伝統板・第二

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神の栄え - 伝統

2017/09/19 (Tue) 04:40:08

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月19日)より

《もの》および人を役に立つように利用するということは、
内在の神の愛を、顕在(あらわれ)の世界にもち来たらすことである。

神の愛を《あらわれ》の世界に持ち来たらすことなしに、
神の栄えはあらわれないのである。

神の栄えがあらわれのが、本当の人間の繁昌であるから、
神の愛をあらわれの世界に持ち来たらしさえするならば
人間は繁栄するほかはないのである。

だから物を役に立つよう、人を役に立つよう使っていさえすれば
未来の取り越し苦労などは不要なのである。

「貪欲(とんよく)」ということと、「物を大切にすること」とはちがうのである。
「貪欲」は自己の貧しさを恐怖して、むやみに自分に物を引きつけておきたいのである。

「物を大切にする」とはその物の内在の力を引き出すようにつとめることである。

             <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

《神の栄光を唱え、更に感謝し、群衆の信念に協力せしむ》 - 伝統

2017/10/04 (Wed) 04:52:24


          *『 生長の家 』(昭和46年10月25日の法語)より

   兎(と)も角(かく)、祈るに先立って、
   神の栄光をあらわす言葉を唱えることが大切で、

   イエスは

   「 われ汝に、もし信ぜば神の栄光を見んと言いしにあらずや 」

   と言い、

   次に 「 父よ、我にきき給いしを謝す 」 と、神に感謝し、

   更に断定的な語(ことば)をもって

   「 常にきき給うを知る 」 と断定して、

   群衆も、 「 そら、必ず奇蹟が起るぞ 」 という信念で

   イエスの祈りを見詰めさせているところに注意したいのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

             <感謝合掌 平成29年10月4日 頓首再拝>

《神の栄光は斯く受けよ》 - 伝統

2017/10/20 (Fri) 03:33:59


        *『 生長の家 』(昭和26年2月9日の法語)より 

   神より来る栄光を受けようとのみ
   受動的に待ちかまえるだけでは足りないのである。

   「 待つ 」 と云うことは必ずしも静(じっ)としていること
   ではないのである。

   神の子らしく愛を行ずること、
   神の子らしく清く正しく生きるべく努力すること、
   その行と努力そのものが神の栄光に波長を合わすことになるのである。

   そして一方には、
   喜ぶこと、心を明るくすること、
   その他 自分の知り得た光明生活法を実践すること、

   現在受けている凡ゆる恵福を、
   どんな小さな事でも思い出して感謝すること、
  
   これらはいずれも神の栄光を受信するための受入態勢であるのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/21ff78f4d8370a32324d492ad3ecd16e

             <感謝合掌 平成29年10月20日 頓首再拝>

神の栄えをあらわすには、先ず自分の有てるものを人類に捧げる - 伝統

2017/11/04 (Sat) 03:40:59


       *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P218) より

《賢い与え方》

あなたは寛大に人々をゆるし、人々に先ず裕かに与えることによって、
神からも豊かに愛と生命とを与えられるのである。

あなたの持てる能力の全部を捧げて人類のために尽くすが良い。

あなたの能力、物資、時間、心身のエネルギー、
それらは本来、神から来ったものであるから、
神の栄えをあらわすために、人類に捧げなければならない。

神の栄えをあらわするために、先ず自分の有てるものを捧げることが、
自己が健康になり、また富むことの主要原因であるのである。

 
併し、何時、如何に、何に、誰に、何処に与えるかが問題である。
それを知るためには、先ず充分神に祈って、神からの叡智の流れを汲み取って、
その智慧に導かれて与えなければならないのである。

「神よ、わたしの有てる全てのものを
何時、如何に、何に、何処に、誰に与えるべきかを教えたまえ」

と祈ることは、賢命なる与え方をするために必要である。

             <感謝合掌 平成29年11月4日 頓首再拝>

《苦痛を 「 罪 」 と思うな、栄光発現の好機と観ぜよ》 - 伝統

2017/11/19 (Sun) 04:50:02


         *『 生長の家 』(昭和26年2月11日の法語)より

   ヨハネ伝第九章に
    「 この人の盲目にて生れしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか 」 と

   弟子がたずねたのに対して
    「 神の業のあらわれんがためなり 」 と
   イエスは注目すべき答をなしている。

   吾々の苦痛は、内在無限の神力を発揮せんがための重圧であるのである。

   偉(おお)いなる病苦に悩む人が、その内在の力を発揮していることは
   同じような病苦に悩む人にとっても
   偉大なる励ましとなり慰めとなるのである。

   両手両脚なくして炊事も洗濯も裁縫もなし得る中村久子女史や、
   盲聾唖の三重苦のヘレン・ケラーが普通よりも一層魂の眼がひらいて
   人々を指導し得る事実を見るとき

