伝統板・第二

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悪なし - 伝統

2018/01/03 (Wed) 03:17:05

《悪を造構》

         *「光明法語」(1月3日「知恵の樹の実」を食べると云うこと)より

かくて人間は神の映像であるから、神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在すると考え出したのである。

これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。

この「悪」も存在すると云う考えが具象化して「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。

かくて人間は自からの心が描いた映像をみて怯え、悲しみ、心配をし、
みずから不快になり、痛み、悲しむことになったのである。

思いを変えよ。

            <感謝合掌 平成30年1月3日 頓首再拝>

《悪は存在しない》 - 伝統

2018/01/17 (Wed) 04:10:11


         *『幸福を招く365章』第3項(P51) より

悪と云うものは存在しないのである。
ものそのものに悪はないけれども処を得ないことが悪なのである。

二と二と掛ければ四となる。
2×2=4は正しいのである。

しかし2×2=6は間違いである。
どこが悪いかというと2も4も6も皆それぞれに善である。
その一つ一つはすべて善であるけれども、4のあるべき位置に6があるから悪いのである。

即ち有るべき処に有るべきものがなく、有るべからざる処に、
有るべからざるものが置かれているという処に悪があるのである。
即ち自然の秩序に従っていないから悪であるのである。

人間は自由を与えられているから、
時として自ら好んで2×2=6と配列してそこに悪を発生せしむるのである。

           <感謝合掌 平成30年1月17日 頓首再拝>

「悪はあるように見えても本来ない」 - 伝統

2018/01/20 (Sat) 03:14:37


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月20日)より

悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁みこんでしまうまでは人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。

本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない 」と悟った人ばかりである。

言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。

毎朝起きた時および、何事か起こったときには必ず
「悪はあるように見えても本来ない 」と10遍ずつ唱えるがよい。

これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。

            <感謝合掌 平成30年1月20日 頓首再拝>

神の創造の世界に悪はない - 伝統

2018/01/31 (Wed) 03:54:29


           *「光明道中記」(1月31日絶対善を悟る日)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。
                              (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、
五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに
過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

            <感謝合掌 平成30年1月31日 頓首再拝>

現実の“悪”はどう改善するか - 伝統

2018/02/18 (Sun) 04:02:47


       *『生命の實相』第14巻倫理篇下(P108~110) より

他(た)の暗黒面を見ることは
その相手の人を暗黒の谷底に突き落してしまうことになるばかりでなく、
同時に自分自身を暗黒の谷間に墜落せしめることになりますから
注意しなければなりません。

しかし、「悪」が現にここにあるのを見ないでもよいのでしょうか。 

「悪」をそのまま放置してそれを改善するための
なんらの手段方法をもめぐらせないでもよいものでしょうかとは、
わたしがしばしば質問を受けることであります。

しかしわれわれは「悪」に執着しないでも
「悪」を改めることは可能であります。 

それが「悪」であるとわれわれが知るのは、
そこに「善」がないということであって、
《悪が積極的にあるということではないのであります》
 ――  これは実に大切な真理であります。

「悪」は無でありますから、「悪」を除かずとも善をつけ加えれば
「悪」はおのづから消尽してしまうのであります。

「善」をつけ加えるにはどうすればよいかといえば、
どこまでも相手を理想化し、さらに理想化して
どこまでも無限に相手を高め上げてゆくことにすればよいのであります。

どこまでも人間を理想化して眺めても、
人間は理想化しすぎるということはありません。 

なぜなら人間の実相は神の子であり無限の善さを備えているかであります。


およそ相手を良くするには自分を良くすることが第一であります。
自分が良くならないのに相手をよくなしうるということは困難であります。

そしておよそ自身を良くするための方法は、
自分の心の中に光明の精神波動を照り輝かすことであります。

自分の心の中に光明の精神波動が波立っているときその人は善き人であり、
自分の心の中に光明の精神波動が波立っていないとき、
暗黒の思念が押しかぶさっているとき、その人は悪しき人なのであります。

人の欠点を見るとき、その欠点に自分の心が捉われ、
それをとやかく言挙(ことあ)げするとき
自分の心の中には暗黒の思念が波打たずにはいられないでしょう。

「暗黒の思念」は決して相手を良化することはできないのです。

(略)

相手を良化しようと思うならば、
まず自分の心の中から「暗黒の思念」を除去(とりさ)らなければならない。

まず自分自身を、「光明思念」でみたさなければならない
―― 換言すれば《相手の悪を見るような心になってはならないのです》。

結局相手の悪を見ないで実相を見る心にならなければならないのであります。

ここにこそ自分自身が光明化し、
さればまた相手が光明化してくる可能性があるのであります。

われらが何人(なんぴと)に対してでも相手の実相を見るようにするとき、
われらは相手と調和するようになってくるのであります。

実相においてはわれらは本来自他一体であるからである。

調和しないで反目し相争うのは実相を見ないからであります。

            <感謝合掌 平成30年2月18日 頓首再拝>

《悪と云うものはない》 - 伝統

2018/02/21 (Wed) 03:31:08


           *「光明法語」(2月21日)より

世の中に絶対悪と云うものはない。

悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。

そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。

しかしそう信じない者が可哀相である。

私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。

            <感謝合掌 平成30年2月21日 頓首再拝>

「悪」を想えば「悪」に力をかすことになる - 伝統

2018/03/06 (Tue) 04:29:23


        *『生活の智慧365章』(P103~104) より

《善人は団結して言動せよ。》

社会的、国家的、人類的な大黄な目的に関する願いは、
個人がひとりひとりでやるよりも大きな団体及び組織の力を
利用してやる方が実現の速度も簡易が大きくなるのである。

今までの善人は、あまり温和(おとな)しすぎて黙って控え目にしていて、
悪人の方が団結して言いたい放題なことを主張したり、
群衆行動の圧力でその要求を貫徹しようとしていた嫌いがある。

そんなことでは社会も国家もよくならないのである。
善人はその目的を一つにして大同団結して建設的に協力するとき
速やかに社会も国家もよくなるのである。

人類光明化運動の団体の中における者は、尚一層調和して、
その主たる目的のために常に建設的は言動をなすべきであって、
苟(いやしく)も、破壊的な、内部紛争をかもすような言動を
なしてはならないのである。

内部に相争うものを包容している団体は、寄生中や癌細胞を
内に宿している人体のようなものであって、早晩、瀕死の状態に陥るか、
大手術をして内部の病原を切除しなければならなくなるのである。


