伝統板・第二

2538859
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

恐怖心を追放するには ③ - 伝統

2017/11/28 (Tue) 04:31:40

     *伝統板・第二「恐怖心を追放するには ②」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6864480


《恐怖はすべて把む心、把みを放つ》

        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より

便秘はいかにして起こるか。

それは食物に関係して起こるというのは物質科学の解釈であるが、
同一家族にして同一食物を摂(と)りながら、一人は便秘し一人は下痢する
という場合において考えるならば、それはたんに食物を変更するだけでは
治療せしめないのである。

フロイド流の精神分析によれば、それが肛門に関係した疾患であるから、
すぐに幼児期の性欲に連関して解釈しようとするのであるが、
そうすべてを汎性欲論で片づけてしまうべきではないのである。

便秘は肉体の心の影という方面から分析してゆくならば、
あらゆる種類のものを失うことに対する恐怖が具象化したものだ
と言うことができるのである。

金銭の喪失に対する恐怖、友を失う恐怖、愛情を失う恐怖、
・・・等のごときはそれである。
これを一言(いちごん)にして言えば「把(つか)む」こころである。

把(つか)んで放たない心であるから、
まず心を放下することを、何物にも引っかからず、
ゆったりと緊張を解く心に誘導すべきである。

恐怖はすべて把む心である。溺れるものは藁をも把む。

恐怖すれば手に汗を握る。(握るは把むである。)
すべての心が元であって、
恐怖する念が起これば全身にその形があらわれるのである。

血管は収縮し、皮膚は収縮して肌(はだ)に粟(あわ)を生ずる。
心臓も急激頻繁に把むがゆえに、その鼓動を増加し、血圧は高まり、
時として狭心症を生ずるのである。

かくて恐怖する者は
直腸も肛門を収縮して「尻(けつ)の穴の狭い者」となり、
排便しえない状態になるのである。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「恐怖心を追放するのが「生長の家」の念願の一つ (2064)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=436      

(2)光明掲示板・第二「恐怖心の追放 (87)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=41 

(3)光明掲示板・第三「恐怖心を追放する道 (51)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=29

(4)光明掲示板・伝統・第一「恐怖心を追放するには (70)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=43

(5)伝統板・第二「恐怖心を追放するには①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6462215
  

            <感謝合掌 平成29年11月28日 頓首再拝>

恐怖を撃滅するには - 伝統

2017/12/14 (Thu) 03:28:20


        *「苦難と恐怖の克服法(人間救いの原理)」第八章 より

人生の悩み、不調和、災難等を心に思えば恐怖心が起こるのであります。
吾々はこれらの恐怖を「不幸への誘惑」として拒絶しなければなりません。
やがて来るべき禍についての恐怖的暗示は、総て誘惑であるのです。

その誘惑に引きずられ行くとき、
吾らはジリジリとその恐れた災禍の落とし穴に墜落するのであります。

吾等はその誘惑をして唯誘惑たるのみに留めしめなければならないのであります。
若し吾々が神を見出し、それにより頼ることによって、
そして永遠の眞理の中にしっかりと立つことに依って、
恐怖を除去してしまうことが出来ますならば、これらの誘惑は克服され、
そうして吾々は、陥るべき不幸災禍から解放されるのであります。

「逃げようとすれば、却って恐怖は増大する」と云う事は心の法則なのであります。

だからハンブリン氏は、「恐怖の想念、禍の暗示を吾々は避けようと思ってはならない。
避けようと思えば却ってそれらは吾々の潜在意識の中に入り込み、
根を蔓らし茎を伸ばして、その恐怖する心の姿と同じ形を外部的生活に
あらわして果を結ぶことになる。」と度々注意しております。

恐怖の暗示、災禍のそれとなく近づく不安は、「災禍なし」という、
眞理の自覚に依ってのみ眞に克服し得るのであります。

如何なる災禍も眞理に抗してその存在を主張することは出来ないからであります。

若し吾々の近き縁者達の一人が、油断のならないいかがわしい病気で死んだとしたならば、
吾々も又その病気に感染して犠牲となるかも知れぬと云う恐怖の思いが起って来ることが
あるかも知れませぬ。

この様な時、吾々は、何事もないことを希望しながら、
一方に何となく不安であるとしたならば、
その不安の様な暗示を決して受け容れてはならないが、
その恐怖を軽く胡麻化して打ち消そうと思ったり、
考える事を避けて一時逃れをしようと思ってはならないのであります。

吾々が為さなければならないところのことは、
恐怖や不幸や病気の暗示を、勇敢に迎え受けて誤魔化すことなく、
眞理の光に照らし出して、その暗き心的活動を消滅せしめる事が必要であります。

『甘露の法雨』の
「暗に対しては光をもって相対せよ。仮相に対しては實相を以って相対せよ」
であります。

その方法としては「神が生命(いのち)であり給い、完全であり給い、
又吾々自身が神の子であり、神と共に神の生命と神の完全さとを分ち有つものである」
と云う眞理を心に深く思念し、それによって恐怖を完全に打ち砕き、
恐怖の背後にあって現実化さそうとしていた、如何なる小さき暗き心的波動さえも、
打ち砕いてしまうのであります。

唯、神様に任せておこうと、誤魔化して逃げてしまって、
心中の恐怖心を打ち砕かずにそっと触れないでおくのではいけないのであります。

他の種類の如何なる恐怖も同じようにして撃滅すべきであります。

 (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785 <2017年10月14日>)

            <感謝合掌 平成29年12月14日 頓首再拝>

恐怖は誤解の上に成り立つ - 伝統

2017/12/18 (Mon) 03:36:23


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月18日)より

およそいっさいのものには存在の意義がある。
その人にとって不必要なものは存在しないのである。
いわんや困難に意義がないなどというはずはない。

与えられたものをその存在の意義をそのままに受け取ろうとしないとき、
そこに苦痛は起こり、悲哀が感じられるのである。

わたしはある日、鳩が板の上に卵を生んで抱卵に困っているありさまを見て、
その卵を巣皿の中に入れてやったら、慣れない鳩はその巣皿を怪しいものと思い、
「不幸」が見舞ったと思い、その卵の抱卵の期を失ってしまったことがある。

板の上に卵を生んだ鳩にとっては、そこへ巣皿が現れたということは、かえって救いの手であった
のだが、彼はそれを誤解し、恐怖し、与えられたものを素直に受けようとせず、苦痛を感じ、
呪詛を感じ、そして自己と自己の子孫の運命を腐敗せしめてしまったのであった。

困難を恐れる人間も、この鳩のごときものである。
すべて恐怖は誤解の上に成り立つのである。

静かに受けて、与えられた意義を見出せば、その人にとってそれは
あるいは運命向上の、あるいは人格向上の、あるいはいっそう健康となるための
素材であるはずのものがどんなにか多いことであろう。

            <感謝合掌 平成29年12月18日 頓首再拝>

《不安恐怖を除くための祈り》 - 伝統

2018/01/04 (Thu) 04:30:17


        *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P216) より

何よりも心の迷い、恐怖、不安等を取り除きなさい。

毎日の祈りの際に、神が無限の供給源であり、無限の生命源であることを念じなさい。
そうすることによって、一切の心の迷い、恐怖、不安等を取り除くことができるのです。

「神は無限生命であり無限の供給でありたまう。
わたしは神の子であるから、常に神より無限の生命と無限の供給とを
与えられているのである。

だから私は常に健康であり、裕かであるのである。

神は常にわたしを護りたまうが故にわたしには何らの不安も恐怖もない。
心は常に明るく愉快で、私は神の生命と財福の供給が無限に流れ入る
パイプになっているのである」

と云う風に祈るならば、恐怖心も不安も除かれ、
真に「神」の流入する不思議のパイプとなることができて、
日常生活に必要なあらゆる物を得ることができるのである。

            <感謝合掌 平成30年1月4日 頓首再拝>

《惰性的安定感に堕ちてはならぬ》 - 伝統

2018/01/16 (Tue) 04:48:42


        *「光明法語」(1月16日)より

新しい想念を入れることが出来ず、変化すべき時に変化に抵抗し、
新しき経験が自分の生涯に入(い)り来(きた)ることを拒む人間には
進歩はない。

この種の抵抗は前途に対する不安恐怖の念から来る。
今までやってきたことが一番安全だという
愚かしき固定概念に支配されているからである。

もしすべての人類がかくの如き固定概念に支配されていたとしたならば
この世界にも人間にもどんな進歩も発達も得られなかったのである。

現在の状態の崩壊することは悲しいことのように見えるけれども
それは却(かえ)って進歩と幸福への契機である。

            <感謝合掌 平成30年1月16日 頓首再拝>

《恐怖は神から離れた時に起る》 - 伝統

2018/01/18 (Thu) 04:49:29


          *「光明法語」(1月18日)より

神の霊、自己の内に宿り給う。
自己の中には無限の智慧と力の源が埋蔵されているのである。

自分は何事が出て来ようとも決して恐れはしないのである。
神と共にある者の心は常に平和である。

もはや吾が行く所の道に横たわる如何なる危険も困難も自分は恐れない。
困難よ消え失せよと吾念ずれば困難は消え失せるのである。
危険よ消え失せよと念ずれば危険は直ちに消え失せるのである。

