伝統板・第二

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実相を観ずる~「神想観」③ - 伝統

2017/12/13 (Wed) 05:00:43


     *伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」②」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6879320


《三種の神想観》

         *「光明道中記」(12月13日神の叡智につながる日)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。

吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「実相を観ずる~「神想観」 (10714)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 

(2)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(3)光明掲示板・伝統・第一「実相を観ずる~「神想観」 (35)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=21

(4)伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」①」
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461369

           <感謝合掌 平成29年12月13日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2017/12/24 (Sun) 03:35:19


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。

「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」

こう唱えつつ吸う息とともに
自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)がわたしである。
わたしは喜びそのものである。わたしは幸福そのものである。私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても心が統一し難いものである。
覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、直ちに神想観に取りかかり
前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

            <感謝合掌 平成29年12月24日 頓首再拝>

《毎日神想観を行ずべし》 - 伝統

2018/01/09 (Tue) 03:19:55


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P320) より

現在意識は五官によって、色々の現象を見、その現象の中にあらわれている
「不良なるもの」「不完全なるもの」「不健全なるもの」を”アル”として捉え、
それを除去しようとして肉体に行動を起こさしめるのであるけれども、

その「不良なるもの」「不完全なるもの」「不健全なるもの」を
”アル”として捉えるものだから、それを”アル”として心に執拗に描いて、

その「不完全さ」を「心の原図」として、潜在意識に印象し、
潜在意識なる建築技師をして、その不完全な原図に基づいて、
肉体を新陳代謝するときに、構築させてしまうのである。

だから、私達は、一日中の或る時間を割いて、せめて30分間位は、
「心の原図」を完全な健全なものにするために、精神を統一して、
完全なる神を想い、完全なる”神の子”なる自己を想い、
あらゆる方向に”調和した自己”を想念するようにつとめなければならない。

これが神想観である。

            <感謝合掌 平成30年1月9日 頓首再拝>

《神と自己との接触点の発見》 - 伝統

2018/01/27 (Sat) 04:19:29


    *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P328~329) より

吾々は一層多く「神の生命の動き」に協力することによって、
一層健康となり、一層繁栄を得、
吾々の生活に常に一層善きものを具体化することになるのである。

「神の生命の動き」はひとたび吾々が大自然の神秘に眼をやるとき
到る処に発見することが出来るのであるけれども、
その宇宙普遍の大生命と自分との接触点を見出さなければ、
「神の生命の動き」に完全に協力することはできないのである。

その「接触点の発見」とは、
自己の内に、宇宙普遍の大生命と同じき生命が宿っていて、
その一点に於て”大生命”即”わが生命”であることを
発見しなければならないのである。

その一点の発見によって”個我”が”大生命”につながり、
”今”が”久遠”につながり、自己が神につながり、有限が無限につながり、
瞬々の生活が無限の価値につながることになるのである。

その「今即久遠」の一点において、
自己が神に融合するのが神想観であるのである。

諸君は一日といえども神想観を怠ってはならないのである。

            <感謝合掌 平成30年1月27日 頓首再拝>

《神想観を繰り返して 「 自覚 」》 - 伝統

2018/02/15 (Thu) 03:37:07


         *『 生長の家 』(昭和40年3月11日の法語)より

   神想観を実修する度毎に、その観の深浅の程度に従って、
   私たちは 次第に 人間は 「 物質的肉体 」 そのものでないことを
   知りはじめるのである。

   そして 次第に時間、空間の制約を超える存在であることを知り、
   自己の生命は暦(こよみ)の年齢によって老衰せず、
   如何なる外部的状態によっても破壊されざる金剛不壊の存在であることを
   知るのである。

   涅槃経に釈尊が説いていられるように 「 月に没性(もつしょう)なく、
   月に盈欠(えいけつ)なきが如く、人間は没性なく盈欠なき存在である 」
   ことを知るに至るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成30年2月15日 頓首再拝>

神の啓示をわれ受けて - 伝統

2018/03/05 (Mon) 04:49:47


       *『幸福を招く365章』第8項(P152~153)より

無限の智慧なる神を信じ、その神より啓示来たることを信じ、
それに従うことによって、神のみ心を地上に実践し得るものなることを信じ、
神のみ心を地上に表現することによって、地上の人類が等しく幸福となり、
同時に個人も幸福になり寿福おのずから兼ね備わるのである。

この信念の中核を成すものは「われ神の子なり」の自覚である。

「われ神の子なり」の自覚を中心として、無限の神智は流れ来り、
神との一体感によって、神の智慧と一円融によって行動することが出来るのである。

「われは神の子であるが故に、神の智慧はわれに流れ入りて、
わが一挙手一投足を導きたまうのである。
われは事毎に成功し、無限の繁栄は必ず流れ入り来るのである」

神想観中に斯くの如く念ぜよ。

神想観中「なまくら」である勿れ。
真剣であり誠であれ。

            <感謝合掌 平成30年3月5日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2018/03/20 (Tue) 04:23:24


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、
精神集中的に起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに
非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

            <感謝合掌 平成30年3月20日 頓首再拝>

《脚下にしっかりと実相を踏んまえて》 - 伝統

2018/04/12 (Thu) 03:53:45


        *『 生長の家 』(昭和40年3月15日の法語)より

   神想観中には、
   人を観るな。
   事件を観るな。
   外界の一切を見るな。

   現象を観るな。
   実相ばかりを観よ。

   実相を観ずることに徹底せよ。


   而して、観(かん)終りて
   現象界を見、
   人を見、
   事件を見、

   そして内部から催して来る智慧によって外界に向って行動せよ。

   問題があれば、それは自然に解決する行動がとれることになるのである。

   それが「 果実を見てその樹の善悪を知れ。
   その樹が善ければ必ず善き果(み)を結ぶ 」
   ということである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成30年4月12日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2018/04/17 (Tue) 03:35:34


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、
自分の周囲と内部、悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを
悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも周章狼狽することなく、
必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、
好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

            <感謝合掌 平成30年4月17日 頓首再拝>

神の導きを受けて生活を出発する - 伝統

2018/05/16 (Wed) 03:25:28


         *『栄える生活365章』(P19)より

毎朝、三十分間を神想観の時間として神と対坐せよ。
神を自己の内に招じ、神を自己の指導者とし、
神の導きを受けてその日の生活を出発せしめよ。

毎朝の、神と偕に坐す三十分間は、決して無駄に失われることなく、
神の導きを受けて生活する一日は、常に平安に、憂えなく躓きなく、
悦びと感謝に満たされて、何事もスラスラと順潮に事がはこび、
健康と繁栄とは結局あなたのものになるに相違ないのである。

神を自己の内に招じて、神を顧問として生活が行われるとき、
自分自身のすべての物事に対する考え方や観方が異(ちが)って来るのである。

そして自分自身の考え方が異(こと)なって来るとき、
“外界の事物”の動きが変わって来るのである。

結局“外界の事物”は本当は外界にあるのではなく、
自分の心の反映に過ぎなかった事が判ってくるのである。

そして、険しき道は平らかとなり、難事は解決し、
すべては円滑に事がはこび、調和おのずから備わる事になるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月16日 頓首再拝>

