伝統板・第二

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新生 ② - 伝統

2018/01/17 (Wed) 04:15:12


      *伝統板・第二「新生」からの継続です
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6464496


《新鮮なる生命感に満ち溢れよ》

         *「光明法語」(1月17日)より

新しい環境は新しい飛躍を生むのである。
新しい環境がなければ生命は溌溂として生きて来ないのである。

新しき環境に於いて新しき夢は描かれ、
新しき経験は始まり新しき事物は発生し
幸福と新しき文化は構成される。

今汝の心を開いて新しき世界に対処せよ。
新しきものを拒絶する勿れ。

新しきものは汝を新しく生かさんが為に
神から遣わされたところの天の使いである。

如何なる変化が起ろうとも木枯らしが吹荒(ふきすさ)ぶとも
春は旋(やが)て来るであろう。

満目霄壤(まんもくしょうじょう)、荒涼たる風光の中に
一陽来復の桜花爛漫たる春が用意されているのである。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「新生・新天新地」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=983 

(2)光明掲示板・伝統・第一「新生 (82)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成30年1月17日 頓首再拝>

《「宇宙的な自己」への目覚め》―― それが新生である - 伝統

2018/02/01 (Thu) 04:10:26


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P305~306) より

誰でも人生のある段階に達したとき、人間が単なる物質ではなく、
物質以上のもの、肉体以上のものが自分に宿っており、
それに生かされているのであることを悟る瞬間が
一度や二度は必ずあるものなのである。

それは何か非常な危険に晒されて、迚(とて)も自分の力では
その危難から救われる筈がないと思われる瞬間に、何か不思議な力によって
その危難から免れ得たようなとき、

または既に医師も家族も、自分も、絶望だと信じ切っていたような瞬間に、
ふと気がついてみたら生きている自分を発見したようなとき、

此処に生きている生命(いのち)は自分の生命(いのち)ではなく、
一層偉大なるものに生かされていると云う自覚が得られるのである。

そんな体験をある人は軽く見逃してしまって記憶にとどめないで忘れてしまうが、
或る人にはそれが深い感銘を与えて「人間」を見る眼が一変してしまう。

小さな「個」の存在から、偉大なる「宇宙的な自己」へと目覚める
―― それが新生である。
本当の新生は決して、寄る年波をかぞえる暦の上での
新年を迎えることではないのである。

            <感謝合掌 平成30年2月1日 頓首再拝>

常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである - 伝統

2018/02/16 (Fri) 03:56:57


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日)」より

常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。

人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることを
生物学上の実験によって確かめられたという。

人間の肉体が老いて衰え死するということは、
細胞が複雑に組み合っているために、常に新しくなれないからであって、
必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。

ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

人間の心もそのとおりである。
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。

老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、
ただ過去の惰力で生きており、過去の惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、
過去の惰力で若い人を推し測るからである。

過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

            <感謝合掌 平成30年2月16日 頓首再拝>

《「神聖なる人間」の自覚》 - 伝統

2018/03/01 (Thu) 04:55:01


       *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P326) より

新しく生れかわるとは「肉体人間」の自覚から
「霊なる人間」への自覚に一転することである。
「不浄なる人間」の自覚から「神聖なる人間」への自覚に超入することである。

色々の犯罪が行われるのは、自分自身を「性欲から生れてきた人間」
「不浄なる欲望の産物なる人間」と思うからである。

そして自己の「生(せい)」の根元なるものに”不浄”を感じ”罪”を感じ、
それを嫌悪し、それから逃れようとするために、却って其の不浄に捉えられて
不浄を犯し、罪を重なる。

そして、愈々(いよいよ)自己嫌悪、自己憎悪に陥るがゆえに、
自己を此の世に生み出した父母(ふぼ)を呪う。
父コンプレックスが其処に生じ、世界は不浄となり、罪悪よ憎悪との地獄となる。

釈尊も父コンプレックスに陥って出家し、ついに自己が「肉体なる人間」から
生まれた者ではなく「霊なる者」から生まれたる者と知り、
久遠無量寿の自己を発見したのである。

            <感謝合掌 平成30年3月1日 頓首再拝>

《新たに生まれる》 - 伝統

2018/04/02 (Mon) 03:27:39


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P327) より

自己が霊的実在であるとわかったとき、自己の生活が「霊」の生活となり、
「罪」より「神聖」へと移るのである。

自己が霊的実在であるとわかれば、他の人々も霊的実在であるとわかる。
環境の一切が物質ではなく、「霊」なるものの表現であるとわかるのである。

釈尊はこれを、「有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏」と悟られたのである。
情(こころ)有(あ)るものも情(こころ)なき物も、今このままに仏の現成である。
山も川も草も木も国土も皆仏の実現であると悟ったと云う意味である。


不浄の世界が消え、聖(せい)の世界があらわれたのである。
不浄の自分が無くなり、聖(せい)の自分があらわれたのである。

物質は克服され、肉体は影を消し、霊なるもの、不滅なるもの、久遠なるもの、
法身、仏身、金剛身、如来身である自己が把握されたのである。

これが本当の新生であり、「新たに生まれる」である。

            <感謝合掌 平成30年4月2日 頓首再拝>

すべての内に永遠を発見することが本当の新生である - 伝統

2018/04/08 (Sun) 03:35:05


           *「光明道中記」(4月8日 釈迦新生の日)より

【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今 
 ―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】


「お前は何を求めているのだ? 」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「《この》私が永遠か? 」

「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」

此の対話の示す真理を理会する者は幸である。

各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。

是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。

吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。

            <感謝合掌 平成30年4月8日 頓首再拝>

新しく生きることを知る - 伝統

2018/04/30 (Mon) 04:50:53


      *「光明道中記」(4月30日 神一元の自覚愈々深まる日)より

【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
                    (『生命の實相』第十七巻)】

汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。

すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。

今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。

吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。

一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。

古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。

新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。

その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月30日 頓首再拝>

《今、天地の開くる音》 - 伝統

2018/05/01 (Tue) 03:51:32


    *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)
                 第12篇(P327~328) より

自己が霊的実在であると云うことを悟ったとき、
宇宙の大霊と波長が合うようになる。
そして宇宙の大霊からの召命を感ずるのである。

其処から使命感が湧き伝道がはじまる。
彼は今までの肉体的侏儒(こびと)であったのが、霊的巨人となるのである。
盲目(めしい)たるパウロから、さまざまの奇蹟を演ずる霊的巨人たる
パウロにまで変貌するのである。

「最早われ生くるに非ず、キリスト吾れにあって生くるなり」と云う
パウロの自覚ともなり、

釈尊の「天上天下唯我独尊、われは最勝なるものなり」の自覚ともなり、

黒住宗忠の「最早われ生くるに非ず、天照大御神われにあって生くるなり」
の自覚ともなるのである。

自己が変貌し、世界が変貌する。
自己が新生し、世界が新生する。

大地六種(だいちりくしゅ)に震動し、
「今、天地に開(ひら)くる音(おと)」が聞こえるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月1日 頓首再拝>

《霊的に生れ変る》 - 伝統

2018/06/01 (Fri) 03:04:45


      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P26) より

あなたの唯物論を除き去れ。

それが神からの無限をあなたに豊かに流れ入らしめる
通路をひらく事になるのである。
そのために常に、聖典、神誌、聖経を読むがよい。

やがて時が来る。

それは速やかに来る人もあれば、稍々(やや)長き後(あと)に来る人もあるが、
あなたはついに潜在意識の底に横たわる唯物論を洗い流して、”神の子”なる
実相を顕現し、自己が霊的実在であることをハッキリと悟る時が来るのである。

その時あなたは、
今までと異なる自由自在な”自分”を発見することになるのである。
その時、あなたは生まれ変わったのである。

もう過去の”自己縮小した自分”ではないのである。
偉大なる”神の子”であり、
”神の最高の自己実現”であることを発見するのである。

その時、あなたは誠にあらゆる方面に自由自在なる自己を発見し、
行くところ可ならざるなき、実相の能力があらわれるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月1日 頓首再拝>

