伝統板・第二
困難に戯れよ③ - 伝統
2017/11/14 (Tue) 04:14:46
*伝統板・第二「困難に戯れよ②」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6879318
《外界の困難は内部の力を招集する》
*『 生長の家 』(昭和26年2月10日の法語)より
人間の内部には、神の無限の可能性が宿されている。
それは自覚されれば発現の最初の出口がひらかれるのであるが、
自覚するだけでは足りないのである。
出口へ押し出す力がなければならないのである。
それが努力である。
しかし努力は、あまり仕事が楽々としている場合には
百%働かないのである。
ただ困難や苦痛に面したとき大いなる努力がなされて、
内在の偉大なる力が搾り出される。
従って病苦の中に偉大なる著述をする人や、
牢獄の中にいて大いなる仕事をする人なども出て来るのである。
外面的に人間が苦痛に面する時、心は内に向って働くからである。
→ http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/550acee89d1d174eac28267a335eaa67
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第二「困難に戯れよ! (10457)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2004
(2)光明掲示板・第三「困難に戯れよ! (70)」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=36
(3)光明掲示板・伝統・第一「困難に戯れよ! (28)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=16
(4)伝統板・第二「困難に戯れよ①」
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6463677
<感謝合掌 平成29年11月14日 頓首再拝>
《艱難(かんなん)の時には 先(ま)ず心を静かにせよ》 - 伝統
2017/12/05 (Tue) 03:40:00
*『 生長の家 』(昭和25年2月19日の法語)より
悩みが来た時には、周章狼狽(しゅうしょうろうばい)しては ならない。
人間智慧を あれこれ働かせて、余りごまかしをやってはならないのである。
静かに心を落付けて 実相を観ずることが必要である。
実相の世界には 悩みは存在しないのである。
そして悩みのない世界から目覚めて来た 新しい智慧を以(もっ)て
熟慮するのがいいのである。
「 神は これを解決する道を知り給う。 」 と繰り返し 繰返し 心の中に
念ずることが必要なのである。
「 道 」 は 自分の内にあるのである。
自分自身の内が顛倒(てんとう)していては、
よき解決法がでて来る筈(はず)は ないのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
<感謝合掌 平成29年12月5日 頓首再拝>
困難の功績を知る - 伝統
2017/12/17 (Sun) 03:45:03
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月17日)より
恐怖というものは誤解の上に築かれている。
およそ恐怖すべてものは実相には無いのである。
人は困難を恐怖するが、困難がどれだけわれらを高め上げてくれるものであるか、
その困難の功績を知らない者が多いのである。
もし、困難の功績というものを、われらが知ることができるならば、
われわれは困難を苦痛と感じなくなるであろうし、
困難に対して恐怖を感じなくなるであろう。
困難と苦痛とは異(ちが)うのである。
困難を苦痛と感ずるのはただ誤解に因(もとづ)いている。
困難は時として立派な遺産を置いて行ってくれるものなのである。
<感謝合掌 平成29年12月17日 頓首再拝>
【平穏無事な日々は、脳を衰えさせる】 - 伝統
2018/01/03 (Wed) 03:03:49
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年11月24日)より
(脳科学者、中野信子氏の心に響く言葉より…)
《平穏無事な日々は、脳を衰えさせる》
「幸福な人生」というと、
何ごともない平穏無事な人生をイメージする人が多いかもしれません。
しかし、同じ刺激が単調に繰り返されるだけでは、
脳内快楽物質は出なくなります。
波風が立たない人生の日々は、脳にとっては何の新鮮な感動もない砂漠。
こうした飢餓状態が続くと、脳は衰えます。
さまざまな困難が次々と襲ってくる人生のほうが、
それを乗り越えるたびに深い幸福感を感じることができるのです。
<『生きるのが楽しくなる脳に効く言葉』セブン&アイ出版>
・・・
人は誰もが平穏無事を願う。
しかしもし、何年も何十年もの間、病気や事故も、困難も辛いことも何もなく、
毎日が平穏無事に過ぎていったとしたら、人は確実にボケてしまうだろう。
困難や辛いことがあるからこそ、
それを乗り越えることによって、人間的に成長できる。
だから、後から振り返ってみて、
あの困難や辛いことがあったから、今の自分がある、と思える。
そして、困難や辛かったことにも感謝ができる。
我々は、魂の成長のために、この地球に生れてきた。
それは、少しでも、人の役に立てる人間になること。
自分のことばかり考えている利己の人には、成長はない。
我々は、生まれる前に自分が書いたシナリオ通りに生きると言われている。
人生を舞台とするなら、シナリオを自分で書き、演出も照明も自分で、
そして、主役として自分自身が演じる。
だとするなら、自分に起こる困難や辛いこと、面倒なことに対して、
文句や愚痴、泣き言はいえない。
自分でそれを決めてきたのだから。
「平穏無事な日々は、脳を衰えさせる」
自分に起こるすべての出来事を「ウエルカム」、と笑顔で受け入れたい。
<感謝合掌 平成30年1月3日 頓首再拝>
《抵抗は有難い、吾々を前進せしめる》 - 伝統
2018/01/16 (Tue) 04:52:38
*『 生長の家 』(昭和24年7月5日の法語)より
人間が反対と摩擦から解放されてしまった時に
それはレールの上に油を塗って滑らした機関車のように、
上向することはできないで下向(げこう)するばかりである。
抵抗と摩擦とによって人間は自己をみがき上昇し向上する。
カントは鳩(はと)の例をあげている。
鳩は空気の抵抗によってその速力を減ぜしめられ、
その飛翔を困難ならしめられる。
だから、もし空気の抵抗がなかったならば、
鳩は尚(なお)一層快速に、尚一そう容易に飛翔し得るだろう
とも思えるが、
空気をぬいて真空のところを飛翔せしめて見るならば、
忽(たちま)ち鳩は飛ぶことができないで
落下することは間違いはないのであると。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/d14ec46bd5e21bf633f5327ac1344cc9
<感謝合掌 平成30年1月16日 頓首再拝>
【面倒なことの中に宝が埋まっている】 - 伝統
2018/01/31 (Wed) 03:45:12
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年01月25日)より
(戸田智弘氏の心に響く言葉より…)
昔、江州(ごうしゅう・現在の滋賀県)の商人と他国の商人が、
二人で一緒に碓氷(うすい)の峠道を登っていた。
焼けつくような暑さの中、重い荷物を山ほど背負って
険しい坂を登っていくのは、本当に苦しいことだった。
途中、木陰に荷物を下ろして休んでいると、他国の商人が汗を拭きながら嘆いた。
「本当にこの山がもう少し低いといいんですがね。
世渡り家業に楽なことはございません。
だけど、こうも険しい坂を登るんでは、
いっそ行商をやめて、帰ってしまいたくなりますよ」
これを聞いた江州の商人はにっこり笑って、こう言った。
「同じ坂を、同じぐらいの荷物を背負って登るんです。
あなたがつらいのも、私がつらいのも同じことです。
このとおり、息もはずめば、汗も流れます。
だけど、私はこの碓氷の山が、もっともっと、
いや十倍も高くなってくれれば有難いと思います。
そうすれば、たいていの商人はみな、中途で帰るでしょう。
そのときこそ私は一人で山の彼方へ行って、
思うさま商売をしてみたいと思います。
碓氷の山がまだまだ高くないのが、私には残念ですよ」
<『座右の寓話』ディスカヴァー>
・・・
自分が携わっている仕事や、役職を、
面倒だと思ったり、つらいと思ったりするときがある。
しかし、その仕事が面倒であればあるほど、つらければつらいほど、
他からの参入障壁は高くなる。
これは、役職も同じ。
誰にでもできる役職だったら、とっくの昔に誰かと交代させられる。
「面倒なことの中に宝が埋まっている」
目の前の難事から逃げずに、コツコツと取り組む人に運の女神は微笑む。
<感謝合掌 平成30年1月31日 頓首再拝>
困難が困難でなくなる - 伝統
2018/02/10 (Sat) 04:58:20
*「光明道中記」(2月10日困難を超えて向上する日)より
【困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行する。
(『生命の實相』十一巻)】
魂の向上とは、困難がなくなることではない。
困難が困難でなくなることである。
甲は1ポンドの鉄亜鈴(てつあれい)を振舞(ふりま)わすことを快感であると言い、
乙は2ポンドの鉄亜鈴がちょう度快感であると言う。
かくの如くして吾々の力が向上するに従い、困難が困難でなくなるのである。
吾々の筋肉は毎日使うことによって発達し、吾々の頭脳も毎日使うことによって発達する。
最初は一桁の加算(よせざん)が難しかった小学生が、
ついには高等数学の問題を何の苦しみもなく解くことが出来るようになるのは、
その人の進歩であり、困難を征服した賜(たまもの)である。
お蔭と云うのは、数学上の問題が無くなることではなく、
どんな数学の問題でも自由に解決し得るように力を得ることであると同じように、
