伝統板・第二

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神は愛なり③ - 伝統

2018/01/07 (Sun) 03:53:28

《神は無限の愛であり給う》

         *「光明法語」(1月7日)より

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。

神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、
吾等の全身を健全ならしめ給うのである。

・・・

<関連Web>

(1)伝統板・第二「神は愛なり①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6704251

(2)伝統板・第二「神は愛なり②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7079818

         <感謝合掌 平成30年1月7日 頓首再拝>

《愛は享(う)けるだけでは可(い)かぬ》 - 伝統

2018/01/25 (Thu) 04:28:07


         *「生長の家」(昭和25年2月27日の法語)より

   神は 吾々(われわれ)に
   生命を 与え給(たま)うた。
   智慧(ちえ)を 与え給うた。
   愛を 与え給うた。

   与えられたものは、ただ受けるだけでは いけないのである。
   必ず 与え返さなければならない。

   与え返した時 それが多くの実を結んで 更に返って来るのである。

   与えるということは 「 表現する 」 ということである。

   与えられた生命を 表現すれば
   「 働き 」 となるのである。

   与えられた智慧を 表現すれば、
   人のためになる善き考えとなるのである。

   与えられた愛を 表現すれば、
   愛行となるのである。

   愛行を実践する時、多くの実を結ぶのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

         <感謝合掌 平成30年1月25日 頓首再拝>

《愛は最も強力なる力なり》 - 伝統

2018/01/30 (Tue) 03:44:21


        *「光明法語」(1月30日)より

愛は最も強力なる力である。

如何なる説き伏せも、如何なる議論も、
如何なる懲罰も相手を説伏せしめることは出来ないが、
愛のみ相手を説伏することが出来るのである。

人を害すれば又自分も害される。
議論すれば議論でやりかえされる。

けれども愛すれば必ず相手に愛されるのである。

愛は議論をこえて、一切の憎しみを克服するのである。
愛は議論をこえて一切の対立を消滅するのである。

最も強きものは愛である、
愛されて和やかにならないものは一人もないのである。

敵を殺すよりも、敵を愛するのが敵を征服する道である。

         <感謝合掌 平成30年1月30日 頓首再拝>

《愛は全身を相手にまかせる》 - 伝統

2018/02/06 (Tue) 03:26:51


           *「光明法語」(2月6日)より

キリストは『我が誡(いまし)めをききて守る者は吾を愛するなり』
と言っていられる。

ここに言葉をききて素直に守ることが
『愛すること』である事が表されているのである。

父を愛すればその子は父の言葉を守るであろう。
良人を愛すれば妻はその言葉を守るであろう。

良人の言葉をききて素直にそれを行わない者は
真に良人を愛していると云うことは出来ないのである。

愛は相手に全身をまかせたい希望をよび起こす。
性欲ばかりの問題ではないのである。

本当に愛する相手に対しては
何を求められても無条件に従いたくなるのである。

         <感謝合掌 平成30年2月6日 頓首再拝>

《一寸でも愛に反(そむ)く行為をするな》 - 伝統

2018/02/10 (Sat) 04:55:25


           *「光明法語」(2月10日)より

ベージル・キング氏はその著書のなかで、人の見ないところでも一寸でも不深切な行為をする
ことを全然やめた時に、自分の資産が著しく増加することになったと云う事を書いている。

これも「天地一切のものと和解した」ために神の愛の流れに入口をひらいた為であると言い得る。

キング氏は「神と自分との間にある通路は、實に何でもないとおろそかにする小事によって
塞がれてしまうことがある。一寸したズルい行為。一寸した不深切な嘲笑。一寸した世間話。
一寸した酷評。すべて一寸した愛にそむく行為によって」と言っている。


         <感謝合掌 平成30年2月10日 頓首再拝>

報い求めぬ愛 - 伝統

2018/02/14 (Wed) 03:28:27


         *「光明道中記」(2月14日報い求めぬ愛の日)より

【これだけで、もう自分は誠(まこと)を尽くし切ったと思うな。
誠は尽くることのなきものである。出せば出すほど無限に湧き出る。
                      (『生命の實相』第十一巻)】


もうこれだけで誠を尽くしたと思い上がったとき、
その人の誠は虧(か)けたものとなる。

誠は出し切っても無限なるものであるから、
それを「これだけ」と有限に打ち切るとき、
それは「誠」でなくなり、「誠」のかわりに「これだけ」が置きかえられ、
「無限」のかわりに「有限」が置きかえられる。

まこととは全事(まこと)である。

「有限(これだけ)」をもって「全事(まこと)」だと思うのは錯覚である。
「有限(これだけ)」を以て「全事(まこと)」だと錯覚するものは、
中途から「私はこれだけ誠を尽くしているのに認められない」と
不足に変ってしまうものである。

それは本当は「全事(まこと)」を尽くしていないから
不足の要素を内部に有(も)っている。
本当に「全事(まこと)」を尽くすとは報い求めぬ愛である。

報い求めぬ愛のみが永遠に満足を与える愛であり、
報い求める愛は途中で不平に変る愛である。

相手が感謝するだろうと思ってした行為は、
相手が感謝しなかったとき憎みに変り、怒に変る。
そんなことなら他に愛を施(ほどこ)さない方が優(ま)しである。

         <感謝合掌 平成30年2月14日 頓首再拝>

《絶対に見捨てぬもの》 - 伝統

2018/03/03 (Sat) 04:36:42


       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P12~13) より

あなたが愛が得られなかったら、先ず自分から愛することです。

「愛する」といって、自分に愛情を向けていない者に「私はあなたを愛します」
とおってみたところが拒絶されるか排斥されるかするだけで、こちらが愛情を
示しているのに向こうから拒絶せられるほど気まずいことはないので、
愛しようと思ってもこれも中々むずかしい問題なのです。


