伝統板・第二

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ゆるしはすべてを変える ③ - 伝統

2017/09/02 (Sat) 04:22:59


    *伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ②」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6859307


《他人を責めることなかれ》

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72<9月2日>)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。
なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「ゆるす(釈・赦・許) (6522)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1234 

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「ゆるし (10842)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2078

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「ゆるし」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=41

(4)光明掲示板・伝統・第一「ゆるしはすべてを変える (42)」
       → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=25

(5)伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ①」
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461367

             <感謝合掌 平成29年9月2日 頓首再拝>

《他の過ちを怒るなかれ》 - 伝統

2017/09/17 (Sun) 04:45:09


    *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P211~212) より

人が間違った行動をしたからと云って、それに対して腹を立てたり、
憤慨したり、攻撃精神を起こしたりしてはならない。

そんな事をする暇に、相手が「神の子であって今後そんな間違いをしない」
と祈る方がよいのである。その方が自分の心が安らぐ。


彼が間違っているからとて、
自分の心を不安に陥れなければならぬ理由は何処にもないのである。

しかも相手の「悪」や「間違」をみとめて、
それを心に描いて強く憎んでいる限りは、
相手の「悪」も「間違」も益々顕れるばかりであるのが心の法則である。

それよりも、彼の過ちをゆるして、
彼をその過ちから釈(と)き放ってやるようにすれば、
彼は必ず改まって来るに相違ないし、

そうすることが自分自身の魂の修養にもなるし、
自分自分の神性を顕現し、愛を長養することになるのである。

             <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

許したからといって、もう一方の頬を差し出すことはしない - 伝統

2017/10/07 (Sat) 03:18:27

    *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)(P80)より

Lesson 41 許したからといって、もう一方の頬を差し出すことはしない


許しは、自分自身に対するプレゼント。

許すことによって、私たちは、よりやさしく、より軽やかになれるからです。

それは、自分の価値を低くすることではありません。

むしろ、その逆。自分の価値を高めることになるのです。

また、許したからといって、私たちは、無防備になる必要はありません。

自分を苦しめた人に対して距離を置くことは、大切なことなのです。

             <感謝合掌 平成29年10月7日 頓首再拝>

《憎み怨(うら)みなき心境になるには》 - 伝統

2017/10/22 (Sun) 04:19:47


         *『 生長の家 』(昭和26年2月18日の法語)より

   誰(だれ)かがあなたに害を加えたと思って
   その罪を憎む観念がもし貴方にあるならば、
   即刻(いますぐ) 「 その罪をゆるしました 」 と心にとなえよ。

   憎むとか怨むとか云うことは感情であるから、
   憎むまい、怨むまいと思っても、
   憎み、怨まずにおれないのが凡夫の心のあさましさである。

   そのあさましさから逃れる道は、 「 憎むまい、怨むまい 」 と
   一所懸命に心に 「 憎み 」 と「 怨み 」 の観念が連想される言葉を
   念じても、憎み怨みは去らないのである。

   そこで 「 私は貴方をゆるしました。私は貴方を愛しています 」 と
   「 罪 」 や 「 憎み 」 と全然反対の語(ことば)を
   度々(たびたび)念ずるようにしていると、

   自然に自分の心が浄化されて来て 憎み怨みなき心境になれるのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0f5da1abadd62d442dcc711c09add780

             <感謝合掌 平成29年10月22日 頓首再拝>

《実相の覆いを取り除け》 - 伝統

2017/11/08 (Wed) 03:51:38


       *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P262~263) より

怒り、憎み、悲しみ、恐怖、悪意、貪欲、嫉妬などは、
自己が物質的存在であり、何物かに奪われたり、傷つけられるかも知れぬ
と云う予想から、それを防御する感情として起って来るものである。

従ってそれは「実相」の円満完全さを覆い隠してしまって
不完全な肉体を表現するようになるのである。

その覆い隠された状態が病気であるから、
その病気を消滅せしめる方法は、二つの面から考えられる。

即ち、一つはその覆い隠しているもの
―― 怒り、憎み、悲しみ、恐怖、悪意、貪欲、嫉妬などの感情を取り除くことである。

怒り又は、憎んでいる相手と心の中で和解しなさい。

「私はあなたを赦しました。
私はあなたに感謝しております。
私はあなたを愛しています。」

と云う言葉を、
眼をつぶってその相手の人に呼びかけるような気持で
心の中で繰返し繰返しとなえなさい。

             <感謝合掌 平成29年11月8日 頓首再拝>

すべての者をゆるせ - 伝統

2017/11/20 (Mon) 03:46:57


       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。

             <感謝合掌 平成29年11月20日 頓首再拝>

《人を赦(ゆる)したとき自分が赦される》 - 伝統

2017/12/09 (Sat) 03:36:04


        *『 生長の家 』(昭和25年2月20日の法語)より

   人々の欠点や不完全さについて
   それを怒らず耐え忍ぶことは一つの美徳である。

   何故(なぜ)なら
   自分自身にも色々の欠点や不完全さがあるからである。

   他の人を赦した時にのみ 自分自身 赦(ゆる)されるのである。

   然(しか)し人の欠点や不完全さを赦すよりも
   尚(なお)尊い行き方があるのである。

   それは 自分の周囲に起ることは 自分の心の影として、
   自分自身を神に対して懺悔することである。

   そして その欠点や不完全の奥にある
   「 本当の彼 」 ( 神なる彼 ) を礼拝せよ。

   真に彼を本当に完全なる神の子と見得た時に、
   彼は 完全なる姿に変貌(へんぼう)するのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

