伝統板・第二

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無我 ② - 伝統

2017/08/16 (Wed) 04:27:04

        *伝統板・第二「無我 ①」からの継続です。


『無』 の世界には一切の物の本源がある

           *「生長の家」(昭和昭和16年11月5日の法語)より


すべての物は、有るから出来て来るのであるが、
その 『有る』 ことは、『無』 の世界に根元を有つ。

『無』 の中に本当の 『有』 がある。

この 『無』 の中の 『有』 をは、理念と云うのである。


理念は形なき形であり、声なき声である。

すべての現象  ―  即ち形あるものは  ―  形なき形、声なき声の影である。


先ず 『無』 の世界に沈潜して行くことが必要である。

『無』 の世界には一切の物の本源があるのである。

『無』 を称して目無堅間の小船と云う。

目無堅間の小船に垂れば龍宮城は其処にある。



<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「無私の人 (48)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=35

(2)伝統板・第二「無我 ①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6853330

           <感謝合掌 平成29年8月16日 頓首再拝>

「“わたし”」なるものは本来無い - 伝統

2017/08/18 (Fri) 04:00:01


      *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる、八月十八日 無恐怖の心境の日)より抜粋

世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、
いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。

何故(なぜ)かというと普通善人と云うのは自力作善の人 ―― 
すなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、
「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。

ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳(おんとく)のあらわれである。

「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、
却って救われないのである。

           <感謝合掌 平成29年8月18日 頓首再拝>

《パイプの中を掃除せよ》 - 伝統

2017/09/09 (Sat) 05:01:07


     *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P212) より

形なき真空の世界から、この宇宙と人間とを創造した
神の無限の智慧がわが中(うち)に宿っているのである。

今、自分の肉体がどんな病気にかかっているようとも、
その無限の智慧は此の自分を内部から完全なるものに
再創造することはできるのである。

神の無限の智慧と力とが自分の身体(からだ)を
健全に恢復し得ないような如何なる難病もないのである。


「自分の信仰の力で、この自分の病気を治してみせる」と思ってはならない。
《自分の力》などで治るのではないのである。

「自分」が無くなり、自分の力(りき)みがなくなり、神に全托して、
神がその智慧によって完全き働き給うことが出来るようにすることが、
人間の役目であり、神が完全に働き易いようにしさえすれば、
あとは全能の神が是(これ)を為(な)したまうのである。

つまり「自分」と云うパイプの中をよく掃除してさえ置けば、
あとは完全に神の癒す力の浄水(じょうすい)が流れる訳である。

            <感謝合掌 平成29年9月9日 頓首再拝>

無我のところに自由はある - 伝統

2017/09/15 (Fri) 04:11:47


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月15日)より

我でやれば失敗する

頭脳の知恵にのみ訴えて、大生命の導きを受ける方法を講じない者は、本店の指導を
全然除外して支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。

それは時には好い事もあるであろうが、時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。

吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。

真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。

           <感謝合掌 平成29年9月15日 頓首再拝>

無我献身の日 - 伝統

2017/10/02 (Mon) 04:17:25


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月2日)より

【生命の尺度で価値を測れ、金ではかるな。(『生命の實相』第十一巻)】


すべて他を制して之を墜(お)とし、それによって自分が利益を得んとする精神力は、
ついには自己を陥れて自己に危害を加えるものである。一時的の成功は斯くして
得られるかも知れないが、結局は自己を奈落に突き落とすに到るのである。

往年のナポレオンいま何処にありや、カイゼル今何処にありや、またヒットラー何処に
ありや、スターリン何処にありや。危いかな、全世界を共産化するまで、その赤カの
手をゆるめない理想をもつマルクス・レーニン主義者の行動を警戒せよ。

『古事記』が八俣の”遠呂智(おろち)”(遠きロシアの智慧)という象徴的名称にて
預言したところのマルキシズムの世界侵略政策が南下して来て、奇稲田姫(瑞穂国)を
侵略し、更にアジア全土に亘ってその赤化より護らんがために起ち上がったのが、
あの大東亜戦争であった。

それ故に日本はこの戦争を大東亜の民族の解放戦争と称したのである。
かくて南方諸民族は白人の支配下から独立し世界に新秩序が生まれたのである。

犠牲を惜しまず護りつづけた日本の無我献身がおのずから世界を此処まで
引摺って行ったのである。

           <感謝合掌 平成29年10月2日 頓首再拝>

余計な私心をなくすと、自由になる - 伝統

2017/10/18 (Wed) 04:37:34


         *「身軽に生きる」矢作直樹・著(P38~40)より

これは私が大学を卒業して、最初に勤務した病院での話です。
自家用車の事故で救急に運び込まれ、下半身が麻痺してしまったために
車いす利用となった男性の患者がいました。

その奥さんがとてもできた人で、男性がリハビリをする間、
本当に甲斐甲斐しく看病されていました。

ところが、その男性は運動機能を回復したあたりで、
急に奥さんに対してイライラするようになりました。

私はそんな男性の態度を見て
「どうしたのかな」と不思議に思っていましたが、
そうこうするうちに退院の日を迎えました。

後で聞いた話ですが、奥さんは胃がんの末期ステージだったそうです。
当時は家族に話しても、本人告知はほとんどされない時代です。
奥さんが末期であることは男性だけが知っていました。

そんな状態であるにもかかわらず、自分は事故で動けなくなってしまい、
末期がんの奥さんに世話をしてもらっていた男性の心中は、
穏やかではなかったに違いありません。

奥さんを看取った男性は、つらかったでしょう。
自分が健康体であれば、いろいろ世話をする時間ができたわけですから。

 
ただ、奥さんとしてみれば、どうだったでしょうか?
そこは勝手に想像するしかありませんが、それだけのお世話ができる人ですから、
自分なりに精一杯やったという満足感があったとは考えられないでしょうか?
そもそも愛情を寄せていなければお世話などしません。

奥さんを看取った男性は、しばらくの間、かなり落ち込んでいた
という話を人づてに聞きましたが、天上へと還った奥さんは、むしろすっきり、
晴れ晴れとしていたかもしれません。

なぜか?
 