《「悪」を思えば悪が出てくる》

「善き目的」を推進するにあたって、その団体のメンバー相互の争いや、
不調和や、反対論で騒然たる中で功績を挙げて行くことはできないのである。

同じ団体のメンバーでありながら、その団体の中にその同志を嫌悪したり
憎んだり、あしざまに批評する小会をつくって派閥争いをしているような事では、
その団体の善き目的遂行がおくれるばかりである。

内部機構を常に一層よきように改善することは必要であるけれども、
それがその団体の誰かを酷評したり、憎悪したり、排斥したりするような
暗黒な精神に支配されリードされている限り、改善どころか、
それは、却って、「悪」に力をかすことになるのである、

どこまでも「悪」を想えば悪がでて来る
 ―― この真理を知らなければならない。

            <感謝合掌 平成30年3月6日 頓首再拝>

「悪」と見えるものは本来存在しない - 伝統

2018/03/21 (Wed) 03:38:49


          *「幸福を招く365章」(P183~184)より

人に何か、欠点があらわれた場合に、欠点をみるな、「神らしくない所」に
眼をつけるなと云われても、どうも、見えるものは仕方がないのであって、
悪い人は悪いと見えるほかはないと云う人がある。

併し、こんな場合に「悪」の存在を否定しようと思うから難しいのであって、
「悪」はそのままにして置いて、

其の人の中に宿る善なる神性のみをみつめるようにしておれば、
その人の善なる神性はあらわれて、
「悪」はおのずから影のように消えてしまうのである。

すべて「悪」と見えるものは本来存在しないのであって、
それを認めている間だけ現れているのである。

            <感謝合掌 平成30年3月21日 頓首再拝>

「悪」の存在を許してはならない - 伝統

2018/04/13 (Fri) 03:26:40


        *「希望を叶える365章」(P90)より

神のみが実在であり、神のみが実在する力である。
神に反対する力はあり得ないのである。

私たちが「悪」と称するところのものは実在するのではなく
吾々自身の想念が描き出した誤れる象(かたち)が現象化したものである。

「悪」は実在するのではなく、従って吾々自身の信念が与えたところの
存在性をもっているだけで、それ自身の存在性をもっていないのである。


神は善であり、完全であり、調和である。
だから、善以外のもの、完全以外のもの、調和以外のものは
存在しないのである。

それを存在するかの如く信ずる限りにおいて私たちは、
”悪しきもの”に存在性を与え、常に恐怖心におそわれるほかはなく、
自分自身を傷つけるほかはないのである。

年齢の加減だとか、体質だとか、気候が悪いとか、ビタミン剤が足らぬとか、
・・・色々の異なる名称を附して、本来「非存在」である
「悪」の存在を許してはならないのである。

            <感謝合掌 平成30年4月13日 頓首再拝>

「悪」と格闘してはならない - 伝統

2018/05/02 (Wed) 04:11:53


      *「希望を叶える365章」(P169~170)より

時々私たちは、「神の創造(つく)り給えるこの世界には『悪』が存在しないのである」
と云う眞理を忘れてしまって、恰も神の創造り給うた世界に「悪」があるかの如く、
悪と取り組んでガタガタ格闘していることがあるものである。

悪を〝真実存在〟すると信じている限り、悪は〝真実存在〟でないにも拘らず、
その信念に支えられて消えようとはしないのである。
いつまでガタガタやってみても、それは消えはしないのである。


それよりも「悪」を消そうと思ったならば、
神想観して「神の創造り給うたこの世界には『悪』はないのである。
神は愛であるから、唯、善のみを私に与えたまうのである」と、
ただ「善のみ存在する世界」を心の眼でジッと見詰めるようにするがよいのである。

神があらゆる事件の中に、存在したまうて、
一切のものを調和ある状態にあらしめておられることを本当に自覚して、
それを念じつづけるようにするならば屹度、
如何なる事件も結局は円満に調和した状態に解決するものである。

            <感謝合掌 平成30年5月2日 頓首再拝>

実在の世界において「悪」はない - 伝統

2018/05/17 (Thu) 03:48:06


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より

おかげが無いという人々よ。
まずすべての人々と和せよ。

他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。

そして再び罪を犯すことなかれ。

罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。

「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。

現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。

神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと
「そのまま受ける心」が「和」なのである。

いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。

調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。

なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。

            <感謝合掌 平成30年5月17日 頓首再拝>

悪は無いからこそ征服し得る - 伝統

2018/06/02 (Sat) 03:10:08


        *「光明道中記」(6月2日 恐れずに所信を貫く日)より

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  

悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

            <感謝合掌 平成30年6月2日 頓首再拝>

決して心に「悪」を予想することなかれ - 伝統

2018/06/13 (Wed) 04:37:23


         *「光明道中記」(6月13日 絶えず明るく微笑する日)より 

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】

恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。

念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。

体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、
外界境遇貧富等は外的環境である。

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。

「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。

されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。

「悪」は存在しないのである。

ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く視(み)えるに過ぎない。

静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。

            <感謝合掌 平成30年6月13日 頓首再拝>

悪は、単なる幻影でしかない - 伝統

2018/06/28 (Thu) 03:52:09

         *「真理」第9巻生活篇(P369)より 

”実在の延長”としての善と”迷い”の表現としての幻影
 

私たちは、正しい確(かた)い信仰をもって生活せねばなりません。
正しい確(かた)い信仰とは、ただ善のみ実在であって、
悪は存在しないと云う強く動かない信仰です。

これは、創造主(つくりぬし)なる神は唯一(ただひと)つであり、
決して悪はつくらないという神への深い信頼から来る信仰です。

すべての悪は人類の主観がつくった幻影に過ぎないのです。
あなたは「客観的にあらわれている事物を幻影(まぼろし)などとは
思われない」と言われるかも知れません。

併し具体的な形はすべて結果であって原因ではないと云うことです。

心が原因者であって、心が計画するとおり具体はあらわれるのです。
正しい心があらわした具体なら本物ですが、迷っている心があらわした
具体ならば、それは”妄想のあらわすところ”即ち幻影に過ぎないのです。

