伝統板・第二

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「谷口雅春先生に帰りましょう」は、こちらです。「案内板」は、こっちです。

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神癒 ③ - 伝統

2017/09/26 (Tue) 03:58:25

     *伝統板・第二「神癒②」からの継続です。
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6910051

神癒の一般公式

        *『白鳩』(昭和39年12月号)より
 
他の人の苦しみを見て、その苦しみを除き、楽を与えてあげたと思うのは 
“菩薩の心” なのであります。 

他の人々から苦しみを取り去るために祈ってあげるということは 
“菩薩” たらんとするものの楽しい特権であります。

 
では、そんな場合どのようにして祈れば好いのでしょうか?  

『其の人の実相は既に神の子であり、神に祝福されて既に悩みなき状態にある』  
ことを心に描いて、それを心で念じるのです。 

いつまでも苦しみを見て、苦しみに同調しているならば、
それは親切な心ではあるけれども、その人から苦難を取除くことはできないのです。  

『あなたは神の子であり、神の愛に包まれ、神の愛に護られ、神の智慧に導かれて、
もう既に幸福の世界に出ているのです』  と念じてあげて下さい。 

強く念ずれば念ずる通りになるのです。 
想念は動力であり、想像力は創造力であるのです。


人の苦しみを救い、病いを癒すための祈りのよき見本を
イエスがラザロを復活せしめられた時に、模範的に実例を
示されていられるのであります。 

先ず、強き想念を起して相手の苦しみを 『可哀想』 であると同情して、
それを自己に摂取することです。 
これが 『イエス涙を流し給えり』 とある段階です。

 
次にイエスは 『神よ、あなたは常に私の祈りに応えたまうことを知る』 
と祈っておられます。 
この時イエスは神に対する堅信を告白し、自己の内から 『信ずる力』 を
喚び起されたのであります。 

それから後は、イエスは、もうラザロの病気も死も一切の悪をも見ず、 
『死せるに非ず、眠れるなり、起きよ』 と断言しておられます。 
その時、ラザロは蘇生えったのです。


どんな状態が現象として目の前にあらわれていようとも、 
『悪しき現象は神が造らないから無いのである』 と観ずる。 
これがメタフィジカル・ヒーリング《超物質的神癒》です。 

それが 『死せるにあらず、眠れるなり。起きよ』 であります。 
『悪は存在するに非ず、それは善が眠れるなり、善よ、起きよ』 です。 
これが神癒の一般公式です。

 (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24668015.html

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065 

(2)光明掲示板・第三「神癒」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243

(3)光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42

(4)伝統板・第二「「神癒①」」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458999

           <感謝合掌 平成29年9月26日 頓首再拝>

病気は心の影として懺悔し、神人(ゴットマン)の実相を観よ - 伝統

2017/10/07 (Sat) 03:34:33

        *「光明法語(10月7日)」より

病気は心の影

病気が自他の肉体に現われても、
肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。

その病気を「自分の心の影」だと見よ。
神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる「心の影」として
不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。


そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。

この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。

            <感謝合掌 平成29年10月7日 頓首再拝>

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える - 伝統

2017/10/19 (Thu) 04:46:37


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月19日心配のなくなる日)より

【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。(『生命の實相』第十二巻)】


「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、那箇(いかん)かこれ
明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。

善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かんと言っている間は通力を
失った状態であるから本当の大善は出て来ないのである。

「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって血を喀(は)いたりするのである。

善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。

「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。

「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。

心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。

血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。

           <感謝合掌 平成29年10月19日 頓首再拝>

偉大な〃神癒の原理〃 - 伝統

2017/11/03 (Fri) 03:21:15


         *『練成会に臨んで内観すること』
           ~信濃練成 藤原敏之部長

合掌、有難う御座います。

生長の家大神の御守りと御導きを賜り、尊師谷口雅春先生の御恩徳によりまして、
毎回信濃練成に於て神癒と奇蹟とが続出しておりますことを
此の上もなく有難く感謝申上げます。


医学や常識では、到底治る筈が無いというような重患が、
一瞬にして消えたり人間業では解決しそうもない困難な問題が、
忽ち解消すると言っても、一般には一寸納得出来かね
又体験として発表しても信じようとはしないのであります。 

其れ程迄に現象にとらわれ、現象を信じ込んでいるのが人間なのであります。 

この長きに亘る迷妄を打ち破ることこそ御教えの目的であり、
根本的課題であると信ずるものであります。


『生命の實相』第一巻第三頁に、この神癒の原理が示されているのであります。 

『生命の實相の自性圓萬を自覚すれば、大生命の癒力が働いて
メタフィジカルヒーリング〈神癒〉となります』 

とも御示し戴き又實相圓萬の自覚によって、大生命の治す力が働いて
われわれの不幸を癒して戴くことが出来るとも御教え戴いておりますから、
私達は只信じて実行すれば、それだけでよいのであります。


私は練成の根本方針を、此処のところに於て実施させて戴いております。 
御教えが絶対であり間違いないからこそ御教え通りどんな悪性疾患も機能障害も
みんな消えて治ってしまうのであります。 

別に種も仕掛けもないのであります。 
強いて言えば、同じお話しをしても行事をするにしても、
形式的とならず、生命が篭り生命を通したものがそこに発現して
練成を受けられる皆様の魂を打ち、肉の耳で聞くだけではなく魂で受け止め、
身体で受けられる結果神様に直結せられ神癒をお受けになるものと信じます。

理由は私共にも判らず又治る方々にも判らないのであります。 
兎に角人間は少し本を読んで判りかけますと、覚えたものを自分のものだと
思い違いしたり、御教えを私有物とし勝ちでありますが、
このことは極めて警戒を要することだと思います。

御教えを御説き下さる谷口雅春先生も 

「自分は教祖ではない教祖は自分を指導して下さる御神霊である」 

と申しておられます。 

私達は常に神想観して自己を否定し、己れを空しうする時、
神に直結し神の導きを戴くことが出来るのであります。


人間心や人間力で人間が救われる筈がなく、
私達が祈りに徹し自己を放下し切った時、神は私達を媒体として働き給い、
神智と神愛とを天下し給いて神癒を現わさるものと信じます。

