伝統板・第二

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死後の世界からのメッセージ - 夕刻版

2017/08/11 (Fri) 18:36:19

このスレッドでは、メアリー・T・ブラウン・著「死後の世界からの声(メッセージ)」
から、その要点を紹介してまいります。


         *「死後の世界からの声(メッセージ)」メアリー・T・ブラウン・著 より          

第1章 霊界への移行 (P12~13) 

人生で、避けては通れないもののひとつに、死がある
――私はむしろ、物質界から霊界、つまりアストラル界へ移行するという意味で、
「他界する」と表現したい。

物質界から霊界への移行は、終焉ではなく、意識が別の状態へと変化することだ。
物質的なレベルに制限されず、感情的、精神的な領域へと限りなく広がって
考えることができるのだ。

いったん肉体から解き放たれ、物質界の欲求に身をやつすこともなくなれば、
私たちは新たな習得段階へと高まることができる。

(中略)


肉体というのは神聖なる機械だ。
そのあまりにも複雑な構造のために、どうすればきちんと機能させておけるのか
という点について、人類はいまだに模索状態にある。


物質界の人生は、サンスクリット語の「マーヤ」という言葉で表すことができる。
「マーヤ」とは、幻覚という意味だ。

ヒンドゥーの教えでは、真実とは不滅であり永久のものであるとされている。
変化するもの、朽ちやすいもの、始まりと終わりがあるものはすべて、
「マーヤ」であると考えられているのだ。

この考えにしたがえば、この世の生命はどれも一時的なものなので、
それは真実ではないということになる。それは「マーヤ」なのだ。

私たちは、見せかけを真実だと誤り、「マーヤ」の状態にいる。

(中略)
 

物質界の人生こそが存在の唯一のかたちだという考えは、幻覚だ。
そして、物質界の人生が終わりを迎えるとともに私たちは死ぬ、
という考えこそは、まさに極めつけの幻覚なのだ。

・・・

<関連Web>

(1)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
   「何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71

(2)伝統板・第二「あの世とは?~あの世からの現地報告より」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6941482

(3)伝統板・第二「「霊 の 書」」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6786757

(4)伝統板・第二「人間は死なない①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6760169

(5)伝統板・第二「人間は死なない②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7189960 

(6)伝統板・第二「人間は死なない③」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7602423


         <感謝合掌 平成29年8月11日 頓首再拝>

死の瞬間に起こること - 伝統

2017/08/12 (Sat) 20:59:46

第1章 霊界への移行~死の瞬間に起こること(P14~16) 

肉体的な死(他界)は、私たちにとって、新しい世界に旅立つ際のパスポートなのだ。
霊界の生活は、真の民主主義によって統治されている。
あなたは、自身の行動によって勝ち得た界層に到着することになる。

物質界での富やコネは、この地ではいっさい通用しない。
あなたの人間性そのものが、あなたの地位となる。
この世で身につけた叡知が、至福へとつながる道を切り開くのだ。

あなたが物質界で銀行の頭取であろうが出納係であろうが関係ない。
問題は、この世におけるあなたの人生の質だ。

だから、その旅立ちのときのためにも、私たちは、
高潔、誠実、奉仕精神、愛情、ユーモアのセンスをもって、
この世を生き抜かなければならない。


できるだけ簡単に説明してみよう。
死の瞬間、霊魂が肉体という名のスーツケースから解き放たれる。
肉体は、魂の緒(シルバーコード)でアストラ体(感情体)と結ばれている。
他界する瞬間、この緒が切れるのだ。

臨死体験では、この緒が切断されていない。

(中略)


臨死体験をした人は、必ずと言っていいほどその人生が変わる。
死の恐怖が去ったことから、彼らは新たな自由意識を獲得したのだ。
彼らは人生にさらに深い意味を見いだすようになる。

この世における人生の目的は、学び、成長し、進歩し、他人に尽くすことだと悟るのだ。

         <感謝合掌 平成29年8月12日 頓首再拝>

ひとりではない - 伝統

2017/08/13 (Sun) 19:32:14

第1章 霊界への移行~ひとりではない(P16~17) 

喜びに満ちた死後の世界が約束されているとは言え、
ほとんどの人間はこの世から霊界への旅路に恐怖感を抱いている。

この世の友人や親族と別れるということ、
あるいは人生の喜びを失うということを考えると、たまらなくなるのである。

でも、どうか安心してほしい。
この世から霊界へとひとりぼっちで移行する人間はいない。
 
あなたの霊魂が肉体を離れ始める瞬間、境界線を越えるあなたを助けようと、
陰から手を差し伸べているだれかの姿が目に入るはずだ。

先にこの世を去った、あなたの愛する人の姿がはっきり見えるはずなのだ。
ごくまれではあるが、親しい人がまだだれも他界していない場合は、
移行の手伝いをするよう訓練された霊のヘルパーが、
あなたのところへきてくれることになるだろう。
 
私は、他界を間近に控えた人々とともに過ごした経験を数多く持っている。
彼らが、すでにこの世を去った人たちの姿が見えると話してくれたとき、
その人の他界が近いことを知る。

ときとして彼らは、母親、祖母、そのほかの愛する人たちと、
長いあいだ話し合うこともあるのだ。
 
メタフィジカルな(形而上学的)世界にあまりなじみがない人は、
それは病人の薬物反応あるいは幻覚だ、と片付けてしまいがちだ。

だが、私は、これがそういったたぐいのものではないと断言できる。
霊体が、移行を始めたということなのだ。

その患者が目にしているのは、その人を待ち受けている正真正銘の霊魂である。
半分はこの世に、もう半分は霊界に入っているその人は、
両方の世界に結びつけられた状態になるのだ。

魂をひとつこの世に誕生させるときに時間がかかるのと同じように、
この世を去るときにも時間がかかるものなのだ。

死はすなわち、霊界への誕生なのだから。

         <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>

自分の人生が目前で繰り広げられる - 伝統

2017/08/14 (Mon) 18:36:10

第1章 霊界への移行~自分の人生が目前で繰り広げられる(P21~24) 

「移行が行なわれたらすぐに、あなたの人生すべてが、目の前で高速画面のように
繰り広げられるの。生まれた瞬間から起こった出来事の一つひとつを再び目にすることになるわ」

(中略)
 
ここで重要なのは、霊となった自我は決して非難はしない、と理解することだ。
ただ傍観しているだけ、事実を直視するだけなのだ。

これは審理ではない。
行動の認識なのである。
人生の目的が成長であるという点を理解していれば、罪の意識を感じることはない。

(中略)
 
もちろん、できることなら変えてしまいたいと思うような出来事も、人生にはつきものだ。
だが、自分自身を向上させる時間は限りなくある。

輪廻転生の哲学は、人間は一度だけでなく、数多くの人生を歩むものだと教えている。
私たちは、自身を完成させるまで何度でもこの世に戻ってくるのだ。
霊魂は新しい肉体に宿り、さらに経験を積み重ねようとする。
 
その時々で私たちにできることは、常にベストを尽くすということだけ。
ベストを尽くすというのは、学びながら進歩するということ。
物質界の人生は、私たちが進歩するための機会なのだ。

そして、私たちの行動すべては自身の個人的責任だという意識が、必要不可欠だ。
私たちは、その思考と行動すべてに責任がある。

これがわかっていれば、
「行動あるいは反応する前に考える」ということができるようになるはず。

それに、私たちにはもう一度人生をやり直すチャンスがあるということがわかれば、
過去の間違いに対する罪の意識もやわらぐだろう。

(中略)

人生は存続する(輪廻転生)ということを知るとともに、
見たところ不公平だと思われるようなことも、実は過去の人生における
カルマ(原因と結果の法則)の結果である場合が多いという解釈を得たおかげで、
彼の人生が意義づけられた。

         <感謝合掌 平成29年8月14日 頓首再拝>

霊界の風景は? - 伝統

2017/08/15 (Tue) 19:23:17

第1章 霊界への移行~霊界の風景は?(P25~26) 

靈たちがメッセージを伝えようとこちらを訪れるときには、
ふつう、彼らの遺族が見分けがつくような衣服をまとっている。

(中略)

霊になれば、あらゆる肉体的問題から解放される。
霊界では、眼鏡をかけたり松葉杖をついたりしている者は一人もいない。
五体満足で、健康状態も完璧なのだ。
 
肉体は年を取るが、霊体は年は取らない。
他界したときには年老いていた人も、
霊界で会えば血気盛んなころの姿となっているはずだ。

霊となった人々はみな、だいたい35歳くらに見える。
それくらいが、深刻な老化が始まる前の完璧な年齢だと考えられているのだ。

肉体的なストレスがすべて取り除かれるので、
人は徐々に完璧な感情的バランスを取り戻していく。
このバランスの一部が、若さの回復に影響しているのだ。

         <感謝合掌 平成29年8月15日 頓首再拝>

赤ん坊と子供たち - 伝統

2017/08/16 (Wed) 18:54:45

第1章 霊界への移行~赤ん坊と子供たち(P27)


子を亡くした親たちは、こうきいてくる。
「私が他界したとき、自分の赤ん坊がわかるものなのでしょうか? 
もし成長していたら、どうやってこれがわが子だと確認できるんです?」
 
子供は、親が他界するとき出迎えにきている。
そして親に自己紹介する。
子供の年齢にかかわらず、親子だということはすぐにわかるはずだ。

親は、眠っているあいだに何度も子供と交信しているものなのだ。
この世にいるときはそれをおぼえていなくても、
霊界にいけばそのときの思い出がよみがえってくる。


両親が他界する前に子供の霊魂がこの世に再び生まれ変わってしまった場合は、
その子がどこにいて、なぜその子の魂はその時期にこの世に戻らなくてはならなかったか
ということが両親に説明される。

(中略)
 
だが霊の姿になれば、親たちも、自分が生み出したのは子供の肉体であって、
その霊魂ではないということを理解するはずだ。

霊魂は永遠のもので、どんどん先の人生に進んでいかなければならない。

親は、一時的な保護者なのだ。

         <感謝合掌 平成29年8月16日 頓首再拝>

人が移行を達成させる場合の手助けの方法 - 伝統

2017/08/17 (Thu) 20:08:46

第1章 霊界への移行~人が移行を達成させる場合の手助けの方法(P32~34)