そのような時にも、あなたを愛してくれる方があるのです。
その方を愛しなさい。

「そんな人が果たしてあるでしょうか。それは一体誰なのですか」と。
それは誰でもありません。
神様なのです。

それも遠く天上にいてあなたを見張っていて神罰を与えようかと
考えている神様ではありません。
あなたの内に宿っている神様なのです。

その神様を愛しなさい。
その神様が悦ぶように生活しなさい。
あなたは決して孤独ではないのです。

あなたを愛している神様があり、
その神様をあなたは愛することができるのです。

         <感謝合掌 平成30年3月3日 頓首再拝>

欠点を見つけるのは愛ではない - 伝統

2018/03/09 (Fri) 04:14:43


           *「光明法語」(3月9日)より

欠点を見つけるのはその人を真に愛していないからである。
愛は欠点を見ないでその奥にある神性を観、実相を観る。
愛するほど強力なものはないのである。

私が宇部の講習会をしたときに夫婦仲の悪い婦人に
「仲をよくしたら好い」「既に仲好いと思えば好い」と話した。
それは智慧の働きである。

ところが吉田國太郎講師が光明講座のときに
「仲が悪いのは愛しないからである。愛すれば仲がよくなるのである」と話した。
その婦人は良人を愛し始めて幸福になったと云うのである。

         <感謝合掌 平成30年3月9日 頓首再拝>

真の愛とは、彼の本質は美しいと知ること - 伝統

2018/03/11 (Sun) 04:23:51


           *「光明法語」(3月11日)より

《相手のためになることを実践せよ》

愛は感情である。

美しいものを愛し、醜いものを憎む。
美しいものに快美の感を感じ、醜いものに不快の感じを感ずる。
これは当然のことである。

しかし醜いものを愛するにはどうしたら好いか。
ニイルは愛とは感情ではない。意志の力であると解した。

いかに醜くとも、彼を愛することが出来るのは、
「意志の努力によって、相手のためになることを実践することが愛である」
としたのである。

しかしそれでは感情は不快そのままに続くのである。

真の愛とは醜く見えても彼の本質は美しいと知ることである。

         <感謝合掌 平成30年3月11日 頓首再拝>

愛は繁昌の基(もとい)である - 伝統

2018/03/16 (Fri) 03:15:29


           *「光明法語」(3月16日)より

愛はすべての繁昌の基である。
愛は人をひきつける磁力である。
愛のある店には人がひきつけられる。

愛のある食卓は美味に満たされる。
愛のために調理される食物は同じ成分であっても、
それが人生健康に保持する力は強いのである。

愛によって育てられる子供は健康の育つ、けれども愛とは執着することではない。

愛は相手の神性を拝むのである。
愛は相手を弱き者としていたわることではないのである。
相手を完全なものとして、其のまま放つのである。

信と敬と解放とである。

         <感謝合掌 平成30年3月16日 頓首再拝>

神の愛の霊波を受けるには - 伝統

2018/03/24 (Sat) 03:21:40


           *「光明法語」(3月24日)より

神が吾々に働きたまうのは自己「内在の神」の波長を通してである。
ラジオの放送が吾々に働くのはラジオセット内在の波長が
放送の波長に合するが如くである。

だから人を愛したまう神の念波は、
人間が「愛」の念波を起こしたときのみに受け得るのである。

人を憎み、人に害を与えようと云う念波を起こしながら、
神の恵みの霊波を受けることが出来ると考えるのは、
波長の異なるところへバリコンを廻して置いて、
放送の波を受信しようと思うようなものである。

汝ら互いに相愛せよ。

         <感謝合掌 平成30年3月24日 頓首再拝>

神と波長を合わすには - 伝統

2018/03/26 (Mon) 03:28:00


           *「光明法語」(3月26日)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスの言った如く、
わが祈りの密室は《自己の内》にあるのである。

この至聖所(しせいしょ)に吾々が入るならば、
どれだけでも無尽蔵の豊富な生命、智慧、愛の供給があるのである。

しかしこの至聖所に入るにはすべての憎み、怒り、恨み、呪い、悲しみ、悩みの
非存在(ニセモノ)を排除(とりのぞ)かなければならないのである。

そして先ず神を愛することである。
隣人を愛することである。

愛なくして、欲ばっていて、自分の祈りが神に通じないと言っても、
波長が合わぬから仕方がない。

           <感謝合掌 平成30年3月26日 頓首再拝>

愛の展開が天国である - 伝統

2018/03/30 (Fri) 03:22:32


           *「光明法語」(3月30日)より

吾々は原因結果の法則の中に生活しているのであるから、
その法則から免(まぬが)れることは出来ないのである。

「主よ主よ」と呼んでも神の心(即ち愛)を行じないものは
天国に入ることは出来ないとキリストも言っている。

「生長の家」の誌友名簿に登録されていても、
愛を行じない者は天国へ行く改札口を通されないのである。

愛とは単に天国へ行く通行券であるばかりでなく、愛の展開が天国なのである。
愛するところに天国はひらけ行き、憎み、さばくところに地獄は現出するのである。

           <感謝合掌 平成30年3月30日 頓首再拝>

愛するとは實相を信ずること - 伝統

2018/03/31 (Sat) 03:32:59


           *「光明法語」(3月31日)より

愛するとは可哀相だと思うことではない。

「汝、情(こころ)をつくし精神をつくし魂をつくし、力をつくし神を愛せよ」

と言っても、決して神を可哀相だと思えと云うことではない。

愛するとは、相手がどんなに見えようとも、
その實相の完全さを信じて敬(けい)することである。
可哀相だと思うことは、
「彼を無力者だと見る」即ち「彼を軽蔑する」ことになるのである。

「自己を愛せよ」と言っても自己憐憫することではない。
自己憐憫はむしろ悪徳であるが、
自己の實相の円満完全さを信ずる自敬の念こそ本当の自己愛である。

           <感謝合掌 平成30年3月31日 頓首再拝>

《神は慈悲の神、愛の神》 - 伝統

2018/04/01 (Sun) 03:32:17


           *「光明法語」(4月1日)より

先ず神を愛の神と知ることである。次の如く思念せよ。

「神は怒りの神、嫉妬の神、復讐の神、神罰の神ではないのである。
神は赦しの神、慈悲の神、やさしさの神、包容の神、
じっと愛の瞳をもって慈悲深く吾をみつめ給う神である。