神想観について  「詳説 神想観」 - 伝統

2018/06/09 (Sat) 05:01:34


      *Web:島根地方講師会(H20.06.05)より抜粋

1.神想観は谷口雅春大聖師が修行中に神授せられたる
   般若の知恵を禅定によって到達せる道である     はしがきP3

2.神想観は日々の精神的糧

  * 人間は肉体ではない霊的実在である
    この事実を深く心に自覚せしむるための行事が神想観である。

  * 神を頭脳で知っただけでは神が「わがもの」とはならないのである
    P17

3.神想観は人間が意識的に神と接触する最も荘厳な行事である

4.実相覚によって真の自己を把握するのが神想観である    P19

5.神想観は実相の扉を開いて実相を知る最も簡単な鍵である  P24

6.神想観は神から直接授かった行法             P25

7.神想観は積極的に霊力を増大する法            P28

8.神想観は守護の神に護られて行う完全確実な観法である   P29

9.神想観は無相観ではない                 P32

10.神想観は心の視力を集めて実相を静観すること       P37

11.神想観は「術」ではない。神の力、仏の力である      P37

12.神想観は「疑念」ではない。神相観は最も正しい意味に於ける精神統一法 
                               P38

13.神想観は必ずしも精神統一を必要としない

   * 精神統一に越したことはないが招神歌で神を招ぶのですから精神が統一
     しなくてもただ形式通りにおやりになれば神徳が得られるのです P39  
       
14.神想観によって罪は消える

   「罪はない」という因縁は超越できるということです    P40
 
15.神想観は「欠乏観」ではない完全な自己放棄の全自我の生れ変わりである P42
                               
16.神想観は「ハイハイ有り難うございます」なり絶対他力への帰命信頼の表白なり
                                   P42

17.神想観「絶対力」である実相が実相するコトバの大行である  P43

18.祈りとしての神想観―「祈り」は哀願ではない       P45

19.神想観にまさる「祈り」はない神を真に愛するのが神想観である
   * 自分の生命が神の生命であるということを知らねばならないのです P47

20.神想観は実相観なり。与えられた勘定書を正確に算出する「祈り」なり P48

21.神想観は「祈り」と「観法」との調和合体せるもの    P51

   * 人格的な祈りをする人は、どちらかというと他力的な祈りになります。

   * 観法による祈りをする人は、どちらかというと自力的になり易いのであります。  
                                  P52
22.神想観は父子の体面                   P54

23.神想観は永遠の依りどころ                P54

24.神想観は最高の悦び、最高の幸福             P55

25.神想観は祇管「しかん、ひたすら」唯観実相観       P56

26.神想観は全身が真理となる

   神想観は病気を治すためにするものに非ず、貧乏を治すためにするものに非ず。
   功利目的を遂げるためにするものに非ず、全身が真理となるためである。P55

27.神想観は身、口、意 の三業をして神の相を現ぜしめる   P55

28.神想観は宇宙のいのちと一つなる自己を発見する行法である P56

    (http://shimanekoushikai.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_8ca1.html

            <感謝合掌 平成30年6月9日 頓首再拝>

吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶこと - 伝統

2018/06/14 (Thu) 03:24:17


          *「光明道中記」(6月14日 深く神想観を励む日)

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に行く手を照らす炬火(たいまつ)である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

            <感謝合掌 平成30年6月14日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2018/06/25 (Mon) 03:33:59


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

           <感謝合掌 平成30年6月25日 頓首再拝>

現象に捉われず、神と自己とが不可分の一体であることを自覚する - 伝統

2018/07/14 (Sat) 04:31:49


        *「希望を叶える365章」(P208)より

現象が消えた次には一層よき現象が

神想観は、神の現前を自己に於いて体験し、自己が神にまで下向し、
神と自己とが不可分の一体であるとの自覚を養成するための行事だとも言い得る。

神との不可分の一体感を得ることは、一切の”善”と自己との一体感を得る
ことであり、”無限供給”との一体感を得ることであり、
無限の富との一体感を得ることであるのである。


現象の個々の「善き物」に心を捉えられて、それに執着していると、
現象は無常であるから、いつかは、捉(つか)まえているものが減少したり、
滅びたり、衰えたり、消えてしまったりするものである。

現象界は映画のような影であるからやがて「終(おわり)」が来る。
終(おわり)が来ても映画作者の創作力が衰えない限りは、
もっとよい映画が後(あと)に楽しめるように、消えた現象の「善き物」の
次には一層よき現象があらわれて来るから失望しないでよいのである。

           <感謝合掌 平成30年7月14日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2018/07/28 (Sat) 03:41:37


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります。
                        (『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人であったから、
雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。
汝らの面前になげ向(だ)す。灯台下暗しで判るまい。
判らなければ、太鼓を打って皆を集めて大掃除をして捜して見よ』

と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、
地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを
知らなければならない。

「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
自分の坐っている一点上の《此処》が即ち実相の世界であって、
その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>

神想観は、神と自己とが不可分の一体であるとの自覚をするための行事 - 伝統

2018/08/16 (Thu) 04:10:50


        *「希望を叶える365章」(P208)より

現象が消えた次には一層よき現象が

神想観は、神の現前を自己に於いて体験し、自己が神にまで上昇し、
神が自己まで下向し、神と自己とが不可分の一体であるとの自覚を
養成するための行事だとも言い得る。

神との不可分の一体感を得ることは、一切の”善”と自己との一体感を得る
ことであり、”無限供給”との一体感を得ることであり、
無限の富との一体感を得ることであるのである。


現象の個々の「善き物」に心を捉えられて、それに執着していると、
現象は無常であるから、いつかは、捉(つか)まえているものが減少したり、
滅びたり、衰えたり、消えてしまったりするものである。

現象界は映画のような影であるからやがて「終(おわり)」が来る。
終(おわり)が来ても映画作者の創作力が衰えない限りは、
もっとよい映画が後(あと)に楽しめるように、消えた現象の「善き物」の
次には一層よき現象があらわれて来るから失望しないでよいのである。

         <感謝合掌 平成30年8月16日 頓首再拝>

《永久動揺せざる本源の世界に参ずること》 - 伝統

2018/09/07 (Fri) 04:47:09


         *『人生の秘訣365章』第7篇(P173) より

あなたの意識を現象界の損得に集注してはならない。
現象界は波動の世界であるから、上がれば必ず下がり、下がれば必ず上がり、
常に動揺している世界であるのである。

常に動揺しているものに心を集注しておれば自分自身の意識が動揺するのである。

自分の意識が動揺すれば自分の運命が動揺するのである。
自分の運命が動揺すれば、経済状態も健康状態も動揺することになるのである。


しかし現象界を処理する上からは、
動揺する現象世界を全然見ないという訳にはいかないし、
少しもそれに心を引っかからせないでいるということも不可能であるのである。

だから私たちは毎日神想観の実修を怠らず、心を五官の世界から去って
實相無限供給の神の世界に心を振り向け、永遠に動揺せざる
“神の世界”の本源から天降り来る供給を、心に瞑想するがよいのである。

