伝統板・第二

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幸福の筐を開く④ - 夕刻版

2017/08/04 (Fri) 21:12:02

    *伝統板・第二「幸福の筐を開く③」からの継続です。
           → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7564514

《幸福への精神的導火線》

       *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P195) より

あなたの受くべき運命を「最高」のものとして想像せよ。
而してその「最高なるもの」が自己に近づきつつあると信ぜよ。

毎日毎日自分は一層幸福になり、一層健康になり、
一層繁栄に向かいつつあるのだと信ぜよ。

この明るい精神の根本的態度が
あなたを今よりもいっそう幸福に健康に繁栄に導く、
精神的導火線を築くことになるのである。

毎日毎日神の最高の智慧が自分を導くのであると信ぜよ、
かく信ずることによってあなたの精神は一層多く神の智慧に波長が合い、
神の智慧を一層完全に受信することができるのである。


神と自己との分離を想像してはならない。
つねに神とつながり、神に護られている自覚を持っていなければならない。

自分自身を自分の想念によって自己縮小してはならない。

常に「自分は神の子である」と云うことを黙念して自覚を強め、
もって、自己強化をはかるべきである。


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「幸い (475)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=137     

(2)「光明掲示板・第ニ」内スレッド「幸福 (10773)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2071

(3)光明掲示板・第三「幸福 (85)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=42

(4)光明掲示板・伝統・第一「幸福への出発」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=17

(5)伝統板・第二「幸福の筐を開く①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6493420

(6)伝統板・第二「幸福の筐を開く②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6840845

             <感謝合掌 平成29年8月4日 頓首再拝>

《物質文明における見せかけの幸福》 - 伝統

2017/08/10 (Thu) 19:29:36


        *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P190) より

物質文明が発達して来るにつれて、人間は幸福になるかと思うと、
だんだん人間は噪音(そうおん)になやまされることになった。

飛行機が発達して速力は迅(はや)くなってきたけれども、噪音は愈々はげしい。
最早、防音設備のない部屋では、静かなる録音が出来ないようになっている。

 
では音速以上の飛行機にのってでも旅行したら、
音を彼方へのこして置いて走るから噪音は聞こえないかと云うと、

音の壁を破る時の飛行のショックが大変なものであるし、
他の飛行機からの噪音も聞こえてくるし、自分の起こした噪音は
目的地に達して若干時の後に追いかけて来るから噪音を逃れる道はない。

原水爆は論(い)うに及ばず、物質文明は今や人間に幸福と見せかけて
不幸を与えようとしつつある。

若しこの文明を霊的に導きによって調節することがなかったら
人類は破滅に近づきつつあるのである。

             <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

絶えず不幸を見出す人になるな - 伝統

2017/08/12 (Sat) 21:01:58


           *「生活読本」より

貴方は世界に対して、良きものを支払っていますか。
微笑みを支払っていますか。悲しみを支払っていますか。

微笑みを支払っているならば、微笑みが周囲からやって来るでしょう。
悲しみを支払っているならば、悲しみが周囲からやって来るでしょう。

大体は、「今日は楽しくない」と思う習慣のある人は
常に楽しくないことに取りまかれるでありましょう。
そう云う人は、天気が曇りであると云っては鬱陶しいと云い、
雨が降ると、ジメジメして気持ちが悪いと云い、晴れていると暑苦しいと云う。
何が来ても不平を云い、面白くないと云う。

御飯が固いと云っては小言を云い、柔らかければお粥のようで不味いと云う。
そして絶えず小言を云っているうちに自分の性格がそこなわれ、
人からは嫌われ、世の中のすべての物は面白くなくなります。

その反対を行いなさい。世の中は屹度幸福になります。
雨が降ったら「ありがたいお湿りです。これで水力電気が沢山とれます。
畑の作物が喜びます」と云いなさい。
曇っていれば「今日の天気は落ち着いていて宜しい」と云いなさい。

晴れていれば「まことに朗らかな快晴で結構です。気分まで晴々します」
と云いなさい。この通りに云わなければならぬのではありません。

何でも好い方面を見て、褒めたり感謝したりするようにしていますと、
終いには、ほめたり感謝したりすることばかりがあなたの周囲に集まってくる
ことになるのです。

   (http://michie-h.jugem.jp/?month=201106 より複写)

             <感謝合掌 平成29年8月12日 頓首再拝>

【呼べばやってくる】 - 伝統

2017/08/16 (Wed) 18:42:46


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月12日(」より

   (精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…)

   《幸も不幸もない。 要は心の持ち方一つなのだ。》(シェークスピア)“斎藤茂太”


   何でも他人のせいにする人がいる。
   それを「他罰(たばつ)」と言うが、

   晩年、生きがいもなく、孤独になり、わが身の不幸をかこつ人が
   現役時代にいかなる生活を送っていたかを調べると、
   他罰傾向が強く、すべてを不幸と結びつけていることがわかった。


   私もこの頃「失敗」が増えた。

   つい先日、羽田空港の公衆電話の上に帰りの航空券を忘れた。

   私は大喜びで「自分史」の老化への過程の中に書き加えた。


   「失敗は成功のもと」とつぶやきながら。

         <『心を豊かにする100の言葉』PHP>

            ・・・

時実新子(ときざねしんこ)さんにこんな言葉がある。

「太郎を呼べば太郎がくる」

これは、時実さんが祖母から教えてもらった言葉だそうだが、
「不幸を呼べば不幸がくる。幸せを呼べば幸せがくる」という意味だという。


我々は日ごろ、色々なものを呼んでいる。

グチや不平不満・文句とかを言っていれば、
グチや不平不満を言いたくなるような状況がやってくる。

つまり、グチや不平不満を呼んでいる。

ツイてるとか、うれしいとか、楽しいと言っていれば、
運や、うれしいこと、楽しいことがやってくる。

つまり、運や、うれしいこと、楽しいことを呼んでいる。


すべての今起きている現象は、自分が呼んだからやってきている。


「幸も不幸もない」

世の中には、「幸」という現象も、「不幸」という現象もない。

自分がある現象を見てそう感じただけ。

つまり、「幸せ」を呼べば「幸せ」が来る。

だからこそ、「呼ぶ」ことが大事。


いいことも悪いことも、呼べばやってくる。

どんなときも「幸せ」を呼ぶ人でありたい。

             <感謝合掌 平成29年8月16日 頓首再拝>

幸福を得るための3つの原因 - 伝統

2017/08/18 (Fri) 19:05:19


         *「神と偕に生きる真理365章」(P203)より

「すべて大成功をおさめた人達は因果の法則を巧みに利用した人々である。

彼らはすべての事物は原因があって結果を生ずるものであって、
決して単なる僥倖(ぎょうこう)によって来るものではなく、
法則によって生ずるのだということを信じたのである。

事物の”初め”と”終わり” ―― 原因と結果とを結んでいる連鎖は
一つの環(わ)であって弛(ゆる)んだり切れたりするものではないことを
彼等は知っていたのである」

これは光明思想の幽祖ラルフ・ウォルド・エマソンの言葉である。

その”原因”というものを分類すれば、3つに分かつことができるのである。
一つには“言葉の力”である。二つには“心の力”である。三つには“行動の力”である。
言葉と心と行動とが、希望実現のために歩調を合わせて前進するとき、
成就しない希望はないのである。

             <感謝合掌 平成29年8月18日 頓首再拝>

あなたが現実に幸福になるために - 伝統

2017/08/23 (Wed) 19:33:36


       *『如意自在の生活365章』(P80~81)より

神はあなたに既に幸福を与え給うているのである。

それが現象界にあらわれると、あらわれないとは、あなた自身の“心”が、
その既に与えられている祝福に同調するか否かの問題である。
つまり、あなたの心境の問題である。

既に与えられている幸福を現実化するか否かは、
既にビデオテープに録画されている光景を
テレビセットに上映するか否かの問題である。
上映とは“与える実践”である。


神から既に“与えられているもの”を受けとるには、
こちらが先ず人に“与える”という実践をするとき、
“神の与え給う心と人間が人に与える心”とが
同調して波長が合うということになるのである。

             <感謝合掌 平成29年8月23日 頓首再拝>

今日、何かいいことあったかい?  - 伝統

2017/08/25 (Fri) 20:06:10


        *メルマガ「人の心に灯(2017年07月25日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   私はお弟子さんに会うと、必ず最初に言う言葉が決まっています。

   「今日、何かいいことあったかい? 」


   いつも楽しい話が聞きたくてたまりません。

   そして私自身は何が起きても楽しい。

   仕事も楽しいし、人生も楽しい。

   風邪をひいても楽しいし、雨が降っても楽しい。


   私をよく知らない人は、

   「一人さんはお金持ちになったから楽しいんですよ」

   と言いますが、お金持ちになったから楽しいんじゃないんですよ。

 
   楽しいからお金持ちになったんです。

   順番が逆ですね。

   私はお金持ちになる前からずっと楽しかった。


   たとえば身近な人に不幸があったとしても、ふつうの人は死んだら
   人生が終わりだと思っているけれど、私は何回でも生まれ変わると
   信じているので、そんなに悲しくはない。

   村芝居みたいなもんで、今世は親子として出会ったけど、
   次に生まれ変わったら兄弟になっていたり、結婚相手だったり、
   おもしろいんです。

   そう思っている私は、人が亡くなっても、
   また会えると思っているのでそんなに悲しまなくてすみます。

   それから自分の人生の舵は自分で握っていると思っているから、
   人生をどうにでもできるのも楽しい。


   私は人生を映画だと思っているんです。

   自分が監督で自分が主役。

   喜劇にするか、悲劇にするか。

   どんな映画、つまり人生にするか、私の自由だと思っているから
   楽しくてたまりません。


   思い通りにならないことが起きたら、

   「どうしたら思い通りになるのか」

   と考えるのが楽しい。

   私という存在自体が楽しいんです。


   だから悪い方角もクソもない。

   西に行こうが東に行こうが、私がいるところが楽しい。

   北海道が楽しいんじゃなくて、北海道に私がいるから楽しいんです。

   そうやって楽しく生きていれば、友だちができないとか、
   人間関係が続かない、という悩みが起きるのが不思議になります。

       <『斎藤一人 変な人が書いた人生の哲学』PHP研究所>

             ・・・

米国の教育学者ピーター・クライン氏が提唱した、
グッド・アンド・ニュー(Good & New)という組織活性化の手法がある。 

直近24時間以内の「良かったこと」もしくは「新しいこと」を
皆の前で発表するのだ。 

校内暴力が多発し、無法地帯となったアメリカの学校で
この「Good & New」を使うことにより、
短期間で安全な環境に変えたことで有名になった。


毎日、グッド・アンド・ニューを発表すると、参加者は発表のためのネタ探しをする。

すると、「良かったこと」や「新しいこと」に焦点(しょうてん)を当てる生活が始まる。

つまり、斎藤一人さんが、「今日、何かいいことあったかい? 」
とお弟子さんに聞くのと同じことだ。


楽しいことを毎日の中で見つけるのが上手な人は、毎日が幸せで楽しい。

嫌なことや苦しいこと、つまらないことを日常の中で見つけるのが
上手な人は、毎日、不平不満やグチ、文句を言って暮らす。


「今日、何かいいことあったかい?」

良かったこと、楽しいことを見つけるのが上手な人でありたい。

             <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

”報い”は法則がするのである - 伝統

2017/08/29 (Tue) 17:47:46


           *「女は愛の太陽だ」(P182~183)より

自分に属しないものを得ようと思ってはならないのである。
一時、それが自分の《もの》になっているように見えていても、
奪った《もの》は必ず奪い返されることになるのである。