その慈愛の前にすべてのわが悲しみも、怒りも憎みも、
すべての心の塊が溶けてしまうのである。
われは神の慈悲の前にすべての心の塊は溶けて消え、
わが魂は悉く浄まったのである。

神がわれを赦し給うごとく、
すべての人々の過ちを自分もゆるしたのである・・・」

           <感謝合掌 平成30年4月1日 頓首再拝>

《神の愛と不可分一体であること》 - 伝統

2018/04/02 (Mon) 03:19:40


           *「光明法語」(4月2日)より

「吾は全ての人々と、全ての生き物と、全ての事物とに対して
友好関係にあるのである。
もう赦すと云うことさえなくなったのである。
はじめから調和し、和解し、渾然一体なのである」。

かくの如き心境になってこそ神の愛の波長と合い、真実、
神の祝福の生命の流れを自己に受容れることが出来るのである。

次にかく思念せよ。

「神の愛は宇宙に満ち、すべてのところに満ちわたり、
われを取り巻き、われに押しせまり、われに流れ入って、
それより逃れることは出来ないのである」

           <感謝合掌 平成30年4月2日 頓首再拝>

人間は愛するために生まれている - 伝統

2018/04/05 (Thu) 03:59:24


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月5日)」より

精神病の夫人が妊娠して子を産んだら、その精神病が治ったというような例話が往々ある。
おそらくその時以前のその婦人の家庭は不調和なものであって、
彼女は愛に絶望していたのであろう。

子どもが生まれることによって彼女は愛したい欲望を満足させる対象ができたから、
彼女の愛したい欲望の不満足から起こる病気は治ってしまったのである。

愛するということは、相手を生かすばかりではなく、自分をも生かすことになるのである。

人間は愛するために生まれている。生きるとは愛することである。
国を愛し、人類を愛し、民族を愛し、他人を愛し、家族を愛し、教え子を愛せよ。

みずから顧みて愛しなかった日ほど淋しいことはない。
病気が起こるのは、たいてい利己主義からである。

            <感謝合掌 平成30年4月5日 頓首再拝>

神を愛する道 - 伝統

2018/04/20 (Fri) 04:45:10


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P13) より

《各人の才能》

あなたは神の自己実現でありますから、神はあなたの内に宿っているのです。
そしてあなたの何らかの才能、何らかの能力として自己実現しているのです。

あなたに宿る才能又は能力を愛することは、
あなたに宿る神を愛することなのです。

あなたに宿る才能又は能力は伊達にそこにあるのではありません。
才能又は能力は、それを表現して誰かの役に立てるためにあるのです。

神様は「《それ》を表現してくれよ、それを誰かの役に立ててくれよ」
といっていられるのです。

イエスは「汝ら吾を愛せば、わが戒めを守るべきなり」といっていられます。

若しあなたが、神を愛するならば、
「お前の才能又は能力を表現して誰かの役に立ててくれ」と被仰(おっしゃ)る
言い附(つ)けを守るべきなのです。

それが神を愛する道なのです。

            <感謝合掌 平成30年4月20日 頓首再拝>

《愛のみが天国である》 - 伝統

2018/05/15 (Tue) 03:35:36


        *『 生長の家 』(昭和26年2月20日の法語)より

   憎みと愛とは一つの心の中で同居することは出来ないのである。
   憎みは地獄であり、愛は天国である。憎みは鬼であり、愛は神である。

   憎んでいる心の中に 「 神 」 を招(よ)び迎えようと思っても、
   それは地獄の中に 「 神 」 に住んで貰(もら)おうと思うのと
   同じような愚かさである。

   「 近くにいる隣人を愛することが出来ないで、
   どうして眼(め)に見えない神を愛することが出来よう 」 と

   イエスは云っているが、

   家族や、同僚や、知人などを愛することが出来ないで、
   神の愛の癒す力を、自分の内に流れ入らしめることは出来ないのである。

   先ず隣人に対する憎みと怨みとを解き、
   自分の心の塵埃(じんあい)を除き去って、
   神の愛を流入させるべきである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7b6e6bfab0feaff9c5bc4476ee8eb695

            <感謝合掌 平成30年5月15日 頓首再拝>

今、既に神の愛に包まれている - 伝統

2018/05/21 (Mon) 04:20:00


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月21日)」より

幸福であるためには「愛」の心を持たなければならない。
「愛」の心を持つとき、そこがすなわち天国である。

万象は神の愛の顕れだと見ることができる。
太陽はわれわれを温めてくれるし、水はわれわれの渇きを医(い)やしてくれるのである。
植物はわれわれに衣食住を与えてくれる。

われらの眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足、内臓
―― そしてあらゆるものことごとく神の愛である。

空気はわれわれを取り巻いて生かしてくれる。
ああ空気 ―― ありがとう。
ああ太陽 ―― ありがとう。

ああ眼、耳、鼻、口、皮膚、手、足ありがとう。

そのうちのどれかがまだ不完全であっても、それはただの小部分にすぎないのだ。

われわれは神の愛に包まれているではないか。
数えきれない神の愛の中につつまれていながら、ただ一つ二つの不足について
不平を言うような心は功徳を得る心ではない。

まず感謝しなければならない。
また、そんな会も愛に包まれていることを思えば、
まずわれらはすべての物に愛を注がねばならない。

愛するということは幸福の初めである。

            <感謝合掌 平成30年5月21日 頓首再拝>

《愛の神を凝視せよ》 - 伝統

2018/05/26 (Sat) 03:17:08


        *「光明法語」(5月26日)より

神に対面するのみの時間を一日一回は作れ。
然して真に汝の欲するものを神に告げよ。

先ず静坐して心を鎮めよ。

神が其処に立ち給うて、愛深き眼光をもって汝を見詰め給うと想像せよ。
その眼光より神の無限の「愛」が汝に流れ入りて、汝の中に満ち、
且つ汝を取り巻いていると観ぜよ。

