伝統板・第二

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なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
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≪苦難と恐怖の克服法≫ (人間救いの原理) - 夕刻版

2017/10/22 (Sun) 20:41:47


「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」において、
”平賀玄米 さま”による謹写が完成いたしました。

昨年の6月から、1年4ヶ月に及ぶ長きに渡る貫徹力に
ただ、頭が下がりとともに、その情熱に感動いたしております。

まことに、まことに、ありがとうございます。


素晴らしい内容ですので、
こちらの「伝統第二」においても、すぐに閲覧できるように、

「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」における
Webアドレスを以下に掲載させていただきます。




《目 次 と Webアドレス》

第一章 致富繁栄の黄金律           (P3~49)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=353

第二章 運命が修正される原理         (P50~111)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=550

第三章 神癒力ある科学的基督(キリスト)教  (P112~165)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=807

第四章 日常生活の霊的導き          (P166~216)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=992

第五章 光明思想の先駆者たち          (P217~265)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1265

第六章 モルガンの神癒科学           (P266~314)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1449

第七章 神癒科学の理論及び応用         (P315~376)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1553

第八章 苦難と恐怖の克服法           (P377~426)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785

          <感謝合掌 平成29年10月22日 頓首再拝>

致富繁栄の黄金律 (一) - 伝統

2017/10/31 (Tue) 19:37:51

第一章 致富繁栄の黄金律 (一) より抜粋

吾々はルカ伝、第六章三十八節の聖句を
幼児(おさなご)の心を以ってそのまま信ずれば好いのである。


   人に与えよ、然らば汝らも与えられん。
   人は量(はか)りをよくし、押し入れ、揺り入れ、溢るるまでにして、
   汝らの懐中(ふところ)に入れん。汝らおのが量る量(はかり)にて量らるべし。


日本は、世界に対して「与える」事を、「寄与する」事をのみ心掛ければ、
やがて豊かに「人は量(はか)りをよくし、押し入れ、揺り入れ、溢るるまでにして」
日本国の懐中(ふところ)に富を無尽蔵に流入してくれるに相違ないのである。

          <感謝合掌 平成29年10月31日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (ニ) より抜粋 - 伝統

2017/11/01 (Wed) 19:20:28


(1)メンタルサイエンスの人生支配の根本は、
   現象界のすべては想念の具象化であり、
   「愛」がその牽引力であると云うことである。

   愛する者からのみ、吾々は愛されるのである。
   財を得んと欲するならば、財を愛しなければならない。
   富を得んと欲するならば、富を愛しなければならない。

(2)正しい方法に於いて富を求むるにはどうしたら好いだろうか。
   富を外形に於いてのみ愛してはならないのである。
   富を愛し、富に対して求婚するならば、富の魂を掴まなければならないのである。

   富と云う外形の影のみに恋して、影と結婚しようと思っても、
   それは無駄のことである。
   「形の富」は影に過ぎない、「富」の魂は、即ち「富」の本質は、
   「人間の幸福に奉仕すると云う精神」なのである。

   精神を捉えてわがものとするならば、
   外形は、影であるから自然に吾らに随って来るのである。

(3)富を得んとすれば、富の魂を捉えれば好いのである。

   富の魂には男性と女性とがある。
   富には魂の両親があるのである。

   富の父性霊魂は「人類への奉仕」であり、
   富の母性霊魂は「豊かさ」と云うことである。
   この二つの魂が結合する時現象界に具体的な「富」が出生するのである。

(4)富の父性霊魂は最大多数の最大幸福を目的として
   豊かに、「生命」を、「智慧」を「愛」を、
   「資本」を、「資源」を「労力」を流すことである。

   この「流出」こそ、眞の富を生み出す父性霊魂なのである。

   日本にも「道心に衣食あり」とか、「稼ぐに追いつく貧乏なし」の諺があるのは、
   此の富の父性霊魂の方面を言い表したものなのである。

          <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (三) より抜粋 - 伝統

2017/11/02 (Thu) 18:54:09


(1)世間の多くの人々が、稼ぎながらも貧乏の状態を脱することが出来ないのは、
   あまりに利己主義的であるか、あまりに潔癖すぎて
   清貧礼賛に陥り過ぎているかしているのである。

(2)あまりに潔癖過ぎる人は、人のために奉仕し、最大多数の最大幸福を
   念願しているけれども、「神と富とには兼ね仕えること能わず」の信条を
   守り過ぎているので、富そのものを気嫌いしているのであり、

   「貧しさ」そのものに魅力を感じて、凡そ富とは正反対であるところの
   「清貧」を招び寄せるのである。

(3)神は「地に蓄えられた富」を、換言すれば物質を本源として出て来る富とは
   およそ「神」とは正反対なるものとして排斥し給うのであって、

   「天に蓄えられたるとみ」を、換言すれば、神なる本源より必要に応じて
   湧き出づる富を排斥し給うのではないのである。

   またいくら蓄えても、「己が為に」蓄えないのならば好いのである。

(4)マタイ伝第六章にるように、

   地に積む宝は自己のためであってはならないし、
   自己のための財宝は天の倉に蓄えて
   無尽蔵に必要に応じて引き出せば好いのである。

   また自己のためでない富(公共奉仕の為の財)は
   地にいくら多く積んでも好いのである。

   聖書の言葉は微妙に書かれているのであるからそれを見逃してはならないのである。

          <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (四) より抜粋 - 伝統

2017/11/06 (Mon) 18:18:32


(1)神即ち「天の父」は無尽蔵によき賜物を「天の倉」より与えようと欲していられる
   のであるが、人間は,「蟲食い錆くさる」地から財宝を得ようとして貧しくなっている
   に過ぎないのである。

(2)「貧乏に満足せよ」とは神は言い給うてはおられないのである。
   神は我らにソロモン王以上に豊かにそして華麗豊富な富を約束していますのである。

   神は吾々人間――神の子たち――が貧しき状態で生活することを欲していられる
   のではないのである。人間ですら「善き賜物をその子らに与うるを知る。
   まして天にいます汝らの父は求むる者に善き物を賜わざらんや」と神は言い賜うのである。

(3)与えれば与えられる。豊富に与えれば豊富に与えられる、
   ケチに与えればケチに与えられるのである。

   小出しにケチケチと出し惜しみをしながら出していたのでは、
   心がケチであるが故に、総計では沢山出していたにしても、
   その心がケチであるがゆえ豊富な供給に恵まれると云うことはないものである。

   何故なら、その人の心がケチであるからである。

          <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (五) より抜粋 - 伝統

2017/11/07 (Tue) 19:44:42


(1)愛あるところに、愛される人々が喜んで集まって来るように、
   「資本」も同じく、資本を愛すれば資本が集まって来るのである。

  ①諸君が資本を愛するならば、資本を託する相手を吟味しなければならない。
   そしてこの人ならばきっと資本をよく育て保護し生長せしめ増大せしめてくれる
   と思う相手に託しなければならないのである。

