伝統板・第二
悦び ② - 伝統
2017/11/28 (Tue) 04:48:32
*伝統板・第二「悦び ①」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6902660
《明るい心が幸福の根元である》
*『 生長の家 』(昭和25年3月10日の法語)より
心が愉快であれば 心臓が充分活動し、呼吸は深くなり、
血液が浄(きよ)まり、筋肉は疲労せず、頭脳の働きも にぶらない。
従って 運動競技には 優勝を得、精神的な仕事にも よき考えが浮んで
人生の勝利者となることができる。
明るき心には 波長の共鳴の原理によって、
明るきもの、楽しきもの、愉快なるもの、
凡(およ)そ 見て楽しく喜ばしきもののみが集って来る。
神は 「 喜び 」 であり、
神の喜びが自分を通して表現されつつあるのである。
喜びを表現しないものは 自己に宿る神を窒息せしめつつあるものである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67
<感謝合掌 平成29年11月28日 頓首再拝>
《自分の魂の喜び》 - 伝統
2017/12/09 (Sat) 03:30:21
*「光明法語」(12月9日)より
真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。
一時五官を楽しませたように見えても、五官の楽しみは魂の喜びではないから、
やがて魂は嘆くのである。
自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、得ても甲斐なきものである。
「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。
<感謝合掌 平成29年12月9日 頓首再拝>
監房で喜びを見出した体験 - 伝統
2017/12/22 (Fri) 03:51:12
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より
某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めてよく似ているので
すこぶる興味がある話である。
「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
突然起(た)ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。
私はこの福岡市のものでありまして、この生長の家に
由縁(ゆかり)をもったことは簡単に申しますと、
一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、
私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。
幸いにして私は中位で当選しました。
私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、
雑誌の名前を見たこともなかったので、実はあまり関心を持っていなかったので
あります。
それから後(のち)1年を過ぎまして最近までも関心は持っていなかったのであります。
ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。
実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったのでありまして、
前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち込まれたのでありまして、
実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。
私は特に皆様に申し上げたいことは私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、
そこに入っておりますと、何もしないで朝から晩までただ
《もの》を考えるだけであります。
どうも魂の慰めがありません。
そこで突然思い出したのが前々から
私の先生に進められていた『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。
だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを
見つけ出すにはどうしたらいいかという事の谷口先生のお話が載っておりました。
それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』
こういうようなことが書いてありました。
私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、ただ自由が束縛されている、
魂の糧に飢えている。
そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』
ということを知らされたのであります。
いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
その他の宗教の本なんか読んだのですが、
すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない
―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ――
私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、
今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものかと
考えたものであります。
今時間がありませんから、早く申し上げますが、
何とかして自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。
あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。
それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。
そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
ともかく深切でないのです。
その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、貴様こぼすんじゃないか、
と言って興奮して怒るんです。
みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、朝から非常に気持ちが悪いんです。
いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。
1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、その囚人に対して
試みに『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。
お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、
『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、
もう止めようか』と思ったりしたのですが、『生命の實相』のは
『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と書いてある。
今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて
傲慢な気持ちがあったのでしょう。
その傲慢な《こちら》の気が相手に映って
『なんだこの野郎』というのだと気がついて、
お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、
『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。
私は33号でありましたが、その
お礼を言うことが、二日三日四日となると自然とちがってきました。
今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。
あそこでは水が実に欲しい所ですが、ことに夏の7月から8月の一番暑い盛りですから、
そういう時に向こうの方から方々一ぺんぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで
余った水をわざわざ持って来て『Rさん要りませんか』と
深切に持って来てくれるようになりました。
始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』こういうのです。
『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』とこう言う。
そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』こんな返事をする。
監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。
平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。
私は初めて生長の家の教えというものがいかに偉大なものであるかということを
はっきり認識したのであります。
『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、
本当に分ってきたように思います。
この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。
したがってわたしは未決監に入ったということが、私の人生、将来にとって
どのくらいよいことを教えてくれたかしれないと感謝しているのです。
わたしの審判はこれから公判をやるのですが、判決がどうあろうとも
そんなことの悔いは少しもありません。
わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。
実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして来(こ)ようじゃないか
というので、この四日から来ておりますが、ちょうど子供が拓殖大学に
行っておりますから、その後の事情を見るかたがた上京して参ったのでありますが、
あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、
ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな奇跡に
逢(お)うたことがたくさんありますけれども、
本日は時間がありませんから申し述べませんが、
ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、
非常に朗らかであって、今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に
参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、
皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちに
なったことで、いかに私が救われて喜んでいるかということを御想像願いたいと思います。
私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。
電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、
わたしどもは帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を
受けることと思います。
日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」
道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。
そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。
<感謝合掌 平成29年12月22日 頓首再拝>
本当の喜び - 伝統