実在をしっかり見詰めて実在をあらわした具体ならば、
それは実在の延長として本当にあるのです。

実在でない悪を心に描いて現わしたものは単なる幻影でしかないのです。

            <感謝合掌 平成30年6月28日 頓首再拝>

悪は神が作らないから無い、無いものは無い - 伝統

2018/07/10 (Tue) 03:04:09


        *「希望を叶える365章」(P212)より

現象を見るな。

実相を見よ。

神の後嗣者(あとつぎ)なる実相を見よ。

今此処に、あなたの内に、神が、無限力の神がいますのだ。
そのほかに何もない。
神のほかに何もあると思うな。

悪は神が作らないから無いのだ。
無いものは無いのだ。
簡単明瞭だ。

            <感謝合掌 平成30年7月10日 頓首再拝>

「『悪』と格闘してはならない」 - 伝統

2018/07/21 (Sat) 03:42:39


      *『希望を叶える3655章』(P169~170)より

時々私たちは、「神の創造(つく)り給えるこの世界には
『悪』が存在しないのである」と云う眞理を忘れてしまって、
恰も神の創造り給うた世界に「悪」があるかの如く、
悪と取り組んでガタガタ格闘していることがあるものである。

悪を”真実存在”すると信じている限り、悪は”真実存在”でないにも拘らず、
その信念に支えられて消えようとはしないのである。
いつまでガタガタやってみても、それは消えはしないのである。

それよりも「悪」を消そうと思ったならば、
神想観して「神の創造り給うたこの世界には『悪』はないのである。
神は愛であるから、唯、善のみを私に与えたまうのである」と、
ただ「善のみ存在する世界」を心の眼でジッと見詰めるようにするがよいのである。

神があらゆる事件の中に、存在したまうて、
一切のものを調和ある状態にあらしめておられることを本当に自覚して、
それを念じつづけるようにするならば屹度、如何なる事件も
結局は円満に調和した状態に解決するものである。

            <感謝合掌 平成30年7月21日 頓首再拝>

悪しき事はただの妄想  - 伝統

2018/08/07 (Tue) 04:25:31


        *「希望を叶える365章」(P205)より

善き事を思えば善き事があらわれる。
その善きことは実在界の延長である。
それは実在性をもっているのである。

併しながら、悪しき事を想えば”悪しき事”があらわれる ―― 
しかしその”悪しき事”は、”善き事”と同じく実在性を持っているのだろうか。

否、否、否、悪しきことは想念のただの妄想であって、
それは実在界延長でもなければ、
真に存在性をもっているものでもないのである。


催眠術をかけて、蝋燭(ろうそく)をバナナと暗示して被術者に与えると、
被術者は、蝋燭をバナナを食べている幻想の下(もと)に、
それを美味(おい)しそうに食べるのである。

しかし実際には其処にバナナは無いのである。

それと同じく病気を想って病気があらわれ、災害を想って災害があらわれるのは、
其処に実際災害が《あるのではない》に拘(かかわ)わらず
人類の心的経験として、それが立体的に感じられるに過ぎないのである。

            <感謝合掌 平成30年8月7日 頓首再拝>

「悪」を完全に意識の中で否定せよ - 伝統

2018/09/08 (Sat) 03:17:49


      *「希望を叶える365章」(P206~207)より

キリストは病気を心で見なかった。
「汝の病気は重い」と一度も言ったことはなかったのである。

「床を取り上げて歩め」と言ったり、
「汝の信仰 汝を癒やせり」と言ったりして、
病気に対して、客観的に取り組むことをしなかったのである。

「汝、上より力を賜(たまわ)らずば、我(われ)に対して何の権威もなし」
とイエスはピラトに言っているが(「ヨハネ伝第19章11節)

病気や災難や不幸は、神より実在性を与えられたものでないから、
イエスを害しようと思っても、何の権威もないと言っているのである。


諸君はこのイエスのように、如何なる不幸や災害や病気がやって来ても、
「汝らは、神より力を与えられたものでないから何の権威もないぞ」と
断々乎と宣言し得るようにならなければならないのである。

神の造り給うたもの(善事)のみ実在であって、
それ以外のもの(悪しき現象)はただ夢まぼろしの人類意識の
自己催眠現象に過ぎないのである。

            <感謝合掌 平成30年9月8日 頓首再拝>

悪が存在する妄想を消すには - 伝統

2018/09/26 (Wed) 04:40:40


      *「希望を叶える365章」(P209)より

夏の夕顔棚からその果実がぶらさがっているのを、夕方の薄明(うすあかり)で
眺めて、それを何か悪魔か亡霊のように感じて現れる。

それを怨霊のように想っている限りは、心的体験としてそれは怨霊であり、
吾々に恐怖心を与えて精神的に迫害するのである。

併しそれは夕顔の果実を自分が恐怖心で怨霊のように見ていたのであると
気がついたならば、その怨霊の姿を消えて、夕顔棚からぶらさがっている
果実の風流な姿(実相)を見ることができるのである。


恐るべき光景が、病気にせよ、災害にせよ、それがあなたの前にあらわれたならば、
「そんなものは実在しないのだ、善なる神はそのような悪なるものを造らないから、
そんなものは決して実在ではない!!」と断々乎と否定し、

「神の智慧われを導き給うて、その悪なる幻が自然に消える道を示し給う」
と念じて、それから思いついた為すべき事を当たり雨に為すがよいのである。

            <感謝合掌 平成30年9月26日 頓首再拝>

“悪”なる現象は、本来ない。“気”(想念)の持ちようで顕れているだけ。 - 伝統

2018/10/12 (Fri) 03:46:33

         *『人生の秘訣365章』第8篇(P205) より

《“エデンの楽園”追放の意味するもの》

神がその創造したまえる一切のものを善なりと宣言せられた以上、
悪なる病気などは存在しないのは当然のことでなければならない。
だから病気は実在するものではないのである。

何故なら、神と“神による眞創造”とのみが実在であるのだからである。
そして神と“神の眞創造”とはすべて善であるからである。

それなのに何故実在しない病気等の悪が恰も存在するが如く見えるのだろうか。

此処に深遠なる“現象顕現の法則”があるのである。
―― 吾々の生きているこの現象世界は、其処に住む人の心の表現であるのである。

「実在の世界」は此処に今も常に厳然としてあれども、
その人の心が認めなかったら感覚面にはあらわれないのであるし、
“悪”は本来存在しないけれども、その人の“気”(想念)の持ちようで、
“悪”も恰も存在するかのようにあらわれるのである。

聖書に於ける“樹”というのは“想念”を意味する。
日本語に於いても“樹”は“気”に通ずるのである。
“善悪を知る樹”とは“善”のほかに“悪”も存在するいう想念である。

そのような“気”になれば、やはり色々と“悪”なる現象があらわれて来て、
實相世界(エデンの楽園)は今此処に《あれども》見えず、
苦しみの世界に追放された形をとることになり、

