伝統板・第二

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九月の法語 - 伝統

2017/09/01 (Fri) 04:49:17

このスレッドでは、他の掲示板から、次の5つの法語を紹介してまいります。



(1)『 生長の家 』 昭和二十三年 九月号法語

   *次のWeb「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

(2)『 生長の家 』 昭和二十四年 九月号法語

   *次のWeb「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

(3)『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号法語

   *次のWeb「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
       

(4)『 生長の家? 』 昭和33年9月の法語

   *次のWeb「本流宣言掲示板」からの転載です。       
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=944 (→ 既に消滅)
    なお、日付不明のため、順次の紹介となり、18日分で終了となります。

(5)『 理想世界 』昭和42年9月の法語

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7069750


                ・・・



【常住戦死の心】~「光明道中記九月こころ極まる<はじめの言葉>」

          (初出は「生長の家」誌・昭和14年9月巻頭言)


宇宙には唯一(ただひとつ)、大御心のみがある。

天皇の大御心である。

「忠(ちゅう)」とは大御心に無我帰一する心である。
すなわち天之御中主大神の心に「中(ちゅう)」する心である。
「中(ちゅう)」とは的(まと)に中(あた)るであり、御本質に貫き徹するのである。

宇宙の實相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従うのである。
吾らが大御心を行ずるのは、それによつて幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。
そう云う第二次第三次の事物よりも、尚々(なおなお)すぐれて無上價値なるものが大御心である。

その大御心を実現することは無上価値であるが故に、そのような第二次、第三次のお蔭などは
心に微塵も止(とど)めないで、大御心を行ずるのが「忠」である。 

そしてそれがまた生長の家家族の心である。

大御心を行ずる爲に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。
戦場に於て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。

これを「死」と云う不吉な連想を伴い易き言葉を用いず、
「肉体なし、物質なし」と吾らは云う。

その死に切った心だけでは消極的否定の心である。

そこに「大御心《のみ》あり」の大肯定がなければならぬ。
生長の家ではこれを「神一元」と言う。天皇独在とも言う。

・・・

【一日の法語(9月1日)】

(1)《生命は智慧によって生命体となる》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   生命は 智慧によって働き、
   智慧は 秩序をもって展開して 生命体になる。

   だから 知慧ある生活は 生命体を健康ならしめるのであるが、
   智慧のない生活は 生命体を不健康ならしめるのは当然である。

   智慧のない生活は 生命体の秩序を破壊するのである。

・・・

(2)《無限の宝庫は 今 此処 にある》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   有名なゴルコンダーのダイヤモンド鉱の発見された歴史が或る本に書いてあった。

   あの哀れなるアーリー・ハーフェッドが(ダイヤモンドを求めて)
   遠く さすらい歩かないで、

   ただ自分の家でじっとして今あるものに完全に感謝して
   今に全力をつくしていたならば、

   飢え死に一歩手前で身投げするどころか
   全世界第一の大富豪になっていたはずであった。


   彼のもっていた農園地帯全部が
   無数の宝石を蔵しているダイヤモンド鉱であったのである。

   無限の富は すでに 今 ここに 与えられているのである。

・・・

(3)《人間は奴隷になってはならぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   俗世間の毀誉褒貶は、彼ら自身が、わが実相の完全円満なることを
   見る力がないことをみずから表明しているに過ぎないのである。

   他(ひと)によってうごかされるものは奴隷である。
   奴隷のみが世間的名誉を求めるのである。
   
・・・

(4)《すべての物は神の賜物である》

   (全文は)

    → 

   (全文紹介)

   キリストが或る時、奇蹟を行った。
   五つのパンを五千人に分けたら食べ飽きて尚
   籠十二杯に山盛りのパンが残った。

   そんな馬鹿らしいことがあるものかと一見思われるのであるが、
   聖書を注意して読むと、
   イエス『一片のカケラも残らないやうに其のパンの屑を集めよ』
   と弟子に指令しているのである。

   茲に真に無限供給の原理があるのである。
   一片のカケラもすべて神からの賜なのである。

   その賜を尊重する心のあるところに、そのカケラが増進して、
   ついに十二杯の籠に山盛りのパンともなったのである。

   神からの賜を尊重しないで、唯単にそれを物質的な塊だと、
   軽くあしらっているところに、人間が貧しくなる原因があるのである。

   物質はそのまま『神の愛の実現』である。

   百丈和尚は一枚の菜の葉が川へ流れて行ったのを駈足で追って行き、
   それを拾って『佛物』として頂いたと云うことである。

・・・

(5)《吾々は外界の事物をいかにして認識するか》

   (全文は)

    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7069750

   (抜粋として)

   客観的の存在そのものは、われわれの眼や耳という感覚器官に直接はいって
   来るのではなく、客観界の存在から発せられる或る波動がわれわれの
   感覚器官に衝動を与え、その衝撃を、感覚器官が感受する、

   その感受した衝撃を伝えられた意識が、複雑に伝えられた色々の衝撃を
   分析及び総合して、そこに客観界にこのような物体があるのだと
   みとめるのである。

   そして或る人は、其処に本当にそれがあると信ずる。

・・・

<参考>


(1)『 光明法語<道の巻> 』(九月の法語「「大生命の歓喜)」)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=235 
      (光明掲示板・第一)

(2)『 生命の實相 』第三十八巻幸福篇(九月「苦難すでになし」)
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=106 
      (光明掲示板・第二)                    

(3)『 光明道中記 』(九月「こころ極まる」)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=27 
      (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)

            <感謝合掌 平成29年9月1日 頓首再拝>

【ニ日の法語(9月2日)】 - 伝統

2017/09/02 (Sat) 04:15:53


(1)《智慧は秩序である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   生長の家は決して物的方面の秩序を軽んずるものではない。

   何故なら 物質的秩序も結局は 宇宙大生命の智慧の発現であり、
   結局心的なものであるからである。

   「 物は心の影 」 と云うのも 此の方面から理解出来る。

・・・

(2)《人の捨てた処(ところ)に自分の 「 機会 」 がある》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   機会というものは始終吾々の周囲にあるのである。
   エヂソンもフォードもそれを手近な処から発見したのである。
   
   まずそれを発見するには、この世界には何が欠乏しているか、
   何が求められているかを知ることである。

   そしてその欠乏しており、求められているものを供給してやるようにしてやれば、
   富が出来るのである。

   多くの運のいい人は人が捨てたものを拾って自分の富とするのである。

   人のすてたものの中に自分の機会があるのである。
   悪いと思っているものがよきものに変わるのである。

   時は待たねばならぬ。
   そして今あるものを愛しなければならぬのである。

・・・

(3)《実相を語らない言葉は只の振動である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   人が自分を悪しざまに批評するときは、
   それは神のコトバで無いことを知れ。

   神のコトバは必ず善きことのみを語るのである。

   悪しき言葉は迷いによって引き起されたる
   只の空気の振動に過ぎないのである。

・・・

(4)《すべての欠乏の原因は ― ?》

   『物質は物質に非ず、それは神の愛の具象化である。』 

   私たちが一片のパンの欠ケラをも神の愛として感謝する心になるとき、
   私たちは實相の世界にある無限供給の霊的波動を合わすことができ、
   必要に応じて、その欲するものを現実の世界に実現して来ることが
   できるのである。

 
   生活力の欠乏 ― 即ち虚弱や病気 ― それから、
   経済力の欠乏 ― すなわち貧乏や物資不足は、

   私たちが神の愛の具象化に波長を合わさなかったときに、
   テレビに放送が映って出ないように、
   受信力の欠陥としてあらわれて来るのである。

   この原理を知らないために、或る種の人は、物資の潤沢を
   確保するために、霊的世界に波長を合わすことを忘れて、
   逆に貪欲になって、貪り取ろうと云うような気持になるのである。

・・・

(5)《普通人は素朴的リアリズムである》

   (全文紹介)

   われわれが感覚器官によって見える通りに物体が存在すると
   素朴にみとめて何ら疑わない存在論を素朴的リアリズムと称するのである。

   それが一般普通の人のものの考え方であり、唯心哲学者といえども、
   実際生活に於いては大抵、見える通りにものがあると
   信ずる形で生活をするのである。

   すなわち橋があると見えれば足をあげて橋を渡ろうとするのである。
   船があると見えて、対岸に渡りたいと思えば、
   彼は本当にそこに船があるとして、その船に自分の体を乗せるのである。

   水があると見えれば、水を飲むし、食物があると見えればそれを食する。

   こうして日常生活に於いては、唯心論者といえども、
   物質を仮りに見える通りにあるとして行動するのである。

   だから見える通りに、果たしてそのものが実際にあるのだろうかと考えるのは、
   余程、知性の発達した人のみのことであるのである。

   皆さん、果たして、物体は吾々の感覚があると感じているようにあるのでしょうか。

            <感謝合掌 平成29年9月2日 頓首再拝>

【三日の法語(9月3日)】 - 伝統

2017/09/03 (Sun) 04:23:22


(1)《心を調律すること》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   生命体は秩序の顕現であるから
   秩序が破れたらそれだけ傷つくのである。


   先ず、次のような心を持たぬことである。

     一、腹立てやすい。

     二、いらいらする。

     三、気むずかしい。

     四、陰気くさい。

     五、自己軽蔑。

     六、受難礼賛。

     七、呟く心。自己憐憫。

     八、同情を求める心。

・・・

(2)《物の熟するには時間がかかる》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   人間の魂は鉱山にある大理石のようなものである。

   それをほり出して適当に磨き上げた時に、その大理石の美しい光沢や
   筋模様や雲模様が浮び上ってくるのである。

   人間は教育によって磨かれて 始めてその立派な本性が発揮されるのである。
   
・・・

(3)《唯、善き言葉のみを語れ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   吾らは苟(いやしく)も言葉を語るならば、
   善き言葉を語らなければならない。

   「世の中に軽蔑さるべきものは存在しないのである。
   唯、軽蔑すると云う心のほかには。」と
   知恵の言葉に書かれているのである。

   吾等が唯、優しき言葉、愛の言葉のみを語るとき、
   其処(そこ)に天国が実現するのである。
   
・・・

(4)《實相世界にある富を現実にするには》

   (全文として)

   人の富を、その外形的な数量的な物質や貨幣の量によって
   はかってはならないのである。

   真理を知ったところの人は、すべての富は物質の量ではなくて、
   天の倉に貯えられたる霊的なる『徳』であり、その眼に見えざる
   『徳』が必要に応じて物質的な富として形をかえて現象界に
   あらわれて来るものだと云うことを知っているのである。

   人間は神の最高の自己実現としてつくられたものであるから、
   神が人間を貧しくつくるようなことをしたまう筈はないのである。

   神は人間を自己の最高実現として、最高の『徳』を実現することを
   目的としていられるのであるから、『徳』を行じ『徳』を実現する
   とき、おのずから経済的にも豊に『其の實相の富』を此の世に実現
   することができるようになっているのである。