自分の不具合を顧みず、夫を懸命に世話する奥さんには
「余計な私心」がなかったのではないかと感じるからです。

自利よりも利他、理屈抜きでご主人の世話をすることこそ
自分のお役目とお考えになったのかもしれません。

もしかしたら自分の命の期限が迫っていることも、
何となく感じていたかもしれません。

《私心を持たなくなると、人は解き放たれます》。

心の自由度が高まります。
初任地で、大切なことを教わった気がしました。

           <感謝合掌 平成29年10月18日 頓首再拝> 

「《わし》、《わたし》が」を捨てよ。 - 伝統

2017/11/01 (Wed) 04:56:16


          *「光明道中記」(11月1日手垢のつかぬ愛行をする日)より

【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】


悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、それは単に愛行として、深切として、
完全なものでありえないばかりでなく、却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」とか何とか、
不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 平成25年11月1日 頓首再拝>

我の脱落 - 伝統

2017/11/02 (Thu) 04:05:42


          *「光明道中記」(11月2日 旧我の消える日)より

【新天新地が開かれるとは小さな「我」が脱落して、
  自由な伸び伸びした愛の世界に出ることである。(『生命の實相』第四巻)】

「《わし》が」の無くなったのが仏心である。

「《わし》が宇宙の真理を悟った」などと思っているのでは危いものである。
斯う云うようなのを我慢の悟りと言う。

道元禅師も、
「あきらかに足りぬ、自己即仏の領解(りょうげ)をもて、仏法を知れりと言うには
あらずということを」と言っていられる。

悟った人間の自己即仏と云うその「自己」なるものは旧我の自己ではないのである。
「汝等新たに生れずば神の国を見ること能(あた)わず」とキリストは言ったが、
その「新たに生れたる我」になってこそ、自己即仏と言い得るのである。

自己即仏と悟ったと言っても、一から十まであるのである。
「新たに生れる」と言ってもその肉体が母の胎内を再出入することではない。

キリストに「新たに生れよ」と言われて
「人はや老いぬればいかで斯くの如きことどものあり得べき」
と見当違いの返事をした者もあった。

「新たに生れる」とは出入のことではない。
我の脱落のことである。

           <感謝合掌 平成29年11月2日 頓首再拝>

我を棄てる - 伝統

2017/11/06 (Mon) 04:15:39


          *「光明道中記」(11月6日七たび我を棄てる日)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、
最初は眼が見えていたのですが眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。

私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。

事情をきいて見ると実に可哀相な境遇です。
私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、
可哀相さに同情して
『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』と
申しました。

そんな我を除る位の事何でもない、
素直にすれば好いのだからと仲人が言いますので、
その女を妻に貰い受けました。

ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、一つも除ってくれません。
そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
それから胸を痛めたらしいのです。

私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
そんな教え聴きたくないと逃げまわります。
到頭昨夜はひどい喀血を致しました。
死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

          <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>

我癡(がち)という愚かさを捨てる - 伝統

2017/11/07 (Tue) 03:52:48


          *「光明道中記」(11月7日自己を深く見詰める日)より

【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】

「我(が)」と云うものはそんなにも握り育てていなければならないものだろうか。
「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところのニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。
自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、旧我であっては何ともならぬ。
「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずる - 伝統

2017/11/08 (Wed) 03:49:21


          *「光明道中記」(11月8日仕事に愛をそそぐ日)より

【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。(『生命の實相』第四巻)】


天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。

「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、

そのキリスト教国自身が「我」で領土に垣を張り廻らしていて
這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。

          <感謝合掌 平成29年11月8日 頓首再拝>

「我慢(自分が偉いという思い)」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。 - 伝統

2017/11/11 (Sat) 03:17:08


          *「光明道中記」(11月11日我慢の消ゆる日)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                          (『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。

人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、
我が無くなって仏の境界に入るが、一度悟ったと思ってそのまま放置して置くと、
元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。
我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 平成29年11月11日 頓首再拝>

自然の彫刻にまかせよ - 伝統

2017/11/14 (Tue) 04:10:32


       *「光明法語」(11月14日の法語)より

常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。

力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。

この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。

雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。

          <感謝合掌 平成29年11月14日 頓首再拝>

「わしが」 「わしが」 の心を捨てよ - 伝統

2017/11/16 (Thu) 03:36:47


       *「光明法語」(11月16日の法語傲(たか)ぶる心を捨てよ)より

神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

          <感謝合掌 平成29年11月16日 頓首再拝>

無我直心 - 伝統

2017/11/17 (Fri) 04:34:56


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。

小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。

天理教祖の所謂(いわゆる)「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。

文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

         <感謝合掌 平成29年11月17日 頓首再拝>

「わしが……わしが……」 が摧(くだ)ける事が必要 - 伝統

2017/11/19 (Sun) 04:46:01


       *「光明法語」(11月19日の法語~心柔和なる者)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である

         <感謝合掌 平成29年11月19日 頓首再拝>

《去私すなわち神》  - 伝統

2017/12/01 (Fri) 04:38:02


       *「光明法語」(12月1日) 

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

         <感謝合掌 平成29年12月1日 頓首再拝>

《我(が)を捨て、神に波長を合わす》 - 伝統

2017/12/02 (Sat) 03:12:52


       *「光明法語」(12月2日) より

神は善人にも悪人にも、太陽が一様に萬人を照らすかの如く、照らし給う。
それを受けると受けないとは、自分の心がそれに波長が合うか合わないかの事である。

色盲は紅や緑の色があっても、その網膜の色素細胞が、
それらの色に波長を合わさないから見えないのである。

オカゲを受けたいものは波長を合わすことである。
我(が)の波長では神の恵みの波長は受けられぬ。

よろしく我(が)を捨てカラッポになるべきである。
カラッポの容(い)れ物のみよく一切のものを受け入れ得るのである。

         <感謝合掌 平成29年12月2日 頓首再拝>

「我」と云うものは本来無い - 伝統

2017/12/04 (Mon) 04:02:13

           *「光明道中記」(12月4日困難を遊戯化する日)より

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。何事も魂の生長の養分である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、その人にとって一つの誘惑であることがある。
通らないことが時にはあるので、自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。
無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

ヒットラーが世界大戦を惹き起こしたとき、ヘンダーソン前駐独英大使が、
ヒットラーを評して「彼は何事にも『諾(イエス)』と答える人間に囲まれている
誇大妄想狂だ」と言った語(ことば)を思い出すが、

人は何事にも「諾(イエス)」と答える人間に囲まれているとき
却って災厄を惹き起こすのである。

         <感謝合掌 平成29年12月4日 頓首再拝>

無我になる - 伝統

2017/12/09 (Sat) 03:32:21


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月9日)より

まずわれわれは無我にならなければならない。
無我のみ「神の聖旨(みこころ)」を受け、
神のもち給ういっさいがわがものとなるのである。

無我は「ゼロ」であって、同時に「すべて」である。

「我(が)」を放さないとき、その程度に「応じて、神の光は蔽(おお)われるのである。
「我(が)」とは、たとえば窓ガラスの埃のようなものである。

            <感謝合掌 平成29年12月9日 頓首再拝>

からっぽにしなければ入らない - 伝統

2017/12/26 (Tue) 03:54:16

      *「たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと」
         青山 俊董・著(P74~75)より

