて、
それが一日の出発になっていました。

月に1回は一般練成会の人達が入龍宮幽斎殿で早朝行事を行うことになっていました。 
その日も 『甘露の法雨』 を読みおえた時に起床放送があり、 
「本日は幽斎殿で早朝行事がございます」 という放送がありました。

私はそれまで幽斎殿には1回も行った事がなかったのです。 
私は宝蔵神社と流産児無縁供養塔、精霊招魂神社に使命があるのであって、
末一稲荷神社は関係ない、幽斎殿も関係がない。 

まあ、あのだだっぴろい大きな建物がなんで造られたんだろうかと言うので、
幽斎殿には行ったことがなかったのです。

ところがその時、何か不思議な気持になって、幽斎殿に行って神想観をしましたら、
ああ、そうだったのか幽斎殿は八角になっている。 あれは八絋一宇なんだ。 

お祭りしてあるのが天照大神様で、これは谷口雅春先生が
日本の実相顕現の切なる願いをこめてお建てになったのだ。 

我々の先祖の切なる願いは日本の実相顕現なのだ、

だから宝蔵神社の境内に幽斎殿があるのだということが、その時、初めて判りました。

我々は、ただ単に生長の家の運動を進めているのではなく、
日本の国を救う為に、天皇を中心とした2千何百年来の日本の素晴らしさを
子々孫々に伝えるために、この教えを伝えているのだ、
という気持を持つということは、霊界に於ける愛国の霊が全部協力してくれる
と言うことであります。 

我々の人類救済への努力と、霊界から導いて下さる力と併せて、
何倍にもなる素晴しい運動になるのです。 

特に国を救うという願いをもつということは素晴しい事です。


我々は御陵巡拝を行いました。 
124代の天皇の御陵が厳然として残っている姿を拝し、御陵の前に額ずく時、
身も心も浄まるような雰囲気になります。 
どこの御陵に行っても同じで、素晴しいことです。 

例えば、中国の皇帝の陵とかエジプトのピラミッド等は、
ほとんど荒されていると聞きますが、それに比べて、
日本の国の御陵は連綿として残され、守られている、
それどころか、実に清らかな雰囲気に保たれています。

これは、御皇室が御先祖様を大切にしておられるということです。 
そのお姿を全ての国民があらゆる機会を通して知っているという事が、
御陵が守れられて来ているという事になるのだと思います。 

そして日本の国が繁栄している原動力は、
そのような日本人の御皇室に対する気持の顕われであると思います。 

そういう事からも、先祖を供養することの大切さがわかると思います。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19032715.html

              <感謝合掌 平成30年6月23日 頓首再拝>

いのちの積み木 - 伝統

2018/07/11 (Wed) 04:13:10


       *Web:命 より

いのちの積み木は、ご先祖様から脈々と受け継がれてきた
命のつながりを感じることができる積み木です。

一番上の積み木が自分。

その下の2つの積み木がお父さんとお母さん。

その下の4つの積み木がおじいちゃんとおばあちゃん。

さらに下の8つの積み木がひいじいちゃんとひいばあちゃん。

一番下の16つの積み木がひいひいじいちゃんとひいひいばあちゃん。


下の積み木を引き抜くと、必ず一番上の自分が崩れ落ちます。

つまり、ご先祖様の中の誰か1人でもいなかったら
自分が存在していないということの証明になります。

私たちの命は、この積み木のように重なったご先祖様たちの
命の営みがあって、初めて成り立っているのです。


このいのちの積み木は、もっと代を遡っても同じです。

10代遡ると、自分の命に係わるご先祖様の数は約2000人になります。

20代遡ると、約200万人。

この中の1人でも欠けたら、自分は存在していません。

ここまでくると、自分の命が奇跡的な確立の上にあることに気づくでしょう。

ご先祖様が生きていた時代は、
今のように医療が発達して恵まれた時代ではありません。

病気や飢饉もあり、戦争もあり、平均寿命もずっと短い世の中でした。

そんな中で、受け継がれてきた私たちの命は、
ほんとうにかけがえのないものなのだと気が付きます。



ところが、現代人はそんな命を大切に扱っているのでしょうか?

日本における15~39歳の死因は、交通事故やがんを上回って自殺が1位です。

また、他人を傷つけたり、いじめ問題も後を絶えません。



日本人は、文明が発達して科学や医療技術が発達して、
さまざまな恩恵を受けることができるようになりました。

でも、それに伴い大切なことも忘れてきてしまっているのかもしれません。




あなたの命を構成している積み木であるご先祖様。

3代、4代と遡ると、その方の名前も顔も知らないかもしれません。

でも、あたなにとってかけがえのない大切な人だったことは確かです。



全てのご先祖様を覚えていることは無理ですが、
自分が知っているご先祖様を忘れないで伝えていくことはできます。

大切だった人達をなるべく忘れないように風化させないようにすること。

それが、私たちにできる最大の恩返しなのかもしれません。

   (http://gosennzosama.11ohaka.com/ )

          <感謝合掌 平成30年7月11日 頓首再拝>

私たちが今、生きているのは、ご先祖様のお陰です - 伝統

2018/07/16 (Mon) 07:06:04


昨日は、地域によっては、盂蘭盆会でありました。
(多くの地域では、8月ですが)


       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P186)より

今、私たちがこの時代に生きているということは、過去の先祖を始めとする
数百万年にもわたる、生物の連携を代表する最先端に自分が立っている
ということになります。

先祖供養という過去の生命たちに感謝する行為は、自分につながる
すべての存在をくくり直し、自分が生きることによって過去の生命を
未来へとつなげ、生かす行為となります。


だから自分が、どんな生活状態であろうとも、いまの自分を認めて
尊重することが大切です。自分の体は、気の遠くなるほどの過去からの
貴重なプレゼントなのです。

先祖供養しながら自分自身を大切にすることは、
さらに未来へと自分がつながることになります。

          <感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>

御祖先に対する感謝は、非常に大切なことです - 伝統

2018/07/28 (Sat) 03:21:49

        *谷口清超先生・著『家庭をたのしく』(P157~158)より

御祖先に対する感謝は、非常に大切で、これを忘れていると、
不幸な出来事が次々に起って来て、大変困ることになります。

それは恰度(ちょうど)、植木に水や肥料をあげるのを忘れていると、
その植木は何時(いつ)の間にか枯れてしまうようなものであって、
人間にとっての御祖先は、植木の根に当るのです。

だから、人は必ず御祖先に感謝しなければならないのですが、
それはどうやって感謝したらよいいかというと、
御祖先に『真理の言葉』を供養するのが一番よいのです。

(中略)

人(御祖先を含む)は、「神の口から出る言(ことば)」即ち、
真理のコトバが必要なのです。

神の言がそのまま「生命(いのち)そのものですが、この「生命」をより
一層具体的に現象生命としてあらわし出すためには、「真理の言葉」の
書物をよみ、聖経、即ち真理の言葉の書かれたお経を読誦するということが
非常に大切です。


ことに、もはや肉体を持たなくなった御祖先には、私達子孫が、
「聖経」を読誦して供養申し上げることが何よりも肝要であります。

          <感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>

人生を支配する先祖供養 - 伝統

2018/08/03 (Fri) 03:29:59


          *「人生を支配する先祖供養」はしがき(P1~2)より

多くの人たちは、霊界と現実界との関係を知らないのである。
人間の肉体が死んだら、もう人間そのものは消えてしまって
無くなるものだと考えている。

だから此世で狡いことをして利益を得たり、
人に残虐な行為をして自分だけが快楽を貪ったりしても、
それは利益の取り得であり、快楽の貪りどくだということになる。

実際そうして悪賢い狡い奴や、残酷な奴が此世で少しも制裁を加えられないで
栄華をきわめたままで地上の生を終る例をたびたび吾らは見せられるのである。

そして死と共に、彼らは一様に"無"の世界に消え去って、
後に何も残らないのだったら、狡いことの仕得、楽しみの仕得で、
正直な人間が馬鹿を見るのがこの世界だということになる。

そこで"悪"の仕得ということが一般の通説になり、道徳地に堕ち、
人心は乱れに乱れて此世には悪人充満の地獄相を呈することになるのである。
それが現代の、いつわらぬ世相ではあるまいか。

 
併し、人生はそんなに甘いものではないのである。
悪業の仕得や、悪い奴の、富や快楽の貪りの仕得などということを
われわれが心の奥底で不公平に感ぜずにはいられないのは、
われわれが"心の深層"の中に、「そんな不公平は決して存在しない」という
原因結果の法則を直感的に知っているからなのである。

 
原因があれば結果を生じる。
これは宇宙の大法である。
それを仏教では「因果、昧(くらま)さず」と教えているのである。

悪業を重ねながら現世に於いて悪果が出て来ないからとて、
人生を馬鹿にしてはならないのである。

悪業を行っても現世に、その帳尻が出て来ないということは、
どこかに、その帳尻の総決算がおこなわれる世界があるという証拠でもある。

その総決算が行われる世界が霊界及び未来世
(未来に、われわれの霊魂が生まれ代って来る世界。単に"来世"ともいう)である。


(以降のご文章については、次のスレッドにてご確認ください。
 http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6539638

 霊魂の浄化 (2015/09/22)

 奇病・難病が生ずる背景 (2015/09/23 )

 実証例~脳腫瘍が癒ゆ (2015/09/24)