吾々がお蔭を得たと云うのは人生に問題が無くなる事ではなく、
どんな人生の問題でも重荷でなく解決し得るようになる事である。
最後のドタン場になって「救けてくれ」と言うのは、
平生(へいぜい)勉強しないでいてお情(なさけ)及第させてくれと言うに当る。
お情及第させられた者は、その時は有難いと思っても実力がないから次の時に失敗する。
<感謝合掌 平成30年2月10日 頓首再拝>
嵐を見守る - 伝統
2018/02/23 (Fri) 04:02:00
*「Q・次の2つから生きたい人生を選びなさい」
~ハーバードの人生を変える授業 2 (P180~181)より
私たちは人生において、つらい経験や困難な時間という「嵐」のなかに
進まなくてはならないことがあります。
そんなときには、嵐と闘うのではなく、別の選択肢もあります。
それは「ただ観察する」というもので、
とくに感情的な苦痛があるときに有効な方法です。
数千年もの間、東洋の瞑想家たちは
何ものにもとらわれない態度を養うために瞑想を実践してきました。
まるで魚が激しい嵐に巻きこまれることなく、深く静かな水のなかにいて
その様子を見ているように、私たちも心のトレーニングすれば、
嵐にまきこまれることなく、大荒れの様子を心のなかで
見るだけにすることができます。
そうなれば、多くの場合、私たちは自分たちに起きているドラマを、
舞台の上のドラマと同じように思いやりと好奇心をもって
鑑賞することができます。
精神医学者のジェフリー・シュウォーツの言葉によると
「あなたは人生のそれぞれの瞬間において、
マインドフルでいるかいないかの選択をしているのです」。
《立ち止まり、観察する》
アフリカの寓話にこんな話があります。
一頭のカバが川を渡っているときに自分の片方の目をなくします。
カバは必死になって目を探します。
前を見たり、後ろを見たり、両側を見たり、体の下を見たりしますが見つかりません。
川岸にいる鳥や動物たちが、少しや休んだほうがいいと言っても、
カバは自分の目を永遠に失ってしまうのではないかと怖れて休もうとしません。
懸命に探しつづけますが、やはり見つからず、とうとうカバは疲れはてて
その場に座り込んでしまいました。
カバが動きまわるのをやめて落ち着くと、川もすぐに静かになりました。
カバがかきまわして濁らせていた水は泥が沈み、
底まで透きとおって見えるようになりました。
そうしてカバは休憩を取りながら、自分の目を見つけることができたのです。
・・・
このように立ち止まっていったん気持ちを落ち着かせることで、
嵐のなかでも物事がはっきりと見えることがしばしばあります。
ときには何もせず、成り行きにまかせたほうが、
困難が去って問題が解決することがあるのです。
<感謝合掌 平成30年2月23日 頓首再拝>
《困難に突き当たった時》 - 伝統
2018/03/08 (Thu) 04:42:07
*『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P22~23) より
どんなにあなたの問題が困難そうな問題であっても、
神の眼から見れば困難な問題はないのであります。
あなたの周囲のものが悉く壊(くだ)け去り、一切の富が一時失われたにしても
神はそれを以前よりも、もっと完全な姿に再建することができ、
前よりも裕(ゆた)かな富を築きあげることができるのであります。
宇宙の一切の天体が神によってつくられ、
地上の一切の鉱物、植物、動物を含む資源が
神によって造られたものであることを想い出して御覧なさい。
そしてこの天地創造の御力(おちから)が、
依然として神の内(うち)にあることを考えるならば、
神はあなたの、どんな難問題をも解決し、どんな大破壊をも修復して、
以前にもまして裕かなる世界を創造するお力を有し給うことがわかる筈である。
こんな事は、一寸考えたら解る筈の事であるのに、
この真理が充分受け容れできない人があり、
また”そんなこと解っている”という人の中にも、
その悟りが頭脳の表層を占めるだけで、
充分潜在意識に滲み込んでいない人も随分あるのであるから、
神想観の実修の時には勿論、常に機会ある毎に、
この偉大なる神の力が自己と偕にあることを念ずるようにして、
その真理を潜在意識に浸潤するようにしなければならない。
<感謝合掌 平成30年3月8日 頓首再拝>
困難を挑戦と見なす - 伝統
2018/03/22 (Thu) 03:15:41
*「Q・次の2つから生きたい人生を選びなさい」
~ハーバードの人生を変える授業 2 (P211)より
言葉は現実を表現するだけでなく、現実をつくりだします。
状況を危険なものと捉えればストレスを感じる可能性が高くなりますが、
同じ状況をチャレンジと捉えれば、気分が高まります。
外から見て同じ出来事でも主観的にはまったく違った経験にするわけですが、
それは状況を表現するときに使う言葉によって決まってきます。
今度行なうスピーチは自分の身をおぼやかすものか。
それとも歓迎すべき挑戦でしょうか。
あるいは、いまパートナーとの関係で陥っている困難は
どう解釈すればいいでしょうか。
現実とは、主観(自分の心)と客観(外の状況)の両方から成り立つものです。
私たちは、自分の人生と経験を生み出している共同創作者なのです。
<感謝合掌 平成30年3月22日 頓首再拝>
【番狂わせの起こし方】 - 伝統
2018/04/12 (Thu) 03:11:53
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年04月10日)より
(野村克也氏の心に響く言葉より…)
「教えてほしい。今年で83歳になる老いぼれの話を、
あんたら、なぜ聞きたがるんだ? 」
取材に来た雑誌社の人間に、一度、真剣に尋ねたことがある。
いまのプロ野球事情をどう思うか。
プロフェッショナルとは何と考えるか。
あるいは、生き方や働き方へのアドバイスに至るまで・・・。
なぜか、一介(いっかい)の年老いた野球評論家である
私のところに話を聞きたがる人が、じつに多いからだ。
すると、彼らに即答された。
「いや、他にいないからですよ」
まったくその通り、と笑ったものだ。
別段、私の話に特別な知見が詰まっているわけではない。
他に話してくれそうな年寄りがいないから来るだけなのだ。
裏を返せば、野球界で、ものごとをしっかりと
言葉に変えて表現できる人間が、他にはいないということだろう。
番狂わせが起きた、と感じる。
私がプロ入りしたのは半世紀以上も前。
当時、野球の人気は圧倒的だった。
野球選手といえば、世間の誰もがうらやむ職業だった。
それだけに、全国からの野球エリートが集う場でもあった。
一方の私はテスト生として、
南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)という
チームの端っこにぎりぎり引っかかるように入った人間だ。
誰よりも努力しなければすぐにふるい落とされる。
そんな思いでひとり必死に練習を重ねた。
結果として、レギュラーの座を勝ち取ったが、
その後も不安が消えることはなかった。
稲尾和久や王貞治、長嶋茂雄など、
同時代のスターや天才たちの背中に追いつくためには、
誰よりも頭を使うしかなかった。
相手選手のデータを集めて分析し、配球を研究することで、
プロのグラウンドにぎりぎりしがみついた。
おかげで長きにわたり現役生活を送れたが、
引退後は監督となるには学歴がなく、ゴマすりも苦手だった。
「それなら日本一の野球評論家になろう」と決意し、
野球の知見を広げるだけでなく、
啓蒙書や哲学書、中国古典などを読み漁(あさ)った。
人間を知ることが野球を知ることにもつながると教えられたからだ。
そして身につけた野球観は唯一無二のものだったようで、
新聞やテレビの評論で重宝されるようになった。
その評論が縁で、現役時代は縁もゆかりもなかった
3つのチームを監督として率いることになった。
そして、いまだ。
私はいつも「敗者」からのスタートだった。
だから自分を磨かざるをえず、
必死にもがき苦しんで、周りに追いつこうとしてきた。
変わることを厭(いと)わず、頭と言葉を武器にしてきた。
こうしてなんとかしがみつくことで身についた“筋力”のおかげで、
この年になってもなお、現役のように
いろいろなところから声をかけてもらえているのだと思う。
一方で、学生の頃、プロ野球の現役時代、監督をしていた当時・・・
周囲にいた才能あふれる者たちの姿は、あまり見かけなくなってきた。
才能がない。
運がない。
エリートではない。
そんな人間こそが、番狂わせを起こす。
<『番狂わせの起こし方』青春出版社>
・・・
古今世界の歴史をひもとくと、
順調に経歴を重ねてきたエリートや才能あふれる人たちが、
必ずしも成功してきたわけではない。
逆に、逆境を乗り越えたり、不幸な環境をひっくり返して成功してきた人は多い。
既存のレールに乗らない、番狂わせを起こす人たちだ。
それは、松下幸之助翁のように、
「貧乏」、「体が弱い」、「学歴がない」などというハンデがあった人たち。
逆境にあっても、「なにくそ」と発憤する人たち。
逆境にあっても、自己研鑽を怠らない人たち。
逆境にあっても、自分の魂を磨きつづけてきた人たち。
逆境にあっても、「打つ手は無限」と決してあきらめない人たち。
現代は、ITやAIによる何百年に一度の大変革の時だ。
大変革の時は、番狂わせは世界中で起きる。
ありとあらゆるものが、順当に行ったり、予想した通りに
動いてくれる時代ではないからだ。
どんなときもあきらめず、自己研鑽を忘れない人・・・
番狂わせを起こす人には限りない魅力がある。
<感謝合掌 平成30年4月12日 頓首再拝>
【どちらのアメーバが長生きしたか】 - 伝統
2018/04/24 (Tue) 03:14:23
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年04月22日)より
(スティービー・クレオ・ダービック氏の心に響く言葉より…)
カリフォルニアの研究者たちが、
アメーバの一群を二つの異なるタンクに半分ずつ入れた。
第一のタンクでは、水の温度、水位、その他諸々、注意深くモニターし、
成長に必要な完璧な条件になるように調えた。
一方、第二のタンクに入れられたアメーバは
常に変化にさらされ、暑さ寒さの極限に置かれた。
さて、どちらのタンクのアメーバが長生きしたか?