             <感謝合掌 平成29年12月9日 頓首再拝>

《人を赦して眠ること》 - 伝統

2017/12/15 (Fri) 03:36:44


         *「光明法語」(12月15日)より

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

             <感謝合掌 平成29年12月15日 頓首再拝>

汝の罪は赦されており、汝はすべての人の罪をも赦さねばならない。 - 伝統

2017/12/22 (Fri) 03:59:36


           *「光明道中記」(12月22日完全解放の日)より抜粋

「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。

常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。


             <感謝合掌 平成29年12月22日 頓首再拝>

すべてを赦し、感謝して眠りに入る - 伝統

2017/12/23 (Sat) 03:44:17


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月23日)より

わたしの『光明の生活法』の本の携帯版が気持ちのよい形で、
そんなどぎつい装飾もなしに、ととえば夜しずかに降りて
万物をうるおしてくれる夜露のように質素な、そして典雅な形で出た。

常にこの書を携帯していちいちその生活法どおり実行する者は幸いである。

この生活法を常に実行している者は常に健康であるに相異ない。
不健康とは、生活が不健康であり、思いが不健康であることの反映であるに過ぎない。
人間の実相(そのまま)は健康であるからである。

わたしは『光明の生活法』の中で就寝前の15分間の神想観の方法を説いておいたが、
それを病気の治癒に応用する場合に特に注意すべきことは、

就寝前に、その日、またはそれまでの日において呪っていた人々を釈(ゆる)し、
憤(いきどお)っていた人々を宥(ゆる)し、憎んでいた人々を恕(ゆる)し、
自分の好まない人たち、反感ある人たちとその過失とをことごとく赦して
眠ることである。

眠っている間に最も多くの癒しの神力(自然療能)は進行するのである。

「私はもうあの人を憎んでいない。」
あの人があの時ああいう態度に出たことは、
かえってわたしにとって必要なことだったのである。

わたしが彼を憎んでいたのは、わたしの観察眼が狭いために、
あの人がああいう態度に出たことを、
自分に害があるように思って思いちがいしていたにすぎないのである。

本当はあの人がああしてくれたので、わたしの《ため》になったのである。

わたしはあの人に感謝する。
何某(なにがし)よ、わたしはあなたに感謝する。
本当に感謝する。

わたしはあなたに感謝し、あなたを祝福するものである。
ありがとうございます。ありがとうございます。

こう、精神を静かに調(ととの)えながら、繰り返し繰り返し念じて、
全き平和の心境に達したとき寝てしまうのである。

一日の最後の時間を赦しと感謝とで満たすこと、
それは健康に重大な関係があるのであるが、健康に関係がなくとも、
それはそのままありがたいことではないか。

寝床(ねどこ)に入(い)れば、
すぐ次のごとく念じて感謝のうちに熟睡に入(い)るべきである ――

「枕よ、ありがとう。寝床(ねどこ)よありがとう。蒲団よ、ありがとう。
寝巻よ、ありがとう。空気よ、ありがとう・・・」となんでも周囲に見出され、
思い浮かべられるすべてのものに
感謝の言葉を心のうちに唱えながら眠りに入(い)るのである。

こうすれば不眠症の人でも直ちに熟睡に入(い)ることができるものである。

            <感謝合掌 平成29年12月23日 頓首再拝>

《赦す者は 愛を増す》 - 伝統

2018/01/08 (Mon) 04:01:12


        *『 生長の家 』(昭和25年2月24日の法語)より

   吾々は 神を愛することによって
   神の恵みを拡大することができるのである。

   一本の草花でも愛することによって
   一そう大きな花を咲かせることができるのである。

   赦すものは 神の愛を拡大する。

   赦さないものは相手を執着の念で縛るだけではなく、
   自分自身の生命をも縛るのである。

   自分自身の生命を縛る事によって
   多くの病気が現われているのである。

   人を赦さないものは、結局 神を信じないものなのである。

   何故なら神の造り給うた此(こ)の世界に、
   彼は悪が存在するということを信じているからである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成30年1月8日 頓首再拝>

【許しおおすこと】 - 伝統

2018/01/21 (Sun) 03:22:52


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年01月19日)より

   (修養団・元伊勢道場長、中山靖雄氏の心に響く言葉より…)

   どんなご縁であっても、自分のためにその出来事に出会わせてもらっています。

   そのことを本当に納得し、「こういうご縁だったんだなぁ」と心から思えた時に、
   自分が開放されるのです。

   しかし、到底受け入れられない、筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたい
   出来事が起きてしまった時も、本当にそんなふうに思えるのか。

