伝統板・第二 2472943

本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。


ひかりの一日一言32~治癒する力はどこからくるか

1:伝統 :

2017/11/01 (Wed) 04:46:24

ひかりの一日一言《1日》

《1日 光と光源とは一体なり》

神と分離の感情や想念をもってはならないのである。

「天にまします我らの父」 と云うような祈りの言葉は、
自分は地上におり、神は天上にましますと云うような離れた感じを与えるものであるから、
あまりに感心した祈りの言葉ではないのである。

「わが魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」 と云うような、
もっと自己と一体感の深い言葉をもって祈るべきである。


言葉と云うものは想念を動かす。
無意識に使っている言葉でも、それを始終つかっていると、
その言葉の意味する通りに自分の想念感情が動かされてしまうことになるのである。

『甘露の法雨』には

「光と光源とは一体なるが如く、人間と神とは一体なり」

と示されている。

すなわち神と人間とは緊密に一体なのであって、
《天から》降りて来て地上の人間を救うような長距離の隔たりはないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P278)より

           <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2017/11/02 (Thu) 03:59:01


《2日 神御自身の自己完成》

人間は神の最高の自己実現であり、神の愛し児であり、
神の全内容を完全に具象化したものなのである。

若し人間が地上に生れなかったならば、
神はその創造のみ業(わざ)を、ただ大自然力にまかせるだけで、
それを完成することができなかったに相違ないのである。

だから人間が地上に出現したと云うことは、
神の希望の実現であり、目的の達成であり、神御自身の自己完成であるのである。
だからあなたは神にとってまことに尊き存在なのである。


若し人間が地上に生れなかったならば、
神は自己完成を遂げることが出来なかったのである。
神は人間を通してのみその理想を地上に投影することができるのである。

だからあなたが若し、心を澄まして、神の“声なき声”を聴くべくつとめるならば
神は、あなたが如何に行動するが最もよく、
神の理想を地上に実現し得るかを示し給うにちがいないのである。

そしてその啓示に素直に従うとき、あなたに祥福は実現するのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P279)より

           <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>
3:伝統 :

2017/11/03 (Fri) 03:23:00


《3日 神と偕に生活する》

心を澄まして神の声をきくには、神想観を為すがよいのである。

「衆生、仏を億念すれば、仏、衆生を億念したまう」と仏典にある通り、
私たちが神を億念すれば、神の億念(衆生に対する愛念と叡智の導き)を
感受することができるのである。

神は私たちが神を億念しない時にも億念していられるのであるけれども、
私たちの心が神に振り向かない時には、神の億念を私たちは感受することができないから、
神が憶念し給わないのと同じような事なのである。


何事を為すにも、神にそれを訊いてからその通り実行するならば、
自力的努力に無駄な時間とエネルギーとを浪費することなく、
物事が順調に運んで行くようになるのである。

自力的に刻苦する時間を神と交通し、神を讃美し、神に感謝し、
神との一体感を深めるために費やすならば、あなたの生活は、もっと明るいもの、
豊かなるもの、順調に過ぎ行くものとなるに相違ないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P279~280)より

           <感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>
4:伝統 :

2017/11/04 (Sat) 03:29:27


《4日 神の声をきく》

今、あなたがどんな困難と見える問題に直面していられようとも、
それについてあなたは心を悩ます必要はないのである。
心を悩ますかわりに神の方へ振り向けばよいのである。

「神の方へ振り向く」と言っても、外方(だいほう)へ振り向くのではなく
「自分の宿る神」に振り向くのである。

肉体は生命(せいめい)がその波動でつくった“神の宮”である。
神が其処で、自己実現し給う“場”であるのである。
神想観に於て内在の神を呼び出し、それに対して話しかけるがよいのである。


神の声をきくには日常生活が浄くして神が其処に鎮まりますに
相応(ふさ)わしくなければならないのである。
だから能(あた)う限り「これは清浄なり」と自己がみとめ得る生活を送るがよい。

投げやりに肉体生活を汚(けが)して置いて、さて“困ったときの神頼み”では
神の心に波長が合いそうにないのである。

常に神と一体の自覚を持つために生活を清浄にすると共に常に神想観を怠らず、
神に波長が合うよう努むべきである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P280~281)より

           <感謝合掌 平成29年11月4日 頓首再拝>
5:伝統 :

2017/11/05 (Sun) 03:33:37


《5日 心を神に振り向ける》

若し病があるならば、常に神に心を振り向けよ。
神は常にあなたの全身に新しき活力を流れ入らしめ給いつつあるのである。

その事を憶(おも)い出して念ぜよ。
憶い出して念ずることは、それに対して波長を合わせることになるのである。

人間を物質として取り扱う健康の法則は、時として「知恵の樹の果」を食して
“エデンの楽園”を追い出されたアダムのように、健康の世界から人間を追い出す
ことになるのである。

