伝統板・第二

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実相を観ずる~「神想観」③ - 伝統

2017/12/13 (Wed) 05:00:43


     *伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」②」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6879320


《三種の神想観》

         *「光明道中記」(12月13日神の叡智につながる日)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。

吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「実相を観ずる~「神想観」 (10714)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 

(2)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(3)光明掲示板・伝統・第一「実相を観ずる~「神想観」 (35)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=21

(4)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461369

           <感謝合掌 平成29年12月13日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2017/12/24 (Sun) 03:35:19


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。

「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」

こう唱えつつ吸う息とともに
自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)がわたしである。
わたしは喜びそのものである。わたしは幸福そのものである。私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても心が統一し難いものである。
覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、直ちに神想観に取りかかり
前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

            <感謝合掌 平成29年12月24日 頓首再拝>

《毎日神想観を行ずべし》 - 伝統

2018/01/09 (Tue) 03:19:55


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P320) より

現在意識は五官によって、色々の現象を見、その現象の中にあらわれている
「不良なるもの」「不完全なるもの」「不健全なるもの」を”アル”として捉え、
それを除去しようとして肉体に行動を起こさしめるのであるけれども、

その「不良なるもの」「不完全なるもの」「不健全なるもの」を
”アル”として捉えるものだから、それを”アル”として心に執拗に描いて、

その「不完全さ」を「心の原図」として、潜在意識に印象し、
潜在意識なる建築技師をして、その不完全な原図に基づいて、
肉体を新陳代謝するときに、構築させてしまうのである。

だから、私達は、一日中の或る時間を割いて、せめて30分間位は、
「心の原図」を完全な健全なものにするために、精神を統一して、
完全なる神を想い、完全なる”神の子”なる自己を想い、
あらゆる方向に”調和した自己”を想念するようにつとめなければならない。

これが神想観である。

            <感謝合掌 平成30年1月9日 頓首再拝>

《神と自己との接触点の発見》 - 伝統

2018/01/27 (Sat) 04:19:29


    *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P328~329) より

吾々は一層多く「神の生命の動き」に協力することによって、
一層健康となり、一層繁栄を得、
吾々の生活に常に一層善きものを具体化することになるのである。

「神の生命の動き」はひとたび吾々が大自然の神秘に眼をやるとき
到る処に発見することが出来るのであるけれども、
その宇宙普遍の大生命と自分との接触点を見出さなければ、
「神の生命の動き」に完全に協力することはできないのである。

その「接触点の発見」とは、
自己の内に、宇宙普遍の大生命と同じき生命が宿っていて、
その一点に於て”大生命”即”わが生命”であることを
発見しなければならないのである。

その一点の発見によって”個我”が”大生命”につながり、
”今”が”久遠”につながり、自己が神につながり、有限が無限につながり、
瞬々の生活が無限の価値につながることになるのである。

その「今即久遠」の一点において、
自己が神に融合するのが神想観であるのである。

諸君は一日といえども神想観を怠ってはならないのである。

            <感謝合掌 平成30年1月27日 頓首再拝>

《神想観を繰り返して 「 自覚 」》 - 伝統

2018/02/15 (Thu) 03:37:07


         *『 生長の家 』(昭和40年3月11日の法語)より

   神想観を実修する度毎に、その観の深浅の程度に従って、
   私たちは 次第に 人間は 「 物質的肉体 」 そのものでないことを
   知りはじめるのである。

   そして 次第に時間、空間の制約を超える存在であることを知り、
   自己の生命は暦(こよみ)の年齢によって老衰せず、
   如何なる外部的状態によっても破壊されざる金剛不壊の存在であることを
   知るのである。

   涅槃経に釈尊が説いていられるように 「 月に没性(もつしょう)なく、
   月に盈欠(えいけつ)なきが如く、人間は没性なく盈欠なき存在である 」
   ことを知るに至るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成30年2月15日 頓首再拝>

神の啓示をわれ受けて - 伝統

2018/03/05 (Mon) 04:49:47


       *『幸福を招く365章』第8項(P152~153)より

無限の智慧なる神を信じ、その神より啓示来たることを信じ、
それに従うことによって、神のみ心を地上に実践し得るものなることを信じ、
神のみ心を地上に表現することによって、地上の人類が等しく幸福となり、
同時に個人も幸福になり寿福おのずから兼ね備わるのである。

