伝統板・第二

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吉田松陰② - 夕刻版

2017/10/27 (Fri) 19:06:56

今日10月27日は、吉田松陰の命日。


《吉田松陰の生き方》

       *メルマガ「人間力」(2017.8.26)より

本日は、知られざる吉田松陰の感動ヒストリーを取り上げます。

どうせ死ぬにしても、最後の最後まで最善を尽くそうとした
松陰の姿勢に心打たれます。

───────────────────
●『生き方のセオリー』(藤尾秀昭・著)
───────────────────

吉田松陰に、こういう逸話があります。

安政元年3月27日、
松陰は金子重輔と共に伊豆下田に停泊していたアメリカの軍艦に
乗り込もうとして失敗し、下田の牢につながれます。

一夜明け、松陰は牢番に

「昨夜、行李が流されてしまって、
 手元に本がないから、何かお手元の本を貸してくれませんか」

と頼みます。

牢番はびっくりして

「あなたたちは、大それた密航を企み、
 こうして捕らえられて獄の中にいるのだ。

 どうせ重いおしおきを受けるのだから、
 こんな時に勉強しなくてもいいのではないか」

この牢番の言葉に
松陰はこう言うのです。

「凡およそ人一日この世にあれば、
 一日の食を喰らい、
 一日の衣を着、
 一日の家に居る。
 なんぞ一日の学問、
 一日の事業を励まざらんや」


(ごもっともです。
 それは覚悟しているが、
 自分がおしおきになるまではまだ時間がある。
 それまではやはり一日の仕事をしなければならない。

 人間というものは一日この世に生きていれば、

 一日の食物を食らい、
 一日の衣を着、
 一日の家に住む。

 それであるなら、
 一日の学問、
 一日の事業を励んで、

 天地万物への御恩に報いなければならない。
 この儀が納得できたら、ぜひ本を貸してもらいたい)


この言葉に感心して、牢番は松陰に本を貸します。

松陰は牢の中で金子重輔に向かってこう言ったといいます。

「金子君、今日このときの
 読書こそ本当の学問である」



渡部昇一著『人生を創る言葉』の中に出ている話です。

渡部先生もこの話に感動されたらしく、こう付記しています。

「牢に入って刑に処せられる前になっても、
 松陰は自己修養、勉強を止めなかった。

 無駄といえば無駄なのだが、
 これは非常に重要なことだと思うのである。

 人間はどうせ死ぬものである。

 いくら成長しても最後には死んでしまうことに変わりはない。

 この〈どうせ死ぬのだ〉という わかりきった結論を前にして、
 どう考えるのか。

 松陰は、どうせ死ぬにしても
 最後の一瞬まで最善を尽くそうとした。

 ……これは尊い生き方であると思う」


腹中に書をもって生きた松陰の面目躍如たる話です。

私たちもかく生きたいものです。


・・・

<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板」

  ①吉田松陰精神に学べ  (全文) (4729)
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=994   

  ②松陰スピリッツ (4756)
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=998  

(2)「光明掲示板・第一」として、

   吉田松陰 (2876)
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=581   

(3)「光明掲示板・第二」として

  ①吉田松陰~『留魂録』
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=507   

  ②千代(松陰の妹)から見た吉田松陰 (4255)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=902  

  ③成人式(元服)での吉田松陰の言葉 (4558)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=956   

  ④花燃ゆ~吉田松陰の末妹「文」の生涯 (11226)
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2140   


(4)光明掲示板・第三「吉田松陰 (1324)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=267

(5)光明掲示板・伝統・第一「吉田松陰」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=62

(6)伝統板・第二「吉田松陰の留魂」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6814974

(7)伝統板・第二「吉田松陰①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7053221

            <感謝合掌 平成29年10月27日 頓首再拝>

黒船来航以前の松陰の海防認識 - 伝統

2017/10/28 (Sat) 19:31:15


        *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2015年02月11日)
             ~黒船来航以前の松陰の海防認識 より

《「不羈(ふき)独立」 》

松陰、17歳の時に友人から贈られた 坤輿図識」(こんよずしき)に
世界の地理や歴史が書かれていた。

この書物で、松陰が関心を持ったのは、
アメリカ合衆国のことが書かれたページ 「不羈独立ノ国タルヲ約ス・・」の記述。

松陰は、アメリカがイギリスと戦って独立を
勝ち取った記述に、強い関心を示した。

当時混迷していた日本の、これからの姿をアメリの独立に置き換えて、
日本もこれを範として生きていかなければならない・・と

「他者から束縛されず、確かな独立を目指す」

松陰の人生をかけた”命題”が、この「不羈独立」により定まったのです。


《黒船来航以前の松陰の海防認識》

黒船来航以前の西洋に対する松陰の知識は、まだまだ幼稚なものだった。
松陰が、長州藩の海岸防備を調べた時の報告書「廻浦紀略(かいほきりゃく)」に、
戦を想定した文章が残されている。

「地元の漁師の舟で海に出た。この船、巾七尺長さ三丈、
実にしっかりしており、軍用に使える」

松陰は、わずか9㍍の漁船が、軍艦になると思っていた。

翌年松陰は、旅先の長崎で、自分の知識がいかに浅はかだったかを痛感した。
当時、日本で唯一の海外の窓口だった長崎・・
松陰はここで、阿片戦争の実情を探った。

そして、驚がくの実体を知ることになる・・松陰はその内容を、日記に書き写していた。

「イギリス軍艦の砲撃は百発百中だった・・それに対し、清国の大砲は
10発の内9発は当たらなかった・・アジアと西洋の力の差は歴然としていた」

日本には、山鹿流兵学、伝統兵学、和流砲術がある・・
それで十分ヨーロッパと戦えると思っていた。
阿片戦争がどれほど厳しい戦争だったか・・中国の軍備が全く通用しなかったのだ。

従来の兵学や軍備では、まったく役に立たないことを知った。

今まで自分が学んできた兵法では、西洋に太刀打ちできない!

