伝統板・第二 2473230

本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。


神と人 ②

1:伝統 :

2018/01/01 (Mon) 04:36:02

     *伝統板・第二「神と人」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6979874


《人生は何のためにあるか》

         *「光明法語」(1月1日)より

人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。
何のために人生はあるのだろうか。
人間は何のために生まれたのだろうか。

これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。

人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、
神自身の生命を此の世に具体化したのである。

凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。
知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。

しかし自己が自己を知ると云うことは、
眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。
 
         <感謝合掌 平成30年1月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2018/01/02 (Tue) 04:35:20


         *「光明法語」(1月2日)より

自己が自己を知り、自己が自己を観るにはそれを客観化しなければならない。

換言すれば唯一の存在としての自己が、
「観るもの」と「観られるもの」との相対に分化しなければならないのである。
「働くもの」と「働きかけられるもの」と相対に分化しなければならないのである。

眼が眼を見るには、眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に「自己の影」を
見なければならないようにである。

神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、
神が自己自身の姿を楽しむため、自己の外に自己の影を創造したのである。

         <感謝合掌 平成30年1月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2018/01/05 (Fri) 04:44:48


           *「光明道中記」(1月5日万物皆霊を知る日)より

【エーテルとは「無」を「有(う)」として仮に名づけた別名である。
                      (「生命の實相」第十一巻)】

人は無限の力を有する。
有すれども自覚せざれば使うことが出来ないのである。
自覚によって展開するのが人間の無限力なのである。

それを展開して引き出すのが教育である。

凡(およ)そ力と云うものは「霊」より来る。
「物」には力と云うものはあり得ないのである。

エーテルの大海中に、換言すれば「無」の深海中に、ただの「無」ではなくして、
そこに動き始むる力があった。それが神の霊である。

「神の霊水の面(おもて)を蔽(おお)いたりき。
神光あれと言い給いければ光ありき」である。

エーテルの大海中に「霊の振動」が起る ―― 即ちコトバ起れば、
宇宙電気となり、大火焔の渦巻(うずまき)を生じ、星雲を生じ、万物を生じ、
万物を支配する者としての理念が形に顕現して人間と成る。

エーテルの大海に、真空の海原に、「無」の深海に大動乱を起して、
万物を生じたものは霊である。霊のほかに力はない。
凡そ力と云うものは霊より来る。

物質のエネルギーと云うものは要するに、
霊の力の第二次第三次の反影(リフレクション)である。

吾々は物質の力を使わないのではない。
物質と見えるものも霊の力であるが、より多く本源に汲む者は勝利する。

            <感謝合掌 平成30年1月5日 頓首再拝>
4:伝統 :

2018/01/12 (Fri) 04:04:43


         *「光明法語」(1月12日)より

神は親であり、自分は神の子であると信ぜよ。
神の智慧と計画とが自分と云うパイプを通して流れ入り、
流れ出でて実現するものであると信ぜよ。

神は悦びであり、豊かな生活であり、ケチなものではなく、
無限の調和であり、完全なる平和であり、無限の力であり、
それが自分に流入するのであり、

自分の自覚のパイプを大きくすればどれだけでも、
自分の悦びは大きくなり、豊かになり、
調和と平和とがその生活に得られるものであることを信ぜよ。

            <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>
5:伝統 :

2018/01/28 (Sun) 04:20:26


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P279)より

人間は神の最高の自己実現であり、神の愛し児であり、
神の全内容を完全に具象化したものなのである。

若し人間が地上に生れなかったならば、
神はその創造のみ業(わざ)を、ただ大自然力にまかせるだけで、
それを完成することができなかったに相違ないのである。

だから人間が地上に出現したと云うことは、
神の希望の実現であり、目的の達成であり、神御自身の自己完成であるのである。
だからあなたは神にとってまことに尊き存在なのである。


若し人間が地上に生れなかったならば、
神は自己完成を遂げることが出来なかったのである。
神は人間を通してのみその理想を地上に投影することができるのである。

だからあなたが若し、心を澄まして、神の“声なき声”を聴くべくつとめるならば
神は、あなたが如何に行動するが最もよく、
神の理想を地上に実現し得るかを示し給うにちがいないのである。

そしてその啓示に素直に従うとき、あなたに祥福は実現するのである。

            <感謝合掌 平成30年1月28日 頓首再拝>
6:伝統 :

2018/02/14 (Wed) 03:34:12


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P23~24) より
    
神は吾々の親様であり給う。
神は”法則”として宇宙に充ち満ちてい給うけれども、
単に冷たい法則だと考えてはならないのである。

神は単に”法則”とののみ考えることは神を限定することになるのである。
神は”法則”であると同時に”人格”であり給う。

神は人間にとって温かい愛情をもち給う”親様”でもあるのである。
従って”神”と”人間”との間には、
人間同士の親子関係のような愛情があるのである。

人間の”親”がその”子”からして”親”としてみとめられたいと同じように、
神も亦、人間から”親様”としてみとめられたいのであり、
人間が”子”として”親”に仕える如く神に仕えることを欲したまうのである。

神は「我は汝らの唯一の産みの親である。わがほかに本当の産みの親はない」
と仰せられているのである。

そして神を「親」として見るとき「汝らの兄弟のうち最も大なるものは
父母(ちちはは)である」ということになるのである。

そして神は「神の国のすべての富はわが子即ち汝ら人間のものである」
と仰せられるのである。

            <感謝合掌 平成30年2月14日 頓首再拝>
7:伝統 :

2018/03/02 (Fri) 04:45:59


         *『白鳩』(昭和49年1月7日の箴言)より

   あなたは神の最高の自己実現である。

   神は無限のアイディアを自己の内に蔵し給うてそれを、
   絵描きが絵の形をあらわすかの如くそのアイディアを
   具体的に表現し給うのである。

   その表現が天地の万物であるのである。

   それゆえに、天地の万物は、それぞれ内に、
   ある程度の神の生命と智慧とを内蔵しているのであるが、
   人間のみは神の全徳を自己の内に宝蔵しているのである。

   その事を旧約聖書には、
   「神の象(かたち)の如く人をつくり」と表現されているのである。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