  ②諸君は、金は出したが、智慧を出したか。深切を出したか。
   その資本を愛するために凡ゆる手段と方法と智慧と愛との出し惜しみを
   しなかったであろうか。 

   これらの条件がすべて整うたとき、諸君に豊富華麗な供給が与えられるのである。


(2)イエスは宇宙に号令して必要なものを必要な時に引寄せる力を持ってい給うたのである。

  ①「汝の財宝(たから)のある所には、汝の心もあるべし。」(マタイ伝第六章二十一)

  ②イエスは七つのパンを四千人に分かちて、その余りがなお七つの籃に充ちたと云う。
                             (マルコ伝八章一 ―― 九)

          <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (六) より抜粋 - 伝統

2017/11/13 (Mon) 19:13:25


(1)イエスは七つのパンを四千人に分かちて、その余りがなお七つの籃に充ちたと云う。
   また別の章には五つのパンを五千人に分かちて、
   その余りが十二籃に充ち溢れたともあるのである。

   この驚くべき奇跡は一種の寓話に過ぎないと見る人もあるであろうが、
   これこそ實相無限供給の眞實譚なのである。

(2)イエスは「われこの群衆を憫(あわれ)む。・・・・飢えしままにて、
   その家に帰らしめなば途にて疲れはてん。」と言っている。

   愛がそしてその実現のための行動のみが無限供給を招び寄せるところの
   魔術の秘法なのである。

          <感謝合掌 平成29年11月13日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (七) より抜粋 - 伝統

2017/11/17 (Fri) 19:39:32


(1)「富」とは物質ではない、「愛」の具象化したものなのである。
   神の愛が具象化した ―― それが物質であり、富である。

   されば富を実現するためには愛を実現することが必要なのである。

(2)富は愛の実現のために出せば出すほど、まるで外交員を派出するかのように、
   「富」が富の友人を伴い来たって益々その人の富は殖えることになるのである。

(3)富は愛の実現のために与えなければならない。
   相手を見極めず、愛のない親が自分の娘を身売りさせるように、
   ただ自分の富を投げ出すだけでは、富はその持ち主の冷淡さを憤って、
   再びその持ち主の所へは帰って来ないであろう。

(4)「富」は愛を実現するために、人々の懐中を循環して、
   人々の生活を潤しながら、人々を富ましめながら、
   自分も富の子供を生んでもと出て来たその懐かしい人々の許に
   帰って来ることを楽しみにしているのである。

   だから「富」は金庫の中へ封鎖したのでは決して増加しないのである。
   「富」はその愛を実現するために出て行かしめなければならない。

   これが富を愛する最も完全な方法なのである。

(5)「富」は愛の実現のために外出せしめなければならないが、
   時々それを家の内に戻して休養せしめることが必要なのも、
   すべて人間の家族を常に外勤状態のみに置いては家族の懐かしさが
   無くなるのと同様であるのである。

   「富」を自分の家庭に引寄せようとおもうならば、
   「富」をしてその家庭を懐かしいと思わしめるように
   時々自己のうちに呼び戻して温存してやることが必要であるのである。

(6)「富」は「富」自身の増殖のためのみにコキ使ってはならいのである。
   「富」も時々は社会の事情に従って静かにしていたいときもあり、
   じっと様子を見ていたり、瞑想にふけっていたいこともあるのである。

   あまりに「富」をコキ使って、「富」をして休養と静観との余裕を与えなかったために、
   ついに「富」に愛想をつかされた人が多いのである。

          <感謝合掌 平成29年11月17日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (八) より抜粋 - 伝統

2017/11/20 (Mon) 19:28:39


(1)どんな社会制度の下にも貧困者はあるのである。
   物資の無限に豊富な米国にも、共産主義社会のソ連邦にも貧窮者はあるのである。

   如何なる制度の社会にも、自己の内なる無尽蔵の宝庫を開かない者は
   結局貧窮者であるか、社会の寄生虫であるかの外はないのである。

(2)自己の内なる無尽蔵の宝庫を開く眞の道が、
   いのちのそのままの発露に乗託して「小我」を用いないことである。

   自己の内なる無尽蔵の宝庫とは、即ち「大我」であり、「神」であり、
   「神」なる大宝庫を開く道が、
   「飢え来たれば則ち喫し、困じ来たれば則ち眠る」である。

(3)「果報は寝て待て」と云う諺がる。
   これは常住寝ていて幸福が来ると云う意味ではない。

   「静」(Silence)の世界、「大寂」の世界(「神智」)の世界)に
   任せ切って、私のはからいなしに、神からはからわれて自然に、法爾に、
   そのままに動き出すとき、自然そのままに幸福が、無限供給が出現して来る
   と云う意味である。

(4)人間の眞の富は「神の倉」(大寂)の中にある。

   その「大寂」の生命の大海に吾等は棲んでおり、
   その「大寂」の生命がわれ等の中に流れ入って、
   わが生命となっているのであるから、
   わが生命そのものの中に無尽蔵の供給があるのである。

   自己の内にある無尽蔵の供給を先ず自覚することが、
   供給無限の黄金律の第一である。

          <感謝合掌 平成29年11月20日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (九) より抜粋 - 伝統

2017/11/21 (Tue) 21:14:55


(1)フォード翁曰く

   「富は仕事をする道具でその他の何でもない。
   富は炉に投げ込む燃料とか、機械を廻すベルトとか云う風なもので、
   目的に達する為の手段なんです」と。

   そしてそのベルトを廻し、燃料を燃やす力は精神力そのものなのである。

(2)フォード翁は言う、

   「その力(精神力)がすべてですよ。一切の根元が其処にあるんです。
   吾々はただその力を認めるだけのことです。
   すべてのものの精髄と本質とが其処にあるのです。

   吾々が霊と云い物質と云うものは一つですよ。
   霊と物質とは一つの全体です。
   僕は「霊」とか「物質」とか云って全然違う反対のものがあるように
   考えたくはないのです。この二つは全く一つなんです」と

   言っている。

(3)富は外形から見れば物質であるから物質豊富のアメリカは「物質の国」に
   見えるけれども、富の内性を観るならばそれは精神力の具象化であるから、
   物質豊富のアメリカは精神力豊富のアメリカである。

   日本人の大多数が日本精神と称しつつあったところのものは、
   実は人間を「物」の代用とする物質精神に他ならなかったのである。

   新しき日本を再建する為には彼らの所謂る日本精神(実は唯物精神)を打破し、
   眞のアメリカ的精神、ニューソート的精神に基き、
   日本人の生活の建て方を根本的に変革する必要があるのである。

          <感謝合掌 平成29年11月21日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (十) より抜粋 - 伝統

2017/11/24 (Fri) 18:24:24


(1)キリストの説いた芥子種の信仰の精神

  ①「若し芥子種ほどの信仰ありて、この山に対(むか)いて
   動いて海に入れと言わば、必ず成らん」 ――キリスト)

   山は山に非ず、物質は物質に非ず、呼べば応えて動くのである。
   山さえ動くのであるから、食糧の増産や、生活必需品を動かすこと位は
   何でもないのである。

  ②「山、山に非ず、之を山と云う」とは金剛経に書かれている
   語(ことば)であるが、「物質、物質に非ず、これを物質と云う」

   (「霊と物質とは一つの全体です。僕は「霊」とか「物質」とか云って
   全然違う反対のものがあるように考えたくはないのです。」――フォード翁)