          <感謝合掌 平成30年8月3日 頓首再拝>

感謝の心を持っていれば、ご先祖様が助けてくれます - 伝統

2018/08/04 (Sat) 04:05:28


       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P187~189)より

忙しい生活の中でも、自分なりに先祖供養を行なっていれば、
その思いはすでにご先祖様に届いています。

ただ、その供養方法が「感謝の気持ちをわかりやすい言葉で思いうかべると、
よりご先祖様に届きやすいですよ」ということです。

(中略)

先祖供養とは、自分の良心との対話です。
この世について知れば知るほど、自分が生まれ出て
存在していることの奇跡を思い知ります。

命をつないでくれたご先祖様に、感謝せずにはいられないから感謝している。

人間は、自分が生まれたことの奇蹟をもっと意識しなければいけません。

それなのに私たちは、生きていることを「アタリマエ」と思い、
さらに不満感を持ちます。つらいことを経験したために、
自分が生まれてことで親を恨んでいる人もいます。

でも、これは本当に自分自身が望んだことを忘れているだけなのです。

人生は無限ではありません。
必ず始まりと終わりがある、冒険の旅を体験しているのです。

旅のコースには、全員共通の「性」・老・病・死の負のハンディを
体験するという課題が、個人それぞれに準備されています。

私たちは生まれ出るとき、
自分なりの課題を自分で決めて出発してくるのです。

(1)同じように旅する隣人(家族や縁ある人々)を助けること。

(2)今回の旅を経験できるように、コースを拓き空けてくれた
   先輩の旅人(ご先祖様)に感謝すること。

(3)ときどき現れる旅行会社のインストラクター(諸々の霊)に
   感謝すること。

(4)この旅行ができる舞台を提供してくれた存在(神様)に
   感謝すること。

この4つのことを人生の旅の途中に行なうと、人生の課題が軽減されて
楽しく旅行ができるというルールもあります。

旅行は、自分の努力によりゴージャスにクラスアップすることも、
エコノミーでサバイバルなコースに変えることもできます。


特にご先祖様は、同じ出発点を経験している、全てを知る先輩です。
いちばん的確なサポートをしてくれます。

守護・指導してくれる諸々の霊や神様に感謝していると、
旅行のルールを壊すことが逆にできなくなるのです。


しかし、無免許のインストラクターも存在していて、
甘い誘惑と交換条件に所持金を巻き上げたり、
旅行を途中で強制終了させるような輩も徘徊しています。

旅のコース途中にある、金銭の隠し場所や水飲み場、
食料を調達する手段を知っているのは先輩の旅人(ご先祖様)だけです。

先輩は、利用しようとすれば離れていきますが、
感謝だけしていれば助けてくれます。

あなたは今、旅行中です。

さて、楽しめていますか?

どんな旅(人生)も、自分が望んだ貴重な旅なのですよ。

          <感謝合掌 平成30年8月4日 頓首再拝>

祖先霊を祀る - 伝統

2018/08/06 (Mon) 03:31:12


         *『人生を支配する先祖供養』(P13~15)より

《祖先霊を祀ること》

死者の霊はこのように現実界の人々にも力を及ぼすことができるのである。

諸君は祖先の霊の祭祀(さいし)のことを思い浮かべることがあったり
気にかかったりするならば、それは祖先(亡父母を含む)自身の祭祀して貰いたい
意識があなたの意識の中に織り込まれているからなのである。

だから、そういう考えが起こってきたときには
お仏壇のない家庭ならお仏壇を買ってきて祀(まつ)ってあげるがよい。


《霊界への移行と死後の霊魂の状態》

このような高級霊の特殊の状態は別として、
一般普通人の霊魂の、肉体死後間もなくの状態は、
現実世界の臨終の状態のつづきの状態を経験するのである。

心境が急激に変わることはないからである。

霊魂が肉体を脱皮して新たなる境涯に入る課程は、
毛虫が蛹(さなぎ)の状態から脱皮して
翅(はね)の生えた蝶の状態に移行する課程にも似ている。

それは“霊界への出産”ともいうべき状態で、
出産の陣痛ともいうべき断末魔の苦しみを経験する。

(もっとも悟境に入っている霊魂は既に述べたように無痛分娩とでも謂(い)うべき
安楽の状態で、意識を持続しながら霊界へ移行する)

断末魔の苦しみを味わう霊魂は、神の慈悲によって、ある程度以上の苦痛を免除して、
ある期間人事不省の無意識状態に入る。

(人により長短があり、間もなく意識を回復する者もあるが、
長きは数十年にわたり人事不省のまま継続するのもある)

それは各自の過去の業因の相異によって業果(ごうか)が異なるのである。

その人事不省の無意識状態が長きにせよ、短きにせよ、いずれにせよ、
霊界に於いて意識を回復したときには、(その人にとって無意識中のことは
心の中に存在しないからである)

生前、臨終の際の状態が、記憶の世界に蘇生(よみがえ)って来て、
癌で死んだ人は心に癌の苦痛が復活して来て、霊界でその癌の症状を
その幽体に継続する状態を仮作(けさ)し苦しむようになるのである。


《病念を持ち越して霊界で苦しむ霊を救うために》

病念を霊界まで持ち越して、
病気の記憶のままに病気を霊界で体験しつつ苦しんでいる霊魂の救われる道は、

病気や肉体はないということと、死後の生命の継続を説いて聞かせてあげ、
「死」というものは《ない》、それは現実界から霊界への転任である。
その転任の時機は神の御手にあるのだという真理を悟らせてあげることが第一である。

それには祖霊を招霊して『甘露の法雨』を
毎日一定時間を約束して読誦してあげるがよい。

一人の迷える霊魂を導くだけで、原因不明の病気や不治の病気、
それに家庭不和などが改善される場合があるのである。

だから、先祖とか親類縁者の祭祀(まつり)というものを
決しておろそかにしてはならないのである。


《わが生命は祖先の生命の連続である》

祖先または自分に関心ある縁者の霊魂の想念は、その子供に影響を与えるので
祖先が好まないところを子孫が行えば、祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けて
その人の運命が妨げられ、順調に進まなくなる事もある。

また祖先または自分に関心ある縁者の霊魂が迷いにとらわれ、
信ずべからざるを信じ、妄執にとらわれていると、

現実界の子孫たるわれらがその念を受けて、正しいことを行いながらも、
それがおもしろくゆかなくなることになるから
祖先の霊魂にはすみやかに真理を悟らせてあげる必要がある。

(『生命の實相』第四巻、第五巻、第十六巻参照)

           <感謝合掌 平成30年8月6日 頓首再拝>

この世に生まれてきたのは、ご先祖様がいてくれたから - 伝統

2018/08/07 (Tue) 04:07:37


         *「あなたにも「幸せの神様」がついている」
            ~伊勢白山道・著(P144~146)より抜粋

人がこの世にうまれるためには、親がいなければなりません。
その親にも、両親がいたわけです。
このようにさかのぼれば、たくさんのご先祖様がいてくれたお蔭で、
自分が生まれたということがわかります。

だからまずは、この肉体を持つ「場」を借りることができたことへの
ご先祖様への尊敬と感謝が必要です。

たとえどんなご先祖様であろうと、
人類発生以来、その血を切らすことなく悠久の時間を耐えてきたのです。
そのお蔭で、あなたは肉体を持つ場を提供されたのですから。


ご先祖様への感謝がなければ、そこに自己否定の気が生じます。

人は、この世に生まれ出たからには、生涯、ご先祖様への感謝、
供養を忘れてはいけません。
これを行なって初めて、人生のスタートラインに立てるのです。

自分が今、存在すること自体を

「感謝せずにはいられないから先祖供養をする」

ということになります。

自分が一方的に先祖を慰めたいから、自主的に行なう。
それが本当の先祖供養です。


今、私たちは生きています。
生き物は簡単に死にます。
たった一度の単純な不注意で死にます。

この、もろく綱渡りのような、すぐに消える可能性のある
命のバトンをご先祖様から渡し続けられた結果が、
今、生き続けている「あなた」なのです。

先祖供養をせずに生きることは、申し訳のないことです。

           <感謝合掌 平成30年8月7日 頓首再拝>

古神道の一霊四魂の説 - 伝統

2018/08/09 (Thu) 05:06:57


          *「人生を支配する先祖供養」(P43~44)より


日本の古神道では人間の霊を一霊四魂に分けている。

一霊とは実相の霊であり、これを直日霊という。
総括総覧の純粋霊である。

それが、奇魂、和魂、幸魂、荒魂の四つのはたらきとなって分化する。

荒魂は最も波動が粗大で荒々しい。
これは肉体そのものである。
古神道が肉体そのものを物質として観ないで
霊的な「魂」として扱っていることは興味あることである。

だから、墓地に物質界を処理する魂であるから、それを換言すれば、

「墓地は迷っている霊魂がさまよっている所であり、
悟っている霊魂はもうそこにはいないのだ」

という近代の霊界通信を裏付けることになる。

悟っている霊、即ち叡智の霊は奇霊であって、肉体を脱した時、直日霊に還る。

幸魂は家族と共に生活し家に祀られた位牌等を媒介としてそこに鎮まり、

和魂は天界に昇って天界を拠点として社会国家のために活動する。

そこで、墓に留まっているのはまだ肉体生活のつづきの意識を持続して
悟りを得ない荒魂であるから、その墓の形がどんな形を喜ぶということは、
その亡霊自身がどんな形の墓に執着するか、その執着によってきまるわけである。

