伝統板・第二

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老子を現代に生かす - 伝統

2017/08/23 (Wed) 05:04:47

このスレッドでは、主に、谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす」から、
老子と谷口雅春先生のお考えを紹介してまいります。

別の掲示板で、”やめ講師13年目 さま”により、老子の言葉の紹介が
ありましたことが、このスレッドを始めるキッカケをいただきました。
”やめ講師13年目 さま”に感謝申し上げます。


今回は、”やめ講師13年目 さま”が取り上げておられる
第8章「上善若水」からです。

             ・・・

老子第八章 上善若水

上善若水。
水善利萬物而不爭。
處衆人之所惡。

故幾於道。
居善地、心善淵、與善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不爭、故無尤。



上善(じょうぜん)は水(みず)の若(ごと)し。
水(みず)は善(よ)く万物(ばんぶつ)を利(り)して争(あらそ)わず。
衆人(しゅうじん)の悪(にく)む所(ところ)に処(お)る。

故(ゆえ)に道(みち)に幾(ちか)し。

居(お)るには地(ち)を善(よ)くし、
心(こころ)は淵(えん)なるを善(よ)しとし、
与(あた)うるには仁(じん)なるを善(よ)しとし、
言(げん)は信(しん)なるを善(よ)しとし、
正(せい)は治(おさ)まるを善(よ)しとし、
事(こと)には能(のう)あるを善(よ)しとし、
動(うご)くには時(とき)なるを善(よ)しとす。

夫(そ)れ唯(ただ)争(あら)そわず、故(ゆえ)に尤(とが)無(な)し。

  (ここまで、https://kanbun.info/shibu02/roushi08.html より転写)


《通訳》

最上の善とは水のようなものである。

水はあらゆるものに利益を与え、争わない。
それは人の嫌う地味な場所でいつも満足している。
このように、水は「道」に近いものである。

我々は住むために、地味な場所を好む。
いろいろな考えのためには、奥深さを好む。
友だちとの交わりには、心やさしさを好む。

言葉には、誠実さを好む。
政治には、良き秩序を好む。
出来事においては、能力を好む。
行動においては、正しい時を好む。

このように、我々は争わないから、まちがうことはない。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

・・・

《参考》~谷口雅春先生に帰りましょう・第二
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1727

老子の言葉NEW (7428)
日時:2017年08月23日 (水) 00時20分
名前:やめ講師13年目

参考記事:老子の言葉 第八章「水の様な生き方は最強です」

「老子の人生論」第八章

・ コノ世で最高の生き方とは、水のように生きることです。

・ 人の心が病むのは、自分の心を高い位置に置くからです。

・ 流れる水のように自分の心を下方へと流し、
  自分の心を低い位置に集めて置けば、そこに深みが出て心が安定します。
  まさに水のようにです。

・ 自分の心を低い下から目線に置けば、他人から罵倒されても、
  「そうだね」と明るく言って誰とも争うことに成りません。 

・ 水を四角の容器に入れれば、水は四角に成ります。
  水を丸い容器に入れれば、水は丸の形に成り切ります。
  水は、どこでも順応し、周囲に合わせて馴染みます。
  自分の心も成り切る順応性が有れば、どこに居ても天国です。
  ストレスを感じることがありません。

・ 低い位置に流れようとする水は、どんな山でも崩すことも出来ます。
  つまり、自分の心を低く置いて、周囲に合わせることが出来る人。
  こういう人こそは、本当に強い人なのです。

更に、その強さに愛情や情け心も備わっていれば、
その人は周囲からすべてを信頼されます。
心を低く保ちながら、逆にその人の環境は最高へと自然と持ち上げられます。

(*なお、この投稿記事と同じ字句が、
  あるブログ<2017-08-22>にも見受けられます。
  → http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20170822 )

            ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす」》(P26~28)では
以下のご解釈をしております。



普通の人は、表面に目立って人にヤンヤ と喝采せられないと思ったりして、
とかく『出る杭は打たれる』式に不幸を招くのである。

深山(しんざん)に棲む雉(きじ)も啼かなければ猟師に見つかることもなく、
射(う)たれて死ぬと云うことも要らぬのである。

本当の最上の善というものは、外に顕れて事をなすのではなく、
水のように地下に潜(くぐ)って善を成すのである。
縁の下の力持ちこそ上善である。


水は表面にあらわれていないで万物を生かしている。
吾々の肉体でもその90%は水分である。

よくよく調べて見ると、
人間が歩いていると云うのは蛋白質や脂肪が歩いているのではなく、
水が歩いていると云って好い位である。

而も誰も人が歩いているのを見て『水』が歩いていると思う者はない。

その位に隠れているのが『水』である。

水は決して他(た)と争わない。
四角になれと、四角の容器に容れられれば四角になっている。
円いフラスコに容れれば円い形になっている。

水は何処に容れられても透きとおっていて幸福そうに見える。

水を自由に流せば下(した)へ下へと附こうとする。
衆人の好まないところの不浄を洗って、黙って地下にもぐり込んで
自分の功(こう)を誇らない。

まことに水の生活の如きは『善』を行ずるものであると
老子は称(ほ)めたのである。



さて水の如く『道(みち)』の生活にかなう人が居るときは、
誰とも争わずして周囲を霑(うるお)すのであるから、周囲の人々が
おのずから光明化されると云うのが『居(きょ)は地を善くし』である。

『一人(いちにん)出家すれば九族天に生(うま)る』と
仏典にあるのもそれである。

『心(しん)は淵(えん)を善くし』は、
そのまま素直に静かに溜まっている水の如き心境である。
この心境になって、その心の水底(すいてい)に
大いなる龍が棲むことが出来るのである。

人にものを与え霑(うるお)すにしても隠れていて霑(うるお)すのであって、
その与うるや必ず仁徳にかなうのが『与(よ)は仁(じん)を善(よ)くし』である。

苟(いやしく)も言葉を発すれば信(まこと)を以って言うのであって、
決して虚名虚飾のために言うのではない。

深淵の如く黙っているかと思うと、愈々喋(しゃべ)らねばならぬ時が来たら、
沛然(はいぜん)たる豪雨が雷霆(らいてい)を招(よ)ぶように、
海嘯(かいしょう)ひとたび到らば一切のものを流し去るように、
言葉に信(しん)があるから、その動かす力が強いのである。

かくの如くして、一切を霑(うるお)し、一切を浄化し、
深淵の如く黙するかと思えば、滔々千里の広野(こうや)を走るとと云うのが
『言(げん)は信(しん)を善くし』である。

ただ甘く穏やかなるだけが水徳ではない。

従って、民(たみ)は一方に於いてその仁(じん)になつき、
一方に於いてその威(い)に服する。
これが『政(せい)は治(ち)を善くし』である。

事の行なうにあたっては我執(がしゅう)がなく、
一局部の外見に執(と)らわれることがないから、自由自在の智慧が
湧き出して来てその能力も素晴らしくなるのが、
『事(じ)は能(のう)を善くし』である。

苟(いやしく)も動くや時(とき)に適(かな)うのは水の無我の徳である。
熱せられれば沸騰して雲となり、寒冷に遇(あ)えば凝結して雨となって降(くだ)る。
相手に従って、その寒熱を反映するのであって、『我(が)』が」あるのでないから、
すべての動きが時(とき)にかなうのが、『動(どう)は時(とき)を善くし』である。

水が熱せられて沸騰し、冷却せられて液体に還り、高所より低所(ていしょ)に
付くのは他(た)と争うために斯くあるのではなく、熱に身をまかせ、
冷(れい)に身をまかせ、落下の法則に対してただ素直なからであるから、

これを利用し得て蒸気機関を動かしたり、水力タービンを運転させたりすることが
出来るのである。その動きが正しいことのみに利用されて、過ちがないのは
素直に方則に随順する水徳から来るのであるというのが
『夫(そ)れ唯(ただ)争わず、ゆえに尤(とが)なし』である。

尤(もっと)も、洪水、海嘯(つなみ)、その他で大いに水が争っているように
見える事があるが、それは水の尤(とが)ではなく、水それ自身は無我であって
アルべきように唯(ただ)あるだけである。

従って水害で害を被(こうむ)る人たちも、実はその水害によって
其の人の業(ごう)が流し去られているのであるから、
それは害でも、尤(とが)でも、禍(わざわい)でもないのである。

            <感謝合掌 平成29年8月23日 頓首再拝>

老子を現代に生かす~目次 - 伝統

2017/09/09 (Sat) 04:56:19


          *Web:山ちゃん1952(2017年04月08日)より

老子を現代に生かす 昭和17年6月5日

自序/1

老子上篇

第一章 道可道/3
第二章 天下皆知/8
第三章 不尚賢/12

第四章 道沖/16
第五章 天地不仁/18
第六章 谷神不死/22

第七章 天長地久/24
第八章 上善若水/26
第九章 持而盈之/29

第十章 載營魄/32
第十一章  三十輻/36
第十二章  五色/38

第十三章  寵辱/41
第十四章  視之不見/45
第十五章  古之善爲士/48

第十六章  致虚極/53
第十七章  太上/56
第十八章  大道廢/59

第十九章  絶聖棄智/61
第二十章  絶學無憂/66
第二十一章 孔德/72

第二十二章 曲則全/75
第二十三章 希言自然/82
第二十四章 跛者不立/85

第二十五章 有物混成/89
第二十六章 重爲輕根/92
第二十七章 善行無轍迹/95

第二十八章 知其雄/98
第二十九章 將欲取天下/101
第三十章  以道佐人主/107

第三十一章 夫佳兵/110
第三十二章 道常無名/113
第三十三章 知人者智/119

第三十四章 大道汎兮/121
第三十五章 執大象/123
第三十六章 將欲歙之/124

第三十七章 道常無爲/127


老子下篇

第三十八章 上德不德/133
第三十九章 昔之得一/139
第四十章  反者道之動/146

第四十一章 上士聞道/148
第四十二章 道生一/153
第四十三章 天下之至柔/156

第四十四章 名與身/157
第四十五章 大成若缺/160
第四十六章 天下有道/162

第四十七章 不出戸/163
第四十八章 爲學日盆/164
第四十九章 聖人無常心/165

第五十章  出生入死/167
第五十一章 道生之/169
第五十二章 天下有始/171

第五十三章 使我介然/173
第五十四章 善建者不拔/175
第五十五章 含德之厚/177

第五十六章 知者不言/179
第五十七章 以正治國/180
第五十八章 其政悶悶/182

第五十九章 治人事天/184
第六十章  治大國/186
第六十一章 大國者下流/187

第六十二章 道者萬物之奥/189
第六十三章 爲無爲/191
第六十四章 其安易持/194

第六十五章 古之善爲道/197
第六十六章 江海爲百谷王/199
第六十七章 天下皆謂/200

第六十八章 善爲士者/203
第六十九章 用兵有言/204
第七十章  吾言甚易知/206

第七十一章 知不知/207
第七十二章 民不畏威/208
第七十三章 勇於敢/210

第七十四章 民不畏死/211
第七十五章 民之飢/212
第七十六章 人之生/214

第七十七章 天之道/215
第七十八章 天下柔弱/217
第七十九章 和大怨/219

第八十章  小國寡民/221
第八十一章 信言不美/222

    (http://tecnopla1011.blog.jp/archives/70070270.html より複写)

            <感謝合掌 平成29年9月9日 頓首再拝>

老子第一章 道可道 ~その1 - 伝統

2017/09/30 (Sat) 05:01:18


道可道、非常道。
名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。

故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
此兩者同出而異名。
同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。



道(みち)の道(みち)とす可(べ)きは、常(つね)の道(みち)に非(あら)ず。
名(な)の名(な)とす可(べ)きは、常(つね)の名(な)に非(あら)ず。
名(な)無(な)きは天地(てんち)の始(はじ)めにして、
名(な)有(あ)るは万物(ばんぶつ)の母(はは)なり。


故(ゆえ)に常(つね)に無(む)は以(もっ)て其(そ)の妙(みょう)を
観(み)んと欲(ほっ)し、
常(つね)に有(う)は以(もっ)て其(そ)の徼(きょう)を
観(み)んと欲(ほっ)す。

此(こ)の両者(りょうしゃ)は
同(おな)じきより出(い)でて名(な)を異(こと)にす。

同(おな)じく之(これ)を玄(げん)と謂(い)う。
玄(げん)の又(また)玄(げん)は、衆妙(しゅうみょう)の門(もん)なり。

  (ここまで、https://kanbun.info/shibu02/roushi01.html より転写)


《通訳》

語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。
名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。

だから、意図をもたない者が「道」に驚き、
意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。

この二つは同じものである。
これらがあらわれて以来、名を異にする。

この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)



            ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第一章 道可道」》(P3~8)では
以下のご解釈をしております。


(道可道、非常道。名可名、非常名)(P3~4)

道は字画の構造から見るとき首(はじめ)にすすむべきものである。
事物の本源として一(はじめ)にあるものである。

それは一、ニ、三、四・・・と連続するところの数の一(いち)ではない。
そう云う現象的数(かず)を超えたところの一(いち)である。
だから万物の本源である。

万物の本源は、一、ニ、三、四と進行して行く細胞分裂の単位の一でなく、
一切を一つに包括しながら、まだその中(みなか)にいながら、
極微にして極大を兼ねているところの眼に見えないところのものである。

それは極大なるが故に、それは宇宙にミチているのである。
日本では此の極大なる方面から万物の本源なるものに対して
ミチと名付けたのである。

支那では、これを道(たを)(Tao)と名付けた。
Taoは『ト』の転訛音である。
ト は日本言霊学(げんれいがく)では『止(トドマ)る』ことを意味する。

一切のものの止(とどま)るところの本源が Tao である。
一切所にミチ、一切のものがそれに止(とどま)り、また一切のものの
中(みなか)にそれは止(とどま)る。

それは至大にして至小、至小にして至大、形を超えたるものであるから、
形あるものを表現(いいあらわ)すところの言葉を以ってしては
云いあらわすことが出来ない。

《これ》を斯うだと云ってしまったら、もう既に《それ》は道を離れている。
だから道の謂うべきは常の道に非ずである。
また道の道とすべきは常の道とすべきは常の道に非ずと読んでも同じ意味になる。

常は尋常の常ではない。
常恒の常である。

釈迦が法華経に於いて『我れ常に茲(ここ)にありて説法す』と
申されたところの常である。

常にあり、茲にある道(みち)であり、道(ことば)であり、道(いう)である。
常在の如来の転法輪である。

常はその音(おん)ジョウであり、主(シュ)であり虚(シュウ<支那音>)である。
虚(きょ)にして主(しゅ)なるところの一切の拠り所である。
それは虚(きょ)なるが故に名づけようがない。

仏(ほとけ)であるとか、ゴッドであるとか、ブラマであるとか、天であるとか、
その本来名づけ難きものを指(さ)して名づけようとするから、
混雑が起こり、争いが起こるのである。

宇宙の本体に名前などつけなかったら宗派争いのしようがないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>

老子第一章 道可道 ~その2 - 伝統

2017/10/18 (Wed) 04:53:09

(無名天地之始、有名萬物之母。)(P4~6)

天地の始原であるところの道(みち)は、前にも述べたとおり、
名づけ難きものである。その名づけ難きものこそ天地の始原なのである。

その名づけ難きが故に虚無(きょむ)または『無』と云う。
無にして無に非ずあらずして無であるのである。

だから無門和尚は無字を二十字も重ねて、無であることを表現したと同時に、
その上に書いた無で無を否定したのである。

無門録に『歴代の宗師、狗子(くし)仏性の話(わ)を頌(じゅ)す、
老拙(ろうせつ)も亦一偈(げ)あり、諸人(しょにん)に挙似(こじ)せん、
敢えて道理を説かず。

若し也(ま)た信得(しんとく)及(ぎゅう)し、挙得(ことく)熟(じゅく)せば、
生死岸頭(しょうじがんとう)に於いて大自在を得ん、曰く、
無無無無無、無無無無無、無無無無無、無無無無無』とある。

無が重なっているから、何(なん)にもないかと思うと大間違いであり、
また無を否定しているから、何でも五官に見える通りにあるかと思うと、
これも亦大間違いなのである。大乗起信論に、

