伝統板・第二

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あなたはいつも健康である② - 伝統

2017/10/22 (Sun) 04:12:35

     *伝統板・第二「あなたはいつも健康である①」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6853324


   《肉体を軽蔑(けいべつ)してはならない》

       *『 生長の家 』(昭和25年2月15日の法語)より

   肉体を卑しいものと思ってはならない。
   肉体は神の生命の地上に於ける自己実現である。

   「 神の宮 」 という言葉があるが、
   その宮の中に 「 神の生命 」 が宿るというように、
   二元的に考えてはならない。

   其儘(そのまま)に神の生命である。
   即(すなわ)ち即身成仏なのである。
   そのまま み仏なのである。

   魂を高めんがためには
   肉体を苦しめなければならないなどと考えてはならない。

   肉体については、
   苦しめようとも楽しまそうとも思うことは いらないのである。

   魂が本当に喜べると、その表現体である肉体も喜ぶのである。
   自然 健康となるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58


<関連Web>

光明掲示板・第一「あなたは常に健康である (3205)」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=626


          <感謝合掌 平成29年10月22日 頓首再拝>

《健康とは調和である》 - 伝統

2017/10/30 (Mon) 04:36:36


        *『 生長の家 』(昭和24年3月3日の法語)より

   完全に肉体及び精神の発揮する為には 
   吾らは健康でなければならぬ。

   健康とは 肉体が完全に調和して活力が旺盛であり、
   心の命ずる所に従って自由に肉体が動作し、
   脳髄がその機能を営み、

   しかも長く疲れないで
   その働きが 常に活発であるという事である。

   もし吾々の肉体が真に健康である場合には、
   その肉体の活力が 精神に影響を及ぼし、 
   精神の営む仕事の性質を 尚 精妙たらしめ、

   且つ その分量を 尚 一層多からしむるのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6f45f7a9ae28413739cf381ebfe69b51

          <感謝合掌 平成29年10月30日 頓首再拝>

人を憎んでいては、健康にはなれない - 伝統

2017/11/01 (Wed) 04:57:56


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月1日)より

春に出る新芽は春になって初めてできるのではない。
もう11月の頃から、あるいはもっと早くから用意されているのである。
この用意が不完全だったら、よい新芽は出ないのである。

まちがい上に本物を建てることはできない。
健康になりたい人はまずまちがいを捨てなければならない。
まちがいの上にどんな立派な建物を建ててもそれは倒れてしまう。

「まちがい」とは、それが《ある》かのように見えても本来、「当に有るべからざるもの」
すなわち「不当有(ふとうう)」であるから、不当有(ふとうう=まちがい)の上に
物を建てたものは、いずれも壊(くだ)けてしまうのである。

人を憎んでいて健康になどなれるものではない。

憎みは「不当有(あるべからざるもの)」であるから、神に対する背反である。
神は「生命(せいめい)」であるから、「憎み」のあるかぎりその人は「生命(せいめい)」
に背反しているのであるから、その人の健康が不良なのは当然である。

「憎み」を持続しながらその人の健康を維持しているように見えても、
それは表面のことであって、その人が、「神」すなわち「生命(せいめい)」に背反して
いる限り、すでにその人の健康は危殆に瀕しているのである。

         <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>

霊は健康で迷わざるものである - 伝統

2017/11/12 (Sun) 03:48:13


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月12日)より

霊的自己 ―― 迷わぬ自己 ―― ただ一つ ―― 二つは無い。
迷っている自己、病んでいる自己、そんなのもは無い。
自己は二つない。一つきり。

健康な自己だけ。そのほかの自己を神は創(つく)らない。

霊は健康で迷わざるものである。

         <感謝合掌 平成29年11月12日 頓首再拝>

日面仏、月面仏 - 伝統

2017/11/13 (Mon) 04:09:41


          *「光明道中記」(11月13日夫婦互いに調和する日)より

【周囲の人は自分の生活の鏡。(『生命の實相』第四巻)】

維摩が病気で寝ていたとき、文殊菩薩が病問の使者として来た。
維摩は文殊に対して、「衆生病むが故にわれ病む」と答えている。

生長の家ではあまりに病気が治りすぎるために、またあまりに現象的利益が得られるために、
現象的な利益に傲(おご)り驕(たかぶ)って、病気のないことを悟の証拠にしようと
思ったり、金の儲かることを悟の証拠にしようとするような危険がある。

これは厳重に避けなければならない錯誤である。

「従容録」第三十六則馬師不安の公案がある。
不安と云うのは病気と云う意味である。

馬師の話は七月二十一日の欄でも触れたことがあるが、馬大師が病気で寝ていた。
そこで寺の院主が「和尚(おしょう)近日(きんじつ)尊位(そんい)如何(いかん)? 」
とやった。 「近頃病気は如何(いかが)でございますか」と云う程度の問だ。

馬大師答えて曰く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(げつめんぶつ)だ」
これは「仏名経」に載せられている仏の名前であるが、
日面仏は昼を照らし、月面仏は夜を照らす。

昼は健康を表し、夜は病気を表している。
馬大師は「昼あり、夜あり、それが自然の健(すこや)かさ」と言ったのだ。
下痢あり、嘔吐あり、そのまま健康なのである。

晴天あり、雨天あり、そのまま日々好日である。
凡夫の晴天はそれに執(とら)われて慢心し、凡夫の雨天はそれに執われて悲しむ。

聖人にも雨は降るが、青空のように雨の染(しみ)を残さぬのである。

          <感謝合掌 平成29年11月13日 頓首再拝>

症状あり、それがそのまま健康なのである - 伝統

2017/11/14 (Tue) 04:12:58


          *「光明道中記」(11月14日執着が無くなる日)より

【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
                        (『生命の実相』第九巻)】

下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。

「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。

実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。

そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。

凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、
自然療能力を益々増大するのである。

されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、
生長の家へ入らない前よりも病気に罹らなくなり、
なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。

けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」
と切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。

          <感謝合掌 平成29年11月14日 頓首再拝>

“肯定的思考だけではダメ” - 伝統

2017/12/06 (Wed) 03:58:42


      *「思考のすごい力」ブルース・リプトン(著)(P203~205)より

健康で幸せに暮らしていくために大事なのは、
心のエネルギーの方向を切り替えて、
活力を生み出す肯定的思考に向かうようにすること、

かつ、エネルギーを消費し消耗を誘うばかりの、
常につきまとう否定的な考えを排除することである。

だが、肯定的に考えたからといって、人生を大きく変えられるとは限らない。
“肯定的思考だけではダメ”なのだ! 

事実、肯定的に考えようとして「失敗」したあげく、
ますます消耗するというのもよくある話だ。

それは、全力を注いだのに結果的にうまくいかなかった場合、
心的にも身体的にもできることはやり尽くしたと思い、
絶望的な状況に追い込まれたと考えるようになるからである。

肯定的思考の失敗が見落としているのは、“意識”と“潜在意識”という、
表面的には「区別できる」ように見える心の区分けが、
実は密接に関係し合っているということだ。

意識には創造力があり、「肯定的思考」を出現させることができる。

一方、潜在意識は刺激に対する反応が記録されたテープの倉庫にすぎない。
これは経験から学習したことや本能によるものだ。
潜在意識は頑固なまでに習慣を変えない。

生活のなかで出合うシグナルに対する反応として、
完璧に同一の行動パターンを飽きることなく繰り返す。

(中略)

神経学的な処理能力について言えば、潜在意識は意識よりも数百万倍も強力である。

(中略)

肯定的なこと、たとえば自分は魅力的だとか、
悪性腫瘍がどんどん小さくなっていくといったようなことを
繰り返し自分に言い聞かせることはできる。

けれども、もし小さいときから、おまえはつまらない奴だとか病気がちだとか、
何度も何度も聞かされて育ったとしたら、
その手のメッセージが潜在意識に刷り込まれる。

すると、どれほど意識的に頑張って人生を変えようとしても、
潜在意識のプログラムが帳消しにしてしまう。

これに対し、潜在意識のプログラムを書き換える鍵になるのが「信念」なのだ。


信念というものは、カメラのフィルターのようなもので、世界の見方を変える。
そして、生体の機能はそういった信念に適応して変化する。
信念がそれほど力を持つことを本当に認識できたならば、
そのときこそ、自由への鍵が手に入る。

遺伝子という設計図の暗号は自分で変更できないけれど、
心は自分で変えられるのだから。

           <感謝合掌 平成29年12月6日 頓首再拝>

「何でもクヨクヨするな」 - 伝統

2017/12/19 (Tue) 02:50:47


           *「光明道中記」(12月20日大調和の日)より

【躓いたがために落ちる人もあれば、躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。

人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。

斯う云うことを考えめぐらせて見れば、
その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。

人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは
、山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を
受けながらも病気になる事実で明かである。