    (光明掲示板・第一「練成会に臨んで内観すること」より抜粋転写
      → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1580 )

           <感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>

人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統

2017/11/06 (Mon) 04:12:03


       *「光明法語」(11月6日の法語)より

人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。

医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。

かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。

先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。

           <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である - 伝統

2017/11/21 (Tue) 04:41:32


       *「光明法語」(11月21日の法語~赦しと愛と平和)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、神もわが過ちを赦し給いて
その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 と思念せよ。

           <感謝合掌 平成29年11月21日 頓首再拝>

神の愛の抱擁を思念せよ - 伝統

2017/11/22 (Wed) 04:57:10


          *「光明法語」(11月22日の法語)より

更に次の如く思念せよ。

「神の愛の抱擁は優しいのである。
無限の優しさ、無限のこまやかな愛情をもって私を抱擁し給うが
故に、私の皮膚は直接この無限に優しい細(こまや)かな神の愛に触れているのである。
だからどんなイライラしさも、どんなブツブツもどんな炎症も潰瘍も存在しない。

神の愛と平和とはわが全身に流れ入って満ち給うが故に、
わが全身には神の愛と平和とが満ち充ちているのである。
だからわが内臓の粘膜にもどんな炎症もあり得ないのである・・・」

           <感謝合掌 平成29年11月22日 頓首再拝>

人の病いを癒すには - 伝統

2017/11/23 (Thu) 04:49:40


       *「光明法語」(11月23日の法語)より

他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。

自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。

この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである

           <感謝合掌 平成29年11月23日 頓首再拝>

彼の心の悩みを自己にとる事 - 伝統

2017/11/24 (Fri) 04:47:45


       *「光明法語」(11月24日の法語)より

人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。

何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。

           <感謝合掌 平成29年11月24日 頓首再拝>

ラザロを復活させたイエス - 伝統

2017/11/25 (Sat) 04:47:07


       *「光明法語」(11月25日の法語)より

イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。

その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。

人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。

今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。

その時ラザロは復活した。

           <感謝合掌 平成29年11月25日 頓首再拝>

彼の悩みを洗浄する法 - 伝統

2017/11/26 (Sun) 03:41:49


       *「光明法語」(11月26日の法語)より

人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。

「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。

これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。

「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。

           <感謝合掌 平成29年11月26日 頓首再拝>

相手の病いを治す思念 - 伝統

2017/11/27 (Mon) 03:36:08


       *「光明法語」(11月27日の法語)より

更に彼が神の子であること、神の肖像(にすがた)としてつくられたる
完全なる存在であること、その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。

相手に念を送るのではなく、自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。

           <感謝合掌 平成29年11月27日 頓首再拝>

柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統

2017/11/28 (Tue) 04:28:57


       *「光明法語」(11月28日の法語)より

「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。

それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。

傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。

氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。

           <感謝合掌 平成29年11月28日 頓首再拝>

《イエスは斯(こ)うして病気を癒した》 - 伝統

2017/12/14 (Thu) 03:25:26


        *『 生長の家 』(昭和26年2月15日の法語)より

   キリストも単に言葉によって病いを癒しただけでなく、
   或る場合には手を按(あん)じて祈り、
   或る場合には、唾液を患部に指にて塗っているのである。

   手を按じ、手を触れ、指にて唾液をつけて行うことが
   時として治病に効果をあげるのは、その動作が暗示となって
   患者に信頼感と安心感とを与えることになると同時に、

   手掌からはプラナ(生命磁気)が放射されるために、
   プラナの欠乏から起っているところの病気には
   著しく効果を奏することがある。

   それは恰度(ちょうど)、
   ビタミン欠乏症にビタミンを注射するような
   対症療法的効果を生ずるのである。

   一種の動作によって病気が治る場合にも色々の要素が含まれている。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7757b2e44128b380ac6e75715f104b2c

           <感謝合掌 平成29年12月14日 頓首再拝>

自分の過去の妄執を斬れ! - 伝統

2017/12/19 (Tue) 02:48:42


           *「光明道中記」(12月19日妄執を斬る日)より抜粋

【妻の非難の念波は良人(おっと)の心を淋しくする。また良人を病気にする。
                         (『生命の實相』第六巻)】

人間は健康なのが自然であって、不健康なのが不自然なのである。
そうすると不健康とは不自然な生活が起ったと云うことである。

不自然な生活の中には、憤(いか)りに耽(ふけ)ること、人を怨み憎むこと、
悲しむこと、陰気に沈むこと、笑わぬこと、いつまでも同じ感情に沈むこと、
仕事をせぬこと、上に仕えて素直でないこと、兄弟仲よかざること、人をゆるさぬこと、
嫉妬心を起すこと、あせり急ぐこと、・・・等々の心持である。

斬れ!  自分の過去を。

           <感謝合掌 平成29年12月19日 頓首再拝>

徳久克己先生の「神癒の根本原理」より - 伝統

2018/01/06 (Sat) 04:15:45


      *徳久克己先生〈「練成会」に於ける“神癒の根本原理”〉
         (『神性開発―「練成会」発祥の地・飛田給』、
          生長の家本部練成道場編、日本教文社、平成13年)より抜粋

“心の影”だということがいくら解っていても、
この心をどう支配するかということがわからなかったら、
それを知ることが、かえって苦しみの種になるということを
先生はお書きになっておられるのです。

吾々が練成会をしても横の真理ばかり言っていると、
聞いた人は、かえってくたびれて帰るわけで、
私も最初、これだけ教えられたときは、生長の家をやめようと思ったことが、
何遍もありました。