 『当(まさ)に知るべし、真如の自性は、有相(うそう)に非ず、無相に
 非ず、非有相に非ず、非無相に非ず、有無倶相(ぐそう)に非ず、
 一相に非ず、異相に非ず、非一相に非ず、非異相に非ず、一異倶相(ぐそう)に非ず。

 乃至、綜説(そうせつ)して、一切衆生、妄心あるを以って、念々、
 分別(ぶんべつ)するに依りて、皆、相(あい)応せざるが故に、
 説いて空(くう)と為す。若し、妄心を離れば、実に空(くう)すべきが故に。

 いう所の不空(ふくう)と已(すで)に、法体(ほったい)は空(くう)にして、
 妄(もう)なきを顕すが故に、即ちこれ真心(しんしん)に常(じょう)なり、
 恒(こう)なり、不変なり、《浄法、満足す》。・・・』

とあるのである。

此の浄法満足せる世界を指して、『実相を観ずる歌』にては
『われ座す妙々実相世界、吾(わ)が身(み)は金剛実相神の子、
万ず円満大調和、光明遍照実相世界』と説くのである。

この老子の原文『無名(むめい)天地(てんち)之(の)始(はじめ)』を
『無を天地の始めに名づく』と読んだ人があるが、『甘露の法雨』には、
この名づくべからず宇宙の円満なる実体を『聖(せい)、至上(しじょう)』
と名づけてあるのである。

此の円満完全なる宇宙の実体を仮りに『神』と日本語では称するのである。

『この全能なる神、完全なる神の心動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して万物成る』と『甘露の法雨』にあるが、

その『コトバとなるとき万物成る』と云うのは
『有名(ゆうめい)は萬物(ばんぶつ)之(の)母(はは)』
と老子が云ったことに当たるのである。

一切の存在の本源は名づくべからざるもの、聖なる妙(たえ)なるものであるが、
それが万物として展開し顕現するにはコトバとならなければならない。

コトバ即ち名(な)有(あ)らしめることによって万物は生ずるのである。

されば『有名(ゆうめい)は万物の母』とあるのである。

コトバによって、万物は有無(うむ)を超えたる存在から、形あるものとして
顕(あらわ)れるのである。

吾々はコトバを慎まなければならない。
人生に幸福を現わすも、不幸を現わすも、健康を現わすも、病気を現わすも、
コトバの遣(つか)い方にあるのである。

善き言葉を遣うこと、明るい言葉を遣うこと、
幸福な言葉を使うこと、愉しい言葉を遣うことだ。

            <感謝合掌 平成29年10月18日 頓首再拝>

老子第一章 道可道 ~その3 - 伝統

2017/11/02 (Thu) 04:13:17

(故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。)(P6~7)

このように宇宙の本体は無である。
無であるが唯(ただ)の無ではない。
一切が常に其処に存在して滅びざるところの無である。

一切をよく容(い)るところの無である。
換言すれば常無(じょうむ)である。
常無を把握したとき、そこに妙楽の世界を観ることが出来るのである。

無一物中無尽蔵の世界である。

単なる『無』であれば、それは唯(ただ)の貧乏に過ぎない。
貧乏からは何も出て来ない。

無尽蔵が出て来るところの『無』でなければならない。
宮本武蔵の五輪書にある無構(むかまえ)の『無』である。

『常無(じょうむ)』に住(じゅう)するとき、千変万化自由自在なのである。

常無(じょうむ)の裏は常有(じょうう)である。
常無即(すなわち)常有である。
真空即(すなわち)妙有と云っても好い。

釈迦が『我(われ)常(つね)に茲(ここ)に在りて説法す』(法華経寿量品)
と云った場合の常在(じょうざい)である。
滅(ほろ)びざる久遠(くおん)の有(う)である。

常有(じょうう)以って其の徼(きょう)を観んと欲(ほっ)すと云う、
徼(きょう)とは境(きょう)であり、形(きょう)であり、
サカイであり、カタチである。

無際限の宇宙には、空間を超越せる宇宙の本体には、境(さかい)はない。
境(さかい)がなければ形(かたち)はない。

本来境(さかい)なくして形(かたち)の世界を劃(かく)するものは
念(ねん)である。念(ねん)は振動であり、コトバである。

常無(じょうむ)より発(はっ)して形(かたち)あらしめ、
無相(むそう)よりして相(すがた)あらしむるものは念(ねん)である。

            <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>

老子第一章 道可道 ~その4 - 伝統

2017/11/19 (Sun) 04:52:25


(此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。)(P7~8)

  此の両者は同じく出(い)でて異名(いみょう)なり。
  同じく此れを玄(げん)と謂う。
  玄(げん)の又玄(げん)。衆妙(しゅうみょう)の門(もん)


此の両者と云うのは、常無(じょうむ)と常有(じょうう)との両(ふた)つである。
真空も、妙有も、常無も、常有も同じもの ―― 真実唯一の実在 ―― を
表現して別の名称を与えたものである。

無相(すがたなき)にして無限相(むげんそう)なのである。
無(む)にして有(う)、有にして無。

空(そら)の色(いろ)は、あれは紺青(こんじょう)の色(いろ)が
塗ってあるのかと云うとそうではない。
空気(くうき)には色(いろ)が無い。無いのかと思うと紺青の色があるのである。

この有(う)にして無(む)、無にして有の状態を「玄(げん)」と云うのである。

本来、天(そら)の色(いろ)の奥深くして黒きが如くなるを
「玄」と云ったのである。

幽玄(ゆうげん)の意(い)である。
幽玄の奥の奥に実相(じっそう)がある。
この実相から、衆(おお)くの玄妙(げんみょう)の相(すがた)が顕れたのである。

実相とは衆妙(しゅみょう)の門(もん)であり、
これを相(すがた)あらしむるものは念(ねん)である。

・・・

(以上で、老子第一章 道可道 の項 了)

            <感謝合掌 平成29年11月19日 頓首再拝>

老子 第二章 天下皆知 ~その1 - 伝統

2017/12/09 (Sat) 03:38:20


天下皆知美之爲美、斯惡已。

皆知善之爲善、斯不善已。

故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。

是以聖人、處無爲之事、行不言之教。

萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而弗居。

夫唯弗居、是以不去。




天下(てんか)皆(みな)美(び)の美(び)為(た)るを知(し)る、
斯(これ)悪(あく)なる已(のみ)。

皆(みな)善(ぜん)の善(ぜん)為(た)るを知(し)る、
斯(こ)れ不善(ふぜん)なる已(のみ)。

故(ゆえ)に有無(うむ)相(あい)生(しょう)じ、
難易(なんい)相(あい)成(な)り、長短(ちょうたん)相(あい)形(けい)し、
高下(こうげ)相(あい)傾(かたむ)き、音声(おんせい)相(あい)和(わ)し、
前後(ぜんご)相(あい)随(したが)う。

是(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は、無為(むい)の事(こと)に処(お)り、
不言(ふげん)の教(おし)えを行(おこな)う。

万物(ばんぶつ)作(おこ)りて辞(じ)せず、生(しょう)じて有(ゆう)せず、
為(な)して恃(たの)まず、功(こう)成(な)りて居(ら)ず。

夫(そ)れ唯(ただ)居(お)らず、是(ここ)を以(もっ)て去(さ)らず。

  (ここまで、https://kanbun.info/shibu02/roushi02.html より転写)



《通訳》

美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。

善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。

だから、有と無はたがいに生まれ、難と易はたがいに補いあい、
長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、
高と低はたがいに矛盾し、声と音はたがいに調和しあい、前と後はたがいに順序をもつ。

だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。

万物は間断なく盛大である。

成長していっても、誰れもそれを所有しない。

仕事が成しとげられても、それに頼るものはいない。

達成されても、名声を求めるものはいない。

名声を求めないから、成功はつねにそこにある。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)


            ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第二章 天下皆知」》(P8~12)では
以下のご解釈をしております。


(天下皆知美之爲美、斯惡已。皆知善之爲善、斯不善已。)(P8~9)

すべての人々が《やんや》と持て囃(はや)すようになったら、
それはもう既に型に嵌まった形骸となったものである。

生命(せいめい)が新しき形態を以って主張されて来る時には、
旧態依然たる老朽者流には悪口(わるぐち)を云われる。
悪口を云われるのは、それが新しき発現である証拠である。

生長の家も悪口を云われる間は花である。

もう悪口を云われなくなったら、もう天下の誰もが知って了(しま)ったのだから、
殊更(ことさら)に宣伝する必要もないし、又溌剌たる運動も見られない。

それは天下みな之(これ)をみとめて美となし、善となすようになったから、
生気が欠け、生命(せいめい)がなくなったのである。
既成宗教がそれだ。

生気が欠け、生命(せいめい)が無くなったとき、
それは美でもなければ善でもない。

美術や文学が新時代が来る毎に旧時代を打破する新生面がひらかれ、
各宗教の教祖が時代に容れられずして、十字架、流謫(りゅうたく)、火刑等々・・・
に処せられているのは、本当の善は天下(てんか)の人みなが尚(なお)
みとめ得ないからこそ善なのである。

吾々はまだ天下の人が概ね唯物的人間観を把握して、
日本本来の唯神的人間観になり得ないのを悲しむまし。

            <感謝合掌 平成29年12月9日 頓首再拝>

老子 第二章 天下皆知 ~その2 - 伝統

2017/12/28 (Thu) 03:34:56


(故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音聲相和、前後相隨。)(P9~10)

 故(ゆえ)に有無(うむ)相生(あいしょう)じ、難易(なんい)相成(あいな)し、
 長短(ちょうたん)相形(あいあら)われ、高下(こうげ)相傾(あいかたむ)け、
 音聲(おんせい)相和(あいわ)し、前後(ぜんご)相隨(あいしたが)う。



善と云うものを、空気のように、一般に行きわたってしまったら、
誰もそれを有りがたいとは思わない。

ニッポン号が千島列島の上空を飛行したとき空気が欠乏したので、
空気の有難さがその時初めてわかったと云うことであった。

相対界のものは『無』に対して『有る』と云うことが出て来るし、
難しいものがあって、『これは易しい』と云うことも出来るのである。
易しいものがあって、『これは難しい』と云うことが出来るのである。

『これは長い』と云うのも他(ほか)のもの対して『これは長い』と
比較し得るのであって、三尺の童子も一寸法師に比較したしたら長いであろうが、
普通の大人(おとな)に比較したら大変短いと云わねばならない。

高い下(ひく)いと云うのも同じものである。
数十階の摩天閣も、富士山にくらべれば低いであろうし、
摩天閣以下の普通建築物があるからこそ、その摩天閣も高いと云い得るのである。

音声相和すと云うのは、ここでは音(おん)は楽器の音(おん)のこと、
器楽ばかりでは味わい深い複雑な音楽は成立し得ないし、
声楽ばかりでは変化の幅の広い豪宕(ごうとう)な音楽は成立し得ない。

器楽の中(うち)に声楽が混じって演奏されるので、
互いに一方を引き立てて呉れるのである。

前だとか、後ろだとか云うけれども、
それ一つでは『前』もなければ『後(うしろ)』もない。

金持ち金持ちだと云うけれども、貧乏人があるから金持ちがある。

大臣大臣だなどと云う高き位(くらい)があるのも、
低い位置の人民(じんみん)があるからである。
人民がなかったら大臣もない。

高位者も大いに人民をを拝むべきであると、
老子は世故(せこ)にたけた口調で皮肉っているとも解せられるのである。

            <感謝合掌 平成29年12月28日 頓首再拝>

老子 第二章 天下皆知 ~その3 - 伝統

2018/01/23 (Tue) 04:19:09


(是以聖人、處無爲之事、行不言之教。)(P10~11)

  是(こ)れを以って聖人(せいじん)は無為の事に処(お)り、
  不言(ふげん)の教(おしえ)を行(おこな)う。

金持ちがあるので貧乏人がある。
貧乏人こそ金持ちを金持ちたらしめている支柱(しちゅう)のものだと云ったならば、
貧乏人の方が金持ちよりも偉いと云うことにもなる。

無論そのアベコベを説くことも出来る。
それは見解の相違であり、相対界のものは、
立場を変えて云えば如何にでも云うことが出来るのである。

すると、どちらでも云うことが出来るような頼りない、
絶対的存歳でもないのに執着して見たとて何にもならぬではないか。

そこで聖人(せいじん)は無為の境(きょう)に安住して、
相対界の批評をせず、黙ってそのまま教化していると云うのである。

茲(ここ)に云う「聖人」とあるのは実相を悟った人と云うような意味である。
無為と云うのも何も為(し)ないと云うことではなく、
計らいがないがない「実相」と云う意味である。

そこで聖人は無為に処(お)ると云うのは
覚者は実相に安住して別に金持ちになろうとも、貧乏に執(しゅう)しようとも、
高官になろうとも、下役(したやく)になろうとも、大きくなろうとも、
小さくなろうとも、顕れようとも、隠れようとも、どんな作為(さくい)をもしない
(即ち無為)で、ただその儘(まま)生きている。

その其の儘の生活が「不言(ふげん)の教(おしえ)」である。

だから聖人は偉いようにも見えれば、偉くないようにも見える。
凡(ぼん)の凡のようにも見えるが、それでいて偉大なのである。

小才子(しょうさいし)の及ぶところではないのである。

            <感謝合掌 平成30年1月23日 頓首再拝>

老子 第二章 天下皆知 ~その4 - 伝統

2018/02/10 (Sat) 05:00:20


(萬物作焉而不辭、生而不有、爲而不恃、功成而不居。夫唯不居、是以不去。)

                           (P11~12)


萬物 ―― 何が起こって来ようとも、聖人はそれを辞すると云うことがない。
そのまま素直に受けるのである。

何が生じても、財産が生じても、
それを握って執していると云うようなことはない。

何をなしても、我が功(てがら)であると恃(たの)みとする心を起こさぬ。

功(こう)と云っても、真空妙有の世界であるから、
『我(われ)』と云って無い世界であるから、どんなに功(こう)を成しても、
わしがこんなに功(こう)をしたと云って驕(たかぶ)ることもない。

『わしが、わしが』の我慢もなければ我執もない。

聖人は流れる水のようで何処(どこ)にも処(お)らぬ。

だと云って逃げ出すのでもない。
何処(どこ)かに居(お)るものなら逃げ出すこともあろうが、
逃げ出しはせぬのである。

そのまま素直にそのまま居(お)って、居らぬ生活が老子の道で、
これが日本精神に一致する。

(第二章 完了)

            <感謝合掌 平成30年2月10日 頓首再拝>

老子 第三章 不尚賢 ~その1 - 伝統

2018/02/26 (Mon) 03:39:57

不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不爲盗。不見可欲、使民心不亂。

是以聖人治、虚其心、實其腹、弱其志、強其骨。

常使民無知無欲、使夫知者不敢爲也。爲無爲、則無不治。




賢(けん)を尚(とうと)ばざれば、民(たみ)をして争(あらそ)わざらしむ。
得難(えがた)きの貨(か)を貴(とうと)ばざれば、
民(たみ)をして盗(ぬすみ)を為(な)さざらしむ。
欲(ほっす)可(べ)きを見(しめ)さざれば、
民(たみ)の心(こころ)をして乱(みだ)れざらしむ。

是(これ)を以(もっ)て聖人(せいじん)の治(ち)は、
其(そ)の心(こころ)を虚(むな)しくし、
其(そ)の腹(はら)を実(み)たし、
其(そ)の志(こころざし)を弱(よわ)くして、
其(そ)の骨(ほね)を強(つよ)くす。、

常(つね)に民(たみ)をして無知(むち)無欲(むよく)ならしめ、
夫(か)の知者(ちしゃ)をして敢(あえ)て為(な)さざらしむ。
無為(むい)を為(な)せば、則(すなわ)ち治(おさ)まらざること無(な)し。


  (ここまで、https://kanbun.info/shibu02/roushi03.html より転写)


《通訳》

賢者を尊重する者がいなければ、人は競争をしないだろう。

貴重なるものに価値をおくことをやめれば、人は不法の利益をもつことはないだろう。

欲望を刺激するものを見る者がなければ、心は混乱しないだろう。

だから、賢者は人々の心をくつろがせ、腹をしっかり固めさせ、志を弱めてやり、
身体と強くさせて人々を導く。

彼は人々を知識も欲望もない状態にする。

これは、知識をもつ賢者はあえて行動しないということを意味する。

彼の無為によって、教養をもたない者がいないわけではない。

 (http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第三章 不尚賢」》(P12~15)では
以下のご解釈をしております。