            <感謝合掌 平成30年3月2日 頓首再拝>
8:伝統 :

2018/03/17 (Sat) 03:39:34

     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇( P44) より

エマニュエル・スエーデンボルグは斯う言っている ―― 

「唯一の生命(せいめい)の本源があり、人間の生命(せいめい)は
それから派(わか)れ出たところの一つの流れである。
そしてその流れは間断なくその本源から補給せられなかったら、
たちまち其の流れは止まってしまうのである。」

また曰く

「内部理性の光に照らしているものを考える人々は、
すべての事物は第一原因者と或る媒介を通して連絡しており、
この連絡が断たれたならば存在を止めてしまわなければならないのである。」

スエーデンボルグの謂うところの「唯一の生命(せいめい)の本源」
又は「第一原因者」というのが即ち神であるのである。

            <感謝合掌 平成30年3月17日 頓首再拝>
9:伝統 :

2018/04/06 (Fri) 03:47:40


        *『 生長の家 』(昭和25年1月8日の法語)より 

   子供の安全は、このような親の注意深き導きによって保たれる。

   子供の欲するままに すべてを与えていたならば、
   きっと子供は大人になるまでに
   生きのびることが できないに違いないのである。


   同じく神も人間の求めるすべてのものを
   そのままに与えていたならば、
   人間が神の子として完全に成長する妨げになるのである。

   大人になっても人間は神の眼(め)からみたら 尚 子供である。
   その欲望の中には、まちがったものが色々まじっているのである。

   人間は まだまだ一そう 神の み心を深く理解する必要があるのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2bbe4ec1311c7fb7a27c4c727c90d10e

            <感謝合掌 平成30年4月6日 頓首再拝>
10:伝統 :

2018/04/21 (Sat) 03:31:35


        *『生命の實相』第6巻聖霊篇(P16~17)より

すべて神とわれわれとの間を疎隔する観念 ―― 神とわれわれ人間との間に
《水をさす》考えは、神とわれわれとの間を隔て引き離す考えでありまして、
神を愛しようにも、神を愛することをできにくくする考えであります。

何々を通さなければ神の子にしてもらえないとか、
何々の修行をしなければ神の子になれないとか、
人間は本来神の子でないかと、人間は罪人であるとかいう考えがそれであります。

宗教家の中にはこういう考えを言いふらして人間の恐怖心をそそり、
自分の宗教を押し弘めようとしている人がありますが、大変なまちがいです。

こういう考えがちょっとでもありますと、
人間は神との一体感を失い本当に神を愛することができなくなり、
キリストの第一最大の誡命(いましめ)は失われ、

神を愛深きわが父としてではなく、こわい隣の小父さんとして
敬遠されてしまうことになるのであります。

 
だから、人間が神を本当に愛しようとするには、
自分は神の子であるということをハッキリ知らなければならないのであります。

自分は神の子だと知ったら人間は慢心してかえって悪くなるだろうか
というような取り越し苦労は不要であります。 

われわれが罪を犯すのは、
自分が「神の子」だということを本当に知らないからなのです。

自分を泥棒の子だと思っている者は、
親も泥棒だから自分も泥棒をするのが当り前だと思っているから泥棒をするのです。 

われわれは罪人だと知ったら行ないが改まるだろうと思うと大変なまちがいです。 
本来罪人でない者だとの自覚があるので、罪に対する悔恨の念が起こるのです。

人間という者を本当に「神の子」だと自覚しないで、
「誰でも人間はこれくらいのことはする者だ」というような、
みずからを卑しめる観念をもっているから、悪を平気で行なうようになるのです。 

みずからを卑しめる観念は罪の本(もと)です。 
それは実相を隠してしまうからです。 

自分は生まれつきルンペンだと思ったら、なかなか立派な行ないはできないのです。 
自分は生まれつき尊き位に坐すものだとの自覚があれば、
挙措(きょそ)進退ことごとく自然に威容備わり
おのずから完全な行ないができるようになるのです。

            <感謝合掌 平成30年4月21日 頓首再拝>
11:伝統 :

2018/05/17 (Thu) 03:54:05


         *『人生の秘訣365章』第4篇(P92~93) より

神は一切の本源であり給い、神は善であり、愛であり、智慧であり、
調和であり、悦びであり、美であり、無限の豊かさである。

あなたは“神の子”であり、
以上の如き神の凡ゆる“善美(ぜんび)”の継承者として、
既にその所有権を有しているのである。

しかし所有権を有しているという事と、実際にその所有権を行使して
それを現実に受け継ぐ事とは別のことである。

富豪の家に生れた一人息子は、
その富豪の財産を全部受け継ぐ権利をもっているけれども、
彼がその権利を忘れてしまい、放蕩息子になったり、
迷い児となって放浪している限りは、
実際には、富豪の財産を少しも受け継ぐことはできないのである。

それと同じく諸君が“神の子”として、
神の“万徳”を現実に受け継ごうと思うならば、
放蕩息子になったり、家出息子になったり、迷い児になったりすることなく、
神の嫡出子として、常に“神の子”たることを自覚し、神の子らしく、
愛を行じ、智慧の導きに従い、正しき生活を送らなければならないのである。


神の嫡出子たるあなたは、神の法律(心の法則)によって、
その継承権を実施することができるのである。

それは人間の息子や娘が、親の財産を相続するには、
法律に定められた相続の規定によって行われるのと同じことである。

            <感謝合掌 平成30年5月17日 頓首再拝>
12:伝統 :

2018/06/08 (Fri) 04:41:57


      *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月8日)より

神は人格であると同時に法則である

親がその子に対して、善きものをあたえたくない場合を考えて見れば、
その子が親不孝の場合である。

間断なく親の言い付けに叛(そむ)き、親の意志に反して、
与えたる富はただ他を害する為のみに使う様な場合には
親はその善きものを与える事をさし控えるであろう。

それは神を擬人的に人格的に考えたのであるが、
神は人格であると同時に法則なのである。

その両面を見落としては真に神を理解したことにはならない。

神は超個性的法則であると同時に人間的な人格を備えてい給う。

それ故に神の子なる人間も人格を備えているのである。

        <感謝合掌 平成30年6月8日 頓首再拝>
13:伝統 :