「われ神の愛を注がれ、神の愛に包まれ、神の愛に浄められて、
わが過ちて人を憎み憤りたりしすべての罪がきよめられて、いと清浄になりたり」
と観ぜよ。

「神のわれを赦したまいし如く吾もすべての人を赦したり」と観ぜよ。

            <感謝合掌 平成30年5月26日 頓首再拝>

宇宙の修正力に、神の愛を観る - 伝統

2018/06/05 (Tue) 04:22:11


          *「光明道中記」(6月5日 罪浄まる日)より

【罪は本来無いから、それに心が捉えられなければ消えるのである。
                    (『生命の實相』第十一巻)】


若し吾々の「念」そのままに此の世界が現じて来るものとすれば、
若し吾々の日々の憎しみの心の通りに、日々の悲しみの心の通りに、
日々の呟きの言葉の通りに、此の世の中の現象が悉く現れて来るものならば、
此の世界はもっと惨憺たる傷(いた)ましい状態を現出していただろう。

それは、若し吾々の春秋の大清潔法(おおそうじ)のとき
畳を叩くときの埃(ほこり)がいつまでも浄まらないで空中に渦巻いているとしたならば、
吾等は到底生活に耐えないような環境を見出すだろう。

然るに、神は讃むべきかな、宇宙に浄化力を下ろしたまうて、
常に吾々の立騰(たちのぼ)らす塵埃を浄化して環境を澄み切らして下さるのである。

それと同じように、吾々の心から立騰(たちのぼ)らす無数の「心の埃」が
その儘、具象化(かたちにか)するならば、それこそ大変であるのに、
神はそれを常に修正していたまうのである。

吾々が暗の中で攪(か)き濁(にご)す心の塵埃もいつの間にか、
神の光で、空中の大気のように浄まって了(しま)うのである。

茲(ここ)に私は宇宙の修正力を観、神の愛を観るのである。

業(ごう)は永遠の存在であり得ないのは此の宇宙の修正力によるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月5日 頓首再拝>

神を愛せよ - 伝統

2018/06/06 (Wed) 03:13:10


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月6日)より

パウロは次のように言っている。
「神を愛する者、すなわち御旨(みむね)によりて召されたる者の為には、凡てのこと
相働きて益となるを我らは知る」(「ロマ書」八章二八)。

先ず神を愛しなければならないのである。
愛するとは自他一体になると云う事である。
一つになることである。

それが同時に「御旨(みむね)によって召されたる者」である。
「御旨(みむね)によりて召されたる者」とは
決して特定の選ばれたる宗教的貴族階級のことではない。

「神のみ旨われに宿る」と自覚することである。

        <感謝合掌 平成30年6月6日 頓首再拝>

《“真の愛”の本質について 》 - 伝統

2018/06/22 (Fri) 04:37:29


         *『人生の秘訣365章』第5篇(P137) より

真の愛は“實相”のあらわれである。
“實相”は“實相”を呼び出すのである。

“實相”はすべての人間は“神の子”であり、
“神の生命(せいめい)”を宿し生れていると云う点に於いて
互いに一体なのである。

だから真の愛は自他一体感だと言われる所以(ゆえん)である。

真の愛は相手の不完全さを見ない。
真の愛は失望することはない。
それゆえに真の愛は歓喜(かんき)である。

真の愛は、愛するだけで足れりとして報いを求めない。
それゆえに裏切られたという感じは起らないのである。

まことの“吾”は裏切られない。
裏切られるのは“愛”の仮面をかぶった欲情のみである。

すべての人と事物の底に横たわる“實相”の善さを愛すると云うことは、
決して単なる一時的興奮やセンチメンタリズムではないのである。

それは深い霊的感情であると共に、
人と事物に内在する實相を洞察した科学的知識である。

        <感謝合掌 平成30年6月22日 頓首再拝>

手垢のついた愛は、真の愛ではない - 伝統

2018/06/30 (Sat) 04:00:18


       *「光明法語」(6月30日 自分と云う手垢をつけるな)より

情欲の奴隷とならない人こそ、真に崇高なる人間だと云うことが出来る。
情欲を「愛」だと考えてはいけない。
情欲は利己主義なるものである。

親の愛と云うものと雖(いえど)も、尚「自分の子」に対する愛として、
「自分の」が附いている限りは真の愛ではない。

「自分の子」と雖も、一たびは神に返して、神の子として愛しなければならぬ。
すべての人類の子と等しく執着なしに愛しなければならない。
如何なる愛も「自分の」と云う形容詞がつくかぎりは手垢のついた愛である。

愛して愛していることすら自覚しない愛が尊いのである。

        <感謝合掌 平成30年6月30日 頓首再拝>

真(まこと)に神的な愛は「放つ愛」である - 伝統

2018/07/07 (Sat) 04:25:25


       *「光明法語」(7月7日)より

釈迦が悟りをひらいた時の状態が『阿含経』で「諸愛ことごとく解脱し」と
書かれているように、仏教では「愛」を執着とし、煩悩と見るのである。
これは愛着のことである。

真に神的な愛は愛着ではない。
それは放つ愛でなければならない。

自己の自由に彼女を又は彼をしようと云う愛ではなくて、
彼女がまたは彼が、本来の道を行き得るように祈るが如き愛でなければならない。

かくの如くして始めて彼の愛は、
『涅槃経』に於いて名づけられたる如き『法愛』たるを得るのである。

神は人間を善にさえも強制しない。それは放つ愛である。

        <感謝合掌 平成30年7月7日 頓首再拝>

愛のみ生かす - 伝統

2018/07/15 (Sun) 04:00:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月15日)より

愛しなかったならば、戻ってくることは少ない。

時計は回るようにできており、時間を正確に指示するように
物理的精密さでできているが、それでさえ
われわれがもし愛しなかったら停まってしまうのである。

そんな馬鹿なことはない、捻子さえ回しておけば時計は物理的に回るのだと
抗弁する人があるかもしれぬ。

では、「だれが捻子を掛けるのであるか?」
人間の愛が、人間の時計に対する「関心」が、捻子を掛けるのであって、
物理的な力のみでは決して、時計に捻子を掛けないのである。