(不尚賢、使民不爭。不貴難得之貨、使民不爲盗。不見可欲、使民心不亂。)(P12~14)

老子の虚無の哲学に於いては、
大智(だいち)は、虚無のなかにあり、
小智を離れたところに大智が現れるのである。

虚無とは何もないのではない、把(つか)みがないのである。
把(つか)めば一握(あく)の量(りょう)にすぎず、
放てば掌中に大宇宙が載る。

爰(ここ)に云うところの『賢(けん)』と云うのは、小智をつかんでいて、
小策(しょうさく)を弄(ろう)する人のことである。

真人(しんじん)は一見(いっけん)茫洋として捉えがたくして、
ひとたび時期到らば怒涛を巻き起こして、どんな大舶(だいはく)でも
呑みほしてしまう。

これ茫洋の功徳である。

今(いま)天下に必要なのは小智小策(しょうちしょうさく)を弄する人ではない。
世界を覆すところの大智者(だいちしゃ)が必要なのであって、小智小策によって
世の中を膏薬(こうやく)張りしているようなことでは治まらぬのである。

今(いま)世の中の上に立っている人は小智小策によって鰻上(うなぎのぼ)りに
天上(てんじょう)にて立身出世した人が多いから、潜んでいた龍が雲を起こして
天地(てんち)を覆(くつがえ)すように人生観を全然転回したような
行き方で世界を収める人がないのは残念である。

これ明らかに『賢(けん)』を尚(とうと)んで来た今迄の弊害である。
『賢者』『智慧者』とを尚(とうと)んで、唯物論を大学で習って来て
点数の多かったものを、高い位置に据えて置くから、

『賢(けん)』『賢(けん)』と云ってまるで狐の鳴き声のような小賢(こざか)しい
やり方で机上の数字を捻くりまわして実際とは齟齬(そご)離反(りはん)して
百弊(ひゃくへい)おのずから起こり、諸見協和せず、争い合い、
黄河の治水も思うにまかせずと云うようになり易いのである。

これ『賢(けん)』を尚(とうと)ぶ弊害である。

大体人間の争(あらそい)の因(もと)はなんであるかと云うと

第一に『賢(けん)』であり、『私は賢うございます』と突き合わすから
喧嘩の因(もと)になるのである。

『私は愚かなものでございます』と謙(へりくだ)っていたら
争(あらそい)の起こりようがない。


第二に争(あらそい)の起こる因(もと)は珍しい財宝を貴(とうと)ばしめるから、
争(あらそい)が起こり、奪い合いが起こり、盗(ぬすみ)が起こるのである。

物質的な財(ざい)を有っている者は貴(とうと)ばないことにし、
心の清らかな人のみを貴(とうと)ぶことにすれば盗みなどの起こりようがない。


大体人間の欲望には限りがない。
ひとつ欲しいを満足したら、またその次が欲しくなるのであって、
極まるところがないから心が永遠に乱れるのだ。

欲しいものを見せるから次の欲しいが起こる。
欲しいの絶滅こそ人間苦悩を無くする所以(ゆえん)である。

その欲しいを絶滅するには、

『そのまま既に満たされている』

実相を知ることにある。

            <感謝合掌 平成30年2月26日 頓首再拝>

老子 第三章 不尚賢 ~その2 - 伝統

2018/03/13 (Tue) 04:39:18


(是以聖人治、虚其心、實其腹、弱其志、強其骨)(P14)

そこで聖人が民を治めるには、民の心をして『賢(けん)』や『財宝』で競争する
ようなことはさせず、そんな争いで心をイライラさせず、心の方は虚(むな)しく
空っぽにして置いて、腹の方は空腹にならないように殖産の道を充分講じてやるのである。

賢くなろう、智慧者になろうと云うような下らない野心を捨てしめて、
大いに勤労を励ましめる。勤労にいそしんでいる間は、悪いことなど考えない。

だから農耕殖産の仕事に十分親しましめて、骨を太うするのが好いのである。

            <感謝合掌 平成30年3月13日 頓首再拝>

老子 第三章 不尚賢 ~その3 - 伝統

2018/03/31 (Sat) 03:38:57


(常使民無知無欲、使夫知者不敢爲也。爲無爲、則無不治)(P15)

聖人の政治は民をして無知無欲ならしめるのである。
『無知』は『賢』の反対である。
『無欲』は『貨(たから)を貴(とうと)ぶ』の反対である

常に人民をして小賢しさを争って高き地位につこうとするような
欲望を捨てしめ、貨(たから)を貴(とうと)ぶを捨てしめ、
小智者(しょうちしゃ)をして、策略を弄(ろう)して扇動をするような
余地を無からなしめたあんらば自(おの)ずから天下は治まるのである。

インテリ、インテリとインテリ尊重時代を惹起(ひきおこ)したのが、
天下の乱れる因(もと)で、『赤い』思想を跋扈せしむることに
なったのである。

聖人の政治は無為である。
無為とは私心なく、小智がなく、
策略を弄しないで其の儘行き届いていることである。

無為の政治になれば自然に炭(すみ)の足りないところには炭が行き届き、
米の足りないところには米が行きとどく。

色々小智を弄すると、あちらで行き閊(つか)え、こちらで摩擦を生じ、
官製の経済でやれるならやって見よと云うように考えて、人民が協力しない
ようになって、思わぬところに破綻を生じ易いのである。

今日(こんにち)ほど切実に老子の所謂(いわゆ)る
無為にして治まる大政治家の要望さるべき時代はないであろう。

            <感謝合掌 平成30年3月31日 頓首再拝>

老子 第四章 道 沖 - 伝統

2018/04/24 (Tue) 03:28:27

道沖而用之、或不盈。
淵乎似萬物之宗。
挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。
湛兮似或存。
吾不知誰之子。
象帝之先。


道(みち)は沖(ちゅう)にして之(これ)を用(もち)ふ。
或(あるい)は盈(み)たず。
淵乎(えんこ)として萬物(ばんぶつ)の宗(そう)に似(に)たり。
其(そ)の鋭(えい)を挫(くじ)き、其(そ)の紛(ふん)を解(と)き、
其(そ)の光(ひかり)を和(やわら)げ、其(そ)の塵(ちり)も同(おな)じくす。
湛兮(たんけい)として存(そん)するが若(ごと)きに似(に)たり。
吾(われ)、誰(たれ)の子(こ)なるかを知(し)らず。
帝(てい)の先(さき)に象(かたど)れり。

  (ここまで、https://kanbun.info/shibu02/roushi04.html を字句を補正し転写)


《通訳》

賢者を尊重する者がいなければ、人は競争をしないだろう。

貴重なるものに価値をおくことをやめれば、
人は不法の利益をもつことはないだろう。

欲望を刺激するものを見る者がなければ、心は混乱しないだろう。

だから、賢者は人々の心をくつろがせ、腹をしっかり固めさせ、
志を弱めてやり、身体と強くさせて人々を導く。

彼は人々を知識も欲望もない状態にする。

これは、知識をもつ賢者はあえて行動しないということを意味する。

彼の無為によって、教養をもたない者がいないわけではない。

   (http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html


           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第四章 道 沖」》(P16~18)では
以下のご解釈をしております。

『沖(ちゅう)』は単に『虚(きょ)』であると解釈している人もあるようだが、
それはその字画の象形的意義から見ても単なる『虚(きょ)』ではない。

『冲(ちゅう)』の『氵(さんずい)』は『暗気(くらげ)なす漂える国』
又は『暗(やみ)わだの面(おもて)にあり』と云う無振動以前のエーテルの
如き『虚(きょ)』の素材をあらわしている。

その旁画(つくり)の『中(ちゅう)』はΦ(ちゅう)であり、
『天瓊鉾(あめのぬぼこ)』であり、天地(てんち)を貫く中心帰一の理念である。

老子を単なる虚無思想だと思っている人は老子に躓(つまづ)く。

老子の哲学に於ける『虚無』はただの Nothingness(何もない)ではなく、
『虚無』と見ゆるその奥に道(み)つるもの即ちミチ(道)であり、
それは『何にもない』ではなく、一貫(Φ<ちゅう>)である。

一貫(いっかん)は金剛不壊であり、
『虚(きょ)』であると同時に『實(じつ)』である。


若し『虚(きょ)』でなければ一切処に満つることが出来ない。
三角と一定の形をなすものは四角の中(うち)にも円形の中(うち)にも
満つることが出来ない。

だから『道(みち)』は一定の形がないのである。
形がないかと思うと、一貫した《もの》があるのである。
それは形なき形(かたち)、理念であり、夢相にして無限相である。


そこで道が顕れて用(よう)となる場合には盈(み)つることがない。
盈(み)つるは、皿の上に一定の形をして盈(み)つることであって、
遍満と云う意味ではない。

道(みち)が盈(み)たずとは、一定の形として自己を限らないことである。
大人物も一定の形がないから、淵乎(えんこ)として、淵(ふち)のように
幽玄に萬物を生ずることが出来、萬物の奥にある存在たることが出来るのである。


一定の形を、例えば三角のように四角のようにあらわしたものは、
それだけの局限された力しかない。
外に出れば紛(もつ)れるし、内にあれば紛(もつ)れない。

絲(いと)も繭のままでは紛(もつ)れないが、
絲(いと)にはっきりした形をあらわすから紛(もつ)れるのである。

だから、三角だ、四角だ、細長いなどと、自己主張を外にあらわすことを
やめて、その光(ひかり)を和らげて、塵(ちり)にひとしくして、
鋒鋩(ぼうぼう)をあらわさず、淵(ふち)の水を湛(たた)えるような、
湛(たん)として内(うち)に隠れている

 ―― これが道(みち)であるが、人間もこのようでなくては大人物と
称することが出来ないのである。


それかかる人は誰の子であるか。

その本源は人体(じんたい)であるか。

それは『帝(てい)の先(さき)に象(かたど)れり』であって、
天帝(てんてい)すなわち人格的な神よりも先に存するものである。

かかる人は《沖(ちゅう)にして虚なる》『道(みち)』と
一体なるものである。

老子の『道(みち)』は『天(てん)』よりも奥深い存在として
解かれたるものである。

ヨハネ伝に
『道(ことば)肉体(にくたい)となりて吾らのうちに宿りたまえり』
とあるが如き人は、此の道(みち)を生きる人である。

(第四章 完了)

            <感謝合掌 平成30年4月24日 頓首再拝>

第五章 天地不仁 - 伝統

2018/05/20 (Sun) 04:23:59

老子 第五章 天地不仁  (P18~22)


天地不仁、以萬物爲芻狗。
聖人不仁、以百姓爲芻狗。
天地之間、其猶槖籥乎。
虚而不屈、動而愈出。
多言數窮。
不如守中。


天地(てんち)は仁(じん)ならず、
万物(ばんぶつ)を以(もっ)て芻狗(すうく)と為(な)す。

聖人(せいじん)は仁(じん)ならず、
百姓(ひゃくせい)を以(もっ)て芻狗(すうく)と為(な)す。

天地(てんち)の間(かん)は、其(そ)れ猶(な)お槖籥(たくや)くのごときか。

虚(きょ)にして屈(つ)きず、動(うご)きて愈(いよ)いよ出(い)ず。

多言(たげん)は数(しば)しば窮(きゅう)す。

中(ちゅう)を守(まも)るに如(し)かず。

  (ここまで、https://kanbun.info/shibu02/roushi05.html より転写)



《通訳》

天と地に慈善はなく、すべてのものを偏りなく扱う。

賢者にも慈善なく、人々を偏りなく扱う。

宇宙全体はふいごのようにもともと空である。

何もしなければ、何も欠くものはない。

行えば行うほど、出てくるものは多い。

言葉を出せば出すほど使いはたされる。

だから、ものごとを動かす前にそのままとどまっているほうがよい。

  (http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html )

           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第五章 天地不仁」》(P18~22)では
以下のご解釈をしております。

(P18~20)

仁(じん)は自他一体の心、慈愛の心、憐れみの心、育みの心である。
その天地の仁の心によって万物は生かされているのである。

神は愛であるとキリストは云った。
ましく愛であり、育みである。

それだのに爰(ここ)で、老子は『天地不仁』と喝破したのである。
正にキリストが『我れ地に穏やかを出ださんが為に来れるに非ず、
剣(つるぎ)を出ださんが為に来れるなり』 と喝破したのと同一轍(てつ)である。

『剣(つるぎ)を出だす』のは仁ではない。
正に不仁(ふじん)である。

甘いことを云っていられないのである。
斬るべきものは斬る。
征(う)つべきものは征(う)つ。

暖かいばかりが神ではない。
寒風凛烈(かんぷうりんれつ)も神である。

神は愛であると共に、寸毫も仮借(かしゃく)せざるところの法則である。
合(がっ)すべきものは合し、放つべきものは放つのである。
採(と)るべきものは採り、捨つべきものは捨てるのである。

少しも其処には容赦がない。
時来たらば落葉樹がその葉にしがみついてても、その葉を捨てしめるのである。

天地は仁かと思っていたら仁ではないのである。
その仁でないが、一層大なる仁であることを知らねばならない。

今日(こんにち)日本が大東亜戦争に兵(へい)を征(や)るのも、
その仁の一層仁なるところの大仁(だいじん)を行なわんがためであるである。

捨つべき枯葉は捨てなければならない。
欧米蘇依存(おうべいそいそん)は捨てなければならない。
それらを捨て去ったとき新たな春風(はるかぜ)は吹き、
新たなる嫩葉(わかば)が萌え出でるのである。

天地は一見仁ならずして万物を芻狗(すうく)のように捨てるのである。
芻(すう)は藁(わら)であり、芻狗(すうく)は藁で造った狗形(いぬがた)の
もので、祭りの際に神に奉げて神前の御飾(おかざり)にするものである。

必要なときには大切に飾って貰えるが、必要が済めば捨てて顧みられない。

木の葉だって同じことである。
必要なときは青々と茂らせて、必要な時が終われば平気で落葉せしめる。
実に冷厳なのが天地である。

その冷厳さがなければ翌年新しい新芽が生(お)い出(い)で百花爛漫として
咲きほこるための内部の生命力の蓄えができないのである。
冷厳さの中に愛があるのである。

仏国美術家の心霊実験に、コルニリエー氏が高級霊ヴェッテリニに
『人間霊魂の高級に進化せる特徴は何であるか』とたずねていると、
ヴェッテリニは答えて云う『それは第一、寛大なる峻厳である』と。

峻厳は一見寛大でないかの如く見えるけれど、
大(だい)なる峻厳こそ大(だい)なる寛大なのである。

『天地不仁』不仁の大なるものこそ、仁の一層大なるものである。

さてその『寛大なる峻厳こそ聖人の不仁』である。
『凡(およ)そわがために父母妻子兄弟に反(そむ)くものにあらずば
神の国に入(い)る能わず』 とキリストは云った。

この言(ことば)や実に不仁である。
不仁が一層『仁』徳にかなうのである。

重盛のように忠(ちゅう)ならんと欲すれば孝(こう)なること能わずと躊躇するのは、
小仁(しょうじん)であるから却って大仁(だいじん)なること能わないのである。

凡(およ)そ忠のために父母妻子を捨てた赤穂四十七義士の如きは
不仁にして『仁』の大なるものである。

大聖人は不仁であって恋々として私情に埋没せられるものではない。
捨つべきものは捨て、斬るべきものは斬るのが、
『聖人、仁ならず、百姓を以って芻狗(すうく)為す』の謂(いい)である。

            <感謝合掌 平成30年5月20日 頓首再拝>

第五章 天地不仁~その2 - 伝統

2018/06/16 (Sat) 03:37:06

(P20~21)