《今》既に新天新地がある - 伝統

2018/06/29 (Fri) 03:41:06


         *「光明道中記」(6月29日 天国成就の日)より

【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】

「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。

《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。

おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。

そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。

既に成就せる世界を知って、それを現象世界に実現するのが、
吾々の正しい生活である。

証上(しょうじょう)の修(しゅう)である。

既に成就せる世界を知るが故に退転することがないのである。
既に健康なる自分を知って、その如く行ずるのである。

多くの病者は《これから》健康になろうとして、健康法を励行するが、
思うように効果が挙がらないのは、《これから》と思っているからである。

既に《今》健康なのである。
肉体は自分ではない。自分の殻(から)である。

殻何するものぞ。
捨て切れ、捨て切れ、捨て切ったとき永遠の生命と、
今(いま)茲(ここ)にある天国を知ることが出来るのである。

            <感謝合掌 平成30年6月29日 頓首再拝>

《先聖(せんしょう)の精神をもって新しく前進すること》 - 伝統

2018/07/01 (Sun) 04:08:01


       *『 生長の家 』(昭和44年12月20日の法語)より

   人は今までの考え方や、やり方の習慣の中に安住して、
   新しい生活や事業を開いて行こうとしない傾向があり勝ちである。

   昔のままで動かないでいることが、
   不安がなく落ち着く気持ちがするので、
   安易な方を選ぼうとするのである。

   しかし人類は進歩する、社会も進歩する、科学も進歩する、
   私たちはそれらの進運(しんうん)に
   とり残されてはならないのである。

   「 古きを温(たず)ねて新しきを知る 」( 温故知新 )ということは、

   特に先聖(せんしょう)の人々の生活の行履(あんり)に
   われわれの精神の行き方を学ぶことが
   大切であることを言ったものであるが、

   その先聖の精神が示された行き方によって、
   新しいものをきり開いて行くことが大切なのである。

   先聖は決して旧態依然たる古い習慣に
   しがみついたりしてはいられなかったのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/de70f22feac7a5abadc04506f56b6520

            <感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>

われ新しき天地に呼吸す - 伝統

2018/08/01 (Wed) 04:00:27


         *『栄える生活365章』(P4)より

われ新しき天と地を迎う。祝福すべきかなこの新天地。

今よりのち一切の悩み、悲しみ、失望、落胆ことごとくなき新天地に我生まれたるなり。
暗黒は空の彼方に消え去り、新しき光、五彩の虹を放って今この新天地を照らすのである。
われは一切の過去を放ち去ってこの新天地に立ち、この新天地に呼吸するのである。

生命(せいめい)満ちあふれたわが生命よ。
汝は神のいのちである。
一切の汚れなき新しき生命である。

過去の悪しき印象は、青空が飛ぶ鳥の跡を印しないと同じように、
わが潜在意識から消え去ったのである。

わがいのちは新しき自由と繁栄の世界に羽撃(ばた)くのである。

一切の”悪”は過ぎ去ったのであった。
”悪”は実在ではなく、単に妄想の幻影に過ぎないのであるから、
一度過ぎ去った後(あと)に再び還ってくることはないのである。

わが新しき天地は永遠に新しく汚れなく悩みなく神聖である。

神わが家族すべてを祝福したまうのである。

            <感謝合掌 平成30年8月1日 頓首再拝>

《朝の出発に心の調律を》 - 伝統

2018/09/01 (Sat) 03:28:49


         *『生活の智慧365章』
           (第3部繁栄の泉)第9篇(P227~228) より

一年の計画は元旦にあり、
一日の謀(はかりごと)は朝にあると言われている。

朝の出発に、心を調律して歓びの想念感情に波長が合うようにして置くならば、
その日一日、悦びの番組が次から次へとあらわれて来るようになるのであるが、

朝の出発に、陰気な不快な不調和な想念感情のままで、心の調律を怠っているならば、
その日一日じゅう不快な出来事が、生活番組として出て来ることになるのである。

 
人間の心は一種の放送局でもあるし、受信局でもあり、テレビ・セットのように、
その受信した精神内容を形に具体化してその人の身辺に実現することになるのである。

宇宙は、過去現在に於て放送され又は放送されつつある精神波動の貯蔵庫
みたいなところであるから、そのうちのどの波長に自分の“精神テレビ”を
同調されるかによって、幸福でも不幸でも失敗でも成功でも
実現することになるのである。

            <感謝合掌 平成30年9月1日 頓首再拝>

新たに生まれる - 伝統

2018/10/01 (Mon) 04:50:27


     *「希望を叶える365章」(P24)より

何よりも「自分」と云うものが、霊であり、
神の生命(せいめい)が今此処に宿っているのであり、神の”自己実現”であり、
肉体も心も、自己に宿る神の生命(せいめい)の”宮”であり、
内部の神霊に生かされているのであるから、

神にお委(まか)せしましょうと云う気持ちになるとき、
内部の神霊の叡智に導かれて、調和ある健全にして豊かなる生活が
送れる事になるのである。

そこにあなたは新たなる自分を発見し、
昼は喜びにみたされ、夜は平和なる眠りを得、
関係事業は繁栄し、不安と恐怖との生活は平和と信頼とにかわり、
地上に天国浄土の生活を味わうことが出来るようになるのである。

          <感謝合掌 平成30年10月1日 頓首再拝>

人あらたに生まれずば、神の國を見ることあたわず - 伝統

2018/11/01 (Thu) 04:12:24


         *Web:光の進軍
              ~仙頭 泰 より

谷口雅春先生の「ヨハネ伝講義」をテキストに学習します。

ヨハネ伝の第三章、二節のところを開いてください。
ここにはニコデモがイエスに質問しているところがあります。

「先生、私達はあなたが神からこられた教師であることを知っています。
神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、
誰にも出来はしません」。

そこでイエスは答えられました。

「よくよくあなたに言っておく。
誰でも新しく生まれなければ、神の國を見ることは出来ない」。

 
ニコデモは、イエスがいろいろと現象的に御利益ある奇跡が出来るのであれば
神から遣わされた先生だとこう思ったわけです。

そこでイエスは、そんなことでは本当のことは分かっていないので
ここで教えられたのであります。

 
それは神の國と云うものは、そんな形の世界にあるものではないこと、
肉体の五官を通して見える奇跡や、人間の肉体を見てそしてそれに感心をしている
ようでは、まだ本当の事は分かっていないと云うことです。

ですからイエスは、人間は新たに生まれなければ
神の國を見ることは出来ないと言われたのです。

イエスは「神の國はここに見よ、かしこに見よと云うが如くにはないのであって、
神の國は汝の内にあり」と言っておられるのであります。

イエスは、人間は新たに生まれなければ神の國を見ることは出来ない
と言われたわけでが、ニコデモはここでますます見当違いをするのです。

つまり「もう私のような年寄りで、生まれかわる事がどうして出来ますか。
もう一遍お母さんの腹の中に入って出直して来ることなど、
そんなことは出来る筈はありません」と言うのであります。

ここで五節から八節まで、読んでみましょう。

イエスは答えられた、
「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊から生まれなければ、
神の國に入ることは出来ない。肉から生まれる者は肉であり、
霊から生まれる者は霊である。

あなたがたは新しく生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、
不思議に思うには及ばない。
 
風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞くが、それが何処から来て、何処へ行くかは知らない。
霊から生まれる者もみな、それとおなじである。

 
谷口雅春先生は、次の様に説明しておられます。

水と霊とによりて生まれなければ神の國に入れないと云うのは、
水に大変重点を置いたようでありますが、イエス時代の洗礼は、
現代の教会でしている様な簡単な形式ではないのでありまして、
ヨルダン河に頭から全身を悉く沈めて、肉体を全没せしめて肉の無を実証し、
霊に依って蘇生(よみがえ)らせたのであります。

それだから「水と霊とにより生まれずば神の國に入ることあたわず」と
イエスは言われたのであります。

肉体の否定を通してのみ本当に「霊によって復活する」ことが出来るのであります。

この真意をしらずして、形式だけで頭から水滴を振りかける様な洗礼をしても
なんの効果もないのであります。

尤も、形式も、それに内在の意識を伴う時、
重大な効果を現すことになるのであります。

華道でも、茶道でも、その他の芸術でも、先人の造った形式から入っていく、
この形式を貴ぶと云うことは、先人の「道を習う」と云うことです。

先人はその道によって、自己内在の奥儀を最も完全に表現したのです。 

その「道を習う」と云うことによって、私達は「自己内在の奥儀」
(宗教的には神性、佛性。芸術的にはコツとも云うべきもの)を
最も容易に導き出して来ることが出来るのであります。

 
キリスト自ら、神の子であるのにヨハネの洗礼を受けられたと云うことは、
これは如何にキリストが先人の型を尊重し、如何に優しい心を持って、
そしてその時代時代に大調和の心をもって臨み給うたかが分かるのであります。

