伝統板・第二
実相を観よ(Look into the reality) ② - 伝統
2017/12/02 (Sat) 03:32:09
*伝統板・第二「実相を観よ①」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6922622
《本質は光り輝いている》
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月2日)より
ここに1個の高貴なダイヤモンドがあるとする。
それが人の邪念に涜(けが)されなかったら、それはそのまま貴いのである。
ダイヤモンドの美はそれ自身で貴い。
が、それをある人に示したとき、
甲は、「今頃こんなものを指につけていたら贅沢だと言われるだろう」と言った。
乙は、「わたしがつけていたら、どうせあれは
贋(まが)い物だろうと人が言うでしょう」と言った。
丙は、「わたしがそれをつけていたら、どこかできっと盗んで来たんだろう
と人が言うでしょう」と言った。
甲はそれに「贅沢」という名をつけ、
乙はそれに「贋(まが)い物」だという名をつけ、
丙はそれに「盗み」という名をつけたのである。
かくして無上の価値を持った宝石も、
心なき人の手に触れるとき、それはすでに宝石でなく、
「贅沢」となり、「贋(まが)い物」となり、「盗み物」となったのである。
しかし、これらの批評にかかわらず、
ダイヤモンドは依然としてそれ自身の光輝をもって輝いているのである。
<関連Web>
光明掲示板・第二「実相は最大の力」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=403
<感謝合掌 平成29年12月2日 頓首再拝>
実相は皆”神の子”の兄弟 - 伝統
2017/12/03 (Sun) 04:48:46
*「光明道中記」(12月3日すべて自己の責任と知る日)より抜粋
【隠れたるところにて人を賞め得る人となれ、其の人の心境は朗(ほがら)かである。
(『生命の實相』第十巻)】
私はそんなにまだ偉くなれていないのである。
まだまだこれからだと思う。
光明思想が世界に弘(ひろ)がることを待ちかねている。
光明思想を弘めている誌友のなかでまだ家庭が調和せず、
「何とか指導して貰いたい」と云う愬(うった)えが
私のところへ時々来るのは悲しいことである。
併し、わが実相哲学は直(ただ)ちにこうした悲しみから、
また私を立ち上がらせて、その人のために祈ることができるのである。
実相は皆”神の子”の兄弟で、争っていないのである。
<感謝合掌 平成29年12月3日 頓首再拝>
「迷い」を見ず、「実相」を直視して、その力を引き出す - 伝統
2017/12/04 (Mon) 04:06:47
*「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より抜粋
イエスはラザロの死せるを見たとき、同情の涙を流したことが聖書に書かれている。
しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。
同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。
直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、
かえってその相手は復活し救われるのである。
またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人に
ただ「起きて床をとり上げて歩め」と言っているのである。
「ああかわいそうに! 」と言って、一緒に倒れふし泣き濡れて
動けなくなっているのではないのである。
すべての人間は神の子であるから、
「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。
「迷い」に同情してはならないのである。
その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。
真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは
真の宗教家のつとめではないのである。
<感謝合掌 平成29年12月4日 頓首再拝>
生長の家の実相哲学 - 伝統
2017/12/17 (Sun) 04:08:42
*『善き人生の創造』(P94~95)より
生長の家の実相哲学では暗の方から推論を進めて行かないで、
光を点じて直観的にぱっと「迷いはない」と結論を下してしまうのであります。
これを「実相覚」と云うのであります。
谷口哲学は直観哲学であります。
暗の方から光の方を研究して行ってはならない。
悟りの目を開いて、「人間は神の子だ」、
ただそれだけの光を点せばいいのであります。
そうしたら迷いはない、迷いが何故現れているのか
そんな事は問題にはならないのであります。
暗がどうして現れているかと云うと心に光を点さないから現れているのですから、
心の世界に目を覚まして、
「人間は神の子である、神のいのちである、その儘明るいのだ」
それをその儘悟ったらいいのであります。
そしたら此の世界には何も悪いものは一つもない、
悉く神の智慧と愛と生命と供給と調和とが充満している
ところの世界であると云うことがハッキリ分るのであります。
<感謝合掌 平成29年12月17日 頓首再拝>
生長の家の世界観 - 伝統
2018/01/04 (Thu) 04:37:41
*『善き人生の創造』(P162~163)より
生長の家の世界観は、そういう唯心唯物を超えて、
「心もない」と云うところまで入っているのであります。
(『観普賢菩薩行法経』の『心を観ずるに心無し。』)
物も《ない》し、心も《ない》。
物心一如もないのであって、あるものは円満完全な実相のみである。
そうして直接そのただ円満完全なる実相の生命に直下(じか)に触れるのであります。
心の影だと、まだ「心」を把んでいる間は本当の生命(せいめい)に入ることが出来ない。
その心を超えて、その心の奥まで入って行って
「生命(せいめい)」そのものを捉えなければならぬ。
黒住教祖はこれを『生き物を把め』と云って教えられました。
生命(せいめい)の実相(ほんとうのすがた)をつかんだとき、我々は、
病気しておっても病気していないところの人間を見出すことが出来るのであります。
(谷口雅春先生に帰りましょう・第一
「『善き人生の創造』第十二章「常住の祈りと云うこと」 」
http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15501071 平賀玄米<2015/11/11> より転写)
<感謝合掌 平成30年1月4日 頓首再拝>
《愛は現象を見ないで実相を見る》 - 伝統
2018/01/18 (Thu) 04:57:09
*『 生長の家 』(昭和25年2月3日の法語)より
愛とは 感情ではない 行為である ― とニイルはいったのであるが、
愛は 相手に宿る神性の凝視であり、相手に宿る仏性の礼拝である。
感情でどうにもできないものを 智慧では愛することができるのである。
彼の現象を見ず、実相を見て 彼のために奉仕するのである。
光明皇后が、癩病(らいびょう)患者の膿血(のうけつ)を
吸い給(たま)い、
聖フランシスが癩病患者を抱擁し、
接吻(せっぷん)したことの如きはそれである。
光明皇后と雖(いえど)も、聖フランシスと雖も、
不潔な癩病患者を感情で 「 好きだ 」 と
思うわけには行かないのである。
愛は 「 好き 」 を超えて 智慧の目で
相手の実相を見て愛するのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
<感謝合掌 平成30年1月18日 頓首再拝>
吾らは初めから如来であり、成仏している - 伝統
2018/01/22 (Mon) 03:17:24
*「光明道中記」(1月22日九族生天踊躍(しょうてんゆやく)の日)より
【吾らは初めから如来であり、成仏している。(『生命の實相』第一巻)】
金の純分のみが金となるのであって瓦を磨いて金とするのではない。
凡夫が仏になるのではなく、凡夫が消えて仏があらわれるのである。
凡夫の《はからい》が「雑行雑修」と言って真宗で排斥せられるのも、