この信念の中核を成すものは「われ神の子なり」の自覚である。

「われ神の子なり」の自覚を中心として、無限の神智は流れ来り、
神との一体感によって、神の智慧と一円融によって行動することが出来るのである。

「われは神の子であるが故に、神の智慧はわれに流れ入りて、
わが一挙手一投足を導きたまうのである。
われは事毎に成功し、無限の繁栄は必ず流れ入り来るのである」

神想観中に斯くの如く念ぜよ。

神想観中「なまくら」である勿れ。
真剣であり誠であれ。

            <感謝合掌 平成30年3月5日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2018/03/20 (Tue) 04:23:24


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、
精神集中的に起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに
非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

            <感謝合掌 平成30年3月20日 頓首再拝>

《脚下にしっかりと実相を踏んまえて》 - 伝統

2018/04/12 (Thu) 03:53:45


        *『 生長の家 』(昭和40年3月15日の法語)より

   神想観中には、
   人を観るな。
   事件を観るな。
   外界の一切を見るな。

   現象を観るな。
   実相ばかりを観よ。

   実相を観ずることに徹底せよ。


   而して、観(かん)終りて
   現象界を見、
   人を見、
   事件を見、

   そして内部から催して来る智慧によって外界に向って行動せよ。

   問題があれば、それは自然に解決する行動がとれることになるのである。

   それが「 果実を見てその樹の善悪を知れ。
   その樹が善ければ必ず善き果(み)を結ぶ 」
   ということである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成30年4月12日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2018/04/17 (Tue) 03:35:34


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、
自分の周囲と内部、悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを
悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも周章狼狽することなく、
必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、
好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

            <感謝合掌 平成30年4月17日 頓首再拝>

神の導きを受けて生活を出発する - 伝統

2018/05/16 (Wed) 03:25:28


         *『栄える生活365章』(P19)より

毎朝、三十分間を神想観の時間として神と対坐せよ。
神を自己の内に招じ、神を自己の指導者とし、
神の導きを受けてその日の生活を出発せしめよ。

毎朝の、神と偕に坐す三十分間は、決して無駄に失われることなく、
神の導きを受けて生活する一日は、常に平安に、憂えなく躓きなく、
悦びと感謝に満たされて、何事もスラスラと順潮に事がはこび、
健康と繁栄とは結局あなたのものになるに相違ないのである。

神を自己の内に招じて、神を顧問として生活が行われるとき、
自分自身のすべての物事に対する考え方や観方が異(ちが)って来るのである。

そして自分自身の考え方が異(こと)なって来るとき、
“外界の事物”の動きが変わって来るのである。

結局“外界の事物”は本当は外界にあるのではなく、
自分の心の反映に過ぎなかった事が判ってくるのである。

そして、険しき道は平らかとなり、難事は解決し、
すべては円滑に事がはこび、調和おのずから備わる事になるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月16日 頓首再拝>