折角、“善きもの”の実現を祈りながらも
祈りが成就しない形をとることになるのである。

            <感謝合掌 平成30年10月12日 頓首再拝>

《現象界の暗雲は實相を晦さず》 - 伝統

2018/10/24 (Wed) 02:28:20


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P206~207) より

「諸々の憂怖の充満せる状態」は暗雲が冪々(べきべき)として空を蔽い、
太陽の輝きが全く見えなくなっている世界にたとえることが出来るのである。

暗雲のみ見え、太陽が見えないような時にも、
実際は、太陽には少しも雲が懸っておらず、それは晃々と輝いているのであり、
肉眼が見ている暗雲は単に地球(現象)を覆う雲であって、
太陽には何の関係もないのである。

そして心の迷いの雲は常住のものではなく、
それは一時的に吾々の心をかすめるものであって、
それはやがて雲散霧消して本来の“無”をあらわすにきまっているのである。

しかし吾々が心の中に“気圧の谷”をつくって、
その雲が散り去らないように掴んでいる限りは、長く暗雲は現象界を覆うのである。

“悪”を《あり》と信じて恐怖によって
“気圧の谷”を心の中につくらないようにするには
毎日神想観を実修し、聖典を読誦して、
實相の完全さを心の中に毎日畳(たた)み込むがよい。

            <感謝合掌 平成30年10月24日 頓首再拝>

《“悪”は本来存在しないのだ》 - 伝統

2018/11/09 (Fri) 02:58:26


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P229~230) より

この世界は、《實相に於いて》、善にして全智全能なる無限の神が
創造せられたる世界であるから悪しきもの、醜きもの、冷酷なるもの、
善ならざるもの、美ならざるもの、愛なきもの、乏しきものなど、
一切の不調和なるものは本来存在しないのである。

それは「實相に於いて」そうなのである。

それが現象に於いて、不調和な姿を呈してあらわれて来るのは、
吾ら自身の實相を理解する力、實相を透見又は洞察する力の欠乏から、
そのように不調和な相(すがた)に見るのである。

しかしながら、その不調和な相(すがた)は實在するのではなく、
それは仮相(かりのすがた)に過ぎないのである。

仮相(かりのすがた)というものは
實相ではないから本当の相(すがた)ではないのである。
本当の相(すがた)でないものはウソの相(すがた)である。
ウソの相(すがた)は本当にあるのではない。

それはナイものをアルかの如く嘘つかれているのであるから、
その嘘にだまされて、悪や不完全や不調和を
本当にアルと思って恐怖してはならないのである。

            <感謝合掌 平成30年11月9日 頓首再拝>

「悪は本来無い」 - 伝統

2018/11/25 (Sun) 03:48:09

インターネット道場平成30年8月22日の言葉 より 

「生命の實相」第37巻幸福篇上6月1日

谷口雅春先生

 柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」と
いちいち自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、
悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。

褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。
褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。

それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。

価値とは生命とも同じことである。

https://internetdojo.wordpress.com/2018/08/23/%EF%BC%98%E6%9C%88%EF%BC%92%EF%BC%92%E6%97%A5%E6%B0%B4%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4/


          <感謝合掌 平成30年11月25日 頓首再拝> 

《“悪”の存在を維持する力は自分自身の心の中にある》 - 伝統

2018/12/12 (Wed) 04:46:02


        *『人生の秘訣365章』第11篇(P284~285) より

“悪”は本来存在しないのであるから、どんなに“悪しき事物”が
恰も実際に存在するが如き様相をもって強力にあらわれて来ようとも、
それは“悪”それ自身の姿をもって存在の様相を保っているのではないのである。

それはあなたの心の中に、それを“存在する”と認め、
その“存在”を合理的であるとみとめる信念があって、その信念に支えられて、
その“悪”が恰(あたか)も実在するが如き様相を維持しているのである。

若し、あなたの心の中(なか)に「そんな“悪”が存在する」という信念が
消えてしまったら、その“悪”の存在の様相を支えている力が消滅してしまうから、
その“悪”と見える現象も消滅してしまうのである。

          <感謝合掌 平成30年12月12日 頓首再拝> 

”悪しき存在”は本来ないということ - 伝統

2018/12/28 (Fri) 04:51:23


         *『如意自在の生活365章』(P122~123)より

わたしたちは、常に”言葉の暗示”または”視える形による暗示”によって、
本当には”ない”ものでもあるとして錯覚し、
それを”実在”として感覚し知覚するのであります。

深い催眠状態に入っている人に、ローソクを与えて
「これは美味しいバナナであるから食べなさい」と言葉で暗示をすると、
その被催眠者は、そのローソクを美味しそうにバナナとして食べるのであります。

彼の意識にとっては、そこにはすでにローソクは存在しないのであって、
バナナのみが存在するのであります。

しかし、本当はバナナは存在しないのです。


それと同じく病人は、何かの原因(それは学説であることもあるし、
周囲の人たちの常識または言葉であることもあるし、
新聞その他の記事によることもあるし、その他にもいろいろあるが、何らかの原因)

によってそこに「病気が《ある》」と、バナナが《ない》のに《ある》と
感覚している被催眠者のように感じているのであります。

だから周囲の人々の学説や常識その他によって暗示されている限りにおいて、
その人に《とっては》、「病気は《ある》」のであります。

しかし実相においては「病気は《ない》」のであります。

だから浄心行によって迷いを除去すると健康が回復するのです。

          <感謝合掌 平成30年12月28日 頓首再拝> 

《悪人は本当は存在しない》 - 伝統

2019/01/15 (Tue) 03:53:44


       *『人生の秘訣365章』第12篇(P293) より

悪人は《無い》のである。
罪を犯した罪人(つみびと)もないのである。

罪そのものを神は造らないのであるから
罪はないのであるから罪の犯しようもない譯である。

だから人が罪を犯したことをみとめ、
自分が寛大にも彼を赦してやったなどと
傲慢なことを考えてはならないのである。

このような「悪なる彼」を《みとめ》た上で、彼を赦すのであったら、
決して彼を善導することはできないのである。

何故なら、現象界には、「みとめたもの」があらわれる
という法則が支配しているからである。

          <感謝合掌 平成31年1月15日 頓首再拝> 

「悪はあるように見えても本来ない」 - 伝統

2019/01/20 (Sun) 04:00:46


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月20日)より

悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁みこんでしまうまでは人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。