それは”因果の法則”即ち原因結果の法則なのである。

一時、50万円を《くすね》て”得した”と思っていても、それは奪い返されるし、
ひとの夫(男子)を奪っていた女は、自分の”男の子”を奪われるし、
因果はめぐるのである。

吾々は幸福になろうと思ったならば、ひとに”幸福”を与えるようにするならば、
それは必ず自分の”幸福”として返って来るのである。

”報いを求める”心でする必要はないのである。

それは”法則”が行なってくれるのであって、
ビルの7階から《何か》を無理に人間が突いてやらなくても、
法則によってそれは必ず下へ堕ちて行くようなものである。

             <感謝合掌 平成29年8月29日 頓首再拝>

【幸せとは、すでに幸せに囲まれていることに気がつくこと】 - 伝統

2017/08/31 (Thu) 20:47:37


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月22日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   本当の幸せというのは、何かを想定して、
   それが手に入ったから幸せなのではありません。

   幸せとは、すでに幸せに囲まれていることに気がつくということなのです。

   今幸せなことに気がついたら、悪魔さんは一番困るのです。


   そして、その足りないものが手に入らないから不幸だと思い、
   どうして手に入らないのかと人の悪口を言い、
   政治や教育が悪いと文句を言うのです。

   こうしたことを言っていると幸せはやってきません。

   そもそも悪魔さんは
   幸せがその人に満ち足りてこないようにしたいからです。

   今自分のおかれている状況に満足しないことは、不平や不満と紙一重なのです。

   「ほしいものが手に入らないから不幸なんだ」

   「もっともっと努力しないと幸せにはなれないんだ」

   と思うことは、悪魔さんの陰謀かもしれないのです。


   朝起きて、目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、
   ご飯が食べられること、今この瞬間が幸せだと思える人に、
   悪魔さんは手を出すことができません。

        <『ありがとうのすごい秘密』中経出版>

              ・・・

小林正観さんはこう語る(本書の中で)。


「悪魔さんが一番手を出せない非常に困った存在は、
今の普通の状態を『幸せなのよね』と言ってる人です。

なぜなら悪魔さんは幸せを知ってしまった人には手を出せないからです。

私たちは、ありとあらゆることに恵まれているので、
その恵まれていることに気がついたら
『ああ私は本当に恵まれてこの世に生まれてきたんだ。本当にラッキーでついてる』
と思えるわけです」


やっかいなことに、多くの人たちは、
病気になったり、入院したり、会社の業績が悪化したりしないと、
今まで過ごしていた当たり前のような日常が、どんなに幸せだったのか気づかない。

幸せがなくなってみて初めて気づくのだ。


すごい大イベントが成功したとか、人生の一大事が決まったというのもよいが、
それだけを幸せの目標にすると、他に日常無数に起きている幸せに
気づくことができない。

幸せには大きいも小さいもない。

幸せかどうかは、幸せに気づける人か、気づけない人かの違い。


「幸せとは、すでに幸せに囲まれていることに気がつくこと」

目が見えること、耳が聞こえること、歩けること、ご飯が食べられること、
今この瞬間が幸せだと思える人でありたい。

             <感謝合掌 平成29年8月31日 頓首再拝>

人生を幸福にするところの秘訣 - 伝統

2017/09/02 (Sat) 18:31:16


         *「幸福の哲学」(P49)より

天地に満つる神の絶対愛を感じ得たら、
その人は詩人であり、その人は哲人であり、その人は宗教家であり、
その人の住む世界悉く天国浄土になるのでございます。

吾々はこの世界が未だ天国浄土でないことを嘆いてはならないのです。
自分の心の眼(まなこ)を開かない事をこそ嘆くべきであります。
心の眼だに開かば蕨(わらび)1本でさえもそれが天国でございます。

その時こそ「われ全てのものを新たにするなり。古き天と地とは過ぎ去り」
今迄功利的ばかり見ておった事物の価値は顛倒してまいります。

そこに「舊き天と地とは既に過ぎ去って」
新たなる天地が湧出して来るのであります。

人生を幸福にするところの秘訣はここにあるのであります。

         <感謝合掌 平成29年9月2日 頓首再拝>

如何に見るかと云うことで、人間の幸不幸が定(さだ)まる - 伝統

2017/09/03 (Sun) 18:28:37


        *「真理」第9巻生活篇(P62)より

人間には仮相と実相とがあります

あらゆる不幸からのがれる道は、実相の完全さを見ることであります。
「実相」とは、神の造りたまうた実(じつ)の相(すがた) ――
そのままの相(すがた)であります。

人間には実(じつ)の相(すがた)と仮(かり)のすがたとがあるのであります。

肉眼に見えるのは現象すなわち、現れて見える象(かたち)でありまして、
見る角度によって、どのようにも見えるのですから、
これは仮の相(すがた)であります。

その仮の相(すがた)がどのように見えましても、見えるそのままが
彼の実相ではありませんから、「そんな悪い相(すがた)は本来無い、
彼は本来は完全である」と悪を打ち消して、善なる実相(じっそう)を
みつめるようにするのです。

現象界には見る人の心の姿が反映するのですから、
如何に見るかと云うことで、人間の幸不幸が定(さだ)まるのです。

人間を霊的実在として、神の子として、本来完全であるとして見ることにし、
互いに拝み合うようにするとき、見られる通りの完全な世界と人間とが
あらわれて来るのです。

         <感謝合掌 平成29年9月3日 頓首再拝>

《神に選ばれた生活の選手》 - 伝統

2017/09/05 (Tue) 20:32:51


    *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P213~214) より

神が自己に与えたまうた天分を最高度に発揮すべく毎日毎日を決意し、
実践しなければならないのである。

今、与えられている仕事に自己の全精神力と体力とを集中すべきである。
その時人間は幸福感を得るのである。

たとえばオリンピックの選手が全力を尽くしているときには一切の自我が無くなって
ただ、その競技にのみ全生命がそそがれているようにである。
選手にとっては、その競技に全心身を集注しているときが無上の幸福感の時なのである。

人間が地上に生まれたのも、
地上で或る使命を果すために選手として選ばれたのであるから、
その全力を出し切っているときに本当の幸福感が来るのである。

人生に悦びがないなどと思っている人は、
全生命を出し切らないから生命がスランプに陥って、
幸福感が湧いて来ないに過ぎないのである。

         <感謝合掌 平成29年9月5日 頓首再拝>

毎日毎日、健康と幸福とを宣言しましょう - 伝統

2017/09/07 (Thu) 19:40:24


        *「真理」第9巻生活篇(P88)より

毎日々々が勝利の日である。
毎日々々が健康の日である。

昨日(きのう)までの日が勝利の日でなくても、
昨日(きのう)までの日が健康の日でなくても、
すでにこれらの日は済んだのである。

今日は完全に神から与えられた「勝利」と「健康」とを
素直に受け取れば好いのである。

日取りの好し悪しを言ってはならない。
すべての「日」は神の与えものである。

神が、あなたの健康のために、
神が、あなたの幸福のために、愛するために、喜ぶために、
あなたにすべての「日」を与えたまうたのである。

もしあなたが健康でないならば、若しあなたが幸福でないならば、
あなたは愛行が足りないか、今与えられている賜(たまもの)を見て
歓ぶことが足りないのである。

空気を日光を水を、家を食物を大地を、あなたがつくらないのに、
こんなにも色々のものを与えられているのに、
何故(なぜ)歓ばない人があるのか。

与えられたものを先ず受けて喜ぶことから幸福と健康とは来るのである。

         <感謝合掌 平成29年9月7日 頓首再拝>

幸も不幸もない。そう思う心があるだけ! - 伝統

2017/09/10 (Sun) 17:36:08


       *Web:本質編 小林正観さん的生き方のエキス(2015-07-19)より

先週までの雨が嘘のように思えます。
道端で会う人と先週までは『よく降りますね~』というご挨拶が
今週は『暑いですね~』に一転しました。

さて、『よく降りますね~』のあとに『もう洗濯物が乾かなくてさ~』とか
『暑いですね~』のあとに『もう嫌になっちゃうね~』って言う人多いですね。

それは何気なく、悪気なくの言葉だったり、
貴方も大変ね~という気遣いの言葉だったりするのかもしれませんが、
ぜひそれをやめませんか?


言葉は人生を変えます。

何気なく言った一言が自分の気付かない所で、
人生の方向性のベクトルを変えてしまうほど、言葉には力があります。

例えば『今日も暑いね~』のあと、『こりゃビールが美味しいわ!』だったり、
雨が降ったら、『今日は日焼け止めクリーム塗らなくてすむわ~』と、
幸せ言葉に変えてみませんか?

それを聞いた相手ももちろん、それを言った自分はもっと幸せになれます。


『暑い』という事実は一つ。
それを『もう嫌だなあ、まいったな~』ととらえてしまうのか、
それとも『ビールが美味しい!』『楽しい夏が来そうだな』と思うか、
それは貴方の心次第。

事実には幸も不幸もないのだから、自分が幸と決めてしまえばいい。

そして何気なく使う言葉は耳に響き、脳に響き、最後に心に響き、
知らない間に自分の人生の方向性を決定します。

ぜひ幸せ言葉に変えて、感謝と喜びに満たされる1日をお過ごしください。

今日1日皆様が笑顔でお幸せでありますように。

http://blog.goo.ne.jp/mg2sanmai/e/50235e9c208014dba7311757fc9fa95b


            <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

明るい表情は幸運を引き寄せる~その1 - 伝統

2017/09/16 (Sat) 18:57:12



         *『白鳩』(昭和49年1月14日の箴言)より

   『信仰の科学』の61頁には
   『憂鬱と悲観に曇った気持は感染するのである。
   暗い表情は全て暗い影を投げかけるのである』 
   と示されているのである。

   あなた達は常に、明るい微笑を頬に湛え、希望と愛とに輝く
   瞳をもって人々に対するようにしなければならない。

   生長の家の練成会は〃心の訓練〃によって健康を増進し、
   運命を好転し、事業を繁栄に導き、家庭に調和を実現するための
   〃練成〃を目的とするのであるけれども、
   「笑いの練習」という表情を明るくする練習があるのである。

   〃明るい表情〃 〃ニコヤカなる微笑〃 〃憂鬱を吹きとばす哄笑〃 
   というものは、肉体の表情の訓練であるけれども、
   「類は類を引き寄せる」という法則によって、
   その人に明るい運命を引き寄せることになるのである。