変化は、人々をおびえさせることが多い。
新しい職場、引っ越し、新たな人間関係には、不安がつきものだ。
だがその変化に順応することさえできれば、恐怖心は消えていく。

(中略)
 
死を秘密事にしてはいけない。
愛を込めて、正々堂々と語るべきなのだ。
子供たちにお行儀や、善悪の区別を教えるのと同じように、
死を恐れるべきではないということを教えるべきだ。

(中略)
 
だが恐怖心というのは、外部の影響で身につけてしまうものなのだ。
以前、恐怖心が「神の不在」と表現されているのを耳にしたことがある。
これは実に言い当てている言葉だと思った。

と言うのも、自身よりも偉大な力の存在を信じている人たちは、
さほど恐怖心を抱かないし、人生の尊さを正しく認識する傾向にあるのだ。

別に、特定の神を信じたり、教会にいって信者になる必要はない。
万人の心の中には、より高次な自我が存在すると感じるだけで十分だ。
この高次な自我が、私たちを他人への奉仕活動に向ける動機づけとなるのだ。

いわば、恐怖の竜の息の根を止める兵士なのだ。

         <感謝合掌 平成29年8月17日 頓首再拝>

手放す - 伝統

2017/08/18 (Fri) 19:01:21

第1章 霊界への移行~手放す(P34~36)

人生におけるもっとも大きな試練のひとつは、手放すということである。
母親は、子供が自分の人生を歩んでいくよう、子離れしなければならない。

あまりに長い間しがみついてばかりいると、
その子を機能障害を持つ大人として成長させてしまうことになる。

また同様に、子供のほうも、両親の承認や依存、
あるいは過去から脱却できなくなってしまうのだ。
 
子離れができない親も、自立できない子供も、
互いに愛し合いながらも成長できる方法を学ぶべきだ。

距離をおきながら愛するということが、精神的な幸せへと道を切り開く鍵であり、
手放すことを学ぶ鍵にもなる。距離をおくということと、
無関心でいるということを混同してはならない。

無関心でいるということは、思いやりがないということ。
ただここでいう距離をおくというのは、
離れていても大丈夫なほど深い思いやりを持つということだ。

人生は、手放すことの連続だ。
いや、前進の連続だと言うべきだろうか。

(中略)

死は、私たちがきちんと手放せるかどうかを問う、究極の試練なのだ。
それが自分自身の移行であろうと、愛する人間の移行であろうと、
とにかく死というのは、人生の中でもっとも重要な前進なのである。

         <感謝合掌 平成29年8月18日 頓首再拝>

喪失 - 伝統

2017/08/19 (Sat) 19:30:10

第1章 霊界への移行~喪失(P39~40)

だれだって、愛する人を失いたくはない。
別離は、しんみりとした悲しみなどというものでなく、苦悶であることが多い。

失ったものが恋愛であれ、夢であれ、他界した最愛の人間であれ、
私たちは苦しみを味わうことになる。
 
愛する人間が、部屋にだれもいないときに他界するということがよくある。
そんなとき遺族は、こう言って嘆き悲しむ。

「信じられない。ほんの一瞬部屋を離れただけなのに、
そのときに限って母が他界してしまうなんて。
何で一緒にいてあげられなかったんだろう?」


実際は、こういうことなのだ。
霊界へ移行しようとする人間は、この世を去らないでくれと願う
愛する人間の思いのために、物質界に縛りつけられる場合がある。

悲嘆の力というのは、霊界への移行準備が整った人間にとって、
非常にやっかいなものとなることがあるのだ。
 
愛する人間から送られてくる強烈な思いは、
人を必要以上に長い間物質界にとどめてしまう。

死にゆく人間というのは、その人を手放したくないと願う人々の
悲しみを感じ取ってしまうものなのだ。

死に際にある人にしてみれば、この世を去ることで、
自分を愛している人間を傷つけたくないので、何とかとどまろうとしてしまう。
 
この気持ち ―― 愛する人間を自分のもとにとどめておきたいという私たちの願望 ―― 
が、闘病中の肉体的悪化を引き起こす原因なのだ。

だから愛する人間が悲しみとともに部屋を離れてくれれば、
死にゆく人もこっそりと去りやすい。
私たちは、愛する人間に対して、去っても構わないと言ってあげなければならないのだ。


人生には、手放すという術を磨く機会がたくさんある。
人間の究極の無我の行為とは、その時がきたとき、
愛する人間に自ら別れを告げるということだ。
 
さようならを言うのは決して簡単なことではない。だがとても自然なことだ。
別れをいうということはつまり、愛する人間を物質界の苦しみから解放させてあげること
なのだという点を、よく理解する必要がある。

それはとても気高く、奉仕精神に満ちた行為なのだ。
愛する人間を抱きしめ、自分がその人を愛し、恋しく思うと告げると同時に、
それでも自分は元気にやっていけるということを話してあげてほしい。

そうすることで、その人はずっと楽に他界できるようになるのだ。
相手の立場になって考えてみればわかるはずだ。
あなたのことを心配するあまり、愛する人間がこの世に踏みとどまってしまう、
ということはあってはならない。

あなたが相手に、去っても構わないと言ってあげるだけで、移行はかなり楽なものになる。

         <感謝合掌 平成29年8月19日 頓首再拝>

第2章 因果応報(P55~56) - 伝統

2017/08/21 (Mon) 18:09:09


私たちの行動すべては、現世と来世に直接影響を与えることになる。

ある人が罪を犯し、現世では捕まらなかったとしても、
その罪が見逃されることはありえない。

つぎの人生になるかもしれないが、
とにかくその人の行動にはきちんと見返りがくることになる。
それがカルマだ。
 
カルマとは、原因と結果の法則のこと。
それは、現世を含めたいままでの全人生における行動を総括したものだ。
カルマは、個人がとった行動の結果として、私たち一人ひとりにはね返ってくる。

自分が人に与えた傷のために、今度は自分が苦しむはめになることもあれば、
他人に与えた幸せが、自分に返ってくることもある。
私たちの身に起こることはすべて、普遍的な公正さを反映しているのだ。

だれもが、自分自身で勝ち得た場所で生きている。
これは、物質界、精神界、霊界すべてに共通することである。
 
輪廻転生というのは、この世における人生は一度だけではなく、
何度も繰り返されるということを意味する。

私たちは、努力によって自己を完成させるまで、
この世という界層に戻り続けるのだ。
完成させるということは、完全に無我の状態になること。

物質的な喜びを求める願望がすべて、全面的な献身に取って代わり、
人類に奉仕するようになるということだ。
その状態に行きつくまでには、いくつもの人生を経験しなければならない。

完全な調和がとれるまでのあいだ、
カルマの法則が私たちをこの世に引き戻し続ける。
カルマと輪廻転生は、お互いに欠くことのできない概念なのだ。
 
成長の速度を決めるのは、各個人の魂だ。
中には、よりたやすく欲望の束縛を解くことができる魂もあるだろう。

物質の喜びが一時的なものだということを理解しさえすれば、
私たちは真の喜び、つまり知識の喜びへと目を向ける。
知識に対する渇望は、何か物質的なものを飲めば癒されるというものではない。

物質的な対象物は、その美しさゆえに楽しむことができる。

だが、経験から得た知識は、離れて人を愛するということ、
何かをあてにすることなく楽しむということ、
それぞれの瞬間に愛着をもって生きるということが、
人を真の幸福に導くということを教えてくれる。

         <感謝合掌 平成29年8月21日 頓首再拝>

進歩の段階 - 伝統

2017/08/22 (Tue) 18:40:57

第2章 因果応報~進歩の段階(P56~58)

何年にもわたって、自分はこの世で最後の人生を歩んでいるんだ
と豪語する人たちに、数多く会ってきた。

だが私がつぎのような質問を投げかけると、彼らは大いに腹を立てるのだ。
 
すべての言語を話せますか?
自分の感情を、完全にコントロールできますか?
自分の意志で、肉体を遊離することができますか?
 
どんなときの動機も、完全に無欲なものだと言えますか?
個人的な富への欲望を克服しましたか?
完璧な健康体ですか?
 
これらは熟達者になる必須条件のほんの一部にすぎない。
自分自身を完璧に熟達させれば、もうこの世に戻ってくる必要はなくなる。

そのときには、カルマもすっかりバランスがとれ、
個人的な富や満足への欲望も、すべての人類への奉仕に対する
無欲な動機へと変わっているはずだ。

ここでは、この高度に進歩した意識の状態について
あれこれと論じても仕方がないだろう。

ただひとつ覚えておいてほしいのは、
ほとんどの人間には、まだまだ多くの進歩が待ち受けているということだ。
だから、今の人生の教訓に、十分注意を払っておくほうがいい。
 
肉体的、感情的成長はすべて、この世で行なわれる。
私たちが経験するそれぞれの人生は、魂が学ぶための場なのだ。

辛苦一つひとつが、それを乗りこえ、
最終的には自己を完成させるために直面する試練なのだ。

輪廻転生のおかげで、この教育は人生から人生へとくり返し続けられる。
霊魂は、自身をさらに進歩させるため、肉体に宿るのだ。
生まれ変わるまでの時間は、人によってさまざまだ。

魂の発達が高まれば高まるほど、
この世に戻るまでのあいだ、ゆっくりと待つことが許される。
 
だが中には例外もある。
たとえば、世界を救うために必要な仕事こなすため、
進歩した魂がすぐさまこの世へと戻される場合があるのだ。

個人のカルマは、輪廻転生の全段階にかかわってくる。
それぞれのカルマは、その魂の前世の経験に見合った、
あるいは現世の試練をくぐり抜けるのに必要な、
家族、国、性、肉体を選んで魂を送り込む。

自己の完成に近道などない。
悟りの境地に至るのに、簡単な道のりなど存在しないのだ。
その過程の大部分は、つらく苦しいものだ。

私たちはみな、自分自身の選択によって勝ち得た経験を
引きつけることによって、試されているのだ。

苦痛は、解決すべき問題が存在していることを教えてくれる。
人生とは、魂の改良を模索する研究室のような場所だ。

人間は、あらゆる経験を楽しく味わいながら、
そこから学び、いまの人生を最高のものにしなければならないのだ。

         <感謝合掌 平成29年8月22日 頓首再拝>

これが私のカルマなのだから - 伝統

2017/08/23 (Wed) 19:31:26

第2章 因果応報~これが私のカルマなのだから(P58~61)

「これが私のカルマなのだから」というのは、
自分の選択に対する責任を逃れようとする人たちがよく唱える言葉だ。

現世で私たちの身に起きる出来事の多くは、
確かに前世における行動の結果ではあるが、
良識の欠如の口実としてカルマを引っ張り出してはいけない。

(中略)
 
たとえば、もしあなたがアルコール依存症だとしたら、
この人生をとおして飲み続けるのがあなたのカルマだと言えるだろうか? 