   そのことを考えてみたいと思います。


   私のところへ勉強に来られていた高円寺さんというご夫婦がおられました。

   この高円寺さんの5歳の娘さんが突然交通事故に遭い、亡くなってしまったのです。

   その時、事故を起こした人が警察にいるということを聞いて、
   このご夫婦はその人に会いに行かれました。

   そして、どうされたかというと、
   このご夫婦はその事故を起こした方に向かって、
   土下座をして、お詫びされたのです。


   「こういう縁にあわせてしまってごめんなさい。
   こういう縁にあう子どもを育てたのは私の因縁です。

   どうぞあなたは安心して、このことを忘れて、
   世のため人のためになってください。

   本当にごめんなさい」


   このように謝られたのです。

   ご夫婦には、悲しみも、許し難い思いも当然あったでしょうが、
   命が生まれてきた理由を本当に学びきっておられたのですね。

   頭でわかっていても、実際そんな目にあった時に、
   本当にそう思えるかどうかということが難しいわけです。

   ご夫婦は普段からそのような生き方をしていたからこそ、
   その時にそういう思いが湧かされたのでしょう。


   「許す」ということの大切さはみんな知っているかもしれません。

   しかし、「許すこと」「許しきること」さらに、
   「許しおおすこと」は深さが違うのです。

   この「許しおおす」という世界は、
   このご夫婦のようなことをいうのかなと深く感じさせられました。


   その高円寺さんご夫婦が、この前会いに来てくださって
   こういうお話をしてくださったのです。

   「あの事故から30年経ちました。
   あの子の30年の命日に娘のお墓参りに行ったです。

   お墓参りに行くと、新しいお花がお供えしてありました。
   ああ、誰かがお花を取り替えてくれたのだなぁと思って、
   いったん帰りかけたのですが、ふともう一度お墓に寄ってみたんです。

   すると、雨降りの中、娘のお墓に一生懸命拝んでいる人がいたんです。

   ああ、あの人が花を替えてくれたんだなと思って、よく見てみたら、
   娘を轢(ひ)いた相手の方だったのです」

   とおっしゃいました。

   相手の方を見てびっくりした奥さんは、

   「お墓参りをしてくださって、あなたもお詫びをしてくれていたのですね。
   本当にありがとうございます」

   と声をかけられたのだそうです。


   すると、相手の方も驚かれ、

   「お母さんでしたよね。ごめんなさい」

   と謝られたあと、

   「ここで会えると思いませんでした。
   あの後、一度たりとも事故を起こしたことを忘れたことはありませんでした。

   私が悪かったのです。
   本当にごめんなさい。

   奥さんとご主人の愛に包まれて、俺はどんなことがあっても
   人を許さなければいけないんだと思って生きてきました。

   そして、娘さんを神様みたいに思って、毎日お詫びをして生きてきました。

   お目にかかれて嬉しかったです。

   ありがとうございます」


   「許すこと、許しきること、許しおおすこと」

   このことを私は高円寺さんご夫婦から教えていただきました。


   その後、私が毎年お話をさせていただいているお寺があるのですが、
   私が行けなかったため、高円寺さんに代わりにお話に行ってもらったことが
   ありました。

   この時お話をしていただいたら、お話を聞いておられた方の中に、
   同じように交通事故の体験をされた方がいらっしゃったそうです。

   そういう体験で悩んでおられる方に出会わせるようになっているのだな、
   とそれもまた不思議なご縁を感じるのです。


   《「許しおおす」 すべてを受け入れることは、本当に難しいことです。
   しかし、命の理由を学びきったならば、きっと許しおおすことができます》

       <『すべては今のためにあったこと』海竜社>

            ・・・

自分の子どもが轢かれたのにも関わらず、その相手を許す…。

到底想像もつかない、神のごとき凄(すさ)まじいばかりの許しだ。

このようなことが起きたら、ほぼ全てといっていいほどの人たちが、
何日も何ヶ月も、身体が震えるほどの怒りでみち、相手を許すことはできないだろう。


「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ」
                           (マハトマ・ガンジー)

「人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。それでも許しなさい」
                           (マザー・テレサ)


許しおおすことができる人は偉大だ。

            <感謝合掌 平成30年1月21日 頓首再拝>

人の過ちを免すものは、自分の過ちも免されることになる - 伝統

2018/02/07 (Wed) 03:29:51


     *『続 真理の吟唱』(P217~218)
       ~「自他を罪より解放するための祈り」より抜粋

イエスは

「なんじら人を審くな。審かれざらん為なり。己が審く審判にて
 己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし」

と教えているのである。

ここには、〝審き〟の業因に対して同じく
〝審き〟の業果が撥ねかえって来るところの〝動・反動の法則〟が
説かれているのである。

  (中略)
  
人の過ちを免すものは、自分の過ちも免されることになるのである。
人の過ちをとがめて釈さない者は、自分自身の過ちも釈されることを得ず、

釈さない心は、自分自身を縛っていつまでも釈放することなく、
結局自分の身体を不自由にする肉体の硬直や関節炎の如き病気を招くことに
なるのである。

人の過ちを赦したとき、この種の病気が治った実例は多くあるのである。
”動・反動の法則”は晦ますことはできないのである。

            <感謝合掌 平成30年2月7日 頓首再拝>

家族互いに赦す - 伝統

2018/02/08 (Thu) 04:03:08


           *「光明道中記」(2月8日家族互いに赦す日)より

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、
細君は河豚(ふぐ)のように「ふくれても好い権利」を主張する。
                      (『生命の實相』第四巻)】