・・・

(5)《何故物質が心象となって感じられるか》

   あなたは、外界にある物体や人間を見る、
   そして其処に、それ又は彼があると見る。

   何によってあなたはそれを知るのであろうか。
   あなたはそれを目を通して見るのである。

   普通の人は、「私の眼がものを見る」という。

   知性のすぐれた人は、それだけで満足できないのである。

   「眼はどうして外界の事物や人間を見るのであろうか」と彼は考える。

   光の波動が瞳孔から入って水晶体というレンズを通して
   網膜上にその光の波動が焦点を結ぶのである。

   そこまでは、物質的に考えられる「ものを見る」過程である。

   しかし物質的な波動の刺激が、どうして網膜上に網の目のように
   その尖端を張りめぐらせている視神経の末端を刺激したら、
   それが視覚という「心に感ずる形」となってあらわれるのであろうか
   ということが次の疑問となって来るのである。

            <感謝合掌 平成29年9月3日 頓首再拝>

【四日の法語(9月4日)】 - 伝統

2017/09/04 (Mon) 03:21:44


(1)《人を呪わば穴二つ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   他に対して 憎悪、悪意、嫉妬、猜疑、人の不幸を喜ぶ心、
   人の失敗を痛快に思う心を起すことは、
   それは いずれも他を害する心であるから、
   一種の爆弾の如く 他に悪念波を送る。

   同時に 自分の内に 先ず自分を害する 「 悪念波 」 を発生して
   自分を害する。

・・・

(2)《伸びる時に伸びるのではない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   或る機会をつかんですばらしく伸び得る所の人は、
   実はその機会に伸びたのではなくして、
   すでに蓄積されていた所の過去の訓練が一時に爆発したのである。

   あらゆる事物は、それを始める前に充分なる用意が要るのである。

・・・

(3)《聖者は言葉の音楽で人生を飾る》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   聖者は言葉を慎みて悪しき言葉を使わないが、
   世俗の人はみずからを高くせんとして相手を侮辱又は見下した言葉を使う。
   その結果却って自分自身が侮辱せられ、又、わざわいを招くのである。

   実相を表現するものも言葉であれば、実相をくらますのも言葉である。

・・・

(4)《現象の奥にある實相の富》

   人生の目的は富を得ることでもなければ、
   名声をかち得ることでもないのである。

   人生の目的は最高の神の自己実現として、
   人格を神格にまで高めることである。

   現象にあらわれている富をのみ求めることは
   却って『實相の無限の富』を忘却させて、
   自己に与えられている富を縮小することになるのである。

   神が与えたまう富は、霊的なものであって、
   物質的な富は、ただ其の影に過ぎないのである。

   神は霊であり給う。それゆえに神は霊の賜を与えたまう。
   即ち、愛を与えたまい、智慧を与えたまい、生命を与えたまうのである。

   それを感謝して受け且つ働かすとき、波長が合って、
   それがテレビの画面に映像があらわれるように、
   物質界の富としてあらわれて来るのである。

   現象の有限の富だけを握って、其のために
   現象の背後にある『實相の富』を見失ってはならない。

・・・

(5)《大脳の中の心象と客観的事物とは一致するか》

   視神経の末端を刺激した波動は、その神経繊維を伝わって大脳の視覚中枢に
   つたえられ、其処において、それが如何なる形のものであるかの
   「心の象」(心象)がつくられるのである。

   それは大脳の中に於いてである。

   吾々が「机」を見る。机の心象は、大脳の中に於いて描かれているのである。

   それがどうして外界に、数メートルの距離の彼方に、或いは数千メートルの
   距離の彼方に、自分を離れて独立して存在する物体又は人間として
   感じられるのであろうか。

   その見えている物体又は人間は、実際に見えている通りに、
   その如く本当に存在するのであろうか。

   普通の人は、そんなことに疑問をもたない。

   実際、その見えている通りに、それほどの距離をはなれて、
   その物体又は人間があると信ずる。

   しかし本当に客観的に自分と離れてその通りの姿があるのであろうか。

   その「見えている形」なるものは、大脳の中でつくられた心象であって、
   客観的にある物体又は人間がある通りの姿を、
   その心象がつくり出しているかどうかは疑問なのである。

            <感謝合掌 平成29年9月4日 頓首再拝>

【五日の法語(9月5日)】 - 伝統

2017/09/05 (Tue) 04:42:59


(1)《人間は永遠に老いない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   「 老い 」 は心によって刻まれるのであって、
   歳月によって刻まれるのではない。

   人生には老熟と云うことはあっても、老衰すると云うことはない。

   人生には時々刻々の 「 今 」 が 常に機会である。

・・・

(2)《「 今 」 を使い切るようにせよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   今もてる能力を最大限に使っておれば
   その次の能力が伸びてくるのである。

   今与えられたる境遇に於いて、最大のサービスを捧(ささ)げておれば、
   次に 尚(なお)一そう大いなる能力が発展し、
   尚一そう自分にとって希望を満足せしめる環境が開かれてくるのである。

   一つ知ったことを一つ行えば 次の智慧が又生れて来る。

・・・

(3)《奴隷にならぬ方法》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   吾らは如何なる者に対しても
   其の奴隷的状態から超出しなければならぬのである。

   人間が如何に民主主義の世界を求めても、
   自分自身が奴隷である限りは、
   制度はいくら変っても奴隷であるのである。

   制度のことは政治的天才にまかせて置け。

   人間が奴隷的心境を脱したとき
   彼はどんな制度の下にも自分が自分の主人公となる。

・・・

(4)《『徳』を失った『富』は必ず消える》

   愛行をもって『實相無限の富』の宝庫の扉をひらくための鍵とせよ。
   利己心をもって『現象有限の富』を得ようとするならば、
   それは『有限』を互いに取分多く分配しようとするのであるから、
   其処に必ず無理が出て来て争いや戦いを生ずるのである。

   誰がどんなに使っても減らないところの富
   と云うものが實相世界にはあるのである。

   實相の富は無限であるから、其処から幾ら富を引き出して来ても、
   其処には尚、無限の富が残っているのである。

   徳を積まないでいて、現象の富のみを積もうと考えてはならない。
   背後の『徳』を失っている現象の富は吾々に生活の豊かさと安全とを
   保証するように見えながら実は色々の心労を齎すのである。

   それは権力を保証するように見えながら嫉妬羨望と勢力争いとを生ずる。
   それは幸福を保証するように見えながら不幸を招来し、
   永遠を約束しながら須臾にして消えるのである。


・・・

(5)《視神経の“点”的な刺激が映像としてあらわれるには?》

   網膜上に触手をのばしている視神経の末端は謂わば、”点”であって、
   無数の“点”がそこに散らばっているのである。

   その無数の点に対して、
   強度と性質の異る色いろのエーテル波動が刺激を与える。

   それを一つの心象にまとめて具体的な物象と感ずるのは、
   それは物質のはたらきだけで可能なことではないのである。

   どんなに小さい”点”でも、点は点であって、互いに離れているのである。

   その互いに離れている無数の点を、互いに連繋せしめ、つなぎ合わせて
   一つの具体的映像をつくりあげるという働きは、
   知性のない物質のただの化学反応だけではできる筈はないのである。

   すると、大脳を媒介として生じた具体的な心象は、本来“心”の世界に
   あるのであって”心”の世界にあらかじめ存在する心象を、

   視神経を通して大脳に与えられた無数の“点”をつなぎ合わせて、
   感覚面上に浮かび上がらせて、
   それを外界に投影(又は移入)して、或る距離を隔てた位置に、
   その物体又は人間が存在すると知覚せしめたのである。

            <感謝合掌 平成29年9月5日 頓首再拝>

【六日の法語(9月6日)】 - 伝統

2017/09/06 (Wed) 04:20:38


(1)《人の噂話をするな》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   噂話は往々にして人の悪を指摘して、
   皆でせせら笑うような気持になり勝ちである。

   そのため、一地方に 二派の生長の家誌友会が出来て、
   互いに対立して 他の悪口を云うようなこともある。

   慎むべきことである。

・・・

(2)《急がず 撓(たゆ)まず 聡明(そうめい)に》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   余り急ぎすぎれば 却って結果は遅れることになる。
   ゆっくり たゆまずに一歩一歩前進するものは
   最後の勝利を得るのである。

   ゆっくりと、然(しか)し なまけずに 聡明に。

・・・

(3)《事物の真相を知れば恐怖はない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   真相がわかれば恐怖すべきものは何物も存在しないのである。

   第一に吾等が知らなければならない真相は、
   吾々の想念と云うものが自分自身の心の快不快を
   変化すると同時に、

   自分を取りまいている環境、人間、供給、境遇、位置などを
   変化すると云うことである。これが真相である。

・・・

(4)《富は實相を現実化するために使うべきである》

   現象の富は、神の国なる實相の富の現象界への延長
   であることを知らなければならない。

   それであるからその富は、ただ貪って蓄積するだけに
   使ってはならないし、浪費するために使ってもならないのである。

   それは實相世界の素晴らしさを現実世界にあらわすための
   聖なる目的のために使わなければならない。

   換言すれば建設的な目的にのみ使わなければならないのである。

   ただ蓄積のためのみに使ってはならないし、
   ただ消費するためのみに使ってはならないのである。

   無論、聖なる目的のために使うためには、
   半端な資金ではどうにもならない事であるから、
   ある金額に達するまでそれを蓄積したり、
   協同貯蓄することも必要である。

・・・

(5)《感覚にて知覚されたる物象は決して単なる幻覚ではない》

   “心”が視覚器官に於ける“点”の刺激をつなぎ合わせ、
   それを解釈し翻訳して、”一定の物体又は人間が外界にいる“と視る。

   それが単に、その一人の人間の感覚にのみそう見えるのではなくて、
   他人の人がその感覚によって、その同じ物体を見れば、

   ”壺“は壺として見え、”机“は机として見え、
   ”人間“は人間として見え、容貌も同じように見えて、
   一人の人間が”彼“を”木村君“として見るならば、
   他の人間も”彼“を木村君として同じ容貌の特徴を捉えるのである。

   だから”心”が点の刺激をつなぎ合わせて、
   一定の映像をつくり出したにしても、
   それは単なる幻影ではなく、何人も同様に、其処に、
   そのように視える何か一定の波動又は”サムシング”が存在する
   ということを肯定しなければならないのである。

   つまり知覚されたる物象は、単なる幻影ではなく、
   そのような条件の下に於いて人類一般の感覚器官を通して知覚すれば、
   一定のそのような形に視える”波動”又は”サムシング”が
   客観的に存在するということである。

