伝統板・第二

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悪なし - 伝統

2018/01/03 (Wed) 03:17:05

《悪を造構》

         *「光明法語」(1月3日「知恵の樹の実」を食べると云うこと)より

かくて人間は神の映像であるから、神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在すると考え出したのである。

これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。

この「悪」も存在すると云う考えが具象化して「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。

かくて人間は自からの心が描いた映像をみて怯え、悲しみ、心配をし、
みずから不快になり、痛み、悲しむことになったのである。

思いを変えよ。

            <感謝合掌 平成30年1月3日 頓首再拝>

《悪は存在しない》 - 伝統

2018/01/17 (Wed) 04:10:11


         *『幸福を招く365章』第3項(P51) より

悪と云うものは存在しないのである。
ものそのものに悪はないけれども処を得ないことが悪なのである。

二と二と掛ければ四となる。
2×2=4は正しいのである。

しかし2×2=6は間違いである。
どこが悪いかというと2も4も6も皆それぞれに善である。
その一つ一つはすべて善であるけれども、4のあるべき位置に6があるから悪いのである。

即ち有るべき処に有るべきものがなく、有るべからざる処に、
有るべからざるものが置かれているという処に悪があるのである。
即ち自然の秩序に従っていないから悪であるのである。

人間は自由を与えられているから、
時として自ら好んで2×2=6と配列してそこに悪を発生せしむるのである。

           <感謝合掌 平成30年1月17日 頓首再拝>

「悪はあるように見えても本来ない」 - 伝統

2018/01/20 (Sat) 03:14:37


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月20日)より

悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁みこんでしまうまでは人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。

本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない 」と悟った人ばかりである。

言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。

毎朝起きた時および、何事か起こったときには必ず
「悪はあるように見えても本来ない 」と10遍ずつ唱えるがよい。

これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。

            <感謝合掌 平成30年1月20日 頓首再拝>

神の創造の世界に悪はない - 伝統

2018/01/31 (Wed) 03:54:29


           *「光明道中記」(1月31日絶対善を悟る日)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。
                              (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、
五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに
過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

            <感謝合掌 平成30年1月31日 頓首再拝>

現実の“悪”はどう改善するか - 伝統

2018/02/18 (Sun) 04:02:47


       *『生命の實相』第14巻倫理篇下(P108~110) より

他(た)の暗黒面を見ることは
その相手の人を暗黒の谷底に突き落してしまうことになるばかりでなく、
同時に自分自身を暗黒の谷間に墜落せしめることになりますから
注意しなければなりません。

しかし、「悪」が現にここにあるのを見ないでもよいのでしょうか。 

「悪」をそのまま放置してそれを改善するための
なんらの手段方法をもめぐらせないでもよいものでしょうかとは、
わたしがしばしば質問を受けることであります。

しかしわれわれは「悪」に執着しないでも
「悪」を改めることは可能であります。 

それが「悪」であるとわれわれが知るのは、
そこに「善」がないということであって、
《悪が積極的にあるということではないのであります》
 ――  これは実に大切な真理であります。

「悪」は無でありますから、「悪」を除かずとも善をつけ加えれば
「悪」はおのづから消尽してしまうのであります。

「善」をつけ加えるにはどうすればよいかといえば、
どこまでも相手を理想化し、さらに理想化して
どこまでも無限に相手を高め上げてゆくことにすればよいのであります。

どこまでも人間を理想化して眺めても、
人間は理想化しすぎるということはありません。 

なぜなら人間の実相は神の子であり無限の善さを備えているかであります。


およそ相手を良くするには自分を良くすることが第一であります。
自分が良くならないのに相手をよくなしうるということは困難であります。

そしておよそ自身を良くするための方法は、
自分の心の中に光明の精神波動を照り輝かすことであります。

自分の心の中に光明の精神波動が波立っているときその人は善き人であり、
自分の心の中に光明の精神波動が波立っていないとき、
暗黒の思念が押しかぶさっているとき、その人は悪しき人なのであります。