水によって肉体を沈没せしめて肉体の無を現しても、
霊の洗礼によって、自己を「肉」より「霊」に置き換えなければ
神の國に入ることは出来ないのであります。

 
「肉により生るるものは肉なり」、
この肉体をそのままで「神の子」などと考えたら見当違いなのであります。

「生まれかわり」と云うことを肉体的なことと考えては無論いけないばかりか、
それを精神(頭脳精神)の問題だと考えても無駄であります。

肉についた本能の心や、知性や潜在意識や、そんなもので、
「神と一体」だなどと考えただけで「神の子の自覚を得た」などと考えると
増冗漫であります。

 
神の子の自覚は「霊によって更生する」、
唯佛と佛の霊交によってのみ得られるのであります。

一遍、母の胎内に入って生まれ更わって来たとて、
そんなことは肉体的なことであって霊的自覚でもなんでもない。

物質の肉体の全否定のところからのみ神の國(実相世界)が直観されるのであります。

生まれかわりを物質的にのみ考えていたならば、
とても「霊による更生」は分からない。

それはあたかも風があそこに吹いたり、こちらに吹いたり、
好き気ままに吹いているけれども、そして響きは聞こえるけれども、
何処から生まれて何処に行くのだか、それは分からない。

物質界のものでも眼に見えないものは、そんなものであります。
況や幽の幽、玄の玄なる「実相生命」と云うことが分かるのは、
霊的自覚による他はない。

ニコデモは自分自身を肉の人間だと思っているのだから、
ニコデモにはさっぱり訳が分からなかったのであります。

 
ここで「至上者の神示」から、抜粋します。
この神示の始めのところに次ぎのように示されています。

「人即ち神であると云う真理を知らぬ者が多いのは気の毒である。
『生長の家』が此の世に出現したのはすべての人々に
此の至上の真理を知らさんが為である。

自己を神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、
自己の本性が神だと悟ったものを謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。
かくの如く想像する者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことが
ないからである。自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるものである。」

「本当の謙遜とは『自己は神よりいでた神の子である、
従って神そのもののほか何者出もない』と言う真理を
何らのさからいもなしに承認することである。
この真理を承認するものを謙遜と言い柔和という」

 
この神示には、釈迦にしろ、イエスにしろ、
自己内在の無限性を掘り下げてついに仏性に達し、神性に達したから、
霊界の諸霊来たってこの二聖につかえたと示されています。

イエスは「自分は神の子である。実相そのものである。霊そのものである」
と云うことは、直接認識によって直接知ることなのであることを、
ニコデモに言っているのであります。

 
「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない」
と十三節に述べています。

ここに天と云うのは、この現象界に対する実相界のことであります。
実相の生命がそこに現れているものだけが、実相の天国へ入ることが出来ると云うのです。
つまり凡夫が修行して佛になるのではない。始めから佛であるところの佛が、
佛になるのである。

佛の世界から出て来た者だけが、佛になるのである。

 
つまり、天より下りし者、即ち「人の子」(即ち「神の子」)の他には
天に昇った者はない ―― 佛の世界から出て来たものの他には佛になる者はない。

佛が佛になる、神が神になる、
そして人間は始めから神の子であり、始めから佛であるのであります。

これが大切な真理なのですから、
その真理をイエス・キリストは自己の直接体験の真理としてしっかりつかんで、

「我ら知ることを語り、また見しことを語るのだ。
理屈を述べるのではないのだ。
人間は神の子であると云う自分の直接認識の真理を語るのだ」

と強い語調でもって語っておられるのであります。

                (終わり)
  
http://hikarinoshingun.giri.jp/01-donna-oshieka/0101dno-sendou-ronbun/38hito-aratani.htm

          <感謝合掌 平成30年11月1日 頓首再拝>

「新たに生れる」とは、我の脱落のことである。 - 伝統

2018/11/02 (Fri) 04:08:10


          *「光明道中記」(11月2日 旧我の消える日)より

【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
  自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】

「《わし》が」の無くなったのが仏心である。
「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。

道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、仏法を知れりと言うには
あらずということを」と言っていられる。

悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。

自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。

キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。

「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。

           <感謝合掌 平成30年11月2日 頓首再拝>

《われらの新生し得る理由》 - 伝統

2018/12/01 (Sat) 04:30:51


         *『白鳩』(昭和49年1月19日の法語)より

   『信仰の科学』の48頁に「吾らは如何にして新生し得るか」
   と題する一章がある。それは次のような文章から始まっている。

   『われわれは絶えず新生しつつあるのであるとわれわれはいう。
   しかしながらいかにしてわれわれは毎日生まれるのであろうか。

   われわれが絶えず新たに生まれるということは、
   〃われわれの実相〃〈実に在るところの本質〉から
   常に生命が泉み出でることである。

   これが「新しき神の都エルサレムが花嫁の如く着飾りて
   ‘天より’降り来る」という聖句の意味するところである』

 
   これは『黙示録』第一章第二節を新たに訳したのであるが、
   この「‘天より’降り来る」という聖句の「天より」というのは
   「実相より」という意味なのである。

   わたしたちの実相は、 〃神〃 そのものであり、
   神は永遠の新生であり、無限を内に包蔵し給うのであるから、

   その〃無限〃より現実界に天降り来るものは、
   〃陳(ふる)きもの〃の重複した繰返しでは決してないのであって、
   常に新しきものなのである。

   ここに吾々が如何にして新生し得るかの根拠があるのである。

   それゆえに、『信仰の科学』はつづいて
   次の如く説いているのである。 ――

   『われわれが〃自分の実相はいかなるものか〃を悟るとき、
   まさにその瞬間より、〃久遠の生命〃が内より開花して、
   決して枯れ朽ちることのない至上の美花をわれわれに
   見せてくれるのである』


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

           <感謝合掌 平成30年12月1日 頓首再拝>

新しき天と新しき地 - 伝統

2019/01/01 (Tue) 03:50:23


    <「光明道中記」1月・いのち立つ春~はじめの言葉 より>

我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前(さき)の天と前(さき)の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。

我また、聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく
準備(そなえ)して、神の許をいで、天より降るを見たり。

また大いなる声の御座(みくら)より出づるを聞けり。

曰く『視よ、神の幕屋人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、
神みづから人と倶に在して、かれらの日の涙をことごとく拭い去り給わん。
今よりのち死もなく、悲歎(かなしみ)も、号叫(さけび)も、苦痛(くるしみ)もなかるべし。
前(さき)のもの既に過ぎ去りたればなり』

斯(かく)て御座に坐し給うもの言いたまう。
『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言いたまう
『書き記せ、これらの言(ことば)は信ずべきなり、真(まこと)なり』

また我に言いたまう
『事すでに成れり、我はアルハなり、オメガなり、始なり、終なり、
渇く者には価なくして生命の水の泉より飲むことを許さん。
勝を得る者は此等のものを嗣がん。我はその神となり。彼は我が子とならん・・・』

                  (「ヨハネ黙示録」第二十一章1―7)

・・・

新たに生まれる

     <「生命の實相」第37巻幸福篇上(1月1日)」より>

 われわれを生かすのは明るい思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな思想である。
 さし昇る朝日のごとくさわやかな精神こそ日本精神である。

 生命は暗黒の中にも光を見る。
 暗室に置かれたる豆もやしは、外から洩れるわずかな光を求めて、
 光の方へ光の方へと向いていく。

 そして光のない間は細く長くかよわく貧弱に伸びて行くにすぎないが、
 ひとたび光を得たときには、太くしっかりと逞しく勢いよく生長する。
 生命には光が必要なのである。

 光が全然ないときには、伸びかかった豆もやしも数日間で枯れてしまう。

 再び言う。生命には光が必要なのである。

 
 新しい年には新しい心が生まれる。
 元旦は物事の始めであり、生活更新に最も都合の良い時である。

 他の時にも新しい覚悟ができ、賢明なる人はいつからでも新生活に突進しうるが、
 われわれには新しい決意を実行するのには元旦がよい。

 元旦からまず始めよう。
 それは明るい心を持つということである。

 一度にあれもこれもと考えて、それが実行できなかったら、
 新しい決意も最初の一日から崩れてしまう。

 ただ今日一日明るい心をもつことにしたい。
 ただそれだけ一つのことである。
 これだけのことならばわたしにもできると思う。

 明るい心を持つには何事が起こっても怒らないということである。
 何事が起こっても悲しまぬということである。
 何事が起こっても失望せぬということである。

 何事が起こっても怒らず悲しまず失望せぬためには、
 起こった事物は「もうすんだのだ」と知ることである。

 去年の暮れはもう起こったからすんだのである。
 すんだからこそ新しい年が来たのである。
 木枯らしに散る葉があるからこそ、春に美しい若葉の美が讃えられるのである。