            <感謝合掌 平成29年9月6日 頓首再拝>

【七日の法語(9月7日)】 - 伝統

2017/09/07 (Thu) 04:49:38


(1)《人の善を讃える会》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   生長の家の集りは、
   人の善を見出してそれを讃える会でなければならぬ。

     一、人の悪を見つけること。
     二、陰口をきくこと。

     三、ゴシップをすること。
     四、皮肉や嫌味を云うこと。

     五、人の悪を批議する事。即ち切りさばく心を起すこと。


   以上のようなことを誌友会でやってはならぬ。

・・・

(2)《他の批判を恐れては何も出来ぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   どんな立派なものも人に認められぬ時期があるものである。
   最初の創作や発明が人から認められないからといって失望するにあたらない。

   人間の批評はまちまちである。
   人々の批評にふりまわされているようでは
   如何なる大事をも成しとげることは出来ないのである。


   自ら信ずるもののみが偉大なる仕事を完成し得るのである。

・・・

(3)《先ず心を幸福にせよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   吾々の想念感情が先ず幸福にならなければ
   吾々の住む世界は幸福にならないのである。

   貝類は自分の分泌する液によって、
   自分の肉体の棲(す)む貝殻を造るかのように、

   吾々は自分の分泌する想念感情によって
   自分の住む環境をつくるのである。

・・・

(4)《不幸を予想して貯蓄してはならない》

   必要な建設的目的に使うために蓄積されたる富は、
   實相の投影であるけれども、未来に起るであろう何か不祥事を
   予想して貯える富は恐怖の投影であるから、その予想する心が、
   予想する不幸を呼び寄せることになるのである。

   心に予想することが実現すると云うのが心の法則であるから、
   不幸を予想して貯えた富は、将来必ず予想した不幸が来て、
   それを消耗してしまうことになるものである。

   病気したときの治療費として金を貯える人は、丁度、入院費用
   だけが貯まったときに、本当に病気に罹って、その貯金を
   治療費に使ってしまい、丁度その治療費の貯えが
   なくなったときに病気が治ったりするのである。

   真の富と云うものは、一切のものが其処から生み出されて来る
   『エデンの園』(龍宮海)即ち實相界から供給されて来るので
   あって、常に實相に波長の合う心をもっておれば必要に応じて、
   それが現象界の富となって供給されるのである。

・・・

(5)《物質は本来“物質”ではない》

   その客観的に存在する”波動”又は”サムシング”は
   果たして“物質的”なものであろうか。

   それとも“霊的”又は“心的”なものであろうか。

   それが単に物質的なものに過ぎないのであったならば、”物質”がどうして
   ”心”と連絡したり、“心”に感じられたりするのであろうか。

   全然性質が異なり、その範疇が異なるものは、
   互いに感応することはできないのである。

   光の波は電波となり、電波は、更に光波に還元したり、音波になったりする
   けれども、それはいずれも物質的エネルギーの範疇に属するものであるから
   互いに感じ合い、互いに交流して状態を変化するのである。

   しかし、物体から発したところの光の波が心象に変化するということは、
   どうしてそれが可能なのであろうか。

   吾々の“意識”というものが、
   外界に存在する“物象”のイメージを描き上げるということができるのは
   外界に存するところの“物質体”だと見えているものも、

   実は“精神体”又は“霊体”であって、同一範疇に属するからこそ、
   心が物体を感じて、その存在をみとめることができるのだと
   結論しなければならないのである。

   即ち”物質”と見えるものも本来”物質”ではなく、
   一種の心的波動の固まりであるのである。

            <感謝合掌 平成29年9月7日 頓首再拝>

【八日の法語(9月8日)】 - 伝統

2017/09/08 (Fri) 04:55:05


(1)《過去に低回する心を捨てよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   「 昔はあんな事があった、こんな事があった 」 と
   過去の善や繁栄を誇る心は 老衰の徴候である。

   心が過去に執着するようになれば前進が止る。

   今を生きよ、屹度(きっと)諸君は前進するであろう。

・・・

(2)《人は妻のヒントに左右されるものである》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   凡(およ)そよき妻を得ることは偉大なる資本を得るのにも勝るのである。

   丁度意気 相投合した互の智能(ちのう)が協力し得る所の
   協力者を彼は得たのであった。
   その結果 彼は特殊鋼を製造するのに新しい方法を発明したのであった。

   小さい助言にすなおに従うことが、
   その人の運命を大きく育てる種々なるものである。

   自分の周囲にやってくるすべてのものを、
   神の与え給(たも)うた賜(たまもの)であると信じて待つ者は
   それが本当によき賜に変化するのである。

・・・

(3)《人間の霊的解放》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   そして自分を霊的存在として自覚し得た程度に
   随(したが)ってその人は解放され、
   自由を得るのである。

   人間が霊的に解放され、その随伴的効果として
   家運隆昌も起れば肉体の健康をも得られるのである。

・・・

(4)《神の智慧より富の導きを受けること》
  
   すべての欠乏は、自分の心の産物であるのである。

   自分の心がケチであり、もっと力を出さなければならない時に
   力を出すことを吝んだり、『實相』に智慧を仰げば、
   もっとよい智慧があらわれて来るのに、現象の智慧によって
   實相の智慧を蔽い隠してしまった結果なのである。

   その道の専門家の指導で株に投資して一時大いに儲けたように
   見えていても、それが實相の智慧に導かれた富でない限りは、
   一朝経済界の破綻が来た際に、株券がただ一枚の紙片に
   化してしまうのである。


   よろしくもっと全智なる神の智慧の導きに随うべきである。
   全智なる神が吾々自身の内に宿ってゐたまうのである。

   よろしく吾等は神想観して深く自己の内なる神を内観し、
   其処から如何に富を処置すべきかを判断すべきである。
   すべての人間の内部には無限の智慧が宿っているのである。

   その智慧を引出す道が神想観である。

・・・

(5)《唯物論的見地からの反論》

   物質を心が感ずることができるのは、物質は本来“物質”ではなく
   心的存在であって、”物質”と”心”とは同一範疇に属するからだという
   結論を得たけれども、それの逆も考えることができるのである。

   曰く、『“物質的存在”を”心”が感ずることができるのは、
   実は”心”は脳髄物質の化学作用であり、従って
   ”心”とか”魂”とかいうような超越的存在は無いのであって、

   “心”というものも物質の一作用であるから、
   「感ずる心」と「感じられる物質}とは同じく物質同士であって、
   同一範疇に属するので、互いに感じ合うのである』と。

            <感謝合掌 平成29年9月8日 頓首再拝>

【九日の法語(9月9日)】 - 伝統

2017/09/09 (Sat) 04:47:37


(1)《謀は密なるを要す》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   人が失敗するのは、あまり計画の内容を
   早期に自分で暴露するためであることがある。

   正直は善徳であるが、
   蔽うべき時に蔽うて置くことは一層の美徳である。

   蔽うべきは蔽い、あらわすべきは露(あらわ)すのが智慧である。

・・・

(2)《充分芽の出るまで あせってはならぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   すなおに受けて その与えられた賜(たまもの)が
   充分 芽を出して育つまで待つ心が必要である。

   余りに早期の天才は 夭折(わかじに)し易(やす)いものである。

・・・

(3)《人生の目的は何であるか》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   宇宙の一切、随(したが)ってまた人間の生命も
   神より生じたるものであるから、
   自分自身の生命を見詰めると云うことは結局、
   神を知ることになるのである。

・・・

(4)《『自己に忠実であれ』と云う事の意味》

   人間は自己に忠実でなければならない。
   併しその『自己』と云うのは如何なる自己であろうか。

   美味なる食物を欲し、美しき服装をし、異性と戯れ遊びたいような
   煩悩が本当の自分の『自己』であろうか。

   『自己に忠実でなければならない』と云う語(ことば)で
   多くの人々は利己的本能に身を投じて、
   魂の節操を失ってしまったのである。

   『自己に忠実であれ』と云う場合の『自己』とは、
   肉体の本能的自己のことではないのである。

   肉体は、魂が地上に於いて仕事をなすための乗物又は作業服として、
   その自己修復と自己保存のオートメーション作用としての
   食慾や性慾を発動するのであるが、それらの欲望は飽くまでも
   『魂』の使命を果さしめるための基礎工事としての欲望であって、
   『魂』そのものの願望ではないのである。

   『自己に忠実であれ』と云うのは『魂』そのものの願望に
   忠実でなければならないと云うことである。

・・・

(5)《人格は物質以上のものである》

   併しあなたの“心”は、
   あなたの”自分”(人格的存在)を感ずることができる。

   その“自分”は必ずしも、此の“肉体”を指すのではないのである。

   ”自分”というものが単なる肉体であるならば片脚を無くしたとき、
   ”自分”という人格がそれだけ減ったとは感じないで
   ”自分の片脚”が減ったと思うだけであるのである。(注。「の」は所有格である)

   私たちの”心”は”物質”ではないところの、
   五官の感覚に触れることのできない“人格”というようなものを
   感ずることができるのである。

   これは物質と物質の触れ合い又は、光波・電波・音波の如き物質的波動の
   波長の同調又は共鳴によって感ずるのではないのであって、
   全く心霊的な認識であるのである。

   即ち”心”が感ずるのは“物質以上”のものをも感ずる。
   即ち知性を備えているのであるから、”心”は、知性のない物質の化学作用で、
   物質と同範疇に属するものだということはできないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月9日 頓首再拝>

【十日の法語(9月10日)】 - 伝統

2017/09/10 (Sun) 04:27:12


(1)《愛を実践して見たか》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   あらゆる手段を尽しては見ましたが 駄目でしたと云う人がある。
   しかし其のあらゆる手段のなかに
    「 愛を実践して見たか 」 否かが問題である。

   愛の思いを起して見たか、愛の言葉を出して見たか、
   愛の行いを実践して見たかと云うことである。

・・・

(2)《内に力を蓄える者は やがて大成する》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   青年の時には大いに勉強すべきである。
   
   芍薬(しゃくやく)やダリヤの花は
   その根の大きいものほど立派な花が咲くのである。

   根を大きくせずして、
   大きい花を咲かせようと思ってはならない。

   中に能力を蓄えておくことが必要である。

・・・

(3)《「心」とは何であるか》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   「 心 」 とはこれを 「 意識 」 とも云い、
   ものを感ずるところの働きである。

   それは自分の存在することを知り、
   自分の環境を知るところの働きである。

・・・

(4)《『魂の自我』の願いに耳傾けよ》

   『霊肉の闘い』と云う語句があるが、
   その語句のなかにはハッキリと魂の要求と、肉体の本能とが
   別であると云う直観が含まれているのである。

   肉体の本能的自我を『低き自我』と云う語であらわせば、
   魂の自我は『より高き自我』又は『高次の自我』とでも
   言い表わすべきものである。

   吾らは『高次の自我』に忠実ならんことを欲(おも)うならば、
   『肉体の自我』の要求をしばらく退けて、ひたすら『魂の自我』
   の囁きに心の耳を傾ける修練をしなければならない。