その人が生前、墓の形に関心があって「こんな墓を建ててほしい」と
言っていたのであれば、その形の墓を建てれば満足するのである。

先祖が真言宗の人であれば真言宗式に五輪塔を建てればよいし、
キリスト教の人であれば十字架を建てれば悦ぶのである。

しかし、墓地に関心の無い無頓着な霊魂、あるていど悟りをひらいた荒魂は
墓にいないで、四魂一体となって自由自在に顕幽両界を往来して、
愛他活動をして生活をし得るよういなるのであるから、
墓石の形は別に問題とするに足りないのである。

<関連Web: 

(1)大熊先生のブログ(2011/2/18(金) )『一霊四魂(いちれい・しこん)』 
    → http://blogs.yahoo.co.jp/ookuma4141/11177994.html

(2)大熊先生のブログ(2011/2/19(土) )『死は教化なり』
    → http://blogs.yahoo.co.jp/ookuma4141/11191572.html

           <感謝合掌 平成30年8月9日 頓首再拝>

ご先祖様を供養しよう - 伝統

2018/08/10 (Fri) 04:13:24


         *「あなたにも「幸せの神様」がついている」
            ~伊勢白山道・著(P147~149)より抜粋

私たちはこの世に生まれてくると、最初の数年間は必ず自分以外の人の手を
借りなければ生きていけません。

人の死も同様です。
死ぬと、この世界から別の世界へと生まれ変わるわけです。
この世を80歳で終えても、別の次元へ生まれ変わるのです。
そこでは0歳です。

この世に生まれたときと同じで、新たな世界では0歳なので、
体が同調して慣れるまでは自分一人では何もできないのです。

その慣れるまでの期間は、生きている縁者から供養を受けることが大事なのです。

これが先祖供養です。


人間は、生まれたときに世話をしてくれた人(親など)が先に死んだならば、
今度は自分自身が受けた恩を、その人に供養という形で返さなくては
なりません。

先祖供養とは、自分が受けたものを感謝でお返しするだけのことです。
実行してアタリマエのことなのです。

先祖供養を軽視し、批判や揶揄する人がいます。

このような人たちは、正しい先祖供養をしたことがない人です。
先祖供養をしたことがなく、わからないので、観念だけで批判します。

本当に正しい先祖供養を実行すれば、自分自身でしか味わえないことが
たくさん体験できます。そこには、他人が介在する余地はありません。

(中略)

先祖供養を軽視したりする人には、親不孝な人が多いものです。

育ての親から借りたものを返さない人間は、幸運をつかみがたいものです。

           <感謝合掌 平成30年8月10日 頓首再拝>

霊供養 - 伝統

2018/08/11 (Sat) 04:36:35

        *『霊供養入門』(はしがき)より

仏教では六波羅蜜と称して人間が全き悟境に到達するための6つの修行がある。

それは布施、持戒、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、
般若の六つである。

布施と云うのは施すということで供養とも云う。 

布施には物施といって物を施すのと法施といって真理を施すのと二法がある。 
聖経を祖先霊の悟りのために仏前で読誦するのは法施である。 
仏前に物をお供えするのは物施である。

今度『霊供養入門』という大変結構な書物が出版されるのであるが、
人間は外面から観れば肉体であるけれども、
内面からその本質を観るならば霊である。

肉体には寿命というのがあって百歳を超える人は少ないけれども、
人間の本質たるものを観るならば久遠不滅の霊であって
滅びるということはないのである。

されど、その霊がどんな心境にあるかによって、その存在状態が異なるのである。
不滅のままでも、いつまでも逆境にあって唯ふらふらと存在するだけでは
意義も価値もないのである。

吾々の肉体の祖先の霊を顧みるならば、祖父母の霊あり、曽祖父母の霊ありと、
それを数えて肉体死後の霊界の祖先霊を三十代も溯れば大変な巨大な人数に
達するのである。

その巨大な人数の祖先の霊魂のうちには既に悟りを開いて仏陀の境涯に
達している者もあるが、未だに迷境を彷徨して苦しんでいる霊もあるのである。

このような未開悟の霊に真理を供養して悟りの境涯に入らしめ
神通自在の百事如意の状態に少しでも多く達するように人間の実相の真理を
供養して差し上げるのは吾々子孫の義務であり、役目である。

この書物の題名「霊供養」というのは、親族縁族の霊に“真理の自覚”を
供養して、各自の親族縁族の霊には多分まだ迷っていて
自在の境涯に達していない者も多くあるにちがいないから、

それらの諸霊に“人間・神の子”の真理を知らしめ
“本来神通自在の境”に達するように導いて差し上げる事は、
吾々子孫が先祖に尽くす最高の孝養なる布施行と云わざるを得ないのである。

その最高の布施行を実践する方法を、
人類全体に伝えるために書かれたのが本書である。

三世一如の真理により過去・現在・未来は「今」の中にある。

今、本書の読者が真理を知り真に自在の境に達するならば、
「一人出家すれば九族天に生まる」の真理により、九族全体があまねく
天界の天人の如き自在を得ることになり、その歓びは、再びあなたに
反響して来てあなたも亦無上の祝福を享受せられるに相違ないのである。


   昭和58年7月10日

                      著者識す


<関連音声集>

霊供養入門 谷口雅春 音声集
https://www.youtube.com/watch?v=IgVij5UrPLw&list=PLWRiIS8PRx4misRcb0B1cEZyLiJ2TiuNZ

霊供養入門2 谷口雅春 音声集
https://www.youtube.com/watch?v=VovgiNHfFmc&index=3&list=PLWRiIS8PRx4misRcb0B1cEZyLiJ2TiuNZ

           <感謝合掌 平成30年8月11日 頓首再拝>

ご先祖様にお願いばかりしない - 伝統

2018/08/12 (Sun) 03:11:40


         *「あなたにも「幸せの神様」がついている」
            ~伊勢白山道・著(P150~151)より抜粋

(前略)

私たちとご先祖様との関連は、親子関係とまったくおなじです。

ご先祖様にお願いごとをしてはいけません。
それでは、ご先祖様が迷ってしまいます。
かわいい子孫のために悩むのです。

ご先祖様が迷えば、子孫の心もなぜか不安定になります。


私たちは悩み苦しみがあってもいじらしく頑張って、
けなげに感謝だけを奉げれば、ご先祖様は安心します。
その安心した思いは、私たち子孫に反映して伝わり、
子孫も心が安定した状態になります。


《ご先祖様を安心させてあげることができたら、
いちいちお願いごとをしなくても、私たちは自然と嬉しい状況になる》

・・・現実はそんな法則で成り立っているのです。

           <感謝合掌 平成30年8月12日 頓首再拝>

生きている間は常に、ご先祖様とつながっています - 伝統

2018/08/13 (Mon) 04:32:54

       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P190~193)より

転職や離婚をする、しないと悩む人は多いものです。
悩む時点で、先行きがまだ見えない、自信がない状態です。

人間と他の生物の大きな違いは「空想する能力」「悩む能力」の有無です。
これらが人間に良くも悪くも作用します。

動物は悩まずに「正しい本能」で行動するだけです。

人間は、この「正しい本能」に自信が持てず、悩むのです。

この「正しい本能」を発揮させる手段のひとつが、感謝の先祖供養と
感謝想起です。「生かされている」という視点を持つことで、
悩みの対象を冷静に見ることができるようになります。

(中略)

良い気を蓄える先祖供養や感謝想起を行ないながら、悩む間は動かない。
そのような場合は、ご先祖様(=守護霊)からの反対のサインであることが
大半です。

占い師や他人に判断を委ねないことです。

(中略)

常にあなたの生活に密着しているご先祖様は、すべてを見ています。
だからこそ、感謝想起をしながら自分自身でおおいに悩み、
決断することが大切です。


生きている間は、私たちは嫌でもご先祖様とつながっています。
安心しているご先祖様は、生きる子孫を我が子のように支えてくれます。
日常生活のすべてを見てくれています。


感謝のご先祖供養により、苦しんでいたご先祖様が楽になると、
供養をしてくれた子孫を懸命に守り、恩返ししようとします。


日々の感謝供養を続けていけば、10人、100人・・・・と
ご先祖様が安心していき、供養を実践している守護する集団が
できあがります。

これは、親が子孫を本能で育てる関係のように、
駆け引きや交換条件がない正しい守護です。


神様は私たちが苦しい現実界を生きる術として、
親とご先祖様を助けた者が、逆に助けられるという法則を
つくったのです。

           <感謝合掌 平成30年8月13日 頓首再拝>

祖先の霊供養 - 伝統

2018/08/14 (Tue) 04:46:26


        *『神性開発・完全健康の原理』  より

この『甘露の法雨』を読むのは、祖先をお祀りしてあるお仏壇の前で、
毎朝とか毎晩とか時間を決めて、『甘露の法雨』を祖先の霊供養、霊に対する
供養のつもりでお読みになると、祖先の霊が救われ、自分もまた救われる
ということになるわけです。

とかくわれわれ現実界の人間は、
現実界だけで生活しているように思っているけれども、そうじゃないのですよ。

祖先の霊魂の神通力が現実界のわれわれに影響して、
思わぬ奇蹟が演じられたりする。

現実界の人間は大した働きもしていないのに、
非常に運よく行って、うまく事が運んだりする人があるでしょう。

そういう人には祖先の霊の影響というものがあるのです。

祖先の霊魂の影響で自分の肉体の病気が起ったり、
あるいは肉体の病気が治ったりすることもあるのです。
 
ですから祖先の霊供養ということが非常に大切であります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/dd41a21514118a20ca851d73b6bfedeb より転写)