2018/06/24 (Sun) 04:21:04


        *『人生の秘訣365章』第4篇(P99) より

《“神の子”は使命感に起ち上れ》

諸君は諸君がこの地上に生を享けたその使命を
尊きものとして自覚しなければならないのである。

何らの使命も意義も目的もなしに
神が人間の魂を地上に降誕せしめ給うことはないのである。


神が人間を地上に降誕せしめられたのは、
神の国を地上に建設せんがためなのである。
そしてあなたの霊魂はその使命を遂行するのに適当な資格ありとして
地上につかわされた戦士であり、選士であるのである。

それゆえに、あなたがその使命を自覚して、
その使命遂行のために誠を竭(つく)すとき
あなたは生き甲斐を感ずるのであるが、

その使命遂行に起ち上らないとき、
人生はあっても無くてもよいような存在に考えられ、
自分自身の存在すらも無価値に感じられ、
生き甲斐が感じられなくなるのである。


諸君は、地上天国実現の使命感に燃えて今起(た)ち上り、
生き甲斐ある生き方に邁進しなければならない。

        <感謝合掌 平成30年6月24日 頓首再拝>
14:伝統 :

2018/07/08 (Sun) 04:54:28


          *「神真理を告げ給う」(P161~162)
            ~「“神”と“人間・神の子”の意義について」より

「無」よりして一切を生ず」とか「無一物無尽蔵」とかいう語(ことば)がある。
この場合の”無”とか”無一物”とかいうのは、”有無相対の無”ではないのである。
それは”絶対無”とでも言うべき”無”なのである。

その中に一切が含まれている”無”である。
その中に一切が含まれている”無”とは、現象の有無相対を超えた
”絶対者”そのものである。

絶対者は”空間”に規制せられないから絶対者は偏在である。
絶対者なる神は遍在であるから、どこにも在(まし)ましてすべての人間の内(うち)
に”仏性”として、また”内在のキリスト”として宿ってい給うのである。

宿っているよりも、その“仏性”又は“内在のキリスト”こそ本当の自分なのである。
人間は絶対者の”個性的顕現”である、“絶対即個”の実現である。

        <感謝合掌 平成30年7月8日 頓首再拝>
15:伝統 :

2018/07/20 (Fri) 04:01:30


         *『人生の秘訣365章』第6篇(P147~148) より

神は愛である。

しかし人間を通じてのみ神の愛は、
意識的に、そして十全の相(すがた)をもって顕現するのである。
人間がなければ、神の愛は完全に表現されることはできないのである。

それゆえに、神は《あなた》を必要とする。

あなたが若し一人無ければ、あなたという個性ある人格を通じて表現される
神の一つの「表現口」が欠けることになるから、
神は是非ともあなたを必要としたまうのである。

「神にとって必要な自分である」ということは
何という光栄なことであろうか!

それを自覚するとき本当の生き甲斐が生ずるのである。

「此の世に生れて来て、よかった」という自覚が生ずるのである。

        <感謝合掌 平成30年7月20日 頓首再拝>
16:伝統 :

2018/08/05 (Sun) 04:06:54


         *『人生の秘訣365章』第6篇(P148) より

人間が神の自己実現として地上に出現した以上、毎日何か、
神との連関に於いて為すべき仕事がある筈なのである。

神との連関に於いて為される行為のみが
本当に“生き甲斐”のある仕事だということができるのである。

神との連関のある仕事をしようと思ったならば、
先ず一日の始めに、朝の“祈り”又は朝の“神想観”を為すべきである。

私達は何事を為すにも、番頭が店主の意志に従って店を経営するが如く、
社員が社長の方針に従って会社の業務をとるが如く、
人間は神に振向き、神の《みこころ》を奉戴して行為すべきであるのである。

私達が神に振向くとき、神はその仕事を進めるための智慧を与えたまい、
それを成就するための信念と勇気とを与え給うのである。

祈りを毎日つづける時には、信念と勇気とが新たになるのである。

        <感謝合掌 平成30年8月5日 頓首再拝>
17:伝統 :

2018/08/20 (Mon) 04:08:43


           *「光明法語」(8月20日)より

人間が神の自己実現であることは、直覚認識によって知ることが出来るのである。

『法華経』にある
「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。

天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、
われ神の自己実現なりとわかるのである。

これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。

        <感謝合掌 平成30年8月20日 頓首再拝>
18:伝統 :

2018/09/02 (Sun) 02:57:25


        *「光明法語」(9月2日)より

普遍にして無限なる「一」の生命は如何にして
自己内在の智慧と愛と美とを表現するかと云えば、
普遍にして無限に行きわたるのは自己そのままでは表現することは出来ない。

普遍なるもの、無限なるものは見えないからである。

表現は何らかの意味に於いて形象化しなければならない。
形象化するためには無限が有限にならなければならない。

普遍者が個別となり、無限者が有限者となるのは自己限定である。
自己限定を通じて神は自己を表現したのである。

           <感謝合掌 平成30年9月2日 頓首再拝>
19:伝統 :

2018/09/03 (Mon) 04:50:08


    *「光明法語」(9月3日の法語 有限にして無限)より

人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したものです。
それは形に於いては有限であり、個別であるけれども、
本質に於いては普遍であり、無限である。

果たして然らば吾らは形に於いては有限であっても、
その有限の中に無限を表現し得ないことはない。

人間を地球に生えたカビの様に思って其の弱小を嘆くなかれ、
人間は地球に生えたカビ以上のものである。
また「考える葦(あし)」でもない。

人間は無限である。
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたものである。

           <感謝合掌 平成30年9月3日 頓首再拝>
20:伝統 :