不消化な食物を食べたから胃が痛むとか、不眠が続くから頭痛がするとか言う人がある
けれども、物質としての胃も、頭脳も、それが単なる物質である限りに於て、
物質は家具什器と同じようなものであるから、それが痛いと云う感覚を起こす筈は
ないのである。


「痛む」と云うのは心が痛むのである。
“心が痛む”限りに於て、不消化とか不眠とか云う肉体的物質的原因そのものが
「痛み」の原因ではなくて、不消化とか不眠とか云うものに引っかかっていて
恐怖する心が「痛む」のである。

だから寧ろ病気の原因と認められるようなものを心で認めない方が、
心が《それ》に引っかかって痛むことなく痛みが早く治るのである。

病気の物資的原因を探(たず)ねるひまがあったら、心を神に振り向けよ、
そして神から新しき活力が間断なく流れ入るつつあると云うことを心に念ぜよ。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P281~282)より

           <感謝合掌 平成29年11月5日 頓首再拝>
6:伝統 :

2017/11/06 (Mon) 04:09:02


《6日 心が肉体の主人公》

『人生は心で支配せよ』と云う私の本があるが、
“自分の肉体は自分の心で支配せよ”である。

何故なら、肉体は物質であり、物質はみずからの力にて
その位置や構造を変化することができず、その構造する細胞を健全な姿に置き並べ、
その病的構造を健全な構造に組みかえるのは“心”のハタラキであるからである。
 

その“心”が物質たる肉体に対する“支配者”たることを自覚せず、
その “支配者”たる権利を抛棄(ほうき)して、肉体の病気の物質的原因なるものの前に
萎縮して、「こう云う“物質的原因”があるから、このような病気になる」などと、

“物質的原因”を主人公とみとめて、其の前に拝跪(はいき)するようなことになったならば、
“心”の委縮と恐怖とが、その病的観念を肉体細胞に具象化して、ついに本当に病気を構成し、
また新たに病気を造ることになるのである。

併しこの場合も、結局は“心”が主人公であって、
その病的観念を肉体に反映したにすぎないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P282~283)より

           <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>
7:伝統 :

2017/11/07 (Tue) 03:39:10


《7日 「心」の自主権を恢復せよ》

“心”が自己の唯心所現的な全能力を忘れて
病気の物質的原因の前に恐怖し萎縮するときは、
“心”はその全能力を抛棄(ほうき)し、物質に対する支配権を抛棄して、
物質の権威の前に跪いたことになるのである。

本来“自主権”をもつ“心”が、その自主権と物質支配権とを抛棄した結果は、
“心”の本来性と矛盾し、“心”の本来性に対して不調和となる結果、
そこに其の反映として不調和な状態を肉体にあらわる結果となるのである。

よろしく、“心”の自主権と、物質に対する支配権とを恢復すべし。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P283)より

           <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2017/11/08 (Wed) 03:40:51

《8日 神の方に全回転せよ》

神が生命(せいめい)の本源者であるから、
生命(せいめい)に不調和があらわれたときには、
心を神に振り向けて本源者より健全なる生命(せいめい)の
充分なる供給を受けなければならないのである。

神に対して心を振り向けよ。
病気のときほど、病気の症状に“心”を振り向けず、
神に対して心を振り向けよ。

完全に“心”が神に振り向けば、
滔々(とうとう)として癒す力があなたに流れ入るであろう。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P283~284)より

           <感謝合掌 平成29年11月8日 頓首再拝>
9:伝統 :

2017/11/09 (Thu) 04:39:10


《9日 「愛憎の神」を超えよ》

神に振り向くと言っても、色々の神々があるのである。

個性をもち愛憎の念をもって活動する個別的神霊の方に振り向くならば、
個別的神霊の愛憎の念に吾々は支配され、
その前に跪(ひざまず)くことになるのである。

愛憎の念ある個別神霊の前に跪くならば、愛念を受けるときはご利益を生ずるし、
憎念を受けるときはその反対の結果を生ずる恐怖があるから、
その恐怖心が具象化して次なる不幸や病気を具体化することになるのである。


私たちは愛憎の神を超えて、
普遍の神、平等の愛の神に振り向かなければならない。

其の時はじめて恐怖心がなくなり、平和が心におとずれ、
その心の具象化として、祥福が実現するのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P284)より

           <感謝合掌 平成29年11月9日 頓首再拝>
10:伝統 :

2017/11/10 (Fri) 04:38:18

《10日 神は人間を健康に造った》

「創世記」には「神その造りたるすべてのものを見給(みたま)いけるに甚だ善かりき」と
書かれているし「神の像(かたち)の如く人を造り」とも録(しる)されているのである。

