伝統板・第二

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礼拝の教え ② - 伝統

2017/09/07 (Thu) 05:00:03

       *伝統板・第二「礼拝の教え ①」からの継続です。
          → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6778863


《全ての人間を”神の子″として拝むこと》

        *「如意自在の生活365章」(P193)より

あなたが”神の子″であるだけではなく、
すべての人間が”神の子″であり、わたしたちと兄弟姉妹であるのであるから、
わたしたちはいかなる人間をも”神の子″として礼拝し、
全ての人間を祝福してあげなければならないのである。

人を軽蔑してはならない。

どんな不完全な状態がその人に現在顧われておろうとも、
その顕われだけを見て、その人間を根本的に蔑視するようなことが
あってはならないのである。

顕われのみを見ず、実相の完全さを見つめ、観じ、祝福することを継続するならば、
実相の完全さが、必ずやがて顕われて来るに相違ないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月7日 頓首再拝>

いっさいのものを拝め - 伝統

2017/09/27 (Wed) 04:47:01


        *「生長の家とは如何なるものか」(P25~26)より
         『生命の實相』第27巻久遠仏性篇(P199~200)より

   《われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、蒼海(あおうみ)を、
    大地を、火を、水を、いっさいの大自然と生物とを観るに、その背後に
    神の生命の円相を観、その生命(せいめい)を敬し、礼し、愛し、
    いやしくとも浪費せざらんことを期す。》
                             

そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し
動き出した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは
第一ヵ条のところでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。

仏教でいうと寂光土である。

寂光土というとちょっと平和すぎるので、活気溌剌たる「生長の家」すなわち
無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、

この無限創造の宇宙たるやどういうものであるかというと、
聖経『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、それは無限次元の世界である。

われわれの住んでいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでも
こんなに美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。

その妙なる世界が、この五官にはその全体の貌は見えないけれども、
妙なる世界の《うつし》とし、写真として見える。

(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相 は写真に比べると、
もっと複雑な相をし、もっと複雑次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているので
あるけれども、写真にはただ一色の平面の姿に写っている。)

それと同じに、われわれの五官で認識(みと)める三次元の世界では実相の世界の
複雑微妙な無限次元(ひろがり)の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えている
のであります。

けれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や、
大地や、火や、水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、
この第三次元の縦・横・厚みのこの下らない、単純な、味のすくない世界とは見ないで、

その奥の奥を観て、実相を観て、もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命と
いうものを観る、そうしてそれを敬し、礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを
念願するのが生長の家の生き方であります。

  ・・・

<谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「生長の家家族の祈願及び修養」
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=100

            <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>

人間を 「 神社 」 として礼拝する - 伝統

2017/10/14 (Sat) 03:49:18


       *『 生長の家 』(昭和26年2月6日の法語)

   《一番根本的な問題は》

   人間の中には、何人(なんぴと)にも 「 神 」 が宿っている。
   どんな悪人と烙印を押された人にも 「 神 」 が宿っているのである。

   だから、すべての人間は、
   一個の 「 神社 」 であると云うことができるのである。

   神社に参拝して手を合わす人は沢山(たくさん)あるけれども、
   人間を 「 神社 」 として合掌しない人は多い。

   若(も)しすべての人類が人間互いに、内に神やどり給う
   「 神の宮 」 即ち神社として礼拝することを始めるならば、
   世界にはどんな種類の争いも、啀(いが)み合いもなくなり、

   すべての家庭は幸福になり、すべての人間は健康になり、
   全世界は平和になる。

   此の根本的な問題を忘れていては
   凡(あら)ゆる計画も画餅(がべい)に等しい。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/72f5872979b20d876f9de41e85788020

            <感謝合掌 平成29年10月14日 頓首再拝>

すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う - 伝統

2017/10/21 (Sat) 03:31:23


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(「円満具足」10月21日)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、
鉛筆も、茶碗も、大根も、・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月21日 頓首再拝>

人間に内在する神性を礼拝する - 伝統

2017/10/26 (Thu) 04:28:48


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
          (「円満具足」10月26日)より要約抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、
      鉱脈透視の霊能を得ており、
      出資者が欲しいとのことでの来訪であった)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
 この人なら君に協力してくれるという。」

(A氏は、自分は多くのことを知っており、上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「君は能力もあるし、学問もある。それでいて協力者がないというのは、
君は君の能力に高慢になって人を見下すというところがある。
君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、霊魂や心の波や、
近代の新興物理学などのことは君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
そのために大事なところを見のがしてしまう。

そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」

(A氏は、部長は何を言っても信じない。こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。
能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから拝めないのだけれども。
人間に内在する神性を礼拝する。

どんな人間にも、そのバックには
尊いものがある。それを拝むようにすれば、
部長も君を拝んで協力を求めてくるにちがいない」


「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、
どんな人間でも、その仏性神性が顕われる。これは否定できない真理なんだ。
君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

君の地位をもっていて君の能力を持っていて協力者がないというのは、
ただ君が相手を軽蔑する悪い癖があるから、
”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、
協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人もたくさんある。
人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。

ただ今を忠実に生きることにあるのである。
米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。
奇跡に見とれている間に大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

           <感謝合掌 平成29年10月26日 頓首再拝>

人の本質を礼拝せよ! - 伝統

2017/11/02 (Thu) 04:07:20


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

         <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>

現象に捉われず、その愛念を拝む - 伝統

2017/11/09 (Thu) 04:47:41


          *「光明道中記」(11月9日そのまま素直に有難い日)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                             (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。
肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。
点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

          <感謝合掌 平成29年11月9日 頓首再拝>

拝む心が神の心 - 伝統

2017/11/20 (Mon) 03:49:28


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。

拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、
その人自身がまた拝む心を失ったということになるだろう。

         <感謝合掌 平成29年11月20日 頓首再拝>

互いに拝みあう - 伝統

2017/12/07 (Thu) 04:31:33


         *「光明道中記」(12月7日人々互いに拝みあう日)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうちどれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。
それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。
派閥を造り徒党を組むと云うようなことから吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