波を叱咤すれば波は消え、山を叱咤すれば山は去るであろう。

吾これをなさんと決意すれば何事でも必ずなすことが出来るのである。

            <感謝合掌 平成30年1月18日 頓首再拝>

《妄心の生理作用に及ぼす影響》 - 伝統

2018/02/01 (Thu) 04:08:46


      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P258~259) より

恐怖を感じると顔面が蒼白となり、羞恥を感ずると顔が紅潮します。
これは異常な感情がホルモンの分泌に異常変化を起させた結果、
毛管の一部拡張や一部収縮を起こした結果が血流に変化を生じたのです。

これは肉眼に見える顔面の変化を指摘して
諸君にわかりやすく説明するためでありますが、
それと同時に、肺臓や心臓や胃腸のハタラキにも異常変化を起こしているのです。


「妄心」はこのようにして人体内の生理作用に影響を与えます。

麻酔薬は時として「妄心」のハタラキを麻酔せしめて却って
「妄心」のあらわれである病気を軽減することがあります。

兎の四肢(よつあし)を縛って天井から5日間もぶらさげると、
兎は恐怖と不安のためにホルモンの不調和を
来して死んでしまうが、

同じように縛って天井からぶらさげても、
その兎に麻酔剤を注射しておくと「妄心」が麻酔して
「恐怖」や「不安」を感じないから死なない。

            <感謝合掌 平成30年2月1日 頓首再拝>

いっさいの恐怖心を消滅せしめなさい - 伝統

2018/02/17 (Sat) 03:26:57


       *『生活の智慧365章』
          (第4部繁栄の泉)第10篇(P263~265) より

《無い病気の恐怖》

「言葉は神である」と言われている通り、言葉に発したことは、
その通りに事物を動かす力があります。

あなたが相手を「赦しました。感謝しています。愛しています」と言葉で
繰返し念じているうちに、実際に相手に対する怒りや憎みの感情がやわらいで来、
相手の立場に立って考えてやる心の余裕ができ、
そして本当に相手を愛することができるようになります。

これで病気を起こしていた第一の原因は除かれたのです。


次には病気に対する恐怖を除くことです。

病気の恐怖は、病気を実在すると思うから起るのです。
神は病気を造らないのであるから、病気などは存在しないのです。
存在しない病気は進行する筈もないのです。

「無い病気」があなたの生命(いのち)を奪う筈もないのです
―― この真理を繰返し自分の心に言ってきかせるが宜(よろ)しい。

これには『続々甘露の法雨』を読むか、人から読んで聞かせて貰いなさい。

          ・・・

《心の馬を支配せよ》

肉体の症状に心を引っかからせてはなりません。

症状を心に描いて、それに恐怖を集中していますと、
心が描く通りに象(かたち)が現れると云う原則にしたがって
病気が一層増悪するものです。

心が「馬」であり、「病気」とう云う厄介な荷物を搬(はこ)んでくるのも、
この「馬」ですから、「馬」さえあなたが支配したならば、「病気」と云う荷物を
搬び去らせることができるのです。だから「心」に注意しなさい。


まだ人を憎むこころが残っていないか、
本当に天地一切のものに感謝する心になれているであろうか。
まだ病気を実在だと思って恐怖していないだろうか。

本当に明るい心になれているだろうか。

そして「実相」の完全さをのみ心に描いて、実相の完全さに
自分の心の波長を合わすことができているだろうかと反省して、
実相の完全さに自分の心の波長を合わすように努力するが良いのです。

        ・・・

《妄心の自壊作用》

「実相の完全さ」に波長を合わすように「心」を努力していますと、
「妄心(もうしん)」がみがかれて中の「真心(しんしん)」が現れ、
「真心」が「実相の完全さ」を現象界に現すことになります。

「実相の完全さ」が現象界に現れて来ますと、
日常の生活も調和したものになり、生理作用も非常に完全になって来ます。

時として、「妄心」が消滅するときに「妄心」の築き挙げた病的症状が
急激に自壊する結果、所謂る自壊作用と称して症状に急激な 変化が起り、
却って一見重篤な状態を呈するころがありますが、
そんな時に心が周章(うろた)えてはなりません。

「実相に於ては自壊作用もなく、重篤な症状もない、
ただ神のみが一切の創造者であり、悪なる症状は決して存在しないのである。
自分は完全に健康である」と念じなさい。

こうしていっさいの恐怖心を消滅せしめなさい。

『天使の言葉』には
「恐怖滅すれば一切の不幸と病(やまい)おのずから滅せん」と
示されております。

            <感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>

《恐怖・不幸の悪循環》 - 伝統

2018/03/03 (Sat) 04:41:20


         *『生長の家』(昭和41年12月13日の法語)より

   恐怖心の起る根元は、この世に自分の存在又は幸福を脅かす
   ところの何物かが存在するという信念である。

   この信念を打ち破らない限りは
   根本的には恐怖の根元を断ち切ることはできないのである。

   ところが現象界の事物は、所謂る 〃諸行無常〃 であって、
   その存在は常に確乎としていないのである。

   「今日あって明日は無い」のが現象界の存在である。

   どんな現象界の幸福も、肉体の健康も、それは常に変移し、
   破壊し、消えて無くなる危険にさらされているのである。

   現象の肉体だけを見ておれば人間はすべて死刑囚であって、
   ある不定の期間だけ執行猶予さられているに過ぎない。

   このような不安定な肉体人間を「自分そのもの」だと思っている
   限りに於いて恐怖心を絶滅することは絶対に不可能なのである。

   そこで恐怖心が存在する限り、更に不幸を招び寄せて、
   連鎖反応を継続することになり、不幸は恐怖を呼び、恐怖は不幸を招き
    ・・・・・ 循環して終止することがないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

            <感謝合掌 平成29年3月3日 頓首再拝>

《本来完全なる実相世界のみの存在を知ること》 - 伝統

2018/03/18 (Sun) 03:57:21


         *『生長の家』(昭和41年12月14日の法語)より

   恐怖・不幸・恐怖・不幸の悪循環を断ち切るためには、
   恐怖の原因になっているところの常に変易する 〃無常の世界〃 を 
   〃本来無い〃 と 〃心の世界〃 より消し去って、

   真に存在する世界は、唯、神の創り給える完全世界‘のみ’である
   と知らなければならないのである。

   この完全世界のみが実相世界であるから、
   この世界を吾々は実相世界と呼ぶのである。

   この実相世界は「一切の生物所を得て、争う者なく、相食む者なく、
   病む者なく、乏しき者なき」すべての生物扶け合い平和にして
   調和世界であって、病もなければ、奪い合もなく、乏しき者もない

   円満具足の極楽的状態の世界であり、この完全世界のみが実在だ
   ということを知らなければならないのである。

   一切の悪は無い、不調和はない、自分を脅かす何物も本当に存在しない
   のだと知るとき、根本的に恐怖の根因が断ち切られてしまうことになる
   のである。
 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

            <感謝合掌 平成29年3月18日 頓首再拝>

人生において、恐怖は敵、希望は味方である - 伝統

2018/03/23 (Fri) 03:50:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月23日)」より

人生において最も恐るべき敵は恐怖であり、
人生の中で最も助けとなる味方は希望である。

しかしいっさいの浮世の希望が打ちくだかれた時に、
人間は本当の希望を見出すのである。

            <感謝合掌 平成30年3月23日 頓首再拝>

恐れず、行動せよ! - 伝統

2018/03/26 (Mon) 03:26:23


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月26日)」より

まず恐れないで虎穴(こけつ)に降りて行かなければならない。
待っているということと、降りて行くということとは両立しないことではない。

恐ろしいものは何も出て来ない。
もし恐ろしい者に出くわしたら、
それはただ仮面を被っているだけだから恐れるにはおよばない。

まずそいつと取っ組んで征服し、その仮面を剥いでやるのだ。

すると本当はそのお化けの正体は「幸福」というものであったことがわかるであろう。

            <感謝合掌 平成30年3月26日 頓首再拝>

心配事など取るに足らぬ - 伝統

2018/03/28 (Wed) 03:10:52


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月28日)」より

人間が心配していることは、すべて小さな重要でないことについてである。
真に重要なことの前には人間はかえって大胆に勇敢になるものである。

戦場に出れば人間はもう心配などしている暇がない。

心配していることそのことが、おん身の考えている事柄が
じつに小さな採るに足らぬことであることの証拠である。

これを知ったらあらゆる心配が消えてしまうであろう。

            <感謝合掌 平成30年3月28日 頓首再拝>

《宗派宗教の弊害の一つは恐怖を唆(そそ)るにある》 - 伝統

2018/04/16 (Mon) 03:39:02


        *『 生長の家 』(昭和24年2月18日の法語)より

   宗派にたてこもって、
   自己の宗派を維持し拡大しようと
   企(たく)む 既成 宗教家によって計画されたる運動は
   先ず人心に神罰の恐怖を植えた。

   「 この宗教をやめたら神罰が来る 」 と教えることによって
   彼らは 信者が自分の教団から離れて行く事を防止しようとしたのである。

   もっとも恐るべきは
   神罰の観念が幼き児童に対して
   教えこまれるということである。

   幼児の心の中に刻みつけられたる神罰の観念は
   成人になってからもその潜在意識中に抜け難き恐怖となって存在し、
   人生を明るい目を以て見ることができず、

   常に恐怖の念を以て見るが故に
   その人の住む人生は

   その恐怖の念の反映として暗澹(あんたん)たるものとなり、
   不幸災禍がつきまとうものとなる。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12964084.html