人の欠点を見るとき、その欠点に自分の心が捉われ、
それをとやかく言挙(ことあ)げするとき
自分の心の中には暗黒の思念が波打たずにはいられないでしょう。

「暗黒の思念」は決して相手を良化することはできないのです。

(略)

相手を良化しようと思うならば、
まず自分の心の中から「暗黒の思念」を除去(とりさ)らなければならない。

まず自分自身を、「光明思念」でみたさなければならない
―― 換言すれば《相手の悪を見るような心になってはならないのです》。

結局相手の悪を見ないで実相を見る心にならなければならないのであります。

ここにこそ自分自身が光明化し、
さればまた相手が光明化してくる可能性があるのであります。

われらが何人(なんぴと)に対してでも相手の実相を見るようにするとき、
われらは相手と調和するようになってくるのであります。

実相においてはわれらは本来自他一体であるからである。

調和しないで反目し相争うのは実相を見ないからであります。

            <感謝合掌 平成30年2月18日 頓首再拝>

《悪と云うものはない》 - 伝統

2018/02/21 (Wed) 03:31:08


           *「光明法語」(2月21日)より

世の中に絶対悪と云うものはない。

悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。

そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。

しかしそう信じない者が可哀相である。

私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。

            <感謝合掌 平成30年2月21日 頓首再拝>

「悪」を想えば「悪」に力をかすことになる - 伝統

2018/03/06 (Tue) 04:29:23


        *『生活の智慧365章』(P103~104) より

《善人は団結して言動せよ。》

社会的、国家的、人類的な大黄な目的に関する願いは、
個人がひとりひとりでやるよりも大きな団体及び組織の力を
利用してやる方が実現の速度も簡易が大きくなるのである。

今までの善人は、あまり温和(おとな)しすぎて黙って控え目にしていて、
悪人の方が団結して言いたい放題なことを主張したり、
群衆行動の圧力でその要求を貫徹しようとしていた嫌いがある。

そんなことでは社会も国家もよくならないのである。
善人はその目的を一つにして大同団結して建設的に協力するとき
速やかに社会も国家もよくなるのである。

人類光明化運動の団体の中における者は、尚一層調和して、
その主たる目的のために常に建設的は言動をなすべきであって、
苟(いやしく)も、破壊的な、内部紛争をかもすような言動を
なしてはならないのである。

内部に相争うものを包容している団体は、寄生中や癌細胞を
内に宿している人体のようなものであって、早晩、瀕死の状態に陥るか、
大手術をして内部の病原を切除しなければならなくなるのである。


《「悪」を思えば悪が出てくる》

「善き目的」を推進するにあたって、その団体のメンバー相互の争いや、
不調和や、反対論で騒然たる中で功績を挙げて行くことはできないのである。

同じ団体のメンバーでありながら、その団体の中にその同志を嫌悪したり
憎んだり、あしざまに批評する小会をつくって派閥争いをしているような事では、
その団体の善き目的遂行がおくれるばかりである。

内部機構を常に一層よきように改善することは必要であるけれども、
それがその団体の誰かを酷評したり、憎悪したり、排斥したりするような
暗黒な精神に支配されリードされている限り、改善どころか、
それは、却って、「悪」に力をかすことになるのである、

どこまでも「悪」を想えば悪がでて来る
 ―― この真理を知らなければならない。

            <感謝合掌 平成30年3月6日 頓首再拝>

「悪」と見えるものは本来存在しない - 伝統

2018/03/21 (Wed) 03:38:49


          *「幸福を招く365章」(P183~184)より

人に何か、欠点があらわれた場合に、欠点をみるな、「神らしくない所」に
眼をつけるなと云われても、どうも、見えるものは仕方がないのであって、
悪い人は悪いと見えるほかはないと云う人がある。