         <感謝合掌 平成29年12月7日 頓首再拝>

「奥さんを拝みなさい」 - 伝統

2017/12/24 (Sun) 03:33:27


        *『女の浄土』(P32~33)より

”実相の完全さを拝む”というのは形ばかり掌(て)を合わして
「ありがとうございます」と唱えることではないのである。

心に、本当に相手の実相が”神”であり”仏性”であり、”如来”である
ことを観て心の底からその完全さを拝むのでなければならないのである。

それについて思い出すのは、九州、延岡の生長の家信徒だった
成田敬福氏のことである。

大阪の先輩の生長の家講師が巡講して来て成田氏宅で誌友会が開かれた時に、
成田氏はその先輩講師に向かって斯(こ)う言ってたずねた ―― 

「私は生長の家に入信してから万事が思うように都合よく行くように
なりましたが、家内だけはどうも私の思うように行かないのです。
どううしたら宜しいでしょうか」

その時、先輩講師は

「それは君、奥さんを拝まないからいかんのや」

と答えた。

「奥さんを拝みなさい、屹度よくなる」

         <感謝合掌 平成29年12月24日 頓首再拝>

動作や形にあらわして感謝せよ - 伝統

2018/01/09 (Tue) 03:18:01


        *『女の浄土』(P33~34)より

成田さんは斯う答えた。

「心では拝んでいるんですけれど・・・」

「心で拝んでいるといっても、本当に心が拝んだら、
それが形にあらわれねばならぬ。
形にそれがあらわれていないような事では、心でも本当は拝んでおらんのじゃ。

明日の朝、ご飯のときから、これから毎朝、食膳に奥さんと相対して
坐ったとき、先ず奥さんに向かって合掌して

『奥さん、ありがとうございます。毎日斯うして温かい御飯が頂けるのは、
皆あなた様のお蔭でございます』

と声に出して感謝するようにしなさい。

それが出来ないような事なら、本当に奥さんを拝んでいるのではない。
どうじゃ出来ますかな? 」

「先生できます。必ずやります」と成田氏は答えた。

成田夫人は、やはり誌友会の席にいて笑っていた。
「そんな事が出来る良人ではない」 というような意味が、
その笑いの底にあるようであった。

         <感謝合掌 平成30年1月9日 頓首再拝>

人間を拝むということ - 伝統

2018/02/06 (Tue) 03:34:26


         *「真理」第5巻女性篇(P79)より

人間を拝むということは、「合掌」というオマジナイをすることによって、
相手を自分の欲する状態にならしめるというような霊術ではないのであります。

相手の「神性」を信じ、礼し、敬することであります。

自分の良人のすることはどんなことをしても、
間違いがないということを信ずるようにしたら、

良人が素直になり、良人のほうから妻を信じ妻の欲することを何でも、
みずから進んでして下さるようにあらわれてくるという事実は
決してマジナイの効果ではなく、神性を礼拝する効果なのであります。

         <感謝合掌 平成30年2月6日 頓首再拝>

相手を拝むという修行は容易でない - 伝統

2018/02/21 (Wed) 03:55:29


        *『女の浄土』(P34~35)より抜粋

相手を拝むということは むつかしい事なのである。

怒鳴りつけたり、”泣き言”いったり、小言をいったりすることは
別に羞(はず)かしいと思わずに出来るのに(この方が本当は羞かしい行為なのに)
善い事をしようと思うと羞(はず)かしくて中々出来ないのは、
肉体というものは霊に対して抵抗(レジデンス)を持っているものだからである。

私たちは霊によって肉体の頑固さを克服しなければならないのである。

これを「己に克つ」というのである

         <感謝合掌 平成30年2月21日 頓首再拝>

互いに全ての人を拝みましょう - 伝統

2018/03/09 (Fri) 04:19:48


         *『真理』第3巻初学篇(P48~50)より
 
本当に「南無阿弥陀仏」と唱える心になりましたら、
互いたがいの中の生命(いのち)が「阿弥陀様」だと云うことが判りますから、
「あなたは阿弥陀様でございます」と互いに拝み合うことになり、

互いに悪口など云うものは一人もなくなり、憎み合うものはなく、腹立てるものも、
悲しむものも、恨む者もなくなるのであります。

その結果、家庭には争いがなくなり、病気が無くなり、
会社や工場にも争議がなくなり、ストライキもなくなり、
国と国との争いもなくなるのであります。

それなのに、いまだに国と国との戦争がなくならず、会社や工場のストがおさまらず、
家庭の中に争いが堪えないで、始終病人が出来たりしているのは何故であるかと
云いますと。それはすべての人間を「神」であるとして、
(又仏教の人では、すべての人間を「阿弥陀仏」であるとして)

その実相を拝めばよいのですのに、拝まないからであります。

そして阿弥陀仏のいのちは、肉眼には見えない無色透明の鏡みたいなものですから、
こちらの心で「想う姿」が相手に映って、相手が悪いと見えたり、互いの心の
縺(もつ)れが自分自身に映って、自分の身体(からだ)に、病気があらわれたり
するのであります。

世の中が思うように行かぬと思う人や、始終身体(からだ)が弱いと思う人でも、
その人の「生命(いのち)」は本当は阿弥陀様の「生命(いのち)」でありますから、
思うように行かぬ筈がない、また病気になる筈はないのであります。

それなのに、悪いことがあらわれて来るのは、自分の心の「想い」が映って出る
のですから、この話の最初に書いた「早く善い結果が現れる法」を是非とも
1か月間は実行して御覧なさい。

とても自分の家では、これまでの生活習慣がつづいていて、互いに相手を阿弥陀様や
神様だとして拝めないと云う人は、生長の家本部の飛田給練成道場や宇治の練成道場
で毎月10日間その生活実修を大勢でやっていますから是非一度は練成に来て、
互いに拝み合うとはこんな善いものかと云うコツを覚えて、家に帰ってからも
実践して下さい。

たった10日間の拝み合いの実修だけでも、今まで、医療でどうにも治らなかった
病気がグングン快(よ)くなり、ヒロポン中毒患者が全快し、放蕩の青年が勤直
そのものの親孝行の青年に一変するなど無数の奇蹟的な成績を挙げているのであります。

            ・・・

「早く善い結果が現れる法」

         *『真理』第3巻初学篇(P39~40)より抜粋

(1)心配することを止めなさい。
   取越し苦労ことをやめなさい。
   持ち越し苦労ことをやめなさい。

   悪いことがくるかも知れぬと思うことを止めなさい。

(2)「必ず善いことがやって来る」と毎日5回20遍ずつ
   心に唱えることにしなさい。

(3)決して人の欠点を見ないこと。
   又、世間話にも人の悪口(わるぐち)を決して言わないこと。

(4)人を神様又は仏様だと見て、人の美点だけを語る。

(5)何か人に親切になることを考えて一つ以上してあげること。

   
   この5か条を、1か月つづけることです。

         <感謝合掌 平成30年3月9日 頓首再拝>

《拝む心が栄える心》 - 伝統

2018/04/07 (Sat) 03:44:29


          *「幸せは今ここに」北尾巳代次・著(P69~70)より

儲けるという字は「信者と」書くとは荒井先生のお言葉ですが、
本当に何するにも信用が第一です。

私はUさんが世間の良識に便乗して、折角の真理を知りながら、
それを生活に生きていらっしゃらないことを残念に思ったのです。

ところが本年の正月突然Uさんの倒産を聞かされまして
私はどんな時にも真理から離れてはいけないとしみじみ感じました。

事業をやるにも製品を造るにも、百姓をするにも菩薩としての道を忘れてはならない。

私の方のアヤメ池に中山皓男さんという誌友がいらっしゃいます。
岐阜の後藤先生の処で生長の家の真理を養鶏の技術を体得せられて、
今独立していらっしゃいますが、
毎晩鶏舎を廻って鶏一羽ずつにお休みの挨拶をしていらっしゃる。

これはたいしたことですね。 

鶏の生命を拝んでいらっしゃるのです。

餌箱何かも綺麗に毎日掃除しまして、
本当に気持ちの良い環境を造ることに励んでいらっしゃる。

 
今はどうしていらっしゃるか知りませんが
山城の堀芳次郎さんの茄子やキュウリに肥をやるのに、一本一本に、
「まあ一杯おあがり、まあ一杯お上がり」と話しかけていらっしゃるのを聞いて、
信仰もここまで徹底すれば、増産間違いなしと感じたですね。

 
作物も動物も心眼を開いてみれば悉く仏であり兄弟であるわけです。

狗子(くし)に仏性ありや、と『無門関』にありますが、茄子に仏性ありや否や、です。

あらゆる森羅万象悉く仏なる生命を礼拝すれば富自ずから集まるのであります。

         <感謝合掌 平成30年4月7日 頓首再拝>

どこにいても神を拝することはできる - 伝統

2018/04/16 (Mon) 03:29:00


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

            <感謝合掌 平成30年4月16日 頓首再拝>

「生長の家」の礼拝主義 - 伝統

2018/05/09 (Wed) 04:22:13


       *「生命の實相」第7巻生活編(P31~33)より

『生長の家』 の礼拝主義はそんなたんなる寛大主義ではない。 
また自己のみが高くあがる独善主義でもない。 

それはほかの見せかけの他人の悪にとらわれない。 
その人の表面にどんな悪があらわれていようとも、その人の本質を見るのである。 
その人の本質にある神を見るのである。