からっぽだから水が入り、花が入る。
からっぽだから料理が盛れる。
からっぽだから道具が入る。
からっぽだからお食事もおいしくいただける。

前の滓(かす)が詰まっている器には何も入らず、
いっぱい掴んでいる手には、何も持つことができないように、
私の考えを捨て切って、からっぽにならなければ、
どんなにすばらしいお話も、みんなこぼれおちてしまう。

一人の修行僧が、ある禅師さまをお訪ねして教えを乞うた。
禅師さまは修行僧に茶をすすめながらしばらくお話をしておられたが、
何を思われたか、ふと話をやめ、いっぱいお茶の入った茶碗に
さらにお茶をそそごうとなさった。

修行僧はぎっくりして、、「禅師さま! こぼれます! 」というと、
禅師さまは「そのお茶を飲みほせ! 」と大喝一声された。

「カラにせねば新しいお茶が入らないように、お前の頭の中に、
いつ仕入れたともわからないお前の考えがいっぱい詰まっているから、
わしの話などみなこぼれおちてしまうか、自分の都合のいいところだけを、
それもゆがんでしか聞けない。
頭をからっぽにしなければ話は聞くことができないのだ」と。

         <感謝合掌 平成29年12月26日 頓首再拝>

《最早吾生くるに非ず》 - 伝統

2018/01/26 (Fri) 03:46:20


         *「光明法語」(1月26日)より

吾は歓びの歌をうたう。
神に感謝する歌を唱(うた)う。
神を讃美する歌を唱う。

あらためて私は自分の全生命を神に捧げるのである。
私は全く神に降伏してしまったのである。
神の前に「我(が)」がなくなったのである。

今日より後におこるすべての事件について、吾は必ず神に導きを求めるのである。
私はもう決して自分では何事もしないのである。
神に導かれ神と共になすのである。

此の世界は神の世界である。
神を無視して出来ることは何一つないのである。
又神に於いて不可能なことは何事もないのである。

吾空(むな)しければ吾は神のパイプである。

         <感謝合掌 平成30年1月26日 頓首再拝>

無我のところに神があらわれる - 伝統

2018/02/12 (Mon) 03:39:58


       *『真理』第5巻女性篇(P68)より

本当の信仰は無我になることから始まるのでありますから、
無我と謂うのは握っているものをまず捨てることなのです。

「私はこうしたい」と思っているその「たい」を捨てればいいのであります。
「無我即神(かみ)」と言った人もありますが、
「無我」のところに神があらわれるのであります。

慮知の心を起こして用意周到にこうなさいと言うのだったら、
捩じ鉢巻で考えなければならないから難しいかもしれませんけれども、
自分の心を捨てなさいと言うのだから難しいことはないのであります。

         <感謝合掌 平成30年2月12日 頓首再拝>

わがまま - 伝統

2018/02/18 (Sun) 03:51:04


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月18日)」より

人間を不幸にするものは《わがまま》である。
《わがまま》は他を不幸福にするばかりではなく、自分自身を不幸にする。

精神分析的に見れば《わがまま》とは自己虐待の変形である。
《わがまま》は自分のしたいままをする自己愛撫だと考えられやすいけれどそうでない。
《わがまま》は往来で転んで、誰が起こしてくれるまで
地踏鞴(じだたら)踏んで泣き叫んでいる悪童の延長でしかない。

彼は誰かに迷惑をかけるために自己虐待をしているのである。

《わがまま》が自己虐待である証拠に、
《わがまま》を通そうとする人は常に自分自身が
愉快な滑らかな感情の楽しさというものを味わうことができない。

《わがまま》を別語でいえば、
「我(が)を出す」または「我(が)が強い」という。

「我(が)」という字は、「われ」という字が書いてあるが、
「本当の我(われ)」ではない。

それは久遠普遍のひろびろとした
「本当の我(われ)」を縛るところの《自己限定》である。

「本当の自分」は天地にひろがるひろびろとした大いなる存在であるのに、
《これだけ》の部分だけが自分だと自己限定するのが、
「我(が)を出す」ということである。

だから「我(が)を出す」というのはかえって自分を限る、
自分を引っ込める、自分を縛る、自分を虐待することになる。

本当の自分が、天地にひろがる広々とした存在であることに気がついた時には、
人間は誰とも大調和するものである。

大調和の心は《神のまま》の心である。
神のままは自然を縛らない心、わがままは自然を縛る心。

            <感謝合掌 平成30年2月18日 頓首再拝>

なぜ、秋山はああまで無私でいられたのか。 - 伝統

2018/03/29 (Thu) 03:36:27


       *Web:プレジデントオンライン( 2012.9.16)より
             ~作家 童門冬二”古今東西の「名参謀の知恵」に学ぶ”


まずは、秋山真之である。
日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃滅させた作戦の立案者だ。

なんだ、有名人じゃないか――。参謀は名を秘すに、反しているじゃないか――。
そう感じられる読者もいると思うが、それは違う。

司馬遼太郎が『坂の上の雲』を書くまで、秋山は世間では知られざる存在だった。
それを、司馬遼太郎が資料を丹念に発掘して、秋山真之に光を当てたのである。

それまで、日本海海戦勝利の立役者は、連合艦隊司令長官の東郷平八郎だった。
秋山は、その陰に隠れていた。

作戦参謀として秋山に課せられた使命は、バルチック艦隊を撃滅するというものだった。
40隻に及ぶ大艦隊は、ヨーロッパを経ち、遠路ウラジオストック港を目指していた。

港に、戦艦や巡洋艦の1隻でも入港させたら、
以後日本海での日本軍の輸送は危機にさらされ、
中国大陸での作戦遂行ができなくなる。

秋山がバルチック艦隊をウラジオストック港に1隻たりとも逃げ込ませないために
立案したのが、「七段構えの戦法」である。

第一段は、駆逐艦と水雷艇による夜間奇襲雷撃である。
第二段は、翌日昼間の連合艦隊を挙げての砲撃。
第三段は、その夜に追撃の雷戦。

第四段は、翌日の昼間にバルチック艦隊の残存勢力を追撃。
第五段は、さらに夜間の追撃雷撃。
第六段は、昼間連合艦隊でウラジオストック港付近まで追撃。
第七段は、ウラジオストック港付近に敷設した機雷地域にバルチック艦隊を追い込む。

この七段構えのうち、実際に行われたのは、第二段から第四段までだった。
これで、バルチック艦隊は全滅したからだ。

もう1つ、秋山が考案したのが「丁字(ていじ)戦法」だ。
連合艦隊がバルチック艦隊の目前で大回頭し、
敵艦隊の頭を押さえ、逃さないようにするものだ。
「東郷ターン」として、今日では知られている。