審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、青鬼のようなヒステリックな人、
赤鬼のように興奮した人、こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、
そんな家族の住んでいる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の多い少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合が変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。
赦さないから、筋肉が突張るものを。
赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。
癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」とキリストは言っている。
心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、
その家庭は屹度面白くないであろう。
柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

            <感謝合掌 平成30年2月8日 頓首再拝>

人を赦す - 伝統

2018/02/24 (Sat) 04:03:56


       *『希望を叶える365章』(P260~261)より

人は立腹していたり、苛々していたりして幸福になれるものではないのである。
幸福になるには其の腹立ちや苛々から解放されなければならない。

併しそれらの感情から解放されて調和した幸福な気持ちになるためには、
“人の心は一時に全然反対の感情をいれることが出来ない”という
原則を応用すればよいのである。

乃(すなわ)ち腹立ちの感情、苛々の感情の反対の感情を
強いて思い浮かべるようにすればよいのである。

それには今まで自分を悩ましていた対象から心を向けかえて、
既に今与えられている幸福を、無数の恵みを思い出して、
如何に神が自分を愛してい給うているかを反省し、
神に感謝の念を起すがよいのである。

つとめて、そのように心掛けているうちには昂奮していた感情も鎮まって
調和した心境になってくるものである。

更に自分自身にも幾多の欠点があるにも拘わらず、
神が斯くの如く恵み給う事を思って、自分も他(た)の人の欠点を許さねばならぬと、
よくよく反省して人を赦すがよい。

            <感謝合掌 平成30年2月24日 頓首再拝>

憤(いか)り憎み恨みの念を解く - 伝統

2018/03/12 (Mon) 04:52:24


        *「希望を叶える365章」(P168~169)より

すべての人々に対して憤り、憎しみ、恨み、または悪意をもたらしたりし事を
”心の世界”から消し去るがよい。其の消し去る方法は「赦す」と云うことである。

現在意識では、「もうあの人に対しては、何とも思っていない」と思っていても、
実は「赦していない」ことがあるのである。
唯(ただ)、彼のことを思い出だすのが苦痛であるから
憶(おも)い出さないだけのことである。

心の中に憤(いか)りが鬱積している限り、それは憶(おも)い出さないもので
あるにしても、それが却って病気のもとになるものである。

次の如く念ずるがよい。

「私は最早誰に対しても憤(いか)り感情をもっていないのである。
私はすべての人を赦したのである。

私は神の子であるから誰からも、どんな悪意を受ける惧(おそ)れもないのである。
またすべての人も神の子であるから、私に対して悪意をもつことはないのである。

何らかの害を私に与えたように見えても、それは一時(じ)そう見えているだけで、
結局、私に善い結果をもたらす事になっているのであるから
寧(むし)ろ私はすべての人に感謝しているのである。」

            <感謝合掌 平成30年3月12日 頓首再拝>

人の罪をゆるせ - 伝統

2018/03/23 (Fri) 03:53:01


           *「光明法語」(3月23日)より

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って人の病気を治しているのである。

そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、イエスは

「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)

と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)
そのものの實相の隠蔽(包み ―― 罪)であるから、人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

            <感謝合掌 平成30年3月23日 頓首再拝>

ありのままの自分を許して、愛してあげよう - 伝統

2018/04/14 (Sat) 03:07:28


        *「あなたが『宇宙のパワー』を手に入れる瞬間~永遠に続く幸せの源泉」
          ~ディーパック・チョプラ著、(P123~125)より抜粋

あなたは完全です。

あなたが自分の影を愛情をもって容認するとき、
あなたは計り知れないほど魅力的で、あなたの人生は冒険に満ちたものとなります。

あなたが自分自身のあいまいさを心地よく感じるとき、
あなたからシンプルで気取らない人間性が溢れ出します。

このような状態でいるとき、あなたは他人を意識したり、
まわりの人へ承認を求めるようなことはありません。

あなたは存在しない理想と自分を比べる必要がないのです。

あなた自身の経験が自己完結的な場合、
それは愛に基づき、あるがままの状態を受け入れています。

自己受容、完全な自己受容は自分を許すことです。
あなたが自分自身を許し、自分自身を裁くことをやめたとき、
あなたは他人を裁くことをしなくなり、
そして世界で争いごとが減っていくでしょう。

            <感謝合掌 平成30年4月14日 頓首再拝>

許しは、自分自身に対するプレゼント - 伝統

2018/05/21 (Mon) 04:13:55


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』(P60)より

《Lesson 41 許したからといって、もう一方の頬を差し出すことはしない》

許しは、自分自身に対するプレゼント。

許すことによって、私たちは、よりやさしく、より軽やかになれるからです。

それは、自分の価値を低くすることではありません。

むしろ、その逆。自分の価値を高めることになるのです。

また、許したからといって、私たちは、無防備になる必要はありません。

自分を苦しめた人に対して距離を置くことは、大切なことなのです。

・・・

<参考>
Lesson 01~40 については、
伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える」にて確認できます。
 → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461367

            <感謝合掌 平成30年5月21日 頓首再拝>

《一度憤った相手は思い出してゆるせ》 - 伝統

2018/05/27 (Sun) 03:44:08


          *「光明法語」(5月27日)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。
それは自分の家はもうすっかり不浄のものを洗ってしまって洗濯物はないと信じていても、
押入の隅っこに「汚れ物」をつくねて忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、一々その顔を眼瞼(まぶた)の
内に思い浮かべ、「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」と
心の中に唱えるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月27日 頓首再拝>