   多くの人は希望を持つのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ff5b4e3a7ec5097f6e770c88263ae9c8

                 ・・・


   <参考>

   ヘレン・ケラー

    (1)“本流宣言”掲示板「「奇跡の人」ヘレンケラー (2955)」
       → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=582

    (2)光明掲示板・第一「【奇跡の人の日】 (9517)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1805 (消滅)

    (3)光明掲示板・第二「奇跡の人 (5038)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1043

    (4)伝統板・第二「奇跡の人」
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6524424


            <感謝合掌 平成29年11月19日 頓首再拝>

神にすべての栄えを帰すること - 伝統

2017/12/08 (Fri) 04:00:28


       *「真理」第9巻生活篇(P278)より

私たちのすべての能力は神からの授かりものであって、
神無くしては私たちは何事をも成すことはできないのである。

自分の力だ、自分の力だと思っているところの簡単な手を挙げ足を運ぶ動作でさえも、
わが内にやどる神の力によって行われるのである。

併し、今よりも一層大いなる力を発揮しようと思ったならば、私たちは無我になって、
もっと神に協力するようにしなければならないのである。

何事が成されたにせよ、常に《自分の力》でこれが成されたと思い上がっている
限りに於いて、その人は神の力を否定しているのである。

モーセが一族をつれて砂漠を旅行しているとき一同の者がの渇(のどかわ)いて
水をもとめたので、モーセは「我れこの岩より水を噴出せしめん」と言って
杖をもって岩を衝(つ)くと清水(しみず)が噴出した。

その時エホバ神はモーセに「なんじ我(神)をあらわざりしにより
約束の地に入(い)ることを得ず」と宣(の)り給うた。

            <感謝合掌 平成29年12月8日 頓首再拝>

《私のために奇蹟を求むな》 - 伝統

2017/12/11 (Mon) 04:27:55


          *「光明法語」(12月11日)より

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

            <感謝合掌 平成29年12月11日 頓首再拝>

栄光を見る日 - 伝統

2018/03/01 (Thu) 04:50:50


           *「光明道中記」(3月1日)より

【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
                           (『生命の實相』第七巻)】

人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。

「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、
人の欲によらず、
ただ神により生まれしなり。言(ことば)は肉体となりて、我らの中に宿り給えり
我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)

その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを肉欲によりて生れたる者と観ず、われをただ神によりて生れたと観るのである。

単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。

そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ
霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。

観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、観られる人間との貌(すがた)が変る。
「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して栄光を見る心になるのが
悔(くい)改めである。
 
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」(『ヨハネ伝』第一章)
栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何ものもない。
されど暗黒は之を悟らないのである。

人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。

            <感謝合掌 平成30年3月1日 頓首再拝>

すべてを神の栄光に帰すること - 伝統

2018/04/04 (Wed) 03:43:09


         *「如意自在の生活365章」(P158)より

”わが業(わざ)はわが為すに非ず
天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の権能(ちから)”と
招神歌(かみよびうた)にあるように、

本当は”わが業”というものは本来存在しないのである。

わたしたちは、この世に”生”を享(う)けることを「生まれた」という
受身的な語(ことば)をもって表現するのである。

自分が自分の力で生きているように見えているけれども、
自分の力で生きているのではなく、生かされているのである。

わたしたちは神によって生まれ、神によって生かされ、
神によってその存在を支えられ、神の計画によって導かれているのである。

そして神の生命を宿しうまれて、神がわが内(うち)に在りて、
われを通して考え、意志し、計画し、行動していたまうのである。

いかなる善き事をわたしがなそうとも、
それは神に栄光を帰すべきものであって
人間に栄光を帰してはならないのである。

ときどき、”こんなに神様のために、
人類光明化のために尽くしてやっているのに、
本部は冷淡で会ってわたしに褒賞を与えない”