これらの優れた作戦を考え出したこともさることながら、
秋山が見事なのは、自分は東郷平八郎の頭脳の一部分であることに徹したことだ。

秋山が練った作戦案のなかで、どれを断行するかは東郷が決断した。

これほど参謀と将が、その役割を立派に果たした例はないだろう。
秋山は、東郷が日本海海戦に死を賭して臨んでいたことを知っていた。
東郷も、秋山が命がけで脳漿をふりしぼり、作戦を立てていたことを知っていた。
その厚い信頼の下で、作戦はつくられ、実行されたのだ。

秋山真之に僅かばかりでも功名心があれば、
東郷平八郎は参謀として秋山を信用しなかっただろう。
海戦に大勝利しても、その功績は東郷だけのものとなった。


なぜ、秋山はああまで無私でいられたのか。


私は、秋山が松山(愛媛県)に生まれたことが影響しているように思う。
松山は今なお儒教と俳句の町である。
秋山も祖父、父から儒教の教えを叩き込まれていた。

儒教は、孔子や孟子に遡れば、「軍人というのは護民官で、国民を守るのが仕事」
という精神につながっている。
そこには、天から命じられた職という意識が強い。

秋山も、私利私欲ではなく、天命と受け取っていただろう。

さらに、明治の日本人は、外国から最新の知識や技術を学びながらも、
日本流にアレンジして取り入れていた。和魂洋芸(才)である。

俳句が盛んなことでもわかるように、松山は和魂を大切にする風土だ。
秋山も、海外で得た知識を自分なりにこなしたうえで、作戦立案に活かした。
だからこそ独創的な作戦が生まれた。

国のために力の限りを尽くして作戦を練る。
その後は、将の決断を信頼して任せる。

理想的な参謀の姿が、ここにある。

    (http://president.jp/articles/-/7153

            <感謝合掌 平成30年3月29日 頓首再拝>

生長の家の思想は無我の思想である - 伝統

2018/04/27 (Fri) 03:37:05


      *「光明道中記」(4月27日 自ら戒めて心を傲(おご)らざる日)より

【わが身忘れて神様にみんな献げるとは、我が身は無いと云う実相を知ることです。
                        (『生命の實相』第十七巻)】

生長の家は肉体無しの教である。
何時でも『殻』の捨てられないような人は生長の家ではないのである。
人は何処までも真理の公僕でなければならないのである。

私は今もそれを心掛ているのである。
「私は教祖ではない」とは『生命の實相』の中にもあるし、
「生長の家の歌」の中にもある。

私は真理の宣布機関として生長の家本部なる組織を造ったが、
少しもそんな組織の主宰者として何時までもいたいとは思わないのである。
何時でも時期が来たら後継者に譲る準備が出来ているのである。

生長の家の地方の教化を司っている人たちもその心掛でいて欲しいと思う。

「《私が》教化した」とか「《私の》造った地盤だ』とか言い出したら、
もうその人は生長の家の思想ではない。

生長の家の思想は無我の思想であるから
「《私が》」とか「《私の》」とかのない生活である。

他の宗教では暫く継続的に教化していると、時とすると自分の信者を作ることがある。

真理への信者でなくして自分の信者を造ってその勢力を張ろうとするとき、
その人は真理から墜落したものとなる。

そんな人で高所から墜落して死んだ人もある。

            <感謝合掌 平成30年4月27日 頓首再拝>

無我の心で、第一創造の世界が出て来る - 伝統

2018/05/09 (Wed) 04:15:37


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月9日)」より

我が無くならなければ、第一創造の世界は出て来ない。
心でものを造るといっても、その頑張っている心では駄目だ。

第二創造の世界を、第一創造の世界と同様の完全な相にするには、
念(こころ)のレンズが「無我」すなわち「素通し」にならなければならぬ。

「我」のあることはレンズにそれだけ収差のあることで、
第一創造の完全な世界がそれだけ歪んで、
第二創造(摸写)の世界に現われて来ることである。

            <感謝合掌 平成30年5月9日 頓首再拝>

絶対無我の生活になり切る - 伝統

2018/06/04 (Mon) 04:13:07


           *「叡智の断片」(P4~5)より

【 清 寂 の 生 活 】

道は絶対である。
絶対には対立がない。
道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。

一切の対立がなくなることである。
一切の対立がなくなるから一切に和解し、
一切を敬(とうと)び、一切が清まり、一切が寂である。

これが茶道の清寂であり、そのまま清まる日本の道である。
対立する争いをもって生活するが如きは、日本の道ではなかったのである。

道は「寂(じゃく)」であり、動くものなくして動いており、
その動くや必ず万物を生かすのである。

対立のなき動きは全機であり、無にして一切であり、
○(ゼロ)であるから一切と調和するのである。
それを大和(だいわ)の道と言う。

構える心がないから、事を構えず、事を構えないから事が起らないのである。
構えることがなければそのままとなり、其のままは実相であり、
実相は善ばかりであるから善きことのみが現われる。

「私」のはからいがないから、全体の動きとピッタリと「一」である。
全機である、全即一であり、一即全である。


本常に明るいと云うのは、全然対立がない「無」になり、無構えになって、
天地と一つにとけ合って「寂」となることによって自然に得られる
明るさでなければならない。

真の明るさは構えた明るさではない。
そのまま天地の明るさがあらわれたとき、
真に明るくなり、立ち対(むか)うところが悉く明るくなる。

            <感謝合掌 平成30年6月4日 頓首再拝>

捨我 - 伝統

2018/06/09 (Sat) 04:55:08


        *「光明道中記」(6月9日 捨我精進の日)

【神はただ信じても何にもならぬ。間違った信じ方は却って禍を招く。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

我より来るものにひとつの善きものも無いのである。
我は空(むな)しきものであるからである。
かく言う我とは此の肉我のことである。

われはひねもす我を打ちく摧(くだ)き、神へと捨我精進しなければならない。
もろもろの善きものは悉く神より来りて、我よりは来らぬものである。
神こそすべてのすべてであるからである。

神の流入を堰(せ)き止めるものは「我」と云う驕(たかぶ)りである。
「わしが・・・わしが」と云う誇りである。

如何に驕るとも、神の前に我は空しきものである。
神の力もあるけれども、私の努力にも因(よ)るなどと考えてはならないのである。

すべては神の力に帰せなければならないのである。
ただ《それ》を頭で知るだけでは足りないのである。
感情(ハート)でそれを感じなければならないのである。

感情(ハート)でそれを感ずるだけでは足りない。
全生命をもってそれを如実に体感しなければならないのである。

如実にそれを体感し、心にも一言(ごん)一行(こう)にもそれを表わし、
それを行じなければならないのである。

行の上では体験が必要である。
―― 神が私の上に生きているということ、すべてが神であること。

            <感謝合掌 平成30年6月9日 頓首再拝>

無我の教え - 伝統

2018/06/13 (Wed) 04:35:14


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月13日)より

われわれが他(ひと)に何事かを尽くして喜びを感ずるのは
自他一体の実相から来るのである。

「わたしがこれほどあなたに尽くしてあげました」という程度の尽くし方では、
まだほんとうに自他一体がわかっていない。
したがって本当の意味でその人は尽くし方が足りないのである。

