伝統板・第二
人格の陶冶② - 夕刻版
2017/10/13 (Fri) 19:46:29
*伝統板・第二「人格の陶冶①」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6916982
完全理想の実現を目指して
*「生活と人間の再建」(P44)より
完全なる人格 ―― といいても地上に於けるすべての完全さは、
相対的完全さであり、絶対的完全さの象徴としてそこに現れているのであるから、
尚一層完全なる象徴にまで吾々自身の人格を、そして肉体を向上せしめることが
できるのである。
この地上の努力の中(うち)に、創造の喜びがあるのである。
吾々はその努力によって尚一層完全なる人間にまで自分自身を磨きあげると共に、
尚一層自分自身の肉体をも、神の自己実現の象徴として尚一層健全なる
美しき肉体に迄高めあげなければならないのである。
そして遂に人間の進化の最高峰であったエリヤや、イエスや、弘法大師が、
肉体を残さずして《永遠に生きる霊体》に迄、肉体の状態を改造した如くにまで
達する事を理想としても、理想に過ぐるという事はないのである。
<感謝合掌 平成29年10月13日 頓首再拝>
【聞くにわけあり】 - 伝統
2017/10/15 (Sun) 20:42:58
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2015年11月17日)より
(修養団・元伊勢道場長、中山靖雄氏の心に響く言葉より…)
人は、いいことも悪いことも、すべてひっくるめた条件の中で、
人間の幅が広がっていくのです。
そういうふうに人生をとらえることができれば
「見るに意味あり」で、
自分が見させられるものへの意味を見出せます。
「聞くにわけあり」で、これを聞くというのは、
何かわけがあるから聞かされたのだと思えてきます。
「出会いに縁あり」で、出会うということは、
この出会いが自分に必要だったのだと受け止めていける。
こういう世界があるのではないかと思うのです。
「見なければ、気にならない。聞かなければ、苦にならない。
誰が見せるんだろう。誰が聞かすんだろう」
なにか必要があって見せられたり、聞かされたりしているのだ。
そう考えてみてください。
そして、自分のこととしてとらえていくのです。
たとえば、電車で足を1回踏まれたら、誰でも踏んだ人を責めます。
2回踏まれたら、踏んだ2人目を責めますか?
でも、3人目に踏まれたら、いよいよ自分で考えますよね。
「自分の立っている場所が悪いのだろうか」とか、
「私も踏まれないように注意しなくては」と、
自分のこととしてとらえるようになります。
これが常にできるようになったら、みんな少しずつ優しくなれます。
見なければ、気にならない。
聞かなければ、苦になりません。
いったい誰が見せるんだろう?
いったい誰が聞かせるんだろう?
このことを感じながら生きることが大切なのです。
《すべては今のためにあったことです。
つらかった過去もすべて 今を喜んで生きるための根になっています》
<『すべては今のためにあったこと』海竜社>
・・・
嫌なことを聞かされたり、見るはめになったことは、
その時に、聞かなければならない意味、見なければならない意味がある。
つらいことや苦しいことを経験することも同じ。
そこに意味を見出せない人は、
愚痴、文句、不平不満、泣き言などを言うだけで終わってしまう。
人やまわりのせいにする人だ。
そこに意味があると思える人は、すべてを自分ごととして捉えることができる人。
「すべては今のためにあったこと」
見るにわけあり、聞くにわけあり、出会いに縁あり、
と感じながらこの今を生きていきたい。
<感謝合掌 平成29年10月15日 頓首再拝>
器量を大きくするには - 伝統
2017/10/17 (Tue) 19:23:42
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2012年05月28日)より
(斉藤一人さんの心に響く言葉より…)
どれだけすばらしい才能を持っていても、
どれだけ優秀な業績を残せたとしても、
絶対にやってはいけないことがあります。
それは、威張ることです。
威張りたい人というのも、
結局、自分で自分の機嫌をとれない人なんだよね。
自分で自分の機嫌をとれる人にとっては、
人にほめてもらったり、気を使ってもらうのは、
それはそれでありがたいことなんだけど、
そうでなくても別に問題はないのです。
レストランとかに行って威張っている人がいるんだけど、
あれは本当にみっともないよね。
客で金を払っているんだから当然だっていうけど、
そういう人って食事を楽しむというよりも、
お金を払って機嫌をとってもらうために来てるんです。
お金もちになりたいとか、一番になりたいとか、偉くなりたいという人のなかには、
人に機嫌をとってもらいたいから、
いちばん偉いといちばん機嫌をとってもらえると思っている人がいるんだよね。
それで、威張っているのが偉いんだって思っているんです。
私はよく、「一人さんはなんでテレビに出ないんですか?」と聞かれるんだけど、
有名になりたい人って、人からちやほやされたいのです。
それで私は自分の機嫌は自分でとれるから、
別にちやほやしてもらわなくてもいいのです。
逆に私はそういうのを面倒くさいと思ってしまうのです。
器量が小さいっていうのは、
誰かに幸せにしてもらいたいっていうことなの。
誰かに幸せにしてもらおうとか、
誰かに機嫌をとってもらおうとしていること自体が、
自分の器量を小さくしているのです。
逆に、誰かを幸せにしようとしたとき、その人の器量が増えるの。
誰かに何かをしてもらうことを期待するのではなく、
自分がその人を幸せにしたいからする。
その数が増えれば増えるほど、その人の器量は大きくなるのです。
<『器』(斉藤一人&柴村恵美子)サンマーク出版>
・・・
器量の小さい人は、些細(ささい)なことですぐ怒る。
自分がないがしろにされた、オレはこんなに偉いのに、と威張ったりする。
また、レストランで料理の出るのが遅いとか、後輩なのに挨拶がないとか、
上司の自分に相談がなかったとか、イライラしたり、キレたりもする。
「自分をもっと認めてほしい」、という心理が根底にあるからだ。
日頃、まわりからたくさん愛情をもらっている人は、いつも満ちたりているから、
ちょっとぐらいのことでは、機嫌が悪くなったりはしない。
そういう人は、まわりの人に愛情を与えることができる。
自立した大人は、自分で自分の機嫌をとることができる。
自分にエネルギーを補充する方法を知っているからだ。
まわりの人を幸せにする器量の大きい人でありたい。
<感謝合掌 平成29年10月17日 頓首再拝>
【品がいい人ってかっこいい】 - 伝統
2017/12/12 (Tue) 18:57:01
*メルマガ「人の心に灯をつける(2017年11月01日)」より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
品がいい人ってかっこいいよね。
それで、「かっこよく生きる」って、すごく大切なことなんです。
“イヤな金持ち”ばかり見ていると、
「金持ちってイヤだなぁ」って思います。
でも、金持ちでもいい人で、かっこよかったりすると、
その人のことをマネする人が出てくるんです。
だから、かっこよく生きるって、人のためにもなるんだよ。
人は、「憧れた人」には近づこうとします。
ヤクザに憧れる人もいるんです。
でも、それよりもかっこいい人がいたら、必ずその人に憧れるんだよ。
だから、かっこよく生きるってすごく大切なことなの。
「自分がどれだけ徳を積んでいるか」とか、
そういうことを言うのではなく、
相手の立場で話ができるってかっこいいよね。
親鸞上人(しんらんしょうにん)でも、
ある人に「あなたのお弟子さんたちはすごいですね」って
言われたときに「私には弟子はいません。あの人たちは私の師匠です」って
言ったんだよね。
言うことがかっこいいと、人はそこに“美”を感じます。
スピリチュアルっていうのは「内面のかっこよさ」なんだよね。
芸能界は主に「外面のかっこよさ」を競うけど、これからの時代、
それに負けないくらいスピリチュアルもかっこよくないとダメなの。
なぜかっていうと、かっこいいから人はついてくるんだよ。
言ってることが正しいからじゃないの。
理屈をいくら話したって、理屈じゃ人はついてこない。
「その人に惚(ほ)れる」っていうことが大切なんです。
影響力を使って人を動かそうとするけど、
その人がかっこよかったら、言うことを聞くんだよね。
それで、人を影響力で動かそうとする人って、人を変えようとするんです。
でも、変えようとすると人は逃げていくんだよ。
いつも説教しようとする人からは離れていきます。
それよりも、相手が惚れちゃうような生き方をすればいいの。
そうすれば、人は自然とついてくるんだよ。
今、みんなスマートフォンとか持ってるよね。
それで、これさえあればなんでも調べられるの。
東大の試験に出るような問題だって知ることができます。
そうなったとき、これからの時代に人が何を求めるかというと、
学歴よりも“人格”であり、“魅力”なんです。
もちろん、これからも学歴は必要だけど、
それ以上に人から好かれることが大切だよね。
これからの時代、社長でも先生でも、
人に対して影響力を与えたいなら好かれないとダメなんでうs。
お釈迦様もキリスト様もきっと、多くの人から好かれてたんだよ。
難しい顔とかしたりせず、いつも優しい顔をしてたんだと思うよ。
きっと、自然と「この人についていきたい」と思わせる顔をしていたんだよ。
愛が顔に出てたんだよね。
<『品をあげる人がやっていること』サンマーク出版>
・・・
「別れたあとに、また会いたいと思うような
余韻や余情を残す人は魅力的な人間である」(行徳哲男)
余韻とは、鐘の音などが消えたあとも、なお耳に残る響きのことだ。
「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)という言葉がある。
春風がのどかに気持ちよく吹くさまをいうが、
「温和でゆったりとしている」、
「物事に動じないで余裕がある」 ような人柄をいう。
まさに、余韻のあるかっこいい人だ。
かっこいい人は、かっこいいことを言い、かっこいい行動をとる。
だから、会ったあとに余韻が残る。
品がよくてかっこいい人をめざしたい。
<感謝合掌 平成29年12月12日 頓首再拝>
財貨の獲得と人格の自然な成長 - 伝統
2017/12/24 (Sun) 20:03:02
*「光明道中記」(12月24日人格完成の日)より
【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。(『生命の實相』第八巻)】
資本の蓄積は現在の経済組織に於いては
何か仕事を進める上には是非必要なことではある。
併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、
それは守銭奴であって、人間の人格の自然な成長を害することになるのである。
梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。
それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。
人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨は
すべて遺しておかなければならないのである。
彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。
それだけに必要以上の蓄積することに時間をつぶして、
一体それが何の獲得であるのだろうか。
財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。
<感謝合掌 平成29年12月24日 頓首再拝>
【器の大きさで「幸せ」は決まる】 - 伝統
2017/12/30 (Sat) 18:39:01
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年12月18日)より
(マーク・ポネ氏の心に響く言葉より…)
ある年老いたヒンドゥー教の師は、
一人の若い弟子が不平ばかり言うのにうんざりしていました。
それである朝、その弟子に塩を買いにいくように言いつけました。
弟子が戻ると、師はコップ一杯の水に、
ひと握りの塩を入れて飲んでみなさいと言いました。
「どんな味がしたかな」と師が尋ねました。
「塩辛いです」と言って、弟子は塩水を吐き出しました。
師はクスリと笑い、同じひと握りの塩を持って、
弟子を湖に連れて行き、それを湖の中に撒(ま)くように指示し、
そして湖の水を飲んでみるよう言いました。
弟子のあごから水がしたたり落ちるのを見て、師は尋ねました。
「どんな味がしたかな」
「真水です」と弟子は答えました。
「塩の味はしたか」
「いいえ」
その答えを聞いて、師は昔の自分とよく似ている弟子と並んで腰を下ろし、
こう諭(さと)しました。
「人生の苦労とは、塩のようなものだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
苦労の量はいつも同じだ。
まったく同じなのだ。
だが、私たちが味わう苦さは、その苦労を入れる器の大きさによって決まる。
だから、苦しい目にあったときは、
物事を感じる自分の度量を大きくするしかないのだ。
コップではなく、湖になりなさい」
<『「自分を変える」心の磨き方』三笠書房>