           <感謝合掌 平成30年8月14日 頓首再拝>

祖先の霊に”聖経読誦”により真理を与えること - 伝統

2018/08/16 (Thu) 04:05:01


        *『女の浄土』(P114~117)より

さて、その「与えよ、さらば与えられん」の無限供給の黄金律は、
親に”深切”を与える、即ち親孝行をすることや、祖先に”真理の言葉”を与える、
即ち先祖にむかって聖経を読誦することも含まれているのである。

含まれるどころか、非常に重要な報恩行なのである。

吾々は現在この現象界に生を享けてうまれて来たのは、
神の生命(せいめい)が、祖先を通し、父母(ふぼ)を通して、
地上に自己顕現したのであって、今日(こんにち)私たちが、
こうして生きていられるのは祖先及び父母のお蔭なのである。

それに対して報恩の行いをしないならば、
私たちは”天の倉”から借り越しになっている。
借り越しになっているものは、此の世には”バランスの法則”があって
返さなければならない。

返さなければ法則によって、
いつかは強制執行せられることになっているのである ――

この強制執行を受けた状態が、儲けようと努力しても儲からないで
素寒貧になった状態なのである。

こんな人が祖先に感謝し、祖先の霊に対して聖経を誦(あ)げ、父母に感謝する
ようになり、更に、夫婦が睦まじく調和した状態になるならば、
神の「無限供給」の霊波と波長が合うようになり、
経済的にも裕(ゆた)かになって来るのである。

           <感謝合掌 平成30年8月16日 頓首再拝>

「京都五山送り火」 - 伝統

2018/08/17 (Fri) 04:15:03

「京都五山送り火」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180816-00000069-jijp-soci.view-000


夏の夜空に点火されくっきりと浮び上る五山の送り火は
祇園祭とともに京都の夏をいろどる―篇の風物詩である。

この送り火は東山如意ケ嶽の「大文字」がもっともよく知られているが、
そのほかに金閣寺附近の大北山(大文字山)の「左大文字」、
松ケ崎西山(万灯籠山)と東山(大黒天山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」
および上嵯峨仙翁寺山(万灯籠山・曼荼羅山)の「鳥居形」があり、
これが8月16日夜、相前後して点火され、これを京都五山送り火とよんでいる。
https://www.kyokanko.or.jp/okuribi/enkaku.html


起源や理由がいまだ不明 「京都五山送り火」
 → https://tenki.jp/suppl/y_kogen/2015/08/14/5691.html


歴史を重ねてきた古都京都ならではの先祖への想い

  謎深き「京都五山送り火」においてただ一つ確かなことは、
  先祖を浄土へ送るという、今生の人々の想いといえるでしょう。
  いにしえから日本の中心となっていた京都であるからこそ、
  そうした想い、伝統は、今も確実に受け継がれていると言えるかもしれません。

・・・

第63回 宝蔵神社盂蘭盆供養大祭 8月17日~19日
 → http://www.uji-sni.jp/

           <感謝合掌 平成30年8月17日 頓首再拝>

”聖経読誦”は祖先から受けた恩恵に対する報恩行事である - 伝統

2018/08/18 (Sat) 03:32:31


        *『女の浄土』(P123)より

更に聖経『甘露の法雨』を祖先霊の供養のために読誦するということは、
祖先から受けた恩恵に対する報恩行事であるのである。

受けた恩恵を返さないことは”天の倉”に於ける借金であるから、
その借金を聖経読誦によって、”真理の言葉”を供養して返す事になるのである。

何故なら、既に此の世を去って”霊魂”になっている祖先にとっては、
金銭は”用なし”であり、物質的食物もお喫(あが)りにならないのであるから、
金銭や食物のような物質的なもので報恩することはできないのである。

しかし霊魂は”真理”を知る程度に従って向上し、
一層霊界に於いて自由を得るのである。

聖経というものは仏教のお経でも生長の家の『甘露の法雨』でも
”真理”が説かれているのであるから、祖先霊に対して聖経を読誦するとき、
霊魂はそれを受けとって歓喜し向上するに従って神通力を増し、
それも子孫が自分を憶い出して聖経を読誦してくれたお陰であると感謝して、
今度は、祖先がその神通力によって、子孫を護ってくれることになるのである。

このような色々の事情を交錯して聖経読誦が運命好転の原因となるのである。

(中略)

吾々は祖先霊の加護と導きを通さないで、大いなる事は成就し得ないものである。

           <感謝合掌 平成30年8月18日 頓首再拝>

苦しい境遇にあっても、先祖供養を行なおう - 伝統

2018/08/19 (Sun) 04:29:19


       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P218~219)より

この世では「行為」が大切です。

家にいながら、想像で通勤して働いたイメージを持ったからといって、
会社に出勤しなければ、給与はもらえません。
それは、ただの欠勤にしかなりません。

(中略)

日々の感謝の先祖供養も、淡々と行う「行為」がすべてです。
「この感謝は、本心からではないのに・・・」とか
「ちゃんと通じているかな? 」などは、まったく心配無用です。


自分が今、ここに存在するのは、
多くの知らないご先祖様たちの連携プレーのお蔭。
これは否定しようのない事実です。

この「命のリレー」を「アタリマエ」としてはいけません。
想像力があれば、ご先祖様に感謝せずにはいられない
・・・そう思うのが「思いやり」のある人間です。

思いやりがある=神様が心にいる、ということです。
心の中から神様をなくしてはいけません。


日々がどんなに苦しくとも、それでも自分が生かされていることへの
感謝の気持ちを、先祖供養という「行為」で表していきましょう。

必ず変化していきます。
心配しなくても、まったく大丈夫ですよ。

           <感謝合掌 平成30年8月19日 頓首再拝>

先祖供養は形ではなく気持ちが大事 - 伝統

2018/08/20 (Mon) 03:53:50


         *「あなたにも「幸せの神様」がついている」
            ~伊勢白山道・著(P152~155)より抜粋

先祖供養をするとき、その方法について種々心配する人がいます。
供養がしっかりご先祖様に届いているかどうかがわからず心配になるのでしょう。


供養をしっかりしている人は、そんなことは心配しません。
供養せずにはいられないから、供養する。
それだけなのです。

見返りを期待しないので、届いている・いないという発想にすらならないのです。

先祖供養は、義務感や不安感を持ちながらするくらいならば、やめましょう。
「自分がしたいからする」、それだけのことです。

先祖供養で一番大事なことは、

ご先祖様の存在を忘れない気持ち です。

人間は生きるために忙しく、お金をかけたお墓や仏壇がなければ、
ご先祖様の存在すらも忘れているものです。

先祖供養とは、ご先祖様に気持ちを向けるための手段にすぎません。
ご先祖様を忘れて生活していると、苦しんでいるご先祖様は振り向いてほしいが
ための、その手この手で子孫に知らせようとするものです。

だから、ご先祖様から知らされる前に、気持ちを向ける行為を
子孫からしてあげるのです。

(中略)

別に先祖供養をしなくても私たちは死にません。
供養する時間があるならば、好きなTVを観たいという人もいるでしょう。


でも、何でも好きなことができる時間の中で、あえて見えない存在(ご先祖様)
へも思いを向けることができる「優しさ」が尊いのです。

ここに類は友を呼ぶ法則が発動し、慈悲深い供養者には、
慈悲深いご先祖様や高貴な神様が寄ることになります。


大事なのは、自分自身の精一杯の慈悲心を用いて、他を思いやる心です。
慈悲心の大きさは個人差がありますが、自分なりの範囲で
他を思いやる練習を先祖供養を通して行なうのです。

これを繰り返していくと自分の慈悲心が大きくなり、
神様の無償の大きな慈悲・愛情が本当の意味でわかります。
神様の一端がわかるということは、神様に一歩近づいたということです。

これが進むと、その人は神様の意に叶った生き方ができるようになります。

           <感謝合掌 平成30年8月20日 頓首再拝>

先祖に対して聖経を読誦する時の心得 - 伝統

2018/08/21 (Tue) 04:27:15


          *「人生を支配する先祖供養」(P27~28)より

1.唯、尊敬と報恩・感謝の念をもって読むこと。

  「今まで色々と子孫が受けてきた密(かく)れたご恩や、
  陽(あらわ)なるご恩に対して、唯感謝して
  真理の書かれたお経を霊界に対して読み上げますから、
  どうぞお聴き下さいませ」と誦えて、

  “だだ感謝”の念をもって読誦するのが良い。


2.聖経の意味を説明する。

  聖経を読む前に、先ず、

  「この聖経『甘露の法雨』は
  あなたが祖先から伝承してきた○○宗の教えの真理を最も解り易く、
  現代語で書かれたものですから、心を集中してこの聖経を聴き給うて、
  その真理を体得し、霊界において解脱を得て神通自在となり
  仏陀の境涯に達し給え」

  と生きている人に語るように唱えてから聖経を読むのが良い。


3.読誦の時間を定める。

  毎日、一定の時間を決めて正確に必ず読誦するようにするのがよい。
  霊界には霊的訓練があって、ご先祖様も多忙なのです。
  毎日不定な時間に読誦しては、その聖経読誦を霊が拝聴できないのです。

  だから聖経を読み終わる時

  「毎日、この時間、又は何時に聖経を読誦しますから
  必ずその時間に来たりて傾聴してください」

  と約束しておくのがよい。

           <感謝合掌 平成30年8月21日 頓首再拝>

期待せずに淡々と行うことが大切 - 伝統

2018/08/22 (Wed) 03:54:56


       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P210~211)より

感謝の先祖供養は、日々、淡々と行うことが大切であり、
それ以上の思い入れや期待は不要です。

(中略)

目に見えない世界や信仰に、期待や効果を求めた時点で、
知らないうちに「交換取引」を始めることになります。
それによって得たものがあれば、引き換えに何かをなくしてしまいます。