普通、病気になるのは、黴菌が入りこんだのだから、黴菌が悪いと思いますね。
ところが横の真理からみれば、病気になるのは“心の影”でしょう。

自動車にぶつかってもこちらの“心の影”なのです。
向こうが悪いと思ったら心が楽になるのに、火事に遭うのは“心の影”ですし、
災害にあうのも、そこにいったからいけないということになる。

そうなると自分が苦しくなります。

ですから、生長の家の練成道場でそれだけを教えていたら大変なことになります。
それで人を救ったと思っていたら、かえって相手を苦しませてしまうことに
なりかねません。

私もこれを知らなかったから、最初はこればかり言っていました。
精神分析の方面でも“心の影”ということを言っていて、
心が変われば運命が変わると言っているわけですから、
そこで止まっていてはいけないのです。(76頁)

練成会において、一つの段階として、
「ありがとう、ありがとう、と言っていれば、それでいいのだ」と、
最初の人はそのように指導してあげていいのですが、
そこから段々と引き上げなくてはなりません。(79頁)

心がありがたいと思っているときに現れる仏だとか、
感謝しているときのうまくいっている状態とか、そ
んなものだけでは本当のものを掴んでいないのですよ。

心がどうあろうと、永遠に変わらない生命を吾々は掴んでゆく、
そこまでいかなければ本物ではありません。(80頁)

「無より一切を生ず」―これは大変な言葉なのです。
これが無限供給の根本的な原理です。
ここから、生長の家が始まっているわけです。

この「現象無し」、「肉体無し」ということが、まずわからないと、
神癒もへったくれもありませんね。

しかも「有る」とか「無い」とかというものを、
通り越したものでなくてはいけないのです。(82-83頁)

「生長の家」に入って初めて仏になったのではないのです。
ここがわからないといけません。この考え方がはっきりしないと
練成会にきた人を差別するのです。

「みんな神の子である」ということも、
そこまで解ってこないと練成会は指導できないのです。(89頁)

「生命の実相の自性円満」と書いてあるそのふりがなを見てください。
「そのままでえんまんなこと」と書いてありますね。

皆さんの「生命の実相」はそのままで円満なのですから、
生長の家に来てから円満になったのでもありません。
皆さんが生まれる前から円満なのです。(89頁)

“神癒”とは、生命の実相のそのままで円満なことに気が付いたら
神様の力が働いて神癒となりますから、皆さんが気が付けばいいのです。
これを気付かすのが練成会の神癒です。(90頁)

一番大事なことは、生命の本当の相(すがた)がそのまま円満なことを、
自覚させるのが、私たちの仕事だということを覚えておけばいいわけです。(90頁)

「病気はない」と言えないということは、
「病気はある」と思っているから言えないのです。

谷口雅春先生が無いと言っているのに、
弟子が有ると言っていいわけがありません。(95頁)

先生が「無い」と云っておられるのですから、
弟子が「無い」と言わなければ、弟子ではないのです。
そこまで行かないと生長の家は広まりません。

私たちはもっと「無い」を言いましょう。
谷口雅春先生のお悟りなのですから、
吾々も信じて実行しなければなりません。(96頁)

現象は心の影だというのは、現象はないから心の影なのです。
「現象は無い」ということと「心の影」というのは一つの真理であるのです。(97頁)

この「病気はない」ということは大変素晴らしい真理なのです。
それはどこから来るかといいますと、「物質はない」という真理からです。

これが元で、ここから「肉体もない、病気もない、現象もない、心もない」
ということがきているのです。

「物質がない」ということが、もし解らなかったら、信じたらいいのです。
わかろうと思うと大変なのです。考える必要はないので、
谷口先生が「ない」といわれるのだからないのだ―これでいいと思います。(104頁)

皆さんもあっさりそうしたらいいのです。
病人のところに行って、「谷口先生が病気はないと言われるから無いのだ」
といったらいいのです。

生長の家の講師なら「先生の言っておられることを信じます」と言っても、
恥ずかしいことはないではありませんか。
恥ずかしい人は、講師を辞めたらいいのです。
教えをひろめて行くのに邪魔になります。

根本的な問題は、先生の言われることを信じない人が中心に座ったら、
とんでもないことになるということです。(105頁)

「神様は、絶対、悪いものをお造りにならない」と、
根本的に、神を信ずることが最高の善業になるのです。

このことを吾々も信じ、人にも教えていく、
それが神癒につながっていくことになります。

神が病気を造ったという考えを持っていたり、神様が罰を当てるとか、
神様が人間を苦しめると思っていては駄目です。
今までの信仰が間違っているのは、それがあったからです。(115頁)

谷口雅春先生のお話を聞き、吾々の話と先生の話は、どこが違うかということを、
私は一所懸命勉強しました。
どこにあるかというと、結局、先生の話を聞いていると解放されるのです。

あれしたらいかん、これしたらいかんということは一つもないのです。
禁止がないのです。こうしたら善くなるという話ばかりなのです。
皆さんも話をするときは、気をつけて下さい。(120頁)

吾々自身が、僕もですが、絶対気をつけて、
消極的なことを言わないようにしているのです。
プラスのことを言うのです。

聞いていて気持ち良くなるような、明るい話をしてゆかねばなりません。
自分が人をよくしようと思ったら大変です。
「神様が善くしてくださるのだから、生長の家の神が、来た方を救ってくださるのだ」
ということを、皆さんが言ったらいいのです。(120頁)

谷口先生は、「病気をしながら、したことのない自分を自覚する事だ」と言われています。
悪いものをよくしようという考え方をやめてしまうことです。
悪いものは無いのだと消していったところに、本当のものが出て来るのです。(127頁)

皆さん、今どんなことが起こっていようとも、そんなことは無いのです、
素晴らしいですよ。

谷口先生はこうも言われました。
「顔が汚れたという人がありますね。あれは顔が汚れたのではなく、
ゴミが汚れているのです。顔がもし汚れていたら、拭いても取れるはずがない」と、
こう言われました。悪が善になるのではなく、もともと善なのです。(128頁)