   多くの宗教教祖が、(釈尊やキリストをも含めて)
   断食や水行を行って、肉体的自我の要求たる食欲や色欲や
   所有欲や名誉欲や睡眠欲すらも退けて、『魂の自我』の要求に
   耳を傾ける修行を積まれたことは伝記の記述するところである。

・・・

(5)《霊はその知性を低下して物質となることができる》

   知性のない物質から知性は生ずることはできない。
   仮りに物質に知性があるにしても、
   低い知性から高い知性を生ずることはできない。

   ないものから、在るものは出てくることはできないからである。

   しかし高い知性はその活性を低下して
   低い知性となって眠ることはできるのである。

   更に一層眠ってしまって、知性が完全に低下してしまえば、
   物質のような無知性のような状態になることもできる筈である。

   しかし物質のように無知性の相をあらわしていても、本来は、
   宇宙は一元であって”神”なる霊的一元より発しているのである
   から、眠っている(或いは微弱なる)知性を備えているから、

   人間が、その知性に働きかければ、法則を通して
   物質は吾々の欲する通りに動いてくれるのであり、
   物質科学の発達もこのようにして得られたのである。

   釈尊は悟りをひられた時に、
   「山川草木国土悉く皆、仏のいのちの現成である」と観ぜられた。

   ということは、”仏のいのち”なる最高の知性が、
   その知性の発動を低下して山川草木国土の如き鉱物や植物として
   あらわれているのであって、

   一切の存在は本来、鉱物の如き無知性のものではなく、
   万物みな仏のいのちの顕われだということを悟られたということである。

   物質が固定した鉱物や木材の如きものでなく
   ”ほとけ”のいのち現成であるということが解れば、
   吾々は物質の不足や、どうにもならない物質の構造上から来る
   不自由の制約から解放される即ち「ホトケル」のである。

   だから釈尊は「山川草木国土悉皆成仏」と悟られたときに
   完全に自己解放を遂げられたのであり、即ち”仏”となられたのである。

            <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

【十一日の法語(9月11日)】 - 伝統

2017/09/11 (Mon) 04:19:27


(1)《自分は一切の不幸を戸外に閉め出す》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   チャルス・ラムミスは人が行き詰った時には
   こう云うように思念せよと教えている。

   「 何事が起ろうとも自分はそのすべてのものより偉大なるものである。
   悲しみや、不幸や、苦しみが、どんなに自分に押し迫って来ても、
   それは自分の家の外にいるのである。
   自分は家の中にいてそれを入れない。
   私は鍵をもっているのである 」 と。

・・・

(2)《機会は 常の素養にある》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   やってくる所の機会をどの程度生かすかは
   その人の素養如何(いかん)によるのである。

   人間よろしく、自己の時間を惜しんで自己教養につくすべし。

・・・

(3)《物質より心が先である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   物心一如と云うことは 「 知性も感情もない物質 」 と
   「 知性も感性もある心 」 とは一如と云うことになる。

   こうして物と心とが一つであれば、どちらが先なのであろうか。

   「 知性も感性もある心 」 を高位とし、
   「 知性も感性もない物 」 を低位としなければならない。

   従って、心は物質に先立つのである。

・・・

(4)《現実生活に實相の天国を実現するには》

   肉体は個々別々の存在であり、自他分離の存在であるが、
   魂から言えば、『個人の霊』は神なる『普遍霊』の一部分が
   人間に宿っているのである。

   だから自己の『内に宿る魂』の叫びに耳傾けると云うことは、
   同時に『普遍霊』の導きに対して耳傾けると云うことになるのである。
   そこから無限の智慧の導きが湧き出て来るのである。

   この『内部の霊』の呼び掛けが私たちの道徳生活に対して
   あらわれて来る場合には、これを『良心の叫び』と言い、
   日常生活での導きや、発明発見等の場合の導きとしてあらわれて来る
   場合には、これを直感とか直覚とか呼ぶのである。

   それは普遍霊の導きが、普遍霊の分霊なる『魂の自我』を通して
   あらわれて来るのである。

   私たちがこの『魂の自我』の導きに心の耳を傾け、
   その導きの通りに実践するならば、現実生活が健康と愛と繁栄とを
   実現せる『實相そのまま』の天国となるのである。

・・・

(5)《宇宙の一切は霊的存在で渾然一体である》

   私たちの“心”が物質をみとめ、物質界の一切の存在を知覚することができる
   のは、物質そのものが、普通の常識で考える如き無知性のものではなく、
   知性の表現体であり、知性と知性とが相感応するために、吾々の”心”は
   物質界をみとめ、外界の存在をみとめることができることを
   あらわしているのである。

   “感ずる者”と“感ぜられる物”とが一体であり、
   本来同質のものであることをあらわしているのである。

   ”経験する者“と”経験される物“とは一体なのである。

   この一体関係は全存在が、物質の如き、分子と分子との距離が
   分子の直径の千倍も離れてバラバラであるような存在であるかぎり
   あり得ない関係である。

   即ち全存在は”霊的存在”であって、それは普遍する実質によって
   成り立っており、現象的・外面的には、個々別々の存在のような外観を
   呈するけれども、実相的・内面的には霊的存在として渾一なる全体として
   つながっているのである。

            <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

【十ニ日の法語(9月12日)】 - 伝統

2017/09/12 (Tue) 04:28:41


(1)《祈りは斯く行え》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   まず神の智慧と愛と生命と供給と調和とが
   宇宙全体に満ち渡っていることを心に深く思念することである。

   自分の求むるものを心に念じて
   「 何々を斯くならしめ給え 」 と祈るのである。

   その祈りの果に、「 既にそれは与えられている 」 と云う様な
   深い信念の境地に到達する。

   そして 「既に与えられまして有り難うございます。」 と念じて、
   その祈りを終わるのである。

・・・

(2)《自然は必ず価いを要求する》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   自然は青年期に享楽した者の代価を
   老年期が近づいて来た時、急に支払請求をするものである。
   速なる老衰は青年期の享楽の強制支払である。

   健康は値なしには継続しないのである。
   自然は常に値いを要求するのである。

   肥料なしに毎年立派な果実を
   その樹から得ようと思ってはならない。

・・・

(3)《形よりも理念が先立つ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   ダリヤの花はその球根から生ずるが、「 花そのものの形 」 は
   球根と云う物質にあるのではなく、球根の奥にある霊的世界にある
    「 ダリヤの花の理念 」 から生ずるのである。

   物質より前に理念があるのである。

   素粒子が如何に排列して或る種の物質になるかは、法則によるのである。

   そして、法則は知性(心性)である。

・・・

(4)《無限の供給は何処に汲むべきか》

   一時的な快感や一時的の豊富さは人間的工夫によって
   操作して得られることがあるけれども永遠の魂の悦びや、
   永遠の豊なる流れは人間的工夫によっては得られぬものである。

   自己の魂の底にある霊を通して神につながることによってのみ、
   私達は永遠の魂の悦びと供給の豊なる流れとを受けることが
   できるのである。

   私たちは何としても、現象だけに頼らずに、
   この内なる霊の鍵を通して無限の供給の流れと
   結びつかなければならないのである。

   外のものに頼るよりも『内なる鍵』を通して
   無限の宝庫の扉をひらくのである。

   私たちの内には霊感とも云うべき内部の能力が宿っており、
   その燈火(ともしび)が私たちを導いて下さるのである。

   『わが魂の底の底なる神よ、無限の力わき出でよ』
   暇あるごとに常にこの言葉を黙念して、
   内部の無限の力より汲むべきである。

・・・

(5)《外界と内界とを隔てるもの》

   外界を内界にある”心”が感ずることができるのは、外界と内界とが
   全然“別物”ではなく、内外打成一片(注。禅語)の原理又は実相が、
   あらゆる存在の奥に貫いて存するからなのである。

   しかし吾吾は肉体と顕われて、地球上に生活する便宜上
   ”時間・空間”という”認識の形式”をつくり出し、
   その枠内に於いてのみ作動する感覚器官を発達せしめて、内と外とを区別し、
   物体を個々別々に区別し彼と我とを対立せしめて生活する。

   時間・空間という着物を着て生活することが便利なために、
   直接には、自分の“生命”の肌直接に、宇宙普遍の空気ともいうべき
   「渾然一体の霊的存在」を体験することができなくなっているのである。

            <感謝合掌 平成29年9月12日 頓首再拝>

【十三日の法語(9月13日)】 - 伝統

2017/09/13 (Wed) 04:42:14


(1)《与えた物のみが真の富》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   吾々は世界から何を得たかを誇りにしてはならないのである。
   それは欲ばる心のあらわれであり、奪う心のあらわれであり得る。

   それよりも吾等は世界に何を与えたかを誇りにしなければならない。
   与える者のみが与えられるのであり、
   与えたその福田のみが真の富だということである。

・・・

(2)《出しただけが与えられる》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   自然は吾々の一言一行に対して
   その値打だけのものを支払ってくれるのである。

・・・

(3)《肉体は人間ではない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   肉体はただ意識のラジオ・セットにすぎないのである。

   脳髄にどんな打撃が加えられようとも、
   肉体のどの部分に故障が起ろうとも、

   意識の主体たる人間そのものは 「 神の子 」 だから
   何ら破壊せられることなく、故障が起ることなく、

   ただ毀(こわ)れたラジオ・セットに音波が起らなくなるように、
   その肉体は音無しくなるだけである。

・・・

(4)《自己解脱によって祈りを成就せよ》

   どんなに神に祈っても、問題が好転しない事があるならば、
   それはあなたが其の問題をつかみすぎているからである。

   祈りは既に成就して、それは現実化しようとして其の途上にある
   のだけれども、あなたが余りに問題を心でつかみ過ぎているために、
   その現実化の通路がふさがれているだけである。

   そんなときには、あなたの心を
   その問題から完全に放してしまうがよいのである。 

   『この問題を神様あなたにおまかせします。
   わが意を成さんとするには非ず。神の御心のままにならしめ給え』 

   と祈ることによって、自己解放をとげ、
   自分の心を自由にするがよいのである。

   『祈り』と云うものも、執着をもって遮二無二祈るときには、
   自己の祈りの念力によって何物かを成就しようと自力的に力むこと
   によって却って其の祈りの成就を妨げるのである。

・・・

(5)《向上精神”の内的本源が実相である》

   われわれは誰も現象的には完全な人間でないのである。

   それなのに完全になろうと欲して毎日、何らかの意味に於いて
   前進又は向上しつつあるのである。

   不完全がその人の天性であるならば、そのような意欲も、
   内的衝動も努力も起こる筈はないのである。

   われわれが幾ら向上しても、尚更に一層の完全さを顕現したい
   という熱望が起こって来るのは“自己に宿る無限の完全”が
   顕われ出ようとして内部から押し出して来るからである。