(2)「宇宙生命」の存在を信じ、それと波長を合わせなければならないのである。

  ①宇宙霊は存在するものの一切を蔽い、一切を生み、一切を生かし、
   一切の存在を支えてい給う。それは決して一部の利益に奉仕しない。

   それだから「この力と接触する道は、最大多数の人間の最大多数の善を
   為そうと思って生活を正しくしなければならない。」
   とフォード翁は言っているのである。

  ②これは単に一フォード翁の精神ではなく、
   アメリカ民主主義産業の精神であると思う。

   一民族、一国の利益の為に無数の殺人を厭わないような精神は、
   宇宙全体の幸福を念願し給う、宇宙霊(神)の愛の精神と
   波長が合わないのである。

(3)人間は、宇宙の霊的中心

  ①ヘンリ―フォード翁に言わせれば、全宇宙は、生ける霊的元素体
   (Spiritual entity)の充満せる霊的大海原であり、
   一人一人の人間はその霊的大海原に浮かんでいる一個の霊的中心
   であるのである。

   即ち人間は、宇宙霊の自己顕現の中心者として、
   今此処に宇宙霊の全徳が顕現しようとしているところの霊的中心なのである。

  ②フォード翁は曰う
   「目的の実現している様を心にハッキリと思い浮かべれば、
   心に浮かべた状態はその時から形を取り始めます」と。

   翁にとっては、否、眞理に於いては、
   物質的形態は精神観念の具象化なのである。

(4)宇宙は生命の霊的元素体の充満せる世界

  ①何故、心に描くことが形に具象化し始めるのかと云えば、
   宇宙全体は、所謂「霊の大海」であり、生ける生命の波動が、
   恰もラジオの波のように充満しており、

   吾々一個の生命は各々大生命のラジオ波を受信して、
   それを可視的形態に具象化する一種の霊的テレビジョン装置であるからである。

  ②ヘンリーフォードは宇宙を生命の霊的元素体の充満せる世界と観じ
   その原理を次の如く説明している――

   「吾々が何を希望するにもせよ、それに心想を集中してその実現を念じ、
   その目的実現に向かって動き出せば、この生命の霊的元素体が集って来て
   吾々を助けて自分の希望するものを形に築き上げてくれるのです。

   正しい事、有益な事、をしつつある人は
   誰でもこの霊的元素体の助けを受けることが出来ます。

  ③この生命の霊的元素体は外から遣って来て助けてもくれますが、
   内からも出て行くのです。――
   自分の想念を乗物として出掛けて行き、必要なものを有ってきてくれるのです。

   この霊体は、吾々の向上進歩を形づくる実質になるものです。
   この霊体の性質や分量は、各人の想念の型に従って決まるのです。

   結局、各人の想念が形の世界に現れる。

  ④まことにも宇宙は唯一つの「霊の大海」であり、一波は万波に影響し、
   「内外一体、環境は我が心、我が心は我が環境」と云うことになるのである。

   波動と云うものは物質の波、心の波と区別して説くけれども、
   結局それは、唯一つの「識」の波動である。

   この宇宙は「識」が動かなければ客観世界(名色(みょうしき))もなければ、
   主観世界(識)もない。

   結局宇宙は唯識の展開だと云うことになるのである。

          <感謝合掌 平成29年11月24日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (十ニ) より抜粋 - 伝統

2017/11/26 (Sun) 19:07:17


(1)神の財(たから)であるが故に神の摂理によって
   自然に神のまにまに計られて、心の姿に随ってその富が分配されるのが、
   眞の自由人の世界であるとするのである。

(2)「吾々が何を希望するにもせよ、それに心想を集中してその実現を念じ、
   その目的実現に向かって動き出せば、この生命の霊的元素体が集まって来て
   吾々を助けて自分の希望するものを形に築き上げてくれるのです」
   と言いしフォード翁の如き世界観、

   誰からも奪うものではない、自分の念の力で霊的元素体を吸引して、
   富を具象化すると云う世界観を把持し、その理想実現に邁進すべきである。

(3)ヘンリーフォードの言う通り、

   「思念を集中すれば、其処に霊智的小生命体を引き寄せる中心磁力を生じます。
   例えばある事業に思念を集中するならば、その思念の磁力にて
   その事業を成就するに必要な凡ゆる要素が集まって来るのです。

   志すものを大いに絶えず強く思えばその事物は引寄せられて来るのです。
   吾々が諸種の事業をやりかけて見て成功しないのは、
   その志すものを絶えず強く熱意を以って思わないからです。

   志す事業を招び寄せるのには、その思いを中断せずに、
   気永くその希望と熱意とを持続しなければならない。
   短気ですぐ失望するようでは駄目です。

   その事業が成就するのに適当な条件を引寄せるには
   或は三、四ケ月掛かることもあるし、時には六ケ月掛かることもあります。

   兎も角、思念を長期間持続的に集中することは、
   必要な事物を引寄せる磁力となるものです。」

(4)フォード翁は「志すものを絶えず強く思う」と言っているけれども
   志さないものでも「絶えず強く思えば」それは心の世界に先ず形成せられ、
   その反影として形の世界に形成せられたのである。

   この事は病気などは恐らく「志すもの」ではないけれども、
   病気を「絶えず強く思えば」病気が生じて来るので実証せられるのである。

   多くの慢性病者は、病気を恐れるがために、
   却って心に「病気を絶えず強く思い」病気を心に形成いるから、
   病気が常に絶えないのである。

   私は多くの慢性病者に病気を忘れるように指導し、
   心に病気を思わないように教え、心の世界から病気を放逐してしまって、
   彼らが病気を心に思わなくなった時、彼らの慢性病が癒えてしまっていた
   幾多の体験例を知っているのである。

          <感謝合掌 平成29年11月26日 頓首再拝>

第一章 致富繁栄の黄金律 (十三) より抜粋 - 伝統

2017/11/29 (Wed) 17:14:52


(1)潜在意識の引きずって行く力は現在意識の希望を容赦なく粉砕し、
   踏み躙り、その潜在意識の底に描かれた想念を形の世界に具象化すべく、
   グングン色々の条件を整えて行くのである。

   現在意識が「失敗しないこと」を希望しているなどと云うことは、
   潜在意識のこの引摺って行く力に比べては物の数にも当たらないのである。

(2)事業の成功の上にも、潜在意識が、富の蓄積や事業の成功を拒むような
   気持を持っている限りに於いて、

   現在意識が刻苦勉励一所懸命、致富の為に、また事業成功の為に
   孜々として努めても、すること為すこと不成功になるように導かれるのである。

   ではどういう場合に潜在意識が致富を拒絶し、
   事業の成功を妨害するのであろうか。

  ①その人があまり純潔すぎて「富と神とに兼ね仕えること能わず、
   吾は神に悦ばれんが為に貧しからんことを欲す」と云うような
   清貧礼賛の気持ちでいるときである。

  ②その仕事の動機又は目的が正しくない為に潜在意識が
   その事業の成就を好まない為に、凡ゆる手段を尽くして見るけれども、
   その採る手段は却って目的の成就の正反対の方へ
   潜在意識によって導かれるのである。

