伝統板・第二

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乃木希典 - 夕刻版

2017/09/13 (Wed) 20:09:32

今日(9月13日)は、
乃木希典将軍と妻静子夫人は明治帝に殉じて自刃を遂げられた日です。

・・・

          *Web「乃木神社」より抜粋

大正元年(1912)9月13日、
この日は国民が明治天皇と最後のお別れをする御大葬の日です。


午前8時、乃木将軍と静子夫人は記念写真を撮り、9時宮中に参内。

午後は自宅で地方から来た多くの客と過ごしました。

そして午後8時、桜田門外の近衛砲兵隊の弔砲を合図に寺の鐘が一斉に鳴り響きました。

この時乃木将軍御夫妻は明治天皇の後を追って亡くなったのです。


乃木将軍64歳、静子夫人54歳。

・・・

【 乃木希典将軍の名言集 】


(1)口を結べ。
   口を開いて居るような人間は心にもしまりがない。

(2)勉強忍耐は、才力智徳の種子なり。

(3)恥を知れ。
   道に外れた事をして恥を知らないものは禽獣(きんじゅう)に劣る。

   一時に怯懦の心を発作して、終身の恥辱を帯ぶる勿かれ。

(4)決して贅沢するな。
   贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。

(5)人に教ゆるに、行を以てし、言を以てせず、事を以てせず。

(6)武士道とは、身を殺して仁をなすものである。
   武士道というのは、身を殺して仁をなすものである。

   社会主義は平等を愛するというが、
   武士道は自分を犠牲にして人を助けるものであるから、
   社会主義より上である。

   武士道は言葉ではない。

(7)「うつし世を 神去りましゝ 大君の みあと志たひて 我はゆくなり」

   [辞世の句]
   [解]この世からかけがえのない尊い神がお隠れになってしまいました。
     我が神であられる明治大帝の御威徳をお慕い申し上げて、
     私もお供いたします。

   (http://medicines.aquaorbis.net/meigen/nippon/busyo-j/nogimaresuke

・・・

<参考Web>

(1)「明治天皇と乃木希典」については、

   「本流宣言掲示板」~「明治天皇崩御100年」の子記事

   「打算なき武士(乃木希典)に皇孫の教導を託す (11681) 2012年07月28日」

   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=2583  (消滅)


(2)「光明掲示板・第一」~「乃木大将今昔」(by ”童子 さま”)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=999  (消滅)


(3)「光明掲示板・第二」~「乃木希典将軍 (594)」

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=186


(4)「光明掲示板・第二」~Father Nogi 

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=196


(5)「光明掲示板・第二」~昭和天皇をお育てした乃木大将 

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=221 


(6)「光明掲示板・第二」~乃木大将の「みあとしたひて」

   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=239


(7)「光明掲示板・第三」~乃木希典大将 (275)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=93


(8)伝統板・第二「乃木将軍」

   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6593931

           <感謝合掌 平成29年9月13日 頓首再拝>

明治天皇と乃木将軍 - 伝統

2017/09/14 (Thu) 18:06:41


       *Web:「『美しい日本』ものがたり」より


《涙の凱旋―愧ず我何の顔ありや》


乃木は戦後、次の漢詩を詠んだ。

  皇(こう)師(し)百万強(きよう)虜(りよ)を征す
  野戦攻城屍(しかばね)山を作(な)す
  愧(は)ず我何の顔(かんばせ)あって父(ふ)老(ろう)に看(まみ)えん
  凱(がい)歌(か)今(こん)日(にち)幾人か還(かえ)る

乃木は明治有数の漢詩人の一人だが、この詩は最もよく知られた代表的なものである。

乃木の第三軍は満洲軍各軍中最大の死傷者を出した。
勝利したとはいえ乃木はこれを最も遺憾として、出来得るならば
二人の息子とともに戦死したかった。

戦死した部下将兵の親たちに合わせる顔がないとして
生きて還ることを心から恥じたのである。

そこには日露戦争の奇跡的勝利をもたらした比類なき軍功に対する誇りは微塵もない。

明治三十九年一月十四日、乃木は第三軍幕僚とともに新橋駅に着いた。
凱旋した乃木に対する歓迎は大山巖満洲軍総司令官、
東郷平八郎連合艦隊司令長官の時を上回る最大のもので、
駅から宮城までの道は人々で満ちあふれた。

父老に合わす顔がないと己れを責める乃木を帝都の市民は
あたかもわが老父のごとく出迎え、乃木が駅頭に姿を表すと、
雲集した人々は涙とともに声の限り「乃木大将万歳」を絶叫した。