         <感謝合掌 平成30年9月7日 頓首再拝>

神想観なるかな、神想観なるかな。 - 伝統

2018/09/26 (Wed) 04:52:50


         *『生長の家』(昭和43年10月号)より

周囲の色々の意見に惑わされてはならないのである。 
私たちは謙虚に人々の意見を聴かなければならない。 
しかし盲従したり、色々の意見に振り廻されてはならないのである。 

色々の意見にはそれぞれの立場から見てそれ相応の美点がある。 
それらは全面的に排斥してはならないが、また全面的に盲従してはならないのである。 

採るべきものは採り、不適当なものは捨離し、
神想観によって実相のひびきを直感し、そのひびきに従って、
みずからの判断を最も正鵠なるものたらしめなければならないのである。

 
神想観なるかな。 神想観なるかな。

神想観によって実相のひびきを直感し、実相のひびきに融会合一するとき、
吾々は周囲の何ものにも煩わされることがなくなるのである。 

私たちは神想観を実修するのに特別の静寂なる環境を必要とすることはないのである。 
それは心の問題である。

喧噪な環境に於いて神想観を実修するときには、
それは人や機械や乗物が騒ぐと思わず、
それは天人が天鼓を撃って天楽を奏するのだと観じて神想観するがよい。 

少しも周囲の喧噪がさわりにならないで、神想観の妙境に入ることができるのである。

神想観の妙境に入り、神との一体感を得るとき、
死せずとも死せざる永遠の生命を自覚することができるのである。

神想観を毎日怠らず実修することによって私たちは、それだけ 
“久遠不死の世界“ “永遠のいのちの世界” に融合する程度を
増すことができるのである。 

そして“永遠のいのちの世界” に融合する程度に従って、
私たちは其処からいのちの泉を汲出して来ることができるのである。

自分の抱えている問題に対して、実相の “いのちの泉” から
汲み出して来た叡智の一滴を加えるならば今までの問題の硬結もおのずから溶け去って、
難なく問題を解決することができるのである。

 (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24671478.html

         <感謝合掌 平成30年9月26日 頓首再拝>

神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2018/10/07 (Sun) 04:58:00


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月7日>(P95)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、その後に起こる事件の処理中には
(病気ならば回復の過程において)悪化と見える出来事が起こってくるかも
知れないのである。これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに「悲しめる者は幸いなるかな、
彼らは必ずや慰められん。神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」と
念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝>

神と語る時間 - 伝統

2018/10/08 (Mon) 03:18:29


        *「光明法語(10月8日 神と共に静かに語れ)」より

人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、親子が静かに語る時間を持つと云う事
であって是非とも必要なる当然の行事である。

祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。

神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。

また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。

            <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ - 伝統

2018/10/09 (Tue) 04:24:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月9日>(P97)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

般若波羅蜜多の修行 - 伝統

2018/10/10 (Wed) 04:43:31


      *「光明道中記」(10月10日 般若波羅蜜多を行ずる日)より

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、
すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、
斯くして精神統一を得て一切に煩わされることなく
自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。

神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して
蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の
毘盧舎那身(びるしゃなしん)として観ずるのであるから、
般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを同時に行なうものである。

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 平成30年10月10日 頓首再拝>

「ありがたい」情感の神想観 - 伝統

2018/10/23 (Tue) 05:02:48


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月23日>(P105)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 平成30年10月23日 頓首再拝>

神想観の最高の方法は、実相の世界妙なる有様を観ることにある - 伝統

2018/10/27 (Sat) 03:37:26


    *「光明道中記」(10月27日 神に融け入る神想観をする日)より


【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、自分の欲する事物を
精神統一の世界から招び出して来るために、目的事物を強く念ずる人がある。
そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。

神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、
神の智慧と愛と生命との充ち満ちてあるその妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 平成30年10月27日 頓首再拝>

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である - 伝統

2018/10/28 (Sun) 02:43:33


       *「光明道中記」(10月28日 良き種を蒔く日)」より

【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、
無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限調和・・・等々
一切の善きものを具体的に認めることが出来ないならば、
吾々の現実生活にもそれらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を現象面に創造するのではなくして、
ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が既に成就している
と云う前提のもとに行ぜられるものである。
それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。

ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

           <感謝合掌 平成30年10月28日 頓首再拝>

《實相のひびきを直感すること》 - 伝統

2018/11/13 (Tue) 04:47:53


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P214) より

周囲の色々の意見に惑わされてはならないのである。
私たちは謙虚に人々の意見を聴かなければならない。
しかし盲従したり、色々の意見に振り廻されてはならないのである。

色々の意見にはそれぞれの立場から見てそれ相応の美点がある。
それらは全面的に排斥してはならないが、また全面的に盲従してはならないのである。

採るべきものは採り、不適当なものは捨離し、
神想観によって實相のひびきを直感し、そのひびきに従って、
みづからの判断を最も正鵠なるものたらしめなければならないのである。

神想観なるかな、神想観なるかな。

           <感謝合掌 平成30年11月13日 頓首再拝>

《喧騒の中にも喧騒を見ず》 - 伝統

2018/12/01 (Sat) 04:50:18


       *『人生の秘訣365章』第8篇(P215) より

神想観によって實相のひびきを直感し、實相のひびきに融会合一するとき、
吾々は周囲の何ものにも煩わされることがなくなるのである。

私たちは神想観を実修するのに
特別の静寂なる環境を必要とすることはないのである。

それは心の問題である。喧騒な環境に於いて神想観を實修するときには、
それは人や機械や乗物が騒ぐと思わず、それは天人が天鼓を撃って
天楽を奏するのだと観じて神想観するがよい。

少しも周囲の喧騒がさわりにならないで、
神想観の妙境に入ることができるのである。

神想観の妙境に入り、神との一体感を得るとき、
死すとも死せざる永遠の生命を自覚することができるのである。

           <感謝合掌 平成30年12月1日 頓首再拝>

三種の神想観を怠ってはならない - 伝統

2018/12/13 (Thu) 04:44:26

       *「光明道中記」(12月13日 神の叡智につながる日)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、

「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」

と観ずる神想観である。


実行の意志力を強めるところの神想観は、

「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」

と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」

と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。


吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

           <感謝合掌 平成30年12月13日 頓首再拝>

(この「三種の神想観」は『信の力』<381 ~ 383頁>が初出のようです。
 谷口雅春先生に帰りましょう・第二「三種の神想観  谷口雅春先生」
  https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=2464     

                   平成31年1月8日 追記 )

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2018/12/24 (Mon) 04:21:30


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。
「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。

今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」
こう唱えつつ吸う息とともに自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)がわたしである。
わたしは喜びそのものである。わたしは幸福そのものである。私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても心が統一し難いものである。
覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、
直ちに神想観に取りかかり前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

            <感謝合掌 平成30年12月24日 頓首再拝>

《久遠不死の世界に入ること》 - 伝統

2019/01/13 (Sun) 04:52:40


        *『人生の秘訣365章』第8篇(P215~216) より

神想観を毎日怠らず實修することによって私たちは、それだけ
“久遠不死の世界”“永遠のいのちの世界“に
融合する程度を増すことができるのである。

そして“永遠のいのちの世界”に融合する程度に従って、
私たちは其処からいのちの泉を汲みだして来、健康を増し調和を増し、
無数の良き秀れたるアイディアを汲み出して来ることができるのである。