あるいは、その悪癖を乗りこえ、新たなプラスのカルマを生み出させるために、
あなたに課せられた試練なのだろうか?
 
過去の行動を取り消すことはできないが、それを償うことはできる。
新たなよいカルマを生み出すことで、前進できるということなのだ。

私たちは、肉体にいるあいだに、肉体的、感情的問題を乗りこえなければならない。
飲み過ぎ、働き過ぎ、火遊びのし過ぎなど、
過度な行動に走ると、バランスが崩れてしまう。

人生は私たちに、よいものであれ悪いものであれ、
過去の行動のバランスをとる機会を差し出してくるのだ。

物質界から霊界へと移行したとき、もしあなたが何かの悪癖に染まっていれば、
それを乗りこえるまでの間はその問題を抱えたまま、この世に生まれ変わることになる。

裕福なクライアントの中には、前世でよい行ないをしたおかげで
金持ちになれたのだと考える人がいるが、そんな人たちにはこう話すことにしている

「金持ちだからといって、必ずしも恵まれているとは限りません。
セラピストのオフィスでは、有閑階級の絶望感というのが常に話題にのぼっています。

過度のお金を手にすると、価値観を失ったり、持ち物すべてに飽きてしまう
ということから、ドラッグに手を染める場合も多く出てきます。

お金というのは、その使い道によっては、天の賜物とも、災いともなりえるのです。
人間は、過去の行動によって引き寄せた環境に生まれます。

問題はその人間性であって、いくらお金を持っているかということではありません。
あの世には銀行なんてないのですから。

もちろん、快適な生活を送るというのは悪いことではありません。
でも、他人の窮乏を、自分より恵まれていないと考えるのは間違っています。

食料や寝る場を必要とする人たちに救いの手を差し伸べるのは、
私たち全員のカルマなのです。私たちみなが気づくべき集団的カルマというものがあり、
地球上のアンバランスについては、みんなが同じように責任があるのです。
 
私たち一人ひとりが、それぞれの環境内で手を差し伸べることができるはずです。
政府を指揮することで救える人もいるでしょうし、
自分たちで食料を育てるよう教えてあげる人もいるでしょう。
あるいは、古着のコートを貧窮者に与えることで救おうという人もいます。
貢献の大きさは関係ないのです。

自分の能力の範囲内で救いの手を差し伸べるだけで十分ですし、
それだけで大きな効果を生み出せます。あなたの寛大な行為ひとつが、
ある人の人生を軌道に乗せるはずみになるかもしれないのですから」

あなた自身のカルマに対処するのと同じように、
あなたには、この地球の未来を築き上げるために手を差し出す力があるはずなのだ。

         <感謝合掌 平成29年8月23日 頓首再拝>

カルマと、霊界における位置 - 伝統

2017/08/24 (Thu) 19:50:55

第2章 因果応報~カルマと、霊界における位置(P61~62)

霊界に入るとき、私たちはこの世での行動を通じて勝ち得た場所に到着する。
だから、この世で肉体的、感情的に努力して取り組まねばならないのだ。

あなたの人間性は、肉体とともに崩壊してしまうわけではない。
霊界についたときも、あなたは肉体を離れたときと同じあなたのままだ。
だから、できる限りこの世で成長を続ける努力をしたほうがいい。
 
中には、あの世についた瞬間に、
心にやさしさと喜びが満たされると考えている人たちがいる。
だが、それは大きな間違いだ! 

怒りに満ちたままこの世を去った人間は、
そのままの状態でアストラル界へと到着する。

その人間は、怒りが消え去るまでのあいだは、
同じように怒りっぽい人たちに囲まれて過ごすことになるのだ。
物質界で嫉妬にとりつかれていた人も、同じようなかたちで霊界へと入ってくる。

だがこの世で善良だった人は、霊界でも善良だ。
その人の場合、同じように善良な人々に囲まれて暮らすことになる。
 
あなたの人間性は、物質界で形成される。
その規模は、恐れ入るほどのものだ。
だが生命は、肉体という殻が除去されても終わりはしない。

「他人に尽くせ」というのは、とても大切な戒律なのだ。
あなたは、自分が与えたものと同じ待遇を他人から受け取ることになる。

いますぐにでも、自分の行動に注意を払ったほうがいい。
行動する前に考えるようにすれば、より賢い選択ができるだろう。

それでも、人生は存続するということを知っていれば、安心できるはずだ。
その安心がなかったら、自分の行動を逐一調べ、
一覧表でもつくらずにはいられなくなってしまうだろう。

         <感謝合掌 平成29年8月24日 頓首再拝>

古い魂と新しい魂 - 伝統

2017/08/25 (Fri) 20:10:11

第2章 因果応報~古い魂と新しい魂(P62)

魂が古ければそのぶん霊的に進歩しているという神話がある。
確かに多くの魂は、転生の数に見合っただけの、ある程度の進歩が約束されている。

だが、一度の人生でものが燃えるときには火が出るということを学ぶ人間もいる一方で、
多くの人々は人生から人生へと、同じパターンをただ繰り返している
ということも忘れてはならない。

したがって、転生の数はさほど重要ではない。
それをどう利用するかという点がポイントなのだ。
 
行動の動機こそが、魂の発展の鍵となる。
中には、運よく他の魂よりも早くこのことを学ぶことができる魂もあり、
それゆえ自己を完成させるまでに費やす物質界での人生を少なくすませる場合もある。
魂によって、その素質はさまざまだ。

私たちはみな、それぞれ自分なりの時間で学んでいくことになる。

         <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

物忘れ症候群 - 伝統

2017/08/26 (Sat) 19:04:57

第2章 因果応報~物忘れ症候群(P80~81)

確かに私たち人間のほとんどは、前世を思い出すことができない。
しかしだからと言って、物忘れ ―― 過去経験から学ばずにいること ――
をしてもいいというものではない。

過去を忘れてしまえば、あなたは再び間違いやパターンを繰り返すはめになり、
最終的にはカルマ的狂乱へと駆り立てられることになる。

差し出された教訓に立ち向かい、あなたの霊的な成長を妨げる障害物を前向きな
行動で乗り越えさえすれば、そのカルマ的パターンは変わっていくのだ。

さまざまな状況で、自分がどう感じ、どう行動したかということをおぼえて
おけば、人生をさらにスムーズに前進させるのに役立つ。

たとえば、あなたの自尊心に問題があるために、職や友人や恋人を失ってばかり
いるとすれば、あなたがその問題に面と向かい、行動を起こし、それを乗り越えない
限り、いつまでだって幸せな人間関係を築くことはできないのだ。

         <感謝合掌 平成29年8月26日 頓首再拝>

カルマ的きずな - 伝統

2017/08/27 (Sun) 19:51:22

第2章 因果応報~カルマ的きずな(P84~89)

未来の人生でも、私たちはお互いにまた知り合えるだろうか? 
友人たちがいまと同じ顔かたちをしてないのなら、
どうやって彼らを見分けることができるのだろう? 

夫とは、前世でも知り合っていたのだろうか。
 
友人や親戚は、前世でも知り合いだった場合が多い。
現世であなたの夫は、前世であなたの兄弟、あるいは叔父だったかもしれない。
 
母親は、別の人生では姉妹になることもある。
人々のきずなは、理性や感情を通り越して続く場合がある。
それらは、カルマによるものだ。

ただしそのきずなは、ニューエイジ映画の中で描写されているような、
ロマンチックで、理想的で、愛情深い人間関係ばかりだとは限らない。

(中略)

人間は、同じ外見に生まれ変わるということはまずない。
人間性とアストラル体は、霊魂がこの世に戻る準備ができたとき消滅するものだ。

霊魂に必要な教訓しだいで、性も変わる。
あるときは男性のからだが必要となるし、またあるときは
女性のからだに入らなければならないことがある。

当然ながら、もしあなたのカルマがある霊魂の母親になることであれば、
あなたは女性でなければならないわけだ。

あるいは、偉大なるテノール歌手になるカルマであれば、男性のからだが必要になる。
その点は常識で決まる。
 
ときとして、ある特定の霊魂が何度も男性としての人生を過ごしたあと、
今度は女性になる必要が生じることがある。
そうなると移行がやっかいになる場合がでてくる。

過去の人生の記憶が数多く残っていると、
その人物がとても男っぽくなる可能性があるのだ。
これは、逆の場合も同じだ。

男らしさに欠ける男性の場合、
過去に10回ほど女性としての人生を送ってきたのかもしれない。
そのために男性のからだへの移行がしっくりこないということがあるのだ。
 
また、出会ったとき、お互いにずっと昔から知り合っていたような感覚に陥る人たちがいる。
そういうときは、前世でも知り合っており、
カルマによって再会することが許されたという場合が多い。

(中略)

私たちはみな、数多くの人生を歩んでおり、その道のりで大勢の人間と出会っている。
カルマ的な理由があるときは、私たちの霊魂は再び出会うようになっているのだ。

たとえば、だれかを悲しませたり傷つけたりした場合、
あなたはその人物にもう一度対面しなければならない。
あるいはだれかに愛情や喜びを与えた場合、今度は自分にそれが与えられる。

あなたの高次の自我には、すべてがわかっている。

私たち個人の人生をつくり出しているのは、私たちの中のその部分なのだ。
この神聖なる自我が、自由を勝ち得るためにこの世へと繰り返し戻ってくる。

天国で、私たちの行動に裁決を下す別の神というものは存在しない。
私たちの行動が、自身に裁決を下すのだ。

(中略)