東京市民の子弟は第一師団に属したから、みな第三軍の乃木の部下である。
市民の多くがその子弟を旅順と奉天で失ったが、
この時誰一人として乃木を怨む者はなかった。

乃木と第三軍こそ日露戦争最大の殊勲者であり、
子弟たちの死が決して無駄ではなかったからである。当

時市民の間で交わされた言葉がある。

「一人息子と泣いてはすまぬ。二人なくした方もある」

 
このあと乃木は皇居に参内、明治天皇に復命した。
大山総司令官はじめ各軍司令官はそろって、御稜威(みいつ)
(天皇が具え持つ清らかで徳のある威光)の下に各戦闘において
奮戦、勝利し得たことを奏上するのである。

 
ところが一人乃木は旅順戦において莫大な犠牲を出したことに言及、

「我が将(しよう)卒(そつ)の常に勁(けい)敵(てき)(強敵)と健闘し、
忠勇義烈死を視(み)ること帰するが如く弾に斃(たお)れ剣に殪(たお)るる者皆、
陛下の万歳を喚呼して欣(きん)然(ぜん)と瞑目したるは、
臣(しん)これを伏奏せざらんと欲するも能(あた)わず」

と述べるに至り、熱涙滂沱(ぼうだ)と下りついにむせび泣いた。

明治天皇の目にも涙があふれた。
奏上後、天皇は乃木及び第三軍の忠節と殊功を篤く嘉賞した。

その直後乃木は、陛下の忠良なる将校士卒を多く旅順で失わしめたことを
自らの重大な責任として、割腹して謝罪する許しを請うた。

あまりの申し出に、明治天皇はしばし無言であったが、
乃木が退出しようとした時、呼びとめてこう答えた。

「卿(きよう)(乃木)が割腹して朕(ちん)に謝せんとする衷情は、朕よくこれを知る。
然れども今は卿の死すべき時にあらず。卿もし強いて死せんとするならば、
朕世を去りたる後にせよ」

乃木は涙とともにお言葉を受け留めた。

乃木こそ東郷平八郎とともに対露戦争最高の殊勲者であるにもかかわらず、
その大功を措(お)いて、自らの指揮下で多くの将兵が戦歿したことを愧(は)じ、
自己を責め、遂に割腹して天皇と老親たちに詫びたのである。

このような軍将が世界のどこにいるだろうか。
かつて戦いの歴史にあったろうか。

明治天皇はこの純忠無私、至誠の権化のような名将を誰よりも親愛し、
格段の心配りをしてやまなかった。

     (http://ironna.jp/article/4767?p=4

           <感謝合掌 平成29年9月14日 頓首再拝>

学習院初等学科学生に与えた訓示 - 伝統

2017/09/15 (Fri) 20:02:04

乃木大将が学習院院長の時に、学習院初等学科学生に与えた訓示。

      *Web:さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」(2010/12/12)より

(1)口を結べ。
   口を開いて居るような人間は心に締りがない。

(2)眼の注ぎ方に注意せよ。
   始終キョロキョロしているのは、心の定まらない証拠である。

(3)敬礼の時は先方をよく注視せよ。

(4)自分の家の紋所、家柄、先祖の事はよく聞いて忘れぬ様にして置け。
   先祖の祭は大切であるぞ。

(5)男子は男らしくしなくてはいかん。
   弁当の風呂敷でも、赤いのや美しい模様のあるのを喜ぶ様では駄目だ。

(6)決して贅沢するな。
   贅沢ほど人を馬鹿にするものはない。

(7)人力車には成るべく乗るな。
   家で人力車をよこしても乗らないで帰る様にせよ。

(8)寒中水で顔を洗うものは幾人あるか。湯で洗う様ではいかぬ。

(9)寒い時は暑いと思い、暑い時は寒いと思え。

(10)破れた着物を其の儘着て居るのは恥だが、
   そこを継ぎをして縫って着るのは決して恥ではない。
   いや恥どころではない。

(11)恥を知れ。
   道に外れた事をして恥を知らないものは禽獣に劣る。

(12)健康の時は無理の出来る様に体を鍛錬せよ。
   けれども一旦病気になったら医者の云う事をよく聞け。

(13)洋服や靴は大きく作れ。格好などかまうな。

(14)学習院の学生は成るだけ陸海軍人になれとは、陛下の御沙汰であるから、
   体の丈夫なものは成るべく軍人にならなければならぬ。
   けれども生まれつき体の弱い者もあり、又種々の事情でなれぬ者もあろう。

   是も仕方がないが、
   何になるにも御国のために役に立つ人にならなければならない。
   国のために役に立たない者、あるいは国の害になる様な人間は
   死んで仕舞った方がよいのである。

   ( http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/27530903.html )

