伝統板・第二

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人間は死なない③ - 夕刻版

2017/07/24 (Mon) 18:28:18

  *伝統板・第二「人間は死なない②」からの継続です。
    (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7189960 )


《人間は進歩と向上あるのみ》

     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P163~164) より

変化を悦びと見ないで、
過去の栄えと今の衰退とを比較して歎く者は憐れなるかな。

また過去にありし労苦を反芻(はんすう)して、
持越し苦労を続ける者も愚かなるかな。

植物に春夏秋冬の変化があるが如く、人生にも春夏秋冬があるのである。

冬が来て外に目立って伸びない時に植物は年齢の間隔をせばめて
堅緻な材質をつくるが如く、人間も艱難で鍛えられて堅実なる
人格と不撓(ふとう)の意志とが養成せられるのである。

未来の変化を想像して取越苦労をする者は、
神の此の世を“変化の芸術”とした摂理と慈悲とを知らないものである。
未来は悉く現在よりも、内容的に豊かにして富める者となることは間違いないのである。


年老いれば、外から見れば、形容枯槁し、その姿に老醜をあらわすと雖(いえど)も、
それは蚕が脱皮するに先立ちて、その皮膚の色変化し醜くなるのと同じことであって、
も早(は)や役に立たぬ外皮を脱ぐ準備をしつつあるに過ぎない。

吾れら更に脱皮して霊界に天翔けらん。
人間の生命には、ただ進歩あるのみ、向上あるのみである。


・・・

<関連Web>

(1)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
   「何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71

(2)伝統板・第二「あの世とは?~あの世からの現地報告より」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6941482

(3)伝統板・第二「「霊 の 書」」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6786757

(4)伝統板・第二「人間は死なない①」
    (http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6760169

            <感謝合掌 平成29年7月24日 頓首再拝>

人は死んだら必ずここに帰ります - 伝統

2017/07/25 (Tue) 19:05:52


      *「死帰 人は死んだら必ずここに帰ります」喜多良男・著 より

(1)私は霊界と人間界を40年以上に亘り何度も行き来し、その時に見聞きしたこと、
   あるいは人間界と霊界とのつながり、現世と来世とのかかわり方、
   どのような人生を送ればいいかということを、ここに綴ってみました。

(2)私たちの本当の人生のは、死んでから始まるのです。
   この世の人生は「試験されている」のだと思って下さい。
   試験の成績によって次に行く場所が決まります。

   簡単にいえば、人生においてどれだけの「利他愛」をなしたかということです。

   利他愛とは「自分がどんなに困難な立場にあろうと
   人を幸せにしたいと願う心」です。

   霊界とは利他、すなわち「愛だけが存在している」ところです。

(3)他人のために施した善意は絶対に消えません。
   「霊的成長」が得られるからです。
   それこそが「霊界」にとって最も重要なことであり、
   それ以外の目的はありません。

(4)自殺は大きな罪になります。

   せっかく与えられた修業の場を自分勝手に放棄したことにるからです。
   ですからどんなに苦しくても、どんなに悲しくても
   決して死を選んではならないのです。

   辛いことから逃げたつもりで自殺したのに、
   まさか続きがあるとは思ってもみなかったでしょう。
   人生で苦しいことや辛いことは当たり前なのです。

   そのために人間界に来ていることをしっかりと心に置いて過ごして下さい。

(5)人間界での男女の結婚が肉体の結びつきだけで霊的な結びつきがない場合、
   死とともに離れ離れになり、二度と会うことはないのです。

   人間界での愛は利己性を伴った愛のため、
   霊界ではまったく通用しません。
   人間の大部分の愛は錯覚に近く、本当の愛は存在しないのです。

(6)結婚は、ほとんどのカップルは
   性格や趣味が合わない同士が一緒になっているはずです。

   なかには相性の良いカップルもありますが、そのような場合はたいてい
   どちらかが早死するとか、病気になるなどの修行を選びます。

   結婚生活はお互いががまんしてこそ成り立っているのです。

(7)人間界に残すものなど、何もない方がいいのです。
   特に欲は人間界にいる間に必ずすててから霊界に来るようにしてください。
   さもないと自分自身が辛いことになります。

            <感謝合掌 平成29年7月25日 頓首再拝>

地獄界に強制的に送られることはない - 伝統

2017/07/26 (Wed) 19:13:20


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P64~66)より

(きた よしお)

(1)地獄界には3つの段階がありますが、
   みんな自分から進んでいくのです。

   そこが自分に合うので、自らそこへ行きます。
   その人たちはそこでしか生活ができないからです。

(2)そこではいつもウソをついたり、ケンカをしたり、ののしったり、
   人間界でやってきたことと同じことを延々と繰り返していました。

(3)地獄に行く人は、死んでも欲が抜けない人です。

   生きている間に反省すればそれでいいのですが、
   精霊界に行ってもまだ欲が残ったままの人、
   嫉妬や妬みが残ったままの人は地獄に行きます。

   つまり、嫉妬や妬みは、自分さえ良ければいいという
   強い欲から発するからです。

            <感謝合掌 平成29年7月26日 頓首再拝>

初めての地獄界探訪 - 伝統

2017/07/27 (Thu) 18:26:51


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P102~106)より

(きた よしお)

(1)それは、20歳過ぎの秋だったと思います。
   導きの霊の班長に連れられての探訪でした。

(2)第一地獄界

  ①霊界のように美しいところとは正反対の、ゴミ溜めのようなところでした。
   薄暗くて異様な匂いが立ち込めた場所で、
   私は思わず吐き気をもようしました。

  ②人々はゴミを大事そうに集めて、それぞれがゴミの山を作っています。
   これは全部自分の宝物で誰にも渡さないと言うのです。

  ③新聞紙のようなものをお札の大きさに切って束にして、
   大きな袋に入れている人もいました。

   大きな袋に石ころや鉄クズを入れ、これはダイヤモンドとか純金だと
   言っていました。

  ④班長(導きの霊のリーダー)は私に
   人間界のときの欲が捨てられずにいる人ばかりが棲んでいるところだ、
   と説明してくれました。

  ⑤霊界の説得にも応じず、自分たちはそれでいいと
   満足しているそうです。そして、この世界しか知らないから
   こうなるのだと教えてくれました。

  ⑥一瞬たりともいたくない場所です。
   美しいものは何ひとつなく、川はものすごい異臭に満ち、
   植物といえば棘のあるものばかりで、空はどんより曇り、
   あちこちで争いごとが起きていました。


(2)第二地獄

  ①第二地獄では反省している霊も多いのですが、反省しないままもう一度
   人間界の修行に行く霊もあり、最近は人間界でまた悪さをして
   帰ってくる霊も多くなったと班長は嘆いていました。

  ②周りがみな同じような考えの霊ばかりなので、たいていの場合、
   人間の欲から抜けられないようです。

   地獄には自己欲、物欲、名誉欲、支配欲など、欲の塊のような人ばかりが
   あつまっているので、霊界に行ったときのような気持ちとはまったく違い、
   そうてい幸せな気持ちにはなれませんでした。

  ③話しかけてくる人々は、お金の話とか、人間界で豪邸を持っているなど
   という自慢話、醜い話がほとんどで、反省している人は少なかったです。

            <感謝合掌 平成29年7月27日 頓首再拝>

霊界から地獄への働きかけ - 伝統

2017/07/29 (Sat) 18:14:47


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P66~67)より

(きた よしお)

(1)精霊界では「説得の霊」や、「導きの霊」などが指導に当たりますが、
   それを聞き入れずに地獄のほうに引き寄せられていく人が
   少なくありません。

(2)地獄に行った人には、霊界から救いのために霊が説得に行くのですが、
   それに応じるのは1割以下だそうです。

   地獄のなかでも最下層の第一地獄にいる人への説得は、
   ほとんどの場合、無理のようです。

   そこは頑固者ばかりで、救いの霊の言葉にいっさい聞く耳を
   持ちませんから、説得に行っても無駄なのです。

(3)第三地獄の人は何回か説得すれば、
   第一霊界まで引き上げることはできます。

   そうした人のなかには霊界を知っている人も少なくなく、
   説得に応じやすいようです。

            <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

自殺者の苦しみは人間界の数十倍、数百倍 - 伝統

2017/08/02 (Wed) 19:19:17


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P81~84)より

(きた よしお)

(1)自分で選んだ人生を自殺という形で放棄したのですから、
   当然、反省の日々を送ることになりますが、人間界にいたときの
   数十倍、数百倍の苦痛を味わうことになります。

(2)精霊界で会った自殺者は、窓のない独房のような部屋にいました。
  
   こんなに苦しいのだったら、もう少しまっとうな人生を送っておけば
   よかったと、泣きながら訴えてきました。

   この苦しみはいつまで続くのかと聞きますので、導きの霊の班長に
   尋ねると、数百年は苦しみから抜けられませんと教えてくれましたので、
   それを伝えると、がっくりとうなだれて泣き崩れてしまいました。

(3)死んだらあの世で一緒になれると心中する人もいますが、
   とんでもないことです。

   2人とも修行を途中で投げ出して死ぬのですから、
   霊界で一緒になることは絶対にありません。

   時が経つにつれて、2人とも心中したことを悔いて恨み合い、
   なんと浅はかなことをしてしまったかと反省ばかりしていました。

(4)なぜ自殺者にそれだけ厳しいのかといえば、自分で決めて自分の人生を
   選んできたにもかかわらず、それを守れなかったからです。

   みんなこの世に生まれてくるときに、
   寿命は天界が決めますが、修行内容は自分で決めてきます。
   修行内容を決める際、持てるもの(解決できるもの)しか、
   私たちは人間界に持ってきていません。

   だから必ず乗り越えられるはずなのです。
   乗り越えられない修行はありません。

(5)精霊界では自殺した人以外に、死刑になった人の話を聞いたこともあります。
   その人は死刑になったのに、なぜまだ生きているのかと悩んでいました。

   死刑執行は予告なしで行われます。
   それが精神的に耐えられないそうです。

   しかも死刑執行で終わりではなく、死んだあとには精霊界で
   魂の奥底まで見透かされる厳しい尋問が待っています。

   人間として生きたときの行ないなどの尋問を受けて、
   どれだけ反省するかによって行くべきところが決まります。

            <感謝合掌 平成29年8月2日 頓首再拝>

堕胎は霊界から見ればまぎれもない殺人 - 伝統

2017/08/04 (Fri) 21:07:34


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P88~90)より

(きた よしお)