天地之間、其猶槖籥乎。
虚而不屈、動而愈出。


槖籥(たくやく)と云うのは鞴(ふいご)である。
凡(およ)そ天地間は鞴(ふいご)のようなものではあるまいか。

鞴(ふいご)は中がつまっていないから、中が《からっぽ》であるから、
これを動かせば幾らでも風が出るのである。

中が空っぽであるから、幾ら狭められても、その中が折れると云う事が無い
と云うのが『虚(きょ)にして屈せず』である。
中が空っぽで、つかえることがなく、押されたら押されたまま、
引っぱられたら引っ張られたままであるから、風は動くたびに出るのである。

是(こ)の無我無抵抗こそ最も力が強いのである。
この無我無抵抗のところからやがて金鉄(きんてつ)を鑠(とろ)かす
力が出て来るのであるから、『虚(きょ)にして屈せず』の力こそ
実に偉大なるものである。

この虚にして屈せずの生活こそ実に大日本国民の生活法であるのである。

人間を『物質』と観、『肉体』と観るものは、
この『虚(きょ)にして屈せず』の力が出て来ない。

『肉体本来無し』と自覚してこそ、何もない、空っぽの心になって、
幾ら働いても疲れなくなるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月16日 頓首再拝>

第五章 天地不仁~その3 - 伝統

2018/07/04 (Wed) 04:24:03

(P21~22)

多言數窮。
不如守中。


日本の諺にも『言葉多き者は行(おこない)少(すくな)し』と云うのがあるが、
ここに云うところの多言は単に言語だけのことではなく、
『あれこれの小言(こごと)』の多いことである。
揀擇(けんじゃく=よりごのみの心)の多いことである。

《あれこれ》選擇が多いと、却って行きづまることになるのである。

生長の家の智慧の言葉には

『今ある環境が自分の魂の生長にとって最も適当な環境であると思え』

と云う意味のことがある。

小言がない心、そのまま素直に受ける心こそ、大切な心である。

『中(ちゅうを守るに如(し)かず』の『中』は『沖(ちゅう)』と同じく、
空(くう)にして真理その中に一貫せることを云うのである。

無心になって、そのまま素直に受けるところに、天地生々の氣が鞴(ふいご)を
動かす毎に発生するが如く発生するのである。

『中空(ちゅうくう)』の心なるかな。
『虚(きょ)にして屈せざる心』なるかな。

動いて益々出(い)で、万物そこより生長するのである。

・・・

揀擇(けんじゃく)について

(1)禅の、三祖「僧粲(そうさん)」の『信心銘』に
   「至道無難、唯嫌揀択」という言葉があります。
   →http://www.zenbunka.or.jp/zenken/archives/2009/05/post_595.html

(2)禅の公案に「趙州揀擇」があります。
   → http://marihouse.biz/kokoro/dolphin/hekig02.htm

            <感謝合掌 平成30年7月4日 頓首再拝>

第六章 谷神不死 - 伝統

2018/07/20 (Fri) 04:06:17

老子 第六章 谷神不死  (P22~24)


谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門。是謂天地根。綿綿若存、用之不勤。



谷神(こくしん)は死(し)せず。
是(これ)を玄牝(げんぴん)と謂(い)う。
玄牝(げんぴん)の門(もん)、
是(これ)を天地(てんち)の根(こん)と謂(い)う。

綿綿(めんめん)として存(そん)するがごとく、
之(これ)を用(もち)うれども勤(つ)きず。

  (ここまで、https://kanbun.info/shibu02/roushi06.html より転写)



《通訳》

空の精神的現実はいつも存在する。

それを受動性の神秘と呼ぶ。

その入口は宇宙の根源である。

止めることなく、それはいつまでも残る。

汲み出しても尽きることはない。

  (ここまで、http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)  


           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第六章 谷神不死」》(P22~24)では
以下のご解釈をしております。

『谷(たに)』はタニである。
タニは山の虚(きょ)なるところである。
山が《無い》のである。

山が無いとは凝り固まりがないのである。
凝り固まりがないのがタニであり、虚である。

タニは道(みち)であり、虚であり、
虚であるから一切のところに満ちているのである。
すべて形あるものは虚によって支えられている。

地球が毎日吾等を載せて運行していてくれて、つねに太陽から一定限度の
距離を隔てて適当の光熱を吾等に与えてくれるのは、地球それ自身、
太陽それ自身の凝塊(かたまり)の力よりも、地球と太陽とを結びつけ、
しかも適当に引き離しているところの万有引力と万有斥力とのお蔭である。

万有引力と万有斥力とは眼に見えない。
それは虚である。

吾等が人体の重心を適当に保って安定を得ているのも『虚』の作用
 ―― 万有引力と万有斥力 ―― とによるのである。

活花(いけばな)の美も、花の塊(かたまり)それ自身よりも、
花と花と葉と茎などの配置すなわち、その間隔 ―― 空間の美によるのである。
空間は虚であって、『虚』こそ活花を生かすものである。

『生命(せいめい)』は『虚』にあり、『美』は『虚』にあり、
天地の運行は『虚』によって初めて整う。

物質の分子相互の間隔も、その分子の直径の比率にして云うならば、
星と星とを距(へだ)てているほどの距離が隔たっているのである。

物質が或る一定の形をしていると吾々は今まで思っていたが、
『虚』が物質をしてかくの如き形をとらしめているのであって、
一定形状の物質と云うものは本来なく、それは『虚』が指定するとおりの
形を模倣しているに過ぎないのである。


かくの如く、『虚』こそ一切のものを一切のものたらしめている玄妙なる
牝(うみのおや)である。牝(ひん)は雌(めす)であって創造主(うみのおや)
をなしている。創造主(うみのおや)を人格的に云うと神である。


『虚の神』が谷神(こくしん)である。
『虚』は本来生であり、途中から生まれたものでないから不死である。

『谷神死せず』であり、『玄牝(げんぴん)』である。
この玄妙なる生命力の発現するところが『玄牝之門(げんぴんのもん)』であり、
そこより天地(てんち)生じ、天地が支えられているから、
それは天地の根(こん)であるのである。

天地の根(こん)は形なく、形ある根(ね)ならば、いつかは尽きることが
あるかも知れぬが、形なき『虚』の根(こん)は尽きることがない。

『虚』こそ大宇宙をこの形に支えており、しかも永久に疲れると
云うことはないのである。

             ・・・

<関連:「谷神」>

      *「光明道中記(P172【 自己は神の流出口 】)」
       「静詩集」(P183~184) より

吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、
自分は「谷神の流出口」―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。
神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

            <感謝合掌 平成30年7月20日 頓首再拝>

第七章 天長地久 - 伝統

2018/08/05 (Sun) 04:11:14

老子 第七章 天長地久  (P24~26)


(原文)

天長地久、天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。


(書き下し)

天長く地は久(ひさ)し。
天地の能(よ)く長く、且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、其(そ)の自(みずか)ら
生(しょう)ぜざるを以(もつ)て、故(ゆえ)に能(よ)く長(とこしなえ)に生(い)く。

           ・・・

《通訳》

天と地はいつまでも存在している。

それらは存在を存在として考えないからいつまでも続いている。

  (この部分、http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)  

           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第七章 天長地久」》(P24~25)では
以下のご解釈をしております。

(解釈)

誰も天が滅びたのを見たことはあるまい。
誰も地が亡(ほろ)びたものを見たことはあるまい。

天は長く、地は久しいのである。

何故に天は長く地は久しく続くのであるか。

それは自分で生まれたのではない。
その《まま》あるからである。
そのままのものが長生きするのである。

人間でも、やれ滋養物だ、やれ栄養剤だ。ビタミンがどうだ、冷たい風が恐ろしいとか
何とか云って人間巧者で長生きしようとするものは却って短命である。

そのまま素直に何でも有難く受けている者が長生きする。

生長の家の誌友で大陸へ聖戦に従った者の実例で見ると、その人は病気上がりの
虚弱な体質の人であっても、不思議に大陸の風土病である赤痢や、マラリヤには
罹らずに済んでいるいるのである。

みずから生じたものは滅びるが、みずから生じないところの其のままのものは滅びない。

財産でも自ずから生じた富、無理に策略を弄して作った富は間もなく滅びてしまう。
実際日露戦争や、第一次欧州大戦で生じた多くの成金どもは、一時は非常な巨富を擁した
けれども、大抵はその後の恐慌(パニック)に滅びてしまっているのである。

                  ・・・


天長地久~老子の第七章

(原文)

是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶、故能成其私。


(書き下し)

是(こ)れを以(もつ)て聖人は、其(そ)の身(み)を後(うしろ)にして、
而(しか)も身(しん)先(さき)んじ、其の身(しん)を外にして而も身(しん)存(そん)す。
其の私なきを以(もつ)てに非(あら)ず耶(や)、故に能くその私(わたくし)を成す。

           ・・・

《通訳》

賢者は背後に身をおきながら、前へすすむ。

彼は自己を忘れて、自分自身を発見する。

人が自己の状態に達するのは無自己によってではないか。

  (この部分、http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)  

           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第七章 天長地久」》(P25~26)では
以下のご解釈をしております。

(解釈)

自(みずか)ら生じようと思い、自ら上にあがろうと思い、自ら達者になろうと思い、
自ら富者になろうと思うのは人為であって人為は偽(いつわ)りであるから一時は栄える
ように見えても滅びるのであるが、聖人は自らそのまま其処に處(お)るのであって、
自然にまかせて、大自然の発展力をわがものとするのである。

自分の身の栄達を先にせずして、他(た)を生かそうとするから、
自然に自分が押し上げられて自分が高い位置に上がることになる。

自分の身を『外(そと)にする』すなわち無視して、
他(ほか)のために捧げるからそのような人は是非ともいて貰わなければならないと、
人々から貴(とうと)ばれて却ってその身が安全となるのである。

聖人の生活には『私(わたくし)』がない。
『私』がないから却って『私』が生かされることになるのである。

みずから生きようと思ってもがいたり、作為したりしないことが肝要である。

            <感謝合掌 平成30年8月5日 頓首再拝>

第九章 持而盈之~その1 - 伝統

2018/08/26 (Sun) 04:47:25

第九章 持而盈之(P29~31)


(原文)

持而盈之、不如其已。
揣而鋭之、不可長保。

金玉滿堂、莫之能守。
富貴而驕、自遺其咎。
功成名遂身退、天之道。



(書き下し)

持(じ)して之(これ)を盈(み)たすは、
其(そ)の已(や)むに如(し)かず。

揣(きた)えて之(こ)れを鋭(する)どくするは、
長(なが)く保(たも)つべからず。


金玉(きんぎょく)堂(どう)に満(み)つれば、
之(これ)を能(よ)く守(まも)る莫(な)し。

富貴(ふうき)にして驕(おご)れば、
自(みずか)ら其(そ)の咎(とが)を遺(のこ)す。

功(こう)成(な)り名(な)遂(と)げて身(み)退(しりぞ)くは、
天(てん)の道(みち)なり。

 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi09.html より転写)

           ・・・


《通訳》

なにかを手にもって自慢するなら、それをもたない方がよい。

人がその窮境を主張しても、その状態に長くとどまることはないだろうから。

部屋に貴重品が満ちあふれていても、
誰れもそれらをまもりつづけることはできないだろう。

富裕で高い地位にあって自慢すると、不幸を招く。

仕事が完全に成しとげられ、その任務が充分に終われば、自分の地位を去る。

これが「自然」の道である。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第九章 持而盈之」前半》(P29~30)では
以下のご解釈をしております。

(解釈)

水を一杯に盈(み)たしたまま自分の手で持ち支えているならば
必ず零(こぼ)れるのである。そんな愚かなことは已めてしまう方が好い。

水を一杯に盈(み)たした器(うつわ)をこぼさないためには、
自分のものとして、自分の手で支えていないでいれば好い。

『自分のもの』として持とうと思うから零れるのであるし、零れるのは惜しいもの
であるから、何時までもそれを握っていようとして神経衰弱になったりする。


併し零すまい零すまいと戦々恟々(せんせんきょうきょう)たることは
如何に愚かなることか。

持っているならば、盈(み)たさずにいるが好いし、
盈(み)たす位ならば、地上に置いて自分の《もの》として握らないことである。


刃物は余り鋭利に研ぎ澄ませば刃(は)缺(こぼ)れがし易いのである。

あまり賢い人は富をうしなう。

運鈍根(うんどんこん)と云って、不景気が来ても平気で、
人が周章(あわてて)安価(やすね)で売ってしまうようなときに、
買って平気で持っているような人には却って富が集まる。


諸葛孔明は夭死(わかじに)し、真田幸丸は大阪城に討死(うちじに)し、
『啼(な)かずんば啼くまで待とうほととぎす』と云った徳川家康が天下を取る。

小賢しい智慧を剃刀(かみそり)のように研ぎすましているものに
何の大事が出来るものか ―― とは、老子 中々鋭いとも云える。

            <感謝合掌 平成30年8月26日 頓首再拝>

第九章 持而盈之~その2 - 伝統

2018/09/18 (Tue) 04:26:52


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第九章 持而盈之」後半》(P30~31)では
以下のご解釈をしております。

(解釈)

これを『金玉堂(きんぎょくどう)に滿つるも』と読む人もある。

前節の『持(じ)して之(これ)を盈(み)たす』に対して云えば、
『金玉堂(きんぎょくどう)に滿つれば・・・』と読む方が意義が相応するようである。

金玉堂(きんぎょくどう)に滿つるは陽極陰転の始めであるのである。

古代羅馬の全盛時代の如きはこれであって、国民は毎日宴会宴会を重ねて、
味覚を全うするために、満腹の食事をまた吐き出して新たに味わう工夫や
設備が設けられていたそうで、爰に国民懦弱(だじゃく)に流れて
遂に亡国の憂き目を見たのである。

これ『金玉堂(きんぎょくどう)に滿ち』たからである。
『売家(うりいえ)と唐様(からよう)に書く三代目』の川柳もある。

金玉堂(きんぎょくどう)に滿ちて、人は労する必要がなくなってしまった時に、
その能力と生活力とを低下せしめ始めるのである。

富貴にして驕(たかぶ)れば、英国の如く七つの海を支配して五大州中
英国旗の輝やかざる処なしなどと威張っていても、その驕(たかぶ)る気持ち
そのものの中(うち)に没落の原因を蔵していたのである。

易経にも『満(まん)は損(そん)を招き、謙(けん)は益(えき)を受く』とある。
腹八分目に病い無く、財産も八分目に能力の低下なく、家貧(まず)うして
却って孝子あり、国歩(こくほ)艱難にして忠臣出づである。

日本も南洋の物資が豊富に来るように将来なったからとて、
驕(おご)りたかぶって、それで味覚その他感覚の逸楽(いつらく)を
貪ってはならないのである。

若し物資の豊富で増長すれば民族の精神力も体力も低下して、
将来勃興すべき新鋭民族との角逐(かくちく)に敗れるに到るのである。

天道は盈満(えいまん)をいとうのである。
家相も悉く良相なれば、その家相は悪いと云うことになっている。

少々の黒斑が却って美点(ビューティスポット)として、
その人の顔面に魅力を添える。

人はこれで盈満(えいまん)と云う時になったならば、
身を退いていれば天道にかない、殃(わざわい)却って身に及ぼないのである。


盈(み)つれば虧(か)けるのが世の中の慣(なら)いである。

盈(み)ちかけたら大いに他(た)に施すことである。

            <感謝合掌 平成30年9月18日 頓首再拝>

第十章 載營魄~その1 - 伝統

2018/10/08 (Mon) 03:15:42


第十章 載營魄(P32~36)

(原文)

載營魄抱一、能無離。

專氣致柔、能嬰兒。

滌除玄覽、能無疵。

愛民治國、能無爲。

天門開闔、能爲雌。

明白四達、能無知。

生之畜之。
生而不有、爲而不恃、長而不宰。

是謂玄徳。




(書き下し)