2018/09/04 (Tue) 03:40:19


    *「光明法語」(9月4日)より

普遍が個別によって表現される場合、個別が個別たり得ることは、
彼が他と区別されることによってである。
他と区別されることなければ、何物も表現されないのである。

牡丹の花が美しく見えるのは、周囲の空気に対して区別されているからである。
若し牡丹の花が空気色していて他と全然区別されないようであるならば、
そこには牡丹の花は存在しないのである。

普遍は個別によって表現され、
個別は他と区別することによって表現を完(まっとう)する。
此処に個性の意義がある。

           <感謝合掌 平成30年9月4日 頓首再拝>
21:伝統 :

2018/09/05 (Wed) 14:07:07


           *「光明法語」(9月5日)より

個別は他と区別される事によって表現されるのであるが、
ただ区別されるだけでは表現されるものではない。

個別されたる者と、他の個別されたるものとの相互関係がなければ
それは他から認められ様がないから、折角、個別化されたものも
表現を完うする事が出来ない。

個別者と他の個別者との相互関係は如何にして可能であるか。
全然彼と是とが別物である場合は、相互関係はあり得ない。

個別者が互いに相互関係があるのは個別者は本来互いに一体であるからである。

           <感謝合掌 平成30年9月5日 頓首再拝>
22:伝統 :

2018/09/16 (Sun) 02:38:55


           *「光明法語」(9月16日)より

神は何の為に人間を創造したか。
神は自己を表現する為に人間を創造した。

外から創造したのではなく、神は「内在の生命」として内から創造したのである。

演奏中のヴァイオリンの弓を硝子板に触れると、硝子上にある一定大いさの砂粒が、
その音楽のリズムに従って或いは美しき花模様を、或は美しき波模様をなして
自然に配列されるが如く、

女性の子宮内で細胞分裂をなして行く多数の細胞を、
一定の人間的構造に配するのは生命の律動(リズム)の力である。

           <感謝合掌 平成30年9月16日 頓首再拝>
23:伝統 :

2018/09/25 (Tue) 04:53:32


         *「光明法語」(9月25日)より

人間が神の創造の中心である事がわかるならば、
人間は大いに自己を尊敬し、又大いに自重すべきである。

神の無限力が、自己の「個性」を通じてあらわれようとしているのである。
そこには「個性」と云うパイプと其処を貫き流れている大生命の力とがある。

パイプの小なることを見て、
そこを貫流する生命が小さいと思ってはならないのである。
そこには大生命が滔々乎と流れているのである。

大生命がみわざをなし給うのである。
”大生命は自分の生命そのものである”。

           <感謝合掌 平成30年9月25日 頓首再拝>
24:伝統 :

2018/09/28 (Fri) 03:12:36


        *「光明法語」(9月28日)より

神は自己を表現するのに、普遍であるばかりでは
自己を表現することはできないのである。
普遍に満ちているものは空気の如く、エーテルの如く、
それは何らの表現をもなし得ない。

表現は個性を通じてのみ行なわれるのである。
表現されたものは何らかの意味に於いて個性を有する。

桃には桃の個性があり、梅には梅の個性がある。
幾千個の桃にも決して同じ桃と云うものはないのである。

人間の個性も千差万別であって、同じ個性はない。
神は無尽蔵である。

他の人を自分の如くならしめようと縛る心を起してはならぬ。

           <感謝合掌 平成30年9月28日 頓首再拝>
25:伝統 :

2018/09/29 (Sat) 03:23:36


          *「光明法語」(9月29日)より

神に一致する事は決して個性を没却する事ではない。
梅は純粋に梅の個性を発揮する事が神に一致する事なのだ。
桜は一層純粋にその個性ある美を発揮する事が神に一致する事なのである。

神は梅を通して自己の無限個性の一部を表現し、
桜と通して自己の無限個性の一部を表現し給う。

神は「無」にして「一切個性」であると言い得る。
一切個性が「無」の一つに統一せられてあるのが無相の神である。

七色が統一されて無色の太陽光線になっている如く、
神に於いては一切が内に包容されていて無なのである。

           <感謝合掌 平成30年9月29日 頓首再拝>
26:伝統 :

2018/10/15 (Mon) 04:25:50


        *『人生の秘訣365章』第7篇(P167~168) より

“不可視の実体”なるところの神が、自己実現して、
ある形態をもってあらわれて来るのは、

恰も発明家が、はじめ彼の心の中に“ある形”を考えるのと同じように、
神の心の中に描かれた精神的図形(理念)が法則にしたがって
形相化してあらわれて来るのである。

それはテレビの脚本作家の心の中に描かれたものが放送局の放送を通じて
テレビ・セットにあらわれて来るのと同様であるのである。

人生に於いては、神の“救い”の番組の放送はあれども、
視聴者たる人間の側で、その放送に波長を合わす操作がなければ、
視聴し得る形をもっては、神の救いは顕れて来ないことになるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月15日 頓首再拝>
27:伝統 :

2018/10/29 (Mon) 04:13:44


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
          斎藤一人・著(P94~96)より

私は昔から神様が大好きなんです。
そして、神様は“すごい”と思っています。

だから、そのすごい神様がつくってくれた自分は
「神様の最高傑作」だと思っています。

私のまわりの人は「ひとりさんってすごい」って言ってくれますが、
まわりの人に言われるまでもなく、
私は自分のことを「すごいんだ」と思っているの。

そして、それと同じぐらい、まわりの人のことも「すごい」と思っています。

人はみんな、神様のつくった最高傑作なんです。

神様は私たち一人ひとりに、すばらしい個性という
“才能”を与えてくれました。

神様のすることはすべて完璧です。
けっして、“間違い”がありません。

だから、私たちが持っている「飽きっぽい」とか「怒りっぽい」というのも、
すべて神様からのギフトであり、才能なんだよね。

多くの人は自分ができないことを、神様が才能として与えてくれているのに、
それを才能だと思わないで、自分の最大の難点だとか、欠点だと思ってしまいます。

「神様は自分の子である人間を困らせるようなことは、絶対にしない」
ということがわからないんです。


自分のことを「ありふれた人間だ」と思うから、
ありふれた生き方をするんだよね。


「自分は価値があってすばらしい人間だ」と思うと、
価値があること、すばらしいことをしようとします。

私たち一人ひとりが「神様のつくった最高傑作」であり、
「この世にたった一つの存在」なんです。
それが「くだらない人間だ」と思うと、くだらない生き方になっちゃうよ。