2017/12/30 (Sat) 03:58:45
*「光明道中記」(12月30日讃える喜びの日)より
【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】
他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。
人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。
天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。
人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。
ニセ者の我を征服する喜びである。
真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。
創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。
すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。
奪い合いのない幸福でなければならない。
5つのパンを5千人に分っても
尚(なお)籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。
<感謝合掌 平成29年12月30日 頓首再拝>
活(はたら)いているということが喜びの源泉 - 伝統
2018/01/06 (Sat) 04:28:27
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より
たえず活(はたら)いているということが喜びの源泉である。
活(はたら)かないものは、何か自分の内部から気がとがめるあるものを感ずる。
この気がとがめる囁きをごまかすために多くの人は外面を麻酔する誘惑に身を投ずる。
「小人(しょうじん)閑居すれば不善をなす」というのは、
働かないものが内部に感ずる良心の囁きをごまかすために
誘惑に身を委(まか)せることをいう。
酒や麻酔薬で内部の囁きをごまかしてみても本当の幸福は来ぬのである。
ごまかしの生活の中には必ず何か暗いものがある。
本当の幸福というものは暗い生活からは生まれぬ。
暗い生活をごまかしごまかしして偽りの快感らしい生活を送るのは、
湿疹(しっしん)の瘡蓋(かさぶた)の痒きを掻(か)いて
ごまかすところの快楽である。
掻けば掻くほど、魂は爛(ただ)れ、
みぐるしい膿血(のうけつ)が流れるのである。
常に人の《ため》になる仕事、常に世の《ため》になる仕事、
たゆみなくかかる仕事に従事している人には魂の喜びが伴う。
仕事が無上の喜びとなり、仕事の中に休息と慰安とがある。
金(かね)を貰って働いている人も、
金を貰って働くと思えばその時から魂の喜びは消えてしまう。
金(かね)を頂くのは、それが多いにせよ少ないにせよ
神様から恵まれたものであると感謝し、
仕事は仕事で人のため世のためへの自分の魂の献(ささ)げ物であると思って、
人のために尽くすという喜びの中に仕事をするがよいのである。
かかる仕事の中からは不断の喜びが湧く。
金と仕事とを交換的に考えてはならぬ。
仕事はいかなる「金(かね)」よりも尊いものであるがゆえに、
仕事のために「金(かね)」を貰っているという考えが起こるや否や、
仕事の歓びは半減される。
仕事を常に支配すること。
仕事に支配されてはならぬ。
仕事を追い回すことは、仕事から追い回されない秘訣である。
仕事に不平を立てておいて、そのゴールまで突進するのは
仕事を捗(はかど)らせる良き方法である。
しかし、ゴールに到着しない日があっても焦(あせ)ってはならぬ。
一日の労は、一日の労で足りるのである。
常に働いていながら、その仕事が捗らないのは、
何か神の摂理(おぼしめし)があるのであろうと、
またそのことに感謝するがよい。
そこからいらいらした心持(こころもち)が
和(なご)やかになり、平和が魂に戻ってくるであろう。
急がず、たゆまずに進むのが仕事の秘訣である。
<感謝合掌 平成30年1月6日 頓首再拝>
「悲しみ」の奥地に探り入れば悦びが実相である - 伝統
2018/01/07 (Sun) 04:04:54
*「光明道中記」(1月7日光明一元・歓喜の日)より
【暗は光明に来てブッ突かればブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
(『生命の實相』第一巻)】
悲しみは存在しない。それは無い心である。
文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代支那人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味でそれを組み立てた。
「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。
喜べばいくらでも喜べるのが心である。
悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば喜びだけがあることが判るのである。
ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、悲しみに抑えられて、
獅子(ライオン)に咬まれた小兎のように悲しみによって振り回されるからである。
静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。
オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。
これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。
悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、その奥地に探り入れば悦びが実相である。
<感謝合掌 平成30年1月7日 頓首再拝>
喜べば生命は伸びる - 伝統
2018/01/08 (Mon) 03:55:44
*「光明道中記」(1月8日魂浄まる日)より
【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。(『生命の實相』第一巻)】
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの状態である。
伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。
浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。
寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。
また其の人が寒中水浴することが不快であり、嫌々ながら人に勧められたために
已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、其の人はその水浴が無効であり、
却って害があることを実証するために、自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。
喜べば生命は伸び、嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。
健康法で健康になり得た人はその健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。
そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。
<感謝合掌 平成30年1月8日 頓首再拝>
すべてに喜びを見出す - 伝統
2018/01/11 (Thu) 04:12:40
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より
一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。
自分のしている善いことに、家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて光明(ひかり)の道を知らせていただいたといって、
人一倍喜ぶこともできるのである。
明るい半面ばかり見る者は常に生長し、暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。
どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。
この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。
<感謝合掌 平成30年1月11日 頓首再拝>
《真理の自覚から来る法悦状態》 - 伝統
2018/01/27 (Sat) 04:12:59
*『 生長の家 』(昭和46年10月8日の法語)より
ある日曜日の誌友会であった。
塚田忠五郎さんの奥さんがやって来られてこう言われた。
「先生、塚田が先生の御本を読んでから、
どうも気が変になったようなんでございます。」
「どう変なのですか」
「わしは永久に死なぬ人間になってしまった。
嬉しい、嬉しいといって笑ってばかりいるのです。
それもその時だけ笑って物言うのなら何も変でないんです
けれども、夜徹(よどう)し眠らないで嬉しいといって、
もう一週間以上も笑ってばかりいるんですから変なんです、
“あなた、そんなに笑ってばかりいて眠らなかったら、
気が狂ってしまいますから、
お眠(やす)みなさいよ“と言いますと、
“わしは前から気が狂いたいと思っていたのに、
今度こそ本当に気が狂った。本望(ほんもう)を遂げたのだ、
悦べ、悦べ!!こんな嬉しいことはないぞ”と言うんです。
それで私は心配で仕方がないんです。
先生どうしたら塚田の状態は治るでしょうか」
「そのまま、ほっといたら治りますよ。それは黒住教祖が、
もう寿命が5日間しかないと医師に宣言された後に、
“最早、宗忠生くるに非ず、天照大御神の‘いのち’
我にあって生くるなり”
という自覚に到達されたときに、1週間も眠らずに
笑いつづけていられたのと同じ状態ですよ。
誰でも人間が単に肉体であって、有限のいのちしかないと
思っていたのが、神の無限の‘いのち’こそ自分の‘いのち’
だったのだと知ったとき、眠らずに笑いが止らぬほどに
悦べるのが当然でありませんか。
しかし黒住宗忠も1週間ほど眠らずに笑いつづけていたが、
そのうちにその悦びが静かなる悦びに変って来たとき、
重症の結核がいつの間にか治っていたのに気づいたと同じように、
御主人も静かなる悦びに還って来たとき、
前より一層よい事が起って来ますよ、安心しなさい」と、
私は塚田夫人にいったのであった。
そしてその通り塚田忠五郎氏は間もなく平常通りの人間となり、
唯 異なるのは、“肉体的存在としての人間”から
“霊的実在としての人間”に自覚が変って、
多くの人たちにこの真理を伝え始められたことであった。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32
<感謝合掌 平成30年1月27日 頓首再拝>
《悦びは創造の力である》 - 伝統
2018/02/04 (Sun) 03:15:02
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
<感謝合掌 平成30年2月4日 頓首再拝>
《希望は悦びの源泉である》 - 伝統
2018/02/15 (Thu) 03:24:58
*「光明法語」(2月15日)より
希望こそは人生の悦びの源泉である。
希望のあるものは老いないのである。
何故なら、希望は創造的感情であるからである。
希望は未来を創造する。
真に未来を創造するものは希望である。
希望のないものには百万円の富籤が当たっても、たいして有難くない。
死にぎわに百万円貰っても有難くないのは希望がないからである。
ガソリンがないのに自動車を貰っても別に有難くない。
フィルムがないのに写真機を貰っても別に有難くない。
希望がないからである。
尤もそれを売って何か他のものを買おうと思う希望があるなら有難い。
<感謝合掌 平成30年2月15日 頓首再拝>
われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統
2018/02/28 (Wed) 04:21:51