本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない 」と悟った人ばかりである。

言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。

毎朝起きた時および、何事か起こったときには必ず
「悪はあるように見えても本来ない 」と10遍ずつ唱えるがよい。

これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。

            <感謝合掌 平成31年1月20日 頓首再拝>

《“悪”は存在しないのである》 - 伝統

2019/02/05 (Tue) 04:33:35


      *『人生の秘訣365章』第12篇(P294~295) より

“存在の本源”(神)から顕れて来るものはすべて“善”であるならば、
“悪”は何処から来るのであろうか。

“悪”を神はつくらないのであるから“悪”は本来無いのである。
“無いもの”は何処からも来ることはないのである。

しかし“悪”は在るかのように見える。
それは恰度、夕方になると“闇”が
どこからともなく訪れて来るように見えるのとよく似ている。
しかし“闇”はどこからも訪れて来ることはないのである。

光が欠乏して来ると、その欠乏の状態が”闇”と見えるだけの事である。

それと同じく、“悪”というものはどこにも実在するのではなく
“善”がそこに素直にスラスラと姿を顕さず、善が歪められたり、
中断されたり、欠乏したりする状態に過ぎないのである。

善のあらわれを歪めないように、善のあらわれを抑制しないようにすれば、
顕れるものはすべて“善”のみとなるのである。

            <感謝合掌 平成31年2月5日 頓首再拝>

《悪と云うものはない》 - 伝統

2019/02/21 (Thu) 04:46:10


           *「光明法語」(2月21日)より

世の中に絶対悪と云うものはない。

悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。

そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。

しかしそう信じない者が可哀相である。

私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。

            <感謝合掌 平成31年2月21日 頓首再拝>

《悪しき存在はすべて迷いの影である》 - 伝統

2019/03/12 (Tue) 02:38:21


          *『 生長の家 』( 昭和40年3月16日の法語)より

   何故、他の人の悪を見て、それを咎めようとするのであるか。
   それは、あなたが生長の家で説いている真理を、
   その時ド忘れしているからである。

   此の世界は、善なる神の創造せる世界であり、
   神のみが唯(ただ)一(ひと)つの存在の根源であり、
   人間は、善なる “ 神の子 ” であるから、
   悪なる存在もなければ、悪なる人間もないのである。

   私たちは 「 悪なる存在 」 と戦う必要もなければ、
   「 悪なる人間 」 を咎める必要もないのである。

   「 悪 」 に見えるもの、又は人が、あらわれて見えるならば、
   神想観によって、その 「 悪しき存在 」 又は 「 悪しき人 」 は
   五官意識の迷いの産物であるとしてそれを否定し、
   善なる実相のみ実在であることを強く強く観ずるがよい。

   しかして神想観 終って、
   自然に内より催す如く “ 行動する ” がよいのである。

   これが

   「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」

   である。

   行動は結果として生ずる 「 その余のもの 」 である。

   そしてその行動は、その時、処、相手に従って千差万別であって
   第三者から見て批判すべきものではないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成31年3月12日 頓首再拝>

《自他の悪を思わず常に光明に転向せよ》 - 伝統

2019/03/27 (Wed) 03:11:16


      *「生命の實相」第28巻久遠仏性篇(P23~28)より

    《われらは自他の悪を云為する時間あらば、神を想い、
     自己の新生と生長とに利用せんことを期す。》


病気でも幸福だという人があるかもしれませんが、
それはその人個中の消息であって、
本当にその人の働きで人生を積極的に幸福にしているとは申せません。

病人自身は病気を楽しみ、病気の人生における意義を考え、苦痛の喜びを魂で歌って
いることがあるうるにしましても、またそういう人がありえたということが、病める
多くの隣人の「慰め」にはなるにしましても、それは、ただ消極的に病人の「慰め」
になるのであって、積極的現実的に病人を病患より救うことはできません。

病苦を耐え忍びうる知恵を授けるのも必要ではありますが、それは消極的です。
病苦を気の毒だと思うならば、病苦を耐え忍ぶ方法よりも、病苦の消える方法を
教える方がいっそう病人に対して深切でありましょう。

さらに病苦の消える方法を教えるよりも、積極的に健康となる方法を教えることが
できれば、それに越したことはないでしょう。


前項でも申しましたとおり、「肉体は心の影」でもあります。
われらの心の念(おも)いは肉体中のすべての器官すべての細胞にその形を印して、
その念(おも)いのとおりに肉体を変形してしまうのであります。

最近の例をとり挙げますならば、金沢市の生長の家誌友会の北島是隆氏は、
同氏にわたしが穏田の自宅で会った時には七分どおり白い頭髪をしていられましたが、
翌年6月わたしが赤坂の生長の家本部講堂で会いました時には
まるで白髪染で染めたような真黒な頭髪をしていられました。

そして言われるには

「これは決して白髪染で染めたのではありません。第2回講習会に列して先生の
御講義を聴きながら、先生の頭髪に1本も白髪がなくて黒々しているのを見て、
わたしも先生と同じく神の子であるから、ああいうふうに艶々した黒い髪の毛が
生えているのが実相である、こんな白髪は《ある》ように見えても仮相(うそ)
であると心に強く思いました。そうしたら不思議なことに、しばらくのうちに
こんなに黒々とした髪の毛になりました」

と言われました。

北島さんは今までは年が寄ったら頭髪は白くなるのがあたりまえだと思って
いられたのですが、今度は人間の頭髪は黒いのがあたりまえだと悟ったために、
その「心の影」として頭髪が黒くなってしまったのです。


これが「悟り」の肉体に及ばず影響であります。


ちょっとそう思ったくらいでは白髪は黒髪にならないかもしれない。
それはわたしの講習を受けられている間にわたしの言葉の力が北島さんの老衰した
心的内容を血気旺な心的内容に変えてしまったのであります。


また横浜市神奈川区子安一四一二番の家名田二郎(やなだじろう)さんは
『生命の實相』の「蓄膿症は素直でない心から起こる」という項(ところ)を
読んで、今まで親に反抗心を持っていたので悪かった、と気がついたときに、
数年来詰まっていた蓄膿症の鼻が一方だけスッと故障がなくなって
空気が完全に流通するようになった。

それからわたしにお礼が言いたくなって本部講堂へやって来られてわたしの顔を
見ると同時に、もう一方の詰まっていた鼻がスーッと通って両方とも完全に
治ってしまったといって昭和11年7月15日にわたしの聖典講義のあとで
突然お礼を申されたのであります。