自分の抱えている問題に対して、實相の“いのちの泉”から汲み出して来た
叡智の一滴を加えるならば、今までの問題の硬結もおのすから溶け去って、
難なく問題を解決することができるのである。

            <感謝合掌 平成31年1月13日 頓首再拝>

《神想観によって自覚を深めましょう》 - 伝統

2019/02/03 (Sun) 04:34:18


       *『人生の秘訣365章』第11篇(P285~286) より

今日は、特に更めて、自己が“神の子”であり、
神の善なる力が自分の内に強力に貫流しており、

自分を導き、自分を賦活し、自分を健康ならしめ、
幸福ならしめ、裕(ゆたか)ならしめ、勇気と決断力に富ましめ、
常に新しき創造の意欲と力とを与え給うているのだということを
神想観して確認することにしましょう。

神の智慧が吾らをして、常に栄えの道を歩ましめ給うが故に、
世間が如何に不況であっても、自分の仕事に不景気はないということを
神想観して確認することに致しましょう。

生長の家の誌友でありながら、
神想観をしない人があるのは誠に不思議なことなのである。


聖典を読むのは、無限の宝が充ちている未知の世界に
旅行するため旅行案内書を読んで、どこに行きどうして
その無限の宝を発見し得るかの手順を知らされるようなものである。

神想観は、その案内書によって知った「未知の宝庫」に
直接触れる途(みち)なのである。
神想観を毎日励まないでいて、「私は生長の家です」というのは少々無理である。

            <感謝合掌 平成31年2月3日 頓首再拝>

《 早朝神想観に参加しましょう 》 - 伝統

2019/03/04 (Mon) 04:44:25


      *『人生の秘訣365章』第1篇(P37~38) より

生長の家本部で行われている早朝神想観に参加する
講師及び熱心な信者たちの集団の祈りによる祝福は、
常にあなたを祝福しつつあるのである。

その祝福は常に聖使命会員は勿論のこと、
本部の神癒祈願部に神癒をねがって来ている人たちには常に到達して、
単に治病のためのみならず、日常生活の護りと導きとになっているに
相違ないのである。

本部の早朝神想観は毎朝六時三十分に開始せられている。
私の神想観は午前五時十分からと午後八時三十分からとである。
いずれも三十分間である。


この時間に一緒に神想観を実修して霊波の協調を得ることは、
真理に於いて私たちの集団が一体に或ることであり、
そしてそれが神の愛の霊波と一体になることであり、
其処に救いが成就するに相違ないのである。

キリストは二人して祈れば、その祈りは必ず成就するといっているのである。

神と、あなたと、集団とこの三者の結合の祈りは
祈りの目的が正しい限り諾(き)かれるに相違ないのである。

            <感謝合掌 平成31年3月4日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2019/03/20 (Wed) 03:23:10


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、精神集中的に
起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

            <感謝合掌 平成31年3月20日 頓首再拝>

《“ 無私の祈り“としての神想観》 - 伝統

2019/04/09 (Tue) 04:37:56


        *『 生長の家 』(昭和46年3月29日の法語)より

   神想観は最も完全なる無私の祈りであるのである。

   「吾れ今、五官の世界を去って実相の世界に入る」とは、
   「五官の世界」即ち「現象世界」の一切の意欲を去ることである。

   意欲を去るだけではなく、現象世界の一切のものは
  、既に「五官の世界」を去った今は、“自分の心”の中にないのであるから、
   現象世界の何ものをも求めないのである。

   そして自分の欲望の願いも何もなく、
   ひたすら心が“神”と“神の創造せる世界”(実相世界)に振り向いて、
   実相世界の一切の善きものが自分を通して流入する無私の
   パイプとなることである。

   このとき実相世界に吾々の生命が、直接対面するのである。

   すると其処は、

   神の無限の智慧の海であり、
   神の無限の愛の海であり、
   無限の生命の海であり、
   無限にゆたかなる供給の海であり、
   無限の歓喜の海であり、
   無限の調和の海である

   のである。

   それを心の眼をもってハッキリと観るのである。
   観ることは既にあるものを受け容れることである。

   それをハッキリと受け入れたとき、
   実相世界の天国状態がハッキリ現象世界にその姿を映し出して、
   此処に地上に、天国が現出することになるのである。
 
    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12729823.html

            <感謝合掌 平成31年4月9日 頓首再拝>

神我一体の自覚を増す神想観 - 伝統

2019/04/17 (Wed) 04:06:00


         *「光明道中記」(4月17日 神想観深まる日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、
自分の周囲と内部、悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを
悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも周章狼狽することなく、
必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、
好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

            <感謝合掌 平成31年4月17日 頓首再拝>

神想観の行法伝授 - 伝統

2019/05/04 (Sat) 04:25:05

          *「生長の家」(昭和53年4月号)より
           ~ by ”モクセイ さま”ご投稿記事
            (2019/04/21 (Sun) 11:15:39
             2019/04/21 (Sun) 22:18:18
             2019/04/22 (Mon) 12:50:22)

神想観の説明に移る

心で観るものが現われて来るのでありますから、
神想観では、心の眼で、自分が神から頂いた生命の本当の姿、完全な姿を、
じいっと見詰めることによって、その完全な神の子の姿を
現象的にも、肉体的にも現わすことが出来るのであります。

そういう原理に従いまして、神想観というのは、
神から与えられた自分の生命の実の相(すがた)、本当の相(すがた)が
完全円満であることを見詰める修行であります。

そのためには、神様のお造りになったこの世界が
すばらしく立派な完全なものであるということを、
心の眼でじいっと見詰めなければなりません。

  
名目合掌しながら神想観の説明をいつも致しますのですが、
今は合掌せずに、目を開けた儘説明致します。

最初合掌して目を閉じて先ず次のように念じます。

  我今五官の世界を去って実相の世界に入る。

こう念ずるのであります。
五官というのは五つの感覚器官――目、鼻、口、皮膚の感覚、
これによって感じられる世界を「五官の世界」と言います。
「現象世界」とも言います。

その現象世界に現われているところの色々の貧乏とか、不幸とか、病気とか、
家庭の不調和とかいうものは、それを心で認めて、そして病気を
強く見詰めれば見詰めるほど病気が一層重くなるし、
家庭の不調和を見つめてそして家内と仲が悪いと心に強く念ずると、
益々仲は悪くなるのでありますから、心でそういうものをつかんではいけません。

そこで

「五官の世界を去って実相の世界に入る」と念じて、
感覚で感じられる現象の世界の病気と不調和を心から放ち去って
神の作り給うた実相の世界の方へ心を振り向けようというのが、
最初に唱える言葉であり、神想観をする時の最初の心の姿勢であります。




心で掴んでおった暗い世界、色々な不調和な世界を自分の心から放して、
心をくらりっと振り向けて神様のお造りになったそのままの世界、
言い換えると、実相の世界に心を振り向けて