神がその完全なる自己の像に肖(に)せて人間を造った以上、
人間は完全で善であり健康であるほかはないのである。

そして神は、その創造せる一切のものを点検して
「甚だ善かりき」と言明していられるのである。

何人(なんぴと)の力をもってしても、如何なる力をもってしても、
《神が完全に造ったものを不完全に、不健康に変じ得ることはできないのである。》

従って人間が病気になった如く見えているのは
一種の妄想又は幻覚があらわれているに過ぎないのである。


私たちは、病気や症状の幻覚を見て、その病気を実在だと思ってはならない。

どこどこまでも神の善と愛と智慧と完全さと、その力とを信じ、その神よりつくられた
ところの存在が本当に完全なものであることを信じなければならない。

従って人間の完全さ健全さを信じなければならない。
それこそが真に神を信ずると言うものなのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P284~285)より

           <感謝合掌 平成29年11月10日 頓首再拝>
11:伝統 :

2017/11/11 (Sat) 03:10:27


《11日 神を信ずるか、現象を信ずるか》

私たちは、日常生活に於て、神の完全さの実在を信ずるか、
現象の相(すがた)の不完全さの実在を信ずるか、
二者択一の場に立たされているのである。

天秤の両側の秤皿の一方に「神」を置き、
他方に「現象」を置いて完全に平均せしめて置くとしよう。
「神」を信ずるか、「現象」を信ずるか、そのどちらかを信ずるかと云うことによって、
天秤は「物質」の方にも傾き、「神」の方にも傾くのである。

そして、それが「物質」の方に傾いたとき、人間は物質的法則の支配下に入り、
その人の健康度は、物質の影響を信ずる通りに制約せられる。

即ち寒冷の空気に触れれば風邪を引き、
病菌に触れれば病気にかかると云う風になるのである。


若し天秤の、もう一方の「神」の方に私たちの信仰が深まるならば、
その天秤は「神」の方に傾き、その人の健康は、物質の法則に支配される量が
次第に減じて、遂に外界の物質的条件を超えて、如何なる場合にも
完全に健康なる実相を現身にあらわすことができるようになるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P285~286)より

           <感謝合掌 平成29年11月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2017/11/12 (Sun) 03:38:56

《12日 「縦の真理」と「横の真理」》

病気が症状としてあらわれるときに病気は起ったのではないのである。

それよりズッと以前に、心の中に
その病気に就いての知識、症状、恐怖、不安などが培われ、
それが次第に生長して発芽するようになったのである。

発芽の直接契機となったように見えるものは、植物にたとえれば、
春雨が一夜(ひとや)降りつづいたことであり、雨あがりの翌朝見ると
水仙が土を割って芽を吹き蕾をもっていることを発見するようなものである。

“春雨が一夜降りつづく”と同じように、
其の人が、何らかの感情で一夜心を悩ますことがあるとすると、
その翌日、気がついてみると或る病気があらわれているのである。

しかしその病気が現れるまでには、
発芽直前になるまで培われた精神的な病的観念があり、
それが一夜の精神的な悩みで愈々現象化することになったのである。

結局、「病気」と云うものの本体は「人間は老い且つ病むべきもの」だ
と云う根本的な信念であり、その信念が深く底にあって、
色々の精神的又は感情的なショック又は悩みが誘因となって、
その「深く底にある病念」が表面にあらわれて来るのである。

そのために「人間は神の子のである」と云う真理を充分理会し、
「深く底にある」ところの「人間は老い且つ病むべきもの」と云う信念を取去るか、
或は誘因となる精神的感情的悩みを取り去るか、
どちらかをすれば一時は病気は消え去るのである。


「人間は神の子である」と云う実相を知るのは「縦の真理」を知ることである、
精神的感情的な悩みを解きほぐして行くには或は“想念の法則”を説き、
“精神分析”を行うなど相手に随って色々の方法を用いるのであるが、
これは「横の真理」の応用である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P286~287)より

           <感謝合掌 平成29年11月12日 頓首再拝>
13:伝統 :

2017/11/13 (Mon) 03:49:42


《13日 迷妄の自壊作用》

私たちが「人間神の子・本来無病」の“縦の真理”を知り、
「唯心所現」の“横の真理”によって心の悩みを解きほぐして行くに随って、

迷妄の根の浅いものである場合には、
速やかにに症状が消え去るのであるけれども、

それが迷妄の根が深いものである場合には、
一見その症状が悪化したように見えることがある。

そんな時に驚いてはならないのである。

それは迷妄(にせもの)の上に築き上げられたる高層建築のような重い慢性的な病気は、
その迷妄の基礎工事がくずれ去ると共に、大いなる音を立てて崩れ落ちる。

その崩れ落ちる大音響や、崩れ落ちた残骸の堆積は、
以前のそのままで病気の建物が建っていた時よりも、
混沌としたいやらしい光景を呈するのである。

これが迷妄(まよい)の自壊せる徴候である。    


自然の浄化作用によって、その崩れ落ちた自壊の残骸が運び去られるまでは、
尚しばらくその症状はつづくのであるけれども、

自壊作用そのものは、病気の精神的基礎が崩れた証拠であるから、
もうその時「病気は消えた」と宣言してもよいのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P288)より