この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。

誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。

「何でもクヨクヨするな」 

この言葉を病人の多い家庭に捧げる。 

           <感謝合掌 平成29年12月19日 頓首再拝>

《「 罪 」 の観念は 「 健康 」 の反対観念である》 - 伝統

2018/01/06 (Sat) 04:38:12


          *『 生長の家 』(昭和26年2月17日の法語)より

   健康の観念を心の中に植付けることによって肉体は健康となるが、
   健康の観念が確立するためには、
   その反対の観念が掃除せられなければならないのである。

   健康の反対の観念は、ただ、 「 病気 」 の観念ばかりではないのである。

   「 罪 」 の観念も 「 健康 」 の反対観念である。

   だから、イエスは 「 汝(なんじ)の罪ゆるされたり 」 と云って、
   「 罪 」 の観念を除去するだけで病者を癒しているのである。

   「 罪 」 の観念を除けば病気が癒(なお)ると云うことによっても、
   「 罪 」 の観念が健康の観念と反対観念であることが判(わか)るのである。

   他の罪をゆるさない心が病気を起すのも、
   「 罪 」 (健康の反対観念)の観念を心につかむからである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7d126736b5d286aea00942d8ab60ae8d

           <感謝合掌 平成30年1月6日 頓首再拝>

根底の思想は「人間に病気はない」 - 伝統

2018/01/19 (Fri) 04:16:50


    *「長生きしたけりゃ素生力をつけなさい」小林 健・著(P114~120)より

私の治療の根底には、「人間に病気はない」という基本的な考え方があります。

「え、どういうこと? 人間にはたくさんの病気があるのに」と思うかもしれません。

もちろん、便宜上、「病気」という言葉を私も使いますが、
現在、多くの人が抱いている病気のイメージ、すなわち、
「私たちを困らせる忌むべき災難で、早急に取り除いたり闘ったりしないといけないもの」
という意味での病気は本当は「ない」のです。

私たちが「病気」と呼んでいるものは、体が発している「警告」だからです。
つまり本格的な病気や悪化を防ぐための反応です。

ウイルスや細菌と闘っているときには熱が出ます。
免疫細胞が異物を排除しようとして起こす炎症に伴って熱が出るのであり、
熱は病原体をやっつける助けになっていると同時に、

「いまは無理をしないで休むときです。免疫細胞が病原体をやっつけていますから」
というサインでもあります。

発熱そのものが悪いわけではなく、体を守る反応ですから、
みやみに解熱剤などで根とを下げることはおすすめでみません。
かえって病状を長引かせるもとにもなります。


下痢も同じです。体内のウイルスや細菌などがふえすぎて
コントロールしきれなくなったとき、それらをへらすために
体は下痢をして排出しようとします。

ただし、そのときに、必要な水分やミネラルなどもいっしょに出てしまう
ので、一時的には弱まります。

下痢を目の敵(かたき)のようにしてすぐに下痢止めを飲んだりすれば、
病原体を減らすという目的は達せられません。

体に必要な水分やミネラルを補給して、ゆっくり寝ていればよいのです。
やがて病原体がへり、体に必要なものがよみがえって、
免疫力を取り戻し、本格的な病気を防いでくれます。


血圧が高くなるにも、理由があります。
そういうときには、ある程度、圧を高くして、血液を体の隅々にまで
いきわたらせなければならないからです。

もともと、現在の血圧の基準は低く設定されすぎています。
その人の体の状態にもよりますが、本来の人間の体のしくみからいうと、
成人ならば160/80mmHg くらいがベストといえます。

血圧も、基準値を超えたからといって、
すぐに降圧剤を飲むようなことはおすすめできません。

化学薬品は体にとっては暴力のようなもので、たとえ血圧を下げるという
目的が達せられても(それ自体も不要な場合が大半ですが)、
ほかのいろいろな部分にダメージを与えてしまいます。

もしも、いつもより血圧が高いことがわかったら、
薬を飲む前にできることはたくさんあります。

「ちょっと動きすぎたかな」
「最近、イライラしていた」
「野菜も果物もとっていなかった」
「睡眠不足だったな」

何か思い当たることがあれば、たいてはそれが答えです。


《食前の果物と青野菜などで血圧が正常化した例》

たとえば、「血圧が高く、とくに夕方になると上がって動悸がする」
といって当院にみえた65歳の男性は、他院で降圧剤を飲んでいましたが、
いっこうに下がらず、不安に思っていました。

定年退職してストレスから解放され、スポーツマンで適度な運動をしていても、
血圧が思うようにコントロールできなかったのです。


彼はお酒が好きで、毎日、肉食などのおいしいものを食べ、
野菜や果物はほとんどとっていませんでした。

脈と体を診ると、この男性は腎臓の機能が下がっていることが
わかりました。腎臓の機能が下がると、血液がうまく濾過されずに粘りを
持ってくるので、血圧を上げないと血液が体を回りにくくなります。

そこで、腎臓からレニンというホルモンが出て、レニンが
アンジオテンシンという物質を作り出し、血圧をあげてしまうのです。

ですから、薬で強引に血圧を下げればよいわけではなく、
根本的な原因である腎臓の機能を高めなければなりません。

そこで、仁層の機能を正常化するために、食事前に片方の手いっぱいの
果物を食べてもらい、次に両手いっぱいの青野菜を、
リンゴ酢とオリーブオイルドレッシングして食べてもらいました。

こうすると、口の中で唾液とホルモンと酵素が作られ、果物や野菜からの
ビタミン・ミネラルや水分、食物繊維、生命力、酵素、葉緑素などが
しっかり体にとり込まれ、腎臓を元気づけてくれます。

食事は、ごはんとみそ汁と、できればおかずは肉よりは魚介類を選ぶこと、
食事使う塩は自然塩にすること。しょうゆはコンブやシイタケなどでとった
だし汁を半分まぜたものにすることを指示しました。

お酒は「1杯ぐらいであれば、肝臓に負担をかけずに飲めるのでよいでしょう」
と許可しました。

すると、1カ月もしないうちに血圧は正常になり、夕方にも上がらなくなりました。
動悸もしなくなり、階段の上り下りも、孫も抱っこするのもらくにできる
ようになったと喜んでいます。


彼にとって、高血圧は病気ではなく、腎臓の機能低下を知らせる警告でした。
薬で下げようとしてもうまくいかなかった血圧が、食事の工夫で下がったのは、
根本原因である腎臓に働きかけることができたからです。

このように「病気」という現象にとらわれすぎずに、体を整えることが、
本当は確実で、しかも近道なのです。

薬のほうが手っ取り早く感じるのは、現象をなくしているだけで、
真の解決にはなっていないことを知っておいてください。

私たちが「病気」と呼んでいる体の警告は、
命にかかわるようなことは別として、
95%くらいは、あなた自身の努力でおさまります。

「自分は治る。治せる。治すのだ」と、
自らが強い信念を持ち続けることが大切です。

         ・・・

*「素生」とは、すべてのもののもとである素粒子の中に存在するものであり、
「生きるもとであり、すべての原点である素生がなければ始まらない」ということ。

           <感謝合掌 平成30年1月19日 頓首再拝>

吾は神に生かされ、完全に健康である - 伝統

2018/01/21 (Sun) 03:33:46


         *「光明法語」(1月21日)より

《神常に吾を生かし吾を導き給う》

神のすべてを生かし給う生命、吾が内に吾が心の内に、吾が魂の内に、
すべての事件の内にあらわれて生かし給う。

この神の大いなるいのち、常に新しきいのち今もわが中に流れ入りて
常にわが組織を新たならしめ給い、健全ならして給うているのである。

今この瞬間このわが頭の先からわが爪先に到るまで
輝く神のいのちに満たされているのである。

もはやわが肉体は神の肉体である。

わが肺臓は神の肺臓である。
わが胃袋は神の胃袋である。
吾が全ての内臓は神の全ての内臓である。

完全に健康であるほかあり得ないのである。

           <感謝合掌 平成30年1月21日 頓首再拝>

健康増進 - 伝統

2018/02/02 (Fri) 03:27:33


           *「光明道中記」(2月2日健康増進の日)より

【食事にうんと歓びのお菜を附けて食べよ。どんな粗食でも最上の栄養に変わる
                            (『生命の實相』第八巻)】

戦前であったが、自殺して死んだ医学博士で
羽太鋭治(はだえいじ)と云う人があった。
その人が若返り法の本を書いたことがある。
その本の中に肥えたい人の食事法と、痩せたい人の食事法とが書いてあった。

痩せたい人は畳の上に盆を置いて、低い位置に料理を置いて身体を屈み加減にし、
消化器を圧迫しながら、出切るだけ憂鬱な気持で食べるのである。
そうすると必ず痩せると言う。