神想観について  「詳説 神想観」 - 伝統

2018/06/09 (Sat) 05:01:34


      *Web:島根地方講師会(H20.06.05)より抜粋

1.神想観は谷口雅春大聖師が修行中に神授せられたる
   般若の知恵を禅定によって到達せる道である     はしがきP3

2.神想観は日々の精神的糧

  * 人間は肉体ではない霊的実在である
    この事実を深く心に自覚せしむるための行事が神想観である。

  * 神を頭脳で知っただけでは神が「わがもの」とはならないのである
    P17

3.神想観は人間が意識的に神と接触する最も荘厳な行事である

4.実相覚によって真の自己を把握するのが神想観である    P19

5.神想観は実相の扉を開いて実相を知る最も簡単な鍵である  P24

6.神想観は神から直接授かった行法             P25

7.神想観は積極的に霊力を増大する法            P28

8.神想観は守護の神に護られて行う完全確実な観法である   P29

9.神想観は無相観ではない                 P32

10.神想観は心の視力を集めて実相を静観すること       P37

11.神想観は「術」ではない。神の力、仏の力である      P37

12.神想観は「疑念」ではない。神相観は最も正しい意味に於ける精神統一法 
                               P38

13.神想観は必ずしも精神統一を必要としない

   * 精神統一に越したことはないが招神歌で神を招ぶのですから精神が統一
     しなくてもただ形式通りにおやりになれば神徳が得られるのです P39  
       
14.神想観によって罪は消える

   「罪はない」という因縁は超越できるということです    P40
 
15.神想観は「欠乏観」ではない完全な自己放棄の全自我の生れ変わりである P42
                               
16.神想観は「ハイハイ有り難うございます」なり絶対他力への帰命信頼の表白なり
                                   P42

17.神想観「絶対力」である実相が実相するコトバの大行である  P43

18.祈りとしての神想観―「祈り」は哀願ではない       P45

19.神想観にまさる「祈り」はない神を真に愛するのが神想観である
   * 自分の生命が神の生命であるということを知らねばならないのです P47

20.神想観は実相観なり。与えられた勘定書を正確に算出する「祈り」なり P48

21.神想観は「祈り」と「観法」との調和合体せるもの    P51

   * 人格的な祈りをする人は、どちらかというと他力的な祈りになります。

   * 観法による祈りをする人は、どちらかというと自力的になり易いのであります。  
                                  P52
22.神想観は父子の体面                   P54

23.神想観は永遠の依りどころ                P54

24.神想観は最高の悦び、最高の幸福             P55

25.神想観は祇管「しかん、ひたすら」唯観実相観       P56

26.神想観は全身が真理となる

   神想観は病気を治すためにするものに非ず、貧乏を治すためにするものに非ず。
   功利目的を遂げるためにするものに非ず、全身が真理となるためである。P55

27.神想観は身、口、意 の三業をして神の相を現ぜしめる   P55

28.神想観は宇宙のいのちと一つなる自己を発見する行法である P56

    (http://shimanekoushikai.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_8ca1.html

            <感謝合掌 平成30年6月9日 頓首再拝>

吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶこと - 伝統

2018/06/14 (Thu) 03:24:17


          *「光明道中記」(6月14日 深く神想観を励む日)

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に行く手を照らす炬火(たいまつ)である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

            <感謝合掌 平成30年6月14日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2018/06/25 (Mon) 03:33:59


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

           <感謝合掌 平成30年6月25日 頓首再拝>

現象に捉われず、神と自己とが不可分の一体であることを自覚する - 伝統

2018/07/14 (Sat) 04:31:49


        *「希望を叶える365章」(P208)より

現象が消えた次には一層よき現象が

神想観は、神の現前を自己に於いて体験し、自己が神にまで下向し、
神と自己とが不可分の一体であるとの自覚を養成するための行事だとも言い得る。

神との不可分の一体感を得ることは、一切の”善”と自己との一体感を得る
ことであり、”無限供給”との一体感を得ることであり、
無限の富との一体感を得ることであるのである。


現象の個々の「善き物」に心を捉えられて、それに執着していると、
現象は無常であるから、いつかは、捉(つか)まえているものが減少したり、
滅びたり、衰えたり、消えてしまったりするものである。

現象界は映画のような影であるからやがて「終(おわり)」が来る。
終(おわり)が来ても映画作者の創作力が衰えない限りは、
もっとよい映画が後(あと)に楽しめるように、消えた現象の「善き物」の
次には一層よき現象があらわれて来るから失望しないでよいのである。

           <感謝合掌 平成30年7月14日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2018/07/28 (Sat) 03:41:37


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。
                        (『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人であったから、
雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。
汝らの面前になげ向(だ)す。灯台下暗しで判るまい。
判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』

と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、
地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを
知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
自分の坐っている一点上の《此処》が即ち実相の世界であって、
その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>

神想観は、神と自己とが不可分の一体であるとの自覚をするための行事 - 伝統

2018/08/16 (Thu) 04:10:50


        *「希望を叶える365章」(P208)より

現象が消えた次には一層よき現象が

神想観は、神の現前を自己に於いて体験し、自己が神にまで上昇し、
神が自己まで下向し、神と自己とが不可分の一体であるとの自覚を
養成するための行事だとも言い得る。

神との不可分の一体感を得ることは、一切の”善”と自己との一体感を得る
ことであり、”無限供給”との一体感を得ることであり、
無限の富との一体感を得ることであるのである。


現象の個々の「善き物」に心を捉えられて、それに執着していると、
現象は無常であるから、いつかは、捉(つか)まえているものが減少したり、
滅びたり、衰えたり、消えてしまったりするものである。

現象界は映画のような影であるからやがて「終(おわり)」が来る。
終(おわり)が来ても映画作者の創作力が衰えない限りは、
もっとよい映画が後(あと)に楽しめるように、消えた現象の「善き物」の
次には一層よき現象があらわれて来るから失望しないでよいのである。