驚いたことに、早死にしたのは、第一のタンクの、
快適な環境に置かれたアメーバだった。
研究者たちは、次のように結論づけた。
あまりに居心地のよい環境にいると、よどみや腐敗が生じる。
一方、努力を強いられたり、周囲に馴染むことを
余儀なくされることは、成長を促進する。
あなたは、すべての条件が調ったらうまくいく、と思っているのかもしれない。
しかし、むしろすべての条件が調っていないいまの状況こそ喜ぶべきだ。
ただし、耐えなくてもいい逆境に
わざわざ自らおとしめることはないが
図らずも、もし逆境にさらされたら、そのときは喜んで迎えよう。
そして、対処しよう。
思い通りでない環境に感謝する日がきっと来る。
<『新 自分を磨く方法』ディスカヴァー>
・・・
「水清ければ魚棲まず」
という中国の言葉がある。
あまりに水がきれいで澄んでいると、
魚のえさになる虫も繁殖しないし、水草も生(は)えず
隠れる場所もないので、魚がすみつかない。
人も同じで、あまりに正義感が強かったり、
清廉潔白だったりすると、親しみがなく、まわりに人が寄りつかない。
誰もが条件の整った環境にいる方がいいと思う。
だが、衣食住やお金の心配もなく、働かずに毎日何もせず、
ぶらぶらして生きていくことになったら、ほとんどの人は
ひと月とたたないうちに、その毎日を持て余してしまうだろう。
思い通りにならないことがあるからこそ、我々は努力する。
嫌なことや困難を、乗り越えることにより、自分を一段高めることができる。
厳しい環境は我々を磨いてくれる砥石(といし)。
思い通りでない環境に感謝する日がきっと来る。
<感謝合掌 平成30年4月24日 頓首再拝>
《問題は必ず解決する》 - 伝統
2018/05/13 (Sun) 03:24:15
*「光明法語」(5月13日の法語)より
神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。
問題が起こっても恐れることはないのである。
問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。
問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。
吾々は恐れることはないのである。
人生は生きており、人生は新生面を展開する。
人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。
<感謝合掌 平成30年5月13日 頓首再拝>
心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなる - 伝統
2018/06/03 (Sun) 03:45:17
*「光明道中記」(6月3日 困難消滅する日)より
【心が「迷いの念」に引っかかって生命本来の自由性を失うと、症状が顕れる。
(『生命の實相』第一巻)】
人が神に近づくには試練の火が必要であり、
必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは嘘である。
実際上多くの人達は試練の火によって鍛えられ、
困難によって浄められて神に近づく。
私自身も嘗てはそうであったのである。
併し今私は試練の火が必要であったのでも、
困難が必要であったのでもなかったと
「私の生活体験」を解釈する立場に立つのである。
試練の火は”神から”来たところの不可避の火ではなかったのである。
試練も無く困難もなかったのである。
自分の自覚が「実在」(神の造りたまえる《そのまま》)と
調和しなかったのである。
みずから神から離れたるものと誤覚し、
「実在」の秩序の中に調和しないでいる ――
その《みずからの状態》が「試練」であり、「困難」であったのである。
今よりのち試練を神からきたものと考えまい。
私が悪いのである。
すべては私の責任である。
試練を神に帰することは神を残忍者であると観、
神を不完全であると観ることになる。
斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。
子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。
心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。
<感謝合掌 平成30年6月3日 頓首再拝>
試練は本来存在しない - 伝統
2018/06/04 (Mon) 04:09:19
*「光明道中記」(6月4日 天の声を聴く日)より
【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
(『生命の實相』第十一巻)】
心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。
天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。
さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、実在の調和ある相(すがた)から
離れるようにしている状態が試練であるに過ぎない。
まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。
自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。
「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。
若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。
<感謝合掌 平成30年6月4日 頓首再拝>
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)す - 伝統
2018/06/11 (Mon) 03:52:31
*「光明道中記」(6月11日 困難を征服し宝石を得る日)より
【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】
逃れようと思わぬこと。
あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、それを捨てずに処理して行くとき、
どんな貧鉱(ひんこう)からでも尊き金属を採取し得るように、
どんな経験からでも尊き「価値」を採取し得るのである。
吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。
人間の幸福は五官の快楽と否(いな)とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多いのと同様である。
盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが生長の家の生活ではない。
盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。
盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。
と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。
不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから得られるのである。
<感謝合掌 平成30年6月11日 頓首再拝>
《困難を幸福に変える》 - 伝統
2018/06/27 (Wed) 03:34:07
*『生活の智慧365章』
(第1部生命の泉)第3篇( P65~66) より
困難はあなたを不幸にすることはできない。
困難が人間を不幸にすることにきまっているならば、
山登りや、スキーや、スケートは人間を不幸にするにきまっているのである。
しかしながら、人々が好んで山登りを楽しみ、
スキーやスケートに熱心になるのは、
その困難を楽しむ心で克服するからである。
愉しさは寧(むし)ろ「困難がない」ここではなく、
「困難を克服する快感」から来るのである。
即ち「困難」そのものが人間を不幸にするのではなく、困難に対して、
その人が如何なる心の態度で、その困難に立ち向かうかのよって、
困難が快感にも不幸にも苦痛にも変ずるのである。
それでは困難に対して、却って快感を得るためにはどうしたらよいか、
「押しせまる困難」に主動性をもたせて、自分がそれを受けている ――
というような消極的な受動的態度では、自分は不幸になるばかりであって、
困難に押し潰されるだけである。
何でも主導者となる者が勝利者である。
困難が自分に押し迫って来る前に、自分が先ず困難に対して
積極的に主導者となって押し迫るがよいのである。
<感謝合掌 平成30年6月27日 頓首再拝>
すべての経験は、「神」を掘り出す喜びの作業 - 伝統
2018/07/03 (Tue) 03:24:55
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月3日)より
われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を掘り出す作業である。
どんなにそれが失敗したように見えようとも、どんなにそれが深刻であり、
悲惨なように見えようとも、それが深刻であればあるほど、悲惨であればあるほど、
われらの神に通ずる坑道は深く穿たれていきつつあるのである。
深く深く下げていくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこには、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。
どんな経験も、苦しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばなければならない。
<感謝合掌 平成30年7月3日 頓首再拝>
神は、善人にだけ試練を課す。 - 伝統
2018/07/17 (Tue) 03:09:11
*「ユダヤ人成功者の知恵に学ぶ『這い上がる力』」
藤井厳喜・著(P107~108)より
道に行き詰ったり、苦境に立たされているのなら、
あなたは今、神によって試されているのかも知れない。
というのは、
神様はそもそも悪人には試練を課そうとしない。
善人にだけ試練を課す。
神は正しい者だけを試練にあわせるというのだ。
ユダヤ人の発想でいくと、あなたが二頭のロバを持っており、
一頭は強く、もう一頭は弱かったとしよう。
あなたが長い旅に出るとき、どちらのロバに荷物を載せて旅に連れて行くだろうか。
もちろん、
強いほうのロバだろう。
同じように、
神様が人間を使ってこの世をよくしようとするときには、
強い人間、正しい人間を使う。
つまり、
神は強く正しい者に、より大きな重荷を与えるのだ。
正しい者に試練を与えて、それによって世界をよい方向へ導く。
そういう道を神は選ぶというのだ。
苦難に対して立ち向かい、成功してこそ己の正しさを証明できるというわけだ。
苦労するのはエリートの証拠なのだ。
<感謝合掌 平成30年7月17日 頓首再拝>
《不幸や逆境を消す方法は? 》 - 伝統
2018/07/28 (Sat) 03:38:37
*『人生の秘訣365章』第5篇(P134~135) より
柔かき心になって“敵”と見える者に対しても、
素直に受取る心になって“逆境”や“困難”から
“自己反省”と“自己向上”の要素を引出すことにすれば、
“敵”と見える者は“味方”にかわり、
逆境と見えるものは順境に転ずるのである。
かくの如くして“悪”は本来、存在しないのであり、
自分の“心”の投げ方によって、それが歪んであらわれていたものである
ことが立証されるのである。
すべての人から、物から、事から、其処にある善き“精髄”を引出すべきである。
毒草と思われるものから抽出されたものが、効き目の高い薬剤となるのである。
悪人や難物や困難と見えたものから、
あなたの運命を好転さす良き資料が吸収されるのである。
毒草から良剤が吸収されれば、其れは既に毒草ではないのである。
不幸や逆境から魂の栄養となるものが吸収されるならば、
それは既に不幸でも逆境でもないのである。
<感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>