 天地一新。
 悪しきことは未だかつてひとつも起こらなかったし、これからも起こらない。
 それはすべて一新していく姿である。

           <感謝合掌 平成31年1月1日 頓首再拝>

毎日、毎日が新生 - 伝統

2019/01/15 (Tue) 03:58:14


           *「光明道中記」(1月15日 新天地開ける日)より

【新天地が開けるとは小さなる「我」が脱落して、自由な愛の世界に出ることである。
                            (「生命の實相」第四巻)】

新年は懈怠(けたい)の心を起すための期間ではなかったのである。
生れ更(かわ)りのための契機を与えてくれる善き恵みの期間である。

注連(しめ)の内を過ぎて振返って見ると、
新年こそは生れ更(かわ)ろうと思っていたのに
幾程も生れ更(かわ)っていない自分、
惰力に押し流されていたような自分を発見して悲しくなる人が多い。


併し「今からでも遅くない」毎日、毎日が新生なのである。

愛に眼覚めること、愛の心を起すこと、神の愛を感ずること、大自然の愛を感ずること、
人の愛を感ずること、すべての物と事とに内在する愛を感ずること

 ―― 一言にして言えば、
すべての事物をただ有難く拝まさせて戴く心になることが
此の月の毎日の課題であったのである。


有難く思わなかったことがあったら、
それは其の事物に有難さが宿っていなかったからではなかったのである。

自分が有難さを見る眼を開いて見なかったからに過ぎない。

「机さん有難う」

「空気さん有難う」

「御食事有難う」

「日光有難う」

「お父さん有難う」
「お母さん有難う」 

斯う声を掛けてみれば、万物ただ有難いことが判るのである。

            <感謝合掌 平成30年1月15日 頓首再拝>

朝讃歌 - 伝統

2019/02/01 (Fri) 04:43:15


       *「生命の讃歌」(P106~108)より

朝 東方に面して 合掌礼拝して

霊々
妙々

円満の大生命を観ずれば

心身清浄
微妙の大生命は

雰囲気となって
我が身 我が心をひたす。


吾れと その雰囲気と
一体にして堺なし

ああ 讃うべきかな生命

われが生命である歓びよ。


生かされている!

生かされている!

生かされている!


生かされているこの歓びを
心にみたして眼をひらけば

眼前に
朝の太陽は微妙の光をはなち
庭の木の若葉に生命が照り輝く。

若葉の生命の中を
別にまた一つの生命が踊っている。

雀が金色に輝いて枝から枝へ飛びうつる。

空気が踊っている
内も外も
燦然たる生命の大光明世界だった。

          <感謝合掌 平成31年2月1日 頓首再拝>

常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである - 伝統

2019/02/16 (Sat) 04:30:38


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月16日)」より

常に新しくなるものは老いない。
老いるとは常に新しくなれないことの別名である。

人体の細胞を切り離して培養し、その培養基を常に新しく取り替えれば、
結局人間の細胞は永遠に分裂増殖して死なないものであることを
生物学上の実験によって確かめられたという。

人間の肉体が老いて衰え死するということは、
細胞が複雑に組み合っているために、常に新しくなれないからであって、
必ずしも人間が老衰死するということが運命ではないのである。

ただ老衰死の原因は常にわれらが新しくなれないということが原因である。

人間の心もそのとおりである。
常に毎日新しくなれないものは死につつあるものである。
陳びつつあるものである。

老人が陳腐であるといって人から嫌われるのは、ただ過去の惰力で生きており、
過去の惰力でものを考え、過去の惰力で行為をし、
過去の惰力で若い人を推し測るからである。

過去の惰力で行為されたものは、すでに形骸であって生命はない。
これを称して型にはまるというのである。
型にはまっているものは形は立派に見えても、もう屍である。

            <感謝合掌 平成31年2月16日 頓首再拝>

新芽には力がある - 伝統

2019/02/17 (Sun) 04:35:58


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月17日)」より抜粋

ぼつぼつ樹木に新しい芽が出る。
まだ嫩葉(ふたば)にも開かない前の、あのふっくりとした逞しい樹の芽を見ていると、
本当に若々しい生命(せいめい)に触れた気がする。

開き切った葉よりもまだ開かない新芽の方に力がある。
生命は久遠であるが、現象界のものは何物でも
まだ完全に開き切らないものには底力(そこぢから)がこもっている。

            <感謝合掌 平成31年2月17日 頓首再拝>

《新に生まれるということ》 - 伝統

2019/03/01 (Fri) 04:44:39


        *『人生の秘訣365章』第11篇(P287) より

新に生まれるときが来たのである。

新に生まれるとは、肉体の人間が「自分」そのものだと思っていた
その迷妄から目覚めて、肉体は人間そのものではなく、人間の操縦する道具であり、
“本当の自分”を表現するための媒体に過ぎないということを悟ることである。

そしてその道具を操縦している本体は“霊”であり
“物質”ではないのであるから、それは肉眼では見えないのである。

肉眼では見えないものだから、兎もすれば、それは忘れられ勝ちになって、
肉体の方を「人間」だと思い間違えるのである。

しかし、その肉眼に見えないで、肉体の奥にあってそれを操縦しているもの
 ―― それが“本当の人間”であり、“神の子”なのである。

本末を顛倒して肉体の欲望を「人間」の“主人公”としているものであるから、
神なる本当の親様に、その“主人公”は波長が合わないで
神の叡智を感受することが出来ず、時々過ちを犯し、失錯を演ずることになるのである。

今、直ちに、霊なる“神の子”を人間の主人公たらしめ、
神の親様の許(もと)に帰還して神の叡智を直接受け得る権利を復活せられよ。

そこから本当の幸福も繁栄も調和も得られることになるのである。

            <感謝合掌 平成31年3月1日 頓首再拝>

たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る - 伝統

2019/04/03 (Wed) 02:57:27


    *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P93(4月3日)>より

創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。

現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。

表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。

たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。

たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。

たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。

            <感謝合掌 平成31年4月3日 頓首再拝>

自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である - 伝統

2019/04/08 (Mon) 02:59:34


           *「光明道中記」(4月8日 釈迦新生の日)より

【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今 
 ―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】


「お前は何を求めているのだ? 」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「《この》私が永遠か? 」

「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」

此の対話の示す真理を理会する者は幸である。

各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。

是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。

吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。

            <感謝合掌 平成31年4月8日 頓首再拝>

新しく生きることを知る - 伝統

2019/04/30 (Tue) 04:41:43


     *「光明道中記」(4月30日 神一元の自覚愈々深まる日)より

【天地間皆神様であり、みな神様のものであると知ることです。
                    (『生命の實相』第十七巻)】

汝の消極的思想を撃滅せよ。
悲観は吾々にとって今後用なきものなのである。

すべての事物は吾々の幸福の為に回転していること、
太陽の周囲を無数の星辰が回転しているのと同じことである。

今より後悲しみは無く、苦しみは無く、嘆きは無いであろう。

吾々にとっては永遠の幸福が約束されているのである。
たとい自分の周囲が今どんなに暗黒であろうとも、
それは黎明の光が差し昇って来ようとする前の一(ひ)と時(とき)でしかない。

一等暗い丑満時はもう夜明の近づいたことを示している。

古い建物を毀さなければ新しい建物は同じ地上に建てることは出来ないのである。
同一の人間に新しい運命が築かれようとする場合には
今までのその境遇は毀(くだ)かれねばならない。

新しく生きることを知らぬものは、
今までの境遇の破壊に蟷螂(とうろう)の斧を以て反抗し、
新しい運命の来ることを拒むであろう。

その人は新しい太陽と共に差し昇ることを知らぬ人である。
旧き境遇の破壊を微笑を以て迎え、新しい運命と倶に共働する者のみ栄えるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月30日 頓首再拝>

《 新生への言葉 》 - 伝統

2019/05/01 (Wed) 04:37:25

       *『人生の秘訣365章』第3篇(P67) より

神のみが実在である。

実在するものは神のみである。

自分は今此処に実在するものである。

だから自分は神なのである。

            <感謝合掌 令和元年5月1日 頓首再拝>

《真の“新生”は實相を観ずることによって得》 - 伝統

2019/06/01 (Sat) 04:04:48


       *『人生の秘訣365章』第2篇(P51) より

實相世界には無限の善が満ちており、
無限のアイディアが充満しているのであるから、

毎朝毎晩怠らず實相を観ずることにより、實相の完全さが現実化するための
通路又は連絡路が心の世界に開かれることになるのである。

そして、その人の思い浮かぶことが、實相世界の完全さを現象化するために
必要なアイディアとなって来るのである。


そして實相は無限であるから、あなたが實相無限の世界に通路を開くとき、
その無限の中から常に新しきものがあらわれて来るのであるから、
その人の毎日々々が「新たに生れる」ことになるのである。