・・・
安岡正篤師の器量の話がある。
『「あれは器量人だ」という言葉が通俗用語になっておりますが、
これは人間の具体的存在を器という字で表現しているもので、
人間の大きさ、深さを量(はか)る言葉として用いている言葉であります。
あれは頭が良い、よく出来る。
けれども人を容(い)れない。
人を用いる量がない。
深みがないなどといわれる人があります。
度量、器量ということが良く考えられなければならないわけです』
《安岡正篤一日一言》より
坂本竜馬(勝海舟という説もある)は西郷隆盛を、
「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」と表したという。
相手が子供なら子供と同じ目線で偉ぶらないで話し、
相手が天下国家のことを論ずるなら堂々と又それを論ずる。
器の大きな人物は、「肚ができている」「胆力がある」
「怒りをコントロールできる」「許しがある」
「人の話をじっくり聞くことができる」等々の人のことを言う。
《器の大きさで「幸せ」は決まる》
胆力のある器量人を目指したい。
<感謝合掌 平成29年12月30日 頓首再拝>
人格の美しい人となれ - 伝統
2018/01/16 (Tue) 20:40:49
*『真理』第3巻 初學篇(P225~226)より
ひとの富を、ひとの着物を、ひとの家を、ひとの出世を、ひとの美しさを
悦びあじわう心こそ、いつも楽しい心、平和の心です。
吾々は形の美しい顔や、健康な色沢を見ますと楽しい感じがしますが、
それよりも尚美しいのは、魂の美しさ、心の美しさに輝いている顔であります。
そういう顔は、どんな質素な着物を着ていましても、
素晴らしく美しく見えるのであります。
魂の美しさに輝く顔になるには、心が美しくならねばなりません。
つねに人にあたえて、その悦びを見ることを楽しむ心になっていますと、
いつの間にか自分の顔が美しく輝いて見えるようになるのであります。
こんな美しさを人格の美しさといいます。
最高の美しさは生まれつきの顔の形ではありません。
仲のよい友達の深切なときの顔は、どんな生まれつきの顔でも
一番美しく楽しく見えるではありませんか。
<感謝合掌 平成30年1月16日 頓首再拝>
私はこのような完全な人格を讃える - 伝統
2018/04/22 (Sun) 19:35:26
*『愛はかくして完成す』(P49) より
完成した人格とは、単に知識がすぐれている者を謂うのではないのである。
また単に能力がすぐれている者を指すのでもないのである。
また無暗に愛に溺れる者でもないのである。
その知識と能力とを、人類の魂の向上と、その健全なる福祉のために、
最も適当に使用し得るバランスのとれた判断力をもち、
憐れなる者を見ても無暗にそれに同情せず、
峻厳なる叡智をもって彼を鼓舞激励し、巧みに誘導しつつ、
如何なる峻峰をも恐れず、懸崖(けんがい)に手を擦して彼をついに
頂上の高さまで登らせる応変自在の智慧をもつ者でなければ
ならないのである。
<感謝合掌 平成30年4月22日 頓首再拝>
「人格」の力を作れ - 伝統
2018/06/18 (Mon) 18:12:31
*「光明法語」(6月18日)より
「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、不成功に終らせたりするのである。
ある人は「人格」の力で、人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。
ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、その人に功を成さしめない。
では「人格」の目に見えない雰囲気をどうしたら発達せしめることが出来るか。
それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。
《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。
<感謝合掌 平成30年6月18日 頓首再拝>
「人格」の《ふんいき》 - 伝統
2018/06/19 (Tue) 20:00:43
*「光明法語」(6月19日)より
日常断えず思っている「思い」の集積が、人格の雰囲気となって現れる。
たえず善き「思い」を起こしている者はよき人格の雰囲気をもち、
断えず卑しい「思い」を起こしている者は何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。
威厳の雰囲気を放つ者あり、慈悲の雰囲気を放つ者あり、柔和の雰囲気を放つ者あり、
剣気の雰囲気を放つ者あり、邪気を放つ者あり、徳気を放つ者あり、人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって、一時人前を繕っても駄目である。
第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。
<感謝合掌 平成30年6月19日 頓首再拝>
家庭生活は人格を磨く「砥石」 - 伝統
2018/06/22 (Fri) 17:31:05
*『たくさんの「奇跡」が舞い込む感謝の法則』小林正観・著、宝島社
(P13、メッセージ05)
「砥石」は刃物を磨くための石のことですが、家族や家庭生活というのは、
自分の魂を磨くための「砥石」のようなものでしょう。
私たちは日常のあらゆるシーンにおいて、いかにイライラしないか、
笑顔でいられるか、といったことを問われているようです。
結婚すると、夫という砥石、妻という砥石を得て自己中心的な性格が
修正されて、マイルドで柔らかなものになります。
子どもが生まれると、砥石がもうひとつ増えたことになります。
子どもを育てているように見えますが、実は「どんなことがあっても
子どもに対して怒鳴らない、怒らない、腹を立てない」と自分を
コントロールすることが自分自身(親)の人格を高めることになります。
「こういうときには腹を立てるものだ」
「こういうときにはイライラすべきものだ」と親が見本を示すほど、
子どもはそのように真似をし、そのように育つのです。
子育てを通して”人格を向上”させていくと、”人格者”である親に対して
呼応する人格の子どもになるのではないでしょうか。
<感謝合掌 平成30年6月22日 頓首再拝>
《人物を大きく調和あるものにしなさい》 - 伝統
2018/06/25 (Mon) 18:45:40
*『人生の秘訣365章』第5篇(P123~124) より
人を容れない心の人は、その運命が発達しない。
すべての人と物とを包容して育てる心がない限りは、
その人の運命は小さく縮むほかはないのである。
すべての人と物とを拒絶することによって、
其の人は清廉潔白のように見えるかも知れぬけれども、
実はその人の「小ささ」をあらわすに過ぎないのである。
その人の「狭さ」のゆえに、その人の才能が世間に認められず、
従ってその人の運命はのびないのである。
その人の運命が伸びないのは清廉潔白と云う美徳のためではなく、
“小ささ”及び“狭さ”と云う劣等感が露呈することになるのである。
また頭が明晰で常に人を非難し、欠点をあげつらう性質がある者は、
その頭脳明晰と云う美徳のためではなく、身辺に不調和な摩擦を起す
と云う劣等感のために、その人は重く用いられないで昇進もおそくなるのである。
あらゆる事業は調和の中に伸びて行くものであるから
不調和な人間は事業から嫌われるのである。
<感謝合掌 平成30年6月25日 頓首再拝>
”キャパがある人” - 伝統
2018/07/01 (Sun) 21:03:04
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年06月28日)より
(中谷彰宏氏の心に響く言葉より…)
理不尽(りふじん)だとグチる人は、
「怒りを人にぶつけること」で解決しよとします。
「怒れば解決する」と思い込んでいるのです。
怒りをぶつけることで物事は解決しません。
むしろ悪化します。
これは「おむつ作戦」です。
赤ちゃんの間は、泣けばなんとかなりました。
いい大人が「おむつ作戦」を持ち出しても、バカにされるだけです。
よけい前の道はふさがっていきます。
「いい大人が、おむつをつけた赤ちゃんのようなことを言うな」
と言われて、ますます事態が悪化するのです。
理不尽なことに出会った時の対応の仕方で、
その後の事態が好転したり悪化したりします。
それは自分自身が決めています。
理不尽なことを、いかに避けるかではありません。
大切なのは、理不尽なことに出会った時に、それを好転させる
手口を試行錯誤しながら身につけていくことです。
これが社会で大人として学ぶことです。
これを、「キャパがある」と言うのです。
<『「理不尽」が多い人ほど、強くなる。』きずな出版>
・・・
マザーテレサの「理不尽」についての言葉がある。
『人は不合理、非論理、利己的です。
気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょ
う。気にすることなく、善を行いなさい。
目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなくし善を行い続けなさい…』
世の中は、考えてみれば理不尽なことに満ちている。
しかし、それを理不尽と捉えるか、それを「気にすることなく」、
平然と、淡々と、人を愛し、善き事を行い続けることができるのか。
キャパがある人の反対は、「器(うつわ)の小さい人」。
器の小さい人は、すぐ人のせいにしたり、すぐに怒ったり、
人の成功を喜べなかったり、人を褒めないような人だ。
要するに、自分のことだけしか考えていない人。
理不尽なことに出会っても…
それを好転させることができる、
キャパのある「大人」をめざしたい。
<感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>
偉大なる人物 - 伝統
2018/07/31 (Tue) 19:49:09
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月31日)より
人が拝み合うほどわたしを喜ばす話はない。
人が愛し合う話ほどわたしを喜ばす話はない。
人が罵り合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
人が憎み合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
他(ひと)が悪いということに憎みを感ずる者は愚かな者である。
他(ひと)が自分より優れていることを聞いて
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である。
<感謝合掌 平成30年7月31日 頓首再拝>
【弱き者に対する態度】 - 伝統
2018/12/05 (Wed) 18:59:32
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年08月15日)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
子どもに向かって腹を立てる、怒る、怒鳴る、声を荒げる、
ということをずっとしてきたお母さんがいました。
「確かに怒鳴ったり怒らないほうがいいとは思いますが、
子どもが口答えをすると、本当に腹が立って
もっと激しく言い返してしまうのです」
イライラしているのは自分、イライラしなくなるのも自分です。
子どもに対してつい強く言ってしまうというのは、
その方の弱い者に対する態度を示しているのかもしれません。
もし子どもが見上げるような大男であるなら、
たぶん怒鳴りつけたりしないでしょう。
自分よりも体が小さくて弱い立場だから怒鳴っているのかもしれません。
そういう意味で弱い者に対して刃が向いているのかもしれないのです。
ですから私は、そいうことをやめるように提案しました。
そうすると、そのお母さんは、こう答えました。
「でも、世の中のお母さんってみんなそうですよね」
「でも」と話をかわす方は、みなさん同じようなことをおっしゃいます。
「はい、わかりました。よくわかりました」とはなかなか言いません。
「でも、世の中の人ってそうしてないですよね」
「だって、みんなそういうふうにしていますよね」
などと、同じようなパターンで話をかわそうとします。
自分の問題として受け入れなくてはいけないものがある
というように話が向いてきたときに、
必ず「うっちゃり」をくわせようとするのです。
おもしろいと言えばおもしろいのですが、
これをひと言で言えば「素直でない」と言います。
「受け入れない」ということを前提に一所懸命考えた結果、
出てくるのが、そのうっちゃりの方法です。
受け入れることができたら、たぶん「わかりした」と言うに違いありません。
世の中のこと、世の中の人たちはどうでもいいのです。
実際に世の中の大多数の親が子どもを怒鳴っているのか、
感情的に声を荒げているのか、私にはわかりませんが、
「世の中はそうなっていますよね」というのは
自分の都合のいいように言っていることにほかなりません。
9割方の親は怒鳴っていないのかもしれないのです。
自分に都合の悪いことを言われたときに、
「世の中の多くの人がそういうふうにしているじゃないか」
とうっちゃりをすることはやめることにしましょう。
「そうか、それをやめたら自分は楽になれるんだよね。
それをやめたら子どもと関係がよくなるんだよね」と思ったら、
素直にそれをやってみてはどうでしょうか?