狂喜と落胆が交互に現れる、間違った方法です。


期待や効果は、目に見える形で祖力して得るというのは、
神様が決めたルールであり法則です。

目に見えない世界を利用したり、依存しようとした時点で、
足元が救われる仕組みになっているのです。
それは、神様が苦労してつくりあげてきた世界から
逃げることにもなります。


この世のすべては、個人の魂を成長させるための舞台なのです。
良いこと悪いことも、すべてあなたのためであり、
神様からの恩寵でもあります。

なぜなら、人生は必ず一旦終わるからです。
人は必ず死んで、次の世界へ行くのです。
そして、次の世界に行けるのは自分の「心」だけなのです。

どんな肉体を持っていようが、どれだけ貯金や借金があろうが、
すべては消えてなくなるものばかりです。
こんな消えるもののために神様を利用してはいけないし、
利用すればバチが当たるのも当然です。


神様は、私たちに喜怒哀楽を体験する舞台を提供しております。
この舞台自体が、神様の体の中でもあります。

           <感謝合掌 平成30年8月22日 頓首再拝>

沖縄のお盆(旧盆)と七夕 - 伝統

2018/08/23 (Thu) 03:46:32


      *Web:カトトピ より抜粋

先祖供養をきわめて大事にする沖縄ですから、お盆(旧暦7月13日から15日)
(2018年は、8月23日~25日)
になると家族や親族がお墓の前に集まり、盛大な宴を催します。

そのため、お盆を迎える前にお墓掃除をしておくのですが、
「亀甲墓」「破風墓」などで知られる沖縄のお墓はとにかく巨大。
家族総出で清掃に当たる必要があるわけです。

そんな事情もあってか、沖縄地方で七夕と言えば、
お墓に眠るご先祖様にお盆の到来を告げ、
それに備えてお墓掃除をする日なのです。

 (https://www.forever-kato.co.jp/topics/index.php?t=000051

 (http://netwadai.com/blog/post-2276


           <感謝合掌 平成30年8月23日 頓首再拝>

《墓地参拝》 - 伝統

2018/08/24 (Fri) 04:46:43


       *「人生を支配する先祖供養」(P164~165)より

祖先に本当に感謝の心があるならば、海外移住者は別として日本内地に
住んでいる限り、遠すぎる距離というものはありません。
遠いと思うのは、自分の心が祖先からと遠くなっているのです。

日本に住んでいる以上、距離的に年に2~3回は詣れない人は無いと思います。
その費用はあなたに本当に祖先を大切にする心があれば、祖先の霊の守護によって、
家業も栄え、経済的にも豊かになり、決して不自由することはありません。

墓地は茫々と生やすようではいけません。
墓地に近い親類又は知人、又は供花を業とする人に頼んで墓地の清掃、草取り、
供花等を委託しておかれるがよろしい。

若し何かの理由で墓参出来ない時があっても、自宅の仏前で毎日聖経を誦げて
幸魂(さちみたま)を供養してあげればよろしい。

そして祥月命日とか、お盆とか御彼岸とか、適当な時に墓参なされば好いのであります。


           <感謝合掌 平成30年8月24日 頓首再拝>

お墓について - 伝統

2018/08/25 (Sat) 04:20:02


       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P220~221)より

「お墓の状態が子孫に反映する」という先生がいます。
その真相は、家の中において正しい先祖供養がされていない場合、
行き場所がなく供養が必要なご先祖様が墓に集まる集まるということです。

そして、ご先祖様の「寄(よ)り代(しろ)」(この場合は墓になります)
の状態が、子孫の状態に反映するということです。

つまり、自宅において正しく「寄り代」を設けた先祖供養をしていれば、
お墓があってもなくても、さほど重要ではないということです。

(中略)

では、墓の必要性は何か?

それは、ご先祖様の存在を「忘れない」ための
モニュメントとして必要なのです。

だから、自宅にご先祖様のことを忘れないための「寄り代」として
モニュメント(仏壇の位牌等)があれば、それで良いのです。

金銭に余裕がある人は、立派な墓や仏壇を設ければいいでしょう。
これもご先祖様への思いやりの形です。

しかし、せっかく立派なモニュメントを設けても。
日々の生活の中でご先祖様への感謝供養を忘れては意味がありません。


私たちは今、肉体を借りている最中なのです。
成仏する前のご先祖様たちとも、共に日々を生きている最中です。
食事や金銭、性への未練・・・これらの思いを持つ
ご先祖様たちを代表して、私たちは生きています。

このことを知ったうえで「寄り代」(位牌等)による感謝の先祖供養を
するだけでも、人生は大きく変わります。

これは、より良く生きるための生活の知恵でもあります。

           <感謝合掌 平成30年8月25日 頓首再拝>

年に数度の墓参りより、毎日の感謝供養が大事 - 伝統

2018/08/26 (Sun) 04:35:40


         *「あなたにも「幸せの神様」がついている」
            ~伊勢白山道・著(P156~158)より抜粋

火葬した後に骨壺に納める遺骨には魂は宿っていません。
あくまでも残骸です。


では、お墓は無用なものかといえば、そんなことはありません。
お墓はご先祖様を忘れないためのモニュメントとして大事なのです。


人間は、日々の仕事や生活に追われていると、
先祖供養も忘れがちになります。
お彼岸やお盆の時期がくると、ニュースなどで墓参りを思い出して、
お墓があれば家族で行こうとします。

お墓がなければ、家族で先祖供養する機会もないのが現状でしょう。
しかし、そのような年に数回だけでも子孫がご先祖様へ気持ちを向ける
ことが、ご先祖様には大きな慰めになります。

ご先祖様は念い数度の墓参りで、子孫から気持ちを向けられるだけでも
嬉しいものです。


安心成仏しているご先祖様ばかりならば、年に数度のイベントとして
墓参りを行ない、あとはご先祖様を忘れて日々の生活や仕事を頑張る、
でもいいでしょう。

でも、どんな家系にも迷っているご先祖様が必ずいるものです。
迷うご先祖様は楽になる機会=供養を求めて、遺骨や墓を頼りに
寄ってきます。

そのご先祖様に縁がある人は、知らず知らずのうちにこの影響を受けて、
いろいろと嫌な現象が起こってしまうのです。

生きた人間が影響を受ける前に、ご先祖様を忘れずに気持ちを向けて
供養すると、ご先祖様は知らせる必要がなくなるので、
嫌な現象は起こらなくなります。

そのような意味においても、年に数度の墓参りより、自宅における
日々のご先祖様への感謝と供養が大事になってきます。


では、毎日気持ちを向けられる喜びは、どれほど大きなものでしょう。

この日々の感謝供養で、迷うご先祖様を順番に成仏させることができます。

           <感謝合掌 平成30年8月26日 頓首再拝>

お墓の維持、墓石の修理について - 伝統

2018/08/27 (Mon) 03:34:13

       *「家庭は楽しく」谷口清超先生・著(P187~189)より

どうでなくてはならないと言うことはないのですが、あんまり壊れて
気持ちが悪ければ直せばよいです。

古びているけれども雅趣があって苔むしても、なんとなく風流な感じがあり、
清らかな感じがあれば、それでよいです。

荒れていなければいいのですが、荒れて、ほったらかしにされたような
見捨てられたような、寒々した感じでなくして、よく手入れが行き届いて
いることが大切です。

心がこもっているいることが大切でして、
心を込めてお手入れをして、お参りをするということを
やっていくことです。

あまり壊れておれば、修理することも必要です。

ただ古い石はとてもいいものでして、
一寸くらいのことで替える必要はありません。

古いご先祖の方がお祀りされている場合、墓石にはあんがい親しみを
持っておられまして、それを便宜的にピカピカの新品にしたから、
必ずしもそれがご先祖の御喜びになることとはいえないこともある。

やっぱり真心をもってやっていかれるうちに、
「これはあんまりひどい」ということを感じられれば、
それを直されるといいですね。


たとえば、少し凹んでいるところに苔が生えている場合、
もし自分が気持ちが悪いと思えば取れればよいが、
しかしこれは趣があってよい、きっとご先祖さまも喜ぶだろうという
程度ならば、そのままでもかまわない。

           <感謝合掌 平成30年8月27日 頓首再拝>

《墓参は、繁栄につながる》 - 伝統

2018/08/28 (Tue) 03:52:46


          *「繁栄の書」橋本徹馬・著(P113)より

(1)墓石は生きている。墓石は家運を現わす。

(2)長く墓参せぬ家の墓場は、甚だしく淋しげである。
   家運の衰えていることを示している。

(3)墓石が傾いているのは、家運が傾いている証拠である。
   すぐに直すべきである。

(4)私方の子は勉強する気はあるのですが、成績が悪くて困っています、と歎く人は、
   親が墓参を怠り、子をも墓参に伴わぬ家庭である。

(5)親の生前に不孝であった者が、子を持って後に親の恩が分かり墓参をして歎く。
   
   「さればとて石に布団も着せられず」

(6)【 清めして香華を手向けおろがめば はえあるさまに見ゆる墓かな 】

(7)家運の不振や子供の成績不良を歎く人に、
   「墓参をよくしていますか」と聞くと
   「お盆とお彼岸にはお参りしていますが」と答える人が多い。

   両親の命日にも墓参せぬ人は、信心家ではない。

(8)何分お墓が遠いものですからという人がよくある。
   それは言いわけにはならない。

   遠くて困れば近くに墓地を持つべきである。

(9)遠方の墓地にお参りして、損をすることは絶対にない。

           <感謝合掌 平成30年8月28日 頓首再拝>

墓参の心が先祖に通ずる - 伝統

2018/08/29 (Wed) 04:06:39

      *「人間無病の原理」(P175~180)より要点の抜粋

1973年8月12日盛岡市の県民会館で生長の家講習会が催された際の
花巻市の根子キクヱさん(74歳)の体験発表です。

医者が手術不能で駄目だと宣告した孫の重症の脳腫瘍が先祖供養によって
完全に治癒した体験です。

(以下、体験発表の要点です)