           <感謝合掌 平成29年11月13日 頓首再拝>
14:伝統 :

2017/11/14 (Tue) 04:00:40


《14日 薬剤多くして病気繁し》

“健康法、健康法”と唱える者ほど病気に罹り易いのである。

栄養剤やビタミン剤などにとりまかれながら脚気になったり、
始終風邪を引いたりする人があるのも、
その人の信仰の天秤の“分銅”が「物質」の方に傾いていて、
人間の実相の完全さの方の “分銅”が小さ過ぎるからである。

「人間」と云う存在を物質的存在であると思う信念は、
薬剤を用うる度数が多いほど強くなるのである。

その結果、「物質と自覚せる人間」は
物質の「朽ち果つるべき法則」の前に屈従せざるを得なくなり、
薬剤愈々多くして病気愈々繁しと云うような状態となるのである。


「私は病気のことを考えないのに病気になった」と言って、
「心で思うことが肉体にあらわれる」と云う真理に
抗弁(こうべん)しようとする人もあるが、

病気というものを直接考えないでも、
「人間は物質的存在であり、朽ち果つべき無常の存在である」と
信じていることそのことが、朽ち果つべき肉体の病気となってあらわれるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P288~289)より

           <感謝合掌 平成29年11月14日 頓首再拝>
15:伝統 :

2017/11/15 (Wed) 04:39:50


《15日 薬剤は補助的工作》

治病のための、どんな物質的手段や処置法が発見されようとも、
知病の力は「生命(せいめい)」そのものにあるのであって、

薬剤や色々の処置方法は、
自然の治癒力を妨げないように補助的工作をするに過ぎないのである。

補助的工作も、坑道の落盤を防ぐために坑木をもって
支えることが必要なのと同じように、必要ではあるけれども、

補助的作用に頼りすぎることは、神(生命<せいめい>の本源)に頼る心を
それだけ減殺することになるから、一方で或る利益を得ながら、
一方で或る貴きものを失いつつあると言えるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P289~290)より

           <感謝合掌 平成29年11月15日 頓首再拝>
16:伝統 :

2017/11/16 (Thu) 03:31:19


《16日 「人間」は肉の集合体ではない》

「人間は物質で構成されている肉体だ」という見解が、
蛇の知恵に教えられて人間が食べたところの「知恵の樹の果実(み)」である。

“蛇の知恵”即ち唯物論は
「人間は物質で構成された部分品の集合体である」と教えるのである。

果たして然らば、人間の片腕を切れば、
その人間は「一人」たる資格を失ってしまうであろうか。
彼は「人間マイナス片腕」となってしまうであろうか。

そんな事は決して無いのである。
片腕又は片脚を失っても、大いに奮起して、両手両脚を有する人よりも
人間的な仕事を為し得る人もあるのである。

そうすれば、人間そのものは、肉体の部分品の増減によって、
増減するものでなないことが判るのである。


人間が単なる肉体であるならば、
肉屋の店先にぶらさげられている骨のついた牛肉と大差はないのである。
それは目方によって価値が秤(はか)られなければならないが、
実際はそんな事なないのである。

目方の少ない小さな人間でも、
目方の多い巨人のような人間よりも価値多きことがあるのである。
これによっても、「人間」は単なる物質でないことを知ることができるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P290~291)より

           <感謝合掌 平成29年11月16日 頓首再拝>
17:伝統 :

2017/11/17 (Fri) 04:06:56


《17日 「肉体」から「廻れ右」させる「喝」》

生長の家では「人間は肉体にあらず物質にあらず」と説く。
また、「物質は無い、肉体は無い、現象は無い」とも説く。

これらは悉く人間を物資として、又、肉体として把握している人々の心を、
一転して「人間は“神の子”であり“霊的実在”である」
と云う自覚に振り向けるための“一転語”であり “喝”であるのである。

ある西洋人は「 “病気は無い”と念じて病気が消えるのなら、
“肉体は無い”と念じたら肉体が消えてしまう筈ではないか。
それなのに肉体が消えないのは論理に矛盾があるのではないか」と質問したそうである。

元来、「肉体は無い」とか「病気は無い」とか言うのは、
肉体や病気を、どうにもならない固定物質として把(つか)んでいて、
心で把んでいるから、その心が肉体や病気に固着していて自由を失ってしまい、

本来の“霊的実在”たる人間の実相をさとることが出来ない状態の人の“心”を、
肉体や病気から振り向いて“廻れ右”させるための一転語なのである。

そしてその一転語が功を奏して其の人が“肉体”や “病気”から念を放してしまった
ときに、念によって「実相の完全さ」が表面にあらわれて健康が恢復するのである。

従って「肉体は無い」と云う念が徹底しても、肉体が消滅することにはならないで、
却って肉体に健康があらわれるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P291~292)より