《逆境を斫り開くのは調和の精神である 》 - 伝統
2018/08/16 (Thu) 04:02:26
*『人生の秘訣365章』第5篇(P135~136) より
魂の向上進歩の資料として、あらゆる逆境と不幸を素直に受取るとき、
其処からおのずと道がひらけて来て、まことにも真(しん)に
逆境とか不幸とか云うものが存在しないことが判るのである。
すべてを素直に調和した心で受取るべきであって、
不調和な心や、抵抗する心や、闘争する心で相対してはならないのである。
不調和な心で相対(あいたい)すれば不調和が出て来るし、
抵抗する心で相対(あいたい)すれば、抵抗が出て来るし、
闘争する心で相対(あいたい)すれば闘争が出て来るのである。
心を一転して調和ある精神で相対(あいたい)せよ。
必ずそこに調和ある環境があらわれて来るのである。
調和ある精神の第一は、感謝の心である。
祝福の心である。愛の心である。
愛があって、どんなに悪と見える者をも祝福し、
どんなに悪と見える事柄にも、その中に内在する魂の教育的意義を見出して
感謝するならば、如何なる地獄のような環境も極楽に一転するのである。
<感謝合掌 平成30年8月16日 頓首再拝>
《困難に対して悦びと感謝の念で受けること 》 - 伝統
2018/09/06 (Thu) 23:49:27
*『人生の秘訣365章』第5篇(P137~138) より
すべて困難が来るときには、
明るい心をもって悦びと感謝とをもって迎えなければならない。
黒住宗忠が「難有り、有り難し」と、文字って教訓を垂れたことがあったが、
すべて自分の身辺に象(かたち)にあらわれて来たものは、
過去の自己の感情想念の具象化である
―― そして“感情想念”と云う心の力(心業)は
象(かたち)にあらわれて消えて行きつつあるのであるから、
困難が象(かたち)にあらわれて来たときには、
その事自体が悪しき心業の自壊であるから、それを悦び受けて感謝し、
これで“悪い業が消えた”と明るい心になればよいのである。
何事が来(きた)っても、このようにして明るい心と感謝の念とをもって
相対するようにすれば、過去の消極的な暗い想念が
「困難」と云う象(かたち)をとって具象化された後は、
ただ積極的な明るい想念がそれに取って代り、
それから後(のち)は、積極的な明るい想念の具象化としての
悦びと健康と繁栄とに祝福された世界があなたの周囲に現れて来るのである。
<感謝合掌 平成30年9月6日 頓首再拝>
《受働を主働に変える》 - 伝統
2018/09/19 (Wed) 04:19:32
*『生活の智慧365章』
(第1部生命の泉)第3篇( P66~67) より
困難に面したとき困難を如何に解決すべきかを考えるのはよい。
それは受働を主働に変ずることによって、
困難は自分を征服するところの力を失うのである。
日本武尊が賊軍と焼津の萱原(かやはら)に於いて戦ったとき、
賊軍は風上に陣しており、尊は風下に陣していたが、
賊は萱原に火をつけて来た、濛々(もうもう)と火焔(かえん)は
尊の軍勢に向かって襲いかかって来たのである。
このままで尊は受け身であった。
困難に面して唯受け身であるばかりでは困難に征服されてしまう。
尊の運命は進退ここに谷(きわ)まった状態に陥ったのである。
そのとき日本武尊は、受働を変じて自分の背後の萱原に主働的に火をつけたのである。
風は猛烈に吹いて来るので、尊の背後の萱は、後ろへ後ろへと燃えて往って、
そこは空地(あきち)となり、尊の前の萱も燃えつきて、
もう焔(ほのお)は尊を害することはできなくなった。
その時、急に風向きが変化して、賊軍の群がる萱原に焔がひろがって行き、
賊はついに大火傷を負うて全軍消滅するに到ったのである。
受働を主働に変ずることによって、
人生はこのように勝敗が逆転するのである。
<感謝合掌 平成30年9月19日 頓首再拝>
《心の重荷》 - 伝統
2018/10/05 (Fri) 04:52:47
*『生活の智慧365章』
(第1部生命の泉)第3篇( P67~68) より
外界の困難は必ずしもあなたの重荷とはならないし、
又必ずしもあなたを傷つけることはないのである。
内界の「心の重荷」のみあなたにとって本当に重荷となり、
本当にあなたを傷つけることになるのである。
では「心の重荷」とは如何なるものであるか。
それは「この世の中に、”悪”なるものが存在し、それが必ず自分を傷つける」
という信念である。
この信念によって人々は勇気がなくなり、積極的に善い事に邁進することが出来ず、
生命力が委縮してしまって、よい智慧が涌かず、病原菌に対する抵抗力を失って、
ついに病気にかかり不帰の客となってしまうのである。
これは、「この世に悪が存在する」という考えによって、催眠術をかけられ、
本来存在する「神の子・無限力」を自縄自縛した結果であれう。
<感謝合掌 平成30年10月5日 頓首再拝>
【逆境を利用して上に伸びる】 - 伝統
2018/10/15 (Mon) 04:09:39
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年10月04日)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
ともかく、逆境をうらんだりしちゃいけない。
そして、逆境というのは、
上にいる、絶対なる人が自分を試そうとしているんだ、と。
そしたら、オレなんかの場合、
「神さま、あなたは、オレが泣き言をいうと思ってるかもしれないけど、
その手は食いませんよ」って、
それで、「こういう答えを出しますけど、神さま、どうでしょう」って、対話するんだよ。
なんか、あやしい話になってきたんだけど(笑)
でも、代々続いているような家ってね、家訓のなかに必ず
「神仏を敬え」っていうのが入っているんだよね。
神仏を敬うって、神にすがって生きろ、ということじゃないんだよ。
どんなに成功しても、この世の中には、絶対、おまえなんかに勝てないものがあるんだ、
といってるんだよ。
そうやっていわないと、人間って傲慢になってダメなんだよ。
傲慢にならないために、
「絶対なる神」というものがいて、それを「敬え」っていう、ね。
その絶対なる神に「一人ちゃん、今の答えよかったよ」って、
いってもらえるような生き方を見せたいと思って、やってるんだよね、オレは。
だから、神さまにお願いするんじゃなくて、
神さまが「一人ちゃん、よくやったね」って喜んでくれるような生き方、だな。
そうすると、よく「客観的に自分を見る」っていうよな。
「外から自分を見る」っていういい方があるけど、それって人間目線なんだよ。
だけど、天の神様が喜ぶことって何だろう、っていったとき、
人は天の目線でものを見て考えるんだよ。
これが、実にいいんだよ。
いろんな“気づき”をもらえて、
おもしろいぐらいに、商売でも何でも、うまくいくの。
不況がこようが、どんな問題が出てこようが、
飛行機が空気抵抗で上に上がっていくように、
逆境を利用して伸びていけるんだよ。
これが、災い転じて福となす、なんだよ。
いいかい、もう一度いうよ。
天がくれた試練に対して、嘆いたりしちゃダメ。
天をうらまなくても、自分の運命をうらんだりしてもダメ。
天をうらんでるのと同じことだよ。
だから、天をうらむ人は逆境から抜け出せないんだよ。
逆境でつぶれる人の特徴なんだよ。
つぶれない人は、逆境のときに天をうらまない、時をうらまない。
逆境を利用して上に伸びるんだよ。
<『斎藤一人 商人道』PHP>
・・・
斎藤一人さんは、「抵抗(逆境)」についてこう語る。
『飛行機が離陸するときも、必ず空気抵抗を受けます。
ではこのとき、飛行機は抵抗を受けて、失速するでしょうか?違いますよね。
受けた空気抵抗を逆に利用して離陸します。
飛行機は空気抵抗があるからこそ、大空を飛べるのです。
もし、パイロットが空気抵抗が怖いからといって速力を落としてしまったら、
飛行機はそのまま真っ逆さまに落ちてしまいます。
これと同じことが、私たちにも起きるんです。
何か新しいことにチャレンジしようとしたときに、必ずといっていいほど、
周りから「失敗したらどうするの?」とか、「無理だよ」といった抵抗にあいます。
周りに言われなくても、自ら抵抗を避けようとしたり、
周囲から批判されないようにしたりと自分のエンジンのパワーを緩めてしまうと、
失速してしまいます。
ではどうすればいいか。
その抵抗を利用すればいいんです。
あなたがこれから上昇するためには、その抵抗が必要なんです。
だから、抵抗があっても速力を落とさず、そのままの力で、
またはそれ以上の力を出すと、その抵抗があなたを上へと持ち上げてくれるのです。
あなたが行動して出てきた抵抗は、あなたがあなた自身のエネルギーに変えることができます。
では、どうすれば自分のエネルギーに変えられるかというと、
あなた自身が失速しないこと、そして抵抗を恐れないことです。』(大商人の教え)より
「苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、 助け合って生きていく事が、
これからのわたくしたちの使命です。」
この言葉は、東日本大震災から1年8ヶ月経ったときの、
気仙沼市立階上中学校 梶原祐太さんの卒業式答辞だ。
天災や逆境にあったとき、年齢を重ね、経験を積んだ年配者だから、
天をうらまないわけではない。
若くても、経験がなくても、人やまわりのせいにしない人もいる。
「逆境を利用して上に伸びる」
抵抗や逆境をエネルギーに変えられる人でありたい。
<感謝合掌 平成30年10月15日 頓首再拝>
《危機を恐れるな、人間の全力は危機に出る》 - 伝統
2018/10/25 (Thu) 02:50:11
*『 生長の家 』(昭和24年7月6日の法語)より
怒涛(どとう)荒れ狂う海に於いて、
本当の偉大なる海洋国民はつくられるのである。
危機一髪のところに無限の力がでてくるのである。
歴史にその名の出ている人は 殆(ほと)んどすべてが、
世界の危機に出現した人たちばかりである。
危機は英雄豪傑を作るのである。
愈々(いよいよ)の土壇場になれば
どんな繊弱(かよわ)い婦人も驚くような力が出る。
高きにのぼらんとする努力が
人間の生活を高邁(こうまい)にするのである。
安易と快楽とに身を委(ゆだ)ねるものは
自分自身の生命を腐敗せしめ 懦弱(だじゃく)化するのである。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/31f9c2b5ee6544531d0dfaa49ae27ced
<感謝合掌 平成30年10月25日 頓首再拝>
【 困難は 吾(わ)が人格の光を 輝かす砥石(といし)である 】 - 伝統
2018/11/10 (Sat) 04:06:04
*光明日訓(平成28年版) (【 光明日訓 12日 】 )より
諸君は 決して困難に対して尻(しり)ごみしては ならないのである。
最も難(むつか)しき責任をさけては ならないのである。
自ら進んで困難を解決し、全責任を一身(いっしん)に背負って、
吾(われ)これに失敗せばただ死あるのみと背水の陣(じん)を
布(し)いて、自己の全能力をあらゆる機会に於(おい)て
搾り出す者は、遂に偉大なる能力を発揮することができるのである。
(『青年の書』 谷口雅春先生)
https://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/15426227.html
<感謝合掌 平成30年11月10日 頓首再拝>
「ピンチはチャンス」 - 伝統
2018/11/25 (Sun) 03:33:22
*メルマガ「心の糧」(2018.11.9)より
知人(ある会社の創業者で社長)から面白いことを聞きました。
知人は、幼い孫と山登りに行くことがあるのですが、
孫はよく山道で転んでしまいます。
その度に、泣いたり、ぐずったりするのを見て
知人はこう言ったそうです。
「あのな、良いこと教えたやろ。
山道で転んだときには、必ず言う言葉があるんやで。
よう覚えときや。
『ピンチはチャンスや!』
おじいちゃんも言うとるんや。
○○ちゃんも、言うてみ』」
素直に孫は、繰り返しました。
「ピンチはチャンスや!」
「よう言えたな。これから転ぶ度に言うんやで」
「うん」
それから孫は、転ぶ度に言いました。
「ピンチはチャンスや!」
「ピンチはチャンスや!」
孫は、転んでも泣かなくなったそうです。
「ピンチはチャンスや!」
と念じていると、気持ちが強くなります。