大切なのは、あなたがどう生きるかということ。
死後の世界であたなたに与えられる場所は、
現世におけるあなたの行動いかんで決まるのだ。

死後の世界を信じることが絶対に必要だとは言わないが、
信じることが救いになる。
信じていれば、移行がより簡単に行えるようになる。

(中略)

それぞれの人生で、私たち自身を進歩させる数多くの経験を与えられる。
人生のそれぞれの瞬間に十分に味わうというのは、エキサイティングだし、
心を浮き出させてくれる。

これは、物質界でも霊界でも同じだ。

         <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>

デーヴァシャン - 伝統

2017/08/28 (Mon) 18:48:11

第3章 愛の住みかである天国~デーヴァシャン(P92~93)

「デーヴァシャン」というのは、サンスクリット語で「天国」または「神々の地」を指す。

善良な人間は、この世での人生の合間に、「意識の状態」であるデーヴァシャンへと向かう。
その地で、この世に生まれ変わるまでのあいだに過ごす時間は、
個人のカルマによってさまざまだ。
 
デーヴァシャンでは、現世で知り合った人たちに囲まれて暮らす。
それはいわば天国のような生活なので、会いたいと思う人に会えるし、
自分のいちばんの楽しみを好きなだけ味わえる。

物質界での問題や苦しみからは、すっかり解放されるのだ。
だが、物質界に残してきた愛する人間のことを気にかけていると、
至福の状態を満足に味わえなくなる。

         <感謝合掌 平成29年8月28日 頓首再拝>

天国の概観 - 伝統

2017/08/29 (Tue) 17:44:57

第3章 愛の住みかである天国~天国の概観(P94~95)

デーヴァシャンには多くの界層が存在する。
私たちは、自身の精神的発展と人間性によって、それぞれの界層を勝ち得る。
それははしごをのぼるようなものだ。

(中略)

各界層に入ったときのことを言葉で説明するのはむずかしい。
まず、境界線であなたの愛する人たちが待ってくれているはずだ。
彼らの興奮は、あなたにも手に取るようにわかるだろう。

デーヴァシャンの美しさを、新たにやってきた人に見せるのは、一種の名誉なのだ。
とにかくその色彩がすばらしい。この世と比べると、
すべてのものが生き生きとして、あざやかだ。

霊界では、どこもみな実に世紀にあふれている。
想像してみてほしい。
衰退、病気、拒絶など、何一つ存在しない世界なのだ。
 
あちこちにある庭園は、青々として、エキゾチックで、
果てしなく広がっているように見える。

(中略)

息をのむほど美しいアストラル界の庭園には、かつて目にしたことのある
ありとあらゆる種類の花と木が満ちている。
 
霊界に流れる川の水は、澄みきっている。
その一滴一滴が、まるでダイヤモンドのような輝きを放っているのだ。
それぞれの界層は、川の流れで隔たれている。

私たちは、霊的に成長していくにしたがって、より高次の界層へと進むことになる。
界層が高次であるほど、その川の水は澄んでいく。
光の明るさも、魂の成長という名のはしごをのぼるにしたがって、
強烈なものになっていくのだ。

この成長が行なわれるのは、物質界でのこと。
物質界で、より善良な人間になれば、より高い霊界層へと移行することになる。
ここで忘れてならないのは、天国での居場所は、
私たちのこの世での行動によって決められるということだ。
 
デーヴァシャンでは、数多くの活動が行なわれている。
あなたも、あなたも、興味ある分野の活動に引きつけられることになるだろう。

たとえば、この世で職業としていた分野について、
さらに学んでいきたいという人のためには、霊の教師が存在する。
難なくその指導が受けられるのだ。
 
この世と同様、家での生活を続けたいと思う隣人たちは、
立派な家をつくり出し、そこで暮らしている。
この世で暮らした家を霊界で再現させ、そこにいると落ちつくという人は多い。

         <感謝合掌 平成29年8月29日 頓首再拝>

崇拝 - 伝統

2017/09/09 (Sat) 19:37:26

第3章 愛の住みかである天国~崇拝(P108~109 より抜粋)

霊界でも、あなたが望むなら、この世の続きとして祈りを捧げることもできる。

だが霊界に到着してみれば、たいていの人にとって、
その必要性は感じられないはずだ。

奉仕精神に満ちた人生はすべて、一種の祈りだ。
感謝を表す行動はどれも、祈りを捧げていることと同じだ。

霊界にいけば、その教派の礼拝に参加するかどうかは、あなた次第だ。
現世で通った教会や寺院のバイブレーションの中に浸るのも好む人もいるだろう。

活動の中心地に、教派は関係ない。
非常に大きな霊的施設が建っている。
そこは、だれでも受け入れてもらえる場所だ。

霊界では、それぞれの宗教ごとに、希望する人ならだれでも参加できるような、
解放された礼拝が行われている。

         <感謝合掌 平成29年9月9日 頓首再拝>

音楽 - 伝統

2017/09/10 (Sun) 17:41:39

第3章 愛の住みかである天国~音楽(P109~110)

他界した才能あふれる歌手たちは、
霊界でもその声を大いに活用している。
だから、所定の時間にはいつも何らかのコンサートが行われているのだ。

音楽家たちも、相変わらず忙しく創作活動を続けている。

作曲家たちは歌手の協力を得て新しい作品を試したり、上演したりしている。

寄付金に頼る必要がなくなったオーケストラは、
霊界で思いきり活動できるようになる。


霊界の音楽は、さらに活気にあふれ、豊かだ。
この世とあの世の音楽の違いをいちばんうまく表現する例は、
モノラルとステレオの違いだ。

         <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

地獄への旅 - 伝統

2017/09/11 (Mon) 19:37:30

 (P129)より抜粋

地獄と呼ばれる場所は、確かに存在した。

そこにいる魂は、ひどく苦悩していた。
その暗澹たるや、ほとんど計り知れないものだ。
 
「あの領域から抜け出すために、どの魂にも数多くのチャンスが与えられているんだ。
だからあの地へ行くということは、いわば自ら進んでの行動なのさ。
自分以外の力によって、地獄に落とされる人間などいない。

応報(つまりカルマのこと)の法則は、この点に関しては非常に明確に定めている。
すべての人間は、自分自身の行動によって決められた場所にいくんだ」

もっとも凶悪な犯罪者、心の高潔さを欠いた人間が、その暗黒地域の住民だ。

ほんのわずかでも良心の呵責を感じた魂は、
自らのの行動のために落とされたこ地から解放される。

地獄は、とても現実的な場所だ。
そこでは、真に邪悪な魂が、自らの罪のために苦しんでいる。

残念なことに、多くの人間が、この世(物質界)で自らの地獄をつくり出し、
過去の過ちのために苦悩を引き起こしている。
これはまったく必要のないことなのだが、よくある話なのだ。

         <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

ハイウェイ上の女性 - 伝統

2017/09/12 (Tue) 17:23:28

ハイウェイ上の女性(P134~138)

(1984年8月、霊能力のある著者は友人とドライブ中、
ハイウェイ上で一人の女性の霊を見つけたのです)
 
私は車から降り、懐中電灯の明かりを頼りに、
あの女性がいたあたりまで戻っていった。
彼女は簡単に見つかった。

私はすぐに彼女と言葉を交わせるようになった。
その女性によれば、ここで自動車事故があったのだが、
自分の子供が見つからないのだという。

ヒステリー状態だった。
自分が死んだということが、わかっていないのだ。
きっと突発的な事故で、死を受け入れる時間がなかったに違いない。
 
彼女の子供がまだこの世にいるのか、あるいはあの世にいってしまったのかは、
私にはわからなかった。
でもとにかく、彼女を物質界から何とかさらせてあげなければならない。
 
だれか助けてあげなければ、彼女はこのまま永久に、
この世とあの世の中間をさまようことになるかもしれないのだ。

(中略)
 
私は何度も、お子さんは大丈夫、そのお子さんに会うためにも、
他界しなければならないのです、ということを繰り返した
(その子供がこの世にいようがあの世にいようが、それはほんとうなのだ)。

(中略)

あきらめかけたそのとき、突然彼女の姿が消えた。
移行がおこなわれたのだ。
 
私はほっとした。2つの世界のあいだに挟まれるという状況は、空恐ろしいものだ。
そういう状態に陥る大きな原因は、突発的な出来事だ。
2つの世界に挟まれ、動けずにいるのは、この女性の霊魂だけではない。

戦場などには、撃ち殺されたことに気づかずに行進を続ける兵士たちが群がっている。
霊界行きを納得させられるまでのあいだ、彼らはそのままいつまでも行進し続ける。
 
このような哀れな霊魂たちは、死への準備が整っていなかったのだ。
心の中で死が受けつけられなかったがために、
アストラル体がこの世に縛りつけられたままになる。

そういった哀れな霊魂と話す役目を担った、特別な霊のヘルパーが存在する。
この世を去らなければならないと納得させるのには、何年も要する場合が多い。
だがヘルパーたちはあきらめはしない。
だから、やがてはそういった霊魂も、移行していくことになるのだ。

幽霊屋敷は、あの世へ行けない、あるいは行こうとしない霊魂たちの住みかだ。
その理由は、突発的な死だったり、物質界への過剰な愛着だったり、
あるいは最悪の場合、復讐のためだったりする。

さまよう霊魂すべてが、邪悪なものとは限らない。
その多くは、単に混乱しているだけなのだ。
その点は、その魂がこの世に縛りつけられる理由によってまちまちだ。

(中略)

2つの世界に閉じ込められる状況は、地獄とはまた違う。
この世から霊界へと移行するのが困難な魂が引き寄せた
意識の状態のひとつにすぎない。


地獄をいちばん正確に解釈するには、応報の法則を理解することだ。
絶対的な公平さというものが存在する。
私たちは、自ら勝ち得たものを引き寄せているのだ。
これは、霊界においても、この世においても適用される法則だ。
 
目が不自由に生まれついた赤ん坊は、この世での行為によって
そういう状況を引き寄せたわけではない。
それは、その赤ん坊の魂の試練なのだ。

この見た目には不公平に思える事柄を合理的に説明する唯一のものは、輪廻転生だ。
つまり、前世における経験がもとで生じた試練なのだ。
 
善良な人間が、悪人に善意というものを教えるために、
邪悪な人間のとなりに住むようにし向けられることもある。

私たち人間は、肉体をまとって暮らしているあいだに、
自身のあらゆる行動の帳尻を合わせなければならないのだ。

邪悪な行動が、懲罰を逃れるということはありえないし、
善良な行ないが報われないということもありえない。

どういう行ないを選ぶかは、それぞれ個人の自由だ。

         <感謝合掌 平成29年9月12日 頓首再拝>

恐怖心を乗り越える - 伝統

2017/09/13 (Wed) 20:04:32

(P138~140)