           <感謝合掌 平成29年11月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2017/11/18 (Sat) 03:07:23


《18日 肉体も本来神の現成》

「肉体は無い」「物質は無い」と云うことは、換言すれば、
吾々は五官の感覚によって一切の存在を翻訳して、それを便宜上「物質」と見、
「肉体」と見ているけれども、それは日常生活の便宜上の翻訳であり、

物質と見えているものは《物質ではなく》「山川草木国土悉皆、仏の現成」だ
と云うことを意味する。

肉体と見えているものもそれを誤訳しなかったら、
それは《肉体ではなく》神の生命(せいめい)そのものの示現なる
霊的実在であると云うことを意味する。

こうして「物質と見えているもの」が実は物質ではなく、仏の現成であり、
「肉体と見えているもの」が実は肉体ではなく「霊体」であるとするならば、
さて、何処(どこ)にも物質はなく、肉体はなく、

それを物質と見、肉体と見るのは、迷妄であり、幻想であり、
誤訳であると言うことができるのである。

「物質は無い」「肉体はない」と云う意味はこのような意味なのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P292)より

           <感謝合掌 平成29年11月18日 頓首再拝>
19:伝統 :

2017/11/19 (Sun) 04:39:02


《19日 「肉体」とは「霊的実在の誤訳》

霊的実在のみが“本当に在る”のである。
それを物質と見るのは誤訳に過ぎない。

誤訳の文章は《ある》かのように見えても、“本当のもの”を表わしていないから、
それが表わす《意味のもの》は「本来《無い》」ものを「《ある》」かの如く
表現しているに過ぎないのである。

「物質は《ない》」「肉体は《ない》」と言うのは、そういう意味なのである。


誤訳には何等本当の実質はあり得ない。
それと同じく、物質には何ら本当の実質はあり得ないのである。
従って肉体、そのものもただ誤訳者たる “心”の表現であるほかの何ものでもないのである。

訳者が異なれば誤訳の程度が変わって来て、多少「原文」の意味をあらわして来るように、
“心”が多少真理を理解すれば、多少「実相」の本当の姿がわかって来て、
肉体にも、より多く実相の完全な有様を表現することになるのである。

それが即ち、『生命の實相』を読んで真理をさとれば肉体の健康度が改善される所以である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P292~293)より

           <感謝合掌 平成29年11月19日 頓首再拝>
20:伝統 :

2017/11/20 (Mon) 03:42:44


《20日 永遠に生き通しの生命》

聖経『甘露の法雨』には人間は肉体に非ず、物質に非ず、
脳髄細胞に非ず、神経細胞に非ず、血球に非ず、血清に非ず、筋肉細胞に非ず、
それらすべてを組み合わせたるものにも非ず」と示されているのである。

解剖学は人間を分解して、これらの諸部分に分解して考えるであろうけれども、
それではこれらの諸部分をつなぎ合わせたら「人間」が出来るかと言うと、
決して「人間」にはならないのである。

「人間」は物質なる部分品をいくらつなぎ合わしても出来ない。

肉体は「人間」ではなく「人間」の産物であり、
蛇がぬいだ脱皮の如く、一旦は生命によってつくられたものであるが、
霊的生命が其処を去ると、単なる脱け殻になってしまうものである。

「人間」そのものは、蛇が皮を脱いでも、蛇そのものは生きているように、
肉体の皮を脱いでも、永遠に行き通すところの霊的実在なのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P293~294)より

           <感謝合掌 平成29年11月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/11/21 (Tue) 04:19:09


《21日 「心」は実相の翻訳係》

「人間」は肉体ではなく、“神の子”であり、“霊的実在”ではあるが、
五官の感覚には“霊的実在”は見えないのであるから、
五官面にそれが感覚せられるようにあらわすためには、
「実相」を「現象」にまで翻訳し出す翻訳係が必要なのである。

その翻訳係が“心”である。

“心”が「実相」の霊的状態を本当に理会して翻訳すれば、
無限次元の実相の荘厳且つ完全な姿が、縦横厚みの三次元の空間に
縮約して翻訳されるのだから、霊的実在としての人間の荘厳さは
あらわれないにしても、三次元は、三次元なりに完全な姿が
あらわれて来ることになるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P294~295)より

           <感謝合掌 平成29年11月21日 頓首再拝>
22:伝統 :

2017/11/22 (Wed) 04:51:02


《22日 先ず「心」の診断を》

”想念”(感情を含む)は動力である。
ホルモンの分泌に直接関係をもち、細胞の配列や、
栄養成分の分解、消火、吸収、同化等を支配する力をもっているのである。

良人が自分のほかに愛人をこしらえていたと云うことを知っただけで、
その感情のショックによって急激に衰弱して病床に横たわるようになった
婦人もある。

このように”心”と云うものは肉体を左右する力があるのに、
人が病気に罹ったら”心”の診断を求めることなしに、医師にただ
物質的な処置のみを求めるのは不合理だと言わなければならないのである。