           <感謝合掌 平成29年9月15日 頓首再拝>

乃木希典 ―― 軍服の聖者~その1 - 伝統

2017/09/17 (Sun) 19:34:22


       *Web:日本協議会理事長 多久善郎 ブログ(2011-04-06)より

軍旗喪失(西南戦争)数万将兵の犠牲(日露戦争)
その全てを背負って生きた「死に勝る苦悩」


乃木大将については、日露戦争の旅順の戦いや水師営の会見が有名だが、
日露戦争後に学習院院長に任じられ、裕仁親王(昭和天皇)を始めとする
三人の皇孫殿下の薫陶に当られた事についてはあまり知られていない。

「聖の帝」と称せられた昭和天皇の帝王学の基礎は、
乃木院長によって培われたと言って過言ではなく、
昭和天皇の御聖断によって昭和の日本が救われ平成の今日がある事を考えるなら、
乃木大将の遺徳は我々にも及んでいるのである。

だが、乃木大将の生涯を辿って行く時、そのあまりもの悲劇性に
胸が締め付けられる思いがする。

乃木希典という人物は、襲い来る悲劇から決して逃げる事無く、
その凡てを背負って、実直に至誠を尽くして生きて行かれたのである。


《山鹿素行・吉田松陰との深い縁》     

乃木希典は嘉永二年(1849)十一月十一日に江戸麻布日ヶ窪の
長府藩下屋敷に於て藩士乃木希次の三男として誕生した。

この長府藩邸は、「忠臣蔵」で有名な赤穂義士の内の十一名が討入り後に
預けられ、切腹して亡くなった所である。

その赤穂義士に影響を与えたのが、後に乃木大将が尊敬してやまなかった
山鹿素行である事を考えると、生誕地に基づく因縁の深さに驚かざるを得ない。

父親の希次は文武に優れた立派な士で、長州本藩の毛利敬親公から
歎賞の言葉を戴くほどであった。

だが、安政五年(1858)に希次は、その剛直さが仇となって老臣の怒りを買い、
江戸を追放され長府に戻された。希典十歳の時の事である。

十六歳の時、学問に対する已み難い思いから萩に至り
親戚の玉木文之進(吉田松陰の叔父)に学んだ。

そこで希典は、松陰の「士規七則」を徹底して叩き込まれた。
乃木大将は晩年長男勝典に送った書簡の中で次の様に回想している。


●余が青年時に於て大父君及び玉木先師の常に此七則を以て教へられし事を
 想起すれば今尚お其恩音に接するが如し。近時殊に少尉(長男勝典)が
 実践躬行を励まさる可からざるの緊要事たるを認む。
 情深くして筆に尽さず。唯此士規七則を熟読熟思熟行せんことを勉めよ。


乃木大将は「言行一致」を説く際も士規七則を引用した。

●言行一致は人の義徳であるが、義勇がなければ到底出来得ぬ。
 古人(松陰)の云たる、勇は義に因て長じ義は勇に因て行はる(士規七則の第三則)と。
 実に義勇の二つが言行一致の根本である。(『乃木大将武士道問答』掲載書簡)


明治2年(1869)21歳の乃木は藩命によって伏見の御親兵兵営に入営、
4年には陸軍少佐に任命される。8年に小倉の熊本鎮台歩兵第十四連隊長に任じられる。
10年に西南戦争が勃発、乃木連隊は熊本城の救援に向かい
田原坂で薩軍と死闘を繰り広げる。

その時、乃木の生涯を貫く痛恨の事件が起こった。
薩軍抜刀隊の夜襲を受けた乃木連隊麾下三個中隊は、
死傷者の続出により一時退却を決断し、連隊旗を旗手の腹に巻いて脱出を計らせた。

ところが、その旗手が薩軍に斃され、連隊旗が奪われたのである。
翌日、薩軍陣営の花岡山にはその連隊旗が掲げられ、
薩軍は熊本城兵を嘲弄したのだった。

乃木連隊長はその不名誉を詫びて切腹を計るが部下に推し留められ、
待罪書を出して処分を乞うた。
だが、征討総督本営は事情止むを得ない故に沙汰に及ばずと判断した。

その結果乃木は恥辱を背負って「死に勝る生の苦悩」に耐える事を運命づけられる。
乃木は死地を求めて戦場に出て奮闘し、足や手を撃ち抜かれて重傷を負うが、
遂に死には至らなかった。乃木28歳の時である。

鬱々たる思いの中で軍務に励む乃木は、30歳で薩摩の女性静子と結婚するが、
精神的な苦悶は乃木を飲酒・放蕩へと幻惑させた。

18年、乃木は37歳で陸軍少将・歩兵十一旅団長に任じられる。

           <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

軍服の聖者~その2 - 伝統

2017/09/18 (Mon) 18:05:43

乃木希典 ―― 軍服の聖者~その2

     「軍紀」は上位者に依って生ず―武士道体現の志

その様な乃木に生きる目標を自覚させる大いなる転機が訪れる。

十九年十一月三十日、乃木は川上操六少将と共にドイツ留学を命じられた。
それ迄日本陸軍はフランス式の教練を採用していたが、普仏戦争の結果に鑑み、
戦勝国ドイツ陸軍をモデルとする事にしたのである。