どんなに人々が悪を犯そうとも、その人の本質は神の子であって汚れていない。 
どんなに紙幣が手垢に汚れていようとも、それは金貨に価する内在価値をもっている。 
諸君は百円札が汚れているからとて、その内在価値を疑うか。
 
しからば諸君は人間がどんな罪に汚れているからとて、その内在価値 ―― 
神の子としての価値を疑ってはならない。

かくのごとくして「生長の家」では万人のうちに、ただ神の子の存在のみを見る。

ここにおいてわれらの人生観は全然転回せざるをえない。
暗い人生観は明るい人生観によって代わられる。
われらはおのずからすべての同胞を太陽の光の中で見ることになる。

これは幸福生活の秘訣である。
キリストは「なんじの敵を愛せよ」と言ったが、
もうこのとき諸君の世界では敵が存在しないのである。


他(ひと)が現に目の前で自分に対しておもしろくないことをしているのに、
どうしてその人の内にある神をわれらは拝みうる境地に達しうるか。
それにはまず心的練習を必要とするのである。

げんに悲しい事件があるのに鏡の前でできるだけ愉快な顔をし、
これによって悲しみを征服して、ついに自分のヒステリーを根治した婦人のように、

諸君は相手の美点をできるだけ心に描くように練習しなくてはならぬ。
それは必ず練習によって到達しうるのである。

なぜなら見せかけの悪は低迷する雲のように仮相(かりのすがた)の存在であって、
どんなに曇った日にも本当は青空がその奥に存在するからである。

相手が自分にたとい悪意を抱いていると信ずべき根拠があるにしても、
相手の好意を見るようにするのである。
相手の愛を自分の心の中に想像する。
そして強く自分の心に印象する。


もし現在あなたの憎んでいる人があるならば、毎朝、毎晩、5分間ずつ静坐して
「神想観」を行ない、精神が「神とわれが一体である」との感じに統一してきたとき
自分の心に対して次のごとく黙念するか、耳にかすかにきこえるほどの声で
自己暗示するがよいのである。


  自分は神の子である。
  自分の心には愛が充ち満ちている。

  自分は彼を憎まない。
  自分は彼を愛している。

  愛は愛を招ぶ。
  だから、彼もまた自分を愛せざるをえなくなるのである。

  自分は彼に宿る神性を
  こうして毎日拝むのである。


かく密室において言葉で心に明瞭に語りながら実際に合掌して、
憎んでいる相手を実際に愛していると真に強く想像し、
実際愛しうるようになるまでこの行持を続けよ。

諸君は第一実際自分が善くなってくるのを感ずるであろう。
これが言葉の創造カである。

諸君の心自体が変わってくるに従って、陰をむけていた相手が
実際自分に日向(ひなた)を向けてくるのを覚えるであろう。

黒住教祖の教歌「立ち対かう人の心は鏡なり、己が姿を映してや見ん」というのは
実に真理を穿(うが)っている。

実際相手が自分を僧んでいるように見えたのは、
自分が相手を咎(とが)める心をもっていたからであって、
相手は自分の心の映像(かげ)であったことがわかってくるであろう。

境遇を征服するとか、環境を征服するとか言うけれども、
実際は自已の心の賊を征服することだったことが解ってくるであろう。

            <感謝合掌 平成30年5月9日 頓首再拝>

生長の家は「生命を礼拝」します - 伝統

2018/06/03 (Sun) 03:51:09


        *「生命の實相第33巻随喜篇 (P7~8)より

このように生長の家は「すべての宗教を超越し」ということを宣言し、
すべての宗派を超越しながら、それぞれの宗教の神髄、それぞれの宗教の
共通の真理というものを拝んでいるのでありまして、

某々教のようにその不真理が暴露して途中で壊滅したような宗教は別でありますが、
長い時の試練を経て今日まで続いているようなすべての宗教は、結局のところ
生長の家で拝んでいるところの真理を宗教的言葉をもって説いているものであります。

あらゆる宗教は宗派的表現と匂いを除り去れば生長の家の説くところと
同一真理に帰着するのであります。

では生長の家の説く真理というものはどんなものかといいますと、
この七つの光明宣言の第一にある「生命(せいめい)を礼拝し」ということが
中心になるのであります。

仏教では無量寿という、その「寿」とは生命(せいめい)のことであります。
キリストは「我は復活である。生命(いのち)のパンである」と言って
生命(せいめい)の礼拝を説いておられます。

では生命(せいめい)とは何であるか、
皆さんは、自分は生きているという自覚を持っておられる。
生きておられるのです。

その生きている皆さんの生命(いのち)これが生命(せいめい)である。

ところがその「生命(せいめい)」たるや決して肉体そのものではないのであります。

われわれが肉体の腕を切って、そうしてそれをここへ置いて、
「お前は生命(せいめい)か」と言ってみても
その肉体にはもう生命(せいめい)はないのであります。

そういうように手足胴体と次々に肉体を分析してゆきましても、
そこには自分の生命(せいめい)はないのであります。

細胞生命(せいめい)というものはあるかもしれませんが、
もうそれはわれわれのような統一ある「われ」の生命(せいめい)ではないのであります。

このわれわれの生命(せいめい)、不思議なる目に見えないところの生きる力
 ―― その生命の神髄というものを礼拝して生きてゆく、
これが生長の家の第一の宣言であって、

仏教の無量寿仏の礼拝、キリスト教の生命(いのち)のパンの礼拝と同じことです。

            <感謝合掌 平成30年6月3日 頓首再拝>

目に見えない神を礼拝する - 伝統

2018/06/23 (Sat) 03:29:19


        *「生命の實相第33巻随喜篇 (P9~10)より

現象界に現われているところの生命は畢竟(ひっきょう)「現われの生命」で、
本当に《ある》生命ではないというのであります。

《本当にある》生命を生命の実相と申しております。

ひとかど大思想家といわれるような人が現象の生命と実相の生命とを
混同しておられるのであります。

本当の生命(生命の実相)というものは現象生命の奥にあって、
現象生命が滅したように見えても滅しないところの生命、
現象の生命が争っているように見えても争っていないところの生命です。

仏教でいえば仏性というもの、
キリスト教でいえば神性というか、久遠のキリストとでもいうべきもの、
惟神道(かんながらのみち)でいえば隠身(かくりみ)の生命であって、
日本古典の冒頭にある「身を隠し給いき」というのがキ
リスト教でいう形なきゴッドであります。

この目に見えない神を礼拝するのが生長の家であって、
万教はおのずから一つの「真理」または神を拝しているとするのであります。

            <感謝合掌 平成30年6月23日 頓首再拝>

患者の実相を礼拝したとき全身リューマチが全快した実例 - 伝統

2018/07/10 (Tue) 03:07:25


        *「あなたは自分で治せる」(P136~137)より

私が花嫁学校を経営しておりました時、この光明皇后が癩病患者の実相が
本来仏(ほとけ)であって罪はない 病気はないと念じて拝まれたとき、
その癩病患者が阿?如来の実相を顕わされた話をしたときに、

道場でその話を傍聴していた或る奥さんが、その知人でリューマチで
手足が硬直し、首が硬直し、腕が上がらないし、首も曲がらないために、
自分の腕でありながら、10年間も自分の身体(からだ)の横にある
腕を見たことがない、と云う全身リューマチで硬直した婦人を見舞って
上げられたことがありました。