地獄に落ちるための条件は、歴史とともに変わる。
時代によって、金曜日に肉を食べる、帽子をかぶらずに教会へ行く、
(理由がなんであれ)離婚する、などという条件が、地獄へと向かう切符となってきた。

社会の道徳観が変わるにしたがって、その条件も変わってきた、

(中略)
 
宗教は、個人の選択に任されている。
だが啓発のために特定の宗教に所属する必要はない。

神の力は、私たち一人ひとりの心の中に潜んでいるのであり、
金曜日に飛行機に乗ったからといって、あるいは帽子をかぶらずに教会に行った
からといって、地獄に落とされるようなことはないのだ。
 
魂は、その運命を遂げやすいように、
カルマ的な理由によって特定宗教の信者として生まれ変わる。

私たちには、自分の信条を他人に押しつける権利はないし、
正式な宗教的訓練を受けることも、償いのために必要だというわけではない。

善良で、人の役に立つ立派な人生を歩むというのが、大きな目標なのだ ――
これは組織化された宗教に属していようがいまいが、
同じように達成することのできる目標だ。
 
霊界では、宗教による偏見や迫害は存在しない。
そういった態度は、物質界だけのものだ。

もっとも偉大な崇拝とは、ありとあらゆる生命に敬意を払い、高潔に生きることだ。
そういう生き方をすることで、私たちみんなの心の中に潜む神に敬意を払うのだ。
 
私たち人間は、自分の行動によって自らをやっかいな状況に引きずり込んでいる。
恐怖に満ちた生活もまた、私たち人間がこの世に自らつくり上げた地獄のひとつだ。
愛と理解があれば、そんな心理状態から解放される。
 
地獄に永遠に落とされるという恐怖感、
あるいは似たような抽象的な脅しから解放されれば、
自分の真の信念というものを発見し、
わけのわからない教義をやみくもに信奉することもなくなるはずだ。

そうなれば、やがては自身の絶対的な善良さを発見できるようになり、
さらに豊かで、満たされた人生を歩んでいけるようになる。

         <感謝合掌 平成29年9月13日 頓首再拝>

邪悪さ - 伝統

2017/09/14 (Thu) 18:02:16

(P140~141)

邪悪な人間は、確かに存在する。
恐ろしいことだが、事実だ。
だがその邪悪さにも、程度というものがある。

邪悪な行為を犯しながら、自責の念にさいなまれずにいる
というのが、いちばん忌まわしい。

邪悪さは一種の病気だと思っている人が多い。
極悪非道な人間の過去を心理学的に分析してみると、
幼年時代の精神的外傷とか虐待などといった要素が浮かび上がってくるという。

不幸なことだが、だからと言って邪悪な態度が許されるというわけではない。

他人に非道な行ないをすれば、
現世、あるいは来世でその報いは必ず本人に戻ってくる。

残忍、あるいは思いやりに欠けた行ないは、単に意地の悪さから出た場合もあり、
それが必ずしも邪悪だと言えないかもしれない。

だが激しい悪意をもって他人を傷つけるような行動が出れば、
それはもう邪悪な世界に一歩踏み出したということだ。

邪悪さに打ち克つもっとも有効な方法は、愛を喚起することである。

         <感謝合掌 平成29年9月14日 頓首再拝>

刺激を求める - 伝統

2017/09/15 (Fri) 20:08:43

刺激を求める(P141)

刺激への欲求は、邪悪さを引き起こしかねない。
 
悪癖に染まりきった状態で他界した場合、
物質的な刺激を求めようと思ったら、
物質界の人間に憑依(ひょうい)するしか手がない。

肉体を所有しない魂にとって、望みを満たすためには
だれかの肉体にとりつかなければならないのだ。

相伴(しょうばん)にあずかるためには、
自分のお望みの物質にふけっている人間のオーラ内に入る必要がある。

だから反対に、何かの物質に溺れ、すきを見せない限り、
だれにもとりつかれることはないのだ。

         <感謝合掌 平成29年9月15日 頓首再拝>

泥酔者への憑依 - 伝統

2017/09/16 (Sat) 18:54:38

泥酔者への憑依(P141~145)

ある晩、友人たちと一緒にナイトクラブにいたときだが、
私たちのとなりにすわっていた男性がかなりの量の酒をあおっていた。

彼のほうに目を向けると、その上を邪悪な霊がうろついているのが見えた。
その影(幽霊のような姿かたちをしたもの)は、彼の頭のすぐ上まできていた。
その人は、相変わらずつぎつぎと酒を注文しては、すぐさま飲み干していた。

やがて彼の態度が荒れてきた。
 
私は高次の存在を呼び出し、霊的保護を求めて、個々の中で祈りを捧げた。
だがその陰鬱な霊は、自分のお楽しみにすぐにでも手が届くところにいたのだ。
 
その人にもう飲むのはやめたほうがいいと言おうとした瞬間、
その霊が彼の中に入っていった。
そうなるともう手遅れだし、口を差し挟むのは危険だ。

私にできるのは、その男性を家に送り返してくれる人間をさがすことだけだった。

(中略)
 
彼が家に送られていったと知って、私は安心した。
あの霊も、彼が飲むのをやめればすぐさま離れていくはずだ。
 
この場合、とりつかれたあの男性が邪悪な人間だというわけではない。
彼は不幸なだけだ。酒に溺れてしまったがために、彼の肉体をとおして
酒を飲もうとしていた霊を受け入れやすいすきをつくってしまったのだ。

あの霊は同じナイトクラブ内をうろつきながら、
飲み過ぎの人間が現れるのを待ち受けていた。
おそらく、この世でそのナイトクラブに足しげく通っていたのだろう。

だから、霊となっても戻ってきたのだ。
彼にとって、アルコールの刺激を感じるための唯一の方法は、
アルコールに溺れている人間のアストラル体にとりつくことだったのだ。

(中略)
 
あの霊は、アルコールに浸りきっていたために、
物質界をクリアーして心穏やかに休むということができずにいたのだ。

この世に生きているあいだに悪癖を乗り越えられなかったその霊は、
アルコールに対する途方もない欲求を抱え込んでいた。

時間と、霊界のカウンセラーの助力だけが、
この世をさまよう欲求に終止符を打つことができる。

(中略)

こういった憑依現象は、悪癖に染まっている場合だけに限られる。
もちろん、この世を去った物質依存症の人間全員が、
この世に縛りつけられたままになるというわけではない。

霊界に到着すると、ほとんどの人が、自分の強い欲望は
肉体という殻とともにこの世に置いてきたということに気づくはずだ。
 
どんな悪癖にせよ、それは物質界にいるあいだに乗り越えるよう
自分に課せられた試練だということを理解するのが大切だ。
そうしなければ、解消されるまでのあいだ、
ずっとその問題を持って生まれ変わることになる。

悪癖からは、悪いカルマが生まれていく。
自分をコントロールできずにいると、他人を傷つけてしまうこともめずらしくない。
悪癖を乗り越えさえすれば、すぐにでもよいカルマが新たにつくり出されるのだ。
 
ローレンス(同じく霊能力をもつ著者の友人)が、つぎのように説明してくれた。

人間は自身の善良さによって守られているんだ。
だからすきさえ見せなければ、邪悪な霊に近づかれることもない。

霊的保護を取り除くようなものは何でも、そのすきを生み出すもとになる。
飲み過ぎ、ドラッグ、怒り、嫉妬心、バランスを欠いた欲望など、
例をあげればきりがないが、そういった事柄が、
悪い霊を受け入れられるすきをつくり、人を危険にさらす。

それに、人間は悪い霊から逃げ出すこともできない。
なにしろ、そういう悪い霊の存在には、まったく気づいていないんだから。

これは、人を偏執狂に陥れようという警告ではない ――
注意を呼び覚ますものだ。

私たち人間は、外部の力にコントロールされないよう、
自らをコントロールしなければならない。
 

悪癖というのは、必ずしも邪悪な態度だとは言えないし、
地獄に落とされるようなものでもない。
ただ、魂の望む物質が存在するこの世界にあまり執着していると、
霊界への移行が困難になる場合があるのだ。
 
同じように、自身の欲求をコントロールできなかったために――
あるいは邪悪な霊にすきを見せたために――とりつかれたからといって、
罰せられることはない。ただ、人生がひどく不快なものになるだけだ。
ただ、人生がひどく不快なものになるだけだ。

(中略)
 
この世と霊界のあいだを隔てるベールは、非常に薄い。
だから物質界への執着を断ち切れない霊は、その辺にうろつき回っている。
ほとんどの人の目には見えないが、そういった霊はすぐ近くにいるものだ。

そういう歓迎されざる力から身を守るためには、精神を強く持つことがいちばんだ。
 
邪悪な力は、善良なる力を打ち破ることはできない。
 
「真実の愛が、私たちの恐怖心をはねつける」

         <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝>

神秘の力 - 伝統

2017/09/17 (Sun) 19:36:08

(P145~149)

心霊力におもしろ半分に手を出すのは危険であるということを、
きちんと理解しておいてほしい。

心霊力には、それなりの教育を受けていない人間を
狂気の世界へと引きずりこむ神秘の力があるのだ。
 
こっくりさん、自動書記、タロットカード、マントラの呪文などの心霊術は、
身を滅ぼしかねない。

目に見えない神秘の力をもてあそぶと、
精神障害が引き起こされることがあるのだ。

前述したような心霊術は、未発達の霊、あるいは悪霊を呼び出す道具となりえる。
そういった霊魂たちは、この世のすぐ近くに住みついており、
心霊術をもて遊ぶ人間のオーラにとりつくこともあるのだ。
 
この世と霊界のあいだで交信が行なわれるということは、ほんとうだ。
賢い人間なら、その事実を受け入れはするものの、それに振り回されることはない。

超自然的な術に耽溺するということは、つまり、
物質的な人生にうまく対処することができないということで、
ひとつの危険な現実逃避である。
 
そういった危険に気づかずにいると、自分の身を守れなくなってしまう。

(中略)