本当の新生は實相を観ずることによって得られるのである。

            <感謝合掌 令和元年6月1日 頓首再拝>

《”実在の世界”に新生せよ》 - 伝統

2019/07/01 (Mon) 04:59:02


         *「真理」第9巻生活篇(P370)より  

”実在の世界”を眺めましょう。
其処は常に光風霽月(こうふうせいげつ)であって、
愛と智慧と生命(せいめい)と悦びと平和とが
満ちているのです。

すべて善なるもののみが充満しているのです。

その実在の世界は今此処にあるのです。

ただ五官はそれを見ることができず、
それを知るのは直覚認識によってです。

これを仏教では”悟り”と言うのです。

そして直覚認識によって”善のみを充満する世界”を知り、
それを見詰めるようにしていますと、その延長が現実の世界にも
あらわれて来て、五官の感覚に認められる世界にも、
愛と智恵と生命と悦びと平和との満ちた状態があらわれて来るようになるのです。

それが新生活への出発であり、旧世界から新世界への誕生なのです。

その新世界に於いて、あなたは豊かなる神の後嗣者(あとつぎ)として
ゆたかなる能力を、智慧を、生命(せいめい)を、愛を
与えられているのです。

            <感謝合掌 令和元年7月1日 頓首再拝>

《我 今、神の子として新生せり》 - 伝統

2019/08/01 (Thu) 04:33:06


         *『 生長の家 』(昭和25年4月23日の法語)より

   今、自分は新生したのである。
   肉の子なる夢さめて、霊の子に新生したのである。
   物質の自分はなくなって神の子の自分となったのである。

   吾は 新たに生れ更(かわ)ったのである。

   過去の失敗は決して自分を悩ますことはできないのである。
   過去はないのである。

   唯(ただ) 「 今 」 のみがあるのである。


   今 自分は 新生したのである。
   
   今自分は過去の放蕩(ほうとう)息子であった姿をすてて
   父の家に帰ったのである。

   吾は 新たに衣をぬぎかえたのである。

   吾は 神の独子(ひとりご)である。

   神のもち給(たま)うすべてのものは わがものである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843022.html

            <感謝合掌 令和元年8月1日 頓首再拝>

毎日の朝々を“新生の日”とし、就寝の瞬間を“一生涯の終り”と思え - 伝統

2019/09/01 (Sun) 03:41:25

        *『人生の秘訣365章』第11篇(P281) より
         ~《このようにあなたの朝と夜とを・・・》

毎日の朝々を“新生の日”とせよ。
而して毎日の就寝の瞬間を“一生涯の終り”と思え。

明日に苦労を持ちこすことなかれ。

一切の不快な思い、憎しみ、嫉妬、怨恨、侮辱、劣等感、
悲しみ、争い・・・等すべて暗い感情、闘争の感情を悉く投げ棄てて、
心をサッパリさせて眠りに入るがよい。

一切の、神との交通を妨げる雑念妄想悪感情を浄め去って眠るとき、
神の癒す力とあなたの“生命(せいめい)”とは直通するがゆえに、
心の傷は癒され、肉体の病も自然に清められ、
翌朝は真に汚れなき心身となって新生するのである。

            <感謝合掌 令和元年9月1日 頓首再拝>

月の始めに新しき心となれ - 伝統

2019/10/01 (Tue) 04:20:20

        *『生長の家』(昭和25年6月1日の法語)より

今日一日が新しき日であり、
すばらしい機会を、吾々に与えてくれる日であるのである。


この日一日は 何事も順調に進むのであって
悪いことなど起り様がないのである。


すべての日は
神の愛に満たされ、
神の智慧に導かれ、
悪いことといって何一つ起り様がないのである。


吾はこれを信じて
この月を始めるのである。


神は吾々のすべてを
愛して い給うのである。


吾が夫を、吾が妻を、吾が子を、召使いを、すべての人々を
愛して 祝福し給うているのである。

我は凡(すべ)ての人々に感謝するのである。

   (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2 )

            <感謝合掌 令和元年10月1日 頓首再拝>

《新たに発掘する力》 - 伝統

2019/11/01 (Fri) 04:22:37


       *「眞理」第9巻生活篇第13章(P344~345) より

新たに目覚める時が来たのである。
今が時である。
今が新生の時である。

私たちは五官を通して物質界と接触して生活している。
しかし、それが私たちの生命(せいめい)のすべてではないのである。
私たちは魂を通して、目に見えない不可知の世界と
連関して生活をしているのである。

そして目に視える物質界の生活は、その不可視の世界の大いなる力に
支えられているのであり、その不可視の世界の一部分を成している
のである。

それに目覚めることが、真に「新たに生まれる」ことである。
ウィリアム・ジェームズは心理学と哲学と宗教とを日常生活に
結びつけることに成功した最初の学者であったが、

「人間は平常は自分の内にある力の25%しか使用していないのであって、
あとの75%はそれを自覚したときあらわれる」

と云うことを説いたのである。

「人間・神の子」その真理はこの”埋蔵されたる力”が自分の内にあることに
目覚めるための根本的真理である。

            <感謝合掌 令和元年11月1日 頓首再拝>

実相に則って生きるのが “新たに生まれる” ということなのであります - 伝統

2019/12/01 (Sun) 04:11:18


        *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2015-05-25)
             昭和46年1月9日 ラジオ放送分 より
             《あなたの魂の奥底には全智全能の力が宿る》

インドの神話に、こういう話がございます。

神様はその全智全能の力をもって、神の子を人間としてお創りになりまして、
それに全智全能の力を授けたのであります。

ところが人間は、その全智全能の力を利用して、勝手気侭な振舞いをして、
とうとういろいろの乱行を営むということになったのであります。

そこで神様は、彼にそんな全智全能の力を与えておいたらいかんから、
あれを奪い取って何処かへ隠さなければならないというので、
八百万神を集めて、彼に与えておいた全智全能の力を奪い取って、
どこへ隠したらよかろうかという相談をしたというのであります。

ある神様は、
「その全智全能の力を山の奥へ隠しておいたら、彼は発見しないであろう」 
と言いましたけれども、山の奥などへ隠したのでは、すぐ発見されるというので、
それでは地面の奥深く埋めておいたらよかろうと言いましたけれど、

いや、人間は、やがて科学の力によって、地面の底まで掘り出して、
また探し出して、全智全能を我がものとして勝手気侭な振舞いをするかもしれないから、
地面の底では駄目であるというので、

それではどうしたらよかろうかということになりました。

それは海の底へ埋めたらよかろう。 いや、科学が発達してくると、
海洋開発ということになって、海の底に沈めてあるところの全智全能の力を
また掘り出して、それを使って勝手気侭なことをするということになる恐れがある。 

それではどうしたらよかろうかなどと考えましたけれども、
八百万神は、どこへ隠したらいいか、どうしても見当がつかないのでありました。

その時に、一番中心の神様がこうお仰言ったのであります。

「そういう外の世界へ隠したのでは、科学の力によって必ず発見される。 
けれども、科学の力で発見されない一つの隠し場所がある。 
それはどこであるかというと、彼の魂の奥底だ。 

彼の魂の奥底へ隠しておいたら、彼は外ばかり探して、
ついにそれを見出さないであろう」

こう言われて、人間の魂の奥底に、
全智全能なるものを埋めておかれたという話であります。


この話は、全ての人間には、全智全能なる実相が
宿っているということを表わしているのであります。 

その全智全能なる実相を発見して、
今まで肉体が自分であると考えておったところの考えから一転して、
内に宿るところの全智全能なる神なる本質 ― 即ち実相、それを見出して、
その実相に則って生きるというのが、これが “新たに生れる” 
ということなのであります。

キリストは 「人新たに生まれずば、神の国を見ること能わず」
 ― こういうように仰言ったのであります。 

その新たに生まれるというのは、決してもう一度母親の胎内に宿って、
生まれ変って出るということではないのであります。 

自覚によって、今まで肉体が自分だと思っておった迷いから目覚めて、
霊なる神の命 ― 全智全能がその内に宿っている、その霊なる神の命が
自分の実相、実の相(すがた)であるということを見出して、
この実相に則って生きるのが “新たに生まれる” ということなのであります。