その気持ちがあれば、チャンスが見えるようになります。
いまNHK朝ドラ「まんぷく」をやっていますね。
チキンラーメンを発明した安藤百福夫妻が
モデルとなっているドラマです。
世界初のチキンラーメンは、
安藤さんが事業に失敗して無一文となり、
起死回生を願い、
1年がかりで必死に取り組んだ発明でした。
まさにピンチはチャンスだったのです。
★きっとよくなるヒント★
ピンチをチャンスにしよう。 (^.^)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆◇◆ あなたへのメッセージ ◆◇◆
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★チャレンジを楽しむ★
ふつうは成功する前に、
何度も失敗します。
状況は厳しい。
まわりの人は
「やっぱりね」という目で見ています。
それでもチャレンジすること自体を
楽しむのです。
きっと良いことが生まれます。
<感謝合掌 平成30年11月25日 頓首再拝>
”それが私に与えられた人生” - 伝統
2018/12/12 (Wed) 04:28:01
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年11月27日)より
(82歳の現役美容研究家、小林照子氏の心に響く言葉より…)
私は6歳になるまでのあいだに、3人の母と2人の父に育てられました。
生みの親は私が3歳のときに離婚。
兄は父方に、私と妹は母方につくことになったのですが、
私は1年後には、兄を慕って父のもとへ。
そして父と父の再婚相手に育てられましたが、
私が6歳のときに父が病気で他界。
私は大人たちの話し合いの結果、
父の再婚相手の兄夫婦にもらわれることになりました。
その夫婦には子どもがいなかったからです。
養母は私が10歳のときに骨盤カリエスになり、
8年間寝たきりになりました。
そして私が18歳のときに死亡。
養母の白装束を縫い、木桶(きおけ)に養母を入れて
リヤカーで火葬場に運びました。
骨壺(こつつぼ)を胸に抱いて、ひとり家に帰ってくる
私の姿を見た女性が、涙ぐみながら言いました。
「照子ちゃんはかわいそう。ほんとうにかわいそう」
はたから見たら、私は幼少期も少女時代も複雑な家庭環境で過ごした
「かわいそうな女の子」に見えたのでしょう。
私自身、自分の身にはなぜ次から次へと試練が課されるのかと
考えたことがあります。
でも、自分が「かわいそう」とは思ったことがありませんでした。
「私って、かわいそうなんだ」
他人に言われて初めて、自分の憐(あわ)れさに気がつきました。
亡くなった養母の骨壺が急に重たく感じられ、
私は道端で嗚咽(おえつ)しながら泣きました。
でも、ひとしきり泣いたあと、私は思いました。
私の人生はたしかにふつうではないかもしれない。
5人の親に育てられ、貧しい暮らしを強いられ、
自分がほんとうに学びたいと思っていることも学ぶことができない私。
同世代の子たちといっしょに遊んでいる間もなく、
働いて一家を支えていかなければいけない私。
けれど、それが私に与えられた人生。
私はもう「ふつうに見える人生」とくらべるのはやめよう。
「ふつうに見える人生」にあこがれるのもやめよう。
私は、私の人生を引き受けよう。
そう決心したのです。
人生にはつらいこと、苦しいことがこれでもか、これでもかと
押し寄せてくることがあります。
そこから逃げ出したくなることもありますし、
怒りがおさまらないようなこともあります。
でも、どんなにつらい経験も、そののちの人生の教訓として
生かせないものはありません。
つらいこと、苦しいことに直面したときは、
「絶対受け身」であることが大切です。
この、つらくて苦しい時期は、「学びの時間」。
自分が何かを学ぶために与えられた試練なのだと思うことです。
私の人生の前半にはずいぶん、つらいことが集中していました。
でも、若いうちにこの、たくさんの「学びの時間」が与えられた
からこそ、いま人生の後半を日々感謝しながら、生きていくこと
ができるのだと思っています。
人の人生はさまざまです。
若い頃はとても順風満帆な人生だったのに、突然の事故や病気で
寝たきりになったり、ふつうの生活に戻れなくなってしまったり
という方もいらしゃるかもしれません。
でも、あきらめたりしないでください。
いつまでも春にならない、終わらない冬はありません。
明けない夜は、ないのです。
つらくても、苦しくても、いまが「学びの時間」。
こんな人生のはずではなかったと投げやりになってしまうと、
いまという大切な時間がただただ悲しいものになってしまいます。
人生を投げ出すのか、引き受けるのか。
文句を言って生きるのか、体験から学んで生きるのか。
それを決めるのは自分です。
自分しかいないのです。
<『これはしない、あれはする』サンマーク出版>
・・・
小林照子氏は本書の前書きの中でこう語る。
『笑顔でいることが多いせいか、「いつも機嫌がよさそうですね」
とよく言われます。
とはいえ現実には、腹を立てていることもあれば、
82歳という年齢なりに体がつらいこともあります。
でも、不機嫌そうな顔をしていると、自分のまわりから人は遠のき、
その結果、自分が損をするということを、私は長い人生経験の中で
すでに学んできました。
ゆえに、いつのまにやら私には、気持ちのスイッチを切り替えて、
毎日を機嫌よく生きる方法が身についているみたいです。
そして、年齢を重ねるにつれ、「しないほうがいいこと」と
「したほうがいいこと」の区別がようやくつくようになりました。
ここに書き出した「しないこと」は、
じつは私自身、全部やってしまったことです。
私は若い頃、嘘をついたこともありますし、嫉妬もしましたし、
人の悪口だって言ったことがあります。
でも、全部やってみて自分がみじめに思えて、
いまではやらなくなったことばかりです。
ならば、そういうことは最初からやらないほうがいい。
たとえ、いまやっていたとしても、明日からはやめたほうがいい。
「しないほうがいいこと」はしない。
そう決めて生きていくだけで、心がすり減るような思いは
しだいにしなくなっていきます。
「すること」では、人生を楽しく生きるためにプラスになったこと、
したほうがいいことを書き出してみました』
「絶対受け身」とは「絶対肯定」のことだ。
舩井幸雄氏はそれを、「一見、不運に思えることもすべては必然、
必要であり、振り返ればベストのタイミングで起こっているもの
です。幸運も不運もすべてを受け入れられるようになると、
ツキを呼び込むことができるようです」と言っている。
どんなにつらいことが起ころうと…
それが私に与えられた人生と思い定め、人生を前向きに、
そして機嫌よく生きていきたい。
<感謝合掌 平成30年12月12日 頓首再拝>
困難の功績を知る - 伝統
2018/12/17 (Mon) 04:21:53
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月17日)より
恐怖というものは誤解の上に築かれている。
およそ恐怖すべてものは実相には無いのである。
人は困難を恐怖するが、困難がどれだけわれらを高め上げてくれるものであるか、
その困難の功績を知らない者が多いのである。
もし、困難の功績というものを、われらが知ることができるならば、
われわれは困難を苦痛と感じなくなるであろうし、
困難に対して恐怖を感じなくなるであろう。
困難と苦痛とは異(ちが)うのである。
困難を苦痛と感ずるのはただ誤解に因(もとづ)いている。
困難は時として立派な遺産を置いて行ってくれるものなのである。
<感謝合掌 平成30年12月17日 頓首再拝>
困難の意義を知る - 伝統
2018/12/18 (Tue) 04:14:32
*「生命の實相」幸福篇下巻(12月18日)より
およそいっさいのものには存在の意義がある。
その人にとって不必要なものは存在しないのである。
いわんや困難に意義がないなどというはずはない。
与えられたものをその存在の意義をそのままに受け取ろうとしないとき、
そこに苦痛は起こり、悲哀が感じられるのである。
わたしはある日、鳩が板の上に卵を生んで抱卵に困っているありさまを見て、
その卵を巣皿の中に入れてやったら、慣れない鳩はその巣皿を怪しいものと思い、
「不幸」が見舞ったと思い、その卵の抱卵の期を失ってしまったことがある。
板の上に卵を生んだ鳩にとっては、そこへ巣皿が現れたということは、
かえって救いの手であったのだが、彼はそれを誤解し、恐怖し、
与えられたものを素直に受けようとせず、苦痛を感じ、呪詛を感じ、
そして自己と自己の子孫の運命を腐敗せしめてしまったのであった。
困難を恐れる人間も、この鳩のごときものである。
すべて恐怖は誤解の上に成り立つのである。
静かに受けて、与えられた意義を見出せば、その人にとってそれは
あるいは運命向上の、あるいは人格向上の、あるいはいっそう健康となるための
素材であるはずのものがどんなにか多いことであろう。
<感謝合掌 平成30年12月18日 頓首再拝>
【ゴスペルシンガー・レーナ・マリアの場合】 - 伝統
2018/12/31 (Mon) 04:35:48
<『致知』2013年12月号・特集「活路を見出す」より >
「できないことばかりに目を向けていたら、
人生はとてもつまらないものになってしまう」
< レーナ・マリア(ゴスペルシンガー) >
――これまでの人生で心無いことを言われて
心が折れてしまったり、
絶望してしまうようなことはなかったのですか。
ハンディキャップのことで?
それはないですね。
もっとも、それは自分の態度によるところが大きいと思います。
中学生時代、同級生に
「おい、一本足、元気そうじゃないか」と言われた時、
「ありがとう、二本足、あなたも元気そうね」
と答えたことがありますが(笑)、
例えば自己憐憫にあったり、人を羨んだり、
自分に自信がなかったりすると、
誰かの一言に傷ついて人生は辛くなるのではないでしょうか。
ただ、私も一人の人間として
乗り越えられないと思うような
悲しみ、困難に遭遇したことはあります。
若い頃は生きていくことは
簡単だと思っていましたが、
どうやらそうではないようですね。
人間はみんな弱い存在です。
辛い出来事があれば自分を小さく、弱く感じたり、
足りなく感じることって誰にでもあると思います。
その時、家族や友人、そして神様など
周りから愛されていると感じることで、
私は強くなることができます。
人間は自分一人で強くなることはできません。
もしも私が強い人間だと思う人がいるなら、
それは私の周囲の人の愛が私を幸せにしてくれているからです。
(中略)
考えてみてください。
もしも私が
自分のできないことばかりに目を向けていたら、
私の人生はとても つまらないものになっていると思います。
いま自分が人のためにできることに目を向ける。
それは小さなことでもいいのです。
そうやってお互いに励まし合ったり、配慮し合うことで、
最上の幸福や勇気を得ることができます。
・・・
<参考:日本での公演Web>
レーナマリアさんの魅力(両腕なきスウェーデンの国民歌手)
https://readyfor.jp/projects/LENAMARIA/announcements/75076
LENA MARIA JAPAN TOUR 2018 「神様がくれた宝物」
https://www.youtube.com/watch?v=ZlXua3I1M8I
レーナマリア♪アメイジンググレイス&一羽の雀に&毛馬夕焼け
https://www.youtube.com/watch?v=S-M-IUdySrA
<感謝合掌 平成30年12月31日 頓首再拝>
《危急の時に自己の全力を発揮させる》 - 伝統
2019/01/15 (Tue) 03:56:03
*『 生長の家 』(昭和24年7月7日)の法語より
危急存亡の時に到(いた)れば
吾々の生命の中にある無限の能力が揮(ふる)いおこされる。
周囲一面が火の海に包まれて坐(すわ)っておれば
焼け死ぬより外に道がないと思われるような瞬間に
中風の老人が、全身の不随を回復して逃げ出したという様な事実も
あるのである。
ダンテは 二十年間追放生活の中に営々として著述に従事し、
死刑の宣告の下に於いても著述したのである。
「 ロビンソー・クルソー漂流記 」 の作者も
入獄中にそれを執筆したのだといわれている。
一度 意を決したる人には 如何なる困難も