   冷たく固い表情をもちつづけて一生涯一度も笑ったことのないような人は、
   表現すべき感情が、鬱結内攻してしまっていて、その結果、その感情の
   鬱結の‘かたまり’を生ずる腫瘍又はそれに類似の病気
   を引き起こすこともあるのである。


            <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝>

明るい表情は幸運を引き寄せる~その2 - 伝統

2017/09/17 (Sun) 19:38:09


   《表情は〃心の世界〃に種を蒔く》

         *『白鳩』(昭和49年1月15日の箴言)より

   〃憂鬱の表情〃をしていると、本当に自分の〃心〃そのものまでも
   憂鬱に閉ざされることになり、そんな表情を常にもって人々に接して
   おれば、人々にその憂鬱を感染させて人々を不幸に引き摺り込むこと
   になるのである。

    「行動」としては、その人は何も他の人を害していないように
   見えているけれども、〃心の世界〃に於ては、その人は周囲に対して
   不幸の種を蒔き、精神的公害をひろげつつあるものなのである。

   ニコニコした表情をしている者は、ただそれだけでも周囲の人々を
   幸福にし、周囲に対して善き〃心の種〃を蒔きつつある者なのである。

            <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

明るい表情は幸運を引き寄せる~その3 - 伝統

2017/09/18 (Mon) 18:08:58


   《表情による運命の改善》

         *『白鳩』(昭和49年1月16日の箴言)より

   「ジェームズ・ランゲの法則」という心理学上の法則がある。
   
   「人間は〃可笑しい〃と笑うけれども、笑うからおかしくなる」
   という学説である。

   それ皆さんは実験して御覧になるがよい。
   ある感情が起れば、その感情通りの表情を人間はするものであるけれども、
   先ず〃ある表情〃を肉体の顔面にしてみれば、
   その表情にふさわしい感情が起こってくるのである。

   例えば、先ず眉をしかめて、暗い表情をしてご覧なさい。
   心までも何だか暗い気持になることがおわかりになるでしょう。

   眼をいからして、唇を〃へ〃の字に曲げて
   怒った表情をわざとして御覧なさい。
   何となく〃怒っているような気持〃が起って来るでしょう。

   不幸に沈み切ったような表情をすると、
   実際、〃心〃までも沈み切ったような気持になるのです。

   そして皆さんの運命や生活状態は〃唯心所現〃の原理に従って、
   その表情の通りの暗い運命や、沈衰した生活を
   しなければならないようになるのです。

   だから〃表情〃ぐらいはと軽視してはならないのです。
   あなたの不断の表情が常にあなたの運命を形成しつつあると共に
   周囲に対しても、明暗どちらかの運命の種を蒔きつつあるのですから、

   皆さん、今年からは、一瞬一秒といえども、暗い表情をしないで、
   明るい表情をして生活を改善しましょう。


            <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

明るい表情は幸運を引き寄せる~その4 - 伝統

2017/09/19 (Tue) 17:42:20


   《明るい表情の美徳》

         *『白鳩』(昭和49年1月17日の箴言)より

   『生命の實相』の〃聖詩篇〃に明るい表情の美徳を讃えた
   「光明と暗黒」と題する詩がある。


      君は絶えず暗黒を撒いて歩く
      不快な人間を見たことはないか、
      君は眉をひそめた
      悲しい表情の人々に接したことはないか、
      君は表情が、
      どんなに伝染力の強いものかを
      経験したことはないか。


      悲しい表情をした人間は
      悲しみを撒いて歩く、
      不快な表情をした人間は
      不快を撒いて歩く、
      それは黴菌を撒いて歩くよりも
      尚大きな罪悪である。


      また君は絶えず光明を撒いて歩く
      愉快な人間を見たことはないか。
      君は絶えずその唇に
      幸福な微笑をただよはし、
      逢ふ人毎に
      幸福をうつして歩く人間を見た事はないか。
      君は表情が
      どんなに伝染力の強いものかを
      経験したことはないか。


      君は与へるもがないことを
      歎いてはならない。
      君は与へるものがなくとも
      幸福な表情を与へることが出来るのだ。  (下略)

           <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

明るい表情は幸運を引き寄せる~その5 - 伝統

2017/09/20 (Wed) 19:24:21

   《常に心に太陽をもつ生活》

         *『白鳩』(昭和49年1月18日の箴言)より

   『生命の實相』の〃生活篇〃に
   「日時計主義の生活」と題する一章がある。

   それには「吾れは太陽の輝く時刻のみを記録す」という標語が
   掲げられているのである。

   その一節を、みなさんが、
   新年を迎えるに当っての心構えの参考にして頂くために
   茲に引用させて頂く。


   「諸君よ、吾々は、輝く太陽の日のみ記録する日時計
   〈注、太陽時計ともいう〉のようになろうではないか。
   悲しみをいつまでも心にためて置いて何の得る処があろう。

   損失をいつまでも思い出して何の利益する処があろう。
   失敗をいつまでも後悔しても世の中は益されはしないであろう。
   すべてこれらは人生の出来事中の滓である。

   滓に何時までも執着するな。
   滓を捨てよ。
   盗人を追い出すように滓を心の外に捨てよ。

   吾々の心は滓よりも高貴なものだということを知らねばならぬ。

   『若し、諸君が不快な考えに捉われるような事があるならば、
   若し諸君が他の人に対して憎しみや、怒りや、嫉妬や、復讐を
   感じるような事があるならば、

   諸君は自己の心の中に盗賊が忍び込んで
   幸福のダイヤモンドを奪おうとしているのだ
   という事を自覚しなければならぬ。

   諸君は靴を一足盗みに這入った盗賊でも逐い出すではないか。

   それだのに心の中にあなたの最も高貴な幸福のダイヤモンドを
   盗みに這入った盗賊をば何時までも何故歓待しようとするのであろう
   (下略)』 (『生命の實相』第七巻30頁)
 


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

            <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝>

【幸せな人生を送りたいのなら】 - 伝統

2017/09/27 (Wed) 17:18:02


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年09月26日)」より

   (精神科医、ゆうきゆう氏の心に響く言葉より…)

   マレーシアの心理学者であるマンショーらは、
   1000名以上のビジネスマンを対象にして、
   どんなときに仕事へのモチベーションが高まるかを調べました。

   その結果、「その会社を好きである」というときに、
   仕事へのモチベーションがもっとも高まることが分かったのです。


   仕事にやりがいがあるとか、社会的意義があるとか…。

   そういうことも重要ですが、もっとシンプルに、「その会社が好き」。

   これは何より大切なことなのですね。


   「愛社精神」という言葉があります。

   まぁ、多少時代遅れな感じのある言葉ではありますが、
   それでも心理学的に見ると、非常に大切なことなのです。

   たとえばあなたが会社を経営しているのなら、
   部下に「もっとやれ!」「もっと頑張れ!」と言うのではなく、
   まず一番に、自分の会社を好きにさせること。


   方法はいろいろとあります。

   たとえば、その会社の仕事によっては、
   喜んでくれた顧客の感想を、会社内に張り出してもよいでしょう。

   それだけでも、仕事をしている人は、顧客の顔が見えた気になり、
   自分の仕事や会社にたいして誇りを抱きます。


   またはシンプルに、誉めてもいいでしょう。

   自分の仕事によって誉められることは何より嬉しいことですので、
   ひいては今の仕事などを好きになる可能性もあります。

   また何より、あなた自身が好かれることにもなりますので、
   結果的に会社への愛も強まるはず。

   そうなれば、仕事の効率だって上がるはずです。


   これはあなたが上司であっても、やはり同じです。

   上司に誉められたりすれば、部下は嬉しくなります。

   そして、上司を通して、会社への好感度が高まるはずです。


   これはあなた自身でも同じこと。
   仕事を効率よくやりたいのなら、今の会社を「好き」になることです。

   内容は何でも構いません。

   この仕事が好き。
   上司が好き。
   会社の業務内容が好き。
   働きやすい職場が好き、などなど…。


   そう意識するだけで、ただ漫然と仕事をしているより、
   ずっと効率が良くなるわけです。

   あなたが個人的にやっている仕事でも、もちろん同じです。

   たとえば何かの原稿ならば、その原稿が掲載される雑誌のことを、
   とにかく「好き」と認識すること。

   どんなに小さなことでも見つければ、人は暗示的に気持ちが高まります。


   逆に「ここがイヤ」「ここが嫌い」なんて常に考えていると、
   どんどん気持ちは落ちていきます。

   漫画家さんで、担当編集者さんや、雑誌そのものの悪口を言っている人が、
   ときどきいます。

   しかしその人の作品は、
   たいてい「そんなに面白くない…」ということも多かったりします。

   逆に本当に面白い作品を作っている人は、漫画家さんであっても、
   もしくはどんな業種であっても、その掲載されているメディアなどを、
   好意的に考えています。

   まぁ、ニワトリが先かタマゴが先か…に近いですが。


   人はストレスを抱えると、
   とにかく連鎖的に、周囲の人に当たってしまうことは多いもの。

   その結果、自分の作品もうまく進まず、よりストレスが強まってしまうわけです。

   いずれにしても大切なのは、自分の仕事をうまく進めたいのなら、
   その仕事に関連するものも「好きになる」こと。


   内容は何でもいいので
   「こんなところが好き」ということを、ハッキリ認識してください。

   それだけで、あなたの仕事そのものを、
   もっとも効率的に進めていくことができるんですよ。


   これは人生でも同じです。

   もっとも効率よく、そして幸せな人生を送りたいのなら…。

   何よりあなたが、世界そのものを好きになること。
   過去の行動でも、周囲の人でも、いろいろな物でも、出来事でも。
   何でもいいので、あなたの好きなものを、もう一度考えてみてください。


   それがあるから、自分は今の世界が好き。
   そのように考えることで、あなたの毎日はより幸せにあふれていくんですよ。

         <『やりたいことをぜんぶ実現する方法』海竜社>

              ・・・

「好きこそ物の上手なれ」と言うことわざがある。

好きでやることは、誰でも一生懸命になるし、時間も忘れてやるので
自然と上達する。

そして、好きでやることは、人に言われて嫌々やるのではなく、
自発的に自分から進んでやる。

だから、好きでやることは、長く続く。

これは趣味でも、仕事でも、人でも、みんな同じ。


「葉隠」を書いた佐賀鍋島藩士、山本常朝はこう言っている。

「人間の一生は誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。
夢の間の世の中に、好かぬ事ばかりして、苦しみて暮らすは愚かな事なり」


嫌い嫌いと、あら探し、欠点探しの人生を過ごすのか。

あるいは、今この現状の中に、ほんの小さなことでもいい、
好きなこと、素敵なことを見つける人生を送るのか。


「幸せな人生を送りたいのなら」

好きになるのが上手な人は、幸せな人生を送れる。

            <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>

幸福を得るための3つの原因 - 伝統

2017/09/30 (Sat) 21:26:12

         *「神と偕に生きる真理365章」(P203)より

「すべて大成功をおさめた人達は因果の法則を巧みに利用した人々である。

彼らはすべての事物は原因があって結果を生ずるものであって、
決して単なる僥倖(ぎょうこう)によって来るものではなく、
法則によって生ずるのだということを信じたのである。