わたしの懐中時計ロンジンは、誌友から贈られたものであるが、
講演旅行などで携帯する時には10日間ぐらい絶対に時間を合わさないでも
数秒も指針の誤差はないが、さて旅行から帰ってくると、
本箱の前方に吊り下げられたまま停まっていたり、時間が遅れたりしている。

時計の必要を感じないので、時計をそれほど愛しなくなるからである。
時計を動かすのも愛の力である。

愛のみ生かす。

知的に真理を理解したといっても、
それだけでは時計の構造を理解したと同じである。
時計の構造を理解しただけで時計が動かないのと同じく、
真理も知的に理解しただけでは生命(せいめい)を生かす力がないのである。

時計のくわしく構造を知らなくとも、教えられたとおりに
素直に信じて竜頭を回せば時計は動く。

それと同じく、真理のくわしい理論は知らなくとも、愛することのできる人は、
そして教えられたとおりに素直に信じて実行する人は、
人を生かすことができるのである。

         <感謝合掌 平成30年7月15日 頓首再拝>

まず神を愛せよ - 伝統

2018/07/16 (Mon) 07:12:32


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月16日)より

神を御利益信心の対象にのみする者は神の全貌を知らないものである。
神は父であるから、神は愛であるから、神が智慧であるから、神は生命であるから、
財的な御利益以上の無限供給であるのである。

人間の父でさえもただ物質だけを家族に与えて満足している者ではないのである。
人間の父でさえも「父とは金を供給してくれるだけの道具である」と思っていては、
父の心も気まずくなり、その金さえも供給してくれなくなるであろう。

神は「無限の赦し」であるから、神を御利益信心の対象としてのみ取り扱っていても、
神はわれらを罰し給うことはないであろう。
またその供給を惜しみ給うこともないであろう。

しかし、神と人間との関係は父と子とも関係であるから、神をただ「無限供給の源泉」
として視るものは、神から最も少なくを得るものなのである。

まず神を愛せよ。
父を愛するごとく、母を愛するごとくに神を愛せよ。
しからば神もまた、父のごとく母のごとくわれらを愛し給うであろう。

否すでに愛していてくださるのであるが 
―― われわれが神を愛することを始めるまではそれを拒んでいたのである。
われわれが神を愛しはじめるとき、われわれの心のリズムが初めて「神」の愛を
捕捉(キャッチ)する ――

そこに物質の無限供給にみならず、われらはいっさい万事をキャッチするのだ。

         <感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>

行き届いた「愛」を - 伝統

2018/07/21 (Sat) 03:37:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月21日)より

失敗が起こるごとに反省せしめられることは、
わたしはまだどこかの点において「愛」が足りなかったということである。

偏った「愛」はザラにあるけれども、行き届いた「愛」はめったにないのである。

         <感謝合掌 平成30年7月21日 頓首再拝>

神の聖愛(みあい)を観ずる - 伝統

2018/07/25 (Wed) 04:48:44


     *『生命の實相』幸福篇下 第三十八巻(7月25日)より

今日はさらに、

「神はすべてのすべて・・・神は完(また)き聖愛(みあい)・・・」

と念じよう。

そしてすべてのものの内に、宇宙全体の神の聖愛(みあい)の充ち満ちていること、
そして自分のうちにも神の聖愛(みあい)が充ち満ちていることを
深き精神統一のうちに念じよう。

そして「神の愛に護られ、生かされ、育てられている」ことを念じよう。

すべての不安と恐怖とは、この神の聖愛(みあい)を観ずる神想観によって
消滅してしまうのである。

すべての自己の不安、焦燥がこの神想観によって消滅したとき、
その反映として自分の家族の精神状態が非常に円満になるものである。

そしていっさいが神の聖愛(みあい)で包まれていることを心の底深く知るがゆえに、
感覚的な麻酔的陶酔の必要が消える。飲酒癖、喫煙癖などはかかる心境に達したとき、
本当に自然に、抑制する必要なく剥落する・・・。

         <感謝合掌 平成30年7月25日 頓首再拝>

真理は愛の実践を要求する - 伝統

2018/07/30 (Mon) 04:18:19


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月30日)より

はじめに精神科学や光明思想に救われながら、
やがてそれに自分が救われなくなり落伍する人々が多いのはなぜであろうか。

ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的体験の種々相』の中に

「最善の悔い改めは神の道を一心不乱に前進して、今までありし罪と
自分との関係についていっさい忘れてしまうことである」

と言っているが、これらの光明思想の落伍者は、
神の道に一心不乱に突き進むことを忘れているのである。

「彼らは光明思想に触れる。それによって引き上げられ、それの与える恵福を満喫する。
そしてただそれを受けるだけで、周囲の人々にその恵福を頒ち与えることを忘れ、
そしてそれゆえにそれを失ってしまう」とボールトン・ホール氏は言っている。

真実確保しうるものはただ他に与えた部分だけであるのである。

ある人が真理に対する理解を得たとする。
そしてそれが自分の苦痛や、病気や、不幸を解除することが
できたとしてもそれは大したことではないのである。

自己の苦痛や悩みを救うだけに真理が使われるならば、
それはただ、利己的目的だけにすぎない。
利己的目的そのことが真理に反いているのであるから、
やがてその真理は自殺状態に陥って自分自身をも救いえなくなるのである。

真理は「私」してはならないのである。

真理を知らされたということは、それを他の人々に伝えるために知らされたのだ
ということを知らなければならない。

人類のまず目覚めなければならないことは、
個々人として孤立した存在ではないということである。

われわれは自他一体の存在であるから、
この世の中に一人でも不幸な人が存在するかぎり、
真に自分は幸福になることはできないのである。

1本の歯が痛むだけでも全体の肉体は痛むのである。
宇宙全体が一体に自分の生命(せいめい)と連関をもっていると知るとき、
その1本の歯にも比すべき一人の人間が苦しんでいるとき、
自分の生命(せいめい)もまた苦しむのである。