(3)この潜在意識の導きは、広義に於ける「神の導き」に一致しているのである。

   ヘンリーフォードは事業を成功へ導く力と接触する道について
   次の如く言っている。

   「この力と接触する道は、最大多数の人間に最大多数の善を為そうと思って
   自己の生活を正しくすることです。」

   正しい生活を為さなければ
   「神に繋がる潜在意識」の祝福を受ける訳には行かない。
   だから吾々は潜在意識の喜ぶことをしなければならぬのである。

   悪銭身につかず、盗んだ金や、盗んだ金や奪った財は
   直ちに蕩尽されて元の木阿弥になってしまうのである。
   諸君はそういう例を沢山知っている筈である。

(4)成功と勝利の唯一の味方は「正しい生活」と云うことである。

   宇宙に満つる渾てにして一つなる超在意識、これは「神の意識」であり、
   宇宙に遍満する意識であるのであるが、吾々個人個人の潜在意識は
   此の超在意識が吾々に流れ入って個性化したものである。

   吾々は潜在意識を誤魔化して悪を押し通して
   事業の成功を為そうとしてはならないのである。

(5)キリスト教が教えたところの眞理を総括するならばこうである。

  ①「神の生活が人間の子の生活である。汝の生活について思い煩うな。
   神の生命が自己の生命であり、神の生活が自己の生活であると云う事を
   内に自覚したとき、そして、神の子としての生活を正しく生きるとき、
   外の世界に於けるすべての事物はそれに伴うて実現するのである。

   先ず神の国の義(ただ)しきを求めよ。
   その余のものは汝等に自ずから附け加えられるのだ。

   野の百合を見よ、私の計らいで狡智猾智(こうちかっち)の計らいで
   生活しないでもソロモン王の栄華よりも美しい装いをつけさせているではないか。

   これが神の愛なのである。

   汝等は空の鳥よりも野の百合よりも尚一層優れたる者ではないか。
   人間は万物の霊長として神の全徳の世嗣(よつぎ)ではないか。

   だから人間を貧しくあらしめるということは神の意志ではないのだ。
   汝等は地の宝を求め、人間智で悪を行うから却って貧しくなるのだ。

   天の倉にある無尽蔵の宝庫を開け。
   ソロモンの栄華よりも尚美しき装いの百合の花よりも
   尚々美しき生活を送らしめたいという事が神の願いなのだ」と。

  ②諸君はこのイエスの福音を信ぜよ。
   強いて清貧を求むるな。
   又強いて人間的な計らいを以って富むべく求るな。

  ③今、今、此処、此の一刻、一刻を神の正しき生活を送り給え。
   その余のものは諸君に自ずから附け加えられるのである。

   然らばその「正しき生活」とはヘンリーフォードはこう言っている ――
   「僕が自己の生活を正しくすると云うのは、最大多数の人間に
   最大多数の善を為そうと心掛けることなんです」――

   これが光明思想に於ける「供給無限の黄金律」なのである。

          <感謝合掌 平成29年11月29日 頓首再拝>

第二章 運命が修正される原理より抜粋~その1 - 伝統

2018/01/21 (Sun) 18:05:16


<神は導き給う>

(1)生命が、神の創造が、存在に入り来るのは愛を通してであり、
   それが支えられているのも愛を通してである、
   常に斯くあることを自分は悟ったのである。(ノールウイッチの聖ジュリアン)

  ①吾々が幸福のために関心すべき唯一つのものは、如何にすれば
   神と一体となれるかと云うこと以外に於いてはない。

  ②吾々を一切の制約から解除し給う所のものは唯一つ、
   神の摂理の調節であると云う重要なる自覚のポイントに到達するのであります。

(2)信仰生活の最初の頃には、吾々は神の力に助けられて
   何事もわが望むことを成就し得るように考えるものなのです。

  ①実際に、生長の家誌友の多くの体験談が示すように
   吾々が求むるものを必ず成就し得ることは驚くべきばかりであります。

  ②併しここで有頂天になってはいけません。
   それは一つの段階であって、信仰が進んでくるにつれ、
   吾々は喜んでその段階から脱け出さねばならないのです。


(3)吾々は吾々に与えられたる尚一層高き善きものを得んが為には、
   既に得たるものを放棄しなければならないのです。
   それは魂の蝉脱の過程であります。

  ①深き眞理を知らない為に或る人々は死力を尽くして
   旧き安易な境遇や幸福状態に留まろうとするものです。

   併しかくすることに依って却って全く自分自身を苦しめ、
   人生に不必要なる摩擦を生ぜしめるに過ぎないのです。

  ②今迄有ちしものが失われ去るのは、過去の業の脱皮作用であり、
   より一層よき状態に変化する過程であります。

   今迄得たところのものを捨てねばならぬのは、
   尚一層祝福されたる広く平和なる世界に進み入る入口であります。

   このことを知るならば、人間は自己の運命の如何なる他働的と見える変化に対しても
   喜んで和解して受けることが出来るでありましょう。

  ③生長の家の神示に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とあるのは、
   こうした摂理への無我随順の意味もあるのであります。


(4)先ず第一に吾々が知らねばならぬのは、「視えぬ力」を使用することに依って
   事物を見えざる奥底から支配する方法を知らねばなりません。

  ①「我」の力は一見強力に見えようとも、そしてそれが順調に
   事をやり遂げる力があるように見えている時と雖も、我の力でやったことは、
   それがたとい成就しても、何等吾々の人生に眞の幸福も、眞の調和も齎さないもの
   であると云う事が遂に発見されるに相違ないのです。

  ②そこに神の摂理の御手による修正が行われており、
   「我」の力には最後に「無数」の審判が起るようになっているのです。

  ③初心の入信者にとっては、最初の真理の応用法として
   経済的苦難の克服を欲すると云うことは当然の順序に見えます。

   併しながらやがてその人が眞理に奥深く入って行くに従って、
   信仰体験によって、彼の最初の希望が間違いであったと云うことを
   悟らしめられるに到るのであります。

  ④諸君は遂に自身の力では生活を調整することは出来ないと云う
   ある信仰段階に到達せられることがありましょう。

   そこに神の摂理による調節が始まっているのであります。
   神のみが常に吾々の魂の向上の順序を知り給い、今迄の環境に於いては、
   もう魂の向上が得られなくなった時、今迄の境涯が暗黒となり、
   他の光を求めしめられる神の無限の智慧が吾々の内部に働いて来るのであります。


(5)神は吾々に完全の自由を与え給う。

  ①吾々が過てる道を選んだからと云って、吾々を強制的に方向転換せしめ給う
   と云うことはないのであります。

   神はただ「法則」の相(すがた)において内在的に働き給い、
   人間の生活が一方に偏ったり、一つの形式のみに固定した時
   自然に行き詰ってくることによって、
   人間自身の自由に於いて、運命の修正が行われます。

  ②吾々が素直に神の導き給う運命の修正に随順し乗託するとき、
   物事はスラスラと運行して来、神の無限の力、無限の智慧、無限の愛に依って
   生活は立所に光明面に転回せしめられ、人生の摩擦と悩みとは消え、
   今迄よりも高次な極楽状態がその人の人生に現れて来るのであります。