事物の”初め”と”終わり” ―― 原因と結果とを結んでいる連鎖は
一つの環(わ)であって弛(ゆる)んだり切れたりするものではないことを
彼等は知っていたのである」

これは光明思想の幽祖ラルフ・ウォルド・エマソンの言葉である。

その”原因”というものを分類すれば、3つに分かつことができるのである。

一つには“言葉の力”である。
二つには“心の力”である。
三つには“行動の力”である。

言葉と心と行動とが、希望実現のために歩調を合わせて前進するとき、
成就しない希望はないのである。

            <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>

【幸せを見つけるのが上手な人】 - 伝統

2017/10/16 (Mon) 20:22:59


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年10月16日)」より

   (丹波あじさい寺住職、小藪実英氏の心に響く言葉より…)

    (丹波あじさい寺 → http://kougasitu.sakura.ne.jp/ju70.html )


   10月の中頃、3人連れのご婦人が参拝にこられたことがありました。

   その中のお一人が、庭の片隅に咲くコスモスの花を見つけ、
   「まあ可愛い、こんなところで一生懸命咲いているね!
   今日は、こんな可愛いコスモスに出会えてよかったわ。ねえ、皆さん! 」

   「本当、本当」とにこやかに、おしゃべりしながら
   本堂の方に上がって行かれたことがありました。


   それから間もなく、1分もたたないすぐ後に、
   違う3人連れのご婦人が参拝にこられました。

   そして大きな声で「ああ、ここは6月のあじさいの頃でないとあかんなあ、
   季節を間違ったなあ、残念残念」と、そこに咲く可愛いコスモスの花を見つめ、
   ブツブツ文句をいいながら本堂の方へ上がって行かれたことがありました。


   私はたまたまその光景を見て、「同じ日の同じ時間に同じ物を見て」、
   全く違うとらえ方をされるのだなあと、気付いたのです。

   もし、この2つのタイプの方が同じように人生を歩まれたとしたら、
   全く違った人生がそこにできてしまうのだろうなと思いました。

   何をしても「いいなあ、いいなあ」と生きていく人、
   何を見ても何をしても「ブツブツ文句ばかり言って」生きていく人。


   一人は百歳まで生きたら百歳丸ごと素晴らしい人生になるし、
   もう一人は、百歳まで生きてもつまらない人生を百年生きただけの
   ことになるのです。

   せっかく、人間という得難いいのちをいただいて、
   この世に生まれてきたのですから、

   「人間として生まれてきてよかったなあ」

   と思える人生を送らないともったいないと思います。

   そのためには、少々自分にとって不都合なことがあっても、
   できるだけプラスになるように、そのことをとらえて生きていくことが肝心です。

   その積み重ねが我々の人生だからです。


   人生も、何もいいことがないと諦めてしまわず、
   しっかりと世の中を、人生を見つめてください。

   何でもないところに、何ともいえない「しあわせ」が
   いっぱい潜んでいるかもしれませんよ。

   いや、きっと潜んでいますよ。


   『よかった
   よかった
   この世に生まれて

   そして
   あなたに会えて』


   どんな目をもって生きるか、どんな心をもって生きるか、
   それによって随分人生は違ってくるのです。

   よき日々をお過ごしください。

         <『心配せんでもよい』校成出版社>

              ・・・

ネガティブに考える人は、何を見てもネガティブなことしか言わない。

「でも」「だって」「だけど」「そうは言っても」と否定語から始まる。

否定語から入る人の話は、暗くて陰気で元気がなくなり、心が寒々(さむざむ)とする。

だから、不幸を見つけるのが上手(じょうず)。


反対に、ポジティブに考える人は、
「なるほど」「そうだよね」「さすが」「わお! 」と肯定語から入る。

肯定語から始まる人の話は、明るくて楽しくて笑顔と元気が出て、心があたたかくなる。

だから、幸せを見つけるのが上手。


人生はつかのまのドラマ。

ハッピーエンドのドラマにするのか、それとも悲劇にするのかは、自分次第。

「どんな目をもって生きるかで、人生は違ってくる」

どんなときも、幸せを見つけるのが上手な人でありたい。

            <感謝合掌 平成29年10月16日 頓首再拝>

幸福に豊かに生活するには - 伝統

2017/10/23 (Mon) 20:48:58


        *「人生の秘訣365章」(P242~243)より   

人間が日々の生活に幸福感が得られないで、
鬱陶しい面白からぬ生活を送っていなければならないのは、
自己に内在する力を自由奔放に放出することができないで、
自己内在の力を内に抑圧して鬱結せしめているからである。

抑圧と鬱結とを取去れ、さらば人生が明るく見えて来るであろう。

その抑圧を取去り、鬱結を除き去るには、
内在の霊的力に対して通路をひらかなければならないのである。
それには心を「内部の霊」の方向に振り向けなければならないのである。

普通吾々は、日常生活の現実的多忙に追いまわされて、五官的事物の方に心を奪われ、
「内部の霊」に心を振り向ける時間も余裕もなくなっているのである。

私たちの「心」は五官を通して、有限の物質世界に縛られ、
「霊的自覚」(悟り)を通して「霊的無限の世界」と通ずるのである。

「霊的無限の世界」に通じて無限を引出し来り、生活を豊かにすべきである。

            <感謝合掌 平成29年10月23日 頓首再拝>

<幸・不幸はあなたの掌中にある>  - 伝統

2017/10/25 (Wed) 18:16:28


        *「人生の秘訣365章」(P244~245)より    

テレビ放送局からどんな良い番組を放送して来ても、
その放送局のチャンネルに受像機の波長を合わせなかったならば、
その良い番組を形にあらわすことはできないのである。

幸福の番組を自己の身辺に実現するかしないかは自分の心を
どのチャンネルに振向けるかと云うことによってきまるのである。
自己自身が自分の身辺に引寄せる運命を決定するのだ。

人生が複雑なように見えているのは、テレビの構造が複雑なのと同じことである。
併しながらテレビの構造が如何に複雑であろうとも、私たちは、ただツマミを廻すだけで、
どんな放送のチャンネルにも波長を合わすことが出来るのである。

それはただ波長が同調するかどうかの簡単な法則によるのである。
法則は簡単であり、方法も簡単である。
ただそれを実践する熱意と、その実践を継続する忍耐ありや否やの問題である。

            <感謝合掌 平成29年10月25日 頓首再拝>

ただ善一元の世界を観よ - 伝統

2017/10/27 (Fri) 19:15:00


         *『栄える生活365章』(P40~41)より

あなたは今後ただ「善き事」のみを心に想って
「悪しき事」を決して心に想わないのである。
何故(なぜ)なら”想う”ことは”造る”ことになることを知ったからである。

あなたは唯明るき事のみを考え、暗いことを考えないのである。
何故なら、あなたは”考える”ことは”作る”になるということを
知ったからである。

若しあなたが未来の不幸や不健康を想像し、それを始終心に想って恐怖するならば、
所謂(いわゆ)るストレスという心の”不均衡な緊張”が起って来て、
そのために肩は凝り、心臓は引きちぢまる思いをし、胃腸の働きは停滞し、
血行は不調和となり、体内のホルモンの平衡はやぶれて、
ついに病気をひき起すことになるのである。

だから、あなたは決して未来の不幸や不健康を想わないのである。
そして常に幸福と繁栄とのみを想うのである。
あなたは既に今幸福である。

            <感謝合掌 平成29年10月27日 頓首再拝>

一番の不幸は「大丈夫」と思えないこと - 伝統

2017/11/11 (Sat) 18:37:20


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」斎藤一人・著(P12~14)より

この世の中で一番不幸なことは、自分のことを「大丈夫だ」と思えないことです。

そしてさらに不幸なのは、まわりにその人のことを「大丈夫だよ」と
言ってあげられる人がいないことなんです。  

人間はもともと等しく「大丈夫」なようにつくられています。

学校の成績が悪い人でも、運動会でビリの人でも、
そのままでしあわせになれるように神様がつくってくれているんです。

それを「算数ができなきゃダメだ」とか「運動神経が鈍い」とか
まわりに言われているうちに、自分のことが「大丈夫だ」と思えなくされたんだよね。

それと「自分はまだまだ未熟ですよ」と思って生きるのを”謙虚”だ
と思ってるかもしれないけど、「自信満々に生きてる人が威張らない」のが”謙虚”なの。

「自信がない人が威張らない」のは”卑屈”なんです。

謙虚に生きる人と、卑屈に生きる人とでは、自ずと結果は違ってきます。

それと同じで、「大丈夫だ」と思って生きている人と、
「大丈夫じゃない」と思って生きている人とでは、まったく人生が変わってくるんだよ。

それで自分で思ったにせよ、誰かに思わされたにせよ、
「大丈夫じゃない」と思って損をするのは自分なんです。


蕎麦屋で「カツ丼、3つ」って言えば、カツ丼が3つ出てくるの。
「こんなに食べられません」って言っても、あなたが頼んだものだから、
そのお代を払わされるのはあなたなんだよね。

それと同じで、天に向かって「大丈夫じゃない」って言っていると、
「大丈夫じゃないこと」を引き寄せるんです。

だから、まずは自分が「大丈夫なんだ」ということを知ること。
そして、まわりの人にも「大丈夫だよ」って言ってあげられることが大事なんだよ。

生まれてきた子どもはみんな「大丈夫だ」と思って生まれてくるんです。
そして、親も「生まれてきてくれただけでしあわせだ」って思ったんだよね。

それを「あれができなきゃダメ」とか「これができなきゃダメ」と言って育ててると、
その子はだんだん、自分のことを、自分の人生を信じられなくなってしまいます。

だから、親が子どもに一番伝えなきゃいけないことは
「おまえはそのままで大丈夫だよ」っていうことなんだよね。

             ・・・

   まずは自分が「大丈夫だ」ということを知ること。

   そして大切な人に「大丈夫だよ」っていうことを伝えることが大事だからね。

            <感謝合掌 平成29年11月11日 頓首再拝>

《実相の顕現としての幸福生活》 - 伝統

2017/11/12 (Sun) 20:03:06


        *『 生長の家 』(昭和40年3月14日の法語)より

   本当に永遠にくだけない不滅の幸福生活というものは、
   外面的の操作や懸引(かけひ)きや、真心のない外交手段によって
   得られるものではないのである。

   それは自己の生命の深層に横たわる普遍なる神(実相)から
   汲みだされて来てあらわれて来るものなのである。

   生命の深層から汲み出された神の智慧によって行われる“行為”も、
   迷いの現在意識が、とつ追いつ やり繰りをして行われる“行為”も、

   それはいずれも行為であるから、外見からみれば、
   現象にあらわれた行為として
   同じレヴェルにあるように見えるかも知れぬけれども、

   その結果に於いて著しい相違を来たすのである。


   行為は結果であり、結果は更に結果を生むが、
   その行為が、実相の発動が原因としてなされているか、
   迷いの蠢動(しゅんどう)が原因としてあらわれているかによって、

   結果に於いて幸と不幸の相違や、
   繁栄や衰微の相異を来すことになるのである。

   だからキリストは『 果実を見て、その樹(き)の善悪を知れ 』
   と教えたのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成29年11月12日 頓首再拝>

「100%しあわせだ」と思っても悪いことは起こる - 伝統

2017/11/23 (Thu) 19:12:53


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
        ~斎藤一人・著(P64~66)より


しあわせというのも結局、
起きた出来事に対して「100%しあわせだ」と思えるかどうかなんです。

それで、「100%しあわせだ」と思っていても、
浮気がバレるときもあります。
つまずくときもあるし、車をこすられるときもあるの。

生きているといろいろなことが起こります。

先日ちょど、みんなでドライブしながら、この「100%の法則」の話をしていました。
どんなことが起きてもしあわせだと思えるかどうか・・・
そんな話で、サービスエリアに車を寄せました。

そころが、車を降りてトイレに行こうと歩き始めたとたん、突然「ぽとんっ」と
鳥のフンが私の肩に落ちてきました!