   その内部に宿っている“向上精神”の根源となるものが、
   吾々の“実相”であり“本当の自分”であり“神の子”なのである。

            <感謝合掌 平成29年9月13日 頓首再拝>

【十四日の法語(9月14日)】 - 伝統

2017/09/14 (Thu) 04:30:50


(1)《杖は人を楽にするが強くしない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   愛するとは放つことである。
   放つとは自分の責任をして自分で負わしめることである。

   倒れた子供を起してやるのは放つのではない。
   倒れた子供は、子供自身その責任を自分に帰し、
   自分で起上がるようにしてやることが放つことである。

   民主主義の生活は 責任を自己に帰す生活である。

・・・

(2)《自然の賜(たまもの)を大切にせよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   自然界の法則を厳重に守ることは
   吾々が自然に対して値を払うことである。

   まず食物はもっとも自然に近いものが
   保健上有用なる成分を含有するのである。

   余り調理しすぎたものは 自然の与えた養分を
   概(おおむ)ね 捨て去っているから健康のためによくないのである。

   人間が短命であるのは 余り味覚にとらわれて
   自然のままの賜(たまもの)を破壊してしまうからである。

・・・

(3)《苦痛は人間が苦しむのではない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   その如く肉体が傷ついた場合に痛みを感ずるのは、
   「 人間 」 の道具である肉体の故障を告知して、
   その修繕作業を内部からも外部からも
   営(いとな)ましめるための信号なのである。

   人間そのものが苦しんでいるのでも何でもないのである。

   若(も)し、この故障を告知する 「 苦痛 」 の感じが
   なかったならば、吾にはどんなに出血していても
   手当を加えることなしに全身の機構が壊滅に
   帰してしまうのである。

・・・

(4)《神の智慧の導きを受ける祈り》

   『今日一日の仕事を神の智慧によって導きたまへ』 

   毎朝ささげられるこの祈りは、其の日の最初から
   自分のなすべき仕事を神にあずけて、
   自己解放を遂げるために適当な祈りである。

   そしてその祈りにつづいて 

   『神はわが内に宿り給うて、
   今日わが為すべき事を教えたまふのである』 

   とその祈り成就の黙念をするのである。

   そして仕事に出かけて、夜眠るとき又は、夜の神想観の時に、 

   『今日一日の仕事を神様の智慧によって導きたまうて
   有りがとうございます。今夜の眠りをやすらかに護りたまいて、
   明日また神の仕事をさせて頂く力を内に快復せしめ給え』 

   と祈ってから眠るのである。

   この祈りを続けるとき、自分で力むことがなくなり、
   神からの智慧と力とが流れ入る心のパイプが解放される結果、
   事業も順潮に行くようになるのである。

・・・

(5)《人間の内に”無限”が宿っている証拠》

   私たちの現象の肉体は、すべて有限の生命しか有(も)っていないのである。
   それなのに内部的要求としては、出来る限り長寿を望み、
   可能ならば永遠に生きたいとすら念(おも)うのである。

   それは何故であろうか。

   現象的には”有限”であるけれども、その実相は”無限”であるから、
   外見の”有限”を克服して”無限”を顕したく思わずには
   いられないからなのである。

   吾々は戦争中の欠乏状態のことを憶(おも)い起こして、
   現在の裕かなる状態とくらべるならば雲泥の差があるといってよい
   ほどに繁栄しており、生活の福祉に満たされているにも拘わらず、
   尚もっと裕かに、もっと福祉に満たされたいと願わずにはいられないのは、

   人間本来の実相が”神の子”であり、いくら裕かに表現しても、
   尚表現し足りない内在の”無限”が頭をもちあげて来るからである。

            <感謝合掌 平成29年9月14日 頓首再拝>

【十五日の法語(9月15日)】 - 伝統

2017/09/15 (Fri) 04:09:00


(1)《報い求めざる愛と無限の赦し》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   神は無限に与えて決して求めると云うことがない。
   「 報い求めざる愛 」 が 神である。

   それゆえ、我等が 「 報いもとめざる愛 」 を実践してこそ
   神の波長を自己に受けることが出来るのである。

・・・

(2)《刻苦精励は生命を鍛える》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   人は生命を働かしただけ、それだけ自分のおかげは 増えるのである。

   ビスマルクは 真の生命に対する唯一の安全なる守りは、
   刻苦精励にあるといっている。

   刻苦精励は 機会のない処に(ところ)に 機会を作り、
   成功のない処に 成功を作る。

   刻苦精励こそは 自己の生命を鍛えあげ、
   その不純物をとりさり、自分の魂を愈々(いよいよ)
   光輝燦然(こうきさんぜん)たらしむべき
   唯一の方法であるのである。

・・・

(3)《人間は神から生れた》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   『 生命の實相 』 の実相篇には
    「 未だ曾(かつ)て人間は女の子宮から生れて出たことがない 」
    と明瞭に断言してある。

   人間は神聖受胎であって神から生れたものである。

・・・

(4)《毎日必ず何か人のためになる事をしませう》

   あなたが生きていると云うことは、神が、そして此の世界が、
   そして人類が、あなたの貢献を何事か希望している証拠である。

   随ってあなたの方から言えば、あなたが生きている限りは、
   神に対して、そして此の世界に対して、世界のため、人類に対して、
   何か貢献をしなければならないのである。

   あなたが何事かをするとき、この仕事は神のため、世界のため、
   人類のため、と思って 『この仕事をさせて頂きます事を感謝致します』 
   と念じてすれば疲れることも少なく、生き甲斐が感じられ、
   精神も身体も一層すこやかになるのである。

   実際、人間は實相に於いては、神とは一体であり、全人類と一体であり、
   その實相から無限の力が流れ入って来るのであるけれども、
   力が不足するのは、その一体なる實相を自覚せず、
   自分だけで事を運ぼうとするからである。

・・・

(5)《向上の煩悩に実相の衝動を見る》

   人間に”永遠”が宿っているので、無限の長寿を欲し、
   人間に“無限”が宿っているので、無限の向上発達を希い、
   無限の富の実現を望むのは当然のことであるのである。

   この現象界の利益や福祉を希う煩悩と見えるものの内に、
   内在する神の動きが噴出しようとしているのである。

   “煩悩即菩提”とはこのことである。

   向上の煩悩なくして菩提すなわち悟りを得ることはできないのである。

   諸君は大いに向上の意欲を起こしてよく勉強しよく研究して、
   内部の神性を現象界に発顕し、地上に神の計画になる理想世界を
   実現するように努力しなければならないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月15日 頓首再拝>

【十六日の法語(9月16日)】 - 伝統

2017/09/16 (Sat) 04:34:22


(1)《悪の存在を信ずるは神に対する不信である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   この世界に悪が存在すると信ずるようでは
   神を信じていると云うことは出来ないのである。

   神のみが実在であると云うこと、
   そして神は全能であること、
   そして神は善であるから、

   善の力はその全能力によって宇宙に遍く遍満して
   悪の存在を不可能ならしめている筈である。

  
・・・

(2)《蜜蜂(みつばち)を見て人生を学べ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   昔ギリシャで、
   蜜蜂に はるばる遠くまで蜜を集めにやるのは可哀(かわい)そうであるから、

   蜜蜂の巣の近くへ いつでも花のあるようにしてやれば、
   蜜蜂は助かるであろうというので、
   その周囲に花園を造って始終 花をたやさないようにしたら、

   その蜂蜜は もう少しも蜜を集めなくなったということである。

   ここに自然の法則があるのである。
   労しないものは獲得することができないのである。

・・・

(3)《人間は全人類一体である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   人間は神より生れ、神の中に住み、神の生命を食し、呼吸し、
   永遠に死なず病まざる霊的実体である。

   神は宇宙生命であり、「 渾(すべ)ての渾ての一体 」 であるから、
   人間もその実相に於いては
   すべての人間と共通の生命を有(も)つのである。

   すべてのすべてと一体である自覚を 「 愛 」 と云うのである。
   すべての人類は神に於いて兄弟姉妹であるのである。

・・・

(4)《“I am” はあなたにとってアラヂンのランプである》

   あなたは素晴らしい特権をもっているのである。
   それはあなたの内に『I am』《私は・・・・である》が
   宿っているからである。

   あなたは『私は・・・・である』と念ずる処のものになるのである。
   『私は病気である』と念じたら、あなたは病気となることも出来るし、
   『私は神の子で健康である』と念じたら、健康になることもできるのである。

   あなたはこの特権を愚かなことを実現するために
   つかってはならないのである。

   この特権を利用して、『私は神と一体である』と常に念じて、
   『神と一体』ところの實相を日常生活に実現するようにしたいものである。

   神との一体感が深まれば、何を為すにも恐怖感がなくなり、
   自信力が湧いて来、時と処と人とに応じて適当な智慧が湧いて来て、
   失敗することがなくなるのである。

・・・

(5)《地上天国建設の根本問題》

   現象界に天国を実現するためには、努力が必要であるけれども、
   神の叡智に導かれた努力でなければならないのである。

   人間的頭脳の智慧で、向上の煉瓦を積みあげて、
   神まで到達せしめようと思っても、それは所詮「バベルの塔」であって、
   目的を達しないうちに土崩瓦解してしまうのである。

   それ故に諸君は神想観を毎日怠らず実修することが必要である。

   神想観は単に地上に天国を実現するため方法であるだけではなく、
   それは“神”と“人間”、”天“と”地“との融合の行持であり、
   その行持の中に、既に“神”と“人間”との融合があり、
   従って実相と現象との融合があるのである。

   そして実相と現象が融合するとき「みこころが天になるが如く地に成り」
   結局、地上天国なる理想世界が建設されることになるのである。

            <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝>

【十七日の法語(9月17日)】 - 伝統

2017/09/17 (Sun) 04:36:25


(1)《先ず幸福の心の波を起すこと》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   人間が幸福になる為には
   先ず第一に幸福の心の波を起す事である。

   こちらが 「 幸福 」 の波長を起した時、
   いつでも幸福放送局の波長を受ける事が出来るのである。

・・・

(2)《働く処(ところ)に人生の意義と機会がある》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   吾々が地上にこの生を享(う)けたのは、
   神の創造力の尖端(せんたん)として、
   創造の御業(みわざ)を完成せんがために出現したのである。

・・・

(3)《本能は道具に過ぎない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   人間は物質に支配されたときには、
   本当に健全なることは出来ないのである。