(1)堕胎は、子どもを殺すことです。

  ①死後、母親は堕した子どもと霊界で対面させられます。
   あなたが堕胎した子どもですと会わされるのです。
   そして初めて母親は反省する場合が多いですね。

  ②霊界はものすごく反省の場が多いところです。
   殺した医者も、反省させられます。

(2)お腹の子どもに魂が入るのは、だいあたい3か月くらいが目安に
   なりますが、それまでなら堕しても大丈夫という話ではありません。
   魂が宿ってなくても生命はあります。

(3)クローンのような技術も良いとは思えません。
   人間の本来のあり方からかけ離れています。

(4)生れてこなかった子どもの霊を水子の霊という人がいますが、
   そういう霊はありません。

   人間として生まれてくるとき、人間界を体験するために、
   最初はみんな幼児霊として人間界にやってきます。

   その霊はもともとお母さんのお腹のなかだけを経験して、
   人間界に生まれないまま霊界に帰る幼児霊です。

   その幼児霊はそのためだけに来て、そのまま霊界に帰りますから、
   とどまって水子の霊になるというのは考えられません。

(5)子孫の繁栄も自然のことであって、人工授精をやり始めたら
   キリがありません。

   自然に男女が交わって子どもが生まれるというのが、やはり
   この世の自然のかたちです。
   そうでないとやっぱりうまくいきません。

            <感謝合掌 平成29年8月4日 頓首再拝>

死とは、本来の自分の居場所に帰るだけのこと - 伝統

2017/08/06 (Sun) 19:49:06


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P92~93)より

(きた よしお)

(1)私は5年に1回、霊界の会議に出ていますが、
   本当は、寿命が終わっているのに、
   病院では無理やり生かしている場合が多々あります。

   たくさんのチューブやモニターなどのコードにつながれた状態ですね。

   そうしたことも霊界は嘆いています。
   本人はすでに精霊界にいるのに、肉体だけこの世にいるのですから、
   そんなふうに命を延ばす延命治療はよくありません。

(2)死に対する正しい理解が必要なのです。
   死は、本当はうれしいものです。

   本来自分が棲んでいたところ、
   家族以上のつながりがあるところに帰るのですから。

            <感謝合掌 平成29年8月6日 頓首再拝>

誰もが自らの人生を選んでくる - 伝統

2017/08/08 (Tue) 19:20:33


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P108~111)より

(きた よしお)

(1)人が生まれてくるときの条件は、自分自身が選んで決めるのです。

(2)障がいがあって生まれる方は、自分でそうした厳しい生を選んでくるのですから、
   人間としても最終段階の修行の人が多いのです。

   そして障がいがあって生まれるお子さんは、
   お母さんのためにもその生を選んでいます。
   お母さんを選び、そのお母さんに修行をさせるために来たとも言えるのです。

   ですから基本的に霊格が高い人たちです。

   障がいがあるお子さんのお母さんはたいへんでしょうが、
   霊界から見ると、とても幸せなお母さんたちです。
   なぜならそうした霊格の高い子どもたちに選ばれているのですから。

(3)精霊界で、身体に障がいがあり車椅子の生活をしていた人で、
   車に轢かれて亡くなったばかりの人に会ったことがあります。

   その人は、あえてそのような修行を選んで人間界に来たのですが、
   身体の不自由な体験をしてたいへん勉強になり、
   貴重な体験だったと言っていました。

   なぜそのような修行を選んだのですかと尋ねると、今までいろいろな修行を
   してきましたが、これが人間界で最終の修行だったのですと話してくれました。

   最終段階の人たちはあえて、目が見えなかったり、歩けなかったり、
   重い難病を自ら選んで修行するようです。

   身体の不自由な生活をすると、人間の醜い部分と優しい部分がはっきり見えてきて、
   見せかけの親切か、本当の親切かがすぐにわかるそうです。

(4)あとで、班長に尋ねたら、その人は人間界の修行を終了して、
   これから第一天国に入る修行を他の星でするのだと言っていました。

   (天界に行くには人間界を終えて、いったん他の惑星で修行する必要があります)

(5)障がいがある方々は霊界修行の最終段階の方が多いです。
   とくに生まれてきたときからの障がいは最終段階ですが、
   途中で障がいを背負うようになった場合は修行の一部ということが
   多いようです。(カルマを解消するためにそういう人生を選択)

   障がいのある方を支えている人たちはたいへんそうに見えますが、
   そういう修行ほど精霊界に帰れば優遇されます。

   また、霊格の高い人は、何のために修行しているのか、
   自分自身でもわかっています。

            <感謝合掌 平成29年8月8日 頓首再拝>

子どもは母親を選んで生まれてくる - 伝統

2017/08/10 (Thu) 19:27:46


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P112~113)より

(きた よしお)

(1)生まれて来る子どもは、霊界が決めた3人の母親の候補者のなかから
   選んで生まれてきます。

(2)そして何回も下見に来て、この人が私のお母さんと自分で決めて
   その肉体に入るのです。

(3)妊娠後、3か月くらいからつわりが始まりますが、
   そのころに霊が肉体に入るからです。

   母親は食べものの好みが変わったり、いろいろな変化が起きますが、
   それはお腹に入った子どもの影響です。
   兄弟でもつわりの具合が違うのは、子どもの個性によるからです。

(4)幼児霊について

  ①幼児霊とは、胎児として人間を経験するためだけに宿る霊であり、
   ふつうに生まれてくる成人の霊とは違います。

  ②人間として生まれてくる前に、人間とはどのようなものか、
   母親のお腹に入って、人間界の様子を見たり体験するために
   地球にやってきます。

   いきなり過酷な人間界に生を受けるのはたいへんなので、
   いわば予行演習のようなものです。

  ③この世に誕生することはないので、人間のそれぞれの事情や身体の不具合
   などによって死産や流産、堕胎することになる人の胎児として宿ります。

   そして母親のお腹のなかから人間の感情なども体験します。

            <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

死とは、本来の自分の居場所に帰るだけのこと - 伝統

2017/08/19 (Sat) 19:28:11


      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P157~158)より

(高橋 呑舟)

(1)宗教はいろいろな妨げを作り出しますが、
   宗教心は必要だと思います。

(2)宗教心とは霊界の定めに基づく精神要素だからです。


(きた よしお)

(1)宗教を信じることは、霊界ではあまり意味を持ちません。

(2)信条は心を束縛し、その洞察力を鈍らせ、
   善、悪に対する考え方をゆがめてしまうのです。

(3)信条を持つことによって思考の自由を失い、
   偏見を持つようになることがあり、
   そのことが魂の成長の妨げになることもあるのです。

            <感謝合掌 平成29年8月19日 頓首再拝>

霊界の住人と基本構造 - 伝統

2017/08/20 (Sun) 20:00:24

      *「私たちは死んだらここに帰ります」高橋 呑舟/きた よしお/著
        (P30、P38~39)より

(きた よしお)

《住人》

(1)私は霊界で戸籍係の仕事をしていたこともありましたから、
   それぞれの世界に何人いるか、その人数を把握しています。

(2)天上界

  ①第三天上界(天界)       10人(神様は1人)
  ②第二天上界          2.8億人
  ③第一天上界         10.1億人

(3)霊界

  ①第三霊界          54.2億人
  ②第二霊界         156.7億人
  ③第一霊界         311.6億人

(4)地獄

  ①第三地獄(第一霊界に近い) 35.4億人
  ②第二地獄          16.3億人
  ③第一地獄(一番過酷)     3.3億人

《基本構造》

(1)人間界の官僚組織のような堅苦しいイメージを持たないでください。

(2)そこは枠にはまったものではなく、
   各領域に境界が設けられているわけでもありません。

   同じ霊格の者同士が自然に集まって大きな集団を成しています。
   どこにも強制力などは存在していません。
   すべてそれぞれの霊体の自主性に任されています。

(3)この9領域のなかには無数のグループが存在しています。

(4)霊界に行くと、人間界の記憶は徐々に消えていきます。
   霊界から人間界に修行に来るときも、霊界での記憶は徐々に消えていきます。

   ですから霊界に行くと、親、兄弟、夫婦、親族なども関係がなくなり、
   人間界での先祖との関係もなくなります。
   さびしいようですが、これが事実です。

(5)霊界に行った時点で、次の人生の準備を始める人、しばらく霊界にとどまる人、
   守護霊としていろいろな人を守る役割の人などに分かれます。

   その期間は100~300年かかります。

(6)精霊界は、亡くなったばかりの人が行くところで、
   天界や霊界、地獄とは役割が違います。



・・・

<参考>

私たちは死んだらここに帰ります
https://ameblo.jp/puraicuhapa/entry-12259225617.html

私たちは死んだらここに帰ります。②
http://ameblo.jp/puraicuhapa/entry-12264958852.html

・・・

            <感謝合掌 平成29年8月20日 頓首再拝>

人間の生と死を解明す - 伝統

2017/08/22 (Tue) 18:45:31


       *「如意自在の生活365章」(P64~65)より

また”死する”ことを”他界する”ともいうが、
それはあたかもアパートの一室から他の室に入るようなものである。

すぐに他の室に入ることができないで、廊下へ出て、隣室の人を訪れる。
廊下はまだ人の住む世界ではないのであって空白である。

しかし、廊下を通過しなければ、次の部屋に入ることができないのである。
その”廊下”に当たる部分がいわゆる”死”という現象なのである。

 
釈尊は「涅槃経」の中で、人間の”死”を月の”没”に喩えた。
そして、月は没しても、月はなくなったのではない。

その如く、人間は死して視界から見えなくなっても、
人間そのものは死んだのではないとお説きになった。

ベルグソンは、現象界にあらわれている場合の人間を、
釘にかかっている着物に喩えた。

そして、”肉体”を”釘”にたとえて、肉体の死を釘が抜けることに喩えた。
そして釘が抜けて着物が下に落ちてテーブルの陰に隠れても、
その着物は見えなくなったが、滅したのではないと同じように、
人間は肉体が死んでも滅したのではないといった。

            <感謝合掌 平成29年8月22日 頓首再拝>

あの世で行なう人生の振り返り - 伝統

2017/08/31 (Thu) 20:53:55


      *「聞いてビックリ「あの世」の仕組み」松原照子・著(P35~38)より

(1)あの世では、人生の真実を、映像として何度も繰り返し見せられます。
   良いことも悪いこともすべて、包み隠さず顧みなければなりません。

(2)人生の振り返りは、一部の人には、とてつもない苦行となります。
   というのも、繰り返し見せられるのは真実のみ、
   言い訳のできない世界だからです。

(3)自分ではわかっていなくても、知らないところで傷つけるような
   行為をしていたとしたら、それが繰り返されます。

(4)たとえば、詐欺の一部に関与していた場合でも、全体像を見せられのです。
   詐欺でお金を騙し取られて嘆き悲しむお年寄りの姿、それによって
   自殺をしてしまった人がいたとしたら、ひたすらその真実を見せられるのです。