肥えたい人はその反対をするのである。
腹を伸ばしてゆっくりと高い加減の食卓に坐し、
天井に「アハハハハ」と大きく書いた紙を貼り附けて置いて、
食事をしながら、天井を仰ぎ見て、「アハハハハ」と時々笑うのである。

笑えば心が開く。
心が開けば血液の循環がよくなる。
消化器の分泌が豊富になり、
粗食からでも豊富な栄養を吸収することが出来るようになる。

併し肥えるということは必ずしも健康の理想ではない。
或る人は痩せているがために他の内臓の能力(キャパシテー)と
平衡を得て健康を得ている。

健康とは要するに全体の調和を意味する。
心臓や腎臓の能力(キャパシテー)の小さな人には
筋肉の増大は返って負担となる。

           <感謝合掌 平成30年2月2日 頓首再拝>

叡智的な”心”は、常に健康に導く - 伝統

2018/02/18 (Sun) 04:00:42


     *『生活の智慧365章』
        (第4部繁栄の泉)第12篇(P311~312) より

《潜在意識の驚くべき智慧》

生理作用を司るところの”心”は、
私たちには”気のつかない心”(無意識の心)である。
此の”心”を潜在意識と言う。

ハッキリ何事かを思い浮かべたり、
意識したりしている”心”を現在意識と言う。

無意識の領域は現在意識に比べるとズッと広く、
其処にはあらゆる記憶が蓄積されており、
またそれは緊急事態に応じて色々に生理作用を調節するための
複雑な計算が暗黙のうちに行なわれているところの
驚くべき智慧ある意識である。

それは、眼なくして、胃袋に入って来たところの食物が
何であるかを知ることが出来、それに対応するための適当な消化液を出し、
消化した物質を選別して、排泄すべきものは送り出し、
吸収すべきものは吸収し、吸収した成分の中(なか)でも、
その成分を何処(どこ)に如何なる形に結合してよいかを
知っている極めて叡智的な”心”である。

この叡智的な”心”を人間が蒙(くらま)さないようにするならば
人間は常に健康であられるのである。
(アレキシス・カレル著『生命の知恵』日本教文社発行)

           <感謝合掌 平成30年2月18日 頓首再拝>

《人生の目的達成には健康が必要である》 - 伝統

2018/03/03 (Sat) 04:39:10


       *『 生長の家 』(昭和24年3月5日の法語)より 

   もし肉体の健康が低下するならば
   心の能率も低下するのである。

   天才的な大画家でも、
   病苦の真只中に於ては
   完全なる製作は続けることはできないのである。

   たとい病苦を我慢して製作を続けても、
   この製作の成績は劣ることになるのである。

   されば如何なる精神的仕事といえども、
   肉体の健康と精力旺盛とが伴わなければ、
   完全に遂行することはできない。

   そこで肉体の完全なる健康は
   如何にして得ることができるかが問題となるのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9bba2a69c7a35da352ed611c201ffad0

           <感謝合掌 平成30年3月3日 頓首再拝>

生命の純粋波動を現せ - 伝統

2018/03/19 (Mon) 03:24:37


           *「光明法語」(3月19日)より

肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。

生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。

生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。

自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである。

           <感謝合掌 平成30年3月19日 頓首再拝>

人間を物質だと思うな - 伝統

2018/03/21 (Wed) 03:34:07


           *「光明法語」(3月21日)より

人間を物質だと思っている
 ―― その信念の程度に随って人間は物質の法則に支配され易くなり、
物質と同様に疲労と老衰と病気とに曝(さら)されるのである。

物質は大生命より発した波動のうちで最も粗雑低級な波動であるから、
霊の無限、無消耗性をあらわすことは出来ないのである。

人間を物質だと観ずる念波は、
自分の生命にこの無雑低級な消耗性を引寄せることになるから、
自分自身を消耗性の姿をあらわすことになり、
それだけ自分自身を不健康にあらわすことになるのである。

           <感謝合掌 平成30年3月21日 頓首再拝>

心から〝弱さ″を追放せよ - 伝統

2018/04/12 (Thu) 03:51:10


         *『如意自在の生活365章』(P222~223)より

人間が常に若々しく健康であるためには、心に〝健康″を常に想念して、
〝弱さ″を自分の心から訣別するとともに、健康の法則を蹂躙(じゅうりん)
してはならないのである。

反感や逆念を起こさず、暗悪(あんあく)の想念感情を起こさず、
常に明朗快濶であるとともに他の人たちの幸福をねがって、
いやしくも人々に対して何らかの害念をも懐いてはならないということである。

他の人々の幸福を願う心のみが自分に幸福を与えるのであり、
他の人々の健康を願う心のみが自分に健康を与えるのである。

他の人々の健康のために祈れば、
自分の内にある不健康の観念が自分から追放されることになるのである。

愛する者のみが、必ずしも自分の愛する相手から愛されないにしても、
神から愛されるのである。神がその人の味方であるのである。
悦べ喜べ、人は常に孤独ではないのである。

神はあなたの側に常にい給うのである。
神はあなたに常に愛と祝福の微笑を投げかけていられるのである。

           <感謝合掌 平成30年4月12日 頓首再拝>

健康の秘訣 - 伝統

2018/04/16 (Mon) 03:37:11


           *「光明道中記」(4月16日 元気充満の日)より

【「心が」或る一つの「迷い念」に引っかかって生命本然の自由性を失うところに、
 その「心の影」そして色々の病気があらわれる。(『光明の健康法』)】

不健康とは自然を失った状態である。
健康なのが人間の自然であるから、自然になりさえしたならば、
健康は自然に顕れるのである。

それと同じく、人間の成功も、幸福も、自然なのであるから、
人間が自然になりさえしたならば成功も幸福も自然にあらわれるのである。

健康や、幸福や、成功を何か異常な出来事であるかのように求める心が
間違っているのである。
此の間違った思想の中に誰でも生活している限り於いて
その人は本当に幸福にも健康にもなれる訳ではない。

吾々は人生観を根本的に置き換えなければならないのである。
人間は「神の子」であるから本来幸福に健康に成功するように
最初から定(き)まっているものなのである。

それなのに幸福と健康と成功とを何か特別な少数者だけのもののように、
それが異常な出来事のように考えているから、その考えが具象化して、
それが何か異常な出来事のように、少数者にしか実現しないのである。

吾々の健康の秘訣は、幸福の秘訣は、成功の秘訣は、
健康が、幸福が、成功が常に吾々を追い廻しているということを自覚するにある。

           <感謝合掌 平成30年4月16日 頓首再拝>

健康の秘訣はサービスにある - 伝統

2018/04/19 (Thu) 02:44:12


      *「光明道中記」(4月19日 相倶(あいとも)に扶(たす)くる日)より

【僕は何でも、過去のことは《過去として》それで善かったと思っています。
 過去は過去だ、後悔したりするのは嫌です。(『百事如意』)】

呟(つぶ)くこと、人の悪い噂をすること、不景気の話をすること、
詰まらない話をすること
―― こんなことに時間を費やしている限り、あなたの事業は衰退する。

そんな事をする暇に光明思想の本を常に携帯していて、
それを読んで心を光明に転向すれば、事業も亦(また)光明に転向する。

健康にしても矢張りそうである。

若し不平を言うこと、呟くこと、憎むこと、人の欠点(あら)を探すこと、
尖った心を起すこと、人を遣(や)っつけたい感情を起すことを止(や)めなければ、
その人の病気は治らないであろうし、

また病気でない人も、かかる心持を持続する限り
「病気」の方向に向かって突進しつつあることを知らねばならぬ。

成功の秘訣がサービスにあることを知っている人は多いが、
健康の秘訣がサービスにあることを知らぬ人が多いのは、不思議なことである。

サービスは自分が働いて人を喜ばすことによって成立っている。

自分が働いて人を喜ばしたならば商売が繁昌するのは当然であるが、
その人の健康がよくなるのは、健康とは人間の自然の相(すがた)であるから、
人間が自然の道に乗れば健康になる。

           <感謝合掌 平成30年4月19日 頓首再拝>

【自分の体に感謝する】 - 伝統

2018/05/08 (Tue) 03:12:47


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年07月14日)より

   (春日大社宮司・医学博士、葉室頼昭氏の心に響く言葉より…)

   人間がいちばん嬉しいのは、人に認めてもらうことです。
   反対に、一生懸命やっても誰にも認められないというのは悲しいものです。

   これはなぜでしょうか。


   科学で証明されないものや目で見えないものは信じない
   などと言う人がよくいますが、この宇宙には、絶対に、永久に
   見ることができないものがひとつあります。