  ③人生の、そして宇宙の一つの法則は愛であります。
   されば、それに従うことは簡単なことです。

   併し必ずしもそれはイージーではないのです。
   愛は神の法則の充足であります。

   吾々は又愛とは生命であり、そして大いなる癒す力であり、
   再建せんとする智慧であると云うことを知らねばなりません。

  ④吾々が神の摂理によって如何なる悩みでも癒されたいと希(ねが)うならば、
   吾々は先ずすべての人を(吾々の敵をも含めて)喜んで愛しなければならないのです。

  ⑤人生の實相は愛の流れであります。――祝福と調和と善の流れであります。
   その流れの中に吾々が従順にその波に乗って棹さすならば、
   総てはそのままに祝福された姿であり、
   調和と善とはそのままに実現するのであります。


(6)苦痛と困難

  ①吾々の苦痛と困難とはその流れに乗ることをせず、波に逆らい、波と衝突し、
   その飛沫を鼻の中に吸い込み、或は波の下を潜って自ら窒息してしまうから
   起るのであります。

  ②愛は人生を支配している大生命の根本の流れでありますから、
   人生の凡ゆる困難なる立場を打開する所の鍵であるといえます。

   愛がなくなった時、吾々が實相の祝福の大生命の電波的流れと
   波長が合わなくなるのは当然です。

  ③個人の運命も国家の運命も同じことであります。
   それは法則に支配されます。

   凡(およ)そ神を味方とする者は勝利し、
   神に背く者は一時勝利するように見えても敗北するのであります。

   何故ならば神のみが永遠の勝者であり、
   神の道のみが天下無敵であるからであります。

  ④諸君の人生が行詰った時、どうすれば好いか。
   諸君の生活にいつの間にか「愛」が失われていないかを顧みよ。

   そして愛の道を再発見し愛の道を実践しなさい。
   これこそが唯一の救いの道であります。

  ⑤兎も角も、この窮境から脱しなければならぬ。と決意するならば、
   先ず、自己の生活が愛の生活でなかったことを神に対して懺悔せよ。

   そうして神にお詫びして神に対して委せ切れ。
   その時神は神自身の方法に於いて吾々の苦難を解決して下さるでありましょう。

   このとき諸君は神の前に絶対の無我になって任せ切らねばならないのです。
   やがて神は神ご自身の時に於いて、神の無限の智慧、無限の創化力が発現し、
   神自身の方法によって、その紛糾せる問題がいとも容易に解決され始めるのです。

   「神自身の方法に於いて」と云っても
   周囲に起こる境遇と人々との動きを通してであります。


(7)自我の無条件降伏

  ①快刀乱麻を断つ如く神の大いなる力が働くのは
   かかる自我の無条件降伏が神に対して成された時に於いてのみであります。

   いまだ吾々が神に対して無条件降伏しなかった以前は、
   吾々の自我意識が、神の救いの霊波と共鳴しないがゆえに、
   神は既に救い給うていられながらもその救いが成就せぬです。

  ②神に和解する唯一の道は、神そのままになること
   ――即ち「人間我」がなくなることです。

   人間我が完全に撤廃された時にのみ神の力が完全に流れ入って来、
   完全なる調和を齎してくれるのであります。

   何故なら眞の調和は神自身の神聖なる内在秩序の展開であるからであります。

  ③吾々をして神の創造り給いしままの實相・完全の環境を実現することを
   妨げているのは、吾々自我の自我意識の残渣と、
   神に対する信頼の欠如とによるのであります。

   吾々がもし眞理を完全に自覚して生活し、
   常に實相世界の祝福の流れの中に生活しているならば、
   神の摂理による運命の調整などと云うことは必要ではないでありましょう。

  ④吾々の心の波が、神の祝福の霊波と同波長の生活をし、
   かくの如くして吾々が完全なる神の摂理の中に生きるならば、
   吾々は常に實相世界(天国)の調和せる状態と琴瑟を合わせつつ、
   天国現前の生活を営むことが出来るのであります。

  ⑤けれども吾々の多くの者は、恐らく計画した事物が成就したら
   返って結果は宜しくないとか、健康を快復したら却って精神的に堕落するとか、
   富有になったら怠けるとか、或はまた性格の中に何か神の摂理に依る調整を
   為さねばならないことが含まれているとか云う場合が多いのであります。

   かかる時、神の愛による運命の調整が始まるのです。

  ⑥人間が失敗し、人間のあらゆる「我」の試みが完全に阻まれてしまい、
   人間の努力に対する希望が失われてしまった時に、総ての事物は
   無限である所の神の御心の前に無条件降伏の姿で差し出されて浄められるのです。


(8)不完全である所の事物は総て「絶対実在」から観れば、
   単に見せかけに過ぎないのである。

  ①「観る」ことは創造することであります。
   吾らが神の心を以って、眞實の存在であるところの完全なる實相を観、
   眞理のみ實在であることを完全に自覚するならば、
   複雑と困難との外見は自ずから消えてしまうのであります。

  ②「善」のみを見給う神の心がそこに発現する時、
   吾々を取巻く困難は、差昇る朝日の出現と共に消えゆく朝霧のように、
   雲散霧消してしまうのであります。

  ③神に任せ切るとき、神は吾々に眞理を見、實相を観る目を与え給い、
   現象に引っかかるならば、失望と落胆と、意気消沈と恐怖心とに満たされて、
   為すところを知らないであろう所の状態をも、無事不安なく生活せしめ給うのです。


  ④吾々は、現象は如何にともあれ、「實相」のみ實在であると云うことを
   記憶しなければなりません。

  ⑤「實相」より離れた所の何物も眞の存在ではないのです。
   そして「實相」のみ事物の眞の姿であり、「實相」は必ず完全であり、
   調和であり、秩序であり、善であり、幸福でありますから、

   総て不完全なるもの、不調和なるもの、無秩序なるもの不幸なるものは實相に非ず、
   唯見せかけに過ぎないのであります。

  ⑥光のみが闇を消す力があるように、神と「實相」のみが
   吾々の困難を救治することが出来るのです。

   ここに吾々は自分自身の「我」の力で何事でも為そうという考えを
   放棄しなければならない魂の進歩の段階に達するのです。

   ただ神の生命に、愛に、智慧に、そして自ずから起こる創化作用に
   任せ切っておればよいのです。


(9)神と共に生命の讃歌を歌う

  ①諸君よ、神に対して総てのものが投げ出されるのは、
   総ての試みが悉く失敗したこの時なのである。

   此の時こそ神聖なる瞬間であり、全てのニセ物が破壊し尽くされて
   神の救いが顕現し始める時なのです。

  ②神の力が現実に現れて総ての事物を完全の状態に、和の状態に、
   完成の状態にまで完成するのは、人間の我の心配、作為、焦燥が悉く
   消え去った時にであります。

  ③言い換えれば、無限者の前に無条件に降伏した時にこそ、
   個我の何等の努力なしに苦しみなしに、神の聖なる智慧が齎されるのであります。

  ④凡そ、生かすものは神のはたらきに由るのであります。
   それは外からの治癒作用や自壊作用に見えようとも、

   実際は神の癒す力の内流であり、それは個人に於ける場合と、
   国家に於ける場合とを問わず、凡そ凡ての事物が健全に復するための
   あらゆる種類の癒しと云うものは決して自分自身の力ではない。