その人の自由を奪うことはできないのである。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9525d56a7bf2ea70daa447fc89c9b418
<感謝合掌 平成31年1月15日 頓首再拝>
《困難、困難に非ず》 - 伝統
2019/01/22 (Tue) 04:31:42
*「光明法語」(1月22日)より
あらゆる見せかけの困難はすでに困難ではないのである。
吾は何事は起って来ようとも神之(これ)を解決し給うことを信ずるのである。
如何なる出来事もこの信念を打ちこわすことは出来ないのである。
吾は目の前に起って来る如何なる困難をも呪(のろ)いはしないのである。
すべての困難は吾が魂を鍛え上げる鍵である。
吾が魂を磨く《やすり》である。
吾が魂が鍛えられ、磨かれ、光輝燦然と輝く様になった時、
もはやそのようなあらあらしい砥石は自分の魂に不必要になって来るのである。
従ってそのような困難は消えてしまう。
<感謝合掌 平成31年1月22日 頓首再拝>
人と真剣に向き合う(大平光代) - 伝統
2019/02/03 (Sun) 04:13:04
*ブログ「心の糧・感謝の心で」(2018-12-1)より
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
やっと、
私と真剣に向き合ってくれる人と
会えた……
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大平光代
弁護士
人間は、自分に真剣に向き合い応援してくれる人がいれば強くなれます。
ベストセラー『だから、あなたも生きぬいて』の著者で、
弁護士として活躍中の大平光代さんは、中学二年生のときにイジメを苦にして、
割腹自殺を図った経験があります。
しかし、そのご著書によれば、それが知れると学校でのイジメは度を増し、
親からも理解されず、次第に非行グループと付き合うようになったということです。
夜遊びに出かけるために親から暴力で金をせびり取り、家をあける日も続きました。
そして、ついには十六歳の時に暴力団の妻になり、
背中にいれずみを入れるほど堕落していきます。
転機が訪れたのは、ホステスとなった二十二歳のときです。
幼いころの彼女を知る、
父親の親友、大平浩三郎さんとの思いがけない再会からでした。
その後、大平さんは度々光代さんに会いに来ては、
立ち直るように説得を続けます。
しかし、光代さんはその説得をいつもうわの空で聞き流すだけです。
光代さんの心が一変したのは、
いつも穏やかな大平さんが声を張上げて叫んだときでした。
「確かに、あんたが道を踏み外したのは、あんただけのせいやないと思う。
親も周囲も悪かったやろう。でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、
あんたのせいやで、甘えるな!」
このとき、彼女は「落雷にあったように体じゅうに電気が走った」と言います。
〈やっと、私と真剣に向き合ってくれる人と会えた……〉
うれしくて体が震え、その場で泣き崩れました。
それを機に、立ち直る決心をした光代さんは、
大平さんの事務所に勤め、宅建の資格をとるために勉強しはじめます。
彼女は小学校の時は、ふつうの成績でした。
中学校にはろくに通っていません。
一から勉強し直すことばかりで、何度も挫折しそうになりましたが、
懸命にやりました。
なんと、その年、みごと宅建試験に合格しました。
大平さんと会う前の彼女には考えられないことです。
これが大きな自信になりました。
その後、司法書士試験にも合格。
そして、さらに猛勉強の末、二十九歳ときは、司法試験に一発合格をします。
現在、彼女は非行少年の更正に努める弁護士として、
東奔西走する毎日を送っています。
かつての自分のように困難のさなかにいてどん底の状態にいる子どもに、
真剣に向き合い、手を差し伸べ熱いエールを送り続けています。
( https://lucky.t-nakai.work/2018/12/01/story-7/ )
<感謝合掌 平成31年2月3日 頓首再拝>
困難が困難でなくなる - 伝統
2019/02/10 (Sun) 03:31:17
*「光明道中記」(2月10日 困難を超えて向上する日)より
【困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行する。
(『生命の實相』十一巻)】
魂の向上とは、困難がなくなることではない。
困難が困難でなくなることである。
甲は1ポンドの鉄亜鈴(てつあれい)を振舞(ふりま)わすことを快感であると言い、
乙は2ポンドの鉄亜鈴がちょう度快感であると言う。
かくの如くして吾々の力が向上するに従い、困難が困難でなくなるのである。
吾々の筋肉は毎日使うことによって発達し、吾々の頭脳も毎日使うことによって発達する。
最初は一桁の加算(よせざん)が難しかった小学生が、
ついには高等数学の問題を何の苦しみもなく解くことが出来るようになるのは、
その人の進歩であり、困難を征服した賜(たまもの)である。
お蔭と云うのは、数学上の問題が無くなることではなく、
どんな数学の問題でも自由に解決し得るように力を得ることであると同じように、
吾々がお蔭を得たと云うのは人生に問題が無くなる事ではなく、
どんな人生の問題でも重荷でなく解決し得るようになる事である。
最後のドタン場になって「救けてくれ」と言うのは、
平生(へいぜい)勉強しないでいてお情(なさけ)及第させてくれと言うに当る。
お情及第させられた者は、その時は有難いと思っても実力がないから次の時に失敗する。
<感謝合掌 平成31年2月10日 頓首再拝>
朝の来ない夜はない(吉川英治) - 伝統
2019/02/26 (Tue) 03:57:40
*ブログ「心の糧・感謝の心で」( 2018-11-29)より
朝の来ない夜はない
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吉川英治
(1892~1962)
作家
『宮本武蔵』『新平家物語』などの国民的文学作品で有名な作家、
吉川英治は、少年時代からの苦労人でした。
お父さんが事業で失敗し、病気で倒れ、小学校を中退すると、
大勢の弟や妹のためにも丁稚奉公に出されました。
彼のわずかな給金とお母さんの針仕事の賃金が一家の支えだったのです。
英治は青少年時代、職を転々として苦労に苦労を重ねました。
それは、人生の夜をさまようような日々だったのかもしれません。
吉川英治の担当編集者だった扇谷正造氏は、その思いを聞き書きしています。
「扇谷君、僕は同時代の日本人がなめたあるゆる経験を一身で行ってきた。
ある意味において、自分の青少年時代ほど、惨たんたる、
苦悩にみちたものはなかったと思う。
自分は、強盗、強姦、殺人を除き、
同時代の日本人が行なったさまざまなことの一切を経験してきた。
何回か絶望に打ちひしがれ、何回かは、いっそ、遊侠の群れに身を投じて、
この人生を太く短くと思ったか知れない。
そのたびに(英治、それでいいのかい。それでお前気がすむのかい)といって、
私の袖をひき、正道にもどしてくれたのは、私のバンドにまいた赤い腰ヒモであった。
色のさめた母のシゴキが、自分の杖となって、
自分は今日まで、あまり、間違いもせず、世の中をわたってこれたのだ」
(扇谷正造著『君よ 朝の来ない夜はない』)
その赤い腰ヒモとは、十八か十九の時、印刷工場の住み込み職人として
働いていたとき、届いた新聞紙の小包に十文字に結えてあったものです。
当時、英治は朝早くから夜遅くまで、毎日こまねずみのように働いていました。
そういう暮らしのなかで、郷里の母親から新聞紙の小包が届いたのです。
新聞紙の中からは、英治が好きな本が何冊かと刻みタバコが出てきました。
この本を買うために、母は幾晩徹夜して縫い物をしたのだろう。
そう考えると、英治の目から大粒の涙が流れ落ちたといいます。
その小包に結わえてあった母の赤い腰ヒモを、
次の日から英治は自分の腰にしめて働きました。
兄弟子たちは、「おい、それはどこの女郎にもらったんだい」とからかいますが、
英治は無言で働き続けました。
色あせてはいるが愛に満ちたその腰ヒモは、
その後の吉川英治の辛く苦しい青年時代を支え続けることになります。
その後、彼は作家となり、人から色紙に文字を請われると書いたものです。
「朝の来ない夜はない」
この言葉には、吉川英治が辛い青年時代から学びとった思いが凝縮されているのです。
(https://lucky.t-nakai.work/2018/11/29/story-6/)
<感謝合掌 平成31年2月26日 頓首再拝>
《 途中の困難に挫折せぬこと 》 - 伝統
2019/03/03 (Sun) 04:54:38
*『人生の秘訣365章』第1篇(P29~30) より
懸命にその希望する所を実現するために努力しているとき、
その実現の途中に於いて、自分の希望しない状態が起って来ても、
それについて悲観してはならないのである。
もしそのような状態が起って来たときには、
「この状態が将来の希望達成に必要な踏石になるのである」
と強く信ぜよ。
「この状態を通して善いことが来る、必ず善いことが来る」と念ぜよ。
若しこのような信念をもつことが出来ず
「事態は益々悪化しつつある」と信ずるならば、
その信ずる通りに、悪化の一路を辿るかも知れないのである。
なにしろ此の現象は唯心所現の世界であるから信ずる通りになるのである。
信じて途中の困難に挫折せず、希望の実現に邁進するものは
ついにその目的地に達することができるのである。
<感謝合掌 平成31年3月3日 頓首再拝>
”人生ってゲームだよ” - 伝統
2019/03/19 (Tue) 04:36:51
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年02月13日)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
オレは間違ったことを言うこともあるし、
人間は完璧ではないから上手くいかないこともある。
だけど、仕事をしていると、
ゆるされることがいっぱいあるんだよ。
オレが仕事もしないで、
「女性が好きだ」と言っているとまずいんだよ(笑)。
人間って、億万長者でも世界一の大金持ちでも
仕事をしているんだよな。
ということは、仕事って楽しいんだよ。
「仕事が嫌い」と言って仕事を敵に回す人って、
一日、8時間から9時間、イヤなことをして生きていかなきゃ
ならないんだよな。
つまり、起きているうちの半分くらいは、
イヤな思いをしているんだよ。
そうすると、飲みに行ってても、
イヤな気分になっちゃうんだよな。
それが、仕事を友達にすると、すごいかわいがっていた猫が
死んで落ち込んでいても、仕事をしていたら、その悲しみが
紛れるんだよ。
だから、仕事って、本当にありがたいものなんだよ。
「部長がああで、こうで…」とかいって、
イヤなヤツなんていくらでも出てくる。
それをクリアするのが“ゲーム”なんだよ。
サッカーでもなんでもそうだけど、こちらがボールをゴールに
入れようとすると、邪魔をする人がいるからおもしろいんだよ。
「好きなだけボールを入れていい」と言われたって、
盛り上がらないよな(笑)。
それより、いろんな難問が出てきて、それをどうやってクリアしようか、
ああしようこうしようって試行錯誤する、それがゲームなんだよ。
人生ってゲームだよ。
何かしら全員に問題があるんだよ。
あなたにだけあるんじゃない。
そこをクリアしたら上に行くように、みんなそうなってるの。
「一人さんにはイヤなことないでしょ」って、
よく言われるけど、そんなワケないよ(笑)。
山ほどあるの。
だけど、全部それをクリアして、笑って生きているの。
なんでもそう。
だから、ツラい、苦しいは誰でも同じ。
その中で、どうやって笑って生きるかというだけの問題。
人より余分なことをすれば、
余分に負担がかかるのは当たり前なんだよ。
社長業というのは普通の人より尊敬され、お給料も多いの。
だから、大変なのは当たり前なの。
「社長業は大変なんだ」って、
当たり前のことを言っちゃダメなの。
みっともないから言わない。
笑って乗り越えればいいの。
神さまは、オレに問題をくれるの。
あなたにはあなたの問題をくれるの。
自分に起きた問題は特殊だと思いがちだけど、
特殊な問題なんてないの。
あなたに起きた問題は大勢に起きている。
もし、あなたが1万人に1人の病気にかかったとするよな。
特別な病気だと思うだろ?