   それは何かというと、自分自身です。

   自分という人間は永久に見ることができません。


   鏡や写真などに映して見てはいますが、あれはあくまでも影を見ているわけです。

   自分はどんな顔をしているのかも分かりません。

   自分自身を知ろうと思えば、他人から見てもらうしかないのです。


   もしあなたが女性であれば、
   「きれいですね」「若いですね」と言われれば嬉しいでしょう。

   それは、自分では自分のことが分からないからです。

   男性は、「素晴らしい」「立派だ」といわれると、
   ああそうなのかという気がして嬉しくなるでしょう。

   生き生きした気持ちになると思います。


   これと同じで、人間の身体の細胞一つ一つもみんな生きています。

   ですから、認めてあげることで、やはり非常に生き生きとしてくるのです。

   この体は、生まれてからずっと
   この何十年一秒の休みもなく働いてくれています。


   この体に生かされているのに、
   ご主人さまが一向に褒(ほ)めてくれないとなると、細胞も怒ります。

   もう力が出なくなってしまうのです。

   ですから、一つ一つの細胞を、
   「素晴らしいね」と認めてあげて、感謝してあげる。

   これが健康の本当の基本です。


   私は、健康のために、
   感謝の心を込めて毎日、頭から足の先までをなでています。

   私は医者で体全体の構造を知っていますから、
   頭をなでながら、毛髪、皮膚、頭蓋骨、脳と次々に
   「ありがとう」と感謝していきます。


   五十肩という病気があります。

   なかなか治らないので不平をこぼす人がいますが、
   そんな人に「あなた、肩に感謝したことがありますか」と尋ねると、
   びっくりするのです。

   長い間、ものを持ったり、支えてくれたり、
   いろいろと働いていてくれているのに、
   ご主人さまがちっとも感謝してくれないので、肩の細胞が怒っているのです。

   それが五十肩です。

   それで、「まず肩に感謝しましょう」といっているのです。

   感謝すると治ってきます。

   これは本当の話です。

            <『神道感謝のこころ』(P99~101)春秋社>

                ・・・

色々なものやこと、あるいは人に感謝することはとても大事だ、
とはよく言われることだ。

しかし、意外に忘れているのが、自分の体に感謝すること。


「体は借り物」という言葉がある。

神さまからお借りしているものだから、いつかは返さなくてはならない。

お返しするときが、いわゆる、死ぬとき。


体は自分のものだと思っている人は、ぞんざいに扱う。

しかし、神さまからお借りしていると思うなら、
感謝の心をもって、大事に扱うようになる。


毎日、自分の体に感謝したい。

           <感謝合掌 平成30年5月8日 頓首再拝>

最高の健康法 - 伝統

2018/05/31 (Thu) 03:52:26


         *「神道 感謝のこころ」葉室頼昭・著(P86~88)より

病人と健康な人の体液を調べてみると、病人の体液が非常に汚れているのが分ります。
つまり、体液が汚れてくると病気になると云えるわけです。

ですから、健康になるには、この体液をきれいにすることが大切になります。
これが健康の秘訣なのです。

(中略)

人体を構成する細胞には細胞膜という膜があり、その膜の空いている穴から
水が出入りします。出入りする水は栄養を持ち込み、同時に細胞内の老廃物を
運び出すのですが、その作用を十分に行なうためには、できるかぎり
分子配列の整ったきれいな水が望ましいのです。

人間の心も水の分子構造も同じ波動ですから、
心の波動によってきれいな水にもなり、汚い水にもなるのです。

いらいらして腹を立てたり悩んだりすることでゆがんだ心の波動が、
体液に少なからぬ悪影響を与えているのです。

だからこそ毎日、神さまに導かれた感謝の心を養うことが
最高の健康法であると私は思うのです。

体の水をきれいにしないで、どんなに栄養のあるものを食べても、
運動しても、それはほんとうにナンセンスな話です。

人間の体は、体液がきれいになれば自ら健康になるのですから、
素直な心できれいな水を飲むこと、これが大切なのではないでしょうか。

           <感謝合掌 平成30年5月31日 頓首再拝>

完全な健康ばかりを肯定 - 伝統

2018/06/19 (Tue) 03:52:49


        *「希望を叶える365章」(P165~166)より

神は、”神の子”たるすべての人間に完全な健康を与えていられるのである。
これは事実であり、真理であるのであって、今、現に或る人が重い病気で
呻吟している真っただ中に於いてすれも真理であるのである。

人がすべて健康を求めると云う事事態が、本来人間は健康なものなのだと
云う「実相」が内部から「押し出そう」としている証拠なのである。

ただその「実相」たる「完全なる健康」が、
「迷える心」によって蔽われて見えないだけの事なのである。


それなのに、「人間は病むべきものだ。私は不健康だ」と念ずることは、
その迷いを更に部厚く重ねて、実相の完全さを一層多く覆いかくすように
なるのであるから、どんなに人間が不完全なように見えても、
病気のように見えても、

「そのような事は真理ではない、実相ではない」と、その不完全や不健康を
否定し、完全な健康ばかりを肯定するようにすれば、ついには希望する
完全な健康の実相があらわれて来ることになるのである。

           <感謝合掌 平成30年6月19日 頓首再拝>

《心を楽観的に有(も)て》 - 伝統

2018/07/04 (Wed) 04:46:56


        *『 生長の家 』(昭和24年3月6日の法語)より

   すべて楽観的な人生観をもたない時には
   人間は決して健康を長く持続することはできないのである。

   多くの智能の優れた人達は病気であって、
   その人が健康であったならば成し得た筈の
   半分の分量程も成し遂げ得ないで
   この地上を去って行っているのは悲しい事である。

   吾々の人生観が健康に影響するのは、
   暗い悲しい人生観をもっている限り

   その人の精神は 常に憂鬱であり、不快であり、腹立たしく、
   常に焦々(いらいら)していなければならないのであり、
   それが肉体全体の活力に相互作用を及ぼすのである。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/786363eb0e47603eeb0fa3f979b655ab

           <感謝合掌 平成30年7月4日 頓首再拝>

自己の生命を「神の生命」なりと観ぜよ - 伝統

2018/07/07 (Sat) 04:27:19


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月7日)より

健康を得んと欲するならば、
自己の生命を「神の生命(せいめい)」なりと観ぜよ。

神は健康であって病気に罹るなどのはずはないのであるから、
「神の生命」が自己の生命であると観じられるかぎりにおいて
健康を失うことはありえないのである。

瞑目合掌して自己の全身が「神の生命」に満たされて
光明燦然と輝いている有様を瞑視して、それに精神を統一せよ。

漠然と「健康」と観ずるよりも、
具体的に観ずるほうがいっそう効果が多いのである。

自己の顔色(かおいろ)が桜色に輝き、筋肉はたくましく、内臓が健やかに
その職能を果たしつつある事実を心に描いて観ぜよ。

次のごとく具体的に心に唱えながら観ぜよ、

「神はわが眼にプラナを流れ入らしめたまい、わが眼を祝福して言いたまわく、
『眼よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この眼は神の眼であって、
神はこの眼を通して自己の創造の美しさを鑑賞したまうのであるから、
毎日いっそうわが眼の視力は増大するのである。

神わが耳にプラナを流れ入らしめ給いて、わが耳を祝福して言いたまわく
『耳よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。この耳は神の耳であって、
神はこの耳を通して大自然および神の子たる人間の音楽のいかに美しきかを
鑑賞したまうのであるから、毎日いっそうわが耳の聴力は微妙で
あっていかなるデリケートな音調でも聴き分けることができるのである。

神わが鼻より咽喉、気管、気管支、肺臓および肋膜に
プラナを流れ入らしめたまいて、これらを祝福して言い給う
『呼吸器よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。

わが肺臓は神の霊が神の生命(せいめい)を呼吸するための器官として
具象化したまいしものであるから霊的実在であるのである。
だから決して黴菌に侵(おか)されるようなものではないのである。

自分はこの内臓が病菌に侵されるというような
人類の共通観念を今かなぐり捨てたのである。
神の祝福したまいしごとくわが肺臓は健やかであるのである。

神わが心臓にプラナを流れ入らしめ給いてこれを祝福して言い給う
『心臓よ、健やかであれ』と。すなわちかくなりぬ。
わが心臓は神の霊の具体化であるのである。

だからわれは神がすべての人を愛したまうごとく
われもまたすべての人々を愛したのである。

神がすべての人々をゆるし給うごとくわれもまたすべての人々をゆるしたのである。
だからわが愛の感情は常に平安である。わが愛の感情は平安であるがゆえに常に
わが心臓も平安であるのである・・・」