自分の問題として「そうじゃないほうがいい」と言われたら、
「なるほど、そうですね」と受け入れたほうが自分が楽になると思います。
<『運命好転十二条』三笠書房>
・・・
「怒る」という行為は、たいてい自分より弱い立場の者に向かって発せられる。
自分より強い立場の人に向かって「怒る」ことはなかなかできない。
たとえば、飲食店やコンビニの従業員は絶対に言い返してこないし、
反撃してこないと思っているから、怒ったり怒鳴ったりする。
会津藩に「什の掟(じゅうのおきて)」という、
藩の子ども達にたいする重要な戒(いまし)めがある。
その中に、
「卑怯(ひきょう)な振舞(ふるまい)をしてはなりませぬ」
「弱い者をいぢめてはなりませぬ」
という、掟がある。
自分より弱い立場の人に、威張ったり、怒鳴ったり、
居丈高(いたけだか)になる人は、人間としてレベルが相当低い。
なぜなら、それは、弱い者いじめであり、卑怯な振舞だからだ。
弱き者に対する態度で、その人の人格のレベルがわかる。
<感謝合掌 平成30年12月5日 頓首再拝>
【慎み深い姿勢は、品性を醸す】 - 伝統
2018/12/17 (Mon) 19:37:07
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年09月21日)より
(神社本庁総長、田中恆清氏の心に響く言葉より…)
結婚式やお祝い事でご祝儀を渡すときには、きれいな祝儀袋に包みますし、
たとえお稽古事の月謝でも封筒に入れて差し出すものです。
お札をむき出しのまま手渡すことはありません。
同じように贈答品もきれいな紙で包んでのしをつけ、
さらに風呂敷で丁寧に包んで持参します。
日本には「包む」文化があり、
中のものが美しく大切なものであることを相手に伝えます。
この大切なものを包む、隠す文化は、
己の感情を表に出さない日本人の美徳にも通じ、
「つつしみ」という言葉にもつながっています。
慎みとは、決して出しゃばることなく、
控えめで、軽はずみな言動をしない姿勢です。
言葉も同じで、目上の人には尊敬語や謙譲語を使うことで、
自分を慎み、相手を敬う気持ちをきちんと伝えることができるのです。
そして、目に見えぬ尊いものに対して、
敬いの心を持つ、それが本来の慎みの意味です。
宗教は英語で「religion」といいますが、
この言葉には慎みという意味が含まれています。
「religion」はラテン語の「religio」から派生したもので、
紀元前は超自然的な事物に対する畏怖や不安の感情を表していました。
これは神道の神髄である、神々に畏敬の念を持つことに通じます。
中世になると「religio」は、修道院の生活を意味し、
必要最低限のもので心穏やかに神々に祈る生活を指すようになります。
まさに、慎ましい生活です。
さらには、慎みという言葉は、「他人を思う」
「愛情を持って大事に扱う」という意味の
「いつくしむ」という言葉にも通じています。
心に余裕がないときには自分のことばかり気にしがちですが、
慎みの気持ちがあれば周囲を慮ることができます。
まず自分から相手に心を砕くと、
やがて、心と心が通じ合うようになるものです。
《慎み深い姿勢は、品性を醸(かも)す》
・・・礼節があり、謙虚で、相手を優先できる人には品性が備わる
<『神様が教えてくれた幸運の習慣』幻冬舎>
・・・
「女性を美しく、好もしくするものは、昔も今も変わることなく、
温かいほほえみ、美しいことば、さり気ない心配り、礼儀正しさ、
そして恥じらいを知る慎みと覚えておきたいものである」
渡辺和子さんの言葉だ。
これは、女性だけでなく、男性にも言えること。
「恥じらいを知る慎み」には、気高さや、品性がある。
これは、武士道の中にもある「恥を知る」ということにもつながる。
かつて、日本では子どもの頃から、
「人まえで、恥ずかしいまねはしてはいけない」
「そんなことをしたら人様から笑われてしまう」と、
「恥」について、厳しい教育を受けた。
「慎み深い姿勢は、品性を醸す」
真の意味の「慎み」を身につけたい。
<感謝合掌 平成30年12月17日 頓首再拝>
人格の自然な成長を害するもの - 伝統
2018/12/24 (Mon) 19:00:37
*「光明道中記」(12月24日 人格完成の日)より
【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。(『生命の實相』第八巻)】
資本の蓄積は現在の経済組織に於いては何か仕事を進める上には是非必要なことではある。
併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、それは守銭奴であって、
人間の人格の自然な成長を害することになるのである。
梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。
それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。
人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨はすべて遺しておかなければならないのである。
彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。それだけに必要以上の蓄積することに
時間をつぶして、一体それが何の獲得であるのだろうか。
財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。
<感謝合掌 平成30年12月24日 頓首再拝>
【面白い人格者になる】 - 伝統
2018/12/31 (Mon) 20:21:18
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年11月21日)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
《相手に気に入られるように努力をし続けるより、
エネルギーを自分に向け、おもしろい「人格者」になれば、
相手が向うから近づいてくる》
恋愛の話になると、「いつも片思い」だとか、
「なかなか相手ができない」という人がいます。
そういう人は、「スポーツマンが好き」と言われたら、
ひたすらスポーツをしたり、「青が好き」と言われたら、
タンスの中の服が青ばかりになったりと、
特定の相手や異性に気に入られるようにだけ努力をしているように見えます。
その努力は相手ではなく自分に向けたほうがいいのではないでしょうか。
三角形を頭に思い描いてみてください。
底辺の真ん中に自分がいて、近寄りがたい異性が右の角にいるとします。
そのときは、エネルギーを右に向けるのではなく、
自分をさらに上のレベルに押し上げる方向で働かせてみましょう。
そうすると、自分はレベルの高い「人格者」になり、
三角形の底辺から真ん中くらいまで垂直に上がっていきます。
そこで水平方向の右側を見れば、自分と同じくらいの「人格者」が
三角形の右辺上のすぐ近くに存在する。
つまり、相手が向うから近づいてくるということです。
特定の誰かを追いかけるのでなく、つねに自分を高めるようにしましょう。
そうすれば、「追いかける人」から「追いかけられる人」に変わります。
<『心を軽くする言葉』イースト・プレス>
・・・
経営の本質は、「追いかけられる」ような商品やサービスをつくること。
お客様がどうしても欲しくてしかたがないと、
向うから店やその人に会いにやってくるような、
本質的に質の高い魅力的な商品やサービスをつくり上げること。
人も同じで、自分を磨き上げ、魅力的で面白い人格をつくり上げること。
魅力的で面白ければ、その人のまわりには自然と人が集まる。
そして、それをさりげなく、そっと知らせるのが、現代のSNSの役割。
大量に集客しようと、店を改装して、たくさんの広告を打ったところで、
当初は人は集まるが、中身がなければ人はサーッと引いて行く。
自分を高め人格者に近づけば三角形の頂点にも近づける。
面白い人格者を目指したい。
<感謝合掌 平成30年12月31日 頓首再拝>
熱意は人格の原動力(デール・カーネギー) - 伝統
2019/04/08 (Mon) 20:22:34
*ブログ「心の糧・感謝の心で」(2018-12-8)より
熱意はあなたの人格の原動力だ。
それがなかったら、
どんなにすぐれた能力をもっていたとしても、
その能力は眠ったままで役に立たない。
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
デール・カーネギー
(1888~1955)
アメリカの社会教育家
これは、『道は開ける』『人を動かす』などの名著の著者
デール・カーネギーの言葉です。(『自己を伸ばす』P.80)
彼は、哲学者でも、宗教家でも、大学教授でもありません。
どこにでもいるようなサラリーマンでありながら、
独立独歩の道を歩んで成功した社会教育家でした。
そして、彼の本は世界中でロングセラーを続け、
今も多くの人に影響を与えています。
もともとカーネギーは、ニュ―ヨークで最も不幸な青年の一人でした。
トラックのセールスがうまくいかず、毎晩、頭痛(失望、悩み、苦痛、
反抗心に起因する頭痛)を抱えて、孤独な部屋に戻っていきました。
「これが人生だったのか?
あれほど熱心に憧れていた活気あふれる人生とはこれだったのか?
自分でさえも軽蔑している仕事に身をやつし、ゴキブリと同居し、
ひどいものを食べ、未来に何の希望もない、これが私の人生のすべてなのだろうか?
私の切なる願いは、読書のための余暇であり、
遠い学生時代に夢を見ていた本を書く時間であった」
(デール・カーネギー『道は開ける』)
この悲惨な状況から抜け出すために、彼は思い切った決断をし、実行します。
その結果、カーネギーは次第に成功を勝ち得ていくのです。
(https://lucky.t-nakai.work/2018/12/08/word-9/ )
<感謝合掌 平成31年4月8日 頓首再拝>
人格者になるための【訓練中、修行中】 - 伝統
2019/04/13 (Sat) 16:43:25
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年04月08日)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
人間関係の問題を解決する方法は2つあります。
ひとつは、自分の周りの500人をすべて人格者に変えてしまうことです。
ただ、この方法だと1人を変えるのに、
説得に次ぐ説得を重ねて2年くらいはかかるでしょう。
500人を変えるためには1000年かかる勘定になり、
事実上これは不可能といえます。
もうひとつの方法は、自分自身が人格者になってしまうことです。
どちらの方法も、結果的には穏やかで、にこやかな温かい日々を得られる
とは思いますが、人を変えるということは大変なことです。
なかなか人は変わってくれません。
しかも自分の思いどおりになるとなると、なおさら難しいでしょう。
それをまず理解する必要があります。
周りの人を変えるよりも、「私」が変わるほうがずっと簡単なのです。
なぜなら、変えるべき相手が自分1人だけだからです。
さらに、変えるべき相手が自分ですから、
自分が変わりたいように変わればいいからです。
イライラしたくない、腹を立てたくない、人と争いごとをしたくない、
何かを言われてもいちいち気にするような自分ではありたくない、
と思うのであれば、自分が希望するように、自分をつくり上げればいいわけです。
「私」が人格者になるということは、誰に何を言われても、
目の前にどんな現象や出来事が起きても、
それについて怒らない、怒鳴らない、イライラしない、声を荒げない、
ということにほかなりません。
その結果、周りの人も穏やかな日々を過ごすことができて、得をするでしょう。
でもそれはあくまでも二次的な効果です。
自分が人格者になることによっていちばん得をするのは、ほかならぬ自分なのです。
ある方から2つの解決法について質問がありました。
「小林さんのお話は97%は理解ができました。
しかし、あと3%だけ、どうしても理解ができません」
その3%とは、こういうものでした。
「たしかに、自分が人格者になることで、
問題は解決するということはわかりました。
でも、小林さんの周りには、穏やかで温かく、素敵な人がたくさんいるのに対し、
私は行く先々で、性格も言葉も荒い人たちばかりに会います。
これは明らかに神によって差別をされているとしか思えません。
自分を取り巻いている人間と、正観さんを取り巻いている人間関係が
明らかに違うことに納得ができません。
それが3%の納得できないことです」
私はそれに対してこう答えました。
私の場合は、もう「訓練終わり、修行終わり」とシナリオに書いたのです。
あなたの場合は、「訓練中、修行中」とまだシナリオで書き続けているので、
訓練や修行をさせてくださる先生が、あなたの周りを取り囲んでいるのでしょう。
周りにいる人は、あなたの先生をやってくださっているのです。
ですから、自分で人間関係が大変だと思うのなら、
「訓練終わり、修行終わり」と看板に書いてしまえばいいのです。
先生は「訓練終わり、修行終わり」と書いてしまった人を教える必要がないので、
もうあなたのところへは集まってこないでしょう。
<『ただしい人から、たのしい人へ』廣済堂出版>
・・・
苦難や困難は人を魂を磨く「磨き砂」だといわれる。
輪廻の考えでいうなら、生まれてくるときに、
自分の魂を磨き人格を高めるため、様々なハードルを自分で設定する。
そのハードルが苦難や困難という「磨き砂」だ。
自分のまわりに、嫌な人ばかり集まってきたり、嫌なことばかり起こるなら、
それは魂を磨くための修行がまだ足りないということ。
設定したハードルを全部乗り越えることができたら、修行は終わる。
病気も、倒産も、人間関係も、すべては自分で設定したハードルだと思えば、
文句を言ったり、人のせいにすることはできない。
人格者になれば、「訓練終わり、修行終わり」にできる。
そんな人格者を目指したいが、せめて…
「訓練や修行」をしてくれる先生に感謝し、文句を言わない人でありたい。
<感謝合掌 平成31年4月13日 頓首再拝>
「人格」の力を作れ - 伝統
2019/06/18 (Tue) 21:33:06
*「光明法語」(6月18日)より
「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、不成功に終らせたりするのである。
ある人は「人格」の力で、人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。
ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、
その人に功を成さしめない。
では「人格」の目に見えない雰囲気をどうしたら発達せしめることが出来るか。
それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。
《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。
<感謝合掌 令和元年6月18日 頓首再拝>
「人格」の《ふんいき》 - 伝統
2019/06/19 (Wed) 19:43:44
*「光明法語」(6月19日)より
日常断えず思っている「思い」の集積が、人格の雰囲気となって現れる。
たえず善き「思い」を起こしている者はよき人格の雰囲気をもち、
断えず卑しい「思い」を起こしている者は何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。
威厳の雰囲気を放つ者あり、慈悲の雰囲気を放つ者あり、柔和の雰囲気を放つ者あり、