   隠し事は、一切できません。

(5)生前に行なってきた、嘘、偽り、強欲、傲慢、悪事、それによって
   傷つき悲しんだ人・・・それらが目の前に、無限ループのように
   繰り返されるのです。

(6)殺人を犯した人は、ひたすれそのシーンを見せられます。
   相手の痛み、悔しさ、無念さなども、自らのことのように感じ取ります。

   自殺した人は、その行為と自らの後悔が何度も繰り返されます。

(7)後悔の念を持ったままや、罪の意識を抱えたまま亡くなられた場合は、
   何度も繰り返される無限ループから抜け出すことができません。
   まさに無間地獄。

(8)この世での生き方が、あの世での過ごし方に大きな影響を及ぼします。
   もちろん、善行を数多く行なってきた人にとっては、天国であることは
   間違いがないと不思議な世界の人はおっしゃいます。

(9)あの世で、人生のすべとを振り返るというのは、自分で自分の生き方を
   顧みて、そして判断するということ。

   この世で生きていて、自分の人生のなかで行ってきた良いこと悪いこと、
   すべてを知っているのは自分自身です。

   また、自分で知らないところで人を陥れていたとしたら、
   自覚が足りなかったと理解しなければなりません。

   裁くのは、閻魔さまではなく自分自身なのです。

   それが、あの世で行わなければならない重要なことのひとつなのです。

(10)あの世では、隠し事、言い訳はできないのです。

(11)あの世には、「人類記録所」があると、不思議な世界の人はおっしゃいます。 

   「こちらにあるのは、すべての人の一生が記録された”人類記録所”です。
   そこに記録されているのは、あらゆる真実です。膨大な量の記録がありますが、
   自分の一生の記録はすぐに見ることができます」

   自分以外の記録を見ることも可能ですが、
   あの世での学びが進まないと閲覧はできないようです。

   興味深いエピソードとして、

   「織田信長は、本能寺の変で49歳で死んだことになっているが、
   人類記録所には 享年72歳とある」

   これがもし、真実としたら、彼は、23年間どこかで生きていた
   ことになります。

   ・・・

<参考Web:見詰めるべきは自分の良心
      http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/d89fc61e79c8bb904246aa2fbe8f7d38 >

   ・・・

<関連として、上記、(11)における織田信長について、
臨死体験者による、次の2つの情報を別のスレッドで紹介させていただきます。

(1)臨死体験~木内 鶴彦さんの場合
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6635843

(2)臨死体験~中山康直さんの場合
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7621792

            <感謝合掌 平成29年8月31日 頓首再拝>

人間は死なない - 伝統

2018/02/13 (Tue) 20:04:47


         *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月13日)」より

悲しいことがあれば、喜びの初めである。

イエス・キリストも
「幸福なるかな悲しむ者。その人の慰められたん」と言っている。

物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたような人が、
その物質なる富が眼の前から剥落した時に、物質なる肉体があるいは病み、
あるいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。

悲しむだけ悲しむがよい。
涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。

浄まり浄まったとき、
本当の世界は物質の世界でなかったということがわかるのである。

浄まり浄まったとき、
本当の人間は物質の肉体ではなかったことを知るのである。

「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、
死んではいないのであって、彼が《生きた》程度に従って、
より自由に生き通ししていることを知るのである。

人間は死なない。
ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。

このことについては、「生命の實相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を
読んでいただきたい。

肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、
かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びるものである。

陛下のために、国家のために、全国民のために、
何か捧げて死することができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

・・・

<参考Webとして、「生長の家光明掲示板・第一」内スレッド
 「人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠 
 「小林昭三青年のこと (1767)」が あります。
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=379  >

            <感謝合掌 平成30年2月13日 頓首再拝>

『人間死んでも死なぬ』 - 伝統

2018/02/21 (Wed) 18:42:35

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月21日)」より

今日は記念すべき本が出る。
わたしの『人間死んでも死なぬ』という本。

これがわたしが関東大震災に遭って無一物になって郷里へ帰って、
職業もなく養父母の許で居候しながら無数の心霊現象の原書を取り寄せて
そのうちから興味のある事実を取り上げ、系統づけて書きあげて、小西書店から
『心霊現象と宗教思想』と題して出した本を最近に増補改訂したものである。

類は類を招び、貧しい運命の時には、貧しさを招ぶものと見えて、
当時素寒貧のわたしに、小西書店は一銭の印税もよこさなかった。

わたしはやむをえず印税代わりに紙型(しけい)を貰っておいたのを友人鳥谷部君が
生活に困っているので、その紙型を差し上げて、原稿料も活字の組賃も不要で
鳥谷部君の生活費の幾分にでもなるように進上した。

これは『信仰革命』と題して再版まで出ているから鳥谷部君は幾分か
これで助かっているはずである。

今この本にさらに百数十ページを加えて『人間死んでも死なぬ』と
題する本として出したのは、戦死した軍人の遺族への贈り物としてである。

人間は肉体ではないから、肉体は死んでも「人間《そのもの》」は死んではいない。
この理論と哲学とは『生命の實相』のあらゆる部分に書いてある。

しかしその実証は、死んだ人が出て来て実際に通信した無数の実話、
死の刹那に霊魂の幽体が脱離する瞬間に撮った写真、
その死後の状態はそういう状態であるか
 ―― これは『生命の實相』の「霊界篇」にも出ているが、

この書に採録したのは英国心霊大学(ブリティッシュ・カレッジ・フォア・サイキカル・リサーチ)の
学長マッケンジー博士(数年前物故)が精神統一状態中の霊魂出遊現象によって
七圏に分かれている霊界を探検踏査してそのその状態を記述した記事であって、

それには当時「哲学者グループの集まっている」霊界の第四圏にいた
ハーヴァード大学のウィリアム・ジェイムズ教授の霊が指導霊(ガイド)に
なったといわれている。

その記録は『生命の實相』中のヴェッテリニの霊界通信と符節を合わして
霊界存在の真実性をいっそうハッキリ確認せしむるものがある。

この書を戦死者の遺族に、また戦死者でなくても、
良人を、妻を、子を、親類縁者を失える悲しめる遺族たちに贈ることは
大いなる意義と慰めとを与うるものであると思う。


先日高知の一誌友から、戦死せる婚約の青年に殉ずるために戦死の報知を
受け取ると同時にカルモチンを致死量飲んだ令嬢が医者の手当で蘇生したが、
殉死を覚悟せる彼女は、遺骨到着の日にふたたび自殺すると主張して頑として応じない、

そして「わたしは『生命の實相』の全十五卷をことごとく読みましたが、
その3分の1は運命であり、3分の1は自己の決定により、
その3分の1は霊界の高級の霊魂人(スピリット)の運命の修正により
避けうるとあるあるだけで、

自殺は悪いとは『生命の實相』には書いてはないから、自殺は悪いとは思いません」と
主張するので、なんとかわたしから自殺を思い止(とど)まらす手紙を書いてくれ、
という要求を受け取った。

そのわたしからの手紙が到着しない先に遺骨が着いた。
彼女は再び遺骨の到着した日に、前回よりも大量の超致死量の薬剤を呑んだ。
しかし彼女は死ななかった。霊界から高級霊の干渉があったのであろう。

しかもさらに彼女は第3回目の自殺を考えていた。
そこへわたしからの手紙(家内に代筆をさせた)が着いた。
その手紙によってかろうじて彼女は慰められ、3回目の自殺は思い止まったのであった。

わたしの記憶のうちには、ある霊界通信に因(よ)れば、
自他を超越した神の目からは、自殺は他殺と同じく殺人であると書いてあって、
そのことを『生命の實相』の本の中に書いておいたと思って
『生命の實相』の索引によって検(しら)べてきたが見出すことができなかった。

だから、それに対する返事は記憶によって書いたのだった。

あとで気がついてみたら、それは今度出る『人間死んでも死なぬ』の本の中に
自殺者の霊魂が霊界に移行しても自殺の時の行為そのままの状態で、
たとえば短刀を腹に刺した状態で永らく苦悶を継続しているのだ
というような霊界通信の実例が書いてあるのであった。

しかもこの書に収められている霊界通信の中には、
欧州大戦中砲弾の破片にあたって戦死した兵士の霊魂が、
少しも傷つかずに自分の遺骸を眺めながら歩いていたという通信もある。

我執で死ぬのと、国家に献(ささ)げて死するのとは、
死の意義の異なるのがこれでも分かる。
戦死を悲惨だと思うのはまちがいである。

このまちがいの中から反戦思想が生まれ、戦後の国家擾乱運動がはぐくまれる。
霊界の消息を知るとき、戦死は実に光栄であり、霊魂の高揚であるのだ。

・・・

<関連Web:「何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71 >

               <感謝合掌 平成30年2月21日 頓首再拝>

人間に死はない - 伝統

2018/04/12 (Thu) 18:44:23


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月12日)」より

大脳を除去した鶏(にわとり)は食物(しょくもつ)を漁(あさ)ることはできないが、
穀物をその嘴(くちばし)に入れてみると、やはり嚥下(えんか)する。

蛙の心臓を切りとって塩水中に置けば、暫時心臓は生活を続けて、その鼓動を続ける。
これは意識は脳髄から発現するものではなく、
脳髄も胃腸も心臓も「意識」のラジオ・セットにすぎないことを物語っているのである。

意識の本体は別にあって、それが大脳にも、胃腸にも心臓にも感応して、
同一リズムの生活現象を連絡的に継続するのである。

人体全体は大小各種のラジオ・セット(各器官)が同一放送を受け
て一大交響楽を奏しているようなものである。

ただ、その各ラジオ・セット(各器官)は独立したものではなく、
複雑に連絡しているので、器官相互の連絡が断たれたとき、
各セットの機能が完全に行なえなくなり、
各セットに、生命の放送の波が再現しなくなるだけである。

この現象を「死」というが、
「生命」そのものは死んだのではなくて、「人間」そのものは死んだのではなく、
ただ「人間」が利用していたラジオ・セットが破壊しただけである。

もっとも、肉体なるラジオ・セットの製造者は誰であるかというと、
『甘露の法雨』にあるとおり、「生命(せいめい)」(人間それ自身)である。

肉体はその「生命(せいめい)」が
「念(こころ)の糸を組み合わせて」作ったものではあるが、
それが小さい故障である場合には再び「念(こころ)の糸」で修繕して再用する。