   本能に支配されてはならない。本能を支配すべきである。

   食色の本能は霊の利用する道具であって、
   霊によって支配すべきである。

・・・

(4)《果実は熟した時とるべきである》

   急いではならない。
   急ぐ心は老衰をはやめ、血圧を高くし、死期を早めるばかりである。

   物には時期の熟する機があるのである。
   物事が熟しないうちにもぎ取ろうと思ってはならない。

   熟しないうちにもぎ取った果物は、酸っぱいか、苦いか、
   渋いかして、衛生にもよくないのである。

   熟しないうちに物事を成就しようと思ったらならば、
   きっと無理が出来て自分か誰かが傷つくのである。

   十字路で『赤』の信号が出ているならば、
   『青』の信号が出るまで待っていることが必要である。

   『赤』は停止の符標であるから、どんなに急いでいても
   停止符標が出ている限りは停止していなければ
   却って危険を招くのである。

   時期の熟するのを待ちなさい。

   今は停止符標が出ていてもやがては必ず、
   行進符標の『青』が出て来る時が来ます。

   その時には機会を失わぬように行進なさい。

・・・

(5)《みこころの天に成る世界》

   私たちが地上に誕生した目的は、既に天に成る“理想世界”を
   地上に顕現せんがためであるのである。

   「天に成る」の天とは、空間的高さを示す“天空”ではないのである。

   時間・空間を超えた超越世界(霊的世界)に
   神が創りたもうた“理想世界”である。
   それは時空を超えた”内在の世界“とも謂うことができるのである。

   それは“内在の世界”であるから、キリストは天国を説きながら、
   「神の国(即ち天国)は汝のうちにあり」とも教えているのである。

   併しその「内在の世界」とは肉体の腹中に内在するのではなく、
   時間空間世界を遥かに超えたという意味に於いて、
   その超越性が”天”という語で表現されているのである。

   時間空間以前の世界に於いて、
   神は既に理想世界を創造せられているのであり、

   そのことが
   「その創造(つく)りたる全てのものを見給いけるに甚だ善かりき」と
   創世記第一章に表現されているのである。

   この創世記第一章にある”天地の創造”は実相世界の創造である。

            <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

【十八日の法語(9月18日)】 - 伝統

2017/09/18 (Mon) 04:36:29


(1)《調和した世界を見よ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   不調和をいつまでも見つめておれば不調和は消えぬ。
   不調和を見つめるという云うことは
   不調和に波長を合わせていることであるからだ。

   不調和の中にいても、不調和を見ず、調和ある実相を見よ。
   不調和は消えてしまい調和ある実相が
   現象世界にあらわれてくるのである。

   すべて現象世界は心の波の世界であって、
   心の波がかわれば、現象世界も姿はかわるのである。

・・・

(2)《働きは 生命の自己実現である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   人間が働くということは、決して金銭に対して
   自分の生命を切り売りすることではないのである。

   吾々は ともすれば、働きに対する金銭的報酬を考えて、
   それによって働きの価値如何(いかん)を定めようとするのであるけれども、
   これは大変な間違である。

   働きは、それ自身が生命の自己実現であるから尊いのである。

・・・

(3)《人間は遍照金剛の霊的実体である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   物質、肉体それ自身は、認識の形式の
   銀幕(スクリーン)上に映っている影である。

   肉体は自分ではなく、
   その奥に本当の自分(霊的自分)があるのである。

   「 霊的自分 」 は 『 甘露の法雨 』 に書かれているように
   「 神より出でたる光なり 」 であって、
   光輝燦然(さんぜん)、遍照金剛(へんじょうこんごう)
   の存在である。

   その光の前に想念のフィルムを回転して
   表現されているのが肉体人間なのである。
   それは一種の映像であり、本当の自分自身ではないのである。

・・・

(4)《個人の運命は固定してはいない》

   毎日私たちは、自分の運命を自分で造りつつあるのである。
   自分の生活にプラスをつけ加えるか、はたまたマイナスを
   附け加えるかと云うことによって、
   自分自身の未来の運命を自己決定しつつあるのである。

   人のためになることを行えば、自分の運命にプラスを加えたのである。
   人のためにならぬことを行えば、自分の運命にマイナスを加えたのである。

   このような行動によるプラス・マイナスのほかに、
   自分の心の明るさ暗さによって運命を左右する
   プラス・マイナスがあるのである。

   常に『明るい心』をもっておれば、
   『類をもって集る』と云う心の法則にしたがって、
   『明るい運命』が自分に集ってくるし、

   常に『暗い心』を持ちつづけておれば、
   『暗い運命』が自分に集って来るのである。

   常に私たちは『過去の成績《業》』の中から立上りつつあるのである。

・・・

(5)《先ず自己の内なる神の国を求めよ》

   既に理想世界は“天”即ち“実相世界”に於いて成就している
   のであるけれども、それが人間の感覚面に感じられる現象世界に
   現れるためには、

   現象世界は時間・空間の“認識の形式”を通じてあらわれるのであるから、
   ある特定の時間・空間に一ぺんに完全世界があらわれる訳には行かない。

   すなわち時間的序列を通して、
   空間世界に順次展開して来るという形をとるのである。

   先ず吾々は“自己”というものに、その内在の天国を自覚し、
   それを外界にあらわさなければならないのである。

   先ず「神の国を求めよ、自己のうちに神の国を自覚せよ」である。

   自己のうちに“神の国”を自覚するならば、
   その“神の国”とは“神の子”が住んである処であるから、
   自分が“神の子”だとわかるのである。

   自分の内に“神の子”を自覚するための修行が神想観である。

            <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

【十九日の法語(9月19日)】 - 伝統

2017/09/19 (Tue) 04:36:33


(1)《この世界は心の波で変化する》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   自己の健康でも、家庭でも、友人でも、仕事の状態でも、
   すべて自分の心の雰囲気の及ぶ範囲内の出来事は、
   如何にそれが物質で構成されているように見えようとも
   自分の心の中の信念の具象化に過ぎないのである。

・・・

(2)《仕事を俗務とするのは自分の仕事の受け方である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   働きがなければ生命は自己を実現することができない。
   
   多くの人達は働きを以(もっ)て 「 俗務(ぞくむ) 」 であると考えて
   その働きの尊さを見ないのである。

   諸君が自分の仕事を単なる 「 俗務 」 とするか 「 芸術 」 とするかは
   諸君が自分の仕事に対する態度によって異るのである。

・・・

(3)《人間の病気は幻である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   肉体人間は単なる映像であるから、失うべき生命を持っていないし、
   実相人間は霊的実在であるから死ぬ事はないのである。

   従って肉体の方から云っても、霊的本体の方から云っても、
   人間は結局、病気になったり死んだりするものではないのである。
   だから人間の病気や死は結局 「 幻 」 に過ぎないのである。

    「 幻 」 を見て、病気を実在と思ってはならない。

・・・

(5)《各人は実相が種々の段階に開顕されたる神の子である。》

   すべての人間は”神の子”であり、その本質に於いて円満完全なのである。

   しかしその円満完全が、まだ蕾のような状態であって、各々人によって
   程度は異なるが、その開発のある段階にあるのである。

   高い段階にまでその円満完全な本質(実相)が開顕された人は、
   健康で、幸福で、生活は裕かであって困窮することはないのである。

   その円満完全な実相が、ある方面にのみ開発されたら(例えば経済面に)
   その方面では裕かであるけれども、他の方面に於いて例えば
   肉体が不健康にあらわれるとか、家庭が不調和になるとかするのである。

   吾々は自己が神の子であることを自覚し、あらゆる人生の方面に於いて
   大自在の境に達しなければならないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

【ニ十日の法語(9月20日)】 - 伝統

2017/09/20 (Wed) 04:46:38


(1)《よき心の雛形を出すこと》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   「 類は類をもって集まる 」 と云う諺がある。

   病気を思い浮べないのに病気になったと思う人があるかもしれないが、
   ブツブツと心に不平を思えば病気のことを思わないでも
   皮膚にブツブツが出来るのは、
   「 類は類をもって集る 」 の心の法則によるのである。

   先ず善き心の雛形を出さねばならぬ。

・・・

(2)《仕事を芸術化せよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   自分の仕事を芸術であると考えてするならば、
   仕事場は まことに楽しい優美の世界となるのである。

   芸術とは何であるか。それは生命の表現である。

   従って もし諸君が仕事を生命の表現すべき好機会であると思って、
   それを熱心に行うならば、仕事はたちまち芸術的魅力を
   もってくるのである。

・・・

(3)《問題を掴(つか)んではならぬ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   問題を放して神のみを思うとき、
   はじめて光明の想念が力を発揮するのである。

・・・

(5)《あなたは次第に大自在境に達する》

   そのような大自在の境地に達した、
   又は達したに近い人を“達人”と呼ぶのである。

   宗教に入ったといって、行動が生温いような生活を送っている人は、
   宗教信者として名前を連ねているだけで、
   本当に宗教的信仰ではないのである。

   宗教とは大自在の生活に入る門である。

   本当にあなたが宗教信者に入ったならば、決断の敏速、行動の敏捷、
   しかしてその行動が悉く急所に中る精確さをもたねばならない。

   その行動の敏捷と精確さは、自己が“絶対者“即ち”神“と
   常に波長を合わしていることによって得られるのである。

   神と常に波長を合わすためには、毎日神想観の実修を怠らず、
   その神想観による心の清澄状態を神想観を終った後も
   常に持続するように心懸けなければならぬのである。

   内部の心の清澄が、澄み切ったレンズを通して精確な映像が得られるように、
   実相世界の円満さに波長が合って、外界に完全円満さが実現して来る
   のでなければならないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

【ニ十一日の法語(9月21日)】 - 伝統

2017/09/21 (Thu) 03:46:43


(1)《事物を成就する秘訣》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   物事を成就する秘訣は、
   先ずその成就しようと欲する事物を心に深く、
   毎日毎日既にそれが成就しているものだとして描くことである。

   大事を成すには長期間にわたって、
   心の中に同一の目的事物を描きつづけていることが必要である。

   常に心に描いた影を動揺せしめている者に成功はない。

・・・

(2)《生命力は 働く人に湧(わ)き出(い)でる》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   この世界に生きて、生き甲斐(がい)を感じ、
   吾 何かをなす所の力があるとの自信ある喜びを見出(みいだ)そうと
   欲する人は 働かなければならないのである。

   出せば出すほど 湧き出るのが 生命力である。

・・・

(3)《神のみの世界を見よ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   問題を人間知慧で解決しようと云う努力を止めよ。

   肉体の眼をとじて、五官の世界に起っている問題を思わず、
   問題を解決しようと思わず、
   ただ神の愛につつまれて既に善であり幸福である世界を想念せよ。―

・・・

(5)《科学の限界に就いて》

   科学というものでは究極的実在を知ることはできないのである。
   それは常に日進月歩である。

   それは相対的知識を得るのであって、
   真理とか実在とかいうものを知るのではないのである。

   科学の“科”という字は、科(えだ)という字である。
   色々の分科があるのであって、
   各々の科の立場にたって事物を解釈するのである。

   化学はいつまでたっても“生命”そのものの実体を知ることはできない。
   生命の通った軌跡を分析したり、総合したりして結論を下そう
   とするのであるが、化学は生命そのものに直接触れることはできない。

