伝統板・第二
輪読のための青年法語~吾ら“神の子”の自覚の上に立ちて - 夕刻版
2017/11/14 (Tue) 18:23:15
”道産子 さま” ありがとうございます。
”道産子 さま”のお蔭で、新たに、谷口雅春先生の法語を
このスレッドに残せることに感謝申し上げます。
(http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7640952 からの転載です)
輪読のための青年法語~吾ら“神の子”の自覚の上に立ちて
谷口雅春先生
*「理想世界」誌(昭和43年2月号)の法語より
(上旬)
【一日のことば~“神の子”を生活せよ】
勇敢であれ。人間であれ。
真に人間であるという事は“神の子”であるということである。
勇敢に“神の子”たる実相を肯定せよ。
劣等感に屈服してはならない。劣等感は万悪の根元である。
勇敢に“神の子”であれ。
神の子の善を生活に実践せよ。
・・・
【二日のことば~美の創作と鑑賞について】
人生は魂の進歩の道場である。
人生は肉体が享楽するためにあるのではないのである。
肉体は魂に仕えるためにあるのである。
美の鑑賞は、肉体の享楽ではないのである。
美の創作は、実相界にある“美”の本質を、現象界に映し出して
再現したものであって、その美を鑑賞するのは魂の世界のことであって、
肉体の享楽とは次元を異にするのである。
・・・
【三日のことば~美感と肉感とについて】
肉体を離れて味わう快感を美感というのである。
絵画を鑑賞してその美を味わう。音楽を鑑賞してその美を味わう――
そのような場合の快感を美感というのである。
手に触れて快い、肌にさわって気持ちがよいなどという快感は、
肉体の一種であって、それは肉体に即いた快感であり、
魂が悦ぶのではないのである。
肉体に即いた快感に惑溺しているときには
魂はその向上進歩を忘れて、肉体の惑溺に引きずられて退歩する。
古代の仏教徒は女性に触れることを“汚れる“かのごとくに
女性を遠ざけたのであるけれども、それは”女”という”人間”を
”汚れている”として排斥したのではないのである。
女性の肉体に触れて味わう快感は、肉体についた悦びであるが故に、
それに溺れるとき、魂の向上進歩が一時阻害せられるからであって、
女性の肉体そのものの魅力の強さを表現したのであって、
女性の魂が下等であるとか、救われ難いとかいう意味ではないのである。
・・・
【四日のことば~乗馬に主人公が引き回されてはならない】
肉体の魅力にまどわされてはならないし、
肉体に触れて味わう快感にまどわされてもならないのである。
肉体は魂が乗って修行するところの乗馬であることを
知らなければならないのである。
魂の向上進歩のことをわすれて肉体の快楽に惑溺する者は、
乗馬が主人公となって騎士を引きずって走っているようなものである。
魂は自主権を恢復しなければならないのである。
馬からはやがて降りなければならない。
魂のみが永遠の存在ではないか。
・・・
【五日のことば~法則に従って生活せよ】
宇宙の法則に対して素直に従順でなければならない。
法則に従うことによってロケットは月にも達するし、金星にも到達する。
法則に逆らうときは目的を達することはできない。
法則を求めよ、法則を発見せよ。法則に従って生活を改善せよ。
・・・
【六日のことば~名声や財物を目的にしてはならない】
自己の理想をもって行動せよ。
自己の名声や、財物を目的にして行動してはならない。
無我の愛をもって、国家人類のために尽すがよい。
名声や財物は自然にその人に従い来るであろう。
私心をもって計画的に名声をつくり上げ、私欲をもって計画的に財物を
得るならば、やがてそのカラクリが明るみに出たとき、名声なかりし時よりも、
財物なかりし時よりも、その人は一層みじめになるであろう。
・・・
【七日のことば~不正義を討つに遠慮してはならない】
理想を掲げて正義の戦いを戦うがよい。
正義に反する者に遠慮して躊躇逡巡する者はついに正義を失う。
不正義が世の中に跋扈する原因は正しい人があまりにも
無気力で温順しく、不正義と戦う勇気を失っているからである。
不正義をゆるして置くのは
不正義の跋扈に対して応援しているようなものである。
そのような人は、不正義の者に連累する犯罪者である。
正義が引っ込めば不正義がはびこり、