営魄(えいはく)を載(の)せ一(いつ)を抱(いだ)き、
能(よ)く離(はな)るること無(な)からん。

気(き)を専(もっぱら)にし柔(じゅう)を致(いた)して、
能(よ)く嬰児(えいじ)たらん。

玄覧(げんらん)を滌除(てきじょ)して、
能(よ)く疵(きず)無(な)からん。

民(たみ)を愛(あい)し国(くに)を治(おさ)め、
能(よ)無為(むい)ならん。

天門(てんもん)開闔(かいこう)して、能(よ)く雌(し)たらん。

明白(めいはく)四達(したつ)して、能(よ)く無知(むち)ならん。

之(これ)を生(しょう)じ之(これ)を畜(やしな)い、
生(しょう)じて有(ゆう)せず、為(な)して恃(たの)まず、
長(ちょう)じて宰(さい)せず。

是(これ)を玄徳(げんとく)と謂(い)う。

            ・・・

載 … 乗せる。

営魄 … たましい。

抱一 … 道をいだく。「一」は道を指す。傅ふ奕えき本では「?一」に作る。

能無離 … 傅ふ奕えき本、道蔵所収王弼おうひつ本等では「能無離乎」に作る。

専気致柔 … 呼吸をととのえて、身体を柔軟に保つ。

能嬰児 … 赤子のようであろう。
     傅ふ奕えき本では「能如嬰児乎」、
     道蔵所収王弼おうひつ本では「能嬰児乎」に作る。
     こちらは「赤子のようであろうか」と訳す。

滌除玄覧 … 心を洗い清める。「滌除」は洗い除く。「玄覧」は奥深い鏡、心を指す。

能無疵 … 傷のないようにしよう。
     「疵」は傷。傅ふ奕えき本、
     道蔵所収王弼おうひつ本等では「能無疵乎」に作る。
     こちらは「傷をつけないままでいられようか」と訳す。

能無為 … よく無為でありたい。
     底本(四部叢刊所収河上公本)では「能無知」に作るが、
     道蔵所収河上公本に従い「能無為」に改めた。
     傅ふ奕えき本では「能無以知乎」、
     道蔵所収王弼おうひつ本では「能無知乎」に作る。
     こちらは「知恵によらないままでいられるか」と訳す。

天門開闔 … 天の門が開いたり閉じたりする。
      「天門」は天地の万物が生ずるという門戸。「開闔」は開閉。

能為雌 … 女性のように静かな態度でありたい。
     底本(四部叢刊所収河上公本)では「能無雌」に作るが、
     傅ふ奕えき本、道蔵所収王弼おうひつ本では「能為雌乎」に作るので、
     「能為雌」に改めた。

明白四達 … 物事がはっきりとわかり、四方の出来事に通じる。

能無知 … 愚か者のようでありたい。
     傅ふ奕えき本では「能無以為乎」に作る。
     道蔵所収王弼おうひつ本では「能無知乎」に作る。

生之畜之 … 道が万物を生み出し、徳が万物を養う。
      第五十一章には「道生之、徳畜之」とあり、これを簡略化したものであろう。

生而不有 … 生育しても所有しない。第二章にも同じ句が見える。

為而不恃 … 施しても見返りを求めない。第二章にも同じ句が見える。

長而不宰 … 成長させても支配しない。

玄徳 … 天地の奥深い働き。


 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi10.html より転写)

           ・・・

《通訳》

魂とはくを一つに統一し、離れないようにできるか。

呼吸を調和集中させ、嬰児のようにすることはできるか。

自分の中の曇った鏡をきれいにし、何もないようにすることはできるか。

人々を愛し、国を統治して、しかも知られずにいることができるか。

無存在の領域に出入りし、行動を自分で起こすことができるか。

明るい照明を知らなくても、あらゆる方面へ及ぼすことはできるか。

それを養い、育てよ。

生み出しても、それを所有するな。

はたらかせても、それに頼るな。

導いても、それを統御するな。

これは神秘の徳と呼ばれる。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十章 載營魄」①》(P32~33)では
以下のご解釈をしております。

(解釈)

『營魄(えいはく)を載せ一に抱いて』と読む人もあるそうである。

『營魄(えいはく)』の意味に幾多の異説あって、營は營利であるから、
營利を営む心即ち物欲に触れて動く心であり、

魄は本来の性(しょう)だと云う人もあるが、
私は『營魄(えいはく)』は一つのものであると思う。

蘇轍(そてつ)も『魂(たましい)』は霊的なものであるが、
魄は物的なものであるとしている。

『魂魄(こんぱく)この世にとどまる』などと云うのは、
霊的な精霊なる魂と、稍々(やや)物質に近い幽体とが
此の世に止(とど)まることである。

そすると營魄(えいはく)と云うのは物欲を追うて動く五官的感覚存在の体である。

『一(いつ)を抱(いだ)く』の『一』とは実相である。
すべては一つである。
それは神であり、神のほかに何ものもない、実相は神である。

そうすると、人間と云うものは『營魄(えいはく)』即ち五官的存在の肉体を載せて、
実相の『一』を内部に抱いている存在だと云うことが判る。

併し、此の五官的存在たる肉体の心と、実相の心とは
ともすれば背馳(はいち)したり、争ったり、離れたりするものである。

これはどうしても互いに離れないように『一つ』にならなければならないのである。
人間心と離れるのではなく、人間心《そのまま》が神心(かみごころ)となる
ことが必要なのである。

            <感謝合掌 平成30年10月8日 頓首再拝>

第十章 載營魄~その2 - 伝統

2018/10/22 (Mon) 04:49:44


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十章 載營魄」②》(P33~34)では
以下のご解釈をしております。

(解釈)

気を専らにすると云うのは、気と云うものは、天地の気すなわち宇宙大生命の
気の割(さ)き生(は)えるであるから、それを散乱せしめたらそれだけ
元気が衰えるのであるから、散乱せしめないでひとつに集中しなければならない。

気がひとつに集中すると云うと、ひとつのことに凝り固まって自由自在を
失ってしまうことだと考えると、これ又甚だしい間違いである。

気を専らにすると同時に『柔(じゅう)を致して、よく嬰児(あかんぼう)の如く』
やわらかく《ふうわり》していなければならないのである。

精神を集中し、神想観をするのは、凝念(ぎょうねん)のためではなく、
養気(ようき)のためである。

気が一方に偏って執着するならば、気はそれに従って険しくなり、鋭くなり、
剃刀(かみそり)の刃のように脆くなる。

水もそのまま柔らかであれば壊(くだ)けてもまた忽ち元の姿に還るのであるが、
ひとたび凝り固まって氷となれば実に脆いものとなり、少しの打撃でも
壊(くだ)けてしまうのである。

だから気を専らにすると云うのは、ひとつの事に心が執着して専らなのではなく、
気を丹田に還(かえ)し、元気を内に柔らかく蔵して、時に従い、機に応じて、
自由自在ならしめて置くことである。

            <感謝合掌 平成30年10月22日 頓首再拝>

第十章 載營魄~その3 - 伝統

2018/11/06 (Tue) 05:00:39


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十章 載營魄」③》(P34~35)では
以下のご解釈をしております。

(解釈)

『滌除(できじょ)』は心中の煩悩、雑念を滌(そそ)ぎ除くことである。
『玄覽(げんらん)』は玄妙の実相を観ることである。
想念妄念を払拭して、澄明(ちょうめい)透徹の一実(じつ)の幽玄を観るのである。

かくの如くして幽玄は現実にまで天降って来る。
諸法即ち実相となるのである。
現実が幽玄の顕現となり、有限世界からの啓示が政治に行なわれる。

しかも決して、我見、我智によって治めるのではないから、治めていながら
『私が収めている』と云うような力みがない。
即ち無為なのである。

『天門開闔』の天門は心である。
心は開いたり閉じたりするものであるから、心が動くことを『開闔する』と云う。
心が動くには、そのまま素直が好いのである。

仏教では『唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)』と云う。
揀択すなわち ―― 『あれでなければ可(い)かぬ。これでなければ可かぬ』
と云って撰ぶ心を嫌うのである。

揀択がなかったら無為である。
無為はそのまま素直である。
そのまま素直なれば、水の方円の器に従うごとく何物にも大調和するのである。

これが天地一切のものと和解せよとの大和国(だいわくに)のみ教えである。
天地一切のものと和解しなかったならば、天地一切のものの真相は分らぬ。

色眼鏡をかけている間は真相が判るものではない。
色眼鏡を取り除く、そしてそのまま素直に対境(たいきょう)に向かうのである。
そのまま素直に万物が自分の心境裡(しんきょうり)にうつり来(きた)る。

それは『明白四(よも)に達して』一切の事物の真相が明鏡裡に映じ来(きた)る
ごとく炳焉(へいえん)として判明するのである。

しかも、そのまま素直に一切を受けて、一切が心境裡に映っているのであるからして、
別に『《自分が》知った』と云う力みがない。
ただ柳は緑、花は紅である。

そのままである。
『《自分が》知った』と云うことがないのが、
『能(よ)くしること無からんか』である。

            <感謝合掌 平成30年11月6日 頓首再拝>

第十章 載營魄~その4 - 伝統

2018/11/28 (Wed) 03:30:42


斯くの如く、知って知らない。

花は紅、柳に緑、そのままである。
これが真如の徳である。

大徳はかくの如きものであって、天地は万物を生じ、これを畜(やしな)い、
これを生成化育しながら、自分のものとして私(わたくし)せず、
一切のために公開して利用厚生にまかせている。

色々の仁徳を施しても、『わしがした』と自ら恃(たの)む心がない、
無我の愛であるのが『為(な)して恃(たの)まず』である。

『為(な)して恃(たの)む』人ほど鼻持ちがならぬものはない。
所謂(いわゆ)る『体臭(たいしゅう)のある愛行』であり、
『手垢(てあか)の附いた愛行』である。


みずから恃み、『この愛行を《自分が》した』と、『自分』と云うものを
握って放たないところの人は、人に深切を行じながら、その深切から
爽やかな喜びが湧いて来ないのであって、『私がこんなに深切にして
やったのに、彼は恩知らずだ』とか何とか必ず不快な《あと味》が伴うのである。

凡そ不快な《あと味》が伴い愛行は、無為にして行われる愛行ではないからである。

『為して恃(たの)まず、長じて、宰(つかさど)らず』
と云うことが必要である。


わしが此処まで引き立ててやったから、いつまでも自分の役に立ってくれなければ
ならないと云うのが『長じて宰(さい)する』心である。

天地間のもの何一つ『私(わたくし)』すべきものが無い。
『私(わたくし)』そのものが無いのだから、すべての愛行も仁徳も
悉く天地の愛行であって、為(な)して為さずである。

すなわち無為である。


かくの如く為して為さずの境地に入る時、
彼の徳は天地の幽玄なる徳と一つになる。

無心の徳、無我の徳である。

忠とはこれであり、孝とはこれであり、
和とはこれであり、悌(てい)とはこれである。

無為は、為さずして天地の玄徳おのずから成就するのである。
此のおのずからが必要である。

            <感謝合掌 平成30年11月28日 頓首再拝>

第十一章 三十幅 - 伝統

2018/12/18 (Tue) 04:31:54


第十一章 三十幅(P36~38)

(原文)

三十輻共一轂。
當其無、有車之用。

挻埴以爲器。
當其無、有器之用。

鑿戸牖以爲室。
當其無、有室之用。

故有之以爲利、無之以爲用。



(書き下し)

三十(さんじゅう)の輻(ふく)、一轂(いっこく)を共(とも)にす。
其(そ)の無(む)に当(あ)たりて、車(くるま)の用(よう)有(あ)り。

埴(しょく)を?(こ)ねて以(もっ)て器(うつわ)を為(つく)る。
其(そ)の無(む)に当(あ)たりて、器(うつわ)の用(よう)有(あ)り。

戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以(もっ)て室(しつ)を為(つく)る。
其(そ)の無(む)に当(あ)たりて、室(しつ)の用(よう)有(あ)り。

故(ゆえ)に有(ゆう)の以)もっ)て利)り)を為(な)すは、
無(む)の以(もっ)て用(よう)を為(な)せばなり。

            ・・・

輻 … 車の輻(や)。スポーク。

轂 … こしき。車輪の中心にある丸い部分。

其無 … こしきの中の空間部分。「其」は轂を指す。

有車之用 … 車としての働きがある。

挻 … こねる。底本(四部叢刊所収河上公本)では「?」に作るが、「?」に改めた。
   「摶(せん)」の仮借(馬叙倫説)。

埴 … 粘土。

其無 … 器の中の空間部分。「其」は器を指す。

有器之用 … 器としての働きがある。

鑿戸牖 … 戸口や窓をあける。「鑿」は鑿(のみ)で穴をうがつこと。
     「戸牖」は出入り口の戸や窓。

其無 … 部屋の中の空間部分。「其」は室を指す。

有室之用 … 部屋としての働きがある。

有之以為利 … 形のあるものが役に立つというのは。

無之以為用 … 空な部分が役に立っているからである。

 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi11.html より転写)

           ・・・

《通訳》

三十本の輻が車輪の中心に集まる。

その何もない空間から車輪のはたらきが生まれる。

粘土をこねて容器ができる。

その何もない空間から容器のはたらきが生まれる。

ドアや窓は部屋をつくるために作られる。

その何もない空間から部屋のはたらきが生まれる。

これ故に、一つ一つのものとして、これらは有益な材料となる。

何もないものとして作られることによって、それらは有用になるもののもとになる。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十一章 載營魄」①》(P36~37)では
以下のご解釈をしております。

(解釈)

車輪を為(つく)のに、車の輻(や)を三十本位を合わして
それを一つに纏(まと)めるのに轂(こしき)の中心部は、
中が空っぽなのである。

空っぽであるので心棒が入って輪(くるま)の用をなすのである。


また土を挻(こ)ねまわして器(うつわ)を為(つく)るのも、
器の用をなすのは、中が空っぽだからである。


また戸口や牖 (まど)などを鑿(ほ)り開けて家(いえ)をつくるのも、
家の用をなすのは、中が空っぽだからである。


人間も勉強をし、色々の材料を詰めこむのも好(よ)いが、
詰め込む為(ため)に詰め込むのだと思ったら間違いである。

色々の材料を使用するのは、実は人間を空っぽにする為(ため)である。
空っぽを中心に残していない人で、あまりに智慧でも財(ざい)でも
多くありすぎると、それが重荷となって、その人は自由を失い、
滅びてしまうものである。

            <感謝合掌 平成30年12月18日 頓首再拝>

第十一章 三十幅② - 伝統

2019/01/09 (Wed) 04:37:58


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十一章 三十幅」》(P37~38)では
以下のご解釈をしております。

だから、轂(こしき)と云うものが《有って》役に立つとか、
茶碗と云うものが《有って》役に立つとか、
家と云うものが《有って》役に立つとか云うけれども、

実は、有(いう)そのものが役に立つのではなくして、
その中に姿を見せず役に立っている
『無(む)』の働きを見のがしてはならないのである。

『無(む)』の徳や、実に大である。

人間も姿を見せずして、大いに人を利する者となりたいものである。

            <感謝合掌 平成31年1月9日 頓首再拝>

第十ニ章 五色 ① - 伝統

2019/02/17 (Sun) 04:40:12

第十ニ章 五色(P38~41)

(原文)

五色令人目盲。

五音令人耳聾。

五味令人口爽。

馳騁田獵、令人心發狂。

難得之貨、令人行妨。

是以聖人、爲腹不爲目。

故去彼取此。

            ・・・

(書き下し)

五色(ごしょく)は人(ひと)の目(め)をして盲(もう)ならしむ。

五音(ごいん)は人(ひと)の耳(みみ)をして聾(ろう)せしむ。

五味(ごみ)は人(ひと)の口(くち)をして爽(たが)わしむ。

馳騁(ちてい)田猟(でんりょう)は
人(ひと)の心(こころ)をして発狂(はっきょう)せしむ。

得(え)難(がた)きの貨(か)は
人(ひと)の行(おこな)いをして妨(さま)たげしむ。

是(ここ)を以(もっ)て聖人(せいじん)は
腹(はら)の為(ため)にして目(め)の為(ため)にせず。

故(ゆえ)に彼(かれ)を去(さ)りて此(これ)を取(と)る。



五色 … 青・黄・赤・白・黒の五種の色。ここでは色鮮やかな衣服などを指す。

令人目盲 … 人の目をくらませ、心をまどわせること。眩惑すること。

五音 … 宮・商・角・徴ち・羽の五音階。ここでは美しい音楽などを指す。

令人耳聾 … 人の耳をだめにする。美しい音楽にうっとりして心惑うこと。

五味 … 酸(すっぱい)・苦(にがい)・甘(あまい)・辛(からい)・
    鹹かん(しおからい)のこと。ここではおいしいご馳走を指す。

令人口爽 … 人の味覚を麻痺させる。「爽」は違たがう。調子を狂わせる。

馳騁 … 馬を走らせる。

田猟 … 狩猟。

発狂 … 人の心を狂わせる。人の心の正常な働きを失わせる。
     いわゆる「精神に異常を来すこと」ではない。

難得之貨 … 手に入れることの難しい財貨。珍しい財宝。「第三章」にも見える。

令人行妨 … 人の正しい行ないを妨害する。

是以 … 「ここをもって」と読み、「それゆえに」「だから」と訳す。
    「以是」は「これをもって」と読み、「この点から」「これにより」と訳す。

為腹不為目 … 腹を満たすだけの質素な生活をさせ、
       目を楽しませるような感覚的な快楽は追求させない。

故去彼取此 … だから、私は「彼」すなわち目のためのものを捨てて、
       「こちら」すなわち腹を満たす素朴な道を取るのだ。


 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi12.html より転写)