   生命の周囲を堂々廻りするだけである。

            <感謝合掌 平成29年9月21日 頓首再拝>

【ニ十ニ日の法語(9月22日)】 - 伝統

2017/09/22 (Fri) 03:48:19


(1)《神に計画をゆだねる方法》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   何を心に描いて好いか不明な時には、
   描くべき事物をも神に委ねよ。

   神は無限の智慧であるから
   必ず何を心に描くべきかを教え給うのである。

   「 神よ、出来るだけ多くの人々を幸福にする為に、
   私が何を為すべきかを教えたまえ。」

・・・

(2)《仕事の能力ある人は 常に機会を見出す》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   もし不断に、仕事を以て鍛えられていた人ならば、
   経済的変動が如何に起ろうとも、
   自由にその環境に対応して縦横自在の才能を奮って、

   時代の押し流す力に溺(おぼ)れてしまうということはないのである。

・・・

(3)《現象の悪を追求してはならない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   物質的に悪の原因を追求してはならない。

   悪を探求する心を捨て、問題と格闘する心を捨て、
   しずかに実相の完全な姿を観ずるようにしたとき、
   心の中にある「問題」が消えて行くから、
   現象の世界にある問題も次第に消えて行くのである。

・・・

(5)《あなたは聖者として生きよ》

   大生命は普遍的存在である。到る処にその生命が顕現して、
   すべての生物としてあらわれているのである。

   生物のみならず、天体の主要部分を構成している鉱物までも
   その普遍的生命の顕現であるのである。

   だから釈尊は悟りをひらかれたとき
   「山川草木国土、悉く皆仏の現成である」と理解されたのである。

   聖者は一切の個別的な存在の奥にあるところの
   「分割なき一者」を見るのである。

   その「一者」は宇宙大生命であり、神であり、
   すべての物と人との奥に神を観るから、

   物を大切にする心が起こり、すべての事物を処理するのに、
   おのずからなる深切心が起こり、人に接するにその表面にあらわれたる
   欠点を見ずその奥に宿る“神”を見て尊敬しあいし深切を行ずるのである。

            <感謝合掌 平成29年9月22日 頓首再拝>

【ニ十三日の法語(9月23日)】 - 伝統

2017/09/23 (Sat) 04:47:03


(1)《素直に啓示に従うこと》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   神?(インスピレーション、啓示)と云うのは
   必ずしも外からのみ与えられるのではないのである。

   神は到る処にいられるのであるから、(これを遍在と云う)
   内から思いつくこともあれば、
   外から思いつくこともあるのである。

   神に計画をゆだねたならば 何が外から起って来ても、
   それが神の導きであると信じて完き従順もて起ってくることを
   感謝して其の儘受けるのが必要である。

・・・

(2)《仕事は精神力を増加する》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   筋肉的仕事が 吾々の筋肉を強健ならしめるのと同じように、
   吾々の精神的仕事は、吾々の精神力を強健ならしめ、
   何事に遭遇しても驚かない所の自信力を
   たくわえておくことができるのである。

・・・

(3)《神の善と愛とを一層長く想念せよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   あなたの子供に何か起ったとせよ。
   それは屹度(きっと)あなたが子供について
   「心配」したことがあるに相違ないのである。

   若(も)し子供についての心配の時間よりも、
   神のつくり給いしただ善のみの世界を
   想う時間の方が長くなるならば、

   善き現象はあらわれて来、
   病気や不幸は消えて来ることになるのである。

・・・

(5)《あなたは聖者の諸徳を備えて生活せよ》

   聖者は現象にとらわれない。
   他の人の批判を恐れて正義を棄てることをしない。

   聖者は金銭によって自分の節義を売らない。
   聖者にとって大切なのは現象の名誉でも、富でもない。

   自分の心の中に何を思っているかが最大の関心事である。

   聖者は常に人と事物の奥にある実相のみを観るから、
   その心は常に平和である。

   常に平和の心境であるから、実相から催して来る叡智を歪めずに感受して、
   現象界に起こる複雑なる事件に対しても、それが実相円満の姿の
   写象として調和ある姿をもって解決するように処理することができるのである。

   聖者は自分の肉体のことについて思い煩わない。
   併し常に内部の心を清澄平和に保つがゆえに
   肉体は内部の平静なる心の影として健康である。

            <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

【ニ十四日の法語(9月24日)】 - 伝統

2017/09/24 (Sun) 04:49:01


(1)《周囲に起ることは皆自分を高めるため》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   神に完全にゆだね切るとき一切の恐怖がなくなるのある。
   恐怖があるのはまだ完全に神にゆだねていない証拠である。

   吾々の周囲に起こって来ることは
   皆自分を高めるためにあるのである。
   どんな経験も受けようによっては必ず自分を高めるのである。
  
・・・

(2)《仕事によって生命は真の価値を獲得する》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   仕事によって獲得した所の、
   自分の生命の強さ、深さ、複雑さというようなものは
   生命の続く限りなくなるものではないのである。

   だから これこそが真の価値であって、
   金銭の如(ごと)きは まことに一時的の仮の価値にすぎないのである。

・・・

(3)《実相の円満さを実現するには》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   実相世界の完全円満なる姿を此の世界に実現せんがためには、
   神をあらゆる存在の根源者とみとめなければならない。

   人間智の思い煩いを捨てて、神の智慧を瞑想し、
   神の智慧の催しに従って無我愛の生活を送るならば、
   実相世界の完全な相(すがた)があらわれて来るのである。

・・・

(5)《“物質はない”という意味》

   “物質はない”という一喝は、物質をありとして悩熱をもって執着している
   “心”から執着を消してしまうところの冷水三斗に匹敵する一転語である。

   この一喝を素直に受けるとき、
   自分の心をなやましていた悩熱は消え去るのである。

   事物の考え方が一転してしまうのである。
   すべて物質としてあらわれていたものが物質でなくなるのである。

   一転して、それは物質ではなく
   神(仏)のいのちの現成であると悟るのである。

   支那の高僧、百丈和尚が小川で野菜を洗っていたときに
   一枚の菜の花がちぎれて流れ去って行ったときに、和
   尚はそれを駆け足で追っかけて拾い上げると、

   それを頭に戴いて「これは仏物である」と礼拝したということであるが、
   これが「物質はない、ただあるものは神と、神の顕現のみだ」という
   悟りの境地なのである。

            <感謝合掌 平成29年9月24日 頓首再拝>

【ニ十五日の法語(9月25日)】 - 伝統

2017/09/25 (Mon) 03:17:27


(1)《神の愛は無限である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   神の無限の愛を信ぜよ。
   その広大なる愛は、それから のがれ出ようとしても
   到底のがれることは出来ないのである。

   十重二十重(とえはたえ)に
   神の愛は私達をとりまいているのである。

・・・

(2)《毎夜みずから省みること》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   人の地上に生を享(う)けたるは、
   仕事によって自己表現を完成するためであるから、

   もしその晩 省みて今日は何事をも なさなかったと気がついたならば
   それを恥じて改めなければならないのである。

・・・

(3)《神は渾ての渾てである》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   神を渾ての渾てとみとめるよりほかに、
   本当に人類の幸福は来ようがないのである。

   先ず、心の中に、神は渾ての渾てであって、
   皆一つであるから相対立する何物も存在しないと
   悟ることが必要である。

・・・

(5)《物質はエネルギーの旋渦である》

   “物質”はただ常識学的に呼び名であって、物質を物理学的に研究して行くと、
    もうそれは物質という「一定の体積をもち、分別し得うべき一種の固まり」
   という常識的概念には当て嵌まらなくなるのである。

   それはある一定の方向に旋回するエネルギーの渦巻なのである。
   (『生命の實相』実相篇第一章”近代科学の空即是色的展開“参照)

   其の旋回の速度及び様式の相異から別々の素粒子のように顕れているのである。

   普遍の大生命のエネルギーが、自己表現の無数のセンターを作って
   異なる振動を起こし、各々個性ある旋回をすることによって、
   異なる原子となり、異なる元素となっているのである。

   人間が動物と異なり、動物が植物と異なり、植物が鉱物と異なるのは、
   そのエネルギーの運動形態及び構成形態がそれぞれ個性的に異なるからである。

   どうしてエネルギーの運動形態が異なり、構成形態が異なるかといえば、
   そのエネルギーの運動及び、形態を指導する設計が異なるからである。

   色々の異なる設計が、一つの宇宙大生命の無限の知恵から出て来るのである。

   それは一人の建築設計家が常に異なる様式の建物を設計するのにも似ている。
   様式の異なる建物も一人の設計技師から生まれて来ることができるのである。

   その如く、宇宙の神羅万象には無限に異なる種類があるけれども、
   ただ唯一なる神によって、その神のエネルギーを素材として、

   その神の知恵によってエネルギーの振動、旋回、方向等を色々に設計され、
   それが組み合わされて各々異なる形に出現したのであり、
   形が異なるからといって別々のバラバラの存在ではないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月25日 頓首再拝>

【ニ十六日の法語(9月26日)】 - 伝統

2017/09/26 (Tue) 03:20:27


(1)《神は常に我と共にある》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   神は常に我と共にある。

   わが内にある。わが外にある。
   わが上にある。わが下にある。
   わが前にある。わが後(うしろ)にある。
   わが右にある。わが左にある。

   われらを取巻いて全く隙もなく充満してい給うのである。

   吾々は神から逃れるすべもないのである。

・・・

(2)《真に価値ある物は労なくして得られない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   人は自ら労して獲得したるもののみが
   真の自分の力となるのである。

   労せずしては 真に価値ある何ものをも
   父祖からうけつぐことはできないのである。

   忍耐力、勇気、意志の強さ、鍛錬し得ざる能力、
   事に対して誤まらざる判断力、精微なる観察力 ― 

   かくの如(ごと)き美質は 唯(ただ)仕事に対して

   真剣に取り組むことによってのみ得られるのである。

・・・

(3)《すべては霊的実在である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   すべては霊的実在である。

   物質は本来無いのである。
   それは心に描かれたる影である。

   霊的実在を悟る程度に従って
   この世界が物質であると云う観念が薄らいで来るのである。

・・・

(5)《現象世界は心の現わす世界である》

   「宇宙は宇宙大生命の無限の知恵の展開である。」

   これは一応そのまま正しい見解である。
   その宇宙の中に於いて、どうして不幸や災難が病気や、
   その他色々の不調和の状態が存在するのであろうか。

   この宇宙を設計した”知性”は完全な知恵を備えていないのではないだろうか。

   そのような“知性”は”神”と称するに耐えないものではないだろうか
   ――釈迦はそれゆえに、この世界(現象界)はそのような
   完全な知性(神)によって創造せられたのではなく(現象世界の創造神の否定)
   それは人間の心(迷妄心――無明)によって生じたる
   唯心所現の世界であるとせられたのである。