そこで乃木(長州)川上(薩摩)という陸軍の俊英に日本陸軍の将来を託すべく
ドイツへと派遣した。川上は作戦方面の参謀部を、乃木は軍政方面の教育部を託す
逸材だと考えたのである。二人は二十年一月に横浜を出港し、二十一年六月に帰朝した。

帰朝後乃木は陸軍当局に対し、心魂を傾けて記した長文の意見書を提出した。
乃木四十歳の時である。

その中で乃木は、「上流高等に居る者」の責任の重大さを指摘した。

●厳正なる軍紀の中に安んじ、自ら実務に堪へ、其当否を判別する(略)其言行、
 動作を部下の標準、模範と成し、己の得る処を以て部下を教育するの責任を
 負はざる可からず。下流の善美は上流の標準、模範に依て望むべし。


更に、軍隊の精神的基礎となる「徳義教育」は、欧州各国では宗教に基づくが、
宗教が力を失っているわが国では「皇統万世なる 今上陛下の威徳」を拠り所と
すべきであり、

●宜しく徳義と名誉を勧めて、全軍の軍紀を厳正にし、
 即ち我が陸軍の大元帥たる 天皇陛下の威武、仁徳を軍隊に拡充し、
 上下軍人に忠君愛国の念を固ふし、名誉を貴ぶの心を奨励し、
 之を全国臣民に普及し、尚武、名誉の志操を発達せしむる

事の重要性を説いている。

乃木は、プロシアが今日の精強に至ったのは、
「戦術編制の改良と、徳義を重んじ名誉を貴ばしむるの両途に」あると指摘する。

更に、乃木は、ドイツ軍人が「居住必ず其制服を脱せざる」のは、
その名誉を重んじる為である事を紹介し、

「唯に部下の模範となるべきのみならず、徳義、礼節一国社会の上流に立ちて、
一般の標準となる」使命が軍人にある事を強調した。


ドイツ留学から帰った乃木は、天皇の大御心を体し、
軍隊のみならず社会の徳義の模範となるべき使命を自任し、
生活の全てにおける謹厳さを自らに課したのである。

『乃木大将武士道問答』の中でも乃木大将は次の様に語っている。

●武士道は予等の宗教にして忠君を以て緯と為し本分を尽すを以て経と為し
 行ふに信義真実の心を以て(す)

●軍人が名誉を発揚せざるべからざるは大元帥陛下に尽し奉らんが為にして
 決して自己の栄達自己の幸福の為に非ず。

爾来乃木は、軍人勅諭で天皇が諭された
「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の徳目
及びそれらの元となる「誠心」を体現する「将軍」としての生き方を
生涯求め続けて行く。

           <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

軍服の聖者~その3 - 伝統

2017/09/19 (Tue) 17:35:02

乃木希典 ―― 軍服の聖者~その3

    日露戦争の犠牲を背負うて

二十七年、日清戦争が勃発、乃木少将は歩兵第一旅団長として旅順要塞を攻撃し
一日で陥落させるなど様々な武勲を揚げた。

二十八年には中将に昇進し歩兵第二師団長に任じられ、
日清講和後の台湾平定作戦の救援に赴き平定する。

二十九年十月、乃木は第三代台湾総督に任命される。
だが謹厳潔白な乃木総督の施政方針は、日本人官吏との軋轢を生み、
曽根静夫民政局長と事毎に対立し、外国権益接収問題等で中央政府とも対立し、
三十一年二月に台湾総督を免職となった。

七ヶ月の休職の後、新設第十一師団長に任じられ、
乃木は自らの信念を麾下将兵に教育訓練する格好の場を得た。

しかし、三十四年五月、前年の北清事変出征時に起こった「馬蹄銀分捕事件」関し、
麾下大隊将校にもその嫌疑がかけられた事を深く恥じた乃木は、辞表を提出し休職となる。

乃木は東京と那須野の別邸とを往復しつつ晴耕雨読の生活を送った。
だが、休職中でも乃木は大演習には必ず参加した。

明治天皇は、

「乃木は他のものと心掛けが違っておる。
多くの者は休職になるとか、予後備に編入されれば
遠くで挙行する演習地には出かけぬ。

出かけてもただ後方にあるのみであるが、
乃木のみは決して左様でなく、いかなる遠い場所にでも必ず来ておる。

来ておるのみでなく、
士卒と労苦をともにしていつでも第一線にあって視察しておる。」

と側近の者に仰られたという。


●大君の今日みそなはすいくさだち人もいさめり駒もいさめり
  (三十五年十一月九州大演習の時の歌か)