一瞬びっくりしましたが、次の瞬間になんだか笑えてきてね。
累計納税者日本一の大金持ちで「100%しあわせだ」と思っている私でさえ、
こういうことって起こるんです(笑)。

「100%しあわせだって言っていると悪いことが起らない」

けっしてそういうことじゃないの。

いろんなことが起こるけど、なにが起きようとも、それらをひっくるめて
「100%しあわせだ」と思えるかどうかが大切なんだよ。

普通の人は悪いことが起こると不機嫌になったり
「ついてない」って思ったりします。

起こる出来事を100%予測するのは不可能だから、そうすると、
あなたのしあわせは偶然の出来事に左右されることになるよね。

人を変えることはできませんし、
起こる出来事自体を変えることもできません。
変えられるのは自分だけなんです。

なにかをやって失敗しても経験しただけ得なんです。

それで、次はその経験を糧にして、うまくやればいいの。

先日もある人が「ちょっとイヤなことがあって、グチを言っちゃったんです。
こんな私はダメですよね」って言うけど、そうじゃないんです。

しあわせな人でも、ついグチをこぼすことはあるの。
そんなことも含めてしあわせだなと思えばいいんです。

いちいちなにかにつけて
不幸だと思うクセをやめないと、しあわせにはなれないよ。


   最初はね、頭ではわかっていても、なかなか「100%%しあわせだ」
   なんて思うのは無理って人もいるよね。でも、思うの。

   思い続けて物事を見つめていくと、
   なぜ起きたのかという原因もわかってくるからね。

            <感謝合掌 平成29年11月23日 頓首再拝>

幸せを「選ぶ」8つの方法「笑顔」「瞑想」 ―― 米研究 - 伝統

2017/11/24 (Fri) 18:17:39


        *Web:マイナビウーマン(2013.12.29)より

脳はネガティブなことに反応しやすく、
ポジティブなことは素通りしてしまう習性があるといいます。

それを理解し、意識的にモードを切り替えることが、
「幸せを選ぶ」ことに繋がるそうです。

以下は研究結果をもとにした「幸せモード」の切り替え方です。

(1)単純に幸せになろうと思うこと。

(2)一番の目標に「幸せであること」を置く。

(3)些細なことでもポジティブな瞬間があれば、
   そこに大きなポジティブパワーが存在する。

(4)瞑想すると脳内のポジティブ機能が活発になる。

(5)笑顔

(6)感謝の気持ちを書き出す。
   単純なことでも書き出すことで「幸福感」が増す。

(7)成功を目標とせず、幸せを目標とする。

(8)思いやり&瞑想コンビで脳内でガンマ波が生じ、
   意識状態がマックスになると同時にストレスが軽減され、
   ポジティブモードに切り替わる。

            <感謝合掌 平成29年11月24日 頓首再拝>

しあわせとは”探すもの”である - 伝統

2017/11/25 (Sat) 20:49:55


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
          ~斎藤一人・著(P67~69)より

不幸な人って、しあわせの探し方がヘタなんです。

「アジの開き」だってつくるのに大変な手間がかかっています。
そのことを思って食べると「しあわせだなぁ」と思えるんです。

水道の蛇口をひねれば水が出るのだって「しあわせ」だよね。
昔はわざわざ川まで水を汲みに行っていたんですから。

さらに言えば、世界には飢えに苦しんでいる人が約8億人、
慢性的な栄養失調の人が約20億人いると言われています。

世界各地でいまだに紛争が起こっていて、
いつ銃撃戦に巻き込まれたり、爆弾を落とされたりするかもわかりません。

それに比べれば、私たちは平和な日本に暮らせて しあわせ、
生きているだけで しあわせだと思えます。

しあわせって、しあわせと思える感度が高いか、低いかなんだよ。
そして「しあわせ」とは、与えられるものではなく“探すもの”なの。

些細なことがあるたびに「不幸だ、不幸だ」って言う人がいるけど、
しあわせな人にも不幸な人にも起こることって、そんなに変わりはありません。

それでも、しあわせと思える人のところに、
しあわせって引き寄せられてきちゃうんです。
完全無欠のしあわせを探してみたってどこにもないから。


神様だってね、「しあわせ」というものをくれるわけではないんだよね。
「しあわせ」に変わるものをみんなにくださるんだよ。

性格だって、この世の中に完璧な人なんていません。
誰にでも欠点の一つや二つはあるものなの。

細かいことを言わなければ誰だって
「いい男」だし、「いい女」なんです。

それを、「こういうところが良くなってくれたら」とか
「ああいうところを直してくれたら」とかって言っていると、
いつまでたってもきりがありません。


しあわせっていうのは、50点か60点でいいの。
完璧を求めすぎると、しあわせになんかなれないよ。

サッカーが好きな人って、
相手から邪魔されたりすることですら、おもしろさを感じます。

だから人生も邪魔する人が現れたら
「これでもっとおもしろくなるぞ」って思えると、
その人の人生はますますおもしろくなるんだよね。


人って誰でも、ものすごい可能性を秘めています。
それを“ちっちゃく”まとめようとするからダメなんです。

「ここがダメ」とか、「あそこがダメ」とか言ってると、
どんどんちっちゃくなっちゃうんだよ。

もっと大きく、大らかに物事を捉えていこうね。


   くりかえすけど「なにかがないとしあわせじゃない」
   ではないからね。

   「しあわせ」は、あなたの心の感度や感性によって
   決まってくるからね。

            <感謝合掌 平成29年11月25日 頓首再拝>

幸せが集まってくる5つの習慣 - 伝統

2017/11/27 (Mon) 21:10:26


          *「笑う人には福来たる」高橋恵・著 より

(1)笑顔

   初めて人に会うとき、むすっとしている人よりも、微笑んでいる人のほうが、
   話しかけやすいですよね。会合などでも、「あ、あの人にちょっと聞いてみよう」
   と話しかけられるかもしれません。

   でも無理やりつくる笑顔はぎこちないです。
   ほんの少し口角を上げるだけ。
   幸せがよってくるのですから、やらないなんてもったいないですよね。

   笑う門には福来る、というように、
   笑い声があふれる家には、自然に幸運が訪れます。

   楽しいから笑うのでなく、笑うから楽しいことがやってくるのですね。


(2)おせっかい

   人のためになにかしてあげよう!そう、おせっかい(笑)
   私なんてできない・・と思いますか??

   いつもより元気よくあいさつをする、
   元気がない人に一言と一筆添える、
   なにかをする=物をプレゼントするのでなくていいのです。

   気持ちや、行動で表すことで、どれだけの人のこころが救われるでしょう。

(3)分かち合う

   ご飯を、一緒に食べる。
   自分が読んだ本をすすめる。
   お気に入りのCDを貸す

   …自分だけでなく、周りの人をもハッピーにできる、分かちあい。

   楽しいから、自然と誰かと一緒にしたくなります。

   楽しいということが、人間関係では何よりも大切なことではないでしょうか。

(4)即行動

   気になるところには、出かけていきましょう!
   何かがあるからできないと嘆く前に、やりたいことは、やってみる。

   会いたいな、と思う人にあってみる。

   そうしたら、今悩んでいることが、ひょんなことで解消されたり、
   思わぬ方向へ向かうヒントがつかめるかもしれないのです!

(5)脱不幸

   先日、影踏みしながら兄弟が楽しそうに遊ぶ後ろから、
   お母さんが、疲れはてた顔で、歩いていかれました。
   思わず、頑張って~と、心の中でそっとエールを送りました。

   一人で頑張っているのかもしれません。
   ただ、体調が悪かっただけかもしれません。

   心当たりあるあなたのそばにも、
   何も言わなくても、みてくれてる人はきっといるはずです。


5つの習慣を実行できなくてもあせらない

嫌なことがあって、誰かを恨んだり、さげすんだり。
なんでかわからないけど、してしまう。

…疲れますよね。

だって、負の感情で自分をいっぱいにしているから。

そんなときは、その場所から離れてみたり、カモミールティーを飲んだり。

そして、そのあとに、深呼吸して、
自分の好きなことを思い出したり、見つけて見ましょう。

あなたは、幸せをわかちあえる人ですよ。

            <感謝合掌 平成29年11月27日 頓首再拝>

「仕事の成功論」と「心のしあわせ論」は同じ - 伝統

2017/11/28 (Tue) 18:02:45


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
               ~斎藤一人・著(P70~71)より

しあわせを見つけるのがヘタな人は、
商売の成功の仕方を見つけるのもヘタです。

うまくいってない人って、
しあわせも成功も、「見つけるもの」だと思ってないの。
「与えられる」か「偶然入ってくる」ものだと思っているんです。

チャンスも「来るもの」だと思っていて、
「見つけるもの」だと思っていません。
ようは、日頃から“見つけグセ”がないんだよ。


「ご飯が食べられてしあわせ」とか「仕事ができてしあわせ」とか、
しあわせを探すクセが日頃からあるかどうかなんです。

ちょっと自分にイヤなことがあっただけで「最悪だ! 」って言っている人生と、
「今日も朝起きられてしあわせ」って言う人生では違います。

「しあわせのタネ」を見つけられる人って、
「商売のタネ」を見つけるのも上手です。

しあわせな人って、いいところを見つけるのが上手なんだよね。

そういう人が「売れているお店・人気のお店」に行ったら、
その店のいいところをたくさん見つけます。
そしてその中で、自分でマネできることをするんです。

逆に不幸な人って、悪いところを見つけるのが上手なんです。

「売れているお店・人気のお店」に行っても、
「あそこがダメだ」「ここがなってない」とか言って、
いちいち“重箱の隅をつつく”ようなことをするんです。

人を雇うのでも、
しあわせな人は、その人のいいところを見つけて、
そこをほめて伸ばそうとします。

でもうまくいってない人って、
悪いところを見つけてはそこを指摘して、直させようとするんだよね。

「仕事の成功論」と「心のしあわせ論」は同じなんです。


   毎日の生活の中で「しあわせのタネ」探してごらん。

   じつは毎日、たくさんのタネをいただいていることに気づくから。

            <感謝合掌 平成29年11月28日 頓首再拝>

境遇を変えてみても心が元の儘では不幸がつづく - 伝統

2017/12/01 (Fri) 17:19:11


         *「第二青年の書」第四章 より

境遇さえ変えれば、幸福になれると思う人は随分あります。
何処か嫁入先を替えたら、人間は幸福になれるかと思って、
今居る所が辛いとすぐ他家へ替ろうかと思う人がある。