このようにして「神が祝福し給う」という観念と言葉を通して現実的に
一つひとつの身体各部を健全化して視るのである。

「神プラナを流れ入らしめ給いて・・・」と念ずるときに、
神のプラナを吸い込むような気持ちで呼吸をそれに合致せしめると
いっそうよいのである。

         <感謝合掌 平成30年7月7日 頓首再拝>

健康のことばかり考えていると病気になりやすい - 伝統

2018/07/20 (Fri) 03:45:31


        *Web:ツキを呼ぶ感謝のことのはブログ(2008年5月11日)より

写経の先生から、
「ガンの保険に入っている人はガンになりやすい」
という話を以前、聞いたことがあった。
 
その時はよく理解できなかったが、今はその言っている意味がわかるような気がする。

人の発する言葉、思いには物事を叶える、
現実化させる強烈な力があると知ったからである。

普段、口にしていること、思っていることが、
現実化に向けて「引き寄せ」を始めるのである。

現代はまさに「健康ブーム」で、健康食品、健康飲料、健康補助食品、健康器具など、
さまざまな商品があり、健康に関する情報が氾濫(はんらん)している。
 
先日も電車で横に座った60歳代の女性ふたりが
健康食品や健康器具について話しているのが耳に入った。
 
ただ、「これが良いのよね」という健康食品、器具の話は最初のほんのさわりだけで、
あとは「どこが悪い」「あそこが悪い」という病気自慢のような話を延々と
しゃべり続けている。
 
それを聞きながら、現代は、「健康ブーム」と言われているが実は
「病気ブーム」
なのかもしれないと思った。

そうしたことに気づくと身近にある健康に関するチラシやパンフレットを読んでみると、
「健康」に関する情報はほんの少しで大半は「病気」に関する記述ばかりである。
これでは誰でも知らず知らずのうちに病気に詳しくなるだろう。
 
知識が増えると自分が病気になるような気がしてきて、
「病気にならないため」に保険として健康食品や器具にお金を使うようになる。

本来は「健康」であるために思考し、行動すべきのところを、
「病気」のために思考し、行動するようになると「病気」を引き寄せ始める。
思考のエネルギーが現実化するようになるのだ。

わかりやすく言えば、「病気」が「あの人のところに行けばいいんだ」と気づき、
その人に向かって歩き始めるのである。

だから、「老後の病気に備えてお金を貯めている」と言っている人は、
ちゃんと老後にお金を使えるように病気になるし、
 
「子供なんかの世話にはならない」と普段から言葉にしている人は、
ちゃんと「子供なんか」の世話にはならずに、
施設に入って人の世話になることが叶うのである。

ガンになった人が医者に言うトップ5に入る言葉が、
「自分は誰にも迷惑かけずに生きてきたのに」
という言葉なのだそうだ。

きっとこれまできちんと生きてこられた人なのだと思うが、
何も迷惑をかけずに生きている人はやはりいないのである。
 
「傲慢(ごうまん)」とまでは言わないがどこかにそんな思いはなかっただろうか。
たとえ今まではそうだったとしても、これからもどういう形で
迷惑をかけるようになるかわからないともいえる。誰もがそうである。

今を「謙虚」に生きていく。それにつきるような気がする。

それと、「病気」に気をつけるのではなく「健康」に気をつけるようにすること。
同じように感じられるが、実はまったく異なることだし、自分の未来がまったく違う。

「健康のこと」と「病気のこと」をきちんと使い分けることが大切になるわけだが、
楽しいこと、うれしいこと、明るいことを考え、感謝の言葉を口にしていくことが
健康への一番の近道だと思う。

   (http://kansya385.blogspot.jp/2008/05/blog-post_11.html

           <感謝合掌 平成30年7月20日 頓首再拝>

最強の健康法 - 伝統

2018/08/03 (Fri) 03:16:52


       *『脳に免疫力をつければ病気にならない!』 
         苫米地英人(著) Chapter1 (P48~49)より 

体力に自信のない人や、病気がちの人は、
「体力がない自分」「病気がちな自分」がコンフォートゾーンになっているため、
「体の弱い自分」を維持するように脳の免疫力が働いてしまっています。

ですから、体力をつけようと運動しても、
病気をしないように食事に気をつかっても、
「体の弱い自分」が維持され、すぐに疲れを感じて体調を崩してしまいます。

 
健康な人は、寒い部屋で薄着でうたた寝をしたくらいでは、風邪を引きません。
室温の低さに反応して、体が最適な体温を維持しているからです。

この環境とフィードバック関係を持ちながら
体を適した状態に持っていく機能が、脳の免疫力です。
 
一方、健康ではない人、体の弱い人、病気がちな人は、
寒い日にちょっとうたた寝をしたくらいで風邪を引いてしまいます。
これは「よく風邪を引く」自分がコンフォートゾーンになっているせいで、
「風邪を引く」ほうへ脳の免疫力が働いてしまうのです。

 
最強の健康法は、
「自分は健康で長生きする。自分が病気になることはない」
と確信することです。

その確信によって健康な状態がコンフォートゾーンになり、
その結果脳の免疫力が高まって強健な心身をつくります。

それはつまり、「完全に健康で病気とは無縁!」という
コンフォートゾーンさえ作れば、さまざまな健康法に精を出さなくても
健康でいられるということです。


 *コンフォートゾーン:自分が心地よいと思う状態。

           <感謝合掌 平成30年8月3日 頓首再拝>  

「自分は健康だ」との観念を徹底させる - 伝統

2018/08/07 (Tue) 04:16:54


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月7日)より

健康を破壊してどうしても快復し難いのは、
その人が「自分は健康を損なった」という観念にしがみついているからである。

いろいろの療法や、思念や、聖典読誦が功を奏さないのは、
一方に「自分は病気だから、こうして治そう」というように、
「自分は病気だから」の観念に固くしがみついて、
それと相撲をとっているからである。

「病気はない」は真理であり実相であるから、
その健康なる実相を招(よ)び出そうとしながら、
「自分は病気だから」という考えの上にいつまでも足踏みしているようなことでは
「病気はない」の観念を招(よ)び出すことはできないのである。

「自分は病気だから」の観念を抛擲(ほうてき)して、端的に、
「自分は健康だ」の観念に置き換えたらその病気は癒えるのである。

ではその方法はいかん?

それは、すでに自分は健康である、完全に創造されているとの
前提の下に神に感謝するのである。

合掌神想観をなして、次の如く神に感謝すべきである。

「神はすべてのすべてであり、完(まつた)き生命(いのち)であり、
完(まつた)き叡智(みちえ)であり、完(まつた)き聖愛(みあい)である。

すべてのもののうちに神の生命(いのち)は生き、神の叡智(みちえ)は充ち、
神の聖愛(みあい)は満ちている。

その例に漏れず自分のうちにも神の完(まつた)き生命(いのち)、
完(まつた)き叡智(みちえ)、完(まつた)き聖愛(みあい)は充ち、
それによって自分は完全に健康に生かされているのである。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。

自分は今まったく完全に健康に生かされているのでございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。・・・」

こう、現に今健康で”ある”ところの思いに浸りきって、如実にそれを実感して
本当に感謝の言葉を述べることは、「自分は今病気だから、治すために・・・」
などという考えを一転せしめる力がある。

最後の「今まったく完全に健康に生かされている、ありがとうございます」の言葉を
できるだけ実感せまる調子で、心のうちに幾回でも、その実感が徹底するまで
繰り返すがよいのである。

      <感謝合掌 平成30年8月7日 頓首再拝>

人間が健康になるには喜んで働く事である - 伝統

2018/08/27 (Mon) 03:42:36


       *「光明法語」(8月27日 精神活動の統一と健康)より

人間が健康になるには喜んで働く事である。

「自分の活動を正確に目的の方向に向ける時吾々の心理的・生理的機能は、
最も完全に調和を来たすのである」
とアレキシス・カレル博士も言っている。

又博士は「精神活動の統一は、内臓や神経機能のより以上の調和を
齎(もたら)すものである」 とも言う。

病床にいて仕事もなく、あれを考え、これを憂え、
精神活動に何の統一も集中も無なく ただ病気の悪くなる事のみを
心に描いて心配している様な生活が病気に悪いのは勿論である。

         <感謝合掌 平成30年8月27日 頓首再拝>

「病気にならない」と唱えては病気を招く - 伝統

2018/09/17 (Mon) 03:34:21


       *『脳に免疫力をつければ病気にならない!』 
         苫米地英人(著) Chapter1 (P50~52)より抜粋 

無意識は肯定と否定とを区別をしないのです。

健康な人が「わたしは病気にならない!」と自分に言い聞かせるのは、
「わたしは病気になる!」と自己暗示をかけるのと同じです。

ですから、健康な人が健康を維持し、いっそう元気ハツラツしていたいなら、
「自分は健康!」「自分は元気!」「絶好調!」と唱えるのが
正しいやり方です。


何かの病気を患っている人は、「自分の病気は治る」と唱えてはいけません。
無意識にとってそれは「自分は病気だ」と言い聞かせられているのと同じです。

また、「自分は健康になる!」と唱えるのもいけません。
「健康になる」という言葉では、「自分は今は健康ではない」という
ネガティブなイメージを無意識に刷り込むことになるからです。