谷口雅春先生が言われた「病気が無い」と言うことが、もし嘘であったら、
病気はないというこの真理で、これだけ多くの体験が出ているはずがないのです。

病気はないということがもし間違いだったら、生長の家はつぶれているわけです。
堂々と言わなければいけません。
無いということを、実際に実現して行かねばなりません。
それが神癒につながっていくのです。(132頁)

谷口先生は、或るところでこう書いておられます。
「心が変わって病気が治るのは、医者の薬を貰って病気がな治るのと同じ事だ」と。
それは一つの現象的な心というもの、心・仏・衆生、三無差別の状態になるわけです。

神癒をもたらすためには、「闇はないのだ。病気は無いのだ」をしっかり徹底して、
これからの練成会を発展させ、多くの人を幸せにして頂きたいと心からお祈りします。
ありがとうございました。(132-133頁)

(谷口雅春先生に帰りましょう・第二「徳久克己先生の「神癒の根本原理」より (8192)」
 日時:2017年11月21日 (火) 18時29分、名前:下総の野人
 → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1938 より転写)

           <感謝合掌 平成30年1月6日 頓首再拝>

生命の神秘を拝む日 - 伝統

2018/01/12 (Fri) 04:07:21


           *「光明道中記」(1月12日)より

【自療力さえ誘導されたならばあとは治るのであります。(『生命の實相』第ニ巻)】

肉体はそれ自身の力で生理作用を営むのではない。
血液は肉体の機械的構造によってのみ循環するのではない。

それは毛細現象と云う毛細管が液体を吸着する力によってのみ循環するのではない。
毛細血管は心臓の如く脈動し、
心臓の如く弁を備えて血液を循環せしめる輔(たすけ)をする。
それ故に血液循環の原動力は心臓にあらずして
毛細血管の物理的構造にあると説を立てる人もある。

併し物理的条件は生命のつくった利用し得べき装置にあるに過ぎないから、
1分間前に脈動していた血管も心臓も、「生命」が其処を去るならば、
その物理的構造は1分間前と同様であっても、もう血液は循環しなくなるのである。

所詮は物理的構造はその補助であって、生命機能の本体ではないのである。

生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って
肉体と云う装置を支配している。

そのためにこそ肉体は「生命体」として普通の物質を試験管に入れたのとは
異なる物理化学的発展を遂げるのである。

生命がその操縦波を送らなくなったとき死と言い、
またその操縦波が恐怖、懊悩、心配、煩悶、憤怒、呪詛等によって
攪乱せられたる状態を病と言う。

            <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>

「自分自身の生きる力が最上の名医」 - 伝統

2018/01/28 (Sun) 04:12:01


        *『生命の實相』第2巻實相篇下(P87~88)より

何をしても神の聖意(みこころ)が自分を通して働いてくださる ―― 
このことが祈りによって、自分の心の内に確立して来ますならば、
われわれは自由な無恐怖な状態になれるのであります。

神に導かれて立つ腹ならば腹を立ててもそれがかえって人の救いになる。

それと同じように、神に導かれて出る熱ならば、熱が出てもそれが却って病気の救いになる。
咳が出ても好いし、下痢をしても好いし、患部が痛んでも好いし、そのほかどんな容体が
出て来ても恐れることはないのであります。

熱は黴菌という「迷い」を消滅さすために起こる。

咳は黴菌の死体や不潔物を吐き出すために出る、
下痢は今まで全身の細胞を中毒さし弱らしていた毒素を瀉出するために起こる、
痛みはその刺激によって病患部の治癒に必要な血液を集中さすために起こる ―― 

こういうふうにい今まで、病気の徴候だと思って怖じ恐れていたものが、
実は病気の徴候ではなく、隠れていた病気の原因を一旦形にあらわして外に浮び上らせた上で、
さらにそれを消滅さすための徴候だということが判って来る。

こうなると、熱はけっこう、咳はけっこう、下痢はけっこう、疼痛はけっこう ―― 
そのたびごとに自分はいっそう今までよりも健康になりつつあるということが判って来る
のであります ―― 

すると熱があっても熱さましはいらないし、咳が出ても咳止めはいらないし、
下痢があっても下痢止めはいらないし、そのほかどんな薬も要らない ―― 

自分自身の「生きる力」こそ、自分にとって一等の名医であることを信じて、
その施術に委せきりますから、自分自身の「生きる力」も自分に信頼して委された以上は
責任をもって是非自分自身で治さねばならぬということになり、

たとい熱が高まっても、脳膜炎を起すほどにはならず、
脈拍が速くなっても心臓を麻痺さすほどには速くならず、
結局薬を用いたときよりも、自然療能という名医が、
病気に応じて如何なる他の療法よりも、迅速に適宜の処置をとってくれるのであります。


なぜなら、自然療能という医師は自分の外にある人を招(よ)んでくるのではなく、
自分の内にチャンといる名医だからいかなる医師よりも、迅速に処置がとれ、
外から患部を想像するのではなく、内にいて患部の状態を知りつくしていて、
それに適応する抗毒素の製造や体温の調節や便通の調節をするのでありますから、
その処置をまちがえるということは決してないのであります。

            <感謝合掌 平成30年1月28日 頓首再拝>

薬を服むと、人間が持つ自然療能(自然治癒力)が低下してしまう - 伝統

2018/02/15 (Thu) 03:34:45


        *『生命の實相』第2巻實相篇下(P88~91)より

ところが、内部の「生きる力」すなわち自然療能博士にその処置をまかさないで、
外から呼んで来た医学博士の投薬を行ないますと、自然療能博士の内的投薬が、
突然の外部的干渉(がいぶてきかんしょう)で攪乱(かくらん)されるのであります。

自然療能博士は内部にいるので、その患者が、外部の医学博士に頼る気を起こした瞬間に、
もうそれをただちに知っています。

彼はこの患者に二心あることを知って、もう自然療能の手をいく分加減して手控えして、
外部から何が這入(はい)って来るかと身構えをするのであります。

その時次のことが起こります。

(1)たいてい外から投薬される薬物は、内部の細胞自体にとってはある毒作用を
   ともなった異物なので自然療能博士は今度はその毒作用を打ち消すために
   半分の力を割(さ)くのであります。