そんな人が、心が一変しないでいて他家へ替ったら
矢張り同じような境遇が出て来るのであります。

『生命の實相』の中にもそういう実話が何処かに書いてあります。

それはどういう話かというと、富山県に或るお嬢さんがあって、
或る家へお嫁に行ったのです。

そしたら姑さんがまことに深切な姑さんで、
ご飯を食べる時に、お給仕をお嫁さんにして下さる。
二杯目までは気持ちよくお給仕して下さるけれども、
三杯目になると、そのご飯を入れたお櫃の蓋の上に頬杖をついて、
もうお給仕しようとなさらないのです。

それを無理に「済みませんが、もう三杯目を下さい」とは、
とても嫁として遠慮して言えないというわけです。

それなのに毎日毎日重労働に近い家事の仕事をしているのですから、
もうもう腹が減って、腹が減って、堪らない。

「もうこんな所はとても務まらないからやめよう」と思いまして、
離婚してもらったのです。

そして、今度はもう絶対姑なんかの居る所へは行かんと決心しておったのであります。

そのうち縁談がありまして、今度は又別のお婿さんの所へ行ったのです。
「今度は姑の居ない所だから大丈夫だ」と思っていたら、
そのお婿さんが深切なお婿さんで、またしてもお給仕をして下さる。
そして二杯目までお給仕をしたら、三杯目は又お櫃に肘をついて、
惚れ惚れとその奥さんの顔を見詰めていらっしゃるのです。

それで、今度は姑さんでないから遠慮なしに
「あなた、もう一杯よそって下さいよ」と言いますと、
良人は「僕はね、痩せた女が好きなんだよ」とこう仰るのです。

そしてやっぱり三杯目のご飯は盛ってもらえなかったと言います。
そういう実例があるように、姑がいじめると思って、
今度は姑の居らん所へ行きましても、又同じ事を
他の人が自分に仕向けるというようなわけであって、

結局自分の心境が変わらなければ、場所を何処へ替わって行っても、
同じような類のものが出て来るのであります。

だから結局、自分の心の姿を身辺に映して、
それを自分の環境としてみるという事になるのであります。

だから罪あるままで、罪業深重の罪深い人間が、
その悪い習慣精神を持ったままで、極楽浄土という所へやって貰ったところで、
本当に幸福になれるかどうかという事は疑問なのであります。

その代りにもし自分が観世音菩薩みたいな素晴らしい心境になっておりましたら、
たとい観世音菩薩を地獄へ放り込んでも、きっとその地獄がたちまち
周囲が極楽浄土のように楽しくなるだろうと思うのであります。

ですから罪がある儘で南無阿弥陀仏と唱えたら、
極楽浄土へやって貰えるどろうなんていうような甘い事を考えていても、
そうは問屋が卸さないわけです。

罪あるままでは、どんないい所へやっていただいてもあまり極楽じゃない
と考えていて差支えないのであります。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943 より転写)
  <日時:2017年11月27日 (月) 09時31分>

            <感謝合掌 平成29年12月1日 頓首再拝>

しあわせだけの世界は、むしろ不幸 - 伝統

2017/12/04 (Mon) 17:28:36


      *「たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと」
         青山 俊董・著(P140)より

人はとかく、かなしいときはかなしみにおぼれてなにも見えなくなり、
反対に、うれしいときはよろこびに酔ってかなしみを忘れてしまうものである。

「禍福はあざなえる縄のごとし」ろか、「らくあれば苦あり」とか
昔からいわれているように、一方のみということはないのである。

人はみなしあわせのみを、らくのみを願うけれど、しあわせのみの世界では
それがあたりまえとなり、しあわせをしあわせと受けとめる感受性がなくなって
しまうから、むしろ不幸とさえいえる、恵まれないなか、世にいう不幸つづきの
なかに育つと、わずかなあたりまえと思われることのすべてが、
みなよろこびといただけで、むしろ、しあわせ者といってもよかろう。

            <感謝合掌 平成29年12月4日 頓首再拝>

しあわせは”願い”ではなく”思い” - 伝統

2017/12/07 (Thu) 17:04:47


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
              斎藤一人・著(P72~73)より

とにかく しあわせって、なにがあっても
「100%しあわせだ」と思えるかどうかなんです。


イヤなことがあっても「こんなのはしあわせの一部ですから」
って言える人に、しあわせがどんどん訪れます。

「ついてる人には悪いことは起きない」のではありません。
ついてる人にも悪いことは起きます。
ただ、起きても捉え方が違うんです。


いちいち起こることに左右されて、不機嫌になっていたら、
本当のしあわせにはなれないよね。


多くの人はしあわせを過大評価しすぎてるんです。
人生にはいろんなことが起きるし、
いろんなことが起きないと人生はつまらないもの。

「いいことがあったらしあわせ」っていうのは、“願い”なんです。
そうだとしたら、願ったことが実現しないと
しあわせにはなれないことになるよね。


でも私が言っているのは“思い”なんです。

いいことがあったらしあわせ。

悪いことがあっても、それはしあわせの一部 。

そう思うと、すべてがしあわせになるんです。


私はいつも機嫌がいいんです。
それを見てよく「ひとりはイヤなことがないんですね」
って言われます。

みんなが思うようなイヤなことは 私にもあるけど、
私はそんなことでいちいち不機嫌にはなりません。


だって、そんなことが起こるのは織り込み済みだし、
それもしあわせの一部なんだよね。

それで、「豊かだからそういう気持ちになれるんですか? 」
って言われるけど、

そういう気持ちでいたから豊かになったんだよ。


   起きることに対する捉え方って、
   思い続けているうちにわかってくるからね。
   大切なのは思い続けること。

            <感謝合掌 平成29年12月7日 頓首再拝>

ダン・ケネディの幸せの処方箋 - 伝統

2017/12/24 (Sun) 19:31:14


          *Web:DIRECT Connect(2017/12/22) より

去年の大晦日のことを思い返してみてください。
心の中に鮮明にイメージしてくださいね。

それまでの1年は歴史の本の中にしまい込まれ、新しい1年が幕を明けるのです。


多くの人は後悔混じりの新年の抱負と、
より良い年になることへの希望を胸に新しい年を迎えます。
彼らの人生を送る上での戦略は、ただ希望を持つことだけですからね。

だから大抵の場合、新しい生活もそれほど代わり映えがしないのです。
同じ不満に、同じ行動に、同じ結果。

私は時々、彼らが何のために新年を祝っているのか、疑問に思うことがありますよ。

私とほぼ同じくらい仕事人間の友人は、こう尋ねられたことがあるそうです。

「でも、あなたは楽しんでやってるの?」この質問はつまり、
大多数の人間が「仕事」や「ビジネス」から、「楽しさ」といったものを
分けずにはいられないことを表していますよね。

しかし、彼らの言う「楽しさ」とは大抵人の手によって作られた不自然なものですがね。

あなたがたは、年を取れば自ずと賢くなれると考えているかもしれませんが、
私は年を取れば取るほどややこしさを感じていますよ。
私たちが呼ぶ「楽しさ」や「幸せ」といったものの曖昧さについてね。

人々は意義ある成果を達成することなどには目もくれず、
楽しさや幸せといったものを追い求めて、人間の根本的な遺伝子レベルの
欲求に逆らっているように見えますね。

しかし、その欲求によって私たちは何かを発明したり、構築したり、
物事を進歩させたり、目標を達成したいと思えるのですよ。


あなたもゴールに向かって前進しましょう。
ただ、思い描くゴールから「幸せ」を切り離して考えられるとは、
私には到底思えませんがね。あなたにもできないと思いますよ。

世の中に抗鬱剤を必要とする人が劇的なまでに急増したのは、
人々が間違った方法で幸せを得ようとしたからなのです。

数年前、様々な有名人や作家が医師の処方箋コメント欄に収まるほどの
短い文章を寄稿し、「幸せの処方箋」という本が作られました。


あなたにとって価値があるかは分かりませんが、次の言葉は私からの処方箋ですよ。

より賢くなれるように努力しなさい。

より良いことをたくさんしなさい。

少なくともひとつは、他の誰もが敵わないスキルを身につけなさい。

たくさんの目標を設定し、そのために努力を惜しまず、必ず達成してみせなさい。

現状を打破し、創造的でも野心的でもない人々から批判されても、
認めてもらえなくても、困惑されても、丸ごと無視してしまいなさい。

あなたの役に立ち利益になりそうなことで、
興味を大いに引かれるものがあるのなら実行しなさい。

楽しみを見つけたり、幸せになるために、日常の日々から抜け出す
必要性を感じているのなら、まずはそこに座って今の生活を見つめ直しなさい。

   (https://direct-connect.jp/knowledges/show?id=361&ts=mag_dann_171224 )