凡夫が如来になるのではない証拠である。
仏と仏とに伝えてよこしまなることなきが禅であると
道元は『正法眼蔵』で喝破している。
たとい吾等が汚れたように見えようとも、
人間は本来汚れているものではあり得ないのである。
発止として自覚の灼熱状態に於て打たれるとき、
人間はその仏なる実相を露呈する。
そのままが仏であり、打っても打たなくとも仏であるが、
打てばそれがあらわれる。
打つのに色々な打ち方がある。
昔は「お前は悪い奴じゃ。もっと修行せよ」と言って打った。
生長の家は
「お前は善い本性を無尽蔵に有っている。
励めば励むほど、出せば出すほど力が出る」
と言って打つ。
どちらが効果があるかは既に実証済である。
<感謝合掌 平成30年1月22日 頓首再拝>
《実相の活力を体得せよ》 - 伝統
2018/02/07 (Wed) 03:36:26
*『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P266) より
「心」が「実相」に波長が合い、「実相」の光が肉体を全領するとき、
暗黒が影をうつしていた「病気」はその影を消してしまうのです。
光は暗黒を消し、実相は仮想を滅し、
真理は非真理を破壊せしめてしまいます。
怒りが感謝に変り、憎しみが愛に変り、心の不調和が調和に変りますと、
その心の波長に同調してあらわれて来るものは唯、善きもののみとなるのです。
寿命が尽き、霊界に移行するとき以外には、どんな衰えも肉体には現れないのです。
この真理を信じなさい。
信ずることは力です。
信念を動揺させてはなりません。
「実相の完全さ」に波長の合う心の状態は、
肉体に実相の活力を賦与してこれを健康ならしめます。
どんなに重篤な症状であっても、病気と寿命とは異なるから失望してはならない。
「実相の完全さ」のみ《実在》であるから、
どんな現象悪よりも強力であることを信じなさい。
<感謝合掌 平成30年2月7日 頓首再拝>
実相世界に波長を合わす4つの方法 - 伝統
2018/02/22 (Thu) 03:28:39
*『 生長の家 』(昭和25年2月8日の法語)より
《神想観を怠ってはならない》
実相の世界は すべての善きものの本源である。
実相の世界を観ずることによって、
それに心の波長を合わせるなら、
実相の世界のよきものが 自(おのず)から
地上に 「 祝福 」 として現われて来るのである。
神想観を怠る者は、いくら 「 人間 神の子 」 と頭で知っていても
現象世界が整うて来るということはないのである。
吾々は実相世界に波長を合わす方法に四つある。
その一つは 想(おも)いを凝らして、実相を観ずること。
その二は よき言葉を使うこと。
その三は、 「 甘露の法雨 」 の読誦。
その四は 愛を行ずることである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
<感謝合掌 平成30年2月22日 頓首再拝>
《心を平和にして坐(すわ)れ》 - 伝統
2018/03/08 (Thu) 04:43:57
*『 生長の家 』(昭和26年1月26日の法語)より
「 心を平和にして唯(ただ)坐ること 」
それだけでも内部の神を呼出すのに有効なのである。
道元禅師は、「 祇管打坐(しかんだざ) 」
すなわち 祇管 ひたすら 打ち坐ることによって
実相を徹見することを教えられたのである。
更に静かに坐って
「 わが内に神ましまして、全てについて我を導き給う 」
と念ずるならば、
我が力味も、取越苦労も 悉(ことごと)く消えてしまって
本当の心の平和を 得ることが出来るのである。
本当の心の平和に到達すれば
其処(そこ)には 人間の本性(神なる実相)があるのであるから、
自然に叡智(えいち)の閃きが湧(わ)き出で、
する事 為(な)す事 都合がよくなり、
無限の供給 おのずから整うのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51
<感謝合掌 平成30年3月8日 頓首再拝>
現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統
2018/03/13 (Tue) 04:41:07
*「光明法語」(3月13日)より
何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。
それは現象を見るからである。
現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。
膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。
人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。
<感謝合掌 平成30年3月13日 頓首再拝>
心の眼をひらいて実相を見よ - 伝統
2018/03/27 (Tue) 03:54:44
*「光明法語」(3月27日)より
「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。
これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。
心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば全身は明るくなり、
健康となるのである。
全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、豊かなる供給が集まり来るのである。
だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。
<感謝合掌 平成30年3月27日 頓首再拝>
《實相の完全さのみを観よ》 - 伝統
2018/04/06 (Fri) 03:54:27
*「光明法語」(4月6日)より
神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。
それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。
結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。
實相のみ實在であるからである。
<感謝合掌 平成30年4月6日 頓首再拝>
《実相を祈り顕(だ)す 》 - 伝統
2018/04/21 (Sat) 03:41:13
*『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第3篇( P81) より
常に実相の完全さを祈り念ぜよ。
人の悪口がゴシップの話材に出たときには、
皆と一緒にその人の悪口をいうことなく、
静かに「彼(その人)も神の子であり、神性が宿っているのであるから、
今後は屹度(きっと)よい事をするに相違ない」と念じてあげるのがよい。
人が病気にかかって苦しんでいるということをきいたら、
「神はその人を護りたまうて、病は最早(もは)や消えてしまったのである」と
念じてあげるのがよい。
これが実相を祈り顕(だ)すということである。
自分と誰かの間に誤解があって争いや葛藤があるときに、それを解決する道は、
先ず自分の心を平和にして、「彼と自分とが神の愛に包まれて完全に調和していて、
互いに何らの誤解も争いも存在しない」と念ずるがよいのである。
心の奥底に、この平和と調和の念が深く打ち建てられたら、
自然に現象界の紛争は解決せられることになるのである。
<感謝合掌 平成30年4月21日 頓首再拝>
相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統
2018/04/23 (Mon) 03:23:32
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より
竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。
そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。
竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。
藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、なおいっそうよくないのは、
かく外部から強制せんとしつつある自分自身が
奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。
人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。
人はその類の異なるようにその個性も異なり、事物に対する観察も異なるのである。
すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。
そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。
誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。
決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。
相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。
かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。
<感謝合掌 平成30年4月23日 頓首再拝>
《月の実相は常に円満完全である》 - 伝統
2018/05/18 (Fri) 04:27:08
*『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P268) より
人間は神の最高の自己実現として、神の無限内容の「理念」を内に包蔵し、
その無限の「理想」を永遠に一層広く、一層高く表現するのが人間の生活なのである。
人間の意識の最も深層には「神の心」があって、
神の有(も)ち給えるすべての「善き物」が其処に横たわっており、
私たちが瞑想によって、それを発掘しさえすれば、そのすべての「善き物」が
形の世界にあらわれて来るのです。即ち、健康、繁栄、幸福等・・・です。
所謂る「五官」の感覚は、外界の事物だけをするための作用ですから、
此の内在無限の宝については無感覚です。
「霊的実在」であり、「神の子」である実相については、
五官の感覚は知ることが出来ないのです。
五官の感覚は、三日月を見て、月が虧(か)けたと思い、
三日月に見えるときにも、月の実相は円満完全であると云うことを
見ることが出来ないのです。
<感謝合掌 平成30年5月18日 頓首再拝>
宝樹華果(ほうじゅけか)多くして衆生の遊楽する処 - 伝統
2018/06/01 (Fri) 03:29:29
*『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月1日)より
吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。
「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」と云う
『法華経』の文句は決して空文ではなく、既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。
それは既に放送局の放送があるのと同じように、既に肉眼では見えないが波長を合わしさえ
したならば現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように今此処に既にあるのである。
現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては不調和なものに波長を合わすから
不調和なものばかりが現れて来るのである。
<感謝合掌 平成30年6月1日 頓首再拝>
深く実相の完全さを祈る - 伝統
2018/06/22 (Fri) 04:35:31
*『生活の智慧365章』
(第1部生命の泉)第3篇( P77~78) より
《無 我 の 愛 》
「兄弟の愛を常に保つべし。見知らぬ人に対し愛を与えることを忘れるな。
見知らぬ人に愛(深切)を与えることにより、その人は知らず識(し)らず
天の使(つかい)に愛の歓待を施したことになる」と
「ヘブル書」に書かれているのである。
知った人、懇親の人のみに愛を与えるのには、
自分の執着による依怙贔屓(えこひいき)がはいっていて、
「無我の愛」とは言いがたいのである。
電車や汽車に乗った時、その隣にいる人に
生長の家の教えを伝えてあげるのも、
見知らぬ人に愛を施すことである。
知らず識(し)らず天の使を歓待していることになり、其の後、その天の使が
大いに人類光明化運動に活躍して下さることにもなるのである。
若し誰かが失敗したならば、それは「現象」であり、
「現象」は実在ではなく仮の相(すがた)があらわれているのであるから、
現象の悪をつかまえて責めることなく、
其の人の内なる実相が「神の子」であり完全であるということを、
瞑目して一心に念じ(又は祈っ)てあげることが、
「兄弟の愛を保つ」ということなのである。
深くその人の実相の完全さを祈ってあげれば、
自分の祈りの深さに応じて、その人の実相の完全さがあらわれ、
その人が立派になるものである。
<感謝合掌 平成30年6月22日 頓首再拝>
実相を諦観せよ! - 伝統
2018/06/24 (Sun) 04:24:59
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より
人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。
「自分の内に摂取する」とは同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という
愛念によって、相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。
それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。
これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。
かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。
そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、
「彼は神の子であるから病気もなければ、未だかつて憤ったこともないのだ」
と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。
これが『続々甘露の法雨』の中に
「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。
この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」
と 書かれている所以である。
すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく
「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
本来円満完全なる仏身なり」 (『続々甘露の法雨』)
と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。
「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」
この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。
しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。
物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、
さらに
「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」
と 心も否定し去り、しかして後、円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。