真理が引っ込めば不真理が幅をきかす。
・・・
【八日のことば~真の平和と幸福は愛行により来る】
一にも愛行、二にも愛行、三にも愛行・・・・・
愛行を通して、人間に宿っている神性があらわれるのである。
小さな愛行もおろそかにしてはならない。
日常生活では巨大な愛行によりも、
小さな愛行が普通多くの人々を生かすのである。
愛行によって、自己の心に真の平和と幸福と繁栄とが来るのである。
愛行によってのみ、
世界に真の平和と幸福と繁栄とが持ち来たらされるのである。
・・・
【九日のことば~真に実行する人となれ】
苟も事を乗ずるには、中途半端な誠心を以ってなしてはならないのである。
熱意と周到な注意をもって実行しなければならない。
易々加減にやっておいて「実行しました」と思ったり言ったりすることは、
ある意味ではウソを吐いているのである。
“やる限りは、他の人々には真似の出来ない位な精緻周到な計画をもって、
一寸の隙も無く、やり通してこそ「実行しました」と言明する資格があるのである。
・・・
【十日のことば~失敗を通して科学も人間も前進する】
現象にみじめであっても、貧しくあっても、失敗を重ねても、
それで失望落胆してはならない。
現象の失敗は、「成功」の嫩葉(ふたば)である。
あらゆる失敗を通して科学は進歩して来たのである。
失敗する毎に、新たに法則が発見され、
その新たに発見された法則によって科学は前進した。
諸君の魂も失敗を通して、失敗毎に前進しつつあるのである。
失敗する毎に前進を意識する者は益々進歩し、失敗する毎に劣等感を生じて
萎縮する者はついに人生の落後者となるほかはないのである。
(中旬) - 伝統
2017/11/15 (Wed) 19:08:54
【十一日のことば~勝者となり主人公となれ】
物質に対する執着を棄てよ。
肉体の快楽に対する欲望を棄てよ。
物質は常に変化して恒常なる価値を持っていないし、
肉体はやがて脱ぎ棄ててしまわなければならない魂の実修服に過ぎない。
一時価値を追求するよりも永遠の価値を追求せよ。
魂は永遠であり、肉体の死を越えて永遠に存続する。
肉体を魂に隷属せしめる者のみが真の勝者であり、
肉体の欲求に隷属する者は敗者であり肉体の奴隷である。
勝者となり、主人公となれ。
・・・
【十二日のことば~自己の実相を生かす者】
利己的であるという事は、自己の実相を包み隠す者である。
その“包み”を“罪“というのである。
あなたの実相は、”神の子”であり、神の生命に於いて、すべての人間、
すべての生き物、すべての存在と一体であるから、すべてを生かすように
生活してこそ、あなたが“神の子”である実相を生かすことになるのである。
すべての者を愛し、すべてのものを生かす者こそ、
自己の本質を生かす者である。
・・・
【十三日のことば~“神の子”らしく模範生活を営め】
常に人から見られても模範的な生活をするがよい。
それは人に見せびらかして自己を誇るためではない。
全ての人は他の人の行動や生活の有様を見て、
それを「暗示」として受取るのである。
すべてのあなたの一挙手一投足は、
他の人に対する暗示となるのである。
ベトナムの仏教徒が政治不満に対する自己主張のために焼身自殺をすることが
新聞記事に写真入りで報道されると、今迄日本には全然なかった焼身自殺を、
佐藤首相訪米直前に実行した人が日本にもあらわれた。
全ての行動及びその報道は、
善悪共に暗示となって他の人々を動かしているのである。
自分の身体だからどうしても好いというわけのものではないのである。
人は行動すれば、必ず周囲に何かを与えているのである。
それが善の影響か、悪の影響か、によって
諸君の行動の価値は定まるのである。
・・・
【十四日のことば~肉体の欲望の聖化について】
肉体を霊に対して従属せしめよ。
ということは肉体の欲望を全然否定せよという事ではないのである。
肉体の欲望が、肉体自身の利己快楽的なものから一転して、
霊の要求に従ってこれを従属せしめるとき、
肉体の欲望が窒息せしめられるのではなく、肉体の欲望が
聖化せられ崇高化(sublimate)されるのである。
それは肉体にとっても、有りがたいことであり、やがて老い病み、
朽ち果てて消えてしまう肉体が、永遠に朽つることなき、
滅する事なき価値につながるということになるのである。