この間、ロシアは満州を占領し、朝鮮半島にもその魔手を伸ばし、
遂にわが国は国運を賭して日露戦争を決断した。
休職中の乃木にも再び重い任務が命じられる事となった。

●花を待つ身にしあらねど高麗の海に春風ふけといのるものかな
  (日露戦役出征前、留守近衛師団長時)

●此侭に朽もはつべき埋木の花咲春に逢ふぞ芽出たき(三十七年四月四日)

三十七年五月二日、乃木は第三軍司令官に任じられ、六月には陸軍大将に昇任した。

その十日ほど前、広島で出港を待つ乃木の下に、
金州に於ける長男勝典戦死の報がもたらされた。

大連上陸後金州の戦場で乃木大将は漢詩を詠んだ。

●山川草木転た荒涼 十里腥し新戦場 
征馬前まず人は語らず 金州城外斜陽に立つ

第三軍の任務はロシアが構築している旅順要塞の攻略だった。

日本陸軍は当初、旅順の露兵は封じ込めたままで、
満州広野での決戦に臨むという戦術で、
旅順要塞攻略に関する研究は練られていなかった。

だが、海軍からの要請で旅順港内に逃避している露国旅順艦隊撃滅の為に、
陸上からの旅順攻略が決定したのだった。
国民の視線は乃木第三軍に集り、しかも日清戦争時の体験から
直ぐに攻略出来るものと期待した。

だが、ロシアは難攻不落の要塞を築いて居り、日本軍の前に立ち塞がった。
八月に行われた第一回総攻撃は、日清戦争を踏襲する五万名余の野戦的強襲で
攻撃し、戦死五〇一七名・戦傷一〇八四三名の犠牲を払うが失敗に帰した
(ロシア側は戦死約一五〇〇名・戦傷約四五〇〇名)。

この失敗から、第三軍は急遽攻城正攻法を研究し、
要塞近くまで壕を掘って近づいて攻撃する戦法に変更した。

又、28サンチ砲を投入して火力の破壊力を増大させた。
かくて十月下旬第二回総攻撃が四万四千名で行われ、
戦死一〇九二名、戦傷二七八二名に達したが、
一戸堡塁の占拠以外に戦果は無く、再び失敗に帰した。

だが、ロシア側も戦死六一六名・戦傷四四五三名に達し、損害人数では日露が逆転した。


十一月中旬に明治天皇から三回目の優詔が下り、
「成功ヲ望ム情、甚ダ切ナリ」とあった。

乃木大将は「将卒一致、深ク、聖旨ヲ奉戴シ、誓テ、速カニ、
軍ノ任務ヲ遂行センコトヲ期ス」と奉答した。

横山達三『大将 乃木』には乃木大将の事を

「敵塞突撃の前、必ず大隊長以上の将校は、一々、之を招きて、
別々に重任を託し、『何卒、宜しく頼む』と手を下げて、極めて丁寧にいふ。
彼の部下たる者、此に至って、感奮して死を忘るる也」

と記されている。

十一月下旬から開始された第三回総攻撃では、
二十七日に攻撃目標を二百三高地に転換し、総力をその攻略に集中した。

壮絶なる争奪戦の結果、戦死者五〇五二名、戦傷者一一八八四名を出して、
遂に二百三高地を占領した。ロシア側も戦死者五三八〇名、戦傷者約一万人を出した。
その結果、ロシア側は要塞防衛への十分な人員投入に困難を来たす様になる。