長州を護るには・・どうしたらいいか?・・ 松陰は苦悩した。

  (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2015/02/post_1153.html

            <感謝合掌 平成29年10月28日 頓首再拝>

「吉田松陰の覚悟(1)」 - 伝統

2017/10/29 (Sun) 19:30:48


        *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2015年02月12日)
             ~吉田松陰の覚悟(1) より

《松陰を育んだ長州藩》

長州藩は、江戸時代初期の頃から、藩内の優秀な人材を登用して、藩政を任せてきた・・

中下級武士が藩政を動かすという、他藩にはない風通しの良さと、風土があった。
能力のある若者の意見を十分に反映させる 組織風土・・そして、
自己変革をしないと取り残されてしまう風土が、長州藩にあったのです。

そうした風土から、幕末に高杉晋作ほか、
討幕運動の中心となる人物が、多数輩出する のです。


《「吉田松陰の覚悟(1)」》

江戸の末期・・アジアの諸国は次々欧米列強の植民地になっていった・・
あの大国中国までもが、植民地支配の巨体な波に呑まれ、
列強の要求に屈して、生き延びようと苦悶している。

かたくなに鎖国を続けていた日本にも、転機がやってきた・・
松陰が東北の旅から戻ってきた翌年の 1853年6月、4隻の黒船・ぺりー艦隊が
突如浦賀に現れた。

いきなり大砲3発を威嚇発射・・江戸市中は大騒ぎになった。

ペリーは強力な武力を背景に、幕府に開国を迫った。
「返事は翌年まで待つ」としながらも、江戸幕府をどう喝した・・
「これらの船は艦隊のごく一部に過ぎない・・次は、全艦を率いて戻って
くる」と・・

要望を聞かないなら、武力も持さないという傍若無人なペリー。
そんなやり方は余りに横暴! これは対等な国どおしの外交ではない。

このままでは、日本の独立が危うくなってしまう。

江戸幕府・・いくら強がったところで、刀では大砲に勝てないと沈黙。

日本はもうおしまいだ・・武士から農民まで、眠れない夜が続いた。
そんな中ただ1人、西洋を出し抜いてやろうと意気込む若者がいた・・
吉田松陰25歳の時である。

兵法にくわしい松陰・・当初は「どうやって西洋を倒そうか」と思案する
「攘夷論者」だった。

黒船を目にして考えが変わった・・ これでは勝てない!・・「開国論者」になった。

ぺりー来航から2カ月後、松陰は主君・毛利敬親に、「将及私言」を提出した。
年再びペリーがやって来た時、どういう態度で臨むべきか・・
対応策を、長州藩を通して、幕府に訴えようとしたのです。

外国から侮られるなら、幕府は諸藩の兵を引きいて、その恥辱をそそがねばならない。
松陰はペリーを相手に「断固戦うべき!」と訴えた・・
「攘夷を決行すべき」と主張したのです。

しかし、松陰の攘夷は単に「異国を追い払え」という主張ではなかった。
「大砲・小銃ともに西洋のものに習うべし。海軍も西洋のものに習った方がよい」
松陰は、西洋の優れた所は学んでいかなければ・・と思っていた。
そのためには、 国を開くことも有りうる!・・と。

松陰の頭の切り替えは早かった・・いくら敵意を燃やしたところで、
日本は守れない・・それより、西欧のやり方を学び取ることの方が先ではないか・・
「よし! あの軍艦でアメリカへ行こう」

鎖国の中密航すれば死刑である・・松陰は気にもとめなかった。
翌年、再び黒船がやってくると、「日本にとって今なにが1番大事なのか」を考え
・・すぐさま思い切った行動に出た。

その時、松陰が言い残した言葉がある・・

「海を渡ることが禁じられているが、たかだか江戸250年の常識に過ぎない。
今、自分がやろうとしていることは、日本の今後3千年の歴史にかかわることだ。
くだらない常識に縛られ、日本が沈んでいくのを傍観するのは、我慢がならない!」

         (池田貴将「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」)
   
    (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2015/02/post_1154.html

            <感謝合掌 平成29年10月29日 頓首再拝>

「吉田松陰の覚悟(2)」 - 伝統

2017/10/30 (Mon) 18:57:58


        *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ( 2015年02月14日)
             ~吉田松陰の覚悟(2) より

《吉田松陰が北山安世に宛てた手紙》

「独立国として三千年来、他国の束縛をうけなかった偉大な国日本が、
一夜にして他国の束縛を受けることは、血性ある者には見るに忍びない。

- 中略 -

私は、その大事業を成功させることができないことを知っている。
昨年来、微力をもって自分なりに粉骨砕身したが、全く役に立たなかった。

これ以上の所置、みだりに発言すれば、必ず一族全体にお咎めが及ぶだろう。
しかし、今の幕府も諸侯も既に正気をなくしているので、救いようがない。
在野の優れた人物の出現を望む以外に、期待することはできない 」

※北山安世は、佐久間象山の甥
松陰は手紙で憤激をぶちまけている


《「吉田松陰の覚悟(2)」》

今の日本の軍事力では、ペリーと互角に戦うなどとてもできない。
何とかして、西洋の技術を手に入れなければ・・
これまで唯一、西洋の中で我が国とつながりのあるオランダを通せば、
出来ないことはないはずだが・・

しかし松陰の期待に反して、幕府は勝ち目のない戦は望まなかった・・
それは、長州藩も同じであった。

1854年1月、ペリー艦隊が再び来航した。
予告通り、前回より3隻多い7隻の大船団で、幕府に開国を迫った。

3月3日、ついに幕府はアメリカと日米和親条約を締結。
武力を背景としたペリーの圧力に屈したのです。

アメリカと国交が開かれた以上、松陰にとって攘夷は現実的手段ではなくなっていた。

大国に屈しない日本の在り方は何なのか?