ところが、日本には1億2000万人いる。
ということは、1万2000人同じ病気の人がいるんだよ。
別に特殊なわけじゃない。
で、必ず、それを乗り越えた人がいるんだよ。
だから、神は乗り越えられない問題は出さない。
要するに抜け道のない問題はないんだよ。
だから、インターネットなんかでそういう病気が治った人のこと
を調べてみると、ヨガをやったら治ったとか、断食したら治ったとか、
絶対に治療法がある。
<『斎藤一人大富豪が教える大金持ちになる話し方』PHP研究所>
・・・
麻雀やパチンコが好きな人なら、
それが何時間続こうと全然疲れないし、楽しくて仕方がない。
しかし、それが仕事となると、途端に変わってしまう。
仕事はゲームでないからだ。
しかし、仕事が好きな人は、
仕事をゲームのように考えて行動している。
スティーヴ・チャンドラー氏の『自分を変える89の方法』
(ディスカヴァー)の中にこんな話があった。
『私は以前、フェニックスのある優秀な若手セールスパーソンの
トレーニングをしたことがある。
彼はチーム平均の3倍の成績を収めていた。
彼に言わせると、同僚たちの仕事の仕方が信じられないそうだ。
彼らは断られると必要以上に落ち込み、簡単にあきらめ、
契約を取り付けるのにいつも苦労している。
「私はそんなに深刻に考えていないんです」と、彼は笑顔で言った。
新しい顧客を開拓するセールスはチェスみたいなものです。
顧客が手ごわいほど、売るのが楽しくなる。
断られて自分が否定されたとも思わないし、落ち込む必要もない。
あなたのしなければならないことがなんであれ、
それをゲームに変えてみよう。
仕事での大プロジェクトでも、家の大掃除でも、
ゲームにしてしまえばエネルギーは高くなる』
「人生ってゲームだよ」
仕事や人生をゲームにできる人でありたい。
<感謝合掌 平成31年3月19日 頓首再拝>
わたしは道であり、花びらであり、太陽であり、宝庫である - 伝統
2019/03/24 (Sun) 04:26:41
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より
わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。
わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。
わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。
わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。
この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。
<感謝合掌 平成31年3月24日 頓首再拝>
《問題の緒(いとぐち)を見出すこと 》 - 伝統
2019/04/13 (Sat) 04:37:45
*『人生の秘訣365章』第1篇(P39~40) より
難しい問題が起って来て、それを如何に処置すべきかに杜惑う(とまどう)
ときが来たならば、神想観を実修して、瞑想のうちに神を呼び、
神にその問題をあずけて神をして解決せしめるがよいのである。
神は無限の智慧であるから神によって解決できない問題はないのである。
事件の進行中に最も適当な時を選んで、神はあなた自身の霊感に、
又は人々の言葉の中に、又は事件の進行それ自身のなかに
問題解決の道を示し給うのである。
困難というものは絲(いと)の《もつれ》みたいなものである。
緒(いとぐち)を見出しさえすればスラスラと解けて来るのである。
<感謝合掌 平成31年4月13日 頓首再拝>
強い心が幸運をもたらす(古賀稔彦選手の金メダル秘話) - 伝統
2019/04/28 (Sun) 04:43:14
*Web:今日も良いことがあるように(2019/02/27)より
「心と技と体、どれが一番大切ですか?」
明治大学教授の齋藤孝先生が、
オリンピック金メダリストの吉田秀彦選手(現格闘家)に
インタビューしたときのことを本で読みました。
吉田選手は、すごい体をしていますし、柔道の技も毎日、一所懸命に磨いています。
でも、齋藤孝先生から「(試合に勝つために)心と技と体、どれが一番大切ですか?」
と聞かれて、吉田選手が一番大切だと答えたのは、「心」でした。
吉田選手には忘れられない思い出があります。
1992年のバルセローナ・オリンピックのときのこと。
先輩の古賀稔彦選手と相部屋になり、階級は違うのですが、
いっしょに練習をするようになったのです。
古賀稔彦選手は、「平成の三四郎」と呼ばれるほど、
芸術的な一本背負いをする柔道家です。
ところが、練習中に体の大きい吉田選手は、
先輩の古賀選手の膝を骨折させる大ケガを負わせてしまったのです。
オリンピック本番を10日後に控えて、
大ケガをした古賀選手はショックですが、
それに関わった吉田選手も大ショック。
これまでオリンピックで金メダルをとるために猛練習をしてきた選手が、
その大会前に大けがをしてしまったのです。
左足側副靭帯損傷という普通に歩くのに一ヶ月
、柔道をやるには一年かかると言われた大けがです。
その無念さはいかに・・・
しかし、古賀選手は吉田選手と二人きりになると、意外なことを言いました。
「秀彦、オレはこれで、なんか金メダルが取れる気がするよ」
古賀選手の言っていることは、無茶苦茶、道理にかなっていません。
でも、マジです。
彼は真顔でこう説明しました。
「いままでは、たぶん金メダルを取れるとは思っていたけれど、
どうも絶対的な自信がなかったんだ。だけど、これでなんか確信ができたよ」
吉田選手は、この人はなんてすごい人かと思ったそうです。
さらに古賀選手は言いました。
「秀彦、だから、お前もがんばれよ」
古賀選手には、信念があったのしょう。。
「こういうピンチのときにこそ、勝たなければならない。それが真の武道家だ。」
それが、大会前に膝にケガをするという絶体絶命のピンチにあい、
その武道家としての闘志が燃え上がったのです。
その結果はどうだったか・・・
まず吉田選手ですが、先輩の古賀選手にも勇気づけられ、見事、金メダルを取りました。
翌日は、いよいよ古賀選手の試合。
古賀選手は片足を引きずりながら、戦いました。
それでも、ひとり、またひとり倒していったのです。
決勝戦は、判定にもつれこみました。
が、古賀選手の勝ちを示す旗が上がった瞬間、
古賀選手は、両手を広げ、泣くような顔で雄叫びをあげたのです。
「ウオッーーーーー!」
この場面は日本中に感動を与えたものです。
吉田選手も、嬉しくて嬉しくて涙があふれ出ました。
このとき、古賀選手も初めて金メダルを獲得できたのです。
もしも古賀選手がケガをしたとき、
「オレはもうダメだ」と弱気になっていたら、負けていたかもしれません。
しかし、古賀選手は、そういうピンチのときだからこそ、
心を奮い立たせて闘いました。
その気迫が後輩の吉田選手を勇気づけ、
古賀選手自身の運命を切り開いていったのです。
ピンチのときに、誰にでもあります。
そういうときこそ、その人の真価が問われるのでしょう。
わたしたちも、どんな逆境にあっても、
心は強く前向きに、自分の運命を切り開いていければと思います。
ピンチのときこそ、前向きにチャレンジしよう。
その強い心が幸運をもたらします。(^.^)
出典:『齋藤孝のガツンと一発シリーズ第9巻』(PHP研究所)
<感謝合掌 平成31年4月28日 頓首再拝>
《問題は必ず解決する》 - 伝統
2019/05/13 (Mon) 03:43:55
*「光明法語」(5月13日)より
神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。
問題が起こっても恐れることはないのである。
問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。
問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。
吾々は恐れることはないのである。
人生は生きており、人生は新生面を展開する。
人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。
<感謝合掌 令和元年5月13日 頓首再拝>
苦境や困難は、幸運への道を学ぶ最高の学びの場 - 伝統
2019/05/30 (Thu) 04:23:41
*Web:今日も良いことがあるように(2019/04/02)より
『「運がよくなる」おはなし』という本を読みました。
これは、1900年代の初め著者によってされた講演録です。
「苦境や困難が私たちの最高の教科書であり学びの場である」
と説く、その伝説の講演録は、アメリカでベストセラーになったそうです。
1つのエピソード・・・
あるとき、講演のあとに車椅子の障害者の女性が著者に語りました。
「先生のお話はとてもよくわかりました。
わたしは生まれてからほとんど痛みを闘ってきました。
でも、わたしが知っていることは何もかも、この車椅子に座って学んだことなんです。
忍耐や思いやり、人を愛する気持ちや勇気をもって生きることを学びました」
まわりにいた人はみな、
この女性が心が優しく、誰よりも愛されているのだと言っていたそうです。
このような例は、私たち自身にもあてはまると思います。
病や体に不自由などがある人は、
他の人の病や不自由に理解を示し、
優しい心で接することができるようになれるものです。
いっそう愛情深い人になっていけるでしょう。
また、苦境や困難があるからこそ、私たちは成長できます。
壁にぶつかったときにこそ、自分の力を伸ばすことができます。
逆境から何かを学び、成功が訪れます。
要は、その受けとめ方です。
苦境や困難を不運だと思わずに、
むしろこれからよくなるためのチャンスだと考えるのです。
ベートベンは、後世に残る名曲を作る前に聴覚を失いました。
聴覚を失ったことで音楽をあきらめていれば、
歴史に名を残す偉大な音楽家にはなっていなかったでしょう。
聖パウロは、キリスト信者を迫害するさなかに、
馬から落馬し、地に倒れ、失明しなければなりませんでした。
それがきっかけとなり、真理に出会い、自分の使命を知り、偉大なる使徒となりました。
このように苦境や困難に負けず、自分を磨き、成長できる人は、いずれ成功します。
そういう人は、苦境や困難を恐れません。
むしろ苦境や困難を飛躍へのチャンスだと考え立ち向かっていきます。
「運がよくなる」人は、そういう心構えをもっているのです。
私たちも、自分の心構え次第で、嫌なこと、苦しいことがあっても、
何かを学び、幸せの種を見つけることができるでしょう。
その種を育てることができるでしょう。
そして、自分も人も幸福にできる力を成長させることができるようになるのです。
苦境や困難から学び、飛躍のチャンスにしょう。
「忍耐、思いやり、愛、勇気、友情」など、人生にとって大切なことが学べます。 (^.^)
( https://lucky.t-nakai.work/2019/04/02/thinking-36/ )
<感謝合掌 令和元年5月30日 頓首再拝>
試練も困難も、神から来たらず - 伝統
2019/06/03 (Mon) 03:40:50
*「光明道中記」(6月3日《困難消滅する日》)より
【心が「迷いの念」に引っかかって生命本来の自由性を失うと、症状が顕れる。
(『生命の實相』第一巻)】
人が神に近づくには試練の火が必要であり、
必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは嘘である。
実際上多くの人達は試練の火によって鍛えられ、
困難によって浄められて神に近づく。
私自身も嘗てはそうであったのである。
併し今私は試練の火が必要であったのでも、困難が必要であったのでもなかったと
「私の生活体験」を解釈する立場に立つのである。
試練の火は”神から”来たところの不可避の火ではなかったのである。
試練も無く困難もなかったのである。
自分の自覚が「実在」(神の造りたまえる《そのまま》)と調和しなかったのである。
みずから神から離れたるものと誤覚し、「実在」の秩序の中に調和しないでいる ――
その《みずからの状態》が「試練」であり、「困難」であったのである。
今よりのち試練を神からきたものと考えまい。
私が悪いのである。
すべては私の責任である。
試練を神に帰することは神を残忍者であると観、神を不完全であると観ることになる。
斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。
子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。
心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。