そしてそこに横たわって居られるリューマチの患者を、それは決して
リューマチの病人じゃないのであって「この方は仏様である。東方阿?如来
である。自分を修行せしめる為にここにリューマチの姿をもって現れて
来られたのだ・と真実、心の奥深く思いながら拝んだと云うのであります。

自分が自分の霊力で治してやろうと思ってお見舞いにおいでになったのでは
ないのであって、此の硬直している《かたくな》な姿は、私の姿である。

私の心がこんなに硬直しているために、それを気づかせて、自分の中から
本当の仏を呼び醒(さ)まして下さらんが為に、

「ここに仏がリューマチ患者の姿になって硬直して現れてしらっしゃるのだ」

斯う云う思いでリューマチの婦人を、仏様がいらっしゃるのだと堅く信じて
拝んだと云うのであります。

すると其のリューマチの病人の関節が動き出して10年目に再び自分の腕を
見ることが出来るようになって治ってしまった ―― 
こう云う実話がありましたが、

そう云う風に相手を仏として拝むときに、こちらの人間に内在する仏の心が
あらわれて、その仏の姿が相手に移入されて、相手が仏の姿をあらわすことに
なるのであります。

これが本当の「唯観実相(ゆいかんじっそう)」の哲学的治療であります。

            <感謝合掌 平成30年7月10日 頓首再拝>

すべての人に宿る「神」を拝む - 伝統

2018/07/12 (Thu) 03:49:16


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月12日)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、
割合にお蔭が少ないものである。

なぜなら現象に捉われて、
生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも
呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに若(し)かずである。

すべての利益が与えられているのに、
あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。
幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、そうした理由から当然のこと事である。


見よ!  まず自分のうちに宿る神を!
われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた
本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 平成30年7月12日 頓首再拝>

山川草木皆これ仏であると拝む - 伝統

2018/07/19 (Thu) 04:16:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月19日)より抜粋

常不軽菩薩は、すべての人々を仏様(ほとけさま)だと言って拝んだのである。
釈尊は山川草木国土有情非情すべてことごとく仏なりと観ぜられたのである。

わたしだけが偉大だとも、彼だけが仏で、他は俗物だとも
観じたのではなかったのである。

われわれはすべての人々を自己と同等のレベルにまでコキ下ろす劣悪を知っている。
しかしさらにそれよりやや進歩した劣悪として、特定の人々のみを尊敬するが、
他はことごとく”うじ虫”奴(め)らであると思う愚かさを知るのである。

それはただ、自己のうちに、他の偉大さをみとめる美点のあることを誇示し、
それによって自己を偉大ならしめ、さらに他を軽んずる快感をも
同時にむさぼろうとする鵺(ぬえ)的存在である。

山川草木皆これ仏であると拝む仏様からは縁の遠い人々である。

         <感謝合掌 平成30年7月19日 頓首再拝>

相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め - 伝統

2018/08/07 (Tue) 04:19:13


       *「光明道中記」(8月7日 善のみを視(み)る日)より抜粋
         

 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。

如何なる不快なる相(すがた)をもってあらわれようとも、
その不快なる相は、現在又は過去に於て自分のどこかに潜(ひそ)んでいた
不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

         <感謝合掌 平成30年8月7日 頓首再拝>

その実相を拝ませていただくとき救われる - 伝統

2018/09/04 (Tue) 04:19:52


        *「光明道中記」(9月4日 有り難く其の儘受ける日)より

【如来は一体である。一仏即多仏である。(生命の實相第六巻)】

(歎異抄十二条)

   たとひ諸門こぞりて、念仏は甲斐なきひとのためなり、
   その宗あさし卑しといふとも、さらにあらそはずして、
   われらがごとく下根の凡夫、一字不通のものの信ずればたすかる由、
   うけたまはりて信じさふらへば、更に上根のひとのためには卑しくとも、
   われらがためには最上の法にてまします。

   たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには、
   器量およばざればつとめ難し。
   われもひとも生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、
   御妨げあるべからずとて、憎ひ気(げ)せずば、誰のひとかありて、
   仇をなすべきや。

   かつは、諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる、
   智者遠離すべきよしの証文さふらにこそ。


この一節には当時親鸞聖人の念仏門の教に対して
色々の非難や攻撃があったことが窺われるのである。

親鸞聖人はそれに対して
「われらが如く下根の凡夫は」と
下手に出て諍(あらそ)うこと勿れと諭されたのである。

「諍論(じょうろん)のところにはもろもろの煩悩おこる」とて
智者はかかる諍(あらそ)いより遠ざかるべきを示されたのである。
諍(あらそ)いに勝ちたりとて救われるのではない。

此のまま此の世が阿弥陀仏のお浄土であると、
その実相を拝ませていただくとき救われるのである。

         <感謝合掌 平成30年9月4日 頓首再拝>

《合掌礼拝の姿に感激して》 - 伝統

2018/09/25 (Tue) 04:59:06


          *『人生の秘訣365章』第8篇(P201~202) より

その百姓家に泊めてもらった旅人は、
何かハタハタはためくような音がするので夜半に眼をさました。

田舎の夏のことで蚊帳が吊ってあって、
自分は蚊帳の中からハタハタと音する方を見ると
この家の主人夫婦は寝ないで、蚊が襲ってくるのを団扇(うちわ)ではたきながら、
何か夜業(よなべ)でもしているらしいのである。

「御主人さま、あんた達はお眠みにならないのですか。
わたしばかり眠らせて貰って・・・・」と
旅人は思わず声をかけた。

主人たちは最初は返事を胡摩化していたが、何時までも眠らないでいることに、
弁解の仕様もないので、本当のことを話し出した。

それによると最初「都合が悪いのでお泊め申すことはできません」と答えたのは、
夜具も蚊帳も一人分しかないので、お泊めしても眠って頂くことができない
と思って断ったのだったが、

その断りに腹の立つ様子もなく、じっと家の方を向いて拝んでいられる
旅人の神々しい姿を見たとき、自分たちは眠らないでも、
この旅人を泊めてあげたくなったのだという。

このような心が政府要人の心に、各政党の領袖の心に、
各国の首相及び外務大臣の心にあるならば、
早速世界に平和が来るだろうと思われるのであるけれども・・・・。

私は尚一層吾らの光明思想をひろめなければならない。

         <感謝合掌 平成30年9月25日 頓首再拝>

いのちを拝むという意味 - 伝統

2018/10/11 (Thu) 04:55:15


         *「美しき日本の再建」(P12~13)より

”物体ない”という気持ちで一切のものに接する事が
”生命(いのち)を拝む”という事なのであります。

すべてのものがただの物質だったら、いのちを拝むということはないわけです。
”物質じゃない。物体(もったい)ないんだ”と、「これは物質じゃない、
物体じゃない、神様の生命(いのち)が、そこに現れているのである」と
いうのが、古(いにしえ)から伝承して来た日本人の思想である。

そして一切のものをことごとく神の生命、如来の生命の現れであるとして
拝むところの崇高にして謙譲な精神をもって生きて来たのです。

そこへ仏教が入って来て、釈迦牟尼世尊の悟りの言葉が伝えられ、
”山川草木国土悉皆成仏”という思想が入って来た。
山も川も草も木も国土も、悉皆、ことごとくみな成れる仏(すなわち仏のいのちの
現成(げんじょう)であるという釈尊の悟りであります。

天地一切のものは、すべて是れ仏の生命の現成である。

肉眼で見れば物質と見えているもの、鉱物と見えているもの、山も、川も、
国土も、植物と見えている草も木も、ことごとくこれ如来の生命の現れなのだ
という悟りが仏教として入って来たのですが、