しかし、大なる損傷であって、「念(こころ)の糸」で補填(つぎはぎ)するよりも、
新たに根本から「念の糸」で編み直しをする方が便宜であり、
その方が環境も位置も変化して「生命」それ自身進化に都合のよい場合には、

「生命」は、その「肉体」なるラジオ・セットをそこで修繕しないで、
新たなる位置(胎内)を物色してそこにラジオ・セット(肉体)を
「念(こころ)の糸」を組み合わせて造築しはじめるのである。

人間に死はない。このことが本当にわかれば人類は歓喜する。

            <感謝合掌 平成30年4月12日 頓首再拝>

人間は死んでも死なないものだ - 伝統

2018/04/25 (Wed) 18:12:15


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月25日)」より

スウェーデンボルグは18世紀の有名なる宗教哲学者兼霊能者であった。

1761年スウェーデンの女王はウェーデンボルグの評判を聞いてこれを招き、
女王以外の生存者の誰も知らないある故人に関する事柄をスウェーデンボルグに
聞いたことがあった。

すると数日後、彼は幽界と交通してその女王に答えをもたらしたのであったが、
その答えはまったく的中していたので懐疑的な女王を驚かした。

また、同国の首府に駐在のオランダの使節が死亡した後、
ある金銀細工師が使節に用建しておいた銀製の食器の代価を
使節の未亡人に要求してきた。

使節未亡人は、夫がその代価を確かに支払ったかどうか不明であったので、
スウェーデンボルグに頼んで、夫の霊魂を招び出してもらって
その事実を聞き訊(ただ)すと、夫の霊魂は出て来て
「死の7カ月前に支払った。その領収書はどこそこの箪笥にある」と答えた。

果たしてその教えるとおり箪笥の中から、その領収書が発見されたということは
有名な歴史的事実である。

人間は本当に死んでも死なないものだ。

遺族たちよ、この一事を知っていただきたい。

            <感謝合掌 平成30年4月25日 頓首再拝>

《肉体の死は 「 滅ぶべきもの 」 からの脱却である》 - 伝統

2018/05/18 (Fri) 19:20:10


        *『 生長の家 』(昭和25年3月21日の法語)より

   病気の真っただ中にいても
   健康なる自分を見出(みいだ)すのが智慧(ちえ)である。

   不幸の真只中(まっただなか)にいても 幸福を見出すのが智慧である。

   釈迦(しゃか)は 涅槃(ねはん)に入る時、
   自分は永遠に死なないものであるといったのである。
   彼は 肉体の死の中に 永遠の生命をみたのである。

   肉体の死は ある意味から云(い)えば
   「 死すべきもの 」 からの脱却であるということができるのである。

   だから肉体の死は 永遠の生命と密接につながっているものである。
   肉体の死とともに 人間は 「 滅ぶべきもの 」 から解き放たれるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成30年5月18日 頓首再拝>

「本当の自分」に死は無い - 伝統

2018/07/23 (Mon) 19:53:49


        *『光明道中記(7月23日 立場を超える日)』より

【ついに生命は肉体の繭を必要とせざる時到らん。かくの如きとき、
 生命は肉体の繭を食い破って一層自在の境地に天翔らん。(『甘露の法雨』)】


馬大師の示寂は立派なことであったが「肉体」と「本来仏なる本当の自分」との
截然(せつぜん)たる分離は、南獄禅師に「肉体」なる瓦を磨いても
「仏」にはならないと教えられた時に既に悟られているのである。

馬大師は1カ月前に自分の死期を予言したが、

釈迦は「観普賢菩薩行法経」のなかで、
「却(さ)りて三月(みつき)我涅槃せん」
とその入滅を予言していられる。

死期が近づくと釈迦の肉体にも衰えが見えて来、
病気とも見えるような兆候が現れてきたことは
「涅槃経」に書かれている弟子の嘆きの中に見られるのである。

特に迦葉尊者などは「世尊あなたのように色いろの善根功徳を積んで来た程の人でも
やはり死んで四大に復帰するのですか」などと言って嘆いている。

その時釈迦は

「お前は月が地平線上から出たときに月が生まれたと思うか、
また月が西山(せいざん)に隠れたときに月が死んだと思うか、
そう云うように見えるのはただ相対的立場から見るからだ。

月の性質は本来没することもない、死ぬこともない。
没したと見える時他の国の人には生まれたと見えているであろう」

と云う意味のことを説いた。

「肉体」と「本当の人間」とを切離(きりはな)し、車と牛とを切離したのである。

         <感謝合掌 平成30年7月23日 頓首再拝>

人間は死なない - 伝統

2019/02/13 (Wed) 20:00:26


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月13日)」より

悲しいことがあれば、喜びの初めである。
イエス・キリストも「幸福なるかな悲しむ者。その人の慰められたん」と言っている。

物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたような人が、その物質なる富が眼の前から
剥落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あるいは眼の前から姿を没しようとする時に、
その人は悲しむのである。

悲しむだけ悲しむがよい。
涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。

浄まり浄まったとき、本当の世界は物質の世界でなかったということがわかるのである。
浄まり浄まったとき、本当の人間は物質の肉体ではなかったことを知るのである。

「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死んではいないのであって、
彼が《生きた》程度に従って、より自由に生き通ししていることを知るのである。

人間は死なない。
ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。
このことについては、「生命の実相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、
かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びるものである。

陛下のために、国家のために、全国民のために、
何か捧げて死することができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

・・・

<参考Webとして、「生長の家光明掲示板・第一」内スレッド
 「人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠 「小林昭三青年のこと (1767)」が
 あります。
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=379  >

            <感謝合掌 平成31年2月13日 頓首再拝>

『人間死んでも死なぬ』 - 伝統

2019/02/21 (Thu) 18:16:19

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月21日)」より

今日は記念すべき本が出る。
わたしの『人間死んでも死なぬ』という本。

これがわたしが関東大震災に遭って無一物になって郷里へ帰って、
職業もなく養父母の許で居候しながら無数の心霊現象の原書を取り寄せて
そのうちから興味のある事実を取り上げ、系統づけて書きあげて、小西書店から
『心霊現象と宗教思想』と題して出した本を最近に増補改訂したものである。

類は類を招び、貧しい運命の時には、貧しさを招ぶものと見えて、
当時素寒貧のわたしに、小西書店は一銭の印税もよこさなかった。

わたしはやむをえず印税代わりに紙型(しけい)を貰っておいたのを友人鳥谷部君が
生活に困っているので、その紙型を差し上げて、原稿料も活字の組賃も不要で
鳥谷部君の生活費の幾分にでもなるように進上した。

これは『信仰革命』と題して再版まで出ているから鳥谷部君は幾分か
これで助かっているはずである。

今この本にさらに百数十ページを加えて『人間死んでも死なぬ』と
題する本として出したのは、戦死した軍人の遺族への贈り物としてである。

人間は肉体ではないから、肉体は死んでも「人間《そのもの》」は死んではいない。
この理論と哲学とは『生命の實相』のあらゆる部分に書いてある。

しかしその実証は、死んだ人が出て来て実際に通信した無数の実話、
死の刹那に霊魂の幽体が脱離する瞬間に撮った写真、
その死後の状態はそういう状態であるか
 ―― これは『生命の實相』の「霊界篇」にも出ているが、

この書に採録したのは英国心霊大学(ブリティッシュ・カレッジ・フォア・サイキカル・リサーチ)の
学長マッケンジー博士(数年前物故)が精神統一状態中の霊魂出遊現象によって
七圏に分かれている霊界を探検踏査してそのその状態を記述した記事であって、

それには当時「哲学者グループの集まっている」霊界の第四圏にいたハーヴァード大学の
ウィリアム・ジェイムズ教授の霊が指導霊(ガイド)になったといわれている。

その記録は『生命の實相』中のヴェッテリニの霊界通信と符節を合わして
霊界存在の真実性をいっそうハッキリ確認せしむるものがある。

この書を戦死者の遺族に、また戦死者でなくても、良人を、妻を、子を、親類縁者を
失える悲しめる遺族たちに贈ることは大いなる意義と慰めとを与うるものであると思う。


先日高知の一誌友から、戦死せる婚約の青年に殉ずるために
戦死の報知を受け取ると同時にカルモチンを致死量飲んだ令嬢が
医者の手当で蘇生したが、殉死を覚悟せる彼女は、遺骨到着の日に
ふたたび自殺すると主張して頑として応じない、

そして

「わたしは『生命の實相』の全十五卷をことごとく読みましたが、

その3分の1は運命であり、
3分の1は自己の決定により、
の3分の1は霊界の高級の霊魂人(スピリット)の運命の修正により
避けうるとあるあるだけで、

自殺は悪いとは『生命の實相』には書いてはないから、自殺は悪いとは思いません」

と主張するので、なんとかわたしから自殺を思い止(とど)まらす手紙を書いてくれ、
という要求を受け取った。

そのわたしからの手紙が到着しない先に遺骨が着いた。
彼女は再び遺骨の到着した日に、前回よりも大量の超致死量の薬剤を呑んだ。
しかし彼女は死ななかった。霊界から高級霊の干渉があったのであろう。

しかもさらに彼女は第3回目の自殺を考えていた。
そこへわたしからの手紙(家内に代筆をさせた)が着いた。
その手紙によってかろうじて彼女は慰められ、
3回目の自殺は思い止まったのであった。

わたしの記憶のうちには、ある霊界通信に因(よ)れば、
自他を超越した神の目からは、自殺は他殺と同じく殺人であると書いてあって、
そのことを『生命の實相』の本の中に書いておいたと思って
『生命の實相』の索引によって検(しら)べてきたが見出すことができなかった。

だから、それに対する返事は記憶によって書いたのだった。

あとで気がついてみたら、それは今度出る『人間死んでも死なぬ』の本の中に
自殺者の霊魂が霊界に移行しても自殺の時の行為そのままの状態で、
たとえば短刀を腹に刺した状態で永らく苦悶を継続しているのだ
というような霊界通信の実例が書いてあるのであった。

しかもこの書に収められている霊界通信の中には、
欧州大戦中砲弾の破片にあたって戦死した兵士の霊魂が、
少しも傷つかずに自分の遺骸を眺めながら歩いていたという通信もある。