(1)この孫は、今年の2月5日に、医大の附属病院に入院。

(2)入院後、40日というもの検査で暮らし、病状は悪化するばかりで、
   心配し続けでした。

(3)入院し40日過ぎたところに、医大の医師(せんせい)より

   「この子供は脳腫瘍とういう病気で、大へん危険な病気でありますが、
   大抵のものなら手術も出来ますが、この子供は大へん頭の大事な箇所(ところ)
   に腫瘍が出来ましたので、手術も手入れも出来ませんので、手入れの
   方法がありませんから、気の毒でございますが、諦めて頂きます」

   という知らせがあったのでございます。

(4)それまでは、孫の母親(娘)は、(生長の家には見向きもせず)
   良いお医者さんにかかればよいと、アッサリしておりましたが、
   そう医師(せんせい)に言われ、びっくりして、私(キクヱさん)へ
   報告の電話を寄こしたのであります。

(5)そこで、教えの先達である高橋ワクさんに相談したところ、
   田中イサノ講師の講習会を教えられ、私も娘も講習を受け、
   心が晴れ晴れしました。

(6)ところが、私たち親子は安心しましたが、この孫の病気がなんら
   変わりがなかったので、また高橋さんに相談に行きました。

   高橋さんに病院に来てもらったところ、高橋さんが、
   「先祖供養していますか」と、娘に訊いて下さったそうです。

   ところが、娘は、興味がなかったので、
   「なんにもそんなことをしていません」と言いましたら、
   「先祖供養は大事ですから、先祖供養をするようにして下さい」と
   言って、詳しく先祖供養の仕方を教えられたのでございます。

(7)それで、娘が、先祖供養にお墓参り(1日はかかる)に行くことになり、
   娘がそのお墓参りに行く仕度・・・供物や掃除するいろいろな物を
   買って仕度をしておりましたら、

   まだお墓参りをしなかったのに、その心が先祖供養へ通じたと
   見えまして、孫が「オカアチャン、ワタシは手が、・・・手サ動きますよ」
   と言ってこうして・・・手を上げたそうです。左の。

(8)そうして、娘はお墓参りに行きましたし、私はこの孫の看護を
   してましたら、それからというものは、薄紙を剥ぐように
   毎日日増しに病気が快(よ)くなりました。

   そして、この孫は快復しまして、退院してもいいというお知らせを
   受けたのでございます。

   先祖供養の大事さを感じております。

   先生、有難うございます。

   (「精神科学」昭和48年11、12月)

           <感謝合掌 平成30年8月29日 頓首再拝>

お墓参りの際の、心構え - 伝統

2018/08/30 (Thu) 03:00:37


       *「成功する人は、なぜ「墓参り」を欠かさないのか?」
         ~千田琢哉・著より

(1)企業コンサルティングを生業にしていた著者は、
   3000人ものエグゼクティブとの交流から、
   長期的な成功者は皆、信仰する神の存在や自然界に
   「畏怖の念」の対象を持っていると導き出した。

   それは、逆らえない「自然の摂理」でもあるという。


(2)合掌して祈ること自体は大事なのだが、
   そこに「畏怖の念」と感謝を持ち続け、墓参りをするのが重要なのだ。


(3)しかし、現実問題として、
   墓参りにそうそう行けない事情がある人もいるだろう。

   著者は次のように言い切る。

   「故郷に帰る時間がなければ、部屋で合掌すればいい。
   何かあってから合掌するのではなく、
   何もなく順風満帆な時期にこそ合掌して心を整えるべきなのだ。

   1年に一度だけ帰郷して墓の前で合掌するよりも、
   毎日欠かさずに合掌して感謝し続けるほうがステージは上なのだ。」

   「もし部屋で合掌する時間もないのというなら、その人生は間違っている。
   感謝する時間もないくらいに忙しい人生が果たして幸せなのだろうか」

           <感謝合掌 平成30年8月30日 頓首再拝>

墓参と家運の話 - 伝統

2018/08/31 (Fri) 03:01:45


        *Web:アラジンブログ より

橋本 徹馬著「墓参と家運の話」は、
墓参や供養を怠たる家庭には、病人や不幸が絶えずして、
次第に衰えて行くのに反し、墓参や供養に努める家庭は、
健康に恵まれ、且つ多くの不幸を免れて繁栄して行く次第が、
各種の実例を挙げて説明されています。

多くの知識人の気づかぬ処世上の一大事を知らせる書物です。

(序文より)

  この「墓参と家運の話」は、すでに二十八版を
  重ねており、なお盛んな売れ行きが続いている
  のであるが、

  初めこの文章は、思い出すままに紫雲誌上に
  発表したものを、そのまま書物にまとめたので、
  前後している点なども多く、不十分の所もあるので、
  この度書き直すことにしたのである。

  人は皆、幸福を求めているが、
  然し実際幸福を得ている人は少ない。

  それは幸福を求める道を知らぬからである。
  幸福への道を簡単にいうと、

一、親に孝行すること。どんな親でも不幸をすると必ず
  不幸を招くが、それを知らぬ人が多い。

  その親は自分が選んだ親であるから、
  親が気に入らぬからとて、不満を持ったり、
  怒ったりしてすむことではないのである。

二、先祖の墓参や仏壇での供養をよくすること。
  木に例えれば親先祖は根であり、当主は幹である。
  子孫は枝葉である。根を大切にせねば、幹も枝葉も
  栄えぬ道理であろう。

  この分かりきったことを気づかずに、墓参や供養を
  怠る者がある。それで栄えようとするのは無理である。

三、子供を墓参に度々連れていくこと。
  誰でもわが子が良い子に育つことを望むが、 
  そのための一番大事なことは、親がその親に 
  孝行するさまを子に見せておくこと
  (殊更に見せるのではないが)。

  並びに墓参に連れていくことである。
  親が墓参をして子にも拝ませ、その家の先祖のことを
  何かと墓前で語り聞かせる。

  そうするうちに子供心に家系の尊いこと、家名の
  重んずべきことなどが、子供の身に沁みて分かってくる。

  あの爆弾テロの連中やゲバ学生などの多くは、
  墓参に連れていかれたことのない人たちである。

  あの人たちは家系とか家名とかいわれても、
  何のことだか分からない。

  あのような子を持って苦しむ親は、自分たちの
  不行届を反省すべきである。

四、次にはその親たる者が平素欲張らずに、
  人のため人のためと考えて世に立つ。

  そうして私たちの親は正しいという感を、
  子供に植えつけておくことである。

  それが子供の親に対する心からなる尊敬心ともなり、
  従って子供が世に立つうえにおいても、正しい指針
  となる。

  つまり晩年の親は、正しいわが子の成長ぶりを
  喜ぶことができるのである。

五、神仏はもちろん親先祖や自然にも常に感謝の心を
  持つことである。
  
  その感謝のうちにこそ、こちらの心が神仏に通じ、
  神仏の加護がうけられるのである。

  墓参の大事なことを知る人なら、これらのことは
  皆よく分かるはずである。

  本書を読む人々が「病まず、貧せず、悩まず、恐れず」、
  幸福な生涯を送られることを祈念しつつ、
  この書を世に贈る。
  
  橋本 徹馬

  (http://pic.blog20.fc2.com/blog-entry-3.html

           <感謝合掌 平成30年8月31日 頓首再拝>

《結婚話が纏まり難い時の墓参》 - 伝統

2018/09/03 (Mon) 04:43:30


          *「繁栄の書」橋本徹馬・著(P108~109)より

ある男女が相思の仲にあり、一方の両親は賛成するが、他方の父親が反対している。

その時、何かその反対する父親を納得させて、
夫婦になれる方法がないでしょうかと聞かれた時に、

それには良い方法がある。
あなたは相手方の家の墓がどこになるか調べ、
その墓に日参して、その家の御先祖によくお願いしなさい。

「私を嫁にして下さるならば、必ず主人や御先祖を大切にし、墓参もよくして、
子孫が繁栄するように努力します。だからどうか私が嫁になれるようお力添えください、
と祈念するのです。そうすればキッと親御さんも、承知されるようになります」

と答え、その女の人がその通りにお墓参りをして努力したところ、
反対していた父親の態度が変わって、結婚が出来たという話。

こういう実例がいくつもあります。

             <感謝合掌 平成30年9月3日 頓首再拝>

建墓で、先祖が喜ぶ - 伝統

2018/09/15 (Sat) 04:14:12

        *「墓参と家運の話」橋本徹馬・著(P4~5)より

<五代続いて子のない家系は>

先年、釧路へ行った時、そこのIさんが面談をおもめて来まして、

「私の家は五代続いて実子に恵まれず、夫婦養子が続いているのですが、
これはどうしたことでしょう」という、私はすぐに

「お宅のお墓はどうなっているのですか」と問うと

「そのお墓がないのです」という。

(中略)

「お墓をつくらねばならぬと、最近思うようになったのですが、
旭川に居る養父に相談すると”わしが生きているうちはダメだ”
といわれて困っているのです」 ということでした。