わが軍は、旅順港が一望出来る二百三高地に観測点を設け、
旅順港内の露国艦隊を砲撃して壊滅させた。

この戦いの最中、次男保典が戦死し、乃木大将は息子全員を失った。

旅順攻略が長びく間、東京の乃木邸に対し投石や口汚い罵りが行われたりした。

十一月十七日静子夫人は居たたまれなくなって伊勢の皇大神宮に向かい、
翌日未明に到着しそのまま内宮に参拝して「何卒旅順を陥落せしめ下さる様」
祈念を込めた所、

涼しき声で「汝の願望は叶えて遣るが、最愛の二子は取り上げるぞ」
との声が聞こえたという(津野田是重『斜陽と鉄血』)。

乃木大将は二百三高地を「爾霊山」と名付け、深い感慨を以て漢詩を詠まれた。

●爾霊山険豈に攀ぢ難からんや 男子功名克難を期す
 鉄血山を覆うて山形改る、万人斉しく仰ぐ爾霊山

二百三高地を陥落せしめた第三軍は、その後十二月一杯をかけて
旅順要塞を一つ一つ攻略して旅順市街に迫った。

年が明けて一月一日夜に露国旅順司令官のステッセル将軍から
開城を申し込む軍使が到着し、五日乃木将軍とステッセル将軍との
水師営の会見となり、旅順は陥落した。

会見に先立って明治天皇は
「将官ステッセルが祖国のため尽したる苦節を嘉し給ひ、
武士の名誉を保たしむべきことを」乃木将軍に伝えられ、

水師営の会見では、露国将官にも帯刀を許して名誉を保ち、
お互いの武勇を讃えあう「日本武士道の精華」が示され、
世界に感動を与えたのだった。

●射向ひし敵もけふは大君の恵の露にうるほひにけり


だが、我が軍の総戦死数一万五千五百人、戦傷者数四万四千人、
合わせて五万九千五百人の犠牲の代償は大きかった。

乃木大将はその犠牲を全て背負って、その後の人生を歩んで行くのである。

           <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

軍服の聖者~その4 - 伝統

2017/09/20 (Wed) 19:18:52


皇孫殿下の聖徳ご涵養を通じて今日に伝わる純忠の至誠

旅順陥落直後の明治三十八年一月十四日、乃木第3軍は旅順招魂祭を斎行し、
乃木将軍は自ら祭文を奏した。その中で将軍は二百十余日の将兵の奮戦を讃え、
その栄誉に対し

「顧みて諸子が遺烈を念えば、あに独りこの光栄を享くるに忍びんや。
嗚呼、諸子とこの光栄を頒たんとして幽明相隔つ、哀しいかな。」

と呼びかけた。

旅順を陥落せしめた第三軍は、日露陸軍の総力戦ともいうべき
奉天大会戦(日軍25万VS露軍37万)に臨むべく北上した。

露将クロパトキンは第三軍の出現を極度に恐怖し、退却を決断するに至る。

五月二十七日、ロシアのバルチック艦隊を迎え撃った連合艦隊は日本海海戦に完勝し、
遂に九月五日、日露講和条約が調印される。

満州・法庫門に宿営する第三軍は十月十日に再び慰霊祭を斎行し、乃木大将は

「戦友諸子を祭る文」の中で「曩きに堅城を抜き、勁敵を破り、
皇軍の威烈を発揚せるもの、一に諸子の身命を擲ち、卒先危を踏み、
堅忍艱に克たるるの大勇威力に依らざるはなし。
(略)当初に諸子と心に相約する処のもの、我身を終ふるも誓って遺るなけん。」

と述べた。

ロシアに勝利したものの乃木将軍の心は晴れなかった。
凱旋の日が近づく中、乃木将軍は「蒙古王になって残りたい」と洩らしたという。


その苦衷の中で生れたのが次の漢詩である。

●皇師百万強虜を征す 野戦攻城屍山を作す 愧づ我れ何の顔あつて父老に看えん 
 凱歌今日幾人か還る


一月十四日に凱旋帰京した乃木大将は、直ちに参内して明治天皇に「復命書」を奏上し、

●作戦十六箇月間我将卒の常に勁敵と健闘し、忠勇義烈死を視ること帰するが如く、
 弾に斃れ剣に殪るるもの皆   陛下の万歳を喚呼し、欣然として瞑目したるは
 臣之を伏奏せざらんと欲するも能はず。

 然るに斯くの如き忠勇の将卒を以てして、旅順攻城には半歳の長月日を要し、
 多大の犠牲を供し、奉天付近の会戦には、攻撃力の欠乏に因り
 退路遮断の任務を全うするに至らず、又敵騎大集団の我が左側背に行動するに当り、
 之を撃?するの好機を獲ざりしは、臣が終生の遺憾にして、恐懼措く能はざる所なり。

と述べて、陛下に「死」を賜らんことを訴えた。
だが、明治天皇は許されず、

「卿が割腹して朕に謝せんとの衷情は、朕よくこれを知る。
しかれども今は卿の死すべきときにあらず。
卿もし強いて死せんとならば、朕世を去りたる後にせよ。」

と仰せになられた。

乃木大将は再び「死に勝る」苦悩を背負って生きていかねばならなくなった。

乃木大将は戦傷者の為の廃兵院の建設を推進し、
多額の寄附をし、自ら足を運んで励した。

戦死者家族の慰問を積極的に行うと共に
第三軍戦死者墓碑への揮毫は決して断らなかった。


●かゝなへば早く三歳もすぎてけりかへらぬ友を思ふ今日哉
  (明治四十年八月二十日旅順第一回総攻撃三周年の日に)

●岩角に咲く撫子の紅を誰が血潮ぞと偲てぞ見る
 撫子の花にも心おかれけり我友人の血にやあらぬと
 (明治四十一年初夏旅順戦跡を訪ねし折)