剣気の雰囲気を放つ者あり、邪気を放つ者あり、徳気を放つ者あり、人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって、一時人前を繕っても駄目である。
第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。
<感謝合掌 令和元年6月19日 頓首再拝>
【まず自分をつくりなさい】 - 伝統
2019/07/22 (Mon) 18:33:10
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年06月07日)より
(ヒューマン・リソース研究所所長、鈴木民二氏の心に響く言葉より…)
《まず自分をつくりなさい。その後で人に役立つ時がきます。》(武者小路)
一冊の本に感動した私は、
武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)邸(東京・吉祥寺)の門を叩きました。
二十歳の秋のことです。
「人生のテーマを探しています」
先生の答えは明快でした。
「まず自分を作りなさい。その後で人に役立つ時がきます。」
(そうだ、この順序を大切にしよう)そう思いました。
三年千日温めた後、人生のテーマを“自分を育てる”と設定します。
以来四十年余、テーマを育てていたつもりが、
実はテーマが私を育て、役立つ領域を次々と創ってくれたのです。
終わりの来ないテーマを持てたことは幸いでした。
テーマの働きの大きさを、今しみじみ感じています。
<『心を豊かにする100の言葉』PHP>
・・・
たとえば、新商品を売り出そうとした場合、
その商品に他とは違う圧倒的な魅力がなければ、大きく売れることはない。
これは、人においても同じだ。
その人に、抜きんでた魅力がなければ、
誰かに推挙されることはないし、世に出ることもない。
これは会社においても全く同じことがいえる。
多くの企業で人手不足が叫ばれているが、
いくら求人誌にお金をかけても、募集広告を出したとしても、
そもそもその会社に魅力がなければ人は入ってこない。
人も、会社も、商品も、まず自分の魅力を高めること。
「魅は与によって生じる」という無能唱元師の言葉がある。
魅力とは人に与えることによって生まれるが、「求によって滅す」という。
欲しい欲しいと要求する人には魅力はないのだ。
だから、まず大事なことは、人に与える魅力があること。
ない袖は振れないのだ。
「まず自分をつくりなさい。その後で人に役立つ時がきます」
自分を磨き、少しでも魅力ある自分をつくり続けたい。
<感謝合掌 令和元年7月22日 頓首再拝>
人間性の無限の味 - 伝統
2019/08/18 (Sun) 19:41:13
*「光明法語」(8月18日)より)
神は「一」より凡ゆる変化差別を生ぜんが為に「一」より陽陰、愛と智慧を分化し、
それを結び合わせて無数の配合(コンビネーション)を作ったのである。
「一」より二生じ、二より四生じ、四より八生じ、八より十六生じ、
十六より三十二を生じ、三十二より六十四生ず・・・・・・・・・・
かくの如くして無限に一切のものは発展するが故に、
全ての人間も単に「愛に強き人」とか「義に強き人」とか概括して言うことは出来ない。
愛の強き人のうちにも、不思議に「義に強き人」もあり、
その人間味はまことに掬(きく)すべき哉(かな)。
<感謝合掌 令和元年8月18日 頓首再拝>
吾々の顔附は、心の状態によって少しずつ作られて行く - 伝統
2019/08/23 (Fri) 21:14:15
*「光明法語」(8月23日《容貌を美しくするには》)より)
ロックフェラー研究所の外科医長カレル博士は言う、
「容貌の特徴は、皮膚の下の脂肪の中で動く筋肉の状態で定まる。
是等(これら)の筋肉の状態は吾々の思想感情の状態によって定まる。
人は各々望み通りの顔附(かおつき)表情をする事が出来る。
けれども其の顔附、表情をば永久に被(かぶ)っているわけには行かない。
併し、吾々の知らない間に吾々の顔附は
心の状態によって少しずつ作られて行くのであり、
年をとるにつれて益々はっきりと
人間全体の感情や欲望や希望一切の看板の様になる」と。
<感謝合掌 令和元年8月23日 頓首再拝>
人間を磨く言葉にふれる - 伝統
2019/09/19 (Thu) 21:37:53
*Web:今日も良いことがあるように(2019/06/06)より
~鍵山秀三郎著『人間を磨く言葉』から
「どんな不幸を吸っても
吐く息は感謝でありますように」 河野進(牧師)
▼松江市に開星中学・高校という大変良い私立学校があります。
テニスの錦織圭選手が在学していた学校ですし、
校長先生は【心の糧】の読者でもいらっしゃいます。
先日、その開星中学・高校で講演をさせていただき、
その後、校長先生から鍵山秀三郎(著)『人間を磨く言葉』
というご本をいただきました。
「日本を美しくする会」の鍵山秀三郎氏も
この学校で講演をされたことがあるそうです。
▼『人間を磨く言葉』には、鍵山秀三郎氏の人間性を磨いてきた言葉が
たくさん収められ、解説がありました。
良い本です。
いくつかの言葉をご紹介しましょう。
●「力耕せば耕せば、吾を欺かず」 陶淵明(中国の詩人)
鍵山氏は、子どもの頃、家が貧しく、
過酷な農作業を毎日のように手伝わねばなりませんでした。
大人から「骨が曲がるぞ」と心配されるくらい働いても、
収穫としては報われないことが多かったそうです。
しかし、そうやって培われた「忍耐力」「勤勉さ」は、
社会に出て、大いに役に立ちました。
地道は努力によって、すぐに芽がでなくとも、
少しずつ自分の心を耕し育て、いずれ豊かな花を咲かせるのです。
●「過去が咲いている今、未来のつぼみでいっぱいの今」 河井寛次郎(陶芸家)
土を耕し、肥料をやり、水をやり、日を照らさなければ、
花の種は育ちません。
雑草を抜いたり、害虫を駆除したりする手間も必要でしょう。
そんな過去の努力によって、今このときに花が咲いています。
今このときに努力することで、未来にも花が咲きます。
●「どんな不幸を吸っても
吐く息は感謝でありますように」 河野進(牧師)
人生は山あり谷あり、困難や辛苦もあって当然です。
辛さを嘆くのでなく、そこに恵みと幸いを見つけ、
まわりの方々に感謝できる人になれますように・・・。
そう祈っていく人生には、豊かな恵みがあるように思います。
ちなみに、河野進氏の『ぞうきん』という詩集に次のような感銘深い作品があります。
「使命」
まっ黒い ぞうきんで
顔はふけない
まっ白い ハンカチで
足はふけない
用途がちがうだけ
使命のとおとさに変わりがない
ハンカチよ 高ぶるな
ぞうきんよ ひがむな
言葉には人間性を磨く力があります。 (^.^)
・・・・・・・・・・・・・・
【出典】鍵山秀三郎(著)・亀井民治(編)『人間を磨く言葉』
( https://lucky.t-nakai.work/2019/06/06/word-62/ )
<感謝合掌 令和元年9月19日 頓首再拝>
【人から頼まれるということ】 - 伝統
2020/01/30 (Thu) 01:17:16
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020年01月28日)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
頑張ること、成績を上げること、数字を上げることが人生の成功者である。
私たちはずっと、従来の学校教育の中でそう教え込まれてきました。
けれども、宇宙には「成功」という概念がないのです。
「失敗」という概念もありません。
だから「比べ合う」という価値観も存在しません。
私が到達した結論は、自分がやることを決めるのではなくて、
達成目標や努力目標なんて全部捨てちゃって構わないから、
いかに人からの「頼まれごと」をしていくか、
いかに頼まれやすい人になるか、ということでした。
単に「努力はするな」と言っているのではありません。
「努力」が趣味で、頑張っている状況そのものを楽しめているのなら
それはそれでいいと思うし、そういう捉え方があっていいと思います。
でも、もう一つ別の生き方がある。
頼まれごとをただひたすらやって人生を終える生き方。
使われる命…、それがすなわち「使命」と言われているものです。
ミケランジェロ、ヴァンダイク、ルーベンス、モーツァルト、みなそうなのですが、
宮廷画家、宮廷音楽家というすごい人たちは頼まれごとをやっていました。
世の中に長く残っているすごい仕事は、
みな、宮廷から頼まれたからやった仕事なのです。
自分のやる気や衝動によってつくったものが芸術だと思い込んでいる人が多いのですが、
それだけでは、長く世に残る仕事はできないようです。
衝動でやったものは、自分のできる範囲でしかやらないことが多い。
ところが、
「この大きさのもの、こういうものをいついつまでに仕上げてくれ」
と言われると、人間は自分を超える力をどこからか借りてこなくてはならない。
自分の能力の限界を超えるものを頼まれて引き受けてしまう、ここが重要です。
今の自分の力でこれくらいのことができるかな、できないかな、
そうやって自分に問いかけるのは「おごり、高ぶり」。
自分がどれくらいできるか、自分で判断できると思っている。
自分の力を自分で評価・評論できると思っている、それが「傲慢」です。
頼まれたら「わかりました」と言ってやってみる、それが「謙虚」。
一般的に言う「傲慢」と「謙虚」とは全然違います。
人に何か頼まれるというのは、大変なことです。
能力が高くても人柄がよくなければ頼まれない。
人柄だけがよくても、頼めることと頼めないことがあるでしょう。
実は、頼みやすい人、頼まれやすい人というのは、
もう一つ別の言い方をすると、「人徳」と言います。
イコール「人格者」です。
結局、人が集まるような人格になってしまえば、
必ずやそこで商売が成り立つわけですから、
仕事というのはまさに人格の延長なのです。
人間がこの世に生命をもらった意味というのは「人格を磨く」というこの一点だけ。
人格を磨くというのは、経済的に成功するとか、社会的に地位や名誉を得るとかではなく、
いかに自分の存在がたくさんの人から喜ばれるか、ということです。
それこそが魂の究極の目的らしいのです。
<『楽しく上手にお金とつきあう』大和書房>
・・・
自分の「思い」や「夢」、「目標」は今の自分の考えがベースになっている。
だから、自分の思っていたり、知っている範囲の中でしか想像できないし、考えつかない。
小学生の頃の夢で考えるとわかるが、
小学生が知らない職業や聞いたことがない仕事を夢や目標にすることはできない。
しかし、人から頼まれた仕事やボランティアなどは、
自分の思ってもみなかったことがやってきたりする。
自分の考えではなく、人が考えたものだからだ。
当然、考えてもみなかった分野や、
自分としては得意でないと思い込んでいたことも頼まれる。
したがって、その頼まれごとをこなしていくと、
自分の人間の幅が広がるということになる。
人から頼まれるには「人徳」が必要。
人徳がある人を「人格者」という。
我々がこの世に生を受けた意味は、
人格を磨いて、少しでもましな人間になってあの世に旅立つこと。
そして、それが人から喜ばれる生き方。
たくさんの人から喜ばれるために…
頼まれごとを引き受け、人格を磨きたい。
<感謝合掌 令和2年1月29日 頓首再拝>
『内面はすべて顔に表れる』 - 伝統
2020/02/06 (Thu) 23:44:16
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年07月26日)より
(瀧天貴氏の心に響く言葉より…)
成功者は、実によい人相をしている。
人相とはすなわち表情である。
瞳が輝き、表情の美しい人のところには、自然にお金が集まってくる。
造作の美しさは思いのほか関係しない。
なぜこの人の表情は、これほどまでに人を惹きつけるのか。
魅力の源泉をたどっていくと、
「内面はすべて顔に表れる」ということに思い至る。
精神が卑しい者は顔つきもおのずと卑しくなり、
たとえ醜男(ぶおとこ)であっても高い目標を持って努力し続けている者は、
目がらんらんと輝き胆力を感じさせる。
とりわけ40代に入ると、人相は固定してくる。
それまでの生き方や考え方が顔に刻み込まれ始めるのだ。
いつも悩んできた人はおのずとしかめっつらで暗い表情になり、
明るく朗(ほが)らかに生きてきた人はふわっとした、
見るだけで周囲を幸せにする顔になる。
とはいえ、諦めることはない。
何歳であっても、人相は心がけ次第で変えることができる。
どんなに苦しいことがあっても、笑うのだ。
「型」だけでかまわない。
笑うことができれば、お金が寄りつく。
また、「目に映(は)えるもの」で相は変わる。
悩み考えることもときには必要だが、悩みを見つめすぎると相が悪くなる。
お金が集まる「美しい相」になりたいなら、美しいものを見る。
自分の好きなものを見るのもよい。
恋人や家族の写真、お気に入りのマンガ、車、フィギュアなど
好きなものなら何でもかまわない。
悩みでなく好きなものを追求しよう。
そうすれば、表情が変わり、仕事もお金も充実してくる。
<『仕事運の法則』WAVE出版>
・・・
伊藤肇氏は「人間学/PHP文庫」の中でこう語っている。
『有名な話がある。
アメリカ大統領のリンカーンに友人がある人物を推せんしたところが、
いっこうにとりあげようとしない。
無視されたと思った友人が
「あれほどの人材を何故、君のブレーンとしないのか」となじると、
リンカーンは「あの男の面が気に入らぬ」と答えた。
一層、頭にきた友人が
「大統領ともあろうものが、面構えくらいで、人物をとやかくいうのか」とつめよると、
リンカーンは言下にいってのけた。
Man over forty is responsible for his face
《人間、40すぎたら、その面に責任をもて》
40をすぎたら、自分の顔は親の責任を離れて、
自己のみの責任になる、というのである。
たしかに40歳にもなれば、医者は医者らしい顔になり、
学者は学者らしい、商人は商人らしい、というように
職業に関係した顔になってくる。
時々、新聞に悪事を働いた人間の写真が出るが、
そういうのに気品のある面は一つもない。』
また、斎藤一人さんは、
「運勢の強い人は、 みんなピカピカつやつやの顔を しているものです」
(変な人が書いた成功の法則)という。
人生を変えるには外見を変えるのが一番だが、外見は服装もそうだが、表情も大事。
いつも不機嫌で不景気そうな顔をしていたら、貧乏神しか寄りつかない。
反対にいつも上機嫌で、ニコニコして金回りがよさそうな顔をしていたら、
福の神がやってくる。
つまり、顔がピカピカつやつやして輝いている。
「内面はすべて顔に表れる」
40過ぎたら自分の顔に責任を持て。
内面を磨き、「美しい相」をつくりたい。
<感謝合掌 令和2年2月6日 頓首再拝>
【他人の呼び方から人格の修練が始まる】 - 伝統
2020/03/04 (Wed) 19:26:23
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.03.03)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
私は、小学校、中学校、高校、大学と、出会った先生から、
呼び捨てにされたことは一度もありません。
どの先生も、皆、人格者でした。
今、自分は、そういう先生方の影響をとても強く受けています。
30歳年下の男性、20歳の男性にも、「君」づけでは呼びません。
全部「さん」づけです。
もちろん、女性にも「さん」づけです。
例えば、「太郎」という名前の人がいたとして、その人がほかの人から、
「太郎」
と呼び捨てにされるのと、
「太郎さん」
と呼ばれるのとでは、どちらが太郎さんにとって、
大切にされている感じがするでしょうか?