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より
よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。
お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。
心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。
<感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>
他を喜ばす心がけ - 伝統
2018/03/17 (Sat) 03:32:34
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月17日)」より
皆さまにお気に召すようにお化粧してまいりましょう。
この心がけに家庭平和の秘訣もあれば、商売繁盛の秘訣もある。
皆様を喜ばす心がけが中心となる。技巧に走れば虚飾になる。
<感謝合掌 平成30年3月17日 頓首再拝>
いま喜ぶ - 伝統
2018/04/04 (Wed) 03:27:00
*「Q・次の2つから生きたい人生を選びなさい」
~ハーバードの人生を変える授業 2 (P138~140)より抜粋
喜びは贅沢品ではなく、心にとっての必需品だ。
心理学者 ナサニエル・ブランデン
満足を先延ばしにすることを学ぶのは大切です。
それは「がまんを覚える」という意味で、多くの研究によって
人生の成功と総合的な心の健康のために必要であるとわかっています。
しかしながらペースの速い世界に住んでいる私たちは、忙しさにかまけて
喜びや満足を後回しにすることで人生を退屈で味気ないものにしている面もあります。
私たちの人生は有限ですから、もし喜びや満足をいつまでも後回しにするなら、
永久にそれらを享受できないということになります。
自分のエネルギーを充電するには、ちょっとした活動が必要なのです。
気分を変えてくれる喜びの活動を日常に取り入れることです。
毎日の生活にハピネスブースター(幸福感増幅活動)を取り入れることです。
そうすることで、その瞬間だけ気分がよくなるのではなく、
情熱とエネルギーが増幅され、もっと生産的になり、
創造力が増して、幸せを感じることができるのです。
<感謝合掌 平成30年4月4日 頓首再拝>
「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」 - 伝統
2018/04/09 (Mon) 03:34:20
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月9日)」より
なんだか利用されているような気がするときに、
腹立つ人と、つまらなく感ずる人と、喜べる人とがある。
イエスは「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」と言った。
彼は利用されることを喜びに感ずる人であったのである。
利用されること多きものほど尊ばれる。
利用する道のなくなったものを廃物という。
<感謝合掌 平成30年4月9日 頓首再拝>
《喜悦の祈り》 - 伝統
2018/04/10 (Tue) 03:18:51
*「光明法語」(4月10日)より
神に祈るときは喜びの感情を以って祈るべきである。
神に対して泣きついてはならない。
若し、久し振りに逢った実子が其の親に対して、自己の不幸を嘆き訴えたならば、
その親は実際好い気持ちがするであろうか。
またかかる実子は親孝行だと云えるだろうか。
親に会ったとき、唯会うだけで嬉しい感情に満たされるのが
親孝行の子供ではないであろうか。
神に対して泣き言を訴えるな。
私は幸福です。健康です。豊かに暮らしていますと言え。
これが本当の親孝行の「神の子」の祈りである。
<感謝合掌 平成30年4月10日 頓首再拝>
常に神の悦びにみたされている - 伝統
2018/04/26 (Thu) 04:39:13
*『生長の家』(昭和25年7月31日の法語)より
《常に神は吾を守り給う》
何よりも大切なのは
神を自分の近くに、むしろ自分の内にましまして、
常に自分を守り給うものだと自覚するということである。
それこそが実相の喜びであり、
神の悦びを飲むものは 酒をのむ必要がないのである。
神はスピリットであり、酒もスピリットと英語で云うから、
神を得ないものが酒で代用するのである。
酒をのむのは真(まこと)に神をのんでいないために
神の喜びをのむための代償作用であるのである。
自分の生命が 神より来たり、神に生かされ、
神 吾を守ってい給い、わが内に宿ってい給うが故に
吾はとぼしきことなく 淋(さび)しきことなく、
常に喜びに みたされていることを自覚せよ。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 平成30年4月26日 頓首再拝>
《他の人の幸福を喜んであげること 》 - 伝統
2018/05/22 (Tue) 04:37:54
*『人生の秘訣365章』第4篇(P113~114) より
希望実現の第十五条は、他の人の幸福や成功や健康を、
わが事の如く喜ぶことである。
世の中には随分、他(た)の人の幸福を羨(うらや)んで、
他(た)の人が大いに儲けたら
「あいつは屹度不正なことをしたにちがいない」と思ったり、
「も少しあいつが失敗したら俺の方が、もっと儲かったであろう」などと
考えるような人があるものだ。
これは他の人の幸福や成功を否定する心であるから、
同時に自分自身の幸福や成功を否定することになるのである。
学校の友達の一人が首席になって、自分の成績が第二位であったら、
「あいつが若し一問題失敗していたら、僕の方が主席になれたのに、チェッ!!」
などと思う学生又は生徒があるとしたら、
そのような「他(た)を堕(おと)したい」こころを棄てるがよい。
それは結局自分自身を堕すことになるからである。
佛教では人の喜びを喜ぶ心を、
“四無量心”の慈・悲・喜・捨のうちの第三にそれを数えているのである。
他(た)の人の幸福を自分の幸福の如く祝福してあげるがよい。
<感謝合掌 平成30年5月22日 頓首再拝>
悦びを語る - 伝統
2018/06/05 (Tue) 04:20:14
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より
生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。
天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。
人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、
言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。
黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。
自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法である。
<感謝合掌 平成30年6月5日 頓首再拝>
創造(つく)り出すことが喜び - 伝統
2018/06/09 (Sat) 04:53:44
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より
人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。
体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。
自分の持物が少ないといって嘆くことはない。
釈迦はあたかも要るだけの体温がすでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。
ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。
生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。
生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。
人間が神の子であるのは事実である
―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。
彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、
自分の方法で、自分の理論で「神の子」を生み出そうとするのである。
「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。
<感謝合掌 平成30年6月9日 頓首再拝>
“毎日”を悦びの笑顔をもって迎えなさい - 伝統
2018/06/27 (Wed) 03:29:12
*『人生の秘訣365章』第4篇(P115~116) より
「明るい心」は希望実現の総括的条件である
他(ひと)を憎しみ、他(ひと)を呪えば、
その憎しみ、その呪いが自分に返って来て、自分を傷つけるのであるが、
その反対に他(ひと)を祝福し、他(た)の人の幸福を祈り、他(た)の人の成功を祈り、
他(た)の人の健康を祈れば、その祈りは自分に返って来て、自分自身が祝福され、
自分が幸福となり、自分の事業が成功し、自分自身の健康が増大するのである。
そしてその祈りをなすとき、
必ず明るい心をもって必ずそれが成就すると確信して祈るのがよい。
「明るい心」を失った祈りは、成就しないことになるのである。
黒住教祖宗忠は
「何ほど信心致し候とも、心いずみ(沈鬱に暗くなること)候ては何の甲斐も無之候」
と教えているのである。
希望実現のすべての条件がととのうとも、この「明るい心」を失ったら、
その希望は実現しないかもしれないのである。
あなたの希望を実現する第十六条は明るい心をもつことである。
毎朝、鏡に向って、にこやかな笑顔をし、
「私はこのように幸福で楽しいのだ」と思って
明るい心になって“今日(こんにち)”をお迎えなさい。
“毎日”を悦びの笑顔をもって迎えなさい。
<感謝合掌 平成30年6月27日 頓首再拝>
何が来ても、よろこべる - 伝統
2018/07/11 (Wed) 04:26:23
*「幸福をひらく鍵」(P33 鍵のことば)より
よろこべる
何が来ても よろこべる
そうでない者は
まだ生長の家ではない。
よろこべ よろこべ
みんな 善いことである。
<感謝合掌 平成30年7月11日 頓首再拝>
この家は 喜びの家 - 伝統
2018/07/24 (Tue) 03:51:48
*『幸福をひらく鍵』鍵のことば(P123)より
悲しみよ わが家に入ることなかれ
憂ひよ わが庭に入ることなかれ
この家は 喜びの家
わが庭は 悦びの園
くるしみの来るときにも われは喜び
悩みの来るときにも われは神を讃ふ
われは現象にはとらはれず
ただ神のつくりたまへる 實相の世界のみを見る
現象を見るときは 現象の虜(とりこ)となる
虜は縛られて自由を得ず
現象を見ず 常に實相を観ずるとき
一切の禍は消ゆ
<感謝合掌 平成30年7月24日 頓首再拝>
“至上の喜び” - 伝統
2018/08/11 (Sat) 04:22:19
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2017-06-20)より抜粋
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
人間の「喜び」や「幸せ」というものは、
どうも3つのかたちをとるのではないかと、私は思ってきました。
過去、自分に起きたことを全て「受け入れる」こと。
それが全部自分に必要だったと思うこと。
そう思うことで、その一つ一つのこと全て、感謝の対象になります。
これが第一ステップである「幸せ」です。
第二のステップは、その全ての過去を受け入れた延長線上にあるのですが、
現在の全てを受け入れることです。
現在の自分を取り巻いている状況を全て受け入れて、
それに「感謝する」ことです。
過去の全てを受け入れるのと同じように、全てを受け入れるというのは、
「それがなければ、現在の自分がないのだ」と思い定めることです。
そうすると、全てが感謝の対象になってきます。
それは全て「喜び」になり「幸せ」になり、感謝の対象になるのです。
三つ目の「幸せ」というのは、
「自分の存在が『感謝される』」という「喜び」です。