・・・
【十五日のことば~自己をして自己たらしめよ】
自己の引受けた職務を徹底的に遂行せよ。
責任を回避してはならない。
併し、他の人の領域に頭を突っ込んではならない。
これは協力するなという意味ではない。
協力することが自己の職責であることもある。
いらぬオセッカイを為すなという意味である。
他の人をして他の人そのものたらしめよ。
その代り、自己をして自己そのものたらしめよ。
他の人の欠点を語るな。
欠点を語って、それを興味本位に笑い話にするなどは最も悪い趣味である。
欠点を語る場合には、愛念をもって静かに暖かい語調で本人に勧告せよ。
・・・
【十六日のことば~常に“神の子”の自覚を深めるがよい】
常に“神の子“なることを憶い起こすがよい。
「私は神の子である。神がこの仕事を為さしめ給うのである」と念じつつ
勉学し、又は行動せよ。
神との一体感が深まるにつれてあなたの生命及び魂が浄化され聖化されるのである。
”神の子”の自覚は、神の無限の智慧と愛と生命と供給との後嗣者(あとつぎ)
であることを暗黙のうちに肯定することになるのである。
従って日常生活中にも、神の智慧に導かれ、愛深き行動がとれることになり、
常に健康で、世の中に貢献できる仕事を成し得るのである。
・・・
【十七日のことば~神に与えよ、神はまた汝に与え給わん】
常に神を念ぜよ。
「我れ神と偕にありて、この聖業を成さしめ給う」と念ぜよ。
ただ神のために、神の栄光をあらわすために何事もなすがよい。
それが却って神からの協力をあなた自身に得ることになるのである。
これは「与えよ、さらば与えられん」の法則にかなうのである。
神にあなた自身を与えれば、神はまた神御自身をあなたに与え給うのである。
・・・
【十八日のことば~ “本立って道生ず”ということ】
犬養道子さんが、はたちの時悩んだ話を書いている中に、
「本立って道生ず、とは、女学校一、二年のとき読んだ論語の中の
最も好きなことばであったが、生とは何、死とは何、人間とは何、
と言う永遠の課題を解くことなしに勉強は無意味であろうと
深刻に考えたのであった。
人間存立の意味を解くことは、すなわち本を立てる事であり、
生と呼ばれるこの偶有の意味を知ったとき、勉強も含めた“道”の
様々は自ずから生ずるに違いないと考えたのであった。」
(朝日、四十二年十一月十一日号)
という言葉がある。
読者は既に、人間存在の根本の意義を知ったのである。
(まだよく解らない人は私の『いのちの革命』の本を読んで頂きたい。)
即ち人間は”神の子”であり、
神の最高の自己実現であることを知ったのである。
即ち「本が立った」のであるから、その「本」の真理を枯らさないように
毎日怠らず神想観を続けるならば真理の幹がすくすくと伸び育って
そこから無数の枝が出来て爛漫と花咲き実を結ぶように、
自然によきアイデアが生まれて来、それを実行することによって
良き結実を得ることになるのである。
本が立った後には、本を育てることを忘れてはならないのである。
本は立ったが、幹が枯れたのでは何にもならない。
・・・
【十九日のことば~自己を“商品”として下落せしめてはならぬ】
報酬を求めて事をしては“生命”が“売り物”にまで低下する。
現代のコマーシャルリズム旺盛の世界での人間の禍は、
すべての人間が商品価値として取扱われることである。
商品価値のない人間は無価値の如く思い違いされていることである。
映画の大スターが、
テレビで薬の広告のサンドウィッチ・マンみたいなことをする時代である。
真の人間は「神の子」であって、売らず、買わず、唯々黙々として
無我無心に人類のために自己の天分を尽すのである。
物質的所有を欲しいと思う心を棄てよ。
肉体的快楽を欲しいと思う心を棄てよ。
その時初めて、霊があなたの主人公となるのである。
霊の要求が優先することによってはじめて肉体は霊に従属し、その程度に
従ってあなた自身が主人公となり、真に人権が恢復されるのである。
真の人権の恢復は、単に制度の上で人権の自由が宣言されても、みずからが
肉体の欲望に従属している限りは、依然としてその人の魂は奴隷であるのである。
肉体の人権を恢復するという名に於いて、
“霊の人権”を蹂躙しているのが今の憲法であるのである。
“霊の人権”を恢復する自主的憲法の制定こそ最大の喫緊事である。
・・・