――その世界は暗い世界じゃなくて光が輝いている世界であります――

光ばかりの世界へ心を振り向けて、
此処が此の儘実相世界であると心の目で見詰めるのであります。

その実相の世界は神様が作り給うたその儘の世界でありますから、

其処は神様の無限の智慧が満ち満ちている。
無限の愛が満ち満ちている。
無限の生命が満ち満ちている。
無限の供給が満ち満ちている。
又無限の喜びが満ち満ちている。
無限の調和が満ち満ちている。

そういう素晴らしい実相世界を心に描いて、それに心を振り向けるわけであります。

此の世界は観る物が現われると共に、言葉で唱えるものが現われて来るのであります。
「神光あれと言い給いければ光ありき」と『創世記』の第一章にありますように、
コトバで唱えるものが現われてくるのであります。

実相世界のすばらしい光が輝いている世界をじっと心の眼で観ながら、

その光が

“智慧の光”であり、
“愛の光”であり、
“生命の光”であり、
“供給の光”であり、
“喜びの光”であり、
“調和の光”である

ということを、心の中で言葉を繰り返して確認することによって、
それが現実化して来るのであります。

それですから先ず神の“智慧の光”が満ち満ちていることを心の眼でじいっと、
その光の満ち満ちている世界を見つめながら

“神の無限の智慧の海”、“神の無限の智慧の海”という言葉を
数回繰り返すわけであります。

“神の無限の智慧の光”が満ち満ちているのを、じいっと見詰める働きと、
それに更にコトバで、無限の智慧が海原の水のように一ぱい満ち満ちている有様を、
“神の無限の智慧の海”、“神の無限の智慧の海”と、心の中で唱えるコトバの力と、
観る力とによって、実相世界の完全な光景を現実化するという方法をとっているのが
この神想観であります。

その“神の無限の智慧の海”を観じ、唱えたその次には、
“神の無限の愛の海”、
“神の無限の生命の海”、
“神の無限の供給の海”、
“神の無限の喜びの海”、
“神の無限の調和の海”を観ずるのですが、

その各一つを数回ずつ繰り返してじっと見つめて、
最後は“調和の海”でありますから、その“調和”を受けて次の如く念じます。

「此の大調和の実相の世界にいて、
我神の子として神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」

とこう念じまして、今までずーっと見亙(わた)し、見つめておったところの
智慧・愛・生命・供給・歓喜・調和等の光輝く神様の御徳が、
ずっと自分の身体を、頭の先から足の爪先に至るまで、
ずっと上から下へ流れ入って光明燦然と輝きながら流れ入り満ち亙って、
物質の肉体と置き代わってしまう様な気持になりつつ息を静かに吸う。

息を吸いながら、その息を空気と思わず神の無限の生かす力が流れ入って
一息吸う間に、全身が神の生命そのままに化してしまう、
そういう気持を招(よ)び起すのであります。

すっかり息を吸い込み終りましたら鳩尾(胃の上部)のあたりを
後ろにひっ込めてその辺にあった息を落とし、下腹に軽くいきむような力を入れます。

すると、下腹に今吸い込んだ神の生命が満ちた“充満の気持”が起ります。
その充満の気持を、神の無限の生かす力が自分に流れ入って自分の内に充満しておって、
それに生かされていると、こう観ずるのであります。

すっかり息が入ってその息を下腹におとして、
神の生命充満の満たされた感じを味わいながら、
息を暫く停(とど)めて、

「神の生命に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている。
有難うございます。も早、我生くるに非ず、神の生命此処にありて生くるなり」

こう念じまして、“も早我生くるに非ず、キリスト我に在りて生くるなり”という
悟りの境地を説いていますが、それと同じように、
「も早肉体の自分が生くるんじゃなくて、神の生命が此処に宿って生きているのである」
という自覚を呼び起こすわけであります。

そう念ずる時、下腹の力を抜いてはいけない、
下腹をやっぱり前方に張り出して暫く呼吸を停め、軽く息む感じを続けながら、
此処に神の生命が満ち満ちているという感じを失わずに、そう念じておりますと、
一遍に息がもれないで、鼻から自分に気が付かぬ程、極僅かずつ息が漏れて参りますが、
それが段々漏れて七分通り息が漏れて、まだ三分の息は下腹に残って、
軽く腹力を保っている時分に、再び息を吸うのであります。


そして再び息を吸う時には、前と同じように、
「神の無限の生かす力自分の内に流れ入る、流れ入る・・・・・・」と念じます。

息を吸う時には何時でも神の生命が輝きながら、
“光”の姿で流れ入ると思いまして、その流入を心の眼でじいっと
見詰めるような気持ちで精神を集中しますと、
心が統一して心も身も透きとおった気持になるわけであります。

すっかり息が入れば前と同じように、鳩尾を引っこめてその辺の息を下腹へ落して、
軽く息む力を下腹へ入れて、

「満たされている、生かされている、生かされている。有難うございます。
も早吾生くるに非ず、神の生命此処にあって生くるなり」

と念じていると、自分の体(たい)が“肉体の自分”じゃなくて
“神の生命”が私だという信念が引き起こされて来るのであります。

そして神想観を指導する人が、神想観の結末の、
既に天国は此処にあるという意味の“みすまるの歌”を、
  
「天照らす御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の、
生命(いのち)射照らし宇宙(くに)静かなり」

と朗々と歌いまして手を二つ拍(たた)いて「終り」と申しましたら、
皆さんは両手をほどいて目を開いて、神想観を終るわけであります。


それでは皆さん既に座席にお着きになりましたから実修に移ります。

皆さん、椅子に深くかけていたのを浅く掛けなおして下さい。
膝頭の間を、男の方は拳の寸法四握りか、五握りほど開けて下さい。
女の方は一握りか二握り開けて下さい。

左の足先を右の足蹠(あしうら)の上に重ねます。
左が上で、右が下であります。
これが宇宙の法則であります。

その重ね方は、左足の母趾(おやゆび)を、
右足の踵(かかと)と内踝(うちくるぶし)との間にある窪みの所へ、
嵌め込むように重ねます。

こう重ねた足蹠(あしうら)の上にお尻を載せます。

腰を前屈みにしないで、腰を立てて、寧ろ前屈みの反対に、腰を反らして、
そしてお尻をうんと後ろへ引いて、お腹を前へ張り出す気持になって
腰をしっかり据えて下さい。

顔はうつむかず、仰向かず、そのまま出来るだけ顎を後ろへ引いて下さい。

すると鼻の孔は下を向いておりまして、下腹の上部にある臍(へそ)は上を向いて、
下向きの鼻孔と垂直に対面するような気持ちで、下腹を前へ張り出してください。
そういう姿勢になりますと、背骨が真直ぐになって地球の引力と一致するようになります。

  
顔の前に合掌していただきます。
手の高さは親指の第一関節と第二関節との間の隙間から唇を
細目にあけて息を吹きこめる高さに持って参りまして合掌致します。

目を瞑って下さい。
私がこれから招神歌(かみよびうた)を歌います。

念ずる言葉を日本語で言います間、息を静かに吸って神の生命を吸うと念じながら、
吸った生命の霊気をその息と共に親指の第一関節と第二関節との間の隙間から
手のひらへ息を吹き込むことを続けながら、私の招神歌を四首歌います。