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2018/05/28 (Mon) 04:07:02


          *「光明法語」(5月28日)より

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

            <感謝合掌 平成30年5月28日 頓首再拝>

《真の赦しは、相手の幸福を祈ること》 - 伝統

2018/05/29 (Tue) 03:51:47


          *「光明法語」(5月29日)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

            <感謝合掌 平成30年5月29日 頓首再拝>

寛大に振る舞うことが、あなたにはふさわしい - 伝統

2018/06/15 (Fri) 03:42:39


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 42(P61)より


「寛大さとは、王の特質である」

という言葉があります。

本当に強い人間だけが、寛大になれるのです。

逆に言うと、あなたが寛大になれたとき、
あなたは本当に強い人間になれるのです。

            <感謝合掌 平成30年6月15日 頓首再拝>

許す、再び許す。常に許す - 伝統

2018/07/03 (Tue) 03:07:30

Lesson 43 許す、再び許す。常に許す

        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 43(P62)より

一度許したからといって、それですむものではありません。

恨みはなかなかしぶといもの。
油断をしていると、すぐに息を吹き返します。

『リチャード二世』のなかで、シェイクスピアも次のように言っています。

「許しの言葉を2回口にするということは、2回許したことではない。
許しの強さを2倍にしたのだ」

            <感謝合掌 平成30年7月3日 頓首再拝>

許すことによって、苦しみによる時間とエネルギーの無駄遣いはなくなる - 伝統

2018/07/15 (Sun) 03:43:40

Lesson 44 許すことによって、苦しみによる時間とエネルギーの無駄遣いはなくなる

        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 44(P63)より


イタリアの精神分析家であるロベルト・アサジョーリは次のように言っています。

「許さない限り、人生は、恨みと復讐の繰り返しになる」


あなたは、恨みと復讐だけの人生をすごしたいのですか?

            <感謝合掌 平成30年7月15日 頓首再拝>

朝、目覚めたら、心の中で、今まで受けた攻撃をすべて小包にして送り返そう - 伝統

2018/07/28 (Sat) 03:19:18

Lesson 45 朝、目覚めたら、心の中で、今まで受けた攻撃をすべて小包にして送り返そう

        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 45(P64)より


朝、目覚めたら、心の中で、
今まで受けた攻撃をすべてを小包にして送り返そう。

これは、相手にされたことを、
そのまま相手にやり返すということではありません。

むしろ、その逆。

爆弾の入った小包を開けないでそのまま相手に送り返す、ということなのです。

布団から出る前に、心のなかで、
あなたが受けた攻撃をすべて小包にして、送り主に送り返しましょう。

なぜなら、それは、配達間違いだったから。

そのことによって、許すことがいっそう容易になります。

            <感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>

攻撃されたことを、相手に伝えよう - 伝統

2018/08/29 (Wed) 03:54:13


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 46(P65)より

自分を攻撃した人に、自分が攻撃されたと伝えることは、
許しを容易にします。

相手の間違いによって自分が苦しんだということ、
そして自分はその苦しみを手放すことにしたということを、
相手にはっきりと伝えましょう。

直接相手に話してもいいですし、手紙を書いてもいい。

どちらも不可能な場合は、心の中でそれを行いましょう。

また、書いた手紙は出さなくてもいいのです。

            <感謝合掌 平成30年8月29日 頓首再拝>

《自分自身の欠点を許す》 - 伝統

2018/09/01 (Sat) 03:45:48


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月1日)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。

             <感謝合掌 平成30年9月1日 頓首再拝>

責める心ではなく、「豊富」を念じる - 伝統

2018/09/06 (Thu) 23:47:19


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月6日)より

相手が債務を履行しないことを責める心、払わせようと
「損」を気に懸(か)ける心よりも、

「すでにわれ無限供給の富を受けたり」という
「供給豊富」の観念を常に心に持ち続ける方
が、実際に富をいっそう増大することになるのである。

気の小さいようなことではいかぬ。
一方で損をしたにしてもクヨクヨと思ってはならない。

いっさいの富は「神」より来たるのであり、
「神」はいたるところに充ち満ちていたまうのであり、
そしてわれわれの想念するとおりの形をとって顕われたまうのであるから、
「損」を心に描くことなく、自分に「損」をかけたと思う人に対しては、

特にその人が「豊富」であるように念じてやることが相手を生かし
自分の債権も生かすことになる。

             <感謝合掌 平成30年9月6日 頓首再拝>

相手が目の前から姿を消した場合でも、自分が受けた攻撃をすべて送り返せる - 伝統

2018/09/24 (Mon) 03:21:53


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 47(P66)より

セラピストのジャック・サロメは、
攻撃した人がすでに亡くなっている場合には、
お墓の上に手紙を置いてくればいい、と言っています。

あるいは、新聞に、次のような広告を出せばよい、と。

「私は、~年~月~日、~の場所で、~という攻撃を受けました。
私は、受けた苦しみを、すべて攻撃した人に送り返します」

            <感謝合掌 平成30年9月24日 頓首再拝>

許しはあなたを豊かにする - 伝統

2018/10/07 (Sun) 04:24:54


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 48(P67)より

許しはあなたを豊かにする

そして、反対に、恨みはどれほど自分を貧しく、醜くすることでしょう。


あなたは貧しい人生を送りますか?