            <感謝合掌 平成30年4月16日 頓首再拝>

《失敗の奥には精神的葛藤(かっとう)がある》 - 伝統

2018/05/10 (Thu) 03:17:56


         *『 生長の家 』(昭和25年12月22日の法語)より

   すべての失敗の奥には精神的な葛藤があるのである。
   形の世界の失敗に恐れることは要らないのである。

   それよりも恐るべきは自分の心を省みないことである。
   災害が外から襲いかかって来たと思ってはならない。

   心の中に起った烈しい動揺、憎み合い、嫉妬(しっと)、
   呪詛(じゅそ)などは蓄積されていて、或る機会が来たときに
   それが具象化して姿をあらわすのである。

   吾々はあらわれた其の結果に対して呪詛の言葉を送ってはならない。

   その結果が如何(いか)に辛(つら)いものであっても、
   それを祝福しなければならない。

   その結果は今までの業に対して結末をつけてくれたもの
   であるから感謝すべきものなのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12339207.html

            <感謝合掌 平成30年5月10日 頓首再拝>

《環境の精神的影響》 - 伝統

2018/05/31 (Thu) 04:01:06


        *「光明法語」(5月31日)より

精神科学は結核患者をみちびくのに、
決して形の上から「絶対安静」を破れと云うのではない。

先ず「恐怖心」を捨てよと教えるのである。
「恐怖心を捨てた」其の結果が、自然に絶対安静の必要がなくなるのである。

まだ恐怖しながら、戦々恐々「動いて見よう」位では危険なことこの上ない。
しかも、周囲の人々が、「動いたら危ないぞ」と恐怖心をそそる言葉で包囲攻撃する場合、
患者は恐怖心を起こさずにいることはむずかしい。

まず環境を変える必要がある。
また家庭の不調和から来る患者は家族互いに感謝させねば精神の安静は得られない。

            <感謝合掌 平成30年5月31日 頓首再拝>

「今」恐れなく受ける - 伝統

2018/06/12 (Tue) 04:10:36


        *「光明道中記」(6月12日 今すぐ行う日)

【恐怖心は神の全能の愛を信じない為に起る。(『生命の實相』第ニ巻)】

すべてを神のみこころに委(まか)せること。
併しこれだけでは恐怖心は絶滅されるものではないのである。

神のみこころの中には不幸は無いと云うことを知らなければ、
人は神を恐怖するに到るであろう。

神に委せるとは、一番高き幸福の源泉に委せることなのである。
《此処に》《今》幸福があることを知ることである。

幸福か不幸かわからないけれども、兎も角神に委せようと云うことではない。
神はわが憩いの家であり、愛の家であり、わが砦であることを知ることである。

単に「思い煩うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、
恐怖を先に延長しているようなものであって、
本当は「思い煩っている」のである。

吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好いのである。
「今」恐れなく受けるのである。
「今」目の前に《ある》ものが決して自分を害するものでないと知ることである。

避けるのではない。捉えるのである。

幽霊の正体見たり枯尾花。
正体を捉えて見たら、恐怖すべきものは一つもないのである。

            <感謝合掌 平成30年6月12日 頓首再拝>

「心」が恐怖を感じて異常の振動を起こす - 伝統

2018/06/30 (Sat) 04:05:18


        *『生活の智慧365章』
          (第4部繁栄の泉)第10篇(P256~257) より

《精神身体医学》

肉体を普通の物質だと考えてはなりません。

上野公園の銅像は、寒い風に当たっても呼吸器の粘膜に炎症を起こして、
風邪を引いたりすることはありません。
それには心がないからです。

ところが肉体が不用意に寒風にさらされると風邪をひきます。
時には重症の肺炎を患って危篤の症状を呈することがあります。

鼓膜に炎症を起こしたり、風邪を引いたりするのは、
「心」が恐怖を感じて異常の振動を起こすからです。

その異常振動が肉体的に具体化して喉や気管支の粘膜に
炎症や糜爛(びらん)の現象を起こすのです。


最近「精神身体医学」が発達しまして、
新しい進歩的な医師は皆その学説に共鳴しておりますが、

胃腸の潰瘍なども、恐怖や、怒りや憎しみによって内部から発するのであって、
如何に薬剤をもって炎症を治療せしめても、内部(なか=心)から次から次へと
炎症を作って行けば治すことを得ないのです。

            <感謝合掌 平成30年6月30日 頓首再拝>

不眠に対する恐怖が消える - 伝統

2018/07/11 (Wed) 04:24:24


          *「光明道中記」(7月11日 心爽やかなる日)より

【実相と云うものは「其儘(そのまま)美しい」のであります。
                     (『生命の實相』第十五巻)】


四祖の道信は「祖風を継いでより心を摂(せつ)して寝(い)ぬることなし」
とあるから、衣鉢(いはつ)を伝えられて以来眠ることがなかったらしい。
それでも別に神経衰弱で夭死(わかじに)したのではない。
彼は七十二歳で示寂(しじゃく)したのである。


私が不眠症の人に示して必ず治る秘訣がある。
それは不眠の人に、ロンドンで四十数年間1時間の睡眠もとらないで
健康状態で続いて来、最近七十四歳の長命で亡くなったと云う実話である。

この話が或る新聞に報ぜられると、ウィーンでは「私は二十何年間一睡もしないで
活動を続ている。眠る必要がなくなったので、仕事をしないと退屈で仕方がないので
1日24時間としての時間割を作って仕事をしている」と言って発表した人があった
と云うことである。

それから文士の倉田百三氏が約1年間不眠が継続していて、
その揚句の果に廓然(からり)と悟ると十数年間の全身結核がケロリと治って、
夏は水泳までも自由に出来るようになったと云う実話である。

こんな話をしているうちに「人間必ずしも眠る必要はない」と云う観念を得、
不眠に対する恐怖が消える、するとその晩から大抵その人はグウグウ眠る
ようになるのである。

不眠症 ―― 実は不眠恐怖症に過ぎなかったからである。

            <感謝合掌 平成30年7月11日 頓首再拝>

<何でも受ける> - 伝統

2018/07/24 (Tue) 03:48:32


                  『靜思集』(P78~79)より

何でも起って来るものに敵意をもって立ち騒ぐことは、
発熱や、発汗や、下痢や、喀血や・・・・
その他のどんなものでも増悪せしむるばかりであって、
不幸はその「起って来るもの」に対する不調和の念によって
増悪(ぞうあく)されるばかりでございます。

「何でも受ける」と云う覚悟が出来た時に病気の治った人は沢山ございます。

若しあなたが病気であって治り難いのでございましたならば、
此の「何でも受ける」と云う心境が無いのではございますまいか。

「あれも嫌や、これも可(い)かぬ」と言って
素直に受ける心境におなり遊ばされねば、
心の調子(リズム)が騒がしいので神の療能(なおすちから)が
働きかねるのでございましょう。

「何でも受ける」という心境におなりなさいましたならば、第一恐怖がなくなります。

恐怖と云うものは、遁(のが)れる道がまだあると思い、
何とかして逃れたいと思うからでございます。

もう宣告を受けた囚人には恐怖がございませぬ。

逃走中の犯人の心は恐怖で充満しておりまする。

「逃れるような卑怯はすまい、すべてを受けよう」斯う決心した時に
恐怖心は消えるものでございます。

恐怖は神経の過労を惹起こし、血液の循環を不平等にし、
血液その他(た)内分泌中に毒素を造り、自然療能を妨げるのであります。

今日(きょう)から私達は恐れないと決心致そうではありませんか。

            <感謝合掌 平成30年7月24日 頓首再拝>

《我に勇気あり》 - 伝統

2018/08/07 (Tue) 04:27:32


         *『生活の智慧365章』
           (第4部繁栄の泉)第2篇( P48~49) より

スウェーデンの諺にこんなのがある。

「少なく恐れ、多く希望し、少なく食し多く咀嚼し、
少なく溜息し多く伸び伸びと息を吸い、少なく駄弁し多く真理を語り、
少なく憎み多く愛せよ。然らば凡ゆる善きものはあなたのものとなる」と。