”心”の不調和が病気の原因であり、
肉体にあらわれた病気は結果であるに過ぎないのである。

原因を修正変化しようとしないで、結果たる肉体の症状だけに
医療を加えようとするのは、源流を汚濁したままで放置して、
下流の水だけを浄めようとするようなものである。

物質的医療が適確な永続的効果を挙げ得ず、一時或る病気を
治したように見えても、又再発するか、他に病気が発生して来るのは、
源流にあたるところの“心”の状態を修正して置かないからである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P295)より

           <感謝合掌 平成29年11月22日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/11/23 (Thu) 04:44:06


あらゆる病気は“心”の産物である。
肉体そのものが “心”で翻訳し出したところの一種の翻訳文であるからである。

だから精神指導によって治る病気は、単に機能的疾患だけではなく
器質的な疾患も同様に治るのであり、現に癌のような疾患も
心の変化で治る実例を幾つも私たちは出しているのである。

“心”が健全細胞を癌細胞に変化するのである。

このことは子宮癌や乳癌の患者が、医者自身から出した統計によってでも、
家庭的愛情に不満足であった婦人――結婚して子供がなかった夫人、
二号さんを良人がつくったために精神的に悩んでいた婦人、早くから良人に死別した
婦人などと云う兎も角も愛情の不満足又は愛情のもつれのあった婦人に多いことで
示されているのである。

しかも医者はその方面のことを指導することを忘れて、原因はほっておいて、
物質的な切除やラジウムの照射や、ザルコマイシンの注射などで、
単なる結果に過ぎないところの症状を抑えようとするのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P296)より

           <感謝合掌 平成29年11月23日 頓首再拝>
24:伝統 :

2017/11/24 (Fri) 04:42:33


《24日 心のレンズ》

その人の肉体と環境との状態は、
その人の“心”が如何に「実相」(霊的実在)を翻訳して、
縦横厚みの空間に、それを映し出したかの成績をあらわしているのである。

その人の “心”がその肉体から去れば、その人の環境というものも、
その人の肉体と云うのも、共に消えてしまうのである。

それは映写機のレンズが無くなれば、
映画の画面に映っていた光景が消えてしまうようなものである。

だから“心”をレンズにたとえて“心のレンズ”と称することもある。

“心のレンズ”が変に収縮して波形になっておれば
スクリーンに映る映像も波形に歪んでうつるのである。

“心のレンズ”が実相に対して完全に焦点距離を合わすことが出来なければ、
実相が如何に完全であっても、その完全な姿がハッキリとあらわれず
ボケてあらわれるのである。

そして如何に映像が歪んであらわれようとも、如何に映像がボケて現われようとも、
実在の景色はハッキリとして美しいのと同じうように、

私たちの肉体や環境がどんなに不完全にあらわれようとも、
それは私たち自身の“心のレンズ”の収縮、歪み、曇りなどが原因で、
そのようにあらわれるのであって、

“実相の世界”及び“実相の自分”は完全なのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P296~297)より

           <感謝合掌 平成29年11月24日 頓首再拝>
25:伝統 :

2017/11/25 (Sat) 04:43:01


《25日 人類意識の大波を超出すべし》

「病気は無い」と“心”で念じたら病気が消えるならば、
「肉体は無い」と“心"で念じたら肉体が消える筈だが、
そんなに念じても肉体は消えないではないかと云う質問があるが、

それは“心”と云うものが幾層にも重なっていて、
一個人の単なる表層の現在意識で念ずるだけでは、人類全体の意識や、
個人の意識にしても深層にある潜在意識面にある観念は
容易に消えないと云う理由によるのである。


一個人一個人の意識内容は集団して一個人の人類意識と云う巨大な波動となって、
個人個人の意識をその上に浮動させているのである。

だから人類意識が「此の毒薬を幾グラム服(の)んだら死ぬ」と
知っている毒薬を飲むならば、その人個人は、それが毒薬だと知らなくとも
服用すれば、人類意識の“唯識の所現”としてその人は毒薬に当てられて
死ぬことになるのである。

だから其の人が人類意識の大波を超出するのだけの大信念を起し得るよう、
熱心に神想観をして実相の完全さを揺るぎなく瞶(みつ)めない限りは、
人類意識の大波のまにまに打ち上げられて破壊されることになるのである。

個人が「肉体がない」と心の表層で念じても肉体が早速には消えないのは、
個人自身の潜在意識の中に「肉体がある」と云う観念の惰力が残っているのと、
人類意識の中に「人類は肉体をもつ」と云う観念があり、
その波から超出出来ないからである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P297~298)より