これは何もわたしの顔が蓄膿症の薬になったわけではない、わたしの本を読んだり
講義を聴いたりしているうちに本人の心が素直に上から下へ、上の者の命令が
素直にスーッと下の方へ通るようになったのであります。

こういうように肉体は心の影でありまして、
深く心に印象した念(おもい)のとおりに肉体が変化するのであります。

「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」と申しますが、なおいっそうそれよりも
真実なのは「健全なる肉体は健全なる精神の反映である」ということであります。

概して健全なる肉体を反映するところの健全なる精神は、

(1)自覚の心

  ①平和の心
  ②明るい心
  ③悦びの心

  ④深切の心
  ⑤有難い心
  ⑥無我の心

  ⑦自在の心

   でありまして、その反対の

(2)迷いの心

  ①不安、焦燥、恐怖の心
  ②暗い心、陰欝な心
  ③不平、不満足の心
 
  ④冷淡な心
  ⑤忘恩的な心
  ⑥利己的な心、嫉妬、猜疑、羨望

  ⑦一事物に引っかかる心

   などは病気を起こす心であり、
   その症状も心の状態相応の形をもって現われるのであります。

   細かく分類すれば、病気の数だけ「迷いの心」もあるわけですが、
   それを一つに纏めると、「迷いの心」とは「我執の心」であります。

   我執があるから、一事物に引っかかり、不安、焦燥、恐怖、憂鬱、不平、
   不満足、冷淡、忘恩、嫉妬、猜疑、羨望などが起こってくるのであります。


我執がなくなりまして、「天地と共に過ぎ往かん」というような広々した心に
なりますと、人間として何も考えないから、事業などのことも出放題、
まかせ放題になってしまって、何もしなくなるかと申しますと、
そうではありません。

そういう状態になるのを「空執」と申しまして、まだ「我執」があるために、
その「我」が「何もしないでもよい」ということに引っかかるのであります。

この「何もしないでもよい」ということに引っかかる「我」さえも無くして
しまったときに天地の生命と共に自由自在に活動するところの本当の我(大我)
を見出すのであります。

 
そういう「空執」にも陥らない自由自在融通無碍の境地に達したならば、
すべての迷いの心は消えてしまうのですけれども、それまでは、前記の7種の
「迷いの心」をなるべく起こさないように努め、7種の「自覚(さとり)の心」
を保つようにしなければならないのであります。

            <感謝合掌 平成31年3月27日 頓首再拝>

神から悪しきものが来る、という考えを捨てよ。 - 伝統

2019/04/02 (Tue) 04:23:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より

偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が
どこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。

神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。

神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。

それらは神から来るのではない。

審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)

われわれは神の子であるから、
われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

            <感謝合掌 平成31年4月2日 頓首再拝>

《一切の悪や不調和は非実在である》 - 伝統

2019/04/20 (Sat) 00:54:40


       *『 生長の家 』(昭和46年3月24日の法語)より

   根本的に知らなければならない事は、
   唯一の実在は“ 神 ”そのもの及び、“ 神 ”の延長として、
   又は“ 神 ”の展開としての実相世界のみであるということである。

   神は唯一の実在であり、そのほかに実在するものは存在しないのであるから、
   神は普遍的存在であり、無限であり、一切の存在は神の無限内容の展開である
   ということである。

   そして神は愛であり、無限智であり、無限生命であり、善であるから、
   神の無限内容が展開して万象となるとき、それは善なるものとなり、
   愛の道にかない、智慧によって全てが適当に排列されて計画されているから、
   不調和や不完全はあり得ないのである。

   従って一切の不幸や災害や病気や諸々の悪現象は
   “ 実相に於て ”存在しないのである。

   この実相を知ることを ー “ 真理を悟る ”と言うのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12708750.html

            <感謝合掌 平成31年4月20日 頓首再拝>

害心を持つものは本来無い - 伝統

2019/05/22 (Wed) 04:38:30


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より

すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。

一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。

もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。

           <感謝合掌 令和元年5月22日 頓首再拝>

悪は無いからこそ征服し得る - 伝統

2019/06/02 (Sun) 04:02:15


         *「光明道中記」(6月2日《恐れずに所信を貫く日》)より

【闇に対しては光をもって相対せよ。
 非実在を滅するものは実在のほかに在(あ)らざるなり。(『甘露の法雨』)】  

悪は無いと云うことと、悪を征服することとの問題が時々混同せられる。
彼らは悪が有(あ)るからこそ征服しなければならぬのではないかと言う。

併し私に言わせれば、悪は無いからこそ征服し得るのである。
暗は無いからこそ光によって征服し得るかのようにである。

光が如何にして暗を征服するかの過程をよく眺(なが)める時、
吾等は教えられるところが非常に沢山あることを発見する。

光は暗をみとめてその進軍を遠慮すると云うことはない。
光は驀(まっしぐ)らに暗に向かって進むのである。
光が暗に向かって進軍するとき暗は消える。

進軍は行(ぎょう)である。

「本来『悪』無し」とは、悪に対して卑怯にも眼を閉じて、
「悪」を見ることを避け、それに触れることを避けて、
「触らぬ神に祟りなし」式に行動することではない。

「悪」をその眼の中に直視するのである。
偽存在(にせもの)はその眼をじっと視詰(みつ)められると、裁判官の前に
引き出された罪人のように眼を外(そ)らして、其処にいたたまらなくなるであろう。

光に視詰められるとき暗は消えるのであって、
暗を消す方法は、暗なんてどうせ無いのだからとて
灯(あかり)を点(とも)さないことではない。

           <感謝合掌 令和元年6月2日 頓首再拝>

「悪」は存在しないのである、「悪」を予想することなかれ。 - 伝統

2019/06/13 (Thu) 04:31:19


       *「光明道中記」(6月13日《絶えず明るく微笑する日》)より 

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】

恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。

念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。

体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、外界境遇貧富等は外的環境である。

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。

「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。

されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。

「悪」は存在しないのである。

ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く視(み)えるに過ぎない。

静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。

           <感謝合掌 令和元年6月13日 頓首再拝>

すべての悪は人類の主観がつくった幻影に過ぎない - 伝統

2019/06/14 (Fri) 04:59:42


         *「真理」第9巻生活篇(P369)より  

《”実在の延長”としての善と”迷い”の表現としての幻影》

私たちは、正しい確(かた)い信仰をもって生活せねばなりません。
正しい確(かた)い信仰とは、ただ善のみ実在であって、
悪は存在しないと云う強く動かない信仰です。

これは、創造主(つくりぬし)なる神は唯一(ただひと)つであり、
決して悪はつくらないという神への深い信頼から来る信仰です。

すべての悪は人類の主観がつくった幻影に過ぎないのです。
あなたは「客観的にあらわれている事物を幻影(まぼろし)などとは
思われない」と言われるかも知れません。

併し具体的な形はすべて結果であって原因ではないと云うことです。

心が原因者であって、心が計画するとおり具体はあらわれるのです。
正しい心があらわした具体なら本物ですが、迷っている心があらわした
具体ならば、それは”妄想のあらわすところ”即ち幻影に過ぎないのです。