などと訴えた投書が来ることがあるけれども、

「わたしが、神さまののために尽くしている」などという考え方は
全くナンセンスであるのである。

神が神のために尽くしているのであって、
「わたしが・・・」などというものはどこにもないのである。

            <感謝合掌 平成30年4月4日 頓首再拝>

ただ神の御栄えのためのみに - 伝統

2018/11/22 (Thu) 05:05:03


        *「真理」第9巻生活篇(P397)より

何事をなすにしても、今後必ず、神のために、神の御栄えのみのために、
神の愛を実現せんがために、神の智慧をあらわさんがためにのみ是を為せ。

目的のために手段を選ばないのは可けない。

神の御栄えをあらわすには、それに相応しい聖なる手段に
よらなければならないのである。

だから宗教は聖なる浄財によって支えられなければならない。
ケレンや詐謀(さぼう)があってはならない。

神の御栄えのために捧げたいと云う純情なる供養の財によって
支えられなければならない。

割り戻しや口銭(こうせん)が手に入るから信者を集めると云うような
保険会社の勧誘員のような考えで信者や会員を募集してはならない。

            <感謝合掌 平成30年11月22日 頓首再拝>

神の栄光をあらわすところの奇蹟 - 伝統

2018/12/11 (Tue) 04:07:27


        *「光明法語」(12月11日《私のために奇蹟を求むな》)より

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

            <感謝合掌 平成30年12月11日 頓首再拝>

すべては神の恩寵である - 伝統

2018/12/28 (Fri) 04:53:21


        *「真理」第9巻生活篇(P398~399)より

『生命の實相』を読んで”病気本来無し”と
豁然と悟りをひらいて病気の治る人もある。

しかしそれを、自分が偉いので自分の力で悟りをひらいたのだと
高慢な心を起こしてはならないのである。

神の恩寵なければ人は何事も為し得ないのであり、
『生命の實相』も、神が人を救いたまう道具として書かしめられたのであり、
その人の”真理を悟る力も神が与えたまうたのである。

何処(どこ)にも人間だけの力で為し得るところのものは存在しないのである。
神の恩寵を自覚しない人のみが、自力で何でも出来るなどと
高慢な考えを起すのである。

高慢な心を起こしたところが、恰(あたか)もパイプの中の沈殿物のように、
神の恩寵の流入を不完全にするのである。

高慢な心を捨てることである。
無我になって神に無条件降伏したときのみ、
神の恩寵は一層ハッキリあらわれるのである。

            <感謝合掌 平成30年12月28日 頓首再拝>

神の栄光をあらわす奇蹟 - 伝統

2019/12/11 (Wed) 04:41:35


    *「光明法語」(12月11日《私のために奇蹟を求むな》)より

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

         <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝> 

栄光を見る日 - 伝統

2020/03/01 (Sun) 04:46:22


           *「光明道中記」(3月1日)より

【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
                      (『生命の實相』第七巻)】

人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。

「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、
人の欲によらず、ただ神により生まれしなり。
言(ことば)は肉体となりて、我らの中に宿り給えり
我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)

その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを肉欲によりて生れたる者と観ず、
われをただ神によりて生れたと観るのである。

単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。

そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ
霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。

観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、
観られる人間との貌(すがた)が変る。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して
栄光を見る心になるのが悔(くい)改めである。
 
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」
                    (『ヨハネ伝』第一章)

栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何ものもない。
されど暗黒は之を悟らないのである。

人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。

         <感謝合掌 令和2年3月1日 頓首再拝> 

栄えを神に帰する - 伝統

2020/06/28 (Sun) 03:57:44


        *「光明道中記」 (6月28日《審判(さば)き心を捨つる日》)

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

         <感謝合掌 令和2年6月28日 頓首再拝> 

《ただ神の御栄えのためのみに》 - 伝統

2020/07/14 (Tue) 04:48:52


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P397)より

何事をなすにしても、今後必ず、神のために、神の御栄えのみのために、
神の愛を実現せんがために、神の智慧をあらわさんがためにのみ是を為せ。

目的のために手段を選ばないのは可けない。

神の御栄えをあらわすには、それに相応しい聖なる手段に
よらなければならないのである。

だから宗教は聖なる浄財によって支えられなければならない。
ケレンや詐謀(さぼう)があってはならない。

神の御栄えのために捧げたいと云う純情なる供養の財によって
支えられなければならない。

割り戻しや口銭(こうせん)が手に入るから信者を集めると云うような
保険会社の勧誘員のような考えで信者や会員を募集してはならない。

         <感謝合掌 令和2年7月14日 頓首再拝> 

《私のために奇蹟を求むな》 - 伝統

2020/12/11 (Fri) 04:38:29


        *「光明法語」(12月11日)より

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

         <感謝合掌 令和2年12月11日 頓首再拝> 

癒された人は、神の栄えを現さねばならぬ - 伝統

2021/01/04 (Mon) 04:32:08


     *『生長の家』誌 昭和36年9月号
      (指導者特別詳密教修会 速記録)

皆さんのうち誰でも病気が癒されるのは、
自分が神を利用して助かるために癒されたのではなく、
神様の栄えを現さんが為に神様が奇蹟を演じたまうたのであります。 

それを自分だけが治ったらそれを隠して置いて、自分だけ得を取って、
人に功徳を施さないで、 「恩返しに教を伝えましょう」 
と云う心を起さないのは、又逆戻りするのであります。