「わたしは神様にこれほど尽くしてあげましたのに、お蔭がない」
と不平に思う人は、そのこれほど尽くしましたと力む「自分」という存在は
どこから来たのか考えてみるがよい。

「自分」というものは本来どこにもないのである。
みんな神から来たものばかりである。

それをわたしがした自分がしたと力むその根性がまちがっているのである。
そんなまちがいの信仰からお蔭がもし来るものならば、神様の方がまちがっている。


二人の信者が神社へお詣りして、

甲は「わたしはこれこれの善事をつくしましたから神様どうぞ祝福して下さい」
といって祈った。

乙は「わたしはなんの力(ちから)もないものです。
すべて善きものは神様から来るのです。
どうぞ御心の栄えますように」と祈った。

どちらが神様からお蔭を戴くものであるかとイエスは弟子たちにたずねた。
弟子たちは正しく答えることができなかった。

イエスは「本当にお蔭をいただくものは乙である」と言った。

「甲はまだ無我になっていない。
善き事が神以外の《自分》から来るようにまだ思っている。
《自分の力》に誇っている者は神から卑(ひく)くせられるものだ。」


イエスの教えも無我の教えであり、釈尊の教えも無我の教えである。
「天(あめ)の御陰、日(ひ)の御陰と隠(かく)りまして」
と祝嗣(のりと)にとなえる《日本神(にっぽんかん)ながら》の道(みち)も
無我の教えである。

「自分は本来ない」これが生長の家の教えである。
「自分」を握っていながら、お蔭を戴こうなどというのは大それた考えである。

握っている手掌(てのひら)の中には日光は射し込まない。
拳(こぶし)を開くことをしないで「お蔭がない」と不足を言っても
神様の御存知ないことである。

指導者の役目は「握っている心の拳(こぶし)」をひらかせることである。
相手の心に「我(が)」を握らせておいて、神想観とかいうX光線みたいな光で
握ったままの掌(てのひら)を明るくすることはできない。

神様は開きうる拳(こぶし)を与えていられるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月13日 頓首再拝>

天の父われに在(い)まして成さしめ給う - 伝統

2018/06/15 (Fri) 04:00:07


       *「光明法語」(6月15日)より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

        <感謝合掌 平成30月6月15日 頓首再拝>

自分の功徳と云うものは本来一つもない - 伝統

2018/07/02 (Mon) 04:46:31


      *「光明道中記」(7月2日 偽物(にせもの)を捨てる日)より

【自己の仮面を剥ぐとき本物の我が顕れる。(「生命の實相」第十一巻)】 

寺院に奉仕し、仏像に供養し。僧侶に布施してその功徳いくばくなどと
思うのは凡(おそ)そこれに過ぎたる愚問はない。そういう問を発する
心の中には、「供養誇り」と云うホコリで醜く充満しているのである。

「《わし》がしてやった」と考える。
「《わし》はこれだけの供養をしたのだから、
お蔭が当然あるべき筈(はず)だ」と考える。

その人は「《わし》」と云う愚かにも、
本来無いところの自己をつかんで放していないのである。
天地間ただ神恩仏恩(おかげ)の表現(あらわれ)であると知るとき、
自分の功徳と云うものは本来一つもない筈(はず)である。

何か善いことをして、それを《自分の》手柄のように考えずにいられない人は、
達磨の一喝「無功徳」を受けるが好い。
《自分の》功徳がないと知るとき、天地間はただ功徳で充満しているのである。

無功徳すなわち一切功徳である。
功徳があると云う間は一切功徳をくらましているのである。

奇蹟に就(つい)ても同じことである。
ただ当り前に生きている、ただ当り前に生かされている、これが奇蹟である。

或る特定の出来事を指して「功徳」と云うとき
一切功徳を蒙(くら)ましているのである。

        <感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>

絶対無私 - 伝統

2018/07/15 (Sun) 04:05:20

《無償の奉仕》

      *『生活の智慧365章』
        (第1部生命の泉)第1篇(P13~15) より

一人の孤独な未亡人がありました。
誰も親身になって仲良くしてくれる知人も親類もありませんでした。 
友達がほしいと思っても、中々思うように出来ないのです。

ところが一人の光明思想の研究家に勧められて、
自分の内にある自己顕現 ―― 自分の能力 ―― を愛しよう。  
それを生かしそれを表現して誰かの為になろうと決意したのでした。

彼女の唯一の能力というのは職業ピアニストというほどではないけれども、
可成り上手にピアノが弾けるということであった。

彼女はその能力を表現し愛するために、「小さな教会や子供の娯楽会に
無料でピアノの演奏をします」という広告を地方新聞に出したのであった。

直ぐ諸方から申し込みがあって彼女は忽(たちま)ち忙しくなったのであった。


彼女がピアノを演奏するのは、神を愛するために演奏するのであった。
神の自己顕現である能力を愛し生かすために演奏するのであって、
自分自身がどう思われようと、自分の技術が旨いとかは考えなかった。

つまり絶対無私であった。

ただ神の表現であるものを一所懸命力の限り努力して
神のために奉仕しようとするのであった。

すると人々が彼女の音楽を悦んでくれることがわかったのであった。
音楽だけではなく、彼女の人間を愛してくれることがわかったのです。
併し今はそんなことは重要な問題でなくなったのです。

彼女は自分の仕事の中に「神」を表現すること、
「神」から愛されていることを知るだけで悦びは充分であった。


ところが彼女が或る子供の娯楽会にピアノの奉仕演奏に出演したとき
偶然そこに来ていた子供の親である男性と知り合った。
その男は妻を失って子供を連れて困っていたのであった。

彼女は彼と相思の間になり、ついに結婚して今は幸福な愛にみたされた
家庭人になりながら、その傍(かたわ)ら依然として神から与えられた
能力の奉仕を楽しんでいるというのである。