■『真理の吟唱』、言葉の力で内在の神性・仏性を引き出す

その実相を悟って新たに生きるのには、どうしたらいいかというと、
言葉の力によって、内部に宿っているところの実相を引き出すのであります。 

全ての宗教というものは、「南無阿弥陀仏」 と念仏するのも、
「南無妙法蓮華経」 とお題目を唱えるのも、
あるいはキリスト教において祈りを唱えるのも、悉く言葉の力なのであります。 

自己に内在するところの神性 ― 神なる本質、仏性 ― 即ち
仏の本性を引き出すのは、言葉の力によるのであります。

キリストは、「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」 
と言ったのであります。 

しかし 「真理とは何ぞや?」 と言いますと、
人間は神から無限の智慧と力と愛と、あらゆる善きものを与えられているという実相、
それを悟ることが、真理を悟るということであります。

1回や2回、真理の書物を読んでも、脳髄の表面をかすめるだけであって、
本当に命の力となるためには、毎日繰り返してそれを朗読するということが
必要なのであります。 

どうぞ皆さんも 『真理の吟唱』 を毎日吟唱して下さいまして、
言葉の力によって潜在意識の中に真理を印象して、
そして本当に新たに生まれ変って幸福なる人生を送られんことを希望します。

  (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/a21e0ac798a9c0f12258aa4dfcbee9ad )

            <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>

《キリストの復活》 - 伝統

2019/12/23 (Mon) 04:49:19

昨日12月22日は冬至(太陽の大晦日)でした。
今日は、太陽が復活していく日と捉えている方もおります。
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/1a7e89aa968a9b18f9d59465dd87b83d

そういう意味では、我々にとっては、
内在のキリスト、日の大神(太陽神)が復活していく日でもあります。

        *「光明法語」(12月23日)より

ニコデモは新たに生まれることを知らない所の、
自己をいつまでも物質の塊だとして見ている人間を代表してこう言っている━
『人は老いぼればいかで生るる事を得んや、
再び母の胎に入りて生るることを得んや』と。

彼は新生することをどこまでも物質的更生であると考えているのである。

キリストの十字架の真の意義は『肉体』を抹殺して
『霊』として復活することだったのである。

かれは『肉体なし』と説教してもわからないから、
現実に肉体を十字架につけて、復活して見せたのである。

            <感謝合掌 令和元年12月23日 頓首再拝>

新しき天と新しき地 - 伝統

2020/01/01 (Wed) 03:25:57


        *「光明道中記」1月・いのち立つ春~はじめの言葉 より

我また新しき天と新しき地とを見たり。

これ前(さき)の天と前(さき)の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。

我また、聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく
準備(そなえ)して、神の許をいで、天より降るを見たり。

また大いなる声の御座(みくら)より出づるを聞けり。

曰く『視よ、神の幕屋人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、
神みづから人と倶に在して、かれらの日の涙をことごとく拭い去り給わん。
今よりのち死もなく、悲歎(かなしみ)も、号叫(さけび)も、苦痛(くるしみ)もなかるべし。
前(さき)のもの既に過ぎ去りたればなり』

斯(かく)て御座に坐し給うもの言いたまう。
『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言いたまう
『書き記せ、これらの言(ことば)は信ずべきなり、真(まこと)なり』

また我に言いたまう
『事すでに成れり、我はアルハなり、オメガなり、始なり、終なり、
渇く者には価なくして生命の水の泉より飲むことを許さん。
勝を得る者は此等のものを嗣がん。我はその神となり。彼は我が子とならん・・・』

                  (「ヨハネ黙示録」第二十一章1―7)

            <感謝合掌 令和2年元旦 頓首再拝>

新天新地を迎へて - 伝統

2020/01/02 (Thu) 04:52:33


          *『白鳩』(昭和28年新年号)より

我また新しき天と新しき地とを見たり。
これ前(さき)の天と前(さき)の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。

我また、聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦(はなよめ)のごとく
準備(そなえ)して、神の許をいで、天より降るを見たり。

また大いなる声の御座(みくら)より出づるを聞けり。

曰く『視よ、神の幕屋人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、
神みづから人と倶に在して、かれらの日の涙をことごとく拭い去り給わん。
今よりのち死もなく、悲歎(かなしみ)も、号叫(さけび)も、苦痛(くるしみ)もなかるべし。
前(さき)のもの既に過ぎ去りたればなり』

斯(かく)て御座に坐し給うもの言いたまう。
『視よ、われ一切のものを新にするなり』また言いたまう
『書き記せ、これらの言(ことば)は信ずべきなり、真(まこと)なり』

また我に言いたまう
『事すでに成れり、我はアルハなり、オメガなり、始なり、終なり、
渇く者には価なくして生命の水の泉より飲むことを許さん。
勝を得る者は此等のものを嗣がん。我はその神となり。彼は我が子とならん・・・』

                  (「ヨハネ黙示録」第二十一章1―7)

私たちは皆さんと共に新しき年を祝福するのであります。

皆さんがたとい過去の年に於いて如何なることを経験せられたにせよ、
何を心に思い、何を身に行ったにせよ、それ等は既に過ぎ去ったのであります。

されど若し、皆さんが同じ心を依然として持ち続けるならば、
いづこかに新しき年はあらんやであるのであります。

皆さんは新年と共に想念を新しくならしめなければならないのです。

旧態依然たる争闘と摩擦と不平と慈哀と不健康と貧乏との想念を
持ちつづけるならば、それは年は新たであるにしても、
内容的には古き年の継続に過ぎないと云わなければならないのである。

真理は皆さんに新しき人生と新しき幸福とを持ち来すべく待っているのである。
それは単なる期待でも単なる希望でもないのである。

如何なる人々も生長の家の真理に触れるとき、
絶対に新しき生活を、絶対に幸福なる生活を、絶対に豊かなる生活を、
絶対に健康なる生活を、営むことの出来る資格と権利と方法とを
本来与えられていることを自覚せられるに相違ないのである。

真理とは何ぞや。人間は「神の子」であると云うことである。

仏教的に云えば「仏子」であると云うことである。
神道的に云えば、人間は、
すべてミコトであり、日子〈彦〉であり日女(ひめ)であり、
尽十方に満つる光の子みなさんと云うことである。

此処に諸君(みなさん)が、絶対に幸福なる生活に、
絶対に豊かなる生活に入る門を開く鍵があるのである。

「人間は神の子」と云い、「仏子」と云い「日子」と云い日女と云うと雖も、
それは鍵であって、諸君がこの鍵をもって、新しき生活への門を
ひらくと開かざるとは諸君(みなさん)の自由であるのである。

鍵は鍵孔に入れてこれを回転しなければならない。
ここに静的真理が動的事実として展開し来り、
新しき生活への門がひらかれるのである。

昨日までの物質的又は肉体的状態が如何にあろうとも、
五官に見える姿は唯かぎられたる視野から眺められたる姿であって、
決して貴方の世界でもなければ、貴方自身の全相でもないのである。

肉眼の視野の彼方に、顕微鏡下の世界があり、望遠鏡上の姿があると同じく、
更に無限に美しき天国浄土の世界があるのである。

それこそが、此の世界の實相であり、それは既にある世界であるに拘らず、
心の波長を合わさないから出て来ないに過ぎないのである。

心の波長を合わすとき突如として冒頭に掲げたる
「われ新しき天と地とを見たり」と云う
至福の世界が実現し来るのである。

            <感謝合掌 令和2年1月2日 頓首再拝>

【 新天新地の歌 】 - 伝統

2020/01/03 (Fri) 04:52:32


          *「白鳩」昭和14年1月号 より

 往昔(そのむかし)第一の世界浄化(きよめ)の
 洪水(おおみず)の時にてありき、
 海原(うなばら)の主宰(つかさ) 素戔嗚尊は
 言依(こよ)され給いし現(うつ)し国を
 え治め給わずして泣きいさちる。


 かれ速(はや)素戔嗚尊は
 現し国の御位(みくらい)を辷(すべ)り給いて
 天照大御神に
 海原の統治(すべよ)の権(ちから)を
 譲らまして御空(みよら)へと参上(まいのぼ)る。