ちなみに、私が信じている神様は
特定の宗教の神様ではなく、この宇宙をつくりだした存在のことです。

だから私は特定の宗教を勧めることはありませんし、
自分も特になにかを信仰しているわけではありません。

でも、だからといって人の信じている宗教を「やめろ」とは言いませんし、
「こっちの神様を信じろ」とも言わないんだよね。

それぞれが信じる神様を信じて、それで“しあわせ”ならそれでいいんです。

             ・・・

   みんなが自分のことを『すごい人』と思って
   理解しあいながら力を合わせたら、もっとすごいことになるよね。

         <感謝合掌 平成30年10月29日 頓首再拝>
28:伝統 :

2018/11/17 (Sat) 03:49:17


       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

         <感謝合掌 平成30年11月17日 頓首再拝>
29:伝統 :

2018/12/04 (Tue) 03:28:01


        *『人生の秘訣365章』第10篇
          《精神衛生及び肉体衛生の必要》(P245~246) より

“霊”は自我の本体であり、
それは“神の子”であり、“神の子”は“神”そのものである。
それを“神の子”と称して“子”なる名称を附加しているのは、
“普遍的霊”が“個別的霊”として顕現しているからである。

“子”とは“個”の謂である。

だから、普遍的霊なる「神」と個別的霊なる人間とは
本質的に本来同一同質のものであるのである。
普遍霊(神)は一切の生命(せいめい)を生み出したのである。

一切の生命(せいめい)を生み出して尚余りあり、
一切の生物に対して常に間断なく生命(せいめい)をそそぎつつあるのが神である。

だから仏教では神を“無量壽佛”と言い、一般には“無限生命”と呼ぶ。

私たち人間には、その“無限生命”が宿っており、
その“無限生命”が現象界に実現するには
“精神”及び“肉体”を通して実現するのであるから、
精神衛生も必要であり、肉体衛生も必要である。
そのいずれをも軽んずるのはよくないのである。

         <感謝合掌 平成30年12月4日 頓首再拝>
30:伝統 :

2018/12/10 (Mon) 04:10:58


         *「光明法語」(12月10日《天の使とは》)より

「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たり
と言いしに因(よ)りて信ずるか、
汝これよりも更に大いなる事を見ん』また言い給う

『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに
神の使たちの昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』(「ヨハネ伝」第1章末節)。

預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。

それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。

「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。

         <感謝合掌 平成30年12月10日 頓首再拝>
31:伝統 :

2018/12/26 (Wed) 04:37:13


       *「光明法語」(12月26日《人間はすべからく偉大なれ》)より

神は無限の富者であり、宇宙に満つる偉大者である。

神は決して神の子たる人間に最低限度の生活などを強要してはいられないのである。
人間はただ大根や馬鈴薯を辛(かろ)うじて食べるために生きているものではない。

神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である。
須(すべから)く偉大なる事に着眼し、偉大なる生活を送らなければならぬ。

夜、人の知らぬ間に降りて大地や草木を霑す夜露の様な隠れたる生活も尊いが、
ナイヤガラの瀑布やグランド・キャニオンの峡谷も美しく尊いのである。

         <感謝合掌 平成30年12月26日 頓首再拝>
32:伝統 :

2019/01/01 (Tue) 04:03:18


         *「光明法語」(1月1日《人生は何のためにあるか》

人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。
何のために人生はあるのだろうか。
人間は何のために生まれたのだろうか。

これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。

人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、
神自身の生命を此の世に具体化したのである。

凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。
知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。

しかし自己が自己を知ると云うことは、
眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。

         <感謝合掌 平成31年1月1日 頓首再拝>
33:伝統 :

2019/01/02 (Wed) 04:53:10


        *「光明法語」(1月2日)より

自己が自己を知り、自己が自己を観るにはそれを客観化しなければならない。

換言すれば唯一の存在としての自己が、
「観るもの」と「観られるもの」との相対に分化しなければならないのである。
「働くもの」と「働きかけられるもの」と相対に分化しなければならないのである。

眼が眼を見るには、眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に「自己の影」を
見なければならないようにである。

神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、
神が自己自身の姿を楽しむため、自己の外に自己の影を創造したのである。

         <感謝合掌 平成31年1月2日 頓首再拝>
34:伝統 :

2019/01/12 (Sat) 04:20:42


          *「光明法語」(1月12日)より

神は親であり、自分は神の子であると信ぜよ。
神の智慧と計画とが自分と云うパイプを通して流れ入り、
流れ出でて実現するものであると信ぜよ。

神は悦びであり、豊かな生活であり、ケチなものではなく、
無限の調和であり、完全なる平和であり、無限の力であり、
それが自分に流入するのであり、

自分の自覚のパイプを大きくすればどれだけでも、
自分の悦びは大きくなり、豊かになり、
調和と平和とがその生活に得られるものであることを信ぜよ。

         <感謝合掌 平成31年1月12日 頓首再拝>
35:伝統 :

2019/01/21 (Mon) 04:49:20


           *「光明法語」(1月21日)より

神のすべてを生かし給う生命、吾が内に吾が心の内に、吾が魂の内に、
すべての事件の内にあらわれて生かし給う。

この神の大いなるいのち、常に新しきいのち今もわが中に流れ入りて
常にわが組織を新たならしめ給い、健全ならして給うているのである。

今この瞬間このわが頭の先からわが爪先に到るまで
輝く神のいのちに満たされているのである。

もはやわが肉体は神の肉体である。
わが肺臓は神の肺臓である。
わが胃袋は神の胃袋である。
吾が全ての内臓は神の全ての内臓である。

完全に健康であるほかあり得ないのである。

         <感謝合掌 平成31年1月21日 頓首再拝>
36:伝統 :