併し、こんな場合に「悪」の存在を否定しようと思うから難しいのであって、
「悪」はそのままにして置いて、

其の人の中に宿る善なる神性のみをみつめるようにしておれば、
その人の善なる神性はあらわれて、
「悪」はおのずから影のように消えてしまうのである。

すべて「悪」と見えるものは本来存在しないのであって、
それを認めている間だけ現れているのである。

            <感謝合掌 平成30年3月21日 頓首再拝>

「悪」の存在を許してはならない - 伝統

2018/04/13 (Fri) 03:26:40


        *「希望を叶える365章」(P90)より

神のみが実在であり、神のみが実在する力である。
神に反対する力はあり得ないのである。

私たちが「悪」と称するところのものは実在するのではなく
吾々自身の想念が描き出した誤れる象(かたち)が現象化したものである。

「悪」は実在するのではなく、従って吾々自身の信念が与えたところの
存在性をもっているだけで、それ自身の存在性をもっていないのである。


神は善であり、完全であり、調和である。
だから、善以外のもの、完全以外のもの、調和以外のものは
存在しないのである。

それを存在するかの如く信ずる限りにおいて私たちは、
”悪しきもの”に存在性を与え、常に恐怖心におそわれるほかはなく、
自分自身を傷つけるほかはないのである。

年齢の加減だとか、体質だとか、気候が悪いとか、ビタミン剤が足らぬとか、
・・・色々の異なる名称を附して、本来「非存在」である
「悪」の存在を許してはならないのである。

            <感謝合掌 平成30年4月13日 頓首再拝>

「悪」と格闘してはならない - 伝統

2018/05/02 (Wed) 04:11:53


      *「希望を叶える365章」(P169~170)より

時々私たちは、「神の創造(つく)り給えるこの世界には『悪』が存在しないのである」
と云う眞理を忘れてしまって、恰も神の創造り給うた世界に「悪」があるかの如く、
悪と取り組んでガタガタ格闘していることがあるものである。

悪を〝真実存在〟すると信じている限り、悪は〝真実存在〟でないにも拘らず、
その信念に支えられて消えようとはしないのである。
いつまでガタガタやってみても、それは消えはしないのである。


それよりも「悪」を消そうと思ったならば、
神想観して「神の創造り給うたこの世界には『悪』はないのである。
神は愛であるから、唯、善のみを私に与えたまうのである」と、
ただ「善のみ存在する世界」を心の眼でジッと見詰めるようにするがよいのである。

神があらゆる事件の中に、存在したまうて、
一切のものを調和ある状態にあらしめておられることを本当に自覚して、
それを念じつづけるようにするならば屹度、
如何なる事件も結局は円満に調和した状態に解決するものである。