一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。
<感謝合掌 平成30年6月24日 頓首再拝>
《現象を見ず實相を称讃せよ》 - 伝統
2018/07/10 (Tue) 03:09:25
*『人生の秘訣365章』第6篇(P149~150) より
私たちは批評好きであってはならないし、争論好きであってはならないのである。
イエスはいみじくも「人を審くこと勿れ、また汝らも審かれん」と訓えているのである。
どんな立派な人間でも、尻の孔(あな)をさがしたら余りよい恰好でないように、
わざと欠点をさがし出したらどこかに汚れたところがあるのである。
それは現象を見るからである。
肛門といえども、その表面の形を見ず、
その奥にある“生命力”が如何に微妙な叡智をもって、それを工夫して製作し、
全身の健康を支えているかという其の形の奥にある生命の「實相」を見るならば、
その素晴らしさに驚嘆し称讃せずにはいられないのである。
人間を観るにも、形ばかりを見ずに、
その奥にある“神の子”を見るとき驚嘆し称讃せずにはいられないのである。
これを「實相を観る」と謂うのである。
<感謝合掌 平成30年7月10日 頓首再拝>
仮相(かりのすがた)には実相をもって相対せよ - 伝統
2018/07/23 (Mon) 03:51:06
*「如意自在の生活365章」(P250)より
"悪"は本来"非存在"なのであるから、悪があらわれたとき、
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする必要はないのである。
心を鎮めて、静かに「そのような状態は存在しない」ことを念じ、
その見せかけの"悪"の奥に、慈悲の神、愛の神がましますことを瞑想し、
悪なる"見せかけ"が消えつつあり、すでに"善なる実相"が
あらわれて来つつあることを繰り返し念ずるがよい。
そのようにして心が落ちついた後に、
自分の心に「その問題をいかに処理するがよいか」について
思い浮かんできた通りに処理すればよいのである。
現象界の悪と見える問題を「なし」と考えるだけで、
それを手を拱いて傍観し、「処理する必要はない」というのではないのである。
その処理する場合に、まず心を平和にして
「実相のあらわられる智慧」を呼び出してきて処理すれば、
現象に対して現象智をだして処理するよりも、
現象に対して実相智を出して処理する方がすみやかに現象が好転するからである。
聖経には「仮相に対しては実相を以て相対せよ」と示されているのである。
<感謝合掌 平成30年7月23日 頓首再拝>
實相円満の相(すがた)を見よ - 伝統
2018/07/30 (Mon) 04:15:42
*「光明法語」(7月29日~30日)より
超個人的精神上の観念
バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。
併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。
そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。
・・・
實相円満の相(すがた)を見よ
この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。
神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。
併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。
一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。
<感謝合掌 平成30年7月30日 頓首再拝>
仮相(かりのすがた)には実相をもって相対せよ - 伝統
2018/08/21 (Tue) 04:31:17
*『如意自在の生活365章』(P250)より
“悪”は本来“非存在”なのであるから、悪があらわれたとき、
興奮したり、激怒したり、取り乱したりする必要はないのである。
心を鎮めて、静かに「そのような状態は存在しない」ことを念じ、
その見せかけの“悪”の奥に、慈悲の神、愛の神がましますことを瞑想し、
悪なる“見せかけ”が消えつつあり、すでに“善なる実相”が
あらわれて来つつあることを繰り返し念ずるがよい。
そのようにして心が落ちついた後に、自分の心に「その問題をいかに
処理するがよいか」について思い浮かんできた通りに処理すればよいのである。
現象界の“悪と見える問題”を「なし」と考えるだけで、
それを手を拱(こまね)いて傍観し、
「処理する必要はない」というのではないのである。
その処理する場合に、まず心を平和にして
「実相のあらわれる智慧」を呼び出してきて処理すれば、
現象に対して現象智を出して処理するよりも、
現象に対して実相智を出して処理する方がすみやかに現象が好転するからである。
聖経には「仮相(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ」
と示されているのである。
<感謝合掌 平成30年8月21日 頓首再拝>
「実相覚」 - 伝統
2018/09/14 (Fri) 04:28:58
*『生命の實相』第2巻・實相篇下巻第3章(P104~109)より抜粋
(1)存在(もの)の実相(ほんとうのすがた)を観るには、
「自分の実相(ほんとうのすがた)」によって存在(そんざい)の実相を
照らし出して見るほかはないのであります。
「存在(そんざい)の実相」と「自分の実相」とが互いに照らし合わされ触れ合って
カチカチと如実に鳴る、そこに存在の不思議な円満な実相がありありとわかる。
なるほどこの世界は神が創造(つく)り給うた完全円満な世界であるとわかるので
あります。
(2)この存在(もの)の実相(ほんとうのすがた)を知る力は五官ではない。
これは「実相覚」といって一種の霊覚であります。
われわれが確実に存在(もの)そのものの実相(ほんとうのすがた)を知るには、
五官を超越し、第六感さえも超越してこの「実相覚」によるほかはないのであります。
(3)存在(もの)の実相をとらえるには、われわれは「実相覚」によって「一つの神」
すなわち、在りとし在らゆるものを在らしめている一つの力、生きとし生けるものを
生かしている一つの力を認めねばなりません。
(4)あなたは真の人間――すなわち「神の子」で神人(ゴッドマン)なのであって、
今あなたが、これこそ自分の身体(からだ)だと思っているその肉体は
「ウソのあなた」「念の影のあなた」なのであります。
皆さんめいめいが今既に実相の世界においては、霊妙な円相の人間、光明身の人間、
自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無憂苦の人間、絶対無病の人間
であられるわけで、それが本当の”あなた”なのであります。
<感謝合掌 平成30年9月14日 頓首再拝>
完全なる神人(ゴットマン)の実相を観よ - 伝統
2018/10/07 (Sun) 04:55:39
*「光明法語(10月7日 病気は心の影)」より
病気が自他の肉体に現われても、
肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。
その病気を「自分の心の影」だと見よ。
神の霊の完全なる顕現である肉体に、
自分の誤れる「心の影」として不完全なる状態をあらわして
済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。
そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。
この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。
<感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝>
実相は最大の力 - 伝統
2018/10/11 (Thu) 04:52:46
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
<十月「円満具足」10月11日>(P98)より
実相は最大の力である。
それは「実」であるから、
いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。
一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。
われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。
われわれは見せかけの外貌を超えてそこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。
暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。
悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。
善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。
<感謝合掌 平成30年10月11日 頓首再拝>
神の国の義しきを観よ - 伝統
2018/10/14 (Sun) 04:38:12
*「光明法語(10月14日)」より
「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。其の余のものは汝らに加えられるべし」と
イエスが言ったのは、彼の祈りが、対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。
そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する何等の人間側の努力もない。
天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。
吾等は唯それを観れば好いのである。
イエスが「われみずからにては何事をも成し得ず、
天の父われにいまして成さしめ給う」と
言ったのは此処である。
<感謝合掌 平成30年10月14日 頓首再拝>
「真実の完全自己」を諦視せよ - 伝統
2018/10/16 (Tue) 03:42:34
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月16日>(P101)より
人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。
英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。
「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。
本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。
「真実の完全自己」を想念せよ。
「真実の完全自己」のみを常に語れ。
心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。
<感謝合掌 平成30年10月16日 頓首再拝>
具体的妙(たえ)なる世界 - 伝統
2018/10/25 (Thu) 02:46:07
*「光明道中記」(10月25日 月一回の恩を返す日)より
【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。(『生命の實相』第十二巻)】
(一)人空 ―― 曰く、
物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。
「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、現象肉体の人間よりも、尚一層具体的で
あり、尚一層金剛不壊であり、真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
病気が頓(とみ)に癒えるのである。
(二)法空―― 曰く、
物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
空にして本来存在しないと否定せよ。而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。
「妙有の世界」とは現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。
現象世界は具体的に見えていても崩れるが、「妙有の世界」は現象世界が破壊すると
見ゆるときにも「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と釈迦が「法華経」に於て
説いたところも金剛不壊の世界である。
金剛不壊と云っても祖元禅師が「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」
と言った如き、風の如きエーテルの如きものであるから、斬っても斬れないと云う
ような頼りなき世界ではない。
「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、諸天天鼓を打ち
伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして大衆(だいしゅ)に散ず」と「法華経」の自我偈
にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。
<感謝合掌 平成30年10月25日 頓首再拝>
《あなたは既に完全である》 - 伝統
2018/11/09 (Fri) 03:02:02
*『人生の秘訣365章』第8篇(P220) より
あなたの生命(せいめい)は、これを宇宙大生命より受けたのである。
その實相は既に完全であり、無限であり、満ち足りているのであり、
現實の不完全と見える姿はその完全なる實相の表現の途上にあるのである。
その途上の景観は不完全に見えるけれども、
それは種子が、発芽する前に種子の殻が裂け、発根し、双葉が出て来て、
中々一ぺんに花咲かないようなものであるけれども、その過程を通して
「花の生命」は表現の途上にあるのと同じようなものである。
今不完全に見えたからとて失望することはないのである。
あなたは宇宙大生命の完全なる表現であるのであるから、
あなたの實相は既に完全なのである。
悦び喜べ!!
<感謝合掌 平成30年11月9日 頓首再拝>
現象の奥に実相を見る日 - 伝統
2018/11/27 (Tue) 04:06:41
*「光明道中記」(11月27日)より
【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。(『生命の實相』第十四巻)】
どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。
崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。
現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、それを顕し、
礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。
自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。
静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。
眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。
少くも好い。
実相があらわれれば好いのである。
実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。
人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。
<感謝合掌 平成30年11月27日 頓首再拝>
“實相”の中に躍入するだけで、過去の一切の罪も過ちも消える - 伝統
2018/12/15 (Sat) 04:23:22
《過去の一切の罪過を消す道》
*『人生の秘訣365章』第8篇(P223~224) より
過去にどんなことがあったにせよ、
あなたの内には、すべてのものを新たにする