さて少なく恐怖するためには如何にすべきであろうか。
「少なく恐怖する」とはそれを裏返して言えば
「勇気がある」とか「勇敢になる」とかいう意味である。

勇気があり、勇敢になるためには如何になすべきか。

すべて念ずることは実現することになるのである。

勇気を欲する者は、既に、「自分には勇気がある」と念ずるがよい。
毎日毎日「自分は神の子であるから勇気がある、勇敢である」と念じて、
「勇気を既に自分は受けているのだ」と念ずるがよい。

その実行が繰り返されるとき
潜在意識に「我に勇気あり」の暗示が度(たび)重なって印象され、
本当に、勇気ある実相があらわれて来ることになるのである。

            <感謝合掌 平成30年8月7日 頓首再拝>

「恐怖」に少しだけ打ち克って、前に進んでみる - 伝統

2018/09/20 (Thu) 02:32:32


         *『脳がスッキリする技術』西多昌規・著(第1章) より 

今日の文明社会では、恐怖を感じやすい「怖がり屋」は、
勇気がないと否定的に見られがちです。

しかし本来は、「怖がり屋」は、
厳しい社会を生き抜くための高度な能力を身につけているとも言えるのです。

「部長が怖いから」「苦手な仕事だから」という理由で、
気持ちがスッキリしないというのもわかります。

しかし、恐怖、嫌悪感は、動物でも欠かせない自己防衛のための感情なのです。
恐怖心がないとなると、怖いもの知らずと言えば聞こえはいいですが、
ドン・キホーテのような敗北必至の無謀なチャレンジのあげくに、
取り返しのつかないダメージを被ることにもなりかねません。

なにかにおびえて、怖がって「スッキリしない」のならば、
それは無理に「スッキリさせる」必要はありません。

自分自身を守る、心の動きなのですから、
シマウマはライオンの気配を察知して、機敏にかつ巧妙に
ジャングルの世界を生き延びています。

ライオンがいなければシマウマももっとスッキリしているのでしょうが、
自然界ではそういうわけにもいきません。

人間社会も、似たようなものです。
「恐怖」に少しだけ打ち克って、前に進んでみる。
少しだけでも、いいのです。

これだけでも、多少の「スッキリ」感が出てきます。

            <感謝合掌 平成30年9月20日 頓首再拝> 

恐怖心は信念の欠乏 - 伝統

2018/10/07 (Sun) 04:46:37

         *『白鳩』(昭和24年7月号)より

世の中で最も不必要なものは恐怖心である。

恐怖心は不信仰より来たる。 
恐怖心は人間を神よりひきはなして、
人間のとやかくの想いわずらいの世界にひきこむのである。 

我々が恐怖する時、我々は神の子の位から滑り落ちる。 
そしてアダムの子となるのである。 
楽園から追放せられ 『汝は苦しみて食を得ん』 と宣言せられる。 

恐怖は恐怖を呼び、雑音と噪音とに波長を合わしたラジオ・セットの如くなるのである。

元来恐怖心は信仰の欠乏から生ずるのであって、
過去のことを思いわずらふ持越苦労及び現在の事に不満足なる
感謝欠乏の心によって成りたっているのである。 

そしてその奥には、過去・現在・未来にわたって生ずる所の色々の現象は、
何れも皆自分の心でどうにでも変化し得るという真理を知らないことが
基本になっているのである。

一切の現象が、肉体でも境遇でも皆自分の心でどうにでも変化し得るもの
ということがわかれば、誰でも恐怖する必要がないことがわかるのである。


恐怖を征服するために第一必要なのは肉体及び、自分の環境に起る出来事は、
悉く自分の想念の反映であるという 心の法則 を知ることである。 

第二には人間というものは肉体的存在ではなくして神の自己実現であり、
それは金剛不壊なる霊的実在であって、決して如何なる外物にも
傷つけられることなきものであるということを信ずることである。

病気や不幸が存在するという信念がただ健康と幸福のみが実現するという
信念にまでおきかえられるならば、恐怖心の起りようがあり得ないのである。 

結局恐怖心は信念の欠乏ということができるのである。

真に完全なる健康と完全なる幸福とを確保する道は、

吾々の心の世界からまず恐怖心を追放し、
幸福と歓喜と健康と富と凡ゆるよきものの想念を心の中に確保して
どこまでも持続することができるならば、

実相無限の神の宝倉は開かれて健康でも幸福でも富でも
自由に豊かに現象界に流れ出ることができるようになるのである。

    (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24614335.html

            <感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝> 

恐怖すること勿(なか)れ - 伝統

2018/10/09 (Tue) 04:16:52


        *「光明法語(10月9日)」より

何事に対しても恐怖すること勿れ。
神の子であり、神が常に汝を護っている事を知るならば吾らは何事も恐怖する事はない。

恐怖するのは神を信じていないからである。
恐怖すれば血管は収縮し血液中の過度のアドレナリンを生じ、血圧は昂(たか)まり、
全身の細胞は萎縮して活力を失うのである。

肉体の各器官は神の諸々(もろもろ)の霊的属性の表現である。
神の諸々の属性を完全に表現すればする程、肉体の各器官は一層健康となる。

心臓は愛の表現である。
愛が乱れれば心臓が乱れる。

またそれは心膽(しんたん)である。
気を大きくすれば心臓病は治る。

            <感謝合掌 平成30年10月9日 頓首再拝>

《恐怖を棄てよ、神に振向け》 - 伝統

2018/10/22 (Mon) 04:46:32


          *『人生の秘訣365章』第8篇(P227) より

一切の恐怖を棄てよ。

恐るべき事は決して起らないのである。
何故なら、あなたは神の子であって、常に神に護られているからである。

またこの世界の實相は、神によって創造られているのであるから、
實相に於いて、如何なる悪しきものも、またあなたを害する者も
決して存在しないからである。

それゆえに、何事か、何物か、あなたを脅(おびやか)すものが出現するならば、
それは實相ではなく、自分の心の映像(かげ)なのである。

だから心を転じて、實相を観ずることによって、
實相の完全な相(すがた)のみがあらわれ、
恐怖すべき姿も、悪しき姿も、消えてしまうのである。

            <感謝合掌 平成30年10月22日 頓首再拝>

醜き姿を心より払拭せよ - 伝統

2018/11/05 (Mon) 03:35:22


       *「光明法語」(11月5日の法語)より

病気や災禍を思い浮かべ、それを恐怖したとき想念は形にあらわれる。
恐るるものは皆来るので、これは神が造ったものではなく、想念の具象化である。

何か病気の醜き姿を見て、恐ろしいと思った時には
「かかるものは実在ではない。実在するものは、唯(ただ)完全なるもののみである」
と数回心に念じて、醜き姿を心の底から拭い去ってしまって置くことが必要である。

宇宙のすばらしく宏大にして完全なること、
それを創造(つく)った神の力の無限大なる事、
その偉大なる無限力の前に何の病気の存在の余地があろうぞ。

            <感謝合掌 平成30年11月5日 頓首再拝>

恐怖心を克服する - 伝統

2018/11/23 (Fri) 03:29:37


            *『白鳩』(昭和47年新年号)より


    若し汝の心にて恐怖を滅せんと努力して、
    而も恐怖を滅することを得ざるときには、
    恐怖を捨てんとする努力をさえ止め、
    唯そのままであれ、
    ただ實相(そのまま)であれ。

    如何なる恐怖も
    『生命』の実相(そのまま)の中には存在せざるなり。
    無き恐怖を滅せんとする必要も亦あらざるなり。
    汝は汝の『生命』の實相(そのまま)で宜しきなり。
    恐怖しながら、そのまま恐怖本来無きなり。
    そのまま真に任せ切るとき
    實相(じっそう)なる神は一切の恐怖は拭い去り給はん。

                     『続々甘露の法雨』



この一節は非常に深い真理が書かれているのであります。

『生長の家』信徒行持要目の第二項には、 
「そのままの心を大切にすべし」 と題して次のように書かれているのであります。

 
「そまままは零なり、一切なり、○(まる)なり、圓萬なり、無礙なり、
無限供給なり、調和なり、病なきなり、

一切の不幸、災厄、病難は “そのまま” を外したるときあらわれるなり、
顧みて、 “そのままの心” に復るとき、一切の不幸は滅す」


恐怖とは要するに “そのままの心” から外(そ)れた状態をいうのであります。 
日本語の 「おそれ」 とか 「おぢる」 とかいうことばの語源は 
「緒外れ」 「緒縮る」 という意味であります。 

われわれの魂の事を、古語では 「玉の緒」 といったのであります。 
天界から神の生命の霊気の極微の繊維が喩えば麻の緒のように連なって、
髪の毛を通して人体に流れ入ってわたしたちの魂になっていると
古代人は直感したのです。 

それゆえに 「魂」 のことを古代人は 「玉の緒」 と呼んだのであり、
頭髪は、神は生命の霊気の流れ入るアンテナ的なものと古代人は感じたので、
頭髪のことを 「神の毛」 と称したのであります。