自分の存在が(自分がこの世に生まれたことが)、
感謝され、喜ばれるという「幸せ」を一度味わってしまうと、
“至上の喜び”です。
もう引き返すことはできません。
この「喜び」や「幸せ」を味わうと、
何回も何十回もそれを味わってみたくなります。
この「喜び」は、三次元的な「喜び」とは全く異質なもので、
「魂がうち震えるほどの喜び」です。
<『宇宙を貫く幸せの法則』致知出版社>
<感謝合掌 平成30年8月11日 頓首再拝>
大生命の歓喜 - 伝統
2018/09/09 (Sun) 03:54:12
*「光明法語」(9月9日)より
大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。
而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。
それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に喜びを感ずるのと
同様である。
大生命は森羅萬象を自己に内在する美と感情と衝動とを表現せんが為に造った。
<感謝合掌 平成30年9月9日 頓首再拝>
神の生命の歓喜 - 伝統
2018/09/18 (Tue) 04:18:31
*「光明法語」(9月18日)より
神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。
美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、桜の爛漫たる、
梅花の孤峭(こしょう)なる・・・
数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、「神の生命」そのものの
発露であり表現であるのは「人間」である。
人間が喜べば神が喜ぶのである。
<感謝合掌 平成30年9月18日 頓首再拝>
真の悦びの源泉はただ霊より来る - 伝統
2018/10/03 (Wed) 03:22:24
*『静思集』(「神国実現への手紙」九月の手紙)より
ついに吾々は悟らねばならぬ時に到達するのでございます。
まことの幸福は物質的環境の好転でもなければ、肉体の健康でもない。
それらはただ当り前のことが当り前にあるだけであって、
積極的な歓喜を与えるのは魂の喜びであって、
物質や肉体の満足のことではなかったのでございます。
真の悦びの源泉はただ霊より来るのでございます。
そして霊の悦びは愛より来るのでございます。
愛せよ、愛の悦びは捧げる悦びでございます。
御利益信心が行き詰るのは捧げる代りに奪い取る悦びであったからでございます。
奪いとる悦びは浅い、そして捧げる悦びは深いのでございます。
奪いとる悦びは地に貯える宝でございます。
どんなに貯蔵してもそれはいつか捨てねばならないのでございます。
キリストはこれを蠢魚食い銹び腐る富だと仰せられました。
そんな蠢魚食い銹び腐るものを追求致しますまい。
尤も自然に集ってくるのを避けるには及ばないのでございます。
天の倉に吾らは宝を貯えることに致したいのでございます。
憐れなる者に対する施し、小さなその日その日の隠れたる行事
―― すべて眼だたぬ善事こそ尊いのでございます。
これこそ天の倉に貯える富でございます。
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24781716.html)
<感謝合掌 平成30年10月3日 頓首再拝>
日々、新しき悦びが湧く - 伝統
2018/10/20 (Sat) 04:27:31
*『人生の秘訣365章』第8篇(P232) より
《仕事に悦びを見出すには》
あなたが日々生長し、日々進歩し、毎日新しくなるならば、
あなたの為す日々の仕事は毎日同じ事の繰返しのように見えようとも、
あなたは新しき悦び、新しき生き甲斐を感ずることができるのである。
何故なら仕事は同じであっても、その仕事に触れるあなたの生命の接触点が
毎日一層新しくなっているからである。
幸福は外界にあるのではなく、自分自身にあるのであるから、
自分自身が新しくなり、仕事に対して新しき接点で触れるとき、
常に新しき悦びが湧いて来るのである。
<感謝合掌 平成30年10月20日 頓首再拝>
【 わが家は喜びの庭 】 - 伝統
2018/11/03 (Sat) 03:41:54
*「女性の幸福365章」(P3)より
よろこびよ来れ。
わが家はよろこびの庭。
すべての人新しき日を仰ぎ、すべての人新しき生命(いのち)を生き、
さんざめきて、われら新しき年を迎う。
悲しみは過去にさりたり。
歎きの日は消えてあとなし。
暗黒は光の前に、其の無をば暴露したり。
わが家はよろこびの庭。
わが家は光の御園。
ああ大いなる光われを包めり。
天国は今此処にあり。
さんさんと日は輝けり。
悲しみよ、わが家に入ることなかれ。
憂いよ、わが庭に入ることなかれ。
この家は喜びの家、わが庭は悦びの園。
苦しみの来るときにもわれは喜び、
悩みの来るときにもわれは神を讃う。
われは現象にとらわれず、ただ神のつくりたまえる實相の世界のみを見る。
現象を見るときは現象のとりことなる。
虜(とりこ)は縛られて自由を得ず。
現象を見ず、常に實相を観ずるとき一切の禍は消ゆ。
<参照>
光明掲示板・第三「わが家は喜びの庭 (2646)」
日時:2015年01月02日 (金) 12時24分 名前:平賀玄米
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/koumyou3/&mode=res&log=521
<感謝合掌 平成30年11月3日 頓首再拝>
“法悦” とは何か - 伝統
2018/11/21 (Wed) 04:27:38
*昭和43年7月28日 生長の家本部大道場に於ける御指導(速記録)
『生命の實相』〈頭注版〉の第35巻102頁にですね、その7行目に、こう書いてあります。
「生長の家ではまず内在せる神というものを
『われわれの内に宿っているところの無限の善さ』
と定義いたします。
無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさ ――
そんな尊いものが、われわれ人間の中には宿っているのであります。
その無限の善さが少しでも余計出ればわれわれは歓びを感ずる。
喜ばすにはおれない。
そしてさらにその善さを一層余計にあらわしたい、
そして遂に無限にまで到達したく希うところの、無限に対する要求というものが、
わがうちに宿っているのであります」
と書いてありまして、その次の頁の3行目の所には、
「無限を発揮するまでは、それを憧れ求めずにはおられない。
それはなぜであるか?
それは 『無限なるもの』 が自分のうちにすでに宿っているからです。
そして、その無限なるもの ―― 無限の善さ、無限の美しさが、
われわれの念のレンズをとおして、意識なり、観念を指導すべく、
ある標準を示した場合、これを理想といいます」
という様なことが書いてあります。
この “法悦” というものは何処から起って来るかといいますと、
法悦の法というのは、あの 「妙法蓮華経」 の法と同じでありまして
宇宙の実相であります。
実相の中から出て来るところの喜びが、これが “法悦” という意味であります。
それで、その実相の中の無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさとか、
色々数え切れない無数の徳がわれわれの内部に在る。
それが、少しでも前より余計に発揮された時に、
そこに法悦 ―― 実相から湧き出て来る喜び ――
というものを感ずるんだということになるのであります。
私がいつも申上げるように、人間には5つの根本的願いがあるのであります。
それは
(1) 認められたい
(2) 愛されたい
(3) 褒められたい
(4) 人のお役に立ちたい
(5) 自由になりたい
この5つの願いであります。
この5つの願いが満足された時、人間は本当に生き甲斐を感ずるのであります。
この5つの願いが閉塞されて了ったら
人間は生き甲斐が感じられないでスランプに陥る。
信仰も衰退して行くことになる訳です。
そこで折角誌友にしたり、聖使命会員になった人を組織に入れたらですね、
これを認めてあげるということをやらなくちゃいかんのです。
その人達を認めてあげ、褒めてあげ、愛してあげる。
又色々の相談にものってあげる。
そして、その人が生長の家に入って誌友になったら、
本当に世のため人のためお役に立っているんだという喜びを自覚させるように
導いてゆかなければ、折角誌友になったけれども、なっていることが
何の役に立つのかというのでは、これは継続していかんということになるんです。
大は日本国家のためになり、或は優生保護法改正の運動に参加して、
毎年三百万人も殺されている胎児が救われることになるんだというような
偉大な運動に自分は参加しているのだという、そういう喜びを感ぜしめることが
必要であると思うんです。
(http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17408994.html より転写)
<感謝合掌 平成30年11月21日 頓首再拝>
【楽しい思い出のプレゼンターになる】 - 伝統
2018/12/05 (Wed) 03:01:02
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年11月11日)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
うれしい思い出を人にたくさん提供できる自分って、スゴくいいもんです。
そんな自分の人生って、最高だよ。
だから、人を喜ばせて、楽しい思い出のプレゼンターに自分はなるんだ、と。
そうやって心に決めて、やりだすとする。
すると、どんどん、どんどん楽しくなって、
そのうち、「渡すタイミングをどうしようか。
サプライズにしたら、どうだろう」とか考えだしたりね。
そうすると、サプライズものって、もらった人も喜ぶけど、
自分も渡す前からワクワクしちゃう。
それを出したら、相手が「わぁ~、ビックリした」とかいいながら
喜んでいる顔を見てると、こっちは「ヤッター」とか思って、非常にハッピー。
そんなサプライズの楽しみを、覚えるようになってきたりして。
うまく伝えられないけど、とにかく、人を喜ばすって、本当にいいもんです。
仕事においても、人を喜ばすことを考えながら仕事してるのと、
そうじゃないのとでは、楽しさが、全然、違います。
社長や上司を喜ばそう、お客さんを喜ばそう、同僚も喜ばそう、って思うと、
仕事がどんどん楽しくなってくるし、出世もするの。
それと、私はお店をやっている人に、よくいうんですけど。
客商売っていうのは、お客さんに「そこのお店に行くと楽しい」って
いわれるような店を作んなきゃいけない。
飲食店をしてるんだとしたら、
「自分のところは、おいしい料理を出して喜ばすんだ」っていうのもいいよ。
けどね。
私も、日本じゅう、いろんな食べもの屋に行ってるけど、
食べもの屋でマズイところって少ない。
どこの店も、味はそこそこ。
そのなかで、繁盛してないお店というのは、たいがい、楽しくないお店なんです。
だから、お客さんを楽しませなきゃなんない。
そうすると、前に話した、ステキな踊りをおどれる
レストランの人じゃないけれど、誕生日やなんかのお客さんに
「ちょっとしたショーをしてあげるんだ」ってなったとき、
「ショーはどういうタイミングでやろうか」「音楽はどうしよう」とか。
それから、「誕生日のケーキ、ちっちゃいのでもいいから出してあげようか」
「ケーキを出す直前に、店の照明落として」とか。
そんな演出を考えていると自分も楽しくて、お客さんも喜び、
そのうち、お店も繁盛してくるようになるんです。
そば屋をやってる人だったら、
「ウチは手打ち専門だから」「ウチ、もりそば一本です」でもいいですよ。
もりそばの値段も、500円でも、1000円でも、なんでもいいの。
だけど、お客さんが「もりそばちょうだい」っていったとき、
野菜の天ぷらでもいいから、「この天ぷら、サービスです」って出すと、
サービスされたほうはドキっとするんですよ。
同じ天ぷらをサービスするのでも、
メニューに「サービスで、天ぷら、ついてます」って書いちゃうと、
もう、楽しくない(笑)。
メニューに「もりそば」とだけ書いてあったところへ、
「これ、サービスですから。私のつくった野菜の天ぷら、食べてください」
って出すと、お客さんは「えっ、ホント!」ってビックリして、
「まあ~、うれしいわ」って。
人間って、そうじゃない?