松陰は、これから何をすべきかを悩み、考えた。

3月18日、松陰は弟子の金子重之助と下田に入った。
ここで松陰は、誰も予測しなかった驚くべき計画を練っていた・・
海外密航だ。ペリーの船で日本を抜け出し、優れた西洋文明を自ら学ぶしかない・・と。

当時日本人の海外渡航は固く禁じられていた・・発覚すれば死罪になる恐れがあった。
にもかかわらず松陰は「日本の独立を守りたい」との思いから、この手段に賭けた。

どうしても海外へ行きたい・・松陰は、この思いをペリーに伝えるため、
書状をしたためた。松陰は素晴らしい戦略家だったが、
こういう時は、 ろくに計画も立てなかった。

「動けば道は開ける! 」とばかりに、小舟を盗んで荒波に漕ぎ出し、
そのまま黒船に乗り込んだ。

アメリカの水兵は驚いた・・無防備な侍が法を犯し、
命がけで「学ばさせてくれ!」と挑んできたのだ。

その覚悟に恐れをなし・・日本人の底力を思い知らされた。

松陰の小さな決断が、後に「明治維新」という、大きなうねりを生んでいくことになる。

         (池田貴将「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」)

     (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2015/02/post_1155.html

            <感謝合掌 平成29年10月30日 頓首再拝>

「吉田松陰の覚悟(3)」 - 伝統

2017/10/31 (Tue) 19:25:38


        *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2015年02月15日)
             ~吉田松陰の覚悟(3) より

《松陰がペリーに渡した手紙》

ペリー提督「日本遠征記」に、黒船に乗り込んだ松陰たちの様子が記されている。

「・・自分たちの目的は、合衆国に連れて行ってもらうことであり、
そこで世界を見聞したい」

と訴えた。

黒船に漕ぎ着き、ペリーに渡した手紙には・・

「・・我が国は海外渡航が禁じられている。
世界に行きたいという想いが湧きあがりながらも、中々叶うことがなかた。
今幸いにも、貴方の国の軍艦が留まっている。

決行を決めた・・密かに船に乗せてもらい、海外へ行きたい。
我ら両人、世界を見物致したく候・・ 」


《吉田松陰の覚悟(3)》

懸命に海外への想いを訴える松陰・・しかしその願いをぺリーは受け入れなかった。
連れて行きたいのは山々だが、条約調印直後だけに、
幕府が禁じている密航に手を貸すわけにはいかなかった。

松陰の人生を賭けた選択は失敗に終わったが、
ペリーに日本人の底力を印象付けることになった。

ペリー提督「日本遠征記」に、この事件の感想が書かれている・・

「 この事件は、死の危険をも辞さない2人の教養ある日本人の、
激しい知識欲を示すものとして、実に興味深い。
 2人の日本人を 見ると、この国の前途は何と可能性を秘めていることか・・ 」

密航を自首して出た松陰・・ペリーの幕府への助言もあって、命は助けられた。
仮釈放され、山口・萩に送り返された・・実家で謹慎生活を送ることになる。

そこに、松陰と同じように日本の将来を憂う、多くの若者が集まってきた。
松陰は、自宅の十畳と八畳を改築して、若者たちと学び合った・・
松下村塾だ。

自らの命を省みず、アメリカに行こうとした松陰の生き方は、
若き志士たちに大きな刺激を与えた。

松陰、自らアメリカに渡って、実際に様子を見ようと実行した人物であることが、
志士たちを引きつけたのです。

集まった門下生に、松陰は1人1人の個性を活かした教育を行った。

そこで教えた期間はわずか2年半・・長くは続かなかった。
その頃、幕府で実権を握っていたのは、大老・井伊直弼。

井伊は幕府の権威を取り戻そうと、
幕府を批判する者を取り締まった・・安政の大獄である。

松陰も、この取り締まりの対象になった。
幕府が「外国の言いなりで政治や外交を行っている」とした、
過激な言動で幕府を批判していた故に・・。
幕府は、松陰に死罪を言い渡し、1859年10月27日斬首・・
享年30歳だった。

松下村塾のわずかな期間に、高杉晋作、伊藤博文(初代の総理)、
品川弥次郎(内務大臣)、山縣有朋(3代と9代の総理)、山田顕義、
その他多数、時代を駆け抜け、幕末維新の原動力となった志士たち・・

吉田松陰を生涯にわたって”師”と仰ぎ、自分たちの学びの原点は
「松下村塾」にあるとしたのです。

            <感謝合掌 平成29年10月31日 頓首再拝>

吉田松陰・福堂策 - 伝統

2017/11/01 (Wed) 19:13:05


        *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2015年02月18日)
             ~吉田松陰・福堂策 より

《松下村塾を開く動機》

塾を開いた動機は、いかにも松陰らしいものでした。

「 自分が塾を開くのは、人にものを教えるためではない。
世に優れた人物を見つけて親しく交際し、
自分が囚われている狭い心を解き放ち、
愚かなところを矯正したいが為である 」

塾を開いて塾生から学び、自らを高めようとしたのです。
塾生1人ひとりの長所を見つけては「君はここが際立って優れている」と・・

ズバリ長所を指摘されれば、誰もが感激し、
奮い立ち、自らの可能性を追い求めようとするものです。


《吉田松陰・福堂策》

国禁を冒した松陰は、長州藩・野山獄に投獄された。

牢内には11人の囚人がいた・・松陰は最年少の新入りながら、
楽天的で誠実な人柄から、直ぐに信頼を得、問われるままに自らの体験を語り、
やがて「孟子」を講義するようになった。

出獄の当てもない囚人たちは、何れも生きる希望を失っていた。
心を痛める松陰・・獄を、単なる「刑罰を受ける場所」ではなく、
「人間を更生し成長出来る場所」にしたいと考えた。