この考え方は、日本人がずっと『古事記』が編纂される時代、否、それよりも
古く神話の時代から伝承されておった日本的思惟(しい)であります。

それが仏教が入って来てなお一層それがはっきりと、
説明されるというようになって来たわけなんであります。

            <感謝合掌 平成30年10月11日 頓首再拝>

すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う - 伝統

2018/10/21 (Sun) 04:07:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月21日>(P105)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、
鉛筆も、茶碗も、大根も、・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月21日 頓首再拝>

拝むのが生長の家の生き方 - 伝統

2018/10/26 (Fri) 04:13:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月26日>(P108)より要約抜粋

わたしの市岡中学校時代の同窓のひとり(A氏)が逢いに来た。

(中略・・・A氏は、ある鉱業会社の鉱山部の技師をしており、鉱脈透視の霊能を得ており、
      出資者が欲しいとのことでの来訪であった)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告①)

「鉱脈を透視するのもよいが、人間の鉱脈を透視することが肝要です。
 この人なら君に協力してくれるという。」

(A氏は、自分は多くのことを知っており、上司の部長はつまらない男だ、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告②)

「君は能力もあるし、学問もある。それでいて協力者がないというのは、君は君の能力に高慢
になって人を見下すというところがある。君は僕の本を読んでもピンと来ないと言うけれども、
霊魂や心の波や、近代の新興物理学などのことは君は僕よりよく知っているかもしれないけれども、
そのために大事なところを見のがしてしまう。

そら『天地一切のものと和解せよ』という大切な第一ページを。
すべて和解と調和と感謝の中から、ものを生み出す力が出て来る。
君はまず部長を拝むところから始めねばならぬ・・・」

(A氏は、部長は何を言っても信じない。こんな部長を拝むことはできない、と言う)


(谷口雅春先生のA氏へ忠告③)

「そこを拝むのが生長の家の生き方である。能力を拝むとか、形を拝もうとか思うから
拝めないのだけれども。人間に内在する神性を礼拝する。どんな人間にも、そのバックには
尊いものがある。それを拝むようにすれば、部長も君を拝んで協力を求めてくるにちがいない」

「一切衆生に宿る仏性神性というものを拝むようにすれば、どんな人間でも、その仏性神性が
顕われる。これは否定できない真理なんだ。君は協力者を求めているが協力者はすでにある。

君の地位をもっていて君の能力を持っていて協力者がないというのは、ただ君が相手を軽蔑
する悪い癖があるから、”すでに”ある協力者が見出さないだけなんだよ」


(A氏のように特殊な)高い能力の持ち主で、協力者という人間の鉱脈を掘り当てぬ人も
たくさんある。人間の鉱脈を掘り当てるのは、そんな特殊な霊能も、学問もいらない。

ただ今を忠実に生きることにあるのである。米粒に百千の細字を書くのが偉いのではない。
あたりまえのことがあたりまえにできるのが偉いのだ。
奇跡に見とれている間に大切な生命(いのち)を掏(す)られぬことが肝要である。

           <感謝合掌 平成30年10月26日 頓首再拝>

人の本質を礼拝せよ! - 伝統

2018/11/02 (Fri) 04:05:35


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

         <感謝合掌 平成30年11月2日 頓首再拝>

現象に捉われず、拝むのみ - 伝統

2018/11/09 (Fri) 02:54:04


          *「光明道中記」(11月9日 そのまま素直に有難い日)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                          (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、
その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。
肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。
点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

          <感謝合掌 平成30年11月9日 頓首再拝>

拝む心が神の心 - 伝統

2018/11/20 (Tue) 04:19:04


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。

拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、
「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、
その人自身がまた拝む心を失ったということになるだろう。

         <感謝合掌 平成30年11月20日 頓首再拝>

拝み合いの生活 - 伝統

2018/12/07 (Fri) 04:24:29


        *「光明道中記」(12月7日 人々互いに拝みあう日)より抜粋

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、
どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。

その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうちどれでも選べるだけではなく、
なお一層尊い生活が選べるのである。
それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

         <感謝合掌 平成30年12月7日 頓首再拝>

合掌のこころ - 伝統

2018/12/21 (Fri) 04:51:52


       *『一流の母・妻・子を作るには』より

拝む心になったら、自然に掌が合わされる。
自然に両掌が合って頭が下がってくる。
掌が合うのは互に一つに融け込む心が形になって現れたのです。

互に一つに融け込んだ姿には、
神がそこに顕れているから自然に頭が下がるのです。

ミレーの『晩鐘の絵』を見ると、
黄昏を拝んでいる農夫の姿がまたとなく尊い。

あれは拝んでいるのであって、祈っているのではありません。

あれは一つに融け込んでいるいるのです。
萬物と一つに融け込んでいるのです。
融け込まないものには深味がない。

深味があるのは、そのに神が顕れているからです。

拝まれるものにも神が顕れますが、
拝む姿には一層神が顕れるものです。

何のために何かのご利益のために拝むというのではありません。

神とは火水(かみ)即ち陰陽一つに拝み合った姿なのです。

神が顕れたら拝まないではいられなくなるのです。
何かの為ではない、神が現れれば互いに拝むのです。

皆さん、互に拝み合っておられますか。

    (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17668311.html )

         <感謝合掌 平成30年12月21日 頓首再拝>

生命の実相を礼拝せよ - 伝統

2019/01/12 (Sat) 04:31:13


          *『生命の實相』第7巻生活篇(P30~33)より

この礼拝主義は他人の悪を心に記憶せず、言葉にも表現しないで、
相手の本質の神を拝むのである。

キリストも言ったところの『汝の敵を愛せよ』という信条に一致する。

諸君よ、今日かぎり、
他人の悪にしばられないところの高貴な心を自分のうちに取り戻そう。

他人が悪を犯したからって、自分が何故不幸にも、
憎みの歯車で噛みくだかれねばならないであろう。

あなたの心は他人の悪の餌食となって食われて了わねばならないような
一片の肉塊ではないのである。
あなたの心は何物にもしばられないで、
それ自身で幸福になり得ると云うことを知らねばならぬ。

自分の心の高貴を取りもどせよ。
自由と独立とを奪回せよ。

相手が下劣なことをすると思うならば、
下劣な者と対等になって争うことの愚を知らねばならぬ。

相手が愚劣になったとき、自分もまた、高貴の階段から降りて往って
下劣と肩を並べねばならぬと云うことはないのである。


しかし、自分の高貴を自覚し、他人の下劣に伍せないために
 ―― 言い換えればみすからのみを潔しとし、
他(た)を傲然と見下ろすために許しの王座に上(の)ぼるものは、
なお本当には自己の生命(せいめい)を伸び伸びと生かすことが出来ないのである。

それは「生長の家」の生き方ではない。

かゝる生き方は、自己が高く上がれば上がるほど、他(た)が一層低く見える。
彼は自己の心のうちに他(た)の醜くさを常にえがいて暮らさねばならぬ。
自己が高くあがればあがるほど、自己の心のうちを他(た)に対する軽蔑や非難の声で
みたさねばならぬ。