自分の身に置き換えて考えると、そのほうが楽しいじゃん。
だから、自分が「楽しいなぁ~」と思うことを、人にもやってあげればいいんです。
とにかく、なんでもいいから、人が喜ぶことをやってみる。
仕事してるときも、プライベートでもそうですよ。
そしたら、いつも自分はハッピー。
「どうしたら喜ぶだろうか」って考えるだけで、もうワクワクしちゃう。
<『愛される人生』KKロングセラーズ>
・・・
小山薫堂さんは、「相手をニッコリさせるゲーム」というのをよくやるそうだ。
それは、たとえば、タクシーに乗ったとき、
運転手さんがムスっとして機嫌悪そうだったとき、乗っている間に、
どうしたらこの運転手さんをニッコリさせられるかというゲーム。
ゲームだから、うまくいかなくても、
あの手この手と作戦を考えられるし、その過程が楽しい。
これは、タクシーの中だけでなく、
コンビニでも、食堂でも、居酒屋でも、学校でも、職場でも、
色々なところでできるゲーム。
つまり、「人を喜ばせる」ゲーム。
仕事や人生があまり楽しくないのは、人を喜ばせようと考えていないから。
自分だけ楽しくなることを考える人は、利己的な損得の人。
損することを嫌い、自分の得になることだけしか考えない。
そして、損得で動くような仲間ばかりが集まる。
人を喜ばせようといつも考えている人は、人の喜ぶ顔を見るのが大好きだ。
そんな人のまわりには、
明るくて楽しくて、笑いと歓声にあふれた魅力的な仲間が集まる。
だから、毎日がどんどん、ワクワクして楽しくなる。
楽しい思い出のプレゼンターになりたい。
<感謝合掌 平成30年12月5日 頓首再拝>
《自分の魂の喜び》 - 伝統
2018/12/09 (Sun) 04:01:39
*「光明法語」(12月9日)より
真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。
其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。
一時五官を楽しませたように見えても、五官の楽しみは魂の喜びではないから、
やがて魂は嘆くのである。
自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、
得ても甲斐なきものである。
「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。
<感謝合掌 平成30年12月9日 頓首再拝>
獄中の生活で喜びの体験 - 伝統
2018/12/22 (Sat) 04:30:01
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月22日)より
某市の市議であったが疑獄のため検束されていたR氏が道場へ来て
わたしの講義のあとで起(た)ち上がって次のような話をされた、
その話はオスカー・ワイルドの獄中における転身と極めて
よく似ているのですこぶる興味がある話である。
「私は一昨日生長の家本部を訪れまして、
この道場へ初めて坐らせていただいたものであります。
ここで皆さんに一言体験を申し上げたい衝動に駆(か)られまして
突然起(た)ったのであります。
しかし別に自分にはなんら深い体験というほどのものはありませんのですが、
はなはだ恥ずかしいお話でありますが少しばかり申し上げたいと思います。
私はこの福岡市のものでありまして、この生長の家に由縁(ゆかり)をもったことは
簡単に申しますと、一昨年の5月に市会議員の選挙がありました時に立候補しまして、
私の先生をしていた方が私の応援弁士となって働いてくださいました。
幸いにして私は中位で当選しました。
私はその当時生長の家の誌友になれということをその先生から言われたのですが、
雑誌の名前を見たこともなかったので、実はあまり関心を持っていなかった
のであります。
それから後(のち)1年を過ぎまして最近までも関心は持っていなかったのであります。
ちょうど6月26日だったと思いますが、突然に福岡市に非常な嵐がまき起りまして、
というのは市長選挙に絡みまして大疑惑事件が展開したのであります。
実は私は恥ずかしながらその疑惑事件に連坐しまして、
もっともほとんど全部の福岡市の市会議員はそれにひっかかったのでありまして、
前市長、現市長、その他ほとんど上層階級のものが全部ぶち込まれたのでありまして、
実は私はただ今保釈中でお礼に上がったのであります。
私は特に皆様に申し上げたいことは私は7月の末に未決にほうり込まれたのですが、
そこに入っておりますと、何もしないで朝から晩までただ《もの》を考えるだけ
であります。どうも魂の慰めがありません。
そこで突然思い出したのが前々から私の先生に進められていた
『生命の實相』であります。
これの差し入れを頼んだところ直ちに入れてくれました。
だんだん読んでみますうちに、自分の生活に本当の嬉しさというものを
見つけ出すにはどうしたらいいかという事の谷口先生のお話が載っておりました。
それは『人を喜ばせることが結局自分の喜びである』
こういうようなことが書いてありました。
私は初め《なぐり》読みしていたのですが、それが非常に胸に応えました。
あそこに入ると食べ物にはさしつかえありませんが、ただ自由が束縛されている、
魂の糧に飢えている。
そういう中でこの『他(ひと)を喜ばせることが自分の喜びである』ということを
知らされたのであります。
いろいろ考えてみますと、高島米峰さんの話が載っている本や、
その他の宗教の本なんか読んだのですが、すべてが娑婆にある時のことが書いてあって、
娑婆以外で歓びを見出すことは書いてない―― 《あそこ》は娑婆じゃないんです ――
私は《あそこ》に入っている時にはどうかしてこの生活を、
今この獄中生活を、もっと歓びをもって生きられる道はないものかと
考えたものであります。
今時間がありませんから、早く申し上げますが、
何とかして自分の魂に慰めを与えることはできないものだろうかと思いました。
あそこに入れられると、囚人が、わたしは未決ですが、
刑が決定した囚人は雑役をやらせられています。
それが表の方に扉がありまして、そこに小さな窓がありますが、
それをぴたっと堰(せ)いたり開けたりする。
そこから水を入れたりお茶を入れたりするのですが、
それがどうもだいたいああいう所に入(はい)る囚人というものは
非常に心が乱暴でありまして、入っている者に対してどうも深切でありません。
もちろん深切気のある人なんかそういう所には入らないのですが、
ともかく深切でないのです。
その雑役の囚人がお茶を持って来ます。
それから水を持って来ますが、水がとても大事です。
二升五合ばかり入る甕があるんですが、それがどうかしますと足らないのです。
一つの監房における1日の使用量が二升五合でなかなか尊いんです。
なかなか尊いんですから少し足りないことがあると、貴様こぼすんじゃないか、
と言って興奮して怒るんです。
みんな悪いことした人が入っているのですからどうもしようがないんです。
そうして怒られると怒られた人は非常に苦しい、
朝から非常に気持ちが悪いんです。
いわゆる精神の慰めというものがないから ―― そこで私は、
これはなんとかしてひとつ自分を嬉しい気分にしてみたい、
せっかく生長の家の本を読ませていただいたんだからというので、
考えましてこれはひとつお礼を言ってみよう、そう思いついたのであります。
1日に3ぺんも4へんも雑役の囚人が来る。
それは、そういうときには運動が不足ですから食後の薬を貰ったりします。
そんな薬を貰うとかお茶とか貰いますときに、
その囚人に対して試みに『どうもありがとう』と言うてお礼を言ってみたのです。
お礼を言うと、最初囚人は『ふん』と言って、
『なんだこの野郎』といったような顔をするんです。
初めは悲観しましたね、
『こんな奴にお礼を言ってみるわたしはどうかしている、もう止めようか』
と思ったりしたのですが、
『生命の實相』のは『立ち対(むか)う人の態度は自分の心の影』と書いてある。
今まで私は増上慢といいますか、ともかく自分では市会議員だなんて
傲慢な気持ちがあったのでしょう。
その傲慢な《こちら》の気が相手に映って『なんだこの野郎』というのだと
気がついて、お礼を続けて言っているうちには良くなるにちがいない、
『生命の實相』を読んでいる者がそれじゃいかんと思いまして
雑役囚が何か持って来てくれるたびに
『やァどうもありがとう、御苦労さん』と言って声をかけます。
私は33号でありましたが、そのお礼を言うことが、
二日三日四日となると自然とちがってきました。
今度は向うから『やァ御退屈でしょう、あんた市会議員さんですか。』
こう向うから心安く声をかけてくれるようになりました。
あそこでは水が実に欲しい所ですが、
ことに夏の7月から8月の一番暑い盛りですから、そういう時に向こうの方から
方々一ぺんぐるっと各監房へ配水しに回ったあとで余った水をわざわざ持って来て
『Rさん要りませんか』と深切に持って来てくれるようになりました。
始めは《ぽんぽん》言っていた人たちが、今度は看守の人までが
『Rさん、あなたこれは実際の話ですがあなたは人格者ですネ』こういうのです。
『あなたはなかなか社会のためにお尽くしになっているそうで』とこう言う。
そう尽くしもしないのですが、そう言われるとまた嬉しくなるのです。
『いや、どうもありがとう、そんなこと言われると恐縮です。』こんな返事をする。
監房は監房でも鬼は一人もいない仏様ばかりの世界と化した。
それが私には嬉しくて嬉しくてたまらないんです。
平生(へいぜい)ですと看守とかなんとかいうものは
『なんだあんなものは人間の屑』だぐらいに思っていたのですが、
それがああいう所に行ってみるとかえって期待もしなかったああいう人たち
から慰めの言葉をかけられる ―― この嬉しさというものは非常なものです。