2019/02/07 (Thu) 04:52:32


     *『人生の秘訣365章』第12篇(P302~303) より

神は放送局であり、人間は受信局である。
神は父であり、人間は神の子である。

本来同一生命を内(うち)に有し、本来波長が合う筈であり、
その間(あいあだ)に本来距離はないのであるけれども、

多くの人は、神は高く遠きところに在し、人間は低き地上にあって、
「中々、神に近づき難い」 という意識上の習慣の故に、
神の 「幸福」 放送局の霊波を感受して、具体的に幸福を受像化する
ことができないことがあるのである。

それは、この世界は意識(心)の世界であるから、
神と人間とは本来一体であるけれども、
意識の世界で、神を遠く隔てて想望しているから、そのままでは、
神と自分とを連絡させることが出来ない場合があるのである。


このようなとき、
神と人間との距離を縮める媒介となる宗教教師を必要とするのである。

テレビの放送に於いても、日本とアメリカの如く距離が遠く
その放送番組を受像できない場合、通信衛星というのを飛ばして、
それに放送電波を反射して貰うようにすれば、アメリカの放送でも
日本で現実化して受像して視聴することができるのである。

これと同じように、神と人間との意識上の距離を縮める媒介となるのが、
信仰深き宗教の先輩の祈りなのである。

         <感謝合掌 平成31年2月7日 頓首再拝>
37:伝統 :

2019/02/27 (Wed) 04:24:48


      *ブログ「心の糧・感謝の心で」(2018-12-15)より

わたしの愛する子よ。
わたしは決して
お前のそばを離れたことはない。

★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

マーガレット・パワーズ
(アメリカのプロテスタント信者)

マーガレット・パワーズという人が作ったこんなストーリの短い詩があります。


   夜、夢を見ました。
   夢の中で浜辺を歩いていました。
   神さまと2人並んで・・・。

   その一足一足は生涯の一日一日を示していると
   ふと思い、立ち止まって後ろを振り返りました。

   足跡は浜辺のずっと遠くまで続いていました。

   ところが、ところどころ2人の足跡ではなく、
   一組の足跡しかないのに気づきました。

   それは、生涯で一番暗かった日々と重なります。
   あの苦悩の日々。
   悲しみに沈んでいた日々。
   やりきれなかった日々。

   そこで、神さまに向きなおって文句を言いました。

   「あなたは、日々私とともにいると約束されたではありませんか。
   なぜ約束を守ってくださらなかったのですか。
   どうして、人生の危機にあった私を1人でほっておかれたのですか。
   あなたの助けが必要だったときに」


   ところが、神さまは答えて言われました。

   「わたしの愛する子よ。
   わたしは決してお前のそばを離れたことはない。
   お前がもっとも苦しんでいたとき、
   砂の上に1組の足あとしかなかったのは、
   わたしがお前を抱いていたからだよ」


忘れないでください。
私たちを助けるために、
神さまは、いつも共にいてくださいます。

   (https://lucky.t-nakai.work/2018/12/15/poem/

         <感謝合掌 平成31年2月27日 頓首再拝>
38:伝統 :

2019/03/14 (Thu) 04:53:17


       *『無限者との協調』 ラルフ・ウォルドー・トライン
         (1896年 谷口雅春訳)

無限者との協調

宇宙における最も目を見張るべき中心的事実は何といっても、
無限の生命、無限の力を有する宇宙霊というようなものが
あらゆるものの背後に存在して、

それがすべてのものに生命を与え、すべてのものの内に、すべてのものを通して、
それみずからを顕現しつつあるということである。

このすべてのものの背後に存する「無限生命」にして「無限力」なる「霊」を
私は称して「神」と呼ぶのである。

私は諸君がそれを何と呼ぼうと意に介しない。
大慈、光明、摂理、超越霊、全能者または諸君が最も便宜と思われる
どんな名称で呼んでも差し支えないのである。

宇宙には一切の本源者が存在するという
この中心的な大事実を私たちが一致して認めるかぎり、
その名称如何(いかん)はなんら意に介する必要はないのである。

そういうわけで、私はこれを神と呼ぶが、
神はこの無限者なる大霊であって宇宙のいたるところに遍在し給うのである。

そしてそれゆえに、一切のものは神より生まれたものであり、
神の内にあり、神の外にあるものは一つとして存在しないのである。

さればまことにも、真理をもととして論ずれば、
神の内に私たちは生き、動き、我々の存在を保っているのである。

「神」こそは私たちの「生命の生命」であり、我々の生命そのものであるのである。
私たちは私たちの生命を神より受けた、そして今も間断なく生命を注がれ
受けているのである。

私たちは神の生命を分かち持つものである。
私たちは「個性化した霊」として出現したという意味で
「全体生命」から分離したようではある。

神は、我々及び諸他の一切のものを包容する無限者なる霊であり、
その精髄においては、「神の生命」と「人間の生命」とは全然同一なのである。

だから「神の生命」と「人間の生命」とは一体であるのである。
それはその精髄においてその性質において異ならないのであって、
その程度において異なるに過ぎないのである。

もし以上述べたことが真理であるならば、
当然次のごとき結論に到達し得ると思うのである。

すなわち私たち人間は、本源なる神の生命の流れに自分自身を打ち開く程度に従って、
神そのものに一層近づくのではあるまいか、ということである。

果たしてそうならば、人間がこうして神そのものに一層近づき得た程度に従って、
神の「力」を自分の身にまとうことができるはずである。

これこそが人間生活における最大の中心的真理であって、
この中心的な事実のうちに他の一切のことは含まれており、
爾余(じよ)の一切は付随的に発生するのである。

私たちがこの無限の大生命と一体であるという真理を意識的に自覚し、
自分自身を大生命の聖なる流れに、自分自身の心を打ち開き得る程度によって、
私たちが実人生において大生命の徳と力とをどの程度現実化し得るか
ということが決まるのである。

この自覚が得られれば、今まで私たちを支配していた恐怖と不安とは信念に一変し、
その信念を正しく理解し、正しく利用するならば、いかなる障壁をも越え得るところの
偉大なる力にまで発展するのである。