松陰「日々を無為に過ごしていても仕方がない・・
これを機に習い事を始めてはどうか?」と持ちかけた。

”書”に優れた者や、”俳句”が得意な者などを”師匠”に立て、皆で習い事を始めた。

やがて囚人たち、それぞれ松陰から長所を見出され、
師匠になったり、弟子になったり・・互いに学び合うようになった。

それ迄張りもなく、只生きているだけの囚人たちに急激な変化が現れた。
懸命に面倒を見る松陰の姿に、囚人たちは、師匠・先生と尊敬するようになった。

どんな悪人でも、自分の長所を認められ、人様のお役に立てるなら、
何にも勝る喜びになるだろう。

更に、司獄官や看守までもが、松陰に私淑するようになった。

松陰は、監獄という最も劣悪な環境を、
学びの場に変え、自己を回復し、更に高める場にしていったのです。

高い志を持って人生を歩むなら、どんな過酷な環境でも、
より善い方向に変えていくことが出来ます。
しかし、現状に甘んじ、学び・努力する気のない者は、
道が拓けることなど到底無理なのです。

松陰の野山獄での生活は1年2か月で終わった・・
その後は自宅に蟄居して、松下村塾を開くことになる。

松陰、獄中での体験を基に、獄制の改革案「福堂策」を書き上げた。

「牢獄を”福堂”にするべし」とした、お上への建白書になっていて、
孟子の「性善説」の影響が伺える。

内容は優しさと自愛に満ち、野山獄に対してだけではなく、
罪人全般への処遇の改善を求めるもになっていた。

「人は生まれながらにして善き心を持っていて、根っからの悪人はいない」
という考えに立ち、獄内を役人が全て監視し、管理するのではなく、
獄囚たちにある程度自治を任せ、学問や諸芸を身につけさせる」

また「一度の罪で、その人間全てを否定してはならない」と・・

後に、多くの囚人が出獄を許され、立派な人物になり、余生を送っている。
人は誰でも、他人から”必要”とされるとき、大きな充足感を覚える。

それまて、暗く無為な時間を過ごしていた、野山獄の囚人たち・・
学びと教えの場を得たことで、自己を取り戻し、幸福な場所に変貌していったのです。

小山ひな子「人生勉強ブログ」

    (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2015/02/post_1157.html

            <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>

吉田松陰の世界観 - 伝統

2017/11/02 (Thu) 18:38:36


        *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2015年02月21日)
             ~吉田松陰の世界観 より

《油田の発見がもう10年早かったら》

1853年にペリーが来航し、開港を求めたのは、捕鯨船の補給基地が欲しかったから・・

アメリカで、世界で初めての本格的油田が発見されたのは、その6年後の1859年。
その後、わずかの間に、ランプの油が鯨油から灯油になり、
アメリカの捕鯨産業は一気に衰退していった。

もし油田の発見がもう10年早かったら、ペリーは日本に来航しなかっただろう・・
明治維新も違った形になっていただろう?

「もし、松陰が密航を許されて、アメリカに渡っていたら・・」、
後に総理大臣になっていたかも・・
歴史のある瞬間「もしあの時・・だったら」

運命は違った方向に向っていき、歴史は全く違ったものになるだろう・・


《吉田松陰の世界観》

吉田松陰には「預言者」のような一面があった。
松陰が密航に失敗した後、獄中で書いた「幽囚録」に、
今後日本が進むべき道を指し示していて、以下のようなことが書かれていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・巨城を伏見に築いて、天皇と京都を護れ

・急ぎ軍備を固め、軍艦や大砲を整えるべし

・兵学校で砲術歩騎の兵を操練せよ

・外語学科を置き、蘭・露・米・英の原書を講じよ


・蝦夷(えぞ)を開墾して諸侯を封じ、間に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、
 琉球を論して国内諸侯と同じく参勤させ、朝鮮を攻めて人質を取り朝貢させ、
 北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ。
 朝鮮に吾れ(日本)が行かなければ、彼れ(列強)が必ず来る!
 吾れが攻めなければ、彼れが必ず襲う・・「外征論」


伊豆の下田は、我が邦の喜望峰なり、船舶は必ずこの港に寄る
外国に下田を占拠されたら海路を塞がれる
横浜を港場にするのがよい

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

松陰は、横浜が日本を代表する大都市になることを予言していた。

伊藤博文や松下村塾の門下生たちは、北海道開拓、琉球処分、
台湾出兵、日韓併合、満州国創建、フイリピン占領など・・明治以降の
日本の政治・外交を、ほぼ松陰が書いた予言通りに実行していった。


「幽囚録」は、幕末の尊王攘夷運動や、明治初期の薩長政府に
与えた影響がどれほど大きかったか・・その後の歴史が物語っている。

明治政府と朝鮮国の国交交渉が進展しない中、
武力で開国を迫る征韓論者が台頭するのは、
吉田松陰の影響があったからでしょう。

ところで、獄中で「幽因録」を書いた当時の松陰の西欧知識度は、
アメリカ合衆国をワシントンと取り違えたり、
大半が砂漠のオーストラリアを、豊かな穀倉地が広がる富み栄える国と思い込んだり・・

鎖国中の日本での知識とはいえ、
外国の地理や知識は、現在私たちが想像する以上にお粗末だったようです。

         (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2015/02/post_1158.html

            <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>

吉田松陰の教え・・志 - 伝統

2017/11/03 (Fri) 17:30:42


        *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ(2015年02月25日)
             ~吉田松陰の教え・・志 より