  生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)
  元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え
      
  吾が生くるは吾が力ならず天地(あめつち)を貫きて生くる祖神の生命(いのち)
      
  わが業(わざ)はわが為すにあらず地(あめつち)を貫きて生くる祖神の権能(ちから)
      
  天地(あめつち)の祖神(みおや)の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神守りませ

  
次の如く念じます。

  我今五官の世界を去って実相の世界に入る。
  此処が此の儘実相の世界である。

  神の無限の智慧の海、神の無限の智慧の海、神の無限の智慧の海・・・・・・
  神の無限の愛の海、神の無限の愛の海、神の無限の愛の海・・・・・・
  神の無限の生命の海、神の無限の生命の海、神の無限の生命の海・・・・・・
  神の無限の供給の海、神の無限の供給の海、神の無限の供給の海・・・・・・
  神の無限の喜びの海、神の無限の喜びの海、神の無限の喜びの海・・・・・・
  神の無限の調和の海、神の無限の調和の海、神の無限の調和の海なり。

  此の大調和の実相の世界に坐して、我今神の子として
  神の無限の生かす力の供給を受けつつあるのである。
      
  神の無限の生かす力自分の内に流れ入る流れ入る流れ入る・・・・・・
  (と念じながら、息を下腹に落として)
  神の無限の生かす力に満たされている。生かされている。満たされている。
  生かされている。満たされている。生かされている。
      
  も早我れ生くるに非ず、神の生命(いのち)此処にあって生くるなり。

こう念じて自然と鼻から息が漏れて七分通り息が漏れれば又息を吸う。
吸う時には何時でも

  神の無限の生かす力自分に流れ入る流れ入る流れ入る。

と念じながら、その息を下腹に落してまた

  生かされている。満たされている。生かされている。満たされている。
  生かされている。満たされている。も早我生くるに非ず、神の生命(いのち)
  此処にありて生くるなり。

と念じます。

そして又息が漏れれば息を吸う。
以下同じ様に念じて循環的に繰り返します。

今念ずるコトバを私が言いました通り、繰り返し念じながら
実相世界の素晴らしい光景をじいっ見つめてください。

最後に「みすまるの歌」即ち天国実現の歌を歌います。

    
  天照らす御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の、
  生命(いのち)射照らし宇宙(くに)静かなり

  
これで神想観を終りました。
瞑目合掌をほどいて下さい。
ありがとうございます。

   ( http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7853385 )

            <感謝合掌 令和元年5月4日 頓首再拝>

神想観は祈りにみちた瞑想である - 伝統

2019/05/24 (Fri) 03:16:22


           *徳久克己・著『心の持ち方一つ』上 
              心の力(P181~184)より

「生長の家の神想観の指導は、私の守護神がするのではなく、
今度人類光明化の大運動を神界より人間に向けて始められた
唯一神の救いの霊波の人格化なる神界の大天使たる 
『生長の家の神』 がせられるのであります。 

かくの如き高級霊は距離を超越し、一身を多身に顕じて自由自在でありますから、
この神が神想観の現場に来臨せられることは霊覚ある諸方の読者の通信で明瞭であります。 

遠隔指導の実修時にはこの神が実修者各人に付き添うて各人の神想観すなわち
『大生命と無我一体になる修行』 を助けられるのでありますから、
肉体の上から言えば遠隔指導ですが、

この大天使みずから神通力によって各所に顕現して指導に当られるという上から言えば
直接指導と言えるのですから、遠隔でも直接のつもりで修行して下さい。」 
 《谷口雅春先生著 『詳説神想観』93頁》


まことにスバラシイことであります。 
「この神が実修者各人に付き添うて ・・・ 」 神想観を指導してくださる、
ということがわかりますと、真剣に 「かみよびうた」 をうたって、
生長の家の大神様をお招びする。 

そしてその御来臨をいただき、神想観を実修するために、 
「かみよびうた」 を、その心がけで歌うようにすることの大切さもわかります。

講習会で谷口先生が、神想観の説明をされた時、

「生長の家の大神が、皆さんの一人一人の左横にお立ちになって、
御指導、御守護くださるのですよ」

と言われたことを思い出します。 

それは各人に付き添ってということを具体的に説明されたのである、と想います。 

ところが、生長の家では、人間は神の子であり、既にすべてのものは与えられている、
と説いているのに、なぜ 「生長の家の大神、護りませ」 というのか、
という質問を受けることがあります。 それには、

「『生長の家』 では“すでに”われらはすべてを与えられているという。 
それだのに招神歌に 『幸えたまえ』 とか 『護り給え』 とかいう
詞があるのを変だという人がある。 

これは自力の感じが強くして絶対力の自覚を喚び起こしにくい人に、
絶対者に護られている感じを導き出すためです」 
《『生命の實相』 第15巻 79頁》  
こう教えておられます。


先生がアメリカを御巡錫されました時、 
「神想観」 をただ 「瞑想」 とだけ通訳せず  
Prayerful meditation  〈祈りにみちた瞑想〉  と訳させておられました。

先生が神からジカに授けられた、この生長の家の神想観、
これを外国語に訳すことは、とても難しいことだと思いますが、
たんなる瞑想でも、たんなる祈りでもない、

神想観を英訳される時、このように訳されていましたので、
私もアメリカで伝道している時は、そのように訳してもらっていました。

「神想観のときの招神歌は、あれは、ただの歌ではないのでありまして、
全体が祈りになっているのであります。 『生命の實相』 の “観行篇” には、
明らかに 『この合掌をアンテナとして神の無限の生かす力を我に流れ入らしめ給え』 
と祈る条項が記載されてあります。 

すなわち神想観は、単なる観法ではなく、 
『祈り』 と 『観法』 と調和し、合体したもの、
自力によって他力を呼び出し、その他力の自覚によって、
また自力を呼びだす円環的方法になっているのであります」  
《『詳説神想観』 53頁》


招神歌は、全体が祈りになっているのでありますから、まことに重要なものでありまして、 
「神をお招びする祈り」 ということができます。 

長い間、習慣のようになりまして、あまり深く考えることなく、
招神歌をうたっていました私が、神を招神歌でおよびして、
その神さまの御守護のもとに、自分の心のレンズを全開して、
大実在たる神様の光を完全に身に浴びる

 ―― 即ち大実在なる親様と、自分とを完全に一体にする方法 ――  
これが生長の家の神想観であります。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18726283.html

            <感謝合掌 令和元年5月24日 頓首再拝>

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2019/05/28 (Tue) 04:55:28


       *「光明法語」(5月28日)より

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

            <感謝合掌 令和元年5月28日 頓首再拝>

無限供給を実現する神想観 - 伝統

2019/06/20 (Thu) 04:44:06


      *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2018-12-06)より

『詳説神想観』 にも 『聖光録』 にも収録されていないこの神想観は、
東京・原宿に本部会館が建設される時、献資をされる信徒の皆様が豊かに楽々となるよう、
尊師谷口雅春先生が昭和26年7月に「ハガキ通信」で発表されたものです。