神にただひたすらに心を振り向けている者は、
人生のどんな荒波をも踏み越えることができるばかりでなく、

その信念を通じて、そしてかくて得たる「力の自覚」によって、
どんな暴風が吹きすさもうとも、晴天を迎える時のような
平穏明朗な心境でその日その日を迎えることができるのである。

なぜならこのような人は、結局その成果がどうなるかについて
明るい見通しを立てているからである。

すなわちあらゆる事物の奥底に動いている「永遠の支える手」があることを
知っているからである。

このように神に専心振り向けている者は、
いかに周囲に不安擾乱が満ちていても、
心安らかに次のように自信をもって述べることができるのである。


わたしは急ぐことをやめて歩調をゆるめて歩く
なぜなら急いで走っても何の効果もないからだ
私の歩む道は永遠に通ずる道である
そして私に属する事物はその持ち主なる私を知っているのである

夜が来れば眠り、朝が来れば目覚める
わたしの尋ねている友はまた私を探しているのである
どんなに暴風がやって来ようとも私の船は安全である
いわんや私の運命の潮流を変えることはできない

(後略)

  (http://www.cwo.zaq.ne.jp/coach/infinite/ より)

         <感謝合掌 平成31年3月14日 頓首再拝>
39:伝統 :

2019/03/29 (Fri) 03:49:21


         *『人生の秘訣365章』第10篇(P251) より

人間は神の最高の自己実現として、
神の全体的計画(プラン)の一部分を受持つのである。
人間は神の計画を実現するための協働者である。

されば神に協力することができた時に於いて生き甲斐を感ずるのである。

愛の実践は神に協力することになるのである。

神に協力する人にとっては、彼の有つ富も力も結局は
人類を幸福にするための蓄積又は資料となるのである。

神は全ての全てであるから、すべての人とのために協力しない者は、
神の心と波長が合わないのである。

また、すべての良き宗教は、神が、その場、その時代、その時代の人間の救いのために、
神の慈悲の人時処の三相応のあらわれとして出現したものであるから、
互いに目的協同体として協力して、人類を光明化すべきものであるのに、
互いに排斥し、互いに攻撃し合って縄張り争いすることは神の心に叶わないのである。

         <感謝合掌 平成31年3月29日 頓首再拝>
40:伝統 :

2019/04/18 (Thu) 04:05:29


       *『人生の秘訣365章』第10篇(P251~252) より

人間が地上に「神の自己実現」として出現している以上は、
その人の人生は「無限の善」の間断なき自己展開である
と言わなければならない。

それは「無限生長」と云う語を使っても差支えない。

だから人間には老熟はあっても老衰はあり得ないのである。
人間は年老いても希望を失うことはないのである。

活動の種類や場面は変って来るかも知れないけれども、
「我れ神の子なり」の自覚をもつ人には衰弱や衰退はあり得ないのである。

善とは人生の究極目的に適(かな)うことであり、
悪とは人生の究極目的に適わないことだと言い得る。

人生の究極目的は、神を実現することであるから、
神の如く生きることを私たちは念願としなければならないのである。

神の如く生きるには、神は愛であるから、愛を実現しなければならない。
愛は自他一体の自覚であるから、
己の欲する如く他(た)の人に施さなければならない。

         <感謝合掌 平成31年4月18日 頓首再拝>
41:伝統 :

2019/05/05 (Sun) 02:51:10


       *『人生の秘訣365章』第10篇(P257) より

神は六日間で宇宙の創造を終り、みずからは休み給うて
七日目を人間にまかせ給うたと「創世記」にある。

人間は神が大自然力としては創造することの出来なかった「最後の完成」を為すべく、
神御自身の生命(せいめい)が、人間として、「花咲き出(で)た」ものなのである。

花は外界からの物質の積み重ねによって形造られたものではなく、
植物の生命(せいめい)が、中(うち)から発現して
花の形となって出て来たところのものである。

それと同じく、神が人間を創造せられたのは、
外から物質を捏ねまわして人間がつくられたのではなく、
神の《いのち》が、中(うち)から花咲き出(で)るように
具体化して顕れたのである。

だから人間は神の奴隷でもなく、神の僕でもなく、
神御自身の延長であり顕現である。

しかし神の延長であるのしても、神との接触を断絶してしまったら、
一箇の孤立した蓄電器のようなもので、その力は有限となるのである。

            <感謝合掌 令和元年5月5日 頓首再拝>
42:伝統 :

2019/06/02 (Sun) 04:04:52


        *『人生の秘訣365章』第10篇(P260) より

「我みずからにては何事をも成し得ず、
天の父われにいまして御業(みわざ)を成さしめ給うのである」

と言うイエスのことばは私たちにも亦真理なのである。

すべての力は人間には属しないのであって、神にのみ属するのである。

そして人間は、神の愛と智慧と生命と美と豊富とを実現するために
神の自己実現として此世に顕現したのであるから
すべての力を神の栄光をあらわすために使えばよいのである。

その他の目的にこれを使うことは父親から、「これを買って来い」と命ぜられて
遣いに行く途中に於いて、与えられた買物を成就せずに、
私用の目的にその託された金を費消するのと同じことである。

神に託せられたる仕事を実現するためには凡ての力は与えられているのであるから、
「我は無限力なり、一切のものを成就する力は我に与えられたり」と念じて
言葉の力で内在の力を喚び起して何事でも為せば容易に成就するのである。

            <感謝合掌 令和元年6月2日 頓首再拝>
43:伝統 :

2019/06/14 (Fri) 04:49:45


         *「光明道中記」(6月14日《深く神想観を励む日》)より

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に行く手を照らす炬火(たいまつ)である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

            <感謝合掌 令和元年6月14日 頓首再拝>
44:伝統 :