物質界での生活は、私たち人間にとって、
行動の帳尻を合わせるための学びの場だ。

私たちが歩んでいる人生は、現世と前世の総合物だ。
人生で遭遇するどんな状況も、自分自身の手で招いたものである。
 
天国にいくも地獄にいくも、すべて自分次第で、もともと定められた運命ではない。
善良さも邪悪さも、自分で選択できる。

刑罰の恐怖を抑えるためには、人の役に立つ人生を送ることがいちばんだ。
 
繰り返して言うが、極悪非道な行動をとったあと、
何の反省も見られない魂だけが、
霊界のもっとも下層の世界に入ることになるのだ。

残りの人間はみな、この世で苦しみのとき、
そして喜びのときを引き寄せながら生きていく。
幸せをかみしめるときもあれば、悲しみに暮れるときもある。

そしてやがては、大いなる努力の結果、バランスがいき渡るのだ。
 
それらはみな、人生という名の、偉大なる神秘の一部なのである。

         <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

自殺の与える影響 - 伝統

2017/09/18 (Mon) 18:07:21

(P150~151)

自殺は、当人にとっても、残された人間にとっても、悲惨なものだ。
それは、耐えられないほどの精神的苦痛、
あるいは絶望感から引き起こされることが多い。

苦悩から逃げ出すためには自殺するしかないと考える人たちがいるのだ。
だが、残された遺族は、深い悲しみを感じるとともに、罪の意識にさいなまれる
―― そして、不自然な形で人生が断ち切られたことにショックをおぼえるのだ。

(中略)
 
だが、自殺は断じて認められない。
それは、魂に対する憤怒の行為なのだ。

物質界の人生を断ち切った人間は、生きることもなく、死ぬこともない。
その人の本来の死期(自殺しなかった場合に、その肉体が死ぬはずだった時期)が
訪れるまでのあいだ、魂はこの世と霊界のあいだに挟まれて暮らすことになる。

この状態――死とも生とも言えない状態――で存在するというのは、実に恐ろしいことだ。
 
結局、人生を終わらせたところで、苦しみから逃れるわけではない。
自分を殺すというのは不可能だ。
なにしろ、だれも死んだりはしないのだから。

死ぬわけではなく、かたちを変えるだけだ。
将来生まれ変わったとき、前世で自分を自殺へ追い込んだのと同じ問題が、
また生じてくることになる。

来世で繰り返さなければならないのなら、
現世でその問題に立ち向かった方が賢明だ。
 
肉体は神聖な預かりものだ。
予定より早く人生を終わらせる権利など、だれにもない。

悲劇ではあるが、自殺は同時に卑劣な行為でもある。
だれだって、肉体的あるいは精神的な苦痛、憂鬱、絶望、不治の病、
破産などといったものに苦しみたくはない。

多くの人々が、苦しいとき、あるいは生活の質が一変したとき、
自らの命を断つ権利があるはずだと考えている。

だが現世を終わらせたからと言って、どんな苦しみからも逃れられはしないのだ。
この点は、声を大にして言いたい。

         <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

ステラという女性の体験 - 伝統

2017/09/19 (Tue) 17:38:44

著者の友人のステラという女性の体験(P152~154)

私(メアリー)の知り合い(ステラ)が、重い病気にかかり、
からだの痛みにひどく苦しめられていた。
理性を失った彼女は、致死量の鎮痛剤をのみ込んでしまった。

娘がすぐに発見したおかげで、彼女は息を吹き返すことができた。
そして意識を失っていたとき彼女がいきついた場所について、私に教えてくれた。

「とても暗い場所だったわ。ほとんど真っ暗闇だった。
自分が大変なことをしでかしてしまったんだとわかってくると、
恐ろしくてたまらなかった。とにかく自分のからだに戻りたかったわ。

(中略)

娘が泣き叫ぶ声が聞こえるんだけど、どうしてもあの子のいるところへ戻れないの。
前にも、後ろにも進めないような感じだった。

私、祈ったわ。神様に、どうぞからだに戻してくださいって懇願したの。

薬をのみ込んだとき、
私は自分のしていることが分かっていなかったんですって言いながら。

想像してみてよ。
うつろな、ほとんど暗黒の空間にすわりながら、
死んでもいなければ生きてもいないっていう状態を。

しかも、自分が人を傷つけたっていう意識ははっきりしているのよ。
みんなが悲しんでいる声が聞こえているんだから」


(中略)

ステラの話から、自殺の悲惨な結果が明らかになっている。


(中略)

自殺をした人間は、地獄へいくわけではない。
自殺をする人間は、絶望し、平常心を失っているが、
意気地がないのだ。

邪悪な人間は自分の行動を悔んだりせず、地獄へ行くが、
自殺した人間は、たいていの場合ただちに後悔するものだ。

自殺した人間は、悪夢の中にいきているようなものだ。
自然死は、安らかに眠ったようだという言葉に表現される。
だが自殺者の場合、安らぎなどみじょんもない、苦悩の眠りなのだ。

自殺は地獄に落とされたりはしないが、ひどく苦しむはめになる。

死は存在しないということ、
自殺は万有の法則を破るということに気づいてほしい。
それに、いずれはこのつけを払うことになるカルマの存在にも気づくはずだ。


世の中には、臨死体験を語るすばらしい本がある。
だが自らの意志で死にかけた人が、楽しい臨死体験をしたという話は、
まだ読んだことも聞いたこともない。

自殺未遂をした人がいってきたという場所はみな、不快きわまるところなのだ。
 
それに、転生の時がくれば、前世で自らの命を絶つことになったのと
同じ状況下に生まれ変わることになる。
その試練は、物質界での経験を絶つことなく、乗り越えなければならない。

自殺は、物質界での問題を先送りした上に、
精神的な苦痛を新たに引き起こすだけなのだ。

         <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

命を断つことが許される場合はあるか? - 伝統

2017/09/20 (Wed) 19:20:50

命を断つことが許される場合はあるか?(P154~155)

より高次元の真理を守るために命を断つというのは、
勇気ある無我の行為、すなわち神の力で守られた行為だ。

たとえば、敵に捕らえられたレジスタンスのある戦士が、
何百人もの生命に関わる秘密を握っているとする。

当然、捕らえた側は彼を拷問し、口を割らせて情報を得ようとするはずだ。
だが彼が裏切りよりも死を選んだとする。
この場合、彼はより高次元の理想を守ることになる。

彼の勇気ある行動のおかげで自由が守られ、多くの人間が救われるのだ。
この行為は罰せられない。
尊ばれるものだ。

その動機は、高度に精神的なものだから。


日本の神風特攻隊は、目標を確実に担うために、
死を覚悟で操縦席から離れようとしなかった。
彼らは、国を守るためにそうしたのだ。

この状況もまた、自殺と見なされない。
なぜなら彼らの動機もまた、より高次元の理想を守ることだからだ。


もっとも、高尚な理想に動機づけられた無我の自殺行為だけが、許される。
だが、人生で行き当たる問題を避けるための自殺は、決して受け入れられない。

         <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

より大きな展望 - 伝統

2017/09/21 (Thu) 18:03:45

より大きな展望(P178~179)


私たちは、自身のカルマによってもたらされた試練に面と向かう必要がある。
そういった試練は、新しいカルマを生み出し、過去のカルマを
解き放つ機会を与えてくれるのだ。

現世におけるひとつの短い人生は、
時間という大海の、ほんの一粒の水滴にすぎない。

人間は生まれ、生き、霊界へと移っていく。
死は誕生と同じように自然なものであり、私たち人間は
できる限り自然なかたちで死ななければならない。

自然に息を引き取れば、その霊魂は静かに浮かび上がり、光へと向かう。

(中略)

問題は過ぎ去るが、心の中の神はいつまでも一緒だ。
私たちは、人生を守り、心の中の神に敬意を払わなければならない。

余命があとほんの数か月だけという状況になっても、
つぎの人生に役立つように、できる限りの知識を身に着けながら、
残された時間を過ごすべきだ。


この世に生まれ出た瞬間から、肉体は死に向かって歩き始める。
私たちが人生で行なうことはすべて、肉体が死に向かっている過程での出来事だ。
最後の息を引き取るそのときまで、私たちは人生から学び、経験を積むことができる。

人や心の中の神を愛し、仕えることができるのだ。
人生は神聖で、不思議に満ちている。
大切に守らなければならないものなのだ。
 
より大きな展望は、私たちの行動一つひとつによって描き出される。
私たちはみな、現世でどう生きたか、どう死んだかということによって、
来世を勝ち得ることになるのだ。

         <感謝合掌 平成29年9月21日 頓首再拝>

思考の世界 - 伝統

2017/09/22 (Fri) 20:05:26

思考の世界(P180~181)

霊界は、思考の世界だ。
霊界に到着したその瞬間に、あなたも思考の力を実感し、
そのすごさに圧倒されることだろう。

世に出回っている積極思考の力についての本を、
あなたも読んだことがあるかもしれない。

だが、あの世における思考の力は、あなたの想像をはるかに上回るものだ。
 
霊界についたあと、すぐに思考の動きを理解することになるはずだ。
もう肉体に制限されることもない。

この世では、まずやりたいことを頭に思い浮かべてから、
その思考を実現させるために物質的な行動をとらなければならない。

たとえば、あなたが店に行くことにしたとしよう。
その場合、家を出て、目的地まで車を走らせるか歩くかしなければならない。

ところが霊界では、どこかにいるという状況を頭に思い浮かべた瞬間、
実際にその場にいるのだ。
心と思考は一体で、チームを組んでいるようなものだ。
 
物質界での積極思考は、幸せで、充実した生活をつくり上げるのに役立つ。
ものごとを前向きに考えることによって、難問を切り抜けることができるように
なるし、それは私たちの生活の質や死後の世界にまで影響を与える。