   そのため自然療能博士は全部の力を病気を治す方に集中することができない。

(2)仮に外部からの投薬が、自然療能博士が今ちょうど身体の中で製造しようとしていた
   薬物と同一性質であったとしますと、自然療能博士は内部の自家免疫薬の製造の手を
   いく分か休めて外からの薬物を喜んで迎えるのであります。

   その代り自然療能博士はこの次の時も適当なる薬物が外から来るであろうとの予想をもって、
   しだいに内部の自然療能力を働かせずにおくようになるのであります。

   消化剤の連用のごときがかえって消化カを低下せしめるごときはこれであります。
   こうなって白然療能力が弱っている時に、何かの原因で病状が変わったり
   外部からの薬物が急に変わったりすると、

   自然療能力はその全能力を発揮しない癖がついているので、
   ついにその人は病にたおれてしまうようになるのであります。

(3)自然療能博士が熱を高める必要を認めて熱を高めている時に、
   解熱剤をのませると、一時熱はさがりますが、
   自然療能博士が熱を高める必要があると信じている限り
   こんどは解熱剤に打ち勝ってでも熱を上げねばならぬと努力しますので、

   熱が普通以上に長引くことになります。

   胃酸過多に重曹剤をのませれば、
   結局はいっそう胃酸の分泌が増加するなどもこの例であります。

   
結局、外から来る薬は、たといそれが病気を治す力のあるようなものであつても、
自然療能の半分の力を他に割くか、それを怠けさすか、攪(か)き乱すか、
その調子をとれなくするかすることになり、

結局最初より「自然の生かす力」に頼り切った人ほどには
すみやかに好結果をもたらすことはできないのであります。


自分の内部の「生きる力」に信頼できる人は決して重い病気にかかるものではありません。
なんらかの外的傷害その他で毒物が自分のうちに這入って来ましょうともはじめから
「内部の生きる力」が全能力を発揮してそれを防ぎ止める癖がついていますから
大事にいたらないで健康を回復するのであります。

いろいろ医者を変え、薬をかえして、内部からの自然療能力を攪乱(まぜかえ)してしまった人は、
最後に医者と薬とに絶望して、もっぱら自然療能に頼ろうと決心しましても、
自然の働きは徐々に回復するのがふつうでありますから、

薬にまかせて半分は眠っていた自然療能力が完全に回復し切るまでには
いく分の忍耐がいるのであります。

それでも全然自己内部の「生きる力」に信念をもって頼れる人は助かりますけれども、
本来、薬と医者とは病気を治すもの、その薬と医者とが見放したほどの病気だから、
自分の病気はよほど重い ―― 

こう「自分の病気は重い」という信念に、心の重心が傾くようになりますと、
本来病気それ自身は重いも軽いもないのだけれども、
自分の病気は重いという信念の重味に打ちまけて、内部の自然能力も
もう施す術(すべ)がなくなるのであります。

            <感謝合掌 平成30年2月15日 頓首再拝>

「神癒」の骨髄 - 伝統

2018/03/02 (Fri) 04:43:59


         *『生長の家』(昭和31年)より

皆さんが「生長の家」の説くところを読んだり、「神想観」を実修したりして
神の子たる自己の生命の実相(ほんとのすがた)に触れ、真理をさとって
病気〈その他の人生の凡ゆる不幸〉が治るのは、
他の類似の治療法の及びもつかぬ根本的な治療であります。

何故なら、それは自己の生命の実相が自覚されてくるにしたがって、
本物でない、ウソの、仮の、迷いの、実際は有りもせぬのに有るように見えている
色々の凡ゆる人生苦が恰も光が輝きだせば闇が消えてしまうように消えてしまうからであります。

他の治療法はすべて、毒をもって毒を制するとでも言いましょうか、
無明をもって無明を征服するとでも言いましょうか、ともかく一つの間違った信念 
 ―  たとえば、病いは有るという信念を、他の間違っている信念  ―  
物質〈薬〉が生命を補うという信念  ―  によって破壊するという方法であります。

 
「神癒」の骨髄となるのは「真の人間」たる完全なる「神人」を自分において観るとき
自己治療が行なわれ、相手において観るとき他人治療が行なわれるのであります。

相手にある「神人」を、こちらからハッキリと観ずれば、
相手の病気がなおるばかりでなく、相手の人格などもすっかり変ってくるのであります。

「神想観」を病気治療法だと思っていられると間違いであります。

病気が治るのはただその極々随伴的の功徳に過ぎないで、
神想観の功徳は実に広大無辺、性格でも、運命でも、境遇でも、
この「神想観」によって改善されてくるのであります。

吾々がもし、間断なく実相に対して目を開き常に完全なる実相世界の事柄のみを
心に描いているならば、常に人間は完全に健康であるべきはずであり、
その他のことはあり得ないのであります。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/6f61ed273c3e5d77d13762d54c895d9e )

            <感謝合掌 平成30年3月2日 頓首再拝>

人の病気を治すには - 伝統

2018/03/07 (Wed) 04:09:39


           *「光明法語」(3月7日)より

人の病いを心で治そうと思ったならば、その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。

観たとおりに現れるのが心の法則であるから、吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。

病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが病気を消滅することが出来るのである。

此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。

            <感謝合掌 平成30年3月7日 頓首再拝>

《症状に感謝せば病いは消える》 - 伝統

2018/03/25 (Sun) 04:15:23


         *『 生長の家 』(昭和24年12月23日の法語)より

   病苦を人に訴えるな。またみずから呟(つぶや)くな。
   言葉は種子(たね)であるから、
   再び病苦の種子を蒔いているようなものである。

   病気の苦痛や症状は実は、過去に種子を播いた
    「 誤まれる想念及び感情 」 (即ち病気)が
   形にあらわれて消えて行こうとしているものであるから、

   症状が出れば出るだけ、消えて行こうとしつつあるのであるから、

   「 有りがとうございます。
   これで私の過去の間違った心が消えて行くのでございます。」

   と心の中で一心に感謝していると、
   そのまま苦痛少く症状が消えて行くのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成30年3月25日 頓首再拝>

すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て。 - 伝統

2018/04/10 (Tue) 03:16:32


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より

ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。

この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。

「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。

あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。

撲り合いはなさらないでしょう。
しかし、本当に満足していますか。
このままでありがたい、十分尽くしていただいていると思って家族に感謝していられますか。

そうではないでしょう。
『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。

そんな心そのものが病気なのです。
病気は肉体にあるのではありません。
その心にあるのです。

右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。

そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか? とおっしゃるのですか。
やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、心の生まれ更わりができていませぬ。
不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。

すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。
もう病気はないのである。」

            <感謝合掌 平成30年4月10日 頓首再拝>

大生命の海原から生きる力を汲む - 伝統

2018/04/25 (Wed) 03:39:22


        *「生命の實相」第16巻 人生問答篇下(P39~40)より

谷口
 ―― 宇宙に「治す念波」が充ちている ―― これは事 実です。
神の大きな生かす力がこの「治す念波」です。

誰でも、自分のうちに、この「治す念波」をもっていて、
この自分の内に宿る「治す念波」は、
宇宙に満ちている 「治す念波」と結びついているのです。

心を素直に開い て「宇宙に満つる治す念波」を受けるようにすると、
自分のうちに宿っている「治す念波」が清まって生気を得て、
本当に治す力を発揮するようになるのです。

われわれ個人の内に宿っている「治す念波」は、
それはちょうど室(へや)の中にある空気のようなものです。

室(へや)の中にある空気も外の空気とある程度までつながっていて、
われわれを生かす力がある。

そして、われわれの吐き出す炭酸ガスなどの
毒ガスが穢(けが)されると生かす力が少なくなるから、
また戸障子(としょうじ)を解放して大気を部屋の中へ導き入れねばならぬ。

それと同じように、われわれの内に宿っている「治す力」も、
ある程度まで「宇宙の治す力」とつながっていてわれわれを生かす力があり、
われわれを治す力があるのですが、

心が素直に平和に伸び伸びしないで 人を怨んだり憎んだり恐れたりしていると、
ちょうどわれわれが室内に炭酸ガスを吐き出すように心の中に毒ガスができて
「治す力」「生かす力」が濁ってくる。

そのために、健康な者も病気になったり、
病気のものは回復力が鈍ったりするのです。

部屋の中に炭酸ガスが籠(こも)もったら
われわれは戸障子を開いて大気に解放するでしょう。

それと同じようにわれわれはわれわれの心のちに
いろいろの不純な念がたまって
自分のうちに宿っている「治す力」が鈍ってきた時には、
大生命に向かって心を開く。

(中略)

心の戸障子を解放して大生命の海原から生きる力を汲むのです。
この方法が「生長の家」の神想観です。


            <感謝合掌 平成30年4月25日 頓首再拝>

利己主義は病気のもと - 伝統

2018/05/04 (Fri) 03:52:48


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月4日)」より

「虫のよい」という言葉がある。
自分だけのことばかり考えて、人のことを考えない利己主義者の別名である。

病気を治してほしいなどと訴えてくる人にこういう虫のよい人が多い。
利己主義者は全体生命と隔離されているから、全体生命(大生命)が流れ込んで来ない。
それが病気のもとなのである。

虫のよさはまた不平の本である。
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。
「あなたは利己主義だ」と言われてハッと気がついて神経衰弱の治った人がある。

            <感謝合掌 平成30年5月4日 頓首再拝>

幸運の雰囲気を作ること - 伝統

2018/05/12 (Sat) 03:45:31


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月12日)」より

病気の治るまでに、病気の雰囲気を去ることが必要である。
雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す。

幸運の来るまでに幸運の雰囲気を作ることが必要である。

部屋を浄(きよ)め、窓を開き、ガラスを拭き、門前を浄め、
よきお客様が来るような気持ちでせっせと働いておれば、
幸運はたずねて来るのである。

不運な人にかぎって、
ルンペンしか泊まってくれないような見苦しい雰囲気をその身辺に作っている。

「床を取り上げて起きよ、しかして、汝の周囲を浄めよ。」

            <感謝合掌 平成30年5月12日 頓首再拝>

健康なる心の感染によって病気が癒えることも度々(たびたび)ある - 伝統

2018/06/06 (Wed) 03:22:22


        *『幸福を招く365章』第12項
            (《健康も感染する》P256~257) より

人が泣いているのを見ると涙が出て来る。
唯この一つを考えて見ても、人の感情が感染して其人(そのひと)の
内分泌液に変化が起ることが判(わか)るのである。

涙が感染するとすれば、消化液の分泌状態も感染する。
換言すれば胃病も感染するのである。

涙が感染し、胃病が感染し、欠伸(あくび)が感染し、感冒が感染し、
肺病が感染する ー 多少物質的影響もあるが、
心の感染が物質的感染の素地(そじ)を作るものであることは明(あきら)かである。

その反対に健康なる心の感染によって病気が癒えることも度々(たびたび)あるのである。
それは飛田給練成道場の生長の家練成会に於て往々(おうおう)見られるところである。

(初出~「生長の家(昭和25年10月29日)

            <感謝合掌 平成30年6月6日 頓首再拝>

病者へは、思念より真理を理解せしめよ - 伝統

2018/06/19 (Tue) 03:50:53


        *「光明道中記」(6月19日 愛行完き日)より

【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
                          (『生命の實相』第四巻)】

凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。

病者に癒しの思念をするのも同じである。

自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも
思念してはならないのである。

病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。

此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。

けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、
生きている間じゅう相手が一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。

重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。

思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。

思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。

            <感謝合掌 平成30年6月19日 頓首再拝>

多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている - 伝統

2018/06/20 (Wed) 04:42:02


        *「光明道中記」(6月20日 自分の心を調べて見る日)より

【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
                        (『生命の實相』第一巻)】