「真理とは何ぞや」(「ヨハネ伝」第18章36)とピラトはイエスにきいた。
イエスは黙然である。
それは言葉巧みな講釈ではないのである。

自分を捕えに来た獄吏の耳の傷を癒し、弟子の足を洗い、
自分を磔けにした人々の幸福のために神に祈り、
そして従容として十字架につくことである。

かく真理は愛の実践を要求するのである。

愛を実践する者のみ「王」であり、永遠に復活するのである。

         <感謝合掌 平成30年7月30日 頓首再拝>

「愛」は実相、心の調和 - 伝統

2018/08/04 (Sat) 04:26:57


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月4日)より

愛はただの感情ではない。いわんやただの恋情ではない。

「愛」は実相なのである。事物の本質なのである。
歓喜なのである。調和なのである。
光なのである。生命(せいめい)なのである。

愛は激情ではない。激情は調和ではない。
激情はものを毀す。不調和はものを毀す。
不調和に生命はない。

激情のことを「愛」と呼び倣わしてきたがために、どれだけ多くの若い――
いな、相当年をとった ―― 人たちがその激情に身を滅ぼしてきたことだろう。

滅ぼすもののうちに愛はない。
生かすもの、生み出すもののうちにのみ愛があるのである。

愛は心の調和である。

       <感謝合掌 平成30年8月4日 頓首再拝>

自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ - 伝統

2018/08/08 (Wed) 04:48:10


   *「光明道中記」(8月7日~8日 倶(とも)に泣く日)より

【家庭を本当に愛しないものは、本当に神を愛しているのではない。
                    (『生命の實相』第ニ巻)】


人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。


「倶(とも)に泣く」と云う感じは自他一体の感じであるから、
しみじみと有難く感じられる。

「咎める」と云う感じは自他分離の感じであるから、
有難く感じられないのである。

「倶に泣く」と云う感じは、軽蔑感から来るのではなく、
本来あるべき筈(はず)の尊厳の境地を尊ぶことを前提として、
その墜落をともに悲しむのであるから、素直にすらすらと受け入れられる。

人間がよくなるためには自尊の念を必要とする。

自尊がなければ自暴に陥る。
自暴に陥れば改善とか改悛とかいうことはあり得ない。
自尊は他敬によって養われるのである。

「咎める」言葉が不結果を招く原因は、こんな所にもあることが判るのである。

人の悪を咎めるよりも、自己が倶に泣く愛の欠乏していることを恥じよ。

「愛」の中にこそ聖泉がある。

それは智慧が如何に斫(き)り開いても発見することの出来ないところの聖泉である。
その聖泉に身をひたすとき、一切の不完全は癒されるのである。

みんなと倶に泣こう。
悲しめる人は倶に泣くことによって癒されるであろう。
多くの病める人も倶に泣くことによって癒されるであろう。

       <感謝合掌 平成30年8月8日 頓首再拝>

愛するとは - 伝統

2018/08/31 (Fri) 03:04:19


      *「心の散歩道その2」谷口恵美子先生著(P76~77)より

愛するとは その人を 大切に思うこと

愛するとは その人の 魂の美しさを 見つめること

花の盛りも 紅葉の 散りゆくさまも うつくしいと 讃えるように

そのままを 見守ること

         <感謝合掌 平成30年8月31日 頓首再拝>

悪を語らず、愛念を循環させる - 伝統

2018/09/11 (Tue) 04:51:35


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月11日)より

人の悪口(あっこう)はけっして陰でも喋ってはならない。
言葉は種子であるから、悪を喋れば悪が出てくるのである。

外見がいかにあろうとも、すべての人に対して、愛と敬とをもって
その人の繁栄と幸福とを祈るべきである。

万人は神において一体であり、彼の不幸は必ずや、
彼と一体であるところの自己の不幸となって現われて来るのである。

われわれは神から無限の愛を受けているのであるからその愛を、
他(た)の人間に愛念を送ることによって返還しなければならぬのである。

かくしてあなたが神の愛を、彼に返還するとき、
彼もまた、あなたに対して神の愛を返還してくれるのである。

             <感謝合掌 平成30年9月11日 頓首再拝>

真に愛せよ - 伝統

2018/09/21 (Fri) 02:46:06


    *「光明法語」(9月21日の法語 良き芸術、良き科学)より

愛は生命の純粋感情であるから、真の愛のあるところ必ず創造が行なわれる。
愛は愛撫となり、抱擁となり、やがて事物が生み出されるのは、
ただ肉体の子供のみではないのである。

真の愛のないところに優れたる科学も工作も生まれない。
愛さえあれば、愛は次第に明確な形をとって、如何なる知的な作業も可能ならしめる。

想念も実は愛の産物であり、愛は想念となり、行動となり、行動はものを作る。

愛せよ、先ず真に愛せよ。
愛の足りない仕事は必ず何処かに欠陥がある。

           <感謝合掌 平成30年9月21日 頓首再拝>

全てのものを愛せよ - 伝統

2018/09/22 (Sat) 04:31:55


        *「光明法語」(9月22日)より

汝の親を愛せよ、汝の子を愛せよ、
汝の良人を愛せよ、汝の妻を愛せよ、
汝の兄弟を愛せよ、汝の姑舅を愛し、汝の婿又は嫁を愛せよ。

汝の国の人民を愛せよ、人類を愛せよ、すべてのものを愛せよ。

そこから無限の力がわき出て、無限の創造が行なわれるのである。
併し愛することは執着することではない。
愛するとは彼の生命(いのち)を彼の生命(いのち)そのものたらしめることである。

牡丹をして牡丹の花をひらかしめ、朝顔をして朝顔の花をひらかしめることである。
”もの”そのものの生命を解放して自由ならしめるが愛である。

           <感謝合掌 平成30年9月22日 頓首再拝>

愛と執着とは異なる - 伝統

2018/09/23 (Sun) 04:45:07


           *「光明法語」(9月23日)より

小鳥をして籠の中に押し込むのは真の愛ではない。
それは執縛であり執着である。

日本の言葉は執縛をも執着をも、ともに「愛」と云う語をもって呼ぶことがある。
それ故に、「愛する」と言いながら相手の生命を縛ってしまい、
相手の生命を伸びられなくしてしまい、相手の生命を殺してしまうことさえ往々ある。