したがって、何かの病気がある人も、
「自分は健康だ」「元気だ」と唱えれば、治癒力が高まります。


毎日「健康だ」「元気だ」と肯定的に自分に断言することを習慣化すると、
「健康で元気な自分」という自己イメージがコンフォートゾーンになり、
そこへ向かって脳の免疫力(ホメオスタンス)が働きます。

そして、病気の人は病気が治っていき、
健康な人は病気知らずでますます健康になります。

           <感謝合掌 平成30年9月17日 頓首再拝>

《“神らしくなる” こと》 - 伝統

2018/09/28 (Fri) 03:35:09


         *『白鳩』(昭和40年4月号)より

人間が “神らしくなる” ということは、
物質的なもの、時間空間的なものに支配されなくなり、
必要に応じて超時空的能力を発揮し得るということであり、罪の観念に縛られて
自己を自縄自縛しなくなることであり、自己処罰しなくなることである。

その人は物質的なものに縛られなくなるために、
経済的の変動で、一時、株が暴落するようなことがあっても、
必ずそれは反騰するものであることを知って心が動揺しないことであり、

また大いに儲かっても、それは神の愛の実現であるとして私的使用に浪費することなく、
公けなることに悦んで献げ得る心境であるということであり、

時間に束縛せられないから、愈々多忙にして疲れることなく、不平なく、
忙中なお閑を蔵して悠々神想観をなし、愛行を重ね得ることである。

自己処罰をしなくなるということは、自然に災害の起るところに近寄らなくなり、
みずから不幸をもとめて自虐状態に立ち到らなくなることである。


“神らしくなる” ということの一つは、自己に “絶対価値” を求め、
他と比較して自己を劣等であると考えないことである。

たとえば自分の眼の形や鼻の形が、他の人々と比較して、
大きすぎるとか、小さ過ぎるとか、高すぎる低すぎるとかいうことによって
価値づけをしなくなるということである。

すべての人間は、神の絶対美 〈超比較美〉 の個別化した自己表現であるから、
その人でなければ表現できないところの比較を絶した美しさがあるということである。

たとえば、美空ひばりにも、江利チエミにも、雪村いずみにも、坂本九にさえも
神は、彼又は彼女でなけれならない魅力的な美を与えていられるのである。 

ロダンの 「鼻欠けの像」 にすらすばらしい美が表現されているのである。

“生命” は “神” であるから、“生命” の発現するところ
必ず其処に素晴しい美が輝きいづるのである。

あなたは何よりも自己の “生命” を溌剌と発揮しなければならない。 
妻が生き生きと明るい美を湛えている家庭は常に幸福である。


“神らしく” あるという事の一つの特徴は、
その人が自然にそのまま健康であるということである。

神は絶対健康であるから、あなたが毎日神想観を実修し、
自己の実相たる 「神の生命の内在」 を心で見詰め、
それを念じつづけている限りは絶対健康であるのは当然のことである。


併し肉体は 「心の影」 であるから周囲の人々との間に “心の世界” に
摩擦や憤りや憎しみや反感や嫉妬や恨みがある場合は、
その感情の蓄積が或る程度以上にたまると、

それが具体化して病気の形をもって自壊して行くことになるのであるから、
周囲り人々と和解し、調和し、すべての人に物に事に感謝するように
しなければならない。

神想観のとき、あらゆる人に物に事に愛念を送り、感謝の念を送るようにしなさい。 
それが絶対健康を得るもとになります。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19195431.html より転写)

          <感謝合掌 平成30年9月28日 頓首再拝>

無限の健康調和の実現 - 伝統

2018/10/02 (Tue) 04:05:20


        *「光明法語(10月2日)」より

各々の細胞がその個性を発揮しながら完全なる協力を遂げているとき
人体の健康は最も完全に実現するのである。

完全なる協力は 「本来一」 の自覚より生ずる。
人間の健康も先ず人間同士が完全に 「一」 である自覚をもって互いに相結ばれ、
人間相互にその感情が調和している時にのみ真に実現し得るのである。

人間同士の感情が争っているときには、肉体は心の影であるから、
心の乱れている限り真に無限の健康は発揮されようはないのである。
汝ら互いに調和せよ。

          <感謝合掌 平成30年10月2日 頓首再拝>

吾は「霊なる完体なり」の自覚を持つ - 伝統

2018/10/03 (Wed) 03:13:49


        *「光明法語」(10月3日 物質の自覚)より

完全なる健康の裏には「完全」なる調和の念がなければならないのである。

先ず肉体は「物質」であるとの念を捨てよ。

物質は結局バラバラのものであって互いに漠然とした一体の自覚なきものであるから、
吾々の肉体が物質で出来ているものだとの考えが吾々の心を占めている限り、
自己の肉体はバラバラのものであると云う念を抱いていることになるから、
その念があらわれて完全なる健康は得がたい。

完全なる健康は、吾は「霊なる完体なり」の自覚から生まれるのである。

          <感謝合掌 平成30年10月3日 頓首再拝>

肉体健康の秘訣 - 伝統

2018/10/04 (Thu) 04:27:50


        *「光明法語(10月4日)」より

肉体を健康ならしめるためには、肉体を愛しなければならない。
肉体を霊の敵であると憎んでいる限りに於いて、その肉体は健康になる事は出来ない。
肉体を「霊の完全なる表現」であると信じ、それを愛し敬しなければならない。

肉体を醜いものと考えてはならないし、
それを神の人間理想の最高権限であると見なければならない。

常に神想観する時に「吾が肉体は神の最高美の理想的顕現である」と念ぜよ。
而(しか)して病気を見る勿(なか)れ、病気を想念する勿れ。

          <感謝合掌 平成30年10月4日 頓首再拝>

健康美を讃賞せよ - 伝統

2018/10/05 (Fri) 04:43:59


        *「光明法語(10月5日)」より

健康美の発現を悦べ。

それが体操であれ、スポーツであれ、舞踊であれ、
健康美の表現されているものを素直に悦ぶ心がなければ、
ただの健康は得られても健康美ある肉体の美しさは得られないのである。

何でも愉快に体操でもスポーツでも舞踊でも、
健康の美の発現を実際に喜んで実践するとき健康美はあらわれる。

何でもそれを讃えてやり賞(ほ)めてやり喜んでやったならば、
それは益々発達しその完全なる姿を現すのだ。

肉体美もその通りである。
肉体を軽蔑してはならぬ。

          <感謝合掌 平成30年10月5日 頓首再拝>

肉体を憎む勿れ - 伝統

2018/10/06 (Sat) 04:46:22


        *「光明法語(10月6日)」より

肉体を憎む者は、その肉体が虚弱となるであろう。

聖フランシスは其の著しい実例である。
彼は常に虚弱であったし、その最後には聖痕(せいこん)と称する十字架に釘づけられ、
槍でつかれた通りの傷さえも其の肉体に生じたのである。

聖フランシス程でなくても肉体を憎む者は肉体が喜ばないから、
其の最高の完全さを発揮する事は出来ない。

肉体を愛しなければならぬ。
しかし、肉体を物質として愛する者は肉体をやはり軽蔑する者だ。
肉体を霊として、霊の最高顕現として愛せよ。

          <感謝合掌 平成30年10月6日 頓首再拝>

《堅固なるあなたの生命の基盤》 - 伝統

2018/10/20 (Sat) 04:38:38


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P231~232) より

神の生命(せいめい)がわが生命(せいめい)であり、
神の智慧がわが智慧であるということを知るとき、
私たちの生活は確固たる霊的基礎の上に建つのである。

どんな病気も恐れることは要らないし、どんな病原体も、
わが生命力に打ち勝つことができないということを知って、
自己の生命(せいめい)が安泰たることに自信をもつことができるのである。

まだ諸君のうちに、そのような自信をもつ程度に達していない人があるならば、
その人はもっと充分、繰返し繰返し神想観を実修して、

潜在意識の底の底にまで、自分の生命(せいめい)が神の生命(せいめい)であり、
わが生理作用が神の完全なる智慧により設計され、
神の周到なる智慧に導かれて行われていることを印象させるがよいのである。

吾々の潜在意識がその眞理を浸透せしめられる程度に随って、
健康は増進し、病気や老衰に対する恐怖はなくなり、
長寿と能率とを確実に得ることができるのである。

          <感謝合掌 平成30年10月20日 頓首再拝>

人を憎んでいては、健康にはなれない - 伝統

2018/11/01 (Thu) 04:35:05


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月1日)より

春に出る新芽は春になって初めてできるのではない。
もう11月の頃から、あるいはもっと早くから用意されているのである。
この用意が不完全だったら、よい新芽は出ないのである。