自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。

利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。

憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、腹につかえるものが残っているからである。

多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても病気が治らないのであった。

治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。

治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。

『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。

            <感謝合掌 平成30年6月20日 頓首再拝>

癒えないと云う人には6種類ある - 伝統

2018/06/23 (Sat) 03:24:24


        *「光明道中記」(6月23日 食堂楽しき日)より抜粋

【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時速やかに崩壊し始める。
                         (『生命の實相』第四巻)】

病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。

(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
   「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。

(2)家族のうちに反対観念者があって、そんなことで治るものかと強く念じている場合。

(3)憎んでいる人を赦していない場合。

(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。

(5)心が焦(あせ)っている場合。

(6)死に切っていない場合
    ―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。

   利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
   恐怖心は利己心から来るのである。

            <感謝合掌 平成30年6月23日 頓首再拝>

《自己に宿る自然療能力に感謝せよ》 - 伝統

2018/07/07 (Sat) 04:29:47


         *『幸福を招く365章』第10項(P215) より

肉体を愛し讃美するのは、必ずしも肉体主義でもエロティシズムでもないのである。

肉体は神の自己表現の機関として、神が創造したまいし
理念の形象化(かたちになったもの)である。
だから肉体を神の宮とも云うのである。

神の自己表現の機関である肉体は健康であるように、
美しくあるように作られたのであり、その美と健康とを維持するように
内部に自然療能(神御自身の再生能力)を与えられているのである。

常に神の再生能力は吾らを生かし、修復し、若返らせ、
疲労を快復せしめつつあるのである。

その驚くべき快復を発現せしめようと思うならば、
先ずその力の存在を認め、それに感謝することである。

(初出は「生長の家」昭和26年7月5日の法語)

            <感謝合掌 平成30年7月7日 頓首再拝>

《 生かす力・癒す力 》  - 伝統

2018/07/19 (Thu) 04:18:42


         *『生活の智慧365章』
           (第1部生命の泉)第2篇( P57~58) より

宇宙全体は神の”大生命”の海原であるのである。

一切の生命体を「無」の世界から生み出したところの「生かす力」「生み出す力」
「生理作用を整える力」が宇宙全体に充ち満ちているのである。
その力が「病める者」を癒す力としてはたらくのである。

すべての人間は、この万物を生かし、すべての病を癒す”無限の力”に取り囲まれ、
とり繞(ま)かれているのである。

病気を癒されたいと思う人は、この”無限の力”に波長を合わせばよいのである。
神想観して次のように念ずるがよい。

「宇宙には神の癒す力が無限に充ち満ちているのである。
私は今この神の癒す力に対して心を振り向け波長を合わすのである。

神の無限の癒す力、今滔々と自分に流れ入り、一切の暗い考え、心配、取越苦労などを
一掃し、生き生きとした生命力をもって全身の全器官全組織を満たし、
全身を賦活して健やかならしめ給いつつあるのである。

刻々瞬々、私の全身の細胞は活力を得、若返り、一層健やかになりつつあるのである。

この神想観を終りたる後(のち)も、常に間断なく、大生命の癒しの力が
休みなく私に流れ入って、最早や病の存在する余地を与えないのである。
神の護りに感謝いたします。」

            <感謝合掌 平成30年7月19日 頓首再拝>

《真の完全なる治癒》 - 伝統

2018/08/03 (Fri) 03:26:13


         *『生長の家』(昭和25年10月23日の法語)より

   病気が治るか治らないかは、如何なる治療法を
   とるかどうかと云うことが問題ではないのである。

   吾々は必ずしも其人(そのひと)が物質的治療法を
   とることを排斥するものではない。

   それが治ると治らないとは、患者の迷いの心が、
   その治療法を媒介として、克服され、生命の本来完全なる姿が
   自覚されるか否かによって決定するのである。

   真の完全なる治療は、ただ生命の自性円満なる相(すがた)が
   実現することによってのみ可能であって、それ以外の治癒は結局、
   一つの迷いの信念を或る方法によって克服したことに過ぎない。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

            <感謝合掌 平成30年8月3日 頓首再拝>

癒しと云うのは神の創造の顕現 - 伝統

2018/08/04 (Sat) 04:33:12


      *「光明道中記」(8月4日 常に神を憶う日)より抜粋

【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを知らねばならぬ。
恐れることはひとつもあり得ないのである。

われは神と偕であるからである。

神はすべてのところにましますが故に
その癒しもすべてのところにましますのである。

癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、
これはただ病気をみとめている人々に対してのみ言うところの
方便的語(ことば)に過ぎないのである。

癒しと云うのは神の創造の顕現であり、
神の完徳(まったきとく)が現象世界面に
あらわれて来ることに過ぎないのである。

だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。

不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。

            <感謝合掌 平成30年8月4日 頓首再拝>

「宇宙の知性」に委ねる - 伝統

2018/08/11 (Sat) 04:28:54


       *「光明法語」(8月11日 宇宙の知性と人間との関係)より

兎も角、宇宙すべての物の背後に宇宙の知性(法則)が存在する事が分った筈である。
この宇宙の知性を神と言う。

では、宇宙の知性と「人間」との関係や如何と云う問題になる。
この問題を解決すれば、人間の病気や不幸の問題も解決される事になるのである。

そんなにも微妙な構造の人体諸器官の組織を造った宇宙の知性が、何故、
現在吾々の肉体の諸器官の欠陥を治す事ができないか。そんな筈がない。

それが治らないのは、「宇宙の知性」に吾々が委ねないからではないか。

            <感謝合掌 平成30年8月11日 頓首再拝>

自分の心を元気すると、人を癒やすことができます - 伝統

2018/09/03 (Mon) 04:40:08


       *「だいじょうぶ!「幸せの神様」が微笑んでいる」
          伊勢白山道(著) (P89~91)より


身内の病気などを心配して、自分の心を痛めている人も多いでしょう。

心配することによって身内の病気が治るのならば、
いくらでも心配すれば良いのですが、
実際は自分の健康も損なう難題を増やすだけです。

病気とは、心の状態のひとつの「結果」です。
起こってしまった結果に対する対処方法が現代医学です。

この対処方法=現代医学は、大きく進歩してきました。
しかし、病気が発生した根本原因の解明については、
何も進歩していないのが現状です。

進歩どころか、着目もされていないのです。

結局、生命が「なぜ」発生するのかという領域の問題だからでしょう。
目には見えない「心」が科学的に解明されれば、一見、
全く関係がないと思われる宇宙のことも解明されます。