物質界における環境は、現在の私たちの思考、行動、
そして現世に持ち込まれた前世のカルマ的状況が、すべて総合されたものだ。
 
この世で私たちが対処しなければならない状況の中には、
思考習慣とは関係なくカルマによるものがある。

だが霊界へ移行すれば、そこでの生活はもっぱら私たちの思考だけで成り立つのだ。
カルマが働くのは、物質界においてのみなのである。

         <感謝合掌 平成29年9月22日 頓首再拝>

霊界における思考の具体化 - 伝統

2017/09/23 (Sat) 17:46:38

霊界における思考の具体化(P184~186)


(1)この世で、考えたことを実現するためには、具体的、物質的手段を
   とらなければならな。

   だが霊界では、そんな必要はない。
   望むものを思い浮かべるだけで、それが実際に手に入るし、
   その願望を捨てれば、それは消えてなくなるのだ。

(2)たとえば、以前に祖母が霊界に移行しているとする。
   この世で祖母の知り合いだった人物が霊界に到着し、
   祖母の居場所を知りたいと思ったら、
   祖母に向かって力強く念じればよいのだ。

   祖母はそれを感じ取ると、今度は自分の力強い思考形態を使って、
   自分の居場所を知らせる。
   これらはすべて、一瞬のうちに起こることだ。

   そうしたら今度は祖母の知人が、祖母の居場所までどうやって行く
   かを決める。

   歩いてもいいし、飛んでいくこともできる。

(3)思考が具体化されるからと言って、霊界ではプライバシーがない
   というわけではない。

   霊界に暮らせばすぐに透視能力がつき、
   他人の思考を読み取れることになるというわけではないのだ。

   自分の考えが他人にもわかってしまうのでは、
   あまり幸せな状況とは言えない。

   実際は、物質的な行動をとたなくても、
   自分の思考の成果を目にできるということなのだ。

(4)思考形態は、瞬時に具体化する。

   得たいと思った服を思い浮かべたときには、
   あなたはその服を着ているはずだ。

   連絡をとりたいと思った人間に意識を集中すれば、
   その瞬間にもう相手からのメッセージを受け取っていることになる。

         <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

飛行 - 伝統

2017/09/24 (Sun) 20:03:43

飛行(P186~187)

霊界では、手間取ることなく瞬時に動くことが可能だ。
いきたい場所に意識を集中させたときには、もうその場所に到着している。
心がからだをコントロールしているのだ。

物質界では、からだが動くのを待たなければならない。

だが霊体と心は、一種のパートナーだ。
同時に動くことができる。

霊界に到着したての人々は、
この新しい移動方法をきちんと身につけなければならない。
心とからだの連結に慣れるまでは、多少ぎこちなく感じることだろう。

物質界と違って霊界では、思考と行動が別のものではないのである。

         <感謝合掌 平成29年9月24日 頓首再拝>

思考形態 - 伝統

2017/09/25 (Mon) 19:54:09

思考形態(P188~190)

あなたの思考すべてに ―― 霊界でも物質界でも ―― かたちがある。
訓練された霊能者なら、そのかたちを見てとることができる。
思考の強度によって、重さ、力、形態が変わってくる。

心の中をさっとかすめていくような思考は、かたちを長くとどめない。
だが、強い思考、繰り返される思考は、
色と音をともなった強力なかたちをつくり上げる。

このかたちは私たちについて回り、人生に影響を与える。

(中略)
 
ひとつの思考を長く持てば持つほど、その強度は増していく。
思考は火と同じように、ある程度そのまま放っておかない限り、影響力は低い。

長く保持された思考は、強いパターンを生み出し、
私たちのオーラを形成する。

(オーラとは、色のついた雲のような物質で ―― 私たちの思考、感情、情熱
によって生み出される ―― 私たちのからだを取り巻いている。
この敏感な大気は、感情や思考の変化にすぐさま反応し、感情の変化によって、
オーラの色も変わる)。
 
思考はそれぞれ違ったかたちで反響する。

強い嫉妬心は、それを抱く人のオーラに、
茶色がかった緑というくすんだ色を生み出す。

こういう思考を抱えていると、善良な思考があなたに向けられても、
その否定的な思考がすべてはね返してしまうのだ。

愛情深い思考は、黄色がかった色を生み出し、
そのほかの前向きな思考を引きつけやすいようにしてくれる。
 
たとえば、あなたがだれかのことを強く憎んでいるとする。
あなたはその人に、幾度となく軽蔑心を抱く。
この拒絶心は、不快な形態をとり、オーラを怒りの赤色に染める。

もしあなたがその怒りを長いあいだ抱いているようだと、
愛情深い人間はだれひとりとしてあなたに近づこうとしないだろう。
 
憂鬱な、否定的な人間と一緒にいると、
こちらまで滅入ってしまうという経験は、霊能者でなくともあるはずだ。

どうしてそうなるのかと言えば、あなたまで彼らのオーラに染まり、
カメレオンのように、否応なく彼らのバイブレーションを吸収してしまうからだ。
 
そういった否定的なパターンを打ち破ることのできる唯一の道具は、
あなたの意思の力だ。憎しみを、愛や寛大さに置き換えなければならない。
もしそれができないようなら、あなたの心がいずれバランスを欠く
ことになるかもしれない。

いずれにせよ、その場合あなたは間違いなく不幸になる。
間違った思考は、苦痛以外の何物をも生み出さないのだから。

正しい思考は、前向きな形態を生み出し、その結果、
幸せとバランスを得ることができある。
それは、物質界でも霊界でも同じことだ。

物質界では、特殊な能力を持った人以外は、
思考形態の物質的結果を待つしか、その思考形態を見る方法はない。

だが霊界においては、思考の力はもっとはっきりとしたかたちで現れ出るのだ。

         <感謝合掌 平成29年9月25日 頓首再拝>

美しい思考を保つことによって報われる - 伝統

2017/09/26 (Tue) 19:39:06


SOS(P192~193)

私も、思考についていつも注意を払っておくようにと、
(ローレンスから)警告されてきた。

「われわれは、思考を霊的レベルに保つことを目指さなければならない。
強迫観念にとりつかれた思考は、バランスと調和を欠いてしまう。
からだを思ったとおりに反応させるように訓練するダンサーのように、
思考を訓練するんだ。

これには、集中力と修業が必要だ。
自分の心に、憎しみではなく愛を、怒りや復讐ではなく
許す気持ちを思い浮かべるように命じるんだ。
そうすれば、現世も来世も、さらに向上する。」

 
霊界には産業は存在しないし、金銭のやりとりもない。
だからどん欲さや競争心の思考は存在しない。
霊体には食料は必要ないから、食べるという思考も生み出されない。

霊体は完璧な健康体なので、ダイエットや運動のことも心配いらない。
唯物論者には、味気のない世界に聞こえるかもしれない。

彼らにしてみれば、物質的喜びを追い求めない人生など想像できないからだ。
だが霊界は、知識の探求に向けられた愛の思考で、実に生き生きとしているのだ。

私たちは、美しい思考を保つことによって報われる。
物質的喜びを満たそうとする思考を持ち続けていると、傷つけられることもあるのだ。

         <感謝合掌 平成29年9月26日 頓首再拝>

思考は、とても強い影響力を持つ。それは自由を獲得するための道なのだ。 - 伝統

2017/09/27 (Wed) 17:35:33

自由(P199~201)

私がはじめて自由の力を体験したのは、まだかなり幼いころのことだった。
それ以来ずっと、私は思考の力とともに生きてきたのだった。
 
しばらくのあいだ、ほしいと思うものが何でも現れるという状態だった。
アドレス帳とか財布などといったほんの些細なものが、
頭の中で考えるだけで実際に現れ出たのだ。

ある日、「新しいアドレス帳を買いにいかなくちゃ」と思って外に出たところ、
玄関のわきに、ビニールがかけられたままの真新しいアドレス帳が置かれていた。
 
最初は奇妙な偶然だと思い、さして気にも留めなかった。
だが、こういうことが10回も起きたあとには、
私も自分の思考に注意を払うようになった。

それでわかったのだが、少しでも長いあいだひとつの考えを頭の中に抱いていると、
それが実現されるのだ。あまりいい気はしなかった。
と言うのも、何かがほしくなると、そういった思考形態が
ついつくり出されてしまうのだ。
 
この力を悪用するつもりはなくても、とにかくそれは起きてしまうのだった。
霊能力に恵まれていたということから、私の思考パターンは、
普通の人よりも強力なものだ。

だから私は、人一倍自分の考えることには注意を払わねばならなかった。
 
修行によって、私は自分の考えをコントロールする方法を学んだ。
何かものを得るために何らかの考えを頭にとどめておくようなことはしない。

常に、前向きで、建設的で、心優しい考えを抱くよう、
最大の努力をしているつもりだ。そうすれば、すべて自然なかたちで
望みのものを手にすることができる。
 
思考は、とても強い影響力を持つ。それは自由を獲得するための道なのだ。
 
物質であれ人物であれ、あるいは物質的利益への欲望であれ、
何かの強迫観念にとりつかれている場合、私たちに自由はない。

そういった均衡を欠いたものごとはすべて、
私たちのものの考え方から生み出されているのだ。

つまり、私たちがものの考え方を変えれば、
自分の人生を変えることができるということなのだ。

これは、ただ頭の中で考えさえすれば、
すべて自分の思い通りにいくということではない。

正しい考え方をすれば、自分の欲望に屈せずにすむということなのだ。
心の平穏以外、何も望まなくなる。
そうすれば、自由を手にできるのだ。
 
だが物質的存在のために、こういったものの考え方がむずかしくなっている。
私たちは常に、物質界の誘惑によって試されているのだ。
欲望は、早死に、病気、衰弱を引き起こす大きな原因だ。

霊界では、そのような一時的な物質に悩まされることもなくなると悟れば、
思考も解放されるはずだ。

(中略)

いまからでも前向きな思考パターンを始めていれば、
十分に報いられるはずだ。
ぐずぐずしていても、何もいいことはないのだから。

         <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>

人生を変える方法 - 伝統

2017/09/28 (Thu) 18:34:43

人生を変える方法(P209~213)

私たち人間は、考えを変えることで自分の世界を立て直すことができる。
霊界にあるのは、愛の力だけだ。
 
天国というのは、思考によってつくり出された愛の意識界なのだ。
私たちの世界は、私たちの思考で形成されている。
前向きなものの考え方は、常に心をいやす力を持つ。

あなたは、肉体を放棄したあとも、
ともに生き続ける思考のかたちをつくり上げていることになるのだ。
 
私たちの人生の数多くの状況をカルマが支配しているとは言え、
人生の中には考え方を改めることで変えられる状況というのもたくさんある。

(中略)