            ・・・

《通訳》

第十二章

おびただしい色は人の目をまどわせ、おびただしい音は人の耳をだめにし、
おびただしい味は人の口をそこなう。

狩猟で競い、追跡すれば、人の心を凶暴にする。

めずらしい価値ある品物はその持主の安全をおびやかす。

だから、賢者は腹に集中し、感覚の誘惑には集中しない。

このように、彼はあるもの(内部の力)をとり、他のもの(外部の力)を捨てるのである。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)


           ・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十ニ章 五色」①》(P38~39)では
以下のご解釈をしております。

(解釈 ~ 五色令人目盲。)

五色とは、青(しょう)、黄(こう)、赤(しゃく)、白(びゃく)、黒(こく)
を云うのであるが、必ずしも此の五種類の色(いろ)のみに限らない。

種々の人目を惹きつける絢爛たる色彩美のことである。

花街(かがい)の装いは金銀青黄赤白黒の美(び)絢爛(けんらん)を極めているが、
そのためにそれに魅せられて、本当の美、人間の道徳美の荘厳を見失って了(しま)って、
うちに地獄に墜落した人がどんなにか多いであろう。

また肉眼で見る美ばかりを見ていると、人の実相を見失うことがある。

ユダヤ人はイエスを視て『あれは大工ヨセフの子である。
何ぞナザレより偉大なる者出(い)でんや』と云っている。

イエスは之(これ)に対して、
『もし盲目(めしい)なりしならば、罪なかりしならん。
然(さ)れと見ゆと云う汝らの罪は遺(のこ)れり』
と云っている。

五官の眼がむしろ盲目(めしい)になった方が、
《本当のものが》見えるのだと云う意味である。

            <感謝合掌 平成31年2月17日 頓首再拝>

第十ニ章 五色② - 伝統

2019/03/23 (Sat) 01:45:19


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十ニ章 五色」②》(P39)では
以下のご解釈をしております。

(解釈 ~ 五音令人耳聾。)

五音(いん)と云うのは支那(しな)では、
宮(クウン)、商(シヤン)、角(チユエ)、徴(チヒ)、羽(ユウ)の
五つの音楽の音(おん)であるそうであるが、
支那(しな)の音楽は私は知らないから詳しいことは云えない。

併(しか)し五音(いん)と云うのは必ずしも五種類の音階のことではないのである。

言葉は却って実相(じsっそう)を晦(くら)ますことがある。

恋人の前でみだりに雄辯に口説く者は、本当にその人を恋していないで、
相手を誘惑しようと云うような場合に多いのである。

本当に恋(こ)いているならば、相手を肉眼で熟視することも出来得ないで、
俯向きながら溜息ばかりを洩らしている。

その溜息と溜息との間に、本当の恋人同士の魂の対話がある。

これ即ち沈黙の雄辯である。

音(おん)や言葉は却って人の耳を聾にする。

心に何か企(たくら)むところの悪念を持する場合には、
耳を覆(おお)うて滔々(とうとう)と他事(たじ)を
語ることもあり勝ちである。

乃(すなわ)ち『五音(いん)は人の耳を聾(ろう)せしめ』である。

            <感謝合掌 平成31年3月23日 頓首再拝>

第十ニ章 五色③ - 伝統

2019/04/13 (Sat) 04:40:41


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十ニ章 五色」③》(P39~40)では
以下のご解釈をしております。

(解釈 ~ 五味令人口爽。)

五味と云うのは、鹹(かん)、苦、辛(しん)、甘(かん)、酸(さん)の
五つと云うことだそうだが、これも必ずしも五つに限ったことではない。

調味法の発達から来る無数の濃厚複雑なる味わいの交錯で、
人間の味覚を誘惑することである。


魚でも刺身とか塩焼き位ならば、その魚そのものの純粋な味わいがするが、
色々複雑な調理を行なったものは、ものそのもの味わいが失われてしまっている。

御飯でも単純に御飯だけだと米の味をかみしめれば愈々深く味わえるが、
もう味付け御飯になってしまうと、どこが本当に御飯の美味しさか
わからないことがある。

結局あまりに調理すれば、物そのものの美味しさもなく、而(しか)も
その不自然な濃厚さにつられて思わず過食するから
腎臓を壊すことなどもある。

乃(すなわ)ち『五味は口を爽(たが)はしめ』である。

            <感謝合掌 平成31年4月13日 頓首再拝>

第十ニ章 五色④ - 伝統

2019/04/30 (Tue) 04:39:19

第十ニ章 五色④

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十ニ章 五色」④》(P40)では
以下のご解釈をしております。

(解釈 ~ 馳騁田獵、令人心發狂。)

馳騁田獵(ちへいでんれふ)とは、馬を乗り廻して獵をする事である。

『田(でん)』は『畋(かり)』の略字で、やはり獵と同じである。

今なら競馬や、野球なども馳騁田獵(ちへいでんれふ)の中に入れられるかも知れない。

ひとたび競馬や野球に夢中になり出すと、人間が狂(きちが)いのようになって、
会社の勤めや、商売をそっち退(の)けて、外苑競技場で野球戦があるような時には、
商用で走っていた店員の自転車が、途中で道草を食って、外苑に長蛇の列を
成していることがある。

これらはいずれも馳騁田獵(ちへいでんれふ)が
人の心をして狂(きょう)を発せしめたのである。

            <感謝合掌 平成31年4月30日 頓首再拝>

第十ニ章 五色⑤ - 伝統

2019/05/22 (Wed) 04:42:44


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十ニ章 五色」⑤》(P40~41)では
以下のご解釈をしております。

(解釈 ~ 難得之貨、令人行妨。)

『得難(えがた)きの貨(か)は人の行(おこない)を妨(さまた)げしむ』
と云うのは人間は財貨を得難き宝であるかのように思っているが、
財貨があって人間が幸福になると思うと、必ずしもそうではない。

親が財産を遺して置いてくれたがために兄弟不仲になる例もたくさんある。
相場で金(かね)が儲かったら、その濡れ手楽の儲け方に興味がついて、
地道に働くことが馬鹿らしくなる人もある。

金がも買ったために、でなkればいかない花街(かがい)に死を踏み込んで、
花柳病に罹って一生涯苦しむ人もあれば、家庭が崩壊して自分は勿論、
妻子にまでも修羅のくるしみを与える人もある。


親がたくさんの財産を遺して置いて死んだが為に、中学3年生のその息子が
学校を廃(や)めてしまって、小型自動車を何千円かで買ってそれを乗り廻す
ことのほか何もしなくなった例もある。

そして『何故勉強しないのか』と問えば、
『金があるのに、何故勉強せんならんか』と問い返す。
この中学3年生の親は三千万円を遺して死んだのであった。

このように『得難(えがた)きの財貨』を獲(え)たと思っていると、
それが却(かえ)って人の正しき行いを妨げる事もある。

           <感謝合掌 令和元年5月22日 頓首再拝>

第十ニ章 五色⑥ - 伝統

2019/06/18 (Tue) 04:10:29

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十ニ章 五色」⑥》(P41)では
以下のご解釈をしております。

(解釈 ~ 是以聖人、爲腹不爲目。故去彼取此。)

このに腹(はら)と云うのは『魂の悦び』であり、
『目(め)』云うのは『現象の宝』である。


『現象の宝』に心を奪われていると、『腹(はら)』が留守になって
却って幸福が逃げて行くのである。

目先のうつり変りに気をとられていると、
心神(しんしん)を労して神経衰弱にもなるであろう。

だから魂の悦びは、しずかに坐(ざ)して
腹を練る悦びに若(し)かずである。

           <感謝合掌 令和元年6月18日 頓首再拝>

第十三章 寵 辱 ① - 伝統

2019/07/19 (Fri) 04:34:09

第十三章 寵 辱 (P41~44)

(原文)

寵辱若驚、貴大患若身。

何謂寵辱若驚。寵爲下。

得之若驚、失之若驚。

是謂寵辱若驚。

何謂貴大患若身。

吾所以有大患者、爲吾有身。

及吾無身、吾有何患。

故貴以身爲天下者、則可以寄於天下。

愛以身爲天下者、乃可以託於天下。


            ・・・

(書き下し)

寵辱(ちょうじょく)驚(おどろ)くがごとく、
大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身(み)のごとし。

何(なに)をか寵辱(ちょうじょく)驚(おどろ)くがごとしと謂(い)う。
寵(ちょう)を下(げ)と為(な)す。

之(これ)を得(え)ては驚(おどろ)くがごとく、
之(これ)を失(うしな)いては驚(おどろ)くがごとし。

是(これ)を寵辱(ちょうじょく)驚(おどろ)くがごとしと謂(い)う。

何(なに)をか大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身みのごとしと謂(い)う。

吾(われ)に大患(たいかん)ある所以(ゆえん)の者ものは、
吾(わ)が身(み)有(あ)るが為(ため)なり。

吾(わ)が身(み)無(な)きに及(およ)びては、
吾(われ)何(なん)の患(うれ)いか有(あ)らん。

故(ゆえ)に貴(たっと)ぶに身(み)を以(もっ)てして
天下(てんか)を為(おさ)むる者(もの)、
則(すなわ)ち以(もっ)て天下(てんか)を寄(よ)すべし。

愛(あい)するに身(み)を以(もっ)てして
天下(てんか)を為(おさ)むる者(もの)、
乃(すなわ)ち以(もっ)て天下(てんか)を託(たく)すべし。



寵辱若驚 … 寵愛と恥辱を受けることで狂ったようになる。

貴大患若身 … 大きな災禍を自分の身体と同様貴重なものとする。

何謂寵辱若驚 … 底本(四部叢刊所収河上公本)には「若驚」の二字はないが、
        道蔵所収王弼本・傅奕本等にあるので補った。

寵為下 … 寵愛は下らないものだ。「下」は劣ったもの。
     底本(四部叢刊所収河上公本)では「辱為下」に作るが、
     道蔵所収王弼本・傅奕本等に従い改めた。

得之若驚、失之若驚 … 寵愛を得ればのぼせ上がり、寵愛を失えば取り乱す。
           「之」は寵愛。

是謂寵辱若驚 … これが寵愛と恥辱を受けることで狂ったようになるということだ。

吾所以有大患者、為吾有身 … わたしに大きな災禍が降りかかるのは、
              欲望に満ちた身体を有しているからだ。

及吾無身、吾有何患 … そのような身がなければ、何の患いがあろうか。

貴以身為天下者 … 自分の身を大事にしながら天下を治める者。

可以寄於天下 … その者に天下を預けることができる。

愛以身為天下者 … 自分の身を愛おしみながら天下を治める者。

乃可以託於天下 … その者に天下を託することができる。


 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi13.html より転写)


《通訳》

第十三章

名誉と不名誉は我々を興奮させる。

つまり、我々は苦しみを自己にもつからである。

名誉と不名誉が興奮させるとはどうゆうことか。

名誉は我々を上の方へ引き上げ、不名誉は下の方へ下げる。

このように、名誉あるときには興奮し、不名誉のときにもまた興奮する。

それが、名誉と不名誉が興奮させる、といわれる所以である。

大きな苦しみを自己にもつとはどういうことか。

大きな苦しみをもつ理由はただ自己を有することによる。

自己を有しなければ、どこに苦しみがあろうか。

自己と世界とを同一にすれば、そのとき、自己の中に世界はある。

自己を愛するように世界を愛するならば、そのとき、自己の中に世界はある。


http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十三章 寵 辱」①》(P42~43)では
以下のご解釈をしております。

(寵辱若驚、貴大患若身。)

寵(ちょう)は栄達である。
辱(じょく)は屈辱である。


寵(ちょう)も辱(じょく)も本来無いものなのである。

斯(か)く謂うのは般若心経にある
『老死(ろうし)無し、老死の尽くることも無し』
と云うのと同じ筆法である。


寵(ちょう)も辱(じょく)も本来無く、それらの相対的栄辱(えいじょく)を
超えて、『不滅の栄光』を獲得しなければならない。

そのためには寵(ちょう)を希(こいねが)う心も、
辱(じょく)を恐れる心も共に遠ざけなければならない。

だから寵辱(ちょうじょく)も問題が身辺に起こって来たならば、
そんなことには蛇蝎(だかつ)が身辺に近寄って来た位いに思って、
驚いてそれを避けるようにしなければならないのだ。


それだのに世間の人を見ると、この蛇蝎に比(くら)ぶべき心の大きな患(やまい)
である寵辱(ちょうじょく)の問題に心を執(とら)えられている。

そして此の身を『有る、有る』と思って大事にしているが、
此の身こそ大患(だいかん)の容器(いれもの)であるから、
この身を愛することは大患(だいかん)を貴(とうと)ぶんでいるのと
同じことだと謂うのだ。


           <感謝合掌 令和元年7月19日 頓首再拝>

第十三章 寵 辱」② - 伝統

2019/08/09 (Fri) 04:54:05


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十三章 寵 辱」②》(P43)では
以下のご解釈をしております。

何をか寵辱(ちょうじょく)を思うかと云えば、
寵(ちょう)を上(すぐ)れたことだと思い、
辱(じょく)を下(おと)ったことだと思うことだ。

併し寵(ちょう)を得(う)るのは辱(じょく)を得るのは始めである。

大英帝国が英国旗の翻(ひるが)えざる所は地球上何処にもないと豪語した時、
彼が『時の寵(ちょう)』を得ていたときである。

寵(ちょう)を得ていたときに傲(おご)り驕(たかぶ)って
必要以上に貪(むさぼ)っていたからこそ、今度枢軸側に激しく
叩き伏せられて二等国に堕(だ)して了(しま)うことになったのだ。

だから寵(ちょう)と辱(じょく)とは糾(あざな)える縄の如きものである。
否(いな)、寧(むし)ろ寵(ちょう)は辱(じょく)の始めと
云うべきものである。

世界各国興亡の歴史を顧みるに、寵(ちょう)のために心弛(ゆる)むが
普通であって、傲(おご)れる国の久しからず、驕(たかぶ)れる国の
永続した例(ためし)がないのだ。

だからして賢人は寵(ちょう)を得ることを恐るるが如くし、
辱(じょく)を失うが如くし、時の寵(ちょう)を得て勝てば勝つほど、
勝って兜の尾をしめるのである。

           <感謝合掌 令和元年8月9日 頓首再拝>

第十三章 寵 辱」③ - 伝統

2019/08/23 (Fri) 04:54:36


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十三章 寵 辱」③》(P43~44)では
以下のご解釈をしております。

さてまた大患(たいかん)を貴(とうと)ぶこと
身(み)の若(ごと)くすと謂う所以(ゆえん)は、
わが身(み)あるが故に大患(たいかん)がある。

わが身(み)がなければ大患(たいかん)がない。

我が身だだ我が身だだと思って大切にしている者が大勢あるが、
それはまるで大患(たいかん)を抱えて我が身だと思っているのと
同じである。

国と国との争いでも、吾が身(み)の国だと思ってそれを護ろうとするから
大患(たいかん)を生じ、大戦争が生ずるのである。

『吾が身無し』の境地に立って、ただ一つ理念の為に活動するに
於いては一切の患(うれい)は消滅してしまうのである。

(中略)