  ⑤それは神の前への自我の無条件降伏によってであり、
   愛と感謝と委せ切りとの心境で「神よ、神よ、」と
   幼児が母の乳房に吸いつくような心境になることである。

   「我が為すに非ず、キリスト我に宿りて之を為さしめ給うのである」
   と云う自覚は、神癒を受くる者にとって、及び神癒の媒介又は媒体となるべき
   宗教家にとって、絶対に必要な心境なのであります。

          <感謝合掌 平成30年1月21日 頓首再拝>

第二章 運命が修正される原理より抜粋~その2 - 伝統

2018/01/22 (Mon) 19:44:10


 <我を知り給う神>

(1)誤れる国家及び個人の性格は一種の罪(實相隠蔽)であります。

  ①「罪の個我」――ハートの頑固さ、知識の間違い、反キリスト的な欲情、
   何事に対しても不平の心、呟く心、憎む心、恨む心、審判(さば)く心から
   解放されねばならないのであります。

  ②吾々が誠実に吾々自身を反省し、心の中を点検して見る時、
   吾々の心の中には実に沢山な、とても自分の力では克服し難く思われる
   悪徳が満ちているのであります。

   しかし憂うるなかれ、神は吾々の罪を自壊せしめ、道徳的人格の傷を癒し、
   吾々の心情を新たにし、吾々の欲情を清め高めて本来の神の子の實相を
   顕し給うことが出来るのであります。

  ③ただ神に向かって祈れ。罪は実在でないが故に、闇が光によって自壊する如く
   「罪の自分」は必ず自壊する時が来るのである。

   真夜中はいつまでも続くものではない。必ず復活の太陽は差し昇るのである。


(2)吾々は「神」が自分の中に宿っており、
   「神」の実現こそ吾々に約束されたる光栄ある希望だと云うことを
   知らねばならないのです。

  ①善にして愛であり給う神は、キリスト(又は佛教では観世音菩薩、
   神道では住吉大神)を媒介として我が内に入り給うて我らを支配し給うているのである。

   キリストを媒介として、吾が内に宿り給う神の霊に呼びかけ、
   吾々の総ての過てる思いと情欲とを拭い去り給えと祈る時、
   神は光が闇を消し去るが如く、吾々の欠点を消し去り給うて、
   神の子なる我が純粋の完全さをわれに顕し給うのであります。

  ②このためには吾等自身の上にも常に絶え間なき祈りが必要なのであります。
   祈りと共にその日、その日の為事(しごと)を神と共に為さなければならないのです。

   吾々は神と協働しなければならないのです。

  ③また吾々は自分の心の中に入り来る思想、観念、印象の門戸を
   見張らなければならないのです。

   吾々は悪の暗示の一つの断片さえも流入を許してはならない。
   何故なら吾々の生命は「神の宮」であるからです。
   神の宮を掃き浄める如く吾々の心の庭を浄めねばならない。

  ④禍の最初の徴候が現れれば直ぐ吾々は神に、キリストに、観世音菩薩に呼びかけ、
   過れる思想を拭って頂き、過れる欲情を浄めて頂き、
   悪しき暗示を拭い去って頂くと同時に、

   吾が實相の純粋さ、眞實さ、忍耐、愛、深切が現れて来るように
   祈らなければならないのです。


(3)神は吾々が求め、且つ予想したよりも素晴らしく豊かに吾々に恵み給い、
   外からと内からと、環境と自己内在の力となって吾等を救い給うのです。

   かくて吾等はすべて神ご自身の肖像(にすがた)なる實相円満なる姿を
   実現することが出来、万徳円満・光明遍照の姿を以って神の栄光の前に
   罪無き實相を露呈することが出来るのであります。


(4)吾等が祈りを通してかくの如き状態に達するとき、
   吾等にとって最も大いなる悪魔であるところの「自我」が滅びます。

  ①唯キリストの愛のみが、自分の中に生くる事になり、
   キリスト自身が自分の生命であり、観世音菩薩自身が自分の生命となり、
   住吉大神のみが自分に生くることになるのであります。

  ②かく言えばとて吾々は決して眞の人格即ち眞の個性を失うのではないのであります。
   寧ろ眞の個性が吾々に現れてくるのです。

  ③物質的知識に誇らず、我の経済的成功や地位に奢らず、
   霊に依って生まれ変わりたる、心貧しき人こそ眞に霊的なる事物を理解することが出来、
   新しき生命の啓示の中に生長することが出来るのであります。

          <感謝合掌 平成30年1月22日 頓首再拝>

第二章 運命が修正される原理より抜粋~その3 - 伝統

2018/01/23 (Tue) 19:18:44


<正信・正行・信行の一致>

(1)正しき道とは「實相」より出づる道、「實相」に即した道、
   「實相」と波長の合う行為、想念、言葉、態度等々・・・であり、
   過てる道とはその反対であります。

  ①欲する事物を心に描き強き意志を以ってその実現を期する為には
   想像力が用いられねばならない。

  ②良からぬものは眞の神の創造ではないが故に仮相であり實相ではない。

   従って崩れる他はなく、やがては眞の調和せる状態が
   存在面に現れて来るのであります。

   良からぬ結果は「神」と離れたる
   吾等の行為、想念、想像、言葉、態度等の結果であります。

(2)大自然には勧善懲悪的法則が存在する

  ①神の智慧に一致して想念することは
   實相を顕現する為の正しき想念の最高形式であります。

  ②日本を愛する人々よ、日本人をしてすべての悪の想念を放棄せしめよ。
   而して彼らをして神にまで還らしめよ。
   然らば神は日本の上に御恵みを垂れ給うでありましょう。

  ③勧善懲悪の道徳律が宇宙に存在しないと主張するよりも大いなる罪はないのである。
   それは神の正義の否定であり、、神の目に見えざる摂理への否定である。

(3)神のみが調和と完全との唯一の源泉であり給うのです。

  ①眞の人間の道とは神の道である。
   神の道のみ調和と、秩序と、美と、幸福と法悦とを生ぜしめるものであるから
   「神の道」に還れと神は示し給うたのであります。

  ②唯一の創造者は完全の神であり給う。

   神が人間の為に設計し給う所の人生は、
   既に成就せる完全の状態であるのであります。

   しかもそれが顕れるのは、吾々の媒介を通してであります。

  ③神が我々に望み給う事は、他を押し倒して自ら栄えることには非ずして、
   神に還ると云うことである。

   即ち総ての秩序と、総ての円満さとの造り主である所の神に立還り、
   吾々の個我の思いを全く捨て去る時、円満と完全と、調和と平和との神が、
   吾々を通じて永遠の善を齎し給い、広く人類と世界とに幸福を実現するように
   働き給うようになるのであります