そして、その玉の緒が心が正常で静かで波打たない時は、
その玉の緒の極微の霊線がスンナリと、波打たず、縮れず、
あるべき位置から外れずにあるのですが、

何か驚くことが出て来ますと、玉の緒が、暴風に揺れて振動しながら
ヒュー、ヒューと梢が枝鳴りを起こすように轟くのであります。 

その “玉の緒” が轟くことを 
「緒轟く」 即ち 「おどろく」 というのであります。

その 「おどろき」 が烈しくなると、魂は人によって二様の反応を起します。 

その一つは 「玉の緒」 が縮みあがってしまうことであります。 
これを 「緒縮る」(怯) というのであります。 
縮みあがると冷えるので 「緒冷える」 ともいうのであります。 

もうひとつの反応は、 「玉の緒」 が、そこにいたたまれなくなって、
あるべき位置から 「外れて」 逃げ出してしまうのであります。 
即ち驚きが烈しい時には “驚死”(ショック死) を遂げたり、気絶したりします。 

人体の生理作用は、魂によって動かされているのでありますから、
魂が、あるべき位置から外れて、人体内から一時外へ逃避しますと、
気絶状態になるのであります。 

恐怖で腰がぬけたりするのは、脚を司っている部の脊髄神経節から、
玉の緒が一時的に外れて、冷えて縮みあがって
充分脚部を司配し切れなくなったのであります。


恐怖すればそのように、人体の生理作用を本来司っているところの
神経系統を司配する主動者である魂が外れたり、冷たり、縮んだりして、
正常なはたらきをしなくなるので、そのために、その位置に不随や病気症状を
惹き起すことになるのであります。

この聖経の一節に  『もし汝の心に恐怖を滅せんと努力して、
而も恐怖を滅することを得ざる時には、恐怖を捨てんとする努力をさえ止め、
唯そのままであれ、ただ実相であれ』  とありますが、
ここは充分、咀嚼(かみ)しめてその真理を味わって頂きたいのであります。

 (http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p2.html <07/14/13>)

            <感謝合掌 平成30年11月23日 頓首再拝>

《真の愛は恐怖を除く 》 - 伝統

2018/12/11 (Tue) 04:15:54


        *『人生の秘訣365章』第5篇(P136) より

人はその恐れるところのものを引寄せ、
その憎むところの物の姿に自分自身を変化するのである。

何故(なぜ)なら恐怖の感情も憎しみの感情も強く潜在意識に印象せしめられ、
潜在意識は、その印象したところのものを引寄せるからである。

憎しみは愛するものを失うと云う恐怖から起る感情であり、
恐怖は愛の欠乏から来るのである。

愛をもって恐怖を去り、恐れを去って憎しみを除くとき、
ただ愛のみが潜在意識に印象せられて、ただ愛する事物のみが
自分の身辺に引き寄せられて実現することになるのである。

真の愛のみが純粋の価値である。
異性の唇や“性(セックス)”を求める感情は
“性欲”であって“真の愛”ではない。

“真の愛”は、人の「實相」の完全さを透見して、
その“實相”を愛する心である。

“真の愛”は幾度失敗しても憎しみは変らない。
ついに相手の愛を拝みだして、相手の實相の完全さを顕すのである。

            <感謝合掌 平成30年12月11日 頓首再拝>

恐怖心は信仰の欠乏 - 伝統

2019/01/02 (Wed) 04:55:23


         *Webより

(1)心の迷いの中で最も大なる塵埃は「心の不安・恐怖」であります.
       (「生命の實相」第39巻・81)


(2)恐怖心の起る根元は、
   この世に自分の存在又は幸福を脅かすところの何物かが存在するという信念である。
   この信念を打ち破らない限りは根本的に恐怖の根元を絶ち切ることはできないのである。
        (神と偕に生きる真理365章・334)


(3)現象は如何に移り易っても、その奥に愛深き神の摂理が、
   結局必ず一層幸福の世界に吾々を導いて下さるのだと云う
   根本的な信頼をもたない限り不安は去らないのである。
        (新版「幸福を招く365章」・165)


(4)すべての恐怖は自己の金剛不壊の“神性”に十全の信頼をおくことなく、
   “神の子”に敵対する何らかの“悪”がこの世に存在すると考える
   迷妄から生ずるのである。(女は愛の太陽だ・50)


(5)世の中で最も不必要なものは恐怖心なのである。
   恐怖心は不信仰から来る。(新版「生活と人間の再建」・213)


(6)恐怖・不安・取越苦労の汚物を清掃除去するのが「信仰」なのである。
   (希望を叶える365章・17)


(7)元来恐怖心は信仰の欠乏から生ずるのであって、
   過去のことを思いわずらう持越苦労、
   未来のことを思いわずらう取越苦労
   及び現在の事に不満足なる感謝欠乏の心によって成り立っているのである.
                 (新版「生活と人間の再建」・215)

(8)不安,恐怖,曖昧の念を汝の心の世界より取り除くべし。
   其処に汝の幸福来らん。(新版「叡智の断片」・54)

(9)自己が既に完全なるものだという自覚の欠乏から
   すべての不安、恐怖、心配等が起って来るのである。
               (新版「栄える生活365章」・148)

(10)あなたは内部に宿る「神性」の権威をもって如何なる災厄も拒否することができ、
   一切の恐怖を超えて、心を平和に保つことができるのである。
   あなたの「内部の神性」の自覚が昂まるとき一切の恐怖は消え去るのである。
               (新版「栄える生活365章」・235)

(11)あなたの神性の自覚が深まれば、そこには恐怖なく、災厄なく、失敗なく、
   行く処として可ならざる無き状態に到達し得るのである.
                (新版「栄える生活365章」・236)

       ( http://www.eonet.ne.jp/~ka28ma/seimei/04jikaku/page422.htm )

            <感謝合掌 平成31年1月2日 頓首再拝>

《惰性的安定感に堕ちてはならぬ》 - 伝統

2019/01/16 (Wed) 04:28:50


         *「光明法語」(1月16日)より

新しい想念を入れることが出来ず、変化すべき時に変化に抵抗し、
新しき経験が自分の生涯に入(い)り来(きた)ることを拒む人間には
進歩はない。

この種の抵抗は前途に対する不安恐怖の念から来る。
今までやってきたことが一番安全だという
愚かしき固定概念に支配されているからである。

もしすべての人類がかくの如き固定概念に支配されていたとしたならば
この世界にも人間にもどんな進歩も発達も得られなかったのである。

現在の状態の崩壊することは悲しいことのように見えるけれども
それは却(かえ)って進歩と幸福への契機である。

            <感謝合掌 平成31年1月16日 頓首再拝>

《恐怖は神から離れた時に起る》 - 伝統

2019/01/18 (Fri) 04:23:45


         *「光明法語」(1月18日)より

神の霊、自己の内に宿り給う。
自己の中には無限の智慧と力の源が埋蔵されているのである。

自分は何事が出て来ようとも決して恐れはしないのである。
神と共にある者の心は常に平和である。

もはや吾が行く所の道に横たわる如何なる危険も困難も自分は恐れない。
困難よ消え失せよと吾念ずれば困難は消え失せるのである。
危険よ消え失せよと念ずれば危険は直ちに消え失せるのである。

波を叱咤すれば波は消え、山を叱咤すれば山は去るであろう。

吾これをなさんと決意すれば何事でも必ずなすことが出来るのである。

            <感謝合掌 平成31年1月18日 頓首再拝>

《恐れるものなき世界 》 - 伝統

2019/02/07 (Thu) 04:55:08


        *『人生の秘訣365章』第1篇(P36~37) より

新しき年を迎えて私達はすべてのものが自分自身と同じく
神より生れた存在であり、従って互いに兄弟姉妹であり、
互いに調和せる関係にあることを知るのである。

自然界の事物すら、吾らの兄弟姉妹なのである。
それを完全に知ることによって、
私達は何物をも恐れることがないことを知るのである。

私達はすべての人と、すべての事と物とが、私達の魂の進歩のために
協調しているのであって、何物も自分の敵でないことを知るのである。
何物も自分の敵でないとき自分は“天下無敵”なのである。

恐れるものが存在しないから、
恐るべきものは自分に近づいて来ることはないのである。

自分と不調和に見える者が近づいて来ても、それは唯、
自分の魂を磨くための砥石の役目をするに過ぎないのである。

あなたはこの真理の上に立ち、何物をも恐れないで彼に親しみ、
彼を愛するのであるから、彼もまた自分に親しみ
自分を愛せずにはいられなくなるのである。

            <感謝合掌 平成31年2月7日 頓首再拝>

不安、焦躁、恐怖の念を、光明思念に置き換える - 伝統

2019/02/26 (Tue) 04:34:08


      *『生命の實相』第28卷久遠仏性篇下(P29~30)