吉田松陰は、弟子たちに「志」を持つことの大切さを教えている。

松陰が、塾生”入江すみ蔵”と書簡のやり取りをした中に、
そのことが言い交わされている。

「松蔭先生は、常日頃”志を持って生きる”ことの大切さ語っておられるが、
自分にとっての役割とは?志とは何か?・・分からないのです」

と弟子の入江は戸惑った。


「塾生に一番伝えたいこととは何でしょうか?」と先生に問うなら、
「”志”を立てることが万物の源となす」と答えるでしょう

・・最初に”志”あり きと・・

”志”とは、ビジョンのことです。 ビジョンを一言で言うなら
「自分は将来どうなりたいのか?」でしょう・・。

「将来どうなりたいのか・・考えなさい」と先生は繰り返し言われる。

志であれば何でもいいのか・・というと、そうではない。

先生は「地域の ためや、国のためになることを考えなさい」と言う。
先生の言う地域とは、自分が住む村のことであり、国とは藩のことである。


塾生には「小さな目標と大きな目標、両方同時に考えるようにしなさい」と指導された。

それを今ふうに言うと、船井幸雄先生の口癖
「世のため、人のためになることを第一に考えなさい」になる。

世の中のためになることが「大きな目標」で、
身近な人の役に立つことが「小さな目標」になる。


弟子のすみ蔵、これを聞いてもまだ、
「”志を持て”と先生は言われるが、何のことやら・・何をどうしたらいいのか・・
さっぱり分かりません」と 答えた。

そこで先生は付け加えた・・目の前に起きることに、全身全霊でぶつかっていきなさい・・
それを”至誠”と言う。

目の前に起きたこととは・・鳥に餌をやること、ご飯をちゃんと食べること、
箸の上げ下ろし、布団の上げ下げ、庭の掃除、農作業・・ すべて 全身全霊でやりなさい。

「これ以上は出来ない! 」と思うまでやりなさい。

そうすることで、心がワクワクしたり、トキメクものにぶつかるでしょう…
それを”真骨頂”と言います。
真骨頂とは、その人が持つ”長所”のことです。

どのように生きるかを考えるのは、真骨頂(長所)が何かが分かってからでよい。
”志”は、己の生きざまの中から生まれてくるものであって、
ちょっと頭で考えて生まれてくるような、簡単なものではありません。

己が真骨頂(長所)が見つかって後、自分がどう生きたらいいかを考えればよい。
真骨頂を果たすことを”生きる”と言うべし・・と松蔭先生。

自分の長所に則って生きていくことが、志を果たすことになり、
自分の役割を果たすことになる・・と教えているのです。

              (佐藤芳直「船井行雄から学ぶ」 )

     (http://www.noevir-hk.co.jp/magazine/2015/02/post_1159.html

            <感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>

吉田松陰の”天命” - 伝統

2017/11/04 (Sat) 19:32:49


        *Web:吉村外喜雄のなんだかんだ
             ~吉田松陰の”天命” より

《坂本竜馬が残した人生訓》

「善く問いを待つ者は、鐘を撞くが如し」
「善い教師とは、生徒にとっては、鐘のようなものである」

この言葉、西郷隆盛を評した言葉として伝えられている。


「男児志をたてて郷関を出づ 学もし成らずんば  死すともかへらず」

坂本竜馬、数えで19歳の時、剣術修行のため、藩からいとまごいを許され、
土佐から江戸へ旅立つ時に、詠んだものです。

この江戸行きが、 幕末の快男児の活躍の始まりになる。

「世の人は、我を何とも言わば言え。 我が成すことは我のみぞ知る」

「世間の人は、言いたければ、自分の事を思う存分に言えば良い。
だが、自分のやりたいことは、自分のみが知っている」


《吉田松陰の”天命”》

嘉永7年(1854)、下田の浜で海外渡航をこころみようと、
今まさに小船を漕ぎ出そうとしている吉田松陰…

松陰 「坂本君…この海の向こうに何があるか…
知りとうはないか…僕は知りたい。
この目で見とうてたまらんのじや! 

今、そこに黒船が来ちょるんぞ…
黒船に乗りァ~ アメリカに行けるんじゃ…
日本よりはるかに進んだ文明の国へ…
そのような絶好の機会を目の前にして、
指をくわえて見とれッちゅんか!」


竜馬 『密航が見つかれば、先生は死罪です…
二度と日本には戻って来られません』


松陰 「それがなんじゃ! いや…失敗するかもしれん…
    黒船に行く前に囚われるかもしれん…
    乗船を拒まれるかもしれん…それでえェんちゃ!
    なんもせんでおるより…
その方が何千倍、何万倍も値打ちがある…
    僕は死など怖おうない! 

そげェなことより、行きたいちゅう気持ちの方が、
はるかに強いんじゃ…

    坂本君…君が本当に異国に興味があるんなら…
きっと僕と同じことをするはずじゃ…
じゃが、君はそれをせん…なぜじゃ? 殺されるからか?
    日本に帰れんからか? 別れが辛いからか?
    そんなものはなァ…すべて言い訳じゃァ! 

見ろ! 僕には言い訳など何もない…
どんな運命が待っちょろうが…後悔せん! 
僕が今やるべきことは、黒船に乗り込んで、
アメリカに行くことじゃァ! アメリカへ行くぞ…」


竜馬 『待ってつかわさい…待ってつかわさい…松陰先生…
    わしも、わしも…
一緒に連れていってもらいませんでしょうか…』

松陰 「なにィ!」

竜馬 『今の先生の話を聞いて、わしは…
自分がなんちゅう細んまいことで悩んじょったか…
自分が恥ずかしゅうなりました。

    役に立つとか、立たんとか…
    そんなことはどうでもえェちャ…
    わしも、先生のような生き方がしてみたいがです」


松陰 「バカたれ! 黒船に乗り込んでアメリカに行くんは、
僕のやるべきことであって、君ではない!  