明治天皇御自身も、宮城御苑内に篤く戦死者を祭られていた。
君臣共に戦歿者を背負って生きていかれた。
その事が国民の支えだった。

当時の乃木大将の覚悟を示す歌。

●大君の御楯とならん身にしあればきたへざらめやみがかざらめや

           <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

軍服の聖者~その5 - 伝統

2017/09/21 (Thu) 18:06:02


       お前に沢山の子供を授けよう

日露戦争後、乃木大将を参謀総長に推す話が持ち上がったが、
明治天皇はそれをお許しにならずに次の様に仰られた。

「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、
乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。

近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじゃが、
孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、
乃木をもってすることにした。」。

四十年一月三十一日、乃木大将は学習院長に任命された。

明治天皇は「おまえは二人の子供を失って寂しいだろうから、
その代り沢山の子供を授けよう。」と仰られたという。

乃木夫妻が二人の子供を亡くした事に最も同情されたのは明治天皇と皇后であり、
三十九年五月二十六日には皇后陛下も特別に静子夫人に拝謁を賜っている。


学習院長を拝命した乃木大将の言葉。

●私は一介の武弁であって教育者ではない。かなり躊躇逡巡したものであった。
 しかし、御諚とあっては拝受のほかより道はありえないのである。

 兵士を訓練する事と諸子を教育することとは勿論同一目的ではない。
 がしかし至誠を以て人に接する一事に至りては、
 決して変りはないと信ずるのである。
 
●身は老ぬよしつかるともすべらぎの大みめぐみにむくいざらめや     
           (明治四十一年奈良大和地方演習時)


乃木院長は皇族方のご教育方針を次の様に立てた。

(1)教育方針

  ①御健康を第一と心得べきこと。
  ②御宜しからぬ御行状と拝し奉る時は、
   之を御矯正申上ぐるに御遠慮あるまじきこと。

  ③御成績につきては御斟酌然るべからざること。
   御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべきこと。

  ④成るべく御質素に御育て申上ぐべきこと。
  ④将来陸海の軍務につかせられるべきにつき、其の御指導に注意すること。
     
         (以下、各種訓示は学習院輔仁会編『乃木院長記念録』)

(2)【初等学科に於ける訓示】

   本スレッド内記事「学習院初等学科学生に与えた訓示(2017/09/15)」

(3)【風紀に関しての訓示(教師に対して)】

  ①要するに皇室の為め國家の為め純忠至誠の人物を養成するを以て主眼とすべし。

  ②決して自己一身の栄達の為めに奮励努力するが如き、
   利己主義の人物を造るべからず。

  ③至誠純忠の人物を造らん為めには、
   之を教導するものも、至誠純忠なる人ならざるべからず。


質実剛健の「乃木式」が
将来の日本を背負う家柄の皇族・華族の子供達に叩き込まれて行った。

乃木院長は剣道や木剣体操を重視され、夏季には片瀬に遊泳場を設け、
自らも天幕生活を共にして、簡易生活・共同生活の範を示し、
自営・自治・克己の精神を涵養して行った。

           <感謝合掌 平成29年9月21日 頓首再拝>

軍服の聖者~その6 - 伝統

2017/09/22 (Fri) 20:07:35


      乃木院長の感化力

乃木院長の下で寮長を務めた教師の服部他助は
『恩師乃木院長』の中で乃木院長の感化力について次の様に記している。

「乃木院長が『忠君』とか、『愛国』とかいふ言葉を
言語に出して云はれることは罕である。
(略)
人は口に言ひ表はし得ざる大真理なるものを、
外に表はす力を言語以外に有つて居る。
これ即ち無形の力、所謂『感化力』である。

此の如き力は日夜に此の品格高き院長から、四方八方に発散して居る事を実見する。
此の感化の力は、即ち一の高遠なる真理を抱いて居る人の心から、
自然に外部へ発散する光輝である。」


「乃木院長は遠き前方にある一目標を定め、
後方より其の目標に向つて前進すべしとの号令を下す人ではない。
身自ら先づ無言の間に率先して、其の目標に向つて前進せらるる故に、
何人もそれに向つて前進するを躊躇しない。
院長は『彼処へ行け』と命令せずして、『此処へ来れ』と手招きされるのである。」