【無限供給を実現する神想観】


[前文]

神は全ての全てであります。
一切供給の本源は神であります。

この真理のみが無限供給を実現する処の鍵であります。

吾々が成功し繁昌し、神の子らしき豊かにして整った生活をすることは、
親様としての神の願いであります。

宇宙の全ての善きものは神の自己顕現でありますから、
吾々が無我になって神そのものの顕現力を自働せしめる事が出来るならば、
成功と繁昌と健康とは必ず実現するほかはないのであります。


無限供給を実現するために次の如く思念しましょう。



[本文]

「吾今五官の世界を去って実相の世界にいる。
此処は神の海である。 霊の海である、無限供給の海原である。

風が吹けば海に波が起るように、吾が思念する通りのものが、
霊の海・無限供給の海原に起るのである。

吾れは無限供給を想念するが故に無限供給は来(きた)るのである。


《註: そよ風吹けば小波が起り、大風吹けば大波が起るように、
小さい根性には小なる供給、大なる根性には大富の大波が起るのである。》


吾は神の智慧に導かれ、ただ成功し繁栄する想念のみ思い浮んでくるのであり、
その通りに実行する勇気が与えられるのである。

何時、如何に、何を、誰になすべきかは、神の智慧が導き給うのである」



(かく念じたる後、“神の繁栄の智慧流れ入る、流れ入る ………… ” と念じながら、
“智慧”の流れ入る思いで静かに吸気すること数分間。

〈吸気を丹田に充実し、その間“神の繁栄の智慧充満し、
吾が無限供給を実現し給う”と念ずるもよし〉

完全に神に全托の感情の中に打ち浸るのである。 その次に斯く念ずる)



「神の智慧が私の智慧である、神の智慧が私の智慧である。
私はすべての行動や計画が神の智慧に導かれるが故に、
私は凡ゆる計画が成功し事業は繁栄するのである。

私は無限供給の大生命の大海原にわが想念の起す通りの形を無限供給されるのである。


《註: 大きくも小さくも吾が想念通りの無限供給が適確に与えられるのである。》


私に必要な一切の智慧と協力者と計画と資金と資材とは豊かに集って来るのである」



ここまで念じて、

「私に必要な一切の智慧と協力者と計画と資金と資材とは豊かに集って来るのである」

の一句を数分間繰返し、静かに受身の心持にてそれが流れ入ることを念じ、最後に、

「わが願いは既にきかれたり」 と繰返し、

「常にわが願いをきき給う神に感謝致します、有難うございます」

と繰返して思念を終ります。

    ( https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/5f1a983770912649d627cfc4341b0235 )

            <感謝合掌 令和元年6月20日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2019/06/25 (Tue) 04:40:35


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

            <感謝合掌 令和元年6月25日 頓首再拝>

神想観は父子の対面 - 伝統

2019/07/20 (Sat) 04:33:40


        *「詳説 神想観」(P54)より

神と私とは父子(おやこ)の関係だ、本当に愛し愛されている。
有難うございます。―― こういう神想観が楽しくないはずがありません。
それは永く別れていた親子の対面なのですから。

神想観が退屈になったり
足が痺(しび)れて来たりするのは観念の神想観をしたり、
自力で自己暗示をするつもりで神想観をするから
情感が湧いて来ないで退屈するのであります。

本当に情感が湧いて来たら、恋人同志が逢っているとき、
ただ「名」を呼んでいるだけで無限の楽しさがあって、
いつでも飽きて来ないように、
神との交わりの神想観も飽きて来ることがないのであります。

            <感謝合掌 令和元年7月20日 頓首再拝>

神想観は、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法 - 伝統

2019/07/28 (Sun) 04:44:00


        *『光明道中記(7月28日 人生の目的を知る日)』より

【人生の目的とは要するに此の世に神の生命を顕現することであります
                      。(『生命の實相』第七巻)】


雪峰義存(せっぽうぎぞん)禅師は前述した徳山和尚の法嗣(あとつぎ)である。
徳山があゝ云う激しい性格の人で、幾度も徳山の棒で叩かれて悟った人であったから、
雪峰もなかなか激しい公案を出す。

その雪峰和尚、或る日弟子たちに

『尽大地(じんだいち)撮(さつ)し来(きた)るに、
粟米粒(ぞくべいりゅう)の大いさの如し。汝らの面前になげ向(だ)す。
灯台下暗しで判るまい。判らなければ、太鼓を打って皆を集めて
大掃除をして捜して見よ』と云う公案を出された。

この公案が判ったら尽大地悉く諸君の掌上(しょうじょう)にあるのだ。

現在の天文学で宇宙の大いさを知るならば、
地球の如きは、その大宇宙に浮んだ粟米粒に等しいこと位は誰にも判るが、
「尽大地撮し来るに粟米粒の大いさの如し」と云うのは、
そんな比較上の大いさのことではない。

比較を絶した、絶対零(ゼロ)の一点
 ―― 「今」と「此処」とが自己掌上にあることを知らなければならない。


「我れ今五感の世界を去って実相の世界に入る。
自分の坐っている一点上の《此処》が即ち実相の世界であって、
その一点の中に無限の智慧、愛、生命、供給がある」

と念ずるのがそれだ。

神想観は尽大地どころか、宇宙全体が既に今此処にあることを知る行法である。

         <感謝合掌 令和元年7月28日 頓首再拝>

足を踏みしだくこと - 伝統

2019/08/01 (Thu) 04:24:31


          *「光明道中記」(8月の言葉<P238>)より

上位は下位を下属せしめなければならぬ。
天は地を覆い、地は天を載せなければならない。

吾々はそれを日々行じなければならないのである。
先ず自分自身にそれを行じなければならぬのである。
心に行じ、身に行じ、体に行じなければならぬのである。

真理の実践である。

人々は姿勢を軽んずるが、
まず真理は自分の最も近いところの自分の身の形(姿勢)に上位をして
完全に下位を下属せしめていることを実現しなければならないのである。

姿勢の根本は腰にあって腹の膨大にはない。
腰は後屈を忌む。即ち腰くだけを忌むのである。

併し足の位置整わずして意志の力にて腰のみを正しく《立てる》(屈み腰の反対)
ことには、到底長時間は耐えられない。

腰を正しく立てるには左足の足蹠(つちふまず)が会陰部(えいんぶ)を下より覆い、
左足の甲全体を右足の足蹠(あしうら)によって下より覆い右足の足趾(ゆびさき)は
左足の外側踝(くるぶし)に稍々(やや)触れる位に重ね、足全体を完全に全身の下位
にあり、隠れしめねばならぬ。

会陰は一切の陰になる部位(足を含む)と相会し隠れて了うのである。
肛門は足蹠又は踵(かかと)よりに後部に落ちる。

斯くの如く坐して腰を前方へ張出す如くして腰部に上体の支点を置き、
その上に上体を垂直にフウワリと位置せしめるろ頂部を天上に釣り上げられる如き
気持ちで坐せば、自(おのずか)ら肩の力が落ちて、