         <感謝合掌 平成30年8月16日 頓首再拝>

《永久動揺せざる本源の世界に参ずること》 - 伝統

2018/09/07 (Fri) 04:47:09


         *『人生の秘訣365章』第7篇(P173) より

あなたの意識を現象界の損得に集注してはならない。
現象界は波動の世界であるから、上がれば必ず下がり、下がれば必ず上がり、
常に動揺している世界であるのである。

常に動揺しているものに心を集注しておれば自分自身の意識が動揺するのである。

自分の意識が動揺すれば自分の運命が動揺するのである。
自分の運命が動揺すれば、経済状態も健康状態も動揺することになるのである。


しかし現象界を処理する上からは、
動揺する現象世界を全然見ないという訳にはいかないし、
少しもそれに心を引っかからせないでいるということも不可能であるのである。

だから私たちは毎日神想観の実修を怠らず、心を五官の世界から去って
實相無限供給の神の世界に心を振り向け、永遠に動揺せざる
“神の世界”の本源から天降り来る供給を、心に瞑想するがよいのである。

         <感謝合掌 平成30年9月7日 頓首再拝>

神想観なるかな、神想観なるかな。 - 伝統

2018/09/26 (Wed) 04:52:50


         *『生長の家』(昭和43年10月号)より

周囲の色々の意見に惑わされてはならないのである。 
私たちは謙虚に人々の意見を聴かなければならない。 
しかし盲従したり、色々の意見に振り廻されてはならないのである。 

色々の意見にはそれぞれの立場から見てそれ相応の美点がある。 
それらは全面的に排斥してはならないが、また全面的に盲従してはならないのである。 

採るべきものは採り、不適当なものは捨離し、
神想観によって実相のひびきを直感し、そのひびきに従って、
みずからの判断を最も正鵠なるものたらしめなければならないのである。

 
神想観なるかな。 神想観なるかな。

神想観によって実相のひびきを直感し、実相のひびきに融会合一するとき、
吾々は周囲の何ものにも煩わされることがなくなるのである。 

私たちは神想観を実修するのに特別の静寂なる環境を必要とすることはないのである。 
それは心の問題である。

喧噪な環境に於いて神想観を実修するときには、
それは人や機械や乗物が騒ぐと思わず、
それは天人が天鼓を撃って天楽を奏するのだと観じて神想観するがよい。 

少しも周囲の喧噪がさわりにならないで、神想観の妙境に入ることができるのである。

神想観の妙境に入り、神との一体感を得るとき、
死せずとも死せざる永遠の生命を自覚することができるのである。

神想観を毎日怠らず実修することによって私たちは、それだけ 
“久遠不死の世界“ “永遠のいのちの世界” に融合する程度を
増すことができるのである。 

そして“永遠のいのちの世界” に融合する程度に従って、
私たちは其処からいのちの泉を汲出して来ることができるのである。

自分の抱えている問題に対して、実相の “いのちの泉” から
汲み出して来た叡智の一滴を加えるならば今までの問題の硬結もおのずから溶け去って、
難なく問題を解決することができるのである。

 (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24671478.html

         <感謝合掌 平成30年9月26日 頓首再拝>

神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2018/10/07 (Sun) 04:58:00


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月7日>(P95)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、その後に起こる事件の処理中には
(病気ならば回復の過程において)悪化と見える出来事が起こってくるかも
知れないのである。これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに「悲しめる者は幸いなるかな、
彼らは必ずや慰められん。神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」と
念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝>

神と語る時間 - 伝統

2018/10/08 (Mon) 03:18:29


        *「光明法語(10月8日 神と共に静かに語れ)」より

人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、親子が静かに語る時間を持つと云う事
であって是非とも必要なる当然の行事である。

祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。

神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。

また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。

            <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ - 伝統

2018/10/09 (Tue) 04:24:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月9日>(P97)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

般若波羅蜜多の修行 - 伝統

2018/10/10 (Wed) 04:43:31


      *「光明道中記」(10月10日 般若波羅蜜多を行ずる日)より

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、
すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、
斯くして精神統一を得て一切に煩わされることなく
自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。

神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して
蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の
毘盧舎那身(びるしゃなしん)として観ずるのであるから、
般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを同時に行なうものである。

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 平成30年10月10日 頓首再拝>

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