乃木院長は、寮長を引き受ける事を躊躇する服部氏に対し次の様に語られたという。

●学生の心を教へる事は只あなたの心に善いと思ふことを基礎として、
 やつて貰へばそれで宜しい


乃木院長は、日常生活を通して生徒達に人の有り方を示して行かれた。
正に「人を教ふるに行を以てして、言を以てせず」「事を以てして理を以てせず」
の感化であった。
 
 
日露戦争後の日本は、戦勝の自信が驕奢を生み、欧米化が尚一層進み、
華美な風潮が蔓延する様になって行く。

明治天皇は憂えられて四十一年十月に「戊辰詔書」を出して
「華を去り実に就」く事を述べられた。

乃木院長も「さみだれに、もの、みな腐され、はてやせん、
ひなも、みやこも、かび(黴・華美)の世の中」という歌を詠んでいる。

院長は生徒達に、国に自信を持ち確固とした根を植えつける為に、
学習院学則も「崇皇国之懿風」を「履聖人之至道」の前に置かれ、
「不通国典何以養正」を「不読聖経何以修身」の前に置き換えられた。

院内に「皇基碑」を建立され、
後には大神宮遥拝所として自ら鍬を執って榊を植えられた。

 
当時の乃木院長の澄み切った心境は次の漢詩や和歌にも伺われる。

●崚そうたる富嶽千秋に聳ゆ 赫灼たる朝暉八洲を照らす
 説くを休めよ区々風物の美 地霊人傑是神州

●われゆかば人もゆくらん皇国のたゞ一すぢの平らけき道

●國のため力の限りつくさなむ身のゆく末は神のまにまに

           <感謝合掌 平成29年9月22日 頓首再拝>  

軍服の聖者~その6 - 伝統

2017/09/24 (Sun) 19:58:59


殉死

明治四十五年七月二十日、明治天皇の御不例が発表になった。
乃木大将は皇居に毎日参内してご快癒を祈り続けた。
だが七月三十日午前零時四十三分、天皇は崩御された。

乃木大将は殯宮に伺候し、秘かに覚悟を定め身辺整理をして行かれた。


九月六日、学習院生徒に最後の訓示が行われた。

●勉強するといふことは、決して自分一個の為と思ってはならぬ。
 常に君の為、国の為にすることと心得べきである。

 九月十一日、乃木大将は裕仁親王殿下と二人の弟君を訪ねられ、
 山鹿素行『中朝事実』と三宅観?『中興鑑言』を渡して次の様に語られた。

●以後は 皇太子殿下として御取扱ひ申上げるやうに相成るべく、
 就ては一層の御勉学あらせられんことを願ひ奉ります。

 殊に陸海軍にも御任官遊ばせられ、他日皇位に即かせられて
 大元帥陛下と仰がれ給ふべき所の御学問も最も御必要なれば、
 御身体を御大切に遊ばすと共に、是れよりは中々御多端なれば、
 御油断なく幾重にも御勉強の程を願ひ奉ります。

 之は希典が平素愛読仕ります本にて、肝要の処には希典が自ら朱点を
 施し置きましたが、今は未だ御分かりは遊ばされざるべきも御為になる本にて、
 追々御分かり、遊ばさるるやう、献上仕り置きます。


乃木院長が朱点を施された所は、『乃木院長記念録』で伺う事が出来るが、
君徳の涵養に重要な箇所を選び出してある。

乃木大将は、四十四年八月には、裕仁親王殿下の為の
「皇孫殿下御学問所規定草案」を作り、学習院後の特別御学問所の設置を考えていた。

大将の志は小笠原長生等に受け継がれ大正三年四月一日の東宮御学問所設置に結実する。


九月十三日午後八時、明治天皇御棺の皇居ご出立に合わせ、
静子夫人と共に自宅で自刃して天皇の後を追われた。
乃木大将六十四歳、静子夫人五十四歳だった。


●遺言「第一 自分此度御跡を追ひ奉り自殺候段恐入候儀、其罪は不軽存候。
   然る處、明治十年之役に於て軍旗を失ひ、其後死處得度心掛け候も、其機を得ず。
   皇恩の厚きに浴し、今日迄過分の御優遇を蒙、
   追々老衰最早御役に立候時も無余日候折柄、此度の御大変何共恐入候次第。
   茲に覚悟相定候事に候。(全部で十項目が記されている)」

●辞世「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」
   「うつし世を神さりましゝ大君のみあとしたひて我はゆくなり」

※静子夫人辞世「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢ふぞかなしき」

乃木大将の殉死は多くの国民に衝撃を与え、明治という時代の終焉を印象付けた。
十八日の国民葬の沿道には二十万人が並んで乃木大将との最後の別れを行った。

横山健堂は 

「日本精神のわが国に維持されなん限り、彼夫妻は国民の儀表たらん」

と記している。

 (http://blog.goo.ne.jp/takuyoshio/e/2d7b56854280f76d89056bdf1f21e46c

           <感謝合掌 平成29年9月24日 頓首再拝>  

Re: 乃木希典 - dmyndlnsjMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:43

伝統板・第二
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