私は、この他人の呼び方から、人格の修練が始まると思うのです。
自分が「いかに偉そうにならないか」というのは、
まず、人を呼ぶところからだと思います。
昔の先生は、「君」づけ、「さん」づけで呼んでいたと思うのですが、
最近の学園ドラマなどを見ると、どの先生も、生徒たちに対して、
「おまえらなぁ」
「おまえたちよぅ」
と呼んでいます。
ためしに、私の講演会に来てくれた学校の先生に、
「生徒たちを『おまえら』って呼んでますか」
と聞いてみたら、先生の全員がそう呼んでいるとのことでした。
そんな状況では、生徒が荒れないわけがないと思います。
人間の尊厳というものが、先生の側に全然ないのですから。
生徒一人一人を尊重する気持ちがなく、
常に上下関係でしか物事をとらえていない人が、
「おまえらなぁ」って言い方になります。
私の場合は、結婚して以来、妻の名前を呼び捨てにしたことはないですし、
「オイ」って言ったこともありません。
子供の前でも彼女の名前を、「さん」づけで呼んでいます。
お茶を飲むときでも、「おーい、お茶」とは言わずに、
自分でお茶を入れに行きます。
吉田松陰は、塾生の名前を呼び捨てにしたことがなく、
私も、妻や、年下の男性を、呼び捨てにしないで、
「さん」づけで呼ぶようにしています。
そうすると、皆、良い友人になってくれるのです。
命令系統の上下関係ではなくて、
友人としてつき合える人に、どんどんなっていきます。
その意味で、吉田松陰という人は、江戸末期の人物であったのですが、
とても民主的な人でした。
結果、松下村塾で育て上げられた人々が、
明治維新新政府を作り上げることになるのです。
<『楽しい子育て孫育て』Gakken>
・・・
安岡正篤師のこんな言葉がある。
『歳暮になると忘年会がはやるが、
この「忘年」とは本来、一年の苦労を忘れるという意味ではない。
年齢を忘れるの意で、
漢代の大学者孔融(当時50歳)と禰衡(でいこう)(20歳未満)との交わりを、
世人が「忘年の交」とよんだ故事による。
だから、忘年会とは老若席を同じくし、年齢を忘れて楽しむのが本当だ。』
(照心語録)より
若者から好かれる年長者は決して偉ぶらない。
若者にも敬意を払い、丁寧な言葉づかいをする。
その最たるものが名前の呼び方。
いい歳をして、たった2、3歳しか違わないのに、
先輩風を吹かせて名前を呼び捨てしている人を見ると、
不愉快な気持ちを通り越して滑稽になる。
そういう人は、上下関係でしか人間関係を見ることができない。
そして、残念なことに、そんな人がゴロゴロしている会社が
ブラックと呼ばれるようになる。
「他人の呼び方から人格の修練が始まる」
まず、最も身近な人から、名前を「さんづけ」で呼ぶ人でありたい。
<感謝合掌 令和2年3月4日 頓首再拝>
人格の陶冶 - 伝統
2020/06/18 (Thu) 22:34:59
*「光明法語」(6月18日、6月19日)より
六月十八日 「人格」の力を作れ
「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、不成功に終らせたりするのである。
ある人は「人格」の力で、人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。
ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、その人に功を成さしめない。
では「人格」の目に見えない雰囲気をどうしたら発達せしめることが出来るか。
それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。
《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。
・・・
六月十九日 「人格」の《ふんいき》
日常断えず思っている「思い」の集積が、人格の雰囲気となって現れる。
たえず善き「思い」を起こしている者はよき人格の雰囲気をもち、
断えず卑しい「思い」を起こしている者は何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。
威厳の雰囲気を放つ者あり、慈悲の雰囲気を放つ者あり、柔和の雰囲気を放つ者あり、
剣気の雰囲気を放つ者あり、邪気を放つ者あり、徳気を放つ者あり、人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって、一時人前を繕っても駄目である。
第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。
<感謝合掌 令和2年6月19日 頓首再拝>
【能力ではなくて人格を磨く】 - 伝統
2020/07/22 (Wed) 19:58:47
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2020.06.14)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わない
という状態を続けていると頼まれごとが来ます。
実は、頼まれごとが来るということはイコール喜ばれる存在であるという意味です。
喜ばれる存在になることが、実は人間がこの世に生命をもらったことの意味です。
この答えを簡単に言ってしまうのでみなさんはあまり重く受け取らないと思いますが、
32年間、人間、生命、魂をみつめてきて得た結論です。
人間はなんのためにこの世に生命と肉体をもらってきたのか、生まれてきたのか。
答えは、「喜ばれる存在」になること。
それだけです。
それを哲学的な言葉で言うと、「いかに喜ばれる存在になるか」。
それを庶民的な言葉でいうと、「いかに頼まれやすい人になるか」ということです。
人間は能力を磨く以外の世界を持っています。
この世界では、売り上げ目標、、シェア、売上日本一になるなど、
そのようなことばかりを自己啓発セミナーなどで教えていますが、
そのことにはなんの意味もありません。
いかに人から頼まれるか、いかに喜ばれる存在になるか、
それを「人格の世界」といいます。
売上目標というのは「能力の世界」です。
能力がどんなに高くても人々は喜んではくれない。
でも「人格が高い人イコール頼まれごとがすごく多い人」というのは、
実は世の中に喜ばれている。
頼まれごとの多い人、存在が喜ばれている人というのは、
クリーニング屋さんをやればお客さんが来るし、
喫茶店をやったらお客さんが来ます。
しかし、能力の高い人は必ずしもそうではありません。
私たちは何か勘違いをさせられてきた。
能力を高めさえすれば、絶対にいい暮し、いい人生が待っているのだ
と信じ込まされてきたのです。
しかし、どうやらそのようなところには本質はないみたいです。
人生はいかに頼まれごとをするかということに尽きます。
私の場合は、年間250回講演を頼まれている。
私も含めすべての人がそうなのですけれども、
人生はただ頼まれごとの連続で成り立っていく。
その日々の積み重ねだけなのです。
<『みんなが味方になるすごい秘密』KADOKAWA>
・・・
人格者になるということは、
徳があり、人をひきつけるような人柄があるということ。
藤尾秀昭氏はそれをこんなふうに語っている。
『「花は香り人は人柄」ということである。
見た目にいくら華やかで艶(つや)やかでも、
造花には真に人を引きつける魅力はない。
人もまたいくら実力があっても、
傲慢で鼻持ちならない人に人間的魅力はない。
まず自分を創(つく)ること。
自分という人間を立派に仕上げること。
そして、徳の香る人になること。
これこそ人生で一番大事な法則、これを遵守(じゅんしゅ)すれば
人生は大丈夫という原則、すなわち人生の大則であろう。
それは…
一つは、人生に対して覚悟を決めること。
覚悟を決めない限り、真の人生は始まらない。
先哲は繰り返しこのことを説いている。
沖縄の漁師が言ったという。
「遠洋の漁場に出ようと決めると、風が起き、帆がざわめき、波が立ってくる。
だが、まだ覚悟が決まらない船には風が起きんのよ」
人生もまた然(しか)りである。
二つは、傲慢になるな、謙敬(謙虚で、敬い、慎むこと)であれ、と教える。
不遇の時には謙虚だった人が、うまくいきだすと傲慢になる。
人間の通弊(つうへい)である。
だが、傲慢になった時、天はその人の足をすくう。
その事例は数限りない。
三つは、誠実であれ、ということ。
誠実は古来聖賢がもっとも大事にした人間最高の徳目である。
あえてもう一つ付け加えれば、「久」であろう。
久しく続けることで、人生の大則は揺るぎないものになる。』
我々は子どもの頃から能力を磨くことばかりやってきた。
しかし、人生の最後に役立つのは人格を磨くこと、徳を積むことだ。
「40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」と言ったのは、
アメリカの第16代の大統領、リンカーン。
つまり、40歳を過ぎたら、顔に、
その人の品性や人格がにじみ出て来るということだ。
それは…
狡猾さ、卑(いや)しさ、ずる賢さ、冷酷さ、陰気さ、等が一瞬でも顔をよぎるのか、
あるいは、愚直さ、明るさ、おおらかさ、正直さ、温かさ、陽気さ、等が
にじみ出ているのか。
頼まれごとを、ニコニコしながら引き受け…
徳の香る人、人に喜ばれる人になりたい。
<感謝合掌 令和2年7月22日 頓首再拝>
【人間の深さと、人格の高さ】 - 伝統
2020/09/05 (Sat) 20:56:50
*「理想世界」(昭和43年6月10日の法語)より
皮膚一枚の感覚の快さや、粘膜一枚の快楽を追うような
皮層な生活を送ってはならないのである。
人間はもっと深いところに悦びを求めなければならない。
深いというのは物質的な深さではない。
精神的な深さであり、心霊的な深さである。
「これをしたら、何の得になるか」などと言う、欲得ずくで行動する人は、
単に物質の三次元世界(縦・横・厚みの世界)に生きているのであって、
それは次元の低い生き方であるのである。
三次元世界の浅い生活を棄てて、もっと高次元の世界(霊的次元)に
生きる者こそ本当に、魂の高き生活者なのである。
それは愛と叡智との世界である。自分の物質的な損得は考えずに
人を愛する知恵の生活である。
人格の高さと言うのは、その人がどれだけ三次元的低次の生活から超越して、
霊的次元の世界に生きているかという事によって量られるのである。
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767
<感謝合掌 令和2年9月5日 頓首再拝>
「人格」の力を作れ - 伝統
2021/06/18 (Fri) 19:44:53
*「光明法語」(6月18日)より
「人格」と云う目に見えない、しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、不成功に終らせたりするのである。
ある人は「人格」の力で、人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。
ある人は「人格」が醜いゆえに、才能があれども人々が気嫌いして、その人に功を成さしめない。
では「人格」の目に見えない雰囲気をどうしたら発達せしめることが出来るか。
それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。
《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。
<感謝合掌 令和3年6月18日 頓首再拝>
「人格」の《ふんいき》 - 伝統
2021/06/19 (Sat) 22:38:38
*「光明法語」(6月19日)より
日常断えず思っている「思い」の集積が、人格の雰囲気となって現れる。
たえず善き「思い」を起こしている者はよき人格の雰囲気をもち、
断えず卑しい「思い」を起こしている者は何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。
威厳の雰囲気を放つ者あり、慈悲の雰囲気を放つ者あり、柔和の雰囲気を放つ者あり、
剣気の雰囲気を放つ者あり、邪気を放つ者あり、徳気を放つ者あり、人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって、一時人前を繕っても駄目である。
第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。
・・・
<参照>
伊勢ー白山 道(2021-06-17)
自分の顔を創って行くということ
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/de79cc5fc52874e0f997569d32ca149c
<感謝合掌 令和3年6月19日 頓首再拝>
【人格と人間性を高める】 - 伝統
2021/10/15 (Fri) 04:19:03
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2021.10.13)より
(鍵山秀三郎氏の心に響く言葉より…)
孟子は、紀元前五世紀から四世紀にかけて生きた人ですが、
孟子は四面という言葉を遺しています。
人間として大切な四つの側面すなわち、
「側隠(そくいん)」「羞悪(しゅうあく)」
「辞譲(じじょう)」「是非」です。
「側隠」というのは思い遣り。
「羞悪」というのは恥を知る。
「辞護」というのは譲る。
老子も、「終生道を譲るも、百歩を枉(ま)げず」
(一生、人に道を譲ってもその合計は百歩にも満たない)
という短い言葉で、譲ることの大切さを説いています。
老子は伝説上の人物で、 孔子や孟子のように
何年に生まれて何年に死んだということはわかりません。
しかし私は、 老子が説いた言葉の中で、
この言葉を本当にそうだなあと思います。
一生人に道を譲ってもその合計は百歩にも満たないという、