不安、焦躁、恐怖が起こってきたときには、
不安に思うまい、イライラすまい、焦るまい、恐れるまいと思って
それを抑圧してもたいてい駄目であります。

不安に思うまいと努めれば努めるほど不安になり、
焦るまいと思えば思うほど焦り出し、恐れまいと恐怖を抑えれば恐怖し出す
のがわれわれの心であります。

それは「不安を・・・」と思ったときにすでにわれわれは「不安」を心に描きますから、
心に描いたものが強く現われるのが心の法則でありますから、
「不安を・・・抑えよう」と思ったのでは不安は決して無くならないのであります。

「不安」を無くするには、「不安を・・・」とすらも考えないで、
全然別なる完全なる状態に心を集中しなければならないのであります。

すなわち、この時こそわれらは、
「神を想い、完全を想い」心を旧我から一転せしめて、
「神と一つなる自分」を新しく発見するように努めなければならないのであります。

その方法の一つとしては、神想観を行なうに当たって招神歌を誦え終わると
次のように念ずるのがよろしい。

「自分は神の子であるから、本来神と波長の合った心の波動をもっているのである。
神と波長の合った心の波動をもっている自分はただ神の大調和の念波を受けるだけ
であっていかなる不調和の念波をも受けることはないのである。

我は神の子であり、我が環境は我が心の影であるから、
我が環境は今現実に大調和であり、神の無限の智慧と愛と生命と供給とが
満ちているのである。」

この光明思念を繰り返しつつ精神統一状態に入り、いっさいの悪を念わず、
今現実に大調和の世界がここに展開しているという大信念に到達して
その神想観を終わり、神想観後の日常生活もできるかぎり明朗なる心境を
持続するように努めれば、

現実の苦難の状態は克服され実相世界の完全なる状態が
しだいに現実生活にまで再現してくるのであります。

            <感謝合掌 平成31年2月26日 頓首再拝>

恐れず、行動せよ! - 伝統

2019/03/26 (Tue) 02:14:32


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月26日)」より

まず恐れないで虎穴(こけつ)に降りて行かなければならない。
待っているということと、
降りて行くということとは両立しないことではない。

恐ろしいものは何も出て来ない。

もし恐ろしい者に出くわしたら、
それはただ仮面を被っているだけだから恐れるにはおよばない。
まずそいつと取っ組んで征服し、その仮面を剥いでやるのだ。

すると本当はそのお化けの正体は
「幸福」というものであったことがわかるであろう。

            <感謝合掌 平成31年3月26日 頓首再拝>

心配事など取るに足らぬ - 伝統

2019/03/28 (Thu) 04:09:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月28日)」より

人間が心配していることは、すべて小さな重要でないことについてである。
真に重要なことの前には人間はかえって大胆に勇敢になるものである。

戦場に出れば人間はもう心配などしている暇がない。

心配していることそのことが、おん身の考えている事柄が
じつに小さな採るに足らぬことであることの証拠である。

これを知ったらあらゆる心配が消えてしまうであろう。

            <感謝合掌 平成31年3月28日 頓首再拝>

損失、過去の障害に思い煩うなかれ、未来の光明を持て - 伝統

2019/03/29 (Fri) 03:42:46


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月29日)」より

損失を恐れるものは損失の奴隷となり、
損失に蹂躙(ふみにじ)られて滅ぼされてしまうであろう。

損失は本来ないこと、損失のごとく顕われて見えるものも、
必ず本当は収穫への道行きであることを知ることは智慧である。

過去の傷害についてクヨクヨ思い煩う者は生命を摩り減らす。
クヨクヨ思い煩う暇があるならば、
未来の光明について希望と空想をもつべきである。

希望は実現の母。
心に描いて待つものは必ず成就する。

待つ間に心を掠(かす)める「不安」が事を毀(こわ)すのである。

「不安」は蒔いた種子(たね)を毎日掘り返してみる働きである。
かかる農夫に培われる植物は育たない。

            <感謝合掌 平成31年3月29日 頓首再拝>

怖れと指輪 - 伝統

2019/04/16 (Tue) 04:40:09


       *Web:かんながら(2019年04月13日)より抜粋

幼い男の子が毎日、外で遊ぶことに夢中で、
日が暮れた後も家に帰ろうとせず、両親はいつも心配していました。


そこで町で評判の霊能者のもとに相談に行きました。

霊能者は言いました。

「その子を私のところに連れてきなさい。
もう夜まで遊ぶことがないようにしてあげよう」


両親は喜んで、さっそく息子を連れていきました。


霊能者は子供に向って、とつとつと怖い話を始めました。

夜になって日が落ちると、外には口の裂けた幽霊が出没して、
背後から人を襲い、むしゃむしゃと食べてしまうと。


それを聞いた男の子は、その日以来、日があるうちに家に帰るようになりました。

両親はたいそう喜びました。


時が経ち、その子は成人し、仕事を持つようになりました。
とてもまじめな男に成長し、周囲も大きな期待を寄せていました。

しかし問題が一つありました。

それは、どんなに仕事が忙しくても、日暮れ時になると
仕事を放りだしてさっさと家に帰ってしまう事でした。

なぜなら、彼は口が裂けた幽霊が怖かったからです。



年老いた両親は心配して、また霊能者のところに連れて行きました。

すると霊能者は、自分の名前を彫った指輪を授けました。

これを身に付けて、三度私(霊能者)の名前を念じれば、
けっして幽霊に会うことはないと告げました。


成人した男はその指輪のおかげで夜も外出できるようになりました。

それ以降、幽霊に一度も会わなかったことから、
男は霊能者と魔法の指輪への信仰心を篤くしていきました。


・・・


偽物の教えは、いったん相手に恐れを抱かせて、
その恐れを緩和する方法を授けます。

魔法の指輪と正しい祈り方がそれです。


本物の教えは、幽霊などいないことを教えます。


これをしなければ罰が当たる。

あれをしたら地獄に落ちる。

そんな情報が古今東西伝えられてきています。



でも恐れることはありません。

だいじょうぶ、何も起きないから。

何かが起きるとしたら、
自分がそうなると信じて、その結果を引き寄せただけです。


心からの祈りは美しいものですが、
恐れからの祈りは、恐れている迷信を強化するだけです。

思考が現実を創り出しているのです。。

・・・・

いまの環境が負担に感じたら自己犠牲は止めて、義務的な活動から身を引きましょう。

  ( https://abetoshiro.ti-da.net/e11056294.html )

            <感謝合掌 平成31年4月16日 頓首再拝>

前頭前野の活動で、理性で恐怖をコントロール - 伝統

2019/04/30 (Tue) 04:18:28

人は恐怖を愛している?人類が今日ここまで繁栄できた納得の理由

       *Web:MAG2NEWS(2019/1/8) より

「人生は苦痛であり恐怖である。だから人間は不幸なのだ」
――ロシアの文豪ドストエフスキーの言葉ですが、

恐怖心を持ちそれと向き合うことができたからこそ、
人間には社会性があり、いまの繁栄もあると、
メルマガ『8人ばなし』の著者・山崎勝義さんは考察します。


《扁桃体と恐怖心のこと》

大脳辺縁系、海馬の近くに扁桃体という器官がある。

他の大脳辺縁系の諸器官同様、情動に深く関わっており、
中でも特に恐怖という感情との繋がりが強いところである。

ここが損なわれると、以下サルによる実験結果であるが、

初めて見るものに対しても警戒することなく近づく動物の種類に関係なく
相手が鳥や犬でも交尾をしたがる。
食べられない物や危険な物でも口に入れる。

などの異常行動が現れる。

勿論、高次に脳の発達したヒトにこれをそのまま当てはめることはできないが、
同じように社会性を有する霊長類としては全く無視もできないところである。

そういったことを考えに入れれば、我々の誇る社会性というものも
恐怖という制動装置がなければおそらくまともに機能することはないであろう、
といったやや乱暴な物言いも可能のように思えて来る。

つまり、恐怖ほどヒトを人たらしめているものはないということである。


然るに恐怖というものは決していいイメージで捉えられてはいない。
それどころか人として克服すべき負の感情といったイメージが強いのではないだろうか。

おそらく、それは恐怖というものがヒトが生存するために等しく持ち得ている
本能的感情であるのに対し、それを打ち破る意志の力は誰もが等しく
発揮できるものではないということを人類進化史の様々な局面から
誰もが経験的に知っているからであろう。


仮に人類が全員、憶病(=慎重)だったら未だに人類は東アフリカの森の中に暮らし
草原に出ることさえなかったであろう。

逆に無謀(=勇猛)だったらとっくに滅んでいることだろう。

しかし今、我々人類は地球全域に亘って繁栄している。
これは慎重さと勇猛さ、悪く言えば、憶病さと無謀さの絶妙なバランスの上に
成り立っている繁栄なのである。


それにしても、本来恐怖で抑制されている人間がどういうメカニズムで
その恐怖を克服して一見無謀とも思えるほどの勇気を出すことができるのだろうか。

その原動力を前に意志の力と言った。
それが発現する場所こそ、人間だけが特異に発達させた大脳新皮質・前頭前野なのである。

この部分は論理的思考など主に理性を司る。
人間の脳の機能を乱暴に縦割りに整理することはできないけれども、
敢えてざっくりまとめれば、大脳辺縁系(別名:大脳古皮質)・扁桃体は情動、
特に恐怖と関連し、大脳新皮質は理性と関連する。