それとも豊かな人生を送りたいですか?

            <感謝合掌 平成30年10月7日 頓首再拝>

恨みの気持ちが湧いてきたとき、ゆっくりと深呼吸して波が過ぎ去るのを待とう - 伝統

2018/10/22 (Mon) 04:34:14


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 49(P68~69)より

恨みや憎しみや、波のように私たちを襲ってきます。

意識を呼吸に集中させることは、その波をやり過ごすためのとても良い方法。

意識を呼吸に集中させて、何度もゆっくりと息を吐き、息を吸ってみましょう。

やがて、心が穏やかになるはずです。

            <感謝合掌 平成30年10月22日 頓首再拝>

あなた自身を許そう - 伝統

2018/11/09 (Fri) 02:39:09


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 50(P70)より


私たちは、スーツケースの中に、
自分がやったことに対する後悔をたくさん詰め込んでいます。

人にされたことへの恨みよりも、
自分がしたことに対する罪悪感のほうが重いのです。

自分を許すことが、一番難しいのかもしれません。

でも、そろそろ自分を許して、荷物を軽くしませんか?

            <感謝合掌 平成30年11月9日 頓首再拝>

すべての者をゆるせ - 伝統

2018/11/20 (Tue) 04:16:47


       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。

            <感謝合掌 平成30年11月20日 頓首再拝>

赦しと愛と平和 - 伝統

2018/11/21 (Wed) 04:13:41


       *「光明法語」(11月21日の法語)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、神もわが過ちを赦し給いて
その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 と思念せよ。

            <感謝合掌 平成30年11月21日 頓首再拝>

他(ひと)を釈す心にならなければならない。 - 伝統

2018/11/28 (Wed) 03:26:09


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月28日)より

便秘はいかにして起こるか。

それは食物に関係して起こるというのは物質科学の解釈であるが、
同一家族にして同一食物を摂(と)りながら、一人は便秘し一人は下痢する
という場合において考えるならば、
それはたんに食物を変更するだけでは治療せしめないのである。

フロイド流の精神分析によれば、それが肛門に関係した疾患であるから、
すぐに幼児期の性欲に連関して解釈しようとするのであるが、
そうすべてを汎性欲論で片づけてしまうべきではないのである。

便秘は肉体の心の影という方面から分析してゆくならば、
あらゆる種類のものを失うことに対する恐怖が具象化したものだ
と言うことができるのである。

金銭の喪失に対する恐怖、友を失う恐怖、愛情を失う恐怖、
・・・等のごときはそれである。
これを一言(いちごん)にして言えば「把(つか)む」こころである。

把(つか)んで放たない心であるから、まず心を放下することを、
何物にも引っかからず、ゆったりと緊張を解く心に誘導すべきである。

恐怖はすべて把む心である。溺れるものは藁をも把む。

恐怖すれば手に汗を握る。(握るは把むである。)
すべての心が元であって、恐怖する念が起これば
全身にその形があらわれるのである。

血管は収縮し、皮膚は収縮して肌(はだ)に粟(あわ)を生ずる。
心臓も急激頻繁に把むがゆえに、その鼓動を増加し、
血圧は高まり、時として狭心症を生ずるのである。

かくて恐怖する者は直腸も肛門を収縮して「尻(けつ)の穴の狭い者」となり、
排便しえない状態になるのである。


われわれは他(ひと)を釈(ゆる)す心にならなければならない。
「釈(ゆる)す」は「放つ」であり、「放つ」は開放するのである。

他(ひと)を釈(ゆる)すことのできない者は「尻(けつ)の穴の狭い者」であり、
他(ひと)を害する心あるがゆえに、自分自身をも他(ひと)から害される
恐怖があるのである。

かくて内臓も筋肉もすべてみずから把(つか)むことによって
硬化し萎縮してしまうのである。

それを癒す道は、症状に対して直接的には
「人間は神の子であるから、害されるものではない。
われ便通によって生きず、神の生命(いのち)によって生くるなり」と
大らかな気持ちになって心から便秘を放つのである。

そして間接的にはもっと根本的には、
ゆたかに愛しゆたかに釈(ゆる)す念(こころ)を起こすことである。

いやしくも人を釈(ゆる)さず、やっつけてやろうというような考えを
起してはならないのである。

他(ひと)を傷つける心は自分を傷つけ、
他(ひと)を愛する心は自分を愛することになるのである。

            <感謝合掌 平成30年11月28日 頓首再拝>

《人を赦して眠ること》 - 伝統

2018/12/15 (Sat) 04:09:18


        *「光明法語」(12月15日)より

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

            <感謝合掌 平成30年12月15日 頓首再拝>

汝の罪は赦されている - 伝統

2018/12/22 (Sat) 04:37:02


           *「光明道中記」(12月22日 完全解放の日)より抜粋

【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】


「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、ものを言い出したと言った。

            <感謝合掌 平成30年12月22日 頓首再拝>

人々を釈(ゆる)し、眠ること - 伝統

2018/12/23 (Sun) 04:42:54


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月23日)より抜粋

わたしは『光明の生活法』の中で就寝前の15分間の神想観の方法を説いておいたが、
それを病気の治癒に応用する場合に特に注意すべきことは、

就寝前に、その日、またはそれまでの日において呪っていた人々を釈(ゆる)し、
憤(いきどお)っていた人々を宥(ゆる)し、憎んでいた人々を恕(ゆる)し、
自分の好まない人たち、反感ある人たちとその過失とをことごとく赦して
眠ることである。