            <感謝合掌 平成30年5月2日 頓首再拝>

実在の世界において「悪」はない - 伝統

2018/05/17 (Thu) 03:48:06


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より

おかげが無いという人々よ。
まずすべての人々と和せよ。

他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。

そして再び罪を犯すことなかれ。

罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。

「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。

現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。

神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと
「そのまま受ける心」が「和」なのである。

いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。

調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。

なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。

            <感謝合掌 平成30年5月17日 頓首再拝>

悪は無いからこそ征服し得る - 伝統

2018/06/02 (Sat) 03:10:08


        *「光明道中記」(6月2日 恐れずに所信を貫く日)より

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  

悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

            <感謝合掌 平成30年6月2日 頓首再拝>

決して心に「悪」を予想することなかれ - 伝統

2018/06/13 (Wed) 04:37:23


         *「光明道中記」(6月13日 絶えず明るく微笑する日)より 

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】

恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。

念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。

体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、
外界境遇貧富等は外的環境である。

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。

「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。

されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。

「悪」は存在しないのである。

ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く視(み)えるに過ぎない。

静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。

            <感謝合掌 平成30年6月13日 頓首再拝>

悪は、単なる幻影でしかない - 伝統

2018/06/28 (Thu) 03:52:09

         *「真理」第9巻生活篇(P369)より 

”実在の延長”としての善と”迷い”の表現としての幻影
 

私たちは、正しい確(かた)い信仰をもって生活せねばなりません。
正しい確(かた)い信仰とは、ただ善のみ実在であって、
悪は存在しないと云う強く動かない信仰です。

これは、創造主(つくりぬし)なる神は唯一(ただひと)つであり、
決して悪はつくらないという神への深い信頼から来る信仰です。

すべての悪は人類の主観がつくった幻影に過ぎないのです。
あなたは「客観的にあらわれている事物を幻影(まぼろし)などとは
思われない」と言われるかも知れません。

併し具体的な形はすべて結果であって原因ではないと云うことです。

心が原因者であって、心が計画するとおり具体はあらわれるのです。
正しい心があらわした具体なら本物ですが、迷っている心があらわした
具体ならば、それは”妄想のあらわすところ”即ち幻影に過ぎないのです。

実在をしっかり見詰めて実在をあらわした具体ならば、
それは実在の延長として本当にあるのです。

実在でない悪を心に描いて現わしたものは単なる幻影でしかないのです。

            <感謝合掌 平成30年6月28日 頓首再拝>

悪は神が作らないから無い、無いものは無い - 伝統

2018/07/10 (Tue) 03:04:09


        *「希望を叶える365章」(P212)より

現象を見るな。

実相を見よ。

神の後嗣者(あとつぎ)なる実相を見よ。

今此処に、あなたの内に、神が、無限力の神がいますのだ。
そのほかに何もない。
神のほかに何もあると思うな。

悪は神が作らないから無いのだ。
無いものは無いのだ。
簡単明瞭だ。

            <感謝合掌 平成30年7月10日 頓首再拝>

「『悪』と格闘してはならない」 - 伝統

2018/07/21 (Sat) 03:42:39


      *『希望を叶える3655章』(P169~170)より

時々私たちは、「神の創造(つく)り給えるこの世界には
『悪』が存在しないのである」と云う眞理を忘れてしまって、
恰も神の創造り給うた世界に「悪」があるかの如く、
悪と取り組んでガタガタ格闘していることがあるものである。

悪を”真実存在”すると信じている限り、悪は”真実存在”でないにも拘らず、
その信念に支えられて消えようとはしないのである。
いつまでガタガタやってみても、それは消えはしないのである。

それよりも「悪」を消そうと思ったならば、
神想観して「神の創造り給うたこの世界には『悪』はないのである。
神は愛であるから、唯、善のみを私に与えたまうのである」と、
ただ「善のみ存在する世界」を心の眼でジッと見詰めるようにするがよいのである。

神があらゆる事件の中に、存在したまうて、
一切のものを調和ある状態にあらしめておられることを本当に自覚して、
それを念じつづけるようにするならば屹度、如何なる事件も
結局は円満に調和した状態に解決するものである。

            <感謝合掌 平成30年7月21日 頓首再拝>

悪しき事はただの妄想  - 伝統

2018/08/07 (Tue) 04:25:31


        *「希望を叶える365章」(P205)より

善き事を思えば善き事があらわれる。
その善きことは実在界の延長である。
それは実在性をもっているのである。

併しながら、悪しき事を想えば”悪しき事”があらわれる ―― 
しかしその”悪しき事”は、”善き事”と同じく実在性を持っているのだろうか。

否、否、否、悪しきことは想念のただの妄想であって、
それは実在界延長でもなければ、
真に存在性をもっているものでもないのである。


催眠術をかけて、蝋燭(ろうそく)をバナナと暗示して被術者に与えると、
被術者は、蝋燭をバナナを食べている幻想の下(もと)に、
それを美味(おい)しそうに食べるのである。

しかし実際には其処にバナナは無いのである。

それと同じく病気を想って病気があらわれ、災害を想って災害があらわれるのは、
其処に実際災害が《あるのではない》に拘(かかわ)わらず
人類の心的経験として、それが立体的に感じられるに過ぎないのである。