奇蹟が起るのは、神の栄えを現す為に神様を知らないような人に 
“私は斯う云う体験がある” と体験によって神様を指し示す為に、
そういう奇蹟というものが出て来る訳であります。 

神様はこんな肉体みたいなものを治してみたってつまらんと考えておられる。

それは肉体をいくら治して置いたとて、
何百年も保つものではないのであって、
どうせ今は治っても腐ってしまうもんですから、

そんなに治してみたってつまらん ―― という事になるんだけれども、
神様はその肉体の奥にある其の人の魂を向上せしめたいというわけで、
その機会を与えるために病気を治し、 

“神の存在を知らしめたい” というのが、
これが神様の願いであるのであります。

それですから、癒された人はその栄えを神に帰して、
神様の道を弘めようとする時に、
その治りが更に色々の経済的な状態にまで発展して行って
豊かになるという事になるのであります。 

だから生長の家講師たる者は、一時的に病気が治って、
あとから又再発するような治し方をしてはならない。


本当の癒しというものは、
単に肉体の一部が病気が癒されるだけではなく、
人間全体が全面的に癒されなければならない。 

病気だけが癒された結果、身体が丈夫になったから神様が太くなって、
どんな悪いことも平気で出来るとか、恩を忘れて利己主義者に
なるよな導き方をしてはならない。 

肉体だけでなく、心も魂も癒されるように導いてあげなければ、
本当の導き方にはならないのです。

治して貰っておいて、あちらを向いて “さよなら” 
というように導いたら、それは人間を恩知らずに導いたのであって、
それは魂の上から言うと却って悪く導いたという事になるのであります。

だから皆さんは折角この教えを伝えるときには、
その伝えられた人が必ず少なくとも十人には伝える
というように導いて頂きたいのであります。 

誰でも十人位は勧め易い近親者や友人があるでしょ。 
生命保険でも外交員になったらですね、
最初は誰でも親類の人や、知人の人に頼んではいってもらって、
責任契約額を果すのであって、それから後は、
その人の熱意と手腕とにあると言われています。 

生命保険でさえもそうでしょう。 
そうすれば人を救ける、真に生き甲斐を与える生長の家の教えは、
一人が十人位に伝える位の事くらい何でもない易しいことだ
と私は思うのであります。 

こうして一人が十人に伝えたら、十人のうちの一人や二人位は
本当に又真剣になり、本当に神から与えられた使命を自覚して、
神様の為に伝道しようという人が出来て来るに相違ないのであります。 

そうすれば本当に真剣に真理を伝える人が次第に倍加倍加して行って、
ついに人類全体を光明化することも可能となるのであります。

だから、肉体を癒すことだけを主眼にしないで、魂を救い、
それによって神の栄えを現す人数を倍加、倍加していって頂きたい
のであります。

http://predictional46.rssing.com/chan-21595050/all_p14.html
November 27, 2013, 4:45 pm

         <感謝合掌 令和3年1月4日 頓首再拝> 

栄光を見る日 - 伝統

2021/03/01 (Mon) 03:33:47


           *「光明道中記」(3月1日)より

【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
                    (『生命の實相』第七巻)】

人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。

「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、
 人の欲によらず、
 ただ神により生まれしなり。言(ことば)は肉体となりて、
 我らの中に宿り給えり我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)

その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを肉欲によりて生れたる者と観ず、
われをただ神によりて生れたと観るのである。

単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。

そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ
霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。

観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、
観られる人間との貌(すがた)が変る。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して
栄光を見る心になるのが悔(くい)改めである。
 
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」
                   (『ヨハネ伝』第一章)

栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何ものもない。
されど暗黒は之を悟らないのである。

人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。

         <感謝合掌 令和3年3月1日 頓首再拝> 

《私のために奇蹟を求むな》 - 伝統

2021/12/11 (Sat) 04:53:42


        *「光明法語」(12月11日)より

キリストの奇蹟は預言や透視や治病のほかに
水を葡萄酒に変じた物理的心霊現象(「ヨハネ伝」第二章)さえも起したのである。

日本にも孝子が瀧の水を汲んで父に与えたとき、
それが酒に変じていたと云うごとき養老の瀧の奇蹟もある。

しかしこれらの奇蹟は、神を試みるための奇蹟でもなく、
自己を誇らんがための奇蹟でもなく、
神の栄光をあらわすところの奇蹟である。

それは私的な求めによる奇蹟ではなく、公なる内部要請に基づく奇蹟なのである。
真に公なる愛に基づく祈りが起こるならば更に一層大なる奇蹟を見るであろう。

         <感謝合掌 令和3年12月11日 頓首再拝> 

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