            <感謝合掌 平成29年12月24日 頓首再拝>

常に幸福を語れ - 伝統

2017/12/26 (Tue) 18:30:00

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月26日)より

不幸、災厄、病気・・・ことごとく心に描かれた観念が具象化するものであるから、
不幸を喞(かこ)つなかれ、災厄を呟くなかれ、病気を愬(うった)えるなかれ。

不幸来たるごとに、災厄来たるごとに、病気が来たるごとに、
その反対の幸福を語れ、祥益(しょうえき)を語れ、健康を語れ。

すでにかく幸福で祥益と健康とにめぐまれていると念ぜよ
―― それが実現するために完全なる智慧か流入し来たると念ぜよ。

自己が不幸を、災厄を、病気を語らないばかりでなく、
他(た)の人々がかかることを語る時聴き手になってはならぬ。

もし聴き手になったならば、あなたは自己に、不幸災厄病気に対して
無防備に扉をひらいたと言わなければならないであろう。

そんな時に最もよいことは、ツンと澄まして相手との調和を悪くすることではなく、
話題を転ずることである。

            <感謝合掌 平成29年12月26日 頓首再拝>

本当の幸福 - 伝統

2017/12/28 (Thu) 19:33:06


           *「光明道中記」(12月28日幸福成就の日)より

【実相を悟るものに不足の感じは起こらない。(『生命の實相』第一巻)】

人間は誰でも幸福に成りたい。
しかも多くの人達は幸福に向う道を誤まっているのである。
或る人たちは幸福と快楽とを混同している。

そして幸福になろうとして快楽を得ようとし、快楽を追求して結局得るところのもの
とては幸福ではなくて、苦痛であったと云う場合が多いのである。

仏者は五官の快楽を、瘡面(かさぶた)の痒きを掻くに喩えたことがある。
また渇者が塩水を飲んで渇を医(い)やすに喩えたことがある。

五官の快楽を求める習慣を得るときは、それを得なければ淋しいし、得れば尚一層、
得なければ淋しいこと、阿片中毒の如き状態となる。

阿片中毒者は阿片の奴隷であるし、
五官の快楽を追求せねば淋しい人達も、五官の奴隷である。

金銭の欲望を追求し、追及し、飽くことなき渇欲に心身を疲労せしめている者も
金銭の奴隷である。

本当の幸福は五官の快楽や、金銭の集積で得られないこと、
本当の幸福は阿片の吸引では得られないのと同じである。

本当の幸福は愛と深切と思いやりと、些(ささ)やかな事物の奥にも輝いている
天地の恵みを見ることである。

若し魂の眼(まなこ)が開かなかったならば幸福は何処にもない。

            <感謝合掌 平成29年12月28日 頓首再拝>

与えることから得られる幸福 - 伝統

2017/12/29 (Fri) 18:11:14


           *「光明道中記」(12月29日気高き心を把持する日)より抜粋

【心は容貌に彫刻の鑿を揮う。心が刻まないとき年の皺は刻まれない。
                        (『生命の實相』第一巻)】

幸福は五官の満足、所有の満足によって得られるのではない
と云うことが判ったならば、
吾等は別の方向から幸福を求めなければならないのである。

それはどんな方向からかと言えば与える方向からある。

所有欲は奪う方向から幸福を得ようとしたのであるが、
吾々が世のために尽す真行(しんぎょう)や、国のために尽す忠誠や、
社会のために尽す奉公の幸福感などは、孰(いず)れも与える
方向から得られる幸福なのである。

            <感謝合掌 平成29年12月29日 頓首再拝>

離れていて味わう幸福 - 伝統

2017/12/30 (Sat) 18:45:15


           *「光明道中記」(12月29日気高き心を把持する日)より抜粋

また幸福は、それが触覚的方面、味覚的方面、所有的方面より来るものである限り、
それは著しく物質的であり、即(つ)いた感じであり、低卑な感じであり、
それは余りに多く満たすときは苦痛に変ずる性質のものである。

いつまでも変わらない幸福は、次第に、触感的、味覚的、所有的な方面から離れて来る。
視覚的な喜びは、触覚的な又は味覚的な悦びに比べて、
著しく「離れたる性質」のものである。

それは必ずしも触れなくとも、所有しなくとも、離れていて味わい得るのである。

芸術を味わうよろこび、自然を鑑賞するよろこびなどは後味の好い喜びである。

鑑賞するよろこびには、必ずしも所有することを必要としない。

            <感謝合掌 平成29年12月30日 頓首再拝>

人の幸福をねがう日 - 伝統

2018/01/02 (Tue) 19:19:47


           *「光明道中記」(1月2日)より

【愛はすべての物に調和と平和とを齎(もたら)す精神波動である。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

人を訪ねる時は、その人に幸福を手土産(てみやげ)として行くべきである。
このことを知ったとき、私はひとを訪問することが楽しみとなったのである。

誰でも人を訪問する時には物質的手土産を持って行くことを忘れないのであるが、
手土産と云うものをただ物質的にのみ考えていた時代には手土産なしに人を訪問することが、
何か不自然な忘れ物をしたような感じがして気が咎めたが、
手土産は必ずしも物質に限るべきものではない。

「心の手土産」と云うようなものもあると云うことが解るようになってから、
私は必ずしも人を訪問するのに以前のような窮屈な感じがしなくなったのである。

心の手土産と云うのは何か、調和と平安の精神波動を持参することである。
人を訪問するに当って、相手の家が、神の愛に満たされて調和と平安に満たされている
ことを念じてその家に入るのである。

そんなことが何の価値があるかと言うのは唯物論者のことである。

人が人を訪問するのに、その家の平安を祈りながら戸口をくぐる事は荘厳な行事である。

            <感謝合掌 平成30年1月2日 頓首再拝>

【人の幸せを考える】 - 伝統

2018/01/03 (Wed) 20:08:29


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2013-01-29)より

   (マーシー・シャイモフ氏の心に響く言葉より…)

   「スカーレットの物語」

   私は皮膚の難病に12年間悩まされていました。
   身体は弱り、満足に歩けもせず、いつも家族に頼るばかりの日々で、
   人生には絶望していたと思います。

   そんなとき、たまたま地元に住む仏教僧と会う機会があったのです。
   彼に自分の悲惨な状況を話した私は、
   同情のまなざしと思いやりの言葉を期待したのですが、
   僧侶は穏やかにこう言っただけでした。


   「自分を憐れむのはおやめなさい。人の幸せを考えるようにするのです」

   「無理です! こんな状態なのですよ。自分のことで精一杯です」

   私は「彼は何もわかっていない!」と、がっかりしました。
   こんなボロボロの身体で人の幸せを願うなんて無理だと思いましたが、
   なぜかその言葉が心に引っかかり、
   その日から少しずつ気をつけるようになりました。

   まずは家族や友人たちの幸せと健康を、さらに知らない人たちのために、
   車の中から道行く人たちの幸せを、ついでに自分の嫌いな人たちのことも
   思いやってみました。

   ある日、電動車椅子に乗ってスーパーのレジに並んでいると、
   明らかに虫の居所の悪そうな女性が私の後ろに並びました。
   急いでいるらしく、いら立った目を周囲に向けています。
   カートの中身はあふれんばかりで、少しでも早くレジを通り抜けたそうにしています。

   いつもなら、イヤな思いをしないように、
   こういう人とはできるだけ関わらないようにしていましたし、
   実際真っ先に頭に浮かんだのは、
   「何て品のない人からしら。目を合わせないようにしよう」という考えでした。

   しかし、そのとき例の僧の言葉…「人の幸せを考えるようにするのです」を
   思い出した私はこう思い直したのです。

   「そう、きっとこの人は今日とてもイヤなことがあったのよ。
   私だってそういう日もあるじゃない。
   この人を幸せにしてあげるにはどうすればいい?」

   私は振り向いて「お急ぎのようですね」と言いました。
   女性は驚いたような顔で、ぶっきらぼうに
   「ええ急いでいるんです。遅れそうだから」と答えました。

   「私の前へどうぞ」

   女性は私のかごの中身が少ないのを見て、サッと首を振りました。

   「いえ、大丈夫です」

   「どうぞ遠慮なさらないで。私は急いでいませんから。さあ、どうぞ」

   変化は劇的でした。
   イライラをまき散らし、レジ係をどなりつけそうな勢いだったその女性は、
   人に親切にされ、気を遣われて、別人のようになったのです。

   私の前へとカートを進めながら何度も「ありがとう」と言い、
   レジがすむと店員にも礼を言って、買った物を袋に詰め終わると、
   笑顔で店を出ていきました。

   私はすがすがしい気持になりました。
   周りを見ると、誰もが私に笑顔を向けて、言葉を交わし合っているのです…
   「素敵ね」「気持のいい場面だったわね」「今日もいい日になりそうね」。

   それからはもっと人を幸せにしたくて、
   できることはないかと探すようになりました。
   人のためになろうとすれば、機会はいたるところに転がっているものです。

   身体を使い、心を使い、お金を使って、
   まだまだ私は人のために何かをしてあげられる、
   それはこの上もなくうれしいことでした。

   自分のために「人が何をしてくれるか」ではなく、
   人の幸せのために「自分が何をしてあげられるか」を、
   いつも考えるようになりました。

   うれしいことに、それから1年もしないうちに、
   皮膚の調子がよくなり、生きるパワーもみなぎってきました。
   杖なしで歩けるようになり、ジムにも通い始めました。

   医者は、病気がひとりで快方に向ったようだと言って、信じられないようです。

   僧侶の教えのおかげで人生の坂を転がり落ちずにすんだ私は、
   愛情という永遠の力を手に入れることができました。

      <『脳にいいことだけをやりなさい!』茂木健一郎訳(三笠書房)>

               ・・・

人は、他人の幸せを考えたり、人を喜ばそうと考えているときは、
自分の病気のことや痛みをすっかり忘れている。

幸せも、喜びも、愛も、感謝も…
もらうことではなく、与えることが奇跡を産む。

なぜなら、人に発した言葉は、実は自分が一番よく聞いているからだ。
人を悲しませ傷つけるような言葉を発すれば、
それが長い間にはボディブローのようにきいてきて、結局は自分も大きな傷を負うことになる。


どんな小さなことでもいいから、自分のできる範囲で、
「人の幸せを考える」ことができる人でありたい。

            <感謝合掌 平成30年1月3日 頓首再拝>

人間の幸福は、神の生命(いのち)を顕現すること - 伝統

2018/01/04 (Thu) 16:52:27


           *「光明道中記」(1月4日神われに生き給う日)より

 【幸福とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。(「生命の實相」第十一巻)】

「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津神霊(みおやがみもとつみやま)ゆ
幸(さきは)え給え」

「幸(さきは)え」は「咲(さ)き生(は)え」であり、「割(さ)き延(は)え」であり、
神の生命の顕現である。

「霊(みたま)さきはえ」のみが人間の幸福なのである。
人間の幸福は富を実現することではない。名声を挙げることでもない。
神の生命(いのち)を顕現することである。

梅の花は咲き出でることが幸福である。
それは名声を博するがためではないから奥山にいても依然として芳しく咲き匂うのである。
それは金銭のためでないから、盆栽として売られなくとも咲き出でるのである。

梅の花はただ咲き出で、人間はただ与えられた使命を生きる。
幸福そのなかにあり、悦びその中にあり、楽しきこと限りなし。

若(も)し人が労苦して、そこに悦びが感じられなかったならば、
それはその人が第二義的なものを求めている証拠である。

働きそのものが第一義的目的であり、働きの中に生命が延び、霊魂が進歩する。
第二義的なものは、そのときは値打があるように見えても、その価値には永遠性がない。

            <感謝合掌 平成30年1月4日 頓首再拝>

感謝して生きていることができる人間が幸福なのです - 伝統

2018/01/12 (Fri) 18:41:47


          *『日本のこころの教育』境野勝悟・著(P84~87)より

幸福とは何ですか。何のことはない、
感謝して生きていることができる人間が幸福だったんです。

いくら金があったって、いくら物があったって、
いくら地位があったって、ちっとも感謝できない人は、
幸福になることはできない。

逆に物質的にいくら不自由をしても、
ありがとうという感謝の気持ちがあれば、
けっこう幸福になるものなんですよ、楽しくなるものなんですよ。

そういう気持ちもすごく大事だと思うんだな。
感謝したところで、太陽さんはべつに喜びやしませんよ。

感謝して得をするのは、実は君ひとりであるということを、
どうか忘れないでほしんです。


幸福になるか不幸になるか、自分が伸びるか伸びないかは、
諸君の心一つなんだ。他人じゃないんだ。

生きている自分をどのように大きくとらえ、
いま自分が生きていることに感謝できるかどうか、これ一つです。


わたくしがここで感謝する心が、きみを伸ばし、
きみを大きく育てていくだろう、といっているその感謝の対象は、
きみを生かしめているところの人間共通の
生命の「エネルギー」に対してなのですよ。