2019/07/06 (Sat) 04:23:14


       *『人生の秘訣365章』第10篇(P260~261) より

エホバ神モーセをして伝道に遣わそうとしたもうたとき、

「モーセ、エホバにいいけるは

わが主よ我は素言辭(もとことば)に敏(と)き人にあらず
汝(なんじ)が僕(しもべ)に語りたまえるに及びても
猶(なお)しかり我は口重く舌重き者なり

エホバかれにいいたまいけるは

人の口を造れるは者は誰なるや ・・・ 然(さ)れば往けよ我なんじの口にありて
汝の言うべきことを教えん ・・・ 汝かれに語りて言(ことば)をその口に授くべし
我なんじの口と彼の口にありて汝らの為すべき事を教えん」
(「出埃及記(しゅつエジプトき)」第四章)

ここに神から遣わされたる神の伝道者は必要に応じて力を授かるのであって、
「自分の力」を行使するにあらず、神の力を行使するものである
と云う真理が示されているのである。

私たちが常に「力が足らぬ」ように感ずるのは、
我(が)の目的で「我(が)の力」を行使しようと思うからなのである。

すべての力は神に属し、その力を神の目的に使うならば
必要な力はすべて与えられるのである。

            <感謝合掌 令和元年7月6日 頓首再拝>
45:伝統 :

2019/07/25 (Thu) 04:46:17


         *『人生の秘訣365章』第2篇(P62) より

一切の事物が神からの霊的放送が現象化したものであり、
すべて吾々は神のエネルギーの変形せるものを常に利用しつつあるのだ
ということを知るならば、神に感謝の念が起るのは当然すぎるほど
当然このことなのである。

私たちの皮膚、筋肉、骨、骨髄、血球、血漿、脳髄、神経組織、腺組織、
すべての内臓及び血管、琳巴管・・・・・・等ことごとく
神の叡智による設計で成り立っているのである。

神は吾々人体の設計者であると共に、建設施工者であり、
そして完成した人体設備の運転者であり、保全者である訳である。

神を抜きにしては吾々人間は断じて存在し得ないのである。
それゆえに私たちが此処に生きているのは、
自分の力で活きているのではなく、活かされているのである。

だから私たちは常に神に感謝すべきである。

            <感謝合掌 令和元年7月25日 頓首再拝>
46:伝統 :

2019/08/11 (Sun) 04:46:22


        *「光明法語」(8月11日)より

兎も角、宇宙すべての物の背後に
宇宙の知性(法則)が存在する事が分った筈である。
この宇宙の知性を神と言う。

では、宇宙の知性と「人間」との関係や如何と云う問題になる。
この問題を解決すれば、人間の病気や不幸の問題も解決される事になるのである。

そんなにも微妙な構造の人体諸器官の組織を造った宇宙の知性が、何故、
現在吾々の肉体の諸器官の欠陥を治す事ができないか。そんな筈がない。

それが治らないのは、「宇宙の知性」に吾々が委ねないからではないか。

            <感謝合掌 令和元年8月11日 頓首再拝>
47:伝統 :

2019/08/20 (Tue) 04:52:17


        *「光明法語」(8月20日)より

人間が神の自己実現であることは、直覚認識によって知ることが出来るのである。

『法華経』にある「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。

天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、われ神の自己実現なりとわかるのである。

これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。

            <感謝合掌 令和元年8月20日 頓首再拝>
48:伝統 :

2019/08/31 (Sat) 02:49:08


       *『人生の秘訣365章』第3篇(P70) より

神はすべての事物の支配者である。

それ故に神の生命を宿し生れ、神の叡智を譲り受けたる“神の子・人間”は、
決して外界の事物や、環境や境遇の奴隷になることはなく、
これ等のものの支配者であるのである。

軍隊の指揮者が、命令の言葉を発したならば、
兵卒が指揮命令の通り動き出して敵陣に殺到するがように、

人間の言葉の力によって、欲する事物に顕れるように命ずれば
宇宙の創化力が法則に従って動き出して、
言葉で命じた通りの事物をあらわしてくれるのである。

それは宇宙の創化力が法則に従って動いてくれるのであるから、
人間が肉体的な力で《りきむ》必要はないのである。

            <感謝合掌 令和元年8月31日 頓首再拝>
49:伝統 :

2019/09/01 (Sun) 04:41:45

【常住戦死の心】~「光明道中記九月こころ極まる<はじめの言葉>」

          (初出は「生長の家」誌・昭和14年9月巻頭言)


宇宙には唯一(ただひとつ)、大御心のみがある。

天皇の大御心である。

「忠(ちゅう)」とは大御心に無我帰一する心である。
すなわち天之御中主大神の心に「中(ちゅう)」する心である。
「中(ちゅう)」とは的(まと)に中(あた)るであり、御本質に貫き徹するのである。

宇宙の實相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従うのである。
吾らが大御心を行ずるのは、それによつて幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。
そう云う第二次第三次の事物よりも、尚々(なおなお)すぐれて無上價値なるものが大御心である。

その大御心を実現することは無上価値であるが故に、そのような第二次、第三次のお蔭などは
心に微塵も止(とど)めないで、大御心を行ずるのが「忠」である。 

そしてそれがまた生長の家家族の心である。

大御心を行ずる爲に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。
戦場に於て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。

これを「死」と云う不吉な連想を伴い易き言葉を用いず、
「肉体なし、物質なし」と吾らは云う。

その死に切った心だけでは消極的否定の心である。

そこに「大御心《のみ》あり」の大肯定がなければならぬ。
生長の家ではこれを「神一元」と言う。天皇独在とも言う。

            <感謝合掌 令和元年9月1日 頓首再拝>
50:伝統 :

2019/09/02 (Mon) 04:41:16


          *「光明法語」(9月2日)より

普遍にして無限なる「一」の生命は
如何にして自己内在の智慧と愛と美とを表現するかと云えば、
普遍にして無限に行きわたるのは自己そのままでは表現することは出来ない。
普遍なるもの、無限なるものは見えないからである。

表現は何らかの意味に於いて形象化しなければならない。
形象化するためには無限が有限にならなければならない。

普遍者が個別となり、無限者が有限者となるのは自己限定である。
自己限定を通じて神は自己を表現したのである。

           <感謝合掌 令和元年9月2日 頓首再拝>

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.