上位、下位の真理が如実に行ぜられるのである。

         <感謝合掌 令和元年8月1日 頓首再拝>

神様と父子対面の時間 - 伝統

2019/08/16 (Fri) 03:57:21


        *Web:『生命の實相』哲學を學ぶ(2019-03-05)より

神想観の時間、又は祈りの時間を、
自分の要求を訴えるための時間だなどと利己主義のことを
考えてはならないのであります。


それは神様と相対面するための
とって置きの時間だと考えなければならないのであります。


吾々は神様から生命(いのち)をいただいた。

神様は吾々の親様なのであります。


親様に対面するのに常に乞食のように、放蕩息子のように、
親様から無心を云うことばかり考えていてはならないのであります。


それよりも寧ろ、
「お父さま、貴方の御心は如何ですか。
何か私に出来ますことで貴方をお喜ばせ申すことが出来ますならば、
お教え下さい」と祈るべきであります。

 (https://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/bb346b68ab68461ab07105bb606433bf )

         <感謝合掌 令和元年8月16日 頓首再拝>

端坐して実相を観ずること - 伝統

2019/08/28 (Wed) 03:48:55


        *『生長の家』(昭和48年6月号)より

現在、不幸の境涯にある人は、 

「すでにあなたは無限によきものを与えられているのだ」 

と申し上げても、それをその通り承認できないのは無理もないのである。

だけども、それは現象と実相とを混同しているのである。 
現象界の姿は自分の想念感情によって歪められ、色づけられて、
本当の姿をあらわしていないのである。

それは歪んだ 「レンズ」 を通して、ピントの合わぬ写真を撮った場合のように、
美しい線が消え、輪郭がボケて歪んだ写真のように、
存在の実相 ―― すなわち本当の相(すがた)をあらわしていないのである。

あなたの 「心のレンズ」 を円満完全なものとし、
精確にピントを、神の方向に向けて合わし、
神の創造(つく)り給うた実の相(すがた) ―― 実の人間を見つめなさい。 

完全なあなたの実相が、健康なあなたの実相が、豊かなるあなたの富が、
あなたの生活にあらわれて来るに相違ないのである。

その存在の実相を観ずる方法が神想観であり、
端坐して実相を観ずることなのである。 

『観普賢菩薩行法経』 には 
「懺悔せんと欲すれば実相を念ぜよ、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」 
と録(しる)されているのである。

 (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24486963.html より転写)

         <感謝合掌 令和元年8月28日 頓首再拝>

一人の神想観は全人類の悟りを速める - 伝統

2019/09/11 (Wed) 04:42:05


           *『理想世界』(昭和37年9月号)より

道元禅師は坐禅の功徳を説いて 
「 ・・・ 諸佛如来をして本来の法楽を増し、学道の荘厳を新たにす。 
及び十方法界三途六道の群類皆倶に一時に身心明浄にして、
大解脱地を証し、本来の面目を現ず」 と説いていられるのである。

 
これ全く神想観の功徳である。


「本来の面目」 とは人間が元のままの 
“実の相” のことであって、実相の完全さの事である。 

茲には一人の人間の真の大解脱 (悟りによって自由自在になること) が、
十方法界、あらゆる方角のあらゆる世界の生類ことごとく大解脱となることが
教えられているである。 

「一人」 とは唯の一人でなくして
全人類全生類と一体である一人であるのである。

それを思うと自分が神想観を為すとき、
一切人類が神想観を修しているのであり、

自分が神想観を怠るとき、
全人類が神想観を怠っているのであることが判り
責任の重大さが痛感されるわけである。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18704194.html より転写)

         <感謝合掌 令和元年9月11日 頓首再拝>

(癒しのための神想観の)時間 - 伝統

2019/09/24 (Tue) 04:41:28


       *『詳説 神想観』(P220)より

癒しのための神想観は、一体何時間または何回行なったら
それが有効な効果を現わすであろうかということは、
しばしば初心者から尋ねられることであるけれども、

それは、「祈る人」が真に実相円満完全の姿を心に明朗静謐な気持で
描き観じ得るまでの時間に正比例するのである。

実際においては「時間」は《無い》のである。

「無い」という言葉が不適当であるならば、
実相においては、すべての時間は「無」の中に握られているのである。

吾らが真に「実相」の中に超入し得る底(てい)の神想観の境地に達して、
「病気は無い」と念ずれば、瞬間の想念がよく完全にあらゆる病気を
消滅せしめ得べきである。

が、多くの場合においては、思念者自身が明朗静謐な心境に到達し得るのには
平均20分や30分位はかかるのである。

だから神想観の実修時間を普通30分位にしているのである。

その時間は眼前に起っている悲惨なる光景を見た時の
心の動揺を自分の心の中で打消し得る時聞にも関係してくる。

これは決して《より》多く悲惨なものを癒やすには、
より多くの時間を要するというのではなく、

より多く悲惨なものを見た場合、こちらの心を真に平静にするには
より多くの時間を要するというに過ぎない。

         <感謝合掌 令和元年9月24日 頓首再拝>

ただ念仏 ―― ただ神想観 ―― それのみが真実である。 - 伝統

2019/09/30 (Mon) 04:20:10


       *「光明道中記」(9月30日《大自在の日》)より 

 【病気は無い! 物質は無い! 現象はない。実相のみ独在。(生命の實相第十巻)】

(歎異抄総結の条)

   聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、
   ひとへに親鸞一人がためなりけり。・・・

   聖人の仰せには、善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。

   そのゆへは、如来の御こころに善しと思召(おぼしめ)すほどに
   知り徹(とお)したらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、
   如来の悪(あ)しと思召(おぼしめ)すほどに知り徹(とお)したらばこそ

   悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
   よろづのこと、皆もつて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、
   ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ仰せは候ひしか。・・・


もう此の月の頁が終わるので『歎異抄』の総結のところ
重要点だけに端折(はしょ)る。

「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、
ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは至言である。皆その心持保つべしである。

よくよく考えて見れば本当に人間には此の世のことの善も悪も本当には判らない。

此の「善をしたから救われる」と云うような
自力の判断は恥ずかしくて出来ないのである。

此の世のこと、善と言い悪と言い、併しそれはただ空言、妄言(たわごと)、
実相(まこと)ではないのである。

ただ念仏 ―― ただ神想観 ―― 
それは如来から廻施(えせ)せられたものであるから、
それのみが真実である。

諸君よ実相を観じよう。

         <感謝合掌 令和元年9月30日 頓首再拝>

神想観はただ神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2019/10/07 (Mon) 04:30:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月7日)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、その後に起こる事件の処理中には
(病気ならば回復の過程において)悪化と見える出来事が起こってくるかも
知れないのである。これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに
「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」と
念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 令和元年10月7日 頓首再拝>

般若波羅蜜多(「神想観」)を行ずる - 伝統

2019/10/10 (Thu) 04:28:48


    *「光明道中記」(10月10日《般若波羅蜜多を行ずる日》)より

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、
すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、斯くして精神統一を得て一切に
煩わされることなく自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。

神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して
蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、自己を光明無量、生命無量、
慈悲無量の毘盧舎那身(びるしゃなしん)として観ずるのであるから、
般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを同時に行なうものである。

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 令和元年10月10日 頓首再拝>

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