我執で死ぬのと、国家に献(ささ)げて死するのとは、
死の意義の異なるのがこれでも分かる。
戦死を悲惨だと思うのはまちがいである。

このまちがいの中から反戦思想が生まれ、戦後の国家擾乱運動がはぐくまれる。
霊界の消息を知るとき、戦死は実に光栄であり、霊魂の高揚であるのだ。

・・・

<関連Web:「何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71 >

               <感謝合掌 平成31年2月21日 頓首再拝>

《肉体の死は 「 滅ぶべきもの 」 からの脱却である》 - 伝統

2019/03/30 (Sat) 19:30:01


          *『 生長の家 』(昭和25年3月21日の法語)より

   病気の真っただ中にいても
   健康なる自分を見出(みいだ)すのが智慧(ちえ)である。

   不幸の真只中(まっただなか)にいても 幸福を見出すのが智慧である。

   釈迦(しゃか)は 涅槃(ねはん)に入る時、
   自分は永遠に死なないものであるといったのである。
   彼は 肉体の死の中に 永遠の生命をみたのである。

   肉体の死は ある意味から云(い)えば
   「 死すべきもの 」 からの脱却であるということができるのである。

   だから肉体の死は 永遠の生命と密接につながっているものである。
   肉体の死とともに 人間は 「 滅ぶべきもの 」 から解き放たれるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

               <感謝合掌 平成31年3月30日 頓首再拝>

人間に死はない - 伝統

2019/04/12 (Fri) 20:41:56


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月12日)」より

大脳を除去した鶏(にわとり)は食物(しょくもつ)を漁(あさ)ることはできないが、
穀物をその嘴(くちばし)に入れてみると、やはり嚥下(えんか)する。

蛙の心臓を切りとって塩水中に置けば、
暫時心臓は生活を続けて、その鼓動を続ける。

これは意識は脳髄から発現するものではなく、
脳髄も胃腸も心臓も「意識」のラジオ・セットにすぎないことを
物語っているのである。

意識の本体は別にあって、それが大脳にも、胃腸にも心臓にも感応して、
同一リズムの生活現象を連絡的に継続するのである。

人体全体は大小各種のラジオ・セット(各器官)が同一放送を受け
て一大交響楽を奏しているようなものである。

ただ、その各ラジオ・セット(各器官)は独立したものではなく、
複雑に連絡しているので、器官相互の連絡が断たれたとき、
各セットの機能が完全に行なえなくなり、
各セットに、生命の放送の波が再現しなくなるだけである。

この現象を「死」というが、
「生命」そのものは死んだのではなくて、「人間」そのものは死んだのではなく、
ただ「人間」が利用していたラジオ・セットが破壊しただけである。

もっとも、肉体なるラジオ・セットの製造者は誰であるかというと、
『甘露の法雨』にあるとおり、「生命(せいめい)」(人間それ自身)である。

肉体はその「生命(せいめい)」が
「念(こころ)の糸を組み合わせて」作ったものではあるが、
それが小さい故障である場合には再び「念(こころ)の糸」で修繕して再用する。

しかし、大なる損傷であって、
「念(こころ)の糸」で補填(つぎはぎ)するよりも、
新たに根本から「念の糸」で編み直しをする方が便宜であり、
その方が環境も位置も変化して「生命」それ自身進化に都合のよい場合には、

「生命」は、その「肉体」なるラジオ・セットをそこで修繕しないで、
新たなる位置(胎内)を物色してそこにラジオ・セット(肉体)を
「念(こころ)の糸」を組み合わせて造築しはじめるのである。

人間に死はない。このことが本当にわかれば人類は歓喜する。

            <感謝合掌 平成31年4月12日 頓首再拝>

人間は死んでも死なないものだ - 伝統

2019/04/25 (Thu) 21:41:03


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月25日)」より

スウェーデンボルグは18世紀の有名なる宗教哲学者兼霊能者であった。

1761年スウェーデンの女王はウェーデンボルグの評判を聞いてこれを招き、
女王以外の生存者の誰も知らないある故人に関する事柄を
スウェーデンボルグに聞いたことがあった。

すると数日後、彼は幽界と交通してその女王に答えをもたらしたのであったが、
その答えはまったく的中していたので懐疑的な女王を驚かした。

また、同国の首府に駐在のオランダの使節が死亡した後、
ある金銀細工師が使節に用建しておいた銀製の食器の代価を
使節の未亡人に要求してきた。

使節未亡人は、夫がその代価を確かに支払ったかどうか不明であったので、
スウェーデンボルグに頼んで、夫の霊魂を招び出してもらって
その事実を聞き訊(ただ)すと、

夫の霊魂は出て来て
「死の7カ月前に支払った。その領収書はどこそこの箪笥にある」と答えた。

果たしてその教えるとおり箪笥の中から、
その領収書が発見されたということは有名な歴史的事実である。

人間は本当に死んでも死なないものだ。

遺族たちよ、この一事を知っていただきたい。

            <感謝合掌 平成31年4月25日 頓首再拝>

人は死なない - 伝統

2019/08/28 (Wed) 18:46:55

        *Web:かんながら(2019年08月28日)より

今日の話は中級者コースです。

解りにくいかもしれませんが、ざっと読んでみてください。

読んでも解らなければ、僕の文章がいまのあなたに合わないだけで、
実際にはあなたはこの真理をご存知です。


ちょっと立ち止まってみましょう。
いままでやっていたことを横に置いて、
何をするでもなくじっとしてみます。


いま何がありますか。

何が見えますか。

何か聞こえますか

身体に触れているものは何ですか?


何か考えていますか。

どんな感情ですか



いまあなたが認識している、外側内側のすべてがあなた自身です。

通常は、見たり聞いたりしているものは自分の外側にあって、
考えや感情は内側にあると思っています。

でも実際には内側も外側もなく、
あなたが意識できているもの全てがあなたなのです。


その意識は死んだ後にも残ります。

死と同時に、五感とマインドの機能は止まります。

それまでは五感とマインド(記憶や判断)を自分だと思っていましたが、
それらが消えることで、自己からの解放が起きます。

そして形なき無限の純粋意識としてのあなたが残るのです。


いまもその純粋意識はあなたとして在ります。

繰り返しますが、
見たり聞いたり考えたりしていることを認識している意識がそれです。


あなたはいまも、その純粋意識を感じています。

でもマインドが作り出すストーリーの登場人物が自分だと思ってしまっていて、
その登場人物の自分を認識している本当の自分を忘れてしまったのです。

ちょうど人生という映画に登場していた主人公を自分だと思ってしまって、
映画を見ている本当の自分を忘れてしまったのと同じです。



死ぬときはそれらのストーリーが消えますが、
それが消えたからといって本当のあなたは影響されることなくあり続けます。

余計なものが無くなった分、あなたはもっと強くあなたを感じることでしょう。


これが「人は死なない」と言われていることの意味です。

   ( https://abetoshiro.ti-da.net/e11241679.html )

            <感謝合掌 令和元年8月28日 頓首再拝>

人間に死はない - 伝統

2020/04/13 (Mon) 01:22:37


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月12日)」より

大脳を除去した鶏(にわとり)は食物(しょくもつ)を漁(あさ)ることはできないが、
穀物をその嘴(くちばし)に入れてみると、やはり嚥下(えんか)する。

蛙の心臓を切りとって塩水中に置けば、
暫時心臓は生活を続けて、その鼓動を続ける。

これは意識は脳髄から発現するものではなく、
脳髄も胃腸も心臓も「意識」のラジオ・セットにすぎないことを
物語っているのである。

意識の本体は別にあって、それが大脳にも、胃腸にも心臓にも感応して、
同一リズムの生活現象を連絡的に継続するのである。

人体全体は大小各種のラジオ・セット(各器官)が同一放送を受け
て一大交響楽を奏しているようなものである。

ただ、その各ラジオ・セット(各器官)は独立したものではなく、
複雑に連絡しているので、器官相互の連絡が断たれたとき、
各セットの機能が完全に行なえなくなり、
各セットに、生命の放送の波が再現しなくなるだけである。

この現象を「死」というが、
「生命」そのものは死んだのではなくて、「人間」そのものは死んだのではなく、
ただ「人間」が利用していたラジオ・セットが破壊しただけである。

もっとも、肉体なるラジオ・セットの製造者は誰であるかというと、
『甘露の法雨』にあるとおり、「生命(せいめい)」(人間それ自身)である。

肉体はその「生命(せいめい)」が
「念(こころ)の糸を組み合わせて」作ったものではあるが、
それが小さい故障である場合には再び「念(こころ)の糸」で修繕して再用する。

しかし、大なる損傷であって、
「念(こころ)の糸」で補填(つぎはぎ)するよりも、
新たに根本から「念の糸」で編み直しをする方が便宜であり、
その方が環境も位置も変化して「生命」それ自身進化に都合のよい場合には、

「生命」は、その「肉体」なるラジオ・セットをそこで修繕しないで、
新たなる位置(胎内)を物色してそこにラジオ・セット(肉体)を
「念(こころ)の糸」を組み合わせて造築しはじめるのである。

人間に死はない。このことが本当にわかれば人類は歓喜する。

            <感謝合掌 令和2年4月12日 頓首再拝>

人間は死んでも死なないものだ - 伝統

2020/04/25 (Sat) 19:27:19


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月25日)」より

スウェーデンボルグは18世紀の有名なる宗教哲学者兼霊能者であった。

1761年スウェーデンの女王はウェーデンボルグの評判を聞いてこれを招き、
女王以外の生存者の誰も知らないある故人に関する事柄を
スウェーデンボルグに聞いたことがあった。

すると数日後、彼は幽界と交通してその女王に答えをもたらしたのであったが、
その答えはまったく的中していたので懐疑的な女王を驚かした。

また、同国の首府に駐在のオランダの使節が死亡した後、
ある金銀細工師が使節に用建しておいた銀製の食器の代価を
使節の未亡人に要求してきた。

使節未亡人は、夫がその代価を確かに支払ったかどうか不明であったので、
スウェーデンボルグに頼んで、夫の霊魂を招び出してもらって
その事実を聞き訊(ただ)すと、

夫の霊魂は出て来て
「死の7カ月前に支払った。その領収書はどこそこの箪笥にある」と答えた。

果たしてその教えるとおり箪笥の中から、
その領収書が発見されたということは有名な歴史的事実である。

人間は本当に死んでも死なないものだ。

遺族たちよ、この一事を知っていただきたい。

            <感謝合掌 令和2年4月25日 頓首再拝>

死への誤解 - 伝統

2020/07/22 (Wed) 19:44:03


      *Web:ひかたま(光の魂たち)(2020年05月17日)
           ~「君が代から神が代へ」森井 啓二(著)序文から

ひとたび自然界の中に入ってみると、
そこにはとても美しい光景が広がっています。

倒れて朽ちた巨木の上に都市を形成するように生えている様々な苔、
死んだ生き物を運ぶアリたち、

どこを見ても瑞々しく
「生と死」が混在している美しい世界を見ることができます。

自然界においては、
死は次の生へと繋ぐものとしての役割を十分に果たしています。
死があって、生が成り立っています。


しかし、私たちの住む現代社会では、
日常生活から死を排除してしまいました。

都会に入ると、
どこを見渡しても「死」はありません。

人は病院でそっと息を引き取り、裏口から退院します。
火葬場も人目のつきにくい場所にあります。

路上に動物の死骸があればすぐに排除されます。
樹木は朽ちる前に切り倒され、ゴミとして廃棄されます。

現代人にとって、
「死」はもはや身近な出来事ではなくなってしまったのです。


そして、このことによって、
死に対する大きな誤解が生まれ、
人々の意識に定着してしまいました。

「死」に対する誤解。

現代では物質世界だけに囚われているうちに
死はすべての終わりを意味するようになり、
死によって何もかもなくなってしまうという
非常に狭い視野に限定した概念が当たり前のようになりました。