 その勢い猛々(たけだけ)しく
 山川(やまかわ)国土(くにつち)悉く震(ゆ)り撼(うご)き
 海原の水ことごとく
 尊(みこと)に随(したが)い御空にのぼる。


 御空にのぼりし海原の水
 悉く沛然(はいぜん)たる雨となりて
 地上は四十日四十夜
 小歇(おや)みもなく大雨降る。


 その大雨の水量(みずかさ)は
 丘を蔽(おお)い山を蔽い
 全地ことごとく
 洪水を被(こうむ)りたりき
 これ第一の世界浄化なり


 そのとき一人の翁(おきな)ありき
 名を塩土翁(しおつちのおうじ)と云う
 又の名をノアと云う

 No(ノ)は無字(むじ)をあらわし
 A(ア)は阿字(あじ)をあらわす。

 ノアは一切の物質の否定と
 阿字即ち摩訶(まか)毘盧遮那(びるしゃな)の
 華蔵(けぞう)世界君臨とを象徴す。


 塩土翁は目無堅間(めなしかつま)の御船をつくり
 ノアは「ノアの方舟(かこぶね)」を作り、
 すべて蒼生(あおひとくさ)の一つ一つを
 その御船(みふね)ーー方舟の中に収(おさ)めて
 金剛實相の国、龍宮海に避難せり。


 目無堅間の御船の構造は
 横は無字 縦は阿字にて成る、
 目無とは洩(も)れ無きなり
 堅間とは金剛不壊なり

 金剛不壊、無字阿字の船
 これノアの方舟なり、華厳経なり。


 このとき方舟の中の蒼生のみ救われき
 これ第一の世界浄化なりき、
 雨歇(や)みて乾ける土を
 指示すべく遣わされたるは白鳩なりき、
 これぞ伝書鳩の濫觴(はじめ)なる。


 第二の世界浄化も
 第一のそれと同様なり。

 その救いの願船は
 横は無字にして本来空
 三界唯心の真理にて成る。

 縦は阿字にして
 久遠實成(くおんじつじょう)の不滅の生命の自覚(さとり)なり
 それを作り給えるも塩土翁なり。

 塩土翁は新しき乾ける土を
 人類のために見出さしめんとして
 白鳩を先ず遣わす。
 これ第二の世界浄化の使命なり。


 白鳩は日輪の使者
 塩土翁に導かれて
 新しき乾ける沃土(よくど)、地上天国へと導かん。


 万国の白鳩たちよ連合せよ
 汝(いまし)たちの行くところに
 必ずや新しき地上天国は現れん。

        <谷口雅春・著「生命の讃歌」収載>

            <感謝合掌 令和2年1月3日 頓首再拝>

新年の祈り - 伝統

2020/01/04 (Sat) 03:52:43


       * 『理想世界』(昭和59年1月号)より

   (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=118

            <感謝合掌 令和2年1月4日 頓首再拝>

《新たに生まれる言葉》 - 伝統

2020/01/05 (Sun) 03:54:28


          *『白鳩』(昭和49年1月1日の箴言)より

   新たに生まれる時が来たのである。

   新たに生まれるということは決して此の肉体が
   生まれ変るということではないのである。

   大晦日を過ぎて正月元旦の曙を迎えたところが、
   この肉体は依然として昨日と同じ肉体であり、
   多少、老廃細胞が排出されて、幾分の新生細胞が
   そのあとを埋めつつあるだけの事であり、
   昨日の皮膚の皺も依然としてそのままなである。

   私たちが生まれ変るということは、
   そんな肉体のことではないのである。

   自覚の生まれ更ることなのである。


   『ヨハネ伝』第三章に、イエスがユダヤの長老ニコデモに対して
   〃新生〃の意義を説いているところがある。 曰く ――

   「まことに誠に、汝に告ぐ、
   人あらたに生まれずば、神の国を見ること能わず」

   するとニコデモが「人はや老いぬれば、争で生まるる事を得んや、
   再び母の胎に入りて生まるることを得んや」と言う。

   イエス答え給う 「まことに誠に汝に告ぐ、
   人は水と霊とによりて生まれずば、神の国に入ること能わず。
   肉により生まるる者は肉なり、霊によりて生まるる者は霊なり。
   なんぢら新たに生まるべしと、我が汝に言いしを怪むな」

   以上はイエスの言葉そのままの引用であるが、
   わたしたちは幾度もこの言葉を復唱して、
   「自分は霊的実在である」という自覚に於て、生まれ更るがよい。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

            <感謝合掌 令和2年1月5日 頓首再拝>

《新しき年に新生するには 》 - 伝統

2020/01/06 (Mon) 04:03:44


        *『人生の秘訣365章』第1篇(P35~36) より

新年を迎えたならば、それを“生れ変り”の好機としなければならぬ。

自己が新しき人間になるのである。

物質的“肉体人間”の自覚から、“霊的人間”の自覚へと
新生する機会として新年を捉えるのである。

大抵の人間の不幸は、自分自身を肉体的存在だと思うところから起るのである。
自分を肉体的存在だと思うものだから肉体の快楽を得たいと思う。
そして快楽対象を得るための争奪が起る。

自分に快楽を興えてくれる物を失ったときは悲しくなる。
肉体を楽しましめるためには、物質が必要であり、
富が必要であると考えるから、貪欲の心が起る。

そして戦争さえも貪欲による争奪によって起るのである。


新しき人間となるには、

健康も繁栄もすべて“心の世界”にその原型が出来て、
恰も撮影ずみの映画フィルムがスクリーンに現実化してあらわれて来るように、

心の中につくられた原型が現象世界の“時間空間”の映写幕にあらわれて
現実化して来るものだということを知り、先ず心を調えることから
始めなければならないのである。

            <感謝合掌 令和2年1月6日 頓首再拝>

真の “ 新生 ” は 実相を観ずることによって得(う) - 伝統

2020/02/01 (Sat) 02:46:24


         *「人生の秘訣365章」(P51)より

実相世界には無限の善が満ちており、無限のアイディアが充満している
のであるから、毎朝毎晩怠らず実相を観ずることにより、実相の完全さが
現実化するための通路又は連絡路が心の世界に開かれることになるのである。

そして、その人の思い浮かぶことが、実相世界の完全さを現象化するために
必要なアイディアとなって来るのである。

そして実相は無限であるから、あなたが実相無限の世界に通路を開くとき、
その無限の中から常に新しきものが あらわれて来るのであるから、
その人の毎日々々が「 新たに生れる 」ことになるのである。

本当の新生は 実相を観ずることによって得(え)られるのである。

          ・・・

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/&mode=res&log=21
[232] マリーゴールド - 2013年05月14日 (火) 16時15分

『 人生の秘訣365章 』( 51頁 ) 谷 口 雅 春 先 生
“ 春 ” 積極生活法 2 月・ 人生の価値とその実現 
https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fcbb478ba7751a5d2cf6970b17642c97

            <感謝合掌 令和2年2月1日 頓首再拝>

《「新たなる自分」の発見》 - 伝統

2020/03/01 (Sun) 04:49:12


          *「真理」第9巻生活篇第1章(P3~4)より

誰でも「生」の或る輝く瞬間が来ます。
自分の内に光が燃えるような感じなのです。

その光は天から閃(ひらめ)くように自分の内に入って来て、
自分全体の存在を輝き出し、今、自分が生きている有限のこの肉体生命以上に ――
無限におおいなる生命(せいめい)が自分の内に生きていることを感得する一瞬が
来るのです。

この感じをそのまま見過ごしてしまう人もありますが、
此の生命(せいめい)の光耀(こうよう)のなかに「新たなる自分」を発見して
「第二の自分」を ―― 否(いな)これこそが最も「本源的なる久遠の自分」を ――
発見して、人間が変わると云う人もあるのです。

それが、多くの預言者であり、宗教の開祖であり、
大発明家であり、神の命を受けた大政治家であり、
釈尊であり、イエスであり、ワシントンであったのです。

この大自覚を獲得した時、あなたは今まで自分がどんなに弱小であり、
どんなに本物でなかったかがわかるのです。

まことにイエスが自己を「神の子」と宣言し、
釈尊が「天上天下唯我独尊」と自覚した境地が
自分自身にもひらけて来るのです。

            <感謝合掌 令和2年3月1日 頓首再拝>

《われ新しき天地に呼吸す》 - 伝統

2020/04/01 (Wed) 05:00:43


           *『栄える生活365章』(P4)より

われ新しき天と地を迎う。祝福すべきかなこの新天地。

今よりのち一切の悩み、悲しみ、失望、落胆ことごとくなき新天地に我生まれたるなり。
暗黒は空の彼方に消え去り、新しき光、五彩の虹を放って今この新天地を照らすのである。
われは一切の過去を放ち去ってこの新天地に立ち、この新天地に呼吸するのである。