(中略)

結局この人は墓を造ったのですが、
I家の御先祖が幾度も夢に出て来て喜んでいられるので、
嬉しくて堪らんと言っていました。

             <感謝合掌 平成30年9月15日 頓首再拝>

「彼岸入り」 - 伝統

2018/09/20 (Thu) 15:38:25

本日は「彼岸入り」です。
次の日曜日が「秋分の日」となり、
さらにその3日後が「彼岸明け」となります。

20日~26日の7日間が彼岸となります。
「秋分の日」はその中間に位置するため「彼岸の中日」とも呼ばれています。


「彼岸」とは元々仏教用語で
「煩悩に満ちた世界から解脱(げだつ)した悟りの世界」、
すなわち「亡くなった先祖達の霊が住む世界」を指すそうです。

その祖先の霊を供養するため、各家々ではお墓参りに行ったり、
祖先を供養する「法会(ほうえ)」が行われたりします。


秋分の日は「祖先を敬い、亡くなった人をしのぶ日」として
1948年に法律で制定されました。

・・・

     以下は、メルマガ「デヴィスカルノマガジン」(2018年09月20日)より

今日のテーマは『 お墓参り 』

今年も お彼岸の頃となりました。

毎年 春と秋には 必ずお墓参りに行きます。
去年は大雨でしたが、今年は 見事な秋晴れです。

爽やかな風に吹かれながら、いとこのお嬢さん夫妻と一緒に
久しぶりに 我が家と 叔父、叔母、いとこに ご挨拶いたしました。

いつものように 丹念にお掃除をし、
白百合、リンドウ、ススキなどの秋らしい美しいお花を飾り、
両親や弟に、ご先祖様に思いを馳せて手を合わせました。

やんわりとした風にたなびくお線香、
抜けるような青空を眺めていると、ふと 昔の思い出が蘇ります。

時の経つのは 早いものですね。

季節の移ろいを感じるのも こんな時です。

お彼岸を過ぎると、 秋も一気に深まります。

そして秋分の日は「先祖をうやまい、亡くなった人々を偲ぶ」日。 

皆さまも、是非お出かけくださいませ。

             <感謝合掌 平成30年9月20日 頓首再拝>

墓参で諸病が治った話 - 伝統

2018/09/21 (Fri) 02:32:29


        *「墓参と家運の話」橋本徹馬・著(P31~41)より抜粋

(1)母方の墓参をし、運勢が好転。

   特に、次男、三男の方。

(2)足のしびれ、足首の痛みが快癒。

   墓参の前に、仏壇を買っておわびをしただけで大方快くなり、
   その後墓参をしてから、完全に快くなった。

(3)妻の心臓病が快癒。

   妻は実家の両親が亡くなって35年になるが墓がなかった。
   それで、妻の兄弟たちと相談し、建墓したところ、
   妻の心臓病が全快した。

(4)頭痛が根治。

   結婚してから、実家の墓参を20年間してなかった。
   20年ぶりに墓参しおわびしたところ、一度で頭痛が治った。

(5)右の額の生え際の怪我が、母の実家のお墓に繰り返し参ったところ、
   医者も驚くように早く全快した。

(6)左の額に怪我

   父親におわびをし、ご先祖の墓参を毎日行ったところ、
   次第によくなった。

             <感謝合掌 平成30年9月21日 頓首再拝>

墓参で運命が好転 - 伝統

2018/09/22 (Sat) 04:36:03


       *「人生を支配する先祖供養」(P125~126)より

自分では努力しながら、練成会に度々参加して修養を積みながら、
少しずつはよくなりつつあるけれども、根本的に善くなれない
 ―― こんな当時の糸川昭代さんのような奥さんはありませんか。

(糸川昭代さんの体験談については、光明掲示板・第二「先祖供養 (96)」
墓参の功徳 (9578)~日時:2014年07月01日 (火) 04時18分で確認できます。
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/koumyou2/&mode=res&log=45 )

その理由を氏原正信氏は指摘せられて、当時から7年前、氏原氏は娘の
糸川昭代さんに次のように言っていられるところに注目せられたいのである。

「お前は、どうしても《ようならん》理由がある。
先祖のお墓にお詣りしたことがあるか」

ところが、講習会にも練成会にも参加して修養した昭代さんだから、
「先祖は根、親は幹、子孫は枝だ」とは理屈では分っていたけれども、
あんな遠い所のお墓にお詣りしたって急に良くなるもんかと思って、
昭代さんはお詣りしなかったのである。

ところが氏原氏は、「そういうことはいかん」といって娘の昭代さんを
糸川家の先祖の墓へ連れてお詣りをして、墓石の前で、糸川家の先祖の霊に
自分の娘を糸川家へ嫁に貰って頂く挨拶の祈りをしてくれたのであった。

それから、昭代さんの運がトントン拍子にひらけていったのであった。

(次に続く)

             <感謝合掌 平成30年9月22日 頓首再拝>

秋季皇霊祭 - 伝統

2018/09/23 (Sun) 04:52:30

今日は秋分の日、秋季皇霊祭です。

秋分の日は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」となっていますが、
昭和22(1947年)までは秋季皇霊祭といいました。

歴代天皇、皇族の霊が祭られている三殿の「皇霊殿」で行われるのが「皇霊祭」で
一般のお彼岸の先祖供養にあたります。

皇居の皇霊殿で行われる御皇室の祖先祭りを全国の神社で遥かにお参りするのが
秋季皇霊祭遥拝式です。

        
・・・・・

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》

      *『生命の實相』第28巻・久遠佛性篇下(P65~66)より


【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】


【毎朝、皇霊を遥拝】~久遠佛性篇下(P65~66より)

このわれわれの生命が永遠なる存在であるということは、
生長の家の真理の根本を貫くところのものであります。

これがハッキリわからなければ「皇霊を遥拝し」ということの意義もわかりません。

皇霊を礼拝するということ虚礼ではありません。

われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、
ここまで日本民族が発展してきました不倒翁の重心のごとくドッシリとして、その中心から
どんな時にも日本国が立直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇の御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を献げるのであります。

             <感謝合掌 平成30年9月23日 頓首再拝>

結婚したら必ず墓参し、祖先に報告しなさい - 伝統

2018/09/24 (Mon) 03:42:49


(墓参で運命が好転<2018/09/22 >からの続きです)

       *「人生を支配する先祖供養」(P126~127)より

氏原正信さんが糸川家の墓石の前で生きた人にもの言うように祈られた言葉は
昭代さんの体験談の中にもあるが、もう一度印象を新たにするために
書いて置きたいと思うのである。

   「真に不束な娘を、貴女のお家につかわせてもらいます。
   今まで忘れておったわけではございませんけれど、
   《こやらい》に追われ貧乏に追われ、本当に申し訳なかった!
   これは全部私の責任でございます。糸川家の御先祖様お許し下さいませ」

この祈りが行なわれた後に糸川家の運がひらけて来たのであって、
祖先の霊の不満又は立腹が逆念となって昭代さん夫婦の運命が開けるのに
障礙をつくっていたのである。


戦後の占領憲法では「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」とあり、
先祖は無論のこと父母の合意も要らぬように定められているから、
新夫婦が生じても、それを祖先のお墓へお詣りして報告しない人が多いと思われるが、

それは現世の被占領下の条件下に定められた仮の約束であって、
霊界に於いては、そんな占領憲法は適用しないのである。

結婚というものは新生活に入るケジメと時であるから、そしてその新生活が、
周囲の人々(霊界の人々をも含む)から祝福されるものであってこそ、
将来、その夫婦の生活が順調にのびて行くのである。

現実界は勿論、霊界から呪詛や不平や憎悪等の逆念が送られると、
人間の運命はそれだけ妨げられることになるのである。

             <感謝合掌 平成30年9月24日 頓首再拝>

亡き先妻の承諾を得てから、後妻を迎える - 伝統

2018/10/31 (Wed) 04:13:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月31日>(P115)より

男子が妻を失って家庭の事情か何かで後妻を欲する場合は
先妻の霊魂の承諾を得ることが先決問題なのである。

そうでないと先妻の嫉妬の逆念などを放送せられて、なんとなく後妻と
その良人との感情を疎隔せしめ、ついに離婚に立ち到らしめるか、
夫婦中のどちらかを病気にならせることがありがちである。

先妻は死んでしまって、
現在眼の前にいないのにどうしてその承諾を得ることができよう
―― と思われる人があるかもしおれないが、
先妻は肉体はいなくともその霊魂はたいてい良人に執着して身辺にいるのであるから、

身辺にいなくとも霊界にいて、名を唱えれば招霊しうるのであるから、
仏前で先妻の名を呼んで招霊し、

「汝(あなた)はすでに霊界の人であって地上の存在でないから、地上の世人に
おける地上の営みに執着しないで霊界で向上の道を辿ってください。

地上のわれわれの家庭では子供の多いことであるし、地上の生活上家事をとるための後妻が
必要であるから後妻を貰いたいからこれはやむえない事情の出来事として怨まず嫉妬せず、
家庭の中に不幸の起こらないように祝福しておいて完全に霊界の人となってください。

いつまでも地上のことに執着している霊は浮かばない霊と言っていつまでも苦しまねば
ならぬのである。今後一ヵ月間聖経『甘露の法雨』をあなたのために読んであげるから、
その真理をよく聴き悟って人間本来肉体でないこと、病も本来ないこと、