不思議な力の生命が宿っているのである。
「黙示録」第二十一章には
「われ一切のものを新たにするなり」と書かれている。
“われ”とは“神”であり、皆さんの内にやどる“實相」である。
“實相”にはすべての過ちもなく、憎しみも、悲しみも、怒りも、争いも、
存在しないのである。
私たちは神想観を実修して“實相”の中に躍入すればよいのである。
私たちの實相は、“神の子”であり、神を第一原因とし、神を根本原因として
生まれたのであるから、如何なる悪も本来存在しないのである。
一切の悪は、第一原因ではなく、中間原因によって生じたもので、
確乎とした永久的基礎の上に築かれたものではないのであるから、
それは恰も途中で生じた雲のようなものであって、
雲は一時暗雲低迷して實在するかの如く見えるけれども、
それは定着するものではなく、常に浮動していて、
やがて消えてしまうものなのである。
それと同じく、根本原因によって生じたものではなく、
中間因によって生じたるものは結局消えてしまうものなのだから、
過去にどんな過ちがあろうとも、第一原因たる神に心を振り向け、
實相の中に超入するとき、過去の一切の罪も過ちも消えるのである。
<感謝合掌 平成30年12月15日 頓首再拝>
實相に超入することで、“神の子”が蘇生る - 伝統
2018/12/30 (Sun) 04:54:37
*『人生の秘訣365章』第8篇(P224) より
《われ一切(すべて)のものを新にするなり》
「黙示録」第二十一章第五節の「われ一切のものを新にするなり」は、
「観普賢菩薩行法経」にある「懺悔せんと欲っせば端坐して實相を観ぜよ、
一切の業障は皆妄想より生ず、衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」
という聖句に照応するところのものである。
「端坐して實相を観ずる」とは、
神想観を実修して、「實相の我れ」の中へ超入することである。
そのとき、「われ一切のものを新にするなり」(黙示録)であって、
一切の業障も衆(もろもろ)の罪過も、太陽の光に照らされた霜や露の如く
消えてしまい、本来の“神の子”なる眞清浄、眞無垢なる實相に蘇生ることが
できるのである。
<感謝合掌 平成30年12月30日 頓首再拝>
《吾は日に日に完全円満である》 - 伝統
2019/01/08 (Tue) 04:21:43
*「光明法語」(1月8日)より
神の完全なる実相が、
吾を通じて時々刻々尚(なお)一層完全に実現しつつあるのである。
われは神の子であり、神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、
日々に一層あらゆる点に於いて神の完全さを顕わし来(きた)るのである。
肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、言葉に於いて無礙であり、
交友に於いて愛にめぐまれ、ありとあらゆる点に於いて完全なのである。
若(も)し汝が何事か不調和な事を経験するなら
数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。
念を感謝に転ぜば一切は変化する。
<感謝合掌 平成31年1月8日 頓首再拝>
《迷妄の雲を超えよ、實相に超入せよ》 - 伝統
2019/01/27 (Sun) 04:25:23
*『人生の秘訣365章』第8篇(P233~234) より
過去に何があったにせよ、
現在、如何なる問題があなたを悩ませているにせよ、
既にそれは實相に於いては問題ではないのである。
神の智慧と愛と力とを信ぜよ。
悪しきものは何一つとして存在したことはなかったし、
これからも存在することはないのである。
何故なら神は過去に於いても現在に於いても、
悪しきものを造り給うことはなかったし、又ないからである。
あなたは神の創造し給える事物の實相の“善”を信じなければならないし、
また“神の子”たるあなた自身の實相の“無限力”と恵福とを
信じなければならないのである。
仮相(かりのすがた)を實相(じつのすがた)と
思い誤る妄想を棄てなければならないのである。
仮相(かりのすがた)の妄想の雲の中に、
あなたはいつまでも低迷していてはならないのである。
雲を超えよ。
自覚のジェット機に乗って、暗雲を突き脱けて、常住変わらざる蒼空の世界に超入せよ、
そこには常に“祝福の太陽”が輝いており、どんな難問題も決して存在しないのである。
<感謝合掌 平成31年1月27日 頓首再拝>
円満完全なる實相世界を心の眼をもって凝視する - 伝統
2019/02/23 (Sat) 04:58:30
*『人生の秘訣365章』第8篇(P234) より
《地上に天国浄土の延長をつくる》
「自覚のジェット機」に乗って「迷妄の雲」なき「實相の蒼空」に超入するには、
現象に引っかかってはならないのである。
問題を恐れる心、問題を起した人又は団体を憎む心を棄てよ。
神想観を實修し、眼を瞑じ、現象の世界(五官の世界)を去って
實相の世界に躍入し、「此処がこのまま實相の世界である」と念じ、
万徳、諸徳ことごとく具足せる円満完全なる實相世界を心の眼をもって凝視し、
問題の提起に関係したすべての人々に感謝する念を放送するがよい。
このようにしてすべての人々に和解し、實相世界の一切円満完全なる世界を、
一心に念ずるとき、實相世界の円満完全なる状態が現象界に延長し来って、
實相即現象となり天国即地上となり祝福されたる地上天国が実現することに
なるのである。
<感謝合掌 平成31年2月23日 頓首再拝>
《 現象の障礙(しょうがい)より一転して實相の無礙(むげ)の世界へ 》 - 伝統
2019/03/18 (Mon) 02:22:22
*『人生の秘訣365章』第2篇(P59~60) より
實相に於いては人間は“神の子”であるから、
既に円満完全であり、あらゆるものが完全に整っていて、
繁栄と富有と悦楽と愛情と創造の悦びと、
それらを実現するための智慧と力とが兼ね備わっているのであるから、
何らの牆壁も障礙もないのである。
若しあなたが、自分の希望の現実化の過程に於いて
何らかの障礙を感ずるならば、
現象の障礙の方に心を振り向けることを止めよ。
一転して、實相の無礙自在の世界に心を振り向けよ。
これこそが神想観なのである。
かくすることによって、無礙自在の實相の智慧があなたに流れ込んで来て、
どんな問題でも容易に解決する緒(いとぐち)を見出すことができるのである。
<感謝合掌 平成31年3月18日 頓首再拝>
心の眼をひらいて実相を見よ - 伝統
2019/03/27 (Wed) 03:15:18
*「光明法語」(3月27日)より
「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。
これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。
心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば全身は明るくなり、
健康となるのである。
全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、豊かなる供給が集まり来るのである。
だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。
<感謝合掌 平成31年3月27日 頓首再拝>
《實相の完全さのみを観よ》 - 伝統
2019/04/06 (Sat) 02:04:04
*「光明法語」(4月6日)より
神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。
それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、
”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。
結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。
實相のみ實在であるからである。
<感謝合掌 平成31年4月6日 頓首再拝>
すべての人の實相の完全さを透見せよ - 伝統
2019/04/23 (Tue) 03:54:06
*『人生の秘訣365章』第2篇(P52) より