そしていま、
人は、、死の本質を理解することなく
死を受け入れられずに、過剰に怖れるようになっています。

さらに、
逆の方向に考える人たちも出てきました。
死をとても軽く捉え、、命に対して敬意を払わない人たちです。

どちらも、
死を真正面から見ていないことによる弊害と言えるでしょう。


この世に生きているうちがすべて、
死んだらお終いという誤解が生まれ、

それゆえ、刹那的な快楽を追求し、
精神的なものよりも、物質的なものを優先するような風潮が生まれました。

死を否定することで起こる大きな弊害は、
政治や経済をはじめ、あらゆる分野において浸透し、
歪みを作り出しています。


本来は、生と死は
自然の流れの中で美しく循環すべきものなのに

人だけが、死を排除して
生に異常な執着をして
それを社会の中で正当化してしまいました。

医療分野においても、
個人の尊厳よりも、
ただ死なせないことが優先されてしまった結果、

特に
終末医療に関しては、
真の医療からはかけ離れてしまっている状況です。

意識が無くても
身体のあちこちにチューブを埋め込み、薬漬けにして
人工呼吸器を取り付けて、ただ生かしておく。

心臓さえ動いていれば
「負け」ではない・・・


こんな人間の尊厳を無視した行為が
当たり前の「医療」になっているのです。

自然界に反する行為が
心にも歪みを与えてしまうことさえも
気がつかずに…

人の活動に伴って起こっている地球環境の破壊も、動物たちの絶滅も、
人々が浅い意識状態のままで、
「死」を誤解してしまったことに根本的な原因があります。

死を理解しないまま誤解することで、
自然界の法則に逆らってでも「死」を回避することを第一目標にしていると
人は破滅的な行動が可能になってしまうのです。


「死」を正しく理解し
怖れを消すことで
「生」を充実させることが出来ます。

     (http://shindenforest.blog.jp/archives/81995485.html )

            <感謝合掌 令和2年7月22日 頓首再拝>

認知症や病気、障害を持って亡くなった方のあの世での姿 - 伝統

2020/07/24 (Fri) 21:37:07


         *Web:宇宙の兄弟たちへ(2020年7月22日)より

質問で認知症で亡くなられた方や、病気で亡くなられた方など、
あの世ではどのような姿となられるのかというものがありました。


認知症になられると色々なことが分からなくなり、
そのままお亡くなりになると、自分の死も分からないのではないか
と考える事もあるかと思います。

その他、病院で病気の治療を受けながら亡くなる方もいます

そうした方は死後も同じような状態にならないか心配なところもあるでしょう。

また何らかの障害を持たれている方の場合、
亡くなられたらどうなるのかという問題もあります。

たとえば生前に目が見えなかった方は、
亡くなられても同じ状態なのかということですね。

これは亡くなられた方にもよりますが、
基本的に浄化が進んでいる方ですと、亡くなられてから
認知症や病状は健康な状態に戻り、普通の状態になっていきます。

生きているうちは認知症で何も分からないように見えた方でも、
亡くなられると自分の周りの事が理解できるようになります。

また病気の方も、もう肉体は無いわけですから、
生前に悪かったところも無くなり、健康な姿にもどります。

あるいは障害を持たれていて、身体の一部が不自由だった方なども、
亡くなられると正常になって、健康な状態になっていきます。


ただそれらは、生前に善良な方で、あの世なども信じていた方の場合です。


生前に人から嫌われてばかりいたり、他人を害するような生き方をしてきた人、
あの世を信じず、霊的な事をあざ笑ってきたような方ですと、
死後もそのままの姿であったりするでしょう。

肉体はもう無いのに、病院でずっと入院していると思って、
幽霊となって地上をさ迷っているものもいます。

そのように浄化して霊界に帰れずに、この世に留まっている霊の場合には、
肉体はもう無いのに、苦しみを訴えている者もいるようです。

そうした方は、亡くなられても病状が消えずに
生前のままの意識が続いていることがあります。

霊を否定してきた人などは、自分が亡くなっても、その死を受け入れませんので、
自分はずっと病院の個室のような所に閉じ込められて、
治療を受けているのだと思い込んでいる人もいるでしょう。

ですので、その人の心境によって
亡くなった後の状態というものは大きく変わっていきます。

善良な生き方をして、あの世も信じていた人の場合には、
病気を持って亡くなったとしても、亡くなられた後には
正常な状態に戻ってちゃんと物事を認識するようになっていきます。

そうではない方の場合には、死後も厳しい状態が続いていく事になるでしょう。

人間はその人の心境次第で、死後のあり方が大きく変わっていく事になります。

   (https://www.spacebrothers.jp/2020/07/blog-post_22.html )

            <感謝合掌 令和2年7月24日 頓首再拝>

物質である肉体が死んでも、神の子である人間は死なない - 伝統

2020/11/10 (Tue) 23:55:12


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月10日)より

人間は「神の子」であるから不死である。
死んだと見える人間は、
それは始めから死んでいるところの物質でしかないのである。

病気が治ったことを悟ったためであるというのは、
自分の反省を鞭撻する資料になっていいが、
病気が治らないで死んでいる人のことを、
彼が悟らないからだと言うのはどうかと思う。

釈迦もその肉体は死に、キリストもその肉体は死んだのである。
とうにわれわれは肉体においては死にきっていたはずの自分ではないか。
病もなく死もなくして、病を現じ、死を現じているのが肉体であるのである。

            <感謝合掌 令和2年11月10日 頓首再拝>

人間は死なぬ - 伝統

2021/01/14 (Thu) 20:43:16


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月14日)より

人間は死なぬというのが生長の家の教えである。
それは生死を超越した「実相の本来生」なのである。
生滅は仮の相(すがた)である。

「肉体は本来無い」と説いているのが生長の家の教えである。
「無い」ものには死にようがないのである。
「肉体は無い、人間は本来生であるから《死なぬ》」と説くのである。

われら「久遠生命(せいめい)」と説くといえども、「《死ぬな》」ではない。
「《死なぬ》」である。死にようがない自覚である。
ここに無限の勇気が湧く。

「《死ぬな》」には死の予想がある。
「死ぬかもしれぬ」と思う予想があればこそ「死ぬな」と世人は言おう。
だから予想することは現れるという法則で、「《死ぬな》」と言えば勇気がくだける。

「《死なぬ》」と言えば勇気が湧き出る。
「死ぬな」「死なぬ」 ―― よく似ている言葉だけれども、全然違う。
この言葉の使いようを誤ってはならぬ。

            <感謝合掌 令和3年1月14日 頓首再拝>

人間は死なない - 伝統

2021/02/14 (Sun) 00:54:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月13日)」より

悲しいことがあれば、喜びの初めである。
イエス・キリストも「幸福なるかな悲しむ者。その人の慰められたん」と言っている。

物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたような人が、その物質なる富が眼の前から
剥落した時に、物質なる肉体があるいは病み、あるいは眼の前から姿を没しようとする時に、
その人は悲しむのである。

悲しむだけ悲しむがよい。
涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。

浄まり浄まったとき、本当の世界は物質の世界でなかったということがわかるのである。
浄まり浄まったとき、本当の人間は物質の肉体ではなかったことを知るのである。

「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、死んではいないのであって、
彼が《生きた》程度に従って、より自由に生き通ししていることを知るのである。

人間は死なない。
ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。
このことについては、「生命の実相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」を読んでいただきたい。

肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、
かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びるものである。

陛下のために、国家のために、全国民のために、
何か捧げて死することができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

・・・

<参考Webとして、「生長の家光明掲示板・第一」内スレッド
 「人間は物質に非ず、生き通しであると云う確かな証拠 
 「小林昭三青年のこと (1767)」が あります。
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=379  >

           <感謝合掌 令和3年2月13日 頓首再拝>

『人間死んでも死なぬ』 - 伝統

2021/02/22 (Mon) 03:13:10


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月21日)」より

今日は記念すべき本が出る。
わたしの『人間死んでも死なぬ』という本。

これがわたしが関東大震災に遭って無一物になって郷里へ帰って、
職業もなく養父母の許で居候しながら無数の心霊現象の原書を取り寄せて
そのうちから興味のある事実を取り上げ、系統づけて書きあげて、小西書店から
『心霊現象と宗教思想』と題して出した本を最近に増補改訂したものである。

類は類を招び、貧しい運命の時には、貧しさを招ぶものと見えて、
当時素寒貧のわたしに、小西書店は一銭の印税もよこさなかった。

わたしはやむをえず印税代わりに紙型(しけい)を貰っておいたのを
友人鳥谷部君が生活に困っているので、その紙型を差し上げて、
原稿料も活字の組賃も不要で鳥谷部君の生活費の幾分にでもなるように進上した。

これは『信仰革命』と題して再版まで出ているから
鳥谷部君は幾分かこれで助かっているはずである。

今この本にさらに百数十ページを加えて
『人間死んでも死なぬ』と題する本として出したのは、
戦死した軍人の遺族への贈り物としてである。

人間は肉体ではないから、肉体は死んでも「人間《そのもの》」は死んではいない。
この理論と哲学とは『生命の實相』のあらゆる部分に書いてある。

しかしその実証は、死んだ人が出て来て実際に通信した無数の実話、
死の刹那に霊魂の幽体が脱離する瞬間に撮った写真、
その死後の状態はそういう状態であるか
 ―― これは『生命の實相』の「霊界篇」にも出ているが、