私たちはみな、正しい思考習慣を持つことで、
生活やそれを取りまく周囲の人間に、大きな影響を与えることができる。

そういった習慣は私たちとともにこの世を去り、
よりスムーズに他界するための手助けとなってくれるのだ。

(中略)
 
私たちは、現世と前世の思考を総合した存在だ。
人間は、過去の思考パターンを持ってこの世に生まれ、
それが現世における出来事の基本を形成している。

私たちは、前世から肉体を一緒に持ち込むこともしなければ、
銀行預金を持ち込むこともない。私たちが持ち込むのは、行為によって
生み出されたカルマであり、その行為とは私たちの思考習慣に
動機づけされたものなのだ。

私たちの人間性は、私たちの思考の総合なのである。
 
人間はこの世から持ち込んできた人間性とともに霊界に到着する。
 
私はローレンス(同じ霊能力を持つ著者の友人)にこんな質問をしたことがある。
「あの世へ移行するための準備としては、何が一番大切なのかしら? 」
彼の返事はこうだった。

「正しい考え方をしながら人生を歩むことで、死への準備が整うんだ。
死への準備は、寝るときの準備と同じだ。その二つには、ほとんど違いがない。
寝ているときは、この世に目覚めるけど、死んだときはあの世で目覚める。
 
心地よい眠りを得るためには、怒りや否定的な心を解き放つ必要がある。
自分に向けられた悪意も、すべて許してからでないと眠りについてはいけない。
人生の喜びすべてに感謝しないうちに、眠りにつくのもいけない。

寝る前は、自分の思考に目を向け、美しいものごとに意識を合わせるんだ。
そうすれば、目覚めがさわやかなことは請け合いだ。
寝ているあいだ、思考は力強く活動している。

そしてその力は、目覚めてる時間に、より強くなっていくんだ。

心穏やかに眠れる人間は、心穏やかに死〇るはずだ。
すべてはきみの考え方一つだよ」

*〇:ね

         <感謝合掌 平成29年9月28日 頓首再拝>

悲しみのおきて~その1 - 伝統

2017/09/29 (Fri) 21:11:17

悲しみのおきて~その1(P214~216)

(1)悲しむことは、人生で避けてはとおれない。
   悲しみはつらく、ときとして理性を失わせる。
   もう悲しみは乗り越えたと思っていても、
   予告なしに舞い戻ったりする。

(2)悲しみは、すばらしいも厳しい教師だ。
   話し合い、号泣、時間、そしてお互いの助け合いによって、
   その闘いを勝ち抜くことができる。

   悲しみは、物質界が一時的な状態であるということを
   私たちに思い出させてくれる。

   私たち人間は、必ず別れを言わなければならないのだということを、
   理解させようとしているのだ。

(3)私たちは、素直に悲しみにひたる必要がある。
   もし、寂しさ、心の傷、怒りなどを表に出さずにいたら、
   気分が滅入ってしまうだろう。

   感情は、抑えても消えることはない。
   いくら必死になって避けようとしても、
   いつかはその怒りに満ちた顔をのぞかせてしまうものなのだ。

(4)悲しみがいやされる時間は、人によってさまざまだ。
   苦悩する人を相手にする場合、辛抱強くならなければならない。

(5)多くの人が、悲しむ友人の姿を目の前にすると、
   自分など何の力にもなれないのでは、と思ってしまう。

   だが悲しんでいる人の話を聴いてあげることが、
   必ず助けになるのだ。

   人が苦しみを解き放つには、その苦しみを口に出す必要がある。
   悲嘆に暮れる友人と一緒に過ごしてあげてほしい。

   おそらく相手には救いを求めるほどの気力は残っていないだろうから、
   私たちのほうからいつでも救いの手を差し伸べられるように
   しておかなければならない。

         <感謝合掌 平成29年9月29日 頓首再拝>

悲しみのおきて~その2 - 伝統

2017/09/30 (Sat) 21:14:36

悲しみのおきて~その2(P217~218)

(6)悲しむ人と一緒にいてあげるということは、
   人の役に立てるというすばらしい機会なのだ。

   愛する人間を失い、嘆き悲しむ人友人たちと一緒にいれば、
   どうやったら人を助けられるのかということがわかってくるはずだ。
   ただ、人それぞれの場合に、微妙に応じる必要がある。
 
   中には、ただ黙って一緒にいてくれるだけでいいという友人もいるだろう。
   また、思いきり泣かせてあげたり、夕食に連れ出してあげるほうがいい
   という場合もある。

   怖がらずに、手を差し伸べてあげてほしい。
   あなたの愛情と思いやりは、とてもありがたがられるはずだ。

(7)死後の世界と輪廻転生について、深く、敬虔な信念を抱くことも、
   過度の悲しみから身を守るための強力な助っ人だ。

   霊となった知人が、私たちの嘆き悲しむ思考パターンのために
   混乱させられるかもしれないとわかっていれば、
   いつまでも悲しみにひたってばかりいてはいけないと思えるはずだ。
 
   人間だれしも、愛する人間を恋しく思うし、一緒にこの世にいられることを願う。
   たとえ永遠の別れではないとわかっていても、
   さようならを言うのは、だれにとっても簡単なことではない。
 
(8)だが、死というものは存在しない ―― かたちが変わるだけ ――
   と確信していれば、いつまでもぐすぐずと嘆き悲しんでばかりはいられないはずだ。

   友人が、生涯最良のバカンスに出かけてしまったと言って、
   取り乱したように泣きじゃくっているようなものだからだ。
 

(9)あの世を見ることができ、故人からのメッセージを受け取ることができる
   という私の才能は、自分を含めて多くの人々が他界のプロセスを理解する上で
   役立ってきた。

   その才能のおかげで、私は死に直面しても恐れを感じない。

   でもそういう特別の才能があるからと言って、
   人間的な感情を抑えきれるというものでもない。
 
   私の人生は、いままで他界した多く人たちのおかげで、
   大いに豊かなものとなった。
   彼らの思い出は、いつでも昨日のことのようによみがえってくる。

   彼らという存在のおかげで、人生がよりすばらしいものになった。
   私は、彼らへの感謝の気持ちを表すつもりで、自分の人生を懸命に歩んでいる。

   自分がそうされたいと思うようなかたちで、友人たちの他界に対処している。
   彼らを恋しく思い、涙を流したあとは、あの世へと旅立たせてあげる。

   恋しがられるというのは、一種の賛辞だ。
   それは、自分が人の人生に影響を与えたということなのだから。

   だが、私の不滅の魂に対して、時間とエネルギーを費やして
   悲しんでばかりいられたら、私のほうも心が痛むはずだ。
 
   他人に尽くすという行為は、悲しみをいやすにはとても効果的な薬である。
   恋しく思う人間を物質界に連れ戻すことはできないが、
   他人を助けることで、彼らの思い出に報いることはできる。

   自分の人生を歩み続けるというのは、
   故人に対する忠実心に欠けていることにはならない。
   普段の生活を続けながら、愛する人間の思い出に誠実であることはできるのだ。
 
(10)死は、一時的な別れである。
   愛する人間とは、いつかまた会える。

   私たちは、人生への情熱を通じて、
   愛する人間の思い出をいつまでも大切にしておくべきだ。

   この世で過ごすそれぞれの瞬間が、だれかを助けるための機会となる。

         <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>

悲しみのおきて~その3 - 伝統

2017/10/01 (Sun) 20:06:41

悲しみのおきて~その3(P222~226)

(1)多くの人間が、物質的利益を求めてあがきながら生き、そして死んでいく。
   私たち人間は、大急ぎで人生を駆けめぐる。

   人は、生きるために働かなければならない。
   だが、バンランスをとることも考えなければだめだ。
   人生はあっという間にすぎていくような気がする。
   なぜなら、みな人生を味わうには忙しすぎるからだ。

   だから、いざ死の床についたとき、多くの人間が悲しみ
   後悔を感じてしまうことになる。彼らは、自分が
   人生の中で下した選択を、悔やみ悲しんでいるのだ。

(2)日々の要望に追い立てられていないときは、
   人生がもっと単純なものに見えるのだ。

   不安におそわれることもなければ、楽しむこともできる。
   経験を楽しく味わい、人生の失われた神秘が少しは回復できるのだ。

   人生が与えてくれるありとあらゆるありがたみを、
   先送りしてはならない。

(3)人生では、働くということは確かにひとつの大切な要素ではあるが、
   金銭や権力を追い求める情熱は、結局は恐ろしいほどの
   空虚感しか残さない。

   富への渇望は、人がくつろぐ時間を奪い去る。

   現代人がかなりのエネルギーを費やして金銭をかき集め、
   必要のないものを手に入れようとしているというのは、悲しいことだ。

   質素な生活のほうが、幸せになれるのに。

(4)人生の質素な楽しみには、金などほとんどかからない。

   残念なことだが、ほとんどの人間は、零下に入ってから、
   あるいは霊界に近づく時期になってからはじめて、
   この事実をにんしくすることになるのだ。

         <感謝合掌 平成29年10月1日 頓首再拝>

悲しみのおきて~その4 - 伝統

2017/10/02 (Mon) 18:31:53

悲しみのおきて~その4(P231)

変化

死は、この世を去った人間にも、この世に残された人間にも変化をもたらす。

ほとんどの人間にとって、変化というのは受け入れ難いものだが、
私たちをより強くしてくれることもあるのだ。

自然は、進歩のよどみを許さない。
変化させることで、成長の機会を与えているのだ。

死は、究極の変化だ。

私たちを、よりすばらしい、平和な世界へと送ってくれる。

私たち人間は、変化のために常に身構えているわけではない。
だから、変化が訪れたとき、すきを突かれたように感じるものだ。
人生に満足しきって、変化を受け入れられないようではいけない。

だれもが、避けてはとおれない変化を受け入れ、
与えられた機会に前向きに取り組まなければならないのだ。


死は、とても神聖な出来事なのだ。
死は、霊界への生まれ変わりを意味する。
死は、「故郷」へ戻ることなのだ。

         <感謝合掌 平成29年10月2日 頓首再拝>

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