           <感謝合掌 平成30年7月15日 頓首再拝>

《無我の生活》 - 伝統

2018/07/27 (Fri) 03:59:33


       *『生活の智慧365章』
          (第1部生命の泉)第1篇(P15) より

人間の悩みの多くは、
他(た)の人の思惑を気にするところから出て来るのである。

”人が何(なん)とか思いはしないだろうか”とか、
”人が自分にケチをつけはしないだろうか”とか、
”他(た)の人に負けてはならない”とか、

大体、人間相手の虚栄心や競争心から起こって来るものなのである。

虚栄を去り、見栄を求めず、競争心を無くして唯(ただ)、
「神」を表現しようとしたときに、初めて其の人は
心の自由を得(う)るのである。

ただ「神」のみを対象として、神にのみ仕える気持ちで
他(ひと)に尽くすならば、人間の毀誉褒貶(きよほうへん)などは
何ら意に介するところとならないのである。

そして唯(ただ)、自己の生活に「神」を実現することだけが
神のこの上なき悦びとなるのである。

そして唯(ただ)「与える」自分となるのである。

しかし「与える」という自負的な感じすら無くなってしまうのである。

無我、無私にして唯「神」のみがその人の生活に実現するようになるのである。

           <感謝合掌 平成30年7月27日 頓首再拝>

虚無の人 - 伝統

2018/08/15 (Wed) 04:44:06


           *「生長の家」(昭和16年11月6日の法語)より

   《克く謙る日》

   『無』 を超えて、無尽蔵をつかむ。
   このことを目無堅間の小船にのりて龍宮城に遊ぶ 〈古事記〉
   と謂う。

   『無』 は最も乏しくて多く、『無』 は最も弱くして強い。

   強く頑なるものは敵を招いてみずから敗れ、
   柔くして 『無』 なるものは、
   無心の小児が敵なきが如くよく自分を全うする。

   克く謙り、克く虚しくなり、高ぶらず、驕らず、欲張らず、
   詔を承けては必ず謹み、上には逆らわず、素直に 『ハイ』 
   の心を行ずる  ―  これ虚無の人であり、道の人である。

   道は国を興し、道を行ずる者は家を興し、みずからを栄えしめる。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=295

           <感謝合掌 平成30年8月15日 頓首再拝>

「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない - 伝統

2018/08/18 (Sat) 03:30:24


   *「光明道中記」(8月18日 無恐怖の心境の日)より抜粋

【自己の内に神を観た者は恐怖を超える。(『生命の實相』第十一巻)】

世の中には悪人さえ極楽往生を遂げるのに、
いわんや善人が極楽行きは当然だと云う人があるが、
これは如何にも表面そのように思えるけれども、実際は反対である。

何故(なぜ)かというと普通善人と云うのは自力作善の人 ―― 
すなわち自分の力で今日は斯う云う善行を励みましたと云うように、
「“わたし”が善をしましたから救われる資格がある」と云うような人である。

ところが、その「“わたし”」なるものは本来無いのであって、
一切の善はただ大本体たる弥陀の御徳(おんとく)のあらわれである。

「“わたし”がした」などと云うものは世の中に一つもない。
それだのに「“わたし”がした」と云うのは大の偽善者であるから、
却って救われないのである。

       <感謝合掌 平成30年8月18日 頓首再拝>

わがはからいにて行ずる光明思念であってはならない - 伝統

2018/08/25 (Sat) 04:31:05


        *「光明道中記」(8月25日 謙遜になり切る日)より

【神は祈ったから心を動かし祈らぬから罰を与えるようなものではない。
                       (『生命の實相』第三巻)】

(歎異抄第八条)

   念仏は行者のために、非行非善(ひぎょうひぜん)なり。わがはからひにて行ずるに
   あらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
   ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行・非善なりと、
   云々。

念仏とは謂わば絶対者の力の廻向(えこう)し来る光明思想である。
吾々の行う光明思念も本当はその極致は、
わがはからいにて行ずる光明思念であってはならないのである。

「わがはからいにて行ずる光明思念」であるならば、
「わたしが光明思念をしてやったから病気が癒(なお)ったのだ」などと
恩に着せがましく、また自力の善をほこりがましく自分が大先生になりすましすので
あるが、「自力」と云うものはひとつもないのであるから、
「わたしが光明思念をしてやった」と云うこともあり得ないのである。

大宇宙大生命の無辺の光明思念に”はからわれ”て
それが吾々に催し来たりて光明思念するように成るのである。

「念仏は行者のために非行非善なり」とは直に以て
「光明思念は行者のために非行非善なり」である。

この世に如何なる行と雖もわが”はからい”にて成し遂げる行とてなく、
この世に如何なる行もわがはからいにて成し遂げ得る「善」もない。

           <感謝合掌 平成30年8月25日 頓首再拝>

真に無我のところに自由はある - 伝統

2018/09/15 (Sat) 04:20:59


    *「光明法語」(9月15日の法語 我でやれば失敗する)より

頭脳の知恵にのみ訴えて、大生命の導きを受ける方法を講じない者は、
本店の指導を全然除外して支店のみで勝手に振舞おうとするにも似ている。

それは時には好い事もあるであろうが、時には本店の方針にそむく事によって、
除名されたり閉鎖を命ぜられたりする事もありうる。

吾々の真の自由は、大生命の流れを大生命その儘の方向に、
自発的に向かう事によってのみ遂げられるのである。

真の服従のあるところに自由はあり、真に無我のところに自由はある。

           <感謝合掌 平成30年9月15日 頓首再拝>

無我献身 - 伝統

2018/10/02 (Tue) 04:12:19


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月2日 無我献身の日)より

【生命の尺度で価値を測れ、金ではかるな。(『生命の實相』第十一巻)】

すべて他を制して之を墜(お)とし、それによって自分が利益を得んとする精神力は、
ついには自己を陥れて自己に危害を加えるものである。一時的の成功は斯くして
得られるかも知れないが、結局は自己を奈落に突き落とすに到るのである。

往年のナポレオンいま何処にありや、カイゼル今何処にありや、またヒットラー何処に
ありや、スターリン何処にありや。

危いかな、全世界を共産化するまで、その赤カの手をゆるめない理想をもつ
マルクス・レーニン主義者の行動を警戒せよ。

『古事記』が八俣の”遠呂智(おろち)”(遠きロシアの智慧)という象徴的名称にて
預言したところのマルキシズムの世界侵略政策が南下して来て、奇稲田姫(瑞穂国)を
侵略し、更にアジア全土に亘ってその赤化より護らんがために起ち上がったのが、
あの大東亜戦争であった。

それ故に日本はこの戦争を大東亜の民族の解放戦争と称したのである。
かくて南方諸民族は白人の支配下から独立し世界に新秩序が生まれたのである。

犠牲を惜しまず護りつづけた日本の無我献身がおのずから世界を此処まで
引摺って行ったのである。

           <感謝合掌 平成30年10月2日 頓首再拝>

ただ、神の中へ溶け込むこと - 伝統

2018/10/30 (Tue) 03:15:31


    *「光明道中記」(10月30日 求むるに先立ちて財宝集る日)より

【結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。
よき果を結ぶのは結果を求めない愛ばかりである。(『生命の實相』第一巻)】