【二十日のことば~天授の神物に感謝せよ】
物質的な欲望を殲滅し、肉体的な欲望を断絶し、
霊の理想とするところに邁進せよ。
しかして自己の生活に自然に与えられ、自然に供給されるものを
天授の衣食住として感謝し満足せよ。
その天授の生活資料は、それが肉眼にはたとい物質の姿をしていても、
それは物質ではなく霊的産物であるのである。
すべて天授の神物として感謝して受けるとき粗食が美味と一変し栄養満点となり、
茅屋は金殿玉楼以上の平和と歓喜とをもたらし、
敝衣はそのまま綺羅の如き肌触りをもってあなたを包むのである。
(下旬) - 伝統
2017/11/16 (Thu) 19:54:32
【二十一日のことば~言葉は人間の性格を左右する】
良き言葉、洗練されたる言葉を使え。
流行の舌足らずの言葉や、文法無視の言葉や、投げやりの頽廃語調の言葉や、
荒々しく人を叩きつけるような語調の言葉を使ってはならない。
言葉は創造者であり、創る力を持っているのである。
頽廃語調の言葉や歌はその人間を頽廃的人物とし、
荒々しい言葉はその人間に乱暴粗暴なヤクザ的性格を植えつける。
これに反して、良き言葉、洗練されたる言葉を常に使うようにするならば、
その人の性格は善良となり、洗練されたる風格を持つようになるのである。
まことにも言葉は創る力を持つのである。
日本国憲法に「表現の自由」が定められているからとて、その自由を濫用して、
自分の性格を悪化する言葉を使うのは自殺的行為である。
・・・
【二十二日のことば~常不軽菩薩の生き方を生きよ】
すべての人間を憎んだり軽蔑してはならない。
無論、現象にあらわれたる人物を見るならば憎むべき人間もあり、
軽蔑すべき人間もある。
しかしこれらの不完全な姿は、彼らの仮面であって、
仮面の奥に完全なる実相の面があるのである。
現象を見ず実相を見よ。
全ての人間はその実相に於いて”神の子”であるのであり、
その”神の子”を観じ、瞑想し、心に礼拝し、言葉に讃歎するとき、
その人の完全なる実相があらわれて来るのである。
「我れ常に人を軽んぜず、すべての人に宿る如来を観て礼拝す。」
これが法華経の常不軽菩薩の生き方である。
・・・
【二十三日のことば~心の雑草の根を断ち切れ】
自己を霊によって支配することができる者が真の勇者であり、
勝者であるのである。
利己心を容赦なく芟除(せんじょ)せよ。
利己心よりして、怒り、憎しみ、貪欲、虚偽、嫉妬、羨望、恐怖等
・・・・・一切の心の雑草を生ずるのである。
利己心のない心が「本当の自分の心」なのである。
利己心なくすべての人々を愛せよ。
自己の能力を人類救済のために与え切れ。
与えて、与えて、与え切れ。
いくら与えても減ずることなき「真の自己」を発見せよ。
・・・
【二十四日のことば~真理の言葉は善実現の永遠のエネルギーである】
真理を語れ。
相手が受容れないでも失望することはないのである。
語られたる言葉は創造る力があって常に宇宙のどこかにあって、
その言葉にふさわしきものを創造しつつあるのである。
キリストは「天地は失せん。されどわが言葉は失せず」といっている。
「わが言葉」という場合のキリストの言葉は「真理の言葉」のことである。
キリストは「われは真理なり、道なり・・・・・」と言っていることを想起せよ。
常に機会ある毎に、接する人々に真理を説くがよい。
また怠らず毎日、真理を説いた聖経『甘露の法雨』を朗読するがよい。
その真理の言葉は、「天地は失せるとも永遠に存在して、
善き事物を創造する」潜在的エネルギーとなるのである。
・・・
【二十五日のことば~真の敵は汝の“内“にある】
他の人の努力に頼ることなく、
みずからの努力によって自己を高めあげるがよい。
自己のみが自己の味方であり、同時に自己のみが自己の敵である。
”肉体の自己”を克服した「自己」は、“真の自分”の味方であるし、
”肉体の自己”に克服せられたる「自己」は“本当の自分”の敵となる。
・・・
【二十六日のことば~内在の神を見つめよ】
自己の内部をよく見詰めるがよい。
あまりにも現代の若い人たちは、
外ばかり見てうつつを抜かしている状態である。
外の喧騒や、外の快楽に心を奪われるとき、
内部の充実が忘れられるのである。
外に心を奪われるとき、その人は粗暴となるか腰抜けとなる。
内観して、自己の内に“神”があり自己の内に”無限力”があることを