           <感謝合掌 平成29年11月25日 頓首再拝>
26:伝統 :

2017/11/26 (Sun) 03:34:56


《26日 野生の鳥は風邪を引かない》

野生の馬は決して風邪を引かないけれども、人間がそれを捕えて家畜とし、
厩(うまや)に入れて風邪を引かぬように夜は毛布を掛けてやるようにすれば、
毛布を忘れたときは風邪を引くようになるものである。

野鳥はどんなに寒風に晒(さら)されても風邪もひかず霜焼にもならないもの
であるが、これを捕えて暖かい部屋に入れ、風邪を引きはしないかと
人間が心配してやれば風邪を引くようになるものである。

これは人類意識と飼主の病的意識に巻き込まれて
その影響を蒙(こうむ)るからである。
謂わば、動物に対して人間が「知恵の樹の果(み)」を食べさせて
病的精神に教育した結果なのである。


病理学 の本を読み、栄養学の本を読み、薬剤の広告をラジオで聴かされ、
テレビで視聴させられて人間は必ず「病むべきもの」と云う印象を
潜在意識にたたき込まれれば、集団インフルエンザで学童が集団欠席を
必要とするような事態を生ずるのである。

このようなマスコミの力で「言葉の力による病的観念」を吹き込まれておれば
人類は益々不健康になり、医者と薬が唯一の頼りとなり、医者が集団休診すれば、
どうなるかと恐怖しなければならなくなるのである。

併し、本当に病気を治してくれるものは、
自己の生命力そのものだと知らなければならないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P298~299)より

           <感謝合掌 平成29年11月26日 頓首再拝>
27:伝統 :

2017/11/27 (Mon) 03:32:08


《27日 薬剤に服従する勿れ》

栄養学に執(とら)われて、幼児に毎食、食膳にビタミン錠剤を与える習慣は、
多くの場合に於いてその子供に物質殊に薬剤に頼らねば健康が保持できない
と云う観念を与えることになるのであり、従って幼児に病気が絶えないように
なりがちである。

かく言えばとて、ビタミンBや必須アミノ酸が子供の発育促進に必要でないと
私は言うのではないのである。

ビタミンB群や必須アミノ酸は発育促進に欠くべからざる栄養素であるけれども、
それは、幼児に”薬を与える”と云うような形式で与えないで、
唯、自然の食物を与えているような形で与える方がよいと云うことである。


幼い時に潜在意識に「人間が薬剤に屈従する」と云う観念を植えつけると、
成人してからも長く「人間は病むべきもの」と云う観念から脱却するのに
なかなか手数がかかるものである。

幼いときから子供に対して、
「人間は神の子よ。病気なんかには罹(かか)らないものよ」と
常々言ってきかせて置くことは、子供を常に無病にして置く秘訣である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P300)より

           <感謝合掌 平成29年11月27日 頓首再拝>
28:伝統 :

2017/11/28 (Tue) 04:22:08


《28日 医者と薬をアクセサリーとする勿れ》

一寸とした病気にも医者にかかることを、
裕福な経済力ある家庭の名誉の如く考えてはならないのである。
なかには医者に罹っていないと、
何だか頼りないような気になる婦人もあると云うことである。

そうなれば病膏肓(やまいこうこう)に入った訳で、医者に罹(かか)ることや、
薬剤をたしなむことが、一種の生活の装飾となり、アクセサリーとなるので、
それがなければ淋しくなり、淋しくなった時分に病気にかかり、医者に罹って
薬を飲んでそのアクセサリー欲を満足すると、その病気が恢復するのである。


若し人がこのような状態に陥るならば、それは正に
“智慧の樹の実”をたべたアダムとイヴとになってしまうのである。

これらの人はインテリではあるけれども、
自分の食(く)った智慧に縛られて自由を失った状態になっているのである。

即ち「エホバ神アダムを召(よ)びて之に言いたまいけるは汝は何処におるや」と
言うようになるのである。
最早かれの心は「神の国」にはいないで、迷いの国にいるのである。

「エホバ神彼をエデンの園よりいだし其の取りて造られたるところの土を耕さしめ
たまえり」(「創世記」、第三章)と云う楽園追放の状態になるのである。
「土」とは物質の象徴であり、唯物論的人生観を耕して、
乏しき世界に悪戦苦闘をしなければならなくなるという意味である。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P300~301)より

           <感謝合掌 平成29年11月28日 頓首再拝>
29:伝統 :

2017/11/29 (Wed) 03:08:43


《29日 神を差し措いた技術》

神は一切の実在(本当に在るもの)の本源であり、
本当に在るものは唯、神のみから生じたのである。
さすれば、本当に癒す力も唯神のみから来るのであることは当然である。