譲ることの大切さ、それを教えてくれます。
そし て「是非」というのは、
善悪の判断ができるということです。
この四つのことを備えていないと、人間とは言わない。
少なくとも、この四つを備えた人が人間であって、
特に最初の側隠の情、思いやりのない人は
人間とは言えないと断言しています。
その点から言いますと、
今の日本は人間とは言えない人間が増えてきていると思います。
人に譲ることができない、我がちに、自分さえよければという人です。
なぜそうなったか については、私はこう思います。
人間には二つの面があります。
能力と人柄、すなわち人格、人間性です。
能力は、簡単 に測定できます。
あるパターンで試験をすると、百人いると、誰が一番で、誰が百番かと
順位を付けることはできるし、全国平均のどの位置にあるとか、
測定ができるわけです。
これは、1900年に米国のソーン・ダイクという人が、
「存在するものはすべて測定できる」と言い出しました。
何事でも分析して測定するという学問がどんどん進歩していき、
結局、学校ではそれが主流になってしまいました。
能力だけを高めることに主眼が置かれ、
記憶力、演算能力、理解力、読解力だとか、
そういう方面だけを高めてきました。
一方、人柄とか人間性とか人格というのは、
測定の方法がないですからおろそかにされてしまって、
結果的に、能力だけが残ってしまったのです。
それでは、能力だけあればいいのかといいますと、
それはとんでもなく恐ろしいことです。
なぜかというと、人間の 体を自動車になぞらえると、
能力というのはボディであり、エンジンです。
しかし、エンジンとボディがあれば車は走るのかというと、
そうではなくて、やはりハ ンドルとブレーキが必要です。
制御するものがなければ乗れません。
それは凶器になって しまいます。
性能が高いほど凶器になります。
人間もエンジンとボディのような能力だけ、
すなわち知識があるとか権力があるとか、財力があるとか、
そういう能力だけ高く持ち、
一方、自らを制御するハンドルとブレーキに
相当する人柄がついていかないと、人間も凶器になります。
今、日本の国は、残念ながら、
能力だけ高まって、人間性がついてこない人が
どんどん増えてきている。
つまり、凶器ともいえる人たちが増えてきている。
こういう人たちが、 実に世の中を悪くしていると思います。
<『大きな努力で小さな成果を』育鵬社
https://amzn.to/3DvHkPQ >
・・・
舩井幸雄氏は「惻隠の情」について、こう書いている。
『西郷隆盛のその人格をしのばせる話が「西郷南洲遺訓」の中にある。
これは西郷自身が書いたのではなく、
この言行録を書き残したのは、実は当時の庄内藩士たちである。
話は官軍と幕府軍が戦った奥羽戦争の頃にさかのぼる。
この戦いで、庄内藩は西郷の官軍に敗れた。
やがて、藩主自ら降伏を告げに西郷の軍本営に足を運んできた。
西郷はその藩主を迎えてうやうやしく礼を尽くし、
平伏した後に藩主に対応したのである。
一見すると、どちらが戦勝側かわからないくらいだ。
それで西郷側に随行していた
高島鞆之助(とものすけ・後に中将、子爵)は、思わず不平をもらした。
「先生、ただ今の応対はあまりではないですか、
まるでこちらが降伏したようではありませんか」
すると、西郷は高島にこう答えた。
「あれでいい。相手は戦に負けて非常な恐れを抱いている。
それなのに、なおこちらが尊大に構えては、
藩主としても言うべきことも言えなくなるだろう」
弱い者、形勢不利にある者への深いいたわりの心である。
すでに白旗を掲げ、傷ついている者の傷口に
塩をすりこむような無意味ないたぶりはやめよ、
という思いやりの気遣いである。
翌日には、
西郷は供も連れずに敵地を一人で巡視して歩いた。
まだまだ降伏に不満な藩士は大勢いたはずである。
その豪胆さに庄内の人々は驚いたが、
それは単に豪胆というだけではなく、
敵に対する人間的信頼感に裏打ちされた人徳と言うべきものだろう。
そればかりではない。
その後藩主が城を明け渡して出るときには、
薩摩兵の宿舎の窓を閉めさせ、
また宿舎の外にいる薩摩兵たちには、
すべて後ろを向かせて敗軍の将である藩主の姿を
見ないように命じたという。
敗軍の将に対する徹底した配慮を示したのである。
こうした西郷の深い心に触れて、庄内藩士たちはいたく感激した。
そして、彼らもまたその恩義をいつまでも忘れなかった。
その後、明治に入ってまだ西郷が
中央政治に顔を出さない頃、藩士たちは
西郷の人徳を慕って次々に鹿児島に西郷を訪ねた。
西郷と生活をともにし、その人格に触れ、学ぼうとした。
そのときに西郷が折々口にしたことを書き記したのが
『西郷南洲遺訓』だったのである。』
(「清富」の思想/三笠書房)より
まさに、今の日本人に一番欠けているのが、この「惻隠の情」かもしれない。
本来、武道は、相手に勝ったとき、
ガッツポーズをしたり、飛び上がったり、
喜びのあまり満面の笑顔になる、という態度を戒める。
負けた相手の気持ちを思いやれ、ということだ。
特に、剣道では一本を取った時に、
ガッツポーズなどをしたら、その一本は取り消しになってしまう。
しかし、昨今のスポーツ柔道では
それが崩れているのが何とも無念で仕方がない。
「惻隠の情」だけでなく、
「羞悪」「辞譲」「是非」の四面によって己の魂を磨き…
少しでも、人格と人間性を高めたい。
<感謝合掌 令和3年10月14日 頓首再拝>
蘭の3つの高貴な品質 - 伝統
2021/11/20 (Sat) 13:43:08
*Web動画「張陽チャンネル」(2021/03/28)より
~蘭、君子の香り為り【第138回】
https://www.youtube.com/watch?v=TWDYSPSg57E
(1)蘭は、幽谷に生えております。
堯の時代には、君子というものは、
世間外に身を隠した方ばかり。
君子は名利に淡白な人間であった。
(2)幽徳
幽遠の徳性を持つこと。
君子の幽遠をみたら、慕わない人はいない。
人間に元気を与え、リフレッシュさせることができる。
君子の教えは、人の魂の深いところまで染み込んで、
人の魂を浄化することができる。
(3)勁節(けいせつ)
強靭な精神を持つこと。
堯帝曰く
「蘭は君子の香り為り、王者の香り為る」
・・・
<参照>
蘭、四君子
http://yokohama-kimono-asobi.com/monyoo/monyoo033.html
<感謝合掌 令和3年11月20日 頓首再拝>
人間の人格の自然な成長を害するもの - 伝統
2021/12/24 (Fri) 13:38:59
*「光明道中記」(12月24日《人格完成の日》)より
【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。
(『生命の實相』第八巻)】
資本の蓄積は現在の経済組織に於いては
何か仕事を進める上には是非必要なことではある。
併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、
それは守銭奴であって、人間の人格の自然な成長を害することになる
のである。
梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。
それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。
人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨は
すべて遺しておかなければならないのである。
彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。
それだけに必要以上の蓄積することに時間をつぶして、
一体それが何の獲得であるのだろうか。
財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。
<感謝合掌 令和3年12月24日 頓首再拝>
「人格」の力を作れ - 伝統
2022/06/18 (Sat) 12:46:49
*「光明法語」(6月18日)より
「人格」と云う目に見えない、
しかし人おのおのに附いた不思議な力がある。
その「人格」の力がすべての物事を成功させたり、
不成功に終らせたりするのである。
ある人は「人格」の力で、
人々を神の如く尊敬せしめ、慈父の如く人々が慕い寄る。
ある人は「人格」が醜いゆえに、
才能があれども人々が気嫌いして、その人に功を成さしめない。
では「人格」の目に見えない雰囲気をどうしたら発達せしめることが出来るか。
それは《ふだん》の「思い」をよくすることである。
《ふだん》の愛念は其の人の柔かな雰囲気をつくるのである。
<感謝合掌 令和4年6月18日 頓首再拝>
「人格」の《ふんいき》 - 伝統
2022/06/19 (Sun) 14:46:06
*「光明法語」(6月19日)より
日常断えず思っている「思い」の集積が、人格の雰囲気となって現れる。
たえず善き「思い」を起こしている者はよき人格の雰囲気をもち、
断えず卑しい「思い」を起こしている者は何となく卑しい人格の雰囲気を持つ。
威厳の雰囲気を放つ者あり、
慈悲の雰囲気を放つ者あり、
柔和の雰囲気を放つ者あり、
剣気の雰囲気を放つ者あり、
邪気を放つ者あり、
徳気を放つ者あり、
人さまざまであるが、
之等は全て常にその人が心に思う「思い」の集積であって、
一時人前を繕っても駄目である。
第一印象の良い人は雰囲気のよい人である。
<感謝合掌 令和4年6月19日 頓首再拝>
偉大なる人物 - 伝統
2022/07/31 (Sun) 12:10:25
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月31日)より
人が拝み合うほどわたしを喜ばす話はない。
人が愛し合う話ほどわたしを喜ばす話はない。
人が罵り合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
人が憎み合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
他(ひと)が悪いということに憎みを感ずる者は愚かな者である。
他(ひと)が自分より優れていることを聞いて
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である。
<感謝合掌 令和4年7月31日 頓首再拝>
【「成人」とは「人と成る」こと】 - 伝統
2022/10/10 (Mon) 04:47:37
*<メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.04.03)より
(伊與田覺氏の心に響く言葉より…)
「成人」という言葉は皆さんご承知でありますが、
この成人には二つの意味が考えられるわけであります。
その一つは、成年に達しておるということ。
いわゆる二十歳に達すれば誰でも皆、成人であります。
これは「大人」という意味の成人です。
もう一つは成人を下から読んで「人と成る」という意味がある。
「人と成る」とは立派な人間になる、
人間らしい人間になるという意味です。
成人にはこの二つの意味があるわけですが、
「大人」という意味の成人は、特別に努力をする必要はありません。
誰でも飯を食って二十歳になれば、皆、成人としての扱いを受けるわけです。
一方、「人と成る」というのは、これは努力が要りますね。
人間は動物と神仏の中間に存在しておるものでありますから、
我々は動物的な面と神仏の面の両面を備えております。
その人間というものが、どちらのほうを向いて努力をするか。
動物のほうに向かって努力をするか、
神や仏のほうに向かって努力をするかによって、
同じ人間でも全く逆の方向に進んでいくわけです。
『論語』という書物の中にも「性、相近きなり。習い、相遠きなり」とあります。
人間の生まれというものはあまり変わらない。
性は相近いけれども、習い、つまり学習によって大きく隔たりが出てくるのです。
あるいは同じ『論語』に「教えありて類なし」という言葉がある。
人間は正しい教えを授ければ誰でもが立派な人間になっていくものであって、
初めから特別な種類があるわけではない。
生まれがいいとか悪いとか、そういう特別なものがあるわけではないというのです。
そこに隔たりが生じてくるのは、
その人がどちらの方向に向かって自らをつくり上げていくかによるのです。
ですから、我々はまず「人と成る」のが大事でありまして、
皆さんが『大学』をお勉強なさろうとする意義もまた、そこにあるのだろうと思います。
<『己を修め人を治める道』致知出版社 https://amzn.to/3DruPpL>
・・・
伊與田覺氏は、「人」には二つの意味があるといいます。
一つは個人としての人であり、もう一つは社会人としての人という側面です。
そして、個人として大事なのは「徳性」を養うこと。
つまり、徳を高めるということです。
また、「社会」の、「社」というのは「社(やしろ)」で、神様をお祭りするところです。
その神様の前での集いを社会と言ったそうです。
そのために必要なのが、道徳観や良き習慣を身につけることです。
それらを総合して身につけるのが「人間学」です。
その「人間学」には三学があります。
いわゆる、「小学」、「中学」、「大学」です。
小学とは小人(普通の人)の学です。
それが「尋常(じんじょう)」という常に道を尋(たず)ねるということで、
常識を身につけることでもあります。
だから、昔は「尋常小学校」と言ったのです。
また、大学とは大人(たいじん)の学です。
他に良い影響を及ぼすような優れた人物を大人といいます。
だから、大学とは他に良い影響を及ぼすことができるように学ぶことです。
それを「修己治人(しゅこちじん)の学」と言います。
(以上、本書より抜粋引用)
「人と成る」ため…
己を磨き、徳を高め、他に良き影響を及ぼすことができる人でありたい、と切に思います。