ここでは、情動は古皮質、理性は新皮質といった、新古の対応関係を一応指摘しておくに留める。


さて、前段のことを説明するに当たって興味深い研究結果がある。

もともとはスポーツ心理学からスタートしたものだとは思うが、
競技中の事故で大怪我を負った選手がどうやって恐怖心を克服し
再び競技に戻って来るのか、ということをfMRIなどの動的画像解析を駆使して
脳科学の分野からアプローチする試みがなされたのである。

被験者はスキー・ダウンヒルの選手とカー・レーサーであった。
眼前のモニターに自分が事故に遭ったコースの主観映像が流れ、
被験者がその時を追体験できるようにしてあり、
その間の脳の働きの動的変化を画像化するという仕組みである。


結果は実にドラマティックであった。

映像が事故現場に近づくと扁桃体が激しく活動したのである。
つまり恐怖に襲われたということである。


すると次の瞬間、今度は前頭前野が激しく活動したのである。
恐怖を理性でコントロールしようとしているのである。
猛スピードという極限状態でも、脳は過去の恐怖を克服すべく
必死に理性を働かせているということである。


これはトップアスリートだけに言えることではない。
恐怖の克服とはそれに馴れて鈍感になることではなく、寧ろ恐怖を敏感に察知し、
それを意志の力でコントロールすることなのである。

こういうふうに考える時、我々人間が今日ここまで繁栄できた理由も分かるような気がするのである。


    ( https://www.mag2.com/p/news/377959 )

            <感謝合掌 平成31年4月30日 頓首再拝>

《精神の安静は得るには》 - 伝統

2019/05/31 (Fri) 04:12:26


         *「光明法語」(5月31日《環境の精神的影響》)より

精神科学は結核患者をみちびくのに、
決して形の上から「絶対安静」を破れと云うのではない。

先ず「恐怖心」を捨てよと教えるのである。
「恐怖心を捨てた」其の結果が、自然に絶対安静の必要がなくなるのである。

まだ恐怖しながら、戦々恐々「動いて見よう」位では危険なことこの上ない。
しかも、周囲の人々が、「動いたら危ないぞ」と恐怖心をそそる言葉で包囲攻撃する場合、
患者は恐怖心を起こさずにいることはむずかしい。

まず環境を変える必要がある。
また家庭の不調和から来る患者は家族互いに感謝させねば精神の安静は得られない。

       <感謝合掌 令和元年5月31日 頓首再拝>

恐怖すべきものは一つもない - 伝統

2019/06/12 (Wed) 04:41:18


         *「光明道中記」(6月12日《今すぐ行う日》)より

【恐怖心は神の全能の愛を信じない為に起る。(『生命の實相』第ニ巻)】

すべてを神のみこころに委(まか)せること。
併しこれだけでは恐怖心は絶滅されるものではないのである。

神のみこころの中には不幸は無いと云うことを知らなければ、
人は神を恐怖するに到るであろう。

神に委せるとは、一番高き幸福の源泉に委せることなのである。
《此処に》《今》幸福があることを知ることである。

幸福か不幸かわからないけれども、兎も角神に委せようと云うことではない。
神はわが憩いの家であり、愛の家であり、わが砦であることを知ることである。

単に「思い煩うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、
恐怖を先に延長しているようなものであって、
本当は「思い煩っている」のである。

吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好いのである。
「今」恐れなく受けるのである。
「今」目の前に《ある》ものが決して自分を害するものでないと知ることである。

避けるのではない。捉えるのである。

幽霊の正体見たり枯尾花。
正体を捉えて見たら、恐怖すべきものは一つもないのである。

          <感謝合掌 令和元年6月12日 頓首再拝>

不眠に対する恐怖が消える - 伝統

2019/07/11 (Thu) 04:43:10


          *「光明道中記」(7月11日《心爽やかなる日》)より

【実相と云うものは「其儘(そのまま)美しい」のであります。
(『生命の實相』第十五巻)】


四祖の道信は「祖風を継いでより心を摂(せつ)して寝(い)ぬることなし」とあるから、
衣鉢(いはつ)を伝えられて以来眠ることがなかったらしい。それでも別に神経衰弱で
夭死(わかじに)したのではない。彼は七十二歳で示寂(しじゃく)したのである。


私が不眠症の人に示して必ず治る秘訣がある。
それは不眠の人に、ロンドンで四十数年間1時間の睡眠もとらないで
健康状態で続いて来、最近七十四歳の長命で亡くなったと云う実話である。

この話が或る新聞に報ぜられると、ウィーンでは

「私は二十何年間一睡もしないで活動を続ている。
眠る必要がなくなったので、仕事をしないと退屈で仕方がないので
1日24時間としての時間割を作って仕事をしている」

と言って発表した人があったと云うことである。

それから文士の倉田百三氏が約1年間不眠が継続していて、
その揚句の果に廓然(からり)と悟ると十数年間の全身結核がケロリと治って、
夏は水泳までも自由に出来るようになったと云う実話である。

こんな話をしているうちに「人間必ずしも眠る必要はない」と云う観念を得、
不眠に対する恐怖が消える、するとその晩から大抵その人はグウグウ眠るようになる
のである。

不眠症 ―― 実は不眠恐怖症に過ぎなかったからである。

            <感謝合掌 令和元年7月11日 頓首再拝>

《神のみが実在である》 - 伝統

2019/07/29 (Mon) 04:35:48


          *『 生長の家 』(昭和25年5月24日の法語)より

   吾々を動きのとれなくするのは恐怖心である。
   他物でもなく他人でもないのである。

   蛙(かえる)は 蛇にみつめられると、
   自由自在に逃げる力はありながら、
   恐怖心によって自分自身を縛ってしまい、
   蛇の餌食(えじき)となる。

   多くの病人は自己の内部に、
   生きる力、回復する力をもちながら、
   恐怖心のために生活力を縛ってしまい、
   病気の餌食となってしまう。

   吾々は色々の意味に於いて自分を縛る恐怖心を
   多少とも もっているものであるが、
   それは まだ全身全霊が 「 神のみが実在である 」 という真理を
   深く自覚していないからである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 令和元年7月29日 頓首再拝>

恐怖を超越 - 伝統

2019/08/21 (Wed) 03:29:16


       *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月21日)より

同一種類の黴菌もその寄生する人間にしたがって毒性を現わすことも、
毒性を現わさないこともある。

「ロムリンゲルとシュナイデルは健康人の腹中にチフス菌を発見した。
ジフテリア菌あるいはそのごく近い変種が健康児の咽喉(のど)にいることがある」
とルネ・アランデイ博士は言っている。

かつて某所の衛生課で調べたところによるといって某新聞に出ていたが、
赤痢菌と称して同一種に取り扱われている菌は、十数年前赤痢菌として
取り扱われた菌とは形状までも全然相違しているとのことである。

黴菌も性質が変わり、形状も変わること、
猛獣も飼育すれば性質も形態も変化するのと同じである。

長井折三博士は「医師はすべからく伝染病の伝染する理由を研究するとともに、
伝染病非伝染の理由も研究せざるばからず」と言っている。

大阪外語の教授山本健太郎氏が上海戦に参加したとき、
支那軍が細菌戦術をとって飲料水に細菌を投じたために
、味方の軍勢中あびただしい赤痢菌患者やコレラ患者ができた中に、
悠々恐怖なく戦友を看護しつつ善戦したが、

出征の際、気の毒なほど痩せていた山本先生、戦地においてかえって肥満し、
いっこう赤痢にもコレラにも罹らなかったという。

山本教授は『生命の實相』の巻頭の教えに従って、
戦場にいてさえも「天地一切のものとの調和」を念じ、心に病を思わず、
全然恐怖を超越していたということである。

伝染病が伝染しなかった原因は同教授の調和の念と、
無恐怖の念と、心に病を思わざる平和の心境にあったにちがいない。

人によっては、黴菌はその人に病気を起こさないでいながら、
その人の中に調和して住んでいることもできるのである。

また病菌は徐々にまたは急速にその人の体内から退却して、
別の調和した世界へと移行を開始するものである。

         <感謝合掌 令和元年8月21日 頓首再拝>

恐怖心を取り除くには - 伝統

2019/08/31 (Sat) 02:44:07


        *「栄える生活365章」(P234~235)より

恐怖の中に生きるのがよいか、無恐怖の中に生きるのがよいか、
諸君は先ず、自分自身に相談してみるがよい。

恐らく何人(なんぴと)も恐怖の虜(とりこ)になって生きたいとは
思わないに相違ないのである。

恐怖が起るのは、自己のうちに「劣等感」があるからである。
劣等感があるのは、神と自己とが隔離されて、
自分という小さなものが孤立していると思う
習慣的想念があるからである.