《あなたの身辺を“心”をもって浄めること》
すべてのあなたの身辺の出来事について、思い煩ってはならないのである。
あなたは現象界にあらわれている不快な姿や、あしき有様に、
自分のこころを捕捉せられて心の自由を失ってはならないのである。
眼を挙げて現象の彼方を見よ、
しかしてその人々の實相の完全さを透見せよ。
すべての人間は神の子であって、
ひとりとして真実、悪しき相(すがた)のものは存在しないのである。
敵と見える者も敵ではないのである。
すべての人間は“神の子”であるから、互いに兄弟姉妹であり、
相互協力、相互扶助して互いに人生を衝突なく前進できるように
つくられているのである。
悪を見るな、善のみを見よ、憎しみを見るな、愛を見よ。
愚かなる者を見るな、神の子にして賢(けん)なる者のみの存在を見よ。
このような努力をつづける時、あなたの周囲には唯、
善なるもの、調和せるもの、健やかなるもの、平和なるもの、
美しきもの、好ましきもののみが実現していることを見出すであろう。
<感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>
《生活を実相の堅固の基礎の上に》 - 伝統
2019/05/14 (Tue) 03:56:31
*『人生の秘訣365章』第2篇(P63) より
あなたの生活を“浮動する現象”の地盤の上に築くこと勿れ、
“常住不動の実相”の堅固なる基礎の上に築くがよいのである。
現象の利益を追求する前に、実相の善を遂行せよ。
“愛”は実相世界に存在する実質である。
何故なら神は“愛”でるからである。
“愛”が遂行されるときそこに“善”があらわれるのである。
若しそこに“愛”があらわれるならば、それは“善”となるのである。
性愛は、煩悩であって此処に言う愛ではないのである。
真の愛は、相手が“神の子”である実相を観て尊敬することに始まる。
尊敬のない愛情は煩悩であり、自分が相手に執着することによって、
相手から快感を引出そうとするのである。
愛は単なる“好き”ではないのである。
また相手から快感を引き出す欲望でもない。
“好き嫌い”は現象に属する。
“好き嫌い”の中の“好き”は唯の自分の“好悪”をあらわすだけであって
相手を本当に愛しているのではないのである。
本当の愛は感覚の美醜を超え、感覚的好悪や快不快を超えて実相を愛するのである。
<感謝合掌 令和元年5月14日 頓首再拝>
宝樹華果(ほうじゅけか)多くして衆生の遊楽する処 - 伝統
2019/06/01 (Sat) 04:02:54
*『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月1日)より
吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。
「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」
と云う『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。
それは既に放送局の放送があるのと同じように、
既に肉眼では見えないが波長を合わしさえしたならば
現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように
今此処に既にあるのである。
現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから不調和なものばかりが現れて来るのである。
<感謝合掌 令和元年6月1日 頓首再拝>
実相を諦観せよ! - 伝統
2019/06/24 (Mon) 03:57:27
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より
人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。
「自分の内に摂取する」とは
同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。
それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。
これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。
かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。
そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、
「彼は神の子であるから病気もなければ、
未だかつて憤(いきどお)ったこともないのだ」
と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。
これが『続々甘露の法雨』の中に
「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。
この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。
汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」
と 書かれている所以である。
すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく
「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、
本来円満完全なる仏身なり」 (『続々甘露の法雨』)
と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。
「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」
この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。
しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。
物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、
さらに
「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」
と 心も否定し去り、しかして後、
円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。
一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。
<感謝合掌 令和元年6月24日 頓首再拝>
本来清浄 - 伝統
2019/07/17 (Wed) 04:45:15
*『光明道中記(7月17日 本来清浄を悟る日)』より
【吾等は本来「無罪」なればこそ罪の感じが起るのであります。
(『生命の實相』第七巻)】
五祖弘忍の許(もと)には、竜象(りゅうぞう)雲の如く集り、
禅風大(おおい)に挙(あが)り、弟子千人に及んだ。
或る時その弟子達を集めて、
「自己各々悟れるところを吐露(とろ)して一句を示せ。
吾が意を得たる者に衣鉢(いはつ)を伝えて、六代の祖師としよう」 と言った。
千人の弟子のなかでは
神秀上座(じんしゅうじょうざ)が押しも押されぬ学者であった。
神秀は一句を示した。
身は是れ菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡(めいきょう)の台の如し。
時に払拭(ふっしょく)して塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむること莫(なか)れ。
「さすがは神秀上座である」と弘忍は衆の前で讃めたが、
神秀上座をひそかに招(よ)んで、
尚その本来塵埃なく、本来罪なき人間の本性を徹見すべきこと
を諭したと云うことである。
米搗き男の慧能は、それを伝え聞くと神秀上座の句をもじって、次の如く落首した。――
菩提(さとり)は本樹(もとじゅ)無し 明鏡亦た台にあらず。
本来無一物、何(いず)れの処にか塵埃を惹(ひ)かん。
その落首が評判になった。
師匠の弘忍はその夜ひそかに米搗き男の部屋をおとずれ、