「求めよ、さらば得られん」これは第一段階である。
「神は求むるに先立ちて必需物を知りたまう」これは第二段階である。

更に進んでは「知り給う」も「与え給う」も、
そんな「求めるもの」を私事に予想する心がなくなってしまわなければならないのである。

ただ神”のみ”がましますのである。
神は大慈である。
ただ大慈”のみ”がましますのである。

今更何を求めよう。

ただ、神の中へ溶け込むことのみをこそ求めなければならないのである。
溶け込むとは固まりがなくなることである。「我」の求めがなくなることである。

偉くなり、富を得たい、光栄を得たい、すべての野心、野心がとげられない悲しみ。
一切の怒り、不安、恐怖、呪詛(のろい)、之(これ)らすべてのものを放下せよ。
真に神の神意でありますようにと祈れ。

おお! その中にこそ全てがあるものを。

神を、聾(つんぼ)扱いしてはならぬ。
大声で怒鳴らなければ聞こえない者だと思ってはならない。
注文をして置かなければ、神はこの問題を忘れ給うかも知れぬと思うな。

           <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>

全ての誉れを神に帰せよ - 伝統

2018/11/01 (Thu) 04:40:12


          *「光明道中記」(11月1日 手垢のつかぬ愛行をする日)より

【失敗は大したことではない。損も大したことではない。
 自己の心を乱すかみ出さないかの方が大切だ。(『生命の實相』第十一巻)】

悟りと云うことは「《わし》が」が無くなることであって、
宇宙の真理を哲学的に思弁することではないのである。

どんなに立派な成功でも、「《わし》が」の附いているものは
すべて手垢のついているものであって、
神の前に供え物とすることは出来ないものである。

「《わし》が」を捨てよ。「《わたし》が」を捨てよ。
而(しか)して全ての誉れを神に帰せよ。

手垢の附いた深切をするな。
すこしも汚れのない、手垢の附かない深切をせよ。

「《わし》が」と云う手垢の附いた愛行や深切は、それは単に愛行として、深切として、
完全なものでありえないばかりでなく、却って地獄への入口でさえあるのである。

何故なら、神に属しないものは地獄に属するものであり、
光に属しないものは暗に属するものであるからである。

「《わし》が」で手垢の附いた愛行が地獄の門であると云うのは、
「《わし》が斯うしてやった《のに》あの人はその恩を感じない」とか何とか、
不平や憎みの原因になるからである。

           <感謝合掌 平成30年11月1日 頓首再拝>

我に固執するのが人間の相(すがた) - 伝統

2018/11/06 (Tue) 04:54:28


          *「光明道中記」(11月6日 七たび我を棄てる日)より

【知らずに犯す残酷ほど残忍なものはない。(『生命の實相』第四巻)】

道場へ来てこんなことを相談した人があった。

「私の妻は盲人であります。先夫がありましたが、最初は眼が見えていたのですが
眼が見えぬようになって先夫に捨てられました。私と同じ師匠に就いて働いておりますうちに、
先方から仲人を立てて私に貰って欲しいと言うのでした。事情をきいて見ると実に可哀相な
境遇です。私はその女(ひと)が我(が)が強い女である事を知っていましたが、可哀相さに
同情して『あの我の半分でも除(と)ると云う約束をしてくれたら貰っても好い』と
申しました。

そんな我を除る位の事何でもない、素直にすれば好いのだからと仲人が言いますので、
その女を妻に貰い受けました。

ところがどうしてその我の半分でも除れてくれるどころか、一つも除ってくれません。
そしてこの我を捨てたらこの家は持って行けん、
この我を捨てる位なら離縁して下さいと申します。

それでは仕方がないから、離縁するのもお互いの為だと申しますと、
それから胸を痛めたらしいのです。

私は人に教えられ『生命の實相』を聴かしてやろうとしますと、
そんな教え聴きたくないと逃げまわります。
到頭昨夜はひどい喀血を致しました。
死んでも、我は捨てられんと申すのです」

笑いごとではない、これが人間の相(すがた)なのである。

          <感謝合掌 平成30年11月6日 頓首再拝>

「我」と云うものは「本当の自分」ではない - 伝統

2018/11/07 (Wed) 02:47:57


          *「光明道中記」(11月7日 自己を深く見詰める日)より

【人格こそ本当の仕事をするのである。(『生命の實相』第四巻)】

「我(が)」と云うものはそんなにも握り育てていなければならないものだろうか。
「我」と云うものを「自分」の正体だと思っているから、
捨てては生き甲斐がないと感じられるのであろう。

併しそんなに大切な思われている「我」と云うものは「本当の自分」ではないのであり、
その「本当の自分」を覆い隠し晦(くらま)すところのニセ物であるのである。

それをニセ物と知らずに「本物の自分」だと思っているから、
「我」を捨てる位なら離縁してくれても好い、
「我」を捨てる位なら血を喀(は)いても好い、死んでも好いとも思うのであろう。

「本物の自分」と「ニセ者の自分」との区別の判らぬ愚かさを「我癡(がち)」と云う。
自分を滅ぼす贋(に)せ物に《せっせと》貢ぎながら
「本物の自分」を空腹にしている愚かさよ。

生長の家の説くところは「人間即神」「我即仏」と云うことである。

その事はすっかりよく解ったと云う人があるけれども、
その「人間」なるもの、その「我」なるものが、旧我であっては何ともならぬ。
「ニセ物」であっては何にもならぬ。

「汝の悟を書き来れ」と言われて同じ文句を「我即神」と書いて来ても、
本当に悟っている人は幾何(いくばく)もない。
新に生れ更(かわ)らない我が即(すなわち)神なのではない。

          <感謝合掌 平成30年11月7日 頓首再拝>

天地間に《われ》無し - 伝統

2018/11/08 (Thu) 02:36:30


          *「光明道中記」(11月8日 仕事に愛をそそぐ日)より

【仕事に愛をそそぐ者は自己内在の神を生かす事になる。(『生命の實相』第四巻)】


天地の無限供給に堰(せき)するものに我欲がある。
《我がもの》にし《たい》と云う欲望を我欲と言うのである。
我を顕揚(あらわ)し《たい》と云う欲望を我慢という。

天地間に《わがもの》と云うて無きものを、
何か《わがもの》があるように思うのを我見と言う。

天地間に《われ》と云うて無きものを
「我」と云うものがあるように思うのを我癡(がち)と言う。
我癡は真理を知らぬのである。

我慢は我癡より生じ、我欲は我見より生ずるものである。
ひとたび人間が「我」という境界を此の世界に置くや否や
此の広い世界が狭いものになって了う。

我がなければ天地間の供給みな人類のものである。

天下の資源は悉く全人類の開発に委ねられる。
資源争いや、大量殺人をする必要もない。

殲滅(せんめつ)するための火具を造るための生産力が
人類の福祉向上のための生産物を作るために振向けることが出来る。

此処は《わし》の領地だから移民して貰うまい、開発して貰うまい――
そう云う我見我欲が今度の世界戦争を惹起こしたとも言い得る。

「真理は汝を自由ならしめん」とイエスは言ったが、そのキリスト教国自身が
「我」で領土に垣を張り廻らしていて這般(しゃはん)の戦争を惹起したのであるから、
外人のキリスト教と云うものも好い加減なものである。