まちがい上に本物を建てることはできない。
健康になりたい人はまずまちがいを捨てなければならない。
まちがいの上にどんな立派な建物を建ててもそれは倒れてしまう。

「まちがい」とは、それが《ある》かのように見えても本来、「当に有るべからざるもの」
すなわち「不当有(ふとうう)」であるから、不当有(ふとうう=まちがい)の上に
物を建てたものは、いずれも壊(くだ)けてしまうのである。

人を憎んでいて健康になどなれるものではない。

憎みは「不当有(あるべからざるもの)」であるから、神に対する背反である。
神は「生命(せいめい)」であるから、「憎み」のあるかぎりその人は「生命(せいめい)」
に背反しているのであるから、その人の健康が不良なのは当然である。

「憎み」を持続しながらその人の健康を維持しているように見えても、
それは表面のことであって、その人が、「神」すなわち「生命(せいめい)」に背反して
いる限り、すでにその人の健康は危殆に瀕しているのである。

         <感謝合掌 平成30年11月1日 頓首再拝>

霊は健康で迷わざるものである - 伝統

2018/11/12 (Mon) 02:49:06


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月12日)より

霊的自己 ―― 迷わぬ自己 ―― ただ一つ ―― 二つは無い。
迷っている自己、病んでいる自己、そんなのもは無い。
自己は二つない。一つきり。

健康な自己だけ。そのほかの自己を神は創(つく)らない。

霊は健康で迷わざるものである。

         <感謝合掌 平成30年11月12日 頓首再拝>

下痢あり、嘔吐あり、そのまま健康なのである。 - 伝統

2018/11/13 (Tue) 04:41:59


          *「光明道中記」(11月13日 夫婦互いに調和する日)より

【周囲の人は自分の生活の鏡。(『生命の實相』第四巻)】

維摩が病気で寝ていたとき、文殊菩薩が病問の使者として来た。
維摩は文殊に対して、「衆生病むが故にわれ病む」と答えている。

生長の家ではあまりに病気が治りすぎるために、またあまりに現象的利益が得られるために、
現象的な利益に傲(おご)り驕(たかぶ)って、病気のないことを悟の証拠にしようと
思ったり、金の儲かることを悟の証拠にしようとするような危険がある。

これは厳重に避けなければならない錯誤である。

「従容録」第三十六則馬師不安の公案がある。
不安と云うのは病気と云う意味である。

馬師の話は七月二十一日の欄でも触れたことがあるが、馬大師が病気で寝ていた。
そこで寺の院主が「和尚(おしょう)近日(きんじつ)尊位(そんい)如何(いかん)? 」
とやった。 「近頃病気は如何(いかが)でございますか」と云う程度の問だ。

馬大師答えて曰く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(げつめんぶつ)だ」
これは「仏名経」に載せられている仏の名前であるが、
日面仏は昼を照らし、月面仏は夜を照らす。

昼は健康を表し、夜は病気を表している。
馬大師は「昼あり、夜あり、それが自然の健(すこや)かさ」と言ったのだ。
下痢あり、嘔吐あり、そのまま健康なのである。

晴天あり、雨天あり、そのまま日々好日である。
凡夫の晴天はそれに執(とら)われて慢心し、凡夫の雨天はそれに執われて悲しむ。

聖人にも雨は降るが、青空のように雨の染(しみ)を残さぬのである。

          <感謝合掌 平成30年11月13日 頓首再拝>

「元気です」という言葉】 - 伝統

2018/11/30 (Fri) 04:25:57


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年08月12日)より

   (植西聡氏の心に響く言葉より…)

   運が良い人というのは、不思議なくらいみんなパワフルです。

   そして実際に、元気です。

   彼らは、元気そうに見えるだけでなく、実際に健康です。
   少しくらい睡眠時間が足りなくても、笑顔で乗り切るスタミナを持っています。


   「お元気ですか? 」と聞くと
   「ああ。忙しいけど元気だよ。健康だけが取り柄なんだ」なんて言って、
   いつも笑っています。

   考えてみてください。

   あなたの近くの上り調子の人たちは、みんな驚くくらい元気だと思いませんか?

   そしてプラスの言葉を発していると思いませんか?


   いつも青白い顔をしていて、いつもいつも口を開けば、
   「最近、体調が悪いんだよ。病院で検査を受けてこようかなあ」
   などと言っている人が、大きな成功を手にしたなんて話、聞いたことがありません。

   運の良い人たちは、心の状態がプラスになっていることで、
   健康状態さえも整えているのです。

   そして、プラスの心がプラスのパワーを呼び込むことで、
   さらに健康になっていくのです。

   「体力に自信がなくって」と言う人は、
   いつもそう言っていることで、実際に体力を失っています。

   「胃が痛いことばかり起こるんだよ」と言っている人の心は、
   マイナスのパワーで一杯です。

   そのため、実施にマイナスの力を引き寄せて、自分で胃を痛めているのです。


   ツイている人を目指すなら、
   目標の中に、「健康であること」も付け加えましょう。

   そして、「私は元気です」と口に出す習慣を始めてみましょう。

   そう言い続けているうちに、本当に健康になる自分に気づくはずです。

   同時に、寝る前にストレッチをしたり、
   朝少し早く起きて呼吸法をしてみるなど、体力作りのための行動を始めれば、
   あなたの健康運はますます上昇するでしょう。


   ツイてる人は、自分の体調もコントロールできます。

   「いつも元気です」と言って、実際に健康を保っています。

   あなたも言葉を上手に使って、健康な人になってください。

         <『運がよくなる100の法則』集英社be文庫>

            ・・・

中村天風師はこう語った。

「たとえ身に病があっても、心まで病(や)ますまい。
たとえ運命に非なるものがあっても、心まで悩ますまい」。

だからこそ、「どんな場合にも『こまった』、『弱った』、『情けない』、
『腹がたつ』、『助けてくれ』なんていう消極的な言葉を、
絶対に口にしないことです」と。


「体と心は別」だ、と中村天風師は言う。

たとえ病気だとしても、心まで病気になってはいけないと。

病気は体がなっているもので、体はつらいかもしれないが、心は別なのだ。

だから、「どんな調子?」と聞かれたときに
「(心は)元気です」と答えることができる。


そして、「元気です」とか「楽しい」、「うれしい」、「ありがたい」
といつも言っていると、逆に、体も自然と「元気」で「楽しく」て
「うれしい」状態になっていく。

どんなときも「元気です」と言える人でありたい。

          <感謝合掌 平成30年11月30日 頓首再拝>

不健康(不自然な生活)な過去を斬れ! - 伝統

2018/12/19 (Wed) 04:24:13


         *「光明道中記」(12月19日 妄執を斬る日)より抜粋

【妻の非難の念波は良人(おっと)の心を淋しくする。また良人を病気にする。
                        (『生命の實相』第六巻)】

人間は健康なのが自然であって、不健康なのが不自然なのである。
そうすると不健康とは不自然な生活が起ったと云うことである。

不自然な生活の中には、憤(いか)りに耽(ふけ)ること、人を怨み憎むこと、
悲しむこと、陰気に沈むこと、笑わぬこと、いつまでも同じ感情に沈むこと、
仕事をせぬこと、上に仕えて素直でないこと、兄弟仲よかざること、人をゆるさぬこと、
嫉妬心を起すこと、あせり急ぐこと、・・・等々の心持である。

憎んでいなくとも斬らねばならぬことがある。
愛していても斬らねばならぬことがある。

(中略)
 
斬れ!  自分の過去を。

          <感謝合掌 平成30年12月19日 頓首再拝>

「何でもクヨクヨするな」  - 伝統

2018/12/20 (Thu) 04:19:06


       *「光明道中記」(12月20日 大調和の日)より

【躓いたがために落ちる人もあれば、躓いたがために落ちる前に気がつく人もある。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

人間は自分の生活が不自然な為に病気になるばかりではなく、
自分が不自然な思いをもつことによって病気になるばかりではなく、
その時代の人類の思想を反映して病気になるものでもある。

人間の思想が波動であること、そして人間の心が、
非常に鋭敏な波動受信機であると云うこと。

斯う云うことを考えめぐらせて見れば、その世紀の人類の思想が吾々を病気にもし、
健康にもするものであることが明らかになるであろうと思う。

人間のように鋭敏(デリケート)な感受機関を有しない動物でさえも、
周囲の精神波動に感じて病気になるのは、山野の獣(けもの)が病気にならないのに、
家に飼(か)うと、手厚い保護(実は「心配」と云う病的念波)を受けながらも
病気になる事実で明かである。

この理論で行くならば、家庭に病人を無くするには、
やはり周囲の精神波動を浄(きよ)めねばならぬのは明らかである。
病気を心に思いすぎる精神習慣の人は、その習慣を改めなければならない。