<感謝合掌 令和4年10月9日 頓首再拝>
【品性は謙虚さから生まれる】 - 伝統
2022/10/17 (Mon) 14:40:14
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.09.01)より
(小林正観氏の心に響く言葉より…)
「あるがまま」というのは、
自分もあるがままにやるが、
相手のあるがままも受け入れるということ。
「わがまま」というのは、
自分はあるがままにやるが、
相手のあるがままは受け入れないこと。
(足立幸子さんの言葉)
足立幸子さんは、コズミックアーティストとして活躍された方です。
足立さんが「あるがままに生きる』(七賢出版)という講演集で
「あるがまま」と「わがまま」の違いを伝えています。
この言葉は、「わがまま」や「自己中心性」をよく表していると思います。
暴走族が真夜中に大勢で爆音をとどろかせながら
我が物顔に街中を暴走するのも、一つの「自己中心性」。
安眠を妨げられて迷惑をこうむっている人たちの存在を想像できていません。
「自己本位な人」は、自分の素直な気持ちに従って行動することで、
まわりに多大な不利益や不愉快を与えることが少なくありません。
人は
「自己中心性を排すること」
「人の話をよく聞き、いつも学ぼうとすること」
「自己顕示欲をなくすこと」で
“謙虚さ” を手に入れることができます。
この「謙虚さ」は、人の「品性」を形づくる大切な要素です。
そして、この「品性」と、
「人のやさしさ」「ものの美しさ」「神さまの秘めごと」を感じる「感性」と、
「宇宙」「生命」「人間」の構造を把握する「知性」が備わったとき、
人は本当の意味での「知力」を持つことができるのではないでしょうか。
<『心を軽くする言葉』イースト・プレス>
・・・
「神さまの秘めごと」とは、「神秘」のことです。
人間の知恵では計り知れないほどの不思議なことです。
普通の理解や理論を超越した、ことや現象のことでもあります。
小林正観さんは、「神さまの秘めごと」を読み取って、
使いこなしていくと人生がとても面白くなる、といいます。
(1)自己中心的の反対は、利他的です。
自分のことよりも、他者の利益や幸せを考えることです。
これが「謙虚」であることの一つめの要素。
(2)人の話をよく聞き、いつも学ぼうとする姿勢のある人は、
我欲を抑えることの出来る人です。
なぜなら人は、他人の話を聞くより、
自分の話をしたくてたまらない生き物だからです。
そして、学ぶ姿勢がある人は、自分を下座に置くことができる人です。
下座行とは、人より一段、二段と低い位置に置かれたとしても、
そこで不平不満を言わず、懸命に仕事をすることをいいます。
これが「謙虚」であることの二つめの要素。
(3) 自己顕示欲の強い人は、
「自己主張が強い」「我が強い」「目立ちたがり屋」「自意識過剰」「虚栄心」
等々の性格があります。
自己承認欲求の一つですが、認められたい気持ちが強く出て、
「自分自身はすごい」とアピールしてしまうことです。
自己肯定感を高めることで、自己顕示欲は減っていきます。
そのためには、
「自分に自信を持つこと」
「常にプラス思考で考える」
「他人と比較しない」
「ネガティブな自分も受け入れる」
「肯定的な人と会う」等々。
これが「謙虚」であることの三つめの要素。
品性は、謙虚さから生まれます。
謙虚にして驕(おご)らない姿勢です。
謙虚さを手に入れ、自らの品性を高めたいと思います。
<感謝合掌 令和4年10月17日 頓首再拝>
【タテヨコ不変の人格】 - 伝統
2022/11/17 (Thu) 13:05:23
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.11.08)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
「結婚前にはとても優しい人だったのに、結婚してからはひどい。
どうしてこんなに変ってしまったのでしょうか。
どうすれば良いのでしょうか」と
相談を受けることが少なくないのです。
「結婚前に、車を運転する、ハンドルを持たせると人格が変る、
酒を飲ませると人格が変る、大金を持たせると人格が変る、
ということはありませんでしたか」と
質問をすると、多くの場合、
「確かにそうでした」との答えが返ってきました。
「全て」ではないのは、
「車の運転を見たことがない」
「上司との酒の席しか知らない」 (2人きりで飲んだことがない)、
「彼が財力や権力を持っていない」(持ったことがない)、 ゆえに
「 わからない」との答えもあったため。
有利な立場や優位に立ったとき、急に態度が変る
(偉そうになる、威張る、横柄になる、尊大になる、傲慢になる、
金遣いや言葉使いが荒くなる、一人一人を尊重しなくなる)人は、
「業(ごう)が深い」のだそうです。
「業が深い」人は、その「業の深さ」を
修正しに(この世に)出てきたらしいのですから、
「業の修正」をしながら「喜ばれる存在になること」を
目指すことになるようです。
「10年たっても20年たってもどんなときでも(タテ)、
年上に対しても年下に対しても誰に対しても(ヨコ)、
どんな状況でも(ハンドルを持っても酒を飲んでも強い立場になっても)、
同じ笑顔、同じ丁寧さを保ち続けること」、それが「タテヨコ不変」の意味。
もし自分が相手によって態度を変えているようなら、
これを機に、「不変」の路線に切り替えてみてはどうでしょう。
克服できるようなら、「業があまり深くなかった」
ということ になります。
人格向上 (魂磨き)の第1歩は、
「“タテヨコ不変”人格」から始まるのかもしれません。
<『こころの遊歩道』弘園社>
・・・
「業が深い」とは、一般的には、欲深いとか、運が悪いときに使われるが、具体的には、
「酒の上での過ちがある」
「喧嘩が多い」
「金銭に執着する」
「男女のトラブルが多い」
等々のことを指す。
頭の中では悪いと思っていても、
ついついやってしまったり、止めたくても止められないということ。
つまり、意思が弱いということになる。
(以上、仏教事典より)
「タテヨコ不変」であるかどうかを見るのは、何も結婚するときだけではない。
日頃、友人としてつき合うとき、最も大事な要素がこの「タテヨコ不変」だ。
人格(魂)を磨き…
タテヨコ不変の人格を目指したい。
<感謝合掌 令和4年11月17日 頓首再拝>
【自分が成長すると、 出会う人も変わる】 - 伝統
2022/12/10 (Sat) 14:54:00
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.06.21)より
(精神科医、越智啓子氏の心に響く言葉より…)
《自分が成長すると、 出会う人も変わる》
人生という舞台では、私たち一人ひとりが「主役」です。
でも、舞台にいろいろな人、つまり個性あふれる脇役が登場することで、
物語は面白く展開していくのです。
そして、私たちは人生という舞台でハプニングが起きるたびに、
それを乗り越えることで成長していきます。
人間関係によってさまざまな感情を抱き、自分の内面と向き合うことで、
私たちは自分の魂を成長させる機会を得られるのです。
私自身も母親との葛藤や闘病、結婚生活、仕事など、いろいろな場面ごとに
多くの人と関わっていく中で 自分を見つめ直し、少しずつ魂を成長させて
人生を好転させることができました。
私たちの長い一生の間には、いろいろな時期があります。
一人で過ごす静かな時期もあれば、くの人と関わる活動的な時期も訪れます。
人間の成長には、
「内向」的に育まれるものもあれば、
「外向」的に促されるものもあるのです。
子供を見ていると、一人でお絵かきしたり、
本を読んでばかりいることもあれば、
友だちとの外遊びが大好きになることもあります。
内向期は、情緒的な感性が養われる大事なときです。
そして、外向期には社交性が身につくのです。
大人になっても、内に向く成長期と外に向く成長期があります。
外に向かえば、 そこで出会う人たちとの交流が広がりますが、
内に向かうときは、心の深いところでつながり合える出会いがあります。
本や映画、芸術など、ふだんの生活では
知りえない人生を表現した作品にふれることで、自分の内面を深く見つめて、
感性を磨くことができるのです。
感性が豊かで充実した人ほど、会話が面白いものです。
よりよい人間関係を築くには、
人と接するだけではなく、自分の内面を磨くことが大切です。
そのためには、自分なりの
「得意ジャンル」をつくることをおすすめします。
高尚なことでなくても、かまいません。
日々、情報収集のアンテナを張っておき、
気になる本やテレビ番組、映画などをチェックしておくのです。
感性を磨くには、「インプット」を増やすことです。
特に美しいものや感動的なものを意識して自分の中に取り入れていくと、
感性が研ぎ澄まされていきます。
ある婚活中の三十代の女性が
ファッションばかり気にしていたので、
小説や映画、観劇などで内面を磨くことをすすめました。
アドバイス通りにしているうちに彼女は話題が増え、
「君、意外に面白い人だね」とアプローチする男性が3人も現われたのです。
楽しくデートをして、ついにその中の一人と結婚したのでした。
本や映画、芸術にふれることで内面が磨かれて“内なる光”があふれ、
彼女をより美しく魅力的に変えたのです。
《本や芸術で内面を深く見つめ、感性を磨く》
<「自分の周りに「不思議な軌跡」がいっぱい起こる本』 王様文庫>
・・・
人生で大事なことは…
「どこへ行くかよりも、誰と行くか」
「何をどこで食べるかよりも、誰と食べるか」
「何を話すかより、誰と話すか」
人生は、まさに「誰と一緒にいるか」で決まります。
つまらない人と一緒にいれば、つまらない人間になります。
ツイてない人と一緒にいれば、運はどんどん悪くなります。
暗い人と一緒にいれば、暗い人になります。
そして、素晴らしい人と一緒にいれば、素晴らしい人になります。
だからこそ、自分を磨くことが大事なのです。
自分が成長してステージが上がれば、上昇ステージの人と会えます。
悪い仲間と遊んでばかりいたら、下降ステージの人としか会えません。
「自分が成長すると、出会う人も変わる」
という言葉を胸に刻みたいと思います。
<感謝合掌 令和4年12月10日 頓首再拝>
人格完成の日 - 伝統
2022/12/24 (Sat) 07:15:43
*「光明道中記」(12月24日)より
【眉の間に皺を寄せる心から不健康、事業の失敗等が生ずる。
(『生命の實相』第八巻)】
資本の蓄積は現在の経済組織に於いては
何か仕事を進める上には是非必要なことではある。
併し蓄積ばかりに執(とら)われて蓄積ばかりが面白くなったら、
それは守銭奴であって、
人間の人格の自然な成長を害することになるのである。
梯酒(はしござけ)と云うのがあって、飲めば飲むほど欲しくなって、
酔っ払った上に、一つの料亭を出ると又次の料亭で飲み、
転々として停止することを知らない者が世の中にはある。
それと同じく、財貨を獲得することに興味を獲(う)ると、
幾ら得たとて満足することを得ず、彼は一種の餓鬼道である。
彼は常に心が餓(う)えかわいていて楽しくないのである。
人間は斯くの如くして老衰し、此の世を去る。
此の世を去るときには折角集めた財貨は
すべて遺しておかなければならないのである。
彼が彼岸(あの世)に持ち行くことが出来るものは何であるかと云うと、
唯彼の魂の獲得、善行、人格の成就のみである。
それだけに必要以上の蓄積することに
時間をつぶして、一体それが何の獲得であるのだろうか。
財貨の獲得は、
ただそれが世の中に必要な事に使われることによって価値を生ずるのである。
<感謝合掌 令和4年12月24日 頓首再拝>
【人格が変われば老眼すらなくなる】 - 伝統
2022/12/29 (Thu) 15:01:52
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.09)より
(作家・禅僧、玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)氏の心に響く言葉より…)
多重人格障害というものをご存じですか。
最近は、解離性同一性障害という云い方をされます。
多重人格障害というのは、よく考えてみると、
観音さまの延長上ではありませんか。
幾つもの人格、幾つもの顔を持っているのですから。
多重人格障害の話を少ししますと、まず主人格がいます。
主人格がいますが、すごく辛いことがあって、
その「私」には耐えられないというときに、
代わりに耐えてく れる人格が出てきます。
二十七人格とか、三十二人格という人もいますけれども、
基本的な構造はだいたい同じです。
つらいことに「私」は耐えられないけれども、死ぬわけにもいかない。
そこで、別な人格が出てきて交代してくれます。
そして、同じ身体を使って別人格が耐えてくれるのです。
困ったことに、そのことを主人格は記憶していません。
交代人格が出てきたときの記憶を、主人格は持っていないのです。
ところが、交代人格のほうは主人格の行動や考えていることまで、
つぶさに観察しています。
私のところに電話をしてくる方で、そういう病気の方がいらっしゃいます。
やさしそうな女性の声で電話をかけてくるのです。
でも、途中からガラッと変わります。
そのとき出てくる交代人格は男性だと思います。
それからまた別な女性に代わって、もう一人に代わった辺りで、
私も大変なので「ちょっと客が来たので」と言って切ったりするのですが、
その間だけでも、四つの人格が出てきているわけです。
人格が変わったときに、とても不思議なことが起こります。
たとえばその人の場合 は、主人格は四十代後半なので老眼です。
ところが交代人格の中に、十五歳ぐらいの少年が一人います。
その人格が出てきたときには、老眼鏡がいらなくなるのです。
ここが凄いと思いませんか?