この習慣的想念を排除するためには、

「自分は神の子であって、常に神と一体だ」

との想念を潜在意識の底にまで徹底せしめることが必要なのである。

幸福になろうと思う者は、「自分は不孝である」という観念を排除して

「自分は既に実相に於いて幸福である。その実相の完全さが、
毎日一層多く顕れ来つつある」

との観念が圧倒的に強烈になって来たとき、その観念具象化の力に
よって本当に幸福なる運命がその人に開かれて来るのである。

「私は神の子、毎日一層幸福になりつつある、嬉しい、楽しい」

と暇ある毎(ごと)に念ずるがよい。

         <感謝合掌 令和元年8月31日 頓首再拝>

《最も尊き贈り物について~一切の畏怖(おそれ)なしの自覚》 - 伝統

2019/10/04 (Fri) 04:50:31


        *「真理」第9巻生活篇第6章(P147)より

私たちが愛している家族または知人に与え得る贈り物のうち何が最も
価値多き物であるかと言えば、

「われ神の子にして、一切の消極的な制限を超越す。
それゆえにわれに一切の畏怖(おそれ)なし」

と云う自覚を与えることを以って第一とするのです。

これを仏教では「施無畏(せむい)」と言ってあらゆる施(ほどこ)しのうちで
最も尊いほどこしであると説かれています。

「常に神の子として親様に護られているがゆえに、此の世に恐るるものなし」

との自覚を与えられたものは常に苦しむことなく、
常に恐れることなく、常に躊躇することなく、
自己の信ずるところを堂々とやりとげることができるのです。

また此の自覚を得たものは、自己が神の子であることを知ると同時に、
他(た)のすべての人々も神の子であることを知るがゆえに、
相互信頼、相互礼拝によって争うことがないのです。

         <感謝合掌 令和元年10月4日 頓首再拝>

恐怖すること勿(なか)れ - 伝統

2019/10/09 (Wed) 04:15:49


        *「光明法語(10月9日)」より

何事に対しても恐怖すること勿れ。
神の子であり、神が常に汝を護っている事を知るならば吾らは何事も恐怖する事はない。

恐怖するのは神を信じていないからである。
恐怖すれば血管は収縮し血液中の過度のアドレナリンを生じ、血圧は昂(たか)まり、
全身の細胞は萎縮して活力を失うのである。

肉体の各器官は神の諸々(もろもろ)の霊的属性の表現である。
神の諸々の属性を完全に表現すればする程、肉体の各器官は一層健康となる。

心臓は愛の表現である。
愛が乱れれば心臓が乱れる。

またそれは心膽(しんたん)である。
気を大きくすれば心臓病は治る。

            <感謝合掌 令和元年10月9日 頓首再拝>

『こわい』はGOサイン - 伝統

2019/10/28 (Mon) 04:37:48


        *「読むだけで 宇宙とつながる 自分とつながる」
          chapter 04 、 リリー・ウィステリア(著)より

この場合の『こわい』というのは、『ホラー』のこわいとは違いますよ。
お化けや幽霊の話ではなく、
あなたが何かをすることに対して感じる「こわさ」のことです。

何かをする時に、こわくてこわくてたまらない、と感じることです。

(中略)

「好き」の反対は何でしょうか?

嫌い?
 ・・・・・では、ないのです。よく考えてみましょう。

「好き」の反対は・・・・・実は、「無関心」なのです。
 

では、「こわい」はどうでしょうか?

「こわい」という状態は、関心がある状態ですね! 
しかも、めちゃくちゃ関心のあることではないでしょうか?
 
関心が強いからこそ「こわい」と感じるのです。
「それが起きたらどうしよう!」と、勝手に想像してしまうほど、
「こわい!」と感じることってありませんか?

私は、かつて人前で話すことがこわくてこわくてたまりませんでした。
元教員なのに、何を言ってるんだろう?と思われるかもしれませんが、
小さい頃から人前で話すのがこわくて仕方がなかったんです。

わずか3~4人くらいの人の前でも、
ドキドキして話すのが怖くてたまらないくらいのあがり症だったんです。
 
教員時代も、職員会議で話さなければならないとなると、
1週間以上も前から緊張して眠れないくらいでした。
 
そんな私でしたが、なぜか、いつも
何百人もの前でマイクを持って話している場面が頭の中に浮かんでくるのです。
その映像が見えるたびにドキドキドキドキしていました。

こんな風に、まだ起きてもいないのに、
勝手に想像して、勝手に怖がっていることはありませんか?
 
あなたが今、「こわい」と思っていることはどんなことでしょうか?
 
一旦、本を置いて、考えてみてください。

どうでしょうか? 見つかりましたか?

実は、そのこわいことはGOサインです!

なので、避けずに、ぜひとも選択して行動してみてください。

            <感謝合掌 令和元年10月28日 頓首再拝>

醜き姿を心より払拭せよ - 伝統

2019/11/05 (Tue) 04:26:41


       *「光明法語」(11月5日の法語)より

病気や災禍を思い浮かべ、それを恐怖したとき想念は形にあらわれる。
恐るるものは皆来るので、これは神が造ったものではなく、想念の具象化である。

何か病気の醜き姿を見て、恐ろしいと思った時には
「かかるものは実在ではない。実在するものは、唯(ただ)完全なるもののみである」
と数回心に念じて、醜き姿を心の底から拭い去ってしまって置くことが必要である。

宇宙のすばらしく宏大にして完全なること、
それを創造(つく)った神の力の無限大なる事、
その偉大なる無限力の前に何の病気の存在の余地があろうぞ。

            <感謝合掌 令和元年11月5日 頓首再拝>

恐怖心は信念の欠乏 - 伝統

2019/12/21 (Sat) 05:08:25


           *『白鳩』(昭和24年7月号)より

世の中で最も不必要なものは恐怖心である。
恐怖心は不信仰より来たる。 

恐怖心は人間を神よりひきはなして、
人間のとやかくの想いわずらいの世界にひきこむのである。 

我々が恐怖する時、我々は神の子の位から滑り落ちる。 
そしてアダムの子となるのである。 
楽園から追放せられ 『汝は苦しみて食を得ん』 と宣言せられる。 

恐怖は恐怖を呼び、雑音と噪音とに波長を合わしたラジオ・セットの如くなるのである。

元来恐怖心は信仰の欠乏から生ずるのであって、
過去のことを思いわずらふ持越苦労及び現在の事に
不満足なる感謝欠乏の心によって成りたっているのである。 

そしてその奥には、過去・現在・未来にわたって生ずる所の色々の現象は、
何れも皆自分の心でどうにでも変化し得るという真理を知らないことが
基本になっているのである。

一切の現象が、肉体でも境遇でも皆自分の心で
どうにでも変化し得るものということがわかれば、
誰でも恐怖する必要がないことがわかるのである。

恐怖を征服するために第一必要なのは肉体及び、自分の環境に起る出来事は、
悉く自分の想念の反映であるという 心の法則 を知ることである。 

第二には人間というものは肉体的存在ではなくして神の自己実現であり、
それは金剛不壊なる霊的実在であって、決して如何なる外物にも
傷つけられることなきものであるということを信ずることである。

病気や不幸が存在するという信念がただ健康と幸福のみが実現する
という信念にまでおきかえられるならば、恐怖心の起りようがあり得ないのである。 

結局恐怖心は信念の欠乏ということができるのである。

真に完全なる健康と完全なる幸福とを確保する道は、
吾々の心の世界からまず恐怖心を追放し、
幸福と歓喜と健康と富と凡ゆるよきものの想念を
心の中に確保してどこまでも持続することができるならば、

実相無限の神の宝倉は開かれて健康でも幸福でも富でも
自由に豊かに現象界に流れ出ることができるようになるのである。

            <感謝合掌 令和元年12月21日 頓首再拝>

《恐怖は神から離れた時に起る》 - 伝統

2020/01/18 (Sat) 04:25:16


         *「光明法語」(1月18日)より

神の霊、自己の内に宿り給う。
自己の中には無限の智慧と力の源が埋蔵されているのである。

自分は何事が出て来ようとも決して恐れはしないのである。
神と共にある者の心は常に平和である。

もはや吾が行く所の道に横たわる如何なる危険も困難も自分は恐れない。
困難よ消え失せよと吾念ずれば困難は消え失せるのである。
危険よ消え失せよと念ずれば危険は直ちに消え失せるのである。

波を叱咤すれば波は消え、山を叱咤すれば山は去るであろう。

吾これをなさんと決意すれば何事でも必ずなすことが出来るのである。

            <感謝合掌 令和2年1月18日 頓首再拝>

Re: 恐怖心を追放するには ③ - bhdlzkekepMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:52:07

伝統板・第二
bhdlzkekep http://www.g18an08m386lm9qp09tgg07ye35a2ue1s.org/
<a href="http://www.g18an08m386lm9qp09tgg07ye35a2ue1s.org/">abhdlzkekep</a>
[url=http://www.g18an08m386lm9qp09tgg07ye35a2ue1s.org/]ubhdlzkekep[/url]

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.