実在をしっかり見詰めて実在をあらわした具体ならば、
それは実在の延長として本当にあるのです。

実在でない悪を心に描いて現わしたものは単なる幻影でしかないのです。

           <感謝合掌 令和元年6月14日 頓首再拝>

神の創造には、一物も「悪い物」はない - 伝統

2019/07/25 (Thu) 04:38:04


         *「光明法語」(7月25日《適時、適所、適人》)より 

生長の家は毒物を食しながら、心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と
思念しながら食べたら、毒が変じて栄養となると云うのではない。

心が完全に働けば、本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。
そして食物の分量や質の配置なども適当となり、すべてが《ある》べきところに
《ある》ように適当におかれると云うのである。

神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。

           <感謝合掌 令和元年7月25日 頓首再拝>

絶対力の前に、悪は消え去る - 伝統

2019/08/13 (Tue) 04:50:14


   *「光明道中記」(8月13日《弥陀の本願ありがたき日》)より

【光明念波は「類に非ざる念波」を反撥して災害から逃れる。
                   (『生命の実相』第十三巻)】

   しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、
   念仏にまさるべき善なきゆへに。
   悪をもおそるべからず、
   弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。


そうだ、「弥陀」は「去って去る所なく、来って来るところなく、生なく滅なく、
過、現、未来に非ず」して空間時間生滅(しょうめつ)を超越せる
絶対存在であり給うが故に、その救いは絶対力にて行われるのである。

弥陀の救いの本願は、大実在の御意志であるが故に、
弥陀の本願をさまたぐるほどの悪は存在し得ないのである。
弥陀の本願力の前には「肉体」の滅不滅は何らの障礙にはなり得ない。

そこに生長の家の説く阿弥陀仏に至心廻向すれば
「肉体そのまますくわれている、此処がこのまま極楽浄土になる」
と云う真理が裏付けられるのである。

宇宙大実在の我を救いたまわんとの本願の絶対力の前には
何物も礙(さ)えぎることが出来ないと云うのは真理である。

そこに『歎異鈔』の
「他の善も要にもあらず」「悪をもおそるべからず」の根拠がある。

本願の絶対力に触れるとき、無限燭光の光に触れて暗黒が消え去るように、
「他力の善」がおのずから自然に行われて悪が自然に消え去る意味である。

       <感謝合掌 令和元年8月13日 頓首再拝>

”悪しき存在”は本来ないということ - 伝統

2019/10/18 (Fri) 02:47:13


         *『如意自在の生活365章』(P122~123)より

わたしたちは、常に”言葉の暗示”または”視える形による暗示”によって、
本当には”ない”ものでもあるとして錯覚し、
それを”実在”として感覚し知覚するのであります。

深い催眠状態に入っている人に、ローソクを与えて
「これは美味しいバナナであるから食べなさい」と言葉で暗示をすると、
その被催眠者は、そのローソクを美味しそうにバナナとして食べるのであります。

彼の意識にとっては、そこにはすでにローソクは存在しないのであって、
バナナのみが存在するのであります。

しかし、本当はバナナは存在しないのです。


それと同じく病人は、何かの原因(それは学説であることもあるし、
周囲の人たちの常識または言葉であることもあるし、新聞その他の記事に
よることもあるし、その他にもいろいろあるが、何らかの原因)

によってそこに「病気が《ある》」と、
バナナが《ない》のに《ある》と感覚している
被催眠者のように感じているのであります。

だから周囲の人々の学説や常識その他によって暗示されている限りにおいて、
その人に《とっては》、「病気は《ある》」のであります。

しかし実相においては「病気は《ない》」のであります。

だから浄心行によって迷いを除去すると健康が回復するのです。

       <感謝合掌 令和元年10月18日 頓首再拝>

《悪に抗すること勿れ》 - 伝統

2019/11/14 (Thu) 04:56:02


        *『真理』第九巻生活篇(P266)より

心のなかに何か不安な不健全な暗黒な想念感情が起って来た場合、
その不安な不健全な暗黒な想念感情を追い払おうと思って戦っても、
それを容易に追い払うことが出来ないで、
執拗に蜘蛛の網のようにそれがまつわり附いてくる時には、どうすべきか。

その不健全な想念感情と戦うことをやめよ。
「悪に抗すること勿れ」(キリストの山上の垂訓の中の語)
と云う箴言はこの時にも真実なのです。

私たちは、病気であろうと、人間であろうと、事件であろうと、
悪の存在をみとめてそれと戦う必要はないのです。

それよりも必要なのは、よき想念、明るき想念、悦びの感情、積極的な精神
と云うような健全なものを心の中に満たすようにすればよいのです。

その根本は「神の護り」の想念をもって自分の心を満たせば、
その反対のものは逃げ去ってしまうのです。

       <感謝合掌 令和元年11月14日 頓首再拝>

《悪と戦わず心を神に向けること》 - 伝統

2019/12/03 (Tue) 04:51:46


          *「真理」第9巻生活篇(P267)より

色々の悩みを心で捉えて心の中から駆逐する努力は、
「悪」を存在するとみとめて、それを逐(お)い出そうとするのですから、
「みとめるものは存在に入る」と云う法則によって、
その悩みを駆逐することは出来ないのです。

「吾れ悩みと共にあり」と云う想念より一転して、
「吾れ神と偕にあり」と云う想念に振り向けばよいのです。

暗黒と戦うのではなく、光明の方へ振り向くだけでよいのです。
戦うのは苦しい努力であるが、振り向くのは唯(ただ)心の向きを
かえるだけの容易(たやす)い事です。

吾々の「罪」と云うのは、肉体だけの力で物事をしようとして、
神の力を「包み」てしまったところにあるのです。

心が神へ振り向くと云うのは遠方にある神に振り向くことではないのです。
自分の内に宿る「神の力」をみとめると云うことなのです。

それを認めないで「包み」ておくのが罪なのです。
「包み」と「罪」とは語源がおなじです。

       <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>

無い「悪」を造構する思い - 伝統

2020/01/03 (Fri) 04:45:56


   *「光明法語」(1月3日《「知恵の樹の実」を食べると云うこと》)より

かくて人間は神の映像であるから、神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在すると考え出したのである。

これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。

この「悪」も存在すると云う考えが具象化して「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。

かくて人間は自からの心が描いた映像をみて怯え、悲しみ、心配をし、
みずから不快になり、痛み、悲しむことになったのである。

思いを変えよ。

       <感謝合掌 令和2年1月3日 頓首再拝>

《在(あ)るものはただ神のみと思念せよ》 - 伝統

2020/01/23 (Thu) 04:33:35


           *「光明法語」(1月23日)より抜粋

人もし悪しきことばを語るともその人を非難するな。

人の悪しきことばは吾が心の中にある隠れたる所の想念の影であると思いて
自ら明るくなるように反省せよ。

神のみが實在であるから悪しきものは存在しないものだと否定せよ。

       <感謝合掌 令和2年1月23日 頓首再拝>

仮相(かりのすがた)には実相をもって相対せよ - 伝統

2020/02/06 (Thu) 04:32:52


       *『如意自在の生活365章』(P250)より

“悪”は本来“非存在”なのであるから、悪があらわれたとき、
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする必要はないのである。

心を鎮めて、静かに「そのような状態は存在しない」ことを念じ、
その見せかけの“悪”の奥に、慈悲の神、愛の神がましますことを瞑想し、
悪なる“見せかけ”が消えつつあり、すでに“善なる実相”が
あらわれて来つつあることを繰り返し念ずるがよい。

そのようにして心が落ちついた後に、
自分の心に「その問題をいかに処理するがよいか」について
思い浮かんできた通りに処理すればよいのである。

現象界の“悪と見える問題”を「なし」と考えるだけで、
それを手を拱(こまね)いて傍観し、「処理する必要はない」
というのではないのである。

その処理する場合に、まず心を平和にして
「実相のあらわれる智慧」を呼び出してきて処理すれば、
現象に対して現象智を出して処理するよりも、
現象に対して実相智を出して処理する方がすみやかに現象が好転するからである。

聖経には「仮相(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ」
と示されているのである。

       <感謝合掌 令和2年2月6日 頓首再拝>

《悪と云うものはない》 - 伝統

2020/02/21 (Fri) 04:52:27


           *「光明法語」(2月21日)より

世の中に絶対悪と云うものはない。

悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。

そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。

しかしそう信じない者が可哀相である。

私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。

         <感謝合掌 令和2年2月21日 頓首再拝>

”悪しき存在”は本来ないということ - 伝統

2020/04/28 (Tue) 04:57:15


         *『如意自在の生活365章』(P122~123)より

わたしたちは、常に”言葉の暗示”または”視える形による暗示”によって、
本当には”ない”ものでもあるとして錯覚し、
それを”実在”として感覚し知覚するのであります。

深い催眠状態に入っている人に、ローソクを与えて
「これは美味しいバナナであるから食べなさい」と言葉で暗示をすると、
その被催眠者は、そのローソクを美味しそうにバナナとして食べるのであります。

彼の意識にとっては、そこにはすでにローソクは存在しないのであって、
バナナのみが存在するのであります。

しかし、本当はバナナは存在しないのです。


それと同じく病人は、何かの原因(それは学説であることもあるし、
周囲の人たちの常識または言葉であることもあるし、
新聞その他の記事によることもあるし、その他にもいろいろあるが、何らかの原因)

によってそこに「病気が《ある》」と、バナナが《ない》のに《ある》と
感覚している被催眠者のように感じているのであります。

だから周囲の人々の学説や常識その他によって暗示されている限りにおいて、
その人に《とっては》、「病気は《ある》」のであります。

しかし実相においては「病気は《ない》」のであります。

だから浄心行によって迷いを除去すると健康が回復するのです。

         <感謝合掌 令和2年4月28日 頓首再拝>

「悪」は妄念の影 - 伝統

2020/05/11 (Mon) 04:47:29


          *「真理」第9巻生活篇第5章(P128~129)より
            ~《真に勇気を要するとき》

あなたが失望したり落胆したりする時こそ、
本当は失望の代わりに希望を、落胆のかわりに勇気を、
必要とするのであります。

そんなときには、多分あなたは現象の遷(うつ)り易(かわ)りにとらわれて
正念(しょうねん)を失っているのでありますから、
先ず正念を取り戻すことが必要なのであります。

即ち先ず心を現象世界以前の世界 ―― 実相の方へ振り向けるべきであります。

そして神は全ての全てであること、神は善であること、
されば神の創造せる世界には悪が存在しないことを
ジッと心に繰り返し念じて正念を取りもどすのであります。

そして現在現れて見えている悪や不幸は、
妄想(間違いの念、落ち着きを失った心)の影に過ぎないことを知って
妄念を去るのです。

そしてすべての事物は悪の如くに見えても「悪」は存在しないのである
と云うことを心に深く知るのです。

「悪」は妄念の影ですから、妄想を去った後(のち)それは消えるのは当然です。

         <感謝合掌 令和2年5月11日 頓首再拝>

実在の世界において「悪い」ものはない - 伝統

2020/05/17 (Sun) 02:43:14


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月17日)」より

おかげが無いという人々よ。まずすべての人々と和せよ。
他(ひと)をも赦し、自分をも赦せ。そして再び罪を犯すことなかれ。
罪を罪と知ったとき、もうなんじの罪は消えたのである。

「和」の足らぬ心を「おかげの無い心」という。
その不平の心がまたしても「和」のない心である。
「和」とは実相の完全さを「“そのまま”受け取る心」である。

現象を見てグズグズいう心は「和」ではない。
神の創造(つく)り給える世界に「悪」はないと「そのまま受ける心」が「和」なのである。
いっさいの事物は“そのまま”で調和しているのである。

調和していないがごとく見えるのは仮現にすぎない。
なんにも実在の世界において「悪い」ものはない。

           <感謝合掌 令和2年5月17日 頓首再拝>

悪はひとつもない、それは状態に過ぎない - 伝統

2020/06/01 (Mon) 04:34:54


         *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より抜粋

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」といちいち
自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、
悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

           <感謝合掌 令和2年6月1日 頓首再拝>

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