君はなにものじゃ! 
    なんの為に、この天の元に生きておる!          
君がやるべきことは…なんなんじゃ! 考えるのじゃ! 
己の心を見ろ!  そこにはもう…答えはあるはずじゃ!」

   「行くぞ!」

松陰は、沖に停泊する黒船に向かって、浜から小船を押し出し、漕いでいった…。   
ペリー艦隊の遠征記録には、

「こうした日本人の気質を見ると、この興味深い国の前途は、 なんと有望であることか…」と、

松陰の情熱を書いている。

                   NHK大河ドラマ「龍馬伝」より


            <感謝合掌 平成29年11月4日 頓首再拝>

リーダーの心得:吉田松陰の名言と士規七則 - 伝統

2017/11/05 (Sun) 20:40:36


       *Web:TOHOKU より

《志士として、挑戦を続けるリーダーへ。》

『士規七則』は、吉田松陰が長州萩の獄中から従弟の元服に際して送った
「武士の心得」を書いたものですが、私たちはこの中から、
リーダーにとって大切なことを学ぶことができます。


(1)志が、全ての根源となる

   曰立志以為萬事之源


   リーダーが挑戦を続けるためには、
   「志」が最も大切であると、吉田松陰は伝えています。

   リスクを恐れぬ覚悟を持って、行動することで目的は達成されます。
   その力は、「志」から沸き上がるものです。

   志は、何が起きても、どんな状況でも、リーダーが挑戦を続ける源となります。


(2)同志は、人生の助けとなる

   選交以輔仁義之行


   リーダーが成長するためには、
   師と切磋琢磨できる友の存在が大切であると、吉田松陰は伝えています。

   高い志を持った師からの指導、そして、仲間でありライバルでもある友と
   共に互いを磨き合うことによって、
   リーダーは更なる成長を成し遂げることができます。

   その実現のためには、成長に必要な環境を自ら創ることが大切です。


(3)読書で、聖賢の教えを学ぶ

   讀書以稽聖賢之訓


   リーダーが志を成すためには、
   聖人・賢者を師とすることが大切であると、吉田松陰は伝えています。

   時代を問わず、聖人・賢者・立派なリーダーを師として学ぶことは、
   自己の修行となります。

   読書によって聖賢の教えを学び、自らを高め続けることで、
   リーダーとして志を成すことができます。


(4)最後に:志を貫く覚悟を問う

   死而後己


   『士規七則』の中に書かれた、4文字。
   これは、「死ぬまで続ける、志を貫き通す。」ということです。

   「死ぬ気でやる。」という言葉は、今でもよく使われます。
   私も使ったことがあります。
   しかし、ほとんどの場合、そこには、覚悟も重みもありません。
   そして、その軽率さは、本当の覚悟を持った人に見抜かれます。

   必要なのは、軽い言葉ではありません。
   リーダーに求められるのは、志を貫き通す覚悟と実現するための行動です。

   真のリーダーとして志を成すため、共に自らを高め続けましょう。


http://3media.biz/entrepreneur-leader/3-leadership-requirements-yoshida-shoin.html

・・・

<参考>

(1)士規七則(しきしちそく)
    → http://www12.plala.or.jp/rekisi/sikisitisoku.html 

(2)士規七則 吉田松陰 youtube
    → http://www.youtube.com/watch?v=c56yoH5jItM

(3)「士規七則」・要約

  ①人の人たるゆえんは忠孝を本となす。

  ②皇朝は万葉統一にして、邦国の士夫世々禄位を襲ぐ。
   君臣一体、忠孝一致、ただわが国をしかりとなす。

  ③士の道は義より大なるはなし。
   義は勇に因りて行はれ、勇は義に因りて長ず。

  ④士の行は、光明正大、みなこれより出ず。

  ⑤人、聖賢を師とせよ。
   読書尚友は君子のことなり。

  ⑥徳を成し材を達するには、交遊を慎む。(交遊相手を選ぶ)

  ⑦何事にも動ぜざる者になれ。そのためには、堅忍果決。


   この士規七則を要約すると3つとなる。

  ①志を立ててもって万事の源となす。

  ②交を択びてもって仁義の行を輔く。

  ③書を読みてもって聖賢の訓をかんがふ。

            <感謝合掌 平成29年11月5日 頓首再拝>

吉田松陰に学ぶ - 伝統

2017/11/06 (Mon) 18:13:23


        *「吉田松陰に学ぶ リーダーになる100のルール」沢辺有司:著より

(1)高杉晋作には手紙でこう諭した。

   「人間は、生死を度外視して、要するに、
   なすべきことをなす心構えが大切である」

(2)平凡な一生を送るより、正義のために潔く死ぬべきである。

(3)チャンスが訪れたときに仕事をなしとげられず、
   そのチャンスを逃してしまうのは人として罪だ。

(4)どんなことでも、できないということはない。
   できないというのはやらないだけである。

(5)私と彼らの違うところは、ただ1つ。
   私は、ひたすら忠義のために行動しようとしているのに、
   彼らは、どのような成果をあげられるのかばかりを考え、
   結局、何もしないところだ。

(6)私は、人を信じて失敗するとしても、
   人を疑って失敗することがないようにしたい。

(7)人々にさげすまれ、しいたげられたときこそ
   本当の英雄かどうかがわかる。

(8)過ちをしない人が立派なのではない。
   過ちを改める人が立派なのである。

(9)究極まで衰退し、また盛り返す。
   究極まで乱れて、また治まる。

   これは、ものの常である。

(10)思い立ったその日から、学問でも何でもやるべきだ。
   年齢がどうとか考える必要はない。

(11)だから私は常に言っているのだ。
   昔の立派な人だって今の私どもと何ら変わらないと。

(12)井戸は湧き出る水の多い少ないが大切であって、
   掘ることが浅い深いはどうでもいい。

   同じように、学問は道が得られたかどうかが大切で、
   どれだけ勉強したかが問題ではない。

(13)人間の5つの道とは、

   君主関係における忠、
   親子関係における孝、
   夫婦関係における和、
   兄弟関係における友、
   朋友関係における信、

   である。

(14)仁愛がなければ人が集まることはない。

(15)その人の長所を取り上げ、短所を見ないようにし、
   気持ちを察して、結果を見ないようにする。
   そうすれば、どこであろうと人に慕われる。

(16)「理解しようと悶え苦しむのを待ってから教え導いてやる
   つもりだ」

   「同じではない人を同じにしようなどとせず、
   それぞれの才能を育てることに努めるべきだ」

            <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>

捨て身の変革者 - 伝統

2017/11/07 (Tue) 19:39:17


        *『松陰と晋作の志:捨て身の変革者』一坂太郎・著より

(1)吉田松陰の父は学問好きだった。

   幼い松陰とその兄梅太郎を田畑に連れ出し、
   四書五経や歴史書などを暗唱口授しながら農作業をした。

   あるいは、寸暇を惜しんで読書するように、つねに子供たちを戒めた。

(2)松陰の教育に熱心だったのは、叔父の玉木文之進だ。
   玉木は質実剛健をモットーにした、古武士のような人。

(3)幼い松陰が読書中に、虫を払いのけた。
   これを見た玉木は、烈火のごとく怒った。

   松陰がいま本を広げてやっている学問は、「私」のためにやっているのではない。
   身につけた学問を将来、天下国家のために役立てるためにやっている。
   いわば「公」のことをやっているのだ。