神を差し措いて、自分だけの力で何事にても成そうと考えるところに
唯物論者の間違があるのである。

化学薬品はある毒素を分解し、又中和したりして毒性を和げることが出来る。
しかしその分解産物や中和産物を体外に搬(はこ)び出して血液を浄化し、
毒素によって荒らされた肉体組織を新たに修復するのは
神(即ち自己に宿る生命力)によるほかはないのである。


物質は他(た)の力によって動かされ、
且つその惰力によって動くほかは、自動することができないのである。

従って、自己に宿る生命(神)の叡智がはたらいて何処に何の成分を保存し、
何の成分を排泄し、如何に分子組織を変化して“生きた細胞”として
それを組み立てるかは、知性のない「物質」それみずからの力にては
出来る筈はないのである。

つまり、病気や毒物で破壊された組織を完全に修復するには、
叡智が必要なのであって、その叡智は自己の「内に宿る神」(生命<せいめい>)の
力に俟(ま)つほかはないのである。

神を無視した医術などはあり得ようがないのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P302)より

           <感謝合掌 平成29年11月29日 頓首再拝>
30:伝統 :

2017/11/30 (Thu) 04:20:29

《30日 生物発生の大作用を知れ》

神よりも物質に強く信頼を置くものは神の心に協(かな)わないものである。

物質の力に頼れば頼るほど、内在の神の力は減ずるのである。
科学的知識が発達すればするほど、霊感と云うものは乏しくなる。
薬剤に頼れば霊的治病力はそれだけ減ずるのである。

天秤の一方の皿に「神」を置き、もう一方の皿に「科学知識」を置き、
科学知識の方に重点を置くほど、「神」は軽視せられて、
科学知識が、“神の叡智”にとって代わるようになるのである。

科学知識が“神の叡智”に代って、人工衛星や、金星ステーションまで射ち上げる
ようになっても、神を軽視したこれらの科学兵器は、ただ人類を破壊の恐怖に追いやる
役目をしているだけであって何ら人間の招福の源泉とはならないのである。


生命現象と云うものは、「生命(せいめい)」と云う不可視のものが、
物質を支配し、物質の法則を支配し、単に物質の法則だけでは、
どうしても出来ないところの「生物」と云う有機体をこしらえ上げたところに
起こるのである。

試験管の中で、アミノ酸似のものを生ずることに成功しても、
それは“生命の起源”ではなく、生命が生産したところの一種の化合物を
模倣してこしらえただけであって、物理化学の実験ではアミノ酸以上に進んで、
生きた生体を作ることは出来ないのである。

生物が其処に発生するには、生命(せいめい)が“物理化学の法則”をも利用しながら、
それを超える生命的なハタラキを演ずることが必須条件となるのである。


谷口雅春著『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P303~304)より

           <感謝合掌 平成29年11月30日 頓首再拝>


・・・

<参考Web>

(1)ひかりの一日一言①
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6455552 

(2)ひかりの一日一言②
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6479787

(3)ひかりの一日一言③
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6505650

(4)ひかりの一日一言④
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6527684

(5)ひかりの一日一言⑤
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6558249

(6)ひかりの一日一言⑥
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6584563

(7)ひかりの一日一言⑦
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6618774

(8)ひかりの一日一言⑧
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6651661

(9)ひかりの一日一言⑨
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6681257

(10)ひかりの一日一言⑩
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6711243

(11)ひかりの一日一言⑪
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6745089

(12)ひかりの一日一言⑫
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6778844


<以下は、「幸福を招く365章」より」>

(13)ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439

(14)ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866429

(15)ひかりの一日一言⑮~理想を高く掲げよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898754

(16)ひかりの一日一言⑯~心霊への目覚め
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6929870

(17)ひかりの一日一言⑰~健康への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6962847

(18)ひかりの一日一言⑱~寿福への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6990572

(19)ひかりの一日一言⑲~愛を人生に処方して
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7021791

(20)ひかりの一日一言⑳~祈りを生活に処方して 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7058416

(21)ひかりの一日一言21~あなたも神癒が受けられる 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7097406

(22)ひかりの一日一言22~光に向う我が運命 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7149847

(23)ひかりの一日一言23~正しき想念の使い方 
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7190605

(24)ひかりの一日一言24~われ肉体以上のもの
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7274701


<以下は、「生活の智慧365章」より」>

(25)ひかりの一日一言25~幸福はどうしてくるか
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7538235

(26)ひかりの一日一言26~悦びはどうしてくるか
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7557795

(27)ひかりの一日一言27~智慧はどうしてくるか
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7575483

(28)ひかりの一日一言28~無限の供給を受ける道
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7590764

(29)ひかりの一日一言29~失敗から立ち上がる道
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7606832

(30)ひかりの一日一言30~豊かさを得る道
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7630690

(31)ひかりの一日一言31~肉体の苦痛はどこからくるか
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7645085

光明日訓(平成28年版)
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7538248

  • 名前: E-mail(省略可):
  • 画像:

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.