今必要なのは、滅私奉公の士である。

身を捧げ切って、吾が身、吾が国などと云わずに、
一路『興亜』の理念のために天下を為(おさめ)ることを
貴(とうと)ぶ士が出現すれば、

必ず天下の人心を寄せることが出来るであろうし、
また斯くの如き人にのみ、天下を託することが出来るのである。

(以下略)

           <感謝合掌 令和元年8月23日 頓首再拝>

第十四章 視之不見 ① - 伝統

2019/09/04 (Wed) 04:39:45


第十四章 視之不見 (P45~48)

(原文)

視之不見、名曰夷。

聽之不聞、名曰希。

搏之不得、名曰微。

此三者不可致詰。

故混而爲一。

其上不皦、其下不昧。

繩繩不可名、復歸於無物。

是謂無状之状、無物之象。

是爲忽恍。

迎之不見首、隨之不見其後。

執古之道、以御今之有、以知古始。

是謂道紀。


            ・・・

(書き下し)

これを視(み)れども見えず、名づけて夷(い)という。

これを聴けども聞こえず、名づけて希(き)という。

これを搏(とら)えんとすれども得ず、名づけて微(び)という。

この三者は致詰ちきつすべからず。

故に混(こん)じて一となる。

その上は皦(あきら)かならず、その下昧(くら)からず。

縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物(むぶつ)に復帰す。

これを無状(むじょう)の状、無物の象(しょう)と謂う。

これを忽恍(こつこう)となす。

これを迎(むか)うれどもその首(こうべ)を見ず、
これに随(したが)えどもその後(しりえ)を見ず。

古の道を執(と)りて、もって今の有を御(ぎょ)し、
もって古始(こし)を知る。

これを道紀(どうき)と謂う。

 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi14.html より転写)



《通訳》

第十四章


しっかりと見ないから、何も見えない。

それは形のないものと呼ばれる。

しっかりと聞かないから、何も聞こえない。

それは音がないものと呼ばれる。

しっかりとつかまないから、何もつかめない。

それは実体のないものと呼ばれる。

これら三つをつきつめることはできず、混ざりあって一つになっている。

上にあっても明るくなく、下にあっても暗くない。

目に見えず、どんな名前でも呼びようがない。

それはまた無にもどって行く。

それは形のない形と呼ばれ、イメージのうかばない形と呼ばれる。

それはつかまえにくいものである。

近づいて行ってもその顔は見えず、ついて行ってもその後ろ姿は見えない。

遠い過去の「道」をつかまえ、現在あるものを制御すると、
原始の始まりが理解できる。

これが「道」の本質である。


http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十四章 視之不見」①》
(P45~46)では以下のご解釈をしております。


(視之不見、名曰夷。)

栄辱(えいじょく)を超え、利己を捨て、栄辱の観念、利己の観念が
近づいて来ることを驚愕して避けるようにするには、
宇宙の実相が『無物(むぶつ)』であると知らねばならぬ。

これを仏教では色即是空と称し、
生長の家では『物質は無い、肉体は無い』と云ったのであるが、

老子は、此の『無物(むぶつ)』の実相を名づけて『道(みち)』と
云ったのである。

道は之(これ)を視れども視えず、併し無ではない。
何にもないのではない。

無でないとすれば何とか名づけなければならない。
そこで、これを名づけて『夷(い)』と云ったのである。

『夷(い)』は《たいら》である。
平等である。
一如(にょ)である。
全体である。

道(みち)を生活するものは自他の見(けん)を捨てて、
一如(にょ)のために、全体のために、生活をを行事なければならぬ。

国民政府の面子(めんつう)のためなどと云うのは道ではない。
夷(い)ではない。

大東亜全体のために生活を行ずるのが、道(みち)であり、夷(い)である。

           <感謝合掌 令和元年9月4日 頓首再拝>

第十四章 視之不見 ② - 伝統

2019/09/19 (Thu) 04:12:00


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十四章 視之不見」②》
(P46~47)では以下のご解釈をしております。


(聽之不聞、名曰希。
(搏之不得、名曰微。
 此三者不可致詰。
 故混而爲一。)

さて又、道は之(これ)を聴けども聴こえない。
と云っても何も無いのではない。
それは『希(き)』とでも名づくべきか。

『希(き)』は日本では『キ』と発音しているが、
支那音は『シー』である。

『シー』は日本語、『シジマ』『シヅカ』などの『シ』とその音霊を
一(いち) にするのであって、人の噪(さわ)がしき時に『シーッ』と
叱咤すれば静かになるのもその音霊の作用(はたらき)である。

そこで道(みち)は宇宙にミチているが、その声は無ではないが
五官の耳には聴けども聞こえずであって静寂である。

それは無声ぼ声であるから『寂(じゃく)の声を聴く』とか、
『隻手(せきしゅ)の声を聴く』とか云うのである。

五官の声を聴いて自他対立し、利害相争っていたならば人間は決して
幸福になることはできない。

寂(じゃく)の声を耳を澄まして内なる魂の囁きを聴くとき、
自他洞然(とうぜん)、自他の境(さかい)は徹し去られて、
日本も支那もただひとつ興亜の理念のために生きることが出来るのである。

道(みち)は眼に見えず、耳に聴こえないばかりではなく、
手に触れんと欲しても触れることが出来ない幽微(ゆうび)なものである。
そこで『微(び)』と云ったのである。

さて此の夷(い)、希(き)、微(び)と三つは拉致して詰問して
正体を突き詰める訳には行かない。

夷(い)、希(き)、微(び)と三様に形容して見たけれども、
どれがどれと云う区別がないから、夷(い)、希(き)、微(び)と
形容して見たものの総じて、それらの性質が渾(すべて)
混じて一つになっているのである。

           <感謝合掌 令和元年9月19日 頓首再拝>

第十四章 視之不見 ③ - 伝統

2019/10/02 (Wed) 04:20:01


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十四章 視之不見」③》
(P47)では以下のご解釈をしております。


(繩繩不可名、復歸於無物。

是謂無状之状、無物之象。

是爲忽恍。)

また道は高さにあっても別にあきらかと云うことはない。
下に置いても暗いと云うことはない。

縄々(じょうじょう)と永遠に続いて絶えることがない。
続いているからと云って『道』ではない。
無物である。

強いてその状(さま)を形容すれば無状の状(さま)云うべきか、
無象の象(しょう)とでも云うべきかだ。

道(みち)を生くる人間も亦斯くの如くなければならないのである。
上に上げられて急に愉快になったり、下に置かれて急に暗くする
ようになっては可(い)けない。

そう云う相対的立場に立つ喜びは永続するものではないのである。
縄々(じょうじょう)として尽きざるところの光明生活を
営(いとな)まんとすれば、相対の世界を一度踏み超えて
『寂(じゃく)』の世界に入(い)り、

その『寂(じゃく)』の中の不滅の光『寂光(じゃっこう)』とでも
云うべき常住の光、無物の光、無状の光、無象の象(しょう)を
把握しなければならないのである。

その無物の光明、無状の光明、無象の光明の状態こそ
惚恍(こつこう)と云うのである。

          <感謝合掌 令和元年10月2日 頓首再拝>

第十四章 視之不見 ④ - 伝統

2019/10/16 (Wed) 04:34:15


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~第十四章 視之不見」④》
(P47~48)では以下のご解釈をしております。

(迎之不見首、隨之不見其後。

執古之道、以御今之有、以知古始。

是謂道紀。)


まことに「道(みち)」はこれを迎え見ると、
どこが首(こうべ)だと云うことはない。

その後(のち)に随って行くとも、それが後(うしろ)だと云うことはない。

一切のところにミチているからミチである。
そして、いずこも八方正面である。

「ねばならぬ」に捕捉されない生活こそ生長の家の生活であると
謂われているが、これこそ道(みち)に乗ったる生活である。

一定の構えがないから自由自在であり、これを古今に通じて悖(もと)らざるが
故に、古(いにしえ)の道を執りて、今(いま)の万有を統御する
ことができるのである。

古(いにしえ)の中に始(はじめ)があり、道(みち)がある、
道(みち)は道(い)うであり、宜(のり)であり、則(のり)であり、
宇宙にミチる綱紀(のり)であるから、これを道紀(どうき)と云うのである。

           <感謝合掌 令和元年10月16日 頓首再拝>

第十五章 古之善爲士 ① - 伝統

2019/10/29 (Tue) 03:17:20


第十五章 古之善爲士(P48~53)

(原文)

古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。
夫唯不可識、故強爲之容。

與兮若冬渉川。

猶兮若畏四隣。
儼兮其若客。
渙兮若冰之將釋。

敦兮其若樸。
曠兮其若谷。
混兮其若濁。

孰能濁以靜之徐清。
孰能安以動之徐生。

保此道者、不欲盈。
夫唯不盈、故能蔽不新成。

            ・・・

(書き下し)

古(いにしえ)の善(よ)く士たる者は、
微妙玄通(げんつう)、深くして識(し)るべからず。
それただ識るべからず、故に強(し)いてこれが容(よう)をなす。

与(よ)として冬川を渉(わ)たるがごとし。

猶(ゆう)として四隣(しりん)を畏(おそ)るるがごとし。
儼(げん)としてそれ客のごとし。
渙(かん)として氷(こおり)のまさに釈(と)けんとするがごとし。

敦(とん)としてそれ樸(ぼく)のごとし。
曠(こう)としてそれ谷のごとし。
混(こん)としてそれ濁(にご)れるがごとし。

たれかよく濁りてもってこれを静かにして徐(おもむろ)に清からん。
たれかよく安んじてもってこれを動かして徐に生ぜん。

この道を保つ者は、盈(み)つることを欲せず。
それただ盈たず、故によく敝(やぶ)れて新たに成さず。

 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi15.html より転写)


《通訳》

第十五章

いにしえの「道」にすぐれた人は洗練され、深く啓発されていた。

その深さはほとんど測ることができない。

測れないので、私は彼の姿を描こう。

慎重なること、冬の冷たい流れを渡るかのよう、

落ちついていること、近隣の人の邪魔をしないかのよう、

丁寧なること、訪問するときのよう、

やわらかなること、氷がとけはじめるときのよう、

重厚なること、まだ削られていない塊のよう、

度量のひろさ、渓谷のよう、

底の見えない暗さ、まざりものがあるかのようである。

濁りを静め、澄みきるように誰れができようか。

動かないところから生き生き成長させるところまで、誰れができようか。

「道」を保持していく人はそれが極端にあふれることを望まない。

極端なところに行くことを望まないから、
彼は古いものにとどまるし、新しいものにもなることができる。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~古之善爲士」①》
(P48~49)では以下のご解釈をしております。

(古之善爲士者、微妙玄通、深不可識。
 夫唯不可識、故強爲之容。)


現代は人心が浮薄に流れて人々皆顕れんことを希(ねが)っているのであるが、
古代のすぐれたる人物は、その徳微玄通であって、眼に立たず、奥深く、
深い深いところに達しているので、その底の深き測り知るべからずものがある。

(『微(び)』は非常にデリケートなことであり、
 『妙(みょう)』は更にデリケートであって感覚に触れぬことである。
 『玄(げん)』は奥深くして玄(くら)いことであり、
 『通(つう)』は奥深いところに達していることである。)

眼立たぬように善事を為す如きは
軽薄の才子(さいし)が虚栄の人であって、
真人(しんじん)の為す所ではない。

真人(しんじん)の善事を為すや端倪すべからざるものがある。

随ってその行為が予測の外(そと)に出で到底識(し)ることが
出来ないのである。

だからこれを言い表そうとするならば、
ただ形容詞を思いるほかはないと云うのが、

『それ惟(ただ)識(し)るべからず、故に強いて之(こ)れが容(よう)を為す』

である。

次にその形容をして見よう。

           <感謝合掌 令和元年10月29日 頓首再拝>

第十五章 古之善爲士 ② - 伝統

2019/12/16 (Mon) 04:52:56


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~古之善爲士」②》
(P49~50)では以下のご解釈をしております。

(與兮若冬渉川。

猶兮若畏四隣。
儼兮其若客。
渙兮若冰之將釋。)


豫(よ)も猶(いう)も猜疑心深いビクビク者の一種だそうである。
真人(しんじん)たる者はその行為が大胆放心であろうかと思って
見ていると、まるで狐疑する獣(けだもの)のようにビクビク者で
石橋を叩いて渡るような生活である。

それは喩(たと)えば冬が来って薄氷を結んだ川を渉(わた)るのに、
踏み破ってはならないと細心の注意を払って渉(わた)るような状態である。

四隣(しりん)の迷惑になっては可(い)けないと云うので、
《あたり》を憚(はばか)ること、まるで猶(いう)という動物が
食物でも盗みに来たのと同じような恰好である。

そしてその態度礼儀にかなうこと、まるで賓客(ひんきゃく)に招かれて
来たようなものである。

それから『渙(かん)として』というのは『《どろり》として』と云う
ほどの意味で、真人(しんじん)の生活は《どろり》と融けるかけの氷
のようなものであると云うのである。


真人の生活は、融(と)けかけた氷のようだと云うと、
何だか得体の知れないもののように思われるが、
それはこんな意味である。

ある人の歌に、

   この道は丸う四角う柔(やわらか)う固(かた)う濁って濁らぬ道ぢゃいな

と云うのである。

この丸う四角う、柔(やわらか)う固(かた)い生き方が真人の生活であり、
生長の家の生き方であるのである。

前句の『厳(げん)として客(きゃく)の如し』と、お客様のように大いに四角
張っているところを見せたものであるから、真人の生活をそのように
『四角一点張り』のように誤解する者が出来ると、これは又大変な間違いであると
云うので、五角な中に柔らかいところを形容しようとしたのが、
四角な氷が渙(どろり)として融けかかった姿をもって来たのである。

融けかかった氷は硬いには硬いが、もう柔らかく円転滑脱(えんてんかつだつ)で
あるし、四角いには四角いが、そう角(かど)はなくなって四方は丸味(まるみ)を
帯びているのである。

即ち『丸う四角う柔(やわらか)う固(かた)う』の
自由自在の生活こそ、真人の生活であるのである。

           <感謝合掌 令和元年12月16日 頓首再拝>

第十五章 古之善爲士 ③ - 伝統

2020/01/09 (Thu) 04:55:16


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~古之善爲士」③》
(P50~51)では以下のご解釈をしております。

敦兮其若樸。
曠兮其若谷。
混兮其若濁。


『敦(とん)としてそれ樸(ぼく)の若(ごと)し。』と云う場合の
『敦(とん)』は敦煌(とんこう)の意味である、手厚いのである、
軽薄でhないのである。

真人(しんじん)の生活は常に敦煌であって軽薄ではない。


樸(ぼく)は山からき(木+戈)り出したばかりの材木で
朴(ぼく)のような生(う)ぶな状態をたとえて云ったのである。

真人(しんじん)の生活は賓客(ひんきゃく)のように厳然としている
かと思うと、軽薄才子のように外面を飾ると云うような事がなく、
朴(ぼく)のような生(う)ぶな状態を備えているのである。


『曠(こう)として其(そ)れ谷(こく)の若(ごと)し』の『曠(こう)』
は広々として中が空(から)っぽのことである。

曠谷(こうこく)に向かって喚(よ)べば、喚(よ)んだ通りに
反響して応える ―― これは、谷(たに)が空っぽであるからである。

真人(しんじん)の生活は喚(よ)ぶ通りに現れて滞ると云うことがない
のである。


『混(こん)として其(そ)れ濁(にご)れるが若(ごと)し。』
と云うのは先刻の歌の『濁って濁らぬ道ぢいな』と同じ道である。

泥中(でいちゅう)に陥(おちい)って将(まさ)に溺れなんとする人を
救うためには、混沌として自分自身が濁った姿をあらわしてその泥中へ
下降して行かなければならないのである。

凡そ大親分ともなるべき人物は、此(こ)の『濁り』の仮面をつけて
生活しないものはないのである。

キリストも収税人と倶(とも)に酒を飲んだ。
水清冽(せいれつ)すぎれば魚(うお)棲まずで、
何人(なんぴと)をも生かすことが出来ないのである。

併し、救い手自身が本当に濁ってしまったならば、
木乃伊(ミイラ)採(と)りが木乃伊(ミイラ)になる惧(おそ)れがある。

それでは可(い)けないのであるから、『濁っても濁らぬ』ところの
自由自在さがあるのが大真人(だいしんじん)なのである。

           <感謝合掌 令和2年1月9日 頓首再拝>

第十五章 古之善爲士 ④ - 伝統

2020/01/26 (Sun) 06:19:49


孰能濁以靜之徐清。
孰能安以動之徐生。

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~古之善爲士」④》
(P51~52)では以下のご解釈をしております。