   その最中に、虫を払うというのは、「私」ごとであり、
   公私混同したことになる、というのだ。

(4)松陰は、このように私心を捨て去る訓練をしながら、育てられた。
   武士の人生の大きな課題は、「滅私奉公」である。

(5)「勉強は、将来社会の一員として貢献できる人間になるためにやるんだ。
   だからいま、しっかり勉強しなさい」

   そんな勉強の崇高な「志」を、子供に説くことができる大人が、
   一人でも多くいて欲しいものです。

(6)松陰は学問の心得として、
   「学者になってはならぬ、人は実行が第一である」
   とつねづね塾生に説いていました。

   そして自らも、この教訓を実践してきた。

   「教授は能(あた)はざるも、君等と共に講究せん
   (教える事はできないが、君たちと共に勉強していこう)」


(7)松陰の教えを受けた高杉晋作などは、
   現代から見ると信じられなぬほど難解な漢文の論策などを
   20代の若さで書いてしまう。

   その一方で、芸者をはべらせ、三味線を弾いて即興の都々逸などを
   歌ってみせる側面も備えている。

   こうした硬軟あわせ持つ者が、一流の人物といえそうだ。

(8)周布政之助は破天荒な高杉晋作を御せる唯一の上司だった。
   それは周布自身が、破天荒な人物だったからに他ならない。

   さまざまな改革を断行するため、周布は狂者を装っていた。
   表面は狂っているように見せかけ、
   実は心の中は醒めている「佯狂(ようきょう)」であった。

(9)本当の平和や自由や繁栄は、
   死に物狂いの戦いを経なければ生まれてこない。

   長州藩の攘夷戦もまた、日本の独立を守るため、
   避けて通ることが許されない、歴史の陣痛だったのです。

(10)「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。
   生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし。
   僕の所見にては、生死を度外におきて、ただ、言うべきを言うのみ」

                         (吉田松陰)

(11)「面白きこともなき世に面白く
   (面白くない世の中だけど、面白く生きていきたい)」

                         (高杉晋作)

(12)人には一つや二つの長所を持っているものである。
   その長所を伸ばせば、必ず立派な人になれるであろう。

                         (吉田松陰)

            <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>

吉田松陰が最期に高杉晋作へ伝えたかった事 - 伝統

2019/01/24 (Thu) 17:54:30

斬首直前まで平常心。吉田松陰が最期に高杉晋作へ伝えたかった事

       *Web:MAG2NEWS(2019.01.23)
             by 『致知出版社の「人間力メルマガ」』

《吉田松陰と高杉晋作の最後の対話》

伝馬町の牢にいた松陰を、言葉通り何くれとなく世話をしたのは高杉晋作である。

晋作はなかなか機転がきいた。
牢には牢名主というのがいて、これがいろいろなことを取り仕切る。
牢名主に贈物を届けなかったり、機嫌を損じたりすると酷い目に遭う。

そこで晋作は自分から出掛けていって牢名主に賄賂を渡した。
「吉田先生のお世話をよろしくお願いいたします」と頼んだ。

松陰にも面会し、「必要なものは何でもお届けします。おっしゃってください。
食物は大丈夫ですか?」などと親身になって心配した。

江戸の牢にいた松陰にとって、高杉晋作が江戸にいて
江戸藩邸にいてくれたことがどれだけ救いになったか分らない。

高杉晋作のきき込みによっても、吉田松陰の扱いは決して安心できるものではなかった。

牢役人たちは、「吉田先生は自分から何か恐ろしい計画のことを話して、
評定所の方々を恐れさせた。重い罰が下るようだ」という噂話をしていた。

きき込んだ晋作は心配でたまらない。
まさかと思っていたことが実現しそうな気配にある。


ある日、晋作は松陰に面会した時きいた。

「先生、男子たるものの死に場所についてお教えください」

切羽詰まった問い掛けに松陰は澄んだ眼で晋作をみかえした。
こんな問い掛けをする晋作の気持ちがどういうものか、
松陰にはピンとくるものがあった。

それはすでに自分に対する刑罰が、かなり重いものであることを意味していた。

松陰自身も、自分から間部詮勝の暗殺計画を話したのだから、無事にすむとは思っていない。

「いよいよくるか」

そう思った松陰は、いつもにも増して丁寧に晋作の問いに答えた。

「男子たるものの死に場所についてのきみの問いにはこういう答え方をしよう。
もちろん死は人間の好むべきものではない。
しかしだからといって憎むべきものではない。

というのは、世の中に肉体は生きていても心の死んでいる者がたくさんいる。
逆に肉体は滅んでも魂が生きている人間もいる。

心が死んでいたのでは肉体が生きていても何の意味もない。
才能や志のある者が一時の恥をしのんで生き、大事業をするというのは大切なことだ。

私欲や私心のない者が、脇からみればむざむざと生をむさぼっているようにみえても、
それはのちに必ず大事業をなすためなのだから、決して非難すべきではない。

死んで不朽になる見通しがあるのならば、いつでも死ぬべきだろうが、
反対に生きていて大事業をなす見込があるのなら、いつまでも生きるべきである。

だから生死というのは度外視すべき問題である」

晋作には師のいうことがよく分った。
晋作もまたこの答をきいて、「先生はすでに死を覚悟しておられる」と感じ取った。


高杉晋作に、「萩へ戻れ」という命令が下った。
これが、10月初旬のことであり同月17日、晋作は萩に向って旅立った。
このことを告げに伝馬町の牢へいくと、松陰はしみじみといった。