眠っている間に最も多くの癒しの神力(自然療能)は進行するのである。

「私はもうあの人を憎んでいない。」

あの人があの時ああいう態度に出たことは、
かえってわたしにとって必要なことだったのである。

わたしが彼を憎んでいたのは、わたしの観察眼が狭いために、
あの人がああいう態度に出たことを、
自分に害があるように思って思いちがいしていたにすぎないのである。

本当はあの人がああしてくれたので、わたしの《ため》になったのである。

            <感謝合掌 平成30年12月23日 頓首再拝>

許しは『千里の道も一歩から』 - 伝統

2019/01/06 (Sun) 04:08:57


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 51(P71)より

許しは『千里の道も一歩から』。
この諺をけっして忘れずにあなたを豊かにする


この古い諺には深い意味が込められています。

あらゆる状況に当てはめることができるでしょう。

許しに関しても同様。

他の場合と同じく、許しの場合も、最初の一歩が一番難しいのです。

さあ、いま、勇気を出して第一歩を踏み出しましょう。

            <感謝合掌 平成31年1月6日 頓首再拝>

両親を許して、悪い絆を断ち切ろう - 伝統

2019/01/24 (Thu) 04:18:15


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 52(P72)より


世界中で一番優しく、一番注意深く、一番愛情深い両親であっても・・・

つまり、世界中で一番良い両親であっても・・・

子どもに対しては間違いを犯すもの。

こうして、両親は、自分たちがその両親から受け継いだ振る舞い方を、
そのまま私たちに伝えているのです。

親の因果が子に崇る、というのはこのこと。

誰かが、この悪循環を断ち切らねばなりません。

どのようにして?

そう、あなたが許すことによってです。

            <感謝合掌 平成31年1月24日 頓首再拝>

人を赦したときのみ神に赦される - 伝統

2019/02/03 (Sun) 04:29:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月3日)」より抜粋

争っていた者が仲よしのなることほど嬉しいことはない。
失われた一匹の羊が帰って来ることは、
亡(うしな)われない九十九匹がそこにいるよりも嬉しいとイエスは言った。

(中略)

なんじの心の中の羊をしらべてみることが大切である。
亡(うしな)われたる羊はないか。
あなたを憎んで去った人はなかったか。

誤解があったならば誤解を互いにほどくこと。
憎んでいたならば赦すこと。
恨んでいたならば恨みを解(と)くこと。

心の思いと、物の負債とにかかわらず、借りものがあったら利息をつけて返すこと。

神の前に出て、もう誰とも仲の悪い人はございません。
争っている人はございません。
すべての憎みと恨みとは完全に水に流しました。

もう誰にも負債はありませんと、おおらかな気持ちで言いうるようになれない人は、
まだ心に病のある人である。

人の世に生活して、それほどの心になれる人は少ないにしても、
それほどの心になれないかぎりわたしたちは神の前にいと小さなる者である。

もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、
わたしたちは人を責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。

わたしたちは人を赦すほかに仕方がないのである。

ただわたしたちが、人を赦したときのみ神に赦されるのである。
ただ人と仲よしになったときのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。

仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれるものではない。

            <感謝合掌 平成31年2月3日 頓首再拝>

すべての家族を赦すこと - 伝統

2019/02/08 (Fri) 04:18:17


           *「光明道中記」(2月8日 家族互いに赦す日)より

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、
細君は河豚(ふぐ)のように「ふくれても好い権利」を主張する。
                        (『生命の實相』第四巻)】


審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、青鬼のようなヒステリックな人、
赤鬼のように興奮した人、こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、
そんな家族の住んでいる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の多い少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合が変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。
赦さないから、筋肉が突張るものを。
赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。
癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」
とキリストは言っている。

心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、
その家庭は屹度面白くないであろう。
柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