   神の想像し給える真創造の世界を「実在の世界」と称するならば、
   吾々の肉眼で見るこの現象世界は仮虚不実の夢幻的世界であるという訳である。

   現象世界は唯心所現の世界であるという世界観は、
   いっそう進歩したものの観方であると謂えるのである。

            <感謝合掌 平成29年9月26日 頓首再拝>

【ニ十七日の法語(9月27日)】 - 伝統

2017/09/27 (Wed) 04:36:44


(1)《神の力が不足なのではない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   神は全能である。

   如何なる大事でも如何なる難事でもそれが成就しないのは、
   神の力が不足な為ではなく、
   神を信ずるこちらの力が不足なのである。

   人間に能(あた)わないことでも神には能うのである。
   人間の智慧の尽きたところに神は無数の手段を有ち給う。

   一歩一歩神を信じて前進せよ。
   道遠きを嘆ずるな。

   一歩毎に目的に近づくのだ。

・・・

(2)《自分の力で上らねば 真の獲得はない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   諸君が高き魂の王座に座(ざ)して、
   万人に対して 「 吾(われ)すぐれたり 」
   という自信をもち得るためには、
   人から押しあげてもらうようなことでは得られないのである。

   彼の体力も筋肉力もそれによっては少しも偉大にならないように、
   労せずして、高き位置にのぼったにしても
   その人の魂の力は 少しも高くなっていないのである。

・・・

(3)《悪は幻であって存在しない》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   人間の病気は、霊的実在は不滅であり、
   金剛不壊であると云う真理と矛盾するものなのである。

   すべて病気のみならず、一切の悪は五官の心の迷いであり、
   幻であるのである。

   唯善のみ、愛のみ、智慧のみ、調和のみ、豊かさのみが
   実在するのである。

   五官の眼を閉じよ、而(しか)して実相のみを見よ。

・・・

(5)《仏教も創造神を立てている》

   ここに”この世界”を創造した創造神を立てるキリスト教や印度教その他と
   「この世界は神の創造ではない」と創造神を否定する仏教との
   正面衝突があるのである。

   仏教界の碩学大谷光瑞氏さえも、仏教とキリスト教とが同様の真理を説くなど
   ということは仏教の本質を知らない者だと罵倒したことがあるのである。

   この両者の宗教を融合帰一せしめる道は不可能であると認められていたのであるが、
   生長の家の説き方に従うならば、仏教と基教とは容易に一致点を見出すことが
   できるのである。

   というのは「この世界を創造した」という場合の「この世界」を
   「実相の世界」と観て「現象世界」のことではないと解釈し
   “実相”と”現象”とをハッキリ区別すれば、

   仏教だとて、法華経の如来寿量品に於いて”常に茲に在りて滅せざる如来“
   を説き現象界が「大火に焼かるる」と見る時にも「安穏にして天人常に
   充満せる実相世界」のあることを強調しているのである。

   常に安穏にして一切の不幸のない実相が如来の命の展開だということになれば、
   それは如来の創造せる世界(文字の表現が異なるだけ)であって、
   如来は創造神と同一者であるということに解釈できる訳である。

            <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>

【ニ十八日の法語(9月28日)】 - 伝統

2017/09/28 (Thu) 04:10:44


(1)《大いに夢を描け》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   夢を描け、
   大いに、夢を描け。

   しかし今日甲の夢を描き、明日乙の夢を描き、
   明後日は丙の夢を描くと云う風に、
   定めなき動揺する心境では 物事は成就しないのである。

   心に描いたものを現象界に映し出すには、
   写真を移すと同じように 或る時間、同じ対象物に
   心のレンズを向けていなければならないのである。

・・・

(2)《真の資産は精神的なものである》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)


   諸君の真の魂の資産は、
   諸君の生命によって体験し得たる所の喜び、忍耐力、判断力、
   観察力、勇気 その他色々の美徳を包有する所の人格の力である。

   どんなに諸君の地位が高くなろうとも、
   諸君の経済生活が豊かになろうとも、
   人格の内容が空疎であっては
   中はがらんどうの唯のブリキ缶にすぎないのである。

・・・

(3)《宇宙は唯、霊の海》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   大宇宙は唯、霊の海である。
   物質を探ねても、そんな物は決して存在しないのである。

   霊は無限であり、無限であるから完全である。
   完全なる霊から生れて来たものは唯、調和せるもの、美しきもの、
   義(ただ)しきもの、妙(たえ)なるもの、清きもののみである。

   霊の動きは唯完全である。
   完全以外の業の働きなどは決して存在しないのである。

・・・

(5)《仏教の世界観と基教のそれとは一致する》

   つまり仏教では、「大火に焼かるる現象世界」と
   「永遠に滅しない天人充満の実相世界」とを立て、
   前者を唯心所現・生者必滅の仮現世界としているのであるが、

   キリスト教では
   「その創造(つく)りたる全てのものを見給いけるに甚だ善かりき」
   という「エデンの楽園」(実相世界)と、人間の心の迷いによって
   楽園から追放されている”現象世界”とを立てているのであって、

   こうして実相世界と現象世界、実在の世界と仮現の世界とを
   区別して考えれば、仏教とキリスト教とは同一真理を説いていることが
   判るのである。

   つまり全宇宙は神の創造に成る世界であり、
   それが“心”のレンズを通して歪められて不完全に顕現せる世界が
   現象無常の仮現の世界なのである。

   現象世界と雖も仮現の不完全な有様が消え
   実相完全の相を顕わしている部分は
   実相世界の現実化即ち実相の延長と見てよいのである。

            <感謝合掌 平成29年9月28日 頓首再拝>

【ニ十九日の法語(9月29日)】 - 伝統

2017/09/29 (Fri) 03:31:10


(1)《実相の秩序を祈れ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (抜粋として)

   吾々が如何になすべきかに杜(と)まどう時に、

   「 実相の秩序に於いて事物が “ ある ” ように
   どうぞ現象世界に於いてもあらしめ給え 」

   と吾々は祈るべきである。

   「 実相の秩序 」 と云うのは
   実相世界 ( 神の国 ) に於いて、
   すべての事物が互に調和して、
   相侵すことなき状態にある秩序である。

・・・

(2)《物質的遺産よりも尊いのは精神的遺産である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   親から財産を譲られることによって、
   却(かえ)って自己訓練、自己発達、自己建設の
   尊き意志が砕けてしまうならば、

   親から譲られた資産の大いさは、
   却って諸君の人格の邪魔となるのである。

   されば、豊かなる家に生れた人達は自ら省みて、
   刻苦精励の努力を怠らぬようにしなければならないのである。

・・・

(3)《死への願望を捨てよ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   人間が病気から治るためには
   「病気になりたい意思」を捨てなければならないのである。

   「この世が嫌になった」と仮初(かりそめ)に云う言葉の奥にも、
   死への願望や、病気への願望がひそんでいるのである。

   夫婦喧嘩や、事業の失敗や、
   現世で迚(とて)も遂げることの出来ない願望に
   絶望したのちに人間が病気にかかるなどはそれである。

・・・

(5)《三種類の唯心論》

   今まで普通に説かれて来た唯心論を三種に大別することができるであろう。

   主観的唯心論(Subjective Idealism)と、
   客観的唯心論(Objective Idealism)と、
   絶対的唯心論(Absolute Idealism)とである。

   第一の主観的唯心論、この世界は唯、人間の主観が時間空間の“認識の形式”に
   投影されて現れているものであって、客観的にはそんなものは存在しないという
   極端な観念論である。

   第二の客観的唯心論は、この世界は、神または宇宙心の想念の展開であるから、
   それは心の所現ではあるけれども、客観的に儼存する世界であり、
   神の愛に護られている世界と説く。汎神論はこの中に入るであろう。

   第三の絶対的唯心論、神は主観・客観を超越せる絶対者であって、
   一切を包容し一切を支配するのは絶対者であるから、
   個人の努力と見えるものも実は絶対者の顕現であり、
   全宇宙が絶対者に支配されているから、すべては機械的に自動的に動き
   進展して行くので、個人の努力の余地など存在しないと見るのである。
  
            <感謝合掌 平成29年9月29日 頓首再拝>

【三十日の法語(9月30日)】 - 伝統

2017/09/30 (Sat) 04:44:55


(1)《互に侵さざる生活を祈れ》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

   (全文)

   互に侵さずして幸福なる生活を営むためには、
   常に神想観する毎に、

   「 吾等は一つの神の智慧によって支配されている世界に住んでいるのである。
   神の智慧は調和であり、秩序であり、平和であり、美であって、
   一切のものが一つの叡智によって適当に配列されているのであるから、
   不調和なことは存在し得ないのである 」 と思念することが必要である。

   若し現象界に何らか互に相おかすような出来事が起るならば、
   かかる出来事に心を捉えられることなしに、それを無視して

   「 唯、神の調和の智慧のみがこの事件を支配している 」

   と念ずれば、その事件が調和に解決するのである。

・・・

(2)《最善の機会は 刻苦精励である》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

   (抜粋として)

   まことにも 刻苦精励こそは
   諸君の人格を鍛える所の 学校教師であり
   最善の機会である。

・・・

(3)《希望は切実に願うべし》

   (全文は)

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

   (抜粋として)

   商売の成功を望むにしても、販売の増加を望むにしても、
   良き交友を求めるにしても、自己の向上を望むにしても
   「 切に願う 」 と云うことがなければならないのである。

   先ず強く深く切に求むること。
   その決意に従って断乎として動くこと。

   既になれりの信念を以て動けば必要な要素は集って来るのである。

・・・

(5)《生長の家の唯心実相論》

   生長の家の説く唯心論は、以上大別する三つの唯心論とは異なる世界観である。

   唯心実相論と称しているのである。

   以上三種の唯心論的世界観に於いては“この世界”に人間の心の表現であるとか
   神の心の表現であるとか、絶対者の表現であるとかいっても、
   すべてこの“現象世界”のことを“この世界”といっているのである。

   吾々の唯心実相哲学に於いては、神なる絶対完全者の顕現である世界(実在界)と、
   吾々の”心”を媒介として投影し仮現されたる現象世界とを説き、

   実在界と仮現の世界との交錯するところに善悪混淆の現象があらわれるのであるが、
   仮現はどこまでも仮現であって実在でないから、
   現象界は想念の変化によって変化する。

   ここに努力の甲斐があると説くのである。

   そして実在するものは唯、神と神の創造になる実在界のみであって
   それは常住不変の完全原型の世界である。

   そして吾々の努力次第で、どの程度その完全原型を現象世界に具象させて
   円満幸福な生活を送り得るかがきまるのだと説くのである。

   そしてその真理を実際生活に応用させて効果をあげているのである。

            <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>

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