          <感謝合掌 平成30年1月23日 頓首再拝>

第二章 運命が修正される原理より抜粋~その4 - 伝統

2018/01/24 (Wed) 17:45:14


   <現実に内在する神秘力>

(1)現実人生に具体的に神の癒しの力を実現せしめる生活の隅々までも
   悉く神の円満完全さを以って充満せしめんが為には、吾々自身よりも

   無限に偉大なる力の存在を認め、単にそれを認めるだけではなく、
   「今」「此処に」「我に」その力が働き給うのだということ、

   しかもこの力のみが唯一の力であり善の力であると云うことを
   亦知らなければならないのです。


(2)諸君が、若し今なおそれを自覚することが出来ないならば、
   何が何でも「今」「此処」「我に」神の無限の力が働き給うと、
   言葉によって宣言することが必要なのです。

   若し諸君が敢えてかくの如く為さいますならば、やがて神の造り給いし
   實相世界の円満完全の状態は吾々の現実に展開せしめられて来る事を断言する。


(3)吾々の想念は事物創化の波動的力であり、實相が如何にあろうとも、
   想念する象(かたち)を現象界というスクリーンに映出する力を持っている
   のであります。

   だから吾々は想念を慎まなければならない。


(4)若し吾々がキリストのように「今」「此処」「吾」に
   神の無限力いまして働き給うのであるという正しい信念を
   強固に有ち続けることが出来るならば、

   見せかけの弱き力は悉く消散してしまい、
   神の、強き力が働き給うたに相違ないのである。

          <感謝合掌 平成30年1月24日 頓首再拝>

第二章 運命が修正される原理より抜粋~その5 - 伝統

2018/01/25 (Thu) 17:49:26

   <天皇の御楯なる信仰と神を楯とする信仰と>

(1)戦前・戦中の日本人の権力者は
   天皇を案山子として人民を威脅するために使っていたのであった。

  ①天皇を「神」だと言いながら、天皇のために御楯となると云うのである。
   これが彼らの忠義であった。

   天皇が神ならば、
   吾々の身体の御楯で防がねばならぬなどと云う筈はないではないか。
   楯で防がねば傷つくような弱きものは結局、神ではない。

   本当の神なら旧約聖書、詩篇にダビデが歌っているように、
   神こそ吾等の楯であり、砦であり、城であり、
   吾らを防ぎ給う巌であるはずだったのです。

  ②天皇を眞に神だと信じているものならば、
   天皇を利用したり、天皇を眼隠しして
   自分の野望を満足しょうとするはずはないのです。

  ③両方(戦前・戦中の日本とキリスト教)の宗教の優劣は
   日本の敗北によってハッキリしたのであります。

   「神の盾となる」宗教は、「神を楯とする」宗教に敗北したのです。
   前者は神を弱小者とする迷信であり、
   後者は神を無限力者とする正信であったのです。


(2)人々はしばしばこれらの不幸に自分自身又は集団の想念の結果として晒される。

  ①その受難の程度は其の人等が物質的意識の中にどの程度に生きており、
   またどの程度に受難不可避の迷いの中に生きているかと云うことに依って
   定まるのです。

  ②我々は物質意識を捨てると共に、すべての「業に支配される」という信念、
   「罪あり」と云う信念を捨てなければならないのであります。

   何故ならばこれらの物質的意識と、受難の業因と、
   そしてすべての不幸の原因であるところの「罪」とは
   阿弥陀仏とキリストによって既に征服せられているからであります。

   だから残るところ一切皆善の實相のみである、
   即ち総ては完全であり、美であり、調和であり、天国である筈であります。

  ③物質の法則に縛られている限り、
   人間は結局、「不自由の牢獄」に投ぜられた囚人であります。

   この牢獄を破壊した時に於いてのみ吾々の解放は完全なるものとなり、
   吾々は一切の罪、迷い、及びマンモンの力から解放せられるのであります。

   この牢獄の破壊は唯吾々が神の善と愛と智慧と全能とを信じ、それを受け入れ、
   その神意を行じ実践しさえすればよいのであります。

  ④信だけでもいけない、行だけでもいけない、
   信行一致・信行不二でなければなりません。

   信は行によって実現し、行は信によって真実の根據(こんきょ)を獲得します。

   罪あり、不幸在り、病あり、迷妄(まよい)ありの如き力から解放し、
   吾々を正信に導き給わんが為に来たり給うたのがキリストであり、法蔵菩薩であり、
   生長の家の神様であります。

  ⑤吾々がこれらの救済の媒介者(實相自覚の仲介者)を通して
   實相円満の意識に入る時、観られる世界は観る世界の心の具象化でありますから、
   吾々の観るところの環境及び境遇は「實相円満具足の状態」即ち
   神御自身の創造と相一致するものとなり、

   唯善なる世界調和の世界、愛すべき善なる世界、豊かなる供給の世界、
   繁栄の世界のみが、吾が環境に実現して来るのであります。

          <感謝合掌 平成30年1月25日 頓首再拝>

第二章 運命が修正される原理より抜粋~その6 - 伝統

2018/01/26 (Fri) 18:47:36


     <摂理による運命の修正の秘密>

(1)吾々はラジオセットの波長を放送の波長に合わせる如く神の心に波長を合わせますと、
   調和と、自由と、豊かさと、無限供給とが吾々自身の心の力に依ってではなく、
   神のコトバによって創造られたる實相世界の智慧・愛・生命・供給・秩序等が
   如実に現世に実現して来て吾々自身の現実生活になって来るのであります。

(2)神の救いの波長に合わない心を起こすと、
   神の救いの波長に合わない邪曲(よこしま)と虚偽と不義とによって汚れた
   生活になって来るのであります。

   併しこれは決して神罰ではない。

(3)神の波長に吾等の心の波長が合った時には
   祝福の形で神の導きはあらわれて来るのであります。

   イザヤはこの状態を誌的に表現して次の如く言っています。

   「汝等は喜びて出で来たり、平穏に導かれて行くべし。
   山と岡とは声を放ちて前に歌い、総ての野の樹木は手を打ちて喜ばん。
   松の木はいばらにかわりて栄え、もちの樹は棘(おどろ)に代わりて栄ゆべし。

   これらは主の御名のためのほめことばとなり、
   永遠(とこしえ)の栄えの徴として色あせることなかるべし」(イザヤ書第55章12~13)

(4)何故、神の救いの霊波に合わぬ心行(罪)を起こした時、
   不幸や難(なや)みや病気が起こるかと云いますと、
   そんな罪は本来存在しないから自壊するのであります。

   しかし自壊するには自壊させるものがなければならないのです。
   それは闇は「光の無」と云う消極的状態でありますけれどもそれのみでは自壊しない、
   光を照射すると自壊する。

   それと同じく、罪の自壊するその奥には、神の摂理による運命の修正があるのであります。

(5)吾々はこの敗戦の中に「神の導き」を視、
   「神も仏もあるものか」と自暴自棄になる代わりに、
   神は吾等を救い給わんがために敗戦せしめられたと云う、
   神の摂理による運命の修正を見なければならぬのであります。

   そういう宗教教育を行うことが今、日本に是非とも必要である。

(6)物は物質面から観れば「物質」でありますが、
   「生命(いのち)」の面から見れば「生命」の具象化したものであります。
   「生命」が働けば「物」が必ず生まれる。