          <感謝合掌 平成30年11月8日 頓首再拝>

「我慢」が無くなったときに内在の神があらわれる - 伝統

2018/11/11 (Sun) 02:45:03


          *「光明道中記」(11月11日 我慢の消ゆる日)より

【自分を完全に生かすことは、ニセ者の自分を殺すことよりはじまる。
                         (『生命の實相』第十巻)】

自分が偉い偉いと思っているのは「我慢」と言って、「我」の一種の展開である。
人間は「我慢」が無くなったときに内在の仏があらわれ、内在の神があらわれる。
この時が悟ったのである。

そして「我慢」が出たとき仏が隠され、神が覆われる。
隠覆(いんぷく)を無明(まよい)と言う。
その時には悟が晦(くら)まされたのである。

一度悟ったから永遠に悟ったなどと思うのは間違である。
砂糖も水を加えて加熱すると飴になるが、一度飴になったと思って保存して置くと、
いつの間にか砂糖に還元しているいることがある。

人間も聖典を加えて長養加餐(ちょうようかさん)すると、
我が無くなって仏の境界に入るが、一度悟ったと思ってそのまま放置して置くと、
元の我が出て凡夫になっていることがある。

聖胎長養(しょうたいちょうよう)が必要なのはそのためである。
白隠禅師が大悟十八回小悟は数知れずと言われたのもそのためである。

我欲、我慢、我執が出たら、
元は悟っていても今はもうその悟が晦まされているのである。

我慢の心が出て、人を礼拝する心の代りに、人を審判(さば)く心になったとき、
その人は地獄の鬼の心になったのであり、閻魔の心になったのである。

          <感謝合掌 平成30年11月11日 頓首再拝>

傲(たか)ぶる心を捨てよ - 伝統

2018/11/16 (Fri) 02:41:55


       *「光明法語」(11月16日の法語)より

神のコトバは宇宙に充ち満ちているのに、そのコトバをきく事が出来ないのは、
自分の内に宿る 「神のコトバ」 を覆い、それを宇宙に満つる 「神のコトバ」
と波長を合わせる事をしないからである。

自己内在の神性を覆えるものは 「傲(たか)ぶる心」 であり、
「わしが」 「わしが」 の心である。

「わし」 と云う力(りき)みは、
海面上に浮き出ている氷山の部分みたいなものである。
表面を力んで見詰めていると、氷山の底の部分が一層大きなものであり、
普通の海水で互いに繋(つなが)っている事を忘れる。

          <感謝合掌 平成30年11月16日 頓首再拝>

無我直心 - 伝統

2018/11/17 (Sat) 03:53:35


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月17日)より

仏と一体になる道はただ一つ、南無帰命である。
帰命とは、命を仏の本体に没入して自分が無くなることである。

キリストが「およそ天国とはこの幼児(おさなご)のごときものである」と言い給いし
その「幼児(おさなご)の心」である。
無我である、直心(じきしん)である。端的である。

小知才覚の紆余(まわりみち)なき直截である。

天理教祖の所謂(いわゆる)「この道はハイハイと掻(か)き上がる道や」である。
生長の家の「そのまま素直にありがたい心」である。

文句なき心、否応なき心、帰投の心、敬順の心である。

無我直心を行ずるを徳という。

         <感謝合掌 平成30年11月17日 頓首再拝>

心柔和なる者 - 伝統

2018/11/19 (Mon) 03:16:29


       *「光明法語」(11月19日の法語)より

氷山が(個人の喩<たとえ>)顧みて自分の脚下(きゃっか)を見るとき、
自分の存立が自分によって成立っているのではなく、海水によって成立っているのだ
と知るとき、自己の高慢が摧(くだ)けるのである。

これをパウロは 「自己に死にたる者」 と言い、
洗礼のヨハネは 「悔(くい)改め」 と言い、
イエスは 「柔和なるもの」 「へりくだれる者」 「貧しき者」 「悩めるもの」
「振返りて幼な児の如くなれる者」 などが神の国に人る事が出来ると言ったのである。

「わしが……わしが……」 と云う自己が摧(くだ)ける事が必要である。

         <感謝合掌 平成30年11月19日 頓首再拝>

我が出たとき人間は死につつある - 伝統

2018/11/28 (Wed) 03:28:32


          *「光明道中記」(11月28日 功成りて功に居らざる日)より

【生命は愛と智慧とによって生く。(『生命の實相』第ニ巻)】


「功成りて居らず」と云うことが大切である。
功成りてみずから高きにあろうとするから、押し落そうとするものが出て来るのである。

人は常に地下水の如くあるべく心掛けねばならないのである。
地下水は涸(か)れることは無いが、山上の水は時に涸れ、
時に山海嘯(やまつなみ)を起して万物を覆すのである。

みずから高く構えるものは、下が隙だらけで危いのである。

無欲、無執、ただ潤すことのみを心掛くべきである。
自分が大なることを欲しないで与えることのみを心掛けておれば自然に大きくなる。

潤いのある者は柔らかい。
柔らかいものでないと物を育てることが出来ないのである。

硬(かた)き土地は物を生ずることは出来ない。
石地には豊富なる植物は生じない。
柔らき土壌にして初めて物を育てるのである。

我(が)の強いものは一時その我を通し得るにしても、
その我を通したそのことが自らを破壊するもとになる。

生きているものを見よ、すべて《ふうわり》と柔らかいのである。

我が出たとき人間は死につつある。
硬くなったとき人間は死につつある。

          <感謝合掌 平成30年11月28日 頓首再拝>

《去私すなわち神》 - 伝統

2018/12/01 (Sat) 04:39:55


        *「光明法語<道の巻>」(12月1日)より  

「わが魂の底なる神よ。あなたのみ声を限りなく聴くことができますように。
あなたのみ心が私の心となって顕れてまいりますように。我をなくならしめ給え。
わたしの行いがあなたの行いでありますように」。

これが私の祈りである。

我がなくなったとき、其処に神が顕れる。
神が顕れたとき、其処には完全円満のみが存在するのである。

悪しきものは存在しない。それは我の顕れに過ぎないのである。
私心を去ったとき唯円満完全のみがあらわれる。

あまり自分でたくまぬが好い。 

          <感謝合掌 平成30年12月1日 頓首再拝>

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