自覚してのみ、その自覚の外延として、外に力が働く時は、落ち着いた力
となり、静かなる勇気となって、暴虎馮河の勇となることはないのである。
何事も”内”から始まるべきである。
・・・
【二十七日のことば~内部に流れる聖なる力】
内部に流れる聖なる力を見出すことが根本である。
その聖なる力を見出してそれの導きに従って行動する者は、
例えば流れに従って河を下ると同じように、安楽にして
平穏に速力早く行動の目的を達することができるのである。
内部の聖なる力の流れに逆行して“我の力”をもって
事を為すべく突進して行く場合には労多くして効少ないのである。
自己の内部の聖なる導きを見出すために怠らず神想観を毎日実修するがよい。
・・・
【二十八日のことば~釈尊とキリストとの教えるもの】
釈尊やキリストやその他の聖なる教祖たちのみがとくべつに
神の恩寵を得ているのではないのである。
ただこれらの先輩は、どんな人間でも、みんな“神の子”であるから、
彼の如く為すならば、内部の聖なる生命の流れを、
自分の生活に導き入れて偉大なる力を発揮し、幾多の聖業を成し遂げること
ができるのだという模範を示されたに過ぎないのである。
若し釈迦、キリストが”普通の人間”には迚もできない事を
成し遂げられたのだとすれば、釈迦、キリストは、大いなる見物としては
価値があるかも知れないが、人間を救済する力とはならない。
ところが釈迦、キリストが発揮し得たところの偉大なる力を、
釈迦、キリストの如くなすことによって吾ら一般の人間もそれを為すことが
できるための、その範例を示されたのが釈迦、キリストだと
みとめる事によって、吾々は釈迦、キリストの先蹤を追うことができ、
そこに彼ら先達の生活が吾らの救済力となり得るのである。
諸君よ、あなたがたもまた自己が”神の子”なる実相を潜在意識の
底の底まで信ずることができるならば、釈尊の如く、キリストの如く
大いなる聖業を成し遂げることができるのである。
・・・
【二十九日のことば~無限力を利用するのと仕えるのとは異なる】
自己を尊敬するがよい。
自己の肉体の逞しさや、容貌の美しさを尊敬するのではない。
自己の内部に生きている「本当の自分」「”神の子”たる自分」が
釈尊やキリストと全く同じき永遠の存在であり、無限価値の存在であること
を自覚して、それを礼拝し、その神性に拝跪してそれに仕えるのである。
「肉体の自分」がそれに「仕える」のだ
ということを忘れてはならないのである。
「肉体の自分」が「本当の自分」の無限力を利用してやるのだ
と考えてはならない。
これでは、同じ”無限力の自覚”であっても、
本末転倒であって結局良い結果は得られないのである。
「肉体の自分」はどこまでも、「本当の自分」の無限力の前に謙遜に
跪いて礼拝し、そのみこころをきいてそれに随順し仕え奉る気持になってのみ、
その無限力が尊き目的のみに使われることになるのである。
・・・
<関連~「理想世界」法語>
(1)昭和42年7月青年法語 「青年よ悪習慣の鏈(くさり)を断ち切れ」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6956412
(2)昭和42年9月青年法語 「宇宙の神秘を直観して」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7069750
(3)昭和42年10月青年法語 「あなたの運命を形成するもの」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7162032
(4)昭和42年11月青年法語 「吾等青年何を為すべきか」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7555739
(5)昭和42年12月青年法語 「人類と世界が求めている人となれ」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7594147
(6)昭和43年 1月青年法語 「新しき年にこうして天国を建設しよう」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7635828
<感謝合掌 平成29年11月16日 頓首再拝>