本来自由自在で歓びに満たされていることを悟って、成仏して自由自在の境地に入って
ください。」

こう前置きしてから一ヵ月間一定の時刻に『甘露の法雨』を
その亡妻のために誦するがよいのである。

こうして後、後妻を迎えたら先妻の執着の念は消えているから、
なんら障礙の念波を送らない。

そうして先妻の霊魂は過去帳または位牌の中に、戒名または俗名を書いておいて、
あとは「何々家先祖代々親類縁者之霊」とその家の縁者の霊を一緒にとなえて、
読経なり回向すればよいのであるから、
後妻に対して、先妻の名前を呼ばしめる必要もないのである。

世間には「生き別れの後へ嫁(い)っても、死に後へな嫁(い)くな」
という諺があるのは、先妻の死別したあとへ行くと先妻の亡霊の念波の干渉があって
うまくゆかないのと、

死んだ者は美しく見えるので、「前の妻はこうだった、こうしてくれた」
などとともすれば比較されるので後妻にとって耐え難いことがあるからである。

後妻の前で先妻の噂をしたり、先妻を賞(ほ)めたりするものではないのである。

             <感謝合掌 平成30年10月31日 頓首再拝>

霊牌祭祀の功徳 - 伝統

2018/11/30 (Fri) 04:28:29


『萬物一元萬教帰一成就燈』 点灯

          *『生長の家』(昭和昭和59年3月)
           生長の家本部教務局長  岩 田  安 雄


生長の家宇治別格本山 宝蔵神社発行の体験談集に掲載されている、
広島市にお住いの沢さんの内容に心ひかれました。


       『霊牌祭祀の功徳 海を越えアメリカへ』

「次男は、3年程前からアメリカのロスアンゼルスにあるM・F社に派遣されております。 
従業員500人ぐらいで、社長の重役も一般従業員も全てアメリカ人で、
次男がその中に日本人としてただ一人派遣されました。

斜陽した会社を発展させるための使命を担ってですが、
最初はわざわざ日本から何しに来たかという態度で坐る机も無いという具合でした。

昨年の6月23日でした。 電話があり、ロスの次男からでした。 
そのとき、日本では夕方7時でしたが、ロスでは早朝であると言っておりました。

電話をかけてきた目的は、『今日これから会社の運命を決定する重要な会議がある。 
ところが人間智でどうにもならないほど混乱している。 
お父さん、お母さん祈って下さい』

とのことでした。 

その時、私は無我夢中でしたが 『霊牌』 を書きなさい、
『霊牌』 を書いて御先祖様からのお力添えを頂き、
円満解決することが先決だと指導しました。  

〈霊牌による祭祀は、どの宗教の方でもできる萬教帰一の生長の家独特の祀り方です〉

実は昨年5月の宇治別格本山対策部研修会に参加させて頂きましたが、
群馬の方の体験談を拝聴し、『霊牌』祭祀の素晴らしさを改めて認識させて頂きました。 

それで、次男のアメリカでの苦労を知っておりましたので、
これは御先祖様の御力添えを頂かねばと思い付き、
早速次男のもとへ『霊牌』を送ってあったのでございます。 

それがこの電話の時にすぐ『霊牌』を書いて送り返すように決意させました。  
〈生長の家では有縁の方の愛行として、誰方でもできるのです〉

また私は私で、その夜一人で、会議出席者7名の方々のアメリカ人の御先祖様を
『霊牌』に書き、聖経 『甘露の法雨』 の読誦を3回、
一所懸命に行じさせて頂きました。

翌日、気になって私の方から電話をかけてみましたところ 
『会議は最初から大調和のうちに進み、ただ一人の傷つける人も無く、
無事終了することが出来た』 とのことでした。

それから少しして、オートネルとか、リチャードとか片仮名で書かれた
『霊牌』が次男のもとより送られて来ました。 
それで私の書いた『霊牌』と共に、宝蔵神社に祭祀して頂くべく、
教化部へ届けさせていただきました」

          ◇           ◇

この体験で共感されますのは、アメリカ人の御先祖様を有縁の方として
『霊牌』に浄書し、聖経 『甘露の法雨』 を読誦、感謝行に励みましたら、
遠隔の地、しかも4次元世界に転移されている諸霊に感応し、
現実界の人々が大調和の念に満たされ、なごやかな雰囲気の中に、
会議が終ったと言うことです。

それは当然あり得ることなのです。

 
前回でも触れましたように、萬教帰一の真理に目醒めたブラジル人は
祖先霊供養に非常に熱心で、キリスト教の真意義とともに、
神の普遍の霊性について、一層自覚が深まると同時に、
個人の生命もまた永遠であり、具体的な感謝生活が大切であることに気付き、
祖先霊の供養に励むことが日常となったのです。

このブラジル人の、“人間は永遠に死なない”という自覚から滲みでる
歓喜(よろこび)の姿こそは、世界の宗教界の現状と、将来をふくむ問題を、
反映していると言ってさしつかえありません。

 
広島市の沢さんの報告は、キリスト教徒であるアメリカの人々の信仰のなかにも、
祖先霊を供養することによって、新たな活力を与える機縁となることを、
示唆していると思います。

           ◇          ◇

最近のニュースでは、日本のカトリック教会の行事に祖先崇拝をとり入れるようにと、
カトリック諸宗教委員会代表からの提案があり、伝統的な信仰実践の場で、
意見が交されているとのことです。

混沌のなかにも光はあります。 

共産主義国のソ連は、第2次大戦中、スターリンが国民の精神を鼓舞するために、
キリスト教の再興を許し、無宗教政策の弾圧を、一時的にも緩めたことがあったのですが、
本来のロシア人の魂の故郷は、今も依然として、修道院や、ロシア正教会や、
荒廃していない古い農村生活への記憶にその基礎を置いていることは事実です。

ソ連にも、共産主義のイデオロギーに束縛されない霊性の高さと、
魂の自由を求め、内在の神性を堅く信じている人達が数多くいるのです。  
〈ロシア語による 『生命の實相』 宣布の機会をつくりたいものです〉

前回、顕幽一如であると知らずに去った多くの未発達の霊魂のため、
進んで浄化のはたらきを捧げる必要があるであろうと述べたわけですが、
人類の憎悪感の具象化として、いま現実的に迫っている、大国間の対立は深刻です。

核戦争の恐怖を解消する手だての中に、高次元世界に対する修正浄化の働きを
期待することは根拠があり、超宗教の立場からも充分ゆるされることと思います。

『萬物一元萬教帰一成就燈』点灯の意義を明らかにし、
人権を超え、国境を越え、萬教帰一運動への、
機縁の熟すことをひたすらに祈る日々です。

   (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/f680430b74ceb3fa955ca7b29622dfd6 )

             <感謝合掌 平成30年11月30日 頓首再拝>

《 祖先を開悟に導くために聖経を読誦せよ 》 - 伝統

2019/03/18 (Mon) 02:20:11


今日、3月18日は、春の彼岸の入り、
3月21日は、春のお彼岸(春分の日)、
3月24日は、彼岸明け。

        *『人生の秘訣365章』第2篇(P57~58) より

繁栄のために必要な祈りは、
祖先に対し、また父母に対して感謝のコトバを唱えること、又は感謝を念ずること、
また現実に言葉に出して「お父さん、お母さん、ありがとうございます」と
本当に感謝することである。

祖先はあなたの「生命の樹」であり、父母はああたの“生命の幹”であるから、
根を培わねば、その植物は伸びないのであり、幹を無視して、枝葉ばかり栄える
ということはないのである。


祖先の霊が迷っている場合には、
そのような霊が「救われたい」とねがって念を送って来ることになるのであるから、
繁栄の反対に、衰退の想念があなたに引っ懸って来るものであるから、
あなたの運命も自然衰退の道をたどることになるのである。

祖先の霊に対して、聖経『甘露の法雨』を毎朝夕読誦してあげることにし、
聖経の表現する“真理の言葉”によって先祖の霊の悟りを増進するならば、

“迷っている祖霊”の念波に子孫が抑えられることなく、
更に開悟して神通力を増した霊からの守護と指導のアイディアを受け、
自然にあなたの計画せる事業が繁栄することになり、
家族一同の健康にも好(よ)き影響をもたらすのである。

             <感謝合掌 平成31年3月18日 頓首再拝>

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》 - 伝統

2019/03/21 (Thu) 01:58:07

今日は3月21日、春分の日、春季皇霊祭。

今日は、ご皇室とともに、ご先祖に感謝する日です。


・・・

《皇室および一家の祖先を礼拝せよ》

        *『生命の實相』第28巻(久遠佛性篇下)(P65~66)より


【われらは生命は永遠なるを信じ、毎朝、皇霊を遥拝し奉り、
 次いで一家の祖先の霊魂または仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し、
 かつ自己の生命も永遠なれば常に若く愉快に青年のごとく生きんことを期す】


皇霊を礼拝するということ虚礼ではありません。

われわれ日本人は日本国の歴史を通して「今」の一点に生きているのです。

そしていろいろの日本国の興隆浮沈はあったにしても、どんなときにも日本国が動揺せずに、
ここまで日本民族が発展してきました不倒翁の重心のごとくドッシリとして、その中心から
どんな時にも日本国が立直ることができた重心は天皇がましましたからであります。

われわれは歴代の天皇の御恩沢を忘れてはならない。
恩を知るということが実践道徳と実践宗教との中心になるのであります。

だからわれわれは歴代の皇霊に対して崇敬の誠を献げるのであります。


・・・

<参考Web:お彼岸のお中日と皇霊祭の意味
        → http://soseinippon.way-nifty.com/shinto/2012/09/post-3de1.html >

             <感謝合掌 平成31年3月21日 頓首再拝>

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