            <感謝合掌 平成31年2月8日 頓首再拝>

人を赦すものは神からも赦される - 伝統

2019/02/14 (Thu) 04:54:00


      *「光明法語」(2月14日《他人に対して寛大なれ》)より

他に寛大なるものは、神からも寛大に取り扱われるであろう。
其処に「善人なおもて救われる況や悪人をや」と
親鸞の言ったことがもっともだと思われるのである。

人を赦すものは神からも赦されるのである。
人を審判(さば)く者は法則によって審判(さば)かれるのである。

神につかえる道は人につかえることにあるのである。
「いと小さきわが兄弟に対してなせるは我に対してなせるなり」
とキリストは言っているのである。

その代わりに神からの報いも人を通して与えられるのである。
突如として天から降って来る訳ではない。 

            <感謝合掌 平成31年2月14日 頓首再拝>

子どもたちを非難せず、許そう - 伝統

2019/03/06 (Wed) 04:27:36


        *『幸せの扉を開く許すための81のレッスン』マリ・ボレル(著)
          ~ Lesson 53(P73)より

子どもたちは、私たちに反抗します。

子どもたちは、私たちを失望させます。

でも、それは、彼らが大人になるためには、どうしても通らなければ
ならないプロセス。

彼らを非難するのではなく、彼らを理解し、そして許しましょう。


私たちも、同じようにして育ってきたのですから。

            <感謝合掌 平成31年3月6日 頓首再拝>

人の罪をゆるせ - 伝統

2019/03/23 (Sat) 01:39:46


           *「光明法語」(3月23日)より

病気は罪の現れであるとイエスは見ている。
其の証拠に彼は「汝の罪ゆるされたり」と言って人の病気を治しているのである。

そこで病気が治る為には罪が赦されると云うことが必要である。

そころが如何にしたら罪がゆるされるかと云うと、イエスは

「汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、汝らの天の父も汝らを免し給わん」
(「マタイ伝」第六章十四)

と言っている。

人の過失(あやまち)を見る心(過失<あやまち>は本来無であるから)
そのものの實相の隠蔽(包み ―― 罪)であるから、人の過失(あやまち)を見ず、
その奥に輝く彼の神性を観るとき罪がなくなるのである。

            <感謝合掌 平成31年3月23日 頓首再拝>

ありのままの自分を許し、愛する - 伝統

2019/04/12 (Fri) 02:09:24

       *「あなたが「宇宙のパワー」を手に入れる瞬間 永遠に続く幸せの源泉」
        ~ディーパック・チョプラ(著)(P123~125)より

あなたは完全なのです。

あなたが自分の影を心地よく感じるとき、
それは無限の意識があなたをそのようにつくったからであり、

影さえも愛情をもって容認するとき、
あなたは計り知れないほど魅力的で、
あなたの人生は冒険に満ちたものとなります。

あなたが自分自身のあいまいさを心地よく感じるとき、
それは自然なことであり、この世で自然でいることより
美しいものはありません。

あなたが自分の強みや弱みの両方を心地よく感じるとき、
あなたからシンプルで気取らない人間性が溢れ出します。

これが、人に好かれる本質で、
それは愛を遠ざけるような態度がない状態だからです。

このような状態でいるとき、あなたは他人を意識したり、
まわりの人へ承認を求めるようなことはありません。
あなたは存在しない理想と自分を比べる必要がないのです。

あなた自身の経験が自己完結的な場合、
それは愛に基づき、あるがままの状態を受け入れています。

自己完結的な人は自然で、他人の意見に影響されません。

彼らは無邪気で、シンプルで子供のようです。

「神様、私をただ単に今ある状態にしてくれてありがとうございます。
私には良いところも悪いところもあって、すべての物が自分の中にあります。
私は完全です」

自己受容、完全な自己受容は自分を許すことです。
あなたが自分自身を許し、自分自身を裁くことをやめたとき。
あなたは他人を裁くことをしなくなり、
そして世界で争いごとが減っていくでしょう。

            <感謝合掌 平成31年4月12日 頓首再拝>

自分の未熟さを知り、人をゆるすことです - 伝統

2019/04/27 (Sat) 03:24:35


        *「斎藤一人 俺の人生」(P83~84)より

人間には未熟さも必要なんです。

例えば、宇宙に地球という惑星が1個しかないと、
地球が大きいかどうかもわからないよね。

月だとか、火星だとかっていう、比較するものがあるから、
地球が大きいとか小さいとか、固いとか柔らかいとか、
そういうのがわかるんです。

こっちのコップには水を入れて、
もう一つにはお茶入れるとします。

そうすると、こっちはお茶の緑色で、
こっちは水だから透明だっていう比較ができる。
それで初めて、色の違いもわかるよね。


それと同じように、人間にも嫌なやつがいるから、いい人がわかる。
いい人しかいなかったら、いい人か、悪人かもわからないよね。

結局、一人しかいないっていう状況は、
学びにならないんです。
1はゼロと同じ、比較する対象物がないから。


でね、未熟だから自分の成長もわかるし、
未熟な人とか成長の遅い人がいるから、
成長の早い人もわかるんです。

成長が遅いからいけないとかじゃないよ。

私たちはものすごく長いスパンで生きてるから、
ゆっくりでかまいません。

で、そのことが問題じゃないの。

もっと大事なのは、学びの悪い人とか、
学ぼうとしない人をゆるすことです。

そして、そういう人たちをゆるすためには、
自分の未熟さを知ることだよね。

            <感謝合掌 平成31年4月27日 頓首再拝>

《一度憤った相手は思い出してゆるせ》 - 伝統

2019/05/27 (Mon) 04:33:31


         *「光明法語」(5月27日)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。

それは自分の家はもうすっかり不浄のものを洗ってしまって洗濯物はないと信じていても、
押入の隅っこに「汚れ物」をつくねて忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、一々その顔を眼瞼(まぶた)の
内に思い浮かべ、「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」と
心の中に唱えるのである。

            <感謝合掌 令和元年5月27日 頓首再拝>

真の赦しは、相手の幸福を祈る - 伝統

2019/05/29 (Wed) 03:26:48


         *「光明法語」(5月29日《相手の幸福を祈ること》)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

            <感謝合掌 令和元年5月29日 頓首再拝>

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