私は初めて生長の家の教えというものがいかに偉大なものであるかということを
はっきり認識したのであります。
『人を喜ばせることが自分の喜びである』という『生命の實相』の教えが、
本当に分ってきたように思います。
この気持ちで一つの社会に立って行こうと、
こういう決心をわたしは未決監の中で持つようになったのであります。
したがってわたしは未決監に入ったということが、私の人生、将来にとって
どのくらいよいことを教えてくれたかしれないと感謝しているのです。
わたしの審判はこれから公判をやるのですが、
判決がどうあろうともそんなことの悔いは少しもありません。
わたしは人生の最高の真理を把(つか)んだという気がするのです。
これまでのような《やるせない》というような気持ちは微塵もありません。
実は家内を伴(つ)れてひとつ東京に行って見物でもして来(こ)ようじゃないか
というので、この四日から来ておりますが、ちょうど子供が拓殖大学に
行っておりますから、その後の事情を見るかたがた上京して参ったのでありますが、
あそこに入っているうちに、私はまだ生長の家の神想観というものは我流で、
ただあの招神歌(かみよびうた)を誦しまして、その間(かん)いろんな奇跡に
逢(お)うたことがたくさんありますけれども、本日は時間がありませんから
申し述べませんが、
ともかく私の気持ちが、そういう一大事件に出くわしてもなおかつ、
非常に朗らかであって、今日(こんにち)もただただ御礼(おんれい)に
参上したのですが、あまりに嬉しいので発作的にここに立ち上がって、
皆さんにこんなつまらない、恥ずかしいことを申し上げるという気持ちになったことで、
いかに私が救われて喜んでいるかということを御想像願いたいと思います。
私がああいう所に入りましても、なおかつ自分の心に幸福を感ずる道を発見した。
これから社会に出ればすべての社会生活の上にそれを実行したい。
電車に乗っても、そこにお婆さんが立っている、自分の席を開けて掛けてもらう。
あのニッコリとして『ありがとう』と言うあの喜びの顔を見る時、わたしどもは
帰って晩寝るまでそれが忘れられないほどの嬉しい印象を受けることと思います。
日常茶飯事のすべてにそういう喜びを見出してゆく。
いたるところに天国が見出せるということがわかりました・・・」
道場に集っている人たちは感きわまって拍手した。
すすりないている婦人もあった。
そうだ、天国はいたるところに見出せるのだ。
<感謝合掌 平成30年12月22日 頓首再拝>
天国の喜び - 伝統
2018/12/30 (Sun) 04:49:22
*「光明道中記」(12月30日 讃える喜びの日)より
【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】
他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。
人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。
天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。
人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。
ニセ者の我を征服する喜びである。
真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。
創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。
すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。
奪い合いのない幸福でなければならない。
5つのパンを5千人に分っても尚(なお)籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。
<感謝合掌 平成30年12月30日 頓首再拝>
悲しみの奥には、悦びの実相がある - 伝統
2019/01/07 (Mon) 04:04:09
*「光明道中記」(1月7日 光明一元・歓喜の日)より
【暗は光明に来てブッ突かればブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
(『生命の實相』第一巻)】
悲しみは存在しない。それは無い心である。
文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代支那人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味でそれを組み立てた。
「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。
喜べばいくらでも喜べるのが心である。
悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば喜びだけがあることが判るのである。
ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、悲しみに抑えられて、
獅子(ライオン)に咬まれた小兎のように悲しみによって振り回されるからである。
静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。
オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。
これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。
悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、その奥地に探り入れば悦びが実相である。
<感謝合掌 平成31年1月7日 頓首再拝>
喜べば生命は伸びる - 伝統
2019/01/08 (Tue) 04:23:35
*「光明道中記」(1月8日 魂浄まる日)より
【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。(『生命の實相』第一巻)】
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの状態である。
伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。
浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。
寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。
また其の人が寒中水浴することが不快であり、嫌々ながら人に勧められたために
已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、其の人はその水浴が無効であり、
却って害があることを実証するために、自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。
喜べば生命は伸び、嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。
健康法で健康になり得た人はその健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。
そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。
<感謝合掌 平成30年1月8日 頓首再拝>
すべてに喜びを見出す - 伝統
2019/01/11 (Fri) 04:13:57
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より
一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。
自分のしている善いことに、家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて光明(ひかり)の道を知らせていただいたといって、
人一倍喜ぶこともできるのである。
明るい半面ばかり見る者は常に生長し、暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。
どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。
この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。
<感謝合掌 平成31年1月11日 頓首再拝>
《悦びは創造の力である》 - 伝統
2019/02/04 (Mon) 04:52:18
*「光明法語」(2月4日)より
神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。
歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて萬物の創造となったのである。
悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。
愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。
かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。
愛が形をかえて色々の文化を生ずる。
<感謝合掌 平成31年2月4日 頓首再拝>
われは、ただ喜ぶことだけ - 伝統
2019/02/28 (Thu) 04:45:46