   だから貨幣を放出せず「生命」を働かせないでいるよりは、
   貨幣をしっかり放出しても、その刺激によって「生命」をうんと働かせば、
   「物」が過剰に出来る。従って流通貨幣量が多くともインフレは防止出来るのであります。

(7)吾々が豊かなる心を持し、ケチな心を捨て、神から流れ入る供給の通路を清めて、
   吾々の生活に神の豊かなる流れが流れ入る事が出来るようにしますならば、
   神の無限の供給は吾々に必要に応じて流れ込むのが必然であります。

   与えられんと欲せば、先ず与えなければなりません。
   吾々が善事に対して与えることを止めるならば、
   吾々は神の供給に門を閉ざすことになり、
   如何なる善も吾々に流れ入らないことになるのは
   三界は吾が心の所現であるからであります。

(8)吾々は決して、眞理の卒業生になってしまってはなりません。
   眞理は無限に深いものであり、一歩進んだら次の一歩がハッキリして来るのです。
   第一の峰に到着したら、次の峰が霧の彼方からボンヤリと見えて来るでしょう。

   吾々は他の人の信仰体験談を聞いて反省し、悟りの契機とし、実践の拍車とし、
   勇気を揮い起こす刺激として進まなければならないのです。

(9)ユダヤ人が世界の財産の大半を支配しているその経済的実力は、
   実に彼らの大多数が信仰深く、金銭収入があれば必ず社会事業や、慈善事業や、
   教会の維持費に什一即ち収入の十分の一を捧げる事を怠らないからだと言われています。

   ハンブリン氏も、「吾らが必ず収入の十分の一を献ぐるならば、
   吾々は神の恵みを実証することが出来る」と断言しているのであります。

   什一税を献ぐる行為というものは、固く握って放たない心から来るものではなく、
   豊かに人に与える心から来るものであり、「与える心」はまた
   他から「与えられる」心の法則によってそれが実現するのであります。

   もし諸君が神から祝福せられんと思えば、
   諸君は先ず周囲の人々を祝福しなければならないのであります。

          <感謝合掌 平成30年1月26日 頓首再拝>

第二章 運命が修正される原理より抜粋~その7 - 伝統

2018/01/30 (Tue) 19:03:58

           <常に仕事に精を出すこと>

(1)吾々はイエスが、その生命(いのち)を吾々に与え給いし如く、
   人類に吾々の生命を献げねばなりません。

   それは仕事を通して吾々の生命を人類に与えるのです。
   言い換えれば吾々は仕事に精出さなければならないのです。
   仕事は吾等の神に対する奉仕であり、人類に対する奉仕であります。

(2)吾々は吾々の奉仕を出来るだけ改善し、質の良きものとし、
   貢献多きものとしなければならないのです。

   報いは結局、良く献ぐれば、また自らも献げられるということになるのです。

   即ちその人に必ず成功と繁昌とは来たるのです。

(3)一日一回、吾々は静かに座って、吾々の父であるところの神に呼びかけ、
   神の子としての自分自身が何を為すべきか、教え給えと念じ、

   「神の智慧われに流れ入りて御心を示し給う」と念じ、

   黙してそれを待ち、再び繰り返して

   「神の智慧われに流れ入りて御心を示し給う」と念じ、

   しばらく黙してそれを待ち、更に前の如く念じて、それを繰り返す事十数回、

   「神わが一挙手一投足を導き給う。吾が計画することは神が計画し給うので、
   わが為すことは神が為し給うのである」

   と幾度も念じ感謝の祈りを捧げて
   その一回の祈りを終わることにするのが可いのであります。

(4)諸君が祈るとき、先ず自己を富ましめ給えと祈っても
   祈り無き愛他的生活よりも好いのである。

   自分の健全や、繁栄を祈るのは決して神の道にはずれたのではない。

   しかし得たところのものは再び元へ返さなければならないのです。

   感謝と報恩の為に十分の一を捧げるというハンブリンの教えは、
   又同じく、グレーンクラーク氏も言っているのです。

   兎も角諸君が祈りによって自己の艱難を無事通過し得たという生きた体験は、
   またそれを語り継ぐことによって「什一税」を神に捧げたと云うことになるのです。
   それによって人々は信仰に励まされ、勇気づけられ
   霊的に堪え忍ぶ力を得ることになるのです。

(5)霊的に富む人にとってはどんな経済機構の中にあっても、
   神の供給というものは無限であり、尽くることなきものなのです。
     
   神の無限供給は水力電気の無限の供給と同じように尽きるものではないのです。

(6)吾々は一切の人生の祥福を「人間」より得ようとする心を捨て、
   神に祈って神の愛より得るようにしなければならないのです。

   そこから摂理が展開してまいります。
   そこから真に自由の道が開かれ、そこから閉ざされた供給が開かれ、
   そこから真の解放が生まれて来るのです。

(7)神です。一にも二にも神です。神の他に何物も実在しないのです。
   人類永遠の幸福の為に何人もこの眞理を知っておく必要があります。

   神に祈っているならば、然り、常に神に祈っているならば、
   一見、自分の為に祈っているように見えているときにさえも
   一層善き方へ導き給うのです。

   神は、健康や財物や玩弄物のような現世利益を与えてくださりつつ、
   ついに吾々をして眞に神の御声を聴くいと高き霊的進歩の正しき状態に
   導き給うのです。

(8)神は無限の善であり、吾々は神につながることによって
   無限に魂が向上し得るのです。

   その向上の行く手を導き給うのが神の智慧であり、
   その神の放送を受けるための受信波長をつくるのが祈りです。

   祈りが応えられた時に経験する吾々の喜悦、法悦は、
   信仰が無駄でなかったことを実証してくれつつ
   更に吾々を高き信仰の境地にまで導いて下さるのです。

   又たとい祈りが実現しなくとも、かくて尚、
   神を呼ぶ心を失わない魂の進歩は一層大いなるものがありましょう。

   かくて吾々は祈りと共に摂理の慈手に導かれつつ、
   吾が魂は無限向上の道を攀じ登るのです。

          <感謝合掌 平成30年1月30日 頓首再拝>

第二章 運命が修正される原理より抜粋~その8 - 伝統

2018/01/31 (Wed) 17:37:46


      <魂の発達と進歩>

(1)祈りながら、吾々は向上の心を失わず、常に精進努力し、
   色々の信仰上の試練に耐えなければならないのです。

(2)現世に於ける修行に於いては吾々は自己の信仰を鍛える為に、
   日常生活中に敢えて冒険であると思われるような仕事にも
   ぶつからなければならないことも多いのです。

(3)吾々はかくて日常生活を通して何事かを学びつつ遂に最高自由の境界に到達し、
   確実に自己内在の完全神性(仏性)を開発し得るに到るのです。

   而して最後に孔子の所謂「心の趣く処に随って矩を越えざる」底の
   自在境に入ることが出来るのです。

(4)吾々が大信仰の畏敬すべき人々に出会う時感ずることは、
   これ等の人々が皆大なる人生経験の体験者であると云う事です。

   大いなる信仰は実に多くの信仰上、及び実際生活上の血と汗と祈りと行との
   体験を通して生長し来たった所のものなのです。

          <感謝合掌 平成30年1月31日 頓首再拝>

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