多くの母親は子供を愛するが故に執着し、心配して、
子供の病気を重からしめたりすることが往々あるのである。

愛すると称して自分の自由に相手を縛るものは煩悩に過ぎない。

           <感謝合掌 平成30年9月23日 頓首再拝>

《愛を与えよ、愛は還ってくる》 - 伝統

2018/10/09 (Tue) 04:20:02


        *『人生の秘訣365章』第8篇(P232~233) より

あなたの人生が淋しく侘しく感じられて遣る瀬ない気持がするならば、
あなたは誰かに愛されたい、愛を与えられたいと思っているばかりで、
本当に自分が他を愛していない
 ―― 他に自分の愛を与えていないからなのである。

家庭の不調和でも、その奥さんが良人の愛を独占したい。

“こうもして欲しい、ああもして欲しい”と要求するばかりで、
良人に“こうしてあげたい”“このように自由に幸福にして差し上げたい”という
「愛を与える」精神が失われているときは、

人生が淋しくなり、良人には執着の愛で窮屈な思いをさせ、
却って良人をして家庭から逃げ出したくなるような感じを
起さしめる結果を招くことになり兼ねないのである。


良人を自分の欲望満足の道具にしたい希望をもって、
「私は彼を愛している」などと思っている妻があるが、

そのような欲望は「本当の愛」ではなく、
「愛」の仮面をかぶった利己心であるから却って相手から背かれ、
淋しい思いをしなければならなくなるのである。

先ずあなたが純粋に報い求めぬ愛を与えよ、
あなたにまた本当の愛が還って来るに相違ないのである。

           <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

《吾ら神の愛にいだかれて》 - 伝統

2018/10/22 (Mon) 04:52:47


          *『人生の秘訣365章』第8篇(P237) より

あなたは常に、神の愛の大海原の中に住むのである。
一分一秒間と雖(いえど)も、
あなたは神の愛の護りから逃れることはできないのである。

一切の善きものは、常にあなたに対して、
恰もテレビ放送番組のように降りそそいでいるのである。
あなたはただそれを受取ればよいのである。

あなたが自分の生活に神の祝福を受取ることができないように見えるならば、
それは、あなた自身の心が黒眼鏡(くろめがね)をかけて黒い心のレンズを通して、
一切を暗黒化して見ているに過ぎないのである。

心の眼鏡(めがね)を外しなさい。
そして歪みなく、屈折なく、変色なく、
神が“神の子”のために創造り給うた完全なる世界の實相を観るがよい。

そこには凡ゆる善きものが、善き状態が、
神の愛が、神の善が、神の智慧が、神の秩序が神の裕(ゆたか)さが、
神の子の健康が、調和が、歓喜が満ちみちているのである。

實相を直接に観ずるとき、實相が現象として現れて来るのである。

           <感謝合掌 平成30年10月22日 頓首再拝>

《まことの愛は》 - 伝統

2018/11/04 (Sun) 06:22:23

          *「女性の幸福365章」(P64)より

愛するとは憐れむことではない。
人は愛されることを好むが、憐まれることを悦ぶものではない。

愛するとは、相手の神性を見てそれをなつかしみ、それをいとおしく思い、
それを好き、賞め、讃え、尊敬せんとする感情である。

憐れみとは相手の弱点を見て、気の毒に感ずる感情である。
そこには上から見おろすような感じがあるから反発される。

              <感謝合掌 平成30年11月4日 頓首再拝>

愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である - 伝統

2018/11/12 (Mon) 02:51:30


          *「光明道中記」(11月12日 人を審判(さば)かぬ日)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と
言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだと云うことであるし、
十字架の上にあっても「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、挺身して人類の代贖者(みがわりもの)に
なろうと決意したイエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、莞爾(かんじ)として微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 平成30年11月12日 頓首再拝>

《愛行は神の霊波に同調する道である》 - 伝統

2018/11/19 (Mon) 03:28:23


        *『人生の秘訣365章』第10篇(P257~258) より

「愛」は一体感であるがゆえに、愛を行ずるとき、
私たちは神とも一体となり神との接続を恢復する。

愛行はそれが如何に小事であろうとも、
それは「神」なる実在からの延長であるから、
愛行は「実在」として永遠に消滅することはないのである。

愛行は永遠不滅であり、実在の世界にいつまでも残るのである。

神は到る処に遍満したまうけれども、愛が行われないときには、
放送電波は到る処に遍満していても波長が合わないために、
放送電波と接続することが出来ないように神と接続することが出来ない。

神の放送霊波と接触することが出来たとき、
一切の不幸も悩みも病いも消えてしまって、神の国に存在する番組のみが、
テレビにあらわれるように現実世界にあらわれて来ることになるのである。

神から孤立して何事かを為そうと努力することは、
テレビを放送のチャンネルに合わせないで受像しようとするようなもので、
効果はないのである。

          <感謝合掌 平成30年11月19日 頓首再拝>

神の愛の抱擁を思念せよ - 伝統

2018/11/22 (Thu) 05:00:40


          *「光明法語」(11月22日の法語)より

更に次の如く思念せよ。

「神の愛の抱擁は優しいのである。
無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが
故に、私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな神の愛に触れているのである。
だからどんなイライラしさも、どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。

神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」

          <感謝合掌 平成30年11月22日 頓首再拝>

《あなた自身を神の愛の流出口として》 - 伝統

2018/12/08 (Sat) 05:03:34


     *『人生の秘訣365章』第11篇(P268~269) より

あなたが自己の“心の王国”の主権者を“神”たらしめるとき、
“神”は愛であるから、自分の肉体は“神の愛”が流れ出るところの
流出口又はパイプとなるのである。

あなたの人生に出会うところのすべての人間を
あなたは愛し祝福することができるようになるのである。

たといあなたが、他(ほか)の人々から深切なる言葉を投げかけられず、
愛情ある仕向け方をされないとも、相手の姿は“自分の心”が
反映しているのであるとの根本法則から、