結局、宇宙には「心」はひとつしかないのです。
あなたの心も、私もまったく同じひとつのものです。

人間同士、相手の心の痛みがわかるのは、
自分に置き換えて考えてみるという想像力ではありません。
私たちの心が、共有する同じひとつの心だからこそわかるのです。

家族が病んでいる、知り合いが病んでいるとします。
これを知るあなたは、その病気の人と心同士が近い場所にいるのです。

だから、あなたが心を元気にすれば、その人を癒すことが可能です。
あなたは真のヒーラーになれるのです。

いい年をした子どもが心を病んでいる場合、
親はともに将来を悲観するのではなく、子どもへの思いやりを持ちながら
「親自身の人生の楽しみ、元気に生きる」ほうが子どものためになります。

苦しんでいる子どもも、親が元気ならば口では非難をしても、
心の奥では安心感を持つものです。

元気な人は、周りの人を改善させることができます。

            <感謝合掌 平成30年9月3日 頓首再拝>

《愛するあまり恐怖するのはいけない》 - 伝統

2018/09/25 (Tue) 04:57:06


          *『人生の秘訣365章』第8篇(P207~208) より

若しあなたの愛する人が病気になった場合、その人を愛するあまり、
その病気を恐怖するならば、病気の「想念の雲」を心で掴んで
繋ぎ留めておくことになり、その病気の恢復をおくらせることになるのである。

その病人が、祈ってあげても治らないのは、
「病気を《あり》」として恐怖しているからなのである。

病人を病院に入れ、同病棟内の病人たちの悲観の雰囲気の中に入れておく場合には、
折角の“神癒の祈り”も、病棟内にこもる悲観の雰囲気の暗雲に遮られて、
その恢復がはかばかしくないことが往々あるのである。

すべての病院が暗い雰囲気をもっているというのではない。

最近ある週刊誌を読んでいると、

その病院では、患者に音楽をきかせたり、何か楽しい嬉しい話で、
患者の気分をひき立たせるようにして治病の成績を挙げている

ということであった。

          <感謝合掌 平成30年9月25日 頓首再拝>

眼の神癒 - 伝統

2018/10/10 (Wed) 04:38:59


今日、10月10日は「目の愛護デー」です。

       *(『白鳩』誌 昭和27年12月号 巻頭言)より

昭和二十七年十月五日、埼玉県浦和市の講習会で

私は子供の状態は父母その他近親にゐる保護者の心境が反映してあらわれるものであるから、
保護者たるものは、たとい子供の現象状態にどんな不完全な形があらわれてゐようとも、
現象を本当にあると思って、それに心を執して、心の底に『不完全』を《ある》として
歎いてはならないのである。

現象にどんな不完全な形態があらわれてゐてさえも、
それはただ『心の影』として気にかけず、
『實相』の完全さのみを一心に心の眼でみつめるようにすると、

『観ることは創造することである』と云う原理に従って、
観る通りに、實相の『完全さ』のみがあらわれて、
不完全さは消えて了うと云う法話をしました。

すると、体験談発表の時間になって、埼玉県秩父郡荒川村の上林照太郎と云う人が起ち上って、
次のような話をされたのであります。

『自分の孫の〃もとえ〃は生れ出たときに驚いたことに両眼がないのであります。
荒木眼科へ行って相談すると、今は分娩後間もないからメスで切ることは出来ないけれども、
百日もしたら眼のところをメスで切って見ましょうと院長は云われました。

しかし私は、随分長い間の生長の家の誌友でありますから、
『甘露の法雨』を読誦すると共に、

『人間は神の子であるから、神が両眼のないような不完全な人間を造り給う筈がない』と、
その嬰児を抱いて神想観をし、両眼のそろってゐる完全な孫の姿を一心に、毎日毎日念ずる
ようにしました。

すると眼が自然に出来て来て、百日目にはその目があいたのであります。
今はもう完全に両眼が見えて、瞳の黒が少し小さいように見えるが、
他所の子供たちと愉快そうに遊んでゐるのであります。』 

と破天荒な体験談をせられたのであります。


長崎市外崎戸炭鉱の対う側にある大島の大前文子さんが生れた時には『白眼』のみあって
黒瞳がなく、盲唖学校で点字を習い、点字によって『甘露の法雨』を毎日読んでゐると
或る日、白眼の中央部から黒瞳が発生して来て突然見えだした』 

と云う奇蹟と一対をなす奇蹟であります。


『甘露の法雨』の功徳もさることながら、
現実に『眼のない子供』を『完全な眼がある神の子』として
その完全な相を毎日心に凝視して、ついにそれを実現せしめた上林照太郎さんの定力も
亦まことに素晴らしいではありませんか。

この事実に比ぶれば他の軽い病気や、子供の悪い癖などを、
『實相』の圓萬さ〃のみ〃を観じて癒してしまうなどのことは
いと容易いと云わねばなりません。

          <感謝合掌 平成30年10月10日 頓首再拝>

宇宙の大自療力 - 伝統

2018/10/12 (Fri) 03:21:30


       *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月12日>(P98)より

宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。

どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)ってもしばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、それを浄(きよ)らかな澄みきった
海水に変化する力、皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちている
のである。

しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。

それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。

           <感謝合掌 平成30年10月12日 頓首再拝>

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