彼はいつの間にか放下していたと思っていた人生のカスを
自分のうちに充満せしめることになる。


『生長の家』の礼拝主義はそんな単なる寛大主義ではない。
又自己のみが高くあがる独善主義でもない。

それは外(ほか)の見せかけの他人の悪にとらわれない。
その人の表面にどんな悪があらわれていようとも、その人の本質を見るのである。

その人の本質にある神を見るのである。
どんなに人々が悪を犯そうとも、その人の本質は神の子であって汚れていない。

どんなに紙幣が手垢に汚れていようとも、それは金貨に値する内在価値をもっている。
諸君は百円札が汚れているからとてその内在価値を疑うか。

しからば諸君は人間がどんな罪に汚れているからとて、
その内在価値  ―― 神の子としての価値を疑ってはならない。

かくのごとくして『生長の家』では万人のうちに、ただ神の子の存在のみを見る。

ここにおいて吾らの人生観は全然転回せざるを得ない。
暗い人生観は明るい人生観によって代わられる。
われらはおのずからすべての同胞を太陽の光の中で見ることになる。


これは実に幸福生活の秘訣である。
キリストは『汝の敵を愛せよ』と云ったが、
もう此のとき諸君の世界では敵が存在しないのである。


さて、どうしたらそんな境地に達しうるか。それを自分は語らねばならぬ。

他(ひと)が現に眼の前で自分に対して面白くないことをしているのに、
どうしてその人の内にある神をわれらは拝みうる境地に達しうるか。

それはまず心的練習(メンタルトレーニング)を必要とするのである。

げんに悲しい事件があるのに鏡の前で出来るだけ愉快な顔をし、
これによって悲しみを征服して、ついに自分のヒステリーを根治した婦人のように、
諸君は相手の美点をできるだけ心に描くように練習しなくてはならぬ。
それは必ず練習によって到達し得るのである。

なぜなら見せかけの悪は低迷する雲のように仮相(かりのすがた)の存在であって、
どんな曇った日にも本当は青空がその奥に存在するからである。

相手が自分にたとい悪意を抱いていると信ずべき根拠があるにしても、
相手の好意を見るようにするのである。
相手の愛を自分の心の中に想像する。

そして強く強く自分の心のうちに印象する。

もし現在あなたの憎んでいる人があるならば、毎朝、毎晩、5分間ずつ静座して
「神想観」を行ない、精神が「神とわれとが一体である」との感じに統一してきたとき
自分の心に対して次のごとく黙念するか、
耳にかすかにきこえるほとの声で自己暗示するがよいのである。



   自分は神の子である。

   自分は心には愛が充ち満ちている。

   自分は彼を憎まない。

   自分は彼を愛している。

   愛は愛を招ぶ。

   だから、彼もまた自分を愛せざるをえなくなるのである。

   自分は彼に宿る神性を

   こうして毎日拝むのである。



かく密室において言葉で心に明瞭に語りながら実際に合掌して、
憎んでいる相手を実際に愛していると真に強く想像し、
実際愛し得るようになるまでこの行持を続けよ。

諸君は第一実際自分が善くなって来るのを感ずるであろう。
これが言葉の創造力である。

諸君の心自体が変わってくるに従って、
影をむけていた相手が実際自分に日向(ひなた)を向けてくるのを覚えるであろう。

黒住教祖の教歌「立ち向かう人の心は鏡なり。己が姿を映してや見ん」というのは
実に真理を穿っている。

実際相手が自分を憎んでいるように見えたのは、
自分が相手を咎める心を有っていたからであって、
相手は自分の心の映像(かげ)であったことがわかってくるであろう。

境遇を征服するとか、環境を征服するとか言うけれども、
実際は自己の心の賊を征服することだったことが解(わか)ってくるであろう。


   *初出は、「生長の家」創刊号(P22~27)。
    (《『生長の家』は礼拝主義で生きる。》)(字句の変更、追加あり)

         <感謝合掌 平成31年1月12日 頓首再拝>

拝むものが拝まれる - 伝統

2019/02/02 (Sat) 03:59:54


         *『 美しき生活 』(P23~24)より

前にも申しましたように、拝む者が、
その人自身が神子(かみのこ)になるのであります。

即ち 拝む人には 心の中に 神様と同じ波長が起(おこ)りますから、
宇宙遍満の神の霊波が 自分自身に感応して 自分が神子(かみのこ)になり、
神が そこに現(あらわ)れたと云う風(ふう)になるのであります。

皆さんが こうして集って私の話を聴いて下(くだ)さったり、
書いたものを読んで下さると云うのも、
どうして こんなことになったかと申しますと、
それは 私が 皆さんを拝んだからなのです。

『生命の實相』 の文章の中で 
私は 第一に 皆さんを『 神の子 』として拝んだのであります。

世界の凡(すべ)ての人が、人間は罪の子なんだと認め、
特に色々の宗教家、教育家たちが人間を本来悪い者として扱っていたときに、
『 そうじゃない、人間は皆(みな)神の子なのだ 』 と
私が 先(ま)ず皆さんを拝んだのであります。

すると皆さんが集まって来て『ああ云う先生は、神子(かみのこ)だろう』と
思ってあべこべに皆様から私を拝んで下さるようになったのであります。

他(ひと)を拝む人はまた他(ひと)から拝まれて神様扱いをされるのであります。

拝まない人は神の子ではない。
怒って罰を当てる人は、閻魔か地獄の鬼であります。

まことに拝み合う世界こそ実相の世界、神様の世界、楽しい世界、
天国極楽浄土の世界なのであります。

その拝むのはそうして拝む気持ちになれるかと云うと、
形の変化を見ないで実相を見るからなのです。

         <感謝合掌 平成31年2月2日 頓首再拝>

尊敬こそ礼儀作法の根本である - 伝統

2019/03/02 (Sat) 04:33:25


       *『女の浄土』より
         ~童子さまのブログ(2013/7/19()

人を尊敬せよ。 
然らばまた自分も尊敬せられる。 

人を侮辱せよ、然らば、また自分も侮辱せられる。 
人に対して、“あしざま” に罵れば、
自分もまた “あしざま” に罵り返されるのである。

礼儀は良き作法を身につけることであるのである。 
人に対して礼儀正しければ、人もまた自分に対して礼儀正しくなるのである。

しかし良き作法の根本は 『人を尊敬する心』 である。 
人を尊敬する心なくして、形ばかり礼儀をととのえても、
それは虚礼であり、偽善であり、相手には本当に好感をもって受けとられないものである。

その人の精神雰囲気が相手に伝わって、
それが精神の伴わない虚礼であることを相手が感ずるからである。

若し人生から “良き作法” が消えてしまったら、
それは知識ばかり発達した 『動物の世界』 に堕してしまうであろう。 
ヤクザの中にも仁義があり、挨拶するときの作法があるのである。

家庭の中で家族互の生活にも儀礼を失ったとき、
子供は親に対する尊敬が消え、長幼の序が乱れ、
そこは人間の住む家でなくなり、動物が親子諸共雑居する単なる
 “動物の巣” になってしまうのである。

作法は茶の湯をたてるときだけが作法ではないのである。 
日常生活の一挙手一投足が作法にならなければならないのである。

      ( https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24634061.html )

         <感謝合掌 平成31年3月2日 頓首再拝>

ある神父とマザー・テレサとの一場面 - 伝統

2019/03/21 (Thu) 01:42:53


            *メルマガ「人間力」(2019.3.14)より

これはある神父とマザー・テレサとの一場面を鈴木秀子先生が語られたものです。

交わされる言葉はわずかですが、
そこに無限の愛が込められているのがじわっと伝わってくるかのようです。

・・・

アメリカ人のある神父の話です。

彼は若い時、インドのマザー・テレサの
「死を待つ人の家」でボランティアに従事していました。
そこでの彼の役割は、風呂に入れられた病人を
バスタオルで受け止めることでした。

ところが、始めたばかりの頃、
痩せこけて体が変形した男性が目の前に現れ、
思わず後ずさりしてしまうのです。

後ろに並んでいたボランティアの人から強く背中を押され、
勇気を振り絞って男性を抱きかかえました。

怖じ気づく神父を見るに見かねたのでしょう。
マザーが代わりに男性を受け止め、体を拭いながら

「あなたは大切な人です。
 あなたは神様から許されて愛し抜かれています」

と静かに語り掛けました。死人同然の男性が
うっすらと目を開いて微笑みを浮かべたのは、
まさにその時でした。

「たとえ死の間際であっても、憐れみや同情ではなく
 一人の人間として対等に接してくれる人が側にいるだけで、
 人は温かい愛に満ちた心に生まれ変わることができるのですね」