それは、けっして、単にきみだけの生命の原因の力ではない。
きみの友だち全部、いや生きとし生けるもの全部の生命の原因なのです。

地球に存在する全部の生命は、みな、
この恵みによって生きている。
そういう、大きい生命の元について、きみが心から感謝することによって、
自分が人間であるお当時に、大自然の子であるという自覚に至るのです。

この自覚こそが、きみを伸ばし、きみをもっと大きく育てるであろうと、
わたくしは言っているのです。


自分の人生を充実させていくのは、親でもないし、
先生でもないし、環境でもないように思います。

きみたち自身が感謝する心を持てるかどうかだと思うのです。
感謝する大自然を持つためには、自分で考えて発見しなきゃだめ。
それは、人が教えてくれるものではない。
自分でありがたいと思うものを、大自然の中に発見していくことなんです。

このみんなの共通の生命、みんな共通の恵みに対して、
感謝の心を育てることが、
実はわたくしたちの民族の「心の教育」だったんです。


わたしあっちの先祖は、「みんな太陽さんに生かしてもらっている。
だから太陽さんに感謝しましょう」ということで、

朝、みんな、「太陽さん、ありがとう」と言ったんですね。
そうしたら一日一日が感謝感謝じゃあないですか。
うまくいかないことがあって、不安な気分になったとしても、
そんなものすぐ消えますよ。

そういう生き方をしてきたのがわたしたちの民族なんだね。

            <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>

幸福は感染する - 伝統

2018/01/20 (Sat) 17:54:53


           *「光明道中記」(1月20日幸福の感染する日)より

【心に善き言葉を食して心を幸福にすれば肉体は健康化し運命は良化する。
                               (『生命の實相』第一巻)】

幸福は感染する。病気が感染するばかりでなく幸福は必ず感染するものである。

家庭の一人が不幸せになった時、
その家全体は何となく不幸の雰囲気に包まれ初(そ)める。
その一人の不幸が堤に穿(うが)たれた蟻(あり)の孔(あな)のように
全体の幸福を押し流して了うこともあるものである。

だから一人だけ不幸でいても好いと云うようなものではない。
自分一人が悲しみのために全体を不幸に陥れて好い権利はない。
悲しみが感染するものならば、悲しむ者はその悲しみを他の人に伝えることを、
伝染病を予防するが如き注意深さを以て避けなければならぬ。

悲しみのある時には、神にその悲しみを訴えよ。
神は光であるから悲しみの暗(やみ)は必ず消える。

悩みのある時には、神にその悩みを訴えよ。
神は悦びであるから、その悩みは悦びに必ず変る。

腹の立った時には人に手紙を書いてはならぬ。
必ずその手紙に剣があって相手に立腹を伝染するのである。

腹の立ったときには
「腹の立つことは何もない、大調和が実相である」と念じて神想観せよ。

            <感謝合掌 平成30年1月20日 頓首再拝>

【いまのままでしっかりと幸福になろう】 - 伝統

2018/01/25 (Thu) 17:41:59


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年01月24日)より

   (ひろさちや氏の心に響く言葉より…)

   われわれはどんな状態であっても、そのままで幸福になれる。
   わたしはそう思っている。

   わたしたちは、金持ちイコール幸福、貧乏イコール不幸と、短絡的に考えている。
   でも、それはおかしい。

   ちょっと考えれば分かるように、
   この世には幸福な金持ちもいれば、不幸な金持ちもいる。
   不幸な貧乏人もいれば、幸福な貧乏人もいる。

   あなたがもし貧しければ、幸福な貧乏人になるようにすればいい。
   貧乏を嫌って金持ちになろうとして、不幸な金持ちになるのは馬鹿げている。

   わたしたちの思い込みでは、たとえば、失恋は不幸である。
   失恋すると、たいていの人は嘆き悲しむ。

   けれども、失恋の反対の得恋(とくれん)が幸福かといえば、
   必ずしもそうではない。


   有名な…真間手児名(ままのてこな)…の話がある。

   彼女は美少女で、
   下総(しもうさ)国葛飾郡真間(現在の千葉県市川市)に住んでいた。

   沓(くつ)も履けない貧しい少女であったが、多くの男たちに求婚された。

   気のやさしい手児名は、多数の男のうちから一人を選ぶことができず、
   みずから花の盛りを入り江に身を投げて自殺してしまった。

   この手児名の話は『万葉集』に山部赤人や高橋虫麻呂が作歌している。

   たしかに、失恋は悲しい。

   けれども、真間手児名の例でも分かるように、
   得恋イコール幸福、失恋イコール不幸ではない。

   わたしたちは失恋したのであれば、幸福な失恋者になろうとすればよい。
   幸福な失恋者とは、相手の幸福を祈ってあげられる人間であろう。

   自分がいまある状態において、しっかりと幸福になろうとすること。
   それがいちばんすばらしい生き方だと思うのだが…。

          <『のんびり生きて気楽に死のう』PHP研究所>

                ・・・

幸せな金持ちもいれば、不幸せな金持もいるのと同様に、
幸せな有名人もいれば、不幸せな有名人もいる。

テレビに出ているようなタレントや俳優、あるいは政治家などだ。
表面的には華やかなだけに、みな幸せだろうと思ってしまうが…。


「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子さんの言葉がある。

幸せな人とは、まさに、置かれた場所で咲いている人。

他人をうらやむ人は、幸せにはなれない。

不幸な人ほど、他人と比較をする。


いまのままで、しっかりと幸福になれる人でありたい。

            <感謝合掌 平成30年1月25日 頓首再拝>

「既に自分は幸福である」此の言葉を繰返し唱えよ - 伝統

2018/02/01 (Thu) 18:20:13


           *「光明道中記」(2月1日賞め讃える日)より抜粋

【真に幸福になろうと思うものは、既に自分が幸福であることを知らねばならぬ
                        (『生命の實相』第一巻)】

「既に自分は幸福である」此の言葉を繰返し唱えよ。
「既に自分は幸福である」と。

毎日それを繰返し重ねて行くことによって、
その人は現実生活に於いても本当に幸福になるのである。

呟くことを止めよ。
自己の不幸を口にすることを止めよ。
自己の病を口にすることを止めよ。

今ある運命を喜んで受けよ。
友は悪口を言われる毎に悪しき友となり、汝に仇(あだ)する者となるであろう。

運命も、それを呟く者には仇する者となり、
それを賞め讃える者には幸福を齎(もたら)す味方となるであろう。

世界は、観られたる通りの世界であり、呼ばれたる通りの世界である。

「アダムが生物(いきもの)に名づけたる所は皆其名となりぬ」(創世記第一章)

吾等は此の世界を幸福の世界と名(なず)けようと、不幸の世界と名けようと、自由なのである。
吾等は自分の名(なづ)け具合によって此の世界を幸福にも不幸にもすることが
出来るのである。

これから吾等は此の世界を楽しい世界と呼ぼう。

            <感謝合掌 平成30年2月1日 頓首再拝>

《真の幸福感》 - 伝統

2018/02/16 (Fri) 18:16:02


      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P30~31) より

人間の真の幸福は”物質的なもの”を求めることによっては得られないのである。
物質的なものからも幸福感は得られる。
併し、それは真の幸福感ではないから永続的な幸福感ではないのである。

真の幸福感は霊的価値の追求によってのみ得られるのである。
霊的価値は、肉体という肉眼に視えるものを楽しませることによっては
得られないのである。

「個」たる肉体の奥にある普遍的なるもの、
共通的生命に対して貢献をなすことによって得られるのである。

何故(なぜ)なら、
人類共通の生命は、物質ではなく、霊的なものであるから、
人類の共通的生命に奉仕することによってのみ
霊的価値を獲得した悦びが得られるのである。

            <感謝合掌 平成30年2月16日 頓首再拝>

言葉が人間を幸福にする - 伝統

2018/02/18 (Sun) 18:58:58


        *『真理』第5巻女性篇(P220~221)より

ともかく言葉が一切を支配しているのです。

ですから、皆さんが幸福になろうと思ったら、
まず、「私は幸福だ」と暇ある毎に唱えることです。

「先生私は不幸です。不幸なのにどうして幸福だなんて唱えられますか」
という人があるかもしれないが、そうじゃないのです。

わたしの詠んだ歌に、

「漂える雲のかなたにまん丸に澄みきる月ぞわが相(すがた)なる」

というのがありますが、

お空に雲が漂うておっても、
いまだ一度もお月様には雲がかかったことがないのです。

お月様に雲がかかったように見えるのは、
実は地球に雲がかかっていて、
そこから月を見るからです。

            <感謝合掌 平成30年2月18日 頓首再拝>

勇気を出して善き習慣に移りなさい - 伝統

2018/02/19 (Mon) 18:53:32

 
         *『真理』第3巻初学篇(P59~61)より
 
あなたが凡ゆる面から幸福になろうと考えられますと、
あらゆる方面に生長の家で説いている真理を応用しなければなりません。

どんな小さな隅々でも次に述べるような色々の点を反省して
光明思想で充分照らして見なければなりません。

家庭は、本当に和顔愛語になっているか。

尖った声や、怒鳴り声を出していないか。

眉をひそめることはないか。

朝起きたときに、家族互いに神の子らしく挨拶しているだろうか。

お食事の前には、食物に感謝しているだろうか。

どこかに行き届かない点はないだろうか。

『今』を本当に生かしているだろうか。

なまけてはいないだろうか。

深切に於いて欠くるところはないだろうか。

生活を誤魔化してはいないだろうか。

人を憎んでいないだろうか。

持越苦労をしてはいないだろうか。

取り越し苦労をしてはいないだろうか。

あまり急ぎ過ぎてはいないだろうか。

あまりあせり過ぎてはいないだろうか。

何か自分のことや他の事に引っかかってはいないだろうか。

・・・・・このような点についてみんな良く考えて見て
生長の家とちがう生き方をしていたと思ったならば、
是非とも勇敢に今までの生き方を光明思想の明るい生き方に改めなければなりません。

多くの人たちは、悪い習慣を続けて行うのには非常に勇敢でありますのに、
その悪い習慣を止めて善い習慣に変えなさいと云うと、
その変える事がなんだか《きまり》が悪くて、
やはり元の悪い習慣をいつまでも続けてやり勝ちであります。

たとえば朝起きたとき、親や良人にやさしい顔に微笑を含んで
『おはようございます』と挨拶しなさいと教えると、
その挨拶すること其の事は大変善い事だと知っていながら、
さて自分が挨拶する段になると、今迄の習慣を変えることが
何だか恥ずかしくなるのです。

そこに今までの習慣をかえる勇気がいるのです。

善を行う勇気ほど大切なものはありません。

これが善いと思ったらそれを勇気を出して実行しようではありませんか。

            <感謝合掌 平成30年2月19日 頓首再拝>

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