小人(しょうじん)は何か不幸が起ってでも来ると、
忽(たちま)ち不幸なる現象に捉われて、現象の渦の中に巻き込まれる。

池の中へ小石が落ち込んで其処から無数に波紋が生じて来たならば、
ほって置けば、間もなく澄み切って波紋は消えてしまうものであるのに、
その消えてしまうまで待つ人がないのは残念なことである。

「孰(たれ)か、濁(にご)りて以(もつ)て之(これ)を静かにして
 除(おもむ)ろに清(す)むを能(よ)くせん」である。

大抵の人は、心の池の中に波紋が起ったり、生活の池の中に波紋が生じたら、
その波紋を何とかして打ち消そうとして、棒片(ぼうきれ)を以って
その池の中を攪乱(かくらん)するものだから、池の水は清(す)まないのである。

濁りたる水を、濁りたる健康を、人生の攪乱を打ち消す道は、
「之(これ)静かにして除(おもむ)ろに清(す)む」を俟(ま)てば好いのである。

絶対安静とは肉体のことではない。
心が絶対安静の境(きょう)に達するとき、一切の病悩苦不幸は消えるのである。

併し「孰(たれ)か、安(やす)んじて以て之を久(ひさ)しうして
除(おもむ)ろに生ずるを(よ)くせん」であって、

絶対安静 ―― 「ほっとけ、治る」 ――  であると云われても、
その安静状態を持続した時に始めて内部より癒やす力 ―― 「生命力」 ――  
が沸々(ふつふつ)と滾(たぎ)り出て癒えるのである。

生長の家ではこれを「静(せい)にあずける」と云っている。
「静(せい)にあずける」とき、生命力は「除(おもむ)ろに生じ」て
一切万物を成就してくれるのである。

           <感謝合掌 令和2年1月26日 頓首再拝>

第十五章 古之善爲士 ⑤ - 伝統

2020/02/12 (Wed) 06:48:32


保此道者、不欲盈。
夫唯不盈、故能蔽不新成。

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~古之善爲士」⑤》
(P52~53)では以下のご解釈をしております。


さて大真人即ち『此の道を保つ者』は『盈(み)つるを欲せず』である。

盈(み)ちた時は、かける始まりである。
世界の興亡の歴史を振り返って見ても大羅馬(ローマ)帝国が滅びたのも、
大独逸(ドイツ)帝国が滅びたのも、大奈(ナ)翁(おう)が滅びたのも、
また最近大英帝国が滅びんとしつつあるのも盈(み)つることを欲した
咎(とが)めがあらわれているのである。

盈(み)つることを望まない者 ――― そして自然の盈虚(えいきょ)に
まかせている者こす、大真人であるのである。

だから大真人は『夫(そ)れ唯(ただ)盈(み)ちず、是(こ)れを以(もつ)て
能(よ)く蔽(やぶ)れて新たに成(つく)らず』であって、
貧乏が来ようが、災難が来ようが、病気が見舞って来ようが、
別にそれを治そうともしないのである。

従って『之(こ)れを静かにして除(おもむ)ろに清(す)み来(きた)り』、
『之(こ)れを久(ひさし)うして除(おもむ)ろに生(しょう)じ来(きた)る』
のである。

(第十五章 古之善爲士 おわり)

           <感謝合掌 令和2年2月12日 頓首再拝>

第十六章 致虚極 ① - 伝統

2020/03/04 (Wed) 04:32:28


第十六章 致虚極 (P53~56)

(原文)

致虚極、守靜篤。萬物並作、吾以觀其復。

夫物芸芸、各復歸其根。
歸根曰靜。是謂復命。
復命曰常。知常曰明。

不知常、妄作凶。知常容。
容乃公。

公乃王。王乃天。
天乃道。道乃久。沒身不殆。


(書き下し)

虚きょを致すこと極まり、静を守ること篤あつし。
万物並び作おこれども、われはもって復ふくを観る。

それ物芸芸うんうんたれども、おのおのその根こんに復帰ふっきす。
根に帰るを静という。これを復命と謂う。
復命を常じょうという。常を知るを明めいという。

常を知らざれば、妄みだりに作なして凶なり。
常を知れば容よう。
容なればすなわち公こう。

公なればすなわち王。
王なればすなわち天。
天なればすなわち道。
道なればすなわち久し。身を没するまで殆あやうからず。

妄 … 四部叢刊所収河上公本では「萎」に作るが、道蔵所収河上公本・道蔵所収王弼本等に従い改めた。


 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi16.html より転写)


《通訳》

第十六章

空虚を熟視して、真に静寂を守る。

万物はどれも盛んであるが、私はそれらの無為をみつめる。

ものは絶え間なく動き、休まない。

しかし、それぞれのものは根源にもどってしまう。

根源にもどっていくと静寂になる。

静寂になるということは存在の運命にもどることである。

存在の運命とは実在である。

実存を知ることを開明と呼ぶ。

それを知らないで誤って行えば、災いにであう。

実存はすべてを包みこみ、すべてを包みこめば、自己はなくなる。

自己がないということはすべてが満たされており、

すべてが満たされれば、超越することになる。

超越すれば、「道」に達する。

「道」に達すれば永久に続く。

身体が死んでも、それは終わらない。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~致虚極」①》
(P53~54)では以下のご解釈をしております。

致虚極、守靜篤。萬物並作、吾以觀其復。


太極にまかせ切り、静に一切をゆだねるとき、
万物ならび作(おこ)り、栄えずと云うことなしである。

健康はおのずから生じ、繁昌はおのずから到り、財福おのずから集まるのである。
その時になっても大真人は、その万物すべて豊かに備わる状態に
執(とら)われることがないのである。

大抵の人は、『静(せい)にあづけ』神想観を修して万物思うがままに集まって
来るような状態になったときに、それが単なる『反影(おかげ)』であると知らず、
『実物』であるかの如く思い誤ってそれに執(しゅう)し、それに捉われ、

多々益々多からんとを希(ねが)って、執着の奴隷となり、儲けたが上にも
儲けようと欲し、益々貪欲を発揮して他人の迷惑になろうが、
他国の迷惑になろうが一向おかまいなきような行動をとって恬(てん)として
慚(は)づることなき状態に立ち到るのである。

即ち前章の『此の道を保つ者は盈(み)つることを欲せず』
と云う真理に背くことをするようになるのである。

その結果、物質が多々集まり、財宝が益々集まって、却)かえ)ってそれが
不幸の種、悩みの種となることが普通である。

之に反して大真人(だいしんじん)は、万物並び作(おこ)るも、それを
『自分のもの』として執(しゅう)しないのである。

それを神恩(しんおん)の延長(さきはえ)であると観じ、それを神様に復(かえ)して、
以って神様の物を預かり物と思って 私(わたくし)しないのである。

これを神様に復(かえ)して、私有しないことが、
『吾れ以(もつ)て其の復(ふく)を観る』である。

           <感謝合掌 令和2年3月4日 頓首再拝>

第十六章 致虚極 ② - 伝統

2020/03/18 (Wed) 02:23:46


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~致虚極」②》
(P54~56)では以下のご解釈をしております。

(夫物芸芸、各復歸其根。
歸根曰靜。是謂復命。
復命曰常。知常曰明。

不知常、妄作凶。知常容。
容乃公。

公乃王。王乃天。
天乃道。道乃久。沒身不殆)


芸々(うんうん)と云うのは、勢い内に旺(さか)んにして
草木(そうもく)の生長する有様(ありさま)である。

そもそも物が勢い(さか)んにして成長するのはその根に帰るからである。
概(およ)そ樹木の根は、外に幹枝の蔓(はびこ)っていると
同じ分量ほど地下にも蟠(はびこ)っているそうである。

根は培(つちか)わずに外のみ蔓(はびこ)るようにするならば、
その樹木は枯れてしまうのである。

だから芸々(うんうん)と生長繁茂する草木(そうもく)は必ず
根に帰るものである。『根に帰る』とは『静(せい)にあずける』である。
その『『静(せい)に帰る』ことを『命(いのち)に帰る』とも云うのである。
本源の大生命に復帰するのである。

ところがその本源の大生命は無常変遷するものではなく、
常恒(じょうこう)久遠の真理である。

真理に帰り、真理を知れば迷うということも間違うと云うことも
ないのであるから、これを『明(めい)』と曰(い)うのである。

真理を知らなければ『妄作(もうさ)して凶(きょう)』すなわち、
その行動法則に則(のっと)らずして支離滅裂であって、
滅び相踵(あいつ)いで到るのである。

『常(じょう)を知れば容(い)る』と云うのは、
真理を知れば現象は変えられないから、イライラしたり、
コセコセしたりすることなく寛容となり得(う)るのである。

寛容となんれば偏(かたよ)りが無くなって公平になると云うのは
『容(よう)なれば乃(すなわ)ち公(こう)』である。

そして公平無私の行動がとれれば、それは王(おう)の道である。
王道は天意即ち神意に一致するものである。
天意に一致するものは『道(みち)』に一致する。

『道(みち)』と一つになれば、『道(みち)』は宇宙に満つるものであり、
天壌(てんじょう)と共に窮(きわま)り無きものである。

従って『道(みち)』の中へ身(み)を没して『道(みち)』とひとつに
融(と)け込んでしまったら、身がありながら、身が無くなるから、
その身の殆(あや)ぶきことは決してない。

大磐石(だいばんじゃく)に護られているも同じことである。

           <感謝合掌 令和2年3月18日 頓首再拝>

第十七章 太上① - 伝統

2020/04/01 (Wed) 04:58:32


第十七章 太上

(原文)

太上、下知有之。
其次親之譽之。
其次畏之。
其次侮之。


信不足焉。
悠兮其貴言。


功成事遂、
百姓皆謂我自然


(書き下し)

太上(たいじょう)は、下(しも)之(こ)れ有(あ)るを知(し)るのみ。
其(そ)の次(つぎ)は之(これ)に親(した)しみて之(これ)を誉(ほ)む。
其(そ)の次(つぎ)は之(これ)を畏(おそ)る。
其(そ)の次(つぎ)は之(これ)を侮(あな)どる。

信(しん)足(た)らざればなり。
悠(ゆう)として其(そ)れ言(げん)を貴(たっと)べ


功(こう)成(な)り事(こと)遂(と)げて、
百姓(ひゃくせい)皆(みな)我(われ)自(みずか)ら然(しか)りと謂(い)う。

 (以上は、https://kanbun.info/shibu02/roushi17.html より転写)


《通訳》

第十七章

最上の指導者は誰れも知らない。

その次の指導者は人々に親近感があり、ほめたたえられる。

その次の者は人々に畏れられる。

最下等の指導者は人々に軽蔑される。

指導者が充分に誠実を示さないと、人々の信頼は得られない。

気をつけて、言葉の価値を高めよ。

仕事が行われ、事業が成しとげられたとき、
それはひとりでにそうなったのだと人々はいうだろう。

http://www.ginzado.ne.jp/~okoshi/rousi.html より転写)

・・・

《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~太上」①》
(P56~57)では以下のご解釈をしております。

(太上、下知有之。
其次親之譽之。
其次畏之。
其次侮之。)


大は小に対する比較上の『大(だい)』であるが、
『太(たい)』は比較を絶した絶対の大(だい)をあらわす。

太上は『絶対』の最上であって、至上至貴(しじょうしき)である。
至上至貴(しじょうしき)は、それが有ること知るだけで、
そのまま治国平天下(ちこくへいてんか)が整うのである。

『上(かみ)』のすることは間違いがないと信じて、そのまま素直に
委(まか)せ切って、批評したり、議論したりすることがない。
赤ん坊が母の膝に抱(いだ)かれているようなものである。

赤ん坊は母親を批評もしないし、疑いもしないし、そこに『母がいる』
それを知るだけで満足して、心が穏やかになり、自然に生長するのである。

これが『太上(たいじょう)は、下(しも)これあるを知(し)る』である。


その次善(じぜん)は、これを親しみこれを誉める。
それは悪くないが、赤ん坊と母親とが一体であるように
その儘渾然と一体であると云うような点には欠けている。

上(かみ)と下(しも)とが相分かれていて、
下(しも)が上(かみ)に親しみ誉めるのである。
この程度では上(かみ)と下(しも)とは愛で繋がっているから
上下(じょうげ)分離と云う程にはいっていない。


更に第三善になると、上(かみ)と下(しも)がハッキリ相分かれていて、
互いに親しみ合うことはない。

ただ統制が恐ろしさに、厳罰が恐ろしさに、
下(しも)が上(かみ)に服従しているに過ぎないのである。


更に最下(さいか)の政治(せいじ)になると、
下(しも)が上(かみ)に畏れて服従するのではない。

下(しも)が上(かみ)を侮(あなど)るのである。
軽蔑と、憤懣と、綱規(こうき)頽廃と、闇の横行とが
その特色をなしている。


これは政治の成績を老子が4種類に分けて見たものだが、
実際、米英の政治がその種類に属しているかは、
実情に照らして見れば判るのである。

(以下略)

           <感謝合掌 令和2年4月1日 頓首再拝>

第十七章 太上② - 伝統

2020/04/17 (Fri) 04:48:28


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~太上」②》
(P58~59)では以下のご解釈をしております。

(信不足焉。)


信は信頼である。
委(まか)すである。
実相を礼拝するのである。

下(しも)は上(かみ)を信じて委せ、上は下を信じ委せ。
互いに拝み合うところに、治国平天下を成就することが出来るのである。

蘇聯(それん)のように、上(かみ)の者は下(しも)の者を必ず
悪いことをするように思い、鵜の目鷹の目で検挙することを是(こ)れ事とし、
下の者は上の者のやることを悪政であると思って信服していないような
ことでは碌(ろく)なことは出きて来ない。

生産拡充を標語のように云いながら、その実は産業がそれとなき
慢性サボタージに陥ってしまって、縮小再生産の已むなきに到るのである。

           <感謝合掌 令和2年4月17日 頓首再拝>

第十七章 太上③ - 伝統

2020/05/07 (Thu) 03:50:19


《谷口雅春先生・著「老子を現代に生かす~太上」③》
(P58~59)では以下のご解釈をしております。

(猶兮其貴言。

 功成事遂、
 百姓皆謂我自然)


『猶(ゆう)として其(そ)れ言(げん)を貴(とうと)ぶ』の
『言』とは上(かみ)の出だす法令である。

苟(いやしく)も法令を出すからには充分慎重に慎重を重ねて
『猶(ゆう)』のように臆病な程が好いのである。

大体法律に縛られていると云う感じがハッキリしているようなことでは、
下(しも)の者は上(かみ)の者に懐(なつ)くことは出来ないし、
あまり縛られれば、法網(ほうもう)をくぐることが、
隠れん坊遊戯のように楽しくなって来るものである。

人間の心は余程、天探女(あまんじゃく)に出来ているのである。

読んだら可(い)かんぞと云って秘密の手紙でも隠して置くと、
知らぬ間に読んでいるし、此の教(おしえ)の本は良いから読め!
などと奨励すると却々(なかなか)読まないものである。

政治家は人間心理を知らなければならない。
朝令暮改 ―― 法令に法令を重ねて行くほど人間心理は
その裏を行こうとするものである。

それよりも上(かみ)は下(しも)の者の心を生かしてやるように、
生かしてやるようにすれば、下(しも)の者その儘素直に、
上(かみ)の者の欲するように自然に自発的に動いて行くものである。

自然に自発的に動いいて行くから、功成り事遂げては、
誰も彼れも、これを『自然(しぜん)』と云うのである。

上(かみ)もなく下(しも)もなく、
『自然(しぜん)』と云う一語に自他融合している。
これが政治の極致であるのだ。

           <感謝合掌 令和2年5月7日 頓首再拝>

Re: 老子を現代に生かす - wknfvmxxdMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:15

伝統板・第二
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