汝こそ第六代の祖師となる資格があると、法衣を譲って、
夜のうちに姿を隠すようにと、実(まこと)に深切な心遣いであった。
<感謝合掌 令和元年7月17日 頓首再拝>
迷い心なし! 実相心あるのみ! - 伝統
2019/07/18 (Thu) 04:33:12
*『光明道中記(7月18日 行届いた生活の出来る日)』より
【衆生固(もと)より仏。仏のみありて凡夫無きなり。
光のみありて暗なきなり(『生命の實相』第十二巻)】
「さすがは神秀上座である」と衆人の前では讃(ほ)めてやりながら、ひとり自室に
招(よ)んで、衆人の前で恥辱を与えないで訓戒するその深く切なる心遣いが禅なのである。
慧能の悟りを認めてながらも、衆人と葛藤を起さしめないように、夜に慧能を訪れて法衣を
譲ると、夜のうちに姿を隠して落ちのびるように注意した其の深くこまやかな心遣いが
禅なのである。
茶道と言えば、茶を淹(い)れることの手先の技だと思い、割烹と言えば、料理をする
手先の技巧だとのみ思い、禅と言えば禅問答をして他(ひと)をやり込める詭弁術だと
考えている者は、この五祖弘忍の深い行き届いた愛を見るが好い。
行き届くのが禅なのである。
そして禅の生活こそ生長の家の生活であり、禅の悟りこそ生長の家の悟りである。
神秀上座の一句
「身は是菩提(さとり)の樹(じゅ) 心は明鏡の台の如し」にはまだ「肉体の存在」を
みとめ、「迷う心の存在」を認めている。
五祖弘忍が法衣を譲らなかった理由である
「菩提(さとり)には樹(じゅ)無し 明鏡は台に非ず」と明耿々(めいこうこう)たる
実相心のみを悟った慧能はまさしく生長の家の悟(さとり)に到達していた。
<感謝合掌 令和元年7月18日 頓首再拝>
實相円満の相(すがた)を見よ - 伝統
2019/07/30 (Tue) 04:28:22
*「光明法語」(7月29日、7月30日)より
七月ニ十九日の法語 超個人的精神上の観念
バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。
併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。
そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。
・・・
七月三十日の法語 實相円満の相(すがた)を見よ
この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。
神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。
併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。
一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。
<感謝合掌 令和元年7月30日 頓首再拝>
“心の眼”で“神の子”を喚び出す - 伝統
2019/08/17 (Sat) 04:32:13
*『人生の秘訣365章』第3篇(P86) より
~《 人を助ける最高の方法について 》
人を助けるのは、物質的救助によるよりも、
彼に宿る“神の子”を喚び出すのが最高の方法であるのである。
肉眼で見て彼に宿る“神の子”が見えず、
「こんなに悪い人だ」と見えるときには、肉眼を瞑(と)じて、
彼の内に宿る“神の子”を出来るだけ完全に想像して、
それを如実に“心の眼”をもって見詰めつつ、
「あなたは神の子で完全な人であります。悪い人ではありません」
と云う風に心の中で一心に唱えて、その通りにありありと想像するがよい。
屹度、彼の中(うち)に宿る“完全な人”が喚び出され、現実化して来るのである。
<感謝合掌 令和元年8月17日 頓首再拝>
指方立相の浄土を観ずれば、指方立相的に表れる - 伝統
2019/08/30 (Fri) 04:03:13
*「光明道中記」(8月30日《指方立相の浄土を知る日》)より
【既に成就している実相の世界の幸福のみ見よ。(『生命の實相』第十二)】
(歎異抄第十一条)
誓願の不思議によりて、やすくたもち、
となへやすき名号を案じいだしたまひて、
この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、
まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、
生死(しょうじ)をいづべしと信じて、念仏の申さるるも
如来の御はからひなりとおもへば、
すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、
本願に相応して実報土に往生するなり。
これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、
名号の不思議も具足して、誓願名号の不思議ひとつにして、
更に異なることなきなり。
誓願の自(おのずか)らなる延長が名号であることである。
誓願とは仏の衆生を救わずにはおかぬと云う決意である。
決意はコトバであり、名号となって表現される。
「名号を案しいだし」とあるのは、
人間のように色々と救うべき方法を案出したと云う意味ではない。
誓願そのものの延長が名号である。
名号と誓願とが一体であるがゆえに、誓願不思議でもあれば、
名号も不思議でもある。
報土と云うのは
弥陀の誓願(コトバ)の客観的展開せる指方立相の浄土であって、
コトバ(振動)は或る立場より感ずるとき指方立相的に表れるのは
テレビジョンでも明かである。
<感謝合掌 令和元年8月30日 頓首再拝>
損失や、犠牲や、負債は実相においてはないのです - 伝統
2019/09/04 (Wed) 04:37:07
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月4日)より
誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。
実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。
どこにも自分を害した者もないのである。
いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)は
まず心の世界で克服しなければならないのである。
心の世界でそれを消滅するとき、
損をかけた人も、損をかけられた状態もなくなるのである。
<感謝合掌 令和元年9月4日 頓首再拝>
《あなたの實相は完全で既に幸福であると知ること》 - 伝統
2019/09/18 (Wed) 04:23:35
*『人生の秘訣365章』第3篇(P87~88) より
あなたは今、神の国に住み、神の生命(せいめい)を吸い、
神の愛にとり巻かれ、神の智慧に導かれ、
神から必要な一切のものの供給を受けて、
ゆたかに幸福に悦びに満たされて健康に生活しているのである。
それがあなたの實相である。
たとい、あなたが現象に於いて、不完全な姿をあらわしていようとも、
それは、仮の相(すがた)であり、今まで心にいだいていた
過去の想念の影であるから、「影」であって、本当にあるのではないのである。
影はどんなにあるように見えても、
それは光の欠乏に過ぎないのであるから、真理の光に照らして、
「神の創造(つく)り給える此の世界には一切の悪は存在しないのである。
人間は神の子であり、神は全智全能であり、無限の愛であり、慈悲であり、
吾らを常に護り給うているのであるから、決して悪しき状態は存在しないのである。
悪しく見えるのは自分の過去の想念が、映画のように映っているに過ぎないので、
映画は映ってしまえば消えるように、この悪しき有様も、
形にあらわれてしまえば消えるのだ」
と心に念じ、この真理を深く潜在意識に印象するようにすれば、
やがて現象の悪しき有様は消え、完全な幸福な豊かな光にみちた
實相の状態が、現象界に具体化して来るのである。
これを信ぜよ。
<感謝合掌 令和元年9月18日 頓首再拝>
Re: 実相を観よ(Look into the reality) ② - oowlywevv URL
2020/08/29 (Sat) 16:11:53
伝統板・第二
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