生命(せいめい)満ちあふれたわが生命よ。
汝は神のいのちである。
一切の汚れなき新しき生命である。

過去の悪しき印象は、青空が飛ぶ鳥の跡を印しないと同じように、
わが潜在意識から消え去ったのである。


わがいのちは新しき自由と繁栄の世界に羽撃(ばた)くのである。

一切の”悪”は過ぎ去ったのであった。
”悪”は実在ではなく、単に妄想の幻影に過ぎないのであるから、
一度過ぎ去った後(あと)に再び還ってくることはないのである。

わが新しき天地は永遠に新しく汚れなく悩みなく神聖である。

神わが家族すべてを祝福したまうのである。

            <感謝合掌 令和2年4月1日 頓首再拝>

たえず新しくなること - 伝統

2020/04/03 (Fri) 02:22:57

    *『生命の實相』幸福篇上(第37巻)<P93(4月3日)>より

創造の心を持つかぎり病み死することはない。
創造の心を持つものは若返る。

現象世界は表現の世界であるから、表現すべき内容が心の中になくなったとき、
その人のこの世の寿命は終わったのである。

表現すべき内容がなくなった後(のち)に、もし彼が生きているならば、
それは肉体の波動の惰力が継続しているだけであって、
本当はもうその人は死んでいるのである。

たえず新たなる表現内容を生み出す者は、刻々若返る。
小児(しょうに)の生命(せいめい)が溌溂としているのは、
彼は自己のうちに新たなる表現内容を蔵しているからである。

たえず新しくなること ―― これが永遠に死なない道である。

たえず動く水は腐敗せず、水が固定状態に陥ったとき腐敗する。
生命(せいめい)の水もかくのごときものである。

            <感謝合掌 令和2年4月3日 頓首再拝>

「真の人間」は日々に新たに生まれる - 伝統

2020/04/08 (Wed) 02:22:46


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月8日)」より

釈迦が生まれた日である。
しかし今日だけが仏(ほとけ)の生まれた日ではない。
毎日仏は生まれるのである。

生まれ更わらない者は亡者であって、「人間」ということはできない。

「真の人間」は日々に新たに生まれる人である。
なんじらは皆己成(いじょう)の仏である。

・・・

釈迦新生の日

           *「光明道中記」(4月8日)より

【永遠の過去より永遠の未来を包容する常住の今 
 ―― お前が仏であり、お前が極楽である。(『生命の實相』第六巻)】


「お前は何を求めているのだ? 」

「私は永遠を求めているのだ。わたしはその方法を探し求めているのだ」

「どこにも永遠を求めることは要らない。お前が永遠そのものだ」

「《この》私が永遠か? 」

「そうだ、《その》お前が永遠者なのだ。
併し《そのお前》と云うのは肉体を指しているのではない。
その肉体を《あらわしている其の》お前の《いのち》そのものだ。
『永遠』が今お前の中に生活し、『永遠』が今お前と倶(とも)に歩んでいるのだ」

此の対話の示す真理を理会する者は幸である。

各人は自分自身が永遠なのである。
自分自身が滅びない者なのである。

是を発見するのが新生である。
「人あらたに生れずんば神の国を見ること能(あた)わず」とイエスは言ったが、
自分自身の中に永遠を発見することが本当の新生である。

吾を新に発見し、彼を新に発見し、此の世界を新に発見することが新生である。

            <感謝合掌 令和2年4月8日 頓首再拝>

《我 今、神の子として新生せり》 - 伝統

2020/05/01 (Fri) 04:57:30


       *『 生長の家 』(昭和25年4月23日の法語)より

   今、自分は新生したのである。
   肉の子なる夢さめて、霊の子に新生したのである。
   物質の自分はなくなって神の子の自分となったのである。

   吾は 新たに生れ更(かわ)ったのである。

   過去の失敗は決して自分を悩ますことはできないのである。
   過去はないのである。

   唯(ただ) 「 今 」 のみがあるのである。


   今 自分は 新生したのである。
   
   今自分は過去の放蕩(ほうとう)息子であった姿をすてて
   父の家に帰ったのである。

   吾は 新たに衣をぬぎかえたのである。

   吾は 神の独子(ひとりご)である。

   神のもち給(たま)うすべてのものは わがものである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13843022.html(消滅)

            <感謝合掌 令和2年5月1日 頓首再拝>

朝は新生の時~神の導きを受けて生活を出発する - 伝統

2020/06/01 (Mon) 04:46:01


        *『栄える生活365章』(P19)より

毎朝、三十分間を神想観の時間として神と対坐せよ。
神を自己の内に招じ、神を自己の指導者とし、
神の導きを受けてその日の生活を出発せしめよ。

毎朝の、神と偕に坐す三十分間は、決して無駄に失われることなく、
神の導きを受けて生活する一日は、常に平安に、憂えなく躓きなく、
悦びと感謝に満たされて、何事もスラスラと順潮に事がはこび、
健康と繁栄とは結局あなたのものになるに相違ないのである。

神を自己の内に招じて、神を顧問として生活が行われるとき、
自分自身のすべての物事に対する考え方や観方が異なってくるのである。

そして自分自身の考え方が異なって来るとき、
“外界の事物”の動きが変わって来るのである。

結局“外界の事物”は本当は外界にあるのではなく、
自分の心の反映に過ぎなかった事が判ってくるのである。

そして、険しき道は平らかとなり、難事は解決し、
すべては円滑に事がはこび、調和おのずから備わる事になるのである。

            <感謝合掌 令和2年6月1日 頓首再拝>

《今》既に新天新地がある - 伝統

2020/06/29 (Mon) 04:54:34


         *「光明道中記」(6月29日《天国成就の日》)より

【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】

「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。

《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。

おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。

そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。

既に成就せる世界を知って、それを現象世界に実現するのが、吾々の正しい生活である。
証上(しょうじょう)の修(しゅう)である。

既に成就せる世界を知るが故に退転することがないのである。
既に健康なる自分を知って、その如く行ずるのである。

多くの病者は《これから》健康になろうとして、健康法を励行するが、
思うように効果が挙がらないのは、《これから》と思っているからである。

既に《今》健康なのである。
肉体は自分ではない。自分の殻(から)である。

殻何するものぞ。
捨て切れ、捨て切れ、捨て切ったとき永遠の生命と、
今(いま)茲(ここ)にある天国を知ることが出来るのである。

            <感謝合掌 令和2年6月29日 頓首再拝>

【新たに生れる言葉】 - 伝統

2020/08/01 (Sat) 04:30:39


        *日々読誦三十章経《一日の経言(のりごと)》より

天地のはじめは今を始めとする理(ことわり)あり。
今吾等は新生したのである。

今より自分は自己の生活を自分自身で支配する。
自分は自分の生活の主人公なのである。

吾れはいま力と勇気をもつて新生し新しき日の仕事と生活とに向うのである。
吾れは今わが仕事に溢るる熱誠をもつて赴(おもむ)く。
吾れは歓びに満たされて進み行く。

そは吾れいま吾が求むるものは凡て神より与え給うと信ずるからである。
吾れは今吾がうちに神が宿り給うことを知る。
吾れは決して此の感じを失わないのである。

吾れは今日(きょう)も終日(ひねもす)吾れを支えたまえる無限全能の力を
わがうちに感ずるのである。何が吾れに起つて来ようとも、其れに対する準備が
与えられていないと云う事はあり得ない。

吾れに智慧が必要ならば其の智慧は既に与えられているのである。
吾れに愛が必要ならば其の愛は既に与えられているのである。
吾れに勇気が必要ならば其の勇気は既に与えられているのである。
吾れに力が必要ならば其の力は既に与えられているのである。

吾が内なる生命(せいめい)は、神と融け合つて一つとなつているのである。
吾が内より生命(せいめい)の清水は無限に泉(いず)み出るのである。

真理なる神は吾れに凡てを教えたまい、真理の道にわれを導き給うのである。
吾れは全能の力によって守護されているのである。

吾れは無限の力の泉を自己のうちに有する。
不思議なる力と平和とがその泉から湧き出て来るのである。
今日(こんにち)われに接する人々は、
わが雰囲気に大いなる魔力の如き力のあることを感ずるであろう。

吾れは此の魔力の如き力が、
吾が内に宿れる『無限なる者』の力であることを知るのである。

吾れ此の『無限なる者』に感謝し奉る。

・・・

<参照:日々読誦三十章経>
 http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6505730

            <感謝合掌 令和2年8月1日 頓首再拝>

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