「このたびの私の災厄に、きみが江戸にいてくれたのでどれだけ助かったか分らない。
僕はたいへん幸せだった。きみの好意に深く感謝する。
急に国へ帰られるときいて、本当に残念でならない」

一言一言が高杉晋作の胸にそれこそグッと迫るものを持っていた。

かつて、東北の米沢藩主上杉鷹山が、その師細井平洲を米沢に迎えた時のことを、
「一字一涙」という表現で示した碑文が現地に残されている。

高杉晋作にとってこの時の師松陰の言葉はそのまま、「一言一涙」であった。
この時松陰は晋作に、一人ひとりの弟子についてその勉強ぶりや、
自分がいま心配していることなどを詳しく告げている。

普通なら、すでに死を覚悟した師の立場であれば、
おそらくすべての門人について褒め称え、
「がんばってもらいたい」というような月並な言葉を残していくに違いない。

松陰は違った。

たとえば、

「吉田栄太郎は周囲から志を放棄したとみられているから注意するように。
また天野清三郎は才能を頼みすぎで勉強をしないから、学業が非常に劣っている」

などと、至らない弟子たちに対する注意事項も与えている。

いかにこの時になっても、松陰が冷静な心を失っていなかったかが分る。

高杉晋作は師の言葉を正確に同門の志士たちに伝えた。


吉田松陰は安政6(1859)年10月27日、死罪の宣告をされ、
伝馬町の牢獄内で首を落される。

遺骸は、その頃処刑された国事犯が埋められる小塚原に埋められた。
国事犯なので遺体引き取りや墓を立てることは許されなかった。

そこで文久3(1863)年1月5日になって、京都朝廷が、
「いままでの国事犯を全部許す」という大赦令が出たのをきっかけに、
高杉晋作は、久坂玄瑞や伊藤俊輔(博文)たちと一緒に、小塚原の刑場にいく。

そして白骨と化した師の遺体を掘り起し、
若林村(東京都世田谷区若林町)の毛利家の飛地に改葬する。

これが現在の松陰神社である。
   ( → https://www.shoinjinja.org/ )

    (https://www.mag2.com/p/news/383314 )

            <感謝合掌 平成31年1月24日 頓首再拝>

≪吉田松陰の伝記を最初に書いたのは外国人だった≫ - 伝統

2019/02/05 (Tue) 20:07:13


       *メルマガ「人間力」(2019年02月04日)より

明治時代以降、今日に至るまで
吉田松陰の伝記は数多く出版されてきました。

山岡荘八の『吉田松陰』などはよく知られていますが、
初めての伝記は外国人の手で書かれたのはご存じでしょうか?


───────────────────
占部 賢志(中村学園大学教授)

※『致知』2019年3月号【最新号】
※連載「日本の教育を取り戻す」P126
───────────────────

【占部】

あなた方は松陰の伝記を読んだことがありますか。


【教師A】

山岡荘八の『吉田松陰』を駆け足で読んだことはあります。


【教師B】

私はまだ読んだことがありません。


【占部】

明治以来現在まで数多くの伝記が出ていますから、
読むに足りないものも結構あります。

じつは松陰の伝記でいち早く世に出たのは、
日本人ではなく、外国人が書いた松陰伝なんです。


【教師C】

いつ頃、誰が書いたのですか。


【占部】

『ジキル博士とハイド氏』や『宝島』で有名な
スティーブンスンが1880年に書いたんです。

1882年にイギリスで出版された随筆集に収録されています。


【教師C】

あのスティーブンスンがですか。はじめて聞きました。


【教師B】

どんなきっかけで松陰について知ったんでしょうか。


【占部】

松陰の門下生の一人がロンドンでスティーブンスンに
話して聞かせたのがきっかけです。
彼の名は正木退蔵(まさき・たいぞう)と言います。

松下村塾で松陰の教えを受けたのちイギリスに留学し、
ロンドン大学ユニバーシティーカレッジで化学を学んでいます。

帰国後は東京職工学校初代校長を務め、理系の教育者として活躍しました。
この学校が現在の東京工業大学です。


【教師B】

松陰の教え子にそんな人物がいたんですね。


【占部】

その彼が2度目のイギリス滞在中の1878年、スティーヴンスンと面識を得る。

その時、スティーブンスンは正木から
師の松陰の話を聞いて感動したらしい。
こうして、『Yoshida-Torajiro』と題する伝記を書くのです。

(中略)


【教師B】

教育者としての松陰について、
スティーブンスンはどう見ていたのでしょうか。


【占部】

こんなことを取り上げています。
ペリーが下田に来航した時、門弟の金子重之輔とともに
海外渡航を企て、米艦に乗り込もうとして失敗し投獄されたことがありますね。

金子は商人の家に生まれ、のちに足軽の養子になった若者です。
ですから、松陰に比べて身分はずいぶん低い。

入牢させられた獄も士分の者が入る野山獄ではなく、
士分以外の者を対象とする岩倉獄でした。
そんなわけで環境は劣悪で、金子は獄中で病死します。

この二人の師弟関係を正木から聞いた
スティーブンスンはよほど心を動かされたようです。

それは、松陰の持つ「感化力」です。

教育というより、そう言った方がぴったりします。


【教師B】

なるほど、感化力ですか。


【占部】

ええ。高い教養がある者だけではない。
金子のような若者の心をも奮い立たせる力です。
スティーブンスンはそこに強い魅力を覚えたのです。

            <感謝合掌 平成31年2月5日 頓首再拝>

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