<感謝合掌 令和元年6月3日 頓首再拝>
眼の前の困難に平気で進んで行くことから力が得られる - 伝統
2019/06/11 (Tue) 03:17:59
*「光明道中記」(6月11日《困難を征服し宝石を得る日》)より
【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】
逃れようと思わぬこと。
あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、
それを捨てずに処理して行くとき、
どんな貧鉱(ひんこう)からでも尊き金属を採取し得るように、
どんな経験からでも尊き「価値」を採取し得るのである。
吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。
人間の幸福は五官の快楽と否(いな)とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多いのと同様である。
盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが生長の家の生活ではない。
盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。
盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。
と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。
不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから得られるのである。
<感謝合掌 令和元年6月11日 頓首再拝>
困難は困難にあらず、生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む - 伝統
2019/07/02 (Tue) 05:02:35
*「光明法語」(7月2日《生命荘厳の美》)より
世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。
困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。
山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。
困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。
<感謝合掌 令和元年7月2日 頓首再拝>
すべての経験は、「神」を掘り出す喜びの作業 - 伝統
2019/07/03 (Wed) 04:42:01
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月3日)より
われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を掘り出す作業である。
どんなにそれが失敗したように見えようとも、どんなにそれが深刻であり、
悲惨なように見えようとも、それが深刻であればあるほど、悲惨であればあるほど、
われらの神に通ずる坑道は深く穿たれていきつつあるのである。
深く深く下げていくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこには、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。
どんな経験も、苦しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばなければならない。
<感謝合掌 令和元年7月3日 頓首再拝>
【困ったことは神様からのプレゼント】 - 伝統
2019/07/22 (Mon) 03:21:37
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年06月13日)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
私はとても幸せなのですが、それは困っていないからだと思っています。
だから、明日のことを心配したことがありません。
もちろん心配ごとはありますが、あっても大丈夫なのです。
というのは、私はツイているからです。
ツイているから、困ったことにならない自信があるからなのです。
たとえば、街中を歩いているときに上からコンクリートが落ちてきて、
つま先に当たったときのことを考えてみましょう。
「なんて私はツイてないんだ」
と思ってはいけません。
「ツイてるなあ。頭に当たったら死んでるところだったよ」
こう考えるのが正解です。
この人には、これからどんどんツキがやってくるはずです。
私の知り合いが、あるとき、
とても高価な水晶の数珠(じゅず)をなくしたそうです。
そのときその人は、
「きっとあの数珠が私の厄(やく)をはらってくれたんでしょう。
私はツイてるんだ」と考えました。
しばらくすると、とんとん拍子に仕事が舞い込んできて大成功したそうです。
ツイてる人にはツイてることしか起こらないし、
ツイてない人には悪いことばかり続くものです。
会社や女房の文句ばかりいっていたサラリーマンが、
ある日突然女房に逃げられ、翌日会社が倒産した、
というのは実際にあった話です。
ツイてる人間になるためには、ツイてる人と付き合うようにしましょう。
ツイてる人には「ツキの波動」が出ているからです。
もし自分がツイていたら、お互いにツキの波動を出しあって、
ますますツキを大きくしましょう。
世間の人からは一見困ったことのように思えることも、
私自身はぜんぜん困っていないということが多いようです。
むしろ、私にとってその一見困ったことは、
見方によっては光り輝く宝物だったりします。
一見困ったことのようでも、
じつは、私をそれまでの10倍儲けさせてくれる、
神様からのプレゼントなのかもしれません。
事実、そういうことがいままで何度もありました。
困ったことのように思えても、それは飛躍への大きなチャンスなのです。
たとえば、自分の会社にとても優秀な社員がいて、
会社にとって欠かせない存在だとします。
ところが、ある日突然会社を辞めるといいだしました。
普通の会社の社長なら、困ったと頭を抱えるところです。
ところが私は困らないのです。
なぜなら、いずれもっと優秀な人が会社に入ってくることがわかっているからです。
ものすごく優秀な人が会社を去っても、
かならずその人以上に優秀な人がやってくるものです。
「そんなことわからないだろう、なんでそんなことが断言できるんだ」
と思う人がいるかもしれません。
でも、絶対に大丈夫なのです。
これまでも優秀な人がやって来たのですから、
これから先もかならず優秀な人材に恵まれるはずなのです。
<『斎藤一人の絶対成功する千回の法則』講談社>
・・・
斎藤一人さんは「困ったこと」について、本書の中でこう語る。
『一見困ったことのようでいて、じつは困っていないできごとは、
神様からのプレゼントです。
そもそも人間には困ったことは起こらないのですが、
「困ったことは起こらない、困ったと思っていることも、
じつは困ったことではない」
ということに気づくことが神様からのプレゼントです。
このプレゼントをもらった人間は、例外なく魂のステージが上がります。
魂のステージを上げることが幸せへの道なので、これはとても大切です。
魂のステージは人によってちがいます。
つまり、私に起こる問題は他の人に起こる問題ではないのです。
だから、自分の問題は他人には起こりません。
みんながそれぞれちがった問題を抱えているのですから、
「どうして私だけがこんなに苦しまなければならないのか」
と考えることはありません。
神様はあなたを困らせようとはしません。
それなのに困ったと思っているとしたら、
神様があなたにこう伝えたがっているのでしょう。
「そのやり方はまちがっていますよ」
大切なことは、この神様の声に気がつくか気がつかないかです。
神様の声に気がついて、困ったことは起こらないことがわかったとき、
そのときこそ、あなたは魂のステージが一つ上がり、
幸せに一歩近づくことになるのです。』
困ったことや嫌なことが起きたときは、実は、運をためているとき。
それが大きければ大きいほど、大きな運をためている。
そしてそれを乗り越えたとき、ステージも一つ上がる。
病気にしても、困ったことにしても、
それは「神様からのメッセージ」と心から思えるなら、運はたまる。
「今までのやり方が間違っていた」、
と反省して自分の行動をなおすことができるからだ。
そして、何回も繰り返すような困ったことは(病気も)、
まだ、わからないのか」という神様からのメッセージ。
さらに、反省して素直に、自分の行動を変えなければならない。
困ったことが起きたとき…
これは「神様からのメッセージ」だ、と思えるような人でありたい。
<感謝合掌 令和元年7月22日 頓首再拝>
『ぼくはできる』~人生がすっぱいレモンをくれたとしても - 伝統
2019/08/09 (Fri) 04:40:09
*Web:今日も良いことがあるように(2019/04/03)
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『ぼくはできる』~
人生がすっぱいレモンをくれたとしても
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「もしも人生がすっぱいレモンをくれたとしても、それでも受け入れ、感謝しよう」
この言葉は、『ぼくはできる』という本の第1章のメッセージです。
この本を書いた「ぼく」とは、生まれつき目が見えず、
手足が不自由な大学生の音楽家(ピアニスト、歌手、トランペッター)です。
名前は、パトリック・ヘンリー・ヒューズ。
彼は、生まれながらに眼球がなく、
腕はまっすぐにならず、足は決して歩くことができません。
しかし、彼は、愛情深い両親のもと、
持ち前の楽天的な心とユーモアをもって、
さまざまな困難に前向きに立ち向かい、乗りこえていきました。
そして、音楽の優れた才能と情熱で全米を驚かせる活躍をし、
皆に勇気と感動をあたえた功績によって、
2006年にディズニー・ワールド・スポーツ・スピリット賞を受賞したのです。
彼の言葉は、この本の章のタイトルを見てもわかるとおり、実に前向きです。
第2章「君ができることを変えるためになんでもやってみよう」
第3章「情熱を注ぎ続けよう。それこそが人生を決めるのだから」
第4章「君のお母さんが誇りに思うような君でいよう」
第5章「いちばん素晴らしいヒーローはきっと君のそばに」
第6章「まず、行き先を決めよう。そうして、そこへ行く地図は焼いてしまおう」
第7章「惜しみなく与えた愛は何倍にもなって戻ってくる」
第8章「毎日、夏休みの最後の日のように生きよう」
これが、体が不自由で目が見えない人の言葉かと思えるほど、
前向きで、喜びや生きる力にあふれているのです。
彼は言います。
「ぼくたちはみな、誰もが、分かち与えるべき素晴らしい贈り物を持っています。
もしかしたら、あなたのそれは、とても他人と違っていて、
あなた自身でさえ気づいていないかもしれません。
ぼくは、神様はぼくに目が見えないという能力をくれたのだと信じています。
だから、ぼくは、出会った人の心の中がよく見えるのだと思っています」
目が見えないという普通ならマイナスのことが、
彼は自分の能力として与えられたのだと信じているのが驚きです。
彼は言います。
「神様はまた、ぼくに音楽への情熱を与えてくれたのだとも信じています。
どんなことが可能かをみんなに示すために」
彼は、確かに音楽の才能と情熱を与えられました。
たとえ自分に何か欠けることがあっても、
人に何かを与え、自分にも人にも感動と喜びを生み出すことはできる。
彼は自らの生き方でそれを示しているんですね。
素晴らしい人だと思います。
私たちも、彼が言うように、素晴らしいものをもらっていると思います。
人と比べられない、価値あるもの。
何よりも大切なもの。
一番素晴らしい贈り物は、あなた自身ではないかと私は思います。
自分を受け入れ、感謝しよう。
それは幸せになれる道です。 (^.^)
★「あなたが持っているあなたのだけの贈り物を分かち合う時、
あなたは、あなたの限りない可能性の道を見出すでしょう。」P.267
【出典】『ぼくはできる』(PHP研究所)
パトリック・ヘンリー・ヒューズ著
パトリック・ジョン・ヒューズ著
(https://lucky.t-nakai.work/2019/04/03/book-14/ )
<感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>