誰も病気のことなど思わず、常に快活にしているように努め、
家庭の空気が光明化するような明るい読み物を常に読まねばならぬ。

「何でもクヨクヨするな」 

この言葉を病人の多い家庭に捧げる。 

          <感謝合掌 平成30年12月20日 頓首再拝>

人間の実相(そのまま)は健康である - 伝統

2018/12/23 (Sun) 04:41:16


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月23日)より

わたしの『光明の生活法』の本の携帯版が気持ちのよい形で、
そんなどぎつい装飾もなしに、ととえば夜しずかに降りて万物をうるおしてくれる
夜露のように質素な、そして典雅な形で出た。

常にこの書を携帯していちいちその生活法どおり実行する者は幸いである。

この生活法を常に実行している者は常に健康であるに相異ない。

不健康とは、生活が不健康であり、思いが不健康であることの反映であるに過ぎない。

人間の実相(そのまま)は健康であるからである。

          <感謝合掌 平成30年12月23日 頓首再拝>

善き話題を - 伝統

2018/12/27 (Thu) 03:49:29


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より抜粋

善き話題 ――
彼はこんな深切なことをした。
彼はこんなに向上した。

自分はこんなに楽しいのだ。
自分は近頃大変健康だ。(まだ現象的には健康になりきっていなくともよい、こう話すのだ。)
自分の従事する事業はますます栄えてゆきつつある。

そのほか何でも、進歩、繁栄、向上、元気、光明、健康の雰囲気を伴うことが
話題として最もよいのである。

しかし顧(かえり)みよ、いかに人が相寄れば他人の悪口や不幸ばかりを口にしていたかを。
これでは人生に不幸な人が多かったのも不思議はない。

欠点を見出して責めるのが今までの教育法であった。
生長の家が出現してまったく教育がその全貌を変化したのである。

ただ児童を、社員を、店員を、賞(ほ)めることだけによって、児童が、社員が、店員が、
改善されてゆくという不思議な事実を ――
われらの同志はすでに不思議でもなく実行しつつあるのである。

しかしそれをまだ対他的教育法だとのみ思っていて、自分自身の健康法だと思っていない人の
多いことは事実である。それは教育法であるばかりではなく、実に健康法なのである。

          <感謝合掌 平成30年12月27日 頓首再拝>

本当は何があなたを健康にしてくれるのか? - 伝統

2019/01/13 (Sun) 04:21:04


       *「あなたが「宇宙のパワー」を手に入れる瞬間 永遠に続く幸せの源泉」
        ~ディーパック・チョプラ(著)(P245~246)より

元気あふれる健康状態というのは、単に病気をしていないということではありません。

それはあなたの内側に常にあるべき楽しさです。

技術はあなたを健康にしてくれません。

あなたが健康になるには、宇宙の力と提携して
あなたの体に自然の体の一部だということを感じ、自然と親しみ、
あなたの魂に親しみ、静寂と孤独のひと時をもつことです。

あなたの生命維持システム以上のもので、
進化の旅をしているあなたの魂の表現です。

体はあなたが宇宙の旅の中でほんの数秒間立ち寄った神聖な寺院なのです。
この寺院を清潔で純粋なものに保ちましょう。

楽しみを求める体の叫びや、恍惚を求める叫びにも耳を傾けましょう。

あなたは宇宙の特別な子供で、この体はあなたの今だけの住まいです。

生命のキャラバンは他の場所や他の時代でも停まります。

あなたは癒しと変革の旅の途中にいて、
次の創造の大躍進の機会は今現在です。

           <感謝合掌 平成31年1月13日 頓首再拝>

《あなたは完全に肉体を支配できる》 - 伝統

2019/01/30 (Wed) 04:40:47


        *『人生の秘訣365章』第12篇(P291~292) より

人間の肉体は、人間の主体である霊的存在の驚くべく完全なる霊的叡智が
物質の原子分子の配列を指導して、ただの物理化学的現象以上に、
個性ある創造力によって創作し出されたる産物であるのである。

肉体の分子原子の配列の具合は、
人間の主体である“霊”によって支配されているのである。

それが如何に霊妙に微細な点に至るまで、
個性ある叡智によって支配されているかは、

同じく人間でありながら、各人の容貌が悉く微妙に異なり、
細かく分類すれば血液型が悉く異なっておる事実によっても、
ただの無個性の物理化学的法則によって出来上がった物が
人間の肉体でないことを証明するのである。


そんなに微妙に肉体の分子・原子の配列を支配する叡智が
人間には宿っているのであるから、
その叡智を完全に発動させて全身の細胞を支配せしめれば
人間は健康になるより仕方がないのであるが

その叡智を“迷いの想念”が充分働かせないようにするため、
恰も妨害電波がテレビの画像を崩してしまうように、
完全な肉体の姿を狂わせてしまう。

これが病気の《もと》である。

しかし私たちは“神の子”であり霊的実在であり、
健康の源泉であるところの霊的叡智をそなえているので、
“迷いの想念”を除き去り、霊的叡智を働かすようにようにすれば
直ちに健康を取り戻すことができるのである。

           <感謝合掌 平成31年1月30日 頓首再拝>

健康増進 - 伝統

2019/02/02 (Sat) 03:50:56


           *「光明道中記」(2月2日健康増進の日)より

【食事にうんと歓びのお菜を附けて食べよ。どんな粗食でも最上の栄養に変わる
                        (『生命の實相』第八巻)】

戦前であったが、自殺して死んだ医学博士で
羽太鋭治(はだえいじ)と云う人があった。
その人が若返り法の本を書いたことがある。
その本の中に肥えたい人の食事法と、痩せたい人の食事法とが書いてあった。

痩せたい人は畳の上に盆を置いて、低い位置に料理を置いて身体を屈み加減にし、
消化器を圧迫しながら、出切るだけ憂鬱な気持で食べるのである。
そうすると必ず痩せると言う。

肥えたい人はその反対をするのである。
腹を伸ばしてゆっくりと高い加減の食卓に坐し、
天井に「アハハハハ」と大きく書いた紙を貼り附けて置いて、
食事をしながら、天井を仰ぎ見て、「アハハハハ」と時々笑うのである。

笑えば心が開く。
心が開けば血液の循環がよくなる。
消化器の分泌が豊富になり、
粗食からでも豊富な栄養を吸収することが出来るようになる。

併し肥えるということは必ずしも健康の理想ではない。
或る人は痩せているがために他の内臓の能力(キャパシテー)と
平衡を得て健康を得ている。

健康とは要するに全体の調和を意味する。
心臓や腎臓の能力(キャパシテー)の小さな人には
筋肉の増大は返って負担となる。

           <感謝合掌 平成31年2月2日 頓首再拝>

《食物その他の摂生は必要か》 - 伝統

2019/03/03 (Sun) 04:49:09


       *『人生の秘訣365章』第12篇(P292) より

神が“神の子”の生命(せいめい)を吾々人間に降し給いて、物質分子・原子を、
その叡智によって組立てて人体を造らしめられたその過程に於いて、
生命(せいめい)は物理化学的法則をも利用しているのであるから
(例えば呼吸作用や食物の消化過程に於けるが如く)
私たちは、強いて物理化学的法則を破る必要はないのである。

清浄な空気の中に住み、適当な栄養分を有する食物を選んで食し、
適当な運動をすることは、生命(せいめい)が物理化学的法則を利用して、
自己の叡智を現象世界にあらわす過程に正しく協力することになるのである。

           <感謝合掌 平成31年3月3日 頓首再拝>

人間が疲れないためには - 伝統

2019/03/18 (Mon) 02:15:08


           *「光明法語」(3月18日)より

自己催眠、自己暗示で自分を疲労せしめて自分を病気にするのは愚かな事である。

疲れたと思ったときには、しばらく眼を瞑(と)じ、

「神は無限力であり、自分は神の子である。
今神の無限力が滾々(こんこん)と流れ入って、自分は無限の精力を回復しつつある」

と数回念ずれば、その疲労は須臾(しばらく)のうちに回復するものである。

また仕事をする場合、自分の力で仕事をすると思わないで、
「神が自分を通して仕事をしたまうのであるから決して疲れることはない」と
数回念じてから仕事をすれば疲れない。

           <感謝合掌 平成31年3月18日 頓首再拝>

生命の純粋波動を現せ - 伝統

2019/03/19 (Tue) 04:44:51


           *「光明法語」(3月19日)より

肉体は念波の振動が物質化して姿をあらわしたものである。
その姿の奥に生命の純粋波動があるのである。

生命の純粋波動のみがあらわれたら健康になるほかはないのであるが
その表面に自己の空想的な念波及び、他より波及されたる不健全な念波が、
満月の上にかかった雲のように蔽って、其処に不健全な姿をあらわすのである。

生命の純粋波動の世界には病気もなければ、疲労もない。

自己の空想的念波と云うのは、
本来あり得ない不完全な姿を空想した念波であるから斯く称するのである。

           <感謝合掌 平成31年3月19日 頓首再拝>

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