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より
よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。
お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。
心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。
<感謝合掌 平成31年2月28日 頓首再拝>
深き魂の悦び - 伝統
2019/03/15 (Fri) 04:42:18
*『人生の秘訣365章』第11篇(P280~281) より
~《無尽灯を献げること》
人が悩むのは神との一体感を失い、自分の無力と孤独感とが
ひしひしと心に迫って来るのが感じられる時である。
神と偕(とも)なる自覚があれば、吾らは何事をも成し得るし、
また失望することもないし、孤独感にさいなまれることもないのである。
そのような悩める人を神にまで導いて救ってあげたとき、
何ものにも優(ま)して深き魂の悦びを得るのである。
すべての愛行のうちその人を神に導く愛行を行うをもって
最大価値ある愛行とするのである。
物質をもって愛行しても、その物質がなくなれば、
その人には不足や窮乏の感じが起って来るのであるけれども、
人を神に導いてあげた場合は、相手は永遠の救いを得、
あらゆる点に於いて十全の護りを神から受けることになるのであるから、
その悦びは尽きることがないのである。
これを無尽灯を献げると謂うのである。
<感謝合掌 平成31年3月15日 頓首再拝>
《わが生命は神の生命の歓喜》 - 伝統
2019/04/03 (Wed) 02:51:44
*「光明法語」(4月3日)より
われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。
神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。
われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。
生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。
<感謝合掌 平成31年4月3日 頓首再拝>
いつも喜んでいられる理由(レーナ・マリア) - 伝統
2019/04/23 (Tue) 03:36:56
*Web:今日も良いことがあるように(2019/04/05)
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
いつも喜んでいられる理由
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
日本でも有名なゴスペル・シンガー、レーナ・マリアさん、
彼女は生まれつき両腕がなく、左脚が右脚の半分の長さしかない
という障害を持って生まれました。
でも、とても明るく前向きな人です。
レーナ・マリアさんは、3歳で水泳教室に通い始め、
10代後半からスウェーデン代表として障害者の国際水泳大会に出場し、
数々のメダルを獲得しました。
高校の音楽専攻科を経て、名門のストックホルム音楽大学に入学。
91年からゴスペル・シンガーとして本格的に活動を始め、
まず全米8州約50ヶ所でコンサートを開催しました。
日本でも92年以来、ほぼ毎年、全国各地でコンサートを行ない、
その美しい歌声で人びとを感動させてきました。
そんな彼女が小さい頃からもっていた特技は、
どんな所にいても、すぐに何か楽しいことを見つけ出して喜んでいられること。
そして、
いつも何かに向かってひたむきに努力して、生き生きしていられることです。
マスコミの取材で
「レーナ・マリアさん。あなたの喜びはどこからくるものですか」
と聞かれる質問に彼女はいつも同じように答えます。
「わたしの両親は、わたしを障害者として育てずに一人の娘として育ててくれました。
そして、いつも『あなたは価値ある者です。わたしたちは、あなたをとても愛している』
と言って育てくれました。
けれども、それ以上に神様はわたしを愛してくださっていることや、
わたしには神様の特別のご計画がおありになるから、他の人と違う形に造られたのだ、
ということをいつも話してくれました。
ですから、わたしは、この特別の体を神様のために使っていただきたいと思っています。
そのようにお祈りしていると、神様がどんな時でも、わたしといっしょにいてくださり、
わたしの親友でいてくださることがわかって、いつも喜んでいることができるのです」
レーナ・マリアさんは、1998年3月には、長野冬季パラリンピック開会式で歌を熱唱。
年々、世界へ向けて演奏活動の枠を広げており、
彼女の明るく前向きな生き方と澄んだ歌声は、
世界中の人々に生きる勇気と希望を与え続けています。
レーナ・マリアさんの好きな言葉です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」
(テサロニケ人への手紙 5-16~18)
彼女は、この言葉どおり、いつも喜んでおり、絶えず祈り、
人とは違う特別な体を与えられたことにも感謝しているのです。
いつも喜び、祈り、感謝しよう。
わたしたちは誰もが愛されています。 (^.^)
【出展】 レーナ・マリア クリングヴァル (著)
『レーナ・マリア―フット・ノート 足で書かれた物語』(小学館)
( https://lucky.t-nakai.work/2019/04/05/thinking-43/ )
<関連:レーナ・マリア
伝統板・第二「困難に戯れよ③」
【ゴスペルシンガー・レーナ・マリアの場合】 2018/12/31 (Mon) 04:35:48
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7662809
<感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>
《”神の悦び”を“わが悦び”といたしましょう》 - 伝統
2019/05/12 (Sun) 04:21:39
*「真理」第9巻生活篇(P106~107)より
「神は霊的悦びである。霊的悦びがわたしの悦びである」
この言葉を神想観中に自己暗示的に毎朝夕20回づつとなえよ。
称(とな)えること1ヶ月又は数ヶ月にして、あなたの心に今までにない、
霊的な悦びが湧き上って来るのを感じられるでありましょう。
神は本来「悦びそのもの」であり、
「悦び」によって実在の世界を創られたのであります。
「創世記」の人間創造の記録に、人間がエデンの楽園に置かれるのもそのためであり、
仏教において仏教の世界が荘厳極まりなく美しく賛歌の満たる世界であるのは
そのためであるのであり、
天理教でも”神が人間をこしらえたのは物見遊山をさせたいから”とその天地創造説なる
「泥海古記(どろうみこうき)」に書かれているのも神の天地創造が
「悦びそのもの」のであることをあらわしているのであります。
その「神の悦び」を「わが悦び」とするとき、
必ず良き事物の創造が現実世界にもあらわれて来るのであります。
<感謝合掌 令和元年5月12日 頓首再拝>
悦びを語る - 伝統
2019/06/05 (Wed) 04:30:07
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より
生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。
天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。
人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、
言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。
黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。
自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法である。
<感謝合掌 令和元年6月5日 頓首再拝>
【まわりにいる人を喜ばせること】 - 伝統
2019/06/25 (Tue) 04:24:39
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年05月28日 )より
(書店「読書のすすめ」店主、清水克衛氏の心に響く言葉より…)
みなさんは「あきんど感覚」って言葉、聞いたことがありますか?
おそらく耳慣れないなんて方もいらっしゃるかもしれませんね。
でも、この「あきんど感覚」を日常にちょっと取り込むだけで、
まちがいなくあなたの毎日はおどろくほどキラキラ輝きだすことになります。
えっ、なぜかって?
なぜなら…「あきんど感覚」っていうのは、
自分のまわりにいる人を喜ばせて、その結果、
いつのまにか自分もツイてる人になってしまうという、
神さまの知恵だからなんです。
「まず先に人を喜ばす」。
あきんど感覚で一番大事なポイントっていうのは、
この「まず先に」、これなんです。
と言いますか、これだけなんですね、気を付けなくっちゃいけないところは。
タネまきと一緒ですよね。
自分から先に「喜び」を配ること。
なのに、タネもまかないうちから
「収穫しよう」ってことばかりに気をとられてしまう
サラリーマンの人ってけっこう多いんですよ。
逆なんですよね。
結局は、人間の本当の成幸って、
そのタネまきをやってきたかどうかだけなんじゃないのかな、って思うんです。
「せいこう」って「幸せに成る」ことに通じるんですね。
だから、「成幸」。
いい言葉だと思いませんか?