相手が冷たいのは、自分の愛情が足りない反映であると判断して、
他(た)に対して愛情を求める代りに、自分自身が一層他(た)に対して
深切の行為と愛情ある言葉を与えるようにするがよいのである。

併し、それが自分の力量不足で、実行上できない場合には、
神に対して次のように繰返し念じて祈るがよいのである。

「神よ、あなたは無限の愛であります。
あなたの愛が完全に充分に流れ出るパイプに私自身をならしめ給え。
愛の流れ出る障礙となる“自己中心”の心をとり除き給え。

外見の悪と見えるものに捉えられることなく
すべての人の奥にある“神の子”の實相を見る心の眼をひらかしめ給え。」

          <感謝合掌 平成30年12月8日 頓首再拝>

神の愛の念波が自分を取り巻いていると念ずる - 伝統

2018/12/17 (Mon) 04:24:50


     *「光明道中記」(12月17日 神の愛を念ずる日)より

【病菌は病気に対する人類的恐怖の客観化したものである。
                        (『生命の實相』第十一巻)】 

高徳者が病気になるのは、周囲の念波の攪乱(こうらん)的影響によるのである。

腹痛の人が私の前へ来ると私のお腹が痛くなる。
胸の悪い人が私の前へ来ると私の胸が苦しくなる。
また遠隔思念でもして貰いたく、私に哀願している念波が
私を苦しめることもあり勝ちである。

私は並々はずれた細かい皮膚の顔貌をしているのでも判るように、
私の感受機関は非常にデリケートであって、
そのために色々の不快な念波を受けて苦しんだものである。

私はその状態から抜け出したいと色々と工夫を重ねたものです。
今でも充分そのデリケートさが克服されたとは思っていないが、
その工夫の中に次第に、どんなにデリケートであっても、
波長を合わさぬことによって、

それらの不快な念波を避けることを発見し、今では稍々(やや)成功して、
どんな病気の人がわたしに心で縋(すが)って来ても、
その念波を外して了うことが出来るようになったのである。

その方法は神想観中に自分の周囲に神の愛の念波が取巻いて自分を護っており、
どんな不快な念波も必ず一度は神の愛の念波が光明化してから私に伝えられると
念ずることによってである。

          <感謝合掌 平成30年12月17日 頓首再拝>

《あなたは神の愛を公平に行わねばならぬ》 - 伝統

2018/12/28 (Fri) 04:49:09


       *『人生の秘訣365章』第11篇(P271~272) より

あなたが神の愛を完全に受けようと思うならば、
あなたは神を愛しなければならないし、また神の如く、
善人をも悪人をも憎むことなく愛しなければならないのである。

無論、その人を仕事の能率や才能に従って、適材適所に、
あるいは上位に、或いは下位に配置しなければならぬのは当然である。
時としてはその不適な位置から免じなければならぬことがあるかも知れない。

それは下位に貶した者を憎むのではなく、職を免じた者を憎むのでもなく、
天分に従い、能力に従い、その適する処にその人をあらしめるのが
神の御心であるからである。

神は情実によって不適の位置に人を置き給うことを欲し給はないのである。
適材適所ということが神の秩序であり、天の配剤であるのである。

これを“神の義”と称するのである。 

          <感謝合掌 平成30年12月28日 頓首再拝>

天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされている - 伝統

2019/01/01 (Tue) 04:06:34


           *「光明道中記」(1月1日 必ず楽しの日)より

【愛は生み育てる力、癒す力である。(『生命の實相』第一巻、第十二巻)】

愛は温める力、育む力、生む力、伸ばす力である。
愛によってのみ生命は生まれるのである。

太陽が照るのも宇宙の大愛である。
木の潤すのも宇宙の大愛である。

天の大愛と、地の大愛との限りなき恵みの下に生かされているのが人間である。

人間のみに愛がなくて好い筈がない。
人間の生命は天地の大愛の延長であるが故に、その本質は愛によって成立っている。
人間の生命の本質は愛なのである。

人間の生命の本質が愛であるならば、
人間の生命から愛を引去(ひきさ)った時には死あるのみである。

愛されることが無くなったとき、その人の生命が生きる価値を失い、生き甲斐を失い、
病気にかかり易くなり、死にたくなり、衰弱し、
死へ近づいて来ると云うことは当然なことである。

愛のみが生命を生かし、愛のみが生命の糧(かて)である。

人の生涯は愛するためにのみ生まれたのである。
愛が消え去る時すべての事物は光を失う。

そんなに魅力のあった事物もそれに対する愛が失われたとき、
もうそれらは其の人にとって光が無くなる。

人生の価値と光とは、要するに其人がそれに対して持つ愛の反映である。

          <感謝合掌 平成31年1月1日 頓首再拝>

家族を愛せよ - 伝統

2019/01/04 (Fri) 04:54:44


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月4日)より

何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術(すべ)である。
それができなければ人間生活の土台が完成したとは言えぬ。

まず手近にある家族を愛せよ。
そこから天国が生まれてくるのである。

われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、
幸福とはどこか外のところにあるように思っていたが、脚下(あしもと)になるのである。

まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、
朗らかな韻(ひびき)のある語調で投げかけよ。
これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。

気がついたら今日(きょう)からそれを始めよう。

         <感謝合掌 平成31年1月4日 頓首再拝>

《神は無限の愛であり給う》 - 伝統

2019/01/07 (Mon) 03:56:38


          *「光明法語」(1月7日)より

吾らは決して神の護りからのがれることは出来ない。
神の無限の智慧からのがれることは出来ない。
また神の無限の愛からのがれることは出来ないのである。

神は吾々神の子に対して与えとうて与えとうて仕方がないのである。
吾々は神の無限の供給からのがれることは出来ないのである。
神はわが親であり、わが供給であり給う。

神は決して人間の貧しきことを欲したまわないのである。
神は決して人間の不健康を欲し給わないのである。
神は無限に完全なる生命を吾らに与え給うて、吾等の全身を健全ならしめ給うのである。

         <感謝合掌 平成31年1月7日 頓首再拝>

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