この書に採録したのは英国心霊大学(ブリティッシュ・カレッジ・フォア・サイキカル・リサーチ)の
学長マッケンジー博士(数年前物故)が精神統一状態中の霊魂出遊現象によって
七圏に分かれている霊界を探検踏査してそのその状態を記述した記事であって、

それには当時「哲学者グループの集まっている」
霊界の第四圏にいたハーヴァード大学の
ウィリアム・ジェイムズ教授の霊が指導霊(ガイド)になったといわれている。

その記録は『生命の實相』中のヴェッテリニの霊界通信と符節を合わして
霊界存在の真実性をいっそうハッキリ確認せしむるものがある。

この書を戦死者の遺族に、また戦死者でなくても、
良人を、妻を、子を、親類縁者を失える悲しめる遺族たちに贈ることは
大いなる意義と慰めとを与うるものであると思う。


先日高知の一誌友から、戦死せる婚約の青年に殉ずるために
戦死の報知を受け取ると同時にカルモチンを致死量飲んだ令嬢が
医者の手当で蘇生したが、殉死を覚悟せる彼女は、
遺骨到着の日にふたたび自殺すると主張して頑として応じない、

そして

「わたしは『生命の實相』の全十五卷をことごとく読みましたが、

その3分の1は運命であり、
3分の1は自己の決定により、
その3分の1は霊界の高級の霊魂人(スピリット)の運命の修正により
避けうるとあるあるだけで、

自殺は悪いとは『生命の實相』には書いてはないから、
自殺は悪いとは思いません」

と主張するので、
なんとかわたしから自殺を思い止(とど)まらす手紙を書いてくれ、
という要求を受け取った。

そのわたしからの手紙が到着しない先に遺骨が着いた。
彼女は再び遺骨の到着した日に、前回よりも大量の超致死量の薬剤を呑んだ。
しかし彼女は死ななかった。霊界から高級霊の干渉があったのであろう。

しかもさらに彼女は第3回目の自殺を考えていた。
そこへわたしからの手紙(家内に代筆をさせた)が着いた。
その手紙によってかろうじて彼女は慰められ、3回目の自殺は思い止まったのであった。

わたしの記憶のうちには、ある霊界通信に因(よ)れば、
自他を超越した神の目からは、自殺は他殺と同じく殺人であると書いてあって、
そのことを『生命の實相』の本の中に書いておいたと思って
『生命の實相』の索引によって検(しら)べてきたが見出すことができなかった。

だから、それに対する返事は記憶によって書いたのだった。

あとで気がついてみたら、それは今度出る『人間死んでも死なぬ』の本の中に
自殺者の霊魂が霊界に移行しても自殺の時の行為そのままの状態で、
たとえば短刀を腹に刺した状態で永らく苦悶を継続しているのだ
というような霊界通信の実例が書いてあるのであった。

しかもこの書に収められている霊界通信の中には、
欧州大戦中砲弾の破片にあたって戦死した兵士の霊魂が、
少しも傷つかずに自分の遺骸を眺めながら歩いていたという通信もある。

我執で死ぬのと、国家に献(ささ)げて死するのとは、
死の意義の異なるのがこれでも分かる。
戦死を悲惨だと思うのはまちがいである。

このまちがいの中から反戦思想が生まれ、戦後の国家擾乱運動がはぐくまれる。
霊界の消息を知るとき、戦死は実に光栄であり、霊魂の高揚であるのだ。

・・・

<関連Web: 何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか
        『生長の家』誌 13年5月号
        (2月27日 日曜日 本部道場に於ける講話) より

       (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
         → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71 )

           <感謝合掌 令3年2月21日 頓首再拝>

愛は死を超える - 伝統

2021/02/23 (Tue) 00:20:15


      *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年2月22日)より

死を通して人はこの世である物質世界と離れることになります。

この世の人間にとって死は悲しい別れであっても、
霊的世界の真実からすれば、魂の故郷への帰還であり、
第二の誕生です。

死とはこの世で背負った苦労の報酬であり、
魂の自由を得て物質の呪縛から解放される時です。

ですから本来の意味からすれば、
死とは決して悲しむべきものではなく、
第二の誕生を祝う喜びの日でもあります。

物質世界に生まれたことに伴う、
病の苦しみや、老いる苦しみ、物に満たされない苦しみ、
生きるために背負うべき労苦など、
すべての労苦からの解放を祝う日です。

しかし、地上に生きる人としては、
この世から離れる事への不安と恐怖があるでしょう。

それはまだ見ぬ世界への不安でもありますが、
実際には忘れていた世界でもあります。

そして残された人間にとっては、
愛する者と死別した時には、永遠の別れのように感じます。

もう二度と会えないように感じ、悲しみに暮れるでしょう。

ですがそれも幻であり、真実の姿からすれば、
愛する者が一足先に魂の故郷に帰ったに過ぎません。

順番は変わったとしても、
また本来の世界で再会することに変わりないのです。

それは故郷に帰る時に、夫婦の片方が先に帰り、
もう片方は仕事の都合で翌日に帰るようなものです。


永遠の時からすれば、地上での数十年など、一瞬の出来事です。

愛はけっして死によって消滅する事はありませんし、
愛する者同士を引き離す力はありません。

愛は真実の世界で最も偉大な力の源であり、
愛は死を超えて存在し続けます。

https://www.spacebrothers.jp/2021/02/blog-post_22.html

           <感謝合掌 令3年2月22日 頓首再拝>

人間に死はない - 伝統

2021/04/13 (Tue) 00:00:16


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月12日)」より

大脳を除去した鶏(にわとり)は食物(しょくもつ)を漁(あさ)ることはできないが、
穀物をその嘴(くちばし)に入れてみると、やはり嚥下(えんか)する。

蛙の心臓を切りとって塩水中に置けば、
暫時心臓は生活を続けて、その鼓動を続ける。

これは意識は脳髄から発現するものではなく、
脳髄も胃腸も心臓も「意識」のラジオ・セットにすぎないことを
物語っているのである。

意識の本体は別にあって、それが大脳にも、胃腸にも心臓にも感応して、
同一リズムの生活現象を連絡的に継続するのである。

人体全体は大小各種のラジオ・セット(各器官)が同一放送を受け
て一大交響楽を奏しているようなものである。

ただ、その各ラジオ・セット(各器官)は独立したものではなく、
複雑に連絡しているので、器官相互の連絡が断たれたとき、
各セットの機能が完全に行なえなくなり、
各セットに、生命の放送の波が再現しなくなるだけである。

この現象を「死」というが、
「生命」そのものは死んだのではなくて、「人間」そのものは死んだのではなく、
ただ「人間」が利用していたラジオ・セットが破壊しただけである。

もっとも、肉体なるラジオ・セットの製造者は誰であるかというと、
『甘露の法雨』にあるとおり、「生命(せいめい)」(人間それ自身)である。

肉体はその「生命(せいめい)」が
「念(こころ)の糸を組み合わせて」作ったものではあるが、
それが小さい故障である場合には再び「念(こころ)の糸」で修繕して再用する。

しかし、大なる損傷であって、
「念(こころ)の糸」で補填(つぎはぎ)するよりも、
新たに根本から「念の糸」で編み直しをする方が便宜であり、
その方が環境も位置も変化して「生命」それ自身進化に都合のよい場合には、

「生命」は、その「肉体」なるラジオ・セットをそこで修繕しないで、
新たなる位置(胎内)を物色してそこにラジオ・セット(肉体)を
「念(こころ)の糸」を組み合わせて造築しはじめるのである。

人間に死はない。このことが本当にわかれば人類は歓喜する。

            <感謝合掌 令和3年4月12日 頓首再拝>

人間は死んでも死なないものだ - 伝統

2021/04/25 (Sun) 21:43:34


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月25日)」より

スウェーデンボルグは18世紀の有名なる宗教哲学者兼霊能者であった。

1761年スウェーデンの女王はウェーデンボルグの評判を聞いてこれを招き、
女王以外の生存者の誰も知らないある故人に関する事柄を
スウェーデンボルグに聞いたことがあった。

すると数日後、彼は幽界と交通してその女王に答えをもたらしたのであったが、
その答えはまったく的中していたので懐疑的な女王を驚かした。

また、同国の首府に駐在のオランダの使節が死亡した後、
ある金銀細工師が使節に用建しておいた銀製の食器の代価を
使節の未亡人に要求してきた。

使節未亡人は、夫がその代価を確かに支払ったかどうか不明であったので、
スウェーデンボルグに頼んで、夫の霊魂を招び出してもらって
その事実を聞き訊(ただ)すと、

夫の霊魂は出て来て
「死の7カ月前に支払った。その領収書はどこそこの箪笥にある」と答えた。

果たしてその教えるとおり箪笥の中から、
その領収書が発見されたということは有名な歴史的事実である。

人間は本当に死んでも死なないものだ。

遺族たちよ、この一事を知っていただきたい。

            <感謝合掌 令和3年4月25日 頓首再拝>

人は死なない 東大救命医独自の死生観 矢作直樹 - 伝統

2021/08/03 (Tue) 13:41:33

人は死なない 東大救命医独自の死生観 矢作直樹(20170220)

https://www.youtube.com/watch?v=ynFfdWINfyg

            <感謝合掌 令和3年8月3日 頓首再拝>

奇跡の;霊能力者~死者の魂との交信 - 伝統

2021/08/10 (Tue) 13:28:43

奇跡の;霊能力者  死者の魂と交信する能力
ローラ・リン・ジャクソン
山本(2021/07/23)
https://www.youtube.com/watch?v=90Y0biytHOM

            <感謝合掌 令和3年8月10日 頓首再拝>

御巣鷹山の魂たち - 伝統

2021/08/11 (Wed) 12:50:33


『ゆっくり解説』
坂本九さんと機長さんに、あの時何が起こっていたのか語って頂く【坂本さん編】
『真相を霊視』してゆっくり解説(2021/07/25)
https://www.youtube.com/watch?v=SiB5cI9UVvw

               ・・・

『ゆっくり解説』機長さんに、あの時何があったのか語って頂く【真相解明編】
『真相を霊視』してゆっくり解説(2021/07/31)
https://www.youtube.com/watch?v=iM8yezG2oio

・・・

<参照>

伊勢ー白山 道(2021-08-09 )
すべては「2つで1つ」が正体である
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/df4513d18e57f99cd98c4decdb092ead

            <感謝合掌 令和3年8月11日 頓首再拝>

御巣鷹山の魂たち~その2(浄霊) - 伝統

2021/08/17 (Tue) 14:32:13


『ゆっくり解説』山に取り残された、200数名の魂を一斉に浄霊する【緊急報告編】
『真相を霊視』してゆっくり解説(2021/08/12)
https://www.youtube.com/watch?v=MGXeEqWN7TQ