神父は私にこのように話してくれました。

マザーの何気ないひと言によって人が
甦っていく瞬間を目にしたことは、神父にとって
終生忘れがたい出来事であったことは間違いありません。

マザーが死にゆく男性に施したのは、
何も特別なことではありません。一人の人間として敬い、
神様から愛されていることを祝福した、それだけのことです。

しかし、そのひと言は苦しみと絶望の間を
彷徨っていた男性には、何よりの喜びであり、
力となるものでした。

よき人生は小さなことの積み重ねです。
身近な人とさりげなく心を通わし、
相手に敬意を持って接するという小さな行いの中に、
大きな喜びを感じ取れる人間になりたいものです。

         <感謝合掌 平成31年3月21日 頓首再拝>

《すべての人々を礼し敬せよ》 - 伝統

2019/04/11 (Thu) 04:35:58


         *『 生長の家 』(昭和25年3月24日の法語)より

   吾々は 自分自身を神の子だと認めるだけでは足りないのである。
   すべての人々を神の子であると信じて、礼し敬しなければならないのである。

   神を見るということは、
   瞑目(めいもく)、精神統一中に ある幻を見ることではないのである。

   すべての人々の中に 神の姿を見なければならないのである。

   自分の身辺にいるすべての人々を、観世音菩薩(ぼさつ)の示現であると見、
   イエス・キリストの再臨であると見るのである。

   他(ほか)の人を敬する者のみが敬せられ、
   他(た)の人を礼する者のみが礼されるのである。

   与えるものが与えられ、奪うものが奪われ、
   拝むものが 拝まれて仏である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

         <感謝合掌 平成31年4月11日 頓首再拝>

どこにいても神を拝することはできる - 伝統

2019/04/16 (Tue) 04:47:32


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月16日)」より

「山頂に達しないでも、麓(ふもと)の一歩一歩にも星の光は射す。」

どこにいても神を拝することはできるのである。いずこにも天国がある。

渓川(たにがわ)のせせらぎに宿る星の光にも、
草の葉末(はずえ)の露(つゆ)に宿る星の光にも天国は宿っている。

どんな茅(あばら)屋にも美があるがゆえに、
ある種の画家は好んで賤(しず)が伏屋(ふせや)の美を描き、
彫刻家はそれほど美人でもない婦人の裸体像を堂々と出品し、
ロダンはことさらに「鼻欠けの像」を彫刻する。

            <感謝合掌 平成31年4月16日 頓首再拝>

人間の本質を知らしめ、互に礼し敬し拝み合えるようにする - 伝統

2019/05/31 (Fri) 04:15:30


       *『生長の家』(昭和21年4月号 巻頭言《民主主義の根本信念》)より

   宗教と云うものは、自己と云う存在を「肉体」であるとの自覚から、
   「霊的実在」であるとの自覚に転回せしめるものであり、

   自己が「霊的実在」であるが故に、
   「霊的本源者」即ち神とのつながりを可能ならしめ、
   人を通じて神を此の世に実現せしめるものなのである。

   人に内在する神なしには民主主義と云うことはあり得ないのである。

   民主主義は、人間の本質の尊厳の平等を要求するのである。

   人間の本質の尊厳とは何によって可能であるか。

   それは猿やアミーバから、人間にまで進化したのであって、
   人間の本質は「アミーバ」なるもの、「猿」なるものが宿っているからだ
   と云うのでは説明にはならないのである。


   唯一の尊厳者は神のみである。

   凡そ人間に「尊厳」と云うものがあり、
   「民主」だとか「人主」だとか云い得るものがあるならば、
   先ず人間に神が宿っていると云うことを肯定してかからねばならないのである。

   色々に才能がわかれ、個性の差別があっても、
   人間の本質に神が宿っていることに於いては平等である。

   この平等の神的本質を指して吾々は『生命の實相』と称ぶのである。
   そして本質のみ真実であり、実在であるが故に、人間は『神である』ほか
   何物でもあり得ないのである。


   どんな悪人も、それは外見かく見えるにすぎないのであって、
   みんな彼らも『神である』ほかあり得ないのである。

   此の真実がわかるならば、
   すべての人間は互にその特長や欠点があらわれているままで、
   彼らを、その本質が、『神である』ゆえに礼拝し得るのである。


   私の考えでは民主主義を教育するためには、
   人間の生命の實相が『神である』ことを知らしめ、
   互に礼し敬し拝み合えるように、其の根本信念を確立せしめなければならぬ。

   これをなくしてただ自己の待遇改善を要求し、
   相手を非難し悪口する自由のみを獲得するのを民主主義と考えるならば、
   大変な間違いであると思う。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/22512134.html より転写)

            <感謝合掌 令和元年5月31日 頓首再拝>

すべての人に宿る「神」を拝む - 伝統

2019/07/12 (Fri) 04:14:25


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月12日)より

あの利益、この利益と求めている者にもお蔭はあることはあるが、
割合にお蔭が少ないものである。

なぜなら現象に捉われて、
生命それ自身の自由自在さを失ってしまいやすいからである。

あの利益、この利益と求めるものは近眼(ちかめ)である
 ―― 心の近眼(ちかめ)である。

孑孑(ぼうふら)を追い求めるよりも
呑舟(どんしゅう)の大魚(たいぎょ)を求むるに若(し)かずである。

すべての利益が与えられているのに、
あの利益、この利益と求むるには及ばないのである。

神はすべてのすべてであるから、神をわが内に見出せば、
「すべてのもの」はおのずから調(ととの)うのである。
何よりも、まず「神」である。

その「神」が自分の内部に宿っているのに、
多くの人は未だ自分自身を拝んだことがなかった。
自分自身に感謝したことがなかった。

幸福な人が少なくて、不幸な人が多いのも、そうした理由から当然のこと事である。

見よ!  まず自分のうちに宿る神を!

われらはまず自分自身のうちの「神」を拝むことを教え、
自分自身のうちの「神」に感謝することを教える。

かくのごとくして、われらはしだいに進んで
各人自身のうちに「神」を宿したまうた本源の神を拝むことを知るのである。

          <感謝合掌 令和元年7月12日 頓首再拝>

《人類互に拝み合え》 - 伝統

2019/07/29 (Mon) 04:37:59


         *『 生長の家 』(昭和26年5月23日の法語)より

   何故(なぜ)、人類が幸福と平和とを望みながら、
   不幸と擾乱とに巻き込まれて行くかと云うと、
   互いに人間が神の子であることを本当に信じないからである。

   互いが相手を悪意に満ちているのであり、
   こちらを害するに違いないと疑うがゆえに、

   その疑う想念の具象化として相手は益々悪しき状態にあらわれ、
   ついに重大なる結果を来すのである。

   現象を見て分析し、此処(ここ)に相手の悪があると
   みとめて対応策を考えているような事では駄目である。

   彼を悪であるとしてこちらが憎めば、
   相手もこちらを悪であるとして対抗して来るのである。

   人類全体が人間を神の子として互いに拝むようにならなければならぬ。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