人間だれでも「幸せになりたい」って思いますよね。
幸せになりたいんだったら、考える前に、人を喜ばせればいいんです。
なのに、つい「自分が」「自分が」って自分のことでいっぱいになったり、
「私は幸せじゃないから、人を喜ばせることなんてできません」って
暗い顔して悩んでしまうんです。
それじゃ、アクセルとブレーキが逆なんですよ。
それをやったら、人も自分の幸せもどんどん離れていってしまう。
なぜかというと暗い顔で悩むっていうのは自分のことしか考えていないから。
「自分だけが幸せになるために必死になっている」
っていうのは、とっても貧しい考え方の表れですよね。
もったいないですよ。
人間って、本当に、明るく、明るく生きなきゃいけないんです。
本気で幸せになりたいんだったら、
うそでもいいからまず自分が明るい顔して、
人が笑顔になることばっかりを考えていればいい。
まず「先に人を喜ばす」。
それを楽しめる人になることが、魅力的な人になる第一歩です。
<『まず、人を喜ばせてみよう』プレジデント社>
・・・
斎藤一人さんは、「人を喜ばせること」についてこう語る。
(斎藤一人 愛される人生)より
『人を喜ばすって、みんなが思っているほど、難しいことじゃないんだ。
たとえば、女性に「いつも、キレイだね?」って、いってあげたっていいし。
外で食事をしたとき、お店の人に「おいしかったよ」というのもいい。
友だちやなんかと会ったら、「あなたと会えて、うれしいよ」とか。
会社に行ったら、上司や社長に
「この会社で働けて、私はついてます。感謝してます」とか。
そういう言葉をいっても喜ばせることができるし、字を書いても喜ばせられる。
なおかつ、それをやっている自分自身が、スゴく楽しいんだよね。
だから、「人を喜ばせるんだ」ってことを、
自分の趣味かなんかにしちゃうと、いいかもわかんない。』
愛のない言葉で、相手をがっかりさせたり、嫌な気持ちにさせてしまう人がいる。
反対に、愛のある言葉、思いやりある言葉で
相手を、明るくしたり、ほっこりさせたり、いい気分、にできる人もいる。
まわりにいる人を喜ばせることができる人だ。
どんなときも、先に人を喜ばすことができる人でありたい。
<感謝合掌 令和元年6月25日 頓首再拝>
「人が喜ぶ姿」を見るのが人間の最高の報酬になる - 伝統
2019/07/15 (Mon) 04:31:36
*「「感謝!」言うてたら、ホンマに儲かりまっせ」
横山 信治(著)(P143~144)より
私たちはどうしても意識を外に向ける傾向があります。
自分が楽になるように、自分にお金が入るように考えがちです。
金運には、いったん外に意識を向けて、自分以外の人を喜ばせてあげると、
いずれ自分に返ってくるという習性があります。
人間の悩みの大半は、主語が「私」です。
「会社で評価されない」
「上司とうまくいかない」
「もっとお給料をもらいたい」
これらの悩みの主語はすべて「私」です。
どうして私ばかり……。
私は損をしている。
私はわかってもらえない。
不満の原因は他人で、気の毒なのは「私」です。
そこで、主語を「私」から、他者に向けてみましょう。
そうすることによって、悩みのスパイラルは断ち切れます。
人間の脳は同時に2つのことを考えることができないからです。
「上司の○○さんの成績を上げるために頑張ろう」
「恋人が喜ぶようなデートプランを考えよう」
「子供が楽しく過ごせる工夫をしよう」
これはすべて主語が相手です。
他人の喜びを考えるとき、自分のことを忘れて苦しみから解放されます。
「人が喜ぶ姿」を見るのが人間の最高の報酬になるように、
私たちの脳はプログラムされているからです。
<感謝合掌 令和元年7月15日 頓首再拝>
《自己に宿り給う神を悦ばすこと》 - 伝統
2019/08/03 (Sat) 04:34:36
*『 生長の家 』(昭和40年3月28日の法語)より
人間は土を耕(たが)やし植物に肥料を与え水を灌(そそ)ぐ。
けれども、植物が本当に生する力は植物の内部にある「 生命力 」であって、
「 生命力 」がなくなってしまった植物にどんな肥料をやっても、
水をかけても生長しないのである。
その「 生命力 」が「 神 」であるのである。
自己の内部に生命力をいつまでも若々しく元気に保存して置こうと思ったならば、
自分の体から「生命力」即ち「神」が去ってしまわないようにしなければならない。
そのためには私たちは日常生活に、
その「 神 」を悦ばすような愛行と善行とをしなければならないのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121
<感謝合掌 令和元年8月3日 頓首再拝>
【与える喜び、分け合う喜び、やり遂げる喜び】 - 伝統
2019/08/20 (Tue) 04:45:12
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年08月09日)より
(渡辺和子氏の心に響く言葉より…)
近頃、もらう喜びは知っていても、
その他の喜びをあまり味わっていない子どもが、
ふえているように思えてなりません。
その他の喜びとは、与える喜び、分け合う喜び、
そして自分で物事をやり遂げる喜びです。
マザー・テレサがこんな話をなさいました。
カルカッタの街に、8人の子を抱えてお腹を空かしている家族がいたので、
お弁当を作ってもって行ったところ、その母親は押し戴いて喜んだ後、
すぐどこかへ出て行きました。
やがて戻ってきた母親は、
「実は隣の家族も、このところ食うや食わずの毎日だったので、
半分あげてきました」と言ったそうです。
マザーは、この話をしてから、
「貧しい人は偉大です。飢えを経験した人には、他人の苦しみもわかるのです」
と言われました。
本当の豊かさとは、
このように、他人に与えるものをもっている心を指すのですね。
最近、自分でやり遂げる喜びを、
子どもから奪っている過保護の親もふえているようです。
それは、子どもたちを愛しているように見えて、
実は彼らから、その成長に必要な自信と、自立の喜びを奪っているのです。
もらう喜びしか知らない子どもは、自分中心の世界で生きています。
どれほど多くのものをもっていても、その子の心は貧しいのです。
与える喜び、分ちあう喜び、
自分で何かをやり遂げた時の喜びをも味わわせることによって、
子どもの生活を本当に豊かなものにしてやりましょう。
<『忘れかけていた大切なこと』PHP文庫>
・・・
この「喜び」の話は、子どもだけのことではない。
「やり遂げる喜び」を知らない人(大人も)は、
「与える喜び」や「分け合う喜び」も分からない。
自信とは、何かをやり遂げることによって生まれるものだからだ。
やり遂げることによって、自己充足感や、自己重要感が増し、自立心がめばえる。
「やり遂げる喜び」は、リーダーや親が手助けをせず、
グッと我慢をして見守ることによって生まれる。
「与える喜び、分け合う喜び、やり遂げる喜び」が分かる人でありたい。
<感謝合掌 令和元年8月20日 頓首再拝>
喜ばぬ『自分』は『非在(えせ)の自分』 - 伝統
2019/08/26 (Mon) 04:50:55
*「光明道中記」(8月26日《法悦なき法悦の日》)より
【形の地獄の中にも極楽がある。(『生命の實相』第十一巻)】
(歎異抄第九条)
念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころ
おろそかにさふらふこと、
またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、
いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、
まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、
唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどに、
よろこぶべきことをよろこばぬにて、
いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもひたまふべきなり。
唯円房が
「念仏を称えながらも
わたしは天に踊り地に舞うような法悦が感じられませぬ。
後生を欣求(ねが)う念仏を称えながらも、
私は急いで極楽浄土に往きたくはございません。
これは矛盾でございますが、どうしたものでございましょう」
とおたずね申上げましたら、
親鸞聖人は
「親鸞もお前と同じような疑問を持ったことがあるが、
唯円房よ、その方も同じ心だったな」
と仰せられました。
「よくよく考えて見れば、よろこぶべきことを喜ばぬ『自分』は
『非在(えせ)の自分』の証拠である。
非在の自分を”ある”かの如く思いあやまっているからこそ、
他力の悲願(おすくい)が必要なのじゃとありがたく思えば好い・・・」
と仰せられたのである。
<感謝合掌 令和元年8月26日 頓首再拝>
大生命の歓喜 - 伝統
2019/09/09 (Mon) 03:49:55
*「光明法語」(9月9日)より
大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。
而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。
それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に喜びを
感ずるのと同様である。
大生命は森羅萬象を
自己に内在する美と感情と衝動とを表現せんが為に造った。
<感謝合掌 令和元年9月9日 頓首再拝>