他の人格が出てきたときは、もともと右利きなのに、
左利きになってしまうことさえあります。
主人格は右利きですが、同じ身体を別人格は左利きに使うのです。
それから、交代人格の中には、
主人格が学んだこともない外国語を話せる場合もあります。
外国語はともかく、老眼だけでもいいから肖(あやか)りたいものです。
この同じ身体を使う人格が代わったら、
老眼がなくなるというのですから、医学上の謎です。
我々は、年をとって筋肉も硬くなっているということを、
物理的な事実として認めたうえで、眼科で治療します。
あるいは老眼鏡で補ったりします。
しかし、多重人格ではその必要がないのです。
人格が変われば、老眼が治るのですから。
人間には、こういう不思議な力が備わっているのですね。
<『流れにまかせて生きる』PHP>
・・・
本書の中に「体は空っぽである」という興味深い文章があった。
『多重人格というのは極端な例ですけども、
実は、すべてのことに通じているのではないかと思うのです。
人格が入れ替わる器である体(からだ)は、「体(たい)」という字を書きます。
人偏(にんべん)に本(もと)と書いて体(からだ)です。
ところで、なぜ「からだ」と読むのでしょうか。
おそらく「空(から)」だからです。
体そのものが、空っぽなのです。
体そのものは空っぽで、それを使う人格によって
いろいろなふうに使えるから、体なのです。
「空(から)」は、仏教でいうと「空(くう)」に通じます。
空(くう)というのは、そのもの自体に根元的な性質はないという意味です。
だから、あなたの眼球そのものに、老眼があるのではない。
眼球を使っている何かが問題なのです。
眼球を使っている何かが、観音さまの姿のように変化しているのです。
気の持ちようといった問題ではなく、
体を使う主体が変わるぐらいの大変化が観音さまの力です。』
もし、人格が入れ替わったとき、老眼が治るなら、
他の多くの病気も治るということだ。
これは、「意識や言葉を変えたとき、がんや、認知症、
パーキンソン病等々をやめることができた」という
梯谷幸司氏のクライアントの実践例と同じだ。
(本当の自分に出会えば、病気は消えていく/三笠書房)より
人の意識や言葉にはとてつもない大きな力がある。
体(からだ)は「空(から)」だ、という。
つまり、体を使うのは魂。
魂を磨き、人格を高めることができる人でありたい。
<感謝合掌 令和4年12月29日 頓首再拝>
【変わり続けることこそ真理】 - 伝統
2023/01/16 (Mon) 08:08:41
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2022.12.26)より
(致知出版社、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…)
『碧厳録(へきがんろく)』という禅の問答録に、こういう話が出ています。
弟子が大龍(達磨大師より十四代目の祖)という師匠に問うのです。
大龍に問う
「色身(形あるもの)は必ず滅びる。 永遠に変わらぬものはないか」
この質問に大龍禅師はこう答えます。
「山花、開いて錦に似たり 澗水(かんすい)、湛(たた)えて藍(あい)の如し」
山の花々が開いて錦を織り成したようだ。
谷の水もたたえられて藍のように美しい。
しかし、花は散り、水も動いている。
移行こそが永遠の真理だ…ということです。
松原泰道先生はこの話が好きで、 よくこの話をされました。
移行こそが永遠の真理という、
その真理に則(のっと)られ、
泰道先生も百一歳八か月で、その生涯を終えられました。
泰道先生に教わったことはたくさんあります。
最大の教えは先生の生きる姿勢そのものでした。
いま私の執務室に先生が書いてくださった色紙が 掲げられています。
「生涯修行 臨終定年」
力強い筆跡で、百歳を越した人の字とは思えません。
先生はこの言葉を座右の銘としていましたが、
まさに、その言葉通りの人生を歩まれました。
年を取るごとに人格を完成させ、最も完熟した形で生を終える
そういう生き方を間近に見せていただいた幸いを思います。
もう一つ、私自身の心に深く残った泰道先生の言葉。
「仏教は人がよりよく生きるための教えといいますが、
仏教はいかに生きよと教えているのか。
仏教の究極の教えはなんでしょうか」という質問に
泰道先生は
「上求菩提(じょうぐぼだい) 下化衆生(げけしゅじょう)」 と
答えられました。
上求菩提とは、己の人間性を向上させること。
下化衆生とは、少しでも世のために尽くす、ということです。
間髪をいれずに答えられたその時の泰道先生の言葉と表情は
私にとって忘れえぬ教えとなっています。
仏教の真髄に少しでも近づくべく、人生を歩みたいものです。
<『心に響く言葉』致知出版社>
・・・
仏教の大事な教えのひとつに「一切皆苦(いっさいかいく)」
という言葉がある。
「苦」とは自分の思い通りにならないことをいう。
「生老病死」のすべてがそうだ。
その思い通りにならない「苦」の原因が「諸行無常(しょぎょうむじょう)」。
「諸行無常」とは、あらゆるものは変化する、ということ。
世の中は、常に変化し続け、変わらないものはない。
家族を含むあらゆる人間関係も、仕事も、自分の身体も、歳をとることも…。
我々の生きる目的は、
自分の魂を磨き続け、少しでもよき人格を身につけること。
そして、世のため、人のために尽(つ)くすこと。
この追求に、終わりはない。
「生涯修行 臨終定年」
松原師はそれを「独楽(こま)の舞倒れ」と言っていたという。
勢い良く回る独楽が、やがてその勢いをなくして倒れるように、
独りで体力の限界を超えるほどめまぐるしく働きすぎ、成果をみないうちに
倒れてしまうことのたとえだが、
松原師はそれでよし、という。
さっきまでしゃべっていたのに、
急に黙ったので、近づいてみたら亡くなっていたというような
あの世への往き方こそがよいのだ、と。
つまり、それが臨終定年。
生涯修行をし続け、あの世に行くときが定年、と思えるよう生き方…
自ら、変わり続ける人生でありたい。
<感謝合掌 令和5年1月16日 頓首再拝>
《人格は物質以上のものである》 - 伝統
2023/01/27 (Fri) 04:33:24
*『理想世界』(昭和42年9月9日の法語)より
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7069750
併しあなたの“心”は、
あなたの”自分”(人格的存在)を感ずることができる。
その“自分”は必ずしも、此の“肉体”を指すのではないのである。
”自分”というものが単なる肉体であるならば片脚を無くしたとき、
”自分”という人格がそれだけ減ったとは感じないで
”自分の片脚”が減ったと思うだけであるのである。(注。「の」は所有格である)
私たちの”心”は”物質”ではないところの、
五官の感覚に触れることのできない“人格”というようなものを
感ずることができるのである。
これは物質と物質の触れ合い又は、光波・電波・音波の如き物質的波動の
波長の同調又は共鳴によって感ずるのではないのであって、
全く心霊的な認識であるのである。
即ち”心”が感ずるのは“物質以上”のものをも感ずる。
即ち知性を備えているのであるから、”心”は、知性のない物質の化学作用で、
物質と同範疇に属するものだということはできないのである。
<感謝合掌 令和5年1月26日 頓首再拝>
《人格と雰囲気》 - 伝統
2023/02/19 (Sun) 04:42:48
*「眞理」第2巻基礎篇第11章(P297)より
自分の雰囲気をよくするには、雰囲気と云うものは、
自分の人格から発散するところの精神の波動であるから、
自分の「人格」をよくするよりほかに仕方がないのである。
では此の「人格」とは如何なるものであるか。
この何ともハッキリ定義することの出来ない「人格」と云うものを
よくするよりほかに、人から尊敬せられ、人から懐かしがられる
道はないのである。
「人格」とは、あなたの思想、感情、希望、憧憬(しょうけい)、
野心、愛憎、趣味、教養、過去の体験の一切の記録・・・等等、
無数のものが「一つ」の渾然たる一体に統一されて、
それが肉体の微妙な形体を通して表現されているものである。
それは「あなた」の全部であるとも言えるのである。
肉体の微妙な一つの皺(しわ)さえも貴方の人格の一つの表現であり、
あなたの人相は刻々あなたの起す精神の波が肉体に刻んだものである。
<感謝合掌 令和5年2月18日 頓首再拝>
【「素朴愚拙」の魅力】 - 伝統
2023/04/08 (Sat) 18:28:44
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2023.2.10)より
(行徳哲男師の心に響く言葉より…)
私は、人間の特に男の魅力というのは
「素」「朴」「愚」「拙」の四つの言葉で
表わすことができると思うんです。
「素」のよさは何も身につけていないことです。
カーライルが『衣装哲学』という本で述べていますが、
いまの人間はいろいろと着込みすぎですよ。
枝葉をつけすぎている。
枝葉をつけた木は見栄えはいいけれど、
滋養は枝や葉が吸ってしまい、幹や根が弱ってしまいます。
逆に葉を落とした木は見栄えはしませんが、力強さを持っている。
これが「素」の魅力ですよね。
「朴」とは泥臭さのことでしょう。
泥臭さがなければ本当の指導者にはなれないし、
時代の救世主にはなれないんですよ。
作家の柴田錬三郎さんがシベリアに抑留されていたときに、
極寒の中でしばしば靴下を盗まれたそうです。
そういう盗人はインテリや育ちのいい人間であったと書いています。
それに対して「俺の靴下を履けよ」と情けを示してくれたのは
魚屋のおやじさんやヤクザ者だったそうです。
そういう限界状況で情を示せる人間というのは、
どこか朴訥な田舎っぽいところがあったというんですね。
こういう朴訥(ぼくとつ)さをいまの指導者たちは失っています。
同時に「愚」がなさすぎる。
「大賢は大愚を見せるにあり」と言いますが、
大きな賢さというものは大きな馬鹿を見せることです。
「愚」の魅力とは阿呆になれる、馬鹿になれること。
そういう人物のもとには、
「この人のために」 とたくさんの人が集まってくる。
それが本当の利口というものでしょう。
そういう「ど阿呆」が日本にはいなくなりましたね。
吉田松陰が一番好きだった言葉にこうあります。
「狂愚まことに愛すべし、才良まことに虞(おそ)るべし」
頭がいいだけの人間は恐ろしいですよ。
また、松陰はこうも言っています。
「狂は常に進取に鋭く、
愚は常に避趨(ひすう)に疎(うと)し。
才は機変の士多く、
良は郷原(きょうげん)の徒多し」
愚の人は計算しません。
要領が悪い。
だからこそ、新しいことに挑(いど)めるわけでしょう。
でも、才良の士は郷原(きょうげん)の輩になってしまう。
すなわち、うわべだけ取り繕って
人にこびたり、人を陥れたり、人を利用したりする。
いまはそんな人間が多すぎます。
馬鹿力と言いますが、馬鹿こそ力なんですよ。
最後の「拙」は下手くそのことです。
下手くそな人間は魅力的ですよ。
いまは上手に生きようとする人間、要領のいい人間があまりに多い。
<『いまこそ、感性は力』致知出版社>
・・・
「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」
という江戸時代の臨済宗の僧侶、仙崖(せんがい)和尚の歌がある。
世の中には理不尽なことが多くある。
批判や、揶揄(やゆ)、嘲笑という風。
ときには大風が吹くときもある。
気に入らぬことも多いが、柳に風と受け流す。
受け流すことができる人は…
「素朴愚拙」の人だ。
また、「素朴愚拙」の人は、
「深沈厚重(しんち〇こうじゅう)」の人でもある。
中国明代の儒学者である呂新吾(ろしんご)が 名著『呻吟語』で
「人物」について語っている。
深沈厚重(しん〇んこうじゅう) 是第一等素質
磊落豪遊(らいらくごうゆう) 是第二等素質
聡明才弁(そうめいさいべん) 是第三等素質
第一等の人物は、深沈厚重の人で、どっしりと落ち着いて深みのある人物。
細事にこだわらない豪放な人物は第二等。
頭が切れて弁の立つ人物は第三等である。
「深沈厚重」であり…
「素朴愚拙」の人を目指したい。
<感謝合掌 令和5年4月8日 頓首再拝>