          <感謝合掌 令和元年7月29日 頓首再拝>

偉大なる人物 - 伝統

2019/07/31 (Wed) 05:01:47


    *『生命の實相』第38巻幸福篇(下)(7月31日)より

人が拝み合うほどわたしを喜ばす話はない。
人が愛し合う話ほどわたしを喜ばす話はない。

人が罵り合う話ほどわたしを悲しませる話はない。
人が憎み合う話ほどわたしを悲しませる話はない。

他(ひと)が悪いということに憎みを感ずる者は愚かな者である。

他(ひと)が自分より優れていることを聞いて
素直に喜べる人だけが偉大なる人物である。

         <感謝合掌 令和元年7月31日 頓首再拝>

《天地万物 相互礼拝 相互感謝 の生活》 - 伝統

2019/08/26 (Mon) 04:57:16


          *『 生長の家 』(昭和40年3月31日の法語)より

   鳥類は、季節が近づけばその羽根の装(よそお)いが豊かになり、
   厚い外套(がいとう)を着たように羽毛が密生するのである。

   夏近づけば夏服に着かえるかの如く、羽根の装いが軽くなり、
   厚い外套を脱いで、恰(あたか)も夏服に着かえるのである。

   植物にもこれが起る。

   同じ摂氏(せっし)十度でも、夏を過ぎて摂氏十度が近づけば、
   欅(けやき)の葉は黄色くなって落葉しはじめて
   冬の支度(したく)をするのである。

   ところが冬も終りに近づいて春が間近になると“知る”と、
   摂氏十度よりも寒い日があっても、前途の春をチャンと“予知して”
   欅は、新しい緑の若葉を出しはじめるのである。

   脳髄も神経組織もないかのように見えている植物も「知る」力をもっており、
   「知った事」に対して準備をする不思議な知性をもっているのである。

   その「 不思議な知性 」が植物に宿る「 神 」である。
   
   神は到る処に充ちていられる。

   釈尊はこの真理を直感せられた。
   そうして「 有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏 」
   と讚歎せられたのである。

   それを簡単に説明するならば、
   「有情」即ち「情(こころ)有るもの」(動物等)も、
   「非情」即ち情(こころ)非(あら)ざるもの(鉱物、植物等)も
   「同時」即ち「超時の今」神の大生命(道)が現成(げんじょう)せる
   ものである。

   そして山も川も草も木も国土も悉く皆、仏のいのちの現成せるものである。

   宇宙の一切悉く神なる大生命の顕現ならざるものはないという意味である。

   この覚(さと)りに立って生活するとき、
   一切を礼拝し、一切に感謝する相互礼拝、相互感謝の生活が始まるのである。

     ( 谷口雅春著『 無門関解釈 』参照 )


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

         <感謝合掌 令和元年8月26日 頓首再拝>

すべてを覚体と観、礼拝し、お礼を言う - 伝統

2019/10/21 (Mon) 04:40:53


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月21日)より

真に存在するものは、すべて「神」によってつくられたのである。
「神」は《いのち》であるから、すべての物は《いのち》をもっている。
神は「自覚」であるから、すべての物は「自覚」をもっている。

それをわれらは気づかなかったのである。
机には自覚がないと思ってお礼を言わなかったし、蒲団も、椅子も、書籍も、ペンも、
鉛筆も、茶碗も、大根も、・・・すべて自覚がないと思ってお礼を言わなかったのである。

それどころか、人間にさえも自覚がないもののようにお礼を言わない人がある。

もっとも面と向かい合ってはお礼を言わない人はないようだが、
それはその人の「自覚」すなわち覚体に対してお礼を言っているのではなく、
五官に対してお礼を言っているのである。

だから五官に見えない処では悪口(あっこう)を言う。
こんな人間は『生長の家』の読者であっても、生長の家の家族ではない。

人間を覚体として認める人は、五官に見えないところからでもお礼を言い、
見えないところからでも拝めるのである。

           <感謝合掌 令和元年10月21日 頓首再拝>

相手を覚体として礼拝する - 伝統

2019/10/22 (Tue) 03:23:02


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月22日)より

岩も、木も、石も、煉瓦も、水も、火もことごとく覚体である。
すべてのものに仏の生命(いのち)が生き、神の智慧が輝き、
天地の愛が顕れているのである。

天変地変を恐れるものは、きっと、
岩にも、木にも、石にも、煉瓦にも、水にも、火にも、
・・・お礼をいったことのない人たちに相違ない。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」というのは
天地一切のものが、すべて覚体であるという前提があってのことである。
覚体でなければ、和解のしようがない。

ただその機械的暴力に従うか、それを利用するか、
征服するか、征服させられるかのほかはない。

和解とは、征服、被征服を絶した問題であって、
相手を覚体として礼拝し感謝するところに和解があるのである。

           <感謝合掌 令和元年10月22日 頓首再拝>

人の本質を礼拝せよ! - 伝統

2019/11/02 (Sat) 04:54:11


     *「生命の實相」第38巻 幸福篇下(11月2日)より

怒り、憎み、恐怖、嫉妬、利己心、冷酷・・・等々は
いずれも「生命(せいめい)」に対する背反である。

みずから癒えんとする者および他(ひと)を癒やさんとする者は、
これらの心を捨てて愛をもって置き換えなければならぬ。

善人を愛するだけではなんにもならぬ。
悪人をも愛すると言っても悪を容認する意味ではない。

悪人は本来「不当有(ふとうう)」であるから、悪人と見えていても、
実は何かのまちがいでそう現れているだけであるということを知り、
その人の本質を礼拝して疑わぬことである。

           <感謝合掌 令和元年11月2日 頓首再拝>

病を押して光明講演を続けて下さるその心をもっと拝めるようなりたい。 - 伝統

2019/11/09 (Sat) 04:58:54


       *「光明道中記」(11月9日《そのまま素直に有難い日》)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                        (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、
その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も
心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。

肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。
点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

          <感謝合掌 令和元年11月9日 頓首再拝>

拝む心が神の心 - 伝統

2019/11/20 (Wed) 04:34:10


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月20日)より

拝むという心が失われたときに、万事は価値が失われる。
拝んでいる人の心が神の心である。
拝んでいる心がその人から退陣したら、
その人の中に神が在(まし)まさぬことになったのである。

こんな文章を読んだからとて、「あいつは近頃拝む心になっていないから駄目だ」と
他人の悪さを批評するような人がもしあったら、その人自身がまた拝む心を
失ったということになるだろう。

          <感謝合掌 令和元年11月20日 頓首再拝>

人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である - 伝統

2019/12/07 (Sat) 04:01:58


      *「光明道中記」(12月7日《人々互いに拝みあう日》)より

【家庭でよき人たれ。家庭で尊敬されず喜ばれない者の価値は知れている。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

地獄、餓鬼、畜生、修羅、天上の生活がどんなものであるかは既に述べた。

この5つの生活を同時に備えつつ、
どの生活でも選べる自由があるのが人間の生活である。
その意味に於いて人間の生活は尊いのである。

併し人間の生活は、前(さき)の5種類の生活のうち
どれでも選べるだけではなく、なお一層尊い生活が選べるのである。
それはどう云う生活であるかと言うと、仏の生活である。

仏の生活とは拝み合いの生活である。
人間互いに拝み合っているときその人の生活は仏である。

自分の一群(サークル)だけ拝み合っていても、
派閥を造って拝み合い、吼(ほ)え合いするのは猛獣の生活である。

ギリシャ神話には半人半獣の怪人があるが、半仏半獣の怪人が世の中にあって、
自分の属する宗団だけでは拝み合い、
他の宗団に対しては歯を剥き出しているのがある。

派閥を造り徒党を組むと云うようなことから
吾々は超越しなければならないのである。

宗教新聞を見て気の毒に思うことは、
何宗内局の紛争とか、管長の更迭などに関する勢力争いなどが
大抵毎日書かれていることである。

宗教者よ、まずみずからの紛争を解決せよ。

          <感謝合掌 令和元年12月7日 頓首再拝>

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