            <感謝合掌 令和3年8月17日 頓首再拝>

あの世(霊界)での法則 - 伝統

2021/08/30 (Mon) 13:23:18


        *Web:宇宙の兄弟たちへ(2021年8月29日)より
             愛にあふれるものは同じく愛にあふれたものの世界に暮らします

あの世では思いの世界であり、その人の思いに通じる世界に住みます。

愛にあふれた人は、同じく愛にあふれた者の集まる世界に暮らします。

憎しみの深い人は、同じく憎しみ合う者同士の世界に暮らします。

たえず人を疑っている人は、疑い深いものが集まる世界に暮らします。

他人の足を引っ張っても自分の利益を得てきて人は、
人の足を引っ張り合う者同士の暮らす世界に生きます。

むさぼりの欲のつよい人は、
動物のようにむさぼる者たちの暮らす世界に生きます。

人々に光をもたらして生きた人は、
光あふれる人々の暮らす世界に生きます。

このように、あの世では、
その人の心境によって、住む世界が変わってきます。


地球で肉体に宿って暮らしていると、
様々な心境の人々が、一緒くたに集まって暮らしています。

天使のような心境を持っている人も、
悪魔の手先のような人も、一緒に暮らしています。


ですが、しばらく地球に暮らしていると、
次第に周囲の人間関係にも、心境が影響してきます。

その人がどのような心境を持っているかで、
周りに集まる人や、関わる人間関係も変わってくるのです。

善良な人のもとには、同じく善良な人が集まってきますし、
不良は同じく不良仲間で集まるものです。

地球は物質世界のために、すぐに霊的な法則が発動しない事もありますが、
じっくりと水が染み出してくるように、次第に周りに影響は出てきて、
やがては周囲にも変化が出てきます。

この世においても、ある程度、同じような者どうしが
次第に引き寄せられて、集まってくるようになります。

光にあふれたものは、同じく光に満ちた者同士で繋がりますし、
闇を抱えた者どうしが次第に集まってくるものです。


あの世での法則は、この世においてもある程度、働いてくるものです。

因果の法則にしても、必ずしも今世で、蒔いた種が刈り取られず、
来世に持ち越すこともありますが、
ある程度は、この世でも結果が生じる事があります。

この世では必ずしも善行を積んだ人が善果を得られず、
悪行を積んだものが、その報いを得ずに栄えているようにも見えます。


ですが長い目で見れば、この世においてもやはり、
善因善果、悪因悪果は出てきます。

このように、霊界での法則は、この世でストレートに
生じてこない事もありますが、時間と共に生じてくるようになります。

https://www.spacebrothers.jp/2021/08/blog-post_29.html

            <感謝合掌 令和3年8月30日 頓首再拝>

京都アニメーション放火○人事件を霊視し、 当時の状況を探る【現場検証編】 - 伝統

2021/10/25 (Mon) 15:19:05

『ゆっくり解説』京都アニメーション放火○人事件を霊視し、
当時の状況を探る【現場検証編】
『真相を霊視』してゆっくり解説(2021/10/09)
https://www.youtube.com/watch?v=b9jhl8xG5ME

            <感謝合掌 令和3年10月25日 頓首再拝

《人間は死なない》 - 伝統

2021/11/16 (Tue) 15:01:08


       *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)
         第4篇(P110~111) より

人は無限の進歩に対する欲求をもっている。
それは切実なる願いである。

吾々は「存在の根元」を知ろうとし、
「現象の奧」に横たわる法則を発見しようとし、
善を求め、美を追求し、飢え渇く如く進歩と向上とを願って来たのである。

その願いの主体者である個生命なる「自己」が死と共に終焉を迎える
ということは到底不合理であって考えることはできないのである。

肉体は死するであろう。
脳髄は働かなくなる。
脳髄を通して発現していた意識は消える。

しかしそれで吾々の「心」が無くなるのではないのである。
「心」を主体とする「人間」は死んだのではないのである。
ただ肉眼に見える人間の衣服(肉体)がほころびて剥落しただけである。

眼鏡が破れ落ちても魂の眼は見え感ずることができるのである。

肉体の衣服を通して経験して来た色々の知識も知恵も能力も悟りも、
肉体の衣服を脱ぎ肉体の眼鏡をはずしてからも、吾々の魂は引き続いて持っており、
次なる進歩の経験を待ち構えているのである。

吾々は永遠なる存在であり、内に”無限”を蔵しながら、
永遠にその無限を開顕しつつ無限に進歩し行く生命(せいめい)なのである。

            <感謝合掌 令和3年11月16日 頓首再拝>

いかりや長介さんと志村さんに色々と尋ねてみた - 伝統

2021/11/20 (Sat) 13:38:02


『ゆっくり解説』
いかりや長介さんと志村さんに、当時の事を色々と尋ねてみる。【1/2】
『真相を霊視』してゆっくり解説(2021/11/15)
https://www.youtube.com/watch?v=3qlNIT383cA


『ゆっくり解説』
いかりや長介さんと志村さんに、当時の事を色々と尋ねてみる。【2/2】
『真相を霊視』してゆっくり解説(2021/11/19)
https://www.youtube.com/watch?v=hm6M52bNbvw

            <感謝合掌 令和3年11月20日 頓首再拝>

1998年〇〇神社失踪事件の真相 - 伝統

2021/11/27 (Sat) 13:59:42

『ゆっくり解説』神隠しは本当にあったのか!?
神社で起きた失踪について、霊視で真相に迫る。

『真相を霊視』してゆっくり解説(2021/11/24)
https://www.youtube.com/watch?v=pF23o0iFjmQ


<参照>
赤城神社主婦失踪事件の真相!志塚法子の顔写真や家族・
駆け落ち/保険金/宗教説など説7つを徹底紹介
https://newsee-media.com/akasaka-jiken


赤城神社主婦失踪事件とは
赤城神社主婦失踪事件を霊能力者が透視
https://windy-windy.net/akagijinzyasyuhusissoujiken-sizukanoriko

         <感謝合掌 令和3年11月27日 頓首再拝>

人間は死なぬ - 伝統

2022/01/15 (Sat) 01:17:39


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月14日)より

人間は死なぬというのが生長の家の教えである。
それは生死を超越した「実相の本来生」なのである。
生滅は仮の相(すがた)である。

「肉体は本来無い」と説いているのが生長の家の教えである。
「無い」ものには死にようがないのである。
「肉体は無い、人間は本来生であるから《死なぬ》」と説くのである。

われら「久遠生命(せいめい)」と説くといえども、「《死ぬな》」ではない。
「《死なぬ》」である。死にようがない自覚である。
ここに無限の勇気が湧く。

「《死ぬな》」には死の予想がある。
「死ぬかもしれぬ」と思う予想があればこそ「死ぬな」と世人は言おう。
だから予想することは現れるという法則で、「《死ぬな》」と言えば勇気がくだける。

「《死なぬ》」と言えば勇気が湧き出る。
「死ぬな」「死なぬ」 ―― よく似ている言葉だけれども、全然違う。
この言葉の使いようを誤ってはならぬ。

            <感謝合掌 令和4年1月14日 頓首再拝>

細木数子さん、瀬戸内寂聴さんの今 - 伝統

2022/02/09 (Wed) 13:48:01

【霊視】細木数子さん、ファンの方にはごめんなさいとしか言えない内容
…「霊界のお勉強・あえて出すシリーズ・地獄入門編」
なるみん心あったカフェ(2022/02/03)
https://www.youtube.com/watch?v=5yTLnegpdro

・・・

【霊視】瀬戸内寂聴さん、あんなにお優しそうな方が何故…?
「死後のお勉強・地獄編」
なるみん心あったカフェ(2022/02/07)
https://www.youtube.com/watch?v=gXYMHm1kNys

            <感謝合掌 令和4年2月9日 頓首再拝>

人間は死なない - 伝統

2022/02/14 (Mon) 00:53:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月13日)」より

悲しいことがあれば、喜びの初めである。
イエス・キリストも
「幸福なるかな悲しむ者。その人の慰められたん」と言っている。

物質の満足に五官の表層を快く楽しませていたような人が、
その物質なる富が眼の前から剥落した時に、物質なる肉体があるいは病み、
あるいは眼の前から姿を没しようとする時に、その人は悲しむのである。

悲しむだけ悲しむがよい。
涙はその人の心の汚れを浄めるであろう。

浄まり浄まったとき、
本当の世界は物質の世界でなかったということがわかるのである。

浄まり浄まったとき、
本当の人間は物質の肉体ではなかったことを知るのである。

「本当の人間」は物質なる肉体が死んだと見えているときにも、
死んではいないのであって、彼が《生きた》程度に従って、
より自由に生き通ししていることを知るのである。

人間は死なない。
ことに公のために殉じた者はいっそう高く生きているのである。
このことについては、「生命の實相」の第九・十巻「霊界と死後の救い」
を読んでいただきたい。

肉体は蒲団の上にいて、誰のためにもならず、
かえって人に迷惑をかけつつもついには滅びるものである。

陛下のために、国家のために、全国民のために、
何か捧げて死することができるならば光栄これに過ぐるものはないではないか。

            <感謝合掌 令和4年2月13日 頓首再拝>

人は死にません。 - 伝統

2022/02/15 (Tue) 01:33:28


      *「「あの世」とのおしゃべり」the Planet from Nebula(著)
        はしがき(P2~5)

人は死にません。

肉体が朽ちるだけで、
あなたの魂は永遠に生き続けています。

「あの世」から「この世」の地球に遊びに来て、
また「あの世」に戻る。

それを繰り返しながら、「この世」で魂を磨いているのです。

なぜそれをしっているのか?

私が何度も生まれ変わった記憶を持っているからです。


(目次)

第1章 ガイドとのコンタクトはじまる 
第2章 ホンモノの自分を取り戻す 
第3章 ホンモノの自分の役割は?
第4章 命は永遠 魂に死はない
第5章 自分軸で生きる 
第6章 カルマよりもワクワク 
第7章 ワクワクで人生が変わる! 
第8章 まいた種を刈り取る 
第9章 サインの意味を知る 
第10章 新しい世の中を生きよう!


<参照>
「あの世」とのおしゃべりを読んで
https://www.youtube.com/watch?v=bQa_0bvdkxw


あなたの魂が教えてくれること「あの世とのおしゃべり」the Planet from Nebula
https://ameblo.jp/chyoko225/entry-12458533277.html

            <感謝合掌 令和4年2月14日 頓首再拝>

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