            <感謝合掌 平成30年8月7日 頓首再拝>

「悪」を完全に意識の中で否定せよ - 伝統

2018/09/08 (Sat) 03:17:49


      *「希望を叶える365章」(P206~207)より

キリストは病気を心で見なかった。
「汝の病気は重い」と一度も言ったことはなかったのである。

「床を取り上げて歩め」と言ったり、
「汝の信仰 汝を癒やせり」と言ったりして、
病気に対して、客観的に取り組むことをしなかったのである。

「汝、上より力を賜(たまわ)らずば、我(われ)に対して何の権威もなし」
とイエスはピラトに言っているが(「ヨハネ伝第19章11節)

病気や災難や不幸は、神より実在性を与えられたものでないから、
イエスを害しようと思っても、何の権威もないと言っているのである。


諸君はこのイエスのように、如何なる不幸や災害や病気がやって来ても、
「汝らは、神より力を与えられたものでないから何の権威もないぞ」と
断々乎と宣言し得るようにならなければならないのである。

神の造り給うたもの(善事)のみ実在であって、
それ以外のもの(悪しき現象)はただ夢まぼろしの人類意識の
自己催眠現象に過ぎないのである。

            <感謝合掌 平成30年9月8日 頓首再拝>

悪が存在する妄想を消すには - 伝統

2018/09/26 (Wed) 04:40:40


      *「希望を叶える365章」(P209)より

夏の夕顔棚からその果実がぶらさがっているのを、夕方の薄明(うすあかり)で
眺めて、それを何か悪魔か亡霊のように感じて現れる。

それを怨霊のように想っている限りは、心的体験としてそれは怨霊であり、
吾々に恐怖心を与えて精神的に迫害するのである。

併しそれは夕顔の果実を自分が恐怖心で怨霊のように見ていたのであると
気がついたならば、その怨霊の姿を消えて、夕顔棚からぶらさがっている
果実の風流な姿(実相)を見ることができるのである。


恐るべき光景が、病気にせよ、災害にせよ、それがあなたの前にあらわれたならば、
「そんなものは実在しないのだ、善なる神はそのような悪なるものを造らないから、
そんなものは決して実在ではない!!」と断々乎と否定し、

「神の智慧われを導き給うて、その悪なる幻が自然に消える道を示し給う」
と念じて、それから思いついた為すべき事を当たり雨に為すがよいのである。

            <感謝合掌 平成30年9月26日 頓首再拝>

“悪”なる現象は、本来ない。“気”(想念)の持ちようで顕れているだけ。 - 伝統

2018/10/12 (Fri) 03:46:33

         *『人生の秘訣365章』第8篇(P205) より

《“エデンの楽園”追放の意味するもの》

神がその創造したまえる一切のものを善なりと宣言せられた以上、
悪なる病気などは存在しないのは当然のことでなければならない。
だから病気は実在するものではないのである。

何故なら、神と“神による眞創造”とのみが実在であるのだからである。
そして神と“神の眞創造”とはすべて善であるからである。

それなのに何故実在しない病気等の悪が恰も存在するが如く見えるのだろうか。

此処に深遠なる“現象顕現の法則”があるのである。
―― 吾々の生きているこの現象世界は、其処に住む人の心の表現であるのである。

「実在の世界」は此処に今も常に厳然としてあれども、
その人の心が認めなかったら感覚面にはあらわれないのであるし、
“悪”は本来存在しないけれども、その人の“気”(想念)の持ちようで、
“悪”も恰も存在するかのようにあらわれるのである。

聖書に於ける“樹”というのは“想念”を意味する。
日本語に於いても“樹”は“気”に通ずるのである。
“善悪を知る樹”とは“善”のほかに“悪”も存在するいう想念である。

そのような“気”になれば、やはり色々と“悪”なる現象があらわれて来て、
實相世界(エデンの楽園)は今此処に《あれども》見えず、
苦しみの世界に追放された形をとることになり、

折角、“善きもの”の実現を祈りながらも
祈りが成就しない形をとることになるのである。

            <感謝合掌 平成30年10月12日 頓首再拝>

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